Living Well Is the Best Revenge

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優雅な生活が最高の復讐である

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by gravity97 | 2008-06-24 22:41 | MY FAVORITE | Comments(0)
b0138838_13541825.jpg ミシュラン・ガイドの日本版発売以来、美食をめぐる議論がかまびすしい。本書は故辻静雄の長男で辻調理師専門学校の校長を務める辻芳樹が世界各地に赴き、当代きってのシェフたちと語らい、厨房の秘密を探るといった内容である。
 かつて私は海老沢泰久による『美味礼賛』という辻静雄の評伝を読み、この孤高の料理人の情熱と努力、そして深い学識に感銘を受けたことがある。現在「辻静雄コレクション」としてちくま文庫にはいっている何冊もの著作は、フランス料理について日本語で書かれた最良の手引きであろう。辻が開いた伝説的なディナーは開高健の「最後の晩餐」の中でユーモラスに語られ、大岡玲なども調理人としての辻の魔術師的な手わざを書き留めている。辻の長男である筆者が食に関する英才教育を受けたであろうことは容易に想像がつく。
 美食について書くことは難しい。なぜならそれは徹底的に個人的な体験であり、同じ感覚を共有することが不可能であるからだ。気分や体調、会食の相手や話題によって同じ料理(そもそも「同じ料理」なるものさえ存在しない)の印象が全く異なることは誰でも体験的に知っている。多くの「レストラン・ジャーナリスト」なる書き手の文章が傲慢で不毛であるのは、いかに専門用語や美辞麗句を弄しようが、個人的な感覚の押しつけであり、結局のところ「私は食べた、あなたは食べていない」という言明でしかないからである。この理由により私はブログや雑誌のグルメ記事にほとんど関心がない。
 美食をモティーフとしながら、本書は食をめぐる個人的な悦楽とは関係がない。タイトルが示すとおり、本書の主題は「美食」ではなく「テクノロジー」、つまり当代一流のシェフたちがいかにして「美食」を供するかという技法の問題に限定されている。ニューヨークのフレンチ、オーストラリアの日本人シェフ、カタルーニャの三つ星レストランから日本の老舗料亭まで、登場するレストラン、料理人は多彩であるが、通読するならば、いかなる料理、いかなるシェフにとっても美食を供する秘訣が驚くほど単純であることが理解されよう。それは素材を吟味することである。本書の中にアラン・デュカスの「料理の65パーセントは素材、25パーセントが料理人の技術、10パーセントが料理人の天才によって決まる」という言葉があるが、逆に述べるならばここに登場する卓越した料理人たちの技術と天才をもっても、素材の帯びるテロワールにははるかに及ばないということであろう。今、はしなくもテロワールという言葉を引いたが、通常ワインに対して用いられ、地味と訳されるこの概念はいうまでもなく特定の土地と深く結びついている。ところで私は先ほど味覚がきわめて個人的な体験であると述べた。そしてプルーストのプチ・マドレーヌの挿話を想起すればたやすく了解できるとおり、味覚は個人の記憶と密接に結びつく。テロワールと記憶。ともに代替することが不可能な感覚や生理であり、美食とは本質的に土地と身体にまつわるきわめて限定された体験なのである。6人の料理人は自らが育った土地、あるいは逆に全く未知らぬ土地を選んで店を開き、一つの場と結びついた「美食のテクノロジー」を磨いた。しかしながら先般のミシュラン・ガイド日本版発売をめぐる狂騒を想起すればたやすく理解されるとおり、今日、三つ星級のレストランの経営とは国境や一人の天才的な料理人の創意を越えた文化的事件である。それでは洞爺湖でミシェル・ブラス、東京でアラン・デュカスのディナーを味わう体験は美食の本質と相容れるのであろうか。
 この点で私はインタヴューされる6人の料理人中、国家的シェフとしてポール・ボキューズの後に君臨するアラン・デュカスの方法がきわめて興味深かった。デュカスは東京も含め、世界各地にいくつものフラッグシップを展開する一方で、オーセンティックなレストランからデリカテッセンにいたるまで業態的にも多様な店を展開する。辻も論じるとおり、かかるデュカスの「美食のテクノロジー」が組織力にあることはいうまでもないが、本来、特定の身体(料理人の舌)と特定の場所に関わる美食という営みを、複数の身体と遍在性をとおして実現しようという営みの不可能性は誰でも理解できよう。デュカスはこの二重の困難を徹底的な人材教育と「デュカスのフレンチ」をそれぞれの土地における食材とテロワールに応じて融通無碍に変容させることによって克服しようとする。しかしその場合、「デュカスのフレンチ」のアイデンティティーは何によって担保されるのだろうか。辻はアラン・デュカスというアイデンティティーを保ちながら、同時に三つ星のレヴェルの料理を供するという点にデュカスの奇跡を認める訳であるが、モナコの「ルイ・キャーンズ」と東京の「ベージュ・アラン・デュカス」で供せられるディナーが同一であることの根拠を一体何に求めることができるだろうか。ミシュラン・ガイドでさえ都市別であることを想起する時、このような比較は辻のごとき世界的な食通によって初めて可能となるかもしれないが、かかる批評を相対化することは著しく困難であり、美食をめぐる個人的な体験が普遍的な批評性をもつという逆説はワインにおけるロバート・パーカーの事例を彷彿とさせる。
 本書は美食についての批評であるが、優れた批評の通例として、ほかの領域にも応用可能ないくつもの興味深い問題を提起している。辻がいう「美食のテクノロジー」つまり食をめぐる「優れた」文化が直ちに世界に伝播する、あるいは世界各地の文化と混交していくさまは、直ちにグローバリズムという今日私たちが直面する文化的係争の一局面として理解できよう。代替不可能性という問題もきわめて射程が広い。そもそもなにものかを代替/再現/表象することは可能かという問いはモダニズムの根幹と関わっている。このブログでは論じる対象を変えながら、今後も何度か同じ主題を扱うことになるだろう。
by gravity97 | 2008-06-22 13:54 | エピキュリズム | Comments(0)

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by gravity97 | 2008-06-16 22:14 | BOOKSHELF | Comments(0)
 b0138838_11281697.jpgこれは繰り返し丹念に読まれるべき、まことに深い書物である。
 このブログで取り上げる対象に関して、私はあらかじめいくつかのジャンルを設定した。しかしこのようなジャンルを横断し、多角的に検証すべき主題が存在する。ホロコースト(この言葉の妥当性については、今は措く)をめぐる表象の不可能性という主題に私は以前より関心を寄せ、様々な表現を横断しながら思索を重ねてきた。
 アガンベンの著作は私たちの出発点を画定する。きわめて晦渋で多くの問題をはらんだ書であり、一読して直ちに理解できるような内容ではない。しかし今回、初読した限りにおいても、多くの発見とともに、この主題が現代思想と文学、あるいは美術のみならず、言語学や生理学といった私の予想をはるかに超えた多様な領域と密接に関わっていることが了解された。
 ナチス・ドイツにおけるユダヤ人問題の「最終解決」、つまり一つの民族を根絶すべく絶滅収容所の中で続けられた日常的な虐殺。私たちはそれがいかなるものであったかを知っている。「夜と霧」でもよい、「シンドラーのリスト」でもよい、人類最悪の記憶の一つを記憶すべく、私たちは何度となくそれを再話/表象してきたではないか。しかし近年、かかる楽天的な発想に対して深刻な疑義が呈された。例えばヘウムノだ。集団虐殺の証拠を隠滅すべく、この収容所は破壊され、記録も破棄され、そこに収容された40万人のユダヤ人のうち、生き残ったのはわずか2人であったという。証拠が完全に抹消され、証人が絶滅することは十分にありえた。その場合、一体誰が、何を語ることができるだろう。そもそも絶滅収容所に関して何かを「表象」すること、それ自体が可能なのであろうか。なぜなら絶滅収容所について証言するということは、証言しえないものについて証言することにほかならないからだ。アガンベンはプリモ・レーヴィが『溺れた者と救われた者』の中で言及する逆説について論じる。レーヴィによれば「底に触れた者、ゴルゴンを見てしまった者は戻って語ることがなく、戻ったとしても黙していた」証言の不可能性が証言者の資格を保証するという逆説。この逆説をめぐって、アガンベンはバンヴェニストの言語学におけるシフター(転換子)の問題、あるいはフーコーが論じる作者の脱主体化といった多岐にわたる問題と関連づけながら、議論を深めていく。シフター記号、あるいはフーコー/バルト的な「脱中心化される作者」といった問題について、これまで私は全く別の文脈、多くは美術批評との関係で論じたことがある。アガンベンの論証の中で、今日の批評理論の中心的な課題、先端的で抽象度の高い同じ主題が絶滅収容所とホロコーストをめぐるきわめて凄惨で生々しい議論の中に投入され、時に緻密に、時にアクロバティックに次々と議論の焦点を結んでいくさまに私は眩惑される思いを覚えた。
 絶滅収容所において私たちはほかでは決して遭遇しえない人間性の極北、感情の極北を知る。「底に触れた者、ゴルゴンを見てしまった者」とは状況のあまりの非人間さのゆえに(生と死ではなく)人間と非人間の狭間に落ち込んだ者の謂であり、かかる「証言しえないもの」は「回教徒」という隠語で呼ばれた。アガンベンは「回教徒」こそ、人間性の破壊の表象であり、ホロコーストを表象する際に鍵となる存在であることを繰り返し主張する。死ではなく人間性の破壊こそが絶滅収容所における暴力の本質であり、「表象」に対する本源的な脅威なのである。
 かねてより私は疑問に思っていたことがある。絶滅収容所を生き延びた者の多くが、貴重な生を得たにも関わらず、最終的に自死を遂げてしまうのである。プリモ・レーヴィ然り、パウル・ツェラン然り。この本を読んで私はようやくその理由が理解できた。「回教徒」の存在に触れた人間、そしてなおも生き残った人間(ただしアガンベンの検証によれば、生き残ることのできた「回教徒」、かつて「回教徒」だった囚人もごく少数ながら存在する)を圧倒する感情は「恥」である。護送の途上、SSが気まぐれから囚人をアト・ランダムに選んで射殺したというグロテスクな逸話の中で、自分の運命を知った青年が顔を赤らめて恥の表情を浮かべたことも同じ理由による。虐殺を遂行した側でなく、虐殺される側が恥を感じるという暗然たる機序をエマニュエル・レヴィナス、ポルトガルの詩人として知られるフェルナンド・ペソアから木村敏にいたる多様なテクストを渉猟しながら分析する箇所はこの深い思索の書中の白眉といってよい。
 今日、ホロコーストの表象という主題は、ホロコーストの証言は可能かという問題をめぐって議論が戦わされている。例えばクロード・ランズマンはそれが不可能であることを証明するために9時間余に及ぶフィルムを撮影した。逆にジョルジュ・ディディ=ユベルマンは絶滅収容所の写真による表象の可能性について論じた。フィルムと写真という具体的な記録に関連する両者の所論は相反しながらも、同様に説得的である。これに対してアガンベンはいずれの立場とも距離を置き、証言の不可能性という問題をさらに原理的に突き詰めていく。私は何よりもきわめて困難な問いに真剣に応接するアガンベンの知的誠実さにうたれた。この書を足がかりとして、私は今後も何度かこの問題に立ち戻ることにしよう。
by gravity97 | 2008-06-14 11:28 | 思想・社会 | Comments(0)
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 マリーナ・アブラモヴィッチは1950年にユーゴスラヴィアに生まれ、70年代以降、多くパートナーのウーライとともに数々の伝説的なパフォーマンスを繰り広げた。日本も何度か訪れ、数年前に丸亀と熊本で個展が開催されたことは記憶に新しい。
 私も何度か彼女と会ったことがある。大柄で端正、貴族的な美貌の持ち主であり、会話はウィットに富む。しかし彼女が演じるパフォーマンスはいずれも過激きわまりない。ナイフや剃刀で身体を自傷するマゾヒスティックな一連のパフォーマンスに加えて、例えば1974年、ナポリにおける「リズム0」というパフォーマンスでは、来場者に対して、全ての責任を作家が負うことを保証したうえで、傍らのテーブルの上の品々を作家に対して用いるように求めた。机上に置かれた香水、花束からナイフ、銃にいたる品々は彼女のパフォーマンスに一貫するきわめて不穏な本質を暗示している。実際にパフォーマンスの中で彼女の衣服は剃刀で切り裂かれ、観衆は彼女に対して攻撃的な集団と彼女を守ろうとする集団に分かれたという。
 2005年の秋にニューヨークのグッゲンハイム美術館でアブラモヴィッチがとてつもないパフォーマンスを準備しているという噂をかねてより聞いていた。その後、60年代以降演じられた主要なパフォーマンスをアブラモヴィッチ自身が再演する内容であることが判明したが、残念ながら私は実見することがかなわず、上演された後も機能不全の状態にある日本の美術ジャーナリズムからは何の情報も得ることができなかった。ようやく昨年、これら一連のパフォーマンスを記録したカタログが刊行されたことを知り、直ちに入手して目を通してみた。
 アブラモヴィッチが演じる以上、えげつない演目が中心となるだろうとは予想していたが、正直言って、ここまでやるかという印象の選択である。Seven Easy Pieces と題され、七日間にわたって演じられた7つのパフォーマンスは、いずれもよく知られた作品であり、パフォーマンスの歴史を回顧するという展覧会の趣旨に応じると同時に過激さにおいてもパフォーマンス芸術の極点をかたちづくっているといって過言ではない。例えば第二夜に再演されたヴィトー・アコンチの「シード・ベット」は1972年にソナベント・ギャラリーで初演されたセンセーショナルな作品である。アコンチは会場となったギャラリーに斜めの床を設え、会期中、床下に潜みながら、不可視の来場者を想像して自慰行為にふけった。アブラモヴィッチもアコンチ同様にグッゲンハイム美術館の中央に設えた舞台の下に潜み、絶えず性的な妄想を口にしながらマスターベーションを続け、幾度となくオーガスムに達する。彼女が独白する妄想やあえぎ声は舞台の下に仕込まれたマイクを通して来場者に筒抜けとなる。これが延々7時間にわたって続けられたという。このパフォーマンスにおいて演者は徹底的に不可視であったのに対して、翌日の「ジェニタル・パニック」においては、1969 年のヴァリー・エクスポートによる初演時と同様、革ジャケットと黒いジーンズ姿のアブラモヴィッチがマシンガンを抱いて椅子に座り、逆に来場者を睥睨する。しかも彼女のジーンズは股間の部分が切り取られ、性器が露出されているのである。エクスポートはこのパフォーマンスをミュンヘンのポルノ映画館で観客に対して実施し、「お前たちが見ているものこそ現実であり、それはスクリーンの上にはない」と挑発した。アブラモヴィッチは美術館というさらに公共性の高い場で性器を衆目に晒したまま、傲然と来場者を見据える。さらに一連のパフォーマンスのクライマックスとして、第六夜にアブラモヴィッチ自身の「トーマス・リップス」が再演された。1975年にインスブルックで発表されたこのショッキングなパフォーマンスは、全裸のアブラモヴィッチが舞台の上で1キロの蜂蜜と1リットルのワインを摂取した後、自らの腹部を剃刀で星型に切り裂き、氷の上に横たわるという内容である。初演の際にはあまりの凄惨さに耐えきれなくなった観衆がアブラモヴィッチを氷のベッドから引き離して終了したといういわくつきの演目が今回は深夜まで演じられた。いずれのパフォーマンスも再演とはいえ、観客が受けたであろう衝撃は想像に余りあるし、日本の公共的な空間では上演不可能な演目であることもまた明らかである。
 作家自身がseminal(播種的)と呼ぶ、問題提起的なパフォーマンスが選ばれていることもあり、いずれの演目についても優に一篇の論文をもって応じることできる。いくつかの演目については今後このブログにおいて詳しく検討してみたい。ひとまずここでは全体と関わる問題を一点のみ論じておくこととする。それはパフォーマンスという芸術の可能性の本質と関わっている。これらのパフォーマンスはアブラモヴィッチとほぼ同世代の作家によって60年代後半から70年代にかけて演じられた。カタログの冒頭に彼女は短いイントロダクションを寄せ、上演に際して次のような条件を課した点を言明している。

1.(初演した)作家に許可を得ること
2.再演にあたって著作権料を支払うこと
3.パフォーマンスに新しい解釈を加えること

最初の二つはパフォーマンスを最初に演じた作家に対する敬意と義務と関わっている。しかしこの二点にとどまっていてはパフォーマンスという表現形式は継承、発展されえない。そもそもこれまで行為の芸術とは、一度限り、その場限りのエフェメラルな事件であり、再現不可能と考えられてきた。それゆえパフォーマンスを歴史的に回顧する多くの展覧会においては、多く行為の記録を写真ないし映像として提示するか、関連するオブジェを展示するという手法が用いられてきた。例えば1998年にロスアンジェルス現代美術館で開かれた「アウト・オブ・アクションズ」といった画期的な展覧会でさえ、このような限界の中にあった。パフォーマンスの中心に位置しながら、このような手法によって決定的に欠落する要素、それは作家の身体である。そして身体もまた時間や場所と同様に代補しえない要素と考えられてきた。パフォーマンスは特定の時間、特定の場所、特定の身体と関わり、それゆえ再現、代補されえない。自明に感じられるこれらの前提に対してアブラモヴィッチは異議を唱える。彼女は自らの身体を担保として先行する優れたパフォーマンスに「新しい解釈」を加えるのである。いかなる解釈が可能となるか。先に挙げた例に即して検討しよう。アコンチとアブラモヴィッチは公共空間で来場者からは不可視のまま(しかし公然と)自慰というきわめてプライヴェイトな行為を行なう。しかし両者は全く異なったかたちで受容されるだろう。なぜならそこにはジェンダーが介入するからである。アコンチのセンセーショナルなパフォーマンスは男性と女性、いずれが演じるかによって全く異なった意味を獲得する。あるいはポルノ映画館でなされたエクスポートの挑発は美術館という場に持ち込まれることによって、新しい解釈を与えられる。そしてここにもジェンダーが影を落としている。公共の場で男性が性器を露出した場合、警備員によって拘束されることは間違いない。しかしグッゲンハイム美術館の中で女性によってなされた同じ行為はむしろ警備員の存在によって混乱なき実施を保証されるのである。2005年の秋、ニューヨークで繰り広げられたのは本来的に再現不可能なパフォーマンスという表象が別の身体を介すことによって全く新しい意味を獲得するという奇跡のような実験であった。パフォーマンスの再演が多くの場合、みじめなパロディとしかなりえないのに対して、かかる奇跡が先人のパフォーマンスに真摯に向かい合うアブラモヴィッチという傑出した才能によって初めて可能となったことはいうまでもない。
 リドリー・スコットのフィルム「ブレードランナー」は、レプリカントと呼ばれる人間そっくりの人造人間と人間を区別するためのテストの場面で幕をあける。そのテストとは試験官が語る一つの残酷な情景に対して、被験者がいかに対象に感情移入できるかを瞳孔の測定で判定するものであった。人は他者への共感によって機械と区別されるのだ。私はアブラモヴィッチのパフォーマンスも本質において、他者への共感という問題と深く関わっているように感じる。彼女のいくつかのパフォーマンスが予期せぬ観衆の反応によって中断、終了したことを想起しよう。彼女のパフォーマンスが苦痛や快楽というきわめて身体的な感覚と関わっていることはこの問題と関係している。今回、パフォーマンス終了後、多くの観衆は涙を流していたという。2005年の秋、私はグッゲンハイム美術館にはいなかった。しかし彼らが味わったセンセーションを私はカタログを介してさえも容易に感受することができる。このような共感が9・11以後のニューヨークという「特定の時間」と「特定の場所」で交わされたことを通して私はパフォーマンスという芸術が秘めた大いなる可能性に触れた思いがする。
 なお、この連続パフォーマンスについては、現場に立ち会った渡辺真也氏の日本語による詳しい報告をインターネット上で閲覧することが可能である。言及しなかったパフォーマンスの詳細等についてもあわせて参照されたい。

使用図版については Photograph by Kathryn Carr Copyright The Solomon R. Guggenheim Foundation, New York.
by gravity97 | 2008-06-10 22:01 | 展覧会 | Comments(0)

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by gravity97 | 2008-06-10 21:28 | BOOKSHELF | Comments(0)

BOMBAY SAPPHIRE

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by gravity97 | 2008-06-07 19:15 | MY FAVORITE | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック