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「フランシス・ベーコン展」

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 東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン」展を見る。ベーコンを専門とする二人の学芸員が担当しただけあって、力の入った展示である。私は前回、1983年のベーコン展も京都で見た記憶がある。あらためてカタログを取り出してみるとこの展覧会にはトリプティクを含めて45点の作品が出品されており、点数については今回より多く、重複する作品もある。しかしその際にさほど強い印象を受けなかったのはなぜであろうか。83年の展覧会が元々オーストラリアを巡回する展覧会として企画され(結局、オーストラリア巡回は実現しなかった)、マールボロ・ギャラリーとブリティッシュ・カウンシルの全面的な支援を受けて実現された、いわばあらかじめ誂えられた展覧会であったのに対して、今回の展示が学芸員のいささか偏向した熱意によって企画されたことがその大きな理由であろう。
 展覧会は四つのセクションから構成されている。すなわち「移りゆく身体」「捧げられた身体」「物語らない身体」そしてエピローグとしての「ベーコンに基づく身体」である。エピローグの部分のみ土方巽とペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスというベーコン以外の作家の作品を紹介している。タイトルの後には年記が示され、それぞれのパートが扱う時期が50年代まで、60年代、70年代以降の三期に分けられていることが明示されている。したがって展覧会は基本的にクロノロジカルに配置されているが、かかる構成そして各パートのタイトルからしてすでに挑発的である。
 ベーコンの作品を理解するうえで身体というテーマはわかりやすい。ベーコンの多くの作品に共通するのは、捻れ、変形し、投げ出された身体であるからだ。しかしながら身体に関して、先に掲げたセクションのタイトルが意味するところは必ずしも明確ではない。「移りゆく身体」において確かにいずれのイメージもなんらかの移行の相を示しているという指摘はそう言われるならばそうであろうが、果たしてこの時期の作品のみに指摘しうる特質であろうか。むしろ肖像、教皇、そしてスフィンクスといった主題ごとに整理した方がわかりやすい気がする。あるいは「捧げられた身体」という言葉から誰しも想像するのは磔刑図であるが、このセクションには(カタログには参考図版が掲載されているものの)磔刑図の出品はなく、出品作をそのための「スタディ」とみなすことはやや苦しい。「物語らない身体」についてもそこで圧倒的な存在感を示す4組の巨大なトリプティクは作品の形式においては共通するが、描かれたイメージに企画者いうところの「物語の生贄」を認めるには相当高度の専門的知識が必要であろう。したがってここでは設定されたテーマに拘泥することなく、ベーコンの作品について若干の私見を述べておく。
b0138838_932591.jpg ベーコンの絵画を批評する者がしばしば陥る罠はイメージ・ソースの探求である。ベラスケス、ゴッホ、エイゼンシュタイン、イメージの原型をたどることはさほど困難ではないし、それは美術史の学徒にとってはほとんど反射的な態度といえるかもしれない。しかしベーコンがベラスケスの教皇像を連想させる絵画を描いたとしても、作家がベラスケスのイメージをアイコニックに模倣することに何の関心も持っていないことは明らかだ。私たちが問うべきは作家をしてそれらの主題を選ばせ、さらに異様な変形を加えたうえで私たちの前に提示する衝動の由来であろう。イメージ・ソースの探求が常に起源へと遡及するのに対して、私はむしろ同時代の表現と対照することがベーコンの絵画を理解するうえで有効ではないかと考える。具体的にはベーコンとほぼ同じ世代、正確には5歳年上のアメリカの画家、ヴィレム・デ・クーニングとの比較である。それというのも会場で出品作中の一点、フランクフルト近代美術館所蔵の《裸体》から直ちに私はデ・クーニングの「女」シリーズを連想したからである。直ちに言い添えなければならないが、1960年に制作されたこの作品がデ・クーニングと似ている、もしくは影響下にあるというのではない。逆に両者の相違こそが重要であると感じる。今、似ていないと述べたが、《裸体》の醜く歪められた表情、あるいは横向きに押しつぶされたような乳房の表現などは「女」シリーズの一部の作品を強く想起させる。しかし私は両者の間に決定的な隔たりを感じる。それは画家、あるいは観者と描かれた人物の距離である。デ・クーニングの場合、画家とイメージ、観者とイメージは直接につながっている。しかしベーコンにおいて両者は隔絶している。別の言葉を用いるならばデ・クーニングが描く人物は私たちとともにある。しかしベーコンの場合は別の世界にいるかのようだ。まずこのための様々な仕掛けを検分してみよう。今回あらためて感じた点であるが、図版からの印象に反してベーコンの作品は物質性が希薄である。絵具のストロークによって表情や身体が生々しく変形するのではなく、薄塗りの画面に残されたそれらのイメージはあらかじめ変形した身体の映像のように感じられる。この点においてもデ・クーニングとの比較が有効である。デ・クーニングの人物がストロークでずたずたにされるのに対して、ベーコンの人物は変形されつつも静的な印象を与える。出品作品のうち、《椅子から立ち上がる男》において男の足下に白い絵の具の塊が付着し、精液を連想させるというコメントが付されていたが、この点はベーコンにおいて絵具が明確に物質として認知される場合がむしろ稀であることを暗示しているだろう。デ・クーニングの物質的な絵画はイメージが絵具という現実の物質によって構成されていることを自覚させ、絵画が私たちとともに在ることを意識させる。これに対してベーコンのイメージは私たちと隔てられたあちら側に在る。額縁とガラスもまたこのような隔絶に寄与しているだろう。会場に掲出されたコメントによれば、ベーコンは作品をガラスで覆い、大仰な金色の額縁をつけることを好んだという。結果としてベーコンの作品はいかにも絵画然としている。さらに画面に目を向けるならば、ベーコンの描く人物は多くの場合、何らかの枠の中に囚われている。画面の中に描かれた奇妙な矩形、教皇が座るというより身を押し込められたかのような玉座、あるいは奇妙な台や窓枠、これらの形態は多くの場合、その内部に人物を閉じ込めている。これはデ・クーニングが背景をストロークで埋めて特定しえない場所に人物を置くことと対照的である。ニューヨーク近代美術館に収蔵された有名な《女Ⅰ》が最初窓のある室内に描かれながら、次第に塗り込められて背景と一体化された経緯を想起してもよかろう。ベーコンの人物はいずれも何かしらの枠の中に閉じ込められ、さらにガラスと額の中に密封される。彼らはしばしば絶叫するかのように口を開けるが、それはあたかも檻の中に閉じ込められる恐怖の悲鳴のようだ。私たちは彼らに檻の外から眼差しを向けるが、時にガラスの反射にあって不分明な人物たち、暴力的に歪められた肉体からほとばしる絶叫は視覚ではなく触覚や聴覚に痛みのような刺激を与える。この共感覚的なセンセーションはベーコン特有である。閉じ込められる恐怖、ベーコンの絵画は求心的であり、これに対しデ・クーニングの絵画は遠心的といってもよかろう。
 いうまでもなく遠心性とは抽象表現主義絵画に共有された特質であった。ポロックの、ニューマンの、ロスコの絵画は外に向かって開かれ、展示された空間と関係をもつ。先ほど額縁の問題に触れたが、彼らの絵画の多くは額縁をもたず、備えていたとしても存在感は抑制されている。私は絵画という物体が現実と接することによって絵画の現代が画されたと考える。この意味でベーコンは過激なイメージにも関わらずなおも絵画の近代に留まった。むろんこれは否定的な意味ではなく、あえて留まることによって逆に20世紀後半にあって可能ななんとも不穏なイメージを成立させたのである。考えてもみるがよい、ベラスケスの描いた教皇像、これほどまでに西欧絵画の典型と呼ぶべき作品がほかにあろうか。それは一方ではキリスト教という膨大なイメージ・ソースの中心に位置し、一方では肖像画という長い伝統をもつ形式と連なる。それを換骨奪胎してかくも独特のイメージとして結実させるという行為はいわば西欧絵画全体のネガを提示するかのようだ。絵画という形式を踏み越えることなく、近代絵画という枠組の中でこのような取り組みがなされたことはむしろ必然であっただろう。
 会場に不在のデ・クーニング(実際には同じ美術館の常設展示における関連企画の中にも一点が展示されていた)との対比が求心/遠心という対立を導き出すとするならば、最後のセクションに実際に並べられた二つの舞踏とベーコンの絵画との対比は別の対立を導き出す。会場の最後にあえて舞踏の映像を上映する点に展覧会の批評性が明確に示されている。ダンスの中で実際にベーコンが参照されるペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスはいうまでもなく、土方巽のアーカイヴに遺された資料の中に見出されたベーコンへの言及がこの展覧会の一つの着想源であったことは明らかだ。企画者もセクション解説の中で記すとおり、ベーコンの影響は文学から映画、音楽にいたる広い領域に認められる。私も最近読んだバルガス=リョサの『継母礼賛』に掲出された6葉の名画の図版の中にベーコンの《頭部Ⅰ》を認めて驚いたばかりだ。それにしても舞踏/ダンスとはまことにベーコン的なジャンルではないか。展覧会を一巡するならば、多くの作品の画面上部にホリゾントのような空間が暗示され、画面が一種の舞台として実現されていることが理解されよう。あるいは画面に描かれた窓枠のような空間、それが「移りゆく身体」を保証していることはいうまでもないが、かかる空間はアルベルティ的な窓というより、舞台の書き割りとしての扉に見えないだろうか。マイケル・フリードではないがこのようなシアトリカルな空間に置かれた身体は既に俳優やダンサーを暗示している。ベーコンが描く空間はきわめてあいまいであるが、そこを上下に分割する線は高い位置に置かれているため、私たちはかなり高い位置から情景を俯瞰するような印象を受ける。対象に向けられた私たちの視覚は比較的安定しており、水平方向に向けられる。このような視覚を舞台上の演技やダンスに目を凝らす観客のそれに比すことは容易である。先に私はガラスの反射によって遮られ、絶叫や身体の変形を主題としたベーコンの絵画が共感覚的であると述べたが、今述べた点を考慮するならば、ベーコンの絵画における視覚性はかなり入り組んだ構造をとり、安定した視覚と不安定な視覚が葛藤している。絵画とは本来的に視覚的な営みであるから、西欧近代絵画の伝統の掉尾に連なるベーコンが一連のトリプティクに明らかな視覚的明瞭さを強調した構図を多用する意図は十分に理解される。しかしそれにもかかわらずそのような明瞭さを無効にしてしまうような不穏さを絵画は宿していないだろうか。土方とフォーサイスを参照する時、このような不穏さの由来が明らかになる。会場で上映されていた土方の「疱瘡譚」において土方は舞台の上に何度もくずおれる。この時、観者の視線が向かう画面に向かって奥方向のヴェクトルとは全く異なった軸性が露わとなる。それは重量をもった身体が倒れる際の下向きのヴェクトル、つまり重力の方向だ。土方の舞踏の異様さはその扮装もさることながら、立とうとして倒れる、身体が重力によって変形される過程にある。身体の変容もまた土方の一つの関心であり、ベーコンの絵画に認められる肉体の変形から触発され、土方が舞踏の中に重力という効果を導入したことは大いに考えられる。重力が視覚ではなく身体に関与する力であることはいうまでもない。絵画を一望しようとする水平の軸と重力にとらえられた身体の垂直の軸、ここでも二つの軸が対比される。このように考える時、ヴェルツ/フォーサイスの作品が展示に加えられた意味もまた明白である。フォーサイスは靴と手袋にグラファイトをまぶしてベーコンの絶筆をなぞる。フォーサイスの動きは白い床に残されたグラファイトの痕跡として記録される。ここに重力が関与していることはいうまでもないが、さらに注目すべきはこのような身振りをペーター・ヴェルツが上方、正面、横という三つの角度から撮影して三つのスクリーンに投影することである。ここで重要なのはうずくまるフォーサイスの姿態がベーコンの人物を連想させる点ではない。ベーコンのイメージに潜在的に関与した力、つまり肉体を歪ませる重力がスクリーンに可視化されたことである。そして重力とは身体に働く現実の力であるが、絵画においては表象されえない。(ここではポロックのポアリングまで議論を広げることは控えよう)つまりヴェルツ/フォーサイスはベーコンの絵画における身体という問題に全く新しい観点から光を当てているのだ。
 ベーコンに関して、ここでは絵画の求心性と遠心性、水平性と垂直性という二つの対立に即して私見を述べた。ひとまず議論を導入したにすぎず、まだ論じるべき多くの遺漏があろうし、なおも検討すべき点も多いことを認めたうえで、このうち後者の問題についてはおそらく本展を見ることなくして着想されなかったことを書き留めておきたい。以前にも記したとおり、優れた作家に関する真剣な展覧会は常に多くの新しい発見をもたらすのである。

by gravity97 | 2013-03-31 09:44 | 展覧会 | Comments(0)

「Gutai : Splendid Playground」 「Tokyo 1955-1970 」

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 ニューヨークの二つの美術館で日本の戦後美術に関する二つの展覧会が開催された。グッゲンハイム美術館における「Gutai : Splendid Playground」とニューヨーク近代美術館における「TOKYO 1955-1970」である。後者は2月25日で終了したが、10日間ほど二つの展覧会の会期が重なる時期がある。ニューヨークの主要な美術館で日本の戦後美術がこれほどの規模で紹介される機会はおそらく二度となかろうから、この期間をめがけて駆け足でニューヨークを訪れた。
 グッゲンハイム美術館の展示から始めることにしよう。これまでにも1994年の「Japanese Art After 1945 : Scream Against the Sky」や2009年の「The Third Mind」といった日本およびアジアの現代美術に関連した展覧会でキャリアを築いてきたアレキサンドラ・モンローと日本に留学して具体美術協会(以下、具体)の調査を行い、2011年には『GUTAI : Decentering Modernism』という研究書を発表したミン・ティアンポという二人のキューレーターによる企画である。活動中の1958年にニューヨークで具体美術展を開催したことがあるから最初ではないにせよ、これまで主としてヨーロッパで紹介が続いた具体にとって初めてのアメリカでの本格的な回顧展となる。もっとも実はしばらく前から世界的にこのグループへの関心が高まっていた。昨年の国立新美術館での回顧展は一つの呼び水と考えられるし、ニューヨークでもマキャフリー・ファイン・アートで何人かの作家の個展が開かれ、ニューヨーク近代美術館は最近村上三郎の《投球絵画》を購入している。(この作品は「TOKYO 1955-1970」で展示されていた。この展覧会が終了後は引き続きグッゲンハイムで展示されると聞いている)先般のもの派に関する紹介もあって、今やニューヨークのマーケットでは日本人作家の作品がかつてなく高騰しているといった下世話な話も耳に入っていたから、本展覧会はある程度、機が熟すのを待って開かれたといえるかもしれない。
 展示は基本的にクロノロジカルに構成されている。来場者はまず山崎つる子の赤い蚊帳に迎えられ、訪れた子供たちが楽しそうに出入りしていた。国立新美術館での展示同様、最初の野外展の紹介にかなり力が入れられ、再制作されたオブジェも展示の随所に配置されている。具体誌も陳列され、このグループが早くから海外との交流を進めたことが容易に理解される。アクションについては写真による紹介が多い。白髪一雄の「泥に挑む」はともかく村上三郎の「紙破り」も恒例の再演がなされず、(ほぼ同じ時期にシカゴに巡回した「DESTROY THE PICTURE」展では、企画者の前LAMOCAチーフ・キューレーター、ポール・シンメルが再演したと聞いた)大きな写真図版で再現されていた。多くの場合、絵画の傍らには関連したアクションを記録した映像が流されていた。同じ作家の作品は固めて展示される場合が多いが、18年もの長きにわたって活動した集団であるから、同じ作家の異なった時期の作品や絵画とオブジェがそれぞれ別々に展示される場合も多く、個展形式によるグループの回顧という形はとらない。昨年の国立新美術館での回顧展がグループとしての輪郭を正確に示すために、会員が増えた60年代後半以降に加入した作家の作品も丹念に加えていた印象があるのに対し、今回の展示では必ずしもグループを総体として提示する意図が認められない。国立新美術館での回顧展がこの集団の網羅的、客観的な紹介をめざしたのに対し、グッゲンハイムの場合は展示に濃淡がつけられ、この集団に一つの解釈を与えることが意図されているように感じられる。螺旋形の壁面を上がっていく独特の建築に従って順路は時系列を追って一方向的であるが、展示の中に例えば「パフォーマンス・ペインティング」や「ネットワーク」といったいくつかのキーワードを設定することによって具体の作家たちに共有された問題系も浮かび上がるように配慮されている。このあたりの演出は巧みであり、例えば比較的散漫なイメージがある後期の具体についても「エンヴァイロメント」という概念を導入することによって一つのパースペクティヴを与えるとともに、この主題が初期以来、具体に一貫された問題意識に連なる点が暗示されている。具体についてほとんど知識をもたないアメリカの観衆に対してクロノロジーとテーマ展示を折衷した構成は、明確な具体のイメージを与える。ちなみにカタログも同様の構成がとられ、具体の活動を通時的に紹介しながら、多くの作家たちに共有されたいくつかのテーマも示されている。展覧会は手練のキューレーターによる過不足のない展示として実現され、私が訪れた日も多くの来場者で賑わっていた。新聞等の展評も好意的であると聞く。
 展示を見ながら、私は企画者のいくつかの意図に気がついた。まずこの展示においてはリーダーである吉原治良にさほど重きが置かれていない。むろん有名な円の絵画をはじめ、いくつかの主要な作品は展示されているが、扱いはほかの作家と同列である。この点は昨年の国立新美術館における回顧展で吉原が独立したコーナーを与えられ、具体結成以前の作品を含めて画業が通覧されていたのと好対照である。これまで国内で具体の作家を紹介する場合は師である吉原と会員たちを区別することが多かったが、このような構成は国外において、しかも吉原も含め第一世代の作家たちがほとんど鬼籍に入ったことによって初めて可能となったように感じる。この結果、この集団は水平的な構造として理解される。別の言葉でいえば、そこに存在した集団を律する規範、それは悪くいえば吉原の独裁であったかもしれないが、この集団が一人のリーダーの意志のもとに統率されていたという事実が見えにくくなっている。第二に展示において絵画の占める比率が比較的小さいように感じられる。この点は具体の評価そのものと深く関わる点であるが、野外展などに出品されたオブジェ、あるいはその写真がクローズアップされる反面、絵画はそれが描かれるアクションのヴィデオ、あるいは関連するオブジェやドローイングとともに配置されることによって、いわば分断されて展示される。むろんこのような展示によって絵画の背景はよく理解されるから、その意図は明確だ。しかし結果として来場者はここに並べられた絵画をアクションの結果、オブジェの反映としてばらばらに理解するのではないだろうか。第三にこの点とも関わるが、展示においてもカタログにおいても写真や映像の占める比率が比較的高いように感じられる。今回の展示では私にとっても未見の資料が展示されており、それはそれで興味深かったが、私はこれらの特質によって具体の活動の本質の一つがあいまいとなってしまうのではないかと考える。それはこの集団の活動の中心が絵画であったという事実だ。おそらく来場者はこの集団が絵画を量産した画家集団であるとは理解しないだろう。このような理解はこれまでも具体評価の一面を構成していた。特に初期に明確であった野外展や舞台展、アクションに注目し、作品発表の多様性を強調する立場。これはハプニングの先駆者としての具体を評価し、アンフォルメルの指導者、ミシェル・タピエとの接触によってグループの先鋭さが失われたという具体評価のクリシェと一致する。今回の展示の最後になぜか活動の中期、1960年のインターナショナル・スカイ・フェスティヴァルの写真が展示されていることはこの点を暗示しているだろう。それではこのような展示から何が浮かび上がるか。
 私の考えではこのような展示は、具体の活動を欧米のモダニズム美術とは別の位相に封じ込めることを目指している。今述べたとおり、展示を見る限り、この集団が絵画の制作を活動の中心に置いたことは理解しがたい。アクション、オブジェ、空間造形あるいは映像や概念芸術の先駆、それこそ何でもありの特異な前衛作家集団として受け取られるだろう。確かにそれが具体の一面であることは認める。しかしこのような側面がニューヨークの美術館で強調されたことの政治的意味について私たちは意識しなければならない。この展覧会のプランが伝えられた最初から、私は「playground 遊び場」というタイトルに強い違和を感じていた。実際に会場の印象も遊び場に近い。野外展に展示された参加型のオブジェが会場に配置され、写真も掲出される。巨大な吹き抜けには元永定正の着色した水を用いたオブジェが張り巡らされて、それはどこにいても目に入るから、無意識のうちに展示全体を象徴する。子供たちが遊ぶ野外展の写真、真剣な創作というより一見、子供の悪戯のようなアクション、出口には(実際に野外展でも展示されていた)落書きボードが設置され、来場者は思い思いの感想を書き付けていた。冒頭のセクションは「play : an inhibited act」と題され、彼らの活動をあたかも、やりたい放題の遊びとみなすかのようだ。野外展の作品にも吉原の厳しい審美眼が働いていたことを知る私としては、このような見解には同意できない。さらに注目すべきはこのセクションにおける児童誌『きりん』の扱いだ。この展示では作家たちが関わったこの雑誌がとりわけ大きく取り上げられていた。私の考えではこの扱いは強引すぎる。具体と児童美術が無縁という訳ではない。しかしそれは当時の関西の美術状況や前衛書との関係、あるいはミシェル・タピエと協同して開催された国際美術展に比して取るに足らない問題ではないか。同時代の美術との関係を等閑視し、代わってオブジェの遊戯性、児童画との親近性を強調する展示は、具体の独自性を認めながらも、所詮、それが欧米のモダニズム美術から見るならば、コップの中の嵐ならぬsplendid playground の中の児戯であったことを暗示するかのようだ。しかし果たしてそうか。本論は具体について本格的に論じることを目的としていないため、いくつかの可能性を指摘するに留めるが、まず指導者吉原治良が阪神間モダニズムを体現する作家であった点は留意されるべきだ。戦前より吉原は海外の美術雑誌を取り寄せて、ヨーロッパのモダニズム絵画に知悉していた。「誰も描いたことのない絵を描け」という吉原の指導はオリジナリティーに重きを置くものであるが、吉原は作品を評価するにあたって形式のみをその基準としており、具体的にはモンドリアン的な抽象絵画の克服という目標を掲げ、児戯どころかきわめて明確な歴史意識を反映させていた。しかし先に述べたとおり、この展覧会で吉原ではむしろ作家の一人として取り上げられ、このような思想が具体を律した点を理解することはできない。さらに具体の絵画について述べるならば、まずこれらの絵画が抽象表現主義やアンフォルメルの絵画とともに国内外で展示されたという事実は無視されるべきではない。確かに先にも触れたニューヨーク展の際に彼らの絵画は抽象表現主義の亜流に過ぎないと酷評を受けた。しかし実は彼らの初期絵画は同時代の絵画と比しても遜色はないのではないか。例えば作品のサイズだ。今回の映像からもうかがうことができるが白髪一雄や嶋本昭三のアクション・ペインティングは当時世界的にみても破格の大きさであり、ポロックやニューマンを凌ぐ。この問題はこれまで全く論じられたことがないが重大であると私は考える。あるいは機械的オートマティスムと身体的オートマティスムが一つの集団において同期したことをどのように考えるか。さらには「Destroy the Picture」ではないが、欧米では60年代以降に露わとなる絵画を破壊するという機制が50年代中盤の絵画、しかも新しい絵画の創造という難問と取り組む中で多くの作家に共有されたのはなぜか。思いつくままにいくつか挙げたが、これらの問題は当時の最前衛の絵画に共有されたラディカリズムと関わっている。つまり本人たちは自覚していなかったにせよ、具体の作家たちの実践は同時代の絵画の超克という意識に根ざした真摯な応答であったのだ。しかし面白主義のオブジェや「子供の遊びのような」アクションを強調することによってかかる革新性、同時代性は隠蔽されている。
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 次に私たちはニューヨーク近代美術館の展示を訪れることにしよう。全館を使用したグッゲンハイムとは対照的に「TOKYO 1955-70」は会場がなんとも手狭だ。同じ階で「INVENTING ABSTRACTION 1910-1925」という特別展が同時に開催されていたが、なんとか会期と会場の調整ができなかったのだろうかと思う。この展覧会のために近代美術館は何度か研究会を開き、調査チームを日本に送り込んだと聞く。その成果は後述する論文集にも反映されており、入念な準備がなされた展覧会であることは直ちに了解できるが、それだけにもう少しゆったりとした展示を望みたかった。ここでも絵画、彫刻は言うに及ばず、写真や建築、実験映画からポスターにいたる幅広いジャンルで日本の戦後美術が総花的に紹介されている。しかしここにも一つの意図が見え隠れしている。今述べたとおり、会場には多数の作品がぎっしりと押し込まれた印象で、展示の文脈を見渡すことが難しい。東松照明のケロイドの写真に始まり、具体美術協会についてもいくつかの代表作が展示され、フルクサスと関係の深いハイレッド・センター周辺の資料やオブジェに続いて、タイガー立石の和製ポップ、そしてもの派による一連の作品まで、展示は一応クロノロジカルに構成されているが、ジャンルが多岐に及ぶこともあり、主要作品の変遷や運動の隆替といったかたちで美術史を読み解くことは困難とされている。私はこのような困難さは日本の戦後美術の本質も深く関わっていると考えるが、ここでその詳細については立ち入らない。この展覧会に先行する1986年のポンピドー・センターでの展覧会、先にも触れた94年のアレキサンドラ・モンローによるグッゲンハイム美術館での展示と比しても、コンテクストの希薄さは逆に今回の展示を特徴づけている。この結果、会場が狭いこともあって作品は相互に関係を作るというより、ばらばらに自己を主張している印象を与える。この結果、一群の作品がひときわ強いインパクトを与える。それは読売アンデパンダン展周辺で発表されたグロテスクなオブジェである。特に菊畑茂久馬による表面にびっしりと五円玉を貼り付けた一対の丸太のオブジェ《奴隷系図》と、無数の男根状のオブジェを天井から吊り下げた工藤哲巳の《インポ分布図とその飽和部分における保護ドームの発生》(驚いたことにこの作品は現在、アメリカのウォーカー・アート・センターに「収蔵」されているのだ)はほぼ同じ場所に展示され、展示効果はともかく会場で異彩を放っていた。《奴隷系図》は道祖神を模しているから、それぞれの丸太の中心にペニスとヴァギナを連想させる造形が施されている。私はこの会場に性器や身体器官を連想させる作品、裸体と関連する作品があふれかえっていることにいささか辟易としてしまった。赤瀬川原平の《ヴァギナのシーツ》、ハイレッド・センターの原寸大のブループリント裸体像、三木富雄の耳のオブジェ、映像に目を移せば全裸の男女が奇怪なアクションを繰り広げるゼロ次元の「いなばの白うさぎ」や土方巽の暗黒舞踏。戦後美術に認められるこれらの系譜については既に椹木野衣が『日本・現代・美術』の中で黒田清輝まで遡って「裸のテロリストたち」という一章を費やして論じており、私たちはこのリストに白髪一雄の「泥に挑む」や篠原有司男の一連のアクションを加えることもできるだろう。
 しかしそれにしてもなぜ裸体と性器なのか。むろん並べられた無数の作品の中からこのような主題のみを取り出すことは恣意的という謗りを免れないかもしれない。しかしながら私はこれら二つのキーワードが示唆するとおり、日本の戦後美術においては身体が、時に描かれた身体として時に描く身体として常に同伴したように感じるし、それゆえこの展示に一種の必然性も感じる。ここで私たちはグッゲンハイムの展示にも立ち戻ることができる。小児性や遊戯、身体や裸体、これらの概念が強調されることによって、西欧における「成熟した大人が真剣に取り組む視覚と関わる営みとしての美術」、それをモダニズム美術と読み替えてもよかろうが、その対極にある営みとして日本の戦後美術が了解されるのではなかろうか。偶然であろうが、先にも触れたとおり、同じフロアで同時期に開催されていた「抽象の発明」と題された展示を訪れるならば、このような対比はさらに明確である。「抽象の発明」は1910年代に世界各地で同期した抽象表現の成立をキュビスムから未来派、ロシア構成主義からダダイスムにいたる多様な作家と作品をとおして回顧する、やや教科書的とはいえ興味深い展示であった。そこでは抽象表現の成立というモダニズム美術の里程標が、ヨーロッパの作家による真剣な探求の結果として、知的に洗練された視覚的営為として達成されたことが明らかにされている。ニューヨーク近代美術館で来場者は通常全館観覧可能なチケットを求めるから、大半の来場者は二つの展覧会を一緒に見ることになり、二つの展覧会は対比されるはずだ。「抽象の発明」では一つの興味深い映像が上映されていた。それはマリー・ウィグマンというドイツの舞踏家の振り付けによる「抽象ダンス」であり、舞踏の抽象化、身体の抽象化が図られているといった解説が付されていた。1910年代のヨーロッパを扱った展覧会で「抽象ダンス」が上映される一方、半世紀後の東京を扱った展覧会で上映されているのはゼロ次元と暗黒舞踏なのだ。抽象性と具体性、観念性と土俗性、二つの展覧会を続けて見るならば両者の異質性が際立つことはいうまでもない。今回のカタログの表紙にはハイレッド・センターの活動の中で顔中に洗濯バサミを付けたまま歩行する中西夏之の写真が用いられている。何も見えない状態で痛みを感じながら歩く作家の姿は視覚ではなく身体と深く結びついた日本の戦後美術、欧米のモダニズムとは全く異質の営みを象徴するかのようではないか。
 展覧会は常に一種の政治性を帯びる。作品の選択とはほかの作品を排除することでもあるから、私は例えば山口長男や斎藤義重の不在を理由にこの展覧会を批判しようとは思わない。いかなる作品の選択し、いかに配置するかは企画者の見識である。しかし同時にこのようにして表象された具体の活動、日本の戦後美術が誰の、いかなる無意識を反映しているかについては自覚的でなければならないと考える。今回の展覧会を機にニューヨーク近代美術館は『ポスト・ウォーからポスト・モダンへ』という日本の戦後美術に関する基礎的文献を網羅した論集を刊行した。日本側の協力者もあり、きわめて充実した内容であるが、私が驚いたことにはこのような論集はこれが初めてではなく、既に中東ヨーロッパやブラジル、中国といった地域の美術に関しても同様に基礎文献をコンパイルした論集が同じ美術館の手によって出版されているのだ。一つの機関をとおして世界の現代美術に関する基礎文献が英語へと翻訳紹介されていくことはある意味では画期的であるが、別の意味では極めて危うい。とりわけ日本の戦後美術に関してはここ数年の展覧会に関連して刊行されたカタログ、あるいはアメリカの大学に提出された多くの博士論文などによって英語での蓄積が進み、今後日本よりも英語圏において研究が活発となる事態も予想されるだろう。私たちが日本の美術を検証するにあたって欧米という鏡、英語という言語を介すという倒錯した状況も今後大いにありうる。そもそも今回の展覧会自体が鏡に映った自分たちの姿なのだ。もはや鏡に映ったことを喜んでいる場合ではないだろう。今や鏡の歪みを意識し、場合によっては鏡像を補正することが私たちに求められているのではないだろうか。

 例によって辛口のレヴューとなったが、二つの展覧会はわざわざニューヨークまで足を運んだことが報われる充実した内容であった。多くの困難を乗り越えて、これら二つの展覧会を実現した関係者に敬意を表したい。この過程で整理された日本の戦後美術に関する情報は今後英語圏で共有されることとなるだろう。そして戦後美術への関心が高まっているのはアメリカのみではない。このところ日本国内でも1970年代の文化、1950年代美術、最近では実験工房に焦点を絞った優れた展覧会が続いている。海外の有名美術館の三流コレクションを並べた展覧会ばかりが目を引く昨今、美術館にとって基本とも呼ぶべきこのような展覧会が連続して企画されていることは大いに喜ばしい。同時にかかる高まりを一過性の流行に終わらせることなく、日本の戦後美術という異例の営みに本質を解明することがまさに私たちに求められているように感じる。
 なお、今回の展覧会には膨大なテクストが付随する。早い時期にレヴューする必要を感じたため、これらについてはまだ読み込んでいない時点での所感であることを最後に付言しておく。

by gravity97 | 2013-03-04 17:43 | 展覧会 | Comments(0)

「福岡現代美術クロニクル 1970-2000」

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 ごく最近終了した展覧会であるため、もう少し早くレヴューできなかったことが悔やまれる。福岡県立美術館と福岡市美術館という二つの会場で開催されていた「福岡現代美術クロニクル 1970-2000」について書き留めておきたい。
 タイトルのとおり、福岡を中心としたほぼ30年間の現代美術の動向を紹介する内容である。出品された作品は発表された時期によって機械的に二分され、前半、1970年から80年代初めまでが福岡県立美術館、それ以降が福岡市美術館で展示されている。といっても80年代前半の作品の展示区分はさほど厳密ではないし、スタイルを大きく変えた作家は両方の会場に作品が展示されている。作品のジャンルは絵画、彫刻から映像まで多岐にわたり、注目すべきは美術館や展覧会ばかりでなく、画廊や教育機関、都市開発やネットワークといった美術の周辺にも丹念に目を配っている点である。私はこの時代の福岡の美術状況について雑誌や展覧会カタログを通して漠然とした知識をもっていたが、今回の展覧会を通してこれらの知識が作品とともに整理され、多くの新しい発見もあった。
 1970年という展覧会の起点は別の言葉を用いれば、「九州派」以後ということであろうか。展覧会のカタログに寄せたテクストの中で企画者の山口洋三は「九州派の余韻の中で」という表現を用いている。もちろん九州派の作家たちはこの時期も活動を続けていたが、彼らの直接の影響を受けない新しい世代が登場したということであろう。この点を関西における具体美術協会と比較することは意味があるかもしれない。具体美術協会も1972年まで存続したが、後続する若手たち、具体的には80年代以降に活動を始めるいわゆる「関西ニューウエーヴ」とはほとんど関係をもっていない。いずれの運動も後期にいたるや当初の先鋭さを失って弛緩した(この点は昨年、国立新美術館で開催された具体美術協会の回顧展に関してしばしば指摘された点である)といったやや意地の悪い見方をとらずとも、これら二つの運動が少なくとも活動の核心においては容易に模倣することができない過激さを秘めていた点、いずれの作家たちも少数の例外を除いて、大学や美術学校で後進の指導にあたることがなかったことなどが理由ではなかろうか。福岡市美術館における「九州派展」において九州派が初めて運動として総括されたのは1988年のことであり、具体美術協会の活動が単なる回顧ではなく、より広い文脈で総括されるのは1985年、国立国際美術館における「絵画の嵐」展以降となる。
 展覧期の章立てに従って、おおよそ10年ごとに福岡の美術状況を確認するならば、まず1970年において私の目を引いたのは多くの集団が次々に簇生し、比較的短い期間に活動を終えるという状況である。いくつかを列挙するならば、TR同、グループ玄、WORK PARTY STUDIO、ゾディアックそしてIAFといった集団である。ほとんどが私にとって初めて聞く名前であった。会場にもカタログにもこれらのグループの構成や活動について簡単な紹介が付されており、理解の一助となる。ここで個々の集団について論じる余地はないが、私が興味を抱いたのは、彼らの仕事に比較的穏健な表現と過激なパフォーマンスが同居しているように感じられることだ。福岡県立美術館に展示されたこの時期の作品は平面も立体もそれなりに興味深いとはいえ、微温的で既視感がある。一方でこの時期に繰り広げられた彼らのパフォーマンスはしばしば街頭で挙行され、一般人を巻き込む内容が多い。TR同によるビラの配布や街頭への落書き、あるいは「レスポンス・デスマッチ」と呼ばれる街頭での公開ドローイングはかつて九州派が行った集団示威行為を連想させる。私は黒ダライ児の『肉体のアナーキズム』中で言及されていた集団蜘蛛による過激きわまりない街頭パフォーマンスもこの時期ではないかと考えていたので、展示中に集団蜘蛛についての言及がないことをやや不審に感じたのであるが、あらためて黒田の論文を参照するならば、問題の行為は1970年であり、彼らの活動は展覧会に先行している。市街地での作品発表はこの後も多くの作家によって手がけられているが、これを九州派以降連綿と続く前衛美術の特異な伝統とみなすかどうかは微妙な問題である。
 1980年代の福岡の美術状況も私には大変興味深く感じられた。章のタイトルともなっているとおり、キーワードは「交流」である。この時期、福岡市内に設立されたギャラリーやジャズ喫茶は作家たちの発表や交流の場となる。例えば閉店する際に店内を作家たちの表現の場として解放した「イヴの林檎」というジャズ喫茶のオーナー、高向一成はバリー・ル・ヴァや李禹煥を連想させるガラス割りのパフォーマンスでも知られた作家であった。また当時、久留米の石橋美術館や福岡市美術館で開催された現代美術展もこの地域の先鋭な作家たちが交流する場であり、出品作も多く展示されて当時の気風を伝える。もっともこのような交流はおそらく日本各地で行われていただろう。この時代の福岡において注目すべきは、東京から来た何人かの作家がこの地に大きな影響を与えたことにある。その一人が川俣正である。1983年に福岡市美術館で開催された「素材と空間」展に戸谷成雄、保科豊巳とともに参加した川俣は美術館のみならず近郊のアパートを舞台に作品を設置する。今でこそ既存の施設を使ったサイトスペシフィックな造形は珍しくないが、この仕事は山野真吾が開設したIAFに集う若手たちに強い影響を与えたという。山野もこの企画に深く関わっている。近年、アートプロジェクトのオルガナイザーとして辣腕をふるう山野自身が作家であったことを私はこの展覧会で初めて知った。学芸員と作家、オルガナイザーの幸運な協同が福岡という地域に一つの刺激を与えたといえよう。川俣はこの後も田川市の「コールマイン田川」で持続的に九州と関わりをもつ一方、各地で同様のプロジェクトを続ける中でいわば交流の接点として、地域間ネットワークを作り出し、福岡の作家たちは北海道、東京、関西といった地域とアーティスト・ネットワークという運動体をとおして交流を重ねていった。カタログ中でも触れられているとおり、このような状況は、制度に依拠しながら、フットワーク軽く巧妙にずれていく川俣という傑出した才能によるところも大きいだろうが、ここでは中央で活躍する作家が地方に赴いて教えを垂れるという上からの交流ではなく、地方同士の水平的な交流の可能性が示唆されている点に注目したい。このパートで紹介される作家たち、例えば柳幸典や藤浩志、そして早世した殿敷侃らは皆、このような水平的な運動性によって特徴づけられる。かかる可能性に拘泥する理由はいうまでもない、このような水平性は後述するアジアとの交流においても顕著な特質であるからだ。
 もう一人のキーパーソンは松本俊夫である。私はうかつにも今回の展示を見て初めて松本が80年代に九州芸術工科大学で教鞭を執り、実験映画のメッカとも呼ぶべき時代を築いたことを知った。この経緯についてはカタログ中に収められた松本の文章に詳しい。ここでも松本とかれに師事した学生たち、そして地元で活動を続けていた映像作家たちの協同が認められる。福岡の文化的ポテンシャリティーの高さといってしまえばそれまでだが、地方における文化という問題を考えるにあたって示唆的であろう。ただし映像作品についてはいつも感じることであるが、美術館という場所は必ずしも望ましい上映の場所ではない。短い滞在でそれらを全て見ることはできず、例えば福岡の実験映画の特性や影響関係といった踏み込んだ問題まで見極めることは難しいように感じた。
 1980年代後半より福岡の美術状況はさらに活発になる。1987年、北九州八幡における国際鉄鋼彫刻シンポジウム(これについても詳しいドキュメンテーションが展示されていた)に続いて、北九州に海外作家との交流の拠点が設立され、後のCCAへと展開される。私も当時よりその活動については聞き及んでいたが、中村信夫の幅広い人脈に基づいて海外作家や批評家を招聘し、サマースクールというかたちで国内作家との交流を深めたCASKそしてCCAの活動については今後なんらかのかたちで総括されるべきであろう。一方1990年にはミュージアム・シティ・天神がオープンし、意欲的な作家紹介が始まる。先にも述べた通り、街を美術によって刺激するという姿勢はここでも確認することができよう。この背景にいわゆるバブル景気を指摘することはたやすい。振り返ってみるに確かにこの時代、日本の現代美術はかつてない活況を呈しており、東京や関西のみならずその余波が福岡にも及んでいたことがわかる。森村泰昌の巨大なバナー作品や草間彌生の黄色い南瓜など、世界的に知られた作家の作品が巨大な商業施設に設置される傍らで、地元の作家の作品も積極的に取り入れられたようである。しかしサイトスペシフィックな作品の常として、これらは展覧会の中では紹介しにくい。ミュージアム・シティ・天神では1991年に中国前衛美術家展と銘打った画期的な展覧会「非常口」が開催された。今でこそ中国の現代美術に注目が集まっているが、この時期にかくもラディカルな展覧会を開くことができたのは、キューレーターの費大為の存在のみならず、福岡という土地が福岡アジア美術館の活動をはじめ、長年にわたってアジアの現代美術との親密な交流を続けてきた背景があるだろう。この展覧会を見た後、私は福岡アジア美術館にも足を運び、常設展示を一巡した。あらためてその蓄積に驚く。それは都市としての、美術館としての見識であろう。今回は展示の中にミャンマーの現代美術さえも組み込まれていた。アジアという広い地域を対象に、国によって濃淡をつけることなく、どの国とも平等な、つまり水平的な交流は福岡が「地方」であるがゆえに可能であったかもしれない。
 展覧会を通して30年間の福岡の美術状況を回顧する時、いくつかのトピックが浮かび上がる。一つは地域性と国際性の対立であり、この点は九州派と今回出品した作家たちとの関係として了解されよう。先に述べたとおり、両者はほとんど交差することがなかった。地域主義と国際主義という対立を私はアメリカの抽象表現主義から借用したが、ニューヨークの若手作家にとって国際主義がヨーロッパのモダニズムを意味したのに対して、福岡の作家たちにとっての「国際主義」とは明確なモデルをもつことのない、いわゆる「同時代の現代美術」であった。彼らの表現は明確な運動のかたちをとることがなくまとまりに欠ける。既に発表されていた文章ではあるが、カタログに収録された黒田雷児の辛口のコメントはこの点と関わっているだろう。第二に美術館やギャラリー以外の場所、商業施設や市街といった場で発表される、あるいは深く関わる作品が多いように感じられる。このような特質はどこからもたらされたのであろうか。オフ・ミュージアムの隆盛になにかしらの意味を見出すか、バブルの徒花とみなすかは判断が難しい。60年代のパフォーマンスの伝統を引き継ぐ系譜ととらえることは無理だろうか。このあたりも『肉体のアナーキズム』の著者に問うてみたい問題だ。三番目に福岡という「地方都市」とアジアの関係である。アジアの名を冠した美術館をもち、実際にアジアとの交流拠点として知られる都市の美術はかかる地政学的な位置を反映しているのだろうか。この問題は最初の地域主義と国際主義の対立へと立ち返り、さらに私たちは今やグローバリズムという新しい変数さえ手にしている。福岡の美術にアジア性を求めることは一種逆向きのオリエンタリズムかもしれない。そもそも美術の「アジア性」とは何か。優れた展覧会の常として、展覧会をめぐりつついくつもの新しい認識、そして多くの疑問が生まれた。
 アジアの現代美術の隆盛と反比例するかのように日本の美術界はバブル景気崩壊後、冬の時代に突入する。この展覧会は2000年を区切りとしているから、宴の後、今世紀の状況については触れていない。冬の時代に入ったのは美術館も同様だ。設置された地域の美術状況を展覧会として紹介することは公立美術館としてはごく当然の務めである。しかし今日、このような展覧会さえも決して容易ではないことを私たちは知っている。海外の有名美術館の三流コレクションを展示することは許されても、地元で真摯に制作に取り組む作家たちを紹介することは困難であるという逆説。このような状況の中、県立と市立という二つの美術館がタッグを組んで一つの地域の美術を回顧したことの意義は大きい。展覧会とは選択と排除のシステムであるから、作家や作品の選択は当然議論や反発を呼ぶだろう。しかしそれを恐れず、一つかみの歴史を提示すること、ローカル・アート・ヒストリーの構築は公立美術館の本来の使命であるはずだ

by gravity97 | 2013-02-14 22:08 | 展覧会 | Comments(0)

「美術にぶるっ!」

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 先日、東京国立近代美術館の開館60周年記念展「美術にぶるっ!」を訪れた。周年にコレクション展が開かれた場合、アリバイ的な味気ない展覧会となる場合が多いが、さすがに近代美術館、一筋縄ではいかぬ刺激的な内容となっている。このところ、海外、特にアメリカで日本の戦後美術を主題とした展覧会が次々に開かれ、英語による原資料の紹介、そして作品研究が進められている。私としてはこのような状況に一つの危機感を抱いているが、それについては別稿で論じることとして、かかる趨勢に対して一矢を報いた内容としてもこの記念展の意義は大きい。
 「美術にぶるっ!」はいつものコレクション展示同様、4階に始まり、時代を下るにつれて階下へと降りて行く。最初にベスト・オブ・ベストと呼ぶべき作品を一室に集めたり、開館の折りに収集された作品で展示の一角を構成したり、それなりに工夫もある。作品に付されたコメントもよく練られており、美術館の建築を取り入れた展示も含めて、若手のキューレーターの視点がうかがえて楽しめる。展示では人の表現、前衛の登場、戦争の世紀といったテーマに基づいて編年体で日本の近代美術史が紹介される。このうちいくつかのテーマについてはこの美術館で、あるいはほかの美術館で近年、一つの企画展の主題とされたことが思い起こされる。テーマのみならず作品も見慣れたものが多いからさほど新鮮な印象はないが、この美術館の使命は日本の近代美術の「正史」を編纂することであり、このような「正史」への批判は当然ありうるとしても、ひとまずはこの展覧会では多くの名品を一度に見ることができることを純粋に楽しめばよいと思う。大観の《生々流転》であれ劉生の切り通しであれ、今まで何度も見たことがあるにもかかわらず、付されたコメントを介して個人的に新たな発見があり、この美術館のコレクションの層の厚さをあらためて思い知る機会となった。しかしそれだけでは最初に述べた通り、名品揃いであってもキューレーションの要素が少ない味気ない展覧会でとなっただろう。今回の展示の注目すべき点は一方で名品をたどる水平的な構成をとりながら、通常企画展が開催される一階の展示室において展覧会に垂直に切り込むかのようなきわめて批評性の高い一連の展示がなされていることである。いうまでもなくこの展覧会の第二部と位置づけられた「実験場 1950s」である。
 このような二部構成自体は特に目新しくはない。第一部に出品された作品が展示の構成上、東京国立博物館等から一時的に借用された内容を含むとはいえ、基本的にコレクションから出品され、その意味でも「MOMATコレクションスペシャル」と銘打たれていたのに対して、第二部は明確な意図とともに他の美術館から借用された作品群と東京国立近代美術館のコレクションによって構成されている。つまりコレクション展と企画展が並立しながら、全体としては企画展も通時的な構成の中に組み込まれるという二重構造によってこの60周年展は成立しているのである。《騎龍観音》など近代洋画の濫觴から時代を下りながら作品を巡覧した観者は二階のあたりで奇妙な中断を体験する。近代美術館が所蔵する海外作家の作品を集めたコーナーは国籍の違いによって説明できるにせよ、日本の近代美術の文脈が唐突に断ち切られ、荒川修作や高松次郎の概念的な作品に出会うこととなるのだ。一階に降りると私たちはこの中断の意味を知る。欠落していた時代、とりわけ1950年代を集中的に取り上げる「実験場 1950s」の展示に立ち会うからだ。そして第二部に歴史的、通史的な文脈は初めから存在しない。
 第二部の展示において1950年代が特集された理由、正確に述べるならば1952年が起点とされた理由は単純だ。1952年は東京国立近代美術館が開館した年であり、周年展にふさわしい。しかしここで冒頭に展示されるのは作品ではない。それは原爆投下から7年後の広島市の復興の模様を撮影した朝日ニュースの映像である。映像は新しい家並みを映し出して戦争からの復興が順調である点を示しながらも、原爆投下直後の酸鼻極まりない被害と広島の光景、あるいは52年当時も残存する被爆の影響についても詳しく述べている。いうまでもなくここには2012年が二重化されている。被爆直後の焦土と化した広島のイメージからは東日本大震災の津波によって廃墟と化した東北の被災地を連想せずにはおられず、同様に半世紀後に原子力災害として放射能による災厄が同じ日本で繰り返されたことに思いを向けずにこの映像を見ることは困難である。私はこの映像から直ちに椹木野衣が日本の戦後美術(椹木の場合は1955年以後が想定されていたが)を一種の「悪い場所」、閉じられた円環とみなしたことを連想した。今回の展示に同じ意図があるかどうかはひとまず措き、展示は50年代の美術を政治的な文脈との関連において検証し、その際には記録映画や写真、週刊誌や宣伝文書といった異なったジャンルの表現が多く参照されている。私はこのような発想と展示が先日まで埼玉県立近代美術館で開催されていた「日本の70年代 1968-1982」の展示と近似している点に興味を抱いた。企画者の鈴木勝雄はこの展示と関連して刊行された論集の冒頭で今回の企画の動機を列挙している。まず美術という制度の中で自閉する既存の美術史によっては50年代美術の豊饒を把握することができないこと、そしてこれまで50年代美術がリアリズムとモダニズムの二律背反的な対立として捉えられてきたことへ違和感などである。続いて鈴木は文化の政治性を美術史の文脈において論じることの必要性と「リアリズム」概念の再検討、そしてこれまで広く「リアリズム」と括られてきた表現の変遷や形式に対する分析の必要性を説く。鈴木によれば本展に先行して目黒区美術館における「1953年ライトアップ」と名古屋市美術館における「日本のリアリズム」という二つの展覧会が存在するが、これらの観点に立つならばいずれも不十分であった。私も両方の展覧会を見たが、確かに前者からはなぜか「社会主義リアリズム」が排除され、後者は大量の作品をただ羅列した趣であり(それはそれで展示の手法として一つの明確な意図のもとになされたと考えるが)、いずれも不徹底な印象があった。今回は重要な作品が網羅されるとともに記録映像が充実し、当時の熱気を背景に作品が制作された必然性が強く意識される。たとえば亀井文夫の記録映画の横に中村宏の《砂川五番》が置かれ、北朝鮮への帰還事業を伝えるニュースの横に曹良奎の《密閉せる倉庫》や《マンホール》が展示されている状況からは、時代の熱気と閉塞感がともに伝わってくる。私の記憶によれば後者の作者はこれらの鮮烈な作品を発表した後、北朝鮮に「帰還」し、その後の消息が不明となったのではなかっただろうか。
 個人的に私が関心をもったのは「静物としての身体」と題されたコーナーである。鶴岡政男の《重い手》と阿部展也の一連の絵画、村岡三郎の《背》、浜田知明の「初年兵哀歌」そしてなによりも河原温の「浴室」シリーズ、これらの一連の作品は手法も表現もそれぞれ異なるにも関わらず、明らかに一つの時代の気風を表象している。先に触れた論集の中で大谷省吾は「静物としての身体」というセクションのタイトルそのものが死体を暗示しているという興味深い指摘を行っている。これらの作品の息詰まるような閉塞感から私が連想したのは欧米の絵画ではなく、野間宏の「暗い絵」や椎名麟三の「深夜の酒宴」といった同時代の文学であった。論考の中で大谷も浜田知明の「初年兵哀歌」と野間の「崩壊感覚」で表象された二つの縊死体を対比的に論じ、さらに河原温の「浴室」と大江健三郎の「死者の奢り」における死体の集積に言及して論を終えている。これらの作品はすべて死体を主題としている。序論でも指摘されるとおり、当時は花田清輝や佐々木甚一といったジャンルを超えたイデオローグが存在したという事情はあったにせよ、文学と美術がきわめて親和し、主題において共通性をもつのみならず、形式的な比較さえ可能であることにこの時代の表現の特異性をみる思いがする。この意味において通時的な分析を一度解除したうえで、ジャンルの横断性に50年代美術の特質を認める本展の姿勢は有効といえよう。
 以上の点と深く関連するが、今回の50年代の特集展示を見て私が強く印象づけられたのはジャンルや作家を横断して実にさまざまの身体が登場することだ。あたかもコレクション展示の中でも圧倒的な存在感を見せつけた藤田嗣治の《アッツ島玉砕》中に累々と横たわる死体のごとく、作品の中に身体が表象される。最初の部屋に展示された被爆者のケロイドの写真はこの意味においても象徴的である。50年代をとおして繰り返し私たちが出会うのは切断され、積み重なり、時に不気味に変形し、虐待の跡を留めた身体である。同じ時代、海外に目を向けるとやはり人体を主題とした記念碑的な作品が存在する。デ・クーニングの《女》、フォートリエの《人質》。第二次大戦の記憶も生々しいこの時代に身体が作品の共通の主題とされたことは時代の必然であったかもしれないが、これらと比してもこの時期に日本で描かれた身体の異様さは突出している。「実験場50s」においては主として50年代の具象的な表現をたどりながら、この点が確認された。しかし私は同じ系譜を60年代以降の美術、そして同じ時代の抽象絵画の中にも伏流水のごとく認めることができるのではないかと考える。すなわち読売アンデパンダン周辺、具体的には工藤哲巳、荒川修作、あるいは三木富雄から赤瀬川原平にいたる作家のオブジェに執拗に反復される切断された器官のイメージ、あるいは性器や胎児を連想させるグロテスクなイメージ。一方で今回は展示された作品が少なかった50年代の具体美術協会の活動において作家の身体は泥と格闘し、紙の衝立を破り、絵具壜をカンヴァスに叩きつけた。前者を河原温の(この展示には加えられていないが)「死仮面シリーズ」(1955/56)に、後者を反基地闘争の写真にとどめられた参加者の肉体と熱気と関連づけることは決して強引ではないだろう。この意味においてもこの展示で紹介され、「実験場」と名づけられた50年代美術は実に日本の戦後美術の原基なのである。
 ひるがえってこれらの表現に徹底的に欠落している要素、それは視覚性という主題である。視覚と身体を対立的にとらえることに議論の余地は大いにあるが、作品の視覚的な在り方がこれらの作品においてさほど重視されていないことは明らかである。いうまでもなくこのような美術の在り方は欧米のモダニズム美術の対極にある。再び「MOMATコレクション」に戻るならば、明治期以降の日本の近代美術にあって萬鐵五郎、岡本唐貴らわずかな例外を除いて、絵画の視覚的、形式的な探求がなされたことはなく、60年代以降の美術はもはや視覚ではなく概念や観念が主題とされている。例えば辰野登恵子や中村一美のごとき、絵画の形式的な探求者が日本にいなかった訳ではない。しかし意図的であろうか偶然であろうか、彼らが登場する80年代以降の美術を欠いたことによってこの展覧会は日本の近代美術の充実と同時に一群の作品の不在を強く意識させる内容となっている。私は欧米の「美術史」を規範とみなす立場には立たない。しかしここで日本の近代美術の正史として登録された作品群は、逆説的にも充実ではなく欠落をとおして美術史における近代日本の特殊性を物語っている。b0138838_2246959.jpg

by gravity97 | 2012-12-04 22:49 | 展覧会 | Comments(0)

「与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄」

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 展覧会は既に終了しているが、「与えられた形象」と題され、国立新美術館で開催された辰野登恵子と柴田敏雄の二人展について触れておきたい。作品の質の高さはいうまでもなく、展覧会という営みについても深く再考を促す刺激的な内容であった。二人の作品についても論じたい点は多いが、それには個別の論考が必要であり、相当の準備が必要となるだろう。ここではあくまでも展覧会をとおして喚起された思考の断片を記録するに留めておく。
 国立新美術館における大型の二人展には先例がある。それは2009年に開かれた松本陽子と野口里佳の二人展であり、二つの展覧会にはいくつもの共通点がある。いずれも同じ学芸員によって企画され、絵画と写真というジャンルの異なった表現を取り上げている。さらにいずれの展覧会も統一的なタイトルが付され、広い会場を贅沢に使った展示がなされていた。しかし両者には差異も存在する。例えばカタログだ。松本と野口の二人展がそれぞれの作品を収録した二分冊として発行されたのに対して、片手では持ちきれないほどの重量の今回のカタログでは辰野と柴田の作品が同じ一冊の中に収められている。私は松本/野口展も見たが、私の記憶が正しければ、この展覧会では二人の作品が別々に、つまり連続する二つの個展という形式で展示されていたように思う。これに対して、今回はかなり特殊な展示がなされていた。すなわち二人の作品は交互に展示され、しかもその配列はクロノロジーに依らない。例えば辰野であればS字形や花模様といったイメージが導入された80年代のよく知られた作品からスタートした後、70年代の格子のミニマリズムへと遡行し、21世紀に制作された近作に続けて、東京芸術大学在学時に描かれた覚しき初期の具象絵画が展示される。そして辰野の通時的な脈絡を欠いた展示のいたるところに柴田の写真作品が挿入される。柴田の場合、展示は写真集などにまとめられたシリーズごとに編成されているが、辰野と同様に新作や初期作品を含めて時代的な振幅は大きく、クロノロジカルな構成はとられていない。時間的文脈を意図的に脱落させる展示の手法は今回の展覧会において個々の作品以上に前景化されている印象がある。
 辰野と柴田は東京芸術大学の油画科の同級生であり、さらに付け加えるならば二人とも現役で入学している。二人が入学したのは1968年という「政治の季節」であったが、二人ともそのような政治性から距離を置いていることは初期作品を見るならば、明らかであろう。彼らは同級生の鎌谷伸一とともに学生運動の余波で誰もいない教室を使って「コスモス・ファクトリー」というスタジオを開設する。村松画廊で開催された「コスモス・ファクトリー」の三人展ポスターが出品されているが、そこには明らかにアメリカのコミックが引用され、右端にはドナルドダックの姿さえ認められる。彼らとディズニーの取り合わせは意外であるが、そもそもこのスタジオの名前はアメリカのロック・バンド、クリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァルのアルバムからとられているという。彼らが自らの表現を育むにあたってアメリカの大衆文化が素地を形成したという事実は興味深い。さらに注目すべきは二人がともに版画という表現に関心を寄せた点である。アメリカの大衆文化と版画、両者の共通点は複数性と反復性であり、それらは同時代のポップ・アートの中にも色濃く反映されている。資質的にポップ・アートから最も遠くに感じられる辰野と柴田がかかる表現と親和したという事実は単に時代を共有したという以上の意味をもつように私は感じる。このカタログには二人の対談のほかに、多くの示唆に富んだ作家の言葉が収録されている。80年代に自らの絵画に導入したイメージについて辰野は次のように語る。「これらのモティーフをとり上げたと言っても、それ自体に関心があった訳ではありません。ですから、絵の主題というわけではありません。むしろ、一種の口実のようなものです。私が1970年代から一貫して関心のあったのは、連続性であり、また連続性の遮断や断絶です。それは連続的なパターンやモティーフを通じて表現されるのです」グリッドを用いた初期のシルクスクリーンを想定するならばこの言葉はたやすく理解される。そして今述べた複数性と反復性は同一の画面においては連続性として表出されると考えられないだろうか。一つの画面に連続して反復される単位とそれからの逸脱。このように考える時、私は柴田の初期の写真においても連続性とその遮断という構造が頻繁に現れていたことは重要な意味をもつように思う。柴田が取り上げるのは道端の法面(切取り、盛り土によって形成された人工の斜面)であり、石垣であり、風景の中の堰堤(砂防ダム)であった。罫紙のごとき格子模様とコンクリートで固められて分割された斜面、辰野と柴田がともにグリッドという単位から出発したことは示唆的ではなかろうか。
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 ところでロザリンド・クラウスはよく知られた論文の中でグリッドについて次のように論じている。「近代の全美学的生産の中で、これほど執拗に持ちこたえ、同時に変化を受け付けなかった携帯は、他にはなかったと言って差し支えないだろう。印象的なのは、グリッドの探求に捧げられた生涯の絶対数ばかりではなく、探求というものがこれ以上不毛な地を選択することはできなかっただろうという事実である。モンドリアンの経験が十分明らかにしているように、発展とはまさにグリッドが拒むところのものだ」グリッド構造はそれ自体で自足しており、展開しえない。そしてこのような構造は展覧会という制度にも拮抗するのではないか。展覧会、とりわけ一人の作家の個展において、作家は生涯をかけて作品を展開、発展させるという認識が共有されている。もちろん変化が「発展」とみなされない場合もありうる。しかしその評価はともかく、作品が変化を遂げることは自明であり、それを跡づけることが多くの場合、展覧会の意味であった。一人の作家が青年期の多くの習作を経て、壮年期に独自の表現を樹立し、老境に入るや円熟の域に達する。通常であればこのような理解に基づいて作家の個展は構成されている。そこで重視されるのは習熟、深化、円熟といった作品相互の通時的な文脈である。本展の企画者が二人展という形式を用い、先に述べたとおりあえて時間的な文脈を脱臼させて展示を構成する時、そこには辰野と柴田の作品の構造そのものが反映されているのではなかろうか。記号論的に述べるならば通常の展覧会が作家の時間的「成長」を前提とした連辞論的な構造を前提としているのに対して、「与えられた形象」は相互に交換可能な連合的な関係に基づいた展覧会として成立している。二人展という枠組自体が二人の作家の交換可能性を暗示しているだろう、さらにひるがえって辰野の70年代のシルクスクリーン、モティーフの連続によって特徴づけられる80年代の絵画、より明瞭で識別可能な対象が描かれた2000年代の絵画、これらをたまたまその時期に制作された交換可能なシリーズと考えることはできないか。影響や成熟といった「近代」絵画に密接に結びついた作業仮説に拘束されている限り決してありえない発想であるが、そもそも作家は「成長」、「成熟」しなければならないのであろうか。それに代わって「選択」することはできないか。柴田の作品を
b0138838_10344176.jpg通覧するならばこのような可能性が理解できる。法面、ダム、堰堤あるいは高速道路沿いの夜景、柴田のモティーフが法面から堰堤へと変化したとしてもそれは写真家の成熟を意味しないことは明らかだ。柴田の写真からベルント&ヒラ・ベッヒャーが給水塔を撮影した一連の作品を連想することはたやすい。彼らの作品が暗示するとおり、70年代のコンセプチュアル・アートには明らかに成熟とか完成といった概念を否定する契機が含まれていた。それは端的にモダニズムの否定であり、近代という枠組に束縛された展覧会という制度に対する批判でありえた。
 クリフォード・スティルの絵画に対する共感を語り、抽象表現主義を継承したいと述べる辰野が真正のモダニストであることは明らかだ。二人展という形式をとるにせよ、辰野の代表作をほぼ網羅し、国立新美術館という壮大なホワイトキューブの中で実現された本展は一面では日本のモダニズム絵画の最良の部分を紹介する試みである。その一方で辰野と個人的に親交があり、資質的に多くの共通点をもつ柴田の写真を辰野の絵画の傍らに確信犯的に挿入することによって、この展覧会は辰野の絵画を支えてきた体系そのもの、さらにいえば展覧会という制度そのものの中に軋みを生じさせる。この二人展が優れた作品に出会うことの喜びとともに強い緊張感を見る者に強いる理由はこの点にあるだろう。
 例によって主として展覧会の形式的な側面について論じた。二人の作品、特に辰野の絵画の「展開」について論じたい問題は多いが、展覧会レヴューという本論の枠組を超えてしまう。別の機会に譲りたい。 

by gravity97 | 2012-11-10 10:47 | 展覧会 | Comments(0)

「『具体』ーニッポンの前衛 18年の軌跡」

b0138838_14441259.jpg 具体美術協会の活動の全貌を紹介する「『具体』―ニッポンの前衛 18年の軌跡」展が国立新美術館で始まった。1954年に芦屋で結成され、1972年にリーダー吉原治良の死去とともに解散した「グタイ」は日本の戦後美術において海外に最もよく知られた作家集団である。今回の展覧会の売り物は彼らの活動の全幅を初めて東京で紹介した点であるという。グローバリズムが喧伝される今日、東京で回顧されることに何か意味があるのかとも感じられようが、このグループが甘んじてきた地政学的な不利益を考えるならば一定の感慨がある。具体は当初から東京を意識し、実際に何度も大規模な発表を東京で行ったにも関わらず、東京の美術界から徹底的に黙殺された。かつてクレメント・グリーンバーグはすべての優れた美術はニューヨークを経由すると言い放ったが、日本においてもこれまで美術に関する展示施設や大学、ジャーナリズムや批評家が集中する東京で評価されることなくして、注目されることは困難であった。これに対し、具体は東京ではなく、海外での評価を足がかりに戦後美術史に楔を打ち込んできた。この経緯もきわめて興味深い。活動時には1950年代後半、フランスのミシェル・タピエにアンフォルメルの作家集団として高く評価され、一方、1966年に発行された大著『アッサンブラージュ・エンヴァイロメンツ・アンド・ハプニングス』においてハプニングの理論家アラン・カプローは初期の具体にみられたアクションをハプニングの先駆として評価する。これら二つの立場が、以後、具体の評価を二分するようになることはよく知られているが、さらに重要な意味をもつのは、比較的近年の具体再評価の動向である。すなわち1986年にポンピドーセンターで開かれた「前衛芸術の日本」において戦後美術の出発点と位置づけられ、破格の扱いを受けたことに始まり、90年前後には兵庫県立近代美術館が組織したいくつかの展覧会がヨーロッパを巡回し、99年のパリ、ジュ・ド・ポーム美術館における具体展、あるいは97年のロサンジェルス現代美術館における「アウト・オブ・アクション」、あるいは2006年、デュッセルドルフにおける「ゼロ」といった展覧会では海外の美術館が自らの手によってグループの活動やパフォーマンス芸術における位置づけ、ゼロ・グループとの関係などを検証した。そして来年にはニューヨークのグッゲンハイム美術館においてアレクサンドラ・モンローの企画する具体展が準備されているという。それを見越してであろうか、プレヴューの会場には欧米のディーラーもしくはバイヤーらしき人々も見かけた。ここで論じる余裕はないが、それぞれの時代に具体の作品が欧米のどのような視線のもとに要請されたかについては今後も検証されるべきであろう。
 展覧会に向かおう。東京で初めて具体を紹介するにあたって、企画者は正攻法で臨んだ。すなわち作品の配置には厳密なクロノロジーを適用し、18年もの長きにわたる活動を時間軸に沿って紹介している。展覧会のプロローグで私たちは作品や宣言ではなく、ただ一冊の雑誌に出会う。具体の最初の活動は『具体』と題された小冊子の発行であり、逆にこの冊子のタイトルとして「具体」という名が考案されたのである。なにげない導入であるが、初期具体の活動の特異さを考えるうえでは巧みな演出である。具体はこの冊子を世界各地の作家や批評家に送り、ともに新しい美的規範を樹立することを求めた。戦前より欧米の美術雑誌に親しんでいた吉原ならではの戦略であり、このグループの最初の事業が機関誌の発行であったことは記憶されてよい。続いて第二室で来場者は巨大なオブジェ群に出会う。これらはやはり活動の端緒に芦屋川の河畔で開催された野外美術展に出品された作品である。(厳密にはこの展覧会は芦屋市美術協会の主催であり、具体はグループとして参加した)真夏の野外に出品されたという事情から、巨大で派手、さらに安価な素材で制作されたこれらのオブジェのほとんどは会期終了後に解体撤去され、今日に残されていない。これらの伝説的オブジェを今日見ることができるのは、現在兵庫県立美術館に収蔵されている山村コレクションという具体に関する画期的なコレクションの中で美術館であれば尻込みする再制作という手法が積極的に取り入れられたこと、さらには芦屋市立美術博物館の手によってこの野外展が1992年に同じ場所で再現され、当時存命であった作家たちによって制作のノウ・ハウが再確認されたという理由による。サイズが大きいため、これまでの具体に関する展覧会では会場入口などにいわばモニュメント的に展示されることが多かったこれらの作品を一室に集約することで、このような活動が具体の本質と深く関わることが理解される。今回の展示が暗示しているのは初期の具体の活動が絵画や立体の制作といった通常の美術制作とは全く異なった次元にあったという事実である。私の考えではこのような指摘は重要であり、それを展示によって示す点にこの展覧会の批評性が示されている。次のセクションにようやく絵画が登場する。しかし意外なことに最初期に制作された絵画は小ぶりなものが多い。それらの絵画は物質性が濃厚で、時に金属や異素材が導入されている。作家同士の作品の類似性、ドローイングとの関係など、会場でいくつもの発見があった。
 会場入口に設けられた村上三郎の「紙破り」(今回は、家のふすまを破って父の元にたどりついた行為が作家にインスピレーションを与えたという村上の子息によって演じられていた。このパフォーマンスは作者以外によっても代行される場合があり、海外を含めた具体の回顧展では定番である)の裂け目から入場した私たちは、かかる曲折を経たうえでようやく激しいアクションと圧倒的な絵画の数々、スクリーンに映示される舞台上でのパフォーマンス、《電気服》をはじめとするショッキングなオブジェに彩られた1950年代後半の具体、具体神話の核心へとたどりつく。今回の展示で私はあらためて具体の活動の多様さ、そしてそこで発表された多くの作品の強度を確信した。私が驚くのは、かくも多くの発表や作品が集団の中で生成されたことである。いうまでもなくこの時代、ニューヨークでは抽象表現主義と一括される作家たちがアメリカの絵画の幕開けを宣言する多くの傑作を発表していた。両者の関係についてもさらに検証されるべき余地はあるが、基本的に個々の作家のブレイクスルーとして達成されたニューヨーク・スクールの作家たちに対して、具体の作家たちは吉原スクールの一員として軽々と世界的にも特筆されるべき作品を量産したのである。確かにこのグループがメンターとその弟子たちという旧態依然とした構造をとったこと、作家間のレヴェルの格差(この場合吉原も作家の一人と考えられる)、そして何よりもタピエと接触するや、作家集団としての主体性を放棄してアンフォルメルに追随した点など、今日にいたるまで批判されるべき点は多々ある。しかしそれにも関わらず、残された作品を実見するならば、私はこれほどの質の作品を集団として制作したグループが日本の戦後美術史はもとより、世界的もほとんど例がないことを確言することができる。そして最初に述べたとおり、これほどの作品が批評の側から完全に黙殺されたことも異常と呼ぶほかない。
 今回の展示は作品をクロノロジカルに配置する一方で、いくつかのトピックについてはテーマ的な展示を行い、両者が相互を補完している。例えば『具体』誌、海外との交流、万国博覧会での「具体美術まつり」といったその歴史を点綴するエピソードがうまく紹介されていた。特に吉原治良の回顧展示では具体結成以前の作品も含めて、この稀代のモダニストの全貌がコンパクトに紹介され、展覧会に奥行きを与えている。このようなテーマの一つとして具体の作家たちが作品を常設したグタイピナコテカの内部が模された展示室がある。ここに展示された白髪一雄や村上三郎の1960年前後の絵画は、この集団の創造の絶頂をかたちづくっているといってよいだろう。今回の展示はほとんどが国内の美術館からの借用であり、しかもその多くが比較的近年収蔵されている。この20年余の具体評価の高まりを反映したものであり、喜ばしく感じると同時に、何人かの作家については既に検証されつつあるとはいえ、今後も個々の作家のレヴェルで作家研究、回顧展による検証などが必要に思われた。
 60年代前半、中期の具体においては新しく加わった作家の作品もさほど異和感なく展示に溶け込んでいる。松谷武判、向井修二、前川強ら、3Mと呼ばれる一世代若手の作家たちの作品も物質性や記号性の強調、不透明な表面と濃密な存在感において具体の伝統に連なる。しかし60年代後半、ライト・アートやキネティック・アートといった当時の最新流行を持ち込む作家たち、とりわけハードエッジ抽象の若手が加わることによって具体の気風は大きく変わる。むろん吉原がブレイクスルーを遂げて一連の円の絵画に到達したことがその背景にあるかもしれない。しかし1965年以降、具体の表現が急速に散漫となっていく印象はおそらく来場者のほとんどが感じるだろう。一人新たな境地に達した吉原を除いて、多くの有力な会員が退会し、創立以来の会員の作品も著しく弱体化する。80年代以降、東京で開かれた数少ない具体の回顧展が活動の初期と中期に焦点をあてて、いわばその絶頂においてグループを回顧したのに対して、結成から解散までを射程に収めた今回の展覧会は作家集団の凋落という一面も仮借なく伝えている。知られているとおり、具体にとって実質的に最後の活動は1970年の万国博覧会における「具体美術まつり」であった。今回の展示ではその模様を記録した珍しい映像も出品されている。「もはや戦後ではない」という言葉が流行した時代に誕生したグループが万国博とともにその活動を停止する。カタログの章解説にあるとおり、「戦後日本の高度経済成長と歩調を合わせるかのように、ひたすら明るく前向きに、独創的、革新的な表現を追い続けた『具体』であったが、その活動が高度経済成長の絶頂点を象徴する大阪万博でフィナーレを迎えたことは、あまりにもできすぎた偶然と言うほかはない」
 カタログも具体の18年の活動を過不足なく伝え、充実している。具体に関しては既に1992年に芦屋市立美術博物館の手によって決定版とも呼ぶべき資料集が刊行され、最近ではこのブログでも触れた『具体』誌の完全復刻版も出版されたから、資料的な面の充実はそちらに譲り、ヴィジュアル的な側面にも意を注いだ美しい内容だ。初めて具体に触れた東京の若い人々にもよい導き手となるだろう。冒頭に企画者の比較的短い概論が掲載され、各論として先述の万国博との関係に触れたエッセイと、「ヌル」や「ゼロ」といったグループとの関係、そして建築との関係を論じたエッセイが掲載されている。いずれも新しい視点であり、興味深い。この展覧会ではこれまで語られることが少なかった後期の具体に焦点をあてることが一つの目的とされており、二つのエッセイはこのような問題意識に即しているだろう。しかしあえて言うならば、私たちは具体の絶頂とも呼ぶべき1960年前後の絵画に対しても今なお明確な批評言語で対峙していないのではない。白髪一雄の作品がジャクソン・ポロックの作品と並んで「アンフォルム」展のカタログに掲載されていたことは記憶に新しい。この展覧会は具体の絵画の達成をあらためて世界的な視野から再検討するよい機会となるだろう。具体という異例の集団が提起した問題の輪郭を知るうえでも必見の展覧会といえよう。

by gravity97 | 2012-07-18 14:47 | 展覧会 | Comments(0)

「アラブ・エクスプレス」

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 森美術館で開催中の「アラブ・エクスプレス」展を訪れる。「The Latest Art from Arab World」というサブタイトルの通り、アラブの最新の美術動向を紹介する展覧会だ。しかし「アラブ」とは何か。担当したキューレーター自身もカタログのテクストで述懐するとおり、私たちは「アラブ」美術に対してほとんど前提となる知識をもたない。カタログによれば本展覧会はいわゆる中東と呼ばれる地域のうち、エジプトからレバント(東部地中海)諸国、湾岸諸国を対象とし、民族、宗教が異なるトルコ、イラン、イスラエルなどは原則として除外されるという。このように言われても具体的なエリアをイメージすることは困難であろう。カタログに掲載された地図を参照してようやくおぼろげに私たちはその広がりを理解することができる。
 しかしながらこの地域に関して、文学や映画の領域では既に優れた表現が輩出していることを私はこのブログでも取り上げたガッサーン・カナファーニーの小説や岡真理のエッセー、あるいは四方田犬彦の『パレスチナ・ナウ』といった評論を通じて既に知っていた。当然、美術の分野でもそれらに類した表現が存在するだろうという予測はこの展覧会で十分に裏づけられた。これらの地域を旅したことがない私にとって、現代のアラブ社会について想像することは難しい。担当したキューレーターはこの地について「実際にアラブ地域を数回訪れると、これら(ステレオタイプなアラブ観)がまったくの偏見であったことを痛感した。(中略)むしろ、日本のテレビでは見たことがない、時に活気に満ち、時に穏やかな、生き生きとした日常生活がアラブ社会にもあり、非常に活発な現代美術シーンがあることを学んだ」と記している。しかし展覧会を一巡した感想としては、実際には多くの表現が安穏とした日常から大きくかけ離れている。例えば最初の部屋に展示されたエジプトのアマール・ケナーウィという女性作家の《羊たちの沈黙》という作品はカイロの路上で20人ほどの人々が群れをなして匍匐前進するパフォーマンスであり、会場ではその模様が映示されている。都市に唐突に介入する美術は前例がない訳ではない。日本ではハイレッド・センターやゼロ次元といった60年代の一連のパフォーマンスがあり、四足歩行という点では犬に扮したペーター・ヴァイベルをヴァリー・エクスポートがウィーンの市中を引き回すパフォーマンスも連想されよう。あるいはリレーショナル・アートと呼ぶのであろうか、最近ではサンチャゴ・シエラがトレイラーを用いてさらに暴力的にメキシコ・シティの交通に介入した例もある。しかし日本そして欧米で挙行されたこれらの作品はかろうじて美術という範疇に回収された。自分たちの営為が芸術か犯罪かという問いかけは赤瀬川原平の一連の作品の主題でもあったが、民主化以前、秘密警察が跳梁するエジプトにおけるパブリック・スペースへの侵犯は60年代の日本とは比べものにならない危険を秘めている。ケナーウィのパフォーマンスは当局によって途中で阻止され、作家は三日間拘束されたという。映像の中で、「これは国家の恥だ」と作家やパフォーマーに詰め寄る険しい表情の男たちからもこのような緊張はうかがえる。
 展覧会は「日々の生活と環境」、「『アラブ』というイメージ:外からの視線、内からの声」、「記憶と記録、歴史と未来」という三つのセクションから構成されている。それぞれアラブ世界の日常と関係のある作品、オリエンタリズムとして外から与えられた「アラブ像」とかかる「アラブ像」を鏡面的に内在化したアイデンティティーの分裂に関わる作品、そして出来事の記憶のアルカイヴとしての作品といった分類がなされているが、展示は必ずしも画然と分かたれる内容ではなく、むしろ多くの作品はこれらのテーマのいずれもと深く関わっているように思えた。象徴的な例として、パレスチナに生まれたシャリーフ・ワーキドという作家の《次回へ続く》という映像作品を挙げよう。画面には機関銃とアラビア文字がデザインされた緑の旗を背景にメッセージを読み上げる青年が映し出されている。かつてパレスチナに生まれたハニ・アブ・アサドという監督の「パラダイス・ナウ」というフィルムを見たことのある私は、この情景が「自爆テロ」を前に実行者が自らの信条を遺言としてヴィデオに収める様子を模していることが容易に推察された。日本では認識されにくいが、欧米で中東に関する報道に見慣れた者であれば、かかるイメージがイスラエルに対して次々と「自爆テロ」を敢行する匿名のアラブの青年たちに対応しており、机の上に置かれた機関銃がこのような理解を補強することは直ちに理解される。しかし実際にこの情景を演じているのはパレスチナで有名な俳優であり、彼が読み上げるのは犯行声明ではなく『千夜一夜物語』なのだ。つまりここには自爆テロが日常化されたアラブ世界をめぐる荒んだ環境、アラブ社会をテロリストの巣窟とみなす欧米の視線(これはサイードが『オリエンタリズム』において分析し、9・11以後、流布しているアラブの表象だ)、そしてアラブ世界の共同的記憶としての『千夜一夜物語』が混然と重ねられている。さらに『千夜一夜物語』とは語り部シェヘラザードが毎夜王の伽を務め、話が佳境に入ったところで次の夜に繰り越すことによって(ワーキドの作品のタイトルはこれに由来するだろう)娘たちを斬首される運命から救う物語であったことを想起するならば、この作品は禍々しい暴力のメタファーと遅延というモティーフ(自爆テロを敢行する若者たちもメッセージを読み上げる時点では生存している、つまり遅延とは彼らの生死と関わる、この点は「パラダイス・ナウ」でも主題とされていなかったか)がきわめて複雑に織り込まれ、「アラブの表象」に対する高い批評性を秘めている。
 私はこの展覧会をめぐって、アラブの人たちが直面する様々な暴力や圧制が時に生々しく、時にメタフォリカルに作品の中に現前する思いがした。例えばパレスチナ人居住区とエルサレムの間に設置された検問所での検問の情景を撮影したルラ・ハラワーニ、あるいはイスラエルによるレバノン侵攻の爆撃の模様を自宅から撮影したアクラム・ザアタリはそこに暮らす人々が常に緊張の中で生活しなければならないという事実を即物的に提示する。あるいはシリアに生まれたハラーイル・サルキシアンという作家は何の変哲もない中東の街頭の情景を写真として提示するが、「処刑広場」というタイトルを一瞥する時、私たちは戦慄を覚える。いうまでもない、それらの広場は公開処刑が行われた現場なのであり、現在もこの地で続く戦乱を想起する時、私たちはいたたまれない気持ちとなる。あるいはイラク人作家、ジャナーン・アル・アルーニはヨルダンを上空から空撮した《シャドウ・サイト》という作品を出品している。焦点が地表に近づくにつれて、初めは幾何学図形かと思われた線や起伏が道路や農地に姿を変える。解説にはこの作品は砂漠が空白ではなく、人びとの生活する場であることを示しているとあるが、私はこのような超高空からの視覚は端的にイラクを、アフガニスタンを空爆する兵士の視覚と同一ではないかと考える。スーザン・ソンタグの言葉を用いるならば「報復の恐れのない距離、高度の上空から殺戮を行う者たち」の視覚である。したがってこのような視覚は決して中立的ではない。地表との距離がきわめて政治的な含意をもつように、パレスチナ人のターレク・アル・グセインが緑の布を用いて地表に緑の線を引く時、それは大国の利害によって砂漠の中に引かれた国家の境界を象徴している。(グリーン・ラインとは国連決議によって決定されたパレスチナとイスラエルの境界線の呼称でもあるという)私はこの作品からすぐさまウォルター・デ・マリアがモハヴェ砂漠に引いた1マイルのドローイングを連想したが、アラブにおいて地面に線を引くことはランド・アートとは無縁の政治性をもちうるのである。この問題はドローイングの政治性という文脈においても検証されるべきであろう。あるいはマハ・ムスタファの喚起的な作品《ブラック・ファウンテン》はどうか。文字通り、黒い水が噴水のように噴き上がるきわめてシンプルなインスタレーションであり、油田や油井を連想させる暗示的なイメージは六本木ヒルズの窓越しに東京の市街を黒く染める時、なにやら不吉な印象を与える。
 このほか私はまだ十分に論じる知識をもちあわせていないが、女性の表象と関わるいくつかの作品も興味深かった。解説を読んでも、作家の性別に関しては必ずしも判然としないが、きわめて特徴的な点は作品の中に登場する女性たちがほとんどの場合、ヴェールもしくは布やテープで顔を覆っていることである。個々の作品にまで論及することは控えるが、いうまでもなくこれらの表現はアラブ世界における女性の位置を暗示しているであろうし、フェミニズムという観点からもきわめて示唆に富む。私はこの問題はアラブ文学における女性の表象という問題と重ね合わせて検証することによってさらに多くの発見をもたらすと考える。このほかにも論及すべき作品は多いが、最後にもう一点、強く印象に残った作品について触れておく。パレスチナに生まれ、ベイルート在住のエミリー・ジャーシルという女性作家の《リッダ空港》という作品だ。リッダ空港とはイギリス領パレスチナに実在した空港の名であり、スクリーンには手前にこの空港の模型を配したうえで後方のスクリーンに複葉機、花束をもつ女性、上空からの視界、地面に残された血痕などが脈絡なく映示される。知られているとおり、リッダ空港は1948年のイスラエル建国とともにイスラエルによって占領され、ロッド空港、そしてイスラエルの首相の名を冠したペン・グリオン国際空港へと名前を変えた。この空港自体がナクバ(パレスチナ人の追放)という歴史的事件と深く関わる土地に位置していたことが解説によって説明されているが、さらにこの空港の名は日本人にとって忘れることができない。1972年5月30日、パレスチナ解放人民戦線に呼応した日本赤軍はロッド空港で小銃を乱射し多くの市民を殺害した。今回、この作品がいかなる理由で選ばれたかは不明だが、この作品の前に立って、私はこの地域と日本が決して無縁ではないことをあらためて思い知った。
 以上で論及した問題からも理解されるとおり、本展はきわめて問題提起的な展覧会であり、なおも論じるべき問題は多いが、ここではひとまず展覧会の輪郭を示すにとどめる。本展の意義は単にこれまで知られていない地域の現代美術を紹介したことでなく、私たちが他者を表象するとはいかなることかにあらためて思いを馳せる契機を提供したことに求められるのではないか。アラブ世界、アラブの人々とは疑いなく日本人にとって、もっとも想像することが困難な社会である。しかしこの展覧会を一覧する時、テロリスト、石油王、アラーの神といったステレオタイプのイメージから離れて、彼の地でも真摯に表現をする作家たちが存在すること、そして苛酷な環境の中でそのような努力が地道に積み重ねられてきたことを知る。私の考えで抑圧や検閲が存在する時、表現は必ず深められる。この意味でもきわめて示唆的な展覧会であった。
 しかしながらあえて最後に一言付け加えておきたい。企画者たちもカタログの中で言及するとおり、2000年以降、グローバリズムの高まりに後押しされるようにアラブ美術は特に欧米の美術界で注目を浴びた。カタログを参照するならば、この展覧会にも何人かの現地のアドバイザーがいたことが示唆されている。この展覧会が具体的にどのように企画され、作家や作品がいかにして選定されたかは必ずしも明確ではないが、私はむしろこの展覧会が日本人という他者にとってあまりにもわかりやすい点が気になるのだ。今述べたとおり、私はこの展覧会に出品された作品について比較的容易に分析を加えることができた。オリエンタリズムからポスト・コロニアリズム、フェミニズム、ディアスポラ。この展覧会を分析するにあたってさしあたって動員される符牒はいずれも西欧に起源をもち、さらにいえば近年の学知の中で彫琢された概念である。つまりこの展覧会は結局のところ「西欧からみたアラブの表象」の最新版にすぎないのではないか。もちろん同様の疑念は例えば近年の中国や南アジア、あるいはアフリカの現代美術を欧米で紹介する際にも惹起されようし、いわば異文化を表象する際の宿命ともいえるアポリアである。私はこの展覧会を見た翌日、この美術館のごく近くでオープンした具体美術協会の回顧展のプレヴューにも足を運んだ。異文化の表象とは日本に向けられた西欧の眼差しでもある。この点を認識したうえで、近くこの回顧展についてもレヴューしたい。

by gravity97 | 2012-07-09 20:31 | 展覧会 | Comments(0)

「津上みゆき 即興/共鳴」

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 東京で足早にいくつかの展覧会を見て回る。春にはまだ早いが展覧会は充実している。既に名古屋で見たジャクソン・ポロックの回顧展が東京近美に巡回し、東京都現代美術館の展示も素晴らしい。私は田中敦子の個展を見るために出かけ、実際にこの世界巡回展はよく組織されていて多くの発見があったが、同時に開催されている靉嘔の回顧展も東京都美術館時代から日本の戦後美術を丹念に検証してきたこの美術館らしい力作の展覧会である。さらに常設展示に驚く。実験工房と福島秀子に焦点をあてた特集展示は、なるほど大半がコレクションによって組み立てられているが、一つの独立した展覧会として十分に堪能できる質と量である。カタログが残らないこと、常設であるため広く周知されないことが残念である。この美術館では最近あまり感心する展覧会に出会ったことがなかったのだが、この常設展示は現代美術を展覧会として検証するという、美術館にとって当然であるにも関わらず最近実践されることのまれな仕事であり、それを可能とした学芸員の高い志を感じた。この三つの展覧会は一日かけて巡るに値しよう。同じ意識を共有し、評判の高かった府中市美術館の石子順造の展覧会が終了していたことは残念であった。上野ではVOCA展が開かれている上野の森美術館のギャラリーで「遮るものもないことについて」と題された東島毅の個展が開催されている。これも期待に違わぬ圧倒的な大作が出品され、今日の絵画の最高の水準を知るうえでよい機会となっている。VOCAとの落差も面白い。これらの展示はいずれを取り上げてもこのブログで相応の紙幅を費やして論じるに足る内容であるが、今回、私が選んだ展示は、これらに比べて実にささやかでありながら、作品の質としては今挙げた名作、大作に一歩も譲らぬ高い完成度を示す個展である。
 津上みゆきは現在、最もめざましい活動を続ける画家の一人である。数年前、国立新美術館の「アーティスト・ファイル」に出品された二十四節気を主題とした連作を見た際の感銘を忘れることはできない。のびやかでありながら、強度を秘めた色面の広がりは今日私が知る最上の絵画的達成である。これまでの作品には多く《View》というタイトルが付され、そこに一つの抽象的な風景が実現されていることを暗示していた。これに対して今回出品されていた作品は構造を違えているように感じられた。横長ではなく縦長の画面が用いられ、描かれたのは風景であるにせよ、風景の中には一つの共通するモティーフがうかがえるように感じられた。それは木というモティーフである。今回出品された作品は三つのフェイズとして実現されている。上に示したような、小さな手帳の上におそらくは水彩によって最初に描かれたイメージ、それに基づいた紙の上のドローイング、そしてカンヴァスに描かれた絵画である。三者の関係を厳密に確認する余裕はなかったが、小さな手帳に記録された即興的な心象から一転の油彩画へと、単純な反復ではないにせよイメージが次第に深められていく経緯は作品をとおして明確に了解された。これまでの作品と比べて今回の新作はフォーマットにおいて大きく異なる。これまでの絵画はView、つまり光景というタイトルが暗示するとおり、水平的な構図として実現される場合が多かったが、新作においては逆に垂直的な構図が採用されている。小品が中心とされていることもあり、水平から垂直へという変化は単に今回の出品作のみにとどまるかもしれず、津上の作品の上で転機が画されたと判断するにはやや早い。しかしかかる軸性の逆転は何を意味するか。このように問う時、私たちはこれらの新作の主題の核心へと向かう。その理由を推測することはさほど困難ではない。今述べたとおり、今回の作品はそのプロトタイプを小さな手帳に描かれたイメージにもつ。津上は毎日、天気のよい日は戸外で手帳にその日の印象を描き留めるという。会場で津上がこの作品を描く経緯を綴った美しい文章を読むことができる。その冒頭を抜き出してみよう。「快晴の空高く、伸びていた。/光は春の輝き。自然はすべて私に向かって両手を広げているかのようだった。/花の命は短い。今日の美しさとの出会いは、お互いの響き合い。/逃してはならないと、午前10時ごろ、庭に咲く木々より一本の早咲きの桜と対話を始めた。/アトリエでの制作と並行しながら、時折、庭に出た」このテクストを読むならば、垂直性の由来はあっけなく了解される。一本の早咲きの桜がこれらの絵画に共通するモティーフなのだ。日々無数に描かれるイメージはそれが完成された時間をいわば仮のタイトルとして整理される。日付を確認するならば、これらのイメージが2011年3月11日の午前中から夕方にかけて手帳の上に描き留められたことが理解される。もはや多言を要しないだろう。これらの作品は東日本大震災が発生した日の津上の心象を記録しているのである。今、心象という言葉を用いた。津上の言葉から了解されるとおり、これらの絵画の多くは実景を眼前にして描かれている。しかし識別可能な形象を伴わないこれらの作品は自然を前にした作家の内面、より正確には作家と自然の対話を反映していると考えるべきであろう。津上は鎌倉に住んでいるから、おそらくその日の午後、大きな揺れを感じたはずだ。しかし津上はアトリエに踏みとどまってその不安を小さな手帳に表現することを続けた。身近な桜の木との対話が、遠く離れた土地における不穏で圧倒的な自然の転変によって中断される、画面からうかがえるおののきにも似た感情に私は強く打たれた。津上の表現はあくまでも抑制されている。先ほどの文章の中にも震災の瞬間を暗示する短い文章があるが、作品同様、きわめて抑制された表現である。聞くところによれば津上の家にはTVがないというから、おそらく作家は私たちがTVの画面の中に繰り広げられる禍々しい光景に圧倒されている同じ時間に桜の木に触発されたこれらのイメージを手帳に描き留めていたのであろう。見渡す限りの水平の風景が秩序を失い、混沌へと転じていた同じ時間に早咲きの桜という揺らぐことのない垂直と対話し、それを絵画という表現へと置き換えようとする画家の姿に、私は最も根源的な美術の在り方を感じるのだ。
震災以降、私たちは美術が震災に対してどのような意味をもちうるかとしばしば自問した。私の考えではこの際に美術と震災を対置する発想は正しくない。震災のために発表を自粛する、あるいは逆に復興のためにチャリティーオークションを開く。震災を理由として発表することしないこと、参加することしないこと、有無を言わさぬ態度決定を迫るこれらのふるまいは美術の対極にある。震災が発生しようが原子力災害が引き起こされようが、超然として在るのが美術という営みの本質ではないだろうか。震災、そしてとりわけ原子力災害をめぐって私たちは責任をもつべき者たちが右顧左眄し、無責任なふるまいに終始する場面を数限りなく目撃した。表現することを生業とする者にとっても、自らの表現とかかる災厄の折り合いをいかにつけるかは困難な問題であっただろう。文学の領域ではいくつかの注目すべき試みが認められる。しかし美術においては一部の写真家の仕事を除いて、岡本太郎の壁画に落書きを張り付けるといった、論じるにも値しないくだらない反応しか見当たらない。津上の表現はきわめて洗練されており、注意深く観察しなければ震災との関係をうかがうことはできない。しかしそこでは自らの生と絵を描くという営みを重ね合わせ、自然と対話し、共鳴し、おののきながらイメージを探るという絵画の本源に触れる試みがなされている。美術によって震災に打ち克つのではない。美術とは震災によっても損なわれることのない奇跡であることを津上の絵画は雄弁に語っている。

by gravity97 | 2012-03-26 14:50 | 展覧会 | Comments(0)

「榎忠展」

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 ずいぶん遅くなったが、この秋、兵庫県立美術館で開催された「榎忠」展のレヴューを記しておきたい。榎は近年でこそ知名度も高いが、1970年代以降、神戸を中心に地道で着実な活動を続けてきた作家である。一見スキャンダラスな作品も多いとはいえ、作家のテーマはほとんどぶれることなく、作品の完成度は常に高い。
 榎は最初、JAPAN KOBE ZERO の一員として活動していたが、今回の展覧会では榎がこのグループを脱退した後の個人的な活動のほぼ全貌が紹介されている。榎の衝撃的なデビューとして記憶される作品は、1979年、当時の兵庫県立近代美術館における「アート・ナウ 79」に出品した実物大の大砲模型であったから、今回の個展がこの美術館の後身とも呼ぶべき会場で開かれたことは当然かもしれないが、後述するとおり、榎が美術館に照準を合わせた大砲によって活動の端緒に就いたことの意味は象徴的である。
 榎の多様な活動の中で今回の個展の中心となっているのは多く鉄を用いたきわめて即物的で重量のある作品である。それらは大きく二つに分けられる。一つは時に鋳型まで用いて成型された、明確な形状と意味をもつ作品である。それらが暗示する大砲、カラシニコフ自動小銃、そして薬莢といった装置や部品が兵器というモティーフをかたちづくることはいうまでもない。ずいぶん昔に神戸でギャラリー一面に薬莢をぶちまけた作品を見た際、作家のコメントとして「これらの品は人を殺すために製造され、それ以外の目的をもっていない」といった言葉が掲示されていたように記憶する。私たち一般の市民が現物を目にする機会がほとんどない現在の日本でそれなりに美的なこれらの形態にかかるコノテーションを認めることは難しい気もするが、実際には使用できないこれら兵器のフェイクは攻撃性と滑稽さという榎の作品の多くを通底する特質をたたえている。もう一つの系列は金属の廃材にほとんど手を加えることなく提示した一連の作品である。手を加えることなくというのは、(研磨や選別を別とすれば)作家自身の手が入っていないということであり、実際の廃材には想像を絶する力が作用した痕跡が残されている。例えば「ギロチン・シャー」と題された一群の鉄材は鋼鉄をまさにギロチンにかけるかのようにシャーリング、つまり物理的に裁断した廃材であり、このような形に変形するまでに驚くべき負荷がかけられたことが暗示されている。あるいはサラマンダー、火トカゲと題された一連の作品は溶鉱炉から流れ出た鉄をそのまま提示したような形状であり、この場合は非常な高温が鉄を変形させたことは明白だ。私は前者からはかすかにジョン・チェンバレンを、後者からはあからさまにリンダ・ベングリスの作品を連想してしまうが、彼らがそのような加工自体に大きな意味を見出しているのに対して、榎はそのような形に変形した後の廃材そのものの形状や質感に魅せられたのではないだろうか。特に今回、私にとって初見であった「ブルーム」という作品は溶鉱炉から取り出された直後の鉄の状態を示しており、有機的にさえ感じられる上部の開口部(私は映画「エイリアン」のモンスターの卵を連想した)はタイトルのとおり花の開く様子、さらにエロチックな含意をはらんでいる。いずれも鉄という素材の加工について熟知した榎でなければ発見することができなかった思いがけなくも魅力的な廃材の表情である。会場で上映されていたヴィデオに廃品の選別場の中で作業するおそらくは榎の姿が映っていた。榎は強力な磁界を発生する機械を操作して、床一面に広げられた廃材の山の中から磁力によって空き缶など鉄製の廃物を選別し、別の場所へと移す。私は以前、同じ作業所を訪れて榎がこの機械を操作する様子を見たことがある。このヴィデオ作品の驚くべき点は、そこに映し出される情景が作業の工程の一部、機械的な手順であり、一切の芸術的、創造的な創意を欠いている点である。このヴィデオを見て私はダンプカーに満載した液状のアスファルトを斜面に注ぐ模様を記録したロバート・スミッソンのヴィデオを連想した。両者に共通するのは、今述べたとおり、そこに再現されるのが一つの手続きの遂行であって芸術的契機を全く欠いている点である。しかし一つの手続きを厳密に遂行することが一つの作品の本質を構成することを私たちはソル・ルウィットから学ばなかっただろうか。さらに廃墟や廃材(立入規制区域と「がれき」と言ってしまえば今の私たちにはあまりにも生々しすぎる)への関心もまたスミッソンに共有されていた。近年榎が取り組んでいる《RPM》も円形の機械部品を塔状に積み上げたものであり、大都会の摩天楼のシルエットを連想させないでもない。あまりに美的であるという批判もありえようが、各々の部品が一切接合されることなく、単に積み重ねられることによって構成されていると知れば、作品は一転して不穏で非永続的な印象を与える。絵画的な配置の是非については議論の余地があろうが、今回の展示のハイライトであることは明らかだ。
 ところで私は榎の作品のもう一つの系譜についてまだ一言も論じていない。いうまでもなく、それは榎の名を広く世に知らしめ、日本では類例の少ない一連のボディ・アート、具体的には「ハンガリー国に半刈で行く」とBAR ROSE CHUをめぐる作品である。体毛というほとんど先例のない表現媒体を用い、あるいはトランス・ジェンダーを主題としたきわめて早い時期の作品として知られるこれらの作品が本展で周縁的な位置しか与えられなかった理由ははっきりしている。それらは美術館という場に馴染まないのである。前者は演劇や刑罰といった特殊な機会ではなく、片側の体毛を全て剃った異形の身体が日常の中に出現してこそ意味をもつのであり(実際に榎はハンガリーから帰国後も5年近くこの状態で生活した)、後者についても神戸東門街に女装した榎が無料で酒をふるまうバーが、一夜だけ予告なしに出現することに意味がある。実際にはBAR ROSE CHUの開店は関係者に予告されていたようであるが、いつか榎とBAR ROSE CHUについて話した際、榎は偶然入ったバーで(女装した)セクシーなママから酒をふるまわれ、翌日行ってみると店もママも存在しないという一夜の夢を実現することが目的であったと語っていた。この意味でこのパフォーマンスは美術館の外で一度だけ挙行されることに意味がある。その後、キリンプラザ大阪での個展と神戸ビエンナーレの際にもローズ・チューは現れたが、いずれも過去の確認以上の意味はもちえなかったように感じる。
 このほか榎には分譲地の地面を掘削する作品や閉店した喫茶店に奇怪な生命体のような立体を配置した作品など、いくつものサイト・スペシフィックな作品が存在する。これらの作品も本展覧会ではカタログで瞥見される以上の扱いを受けることがなかったことは作品の特質を考える時、特に不思議ではないが、この展覧会に「美術館を野生化する」というサブタイトルが付されていることを勘案するに、この展覧会が美術館で開催されたことの意味は微妙に感じられる。やや辛辣に述べるならば、この展覧会は美術館を野生化するどころか、ひとまず美術館に収容可能な対策をひとまず並べて「榎忠展」の名を冠したという印象が拭いきれないのだ。なるほど展示された作品の総重量は恐るべきものであり、美術館、学芸員の苦労は十分に理解することができる。しかしそれにしても本展覧会がことさらにサブタイトルで美術館における展示であることを強調するほどの工夫があるようには思えない。それは重量物を大量に運び入れた苦労に対して用いられたかもしれないが、美術館という制度にはなんら批判を迫る内容ではない。年譜を参照するならば1994年のことであるが、私は今回も出品された「ギロチン・シャー」がおそらく初めて発表された際に展示を見た記憶がある。作品が置かれたのはJR神戸駅の高架下であり、暗く殺伐とした空間に置かれた無残な鉄塊の印象はなんとも鮮烈であった。同じ作品が美術館の中に設置された時、それはいかにも作品然として(なんと彫刻台の上に置かれた例もあった)迫力に欠ける。さらにいえば、これらの作品を東北で大きな震災があった同じ年に神戸という街で展示することに新たな意味を見出すことも不可能ではなかったはずだ。それらは本来美術館という箱の中に鎮座するにはあまりに獰猛な存在ではなかったか。
1979年の展示で大砲の照準を美術館(正確には当時の学芸員執務室)に合わせたことが示すとおり、榎の作品には美術館を含めた美術を巡る制度への批判が内在していた。しかし今回の展示においてこのような批判は、担当学芸員のテクストのタイトルではないが、うまく「飼い慣らされた」気がする。榎忠という強烈な作家を「飼いならして」でも美術館の中に誘い込むべきか、それとも外で放し飼いにすべきか。その判断は難しく、私が知らない事情も多くあるだろう。美術館と作品の関係を再考する機会を与え、今年見た展覧会の中でも強く印象に残る優れた内容であっただけにあえていくつかの批判を加えた。

by gravity97 | 2011-12-30 15:09 | 展覧会 | Comments(0)

「モダン・アート、アメリカン 珠玉のフィリップス・コレクション」

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 国立新美術館で「モダン・アート、アメリカン」と題されたフィリップス・コレクション展を見る。広報チラシや出品作家の顔ぶれからはさほど期待していなかったのだが、予想に反して多くの発見を誘う、なかなか興味深い内容であった。
 これまでワシントンを訪れたことがなかったためであろうか。富裕な家庭に育ち、イェール大学在学当時から芸術に関する論考を発表し、日本を含む世界中を旅行したダンカン・フィリップスなるコレクターを私は本展によって初めて知った。このコレクションが全体としてどの程度の広がりをもつかについてはカタログを読んでも判然としないが、少なくとも展示された作品を今日の観点から評価するならばやや時代遅れの印象は否めない。しかし奇妙に聞こえるかもしれないが、この点は決して展覧会の興趣を殺ぐものではない。ここに展示された作品は抽象表現主義が勃興する以前のアメリカにおいては最も高く評価された作品であり、このような時代遅れ、ずれの感覚ゆえにいくつもの問題を提起するのだ。カタログに寄せられたテクストの冒頭に1948年、ある雑誌が最も優れたアメリカの作家について、当時の識者に尋ねたアンケートについての言及がある。それによれば当時アメリカ最高の画家とみなされていたのはジョン・マリンであり、マックス・ウェーバーであり、スチュアート・デイヴィス、エドワード・ホッパーであった。ホッパーは今日でもよく知られているが、ほかの画家はどうであろうか。しかしこの展覧会には今述べた作家たちが名を連ねている。つまりこのコレクションは抽象表現主義が登場する以前の「アメリカ美術」の正系をかたちづくっているのである。
 展覧会は「ロマン主義とレアリズム」から「抽象表現主義」にいたるよく練られた10のテーマで構成されている。もっともかかる構成は展覧会キューレーターとしてカタログにも明記されたフィリップス・コレクションの学芸員によって提起されたものであろうし、日本で開催される展覧会であるにも関わらず、テーマの設定、作品の選定が全て所蔵者に委ねられていることはなんとも無残だ。近年の、特にアメリカの美術館からの借用によって実現された展覧会における植民地的な状況について批判したい点は多いがここでは措く。いずれにせよ、この展覧会をとおして主題と形式の両方に側面から19世紀中盤以降およそ100年にわたるアメリカ美術の通史を概観することが可能であり、そこからは「アメリカ美術」の様々な特質が浮かび上がる。「自然の力」「自然と抽象」「記憶とアイデンティティ」といったテーマはアメリカという風土と深く結びついており、「都市」「近代生活」といったテーマに分類された作品は逆にヨーロッパの絵画との主題的な差異をくっきりと浮かび上がらせている。一方で「印象派」とうテーマと関連づけられた絵画の中にはフランスで制作されたといっても何の疑問もないような作品も含まれている。
 コレクションの中心を形成する作家たちは世代的には抽象表現主義より一世代先行し、それゆえ新世代の若手たちにとって反例と範例、両義的な存在であったと考えられるだろう。アメリカの大自然や風俗を描くリージョニズム(地域主義)の画家たちや社会問題や都市における疎外を主題としたアシュカン・スクールの画家たちはともに批判すべき対象であり、抽象表現主義の画家たちはリージョニズムに対してはモダニズム、社会性に対しては普遍性を揚言して新しい表現の可能性を切り開いたのである。この一方でジョージア・オキーフに潜在する抽象的崇高への志向はクリフォード・スティルやバーネット・ニューマンを予示しているし、私はユング心理学やプリミティヴ・アートへの導き手として抽象表現主義の作家たちに大きな影響を与えたロシアからの亡命作家、ジョン・グレアムの作品をこの展覧会で初めて見た。マースデン・ハートレーやミルトン・エイヴリー、アーサー・G・ダヴといった作家の作品をまとめて見る機会も日本ではあまりない。これらの作家たちを前に抽象表現主義の作家たちがどのように感じ、いかに彼らを乗り越えようとしたのか、本展を通覧するならばきわめて具体的に了解できるのだ。あるいは国吉康雄と岡田謙三という二人の日本人作家、彼らは作風も異なり、本展でも当然異なったテーマと関連して展示されているが、いずれの作品もそれぞれの文脈の中にきわめて自然に位置づけられ、もはや日本人作家であることは意識されない。このようなコスモポリタニズムは多くの作家が移民という出自をもつアメリカ美術にとって本来的な特質であることに今さらながら理解する。
 それにしても多くの作品を通覧する時、抽象表現主義絵画がそれらと全く異なった印象を与えることがわかる。ただしこの展覧会では抽象表現主義に関してもさほどの名品が展示された印象はない。アドルフ・ゴットリーブ、フィリップ・ガストンそしてスティルに関しては比較的大きな佳作が展示されているが、コレクションが展示される空間との関係であろうか、主要な作家についても小品が多く、時期的にもベストの時期ではない。逆にこのような不在こそが、この展覧会の隠された主題ではないかとさえ思う。もちろんそれは私がこれまで抽象表現主義の傑作を多く見てきたせいかもしれないが、この展覧会の印象を一言で言うならば、抽象表現主義絵画という絶頂めがけて、アメリカ美術全体がいわば弓をぎりぎりと引き絞っていくさまであり、一種の緊張感とともに抽象表現主義という偉大な絵画が出現した歴史的背景がみごとに整理されるような気がした。つまりポロックでもよい、ニューマンでもよい、彼らの代表的な作品はここに出品しているいずれの作品とも全く似ていないのだ。(ポロックとも交流があったオッソリオの絵画についてはここで詳しく論じる余裕がない)それはヨーロッパ絵画との断絶をも意味する。出品作に抽象絵画が比較的少なかったという理由もあろうが、私はあらためて抽象表現主義絵画が西欧近代絵画との決定的な断絶であるということを強く意識した。
 この一方で例えば「近代生活」や「都市」のセクションにもしもラウシェンバーグやジョーンズ、あるいはポップ・アートの作品が展示されていたとしてもさほどの異和は感じられないだろう。例えば上に掲げたカタログの表紙にも用いられたホッパーの絵画とジョージ・シーガルの作品を比べてみるがよかろう。ラウシェンバーグの作品がヴェネツィア・ビエンナーレのグランプリを受賞したことがアメリカ美術の勃興のメルクマールとなった点はよく知られているが、このような文脈に置くならば、コンバイン絵画はアメリカ美術の枠内にあり、近代美術の外にあるものではない。つまり絵画という制度の中にあった抽象表現主義が、後続し絵画という形式さえも解いてしまったネオ・ダダよりも実は過激であったという逆説が明らかとされるのである。そしてもしこれ以後のアメリカ美術の中に抽象表現主義同様の断絶を指摘するならば、それはミニマル・アートにおいて画される。この意味で私は抽象表現主義、とりわけバーネット・ニューマンとミニマル・アートの関係はさらに深く思考されるべきと考えるが、この問題は本展の展評の域を超えている。
 先にも述べたとおり、本展において抽象表現主義の名品が少ないのは残念であるが、この不在を来るべき表現への期待と読み替えることは不可能ではない。奇しくも来週、名古屋で日本初と銘打ったジャクソン・ポロックの回顧展が始まる。テヘランからの作品は無事日本に届いただろうか。おそらく本展を見ることによってポロックの絵画への理解もさらに深まるはずだ。

by gravity97 | 2011-11-06 09:08 | 展覧会 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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