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Living Well Is the Best Revenge

b0138838_9255054.jpg『オリエンタリズム』を持ち出すまでもなく、私たちはイスラム圏の人たちに対して、きわめてステレオタイプな理解しか持ち合わせていない。テロリスト、大富豪、遊牧民。映画や小説で増幅された貧困なイメージは多くネガティヴな印象を与える。ましてや私たちは「パレスチナ人」の表象としてどのようなイメージを抱くことができるだろうか。
 ガッサーン・カナファーニーは1936年、イギリス委任統治下のパレスチナに生まれ、第一次中東戦争の際に故郷を追われ、レバノンそしてシリアで難民生活を送る。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)のスポークスマンとして活動し、機関紙の編集に携わる一方でいくつかの小説を発表した。しかしイスラエルの秘密警察の手によってわずか36歳の時、ベイルートで姪とともに爆殺されるという悲劇的な最期を遂げた。このあたりの事情はスピルバーグの『ミュンヘン』を想起すればよかろう。カナファーニーの作品は近年、岡真理の手で翻訳され『前夜』という雑誌に数回にわたって掲出された。私も岡真理の著書をとおしてこの作家の主著が70年代に日本でも翻訳されていたことを知った。
 この本には表題となった比較的長い二編の小説と短編五編、あわせて七編の小説が収められている。いずれもパレスチナという土地を強く反映した研ぎすまされた刃物のような小説である。ここでは表題の二編の小説について内容にも踏み込んで論じる。
 「太陽の男たち」はイラクからクウェートへの密入国を主題としている。いうまでもなくこの移動は貧富の格差によるものである。バブル期の東京でも中東からの越境はみられたし、今日もメキシコからアメリカへ、トルコからドイツへの越境は続いている。しかしイラクからクウェートへ、苛酷な炎天下、砂漠の中での禁じられた越境は文字通り生命の危険を伴う。登場人物は彼らをめぐる挿話からパレスチナ難民であることが了解される。後で述べるとおり、1948年、イスラエル軍によって父祖の地から追放された彼らにとって貧困から逃れる数少ない手段がクウェートで出稼ぎし、故郷に送金することであった。国境付近には密入国を請け負ういかがわしいブローカーが暗躍し、密入国者たちのなけなしの金を奪おうとする。様々の「パレスチナ的背景」を抱えた三人の男が「竹竿親父」なる請負人の斡旋でクウェートへの集団密入国を図る。その方法とは空の給水車のタンクに潜んで二つの検問を通り過ごすというものであった。炎天下に鉄のタンクの中に潜むことは自殺行為である。しかし検問の書類審査の数分の間だけ耐えればクウェートの地を踏めると説得された彼らがほかに選ぶ道はない。最初の検問を息も絶え絶えに乗り切った三人であったが、二番目の検問で運転手が検問の職員の無駄話につきあわされているわずか数分を耐えることができずタンクの中で絶命する。物語は彼らの死体をごみ集積所に捨てた運転手が「なぜタンクの壁を中から叩かなかったのか」と絶叫するシーンで終わる。
 なんとも救いのない物語である。ブローカーとの間に生き馬の目を抜くようなやりとりがあるとはいえ、密入国者たちが悶死したのは何者かの悪意のゆえではない。単に検問所で運転手が数分の間拘束されたからであり、検問つまり国境の存在が罪なき者たちの死に関与している。国家や国境、自然には存在しない擬制がいともたやすく人を圧殺するという主題をこれほどむきだしに提示した物語は例がないだろう。カナファーニーがこれらの問題に敏感であるのはいうまでもなく彼自身が国籍を剥奪され、捏造された国境の外へと放逐された身であるからだ。自らの過失とも呼べぬ過失によって何人もの男を死に至らしめた運転手が物語の最後で発する「なぜタンクの壁を叩かなかったのか」という叫びは何かの寓意であろうが、それが何の寓意か、私はまだわからずにいる。
 1948年、パレスチナのデイルヤーシンという村でイスラエル軍と民兵による老人や子供も含めた住民の大量虐殺事件が発生する。恐慌に陥った多くのパレスチナ人はシリアやレバノンに一時避難する。彼らはこの退避は一時にすぎず、まもなく帰還すると考え、家も家財道具もそのままに脱出したが、彼らの土地はイスラエルに占領され、彼らが居住した土地には世界各地から帰還したユダヤ人が入植する。イスラエル建国と密接に関わるこの事件はナクバ(大災厄)と呼ばれ、先述のとおり12歳のカナファーニーにとって原体験とも呼ぶべき出来事となった。かつてナチス・ドイツはユダヤ人強制収用所を完全に破壊し、跡地を整地してホロコーストの痕跡を抹消しようとした。(ちなみにかかる暴挙は近年、イスラエルがパレスチナの難民キャンプをブルドーザーで建物ごと破壊する情景と完璧な相似形をなしている)その数年後、今度はシオニストが別のかたちで事件の痕跡を消し去ろうとする。生活の痕跡を抹消するのではなく、別の入植者を住まわせることによって元の入植者の生活の痕跡を消す試み。ナチス・ドイツによる記憶の絶滅が書字を全て削り取ることによってなされたとすれば、シオニストたちが試みたのは書字の上に別の字を重ね書きして本来の字を読めなくする、いわばパランプセストによる記憶の抹消である。かかる暴力が文学の主題にならぬはずがあろうか。
 「ハイファに戻って」はまさにこの問題を扱っている。ハイファとは地中海沿岸の都市の名。主人公はかつてこの街に住んでいたが、ナクバとそれに続くイスラエル軍侵攻のため、とるものもとりあえず街から逃れる。その際に主人公と妻は乳飲み子だった長男を置き去りにせざるをえなかった。二人は20年ぶりにハイファを再訪する。むろん住民も地名も変わってしまった街で生活することはできない。二人は自分たちが住んでいた家をもう一度訪れたいというささやかな希望を胸にハイファに向かう。彼らの家は残っていたが、そこにはイタリアから来たというユダヤ人の老女が暮らし、ずっと二人が訪れるのを待っていたと述べる。老女は父をアウシュビッツで亡くし、夫も中東戦争で戦死したらしいことが暗示される。彼女はあかたも絶滅収容所に始まる20世紀の暴力の歴史を一身にまとうかのようである。ゆえなくして故郷を追われた二人と意図せず彼らの家を占拠した老女との緊張をはらんだ対話はこの小説の白眉である。そしてさらに驚くべき事実が明らかとなる。彼らが残した生後五ヶ月の男の子は偶然にも老女に引き取られ、息子として育てられていた。ユダヤ人として育てられたパレスチナ人、ハルドゥンとドウフという二つの名をもつ息子はいずれを両親として認識するか。関連するいくつかの挿話を交えながら、再会の時が到来する。あろうことか、彼らの息子は実の両親を否定し、自分がイスラエルに帰属し、将来イスラエル国軍に参加するつもりであることを明言する。実の両親が拒絶されるというエピソードを、彼の弟、つまり主人公たちの次男がフェダーインというパレスチナの武装勢力に参加を表明し、主人公がそれを許さなかったという挿話の傍らに置く時、政治や国境が家族を、兄弟を引き裂いていく非情さの自覚は実際にナクバを経験したカナファーニーならではであろう。
 「ハイファに戻って」の主人公の名はサイードという。なんという偶然であろうか。私はこの小説に先んじてもう一人のパレスチナ人、もう一人のサイードがやはり45年ぶりに生地を訪ねた記録を読んでいた。1991年、白血病の宣告を受けたエドワード・サイードは翌92年、家族を伴って自らの生地エルサレムを再訪する。パレスチナ出身でアメリカを代表する知識人であるサイードの帰還は大きな反響を呼ぶ。サイードが生地を離れた理由や再訪のエピソードは「ハイファに戻って」ほど劇的ではない。しかし自らがかつて居住した家がそのまま残され、しかしそこには別の者が居住しているという同じ不条理をエドワード・サイードも味わう。事実は小説より奇なりというが、私にとって「パレスチナ/イスラエルに帰る」を読んだ後で「ハイファに戻って」を読む体験は、事実を小説で追認するがごとき奇妙な感覚であった。
先ほど私はナチスとイスラエルが行なった二通りの痕跡の抹消について述べた。一方では証拠と証人を完全に破壊し、抹殺することによって事件の痕跡を抹消する。他方では事件の上に別の事件を重ね書きして、本来の事件を読み取りがたくする。痕跡の抹消と痕跡の過剰。この二つの暴力がいずれもユダヤ人問題と関わっていることは暗示的ではないか。私はこの主題をさらにロバート・ラウシェンバーグのドローイング、そしてジャック・デリダの一連の著作へと押し広げたい誘惑に駆られるが、それはまた別の機会としよう。
カナファーニーを含む「現代アラブ小説全集」は河出書房新社から1978年に初版が刊行され、88年に新装版が刊行されている。現在ではインターネットでも入手困難であるが、大きな図書館に行けば閲覧可能であろう。いくつかの小説については最初に触れた岡真理がフェミニズムやコロニアリズムの視点なども絡めて興味深い論考を発表しており、ほかの作家についても読んでみたいと思う。決して部数が見込める出版ではないが、このような小説をきちんと翻訳して出版することは最初に述べた、他者の表象という問題と深く関わり、読書という行為の本質と関わっている。最近では感じることのまれな出版社の良心をうかがうことができる。
by gravity97 | 2008-07-28 09:26 | 海外文学 | Comments(1)

貴志祐介『新世界より』

 
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貴志佑介は寡作ながら、ジャンルを横断する多様で上質のエンターテインメントを発表してきた。最近はミステリーが多かったが、今回は初めてのSF、しかも上下巻に分かれた大作である。発表からやや遅れて通読したが、期待を裏切られることのない佳作であった。私は貴志の本領はホラーにあると思う。保険金殺人を絡めた直球のサイコ・ホラー『黒い家』、一見ばらばらないくつものエピソードの中から未曾有の恐怖が輪郭を現す傑作『天使の囀り』、あるいはゲーム感覚のサスペンス・ホラー『クリムゾンの迷宮』、初期の長編は全く異なったテイストながら、いずれも高い完成度を示していた。SFという体裁をとった本書にも作家のホラー嗜好が色濃く反映されている。
 たわわに穀物が実った平原をあしらった装丁と牧歌的なタイトル。貴志らしからぬ安穏とした印象への異和感から読むのを控えていたが、これもまたトリックであった。本書で描かれるのは貴志の作品でも前例のない阿鼻叫喚の地獄絵である。「新世界より」とはドヴォルザークの交響曲第九番の呼称でもあり、この小説の中でも第二楽章が象徴的に引用される場面がある。同時に「新世界」とは逆説的なコノテーションも有している。ハックスレーの「素晴らしい新世界」やウェルズの「来るべき世界」と同様にこの小説は実はグロテスクなディストピア小説である。以下、若干内容にも立ち入りながら論じる。
 この小説にはSFでおなじみのいくつもの発想が認められる。舞台は我々の文明が崩壊した後の遠い未来、おそらく関東平野周辺であり、主人公は渡辺早季というローティーンの少女。この物語は彼女が残した手記という体裁をとる。彼女が属する文明は私たちのそれとは微妙に異なり、そこに繁茂する動植物は私たちにとって全く未知のものである。次々に登場する奇怪な生物はこの小説の主題と密接に関係する。このようなテーマからはブライアン・オールディスの『地球の長い午後』、日本であれば山田正紀の『宝石泥棒』や椎名誠の一連の作品が直ちに連想されよう。実際、物語の終盤で崩壊した東京の廃墟に赴いた主人公らは地獄から来たような不気味で危険な生物と次々に遭遇する。おぞましい生物、特に多足類や線形動物のミュータントがグロテスクに活写される様は『天使の囀り』の恐怖の正体を想起させ、この作家の面目躍如たるものがある。中でも重要な役割を果たすのはバケネズミという子供大の家畜である。この動物は高い知能をもつが、人間に完全に支配されており、蟻や蜂のような社会性をもつ。つまり多くのバケネズミは動物と昆虫の中間のような異形の巨大な女王に仕え、役割も分業化されている。
 物語は主人公たちのグループの学校生活の描写から始まる。一見なごやかな情景の中にすぐさま不気味な影がさす。最初に「悪鬼」と「業魔」という怪物をめぐる教訓じみた短い逸話が語られる。また不浄猫、風船犬といった奇怪な生物、あるいは学校の中庭に配された不気味な建物をめぐる都市怪談じみた話が友人たちの口から語られる。これらのエピソードはいずれも重要な伏線として物語の後段以降でその意味が明らかになる。このあたりの構成の妙は貴志の独擅場といってよい。主人公たちが住む世界はそれぞれに孤立した町から成り立ち、町の外へ出ることは禁じられている。この世界を統べるのは呪力という超能力である。主人公たちもある年齢に達すると、あたかも少女が初潮を迎えるがごとくこの能力に目覚め、以後の教育はこのような超能力を使いこなす訓練が中心になる。読み進むにつれ、彼らの世界の中心に呪力が存在することが次第に明らかとなる。例えば町の外側に生息する多くの害獣や有毒な植物が内部へと侵入しないのは呪力によって結界が張られているからであり、多くの労役は呪力によって果たされる。一見、安全で苦役と無縁の世界は呪力という天恵によって保証されている。
 訓練の一環として結界の外、利根川水系をめぐるキャンプに出かけた主人公たちのグループは、思いがけず「生きている図書館」を捕獲し、呪力によって統制された世界が実は暗澹たる殺戮と暴力の上に築かれたことを知る。展開がいささか強引な印象も受けるが、ディック風のガジェットの使い方などなかなか巧妙だ。この後、主人公たちはバケネズミ間の抗争に巻き込まれ、いくつもの危機を脱して町に戻る。しかし自分たちの世界が暴力に囲繞され、きわめて不安定な基盤のうえに立っていることを知ってしまった彼らはもはや無垢ではない。様々なエピソードを通じて、平和で安定したかに見える社会が不都合な記憶の改変を伴う選別と排除、管理と統制によって支配されたディストピアであることが次第に明らかになる。そして彼らのグループもこのような排除や管理と無関係ではありえない。上巻の終わりで彼らに最初の残酷なカタストロフが訪れる。さらに下巻に進むと物語は速度を増し、冒頭で予告された世界の終末とも呼ぶべき大破局が主人公の町を襲う。詳細についてはここでは触れないが、よく練られたプロットの背景にあるのは呪力という超能力を獲得したことによって(その時期は現在からさほど遠くない近未来として想定されている)人類が暗黒時代へと逆行してしまうという人間性に対する不信、歴史へのペシミズムである。いうまでもなく人間が新しく得た知見や能力を最終的に他者への暴力として行使した事例は歴史に事欠かず、私たちは「呪力」というこの小説のキーワードをたやすく核兵器や無差別爆撃、あるいは防疫技術といった言葉に置き換えたうえで20世紀の歴史を参照することもできよう。小説の中に呪力を他者の攻撃に使った際には自らが命を落とす「愧死機構」なる奇怪な概念が登場するが、これなどあたかも核抑止理論のようである。この小説において人間の破滅は呪力という力を恃んで、他の生命に対して傲慢となった者への罰でもある。同時多発テロの直後、やはり当時話題となっていた狂牛病の問題と関連づけて中沢新一がいずれの事件の背後にも圧倒的な力の不均衡を指摘していた。つまり前者はアメリカという大国とアフガニスタンやパキスタンという最貧国、後者は人間と食肉となるために飼育される牛の間の力の不均衡がある一線を越えてしまったためにもたらされた災厄であるという見解である。この小説の中の無残な殺戮場面も力の不均衡がもたらす自滅的な暴力を暗示しているかのようだ。
小難しい話はやめておこう。周到な伏線と意味ありげな先説法が散りばめられたストーリーはまさに巻措く能わずという印象である。ただし呪力を用いた殺戮が延々と描かれる場面は相当に血なまぐさく、人によって好悪が分かれるところだろう。ローティーンから青年期にいたる主人公たちの成長が描かれるが、ビルドゥングスロマンと呼ぶにはあまりに殺伐としている。物語の最後で大きな秘密が開示される。あえてここでは記さないが、今述べたような主題とも深く関わり、物語全体を引き締める見事な謎解きである。サイバーパンク以降、抽象化と専門化が進み、読み進むのにさえ難渋し、登場人物にほとんど感情移入できないSFが多い中で、巧みなプロットで読ませる本書はむしろ異例の印象を与える。日本のSF界にとっても大きな収穫といえるのではなかろうか。
 
by gravity97 | 2008-07-22 21:27 | エンターテインメント | Comments(0)

 b0138838_21273734.jpg『オン・ザ・ロード』ではなく『ザ・ロード』。こちらには希望がない。
 放射能汚染についての記述がないから、核戦争による破滅ではなかろう。何かの理由によって文明が崩壊した後、気温が下がり、太陽の光も閉ざされた終末の世界を南へと歩く父と息子の物語である。舞台はアメリカと推測されるが、二人は常に「男」と「少年」と呼ばれ、物語中に固有名詞は皆無といってよい。食糧と必需品をカートに積み、道なき道を南下する二人を取り巻くのは悪意に満ちた世界である。生き残った者たちは互いに貪りあい、人肉食も横行している。男と少年は「火」を運ぶ者として、不要な殺人は行なわない、食人を行なわないことを誓い合う。しかし「善き者」でさえも自らの安全は自らの手で確保しなければならない。道中で二人は何人かの生存者と遭遇するが、相手が弱者の場合はそのまま見捨て、危険な相手の場合は身を隠し、やり過ごす。実際に少年をナイフで脅した武装集団の一員を男は拳銃で射殺する。二人は廃屋や廃墟を捜して、食糧や有用な品が残されていないかを捜す。むろんそのような僥倖はほとんどありえず、二人は飢えと寒さ、病気に苛まれながら過酷な道行きを続ける。季節はおそらく秋の終わりであり、冬を越すために彼らは南へと向かうが、確固たる目的地がある訳でもない。物語の終盤近く、二人はひとまず目指していた海岸線に達するが、暗く冷たく広がる渚にはいかなる光明もない。
 まずはスティーヴ・エリクソンを彷彿とさせる圧倒的な幻視力に感服した。ナウシカからマッドマックスまで、アニメや映画をとおして私たちは世界が破滅した後の物語になじんできた。しかし秩序も正義も理性も失われた世界をここまで仮借なく描いた例を私は知らない。もちろんこのようなロード・ムーヴィーならぬロード・ノヴェルは多くの先例がある。世界が壊滅した後に舞台を設定した小説として私が直ちに連想したのはスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』であり、やはりキングの新作『セル』も息子を捜す父が何人かの同行者とともにゾンビが跳梁する終末以後の世界を旅する話であった。寓意性の強いキングはともかく、先行する類似した主題の小説においては世界がなぜ破滅したのかという点が物語の根幹に関わり、登場人物はなおも待ち受ける何らかの希望に向かって移動する。これに対してマッカーシーの場合、世界が今破滅してあることへの説明は全くない。冒頭から私たちは何の説明もないままにこの世の終わりを彷徨う父と子に同行することを強いられる。この小説は過去との断絶、未来への展望の欠落においてきわめて独自である。少年がこのような崩壊の後に誕生したらしいこと、少年の母あるいは男の妻は彼らを見捨てて姿を消したらしいことが暗示されたパッセージがあるが、そのほかに過去に関する記述はない。さらに文体も独特である。章立てはなく、比較的短い無数のパラグラフが間隔をあけて淡々と続く。地の文の中に時折会話文が挿入されるが、いうまでもなくそのほとんどは父と子の会話である。
 かかる内容と文体が意味するものは何か。私は物語が常に現在に留め置かれることではないかと考える。今述べたとおり、この小説は神の視点で語られているにも関わらず、時間的なぶれがほとんどない。あまりにも過酷な現実が現在から視点を移すことを許さないかのようである。語り手の視線は常に二人の上に留められている。二人を介すことなくいかなる情報ももたらされることはない。きわめてストイックな説話構造を介して、読み手たる私たちは登場人物の二人に限りなく同化していく。この小説を読む際の異様な切迫感、焦燥感もこの点に由来する。通常の小説であれば、私たちは小説を読む前から登場人物をめぐる様々な情報を得ており、物語の行方、登場人物たちの未来についてもある程度、予想することが可能である。これに対して、『ザ・ロード』において私たちは困難な旅を続ける二人と同じ状況に置かれる。二人は偶然に手つかずの食糧貯蔵庫を発見し、生活用品や衣服も手に入れる。しかし彼らの唯一の行動指針は移動を続けることであり、カートに詰め込めるだけの食糧と日用品を積み込むと彼らは追われるように旅立つ。迫り来る冬から逃れるためとはいえ、かかる設定はケルアック同様、移動こそが作品の主題である点を暗示している。読み手は移動する登場人物と周囲との関係をリアルタイムに把握することを強いられる。文学史上類例のない切迫した物語の先行例として私は例えば『野生の棕櫚』におけるフォークナーを連想した。フォークナー、ケルアックそしてマッカーシー。かかる特質をアメリカという土地と関連づけることは強引だろうか。かつて宮川淳は「記憶と現在」というエッセーの中で、アクション・ペインティングからミニマル・アートにいたる戦後アメリカ美術の系譜を「プロテスタンティズム」と「現在性」という視点から説得的に分析した。宮川によれば記憶と歴史にとらわれたヨーロッパの近代美術に対して、記憶を否定し、現在を無限に反復するアメリカの現代美術は広漠たる空間の国において初めて可能な表現であった。同様の対照は文学においても指摘することが可能ではないか。記憶と希望のいずれからも切断され、ひたすら現在に直面する父と子の道行きは、一片のマドレーヌから母を追想する甘美な物語の対極にある。
by gravity97 | 2008-07-17 21:28 | 海外文学 | Comments(0)

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by gravity97 | 2008-07-14 21:52 | BOOKSHELF | Comments(0)

平野啓一郎『決壊』

 
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『新潮』に長期連載されていたとはいえ、平野としては『葬送』以来、6年ぶりの長編である。しかし優雅な芸術家小説『葬送』から一転し、凄惨きわまりない1500枚の物語には一片の救いもない。凶悪事件が頻発する昨今、この小説は例えば先般の秋葉原での無差別殺傷、続発する遺体損壊事件、インターネットを介した性犯罪などと関連づけて論じられることとなろう。しかし私たちが目を向けるべきは表面的な類似ではなく、これらの事件とこの小説が何と同期しているかという点である。
 決壊とは堤防や堤が崩れることであり、これまで堅く守られていた秩序が崩壊したことの比喩であろう。確かに昨今、日本という社会を少なくとも第二次大戦後、支えていた常識やモラルがいともたやすく突き崩されつつある不気味な感触を私たちは感じる。それは戦争や天災、テロといった目に見える崩壊ではなく、むしろ私たちの内部が蝕まれつつある予感である。今挙げた事件はその兆候であり、平野は小説家としての想像力を駆使して、かかる決壊の認識を一つの陰惨な物語として提示したといえるかもしれない。この物語は北九州、京都、東京、鳥取などの異なった都市を舞台として同時に進行する。一見ばらばらの物語を結びつけるのはインターネットであり、かかる「決壊」がインターネットの普及と密接に関わっていることを暗示している。平野はインターネットと親和した世代に属し、今までも小説の主要な小道具として携帯電話やPCを用いていた。最近の中篇『顔のない裸体たち』においてもインターネットによって媒介された性と暴力が主題とされていたことが想起されよう。平野は梅田望夫と『ウェブ人間論』という共著も著している。正直に言って私はこの対談に異和感を覚えた。インターネットで世界は薔薇色、ネットの中は善人ばかりといった梅田のオプティミズムはそれなりの見識であるから特に批判するつもりはないが、少なくとも文学は人間の暗黒面に関わるものであるはずだ。梅田の話に迎合していては作家として資質が問われるのではないかと考えていたところ、思いがけずこの暗澹たる長編の登場である。平野の愛読者としては逆に安堵した思いすらする。
 新刊でもあり、内容に深く立ち入ることは控えるが、いくつかの物語が錯綜しつつ進行する。一方で登場人物の人格の崩壊や家庭の崩壊といったいわば内部からの崩壊が描かれる。かかる主題は文学史にあってさほど新奇なものではない。これに対してこの小説がかくもセンセーショナルであるのは、インターネットを経由して外部からもたらされる未知の暴力が生々しく記されているからではなかろうか。例えば登場人物の一人はクラスメイトに対する陰湿な性的中傷を投稿サイトに書き込み、その報復として凄惨なリンチを受ける。登場人物の一人が「悪魔」を名乗る人物に殺害されることになったきっかけは彼が開設したブログの記事にあった。殺人事件の被害者と加害者のいずれに対しても心ない誹謗や中傷が投げかけられるが、多くの場合、それはネットへの書き込みというかたちをとり、あるいはネットを経由して実体化される。興味深い点はこれらの暴力が作品の形式、つまり文体としても実現されている点だ。かねてより私はインターネット上の掲示板への匿名の書き込みについて、その内容以前に文体、つまり単語の変換ミスの意図的な使用、絵文字や仲間内だけの特殊で野卑な言葉の多用といった文章の形式に強い嫌悪を感じていたが、この小説においては地の文の中にこれらの醜悪な文体が意図的に幾度となく挿入されることによって、私たちの日常的言語の中にインターネットを介した「おぞましい言語」が増殖しつつある状況が視覚化されている。これはまことに不気味な兆候である。知られているとおり、私たちは言語を自らの力で習得するのではなく、既に成立している言語というシステムの中に事後的に挿入されることによって、その体系に自身を馴致する。今後、インターネットを一つの参証源として言語のネットワークに囲い込まれる世代はいかなる文体を獲得することとなるだろうか。このほかにもこの小説の中には週刊誌の記事、TVでのインタビューやバラエティ番組でのタレントの発言といった私たちが日常でなじんだ多く匿名的な言葉が次々にコラージュされる。いずれも過剰な攻撃性において共通する。私は現在の日本を特徴づけるのは「犠牲者を非難する言説」の蔓延であると考える。社会的弱者や犯罪被害者、いわれなき差別の対象、本来ならば社会システムの犠牲者である弱者を逆に鞭打つ異常な言説はインターネットをはじめ、今挙げたようなメディアの中で増幅され、生きづらい社会を現出させている。平野はこれまでもテキストの視覚的な意味に関して自覚的であったが、コラージュが多用され、様々なフォントの活字が使用された独特の文体は、今述べた作品の主題と密接に関係している。
 物語の中に登場人物の一人が夫のブログを夫に知らせることなく盗み読むというエピソードがある。ブログはインターネットで公開されているから、正確には盗み読むという表現はあたらないが、ここでは配偶者の日記の窃視という谷崎的なモティーフが換骨奪胎されている。しかも妻はこのブログに対して匿名で書き込みをし、夫もそれが妻の書き込みとは気づかないというさらに倒錯した関係が結ばれている。さらに同様に書き込みを行い、妻が別人と誤認していた匿名の書き手こそ「悪魔」と呼ばれる殺人者であった。あるいは生の意味をめぐる「悪魔」の演説は直ちにドストエフスキーを連想させるが、彼の長広舌は絶命しようとする被害者の前でなされ、その模様は被害者の家族に送りつけられると同時にインターネットを介して公開される。匿名性と同時性、先行する作品に起源をもつ文学的主題がインターネットという場を経由して生じる歪みもこの小説の主題といえよう。インターネットが普及してまだわずか20年ほどにすぎない。しかしこの能動的で攻撃的なメディアが主体に及ぼす影響ははかりしれない。確かにインターネットは道具にすぎない。しかし本来道具にすぎないはずの、例えばカメラ・オブスクーラが、映画が、タイプライターが逆にそれを操る主体の内面をいかに変容させたかは、ジョナサン・クレーリーやフリードリッヒ・キットラーの近年の研究に明らかである。私たちはパンドラの箱をあけてしまったのではないか。炭鉱のカナリアではないが、かかる転機を極めて意識的に主題としたことにおいて『決壊』はすぐれて兆候的な小説といえよう。かつてポール・バーホーベンは映画の本質は暴力とセックスであると喝破し、実際にそれを体現するかのような怪作を確信犯的に次々と製作した。本書を読んで私はインターネットの本質もまた暴力とセックスではないかという暗然とした思いにとらわれた。そしてもはや私たちがそれを手放せないことも明らかである。
 最後に装丁について述べる。平野も自身のブログの中で言及しているが、菊池信義による装丁がすばらしい。タイポグラフィーのアクセントを効かした菊池らしいカヴァーもよいが、なんといっても黒く塗られた小口部分のインパクトが圧倒的である。単に内容を暗示した禍々しい印象を与えるだけでなく、読み進めるうちに小口部分のインクが指を、そして指を介して頁を汚す。本を汚すことなしに通読できない小説、このような実体性、物質性は私が本書の主題と考えるインターネット内のバーチャルなリアリティーの対極にある。同時に自らの手を汚しながら、このいたたまれない小説を最後まで読みぬく体験は、インターネットを用いることによって意図せずとも他者への暴力に加担するという、私たちの生の比喩であるかのようだ。
by gravity97 | 2008-07-12 21:38 | 日本文学 | Comments(0)

NEW ARRIVAL 080704

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by gravity97 | 2008-07-08 21:02 | NEW ARRIVAL | Comments(0)

 現在の東京都庁は1985年に指名コンペで設計が公募され、下馬評どおり丹下健三が提出したゴシックの大寺院を連想させる二棟の超高層案が選ばれ、建設にいたった。このコンペには丹下のほか九者の建築事務所や建築会社の設計部が参加し、建築や予算の規模として戦後最大級の指名コンペとなった。様々な超高層棟案が提出される中、でただ一人、中層案で師丹下に挑み、敗れ去った磯崎新の軌跡とコンペでの戦いぶりを記録したノンフィクションが本書である。
 テート・モダーンからWTC跡地再開発まで、著名建築家を指名して設計を競わせる指名コンペは昨今さほど珍しくないし、実現されなかったプランの方が選ばれたプランより興味深い場合も多々あることは安藤忠雄の『連戦連敗』などを読めば明らかである。しかし実際にこのようなコンペがいかに実行されるかについての情報は多くない。日本の建築家と建築会社の設計部のみが指名されているため、いささか華やかさに欠けるとはいえ、時あたかもバブル前夜、新宿に巨大なスカイスクレーパーを建設する大事業の内幕はいかなるものであったか。
 筆者によると、東京都が示した条件は、容積率の関係で最初から高層案を強く推奨するものであったという。敷地との関係で建築家の選択は高層を一棟、二棟のいずれで設計するかという点に集約される。コンペに「ぶっちぎりで勝つ」ことを宣言した丹下は、事前の周到な「質疑応答」によって一棟案が事実上不可能であることを確認したうえで、自らの建築の集大成としてコンペ案に向かう。これに対して磯崎は官僚制というヒエラルキー=ツリー構造を相対化する作業概念としてドゥルーズ/ガタリのいう「リゾーム」構造を導入し、ツリーが暗示する垂直ではなく、水平方向を基軸としたプランに向かう。官僚が用意したプラットホームを拒否し、抽象的な理念を建築の核とする磯崎らしいプランではあるが、当時、「ミル・プラトー」や「器官なき身体」といった言葉が一部の知識人の言説に流行というより蔓延していたことを想起する時、果たしてかかる意味不明な現代思想のジャーゴンにいかに建築という実体を与えることができるかという問題が磯崎のプランの成否を握ることは誰にとっても明らかである。
 全ての芸術の中で建築はおそらく最も政治と結びつきやすい。このようなコンペに「公正さ」を求めること自体がナンセンスであろう。もちろんこの本の中でも当時の都知事、鈴木俊一の側近であった丹下のプランが選ばれたことの是非が問われている訳ではない。しかし少なくとも建築科出身の筆者が磯崎の実現されざるプランを主題とする以上、リゾーム、あるいは錯綜体といった抽象的な概念が高層案に対してどのような意味をもち、設計プランの中でいかに具体的に実現されたかという問題に対して、建築の問題として応える義務があるのではなかろうか。能力がないのか、調査不足のせいか、この本質的な問いはほとんど深められることがない。代わって延々と羅列されるのは磯崎アトリエのスタッフや磯崎本人をめぐるとりとめのない逸話である。もちろん磯崎のスタイルがどのように形成されたかという点もこのノンフィクションの主題であろうし、彼が提出した都庁の設計案とも深く関わっている。「コンペはたった一つの極端に突出したアイデアを捜している」という磯崎のコメント、あるいは磯崎のプレゼンテーションの中に村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』への言及があったといった指摘など、それなりに興味深い知見も得られるが、記述は総じて散漫で最後まで焦点を結ぶことがない。まさか磯崎が都庁プランの基本概念とした「錯綜体」を実践した訳でもあるまいが、コンペの進行と雑多なエピソードが脈絡なく交錯するため、本来ならば緊迫感をもって語られるはずのコンペの帰趨もいつのまにかうやむやとなる。さらに言えば対象に対して妙に馴れ馴れしい文章は品がない。
 筆者は十分に自覚していないが、フーコーを引くまでもなく、建築とは端的に権力関係である。この点を意識すればバブルに狂い咲いたかのような、現代のバベルの塔に反映されたいわば建築的無意識の含意は明らかである。そして国会意志を体現する建築を次々と手がけてきた丹下も、自らが出品したミラノ・トリエンナーレが学生叛乱によって粉砕された経験をもつ磯崎もこの点に十分に意識的であったはずだ。丹下は都知事という小皇帝とそれに傅(かしず)く官僚たちが下界を睥睨するための宮殿を構想した。これに対して、磯崎は巨大な建築の中にサン・ピエトロ大聖堂をしのぐ巨大な広場を取り込み、雑多な民衆が自由に交通するシティホールを設計した。垂直と水平、管理と叛乱、睥睨と交通、統制と混沌、かかる対比を検討するならば、丹下案の採用は必然であり、磯崎案が本質においてこのコンペにおいて「たった一つの極端に突出したアイデア」であった点も容易に理解される。
 b0138838_21181197.jpgコンペから10年以上が経過した。私たちはバブルとその破綻、それ以後の日本社会の閉塞と低迷を経験した。都庁と東京都現代美術館、東京国際フォーラムなどをバブル期の東京五大粗大ゴミと呼んだのは磯崎その人であった。しかし今も丹下の都庁、垂直の宮殿は下界を睥睨し、都市と地方、より正確には東京と東京以外の地域間格差はかつてないほど広がっている。地方の疲弊と対照的に、東京では少なくとも表面上は相変わらずの好況と建築バブルが続き、在日外国人や老人に対する差別を公言して憚らない小皇帝は今やオリンピックの誘致を絶叫する。いうまでもなくオリンピックとは本来不必要な大規模施設を税金で建設するための政治的儀式であり、国家がセキュリティー・システムを強化するうえでの口当たりのよい口実である。東京都庁と並ぶ丹下の代表作が東京オリンピック屋内総合競技場であったことは偶然ではない。一体誰がこのような建築を欲しているのか。そもそも公共建築とは誰のためのものか。私たちはもう一度このごく当たり前の問いから始めるべきではないか。
 
by gravity97 | 2008-07-01 21:09 | 建築 | Comments(0)