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高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』

b0138838_21302086.jpg 数年前、『現代思想』誌のジャック・デリダの特集を求めたが、特集よりも巻頭の新連載の方が面白く、以後もこの特異な都市論を断続的に読み継ぐこととなった。長期にわたった連載が先般、『ニューヨーク烈伝』として単行本化されたことを知り、買い求めてみた。著者については柄谷行人の『トランスクリティーク』の英訳者と認識していたが、帯の解説によると80年以降、ニューヨークに在住する批評家/翻訳家であるという。
 仕事の関係で、私はこれまで世界各地の都市に滞在した。中でもニューヨークの印象は特別である。90年代中盤以降、ジュリアーニ市政下で比較的治安のよい時期であったとはいえ、JFKに降りた時点で街の空気に緊張感を覚え、しかもその緊張は都市的享楽と背中合わせなのだ。地元のイエローキャブですら走行するに際してドアのロックを確認するハーレムの雑踏と、扉の向こうに別世界が広がるミッドタウンのスノビッシュなクラブがタクシーで二十分ほどの距離に「地続きで」共存するという空間的布置は尋常ではない。ひたすら均質化が進む近年の都市空間に拮抗するこのような異質性、分裂性こそ私にとってニューヨークの魅力であった。
 高祖は本書に「闘う世界民衆の都市空間」というサブタイトルを与えている。サブタイトルが示唆するのは、ニューヨークという都市が第一に闘争の場であるということ、第二に国籍をもたない移民によって形成されているということだ。アメリカという国家が先住民の放逐と奴隷制の上に成立した点、全ての「アメリカ市民」は移民の末裔であるという点を考慮するならば、闘争と無国籍性はニューヨークのみならずアメリカという「国家」そのものを徴している。
 本書では主としてドゥルーズ/ガタリを援用しながら、「世界民衆」の様々な「闘争」の様態が点綴される。第三部まで歴史的な概観を行なった後、第四部ではチャイナタウン、ハーレム、ブロンクスといったいくつかのトポスについて論じられる。南北戦争から現代まで、ブラック・パンサーからベトナム反戦運動まで扱われる問題は多岐にわたり、一点に収束することのない思考の連なりはあたかもニューヨークの混沌を模しているかのようである。しかし「闘争」の構図は明快だ。都市を管理し、収奪しようとする権力に対して、多様な生を強調し、様々な都市文化によって対抗する「世界民衆」。80年代以降、ジェントリフィケーションという美名のもとに、公共空間を破壊し、管理された空間へと再編する暴力がかつてない激しさで進行する状況に対して、雑多な民衆はスクワティングやガーデニング、対抗文化とアクティヴィズムで応じる。都市というフィルターをとおすことによって、これまでばらばらに感じられていた文化運動に一つのパースペクティヴが与えられる。かねてから私はゲイ、レズビアンといった個人的な性向が、対抗文化の中心的な主題となることに異和を感じていた。しかし本書を通読して、私は「個人的なものは政治的である」というテーゼどおり、80年代の都市空間をめぐる闘争の中ではクイアーこそが鍵を握っていたこと、この時代のニューヨークでいわゆる「アート・アクティヴィズム」が発生した必然性をよく理解できた。この本を読みながら直ちに想起されたのはパトリシア・モリズローが著したロバート・メイプルソープの伝記である。HIVの蔓延によって一つのコミュニティーが壊滅的な打撃を受け、友人たちが次々に、そして最後には写真家自身も絶命するという凄絶な状況が不思議な明るさとともに語られていたのは、メイプルソープをめぐるクイアー相互の友愛が、高祖のいう「情動の複合性によって組織された、人類史上類まれな闘争」であったからだろう。
 美術に関しても少なからぬ言及がある。抽象表現主義を擁護した二人の批評家クレメント・グリーンバーグとハロルド・ローゼンバーグのうち、芸術の自律性を形式的に論証する前者の前衛主義がむしろ政治的、統制的に機能したのに対して、社会的な出来事性を重視する後者の言説に90年代以後のニューヨークの美術との親和性、そして都市の可能性をみるという指摘は卓見である。同時にこの著作は60年代以降、ニューヨークを舞台に繰り広げられた一連の「行為の芸術」を新しい角度から分析するためのいくつかの作業概念を提起している。
 私は9・11 の前後に何度か比較的長くニューヨークに滞在した。2004年に最初の論文が発表された本書も当然ながら9・11から説き起こされている。私の印象では9・11によってニューヨークの空気は全く変わり、ことに旅行者にとっては息の詰まるような街となってしまった。このような断絶の印象が本書において比較的希薄であるのは、著者が旅行者ではなく、ニューヨークに暮らす「民衆」であるからだろうか、それとも著者を含めて私たちはまだ9・11を相対化するために十分な時間的距離を得ていないのであろうか。
by gravity97 | 2008-05-30 21:31 | 思想・社会 | Comments(0)

WAVE by GEORG JENSEN

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by gravity97 | 2008-05-29 21:03 | MY FAVORITE | Comments(0)

STEVE REICH [Octet / Music for a Large Ensemble / Violin Phase]

 音楽に関して専門的な批評を加えることは少々荷が重い。個人的な回想を記す。
 スティーヴ・ライヒを聴き始めたのは大学院の頃だ。「砂漠の音楽」がリリースされた時期であったと記憶している。ただし当時、ライヒのアルバムは比較的手に入れにくかったこともあり、私は「ドラミング」、「シックス・ピアノズ」そして「18人の音楽家のための音楽」とほぼ発表順に彼の作品を聴いた。ジャーマン・アシッド・ロックに親しんでいた私にとって、ミニマル・ミュージック、とりわけ位相ずれを基本的な構成原理とするライヒを受け入れることに全く抵抗はなかった。
 日仏学館でレッスンを受けた帰りによく立ち寄っていたMというショップで「大アンサンブルのための音楽」というライヒのアルバムを見つけた。まだCDが登場する以前であり、買ったばかりのLPを私は直ちに行きつけのバーに持ち込んだ。その店のマスターは現代音楽を好み、新しく手に入れたアルバムを時折一緒に聴くことがあった。
 アルバムには「大アンサンブルのための音楽」「ヴァイオリン・フェイズ」「オクテット(八重奏曲)」といういずれも15分ほどの曲が収められている。およそ1967年から1980年にかけて、つまり70年代のライヒは初期の実験性が適度に洗練される一方、後に「テヒリム」や「砂漠の音楽」の中で顕在化する声を介した主題性はまだ希薄で、作曲家が言うとことの「ゆるやかに移りゆくプロセスとしての音楽」の可能性、ミニマル・ミュージックの形式としての可能性を一作ごとに深める印象があった。私個人としてはライヒの最良のディケイドであったように思う。
 ライヒの楽曲は注意深く聞くことを聴取者に強いる。レコードに針を落とした瞬間から私は全身を一個の耳に変えて、いくつもの楽器、あるいは録音されたヴァイオリンと実演されるヴァイオリンの間に生じるずれと反復に集中した。ずれと反復の中から発生する甘美な音のシステム。規則の機械的な履行の中に生じる官能性。これらは明らかにミニマル・アートと通底する。そして不要な要素を削ぎ落とすことによって逆にあらわとなる硬質で繊細なニュアンス、それは何杯も口にしたジンのドライな感触と共鳴するかのようであった。深夜の暗いバー、杜松の香り、そしてライヒ。一組の情景が今でもくっきりと脳裏によみがえる。初読ならざる初聴でこれほど強い印象を与えた楽曲、聴いた状況まで鮮明に記憶された楽曲は私の生涯にあまり例がない。
 
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 私のほかに誰も客は訪ねて来なかった。私たちは二度続けてこのアルバムを聴いた。
by gravity97 | 2008-05-21 21:51 | 現代音楽 | Comments(0)

ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』

 河出書房新社の世界文学全集の劈頭を飾り、新訳が刊行されたことを契機にジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』を読む。存在を意識しながらも読まずにいたという小説がある。かつての『路上』もそのような一冊であった。今回が初読なので、翻訳を比較することはできないが、青山南の今回の新訳は内容に見合った疾走感がある。
ニューヨークからサンフランシスコ、デンヴァーからメキシコ・シティへ、本書はサルことサルヴァドーレ・パラダイスとディーンことディーン・モリアーティの二人の間断なき移動の記録である。『西遊記』から『日輪の翼』まで移動を主題とした物語を私たちはたやすく想起できるし、アメリカ文学であれば例えば『怒りの葡萄』のごとき、偉大な先行例が存在する。しかし『オン・ザ・ロード』が異例であるのは、この移動が天竺や皇居、カリフォルニアのごとき目的地をもたないことである。ある時はヒッチハイク、ある時は車を送り届けるために、彼らはアメリカを何度も横断し、縦断する。
 セックスやドラッグといった主題が頻出するこの小説がビートニクと呼ばれる世代にとって一つの規範を提示することは容易に理解できるが、世代を超えて半世紀後に読んでも魅力が褪せることがないのは、この小説の「反抗」が単に権威や社会だけでなく、文学という制度そのものに関わっているからであるように思われる。つまり、小説とは初めと中と終わりがあり、その中で何事かが語りb0138838_21325982.jpg終えられるという暗黙の前提に対して、ひたすら移動と通過を繰り返すこの小説にあって、中心となる事件やクライマックスは存在しない。小説が基本的に時間的な構造を有しているのに対して、『オン・ザ・ロード』は空間性をその原理としている。同様にクライマックスを否定する姿勢を私たちは例えばフランスの現代小説が共有していたことを知っている。しかし貧血のようなヌーヴォー・ロマンと比べて断然こちらの方が「いいね!いいね!」
 読み始めるや直ちに同じような背景と構造をもった作品として、デニス・ホッパーの『イージー・ライダー』が想起された。しかしこの映画が最後のシーンで説話論的な構造を完結させるのに対して、サルとディーンは物語にいかなる痕跡も残すことなく、走り去っていく。1957年に発表された本書が、その10年以上後に制作されたアメリカン・ニューシネマの代表作よりはるかに革新的なゆえんである。
by gravity97 | 2008-05-04 21:33 | 海外文学 | Comments(0)