「ほっ」と。キャンペーン

b0138838_2004871.jpg 遅まきながら水村美苗の挑発的なタイトルの著作『日本語が亡びるとき』を読む。
 言語とは私たちが後天的に習得する制度であるにもかかわらず、いやそれゆえに通常意識されることはまれである。私たちが日本語を話すという一見自明の事実が相対化されるのは異なった言語圏に身を置いた時であり、12歳から父親の仕事の関係でアメリカに暮らした水村にとって言語が所与のものでないことはごく自然に意識されたであろう。しかしこの事実自体は驚くに値しない。外国語を習得することは程度の差こそあれ、母語が言語の一つの選択肢に過ぎないことを理解することである。「英語の世紀の中で」という副題にあるとおり、英語という一言語がある種の普遍性を獲得しようとしている状況との関係において母語の自明さへの疑問を提起した点に本書の独自性が求められる。
 ヨーロッパで仕事をする際、私は相手がイギリス人でなくても英語を用いる。しかしなぜ英語なのかという点を意識することはほとんどない。むろん日本人の多くにとって学校で学ぶ英語は比較的親しんだ言語であり、水村も本書の中で説くようにインターネットの普及も英語の地球語化と深い関係をもつ。しかし他の言語と比べて語彙がはるかに多く、発音も語形変化も単純ではない言語がこれほどの覇権を握ったこと、そしてそれ以上に英語を母語としない二者が英語で意思を疎通することの奇妙さがほとんど意識されないことの奇妙さは深く考えられてよい。言語の問題は直ちに言語によって生み出される文学の問題と深く結びつく。この著作が言語帝国主義への告発でもなく、グローバリズムへの諦念でもなく、味読に耐える内容となっているのは、語りの背景に日本文学という営みへの水村の深い愛情がうかがえるからであろう。
 一編のまとまった論文というより、いくつかの機会に発表された文章が集められているため、一章ごとに読んでも十分に面白い。冒頭の章ではアイオワ大学の創作プログラムに赴いた水村が世界中から集まった作家たちと「英語で」共同生活を行なった際のエピソードが語られる。モンゴル、リトアニア、韓国、アルゼンチン、多くはさほど豊かでない国出身の作家たちとの奇妙な集団生活を通して母語を用いて小説や詩を書くということもまた実は自明ではないという苛酷な現実が浮かび上がる。しかし水村の意識はこのような現実を批判するのでなく、世界中で様々の人が言葉は違っても自分たちの言葉で書いているということへの驚異の念へとつながっていく。この時、多様な言語を咀嚼して独自の言語を編成し、自分たちの言葉で自分たちの文学を築いてきた日本が実はきわめて特殊な条件にあったことが理解される。
 続く第二章は水村がフランス語で行なったパリでの講演がその大半を占めるが、その内容は「英語の世紀」の成立のかげで王座を追われたフランス語をとおして、言葉という問題が深められている。ここでもフランス語を鏡とするかのように日本語の特殊性が浮かび上がり、水村の問題意識が常に日本語に向けられていることは明らかである。続く章においては同じ主題がベネディクト・アンダーソンや福沢諭吉を引きながら、歴史的に深められるとともに、「近代日本文学」が歴史的な与件として奇跡的に成立したことが論じられる。このあたりの議論はイェール大学で水村とも交流があった柄谷行人の一連の論考を連想させる。国家や民族、国語といった概念の自明性を批判的に検証する研究は90年代に隆盛し、私たちは例えば酒井直樹の『死産される日本語・日本人』のごとき画期的成果を手にしている。(酒井もコーネル大学教授という、いわば外部からの研究者である点は興味深い)学術論文ではないからこれらの論考と比して実証性に欠けるとはいえ、水村の著作にみなぎる日本語に対するみずみずしい感性はこれを補ってあまりある。
 私にとって目からうろこが落ちる思いであったのは例えば次のような指摘だ。次に掲げる朔太郎の有名な一節を比較されたい。

 ふらんすへ行きたしと思へども
 ふらんすはあまりに遠し

 仏蘭西へ行きたしと思へども
 仏蘭西はあまりに遠し

 フランスへ行きたいと思うが
 フランスはあまりに遠い

 水村がJRの広告以下と呼ぶ、最後の口語体調は別にしても、ある程度、文学的センスがある者であれば、最初の例と次の例の語感の相違は理解できよう。しかしこれらを英訳すればわかるとおり、この三つの表記は意味としては同一である。つまり漢字とひらがな、かたかなという三つの表記を有することによって日本語はほかの言語では獲得しえない精彩を帯びることとなった。これは母語の内部にいては不可能な発想である。
 水村は「英語教育と日本語教育」と題されたポレミックな最終章において、英語教育は一部のエリートに対して専門的に行い、むしろ日本近代文学の読み継ぎこそを徹底すべきであるという大胆な提言を行なう。本書を通読するならば、それなりに説得的な議論であるが、その当否について今は措く。タイトルが暗示するのは、「日本人」である私たちがあまりにも「日本語」に無関心であり、この結果、日本語をめぐる環境が荒廃しつつある状況である。アメリカで漱石や鴎外に親しんだ彼女は現在の日本の文学状況を荒廃以外のなにものでもないとみなす。この見解にも異論がない訳ではないが、言語と文学が密接に結びついている以上、言語に対する緊張のない国に果たして公用語と母語が異なるアイルランドに生まれたジョイスのごとき作家が誕生する可能性はあるだろうか。中上健次あたりに投げかけてみたい問いである。
 なお水村は母語、国語、公用語といった言葉を厳密に定義して使い分けているが、煩雑となるため、ここでは特に明確に区別せず用いた点を言い添えておく。

 
by gravity97 | 2009-01-17 20:01 | 思想・社会 | Comments(0)

Richard Serra 《AFANGAR》

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 あなたは「世界の果て」という言葉からいかなるイメージを思い浮かべるだろうか。私は世界の果てについてきわめて明確なイメージを抱いている。それはアイスランド、レイキャビク近郊、ヴィディ島の風景だ。
 そこには9対のモノリスが屹立している。リチャード・セラが1990年に設置した《アファンガー》という作品である。私は1998年にロサンジェルス現代美術館で開催されたセラの回顧展のカタログで初めてその風景を目にした。荒涼とした大地、暗い海岸を臨む断崖近くに対を成して設置された18点の石板。わずか6枚のモノクロの図版に私はたちまち魅せられてしまった。まさしくこれは世界の果ての姿だ。
 先日、1991年にチューリッヒで出版されたこの作品の美しいカタログを入手することができた。英語と(私にとって未知の言語でありおそらくは)アイスランド語が併記されているが、テキストはほとんどなく、さながら「世界の果て」の情景の写真集といった趣がある。ロバート・スミッソンの《スパイラル・ジェティ》やマイケル・ハイザーの《ダブル・ネガティヴ》を想起すれば理解されるとおり、ランド・アートに共通する特質は訪れることの困難であり、ウォルター・デ・マリアは《ライトニング・フィールド》についての簡潔な解説を「孤絶こそランド・アートの本質である」という印象的な言葉で結んでいる。しかしながらヴィディ島はレイキャビク近郊というから決して訪れることが不可能な地ではないし、屹立する石板は《スパイラル・ジェティ》のごとく風化することもない。私はいつの日か、これらのモノリスの傍らに立ちたいと強く感じる。
 タイトルの由来について、いろいろと調べてみたのだが、言葉の意味も含めてよくわからなかった。おそらく何かの固有名詞ではないだろうか。作品についてはカタログ中に次のようなコメントが付されている。
Stations, Stops on the Road / To Stop and Look ; Forward and Back / To Take It All In
途上の留という言葉から直ちに連想されるのは Stations of the Cross 、つまりキリストの十字架の道行きである。通常は14の場面から成り立つこれらの情景は古来よりキリスト教美術の伝統的な図像でもあった。そして現代美術においても同じテーマで重要な先例がある。いうまでもなくバーネット・ニューマンが1958年から66年にかけて制作し、現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに収められている14点の連作「The Stations of the Cross」である。セラの作品はニューマンと無関係ではありえないだろう。現実の場に位置を占めるセラの作品は「場の感覚」を主張するニューマンの正当な後継者であり、なによりも垂直に屹立する《アファンガー》のイメージは禁欲的なモノクロームのニューマンのジップ絵画連作を強く連想させ、ニューマンの彫刻とも親近性をうかがわせる。
 もう少し詳しく作品を記述しよう。今述べたとおり作品はいずれも対の石板として設置されている。カタログにはタイトルの横に「九つの場所、二つの高度」という言葉が付されている。対の石板はヴィディ島の周囲を取り巻くように島内の9箇所に設置され、島を上空から鳥瞰した写真によってその状況はある程度理解できる。この点は十字架の道行きのごとく、一つのパッセージとして作品が構想されている点を暗示しているかもしれない。二つの高度とは4 メートルと3 メートル、異なった高さの二つの石板、それぞれ最上辺が海抜9 メートルと10メートルを標定していることを意味する。
 直立するモノリスは直ちにキューブリックのフィルムを連想させる。あるいは墓標やオベリスク。多様なコノテーションをもつ点はセラの寡黙な作品の中ではむしろ例外的である。素材はこの島固有の黒灰色の玄武岩であり、石という素材もセラの作品としては珍しく、これ以前にはおそらく1982年にフィレンツェ近郊に設置した作品しか例がない。セラ自身もフィレンツェの作品について触れたテクストの中で、彫刻における素材の重要性を説いた後、自身が多用する鉄に比べて元素的な素材である石が時間という問題と深く関わっていることを強調している。2006年にニューヨーク近代美術館で開かれたセラの二回目の回顧展のカタログテクストでリン・クックは《アファンガー》に触れ、玄武岩の使用がこの作品に二つの意味を賦与している点を指摘している。一つは垂直の構造とあいまって境界を画定し、海抜高度を標定する標点としての意味であり、もう一つはこの島の地質学的な特性との関連である。セラは作品が設置される場所と深く結びつくべきであるという主張を繰り返してきたが、クックが指摘する意味は土地との関係があまりにも生々しく、セラの作品の中でも例外的な印象がある。私の手元には1998年にドイツで刊行されたセラの版画のカタログ・レゾネがある。この中にも1991年に制作された「アファンガー」と題された一連の作品が存在する。その一部は上に示したカタログにも収録されているが、面的な要素で構成される場合が多いセラの版画やドローイングの中で、線的な要素を強調したアファンガー連作は異彩を放っている。立体においても版画においてもアイスランドの小さな島に触発された作品が一種の特異点を形成している点は興味深い。その理由はおそらく最初に述べた「世界の果て」に比される風景と関わっているだろう。クックによれば1988年の最初の訪問以来、セラもこの島の風景に畏怖の念を抱いたという。この点において《アファンガー》と北ヨーロッパにも分布するドルメンやメンヒルといった巨石記念物の相似は暗示的である。都市空間を強引にねじ伏せ、時に作品撤去にまで発展する議論を引き起こしてきたセラでさえ、アイスランドの絶景を前にして、風景への強引な介入ではなく、いわば土地の霊、ゲニウス・ロキに導かれて作品を構想せざるをえなかったというべきであろうか。
 セラの作品といわゆるランド・アートとの共通点と差異は一編の論文の主題たりうる。私の印象としてはセラの作品の場合、設置される場所は所与の条件である場合が多く、場との間に交わされる緊張が作品の大きな魅力であった。《アファンガー》において作品はむしろ場と親和している。アイスランドの荒地に屹立する異例の作品はセラのみならず野外に設置される作品と場との関係にいくつもの重要な示唆を与える。
by gravity97 | 2009-01-10 10:04 | 現代美術 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 090108

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by gravity97 | 2009-01-08 20:28 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

井上究一郎『幾夜寝覚』

b0138838_1125673.jpg 『失われた時を求めて』について記すべきことは多い。この小説については今後何度かこのブログで触れることとなろうが、ひとまずその前哨として、一つのイタリア紀行から始めることにしよう。言うまでもなく井上究一郎は筑摩書房版の『失われた時を求めて』を個人全訳した仏文学者であり、第六編の「逃げさる女」の最終校正が手元から離れた後、刊行されるまでの一月の猶予の間に、北イタリアを旅行した記録が本書である。もう少し補足するならば、プルーストのこの小説については現在、鈴木道彦と井上の二つの個人全訳という偉業があり、井上の訳書は日本における最初の個人全訳である。私が通読した新潮社版は井上を含め数名の翻訳者による共訳であり、1989年という時点まで一人の翻訳者の手による翻訳は存在していなかった。私は筑摩書房版を通読していないので、翻訳の比較はここでの問題ではない。「逃げさる女」は最終編となる「見出された時」の直前に位置し、新潮社版では「消え去ったアルベルチーヌ」と題されていた部分である。したがって翻訳が全て終了したことの解放感が井上をイタリアに赴かせた訳ではない。また有名なヴェネツィアの舗石の挿話は「逃げさる女」中にあるが、既に訳稿は提出されているからこの部分の翻訳の内容を確認するための旅行でもない。「逃げさる女」を翻訳する過程でヴェネツィアに行きたいという思いが抑えがたく、知人にも編集者にも告げることなく、おしのびで海彼の地に向かったという述懐が冒頭にある。
 井上にとってイタリアは初めてではない。1971年、プルーストのサントネールにコレージュ・ド・フランスでの発表の後、イタリア全土を旅して以来、四度目のイタリア訪問となる今回の旅行は妻を同伴し、北イタリアをめぐる「北イタリア・ルネッサンス美術の旅15日間」なるパック旅行であった。本来ならば団体旅行にそぐわない人物が、パック旅行に身を潜めるというエピソードから私は(大変失礼な比較であるが)トマス・ハリスの『ハンニバル』中、レクター博士のアメリカ帰還のエピソードを連想してしまった。私も(団体旅行にはなじまないが井上やレクター博士のごとき異能の持ち主でないことは十分に自覚しているので誤解なきように)過去に一度だけ事情があってヨーロッパをめぐるパック旅行に参加したことがある。個人旅行しか知らない私にとって、朝のうちにホテルの部屋の前にスーツケースを出しておけば、違う国のホテルの自室に夕方それが届けられているという体験は衝撃以外のなにものでもなかった。この紀行全体に漂う一種の受動性はこの点と無関係ではない。訪れる場所は多くがあらかじめ定められており、夫人以外の同行者ともエチケットとして一定の会話をしなければならない。しかしこのような条件は紀行を書くにあたってディスアドヴァンテイジとはならなかった。それどころか団体旅行であるがゆえに、行間から浮かび上がるフランス文学の碩学の人間観察もこの書物の大きな魅力である。かつて蓮實重彦は同じ時期に発表された中沢新一のバルセロナ紀行『バルセロナ・秘数3』と比しても井上の文章が「圧倒的」に周到で「洒落て」いると記した。中沢の紀行をわざわざスペインに携えて行った者としては中沢の官能的な文章の肩をもちたくなる気もしないではないが、井上の紀行が近年日本語で書かれた紀行文の最良の一つである点に疑問の余地はない。
 紀行文としての豊潤さについては原文にあたっていただくのがよいから縷述しないとして、例によっていくつか所感を述べる。ローマ、シエナ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ。パック旅行にありがちの多くの都市をめぐる旅とはいえ、この紀行のクライマックスがヴェネツィアにあることは歴然としている。ヴェネツィアとプルーストという主題に関しては無数の研究やエッセーがあり、近年では格調ではやや劣るものの鈴村和成の『ヴェネツィアでプルーストを読む』を私はヴェネツィアに携えて彼の地で読んだ記憶がある。『失われた時を求めて』において出奔したアルベルチーヌの死の知らせを受けた後、主人公の母とともになされたヴェネツィア訪問もまたこの長大な物語の絶頂の一つを形成している。実際にプルーストも1900年にヴェネツィアを訪れており、鈴村によればこの時に作家が宿泊したホテルはダニエリとエウローパの二説があるという。私は『失われた時を求めて』を通読する以前に偶然エウローパに滞在したことがあり、しばらく前にヴェネツィアに滞在した折には鈴村の著書に触発されてダニエリのロビーもわざわざ訪れた記憶がある。作家すなわち主人公のマルセルが投宿したホテルがなおも存在し、往時の風格を保っている点に私はあらためてヨーロッパ的伝統の厚みを痛感した。(ただし前回訪れた際に行ってみると、エウローパはアメリカ資本のウエスティンの傘下に入ってしまっていた。本当にがっかりである。)
 コンブレに始まり、バルベック、パリあるいはマルタンヴィル。『失われた時を求めて』を読む体験は土地の固有名と密接に関わる。「スワンの恋」と「花咲く乙女たち」のそれぞれ一章が「土地の名・名」と題されていたことを想起してもよい。ヴェネツィアというトポスはその中でも特権的な位置を与えられている。プルースト自身が傾倒したラスキンをはじめ、スタンダール、ニーチェからトーマス・マンまで、アドリア海の風光に魅惑された作家や哲学者は数知れない。あまり知られていないが、ユダヤ人ゲットーの起源としてのヴェネツィアの問題も含めてこの都市の都市論的布置もいつか触れてみたい話題である。
 今述べたとおり、『失われた時を求めて』についての考察は土地と分かちがたく結びつく。次回はこの小説の中でも私が最も好きな場面の一つであるバルベック、あの海岸の情景からこの傑作に私なりに切り込んでみようかと思う。
by gravity97 | 2009-01-03 11:26 | 紀行 | Comments(0)