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「あなたの肖像 工藤哲巳回顧展」

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 国立国際美術館で「あなたの肖像 工藤哲巳回顧展」を見る。国立国際美術館で工藤の回顧展を開くのは二回目であり、現在の中之島に移転する以前、千里にこの美術館があった頃、1994年の回顧展にも私は足を運んでいる。国立美術館で同じ作家の回顧展を二度開くことは異例であり、600ページにも及ぶ厚さのカタログとともにこの作家に対する美術館の力の入れ方が理解できよう。94年の回顧展は岡山へ巡回したように記憶しているが、今回も東京国立近代美術館、青森県立美術館への巡回が予定されているから、この異端の作家の認知度が高まることは間違いない。
 工藤哲巳は1935年に大阪で生まれ、青森、岡山で青少年期を過ごした後、東京藝術大学に入学し、読売アンデパンダン展などで数々のスキャンダラスな作品を発表した。1962年にはパリに渡り、以後、パリを拠点としてヨーロッパで活動する。80年代以降はパリと日本を往復しながら作品の発表を続け、87年には東京藝術大学の教授に就任して私たちを驚かせた。しかしこの時すでに工藤は癌に冒されており、90年に55歳の若さで没した。94年の展覧会カタログには巻末にそれまでに判明している作品の300点に及ぶカタログ・レゾネ(ただし図版は一部)が付されていたから、ある程度の調査の蓄積はなされていたと考えられようが、今回の展示では作品の量も格段に増え、海外からも多くの作品が借用されている。工藤の作品はフラジャイルな素材で制作されている場合が多いため、輸送や展示にもずいぶん気を遣ったはずだ。美術館の力業という印象が強い。
 前回の回顧展でその全貌を見知っていたため、作品そのものに驚きはなかった。アンフォルメル風の絵画やアクション・ペインティングに始まり、たわしと紐を用いた一連のオブジェ、ペニスを連想させる「インポ哲学」の作品群、人体の一部が剥げ落ちたようなグロテスクなオブジェ群、鳥かごの中に身体器官や植物を配置した悪趣味な作品、そして糸巻きや凧を模した早すぎる晩年の作品、所狭しと展示された異様な作品の数々には圧倒される。中でも圧巻は一室全体を占拠する《インポ分布図とその飽和部分における保護ドームの発生》である。1962年の第14回読売アンデパンダン展に出品され、大きな話題を呼んだこの作品はインスタレーションの早い例というか一つの部屋全体を用いた造形であり、それゆえ再現不可能であると考えられていたが、その後、オランダのコレクター、フリッツ・ベヒトによって収集され、現在ミネアポリスのウォーカー・アート・センターに所蔵されている。私は今年初めにニューヨーク近代美術館で開かれた「TOKYO 1945-1970」展にこの作品が出品されているのを見て大いに驚いたのであるが、今回の展示はその際と全く印象が異なる。ニューヨークではペニス状のオブジェは天井から吊された状態であったため数も限られており、正直言ってさほどの衝撃はなかった。しかし今回はペニス状オブジェが吊されるのみならず三面の壁の上のあちこちに密集し、観者は作品の中にインヴォルヴされた状態となる。このような展示が最初の発表に近いことはいうまでもない。あるいはデッキチェアの上に崩れ、溶けかけたような身体器官がなすりつけられた不気味な《あなたの肖像》がいくつも並べられたコーナー、鳥かごの中に不気味なオブジェがぎっしりと詰め込まれた作品が一堂に会したコーナーも衝撃的である。前回の回顧展に比して明らかに出品作品の数は増え、しかも代表的な作品が加えられている。前回は含まれていなかったベヒト旧蔵の代表作が内外の美術館に収蔵され、今回展示された意義は大きい。カタログを確認するならば、この展覧会に対して工藤夫人の全面的な協力があったことがわかるが、それにしても先に述べたとおり、作家としてのキャリアを海外で築いた作家についてこれほど多くの情報を集めることが大変な作業であったことは直ちに理解される。私がこの展覧会を力業とよぶゆえんであるし、この展覧会は一人の作家の回顧展のいわば理念型を示している。カタログの中にはこの展覧会を企画した担当者による20章から成る編年体のドキュメントが添えられ、工藤の歩みが手に取るようにわかる。前回の回顧展で試みられたカタログ・レゾネ・イン・プログレスの試みはさらに拡大されて、今回は448点に及ぶ作品が図版付きで掲載されている。このような展覧会が開かれ、カタログが作成されたことは作家にとって幸福なことであり、美術館が本来なすべき務めを果たしたということもできようが、それは国立美術館の潤沢な予算と多くのインターン・スタッフの存在によって初めて可能とされている点を忘れてはならないだろう。
 当然ながら展覧会を見て多くの発見があり、多くの思考が誘発された。先般、このブログでハイレッド・センターの回顧展について触れたが、オブジェという問題に関して、60年前後に近似した意識が共有されていたことがあらためて理解される。廃品の使用、アッサンブラージュの導入といった点において工藤と同時代の作家たちにさほど距離はない、それどころか紐という素材の導入において工藤と高松は一致するし、大量生産される卑俗な品物という点で工藤のたわしと中西の洗濯挟みに大きな差異はないように感じられる。工藤のオブジェが読売アンデパンダン展の中で独自性があったとすれば、ペニスを連想させる形態を導入したことであろうが、これとて赤瀬川の《ヴァギナのシーツ》や工藤の盟友であった吉岡康弘が出品してたちまち撤去されたという女性器の超拡大写真、TOKYO展にも出品されていた菊畑茂久馬の《奴隷系図》の丸太に添えられたペニスとヴァギナを想起するならば工藤のみによって探求された主題とは考えにくい。いかなる集団にも属さず、出品した時期も短かったにもかかわらず、工藤が読売アンデパンダン展の中核的な作家とみなされたことには理由があるだろう。このように考えるならば、工藤が真に表現のオリジナリティーを獲得したのは、フランスという異郷に渡り、ヨーロッパ文化を相対化して批判する視座を獲得した後と考えることができよう。後から述べるとおり、私は工藤の西欧批判、ヒューマニズム批判が作品によって十全に実現されているとは考えないが、少なくともこのような視座をもちえたことによって、工藤はしばしば類比が指摘されるエドワルド・キーンホルツやブルース・コナーといったアメリカのグロテスク・リアリズムの作家よりもはるかに深い問題を提起している。
 それにしてもヨーロッパでの工藤の活躍はめざましい。展示というよりもカタログを通して知ったのだが、工藤は渡仏して1年も経たないうちにきわめて重要なハプニングを挙行している。それはジャン=ジャック・ルベルの誘いに従って参加した63年2月のブローニュ映画撮影所における「破局の精神の悪魔祓いのために」である。ペニスか芋虫を連想させるグロテスクなオブジェをからだに縛りつけてのたうちまわる工藤のショッキングな写真は今回の展覧会のポスター等にも使用されていたが、この際に用いられたオブジェが先に読売アンデパンダン展の《インポ分布図》で使用されたものであったことを私は今回のカタログを読んで初めて知った。つまり読売アンデパンダン展からこのハプニングまでは一つの連続として捉えることができる訳だ。さらにこの時のハプニングの模様はアラン・カプローの大著『アッサンブラージュ・エンヴァイロメンツ・アンド・ハプニングス』にも収録されている。早速、同書を確認したところ図版に示したような写真が確認できた。
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下の図版で工藤の左上に写っている女性はパリでギャラリーを開いたばかりのイリアナ・ソナベントであろう。ソナベントは工藤が滞在中のホテルの部屋を用いて作品を展示した際にもその場を訪れたという記述がカタログ中にあるが、かくも早い段階で工藤がヨーロッパとアメリカを結ぶ作家、ギャラリストたちのネットワークに接続していた点には驚く。そして工藤にとってニューヨークでなくパリを拠点に活動したという点は決定的に重要であるように感じる。60年代初めから開始され、展覧会のタイトルともされた「あなたの肖像」は工藤がいうところのヒューマニズム、人間中心主義を挑発、批判するにあたってはヨーロッパという前提が不可欠であったと考えるからだ。「あなたの肖像」はいくつもヴァリエーションをもち、単純に総括することは難しいが、多くが断片化された身体器官のアッサンブラージュとして構成され、しかもそれらは抜け殻、ケロイド、培養や増殖といったグロテスクなコノテーションをはらんでいる。ヒューマニズムの象徴として例えば劇作家イヨネスコのマスクが用いられ、工藤はこれに執拗な攻撃を加える。工藤がヒューマニズムを批判する際のキーワードは養殖、放射能、エコロジーといったものであるが、カタログの中でも指摘されているとおり、養殖 cultivation とは語源的に文化 culture や文明 civilization と関連し、放射能という言葉が3・11 以後の日本人に対してもつ意味については論じるまでもなかろう。さらに工藤の用語法はエコロジーという言葉が使われたきわめて早い例である。私はここから工藤の先見性や予言性を評価する見方には必ずしも与しないが、重要な問題であることは間違いない。
 70年代中盤より工藤の作品に転機が訪れる。78年、工藤はベルリンに長期滞在するが、その前後より経済的な困難、長女の出生に伴う夫人の多忙などを背景に工藤はアルコールに依存した生活を送るようになる。80年にパリで入院を伴う治療を受けたことによって、依存症から回復した工藤は作風を変え、オブジェは攻撃性よりむしろ内省的、思索的な性格を強める。それまで攻撃の対象とされていたイヨネスコのマスクに代わってパスカルのマスクが用いられることが増え、作家によればそれは自画像でもあったという。作品は多く鳥かごを枠組として、最初はグロテスクなオブジェが詰め込まれていたが、次第に色とりどりの糸が封じられるようになる。糸は綾取り、そして染色体といった多義的な意味をはらんでいる。80年にポンピドーセンターで行われた「灯は消えず」というセレモニーは白装束を身にまとった工藤が賛美歌と般若心経が流れる中、黙々と綾取りをするという内容であり、60年代の過激なハプニングとの相違は明らかであろう。これ以後、工藤はパリと日本を往還しながら生活するが、ほぼ同じ時期に70年代の工藤の仕事の大半に使用された鳥かごは用いられなくなる。中原佑介が「最大級の脱皮」と呼んだ情念的なオブジェとの決別である。工藤といえばグロテスクなオブジェのイメージがあまりにも強烈なため、私はかつての回顧展を見たことがあるにもかかわらず、作風の展開という点に思いをめぐらせることがなかった。しかし今回の展示を見て、80年頃に作品の大きな断絶があることにあらためて気づいた。これ以後、工藤は色のついた糸という素材を用いながらもそれを円錐形、円筒形、もしくは球状に巻きつけた比較的シンプルなオブジェを発表する。絡み合った紐状のオブジェという点で初期の作品を連想させないでもないが、両者の間には決定的な差異が存在するように感じた。工藤はこれらの作品に「天皇制の構造」というタイトルを与えたが、展示を見て、カタログを読んでも作家の意図するところは必ずしも判然としない。むしろ津軽塗や津軽凧といった工藤の生まれ育った環境との関係がうかがえる。80年代後半は闘病の時期でもあったから、作品がサイズとしても小さく、やや弱い印象があることは否めないにせよ、この時期の作品については今後さらに多様な角度から検証されることが望まれる。
 工藤の仕事の全幅に触れる体験は多くの発見と同様に、あらためてこの作家の限界についても思いを巡らす契機となった。この点は工藤が同時代の多くの作家が向かったニューヨークではなく、パリを拠点に活動したことと関係しているだろう。工藤はヨーロッパのヒューマニズムを徹底的に批判した。工藤によれば人間は自由にはなりえないし、今やヒューマニズムの破産は自明である。作家はそれを環境汚染や放射能といったキーワードをとおして作品化した。しかしアンチ・ヒューマニズムもヒューマニズムの一側面とは考えられないか。それは人間という存在を前提としている。「ヨーロッパから学ぶものは何もない」と信じていた工藤さえも西欧近代という磁場の中に呑み込まれてしまったといえるかもしれない。確かに工藤は断片化された人体、痕跡化された人間、養殖される身体器官といった一連のグロテスクな作品をとおして、人間を世界の中心に置く思想を否定した。しかしそれはネガティヴに人間の存在を認めることである。少し厳しい言い方をするならば、私は工藤の仕事はシュルレアリスムのリヴァイヴァルではなかったと考える。シュルレアリスムも人間の理性や意識を否定した。しかし人間そのものを否定することはなかった。工藤の仕事も人間という前提がなければ成立しえない。具体的な作品に即して論じよう。この意味でも今回の展覧会はきわめて興味深い対照例を用意している。工藤は活動の早い時期にペニスを模した一連のオブジェを制作する。それは時には天井から吊るされ、かごの中に入れられ、時に作家自らが装着した。私たちはほぼ同じ時期にやはりペニス状のオブジェを発表したもう一人の作家をたやすく思い出すことができる。いうまでもなく草間彌生であり、実際に常設展示においてはペニスを家具の上に密集させたこの美術館が所蔵する優れた作例が展示されていた。しかしこれら二つのペニスは対照的といってよい。工藤のペニスは例えば芋虫、あるいはさなぎといった気色悪いコノテーションを伴い、作品の中心に位置する。これに対して銀色に塗られた草間のペニスはそのような連想を拒み、作品の中心というより単なる構成要素として、アッサンブラージュによって独特の効果をあげている。つまり作品におけるデノテーションとしてペニスが問題とされているのだ。別の言葉を用いるならば、工藤のペニスはその場に不在の不吉な記号と関係を結ぶことによって暗喩的に機能する。しかし草間のペニスはどのように配置されるかという点において換喩的に機能するのだ。この意味で私が工藤における興味深い例外と考えるのは《インポ分布図とその飽和部分における保護ドームの発生》である。この作品は単にペニス状オブジェの空間への拡張として成立しているのみならず、ペニスのメタファーに依存することなく一つのエンヴァイロメントの形成が試みられている。しかし多くの場合工藤のペニスは様々なコノテーションを秘めて作品の中心に君臨する。意味論的にそれはシュルレアリスムのオブジェと変わるところがない。これに対して草間のペニスは多く中性的な銀色に彩色され、空間を埋め尽くすように増殖する。それ自体のメタフォリカルな意味を逓減し、空間的、形式的な問題へと接続するのだ。草間のネット・ペインティングも同様の問題意識をはらんでいることは言うまでもない。そしてそれを最初に評価したのがドナルド・ジャッドであった点に注意を喚起しておこう。私の考えではミニマル・アートこそヒューマニズムと全く別の位相で作品を構想する重大な契機であった。それは工藤のような反ヒューマニズムではなく、端的に非ヒューマニズムとしての芸術へと道を開いた。ミニマル・アートはなおも観者の身体を要請したが、人間とは無関係に美術が存在しうるという発想は彼らに後続する一連の作家、例えばリチャード・セラやロバート・スミッソンの作品において実現され、全く新しい美術の地平を瞥見させた。しかしヨーロッパの重い歴史と戦った工藤にとっては、圧倒的な伝統としてのヒューマニズムに対してアンチ・テーゼを提出することが最重要の課題であり、ヒューマニズムとは無関係に美術が存在しうるという発想はありえなかったのではないか。この時、工藤にとって反ヒューマニズムは可能性であると同時に限界であったのだ。

by gravity97 | 2013-12-30 08:58 | 展覧会 | Comments(0)

「ハイレッド・センター :『直接行動』の軌跡」

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 師走に入り、今年一年を振り返る時期となったが、今年は日本の戦後美術を回顧する展覧会の当たり年だったといえよう。昨年暮れに始まった東京国立近代美術館における50年代をテーマにした一連の展示、ニューヨークでの「TOKYO 1955-1970」展と具体美術協会の回顧展、現在も国内を巡回している「実験工房」展、そして未見ながら先日より国立国際美術館で開催中の「工藤哲巳」展。今回レヴューする名古屋市美術館における「ハイレッド・センター 直接行動の軌跡」展もこれらの展覧会に呼応し、これまで展覧会として検証されることのなかった戦後美術の重要なトピックを紹介する試みである。
 ハイレッド・センターとは何か。この問いに答えることは容易だ。「エンサイクロペディア・ハイレッド・センタニカ」なる怪しげな出典とともに当事者によって明確に定義されている。

 ハイレッド・センター Hi-red Center ある集合体。HRCと略称されることもある。発起人とみられる高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の最初の字、「高」、「赤」、「中」の英訳でその名称が作られたというのが定説である。(中略)構成員も、多くの記録では前記した発起人三名のほかに和泉達も含まれているが、その四名はあくまでも公式要員といわれるごく一部であるにすぎず、それ以外に非常に多くの非公式要員、別称、地下要員、または匿名センター要員がいるといわれている。そして最近の調査によれば、構成員の存在は流動的なものであるらしく、特定の状況のなかで一時的にかなりの人員の増加をみることもあれば、極端に減少することもあるらしい。(中略)この点から、ハイレッド・センターは集合体ですらないという説もある。(後略)

 HRCは匿名の集団として1960年代初頭の東京、多く街頭などの公共的な空間で奇矯なパフォーマンスを繰り返した集団である。しかし日本でこれまで彼らの活動が紹介される機会はほとんどなかった。もちろん今挙げた三人の作家の個展に際して、いわば活動の周縁として紹介されることはこれまでにもあったし、1999年に東京都現代美術館に巡回した「アクション 行為がアートになるとき」において、戦後日本のパフォーマンスを代表する集団の一つとして取り上げられたことはあったが、その活動が正面から展覧会の主題とされたことは今回が初めてである。このような遅延についてはおそらく二つの理由が考えられるだろう。まず彼らが繰り広げたイヴェントは本質的にエフェメラルであり、永続的な「作品」を展示する展覧会、あるいは美術館といった制度になじまない。第二にHRCの活動は、当事者の一人である赤瀬川が1984年に著した『東京ミキサー計画』の中で詳細にわたって総括されたため、これ以上検証する余地がないように感じられたのだ。この二つの理由は実は相互に関係している。つまり彼らのイヴェントは一過性で実体を伴わない、それゆえ美術館での展示になじまないが、情報として一巻の書物の中で十分に総括しうるという発想だ。今回の展覧会はこれら二つの予断がいずれも誤りであることを明確に示している。まずこの集団は実に多くの実体的な作品、さらに言うならば審美的なオブジェを残している。それどころかHRCほど特定のオブジェと結びついた活動を繰り広げた集団は存在しないのではなかろうか。彼らが使用したオブジェ(ないし手法)を私は直ちに個別に特定することができる。すなわち、高松の紐、赤瀬川の梱包、そして中西の洗濯挟みだ。これら日常に遍在する品物ないし操作がそれぞれ作品化されて美術館に収蔵されている点は会場をめぐる時、明らかである。のみならずそれらのオブジェは今日においても実にエレガントではないか。同様にアッサンブラージュの手法を用いて発表された同時代のネオ・ダダやヌーヴォーレアリスムのオブジェと比してもHRCのオブジェが圧倒的に洗練されていると感じるのは私だけではなかろう。第15回読売アンデパンダン展、二つの画廊で開かれた第5次と第6次のミキサー計画、さらには中原祐介が企画した「不在の部屋」といった展覧会に展示された多くのオブジェは美術館に収蔵されて今日に残され、この展示の中核をかたちづくっている。私はあらためて作家としての高松、赤瀬川、中西の力量を思い知った。HRCは匿名的な集団であるが、独立した作品としての品格を有したオブジェを残した作家がこの三人だけであったことは展示からも明らかであろう。HRCのオブジェについて語ることは興味深いが、それだけで優に数篇の論文の主題たりうる。そしてオブジェへ集中してしまうならばHRCの活動の本質は見失われてしまう。彼らは第一になんとも不穏なハプニング集団であったからだ。b0138838_22423911.jpg
 後述するとおり、彼らの活動の輪郭を見定めることは難しい。それにしても彼らの最初の主要なハプニング、「山手線フェスティヴァル」(ハプニングの呼称は以下、全てカタログに準じる)が当時の国電山手線という公共空間で実施されたことに私たちは驚きを禁じえないだろう。公共交通機関たる電車内での不穏な身振りから私たちが否応なく連想するのはほぼ30年の時を隔てて地下鉄の車内や駅構内で引き起こされた毒ガステロである。駅頭で奇怪な行為を繰り返す彼らの所業は毒ガスマスクを装着して街頭を行進したゼロ次元のアクション(「ベトナム反戦行進」1967年)同様、今日においては直ちに処罰の対象となっただろう。このような不穏さは中期の「シェルター・プラン」あるいは後期の「ドロッピング・ショー」、「首都圏清掃整理促進運動」などにも明らかである。一方で私たちはほぼ同じ時代に寺山修司が一連の市街劇を携えて都市空間に介入していたことも想起すべきであろう。これまで研究史がなく、私も具体的な接点については考えが及ばないが、匿名の送り手から不特定多数の人へインストラクションが郵送されるというシェルター・プランで採用された手法と寺山の書簡演劇、あるいはHRCが街頭で演じたハプニングと無関係の市民も巻き込んで演劇が上映される一連の市街劇が無関係であったとは考えられない。(中西と舞踏の関係、例えば土方巽の舞台美術との関係は知られている。あるいは寺山の行きつけのビルの屋上について高松が墓地のようだと評したエピソードが残されている。個々の作家レヴェルで交友があったことは確認できるが、ハイレッド・センターと寺山の関係はまだ十分に検証されていない)そして私たちは今やかかる芸術的挑発を許容する公共空間が消滅してしまったことを認識せざるをえない。市街地は監視カメラによって常に記録され、隣接する児童公園で朝礼を行った朝鮮学校に対しては「不法占拠」として在特会の常軌を逸した抗議行動が繰り広げられるのだ。その一方で「原発を止める人々」の中で語られたように、現在、反原発あるいは特定秘密保護法案への反対を表明するデモによって首都の街路が再び公共空間として整然と奪回されつつある。この意味においてもこの時期にハイレッド・センターの活動が検証される意義は大きい。
 話が逸れた。展覧会に戻ろう。多くのオブジェとともにこの展覧会にはたくさんの記録写真が展示されている。未見の写真も多く、興味深く確認した。この展覧会を企画する際の困難の一つはHRCの輪郭がきわめてあいまいであることだ。例えば集団名の「ハイレッド・センター」という名称にしても、各種文書を検証するならば「ハイ・レッド・センター」、「ハイ・レッドセンター」を含む少なくとも6種類の表記が確認されることがカタログのテクストの中で触れられている。このような錯綜、混同は明らかに意図的なものであるし、構成員の多様性は先に引用した一文の中にも明らかだ。最初に私は彼らの活動が赤瀬川の『東京ミキサー計画』の中で詳細に紹介されたために展覧会による回顧が遅れたと述べたが、この展覧会を見た後ではHRCについてはなおも多くの知られざる展示やハプニングが存在していたことに気づく。例えば四人目のHRCと呼ぶべき和泉達の二度目の個展「指紋検出」に関する展示があった。今、『東京ミキサー計画』を読み返してみるならば、確かにこの個展についての記述もあるが、デニス・オッペンパイムを連想させる和泉の作品の詳細を私はこの展覧会で初めて知った。この展覧会では1962年の「敗戦記念晩餐会」から1967年、村松画廊における「表現の不自由」展まで40項目にわたってHRCの直接行動がピックアップされ、それぞれの日時、場所、当事者、目撃者、証拠が列挙されている。企画者はカタログ・テクストの中でこの展覧会がいわば広義のHRCを対象としていることを言明している。先の定義から明らかなとおりHRCの構成員は特定されていないので、誰の、どのような行為をHRCの活動とみなすかはきわめて恣意的な選択となる。
 今、私は恣意性という言葉を挙げた。恣意性こそHRCの戦略ではなかろうか。先に私は紐、梱包、洗濯挟みという彼らが用いるオブジェや手法を特定した。なぜこれらのオブジェや手法が選ばれたか。この点についてはさらに精密な議論が必要であるにせよ、私の考えではこれらのオブジェや手法は例えばシュルレアリスムやダダイスムにみられたような必然性を伴っていない。先ほど、ピックアップという言葉を用いたが、それらは無数の選択肢の中から恣意的に選ばれたとは考えられないだろうか。同様の恣意性は彼らの「直接行動」にもあてはまる。日常の様々の行為の中から彼らが「直接行動」と呼ぶ一種の芸術的な営為はいかにして区別されるか。もちろん個展ないしグループ展として挙行されたそれもあれば、「山手線フェスティヴァル」のごとき明らかな事件性をもったハプニングも存在する。しかし雑誌広告や書籍の出版をあえて「直接行動」のリストに加える必然的な理由はあるだろうか。さらに言えば例えば途中で終えられたという説もある「山手線フェスティヴァル」において、どこからどこまでが「直接行動」とみなされるだろうか。それはHRCが駅に入った時点か、あるいはオブジェを取り出した時点か。このように考えるならば、一つの行為を芸術と結びつける決定はきわめて恣意的になされていることがわかる。そして一つの行為が恣意的に芸術と結びつけられるならば、それは同様に恣意的に犯罪と結びつけられはしないか。赤瀬川は1964年1月、オブジェと関連して制作した一連の作品、いわゆる「模型千円札」が通貨偽造にあたるとして任意の取り調べを受け、悪名高い「千円札裁判」が始まる。この事件をめぐる一連の裁判がHRCの活動と完全に同期していることは留意されるべきである。一つの行為が犯罪であると恣意的に断じられたこの事件に対して、HRCは逆に裁判そのものを芸術とみなすことによって反撃する。私はこの発想から本展にも出品された赤瀬川の《宇宙の缶詰》を連想した。蟹缶の中身をあけて、ラベルを内側に貼ったうえでハンダづけして密封し、缶詰の外側すなわち世界の全体を閉じ込めてしまうという発想は犯罪と名指しされた行為を逆に芸術と名指しして、意味を帳消しにしてしまうことと似ている。実際にカタログに収められたHRCの直接行動No.37は「法廷における大博覧会」と名づけられた1966年8月の公判であった。行為を犯罪とみなすか、芸術とみなすか、それは当事者の恣意に委ねられている。果たして裁判長にそれを判定する資格はあるのか。この裁判は恣意性をめぐる闘争であったとはいえないか。そして私は日常性への侵犯を本質とするHRCの活動がこの裁判においておおよそ終了したことは一つの必然であったと感じる。60年代後半より、三人の作家は次第に別の方向を目指す。高松はもの派の先駆とも呼ぶべき概念的な仕事に取り組み、中西は絵画の制作を本格的に開始する。赤瀬川はHRCを連想させないでもない一連の仕事の傍ら、小説の執筆を始める。もちろんそこにHRCの活動が反映されていない訳ではないが、おそらく彼らは恣意性と戯れることの危険に気づいたのではないだろうか。一つの行為を恣意的に芸術とみなすことが可能であれば、同様にそれは犯罪とも名指しされうる。消耗的な裁判闘争を経て、彼らは大文字の芸術へと回帰する。展覧会中、HRCのセクションとpost-HRCと題されたセクションとの断絶、彼らの作品の意図的な脱政治化は実はきわめて戦略的な選択であったと考えられよう。
さて、私はこの文章を12月8日に書いた。一昨日の国会参議院で特定秘密保護法案がまともな審議もないまま可決され、私たちはかかる稀代の悪法と共存せざるをえない状況に追い込まれた。もはや私はHRCの展覧会を単に美術史という観点のみからレヴューすることはできない。法案が国会を通過する同じ時期にこの展覧会が開催されていたことは私には一種の暗合のように感じられる。なぜならこの悪法も恣意性を本質としているからだ。既に報じられているとおり、「特定秘密」とは恣意的に決定される。かかる恣意性のゆえに私たちは権力に対して萎縮してしまい、それこそがこの法案の目的なのである。大きな震災から自由な表現を奪う法律の制定、そして東京オリンピックへ、かかる連鎖はこの国が泥沼のような戦争に陥っていった時代を正確に反復している。いうまでもなくここで言うオリンピックとは日中戦争で中止となった1940年の東京オリンピックのことだ。1964年の東京オリンピックにHRCは「首都圏清掃整理促進運動」によって応接した。2020年、もしも東京オリンピックが開催されたとしても、果たして私たちに「直接行動」の自由は残されているだろうか。

by gravity97 | 2013-12-11 22:44 | 展覧会 | Comments(0)

「内と外ースペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』」

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 以前、クーリエの仕事でマドリードのレイナ・ソフィア芸術センターに赴いたことがある。仕事を終えてもまだ十分な時間があり、特別展(確かドイツの現代美術に関する大がかりな展覧会であった)を見た後、私は常設展を巡った。この美術館のコレクションとしてはピカソの《ゲルニカ》が有名であり、ミロやダリといったシュルレアリスムの名品も多いのだが、戦後美術のセクションで思わず足を止めてしまった。1950年代の抽象絵画が素晴らしいのだ。タピエスとサウラは知っていた。しかし私が初めて見るほかの多くの画家の作品もレヴェルが高く、私はスペインでアンフォルメルがこれほどの充実を示していたことを初めて知った。そして数年前、フランクフルト近代美術館のブックショップを訪ねた際に私は「アンフォルメルの反乱」というサブタイトルをもつ『À REBOURS』という展覧会の分厚いカタログを見つけて買い求めたのであるが、ドリー・アシュトンによって企画され、当時においてはアンフォルメルを主題にした、私の知る限り唯一の展覧会も1999年に同じレイナ・ソフィアで開催されていた。
 現在、国立西洋美術館の常設展示の中で「内と外―スペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』」という展覧会が開かれている。常設展に組み込まれていることもあり、併催されている「ミケランジェロ展」の喧噪に比して地味な展示であるが、なかなか見応えがある。レイナ・ソフィア所蔵の14点によって構成されているから、おそらくかつて私が見た作品も入っているはずだ。大賑わいの「ミケランジェロ展」の陰で忘れられそうなこの展示についてレヴューを残しておく。(ついでながらやはり同じ常設展示の中で開かれている「ル・コルビュジエと20世紀美術」も実に充実した展示だ。西洋美術館を訪れるならば特別展よりも常設展に時間をとることをお勧めする)
 「アンフォルメル」に関しては日本でも二年前にブリヂストン美術館で充実した内容の展覧会が開催され、このブログでも取り上げた。フランスの美術批評家ミシェル・タピエに唱導されたこの運動は世界的な広がりをもつ。フランスのマチウやスーラージュ、イタリアのフォンタナやカポグロッシから当時パリに留学していた堂本尚郞や今井俊満まで多くの国籍の作家を擁し、アメリカの抽象表現主義とも深い関係をもっていた。ブリヂストン美術館の展覧会では前アンフォルメルとも呼ぶべきヴォルス、フォートリエ、デュビュッフェの三人に加えて主にフランスの作家の作品が展示されていたが、今述べたとおり、アンフォルメルの本分はフランスを超えた国際的な広がりにある。これまで私はヨーロッパ各国の美術館で戦後美術に関する展示を見るたびにアンフォルメルが国際様式として想像以上に強い影響力をもっていたことにあらためて驚いたのであるが、今回、今まで紹介される機会がまれであったスペインの作家たちの作品をまとめて見たことによってアンフォルメルに関する様々の思考がさらに誘発された。
 この展覧会には日本でもこれまで紹介されたことがあるアントニ・タピエスとアントニオ・サウラに加えて、ホセ・ゲレーロとエステバン・ビセンテというほとんど未知の二人の作家が加えられている。展覧会のサブタイトルにある「二つの顔」とは多義的な概念であるが、直接にはバルセロナとマドリッド、スペイン国「内」で活動したタピエスとサウラ、アメリカという国「外」で活動したゲレーロとビセンテを対比させていると考えられる。(ただしゲレーロは1965年にスペインに帰国している)企画者はこの対立を国内亡命と国外亡命というかなり刺激的な言葉で表現している。さらに後の二人は経歴として抽象表現主義の画家ともみなしうるから、二つの顔とは端的にヨーロッパのアンフォルメルとアメリカの抽象表現主義という1950年代の表現主義的絵画に与えられた二つの名ととらえることもできるかもしれない。しかし画面からは両者の区別は困難だ。確かにゲレーロの色使いや浮遊するがごとき形態からはロバート・マザウェル、ビセンテの画面構成や色面の重なりからは初期のデ・クーニングとフィリップ・ガストンといった抽象表現主義の画家がたやすく連想される。しかしそれならばサウラの絵画もストロークとモノクロームによってフランツ・クライン、人の姿を彷彿とさせるオールオーバー絵画によってポロックを連想させるではないか。実際にカタログの表紙にも使われている大作《大群衆》は極端に横長のフォーマット、垂直性の強調、さらに人体の暗示といった点が直ちにポロックのグッゲンハイム邸壁画に近似している。四人の中ではタピエスのみ抽象表現主義には類例を求めることが困難な作家であり、画面の物質性からはむしろフォートリエやヴォルスらアンフォルメルに先駆けた作家たちが思い起こされる。
 国内亡命と国外亡命という対比は示唆的である。この対比から私は「スペインのアンフォルメル絵画」が置かれた微妙な立場に思いをめぐらす。例えばストロークだ。抽象表現主義にとって奔放なストローク、自由な身振りによって生成される絵画とは自由主義体制における個人の自由のメタファーであり、冷戦下においては共産主義の抑圧に対する批判として機能した。これに対してフランコの独裁体制下にある50年代のスペインにおいても自発的なストローク、自由な抽象表現は成立しうるか。自由主義社会の前衛にとっては共産主義同様にファシズムも打倒すべき対象であり、先に名を挙げたマザウェルはフランコ批判を含意した「スペイン共和国へのエレジー」という連作を発表している。タピエスとサウラという才能がスペインではなく、パリを中心にしたアンフォルメルという国際様式の中で初めて認められたことは必然であろう。果たして彼らの作品はスペインではどのように受け容れられたのか。このあたりの微妙な消息を企画者はカタログの冒頭で次のように述べている。少し長くなるが引用する。

ソフィア王妃芸術センターのコレクションの最も重要な分野の一つは、スペインのアンフォルメル芸術である。スペインのアンフォルメル芸術は、フランコ独裁政権下―内戦終結の1939年から75年のフランコの死まで続く―において認められていなかった前衛的精神の回復の象徴であり、その歴史的意義と生み出された作品の高い質から高く評価されている。/1950年代のヨーロッパにおいて、スペインは文化的、政治的に特異な位置にあった。それ故にアンフォルメルの画家たちは、スペインの長い戦後の孤立の後、現代の伝統を回復した功労者としての地位を確立することになる。

 国内亡命と国外亡命、両者の境遇の差異は作品にも反映されているように感じられる。ゲレーロやビセンテはベティ・パーソンズ・ギャラリーやクーツ・ギャラリーといった抽象表現主義の拠点となったギャラリーで作品を発表し、実際にニューヨーク・スクールの作家たちと交流している。出品作だけで判断することは難しいとはいえ、開放的で抒情的な作風は例えば今述べたとおりゴーキー、デ・クーニング、マザウェルらが抽象表現主義を確立していく時期に似た一種の遠心性を有している。これに対してサウラとタピエスの絵画を特徴づけるのは強い緊張感と物質性であり、画面はむしろ求心性を秘めている。色彩が抑制されている点も共通する。今回、サウラは《磔刑》と《フィリペ二世の想像上の肖像画》という作品を出品しているが、このような主題と激しく変形された人物の姿からは今年大規模な展覧会が開かれたフランシス・ベーコンも連想されよう。あるいはタピエスの《横向きの指の痕跡のある茶色、No.63》はタイトルから理解されるとおり、物質感の強い画面に指の痕が残されている。触覚的な画面からはジャスパー・ジョーンズの一連の作品も連想されるが、タピエスの画面にジョーンズのユーモアはなく、身体を強引に(横向きに)壁に押しつけるという一種の暴力的な行為が暗示されているように感じられる。スペインで「国内亡命」して活動を続けたサウラとタピエスの絵画が、ゲレーロやビセンテと比して鋭い緊迫感を秘めている理由は独裁政権下における彼らの社会的位置の不安定さを反映しているとみなすのは安易だろうか。ただし彼らは50年代にパリに滞在し、アンフォルメル運動に参加し、スペイン帰還後もアンフォルメルの牙城とも呼ぶべきスタドラー画廊で定期的に個展を開き、ヴェネツィア・ビエンナーレやサンパウロ・ビエンナーレ、あるいは1960年にニューヨーク近代美術館で開催された「新しいスペインの絵画と彫刻」といった重要な展覧会に、いわばスペインの戦後絵画を代表する作家として出品を重ねている。このあたりの事情はフランコ政権の文化政策とも関連して、今後検証が待たれる問題であるように感じられる。
 今回の展示を見てあらためて感じたのは「アンフォルメルとは何か」(奇しくもブリヂストン美術館の展覧会のタイトルである)という根源的な問題である。今回の展覧会には「スペイン・アンフォルメル絵画」というサブタイトルが付されているが、四人の作風はばらばらであり、共通点を見出すことは困難だ。このあたりの事情は「内と外」というタイトルにも反映されているだろう。例えば先のブリヂストン美術館での展示においてもアンフォルメルの先駆と呼ぶべきフォートリエ、ヴォルス、デュビュッフェはともかく、展示の核とされた作家は例えばアンリ・ミショーであり、ザオ・ウーキーであり、いずれもアンフォルメルの中心作家とみなすことには無理がある。あるいは最初に記したレイナ・ソフィアにおける1999年の展覧会にはジャコメッティやベーコンさえも含まれているのだ。かかる融通無碍こそがアンフォルメルの特質であり、それゆえタピエはアンフォルメル、あるいは「別の芸術」という概念によって日本の具体美術協会、さらにはアメリカの抽象表現主義までも包摂しようとしたのであった。逆にアンフォルメルを真に体現した作家は誰か。この問いに答えることは難しい。マチウの名を挙げることは可能であろう。しかしそのほかに誰がいるか。試みにタピエが組織した展覧会に複数回にわたって名を連ねた作家を列挙してみよう。ブリエン、リオペル、セルパンといった作家は今日ほとんど知られていない。デ・クーニングやポロックはいうまでもなく抽象表現主義、アペルはコブラの文脈で理解されることはあってもアンフォルメルの作家とはみなされないだろう。アンフォルメルとは一見すると全世界を巻き込んだ巨大な運動でありながら、実は巨大な空虚であり、空虚さゆえに抽象表現主義から具体美術協会にいたる同時代の多様な表現主義的絵画を呑み込むことができたのではなかろうか。早すぎる退潮のゆえに今日アンフォルメルは美術運動として軽視されがちであるが、例えば「タピエ、マチウ、サム・フランシスを迎えて開く国際アンフォルメルの祭典」と銘打って開かれた1957年、ブリヂストン美術館における「世界現代芸術展」においてはサウラ、タピエスと並んで、ポロック、デ・クーニング、マーク・トビー、フォートリエ、デュビュッフェ、フォンタナ、ブッリ、そして堂本尚郎、今井俊満といったおおよそ共通項のない雑多な、しかし今日から考えるならば夢のような作家のラインナップが出品リストに名を連ねている。具体美術協会が主催した1958年の「新しい絵画世界展」も同様である。私たちはこのような展覧会がヨーロッパやアメリカではなく日本で開かれたことの意味についても真剣に考えるべきであろう。
 最後にカタログを読んで気がついたトリヴィアルな疑問を二つほど書きつけておきたい。ベレン・ガランというレイナ・ソフィアのキューレーターのテクストによれば、1957年にバルセロナのガスパール画廊およびマドリッドの国立現代美術館において「別の芸術」という展覧会が開かれ、サウラ、タピエスを含むスペインの画家たちとともにフォートリエやヴォルス、ポロック、デ・クーニングといった作家の作品が展示されたという。展覧会のタイトルと作家の顔ぶれからはミシェル・タピエの介在が予想されるのであるが、ガランによればこの展覧会はスペインの国立現代美術館館長ホセ・ルイス・フェルナンデス・デル=アモによって企画されたという。この人物とタピエの関係、そしてアンフォルメル運動におけるこの展覧会の位置づけはいかなるものであったか。以前、私はフランシスコ・ビセンスという人物によってコンパイルされ、『別の美学のための序説』と題されたミシェル・タピエの長大な論文集を読んだことがある。その際にこの書物がパリではなくバルセロナで出版されたことに奇異の念を抱いたが、確認するならばこの論集はバルセロナの国際美学センターから出版されている。私の記憶ではタピエのコレクションが収められた国際美学センターはバルセロナではなくイタリアのトリノに開設されていたのではなかったか。両者は同じ機関なのであろうか。そもそもアンフォルメルの拠点とも呼ぶべきこの施設がパリではなく、スペインもしくはイタリアに設置されたのはなぜなのだろうか。タピエの批評の晦渋さのゆえでもあろう、アンフォルメルはなおも多くの謎を残した運動なのである。

by gravity97 | 2013-10-24 20:16 | 展覧会 | Comments(0)

「アンドレアス・グルスキー展」

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 国立新美術館で「アンドレアス・グルスキー」展を見る。グルスキーの作品は日本でも既にいくつかの展覧会で紹介されており、私も初見ではない。しかしいずれもグループ展の中での紹介であったのに対して今回は日本で初の大規模な個展であり、巨大な作品の数々に圧倒された。私は写真の専門家ではないが、展示の中でもしばしば触れられていたとおり、グルスキーの作品は写真という文脈よりも、現代絵画あるいは現代美術との関係において検討した方が理解しやすい。彼の作品はデュッセルドルフ芸術アカデミーでベルント&ヒラ・ベッヒャーに学んだことに多くを負っており、私は一種のコンセプチュアル・アートとしてとらえることさえ可能ではないかと考える。
 ひとまず上に掲げたイメージ、カタログの表紙とされた2007年の《カミオカンデ》から始めてみよう。ポスター等にも使用され、おそらく今後グルスキーの代表作の一つとみなされるであろうなんとも壮麗なイメージだ。タイトルからわかるとおり、これは岐阜県飛騨市の神岡鉱山の地下深くに建設されたニュートリノ検出装置スーパーカミオカンデの情景だ。それは5万トンの超純水を湛えた直径39.3メートル、深さ41.4メートルの円筒形のタンクであり、その内部には光電子増倍管と呼ばれる円形のセンサーが無数に設置されている。上部から差し込む光によって内部は黄金色に満たされ、戦慄的な光景が広がっている。もっともタイトルもしくは説明がなければここに繰り広げられているのが一体いかなる風景なのか、そもそもそれが風景であるかさえ理解することは困難だ。しかしこの作品は内部に一点、そのヒントを含んでいる。画面右下を注意深く見るならば、そこにはゴムボートに乗り帽子をかぶった二人の人物を認めることできる。今述べたとおり、このタンクは超純水で満たされているから、ゴムボートが存在することは不思議ではない。しかし実際にこの写真が撮影された際には破損した光電子倍増管の修理のために水は抜かれており、二人の人物や周囲が映り込んだ水面はグルスキーが撮影した写真をデジタル的に処理する過程で付加されたという。直ちに一つの疑問が浮かぶだろう。なぜ作家はことさらに人物の姿を情景の中に加えたのか。予想される解答の一つは、作家が作品を抽象的なイメージとして捉えられることを嫌ったというものであろう。実際、この展覧会に出品された作品はほとんどが具体的な対象に依拠しており、タイのチャオプラヤー川の水面を撮影して一見抽象的な「バンコク」連作においても、よく観察すると川面に浮かぶ油やゴミが見てとれる。あるいは《カミオカンデ》と近似した黄金のイメージ《カタール》もいかなる施設を撮影したものか判然としないが、同様に床にうずくまる小さな人影を確認するならば、具体的な建築の内景であることが了解される。
 しかしここに付加された人物はさらに興味深い問題へと私たちを導く。美術史学を学んだ者であれば、《カミオカンデ》からカスパー・ダーヴィト・フリードリッヒが描いた一連の風景画を連想しないでいることは難しい。フリードリッヒの絵画においても壮大なスケールの自然、あるいは自然現象を前に手前に多く後ろ向きの人物が小さく描き込まれる場合が多い。この場合、人は一つにはスケールの指標であり、人の大きさと比べることによって描かれた光景の壮大さが理解される。そしてさらに重要な点は後ろ向きの人物という、観者が自らを最も投影しやすいイメージによって、私たちも絵画の中に招き入れられるのである。ジェラール・ジュネットが焦点化と呼ぶ作品と享受者の特殊な関係を敷衍して、ロバート・ローゼンブラムがさら問題を深化させたことはよく知られている。ローゼンブラムはフリードリッヒの絵画にみられる圧倒的な存在を前にした人間が抱く感情を崇高と呼び、同様の感情が抽象表現主義絵画、特に色面抽象絵画を前にした観者にも共有されていると説く。典型的な例を挙げるならば、断崖の上に立って茫漠とした空間に対する人物を描いたフリードリッヒの《海辺の僧侶》に対して、同様に茫漠としたイメージを描いたロスコの巨大な絵画。そこでは絵画内から現実へと審級を転じたうえで、人を圧倒し、理解を絶した存在を前にした超越的な体験が繰り返されるのであり、ローゼンブラムはそれを抽象的崇高と呼ぶ。既に指摘されている点であろうが、崇高という概念はグルスキーの作品を分析する際にも有効である。私たちはそれが入り組んだかたちで実現されていることに注意しなければならない。今述べたとおり、フリードリッヒとロスコを比較するならば、フリードリッヒにおいて画中の人物は自らの前に繰り広げられる風景に圧倒され、私たちはそれらの人物と同一化することによって崇高を追体験する。これに対してロスコの場合、私たちは現実の中で絵画という異様な存在に直面し、直接に特殊なセンセーションを感じる。つまり崇高の感覚はフリードリッヒにおいては間接的、ロスコにおいては直接的なのである。グルスキーの場合、崇高の感覚は両方に関わる。《カミオカンデ》において私たちは二人の人物に目を止めることによって、ここに展開する風景の壮大さを理解する。しかし仮に二人に気がつかなかったとしても、黄金色の円盤がオールオーバーに配置された巨大で異様なイメージを前にして感受されるセンセーションはロスコと共通するだろう。ここできわめて興味深い問題が発生する。それは写真のサイズという問題だ。写真がアイコン記号、インデックス記号のいずれであるかは軽々に断ずることができない問題であるが、通常、写真においてサイズはその本質に非関与的な要素と考えられている。パスポートの写真がビルボード大に拡大されたとしても私たちは同じ人物だと認識することができる。しかしグルスキーの場合、実際の作品とカタログに小さく掲載された《カミオカンデ》は全く印象が異なるのだ。つまり小さな図版であれば、二人の人物は見過ごされる可能性が高く、ここに広がる情景の意味が認識されない。(「カミオカンデ」が実験施設の名称であることは日本人でも知らない場合が多いだろう)この作品を十全に享受するためには画面内に人の姿を認知することが可能な大きさ、つまり会場芸術として通用しうる作品のサイズが必要とされるのだ。私の印象ではこれまでグループ展でグルスキーが紹介された機会において作品は比較的小さく、この意味でも作品の本質は今回の展示で初めて明らかとなったのではなかろうか。現実に作品に直面する体験が作品の本質そのものに深く関与するという点において確かにグルスキーと抽象表現主義絵画は共通する。
 今、私はグルスキーの作品を崇高という概念と関連させて論じた。彼の写真において崇高はどのように実現されているのか。もう少し詳しく分析してみよう。まず明らかなのは被写体の想像を絶するスケールである。多くの作品は内部に人を写し込んでいるため、情景のスケールを想定することが可能であり、多くの場合、とてつもない広がりや高さを有している。被写体のスケールは人間の身体をはるかに超え、インド洋および南極大陸を撮影したイメージにいたってはもはや地図的な想像力なくしてその広がりを理解できない。おそらく航空写真ないし衛星写真が用いられたのであろうが、私はこれほどの広がりを純粋に視覚に還元できる技術が存在すること自体に大きな驚きを抱いた。かかるヴィジョンに対してもはや人間的な視覚は対応しえず、グルスキーの作品が内包する一種の非人間性はこの点に由来しているだろう。第二にグルスキーの構図は対象が画面に対して強い正面性ないし垂直性を宿している場合が多い。初期の代表作である《モンパルナス》はパリのアパルトマンを正面から撮影し、巨大なグリッドの連なりとして提示したものである。これほどの広がりを単視点でとらえること、そして画面全体に焦点を合わすことは不可能であるから、おそらく数台のカメラで撮影された映像をデジタル技術によって繋ぎ合わせたのであろうが、この意味でもここに実現された視覚は非人間的といえよう。グルスキーのイメージはスケールにおいても知覚においても人間のそれを絶しており、それゆえ崇高という感情へと接続されるのである。
 正面性ないし垂直性の問題は別の角度から美術史に介入する。フリードリッヒの絵画が茫漠とした広がりを示していたのに対して、グルスキーの画面は意図的に奥行が消去され、私たちの視線を遮断する。アパルトマンの正面、ショーケース、空港の電光掲示板、グルスキーの作品には視線を正対して遮断する多くのモティーフが用いられている。奥行の拒絶といってもよいだろう。アスバラガス畑の遮光用の黒いビニールのストライプを無数に反復させた《ベーリッツ》は本来であれば水平的な広がりの情景であるはずなのに、航空写真に基づいているのであろうか、一切の奥行を欠いた平面的なイメージとして成立している。グルスキーは広がりをもった対象に対しては水平な、高さをもった対象に対しては垂直な視覚を設定することによって、画面から奥行の暗示を排除する。消失点に向かう奥行は透視図法と呼ばれ、絵画史に決定的な役割を果たした。別の観点に立つならば、奥行の排除とは画面から時間を排除する試みでもある。遠近法が消失点に向かって物語を起動させたのに対して、グルスキーの写真には時間がない。1990年の《東京証券取引所》と99年の《シカゴ商品取引所》を比較するならば(いずれも広い空間を撮影しているにもかかわらず、鳥瞰的な構図によって平面的な印象を与えている点に留意されたい)ともに無数の人々が働いている情景であるが、前者ではぶれやずれによって人物の動きと時間が暗示されているのに対し、後者はほとんどそのような要素がないために時間が静止している印象がある。さらに北朝鮮のマスゲームを撮影した《ピョンヤン》においてこのような印象は強められるが、マスゲームとは元来観客や独裁者に対して一つの壮大な情景を細切れに与える試みであるから、このような非時間性に適したモティーフと考えることができるだろう。崇高と時間の関係についてはすでにバーネット・ニューマンの絵画との関係において、作家本人による「崇高は今」、そしてJ.F.リオタールによる「崇高と前衛」という二つのテクストの中で論じられている。私はこの問題をさらに敷衍して、マイケル・フリードがモダニズム絵画の理念として掲げた現在性、presentness という概念とも対比してみたいと考えるが、本論の中で分析することはさすがに私の手に余る。このブログでも触れたとおり、フリードは2008年に『なぜ、写真は今、かつてないほど美術として重要なのか』という写真論を上梓しており、当然ながらグルスキーも取り上げられている。私は不勉強でこの研究書を通読していないが、今、手元で調べたところでは、特にグルスキーの作品が現在性という問題との関係で検証された形跡はないようである。
 出品作中に一点、美術館に展示された作品を撮影した写真がある。ニューヨーク近代美術館が所蔵するポロックの《ワン:ナンバー31》を正面から撮影した《無題Ⅵ》である。この作品もきわめて興味深い。美術館に展示された作品を撮影する写真家としては直ちにトーマス・シュトルートが連想されるが、グルスキーの問題意識は全く異なり、視覚の軸性と関わっているのではないか。周知のごとくポロックの絵画は床に敷いたカンヴァスに上方から絵具を撒布して制作された。つまりグルスキーの構図はポロックのアトリエの天井から制作中の作品を見下ろした視覚に一致し、それは実際にカンヴァスの上でアクションを繰り広げるポロックの視覚とも共通している。上方からの視覚、先に私はそれを航空写真と関連させたが、かつてロザリンド・クラウスがポロックのアクション・ペインティングを航空写真との類比によって論じたことも想起されてよかろう。航空写真とグルスキーの視覚の一致は暗示的である。モダニズム絵画との関連に関してはカタログのテクストの中でグルスキーの作品が平面性という観点からクレメント・グリーンバーグのモダニズム理論と関連づけられていたが、見当外れに感じられる。グルスキーの作品の特性を挙げるならば平面性ではなく、立面性もしくは正面性を指摘すべきであろう。確かに奥行の欠落はグルスキーの作品の特質であるが、それはメディウムの自己言及とは関係なく、カメラと被写体の位置関係によって結果的に生じた特質ではなかろうか。この時、ポロックの絵画を撮影した作品は抽象表現主義とグルスキー、平面性と立面性の差異を象徴的に示しているように感じられる。
 展示にはもう一点、ポロックを連想させる作品が出品されている。ゴミの集積が地面を覆う風景を撮影した《無題Ⅷ》である。廃物が水平に撒き散らされた風景はロバート・モリスのスキャター・ピースのようだ。先にも述べたとおり、水平的な風景を直立させる手法はグルスキー特有であるが、この作品をポロックに結びつけるのは(画面の上方、地平線より上には何も写っていないにせよ)画面が中心を欠いたオールオーバー構造をとっている点だ。多くの作品を通じてオールオーバー構造もグルスキーの作品の特徴である。これまで私はグルスキーにおいて作品に崇高性を賦与する要素として被写体のスケール、正面性、非時間性、さらに作品が物理的にはらむ巨大さ、あるいは垂直性などを指摘した。オールオーバーネスもまたかかる特質と関わっている。今挙げたランダムなオールオーバーネスはグルスキーにおいてはむしろ例外的であり、この作家を特徴づけるのは単位が無限に反復して構成される規則的なオールオーバーネスだ。上に掲げた《カミオカンデ》もその例であるが、牛舎や書棚、オフィスやアパルトマンの窓枠が気の遠くなるほど繰り返される情景はグルスキーのイメージの典型であろう。反復がミニマリズムの基本的な語法であったことはいうまでもない。しかしこれほどまで執拗に繰り返されることによって、そして画面の巨大さを介して、画面はミニマリズムの凡庸の美学を超えた崇高の美学へと達しているのではないか。(この点に関してはごく初期の《ガスレンジ》と後年の《タイムズ・スクエア》の比較が有効かもしれない)あるいはロスアンジェルスのディカウントショップの内部を撮影した《99セント》。食品や日常用品、スーパーに山積みにされた商品はポップ・アートにとっても格好の主題であり、写真家は明らかに美術史を参照している。ここでも商品の棚が水平に反復され、安物の(なにせ「どれでも99セント」なのだから)商品がぎっしりと詰め込まれた情景は奥行に向かうことなく見る者に向かって立ち上がるかのようだ。壮大な風景、異様な建築から崇高という概念が喚起されることは不思議ではない。しかしここではビスケットやジュース飲料がところ狭しと並べられた何の変哲もないスーパーマーケットの光景が異化され、一種の衝撃とともに見る者に迫る。それを崇高と呼ぶことはためらわれもするが、劇的な内容を一切欠いた、全てが均等化された画面が与えるセンセーション、日常の光景さえも反復と巨大化という形式的な操作を介していわば「即物的崇高」の感覚を宿すという発見はミニマリズムと崇高という問題を考える際にも多くの示唆を与えるだろう。
 最後に展示の手法について述べておく。作家は来日したということであるから、作品の配置は作家に帰せられるはずだ。興味深い試みがなされていた。カタログはクロノロジカルな配列となっているが、実際の展示においては制作年やテーマがシャッフルされ、「バンコク」や「オーシャン」などのシリーズ、建築の内景を撮影した作品、群衆を撮影した作品といった共通性をもつ作品も集められることなくばらばらに配置されていた。時間軸や主題に沿って作品を見る経験に慣れた私たちにとってやや困惑する経験であったが、これも一種のオールオーバーネスの経験かもしれない。このような配置は作家の成熟と作品の類型というモダニズム美術の前提に異を唱える。この点においても現在にいたるグルスキーの仕事を形式的にしばしば比較されるバーネット・ニューマンやケネス・ノーランドの「画業」と比較することは意味があるかもしれない。さらにこのような姿勢はグルスキーの師であったベルント&ヒラ・ベッヒャーがまさに類型という概念によって作品を制作したことへの批判としてとらえることはできないだろうか。まことにグルスキーの作品から誘発される思考は際限がない。
 なお、下に示した図版は今回の出品作であるが、今回の展示風景ではない。作品のスケールを示すために掲げた。
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by gravity97 | 2013-07-23 20:12 | 展覧会 | Comments(0)

「フランシス・ベーコン展」

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 東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン」展を見る。ベーコンを専門とする二人の学芸員が担当しただけあって、力の入った展示である。私は前回、1983年のベーコン展も京都で見た記憶がある。あらためてカタログを取り出してみるとこの展覧会にはトリプティクを含めて45点の作品が出品されており、点数については今回より多く、重複する作品もある。しかしその際にさほど強い印象を受けなかったのはなぜであろうか。83年の展覧会が元々オーストラリアを巡回する展覧会として企画され(結局、オーストラリア巡回は実現しなかった)、マールボロ・ギャラリーとブリティッシュ・カウンシルの全面的な支援を受けて実現された、いわばあらかじめ誂えられた展覧会であったのに対して、今回の展示が学芸員のいささか偏向した熱意によって企画されたことがその大きな理由であろう。
 展覧会は四つのセクションから構成されている。すなわち「移りゆく身体」「捧げられた身体」「物語らない身体」そしてエピローグとしての「ベーコンに基づく身体」である。エピローグの部分のみ土方巽とペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスというベーコン以外の作家の作品を紹介している。タイトルの後には年記が示され、それぞれのパートが扱う時期が50年代まで、60年代、70年代以降の三期に分けられていることが明示されている。したがって展覧会は基本的にクロノロジカルに配置されているが、かかる構成そして各パートのタイトルからしてすでに挑発的である。
 ベーコンの作品を理解するうえで身体というテーマはわかりやすい。ベーコンの多くの作品に共通するのは、捻れ、変形し、投げ出された身体であるからだ。しかしながら身体に関して、先に掲げたセクションのタイトルが意味するところは必ずしも明確ではない。「移りゆく身体」において確かにいずれのイメージもなんらかの移行の相を示しているという指摘はそう言われるならばそうであろうが、果たしてこの時期の作品のみに指摘しうる特質であろうか。むしろ肖像、教皇、そしてスフィンクスといった主題ごとに整理した方がわかりやすい気がする。あるいは「捧げられた身体」という言葉から誰しも想像するのは磔刑図であるが、このセクションには(カタログには参考図版が掲載されているものの)磔刑図の出品はなく、出品作をそのための「スタディ」とみなすことはやや苦しい。「物語らない身体」についてもそこで圧倒的な存在感を示す4組の巨大なトリプティクは作品の形式においては共通するが、描かれたイメージに企画者いうところの「物語の生贄」を認めるには相当高度の専門的知識が必要であろう。したがってここでは設定されたテーマに拘泥することなく、ベーコンの作品について若干の私見を述べておく。
b0138838_932591.jpg ベーコンの絵画を批評する者がしばしば陥る罠はイメージ・ソースの探求である。ベラスケス、ゴッホ、エイゼンシュタイン、イメージの原型をたどることはさほど困難ではないし、それは美術史の学徒にとってはほとんど反射的な態度といえるかもしれない。しかしベーコンがベラスケスの教皇像を連想させる絵画を描いたとしても、作家がベラスケスのイメージをアイコニックに模倣することに何の関心も持っていないことは明らかだ。私たちが問うべきは作家をしてそれらの主題を選ばせ、さらに異様な変形を加えたうえで私たちの前に提示する衝動の由来であろう。イメージ・ソースの探求が常に起源へと遡及するのに対して、私はむしろ同時代の表現と対照することがベーコンの絵画を理解するうえで有効ではないかと考える。具体的にはベーコンとほぼ同じ世代、正確には5歳年上のアメリカの画家、ヴィレム・デ・クーニングとの比較である。それというのも会場で出品作中の一点、フランクフルト近代美術館所蔵の《裸体》から直ちに私はデ・クーニングの「女」シリーズを連想したからである。直ちに言い添えなければならないが、1960年に制作されたこの作品がデ・クーニングと似ている、もしくは影響下にあるというのではない。逆に両者の相違こそが重要であると感じる。今、似ていないと述べたが、《裸体》の醜く歪められた表情、あるいは横向きに押しつぶされたような乳房の表現などは「女」シリーズの一部の作品を強く想起させる。しかし私は両者の間に決定的な隔たりを感じる。それは画家、あるいは観者と描かれた人物の距離である。デ・クーニングの場合、画家とイメージ、観者とイメージは直接につながっている。しかしベーコンにおいて両者は隔絶している。別の言葉を用いるならばデ・クーニングが描く人物は私たちとともにある。しかしベーコンの場合は別の世界にいるかのようだ。まずこのための様々な仕掛けを検分してみよう。今回あらためて感じた点であるが、図版からの印象に反してベーコンの作品は物質性が希薄である。絵具のストロークによって表情や身体が生々しく変形するのではなく、薄塗りの画面に残されたそれらのイメージはあらかじめ変形した身体の映像のように感じられる。この点においてもデ・クーニングとの比較が有効である。デ・クーニングの人物がストロークでずたずたにされるのに対して、ベーコンの人物は変形されつつも静的な印象を与える。出品作品のうち、《椅子から立ち上がる男》において男の足下に白い絵の具の塊が付着し、精液を連想させるというコメントが付されていたが、この点はベーコンにおいて絵具が明確に物質として認知される場合がむしろ稀であることを暗示しているだろう。デ・クーニングの物質的な絵画はイメージが絵具という現実の物質によって構成されていることを自覚させ、絵画が私たちとともに在ることを意識させる。これに対してベーコンのイメージは私たちと隔てられたあちら側に在る。額縁とガラスもまたこのような隔絶に寄与しているだろう。会場に掲出されたコメントによれば、ベーコンは作品をガラスで覆い、大仰な金色の額縁をつけることを好んだという。結果としてベーコンの作品はいかにも絵画然としている。さらに画面に目を向けるならば、ベーコンの描く人物は多くの場合、何らかの枠の中に囚われている。画面の中に描かれた奇妙な矩形、教皇が座るというより身を押し込められたかのような玉座、あるいは奇妙な台や窓枠、これらの形態は多くの場合、その内部に人物を閉じ込めている。これはデ・クーニングが背景をストロークで埋めて特定しえない場所に人物を置くことと対照的である。ニューヨーク近代美術館に収蔵された有名な《女Ⅰ》が最初窓のある室内に描かれながら、次第に塗り込められて背景と一体化された経緯を想起してもよかろう。ベーコンの人物はいずれも何かしらの枠の中に閉じ込められ、さらにガラスと額の中に密封される。彼らはしばしば絶叫するかのように口を開けるが、それはあたかも檻の中に閉じ込められる恐怖の悲鳴のようだ。私たちは彼らに檻の外から眼差しを向けるが、時にガラスの反射にあって不分明な人物たち、暴力的に歪められた肉体からほとばしる絶叫は視覚ではなく触覚や聴覚に痛みのような刺激を与える。この共感覚的なセンセーションはベーコン特有である。閉じ込められる恐怖、ベーコンの絵画は求心的であり、これに対しデ・クーニングの絵画は遠心的といってもよかろう。
 いうまでもなく遠心性とは抽象表現主義絵画に共有された特質であった。ポロックの、ニューマンの、ロスコの絵画は外に向かって開かれ、展示された空間と関係をもつ。先ほど額縁の問題に触れたが、彼らの絵画の多くは額縁をもたず、備えていたとしても存在感は抑制されている。私は絵画という物体が現実と接することによって絵画の現代が画されたと考える。この意味でベーコンは過激なイメージにも関わらずなおも絵画の近代に留まった。むろんこれは否定的な意味ではなく、あえて留まることによって逆に20世紀後半にあって可能ななんとも不穏なイメージを成立させたのである。考えてもみるがよい、ベラスケスの描いた教皇像、これほどまでに西欧絵画の典型と呼ぶべき作品がほかにあろうか。それは一方ではキリスト教という膨大なイメージ・ソースの中心に位置し、一方では肖像画という長い伝統をもつ形式と連なる。それを換骨奪胎してかくも独特のイメージとして結実させるという行為はいわば西欧絵画全体のネガを提示するかのようだ。絵画という形式を踏み越えることなく、近代絵画という枠組の中でこのような取り組みがなされたことはむしろ必然であっただろう。
 会場に不在のデ・クーニング(実際には同じ美術館の常設展示における関連企画の中にも一点が展示されていた)との対比が求心/遠心という対立を導き出すとするならば、最後のセクションに実際に並べられた二つの舞踏とベーコンの絵画との対比は別の対立を導き出す。会場の最後にあえて舞踏の映像を上映する点に展覧会の批評性が明確に示されている。ダンスの中で実際にベーコンが参照されるペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスはいうまでもなく、土方巽のアーカイヴに遺された資料の中に見出されたベーコンへの言及がこの展覧会の一つの着想源であったことは明らかだ。企画者もセクション解説の中で記すとおり、ベーコンの影響は文学から映画、音楽にいたる広い領域に認められる。私も最近読んだバルガス=リョサの『継母礼賛』に掲出された6葉の名画の図版の中にベーコンの《頭部Ⅰ》を認めて驚いたばかりだ。それにしても舞踏/ダンスとはまことにベーコン的なジャンルではないか。展覧会を一巡するならば、多くの作品の画面上部にホリゾントのような空間が暗示され、画面が一種の舞台として実現されていることが理解されよう。あるいは画面に描かれた窓枠のような空間、それが「移りゆく身体」を保証していることはいうまでもないが、かかる空間はアルベルティ的な窓というより、舞台の書き割りとしての扉に見えないだろうか。マイケル・フリードではないがこのようなシアトリカルな空間に置かれた身体は既に俳優やダンサーを暗示している。ベーコンが描く空間はきわめてあいまいであるが、そこを上下に分割する線は高い位置に置かれているため、私たちはかなり高い位置から情景を俯瞰するような印象を受ける。対象に向けられた私たちの視覚は比較的安定しており、水平方向に向けられる。このような視覚を舞台上の演技やダンスに目を凝らす観客のそれに比すことは容易である。先に私はガラスの反射によって遮られ、絶叫や身体の変形を主題としたベーコンの絵画が共感覚的であると述べたが、今述べた点を考慮するならば、ベーコンの絵画における視覚性はかなり入り組んだ構造をとり、安定した視覚と不安定な視覚が葛藤している。絵画とは本来的に視覚的な営みであるから、西欧近代絵画の伝統の掉尾に連なるベーコンが一連のトリプティクに明らかな視覚的明瞭さを強調した構図を多用する意図は十分に理解される。しかしそれにもかかわらずそのような明瞭さを無効にしてしまうような不穏さを絵画は宿していないだろうか。土方とフォーサイスを参照する時、このような不穏さの由来が明らかになる。会場で上映されていた土方の「疱瘡譚」において土方は舞台の上に何度もくずおれる。この時、観者の視線が向かう画面に向かって奥方向のヴェクトルとは全く異なった軸性が露わとなる。それは重量をもった身体が倒れる際の下向きのヴェクトル、つまり重力の方向だ。土方の舞踏の異様さはその扮装もさることながら、立とうとして倒れる、身体が重力によって変形される過程にある。身体の変容もまた土方の一つの関心であり、ベーコンの絵画に認められる肉体の変形から触発され、土方が舞踏の中に重力という効果を導入したことは大いに考えられる。重力が視覚ではなく身体に関与する力であることはいうまでもない。絵画を一望しようとする水平の軸と重力にとらえられた身体の垂直の軸、ここでも二つの軸が対比される。このように考える時、ヴェルツ/フォーサイスの作品が展示に加えられた意味もまた明白である。フォーサイスは靴と手袋にグラファイトをまぶしてベーコンの絶筆をなぞる。フォーサイスの動きは白い床に残されたグラファイトの痕跡として記録される。ここに重力が関与していることはいうまでもないが、さらに注目すべきはこのような身振りをペーター・ヴェルツが上方、正面、横という三つの角度から撮影して三つのスクリーンに投影することである。ここで重要なのはうずくまるフォーサイスの姿態がベーコンの人物を連想させる点ではない。ベーコンのイメージに潜在的に関与した力、つまり肉体を歪ませる重力がスクリーンに可視化されたことである。そして重力とは身体に働く現実の力であるが、絵画においては表象されえない。(ここではポロックのポアリングまで議論を広げることは控えよう)つまりヴェルツ/フォーサイスはベーコンの絵画における身体という問題に全く新しい観点から光を当てているのだ。
 ベーコンに関して、ここでは絵画の求心性と遠心性、水平性と垂直性という二つの対立に即して私見を述べた。ひとまず議論を導入したにすぎず、まだ論じるべき多くの遺漏があろうし、なおも検討すべき点も多いことを認めたうえで、このうち後者の問題についてはおそらく本展を見ることなくして着想されなかったことを書き留めておきたい。以前にも記したとおり、優れた作家に関する真剣な展覧会は常に多くの新しい発見をもたらすのである。

by gravity97 | 2013-03-31 09:44 | 展覧会 | Comments(0)

「Gutai : Splendid Playground」 「Tokyo 1955-1970 」

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 ニューヨークの二つの美術館で日本の戦後美術に関する二つの展覧会が開催された。グッゲンハイム美術館における「Gutai : Splendid Playground」とニューヨーク近代美術館における「TOKYO 1955-1970」である。後者は2月25日で終了したが、10日間ほど二つの展覧会の会期が重なる時期がある。ニューヨークの主要な美術館で日本の戦後美術がこれほどの規模で紹介される機会はおそらく二度となかろうから、この期間をめがけて駆け足でニューヨークを訪れた。
 グッゲンハイム美術館の展示から始めることにしよう。これまでにも1994年の「Japanese Art After 1945 : Scream Against the Sky」や2009年の「The Third Mind」といった日本およびアジアの現代美術に関連した展覧会でキャリアを築いてきたアレキサンドラ・モンローと日本に留学して具体美術協会(以下、具体)の調査を行い、2011年には『GUTAI : Decentering Modernism』という研究書を発表したミン・ティアンポという二人のキューレーターによる企画である。活動中の1958年にニューヨークで具体美術展を開催したことがあるから最初ではないにせよ、これまで主としてヨーロッパで紹介が続いた具体にとって初めてのアメリカでの本格的な回顧展となる。もっとも実はしばらく前から世界的にこのグループへの関心が高まっていた。昨年の国立新美術館での回顧展は一つの呼び水と考えられるし、ニューヨークでもマキャフリー・ファイン・アートで何人かの作家の個展が開かれ、ニューヨーク近代美術館は最近村上三郎の《投球絵画》を購入している。(この作品は「TOKYO 1955-1970」で展示されていた。この展覧会が終了後は引き続きグッゲンハイムで展示されると聞いている)先般のもの派に関する紹介もあって、今やニューヨークのマーケットでは日本人作家の作品がかつてなく高騰しているといった下世話な話も耳に入っていたから、本展覧会はある程度、機が熟すのを待って開かれたといえるかもしれない。
 展示は基本的にクロノロジカルに構成されている。来場者はまず山崎つる子の赤い蚊帳に迎えられ、訪れた子供たちが楽しそうに出入りしていた。国立新美術館での展示同様、最初の野外展の紹介にかなり力が入れられ、再制作されたオブジェも展示の随所に配置されている。具体誌も陳列され、このグループが早くから海外との交流を進めたことが容易に理解される。アクションについては写真による紹介が多い。白髪一雄の「泥に挑む」はともかく村上三郎の「紙破り」も恒例の再演がなされず、(ほぼ同じ時期にシカゴに巡回した「DESTROY THE PICTURE」展では、企画者の前LAMOCAチーフ・キューレーター、ポール・シンメルが再演したと聞いた)大きな写真図版で再現されていた。多くの場合、絵画の傍らには関連したアクションを記録した映像が流されていた。同じ作家の作品は固めて展示される場合が多いが、18年もの長きにわたって活動した集団であるから、同じ作家の異なった時期の作品や絵画とオブジェがそれぞれ別々に展示される場合も多く、個展形式によるグループの回顧という形はとらない。昨年の国立新美術館での回顧展がグループとしての輪郭を正確に示すために、会員が増えた60年代後半以降に加入した作家の作品も丹念に加えていた印象があるのに対し、今回の展示では必ずしもグループを総体として提示する意図が認められない。国立新美術館での回顧展がこの集団の網羅的、客観的な紹介をめざしたのに対し、グッゲンハイムの場合は展示に濃淡がつけられ、この集団に一つの解釈を与えることが意図されているように感じられる。螺旋形の壁面を上がっていく独特の建築に従って順路は時系列を追って一方向的であるが、展示の中に例えば「パフォーマンス・ペインティング」や「ネットワーク」といったいくつかのキーワードを設定することによって具体の作家たちに共有された問題系も浮かび上がるように配慮されている。このあたりの演出は巧みであり、例えば比較的散漫なイメージがある後期の具体についても「エンヴァイロメント」という概念を導入することによって一つのパースペクティヴを与えるとともに、この主題が初期以来、具体に一貫された問題意識に連なる点が暗示されている。具体についてほとんど知識をもたないアメリカの観衆に対してクロノロジーとテーマ展示を折衷した構成は、明確な具体のイメージを与える。ちなみにカタログも同様の構成がとられ、具体の活動を通時的に紹介しながら、多くの作家たちに共有されたいくつかのテーマも示されている。展覧会は手練のキューレーターによる過不足のない展示として実現され、私が訪れた日も多くの来場者で賑わっていた。新聞等の展評も好意的であると聞く。
 展示を見ながら、私は企画者のいくつかの意図に気がついた。まずこの展示においてはリーダーである吉原治良にさほど重きが置かれていない。むろん有名な円の絵画をはじめ、いくつかの主要な作品は展示されているが、扱いはほかの作家と同列である。この点は昨年の国立新美術館における回顧展で吉原が独立したコーナーを与えられ、具体結成以前の作品を含めて画業が通覧されていたのと好対照である。これまで国内で具体の作家を紹介する場合は師である吉原と会員たちを区別することが多かったが、このような構成は国外において、しかも吉原も含め第一世代の作家たちがほとんど鬼籍に入ったことによって初めて可能となったように感じる。この結果、この集団は水平的な構造として理解される。別の言葉でいえば、そこに存在した集団を律する規範、それは悪くいえば吉原の独裁であったかもしれないが、この集団が一人のリーダーの意志のもとに統率されていたという事実が見えにくくなっている。第二に展示において絵画の占める比率が比較的小さいように感じられる。この点は具体の評価そのものと深く関わる点であるが、野外展などに出品されたオブジェ、あるいはその写真がクローズアップされる反面、絵画はそれが描かれるアクションのヴィデオ、あるいは関連するオブジェやドローイングとともに配置されることによって、いわば分断されて展示される。むろんこのような展示によって絵画の背景はよく理解されるから、その意図は明確だ。しかし結果として来場者はここに並べられた絵画をアクションの結果、オブジェの反映としてばらばらに理解するのではないだろうか。第三にこの点とも関わるが、展示においてもカタログにおいても写真や映像の占める比率が比較的高いように感じられる。今回の展示では私にとっても未見の資料が展示されており、それはそれで興味深かったが、私はこれらの特質によって具体の活動の本質の一つがあいまいとなってしまうのではないかと考える。それはこの集団の活動の中心が絵画であったという事実だ。おそらく来場者はこの集団が絵画を量産した画家集団であるとは理解しないだろう。このような理解はこれまでも具体評価の一面を構成していた。特に初期に明確であった野外展や舞台展、アクションに注目し、作品発表の多様性を強調する立場。これはハプニングの先駆者としての具体を評価し、アンフォルメルの指導者、ミシェル・タピエとの接触によってグループの先鋭さが失われたという具体評価のクリシェと一致する。今回の展示の最後になぜか活動の中期、1960年のインターナショナル・スカイ・フェスティヴァルの写真が展示されていることはこの点を暗示しているだろう。それではこのような展示から何が浮かび上がるか。
 私の考えではこのような展示は、具体の活動を欧米のモダニズム美術とは別の位相に封じ込めることを目指している。今述べたとおり、展示を見る限り、この集団が絵画の制作を活動の中心に置いたことは理解しがたい。アクション、オブジェ、空間造形あるいは映像や概念芸術の先駆、それこそ何でもありの特異な前衛作家集団として受け取られるだろう。確かにそれが具体の一面であることは認める。しかしこのような側面がニューヨークの美術館で強調されたことの政治的意味について私たちは意識しなければならない。この展覧会のプランが伝えられた最初から、私は「playground 遊び場」というタイトルに強い違和を感じていた。実際に会場の印象も遊び場に近い。野外展に展示された参加型のオブジェが会場に配置され、写真も掲出される。巨大な吹き抜けには元永定正の着色した水を用いたオブジェが張り巡らされて、それはどこにいても目に入るから、無意識のうちに展示全体を象徴する。子供たちが遊ぶ野外展の写真、真剣な創作というより一見、子供の悪戯のようなアクション、出口には(実際に野外展でも展示されていた)落書きボードが設置され、来場者は思い思いの感想を書き付けていた。冒頭のセクションは「play : an inhibited act」と題され、彼らの活動をあたかも、やりたい放題の遊びとみなすかのようだ。野外展の作品にも吉原の厳しい審美眼が働いていたことを知る私としては、このような見解には同意できない。さらに注目すべきはこのセクションにおける児童誌『きりん』の扱いだ。この展示では作家たちが関わったこの雑誌がとりわけ大きく取り上げられていた。私の考えではこの扱いは強引すぎる。具体と児童美術が無縁という訳ではない。しかしそれは当時の関西の美術状況や前衛書との関係、あるいはミシェル・タピエと協同して開催された国際美術展に比して取るに足らない問題ではないか。同時代の美術との関係を等閑視し、代わってオブジェの遊戯性、児童画との親近性を強調する展示は、具体の独自性を認めながらも、所詮、それが欧米のモダニズム美術から見るならば、コップの中の嵐ならぬsplendid playground の中の児戯であったことを暗示するかのようだ。しかし果たしてそうか。本論は具体について本格的に論じることを目的としていないため、いくつかの可能性を指摘するに留めるが、まず指導者吉原治良が阪神間モダニズムを体現する作家であった点は留意されるべきだ。戦前より吉原は海外の美術雑誌を取り寄せて、ヨーロッパのモダニズム絵画に知悉していた。「誰も描いたことのない絵を描け」という吉原の指導はオリジナリティーに重きを置くものであるが、吉原は作品を評価するにあたって形式のみをその基準としており、具体的にはモンドリアン的な抽象絵画の克服という目標を掲げ、児戯どころかきわめて明確な歴史意識を反映させていた。しかし先に述べたとおり、この展覧会で吉原ではむしろ作家の一人として取り上げられ、このような思想が具体を律した点を理解することはできない。さらに具体の絵画について述べるならば、まずこれらの絵画が抽象表現主義やアンフォルメルの絵画とともに国内外で展示されたという事実は無視されるべきではない。確かに先にも触れたニューヨーク展の際に彼らの絵画は抽象表現主義の亜流に過ぎないと酷評を受けた。しかし実は彼らの初期絵画は同時代の絵画と比しても遜色はないのではないか。例えば作品のサイズだ。今回の映像からもうかがうことができるが白髪一雄や嶋本昭三のアクション・ペインティングは当時世界的にみても破格の大きさであり、ポロックやニューマンを凌ぐ。この問題はこれまで全く論じられたことがないが重大であると私は考える。あるいは機械的オートマティスムと身体的オートマティスムが一つの集団において同期したことをどのように考えるか。さらには「Destroy the Picture」ではないが、欧米では60年代以降に露わとなる絵画を破壊するという機制が50年代中盤の絵画、しかも新しい絵画の創造という難問と取り組む中で多くの作家に共有されたのはなぜか。思いつくままにいくつか挙げたが、これらの問題は当時の最前衛の絵画に共有されたラディカリズムと関わっている。つまり本人たちは自覚していなかったにせよ、具体の作家たちの実践は同時代の絵画の超克という意識に根ざした真摯な応答であったのだ。しかし面白主義のオブジェや「子供の遊びのような」アクションを強調することによってかかる革新性、同時代性は隠蔽されている。
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 次に私たちはニューヨーク近代美術館の展示を訪れることにしよう。全館を使用したグッゲンハイムとは対照的に「TOKYO 1955-70」は会場がなんとも手狭だ。同じ階で「INVENTING ABSTRACTION 1910-1925」という特別展が同時に開催されていたが、なんとか会期と会場の調整ができなかったのだろうかと思う。この展覧会のために近代美術館は何度か研究会を開き、調査チームを日本に送り込んだと聞く。その成果は後述する論文集にも反映されており、入念な準備がなされた展覧会であることは直ちに了解できるが、それだけにもう少しゆったりとした展示を望みたかった。ここでも絵画、彫刻は言うに及ばず、写真や建築、実験映画からポスターにいたる幅広いジャンルで日本の戦後美術が総花的に紹介されている。しかしここにも一つの意図が見え隠れしている。今述べたとおり、会場には多数の作品がぎっしりと押し込まれた印象で、展示の文脈を見渡すことが難しい。東松照明のケロイドの写真に始まり、具体美術協会についてもいくつかの代表作が展示され、フルクサスと関係の深いハイレッド・センター周辺の資料やオブジェに続いて、タイガー立石の和製ポップ、そしてもの派による一連の作品まで、展示は一応クロノロジカルに構成されているが、ジャンルが多岐に及ぶこともあり、主要作品の変遷や運動の隆替といったかたちで美術史を読み解くことは困難とされている。私はこのような困難さは日本の戦後美術の本質も深く関わっていると考えるが、ここでその詳細については立ち入らない。この展覧会に先行する1986年のポンピドー・センターでの展覧会、先にも触れた94年のアレキサンドラ・モンローによるグッゲンハイム美術館での展示と比しても、コンテクストの希薄さは逆に今回の展示を特徴づけている。この結果、会場が狭いこともあって作品は相互に関係を作るというより、ばらばらに自己を主張している印象を与える。この結果、一群の作品がひときわ強いインパクトを与える。それは読売アンデパンダン展周辺で発表されたグロテスクなオブジェである。特に菊畑茂久馬による表面にびっしりと五円玉を貼り付けた一対の丸太のオブジェ《奴隷系図》と、無数の男根状のオブジェを天井から吊り下げた工藤哲巳の《インポ分布図とその飽和部分における保護ドームの発生》(驚いたことにこの作品は現在、アメリカのウォーカー・アート・センターに「収蔵」されているのだ)はほぼ同じ場所に展示され、展示効果はともかく会場で異彩を放っていた。《奴隷系図》は道祖神を模しているから、それぞれの丸太の中心にペニスとヴァギナを連想させる造形が施されている。私はこの会場に性器や身体器官を連想させる作品、裸体と関連する作品があふれかえっていることにいささか辟易としてしまった。赤瀬川原平の《ヴァギナのシーツ》、ハイレッド・センターの原寸大のブループリント裸体像、三木富雄の耳のオブジェ、映像に目を移せば全裸の男女が奇怪なアクションを繰り広げるゼロ次元の「いなばの白うさぎ」や土方巽の暗黒舞踏。戦後美術に認められるこれらの系譜については既に椹木野衣が『日本・現代・美術』の中で黒田清輝まで遡って「裸のテロリストたち」という一章を費やして論じており、私たちはこのリストに白髪一雄の「泥に挑む」や篠原有司男の一連のアクションを加えることもできるだろう。
 しかしそれにしてもなぜ裸体と性器なのか。むろん並べられた無数の作品の中からこのような主題のみを取り出すことは恣意的という謗りを免れないかもしれない。しかしながら私はこれら二つのキーワードが示唆するとおり、日本の戦後美術においては身体が、時に描かれた身体として時に描く身体として常に同伴したように感じるし、それゆえこの展示に一種の必然性も感じる。ここで私たちはグッゲンハイムの展示にも立ち戻ることができる。小児性や遊戯、身体や裸体、これらの概念が強調されることによって、西欧における「成熟した大人が真剣に取り組む視覚と関わる営みとしての美術」、それをモダニズム美術と読み替えてもよかろうが、その対極にある営みとして日本の戦後美術が了解されるのではなかろうか。偶然であろうが、先にも触れたとおり、同じフロアで同時期に開催されていた「抽象の発明」と題された展示を訪れるならば、このような対比はさらに明確である。「抽象の発明」は1910年代に世界各地で同期した抽象表現の成立をキュビスムから未来派、ロシア構成主義からダダイスムにいたる多様な作家と作品をとおして回顧する、やや教科書的とはいえ興味深い展示であった。そこでは抽象表現の成立というモダニズム美術の里程標が、ヨーロッパの作家による真剣な探求の結果として、知的に洗練された視覚的営為として達成されたことが明らかにされている。ニューヨーク近代美術館で来場者は通常全館観覧可能なチケットを求めるから、大半の来場者は二つの展覧会を一緒に見ることになり、二つの展覧会は対比されるはずだ。「抽象の発明」では一つの興味深い映像が上映されていた。それはマリー・ウィグマンというドイツの舞踏家の振り付けによる「抽象ダンス」であり、舞踏の抽象化、身体の抽象化が図られているといった解説が付されていた。1910年代のヨーロッパを扱った展覧会で「抽象ダンス」が上映される一方、半世紀後の東京を扱った展覧会で上映されているのはゼロ次元と暗黒舞踏なのだ。抽象性と具体性、観念性と土俗性、二つの展覧会を続けて見るならば両者の異質性が際立つことはいうまでもない。今回のカタログの表紙にはハイレッド・センターの活動の中で顔中に洗濯バサミを付けたまま歩行する中西夏之の写真が用いられている。何も見えない状態で痛みを感じながら歩く作家の姿は視覚ではなく身体と深く結びついた日本の戦後美術、欧米のモダニズムとは全く異質の営みを象徴するかのようではないか。
 展覧会は常に一種の政治性を帯びる。作品の選択とはほかの作品を排除することでもあるから、私は例えば山口長男や斎藤義重の不在を理由にこの展覧会を批判しようとは思わない。いかなる作品の選択し、いかに配置するかは企画者の見識である。しかし同時にこのようにして表象された具体の活動、日本の戦後美術が誰の、いかなる無意識を反映しているかについては自覚的でなければならないと考える。今回の展覧会を機にニューヨーク近代美術館は『ポスト・ウォーからポスト・モダンへ』という日本の戦後美術に関する基礎的文献を網羅した論集を刊行した。日本側の協力者もあり、きわめて充実した内容であるが、私が驚いたことにはこのような論集はこれが初めてではなく、既に中東ヨーロッパやブラジル、中国といった地域の美術に関しても同様に基礎文献をコンパイルした論集が同じ美術館の手によって出版されているのだ。一つの機関をとおして世界の現代美術に関する基礎文献が英語へと翻訳紹介されていくことはある意味では画期的であるが、別の意味では極めて危うい。とりわけ日本の戦後美術に関してはここ数年の展覧会に関連して刊行されたカタログ、あるいはアメリカの大学に提出された多くの博士論文などによって英語での蓄積が進み、今後日本よりも英語圏において研究が活発となる事態も予想されるだろう。私たちが日本の美術を検証するにあたって欧米という鏡、英語という言語を介すという倒錯した状況も今後大いにありうる。そもそも今回の展覧会自体が鏡に映った自分たちの姿なのだ。もはや鏡に映ったことを喜んでいる場合ではないだろう。今や鏡の歪みを意識し、場合によっては鏡像を補正することが私たちに求められているのではないだろうか。

 例によって辛口のレヴューとなったが、二つの展覧会はわざわざニューヨークまで足を運んだことが報われる充実した内容であった。多くの困難を乗り越えて、これら二つの展覧会を実現した関係者に敬意を表したい。この過程で整理された日本の戦後美術に関する情報は今後英語圏で共有されることとなるだろう。そして戦後美術への関心が高まっているのはアメリカのみではない。このところ日本国内でも1970年代の文化、1950年代美術、最近では実験工房に焦点を絞った優れた展覧会が続いている。海外の有名美術館の三流コレクションを並べた展覧会ばかりが目を引く昨今、美術館にとって基本とも呼ぶべきこのような展覧会が連続して企画されていることは大いに喜ばしい。同時にかかる高まりを一過性の流行に終わらせることなく、日本の戦後美術という異例の営みに本質を解明することがまさに私たちに求められているように感じる。
 なお、今回の展覧会には膨大なテクストが付随する。早い時期にレヴューする必要を感じたため、これらについてはまだ読み込んでいない時点での所感であることを最後に付言しておく。

by gravity97 | 2013-03-04 17:43 | 展覧会 | Comments(0)

「福岡現代美術クロニクル 1970-2000」

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 ごく最近終了した展覧会であるため、もう少し早くレヴューできなかったことが悔やまれる。福岡県立美術館と福岡市美術館という二つの会場で開催されていた「福岡現代美術クロニクル 1970-2000」について書き留めておきたい。
 タイトルのとおり、福岡を中心としたほぼ30年間の現代美術の動向を紹介する内容である。出品された作品は発表された時期によって機械的に二分され、前半、1970年から80年代初めまでが福岡県立美術館、それ以降が福岡市美術館で展示されている。といっても80年代前半の作品の展示区分はさほど厳密ではないし、スタイルを大きく変えた作家は両方の会場に作品が展示されている。作品のジャンルは絵画、彫刻から映像まで多岐にわたり、注目すべきは美術館や展覧会ばかりでなく、画廊や教育機関、都市開発やネットワークといった美術の周辺にも丹念に目を配っている点である。私はこの時代の福岡の美術状況について雑誌や展覧会カタログを通して漠然とした知識をもっていたが、今回の展覧会を通してこれらの知識が作品とともに整理され、多くの新しい発見もあった。
 1970年という展覧会の起点は別の言葉を用いれば、「九州派」以後ということであろうか。展覧会のカタログに寄せたテクストの中で企画者の山口洋三は「九州派の余韻の中で」という表現を用いている。もちろん九州派の作家たちはこの時期も活動を続けていたが、彼らの直接の影響を受けない新しい世代が登場したということであろう。この点を関西における具体美術協会と比較することは意味があるかもしれない。具体美術協会も1972年まで存続したが、後続する若手たち、具体的には80年代以降に活動を始めるいわゆる「関西ニューウエーヴ」とはほとんど関係をもっていない。いずれの運動も後期にいたるや当初の先鋭さを失って弛緩した(この点は昨年、国立新美術館で開催された具体美術協会の回顧展に関してしばしば指摘された点である)といったやや意地の悪い見方をとらずとも、これら二つの運動が少なくとも活動の核心においては容易に模倣することができない過激さを秘めていた点、いずれの作家たちも少数の例外を除いて、大学や美術学校で後進の指導にあたることがなかったことなどが理由ではなかろうか。福岡市美術館における「九州派展」において九州派が初めて運動として総括されたのは1988年のことであり、具体美術協会の活動が単なる回顧ではなく、より広い文脈で総括されるのは1985年、国立国際美術館における「絵画の嵐」展以降となる。
 展覧期の章立てに従って、おおよそ10年ごとに福岡の美術状況を確認するならば、まず1970年において私の目を引いたのは多くの集団が次々に簇生し、比較的短い期間に活動を終えるという状況である。いくつかを列挙するならば、TR同、グループ玄、WORK PARTY STUDIO、ゾディアックそしてIAFといった集団である。ほとんどが私にとって初めて聞く名前であった。会場にもカタログにもこれらのグループの構成や活動について簡単な紹介が付されており、理解の一助となる。ここで個々の集団について論じる余地はないが、私が興味を抱いたのは、彼らの仕事に比較的穏健な表現と過激なパフォーマンスが同居しているように感じられることだ。福岡県立美術館に展示されたこの時期の作品は平面も立体もそれなりに興味深いとはいえ、微温的で既視感がある。一方でこの時期に繰り広げられた彼らのパフォーマンスはしばしば街頭で挙行され、一般人を巻き込む内容が多い。TR同によるビラの配布や街頭への落書き、あるいは「レスポンス・デスマッチ」と呼ばれる街頭での公開ドローイングはかつて九州派が行った集団示威行為を連想させる。私は黒ダライ児の『肉体のアナーキズム』中で言及されていた集団蜘蛛による過激きわまりない街頭パフォーマンスもこの時期ではないかと考えていたので、展示中に集団蜘蛛についての言及がないことをやや不審に感じたのであるが、あらためて黒田の論文を参照するならば、問題の行為は1970年であり、彼らの活動は展覧会に先行している。市街地での作品発表はこの後も多くの作家によって手がけられているが、これを九州派以降連綿と続く前衛美術の特異な伝統とみなすかどうかは微妙な問題である。
 1980年代の福岡の美術状況も私には大変興味深く感じられた。章のタイトルともなっているとおり、キーワードは「交流」である。この時期、福岡市内に設立されたギャラリーやジャズ喫茶は作家たちの発表や交流の場となる。例えば閉店する際に店内を作家たちの表現の場として解放した「イヴの林檎」というジャズ喫茶のオーナー、高向一成はバリー・ル・ヴァや李禹煥を連想させるガラス割りのパフォーマンスでも知られた作家であった。また当時、久留米の石橋美術館や福岡市美術館で開催された現代美術展もこの地域の先鋭な作家たちが交流する場であり、出品作も多く展示されて当時の気風を伝える。もっともこのような交流はおそらく日本各地で行われていただろう。この時代の福岡において注目すべきは、東京から来た何人かの作家がこの地に大きな影響を与えたことにある。その一人が川俣正である。1983年に福岡市美術館で開催された「素材と空間」展に戸谷成雄、保科豊巳とともに参加した川俣は美術館のみならず近郊のアパートを舞台に作品を設置する。今でこそ既存の施設を使ったサイトスペシフィックな造形は珍しくないが、この仕事は山野真吾が開設したIAFに集う若手たちに強い影響を与えたという。山野もこの企画に深く関わっている。近年、アートプロジェクトのオルガナイザーとして辣腕をふるう山野自身が作家であったことを私はこの展覧会で初めて知った。学芸員と作家、オルガナイザーの幸運な協同が福岡という地域に一つの刺激を与えたといえよう。川俣はこの後も田川市の「コールマイン田川」で持続的に九州と関わりをもつ一方、各地で同様のプロジェクトを続ける中でいわば交流の接点として、地域間ネットワークを作り出し、福岡の作家たちは北海道、東京、関西といった地域とアーティスト・ネットワークという運動体をとおして交流を重ねていった。カタログ中でも触れられているとおり、このような状況は、制度に依拠しながら、フットワーク軽く巧妙にずれていく川俣という傑出した才能によるところも大きいだろうが、ここでは中央で活躍する作家が地方に赴いて教えを垂れるという上からの交流ではなく、地方同士の水平的な交流の可能性が示唆されている点に注目したい。このパートで紹介される作家たち、例えば柳幸典や藤浩志、そして早世した殿敷侃らは皆、このような水平的な運動性によって特徴づけられる。かかる可能性に拘泥する理由はいうまでもない、このような水平性は後述するアジアとの交流においても顕著な特質であるからだ。
 もう一人のキーパーソンは松本俊夫である。私はうかつにも今回の展示を見て初めて松本が80年代に九州芸術工科大学で教鞭を執り、実験映画のメッカとも呼ぶべき時代を築いたことを知った。この経緯についてはカタログ中に収められた松本の文章に詳しい。ここでも松本とかれに師事した学生たち、そして地元で活動を続けていた映像作家たちの協同が認められる。福岡の文化的ポテンシャリティーの高さといってしまえばそれまでだが、地方における文化という問題を考えるにあたって示唆的であろう。ただし映像作品についてはいつも感じることであるが、美術館という場所は必ずしも望ましい上映の場所ではない。短い滞在でそれらを全て見ることはできず、例えば福岡の実験映画の特性や影響関係といった踏み込んだ問題まで見極めることは難しいように感じた。
 1980年代後半より福岡の美術状況はさらに活発になる。1987年、北九州八幡における国際鉄鋼彫刻シンポジウム(これについても詳しいドキュメンテーションが展示されていた)に続いて、北九州に海外作家との交流の拠点が設立され、後のCCAへと展開される。私も当時よりその活動については聞き及んでいたが、中村信夫の幅広い人脈に基づいて海外作家や批評家を招聘し、サマースクールというかたちで国内作家との交流を深めたCASKそしてCCAの活動については今後なんらかのかたちで総括されるべきであろう。一方1990年にはミュージアム・シティ・天神がオープンし、意欲的な作家紹介が始まる。先にも述べた通り、街を美術によって刺激するという姿勢はここでも確認することができよう。この背景にいわゆるバブル景気を指摘することはたやすい。振り返ってみるに確かにこの時代、日本の現代美術はかつてない活況を呈しており、東京や関西のみならずその余波が福岡にも及んでいたことがわかる。森村泰昌の巨大なバナー作品や草間彌生の黄色い南瓜など、世界的に知られた作家の作品が巨大な商業施設に設置される傍らで、地元の作家の作品も積極的に取り入れられたようである。しかしサイトスペシフィックな作品の常として、これらは展覧会の中では紹介しにくい。ミュージアム・シティ・天神では1991年に中国前衛美術家展と銘打った画期的な展覧会「非常口」が開催された。今でこそ中国の現代美術に注目が集まっているが、この時期にかくもラディカルな展覧会を開くことができたのは、キューレーターの費大為の存在のみならず、福岡という土地が福岡アジア美術館の活動をはじめ、長年にわたってアジアの現代美術との親密な交流を続けてきた背景があるだろう。この展覧会を見た後、私は福岡アジア美術館にも足を運び、常設展示を一巡した。あらためてその蓄積に驚く。それは都市としての、美術館としての見識であろう。今回は展示の中にミャンマーの現代美術さえも組み込まれていた。アジアという広い地域を対象に、国によって濃淡をつけることなく、どの国とも平等な、つまり水平的な交流は福岡が「地方」であるがゆえに可能であったかもしれない。
 展覧会を通して30年間の福岡の美術状況を回顧する時、いくつかのトピックが浮かび上がる。一つは地域性と国際性の対立であり、この点は九州派と今回出品した作家たちとの関係として了解されよう。先に述べたとおり、両者はほとんど交差することがなかった。地域主義と国際主義という対立を私はアメリカの抽象表現主義から借用したが、ニューヨークの若手作家にとって国際主義がヨーロッパのモダニズムを意味したのに対して、福岡の作家たちにとっての「国際主義」とは明確なモデルをもつことのない、いわゆる「同時代の現代美術」であった。彼らの表現は明確な運動のかたちをとることがなくまとまりに欠ける。既に発表されていた文章ではあるが、カタログに収録された黒田雷児の辛口のコメントはこの点と関わっているだろう。第二に美術館やギャラリー以外の場所、商業施設や市街といった場で発表される、あるいは深く関わる作品が多いように感じられる。このような特質はどこからもたらされたのであろうか。オフ・ミュージアムの隆盛になにかしらの意味を見出すか、バブルの徒花とみなすかは判断が難しい。60年代のパフォーマンスの伝統を引き継ぐ系譜ととらえることは無理だろうか。このあたりも『肉体のアナーキズム』の著者に問うてみたい問題だ。三番目に福岡という「地方都市」とアジアの関係である。アジアの名を冠した美術館をもち、実際にアジアとの交流拠点として知られる都市の美術はかかる地政学的な位置を反映しているのだろうか。この問題は最初の地域主義と国際主義の対立へと立ち返り、さらに私たちは今やグローバリズムという新しい変数さえ手にしている。福岡の美術にアジア性を求めることは一種逆向きのオリエンタリズムかもしれない。そもそも美術の「アジア性」とは何か。優れた展覧会の常として、展覧会をめぐりつついくつもの新しい認識、そして多くの疑問が生まれた。
 アジアの現代美術の隆盛と反比例するかのように日本の美術界はバブル景気崩壊後、冬の時代に突入する。この展覧会は2000年を区切りとしているから、宴の後、今世紀の状況については触れていない。冬の時代に入ったのは美術館も同様だ。設置された地域の美術状況を展覧会として紹介することは公立美術館としてはごく当然の務めである。しかし今日、このような展覧会さえも決して容易ではないことを私たちは知っている。海外の有名美術館の三流コレクションを展示することは許されても、地元で真摯に制作に取り組む作家たちを紹介することは困難であるという逆説。このような状況の中、県立と市立という二つの美術館がタッグを組んで一つの地域の美術を回顧したことの意義は大きい。展覧会とは選択と排除のシステムであるから、作家や作品の選択は当然議論や反発を呼ぶだろう。しかしそれを恐れず、一つかみの歴史を提示すること、ローカル・アート・ヒストリーの構築は公立美術館の本来の使命であるはずだ

by gravity97 | 2013-02-14 22:08 | 展覧会 | Comments(0)

「美術にぶるっ!」

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 先日、東京国立近代美術館の開館60周年記念展「美術にぶるっ!」を訪れた。周年にコレクション展が開かれた場合、アリバイ的な味気ない展覧会となる場合が多いが、さすがに近代美術館、一筋縄ではいかぬ刺激的な内容となっている。このところ、海外、特にアメリカで日本の戦後美術を主題とした展覧会が次々に開かれ、英語による原資料の紹介、そして作品研究が進められている。私としてはこのような状況に一つの危機感を抱いているが、それについては別稿で論じることとして、かかる趨勢に対して一矢を報いた内容としてもこの記念展の意義は大きい。
 「美術にぶるっ!」はいつものコレクション展示同様、4階に始まり、時代を下るにつれて階下へと降りて行く。最初にベスト・オブ・ベストと呼ぶべき作品を一室に集めたり、開館の折りに収集された作品で展示の一角を構成したり、それなりに工夫もある。作品に付されたコメントもよく練られており、美術館の建築を取り入れた展示も含めて、若手のキューレーターの視点がうかがえて楽しめる。展示では人の表現、前衛の登場、戦争の世紀といったテーマに基づいて編年体で日本の近代美術史が紹介される。このうちいくつかのテーマについてはこの美術館で、あるいはほかの美術館で近年、一つの企画展の主題とされたことが思い起こされる。テーマのみならず作品も見慣れたものが多いからさほど新鮮な印象はないが、この美術館の使命は日本の近代美術の「正史」を編纂することであり、このような「正史」への批判は当然ありうるとしても、ひとまずはこの展覧会では多くの名品を一度に見ることができることを純粋に楽しめばよいと思う。大観の《生々流転》であれ劉生の切り通しであれ、今まで何度も見たことがあるにもかかわらず、付されたコメントを介して個人的に新たな発見があり、この美術館のコレクションの層の厚さをあらためて思い知る機会となった。しかしそれだけでは最初に述べた通り、名品揃いであってもキューレーションの要素が少ない味気ない展覧会でとなっただろう。今回の展示の注目すべき点は一方で名品をたどる水平的な構成をとりながら、通常企画展が開催される一階の展示室において展覧会に垂直に切り込むかのようなきわめて批評性の高い一連の展示がなされていることである。いうまでもなくこの展覧会の第二部と位置づけられた「実験場 1950s」である。
 このような二部構成自体は特に目新しくはない。第一部に出品された作品が展示の構成上、東京国立博物館等から一時的に借用された内容を含むとはいえ、基本的にコレクションから出品され、その意味でも「MOMATコレクションスペシャル」と銘打たれていたのに対して、第二部は明確な意図とともに他の美術館から借用された作品群と東京国立近代美術館のコレクションによって構成されている。つまりコレクション展と企画展が並立しながら、全体としては企画展も通時的な構成の中に組み込まれるという二重構造によってこの60周年展は成立しているのである。《騎龍観音》など近代洋画の濫觴から時代を下りながら作品を巡覧した観者は二階のあたりで奇妙な中断を体験する。近代美術館が所蔵する海外作家の作品を集めたコーナーは国籍の違いによって説明できるにせよ、日本の近代美術の文脈が唐突に断ち切られ、荒川修作や高松次郎の概念的な作品に出会うこととなるのだ。一階に降りると私たちはこの中断の意味を知る。欠落していた時代、とりわけ1950年代を集中的に取り上げる「実験場 1950s」の展示に立ち会うからだ。そして第二部に歴史的、通史的な文脈は初めから存在しない。
 第二部の展示において1950年代が特集された理由、正確に述べるならば1952年が起点とされた理由は単純だ。1952年は東京国立近代美術館が開館した年であり、周年展にふさわしい。しかしここで冒頭に展示されるのは作品ではない。それは原爆投下から7年後の広島市の復興の模様を撮影した朝日ニュースの映像である。映像は新しい家並みを映し出して戦争からの復興が順調である点を示しながらも、原爆投下直後の酸鼻極まりない被害と広島の光景、あるいは52年当時も残存する被爆の影響についても詳しく述べている。いうまでもなくここには2012年が二重化されている。被爆直後の焦土と化した広島のイメージからは東日本大震災の津波によって廃墟と化した東北の被災地を連想せずにはおられず、同様に半世紀後に原子力災害として放射能による災厄が同じ日本で繰り返されたことに思いを向けずにこの映像を見ることは困難である。私はこの映像から直ちに椹木野衣が日本の戦後美術(椹木の場合は1955年以後が想定されていたが)を一種の「悪い場所」、閉じられた円環とみなしたことを連想した。今回の展示に同じ意図があるかどうかはひとまず措き、展示は50年代の美術を政治的な文脈との関連において検証し、その際には記録映画や写真、週刊誌や宣伝文書といった異なったジャンルの表現が多く参照されている。私はこのような発想と展示が先日まで埼玉県立近代美術館で開催されていた「日本の70年代 1968-1982」の展示と近似している点に興味を抱いた。企画者の鈴木勝雄はこの展示と関連して刊行された論集の冒頭で今回の企画の動機を列挙している。まず美術という制度の中で自閉する既存の美術史によっては50年代美術の豊饒を把握することができないこと、そしてこれまで50年代美術がリアリズムとモダニズムの二律背反的な対立として捉えられてきたことへ違和感などである。続いて鈴木は文化の政治性を美術史の文脈において論じることの必要性と「リアリズム」概念の再検討、そしてこれまで広く「リアリズム」と括られてきた表現の変遷や形式に対する分析の必要性を説く。鈴木によれば本展に先行して目黒区美術館における「1953年ライトアップ」と名古屋市美術館における「日本のリアリズム」という二つの展覧会が存在するが、これらの観点に立つならばいずれも不十分であった。私も両方の展覧会を見たが、確かに前者からはなぜか「社会主義リアリズム」が排除され、後者は大量の作品をただ羅列した趣であり(それはそれで展示の手法として一つの明確な意図のもとになされたと考えるが)、いずれも不徹底な印象があった。今回は重要な作品が網羅されるとともに記録映像が充実し、当時の熱気を背景に作品が制作された必然性が強く意識される。たとえば亀井文夫の記録映画の横に中村宏の《砂川五番》が置かれ、北朝鮮への帰還事業を伝えるニュースの横に曹良奎の《密閉せる倉庫》や《マンホール》が展示されている状況からは、時代の熱気と閉塞感がともに伝わってくる。私の記憶によれば後者の作者はこれらの鮮烈な作品を発表した後、北朝鮮に「帰還」し、その後の消息が不明となったのではなかっただろうか。
 個人的に私が関心をもったのは「静物としての身体」と題されたコーナーである。鶴岡政男の《重い手》と阿部展也の一連の絵画、村岡三郎の《背》、浜田知明の「初年兵哀歌」そしてなによりも河原温の「浴室」シリーズ、これらの一連の作品は手法も表現もそれぞれ異なるにも関わらず、明らかに一つの時代の気風を表象している。先に触れた論集の中で大谷省吾は「静物としての身体」というセクションのタイトルそのものが死体を暗示しているという興味深い指摘を行っている。これらの作品の息詰まるような閉塞感から私が連想したのは欧米の絵画ではなく、野間宏の「暗い絵」や椎名麟三の「深夜の酒宴」といった同時代の文学であった。論考の中で大谷も浜田知明の「初年兵哀歌」と野間の「崩壊感覚」で表象された二つの縊死体を対比的に論じ、さらに河原温の「浴室」と大江健三郎の「死者の奢り」における死体の集積に言及して論を終えている。これらの作品はすべて死体を主題としている。序論でも指摘されるとおり、当時は花田清輝や佐々木甚一といったジャンルを超えたイデオローグが存在したという事情はあったにせよ、文学と美術がきわめて親和し、主題において共通性をもつのみならず、形式的な比較さえ可能であることにこの時代の表現の特異性をみる思いがする。この意味において通時的な分析を一度解除したうえで、ジャンルの横断性に50年代美術の特質を認める本展の姿勢は有効といえよう。
 以上の点と深く関連するが、今回の50年代の特集展示を見て私が強く印象づけられたのはジャンルや作家を横断して実にさまざまの身体が登場することだ。あたかもコレクション展示の中でも圧倒的な存在感を見せつけた藤田嗣治の《アッツ島玉砕》中に累々と横たわる死体のごとく、作品の中に身体が表象される。最初の部屋に展示された被爆者のケロイドの写真はこの意味においても象徴的である。50年代をとおして繰り返し私たちが出会うのは切断され、積み重なり、時に不気味に変形し、虐待の跡を留めた身体である。同じ時代、海外に目を向けるとやはり人体を主題とした記念碑的な作品が存在する。デ・クーニングの《女》、フォートリエの《人質》。第二次大戦の記憶も生々しいこの時代に身体が作品の共通の主題とされたことは時代の必然であったかもしれないが、これらと比してもこの時期に日本で描かれた身体の異様さは突出している。「実験場50s」においては主として50年代の具象的な表現をたどりながら、この点が確認された。しかし私は同じ系譜を60年代以降の美術、そして同じ時代の抽象絵画の中にも伏流水のごとく認めることができるのではないかと考える。すなわち読売アンデパンダン周辺、具体的には工藤哲巳、荒川修作、あるいは三木富雄から赤瀬川原平にいたる作家のオブジェに執拗に反復される切断された器官のイメージ、あるいは性器や胎児を連想させるグロテスクなイメージ。一方で今回は展示された作品が少なかった50年代の具体美術協会の活動において作家の身体は泥と格闘し、紙の衝立を破り、絵具壜をカンヴァスに叩きつけた。前者を河原温の(この展示には加えられていないが)「死仮面シリーズ」(1955/56)に、後者を反基地闘争の写真にとどめられた参加者の肉体と熱気と関連づけることは決して強引ではないだろう。この意味においてもこの展示で紹介され、「実験場」と名づけられた50年代美術は実に日本の戦後美術の原基なのである。
 ひるがえってこれらの表現に徹底的に欠落している要素、それは視覚性という主題である。視覚と身体を対立的にとらえることに議論の余地は大いにあるが、作品の視覚的な在り方がこれらの作品においてさほど重視されていないことは明らかである。いうまでもなくこのような美術の在り方は欧米のモダニズム美術の対極にある。再び「MOMATコレクション」に戻るならば、明治期以降の日本の近代美術にあって萬鐵五郎、岡本唐貴らわずかな例外を除いて、絵画の視覚的、形式的な探求がなされたことはなく、60年代以降の美術はもはや視覚ではなく概念や観念が主題とされている。例えば辰野登恵子や中村一美のごとき、絵画の形式的な探求者が日本にいなかった訳ではない。しかし意図的であろうか偶然であろうか、彼らが登場する80年代以降の美術を欠いたことによってこの展覧会は日本の近代美術の充実と同時に一群の作品の不在を強く意識させる内容となっている。私は欧米の「美術史」を規範とみなす立場には立たない。しかしここで日本の近代美術の正史として登録された作品群は、逆説的にも充実ではなく欠落をとおして美術史における近代日本の特殊性を物語っている。b0138838_2246959.jpg

by gravity97 | 2012-12-04 22:49 | 展覧会 | Comments(0)

「与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄」

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 展覧会は既に終了しているが、「与えられた形象」と題され、国立新美術館で開催された辰野登恵子と柴田敏雄の二人展について触れておきたい。作品の質の高さはいうまでもなく、展覧会という営みについても深く再考を促す刺激的な内容であった。二人の作品についても論じたい点は多いが、それには個別の論考が必要であり、相当の準備が必要となるだろう。ここではあくまでも展覧会をとおして喚起された思考の断片を記録するに留めておく。
 国立新美術館における大型の二人展には先例がある。それは2009年に開かれた松本陽子と野口里佳の二人展であり、二つの展覧会にはいくつもの共通点がある。いずれも同じ学芸員によって企画され、絵画と写真というジャンルの異なった表現を取り上げている。さらにいずれの展覧会も統一的なタイトルが付され、広い会場を贅沢に使った展示がなされていた。しかし両者には差異も存在する。例えばカタログだ。松本と野口の二人展がそれぞれの作品を収録した二分冊として発行されたのに対して、片手では持ちきれないほどの重量の今回のカタログでは辰野と柴田の作品が同じ一冊の中に収められている。私は松本/野口展も見たが、私の記憶が正しければ、この展覧会では二人の作品が別々に、つまり連続する二つの個展という形式で展示されていたように思う。これに対して、今回はかなり特殊な展示がなされていた。すなわち二人の作品は交互に展示され、しかもその配列はクロノロジーに依らない。例えば辰野であればS字形や花模様といったイメージが導入された80年代のよく知られた作品からスタートした後、70年代の格子のミニマリズムへと遡行し、21世紀に制作された近作に続けて、東京芸術大学在学時に描かれた覚しき初期の具象絵画が展示される。そして辰野の通時的な脈絡を欠いた展示のいたるところに柴田の写真作品が挿入される。柴田の場合、展示は写真集などにまとめられたシリーズごとに編成されているが、辰野と同様に新作や初期作品を含めて時代的な振幅は大きく、クロノロジカルな構成はとられていない。時間的文脈を意図的に脱落させる展示の手法は今回の展覧会において個々の作品以上に前景化されている印象がある。
 辰野と柴田は東京芸術大学の油画科の同級生であり、さらに付け加えるならば二人とも現役で入学している。二人が入学したのは1968年という「政治の季節」であったが、二人ともそのような政治性から距離を置いていることは初期作品を見るならば、明らかであろう。彼らは同級生の鎌谷伸一とともに学生運動の余波で誰もいない教室を使って「コスモス・ファクトリー」というスタジオを開設する。村松画廊で開催された「コスモス・ファクトリー」の三人展ポスターが出品されているが、そこには明らかにアメリカのコミックが引用され、右端にはドナルドダックの姿さえ認められる。彼らとディズニーの取り合わせは意外であるが、そもそもこのスタジオの名前はアメリカのロック・バンド、クリーデンス・クリアーウォーター・リヴァイヴァルのアルバムからとられているという。彼らが自らの表現を育むにあたってアメリカの大衆文化が素地を形成したという事実は興味深い。さらに注目すべきは二人がともに版画という表現に関心を寄せた点である。アメリカの大衆文化と版画、両者の共通点は複数性と反復性であり、それらは同時代のポップ・アートの中にも色濃く反映されている。資質的にポップ・アートから最も遠くに感じられる辰野と柴田がかかる表現と親和したという事実は単に時代を共有したという以上の意味をもつように私は感じる。このカタログには二人の対談のほかに、多くの示唆に富んだ作家の言葉が収録されている。80年代に自らの絵画に導入したイメージについて辰野は次のように語る。「これらのモティーフをとり上げたと言っても、それ自体に関心があった訳ではありません。ですから、絵の主題というわけではありません。むしろ、一種の口実のようなものです。私が1970年代から一貫して関心のあったのは、連続性であり、また連続性の遮断や断絶です。それは連続的なパターンやモティーフを通じて表現されるのです」グリッドを用いた初期のシルクスクリーンを想定するならばこの言葉はたやすく理解される。そして今述べた複数性と反復性は同一の画面においては連続性として表出されると考えられないだろうか。一つの画面に連続して反復される単位とそれからの逸脱。このように考える時、私は柴田の初期の写真においても連続性とその遮断という構造が頻繁に現れていたことは重要な意味をもつように思う。柴田が取り上げるのは道端の法面(切取り、盛り土によって形成された人工の斜面)であり、石垣であり、風景の中の堰堤(砂防ダム)であった。罫紙のごとき格子模様とコンクリートで固められて分割された斜面、辰野と柴田がともにグリッドという単位から出発したことは示唆的ではなかろうか。
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 ところでロザリンド・クラウスはよく知られた論文の中でグリッドについて次のように論じている。「近代の全美学的生産の中で、これほど執拗に持ちこたえ、同時に変化を受け付けなかった携帯は、他にはなかったと言って差し支えないだろう。印象的なのは、グリッドの探求に捧げられた生涯の絶対数ばかりではなく、探求というものがこれ以上不毛な地を選択することはできなかっただろうという事実である。モンドリアンの経験が十分明らかにしているように、発展とはまさにグリッドが拒むところのものだ」グリッド構造はそれ自体で自足しており、展開しえない。そしてこのような構造は展覧会という制度にも拮抗するのではないか。展覧会、とりわけ一人の作家の個展において、作家は生涯をかけて作品を展開、発展させるという認識が共有されている。もちろん変化が「発展」とみなされない場合もありうる。しかしその評価はともかく、作品が変化を遂げることは自明であり、それを跡づけることが多くの場合、展覧会の意味であった。一人の作家が青年期の多くの習作を経て、壮年期に独自の表現を樹立し、老境に入るや円熟の域に達する。通常であればこのような理解に基づいて作家の個展は構成されている。そこで重視されるのは習熟、深化、円熟といった作品相互の通時的な文脈である。本展の企画者が二人展という形式を用い、先に述べたとおりあえて時間的な文脈を脱臼させて展示を構成する時、そこには辰野と柴田の作品の構造そのものが反映されているのではなかろうか。記号論的に述べるならば通常の展覧会が作家の時間的「成長」を前提とした連辞論的な構造を前提としているのに対して、「与えられた形象」は相互に交換可能な連合的な関係に基づいた展覧会として成立している。二人展という枠組自体が二人の作家の交換可能性を暗示しているだろう、さらにひるがえって辰野の70年代のシルクスクリーン、モティーフの連続によって特徴づけられる80年代の絵画、より明瞭で識別可能な対象が描かれた2000年代の絵画、これらをたまたまその時期に制作された交換可能なシリーズと考えることはできないか。影響や成熟といった「近代」絵画に密接に結びついた作業仮説に拘束されている限り決してありえない発想であるが、そもそも作家は「成長」、「成熟」しなければならないのであろうか。それに代わって「選択」することはできないか。柴田の作品を
b0138838_10344176.jpg通覧するならばこのような可能性が理解できる。法面、ダム、堰堤あるいは高速道路沿いの夜景、柴田のモティーフが法面から堰堤へと変化したとしてもそれは写真家の成熟を意味しないことは明らかだ。柴田の写真からベルント&ヒラ・ベッヒャーが給水塔を撮影した一連の作品を連想することはたやすい。彼らの作品が暗示するとおり、70年代のコンセプチュアル・アートには明らかに成熟とか完成といった概念を否定する契機が含まれていた。それは端的にモダニズムの否定であり、近代という枠組に束縛された展覧会という制度に対する批判でありえた。
 クリフォード・スティルの絵画に対する共感を語り、抽象表現主義を継承したいと述べる辰野が真正のモダニストであることは明らかだ。二人展という形式をとるにせよ、辰野の代表作をほぼ網羅し、国立新美術館という壮大なホワイトキューブの中で実現された本展は一面では日本のモダニズム絵画の最良の部分を紹介する試みである。その一方で辰野と個人的に親交があり、資質的に多くの共通点をもつ柴田の写真を辰野の絵画の傍らに確信犯的に挿入することによって、この展覧会は辰野の絵画を支えてきた体系そのもの、さらにいえば展覧会という制度そのものの中に軋みを生じさせる。この二人展が優れた作品に出会うことの喜びとともに強い緊張感を見る者に強いる理由はこの点にあるだろう。
 例によって主として展覧会の形式的な側面について論じた。二人の作品、特に辰野の絵画の「展開」について論じたい問題は多いが、展覧会レヴューという本論の枠組を超えてしまう。別の機会に譲りたい。 

by gravity97 | 2012-11-10 10:47 | 展覧会 | Comments(0)

「『具体』ーニッポンの前衛 18年の軌跡」

b0138838_14441259.jpg 具体美術協会の活動の全貌を紹介する「『具体』―ニッポンの前衛 18年の軌跡」展が国立新美術館で始まった。1954年に芦屋で結成され、1972年にリーダー吉原治良の死去とともに解散した「グタイ」は日本の戦後美術において海外に最もよく知られた作家集団である。今回の展覧会の売り物は彼らの活動の全幅を初めて東京で紹介した点であるという。グローバリズムが喧伝される今日、東京で回顧されることに何か意味があるのかとも感じられようが、このグループが甘んじてきた地政学的な不利益を考えるならば一定の感慨がある。具体は当初から東京を意識し、実際に何度も大規模な発表を東京で行ったにも関わらず、東京の美術界から徹底的に黙殺された。かつてクレメント・グリーンバーグはすべての優れた美術はニューヨークを経由すると言い放ったが、日本においてもこれまで美術に関する展示施設や大学、ジャーナリズムや批評家が集中する東京で評価されることなくして、注目されることは困難であった。これに対し、具体は東京ではなく、海外での評価を足がかりに戦後美術史に楔を打ち込んできた。この経緯もきわめて興味深い。活動時には1950年代後半、フランスのミシェル・タピエにアンフォルメルの作家集団として高く評価され、一方、1966年に発行された大著『アッサンブラージュ・エンヴァイロメンツ・アンド・ハプニングス』においてハプニングの理論家アラン・カプローは初期の具体にみられたアクションをハプニングの先駆として評価する。これら二つの立場が、以後、具体の評価を二分するようになることはよく知られているが、さらに重要な意味をもつのは、比較的近年の具体再評価の動向である。すなわち1986年にポンピドーセンターで開かれた「前衛芸術の日本」において戦後美術の出発点と位置づけられ、破格の扱いを受けたことに始まり、90年前後には兵庫県立近代美術館が組織したいくつかの展覧会がヨーロッパを巡回し、99年のパリ、ジュ・ド・ポーム美術館における具体展、あるいは97年のロサンジェルス現代美術館における「アウト・オブ・アクション」、あるいは2006年、デュッセルドルフにおける「ゼロ」といった展覧会では海外の美術館が自らの手によってグループの活動やパフォーマンス芸術における位置づけ、ゼロ・グループとの関係などを検証した。そして来年にはニューヨークのグッゲンハイム美術館においてアレクサンドラ・モンローの企画する具体展が準備されているという。それを見越してであろうか、プレヴューの会場には欧米のディーラーもしくはバイヤーらしき人々も見かけた。ここで論じる余裕はないが、それぞれの時代に具体の作品が欧米のどのような視線のもとに要請されたかについては今後も検証されるべきであろう。
 展覧会に向かおう。東京で初めて具体を紹介するにあたって、企画者は正攻法で臨んだ。すなわち作品の配置には厳密なクロノロジーを適用し、18年もの長きにわたる活動を時間軸に沿って紹介している。展覧会のプロローグで私たちは作品や宣言ではなく、ただ一冊の雑誌に出会う。具体の最初の活動は『具体』と題された小冊子の発行であり、逆にこの冊子のタイトルとして「具体」という名が考案されたのである。なにげない導入であるが、初期具体の活動の特異さを考えるうえでは巧みな演出である。具体はこの冊子を世界各地の作家や批評家に送り、ともに新しい美的規範を樹立することを求めた。戦前より欧米の美術雑誌に親しんでいた吉原ならではの戦略であり、このグループの最初の事業が機関誌の発行であったことは記憶されてよい。続いて第二室で来場者は巨大なオブジェ群に出会う。これらはやはり活動の端緒に芦屋川の河畔で開催された野外美術展に出品された作品である。(厳密にはこの展覧会は芦屋市美術協会の主催であり、具体はグループとして参加した)真夏の野外に出品されたという事情から、巨大で派手、さらに安価な素材で制作されたこれらのオブジェのほとんどは会期終了後に解体撤去され、今日に残されていない。これらの伝説的オブジェを今日見ることができるのは、現在兵庫県立美術館に収蔵されている山村コレクションという具体に関する画期的なコレクションの中で美術館であれば尻込みする再制作という手法が積極的に取り入れられたこと、さらには芦屋市立美術博物館の手によってこの野外展が1992年に同じ場所で再現され、当時存命であった作家たちによって制作のノウ・ハウが再確認されたという理由による。サイズが大きいため、これまでの具体に関する展覧会では会場入口などにいわばモニュメント的に展示されることが多かったこれらの作品を一室に集約することで、このような活動が具体の本質と深く関わることが理解される。今回の展示が暗示しているのは初期の具体の活動が絵画や立体の制作といった通常の美術制作とは全く異なった次元にあったという事実である。私の考えではこのような指摘は重要であり、それを展示によって示す点にこの展覧会の批評性が示されている。次のセクションにようやく絵画が登場する。しかし意外なことに最初期に制作された絵画は小ぶりなものが多い。それらの絵画は物質性が濃厚で、時に金属や異素材が導入されている。作家同士の作品の類似性、ドローイングとの関係など、会場でいくつもの発見があった。
 会場入口に設けられた村上三郎の「紙破り」(今回は、家のふすまを破って父の元にたどりついた行為が作家にインスピレーションを与えたという村上の子息によって演じられていた。このパフォーマンスは作者以外によっても代行される場合があり、海外を含めた具体の回顧展では定番である)の裂け目から入場した私たちは、かかる曲折を経たうえでようやく激しいアクションと圧倒的な絵画の数々、スクリーンに映示される舞台上でのパフォーマンス、《電気服》をはじめとするショッキングなオブジェに彩られた1950年代後半の具体、具体神話の核心へとたどりつく。今回の展示で私はあらためて具体の活動の多様さ、そしてそこで発表された多くの作品の強度を確信した。私が驚くのは、かくも多くの発表や作品が集団の中で生成されたことである。いうまでもなくこの時代、ニューヨークでは抽象表現主義と一括される作家たちがアメリカの絵画の幕開けを宣言する多くの傑作を発表していた。両者の関係についてもさらに検証されるべき余地はあるが、基本的に個々の作家のブレイクスルーとして達成されたニューヨーク・スクールの作家たちに対して、具体の作家たちは吉原スクールの一員として軽々と世界的にも特筆されるべき作品を量産したのである。確かにこのグループがメンターとその弟子たちという旧態依然とした構造をとったこと、作家間のレヴェルの格差(この場合吉原も作家の一人と考えられる)、そして何よりもタピエと接触するや、作家集団としての主体性を放棄してアンフォルメルに追随した点など、今日にいたるまで批判されるべき点は多々ある。しかしそれにも関わらず、残された作品を実見するならば、私はこれほどの質の作品を集団として制作したグループが日本の戦後美術史はもとより、世界的もほとんど例がないことを確言することができる。そして最初に述べたとおり、これほどの作品が批評の側から完全に黙殺されたことも異常と呼ぶほかない。
 今回の展示は作品をクロノロジカルに配置する一方で、いくつかのトピックについてはテーマ的な展示を行い、両者が相互を補完している。例えば『具体』誌、海外との交流、万国博覧会での「具体美術まつり」といったその歴史を点綴するエピソードがうまく紹介されていた。特に吉原治良の回顧展示では具体結成以前の作品も含めて、この稀代のモダニストの全貌がコンパクトに紹介され、展覧会に奥行きを与えている。このようなテーマの一つとして具体の作家たちが作品を常設したグタイピナコテカの内部が模された展示室がある。ここに展示された白髪一雄や村上三郎の1960年前後の絵画は、この集団の創造の絶頂をかたちづくっているといってよいだろう。今回の展示はほとんどが国内の美術館からの借用であり、しかもその多くが比較的近年収蔵されている。この20年余の具体評価の高まりを反映したものであり、喜ばしく感じると同時に、何人かの作家については既に検証されつつあるとはいえ、今後も個々の作家のレヴェルで作家研究、回顧展による検証などが必要に思われた。
 60年代前半、中期の具体においては新しく加わった作家の作品もさほど異和感なく展示に溶け込んでいる。松谷武判、向井修二、前川強ら、3Mと呼ばれる一世代若手の作家たちの作品も物質性や記号性の強調、不透明な表面と濃密な存在感において具体の伝統に連なる。しかし60年代後半、ライト・アートやキネティック・アートといった当時の最新流行を持ち込む作家たち、とりわけハードエッジ抽象の若手が加わることによって具体の気風は大きく変わる。むろん吉原がブレイクスルーを遂げて一連の円の絵画に到達したことがその背景にあるかもしれない。しかし1965年以降、具体の表現が急速に散漫となっていく印象はおそらく来場者のほとんどが感じるだろう。一人新たな境地に達した吉原を除いて、多くの有力な会員が退会し、創立以来の会員の作品も著しく弱体化する。80年代以降、東京で開かれた数少ない具体の回顧展が活動の初期と中期に焦点をあてて、いわばその絶頂においてグループを回顧したのに対して、結成から解散までを射程に収めた今回の展覧会は作家集団の凋落という一面も仮借なく伝えている。知られているとおり、具体にとって実質的に最後の活動は1970年の万国博覧会における「具体美術まつり」であった。今回の展示ではその模様を記録した珍しい映像も出品されている。「もはや戦後ではない」という言葉が流行した時代に誕生したグループが万国博とともにその活動を停止する。カタログの章解説にあるとおり、「戦後日本の高度経済成長と歩調を合わせるかのように、ひたすら明るく前向きに、独創的、革新的な表現を追い続けた『具体』であったが、その活動が高度経済成長の絶頂点を象徴する大阪万博でフィナーレを迎えたことは、あまりにもできすぎた偶然と言うほかはない」
 カタログも具体の18年の活動を過不足なく伝え、充実している。具体に関しては既に1992年に芦屋市立美術博物館の手によって決定版とも呼ぶべき資料集が刊行され、最近ではこのブログでも触れた『具体』誌の完全復刻版も出版されたから、資料的な面の充実はそちらに譲り、ヴィジュアル的な側面にも意を注いだ美しい内容だ。初めて具体に触れた東京の若い人々にもよい導き手となるだろう。冒頭に企画者の比較的短い概論が掲載され、各論として先述の万国博との関係に触れたエッセイと、「ヌル」や「ゼロ」といったグループとの関係、そして建築との関係を論じたエッセイが掲載されている。いずれも新しい視点であり、興味深い。この展覧会ではこれまで語られることが少なかった後期の具体に焦点をあてることが一つの目的とされており、二つのエッセイはこのような問題意識に即しているだろう。しかしあえて言うならば、私たちは具体の絶頂とも呼ぶべき1960年前後の絵画に対しても今なお明確な批評言語で対峙していないのではない。白髪一雄の作品がジャクソン・ポロックの作品と並んで「アンフォルム」展のカタログに掲載されていたことは記憶に新しい。この展覧会は具体の絵画の達成をあらためて世界的な視野から再検討するよい機会となるだろう。具体という異例の集団が提起した問題の輪郭を知るうえでも必見の展覧会といえよう。

by gravity97 | 2012-07-18 14:47 | 展覧会 | Comments(0)