「ほっ」と。キャンペーン

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 多くの出版社の文庫が乱立する中でも光文社の古典新訳文庫からは目が離せない。よりにもよって『カラマーゾフの兄弟』を新訳で刊行するという試みは大きな成功に終わったからよいものの、現在の日本の知的状況を勘案するに相当なリスクを伴った事業であったことは想像に難くない。私もこの機会に新訳で再読してあらためて大きな感慨があった。ただしそれは亀山郁夫の「読みやすい」訳文を評価するという意味ではない。この文庫はなんといってもラインナップが秀逸だ。シェークスピアやスタンダールの新訳はわかるが、いまどきレーニンやトロツキーを新訳で刊行しようとする志はただものではない。さらにプリーモ・レーヴィやフロイトの主著が「新訳」の対象として選ばれることには編集者の見識と強い思い入れが感じられる。(それにしても「文化への不満」といったフロイトの主著の一つがこれまで全集によってしか参照できなった点はこの国の文化的後進性をはしなくも露呈している)
 さて、『幼年期の終わり』である。書店の店頭でこの文庫の一冊としてアーサー・C・クラークの名作が新たに訳出されたことを知った際も、編集者のセンスのよさに敬服した。近未来について描き、そこで想定されていた未来を迎えてもなおも読むに耐える小説はさほど多くない。『幼年期の終わり』は間違いなくそのような小説であり、クラークのSFは独特の深い思弁性、時代を超えて人の生の意味に思いをめぐらせる普遍性をはらんでいる。私の世代は海外のSFを読むにあたってまずクラークとアシモフから始めるのが定石であったから、私も既にこの小説を読んでいた。ただし当時は今日広く流布する福島正実訳のハヤカワ文庫版は刊行されておらず、上に示した沼沢洽治訳の創元推理文庫版『地球幼年期の終わり』を手に取ったことを覚えている。
 小学生にはやや難しかったためであろう、初読の印象はさほど強くない。しかしこのたび新訳で再読し、SFの黄金期の風格をもった傑作であることをあらためて思い知った。実は今回の光文社版では著者による1989年の改訂を受けて、冒頭の一章に小さな変更が加えられている。すなわち1954年の初版では時代を反映して米ソの宇宙開発競争が強く意識された内容であったが、これに代わって新版では冷戦終結後、宇宙開発が国際協調によって進められていることが暗示されている。以下、やや内容にも踏み込んで論じる。時代は具体的に特定されていないが、ほぼ私たちが生きる現在と考えてよい(執筆当時からすると半世紀先の)近未来、突如宇宙から無数の円盤が飛来し、大都市上空に滞留する。円盤に乗ったオーヴァーロード(今回の訳では初出の際だけ最高君主というルビがふられている)たちは彼らが人類の代表とみなす国連事務総長を介して地球から差別や戦争の根絶をはかる。例えば差別主義政策をとる国家に対して、瞬間的に太陽を奪うという圧倒的な力の示威によって政策の変更を迫るなど、オーヴァーロードたちは常に平和的に人類を善導していく。しかし彼らは国連事務総長ストルムグレンとテレタイプ(!)を介して交信するのみで、自らの姿を人類の前に現すことはない。このため、一部の者はオーヴァーロードの支配を嫌い、様々な手段でその正体を暴こうと画策する。そしてストルムグレン自身も好奇心にかられてこの天空の善導者の姿を垣間見ようと試みる。これに対してオーヴァーロードは50年後に人類の前に姿を現すことを約束する。第一部の「地球とオーヴァーロード」で以上の顛末を描いた後、第二部「黄金期」においては冒頭でオーヴァーロードがある意味で人類にも見慣れたその姿を現し、人類と共存することとなる。しかしやはりオーヴァーロードは人類を超越した存在であり、その意図や目的をうかがい知ることはできない。人類の好奇心は抑えることができず、最後の章でジャン・ロドリスクという青年がオーヴァーロードの母星をめざしてある方法で宇宙に旅立つ。続く第三部「最後の世代」においては登場人物こそ第二部と重なるが、彼ら個人ではなく人類全体の未来が主題とされる。そしてそれを見届けるのはオーヴァーロードの母星から帰還し、「人類の最後の一人」となったジャンであった。
 次に述べるとおり、今までにこの小説を通俗化したSFや映画、TVシリーズなどが陸続と製作されたため、空飛ぶ円盤、人類を支配する宇宙人、人類の終末といったテーマはもはや手垢にまみれた感がある。しかし『幼年期の終わり』はそれらとは全くスケールの異なったきわめて思索的な小説である。このあたりの事情は、クラークとキューブリックによる1968年公開の「2001年宇宙の旅」が無数のエピゴーネンを生み出しながらも今なおSF映画の中に屹立し、全てを凌駕している点と事情が似ている。私たちは未だにこのフィルム以上に明確な宇宙旅行のイメージを獲得しえていない。そういえば、能天気というか現在のアメリカのメンタリティを表象して寒心に堪えぬローランド・エメリッヒの「インディペンデンス・デイ」に登場する巨大円盤も、公開当時は「スターウォーズ」の冒頭部から着想したかと考えていたが、着想どころか『幼年期の終わり』そのままではないか。あるいはファースト・コンタクトや人類の進化といったテーマをめぐってスタニスワフ・レムから小松左京まで実に多くのそれなりに優れたSFがこの小説の影響下にあることを確認した。
 今回再読してあらためて感銘を受けたのは物語の終盤、幼年期を終えた人類が新しいフェイズに到達する場面である。人類という一つの種族の終焉はSFだから描くことができたテーマであろうし、抒情性を殺いだクラークの文体は一種の抽象性を宿している。このような抽象性がキューブリックとの合作とはいえ、映画「2001年宇宙の旅」と共通していることは明らかであり、年譜を参照するならば本作品の原型である「守護天使」と「2001年」の原型である「前哨」はそれぞれ1950年と48年という(かくも早い時期に執筆されていること自体も驚きであるが)近接した時期に執筆されている。「インディペンデンス・デイ」のごとくアメリカ大統領に人類の代表面をされても困るが、国連事務総長にかくも重要な役割を担わせる点、あるいはインターネットならぬテレタイプによる交信といった挿話など思わず苦笑する場面もあるが、SFという本来的に賞味期限の短いジャンルにおいて、発表後半世紀経っても色あせない作品を次々に発表した点にクラークの才能が証明されているだろう。オーヴァーロードとはLord という言葉が暗示するとおり、神を含意し、人類を善導する神というテーマは人と自由をめぐる神学的主題にも展開可能であるがここでは触れない。むしろ私は最後の場面であまりも圧倒的な光景、巨大な存在を前にジャンが味わったであろう感慨が崇高という感情に帰する点に興味をもった。そして滅びゆくものを前にした時の痛切な寂寥感から私は直ちにレイ・ブラッドベリの『火星年代記』を連想した。ほぼ同じ時期に発表されたこれら二つの小説、一つは抽象的、もう一つは叙情的なSF史上に残る傑作がいずれも滅亡という概念と深く関わっていることは偶然であろうか。
 新訳ということであるから、最後に翻訳についても触れておこう。新しい訳者はジェフリー・ディーヴァーやスティーヴン・キングの翻訳で知られる池田真紀子であり、練達の訳は読みやすい。しかし読み比べてみるならば、『カラマーゾフの兄弟』と同様にこの読みやすさはむしろ活字の大きさとゆったりとしたレイアウトが最大の理由であって、内容の理解とはさほど関係しない。先にも述べたとおりオーヴァーロードとは神を含意している点も重要であり、そのまま日本語に置き換えるのはどうかとも思うが、実は巻末にいたってオーヴァーロードの上位に立つオーヴァーマインドなる存在が示唆される。両者の対比を明確に示すためにあえて原語を用いたのであろうか。ちなみに沼沢訳ではそれぞれ「上主」と「主上心」の訳語が与えられていた。これでは確かに意味不明だ。
by gravity97 | 2008-12-30 09:49 | エンターテインメント | Comments(0)

佐藤優『自壊する帝国』

b0138838_6141651.jpg 『国家の罠』を読んだ時の衝撃は今でもよく覚えている。佐藤優の名はいわゆる鈴木宗男事件に連座して逮捕された外務省職員として知っていたが、冷戦終結後の世界状況と新自由主義の台頭をケインズ主義からハイエク主義への転換と喝破し、自らが置かれた状況に対してかくも透徹した認識によって応じる人物が大学や研究所ではなく、外務省という官僚組織に属していたことに私はまず驚いた。それ以来、佐藤は次々に充実した著述の発表を続けている。手島龍一との共著『インテリジェンス―武器なき戦争』では情報収集と分析というインテリジェンスの機微が語られ、自らの大学時代を回顧した『私のマルクス』は卓抜した知識人の形成をめぐる現代のビルドゥングス・ロマンとして読むことができよう。私はこれまで佐藤の著書をずいぶん読んだつもりであったが、なぜか07年の大宅壮一ノンフィクション賞受賞作である本書を読み落としていた。文庫化を契機に通読してみる。
 同志社大学神学部の大学院修了という異色の経歴をもつ佐藤はチェコスロヴァキアの神学の研究をもくろみノン・キャリアとして外務省に入省する。イギリスでロシア語を学んだ後、配属されたモスクワのロシア大使館でソビエト連邦の崩壊に立ち会うという稀有の経験をする。外務省入省からソビエト崩壊前後のモスクワ勤務まで、佐藤のロシア時代の回顧として執筆されたのが本書である。佐藤の異様な記憶力の秘密については『私のマルクス』の中で触れられていたが、博覧強記の佐藤が自分の最も専門とする分野について「見たもの、聞いたことを、可能な限り正確に記録した」訳だから、面白くないはずがない。そもそも神学研究を志す者が大使館職員として共産主義国に赴任するという設定自体が解剖台の上のミシンと蝙蝠傘である。佐藤はモスクワ大学の科学的無神論学科で学ぶ。共産主義とキリスト教は相容れるはずがないが、宗教についてほかにまともに学ぶ場所がモスクワにないため、実は本当の信者こそが「無神論学科」に学んでいる。これはもうフィリップ・K・ディックの世界ではないか。
 本書を読んで、インテリジェンスとは人脈の構築であるということをあらためて強く感じた。どのように情報を収集するか、そのディテイルにおいては随所にフレデリック・フォーサイスばりのエスピオナージュも語られるが、情報収集は基本的に地道な作業だ。佐藤は様々の手段と機会をとらえて人脈を広げ、例えば欧米の情報機関に先駆けて、クーデター直後のゴルバチョフの安否を確認し、日本に打電する。その際に有効であったのは神学部出身という異色の経歴、潤沢な資金、そしてウォッカを数本飲み干しても平然としている体質であった。最後の点はロシアという国の特殊事情もあろうが、本書の中ではレストランでの豪勢な会食や常軌を逸した飲酒、豪奢な品物の贈答といった私たちの常識を超える饗応が語られる。このような出費はインテリジェンスという観点に立つならば死活的に重要な要素であることもたやすく理解されるが、佐藤と異なり、信念をもたないキャリアの外務官僚がかかる濫費を許された時、モラルなきふるまいが繰り返されたであろうことも容易に想像がつく。『国家の罠』で指弾された点であるが、外務省の職員、特に在外幹部の腐敗の根深さは本書を読む時、一層明らかとなる。
 本書の読みどころはロシアでの多彩な人物との交流であろう。外交と関わる全ての仕事は人と会うことから始まり、豪勢な会食や尋常ならざる飲酒もその人物を月旦する機会にほかならない。信頼に足る相手であれば、リスクを冒しても情報を提供し、逆にこちらも情報を要求する。一人の人物の中にマキャヴェリズムとイデアリズムがなんら齟齬なく同居することこそが、インテリジェンスに関わる人間の条件なのであろう。国家が瓦解するというありえない状況の中で、佐藤が関わった人々の運命も翻弄される。モスクワ大学時代の友人からロシア共産党の書記にいたるまで、この激動の中でどのように身を処したかという点をたどることがこのノンフィクションの横糸を形成する。そしてまた佐藤も本省に戻り大使館時代に培った人脈を用いて、歴代内閣のロシア外交を支えるが、彼が「国策捜査」と呼ぶ鈴木宗男議員をめぐる一連のバッシングの中で逮捕され、500日以上に及ぶ拘置所生活を送るという数奇な運命をたどることとなった。
本人による回想であるから、多少割り引く必要があるにせよ、通常私たちが与り知ることがない日本のインテリジェンス活動の内幕を垣間見るだけでも本書は一読に値する。私は必ずしも佐藤の思想的立場に共感するものではないが、少なくとも彼の一貫する姿勢に今日では問われることさえ稀な「教養人」とは何かという問いかけへの一つの回答を看取することができる。そして佐藤のごとき人材を重用することなく排斥する点に現在の外務省、さらには官僚機構の度量が端的に示されている。彼が外務省を追われたことによって日本のロシア外交は太いパイプを失ったのであるが、この結果、外交に関する様々の情報と卓見に満ちた佐藤の手による多くの著述を私たちが読むことができるようになったことは皮肉と呼ぶべきであろうか。
by gravity97 | 2008-12-25 06:15 | ノンフィクション | Comments(0)

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by gravity97 | 2008-12-20 19:56 | BOOKSHELF | Comments(0)

art since 1900

 数年前に出版され、世評の高い20世紀美術の概説書を先日入手した。Thames & Hudson から2004年に刊行された本書は二巻から成り、一巻では1900年から1944年、二巻では1945年から今日(具体的には2003年)までの期間が扱われている。ひとまず私は二巻を求めた。
 なんといっても著者の顔ぶれが凄い。ハル・フォスター、ロザリンド・クラウス、イヴ=アラン・ボア、ベンジャミン・ブクローといえば80年代に一世を風靡した『オクトーバー』誌の中核であり、ポスト構造主義を自在に用いてモダニズム美術を批判的に読み直し、ポスト・モダン美術を定位するうえで決定的な役割を果たした批評家たちである。サブタイトルの「モダニズム、アンチモダニズム、ポストモダニズム」からも了解されるとおり、本書は端的に「オクトーバー」史観に貫かれた20世紀美術史といってよいだろう。たんなる事実の羅列ではなく、方法論への反省が記述の底流をかたちづくっている。
編集方針もきわめて独特である。最初に四人の専門領域と結びついたテマティックな概説(「モダニズムにおける、手法としての精神分析」、「美術の社会史:モデルと概念」、「フォーマリズムと構造主義」、「ポスト構造主義と脱構築」というタイトルを一読しただけで私は直ちに執筆者を比定することができる)が掲載され、続いて文字通りの編年体で20世紀美術が語られる。つまりそれぞれの年における主要なトピックが選ばれ、それらを四人が分担して論じている。もっとも年とトピックは厳密に一対一対応している訳ではなく、複数のトピックが論じられる年もあれば、記載のない年もある。例えば1962年は「フルクサス」、「ウィーン・アクショニズム」、「アンドレ、フレイヴィンとルウィット」という三つのトピックがそれぞれ論じられ、一方で1979年という項目は存在しない。序文として掲げられた「Reader’s Guide」によれば、採用されたテーマのいくつかは特定の国と関連し(例えば「アルテ・ポヴェラ」)、いくつかは国際的な動向について扱う。(例えば「ドクメンタ5」)また地域性と無関係な主題を扱う論文もある。(例えば「グリッドとモノクローム」)合計で107を数えるこのようなトピックによって20世紀美術の輪郭が立体的に浮かび上がる。いくつかの論文を通読してみたが、内容は書き手を反映して質的にも充実しており、それぞれの巻末には参考文献も付されているから、これから現代美術の方法論を学ぼうとする英語圏の読者には有益な入門書といえるだろう。
私の関心を引いたのは、本書が概説というかたちをとらず編年体によって構成されている点である。本書は作品ではなく事件によって美術史を検証する姿勢をとり、最初に掲げられた年記の次に、続く論文で論じられる当該年に起きた事件がリードとして短く紹介される。全ての歴史記述がそうであるように、どの事件を選ぶか、事項の選択が恣意的であることはいうまでもない。そして恣意的な事項の羅列によって現代美術について語る手法の先例を私たちは既に知っている。それはクラウスとボアによって1996年にポンピドーセンターで企画された「アンフォルム」展のカタログである。奇しくもUser’s Guide (フランス語ではmode d’emploi )と名づけられたこのカタログにおいては水平性、パルスなど四つのテーマに即したキーワードがアルファベット順に機械的に記載されている。このような配列はこの展覧会の基本概念である informe を提唱したジョルジュ・バタイユの著作に範をとっており、初見してきわめて斬新な印象を受けた。かかる記述の形式はクレメント・グリーンバーグのモダニズム絵画理論に象徴される、一つの大きな物語が美術史を統御するという理念への根底的な異議申し立てであるだろう。本書においてもクレス・オルデンバーグの「ストア」からゲルハルト・リヒターの「1977年10月18日」連作にいたる多様な話題が様々の事件をとおして多角的に論じられ、記述は全体として脈絡や焦点を結ぶことがない。
私自身がいわばフォーマリズムと『オクトーバー』誌の弁証法の下で批評の方法を学んだため、本書で論じられるテーマや作家、概念の多くには既になじんでいた。さらに本書には特にクラウスとボアの著作の反映が色濃く認められ、彼らの熱心な読者であった私としては使用される図版に見覚えのあるものが多い。タイトルと図版を見れば論旨の概要がほぼ予想できるトピックもいくつかある。私のみるところ、70年代以降、美術批評はフォーマリズムとフォーマリズム批判の緊張の中から最も充実した成果を引き出した。グリーンバーグ、マイケル・フリードあるいはウィリアム・ルービンらの一連の批評と、そこから出発しながらもむしろフォーマリズムを批判的に受容した本書の書き手たちの批評は戦後の美術批評における最上の達成であろうが、同時にアメリカ美術を中心とした美術史観である点に一定の限界を指摘することができよう。かつてグリーンバーグは全ての優れた美術はニューヨークを経由すると傲然と言い放ったが、グローバリズムが喧伝される今日、このような観点から本書を批判することは可能である。アナ・メンディエッタやウィリアム・ケントリッジへの言及はあっても中国やイスラム圏の作家についての言及がないことは単に情報の不足だけではなく、彼らの批評の内在的な限界を露呈しているように思う。
この点と関連するが、本書において取り上げられた日本の作家が具体美術協会のほかには草間弥生や久保田成子ら、数名の女性作家だけである点は興味深い。白髪一雄や草間弥生は「アンフォルム」においても言及されていたからその延長と考えることができようし、具体美術協会は活動当時から例えばポロックと交渉があり、草間や久保田はニューヨークで活動した作家であったから、欧米から参照しやすい作家たちが選ばれたとみなすことはたやすい。しかし例えば具体の再評価が近年も続き、次々に展覧会や関連書が発表されるという事実は、単なるオリエンタリズムとしてではなく、モダニズムを再考する契機を彼らの活動が秘めており、80年代以降の文化的地政学の中でその重要性が一層高まってきたことを暗示しているのではなかろうか。この問題は優に一本の論文に値し、ブログの紙幅で語りうるものではないが、さらに私の最近の関心に引きつけるならば、日本の60年代美術の無残さという問題とも関わっているだろう。
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かくのごとく、なおもいくつかの問題をはらむものの、本書は論述の形式も含めて20世紀美術の総括をめぐる野心に満ちた試みであり、その輪郭について一つの明確な規範をかたちづくっている。美術批評に関して70年代以降の英語圏の知的充実を端的に示すテクストといえよう。
by gravity97 | 2008-12-14 13:19 | 現代美術 | Comments(0)

b0138838_23162787.jpg 10年以上にわたって、新刊が翻訳されるたびに買い求め、一度も期待を裏切られたことのない作家はさすがにあまり例がない。ポール・オースターは私にとってこのような異例の作家である。書庫で調べてみると最初の邦訳、『シティ・オブ・グラス』が1989年の発行であるから、ほぼ20年にわたって読み継いだこととなる。2002年に発表された本書がいつもどおり柴田元幸の手によって翻訳されて先ほど刊行された。帯には「最高傑作」と銘打たれているが、それはどうであろうか。オースターの場合、どの小説を「最高傑作」とみるかはおそらく個人的な趣味による。私としては『ムーン・パレス』の完成度が一番高いのではないかと考えるが、本作品もオースターらしさが十分に発揮された佳作である。
 オースターの作品は多く最初に謎が提出され、それをめぐる探索が物語を構成する。しかもその謎の輪郭は物語のごく最初の段階で提示される。本書においても物語の骨格自体は冒頭のわずか10頁ほどで間然するところなく示されている。主人公デイヴィッド・ジンマーは大学の教員。飛行機事故で妻と子供たちを亡くし、生ける屍のごとき人生を送っていたが、偶然見たサイレント末期のコメディアン、へクター・マンの短編映画に感銘を受け、多くが失われていた彼のフィルムを研究することによって社会に復帰する。へクターは60年前、その絶頂期にあって突然謎の失踪を遂げていた。ある日、ジンマーのもとにへクターとの面会を求めるヘクター夫人からの手紙が届く。なんとも魅力的な設定ではないか。才能ある作家であれば、一つの物語を起動するに十分な材料が散りばめられた冒頭である。ただし私の印象としては、本作品においては物語の展開がいささかぎこちない。物語の中の物語という趣向はオースターの多くの作品に共通するが、本書においては挿話がつぎはぎされた印象があり、物語の潤滑性を阻んでいる。つまり登場人物の一人の口を借りて語られるへクターの失踪の理由とその後の行路のエピソードは、ヘクターと会う直前に語られたにしてはあまりにも長いし、そもそもジンマーの生活に闖入した人物の三人称による語りはその真偽が担保できない。このため終盤で再開されるジンマーによる一人称の語りへの移行はいささかぎくしゃくしている。オースターほどのストーリーテラーにしてはやや雑な構成ではないだろうか。
 オースターは実際に映画の脚本や監督も手がけており、映画との親和性の高い小説を発表してきた。また彼の小説の多くが消尽や消滅と関わっていたことを想起するならば、この小説の主題に「失われたフィルム」が選ばれたことの必然性は容易に理解される。思うにヴィデオやDVDが登場する前のフィルムとしての映画ほど実体性からかけ離れた芸術はほかにない。文学や美術において作品は書籍や絵画といった具体的なかたちをとって存在するのに対して、いかに大掛かりなスペクタクルが繰り広げられたとしても、フィルムそのもの、あるいは映写機そのものは何のイメージも提供しない。フィルムを映写機に装着し、上映する瞬間にのみ私たちは映画というかりそめのイメージに見えることができるが、そのイメージの根拠として存在する実体は燃えやすいセルロースのフィルムの上に定着された無数の光学的イメージである。映画とは私たちがそれを見る間だけ存在する「幻影」であり、瞬時的なイメージを切り取って定着することはできない。この問題はジル・ドゥルーズがベルグソンを援用しながら的確に分析した点であり、ショットを画面として定着することが可能なヴィデオやDVDが普及することによって逆に意識されなくなった映画の本質である。そして実体をともなわず、持続の中にしか存立しえない映画の「幻影」は私たちの生の暗喩でもありうるだろう。ジンマーもへクターも映画的といってよい数奇な運命をたどる。彼らの生はとりかえしのつかない事件、偶然によって引き起こされた悲劇に満ちている。そして物語も終盤にいたっていくつものとりかえしのつかない悲劇が連鎖する。オースターは「幻影」をキーワードに映画と登場人物の生を巧妙に重ね合わせる。映画と生という「幻影」にかたちを与えるものは何か。それは書くことではなかろうか。物語の中でジンマーはへクターのいくつかの映画について詳細に記述する。そのうちの一つは一度上映された後、永遠に失われることになる映画である。あるいは私たちはジンマーが「精神を崩壊させてしまう思い」と呼ぶ邪悪な想像、へクターの死をめぐる秘密について彼の手記、つまりこの小説を読むことによって知る。書くこととは幻影にかたちを与えることである。この小説が存在する理由はここにあり、それは端的に文学のレゾン・ド・エートルでもある。
 燃え上がるフィルムのイメージは私にたやすくもう一つの炎上のイメージ、フランソワ・トリュフォーのフィルム、「華氏451度」を連想させる。ここでも文学と映画が交錯する。レイ・ブラッドベリの名品が炎による破壊の後に一つの希望を準備したように、「幻影の書」も末尾において一つの希望が語られる。炎を主題とするこれら二つの物語が、暗然たる破壊や死の果てにあえかな希望とともに終幕することは偶然の一致であろうか。
by gravity97 | 2008-12-09 23:21 | 海外文学 | Comments(0)