「ほっ」と。キャンペーン

b0138838_19281824.jpg 17回忌ということであろうか、『ユリイカ』の最新号で中上健次が特集されている。10年ほど前に集英社版の全集が刊行された頃は中上に関した記事や特集が相次いだが、それ以来、久しぶりにまとめて中上論を読む機会となった。
 中上が没してもう16年が経つ。私は生前から作品を読み継いでいたが、作家の死後もいくつもの注目すべき関連書が発表されてきた。その中でも私が感銘を受けたのはいわゆる熊野大学、新宮の部落青年文化会における中上の連続講演の記録である。柄谷行人と渡部直巳が編集し、2000年に上梓された『中上健次と熊野』の中に収められた一連の講演は日本の戦後文学、いや文学一般に関するきわめて犀利な洞察であり、しかもそれがその場に集った聴衆、おそらく知り合いを含めた郷里の青年たちを意識したきわめて平明な語り口の中で説かれていることに私は深い感銘を受けた。古事記からジョイスまで多くの先行作品を渉猟しながら文学の原型と類型、古典の語り、差別と文学といったきわめて根源的な問題をこれほどまで明快に語る点に私は文学者としての中上の類まれな資質を再認識した。とりわけ第一次戦後派に対する辛辣な批判は、私にとって目からうろこが落ちる思いであった。例えば部落差別と文学という問題を語る際にしばしば論及されてきた野間宏の『青年の環』を文字通り一刀両断という印象で切り捨てる鮮やかさはある意味で私自身がこれらの作家たちによって「呪縛」されていたことを自覚する契機ともなりえた。
 今回の特集は書き手においても主題においても二つの焦点を結んでいるように感じられる。書き手という点では一方で蓮實重彦や渡部直巳といった、中上と直接親交を結び、作家の生前より作品に対して批評を加えていた年長世代の批評家たちの論文と、例えば東浩紀や斉藤環に代表される、世代的に若くおそらく作家と直接の交渉がなかった批評家たちの批評である。渡部はこの特集に寄せた論文の冒頭で渡部や高澤秀次らによって中上の没後も続けられてきた熊野大学、新宮における中上をめぐる連続セミナーの運営を若い世代に完全に引き渡したと述べているので、この意味でも本特集は一つの移行を徴しているかもしれない。一方、論じられる主題においてもいわゆる秋幸三部作を中心とした完成度の高い前期の作品群を中心に論じる論文と早すぎる晩年の問題作、具体的には『異族』を中心とした議論とが拮抗している印象を受けた。年長の世代が秋幸三部作を中心に論じることが多いのに対して、若い世代がどちらかといえば後期の作品に論及している点は偶然の一致であろうか。
 寄せられた論考は充実したものが多く、読み応えがある。個人的な回想を交えて中上の死を語る蓮實の追悼的なエッセー。渡部は例によって周到なテクストの読み込みをとおして、中上と上田秋成の関係を論じる。『異族』とフォークナーの関係を論じた論文や同時代性という観点から、初期作品と松下竜一、さらには東アジア反日武装戦線を接続させる論文なども私の個人的関心と照応して興味深く読んだ。熊野大学における東浩紀のレクチュアを前提とした東と前田塁の対談では『異族』が議論の中心となっており、何度も批判されてきたこの作品の平板さをフラットといった概念に結びつける点はやや強引に感じるが、「キャラクター小説」という概念で中上の作品を読み解くあたり、なかなか示唆的であった。書き手の中にはこれまであまり感心したことのない批評家もいるが、総じてそれなりに興味深い論点が引き出されていることは端的に中上の小説のテクストとしての豊かさを証明しているだろう。
 これらの論考を通読したうえで一点のみ私見を示すならば、私はこの特集においても顕著な、『異族』に中上の小説の特異点をみる発想に異和感を覚える。このような議論は「路地」が消滅した後、物語がいかにして可能かという問いに始まり、その帰結として『異族』にみられる「平板さ」が批判されるというクリシェをとるのであるが、私はまず作家が物語の帰趨に責任をもつという発想に疑問を感じる。「路地」が消滅したとしても作家はその後日譚を語る義務はない。時間的に『地の果て至上の時』の後で執筆されたとしても、私は『異族』が「路地」消滅後の物語と想定される必然性が今ひとつ理解できない。つまりなぜ「路地もの」と『異族』を時間的な先後関係、因果関係として語られなければならないのか。この時期、同じように空間的な移動を主題とした小説としては『日輪の翼』、あるいは性愛という主題をデモニッシュなまでに深めた『讃歌』といった傑作が路地とは直接的な関係をもたないまま執筆されている。私は『異族』もこのような小説の一つであり、単に中上はこの小説を終わらせることができなかったのではないかと感じる。なぜ、『異族』のみが「路地もの」に拮抗する意味を賦与されねばならないのか。そこには中上という天才が早世したことへの痛恨の思い、作家の意図はともかくこの長大な小説が未完のまま終えられたことへの無念の思いが重ねられているように思う。没後16年を経て、いまだにかくも挑発的な議論を喚起する作品群を私はあらためて再読しなければという思いを強くした。
by gravity97 | 2008-10-31 19:28 | 日本文学 | Comments(0)

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by gravity97 | 2008-10-27 20:33 | BOOKSHELF | Comments(0)

b0138838_20414490.jpg ジェフリー・ディーヴァーといえば当代きってのストーリーテラー。とりわけ人気の高いリンカーン・ライムを主人公にした連作長編中、なぜかこの作品を読み落としていたことに最近気づいた。
 ニューヨーク市警科学捜査部部長であったライムは捜査中の事故で全身不随の身となるが一命をとりとめる。この運命をライム自身がいかに受け入れるかという点も連作の隠れた主題となっている。科学捜査に関しては天才的な頭脳をもつライムはニューヨーク市警の顧問として次々に難事件を解決する。ミッドタウンのタウンハウスに住み、車椅子から一歩も動くことなく、明晰な思考と推理によって犯人を追い詰めるライムが安楽椅子探偵の究極の姿であることはいうまでもない。『ボーン・コレクター』でライムが登場した時は、ライムという特異な主人公をごく自然に活躍させる人物造形の巧みさと緻密な科学捜査をプロットに生かす構成力に圧倒された。ディーヴァーにはほかにも特殊な分野で犯罪捜査に関わる主人公が登場する一連の作品があり、あまりにも特殊な状況に置かれたライムが再登場することはあるまいと考えていたが、予想に反して以後もほぼ隔年のペースでライムが登場する新作が発表され、ほかの小説の主人公たちもライムのチームに加わることさえある。しかもこのシリーズは作品の水準が高く、読んで失望することがない。
 ディーヴァーの作品はよくも悪くもけれんみが過剰というか、読者を飽きさせることのない意外な展開が特徴だ。『コフィン・ダンサー』や(リンカーン・ライムものではないが)『悪魔の涙』で思いもつかない人物が犯人の位置にすべりこんだ時の驚きは優れたミステリーを読む醍醐味の一つといえよう。しかしこのようなひねりもディーヴァーの場合、あざとさと紙一重であって、時に不自然な印象を与える。とりわけ短編ではこの点が顕著で、奇しくもTwisted というタイトルを与えられた短編集(日本語タイトルは「クリスマス・プレゼント」)に収録された短編のいくつかは、まずひねりありき、何が何でもひねらなければならぬという前提でストーリーが着想されたようなぎこちなさを感じた。日本では逢坂剛のミステリーなどにみられるが、言ってみれば「最も意外な人物が犯人で、登場人物が実は全て関係者」といった構成であるから、逆に最も犯人らしくない人物を犯人として、登場人物が全員関係者としたらどうなるかという逆算でストーリーの骨格が見えてくるという転倒である。短編にくらべてさすがに練られているが、ディーヴァーの場合、長編でも時にプロット先行の強引な印象を与える場合がある。
 さて、2005年に発表された本作品は「リンカーン・ライム」シリーズとしては第6作にあたり、発表順としては『魔術師』と『ウォッチメイカー』の間に位置する。いずれも年間ミステリーベスト10の高位にランクされた作品である。車椅子から一歩も動けないライムに代わって捜査を進めるのはチーム・ライムと呼ぶべきおなじみの面々。このシリーズの副主人公であるニューヨーク市警の殺人課刑事アメリア・サックス(余談だが、私は以前からサックスとトマス・ハリスの一連の作品に登場するクラリス・スターリングの相似性が気になっている。ニューヨーク市警とFBIという男性社会の抑圧の中で活躍する点、少女時代のトラウマ、とりわけエレクトラ・コンプレックスがいずれも異形の父、前者にあってはライム、後者にあってはレクター博士に向けられる点である)、やはり腕利きの刑事ロン・セリットー、鑑識課員メル・クーパー、FBIのフレッド・デルロイといった顔ぶれはシリーズを読みついだ者にとっては旧知の存在であるが、ディーヴァーは人物の造形に秀でているからどの作品から読み始めてもすぐ彼らになじむことは私が請け負う。これらの常連のほかにも毎回魅力的な人物が登場するが、本作品では冒頭から不気味な殺し屋につけ狙われるアフリカ系アメリカ人少女ジェニーヴァ・セトルの描写がすばらしい。読者は誰でも彼女に感情移入してしまうだろう。内容的にはシリーズの中でも水準作であろうが、水準作ということは読み出したら最後、やめることができないことを意味する。私も何の気なしに頁を開くや、二日間で読み切ってしまった。例によってツイストに次ぐツイスト。ただし私くらい読み慣れると、ひとたび結末が提示されても、まだまだ終わるはずはない、残りの頁数からみてあと数回どんでん返しがあるはずと逆に予想がついてしまう。
 このシリーズは一作を除いてライムが住むニューヨークを舞台としており、都市論的な読みも不可能ではない。特に今回はマンハッタン北端のハーレムを扱い、この点で私は興味深く読むことができた。ハーレムといえば治安の悪さというイメージが先行するが、実際にはアフリカ系アメリカ人の連綿たる文化的伝統が息づく街であり、1920年代にはハーレム・ルネッサンスとして花開いたことはよく知られている。このあたりの事情は以前、このブログで紹介した高祖岩三郎の『ニューヨーク烈伝』に詳しい。『12番目のカード』においては殺し屋から逃れる少女ジェニーヴァと彼女が図書館のマイクロフィッシュで読む、彼女の祖先である解放奴隷チャールズ・シングルトンの逃亡が二重化され、ニューヨークという町の歴史性が物語の中に巧みに反映されている。最後にこの二つの物語を結びつけるあたりは先に述べた強引さが鼻につくが、ジェニーヴァをめぐる描写の細部にもハーレムで生きるアフリカ系アメリカ人の辛さと強さが歴史的な深みをもって浮かび上がり、物語に奥行きを与えている。
 「リンカーン・ライム」シリーズは毎年秋に新しい翻訳が刊行されるような気がする。これを年末に発表される年間ミステリーベスト10の集計直前の絶妙なタイミングと考えるのは穿ち過ぎか。偶然であるが、この書評を書き始めた日、朝刊でディーヴァーの新作の広告を目にした。今回の主役はライムではなく、昨年翻訳が刊行された『ウォッチメイカー』にチーム・ライムの一員として登場した尋問官キャサリン・ダンスらしい。私は『ウォッチメイカー』にはあまり感心しなかったが、この作品に初めて登場し、人物の挙動から彼(女)の言明の真偽を見抜くダンスの活躍には強い印象を受けた。近いうちに私もこの新作を読むことになろうが、ヨクナパトーファ・サーガならぬリンカーン・ライム・サーガの世界はさらに広がりつつあるようだ。
by gravity97 | 2008-10-16 20:42 | エンターテインメント | Comments(0)

クッツェー『鉄の時代』

b0138838_1143020.jpg これもまた暴力についての、実に苛酷な物語である。舞台は1986年の夏から秋にかけて、南アフリカ、ケープタウンとほぼ具体的に特定されており、それは巻末に記されたこの小説が執筆された時期と同期している。解説によれば、この時期はアパルトヘイト政策が崩壊に向かいつつあった時期らしい。物語の中で語られる、黒人の学校の閉鎖と騒擾、黒人居住区への焼き討ちや警官による暴行もまた現実と同期していると考えてよいだろう。しかしこの小説が優れている理由の一つは、暴力を単なる人種間の差別の問題に還元していない点である。主人公のミセス・カレンは白人、彼女の使用人のフローレンスは黒人であることはある程度読めば推察される。しかしほかの登場人物たちはストーリーの展開から漠然と人種を推定できるものの、少なくとも人種の差異が明確に描き込まれ、それによって物語が起動することはない。むろん背景を知るならばこれは差別を合法化するアパルトヘイトという暴力装置と深く関わった小説である。しかし人種差別という問題が前景化されることがないため、この作品は広く人と暴力一般に関わる深みを湛えている。
 物語はミセス・カレンが末期癌の宣告を受けた日に始まる。主人公の老女カレンは夫に先立たれ、アメリカに渡った一人娘ともほとんど交渉がない。住み込みのフローレンスというメイド以外に話し相手をもたない孤独な生活を送っている。自らの余命を自覚したこの日、彼女の生活に一人の闖入者が現れる。それは後にファーカイルという名を与えられる浮浪者、カレンの家のガレージ脇に段ボールを持ち込んだホームレスの男性である。悪臭を放ち、人間としての品位も尊厳も欠いた浮浪者をカレンは最初拒絶するが、次第にファーカイルは家の中に入り込み、奇妙な共同生活が始まる。やがてフローレンスの息子ベキとその友人(彼の本名は最後まで明らかにされない)も加わる。彼らが住む黒人居住区では暴動が発生し、学校も閉鎖されたらしいことが暗示される。カレンはベキと少年に不穏な印象を抱き、実際二人はファーカイルに暴行を加える。しかし彼らの間に加害と被害の一方的な関係がある訳ではない。物語が進行するにつれ、加害者が被害者となる暗澹たる暴力の連鎖が浮かび上がる。黒人居住区で何が起きているか、明確に語られることはない。しかし警察国家というかたちをとった暴力装置、アパルトヘイトは次第にカレンの周りにも触手を伸ばし、登場人物たちは次々と犬のように殺されていく。
 かつてカレンは学校でラテン語を教えていた。登場する人物の中で唯一彼女だけが知性を感じさせる人物である。しかしアドルノを引くまでもなく、そのような教養もアパルトヘイトという暴力の前では無力である。病の痛みを押えてトルストイを読み、「平均律クラヴィーア」を弾く姿は痛々しささえ感じさせる。彼女は決して状況から逃げることなく、冷厳たる現実に直面する。彼女はファーカイルに仕事を与え、施しではなく労働の対価として金銭を与える。警察の暴力に対しては毅然として抗議し、黒人の自警団に対して正義を説く。彼女の娘がアメリカに渡ったのは南アフリカという国家に絶望したからである。カレンも同様にこの警察国家へ絶望しているが、彼女は娘の亡命を容認しつつも、自らはそこに留まる。さらに末期癌の宣告を受けた患者であれば当然許されるであろう病院への入院と介助も拒絶し、荒れ果てた家に浮浪者とともに留まることを選ぶ。
 私はアパルトヘイトについてはほとんど何も知らない。しかし人種差別を合法化する政策がいかに人心を荒廃させるか、この小説の中で次々に語られる寒々しい情景がその暗喩であることは容易に想像がつく。このような制度は警察や軍といった暴力によってしか維持されえないが、それはほんの10年程前まで存続していたのだ。私はあらためていかに多くの事実が私たちの目から隠されているかということを知る。同様に私たちはボスニア・ヘルツェゴビナについて、ジェニンについて、ルワンダについて何を知っているだろうか。
浮浪者ファーカイルの登場とともにこの小説は始まる。次に述べるとおり、彼はこの小説の要となる存在である。老女と浮浪者は共同生活を送り、時に必要に迫られて一緒にドライブに出かけ、時に老女の介護らしき世話をすることもある。しかしこのような殺伐とした世界に生きる二人が安易なヒューマニズムとは無縁であることも明らかだ。彼らは最後の場面で同衾さえする。しかしそれは情愛やセックスからは程遠い。「あの人が私を両腕に抱いて、息が私から一気に出ていくように渾身の力で抱きしめた。その抱擁からはどんな温もりも感じられなかった。」という巻末の一文のなんという酷薄。接近とか理解といった予定調和を突き崩し、物語は読者を置き去りにする。
 しかしそれにも関わらず、私はこの小説に希望の兆しを認める。それは小説の内容ではなく、形式と関わっている。この小説=手記が誰に向けて書かれているかは冒頭の一文から明らかだ。「ガレージのわきに細い通路があるのを、おぼえているかしら、あなたがときどき友だちと遊んでいたところ。」この小説は遠いアメリカにいる娘にあてた手紙である。むろん書簡体小説は無数に存在するから、驚くに値しない。私たちが想起すべきは、手紙とは常に何者かによって届けられるという事実である。どのような内容が記されていようと、手紙は配達されなければ決して読まれることはない。手紙を届ける役割をカレンはファーカイルに託す。むろんアメリカまで届けろというのではない。あらかじめ切手の貼られた手紙を郵便局のカウンターに置くだけでよい。冒頭でカレンが死病に冒されていることが明かされるから、おそらくそれは老女の死後になされることとなろう。そして、いわば娘への遺言を託す相手として、ファーカイルほど信頼から遠い存在もいないだろう。この印象は作品を読み通しても変わることはない。しかし私たちが今この小説を読んでいるということは言い換えるならば、手紙が確かに届けられたということの証ではないだろうか。書くことへの信頼とそれが未来の読者に届けられることへの信頼、二つの信頼を前提として初めてこの小説は成り立つ。
 思うに私たちが暴力に抗う唯一の方法は、それを記憶し、伝えることではなかろうか。おそらく文学の一つの起源はこの点にある。今まであまり顧みられたことのない点であるが、書くことと同様にいかにして伝えるかという問いは文学にとって重要な課題であったはずだ。『オデュッセイアー』における吟遊詩人から18世紀フランスにおける書簡体小説の隆盛、昨今のケータイ小説にいたるまで、何が書き手と読み手の間に介在するかという問題はもっと深く思考されてよい。インターネットが四通八達する今日、私たちは自分が書いたものが何の障害もなく読み手に届けられることを疑うことがない。しかし果たしてそうであろうか。小説の中でカレンは自らの手記を瓶の中に入れられて波間を漂うメッセージに準える。文学の本質に関わるまことに明敏な洞察である。小説を書くことはそのような不可能への挑戦であり、ある意味であなたが読んでいるこのブログもまた同様の不可能な通信なのである。
 さほど遠くない将来、「存在してはならない場所」から持ち出された四枚の写真をめぐって、私は伝えることの不可能性についてもう一度このブログで論じることになるだろう。
by gravity97 | 2008-10-14 11:44 | 海外文学 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 081013

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by gravity97 | 2008-10-13 21:34 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

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 川村記念美術館でモーリス・ルイスの回顧展が開かれている。単独の回顧展としては1986年の滋賀県立近代美術館での展示以来、22年ぶりとなる。展示は前回が16点、今回が15点とほぼ同数の絵画で構成されている。ルイスの絵画は多く縦長の「ストライプ」を除いてほとんどが3メートルを越す大作なので、美術館の空間といえどもこの点数が限界ということであろう。
 滋賀で回顧展が開かれた頃はまだ国内の美術館にルイスの作品は収蔵されておらず、この意味でも画期的な展観であった。点数こそほとんど同じであるが、今回の出品作には一つの大きな違いがある。滋賀で展示された作品は全てアンドレ・エメリック・ギャラリーから出品されていたが、今回の出品作は3点を除いて、国内の美術館と画廊のコレクションから選ばれている。つまりこの展覧会は20年の間に蓄積された国内のルイスのコレクションの厚みを示す内容といってよい。この厚みは近年も増しており、最近も私はある美術館を訪ねた折にまもなく収集委員会に諮られるというルイスの「ヴェイル」を収蔵庫で見る機会を得た。その作品はイメージが縦向きに分割され、ルイスのカタログ・レゾネを参照しても十数点しか作例のない「スプリット・ヴェイル」の中の一点であった。しかしこの作品はむしろ例外であって、日本の美術館がルイスの作品を収集する場合、「ヴェイル」もしくは「アンファールッド」の典型的な作品を求めるだろうから(「表現性」に乏しい「ストライプ」は日本の美術館の感性では理解されにくい)結果的にコレクションの層は厚くなったとしても、同じような作品が収集されがちである。この意味で大半が国内コレクションによって構成された本展の限界はおのずから明らかである。22年前の展示は私がルイスをまとめて見る初めての体験であったことを差し引いて考えても今回より明らかにヴァリエーションに富み、ルイスの展開を通覧するうえで充実した内容であった。
 しかしヴァリエーションや展開とかいった概念にこそルイスが疑問を投げかけたことはいうまでもない。ルイスは短い生涯の中で600点以上の作品を残したが、その大半はヴェイル、アンファールッド、ストライプの三つのタイプに分類される。作家の意に沿わない作品をほとんど破棄したため、作品の展開は移行期を伴わず劇的である。そもそもそれは「展開」なのであろうか。ルイスの絵画はフォーマリズム美術の頂点に位置するにも関わらず、実は「近代絵画」、「カタログ・レゾネ」、「美術史学」といったモダニズムのディシプリン(規律/訓練)を内側から破壊するような過激さをはらんでいる。しかしこの問題はブログの中で論じるにはあまりにも大きい。ひとまず展覧会の所感を記そう。
 86年の回顧展以後、私は国内外で多くのルイスの作品を見てきた。しかし最初に述べたとおり、ルイスの絵画は巨大であるため、一点、多くとも二点程度が展示してある場合がほとんどで、作品を比較することは困難であった。これに対して、7点のヴェイル、3点のアンファールッド、3点のストライプで構成された今回の展示を通覧する時、私たちは同じタイプの作品、端的に国内の美術館に所蔵されたヴェイルを比較することができる。今回出品されたヴェイルは多くが内部を二つの垂直線で三分割されたトリアディック・ヴィイルであり、相互を比較する時、質的な格差も明らかとなる。私の印象では出品作中、滋賀県立近代美術館所蔵の《ダレット・ペー》が圧倒的に優れている。比較的均質化された画面ながら、ステイニングが相互に透過する様子が明瞭に知覚され、最上部において混色される以前のマグナ絵具の発色を確認することができる。また画面右側にはところどころ色彩の粒子が垂下する様子が認められ、これはまさに光の粒子とでも呼ぶべき絶妙の効果をもたらしている。このような作品はあまり類例がない。海外で多くのルイスを見てきた者として私はかかる判断にある程度自信があるのだが、興味深いことにカタログで見る限り、このような特質を認識することはきわめて困難である。私たちは図版を介して作品を理解することに慣れているが、カラーフィールド・ペインティングにおいて実作と図版の懸隔はことに著しい。ルイスの作品は実作を眼前としない限り評価することが不可能であることを私はあらためて実感した。しかもこのような評価は同じタイプの作品を比較することによって初めて可能となるから、自らの目によってこのような判定を下すためにはるばる佐倉まで赴くことの意義は十分にあるだろう。
 アンファールッドは3点とも国内からの出品であり、既に見ていた。今さらながらこれらは異例きわまりない絵画である。画面の中央に向かう時、そこに広がるのは地塗りさえされていないロウ・カンヴァスであり、特に画面に近接する時、両端のイメージさえほとんど視界に入ることはない。これほど大胆なイメージは絵画史上、例をみないように感じる。今回の展示で工夫が感じられたのはルイスのアトリエの再現である。作家のアトリエの再現といえば、最近では98年のニューヨーク近代美術館におけるジャクソン・ポロックの回顧展に先例がある。近代美術館に足を運び、再現(というより移築)されたアトリエに内部に入ると床に飛び散った生々しい塗料の跡とともにあらためてポロックの絵画のスケールが感得されたことが想起される。これに対して今回はまことに形式的な手法が用いられ、アトリエのスケールのみが再現されたニュートラルな小部屋が会場内に設えられていた。あらためて驚く。このような狭い空間では作品を一望どころかアンファールッドにいたってはステイニングの広がりを確認することさえ困難ではないか。作家の死後、ほとんどがロール状に巻かれた状態で遺されていた多くの作品は批評家クレメント・グリーンバーグの指示に従って裁断された。作品の軸性や範囲についてこれまで何度か疑問が呈されたことはよく知られている。私はグリーンバーグの決定自体はある程度の妥当性を有していると思うが、作家が作品の最終的なイメージに確信があったとは思えない。ヴェイルの方向、ストライプの裁断範囲について、作家自身の判断の揺れはこの点を傍証している。作品の売買、あるいは展覧会での展示という、いわば商業的、資本主義的な要請によってルイスの作品が現在あるような画一的なイメージへと収斂したとすれば、モダニズム美術と資本主義の関係に一つの問題を提起するように感じる。
 しかし実際にルイスの作品を見る体験はこのような小難しい議論とは無関係である。今回の展示を見て、私はあらためてルイスが光の画家であるという思いを強くした。なんら具体的なイメージが描かれていないにも関わらず、ヴェイルの錯綜するステイニングの中から、アンファールッドの滴りの間から、充溢する光が感受される。時代も作風も全く異なるが、私は光という主題に沿って、フェルメール、モネ、ルイスという三人の画家の名を連ねたいという誘惑に駆られる。彼らの絵画はいずれも光と関わり、おそらく人間が創造した絵画の中で最も美しい。瞬間性、変化や移行、あるいは持続性。彼らの絵画が常に時間との関係において語られることもまた暗示的ではないか。
 最後にカタログについて記す。今回の展覧会は「秘密の色層」というサブタイトルが付され、メインテクストもルイスの技法に関わる内容であった。ルイスに関しては技法の問題が議論の一つの中心となっていることは否定しない。しかし日本で20余年ぶりの展覧会である。当然、ルイスの画業全般に関する概論的なテクストがあってよかったのではないか。そもそも今回の展覧会においてルイスの技法に焦点をあてる必然性は特に感じられない。ルイスを論じることの困難は十分に理解するが、困難を回避するために展覧会のテーマが設定されたとすれば、美術館の姿勢としてなんとも安易に感じられる。
by gravity97 | 2008-10-07 22:23 | 展覧会 | Comments(0)