Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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サイモン・シン『宇宙創成』

 
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イギリスの科学ライター、サイモン・シンの著作はいずれも文庫化されるタイミングで読んできた。『フェルマーの最終定理』、『暗号解読』に続き、2004年に原著が発表され、2006年に翻訳が刊行された本書も先ほど文庫化され、早速通読してみる。期待に違わず実に面白い。
 今回のテーマはタイトルからわかるとおり、ビッグ・バン、宇宙がいかにして誕生したかという気の遠くなるような謎である。これまで同様にシンは数式や難解な科学用語を用いることなく、平易でありながらきわめて高度な内容を論じている。理系に弱い私のような読者にとって、例えば『暗号解読』の最後の二章、あるいは『宇宙創成』の後半で論じられている内容の細部は決して十全に理解できる訳ではないが、理解できない部分があるにせよ、何が問われているかという問題の枠組はしっかりと把握することができる。これほどのリーダビリティと専門性を兼ね備えた科学書を私はほかに知らない。
 シンがこれまで発表した著作はいくつかの共通点をもっている。フェルマーの定理、暗号の作成と解読、あるいは宇宙の始原といった全く異なったテーマを選びながらも、シンは個別の問題ではなく、数学史、暗号の歴史、宇宙論の展開といった歴史を視野に収めながら問題を深めていく。数学であればピタゴラス、宇宙論であればプトレマイオスから説き起こし、それぞれの著作の焦点となるテーマの歴史的必然性が次第に浮かびあがってくるのである。シンは冷たい科学史ではなく、実在の人物が織り成すいわば血の通った歴史として問題を素描する。このあたりの記述のうまさはシンの独擅場といってよい。注目すべきは歴史を記述するに当たって、シンはこれまで大科学者の影で見過ごされてきた重要な人物を丹念に掘り起こす。『フェルマーの最終定理』であれば、ソフィー・ジェルマンという女性数学者や、この定理の証明に画期的な役割を果たす谷山豊と志村五郎という日本人の私でさえ名を知らなかった数学者についてきちんと記述され、『宇宙創成』であれば、ハーバード・カレッジ天文台で撮影された写真からデータをとるというきわめて地味な仕事に従事し、ノーベル賞の候補としてスウェーデンの科学アカデミーがノミネートの準備を始めた時には既に若くして没していた女性チームの一員について十分な頁が割かれている。この姿勢からうかがえるのは科学の発達を一人の天才によって成し遂げられるのではなく、無数の人々の連携によって困難な課題が一つまた一つと解決されていくプロセスとみなす立場である。このような楽天主義、理想主義は彼の著作を貫く大きな魅力だ。
 筆の運びも見事である。一見、無関係な話題が提示され、戸惑いながらも語りの面白さにつられて読み進めていくと、実はそれが思わぬところで主題となる問題と密接につながっていくことがわかった時の痛快な驚きは良質のミステリーのそれに近い。具体的に述べるならば、『フェルマーの最終定理』では途中から楕円方程式やモジュラー形式、そして「谷山―志村予想」という全く関係のないような話題が始まる。一体何だろうと思いながら読み進めると、アクロバティックな思考の連続の中から、それらが「フェルマーの定理」の証明と密接に結びついていることが明らかとなる。このような体験は知的興奮と呼ぶにふさわしい。『宇宙創成』であれば、天動説と地動説の葛藤が語られた後に突然アインシュタインの相対性理論が説明される。唐突な展開と感じられながらも、この話題は後半の定常宇宙論とビッグ・バン仮説の対立を論じるうえで重要な伏線となっている。伏線や手がかりを随所に散りばめながら議論を進める手法もミステリーを連想させる。
 本書は宇宙の誕生という壮大なテーマを扱い、紀元前6世紀から今日までの宇宙論の変遷が論じられている。科学のほかの分野と異なり、天文学は実験によって仮説を確認することが困難であり、観察と理論をいわば車の両輪として展開していく。興味深いことに、宇宙論の展開はモデルの隆替の歴史として記述することが可能である。本書の中では主に三つの対立するモデルが検討される。まず天動説と地動説という対立、続いて私たちが属する銀河系が唯一の銀河系であるか、無数の銀河系の一つであるかという対立、そして最後に私たちが属する宇宙が定常宇宙(永遠で静的な宇宙)であるか膨張し続けるビッグ・バン宇宙であるかという対立である。このうち一番初めの対立は私たちの常識によっても理解することがたやすい。シンはコペルニクス、ガリレオ、ティコ・ブラーエ、ケプラーという四人の科学者がお互いの理論を補強しあいながら、長く人々を支配していた天動説というドグマを突き崩していく過程を丹念に検証する。このあたりにも科学の進歩が一人の天才の偉業ではなく、何人もの関係者の共同作業であるという筆者の信念が感じられる。この後、相対性原理や原子物理学といった隣接領域における新知見について一瞥したうえで、シンはビッグ・バン理論という今日の宇宙論の核心に向かう。それにしても宇宙が不変であるか、膨張しているかという問題についていかにして思考することが可能か。シンはいくつものわかりやすい比喩を用いて、問題の輪郭を粗描する。ただしさすがに今回のテーマは抽象度が高く、比喩によっても理解しがたい点もいくつかあったように感じた。しかし難解な理論の積み重ねではなく、科学者たちの活躍を縦軸に織り成されるシンの宇宙論は読み倦むことがない。ビッグ・バン、定常宇宙の双方に与する個性的な科学者たちの肖像はそれだけで一編の物語となる。妻と共に舟で黒海を渡ってソビエト連邦からの脱出を試みるが果たせず、後に国際会議に参加した後、亡命を果たすジョージ・ガモフ。聖職者と宇宙論研究者という二つの顔をもち、ビック・バン理論の先駆けとなるジョルジュ・ルメートル。あるいはかつて読んだ『10月1日では遅すぎる』という時間SFが天文学者の手によるものであるということを私は以前何かの機会に知ったが、その著者こそ定常宇宙モデルの提唱者であり、今日広く流通する「ビッグ・バン」という言葉を対立する理論の蔑称として初めて用いた宇宙論研究者フレッド・ホイルであった。天文学という実学からほど遠い領域であるためだろうか、全体としてこれまでのシンの著作と比べてもユーモラスな挿話が多い印象を受けた。
 先に挙げた三組のモデルのうち、地動説、無数の星雲のうちの一つとしての銀河系、そしてビッグ・バン宇宙が今日正当とみなされている。しかし地動説への転換から理解されるとおり、今日堅く信じられている通念も時に誤りであることが判明する。トーマス・クーンがパラダイム・シフトと呼ぶ、かかる転換を私たちは歴史の中で何度か経験した。真実もまた相対的であるという発見は科学という営みの根幹と関わっている。そして定常宇宙とビッグ・バン宇宙の対立は直ちに神学的な議論へ展開することも可能であろう。すなわちビッグ・バンという概念は世界に始まりがあるということを暗示している。「光あれ」のみならず多くの神話や宗教が世界開闢の物語によって始まることは偶然ではない。聖職にあったルメートルがこのような概念に先鞭をつけた点、ビッグ・バン理論にカトリック教会や教皇が好意的な態度をとった点は暗示的であるが、宗教裁判所によって焚刑に処せられたジョルダーノ・ブルーノを想起するまでもなく、科学者たちが教会に好意的であるはずがなく、これらの点はむしろ定常宇宙論者によって批判されることとなったという。最新の宇宙理論が明らかにしたビッグ・バンは直ちにいくつもの疑問を生む。そもそもビッグ・バン以前には何が在ったのか。あるいはビッグ・バンに終わりはあるか。シンも本書の中でいくつかの可能な答えを示しているが、かかる人智を絶した問いを前に私たちが頼るべきは科学であろうか、神であろうか。

by gravity97 | 2009-02-20 21:57 | ノンフィクション | Comments(0)

ACTION PAINTING

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 ジャクソン・ポロックが20世紀美術において最重要の画家の一人であり、彼の創始した「アクション・ペインティング」が近代美術の結節点であるのみならず、それ以降の美術に決定的な影響を与えた点は今日広く認められている。しかしこの点を展覧会として検証する試みはこれまでほとんどなかった。本書は昨年1月27日から5月12日までバーゼルのバイエラー財団美術館で開催された「アクション・ペインティング」という展覧会のカタログであり、ポロックのアクション・ペインティングを同時代、そしてそれ以後の作家に与えた影響という観点から検証する内容である。これまでに企画され、同じ問題を扱った数少ない展覧会が、例えばアクションや重力といった問題を主題として、むしろ絵画を解体する契機としてアクション・ペインティングをとらえていたのに対し、あくまでも絵画を中心に据えてポロックの革新を検証した点に本展の独自性が認められよう。
 アクション・ペインティング受容におけるアポリアとはそれが文字通りアクションとペインティングという二つの局面に関わっていることに起因する。両者は写真と絵画、原因と結果あるいは時間と空間といったいくつもの対立へと展開可能であろうし、ハロルド・ローゼンバーグとクレメント・グリーンバーグという二人の批評家を対比させてもよい。この展覧会はこのうち後者に焦点をあてて、アクション・ペインティングの可能性を探る内容といえよう。
 展覧会にはポロックを含めて27名の作家が出品している。展示そのものは未見のため、図版として掲出されている作品が全て出品されたか否かについては判断できないが、ポロックの作品14点を含め、レヴェルの高い内容であることは明らかである。しかし展示の構成はやや散漫な印象を受ける。出品作家たちはいくつかのグループに分けることができよう。それはポロックと同時代に活動した抽象表現主義の第一世代の作家たち(ヴィレム・デ・クーニング、アーシル・ゴーキー、ロバート・マザウェルら)、アンフォルメルやコブラといった同時期のヨーロッパの動向(アスガー・ヨルン、ジャン・フォートリエ、ピエール・スーラージュら)、色面抽象からポスト・ペインタリー抽象へ向かう作家たち(クリフォード・スティル、ヘレン・フランケンサーラー、モーリス・ルイスら)といったまとまりである。アンフォルメルきってのアクション・ペインターであるジョルジュ・マチウの不在はいささか政治的な配慮も感じられないではないが、作家名を見れば明らかなとおり、これらの作家をアクション・ペインティングの語によって一括することはさすがに強引に過ぎる。正確には数点の例外を含みつつも1950年代から60年代にかけての欧米における表現主義的抽象絵画を通覧する展覧会と総括されるべきであろう。
 もっともアクション・ペインティングを参照項としたことによって、いくつかの興味深い作品が加えられているようだ。例えばモーリス・ルイスが1956年に制作した作品はステイニングを用いながらも明らかにアンフォルメルと親近性をもつ。このタイプの作品は大半が破棄されたため、カタログ・レゾネを見ても10点ほどしか作例がない。あるいはエヴァ・ヘスについてもドローイングはよく知られていたが、カタログに掲載されたアクション・ペインティング風の絵画は私も初めて見る作品であった。日本からはベルリンのギャラリーが所蔵する白髪一雄の作品が出品されている。私はかねてより作品の質において白髪はポロックに拮抗できる数少ない画家と考えており、この問題は水平性や画面との接触、作品のサイズといった問題とも絡めて、機会があればあらためて論じてみたい。
 カタログを一覧して、私はむしろアクション・ペインティングをその限界において理解した。端的に言ってこれらの絵画は絵画性という枷から自由でないのだ。多くの絵画において色彩が多用されている点に留意しよう。ポロックの場合も1952年前後、つまりポーリング絵画の末期に描かれた作品では多くの色彩が導入され、《ブルー・ポールズ》のごとき大作も残されている。しかしながら一見した際の派手さにもかかわらず、これらの作品は質的に必ずしも高くない。むしろポーリング絵画の達成は色彩が抑えられ、モノクロームに近い作例に求められる。本展覧会にポロックの色鮮やかな作例が多く出品されている点は暗示的である。多様な作品が出品されているため、一括することは難しいが、ここに並べられた「アクション・ペインティング」の共通点の一つとしては色彩の多用を指摘することができよう。ストロークの動勢を強調するためには、それらが個々に識別される必要があり、色彩が導入されたといえるかもしれない。この点はむしろ物質性を強調するアンフォルメル絵画との間の微妙な距離と関わっており、あるいはやはりアクション・ペインティングとの関係が指摘される日本の前衛書との関係においても興味深い論点を提起する。
 さて、本展にはリンダ・ベングリスの《ベビー・プラネット》という作品が出品されている。蛍光色に近い色彩は今述べたアクション・ペインティングにおける色彩の過剰の典型であるが、重要な点はこの色彩は塗料や絵具ではなく、ラテックスという素材に与えられた固有の色彩であること、それが撒布された状態で、すなわち水平に実現されていることである。カタログの中には彼女が作品を制作している模様を撮影した写真も掲載されているが、床に向かって缶から塗料を注ぐベングリスのアクションがポロックのパロディであることは明白だ。このカタログには同じように出品作家たちの制作の状況を記録した多くの写真が添えられているが、その中で画面を水平に置く必然性を有す作家がポロック以外にはベングリスと白髪の二人だけである点は注目に値するだろう。そしてベングリスの写真から私は素材を床に撒布するもう一人の作家をたやすく連想する。溶けた鉛を床に投げつけるリチャード・セラである。セラのアクションは「アクション・ペインティング」のきわめて即物的な解釈である。同じ時期に活躍し、例えば1990年にホイットニー美術館で開かれた「ニュー・スカルプチュア」のごとき展覧会でその親近性が指摘されたベングリスとセラのうち、一人だけがこの展覧会に召喚された点は今述べたアクション・ペインティングの限界と深く関わっている。床の上に撒布された蛍光色のラテックスはなおも絵画的とみなされて「アクション・ペインティング」の系譜に回収されるのに対して、飛び散った鉛はもはや絵画とは無縁とみなされる。この微妙な、しかし決定的な断絶こそが、ミニマル・アート以降の新たな美的感性の到来を告げるものであった。しかしながら同様のリテラリズムの兆候は実は同じ「アクション・ペインティング」展に出品された《蜘蛛の巣の中から ナンバー7 1949》のごとき作品に胚胎している。すなわちカンヴァスの表面を切り裂いてむき出しにされたファイバーボードはイメージではなく、素材の物質性としても了解可能であった。しかしそれが視覚上の盲点、一種の不在と読み替えられ、あくまでも絵画の、そして視覚性の内部に位置づけられた時、「アクション・ペインティング」に潜在したもう一つの可能性は切り捨てられることとなった。

by gravity97 | 2009-02-15 09:58 | 展覧会 | Comments(0)

岡真理『アラブ、祈りとしての文学』

b0138838_11141238.jpg 昨年暮れより暗然たる思いにとらわれたのはイスラエルによるガザ侵攻によってもたらされた惨禍の報道である。しかし新聞、そしてTV報道の鈍感さを見るがよい。1000人を超す市民が虐殺されているにも関わらず、それをなんの痛痒ともとらえず、ステレオタイプの映像とコメントで一括するこの国のジャーナリズムの退廃に対してさらに言い知れぬ疲弊感を覚える。本書のあとがきは2008年11月の年記をもつ。それから一月も経たぬうちにかかる大虐殺が引き起こされるとは著者も予想しなかったことだろう。
 岡真理はアラブ文学を専攻する女性研究者である。私はこれまでに何冊か彼女の著作を読んだが、それらと比較しても本書は読みやすく、しかも提起する問題は深く重い。アドルノはアウシュヴィッツの後で詩を問い、サルトルはアフリカの飢えた子供の前で小説の意味を問うた。今日、パレスティナの状況を知るにつけ、著者の中で同じ問いが生まれたことに何の不思議もない。本書で言及される小説のほとんどは私が始めて知る作家、作品であったが、苛酷な現実に対してアラブではまさに今多くの文学者が言葉によって格闘していることを知り、あらためて蒙を啓かれる思いがした。
 スーザン・ソンタグを交えたシンポジウムについてのエピソードから語り始められた本書は直ちに9・11以後、さらに悪化するパレスティナ情勢についての暗澹たる報告を交えながら、そのような状況下での一つの希望としての読書、文学へと目を向ける。あまりにもナイーヴな発想と思われるかもしれないが、ガッサーン・カナファーニー、イブラーヒーム・ナスラッラーあるいはユースフ・イドリースといった作家の作品の綿密な分析を介して進められる岡の検証はきわめて説得的である。
 読み進める中でいくつもの発見があった。アウシュヴィッツの地獄を経験した同じ民族が「民なき土地」にイスラエルを建国して、アウシュヴィッツの正確な反復のごとき難民キャンプと大虐殺を再現したことへの疑問は誰でも抱くが、これに対して岡はホロコーストを体験したにもかかわらずではなく、体験したがゆえに「人間とは決してこのように死んではならないという真理」に対する悪魔的なシニシズムをイスラエルという国家が内在化するにいたったのではないかと述べる。この指摘は卓見であり、死者を数値化することによってこのような悲劇を相対化する風潮に対しての批判もきわめて正当である。あるいはホロコーストに比べてナクバ(イスラエル軍によるパレティナ人の強制追放)に関して、徹底的にイメージが欠落しているという指摘は、本書の主題とされる文学という営みとは別に、まさに「すべてに抗う malgré tout」根拠としてのイメージの可能性を示唆するものであり、視覚芸術の領域で真摯に考察されるべき主題であろう。この問題はさらにユダヤ系資本が支配するという欧米の文化産業への批判へと展開することもできる。あるいはユースフ・イドリースというエジプト人作家の「黒い警官」という小説をとおして語られる、それを経験することによって被害者の人間性が根本から破壊されてしまうような暴力についても、私たちは今日いくつもその類例を挙げることができる。暴力を介して加害者ではなく被害者の人間性が毀損されるという逆説は既に絶滅収容所において検証したとおりであるが、イドリースの作品においてはこの問題が植民地という主題と関連して前景化される。
 本書に触発された感想を思いつくままに列挙したが、かくのごとく本書は多様な論点を提起する。一方で岡は一つの言表が誰によってなされかたという点に拘泥する。パレスティナの表象に関しては、発話者の性差、階級、宗教、人種によってその表象の内容も大きく規定される。とりわけアラブ社会の女性は存在自体が既に二重の負性を負っており、岡が女性作家や女性の主人公を意図的に取り上げることはこの問題と密接に関連している。表象という行為に内在する政治性についての認識がサイードの『オリエンタリズム』に由来することは言をまたない。しかしこのような関係性が一定でない点も近年の文化研究が明らかにした点である。被抑圧者が抑圧者に転じる場合もあれば、同一の主体がいくつもの国家や階級に所属することもありうる。支配と被支配の関係がねじれたまま渦巻き、難民やサバルタン、植民地と越境といった主題に事欠かぬアラブ文学がこれらの問題を考察するうえできわめて有効であることもまた明らかであろう。
最後の章で岡は他者の表象という問題に深く切り込む。果たして私たちは他者を表象することができるか。私はかねてからこの問いに対して否定的な見解を抱いていた。当事者でない自分が例えば難民を、サバルタンを、虐殺される市民を表象することができると考えるのはあまりにも傲慢ではないか。1982年にベイルート郊外のシャティーラというキャンプで2000人以上のパレスティナ難民の虐殺事件が発生する。これに取材したジャン・ジュネのルポルタージュ「シャティーラの四時間」を一人芝居として演ずるためにカトリーヌというフランス人女優が現地を訪れる。しかし事件の生々しさに触れて、カトリーヌは現地を案内してくれた看護士に対してそれを演じることができないと言う。これは本書の中で言及されるレバノンのエリヤース・ホーリーという作家の小説『太陽の門』の中のエピソードである。これに対して岡はカトリーヌがそれを演じるべきではなかったかと問う。このような問いかけをなすにあたって第二次大戦中の日本軍における戦時性暴力や済州島蜂起が参照されることからも理解されるとおり、岡にとって「他者の表象」という問題はパレスティナに限定される訳ではない。圧倒的な悲劇に対して「そこにいない者、いなかった者たち」によって書かれるべき「祈りとしての文学」。岡が示すのは他者の表象が不在によってこそ保証されるという一見転倒した、しかしながら透徹した認識である。この見解の当否についてはなおも議論の余地はある。しかし私は本書を読んだことによって「表象の不可能性」を揚言して状況に目を閉ざすペシミズムから身を翻す可能性をかいまみたように感じた。もちろん「祈り」が文学の目的の全てではないし、むしろ私は文学とは本質において快楽とこそ関わるべきであると感じる。しかしこの殺伐とした世界を見渡す時、私たちはなおも「祈りとしての文学」を必要としている。それもきわめて切実に。アウシュヴィッツ、シャティーラそしてガザ。文学を主たるテーマの一つとしたこのブログであえて苛酷な主題を取り上げるゆえんである。

by gravity97 | 2009-02-08 11:18 | 批評理論 | Comments(0)

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by gravity97 | 2009-02-07 20:46 | MY FAVORITE | Comments(0)