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「PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭2015」

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 先日より京都で「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」が開かれている。ひとまずメインとなる京都市美術館と京都府京都文化博物館を訪れてみた。予想通りあまたの国際美術展と比べても遜色のない、充実した内容の展示であった。
 知られているとおり、このところ国内で国際芸術祭が相次いでいる。昨年夏の横浜トリエンナーレについてはこのブログでも評したが、その後も札幌で札幌国際芸術祭が開かれ、あいちトリエンナーレと瀬戸内国際芸術祭は来年に開催が予定されている。町おこし地域おこしを絡めた芸術祭のラッシュの中で、後発の京都国際芸術祭にとってその内容をいかに差異化するかということが大きな課題であったはずだ。展覧会に先立っておびただしいプレ・イヴェントが開催され、出品作家が数次にわたって発表されたが、出品作家を知って私はやや失望した。多くの作家が国際展の常連であり、さらにこの国際展のディレクターである河本信治氏が企画する展覧会への出品者であったからだ。ウィリアム・ケントリッジ、ピピロッティ・リスト、やなぎみわといった作家たちは既視感が強い。実際に展覧会を見た印象としても映像が多用される展示、あるいはカタログの形式は「プロジェクト・フォー・サバイヴァル」や「STILL/MOVING」といったかつて京都国立近代美術館で企画された展覧会を強く連想させる。しかし作家や展示方法の類似にもかかわらず、実際に会場を回ってみるとPARASOPHIAは国際現代美術展を知悉し、自身も第一回横浜トリエンナーレのディレクターの一人を務めた河本氏ならではたくらみや仕掛けに満ちた企画であり、国際展の在り方を相対化する、批判的、自覚的な意識が反映されているように感じた。以下、この展覧会の特質を三つの点から論じる。
 この展覧会の成功の第一の理由は、作家を国際展としては比較的少数の40組に限定し、それぞれに十分なスペースを与えた点だ。出品作家はこれまでに何度も国内で作品が展示された作家から、初めて名前を知り作品を見る作家まで多様であるが、数はさほど多くない。展示は二つの美術館以外にも市内に散在しているが、京都市美術館で8割以上を見ることが可能である。市内に設置された作品についても地図等のインフォメーションは豊富であるから、この時期、京都くらいの大きさの町であれば、ミュンスターの彫刻展のごとく自転車を借りて作品巡りをすることも楽しいだろう。現代美術ファンならずとも手頃に作品に親しむことができる作家数とスケールである。国際展に赴くととにかく作品数が多くて疲れ切ってしまうことが多い。確かにたくさんの作品を一度に見ることができるのは国際展の醍醐味であるが、作家数や作品数を増やすことに腐心して、結果として必ずしも質の高くない作品が散見される場合が多いのに対して、PARASOPHIA は明確な対案を提起している。次に論じる問題とも関わっているが、開催にあたって、主催者は出品作家に現地を確認させている。展覧会のフライヤーに次の言葉がある。「PARASOPHIAは準備期間の2年間を通じて参加作家のほとんど京都に招聘しました。作家たちは京都の歴史や文化遺産からだけでなく、人々の暮らし方からも多くのものを読み取り、京都と関わることで新しい作品に挑戦しました。京都市内の場所と出会い、その場の人々や歴史と対話することで新しいビジョンを得た作家たちもいます」予算規模にもよるだろうが、国内外から作家を招聘し、適切に対応するためには確かに40組という出品作家の規模は適正というか限界であったかもしれない。個々の作家には作品に応じてかなり広い空間が与えられる。美術館の場合、時に展示室を数室利用して作品が設置されている。このような贅沢な空間は国際展というより、連続個展といった方がよいかもしれない。映像を使用する作家が多いため、空間的な余裕は大きな効果を上げていた。充実した展示が多いためであろうか、PARASOPHIAは中心的な作品、一人の作家や一つの作品で展示が代表されることがない。確かにメインヴィジュアルのピピロッティ・リストややなぎのトレーラーは強い印象を与えるが、例えば横浜トリエンナーレにおける塩田千春やダニエル・ビュレンのごとき中心的な作品は存在しない。今回のカタログにはディレクターによる出品作家の選定基準が端的に記されている。「参加作家は『私が、いま(も)興味深いと思える作家』という基準で選びました。40組を統合するテーマや表現傾向があるわけではありません」興味深いことに2年前から始めた準備作業の最優先事項は、親しみやすい呼称を決定することであったという。PARASOPHIAとは「向こう側の別の知性」という意味で、言葉の意味と女性的で軽い音感の結合によって選ばれたという。展覧会のテーマや出品作家以前に呼称を決めるという発想は斬新であり、確かにパラソフィアという語感はこの展示にふさわしい。
 b0138838_2055227.jpg第二の特質は作品と会場、とりわけメイン会場とされた京都市美術館との強い親和性に求められる。以前から強く感じていたことであるが、1933年に開館したこの美術館は壮麗な帝冠様式の建築で、内装も実に凝っている。しかしながら恒常的に貸し会場として用いられてきたため、建築は展示壁の中に隠され、全貌をうかがうことができなかった。今回の展示では美術館のほぼ全体を用い、ふだん見ることのできない場所も実に効果的に使用されていた。例えば私としても初めてその存在を知った地下室を利用して二つの展示がなされていた。一つは高嶺格の《地球の凹凸》というインスタレーション、もう一つは「美術館の誕生」という展示だ。後者はおそらく事務局によって企画された展示であろうが、「大礼記念京都美術館の誕生」「接収期から京都市美術館の誕生まで」「現代美術と京都市美術館」という三つのテーマのスライドショーが上映されており、実に興味深かった。昭和天皇の即位の奉祝事業として建てられたこの美術館は戦後、米軍に接収された経緯がある。地下室で70年の時を隔てて私たちの前に示されるSHOE SHINEの文字、当時の靴磨きの看板はあたかもコンセプチュアル・アートのようではないか。そしてこの展示を見て私は長年の疑問の一つが氷解した。「現代美術と京都市美術館」のセクションでは1970年に中原祐介が企画した名高い展示、東京ビエンナーレ「人間と物質」の京都巡回について触れられている。その際にリチャード・セラは市美術館の庭に鉄製のスクエアを敷設し、セラの作品集にも掲載されている(設置場所が京都国立近代美術館と誤記されている文献もある)。私は以前より市美術館に赴くたびにそれとなく建物の近くを捜してみたのだが、見つからず、長らく不審に感じていた。しかし今回の展示に付されたキャプションによればこの作品のあった場所は現在収蔵庫が新設されているとのことなので、おそらくその際に撤去されたのであろう。同じように上野公園に敷設された鉄のサークルは多摩美術大学に移設されたと聞くから、この顛末を聞いてセラは《傾いた弧》同様に怒るのであろうか、それとも場と関係をなくした作品にもはや存在理由を認めないだろうか。
 この問題は国際展の在り方に一つの問いを突きつけるし、PARASOPHIAでかかる問題が問われたことは意味がある。「人間と物質」にあたってセラは東京で次の言葉を残している。「たいていの作家は(東京ビエンナーレのごとき国際展に)来る前にプロジェクトが出来ていて、いわばパッケージをもってやってきて、それを開いて見せているだけだ。それでは来た意味がない。ここ東京にいるなら、東京にいるという事実に立つべきだ。おれはいつもその場所での経験だけに興味がある」東京ビエンナーレの際にも多くの作家が来日したが、今回の展示においても作家たちを招聘し、自分たちの作品が展示される施設や街を体験させたことは大きな意味があるように感じる。作品と場との関係はミニマル・アート以来、何度となく作品とされてきた。この問題に関して注目すべき作品を発表していたのは田中功起である。田中はこの美術館をリサーチして、先にも触れた二つの出来事、米軍による接収と「人間と物質」展の開催に着目する。事前に田中は地元の高校生たちを集め、ワークショップを開催した。彼らは在日米軍に関するレクチュアを聞き、戦争と平和について討論する。展示室の床に布を設置するパフォーマンスはいうまでもなく「人間と物質」におけるクリストの展示の追体験だ。さらに彼らがバスケットボールの練習に励む映像は、接収されていた時期、展示室内にバスケットのゴールが設えられて、米兵たちがバスケットボールに興じていたというエピソードに由来する。この作品からは戦争と芸術とスポーツが一つの場に重ねられた美術館の記憶が立ち現れる。田中は必ずしもサイト・スペシフィシティーを原理とする作家ではないが、今回の発表はこの展覧会でなければありえない内容であった。
 今再び「人間と物質」に触れた。PARASOPHIAは35年前に同じ会場で開かれた国際美術展への応答と捉えることができるかもしれない。この機会に「人間と物質」関係の資料を確認したところ、奇しくも「人間と物質」にも同じ数、40名の作家が参加している。「人間と物質」の場合は日本人作家が12名含まれているが、全ての日本人作家と17名の外国人作家が最初の開催地である東京での陳列に参加したという。この点は「参加作家のほとんどを京都へ招聘した」というPARASOPHIAの取り組みと似ている。展覧会コミッショナーの中原祐介は次のように記している。「それ(人間と物質の関係の協調や体験)はまた、多くの参加者が、アトリエのなかであらかじめ作品をつくり、それを展示するのではなく、直接、場所をたしかめ、その状況を知ったうえで、仕事をするという行為とも結びついている。場所もまた抽象的なものではなく、この人物と物質の触れ合いのなかに包含される無視できない要素だからである」「人間と物質」あるいはほぼ同じ時期に開かれた「態度がかたちになるとき」、あるいは「アンチ・イリュージョン」といった国際展においても同様の臨場主義が認められ、「態度がかたちになるとき」についてはこのブログでも論じた。これらの展覧会においては作家が実際に現地で作品を構想し、設置するという意味において場と換喩的に関係が結ばれるのに対して、PARASOPHIAにおいてはむしろ事前に京都を訪れプレ・イヴェントなどに参加した作家たちがそこでインスピレーションを得て、あらためて出品作品を構想するという隠喩的な関係性が成立している。映像という表現はこのような手法に向いており、「人間と物質」とPARASOPHIAのかかる潜在的な関係性は私には大変興味深く感じられた。
 b0138838_207850.jpg三番目の特質は展覧会と関連した出版物に関わっている。今回、感心したのは会場入口にうずたかく積まれた無料のガイドブックである。来場者はそれを手に会場に向かう。このガイドブックが優れているのは、ほぼ作品の展示順に作品が掲載されていることだ。その点は冒頭に明記されており、逆に言うならば、このガイドブックに従えば展示作品を全て見ることができるのだ。当たり前のことのようであるが、これは親切な配慮である。巨大な美術館や倉庫で開かれる展覧会の場合、私たちは適切な順路を見つけ出すことができず、往々にして作品を見落とすことがある。もちろん必ずしもその順序に従って会場を巡る必要はないが、ガイドブックを片手に作家名を確認しながら進むことによって、来場者は正しい順路と作家についての最小限の知識を知ることができる。通常の国際展でも会場にガイドブックが用意されることがある。しかし多くの場合、それらは有料であり、ガイドブックというより、カタログが刊行されるまでの間、(多くの国際展でカタログは会期中、場合によって終了後に発行される)カタログの代用品としての中途半端な位置に留まっている。今回のようなガイドブックを作成するためには事前に作品の設置場所を定め、作品や作家についての情報を得ておくことが必要となる。PARASOPHIAにおいてこれが可能となったのは作家数の限定、そして事前の下見によるところが大きいだろう。それがなければ地下室が使用されたり、美術館の備品である巨大な展示ケースが展示に組み込まれることはなかったはずだ。無料かつ情報に富み、書き込みやマーキングが自由なガイドブック。決して驚くほどの工夫ではないのだが、その存在はていねいに作り込まれたこの展覧会にふさわしい。そしてかくも充実したガイドブックが無料で準備されたことによって、開幕と同時に会場に準備されたカタログは別の役割を帯びることとなった。350ページに及ぶカタログは出品作品に関するインフォメーションに富んでいる。デザインは河本氏の企画した展覧会のカタログを一貫して手掛けてきた西岡勉氏による。いつものように企画者による簡潔なイントロダクションに続いて、それぞれの作家について作家の言葉や関係者による解説が加えられている。例えばアラン・セクーラのセクションでは表象文化論学会で発表されたセクーラについて研究が掲載されており、それ自体が作家論を形成するかのようだ。インデックスがないため、検索に時間がかかる点が(おそらくは意図された)不便であるが、これほどの情報量をもった国際展のカタログを私は知らない。確かにディレクターや関係者が文章を書き連ねたカタログは数多い。しかし、このカタログでは展示の理念やコンセプトが長々と論じられるのではなく、あくまでも出品作家の資料集であることが目指されている。国際展に関する出版物は単なる報告と考えられがちであるが、PARASOPHIAにおいてはこの点に関しても深い配慮が認められる。
 以上、個々の作家や作品についてはあえて詳しく言及することなく、展覧会全体について論じた。実際には私も会場で多くの興味深い作品に出会ったのだが、それらについてはここでくどくど述べるよりも、まず実見していただくのがよいだろう。私たちは次々に開かれる国際展やらビエンナーレ、トリエンナーレにいささか食傷している。それは多く美術の本質とは全く無関係の、国威発揚、地域おこし、あるいは記念事業といったくだらない目的のアリバイとして作品が召喚されてきたことに起因する。しかし昨年の横浜トリエンナーレ、そして今回のPARASOPHIAと、ディレクターに人を得た時、日本においてもそれなりに興味深い展覧会を実現することも可能なのだ。奇しくも今、信楽のMIHO MUSEUMでもバーネット・ニューマンの奇跡的な展覧会が開催中である。春に向かい、まもなく京都も桜が満開となろう。この時期、二つの展覧会を合わせて出かけてみるならば、現代美術の素晴らしく充実したエクスカーションとなることを私は保証する。

by gravity97 | 2015-03-28 20:11 | 展覧会 | Comments(0)

「阪神・淡路大震災から20年」

b0138838_19322938.jpg 震災に関連したレヴューを続ける。といっても東日本大震災ではなく、今年の初めに20周年を迎えた阪神・淡路大震災と関わる内容である。
 先日、神戸の兵庫県立美術館で「阪神・淡路大震災から20年」という展示を見た。通常は常設展示に使用される展示棟を用いた三部構成の展覧会である。兵庫県立美術館の前身である王子公園の兵庫県立近代美術館は阪神大震災で最も激しく被災した美術館であったから、この館が震災と表現の関係を検証することを自らの責務とみなすことは十分に理解できる。実際に震災から5 年が経過した2000年、兵庫県立近代美術館時代にも「震災と美術」という展覧会が企画され、私も見た記憶がある。この展覧会では震災に触発された多くの作品が展示され、カタログも震災から展覧会が開かれた時点までの詳細な記録を掲載し、震災の記憶の生々しさをうかがわせた。それに対して、阪神大震災から相当の時間が経過した今回の展示では、より巨視的で抽象的なレヴェルで震災と美術の関係を検証する内容となっており、さらに興味深い。今回の展示の三部構成はそれぞれ「自然、その脅威と美」「今、振り返る―1.17から」「10年、20年、そしてそれから-米田知子」と題されている。タイトルから推測されるとおり、最後の第三部のみ個展形式をとり、第一部は他館から借用された作品、第二部はこの美術館のコレクションと震災の際にレスキュー作業の対象とされた作品を中心とした展示である。かかる構成は震災と美術というテーマが重層的な意味をもっていることを暗示している。私の言葉に置き換えるならば、第一部においては美術が震災を含めた自然災害をいかに表象するかという問題が問われ、第二部では逆に震災が美術作品と美術館にいかなる問いを突き付けたか、そして第三部においては震災の表象不可能性という問題が扱われている。
b0138838_19332571.jpg 第一部に展示された作品は比較的理解しやすい。文字通り、自然の脅威としての災害を描いた作品群が展示されている。噴火、台風、そして震災や津波といった自然現象を主題とした黒田清輝から大岩オスカールまで多様な作家による作品が展示されているが、自然災害の被害を記録した作品は比較的少ない。震災後の風景を描いた作品として私は以前、東京都現代美術館で鹿子木孟郎、京都国立近代美術館で池田遙邨という二人の画家のスケッチをまとめて見た覚えがあり、後者は今回も展示されていた。鹿子木には震災を描いた油彩画もあったように記憶する。震災の直後の情景を記録にするには手早く制作できるデッサンやスケッチが有効であるが、記録性において写真には及ばないかもしれない。展示の第二部には阪神大震災を主題とした作品も数点出品されているが、写実的な作例は少なく、上に掲げた福田美蘭の作品のごとく一種コンセプチュアルな表現さえ用いられていた点は留意すべきであろう。この点は東日本大震災においても反復されている。原子力災害という不可視の災害が発生したこととも関連しているであろうが、例えばChim↑Pom や竹内公太の作品は、いずれも映像として成立しており、私たちを襲う災厄が今や絵画のリアリズムを超えていることを暗示している。ところで自然の脅威は災害をもたらすと同時に美に匹敵するセンセーションの起源であることも今日広く知られている。それは崇高という感覚だ。自然の圧倒的な脅威とそれを前にした人間の卑小さの自覚は崇高という観念を呼び起こした。知られているとおり、ロバート・ローゼンブラムはかかる系譜をドイツロマン主義から抽象表現主義への理路として位置づけ、抽象的崇高という概念を提起した。しかし黒田清輝の筆による桜島の噴火から金山平三の描く荒天の海にいたるまで、日本においては崇高という感情を喚起するほどの自然現象や風景を眼前にすることは稀であり、この意味でここに展示された作品はやや中途半端な印象を与える。抽象的崇高という点から私はここに近年の中村一美の作品を加えたい思いがあるが、さすがに展覧会としては分裂的な印象を与えるかもしれない。
 第二部ではかかる夢想を断ち切るリテラリズムが徹底される。最初に津高和一の作品が象徴的に置かれている。いうまでもない、関西を代表する抽象画家であった津高は震災によって夫人とともに落命した。私は作家が存命中にアトリエを訪れたことがある。日差しのよいアトリエでたくさんの猫に囲まれていた夫妻の姿が今も目に浮かぶ。作家のみならず作品も震災で大きなダメージを受けた。この点は既に何度か報告されているが、今回の展示では震災によって物理的に損傷したジュリ・ゴンザレスやメダルト・ロッソの彫刻、マックス・クリンガーの版画などがその修復の記録とともに提示されている。天災とはいえ作品が損傷を負ったという事実は美術館としてはなかなか公表しにくい。今回このような形で展示に加えることが可能となったのは、それらが今日最善とされる方法で修復されたこととともに、やはり震災から20年という時間が経過したことが大きな理由であろうし、美術館が新築され、かつての機能が王子公園から岩屋に移ったことも影響しているだろう。美術館が倒壊した現場で破損した作品の記録を展示することはさすがに生々しい。とはいえ会場には被災した美術館の写真や当時の新聞記事が多数展示され、当時の記憶を留めている。当時、この美術館に勤務していた学芸員が何かのインタビューで、震災直後、美術館を遺体安置所として使用できないかという打診があったと述べていたことを記憶する。かつてキャロル・ダンカンは「美術館という幻想」の中で霊廟としての美術館について言及していたが、美術館と死者との関係は深く思考するに値する。この美術館は損傷が激しいため遺体安置所としても使用できなかったが、当時、避難所として使用され、展示室で人々が生活していた美術館も阪神間には存在するのだ。一方でこのセクションでは被災直後より続けられたレスキュー活動についても紹介されている。中心として取り上げられているのは芦屋にあった写真家中山岩太のスタジオから救出された作品と資料であり、会場にはカメラや資料群、救出されたネガからプリントされた写真作品などが展示されていた。このレスキュー作業は当時の芦屋市立美術博物館や兵庫県立美術館の学芸員、文化庁の呼びかけに呼応した「文化財レスキュー」の専門家チームが参加し、この事業としても最初の試みであったという。余震が続く中での作業は相当に困難であったと思う。展示されていた作品の中には中山が神戸の風景を記録した何枚かの作品があった。そこに写っていた阪急三宮駅の駅舎は戦災には耐えたものの震災で倒壊したとキャプションにあり、いささかの感慨を覚えた。この写真については後でもう一度触れる。このセクションの最後の部分は作品の保存・修復と教育・普及活動を扱い、この美術館で修復された作品や作品に寄せられた子供たちの感想などが紹介してあった。この部分には若干の異和感を覚えた。というのはここで紹介されている作品は例えば1998年に東灘区の邸宅から取り外された北村四海の鋳造レリーフであるが、年代からわかるとおり、直接震災との関係を有していない。先に述べたとおり阪神大震災に始まる「文化財レスキュー」のノウ・ハウは引き継がれ、先の東日本大震災の折にも多くの作品を救出した。レスキュー事業の全貌は二つの震災に関して全国美術館会議から発行された報告書に詳しい。震災は美術館で保存・修復にあたるスタッフにとっても修羅場であり、震災とコンサヴェーションは深い関係がある。しかしこの部分の展示では震災と直接関係のない作品が例示されているため、緊張感が殺がれるのだ。むろん修復作業にせよ普及活動にせよ美術館で日常的に続けられる活動である。いわば戦時の美術館を主題としたこの展覧会で平時の姿を見せられても少々当惑してしまう。今述べたとおり、阪神大震災直後、戦時の美術館においても修復や普及は続けられた。当時の資料を確認するならば、被災後日を置かずしてLAよりポール・ゲッティ美術館の担当者が来場し、破損した作品の処置について助言したという。(奇しくもゲッティ美術館も阪神大震災のちょうど一年前に地震で被災していた)先に述べた文化庁の文化財レスキューの活動もあったはずだ。被災し、修復された作品とともにこれらについて詳しく紹介した方が本展の趣旨にふさわしかったのではなかろうか。あるいは普及活動についても、会場に置かれたパンフレットによれば、世情が落ち着いた3月頃より、全国の美術館から寄せられた作品の絵はがきを避難所等に配布する作業のためにボランティアが活動したこと、あるいは市内の銀行のロビー等を利用して一種の移動美術館を開催したことが触れられている。震災下における修復や普及活動こそ展示に組み込まれるべきではなかっただろうか。
b0138838_19353486.jpg 第二部までが震災と美術の関係を多様な角度から問う内容であったのに対し、米田知子の個展として構成された第三部は趣を異にする。展示されたのは101×120cmのカラー写真が8点。いずれも無人の市街や風景、室内が撮影されている。実はこれらの写真は震災10年後の2005年、芦屋市立美術博物館で開かれた個展「震災から10年 米田知子展」に出品された作品であり、タイトルが示すとおり、震災から10年が経った芦屋市内の風景が写し出されていた。パンフレットによれば、この際には震災から間もない時期に被災地の風景を撮影したモノクロ絵画も合わせて発表され、二つの風景が対比されていたという。私はこの展示を見ていないので、出品作品数や二つの風景がどのように「対比」されていたかはわからないが、撮影対象は作品名として明示されている。例えば《空地Ⅱ―市内最大の被害を受けた地域》、《教室Ⅰ―遺体安置所をへて、震災資料室として使われていた》といった具合だ。これらの写真の意味については会場のパンフレットに的確に要約されている。少し長くなるが引用する。

 震災から10年近く経った時点で撮られたこれらの写真にはたとえば倒壊した建物のように震災に直結するイメージは全く見当たりません。人気のない部屋や、ぼっかり空いた更地など、むしろそこに何も「ない」ことが強調されているようにさえ見えます。写真は目の前にあるものを記録し伝える媒体であるという一般的な理解からすれば、なんとも逆説的なことかもしれませんが、この作品の場合は、震災の具体的なイメージが「ない」がらんと静まりかえった世界であるからこそ、見えない不安や恐怖、そして喪失感が、より強く感じられるのではないでしょうか。そこにはたった10年で「見えないもの」になってしまう、という怖さも含まれているかもしれません。

 美術でも文学でも映画でもよい、私たちは表現によっていかなる対象も表象 re-present できると考えている。字義通り、それは出来事を再=提示することだ。しかし果たしてそうか、歴史の中には表象しえない事件が存在するのではないか。正確にいえば表象することによってその本質を逸する事件が存在するのではないか。このような問題はユダヤ人問題の「最終解決」、ホロコーストをめぐって提起された。具体的にはクロード・ランズマンの1985年のフィルム、「ショアー」だ。現在、東京で上映されているらしいこの作品を私はかつてNHKのBS放送で見たことがある。今、確認すると奇しくも阪神大震災の年、1995年のことだ。私はTVを見る習慣がほとんどないから、この映像を見ることができたのは奇跡的な偶然であった。当時、私はこの作品について知らず、おそらく深夜、何かの理由があってTVをザッピングしている時に偶然に視聴したのであるが、一度目にすると私は目を離すことができず、最後まで見たことを覚えている。私が記憶しているのはかつて絶滅収容所があった場所を映しながら、サヴァイヴァーの回想がヴォイスオーヴァーされる場面、そして確か床屋でランズマンの質問に答える元SSの証言を隠し撮りする場面である。かくも強い印象を受けながら私がこの際の放送による上映を翌日以降見なかった理由は内容のあまりの重さに耐えかねたためであろう。震災がホロコースト同様に表象不可能な事件であるか否かという問題には議論の余地がある。しかしランズマンのフィルムは表象しえないものの表象という難問にいくつかのヒントを与えてくれる。知られているとおりランズマンは記録映像の類を一切使用せず、現在の絶滅収容所跡の風景と関係者へのインタビューによってこのフィルムを構成した。つまり徹底的に現在の視点に立つのだ。かかる視点を得て、不在という問題が浮かび上がる。彼が表象しようとしたのはそこに収容された万を単位とするユダヤ人がもはや存在しないという事実なのであり、それこそがホロコーストの本質なのだ。一事業者の善意によって何人かのユダヤ人が救われたという事件をあたかもホロコーストの表象のごとく差し出すスピルバーグの「シンドラーのリスト」をランズマンが全否定することは当然であろう。物語による表象は事件の本質を隠蔽する。さて、ジャン=フランソワ・リオタールは同じ絶滅収容所について、地震と関連した比喩によって論じている。人間の歴史にとってこの事件は地震計、つまりそれを外部から測定する基準までも破壊するあまりにも大きな地震であったというのである。ホロコーストと地震の類比、そして「ショアー」が制作されて10年後に日本で放映され、同じ年に阪神大震災が発生し、そしてさらにその10年後に米田知子がこれらの風景を撮影したという暗合は興味深い。ここに提示された風景は「ショアー」同様に惨事が発生した場所の現在の風景なのである。先に中山岩太が撮影した阪急三宮駅のイメージについて触れた。それはイメージの充実として存在する。しかし米田は充実ではなく空虚、存在ではなく不在によって事件を表象する。私たちはそれによってしか1995年1月17日の出来事に達することができないのではなかろうか。そして今、私たちは震災から20年、ここに撮影された風景から再び10年を経て作品に向かう。この作品においては時間が重層化されている。表象されるべき事件、表象された風景、作品を見る経験、それぞれが(偶然にも10年という等間隔で隔てられた)異なった時間に帰属しつつ、作品を見る体験の中で一体化されているのだ。この作品、そしてこの展示は深い思索性を秘めている。そして先に引用した一文の中でも明確に述べられているとおり、かかる距離感は経験の風化という問題にも関わっている。
さらに私はここに福島の原子力災害という補助線を引きたい。いまだに放射能を発しながら崩壊を続ける原子力発電所に隣接する地域では、更地さえも造成することができない。そこには2011年3月11日という、あの日のままの不在の光景が広がっているはずだ。かつて収容所にいたユダヤ人たちが殺されて存在しないように、かつてはそこで生活を営んでいた住民たちが強制的に疎開させられてもはや存在しないフクシマの光景。不可視でありながら致命的な放射能。かかる主題の表象は本質として不在の表象、表象の不可能性と関わるのではないだろうか。これに対して例えば現地で若者たちを集めてシュプレヒコールを上げ、それを記録することによってなにがしかの表現が成立したと考えるのは果たして正しい行いであろうか。震災をめぐる表現は作家の倫理の問題へと立ち返るのだ。
 今回の展覧会は未曾有の震災に対して美術家と美術館がいかに対応したかという記録として大きな意味をもつ。かつての私は阪神大震災のごとき体験は生涯にただ一度であろうと考えていた。しかしまもなく私たちはさらに悲惨な震災と原子力災害を経験し、一つの都市どころか東日本が死滅するかもしれない状況を経験した。ミロスワフ・バウカではないが、私たちが食間ならぬ災間にたまたま生を与えられているに過ぎないことは今や明らかだ。果たして私たちは時に表象の可能性さえ超えた出来事に、なおも表現で応じ、さらにその表現を後代に伝えていくことができるだろうか

by gravity97 | 2015-03-17 19:39 | 展覧会 | Comments(0)

「温故知新」

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 先のブログでドナルド・ジャッドのパーマネントのインスタレーションが設置されたチナティ・ファウンデーションを訪れた際の印象を記したが、先日、ジャッドがその場に立ち会ったならば卒倒してしまうような展示に立ち会った。4日間という短い期間であるが、京都の中心、室町通りに面した古い日本家屋で開かれていたジャッドと河原温の二人展、タイトルを「温故知新」という。この展示は公益財団法人現代芸術振興財団という組織によって企画され、出品された作品はこの財団の理事長が保有する「数ある現代アートコレクション」の中から選ばれたジャッドと河原温の作品の一部とのことである。会場は古くからの帯問屋であり、重厚な造りの日本家屋であるが、この財団との関係はわからない。
 会場にはジャッドのプログレッション系の作品2点と河原温のデイト・ペインティングが多数展示されている。(カタログにはこのほかに2点1組のジャッドの作品が掲載されているが、この作品は展示されていなかったと思う。さほど広い会場でもなかったから、このサイズの作品を見落としたとは考えにくい)このうちジャッドの作品はエナメルを塗ったアルミニウムの箱を組み合わせた作品であり、今述べたとおり壁に取り付けるプログレッション系の作品であるが、ジャッドのカタログを参照するならば1980年代後半に制作された比較的珍しいタイプの作品だ。展示方法に唖然とする。なんと台座の上に置かれているではないか。床置きならばまだわかる。そうではなくて、おそらくこのために制作され、作品と同じサイズの底面をもつ黒い台座の上に設置されているのだ。b0138838_20533215.jpgここでミニマル・アートの特性について詳述する必要もなかろう。作家によってそれなりに多様なそれらの作品に共通する特質の一つは台座をもたないことだ。ジャッド自身、あるインタビューの中で台座なき彫刻という概念が完全に彼自身の着想であることを言明している。ミニマル・アートが台座を排除した理由は明らかだ。それは作品が現実の空間に存在することを明確に示すためだ。ジャッドは「明確なオブジェ」という名高い論文の中で次のように述べている。「三次元とは現実の空間である。それはイリュージョニスムの問題、およびリテラルな空間、描かれた印や色彩の周辺や内部にみられる空間の問題から自由になる。作品は考えられる限り力強くなりうる」彫刻の台座とは絵画における額縁だ。それらは作品が現実とは別の世界に存在することを暗示する。ジャッドは作品に強度を与えるためにはそれが現実の中に存在することが必要だと考えたのである。ここでアンドレやモリスにまで言及する必要はないだろう。ミニマリズムの感性において作品は私たちが存在する現実と切り離されるべきではない。確かに今回の展示では底面積を同一にし、黒く塗られることによって台座は存在感を切り詰めている。しかしそれはあくまでも台座であり、現実とは審級の異なる「芸術」、会場の掲示に倣えば「現代アート」をその上に据えるために召喚されている。台座の存在は作品の意味構造を変えてしまう。プログレッションとは等比級数やフィボナッチ級数を原理として構成されたレリーフ状の作品であり、通常は壁面に直付けされる。今回の展示を見た後、私は手元にあるジャッドの展覧会カタログや作品集にもう一度目を通してみた。確かにプログレッションのうち、このタイプの作品のみ、壁付けされず床に設置された例が存在する。しかしそれらはいずれも巨大で奥行きのある作品であり、プロポーションとして壁付けに馴染まず、おそらく重量の点でも壁面に設置することが困難であったのだろう。それらは全て床に直置きされている。先に述べたとおり、今回の展示は古い木造の日本家屋が使用されているから、比較的小品とはいえども壁面に設置するための造作を施すことが構造的に不可能であったと推測される。奥行き30cmというサイズから直に床に置くことが躊躇されたかもしれない。しかし台座はないだろう。今回の展示はこの展覧会の企画者の作品への無理解をはしなくも露呈している。
 河原温はどうか。カタログで確認するならば今回は11点のデイト・ペインティングが展示されている。このうち、床の間に展示された《1987年5月1日》は巨大なサイズの作品であるが、ほかの作品はデイト・ペインティングで見慣れた比較的小さなサイズである。日付を確認するならば2005年8月と9月に制作された6点の作品が時期的に集中しているから、同じ機会に収集された可能性がある。デイト・ペインティングに関しては既にいくつかの研究があり、作品の制作にあたって制作の時間や表記、作品の色彩やカンヴァスのサイズについて厳密なルールがあることが指摘されている。《1987年5月1日》はおそらく最大級のサイズであり(デイト・ペインティングは表記された一日、24時間以内に完成されなければならないから、これ以上巨大な作品を制作することは不可能であろう)1998年の時点で10点が制作されているようだ。デイト・ペインティングには制作された当日の新聞の切り抜きが一種の証拠書類として同梱されている。 b0138838_20541377.jpg今回の展示ではそれらの資料も展示されていて興味深かった。日付を描くという一種匿名的な作品でありながら、その真正性を担保する工夫は随所に認められる訳である。河原は個展のオープニングはおろか、一切のインタビューに応じず、ポートレートも公開せず、自らの匿名化をはかっている。河原の大規模な個展は過去に何度か開かれ、偶然、現在もニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催中であるが、作品の展示方法に関して作家は指示を与えるのであろうか。作家によってオーソライズされたであろう過去の展覧会を見た限りにおいて、デイト・ペインティングはホワイトキューブに機械的に設置された印象がある。少なくとも床の間はありえないし、そのように推測するいくつかの理由がある。今回、作品を掛け軸のごとく床の間に展示することによって企画者はそれが「現代アート」である点をことさらに強調しようとしている。確かに日付のみを記したカンヴァスは現代美術の文脈を理解していない者にとっては麗々しく床の間に飾らなければ「アート」と了解することは困難かもしれない。しかしカール・アンドレの煉瓦やダン・フレイヴィンの蛍光灯を想起するまでもなく、これらの作品は展示される場所によって意味を与えられるほど弱くはない。逆に作品が場を定義することさえあるはずだ。かかる作品をことさら和室のハイライトとして設置することは「和の空間との融合」ではなく、端的に作品に対して礼を失しているように感じられる。さらにこの作品は大作ではあってもデイト・ペインティングの一点にすぎない。デイト・ペインティングにおいては作品のサイズや完成度ではなく、そのコンセプトとそれを継続する行為が重要であり、作品は全て対等であるはずだ。サイズの大きな作品をことさらに重視する姿勢もまた作品の本質への無理解に起因しているように思われる。
 今回の展示に批判的に言及したが、この展覧会は逆説的な意味で現代美術、特にミニマル・アートとコンセプチュアル・アートにとってきわめて重大な問題を提起している。それは作家のインストラクションをいかに徹底するかという問題だ。ジャッドが作品の図面を工場に渡し、ソル・ルウィットがウォール・ドローイングの指示をドラフトマンに示すことから理解できるとおり、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートは実は作家のインストラクションがどの程度リテラルに実現されるかという問題と関わっている。作品の制作/遂行については作家がほぼ完全に掌握し、作品のオーセンティシティーの根拠をかたちづくる。しかし作品の展示という局面においては作家以外に多くの函数が存在する。例えば美術館における展覧会の場合、展示には必ず学芸員が介入する。伝聞であるが、以前、北九州と静岡を巡回したジャッド展の折、作品のインスタレーションに立ち会った作家は作品が多すぎるとしていくつかの作品の撤去を求めたという。それらの作品もカタログに掲載されているから、学芸員としては受け容れることが困難な要求である。結局どうなったかは知らないが、ジャッドがチナティに恒久インスタレーションを設置しようと考えた直接の理由はホイットニー美術館における回顧展の展示がひどすぎたからだというエピソードも知られている。ジャッドは次のように記している。「作品を注意深く設置するには、莫大な時間と思考が必要である。この点はいつも心に留めておくべきである」美術館や学芸員にとってなんとも耳が痛い言葉ではないだろうか。河原温に関してはさらにデリケートな問題が発生する。それは展示権という問題だ。通常、作品を所蔵する美術館はその作品を常設展示の一部として展示する権利を有するし、作家も作品が展示されることを望むから両者の利害は一致する。しかしテーマ展においてはどうか。実は河原は自身が望まないテマティックな展覧会に作品を加えることを一貫して拒否してきた。日本の美術館の場合、作品を貸与するにあたって作家が展示に同意したかまで確認する例はあまりない。日本の戦後美術を概観するような展示にデイト・ペインティングが出品されているような例を時折見かけるが、おそらく作家は出品を承諾していないだろう。この問題に関してはかつて井上有一の作品の展示にあたって、一緒に展示されている書家が気に食わないとして関係者が井上の作品を撤去することを要求し、係争となった事例があったように記憶するが、展示の可否について作者と所蔵家のいずれを優先するかは微妙な問題だ。ここではこれ以上敷衍しないが、歴史を遡れば、例えば退廃芸術展のようなケースもこの問題に対して示唆を与えるように思われる。もっとも私の知る限り、河原はいかなるテーマ展に対しても出品を拒否している訳ではない。かつて私はニューヨークに作家を訪ねたことがあるが、その際に河原はカスパー・ケーニッヒの企画による、デイト・ペインティングと他の作家の作品を年ごとに一点ずつ組み合わせた展示を高く評価していたことを記憶している。しかしおそらく河原が存命であったとしても、日本家屋を用いたジャッドとの二人展への出品を肯ったとは思えない。
 この問題は作家とコレクターの関係と深く関わっている。いずれの作家も実力のあるギャラリーによって作品が管理されていたから、作品が売却されるにあたっては作家もしくはギャラリーを介して作品の設置や展示について具体的なインストラクションを所蔵家に示したはずだ。実際にジャッドの作品を設置するにあたってはしばしば所蔵館の学芸員が立ち会いを要求し、デイト・ペインティングの借用にあたっては作家の同意書を確認する美術館を私は知っている。しかし私の推測では今回展示された作品はセカンダリーな市場、つまり最初の所蔵者が手離した後、別のギャラリーもしくはオークションを介して収集されたのではないだろうか。入口にサザビーズからの大きな花輪が飾られていたことがこのような推理の根拠だ。この時、作家の意図が所蔵者に正しく伝えられるかという点は大いに疑問であるし、存命であっても作家と直接のコンタクトがないまま、所蔵家は作品を所有し、展示することとなるだろう。
 誤解なきように直ちに言い添えるが、私は所蔵家が展示にあたって作者の意図に必ず従わなければならないと主張するほど傲慢ではない。今回の展示はそれなりに興味深いものであったし、成功していたか否かはともかく、日本家屋とミニマリズムを掛け合わせるという企画者の意図に一定の意味を認めることにやぶさかではない。私が指摘したいのは、奇しくもここで展示されたジャッドと河原温の作品は実体としての作品のみならず、それがどのように展示されるかという点もまた作品の構造の中に組み込んでいる点である。興味深いことにこの二人は展示との関係において記号論的に異なった文脈に拠っている。ジャッドの場合、作品が展示空間内でどのように配置されるかという顕在的で換喩的な意味構造が問題とされる。これに対して河原の場合はデイト・ペインティングがほかの作品といかなる潜在的な意味を取り結ぶかという隠喩的な意味が問題とされている。いずれも作品自体ではなく作品が展示と取り結ぶ関係を主題としている。このような問題はこれまでモダニズム美術の文脈では意識されることがなかった。例えばセザンヌの絵画はコレクターの客間に飾られようが物置に置かれようが、ピカソの横に展示されようが森村泰昌の横に展示されようが作品自体の意味は変わらない。しかしジャッドと河原の作品は展示される場やともに展示されるべき作品を選ぶのである。作品と場との関係はミニマル・アートにおいて決定的に主題化されたが、抽象表現主義の中にも明らかに同じ意識が兆していた。例えばロスコ・チャペルをはじめとする一連のロスコの建築的作品群、あるいは近く日本で公開されるバーネット・ニューマンの「十字架の道行き」連作。これらの作品は場をかたちづくり、本来的に移動することができない。この発想とチナティ・ファウンデーションは連続している。あるいは共に展示される作品との関係について、私はクリフォード・スティルのエピソードを想起する。狷介孤高として知られるスティルは多くの作品をバッファローのオルブライト=ノックス美術館に寄贈するにあたって条件を付したが、それは自分の作品を決してほかの作家の作品と一緒に展示してはならず、作品をほかの美術館の企画展に貸し出してはならないというものであった。彼らは建築によって、あるいは契約によって自らの作品が展示される状況を守ったのである。本来的に「場の美術」であるミニマル・アート、同一性を保証されて初めて成立するコンセプチュアル・アートにとって、作品のみならず作品の外部、作品をめぐる場も決定的に重要である。しかし残念ながら多くの作家たちはこの点について十分な戦略をもちあわせていなかった。今や「現代アート」は消費材として流通しており、金さえあれば誰でも手に入れることができる。この事実を端的に示す台湾の「現代アート」の「コレクター」の展覧会が現在、国立美術館を巡回し、『芸術新潮』の最新号には同じ「コレクター」のバスルームに飾られたマン・レイの油彩画が「アートと暮らす」麗しき実例として恥ずかしげもなく紹介されているのだ。彼らにとって作品は自分たちの資産であるから、どこに展示しようとどのように展示しようと自由なのである。しかしある一群の作品にとっては展示の状況も作品の一部であり、切り離して考えることはできない。偶然としては出来過ぎている気もするが、ジャッドと河原温はまさにそのような作家の代表なのだ。台座の上のジャッド、床の間のデイト・ペインティングは単なる消費材と化した「現代アート」の無残さを私たちに知らせ、「現代アート業界」をめぐる悲喜劇的な倒錯を象徴している。
 会場内は撮影が許されていたため、当日撮影した写真を示している。もし掲出に問題があれば、コメント欄にて連絡いただきたい。

by gravity97 | 2015-03-02 21:04 | 展覧会 | Comments(0)

「石原友明展 透明人間から抜け落ちた髪の透明さ」

b0138838_1721814.jpg 「透明人間から抜け落ちた髪の透明さ」と題された久しぶりの石原友明の個展を東京で見る。きわめて画期的な内容であり、レヴューとして記録を残す必要を強く感じる。一見、抽象絵画を連想させるモノクロームの線描が描かれた平面は、最初こそこれまでの石原の作品からかけ離れた印象を与えるが、仔細に観察するならばそこには身体性やセルフ・ポートレート、アナログ/デジタルの対比といったこれまでの石原の作品の特徴がはっきりと刻まれ、何よりもいつもながらの明晰な知性の関与が明らかである。
 とはいえ、作品を正確に理解するためには少々の説明が必要であろう。展示された作品は大小とり混ぜて6点、すべて平面である。作品はサイズこそ違うが同じモティーフを表現していることは明らかだ。図版として掲げるとおりすべて画面全体にオールオーバーに広げられた曲線によって構成されている。このようなイメージからは誰もがたやすくポロックを連想するだろうし、ほかにも線的抽象を描く何人かの画家が連想されるかもしれない。しかしこの作品はいかなる意味においても抽象ではない。驚くべきことに、それは石原のまぎれもないセルフ・ポートレートなのだ。意味ありげなタイトルを参照するならば事情を理解することは困難ではない。「抜け落ちた髪の毛」とは石原のそれであり、線描と思われた無数の曲線は石原の身体から脱落した毛髪である。会場に置かれた解説はこのあたりの事情を次のように的確に説明している。「本展で石原友明は、Bathroom picture と題された一連のカンヴァス作品を展示する。主題は『自画像』である。これらの作品はカンヴァスにジェッソで下地を塗った後、特殊なインクで表面にプリントされている。 曲線によるモノクロームのドローイングに見える本シリーズは、作家自身の毛髪を集めてスキャニングしたものをベクタ形式のデータに変換(数値化)して、平面作品として構成したもの、つまりセルフ・ポートレートである」つまりこのイメージは浴室、おそらくはバスタブの中に残された自分の毛髪を一つの画面の中に配置し、スキャンして得られたものなのである。確かに画面に配置された線は連続することなく、多くが中断していている。さらによく見ると中断された端は微妙なふくらみを帯びており、それが毛根であることを暗示している。このような作品からは直ちにいくつもの美術史的記憶が喚起されるだろう。そもそもBathroom paintingというシリーズ名は先ほど亡くなった河原温の浴室シリーズを踏まえているだろうし、身体から廃棄された老廃物を作品化するという発想はアンディ・ウォーホルのピス・ペインティング(小便絵画)と同一だ。身体を一種のデータに変換して表象するという発想からはロバート・モリスの脳波絵画も連想されよう。
b0138838_173219.jpg 今回の発表には伏線がある。先の解説にも明記されていたが、ちょうど20年前の1994年、石原は「美術館で、盲人と、透明人間が出会ったと、せよ」というデュシャン風のタイトルをもつテクストを発表している。「見ることができるが見えない存在」と「見えないが見ることができる存在」のキアズム的な邂逅をつづった美しい文章であるが、そのテクストの中から今回の展示のために次のようなパッセージが引かれている。「透明になった自分から抜け落ちた髪が床に落ちる。からだから離れるとそれは徐々に透明でなくなっていった。そうして見えるものになり、死んで、もはや自分の一部ではなくなった髪を見つめるとなぜかそれこそが懐かしい自分自身の生きたからだを眼前するかのような反転した感覚にめまいするのだった」図版に掲げた私の手元にある同名のパンフレットの中にはこの一節が存在しないので、私はこの文章の出典を確認できずにいるが、このテクストにおいては見る/見えないという視覚的な問題ではなく、身体あるいは身体の残滓が問題とされている。写真を主たる媒体として用いながらも、しばしばオブジェとして作品を提示してきた石原にとって視覚と身体を往還することこそ作品の主題であり、かかる問題意識が現代美術の中核に位置していたことはあらためて指摘するまでもなかろう。
 さて、今日において遺棄された毛髪がなにかしらの意味を形作るとすれば、それは美術という領域ではない。それは犯罪捜査の場であり、犯行現場に残された証拠としての毛髪であるはずだ。何事かの結果、インデクス記号として毛髪は特異な位置を占める。私の毛髪とあなたの毛髪、肉眼つまり視覚によって両者を判別することは必ずしも容易ではない。しかし今やDNAの解析という手段を経て、かかる証拠物件はたやすく個人に同定される。美術史と犯罪捜査、実は両者は深い関係がある。ジョバンニ・モレッリとシャーロック・ホームズを引きながらロザリンド・クラウスは「もつれた髪の毛の塊」としてのポロックのポアリング絵画に言及していなかっただろうか。モレッリやホームズが視覚的に観察可能な手がかりから、多くアナログ的な手法によって(analogueには相似的という意味がある)証拠の背後の人物に迫るのに対して、石原が用いる毛髪とはDNA解析という非視覚的でデジタルな手法をとおして特定の個人と結びつく。ここにはきわめて興味深い逆説が存在する。すなわち先に述べたとおり、スキャンされた毛髪は現実の毛髪と毛根のふくらみまで一致する完璧なアイコン記号でありながら、そのアイコン性によっては意味を与えられず(例えば作品の中に石原以外の毛髪が混入していたとしても、イメージとして識別することは不可能である)、非視覚的な分析を経て初めてそれが表象する意味が明らかとされるのである。インデクスとしてのイメージ、聖骸布からウォーホルのピス・ペインティングにいたる、体液による一連の表現をこの作品の傍らに置く時、その批評的な位置は明らかといえよう。さらにサイズの問題についても石原の作品はきわめて興味深い問題を提起する。私はコンピュータ・グラフィクスには詳しくないため、解説の受け売りとなるが、この作品においてはベクタ形式のデータが用いられているらしい。ベクタとはjpegやtiff に類した画像処理のフォーマットであり、この形式を用いて画像を処理することによって「イメージを劣化させずにサイズを無限に拡大かつ縮小でき等身大という概念もなくなる」とのことである。ここで私たちは接触によって得られるインデクス記号の特質が実物大、等身大であったことを想起しよう。今挙げた聖骸布でもラウシェンバーグの自動車タイヤプリントでもよい。インデクス記号においてイメージは多く等身大、実物大として実現される。この意味において興味深い例は高松次郎が用いる「影」というインデクス記号であるが、ここでこれについて詳しく論じる余裕はない。石原の用いる毛髪というイメージは二つの意味を具備している。すなわちその起源(出所、犯人)との関係においてはインデクス記号であり、その形状(似姿、相似)においてはアイコン記号である。そしてベクタ形式で処理されたことによってサイズが非関与的な要素となっているのである。これに対して、石原のイメージの意味にとって関与的な要素はむしろイメージの形状ではないか。作品を注意深く眺めるならば一点だけ曲線の形状が異なる作品があることに気づく。ほかの作品が Bathroom picture というシリーズ名をもつのに対し、その作品は trim と題されている。いうまでもなくtrim とは刈り込むことであり、ほかの作品がバスタブに残された濡れた状態の毛髪をスキャンしているのに対して、trim は散髪直後の乾いた毛髪をスキャンしているのだ。trim の曲線が多く丸まった形状で表現されていることはこの点を暗示している。つまり両者のイメージの相違は、濡れた/乾燥した、あるいは脱落した/刈り込まれたという意味と対応しているのだ。
 毛髪のイメージは特殊なインクを用いてカンヴァスに定着されている。しばしば写真による表現を発表してきた石原がカンヴァスという支持体を用いた点は注目に値する。しかし過去を振り返るならば、この作品には先例が存在する。それは1989年頃に制作されたカンヴァスに感光乳剤を塗布して自身のヌードを転写した一連の作品である。複数のカンヴァスを螺旋状に積み上げた信濃橋画廊での発表は今も鮮明に脳裏に浮かぶ。この時、カンヴァスは皮膚のメタファーと考えられよう。この点は会場の解説も明確に論じている。「石原は、データとして変換された身体のパーツを改めて画布を張ったあるサイズのカンヴァスに定着させることで、『新しい皮膚と身体を与え再身体化』させるという」カンヴァスを皮膚と見立てる発想はさらに以前の皮革を用いた一連の立体作品に由来しているだろう。89年の仕事も身体を皮膚としての身体に定着させるという点において今回の作品と共通する。しかし前者において身体がきわめて視覚的に与えられ、接触を介した等身大のイメージであったのに対して、新作における身体は非視覚的であって、今述べたとおり最新の技術を用いることによってサイズは一定しない。アナログとデジタル、色彩とモノクローム、両者をめぐってはいくつかの対比を組織することが可能であろうし、毛髪が身体の一部であることを想起するならば、両者を隠喩と堤喩という記号論的な観点から分析することも可能であろうが、ひとまずここで留める。
 石原の新作は毛髪という身体の残滓を用いたセルフ・ポートレートであり、作家の身体はイメージからデータへ、アイコンからインデクスへ変換されている。それはテクノロジーを介在させた類像性批判とみなすこともできようし、今や身体性がデジタルなデータによって完全に管理されていることへの批判とみなすこともできよう。(モリスの脳波計ではないが、私たちは健康診断の際に渡されるデータの一覧として自身の身体を表象することさえできるのではないか)しかし最後に付け加えておかねばならないのは、石原の新作はかかる概念的、非視覚的な問題を提示しつつ、まず作品として強い強度を有しており、それゆえ圧倒的な印象を与える点である。しかもこの作品はこれまでの石原の探求の延長上にあり、抽象と具象、平面と立体、アナログとデジタルといった対立を巧妙にくぐりぬけながら、石原しか表現しえない新たな境地をみごとに示している。本稿では詳しく論じることができなかったが、この新作は先に言及した高松次郎の影と比較することによって、現代美術に対してさらに豊かな問題提起をなすことができるだろう。意図的に開催時期を合わせたか否かは定かでないが、石原の個展の会期中、高松のよくオーガナイズされた回顧展が竹橋で開かれている。私は石原の「毛髪」に高松の「影」がアップデイトされた姿を見る思いがした。せっかくの機会であるから両方を訪ねることをお勧めしたい。石原の個展は1月18日まで。会場は恵比寿のMEM。

by gravity97 | 2014-12-16 17:08 | 展覧会 | Comments(0)

「ウィレム・デ・クーニング展」

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 ブリヂストン美術館で「ウィレム・デ・クーニング展」が開催されている。デ・クーニングはポロックと並び称される抽象表現主義の巨匠であるが、印象派や近代日本画の上品なコレクションで知られるこの美術館で、ある意味で相当に悪趣味のデ・クーニングの展覧会が開催されるとはやや意外に思われる。現代美術を直接の対象とした展覧会は、以前このブログでも応接したアンフォルメルに関する展覧会以来であろうが、50年代から60年代にかけてブリヂストン美術館が現代美術とも深く関与したことを想起し、デ・クーニング自身もこの美術館を訪れた記録があると知ってようやく得心する。
 今回の展示の中心となるのはコロラド州、アスペンのパワーズ・コレクションに収められた作品群である。ジョンとキミコ、パワーズ夫妻によって収集された現代美術コレクションのクオリティーの高さはよく知られており、近年、国立新美術館でパワーズ・コレクションによる大がかりなポップ・アートの展覧会が開催されたことは記憶に新しい。このコレクションはポップ・アートとミニマル・アートの優品によって知られているから、デ・クーニングの作品がこれほど収められていたとは驚きである。サインとともにパワーズ夫妻への献辞が付された作品も散見され、作家とコレクターの親密な関係は明らかである。このほかに国内の美術館に所蔵されているデ・クーニングをほとんど借用して総数にして35点、二室を用いた展示は決して大規模ではないが、結果的に60年代のデ・クーニングに焦点がしぼられ、見応えがあるとともに、多くの問題に思いをめぐらす興味深い内容となっている。
 デ・クーニングに関しては1983年にホイットニー美術館ほかで、2011年にニューヨーク近代美術館で大規模な回顧展が開催されている。私はいずれも未見であるが、手元にあるカタログを参照する限りでは、今回の展覧会で展示された作品はいずれの展示にも出品されておらず、この意味においても貴重な機会といえよう。パワーズ夫妻は自分たちの邸宅に作品を展示していたとのことであり、このため比較的小品が多いが、作品の質は高い。50年代前半に制作された二点のドローイングを含め、ほとんど全ての作品において「女」が主題とされている点は興味深い。おそらくこの点は作品が集中的に収集された時期と関連しており、かかる選択にコレクターの趣味がどの程度反映されているかは微妙な問題であるが、これらの絵画を自宅の壁に掛けるにあたっては相当の神経が必要ではないか。これから論じる問題とも関わっているが、展示された作品は個人の住宅のリヴィングルームを飾るにはあまりにも生々しく感じられるのだ。この点はこれらの「女」たちを50年代に制作された「女」たちと比べると理解しやすい。最初キュビスムの影響を濃厚にとどめた独特の抽象絵画を携えて登場したデ・クーニングは1952年に現在ニューヨーク近代美術館に収蔵されている有名な《女Ⅰ》を発表して、大きなセンセーションを引き起こした。50年代前半には「女」と題された作品が多く制作され、「マリリン・モンロー」という固有名を与えられた「女」さえ存在する。この後、50年代後半に作家は再び抽象へと回帰し、激しいストロークが刻まれ、多く風景のコノテーションを有する絵画を制作した。絵画を生の方法(way of living)と断じるデ・クーニングにとって、具象/抽象という区別は大きな意味をもたず、このような転回はさほど重要ではない。むしろ50年代の「女」たちと60年代の「女」たちの区別こそ注目に値する。50年代の「女」たちはなおも女性像としての結構を有していた。具体的には目や口(しばしばむき出しの歯として表現される)、乳房や手足が凶暴なストロークとともに描きこまれ、たとえ彼女たちが「醜悪の使徒」であろうとも、女性が描かれていることは理解できる。これに対してやはり激しいストロークで描かれた60年代の「女」たちは風景の中に溶け込んだかのようだ。この時期の作品において50年代に時を追って探求された二つの主題、女性像と風景のイメージが統合されたと考えることは不可能ではない。実際にいくつかの作品には《風景の中の女》あるいは《水の中の女》といったタイトルが付されている。風景と女性、あるいは水面と女性といったモティーフからは古今の名画の系譜がたどれる。「私の絵画は多くが他者の絵画から来る」と説くデ・クーニングがヴェネツィア派からフランドル絵画にいたる様々な絵画からインスピレーションを得たことは明らかだ。インタビューの中ではキミコ・パワーズが「絵画同様に完成することのない」アトリエのために準備されたドアのフォーマットをデ・クーニングが気に入って、しばしばそのサイズで作品を制作したという興味深い証言を残している。確かに出品された作品はかなり縦長のフォーマットが多く、直立する人物を描くには好都合であるから、支持体のフォーマットがなんらかのかたちでイメージを規定した可能性はある。今回の出品作が制作される直前、1960年に《Door to the River》といった抽象表現による傑作が残されていることも考慮するならば、デ・クーニングとドアという問題は一つの研究の主題となりうるかもしれないが、ひとまずは措く。
 このレヴューにおいて私が注目するのは風景の中に溶解するがごとき60年代の女たちにおいて、女性性の象徴のごとく反復される一つの記号が確認できることである。それは唇のイメージだ。今回出品された多様な女性像において唯一共通するのは赤く塗られた唇であり、時に《歌う女》のごとく口を開き、木炭画や版画においては唯一の色彩が与えられた場として画面の焦点をかたちづくっている。唇に関しては50年代の「女」たちとは興味深い対照が認められる。先にも触れたとおり、50年代の「女」において、女たちの口がむき出しの歯として描かれることは《女Ⅰ》に典型的にみられるとおりだ。女たちは多くの場合、英語であればgrinと表現されるであろう、にやにや笑いを浮かべている。しかし60年代の女たちは歯が描かれることがない。今、私はニューヨーク近代美術館の分厚いカタログを参照してみたが、このような対比は今回の出品作のみならず二つの時期に描かれた「女」たちにほぼあてはまる。かかる変化は何を意味するのか。ひとまず私は二つの仮説を提起しておこう。一つは歯ではなく唇を描くことによって接触性が強く喚起される点だ。私たちにもっとも身近な唇のイメージはキスマークであり、リップスティックを塗った唇を何かに押し当てることによって得られるイメージであり、かかるインデクス的なイメージは物理的な接触を前提としている。デ・クーニングは実際に妻エレーヌの唇を押し当てて描いたいくつかのドローイングを残しており、あたかもイヴ・クラインの「人体測定」のフェティシズム版であるかのようだ。実際、唇というモティーフはデ・クーニングにおいてフェティシズムの問題とも絡めて検証可能かもしれないが、これについても今後検証されるべき課題として指摘するに留める。これに対して歯は接触的ではない。なぜならば、人は歯をみせた状態で唇のイメージを転写することができないからだ。デ・クーニングの初期の抽象絵画にも歯のような形状がしばしば認められる。明らかにピカソとキュビスムを経由するこれらの形態は60年代には一掃される。そしてこの問題とも関わる点であるが、唇のイメージが喚起する二番目の意味とは端的に女性器である。歯の生えた性器、ヴァギナ・デンタタとは精神分析の領域で提起された概念であり、シュルレアリスムあるいはポロックの精神分析ドローイングなどに頻出するイメージである。デ・クーニングの場合、女たちが歯を失うことによって、唇は性器というダブル・ミーニングを得たのである。人体において女性器ほど触覚的な器官は存在しないだろう。したがってこの点も60年代のデ・クーニングの女性像が本質において触覚的であることを暗示している。
 さらにここでは十分に検討する余裕がないが、絵画の触覚性に関連して指摘すべきは、この時期、デ・クーニングが多くのコラージュの実験を重ねていることである。私も会場で作品を実見して驚いたのであるが、《サッグ・ハーバー》という作品にはマスキングテープが貼りつけられたままであり、《リーグ》という作品ではイメージの基底に新聞紙が貼られ、絵具の間に垣間見える LEAGUE という文字が作品タイトルの由来となっている。実際にコラージュはこの作家が多用した技法であり、初期作品以来、多くの作品に認められるコラージュの重要性について既に多くの研究者が指摘している。ここで初期の抽象絵画においてキュビスム、それもピカソの分析的キュビスムの影響が濃厚であった点を想起しよう。ウィリアム・ルービンはポロックの絵画の展開を総合的キュビスムから分析的キュビスムへの遡行として位置づけたが、デ・クーニングにおいては分析的キュビスムから総合的キュビスムという展開が反復されている。ただしデ・クーニングの場合、今述べたとおりコラージュ技法の導入は比較的早い時期から認められ、総合的キュビスムにおける現実との接点の回復という意味は認められない。異素材は時に激しいアクションを受け止める抵抗として、時にイメージを物理的に切断する手法として導入されており、いずれの場合もイメージは視覚ではなく触覚、端的に手と結びついている。
手や触覚と結びついたイメージ。私たちは60年代の「女」たちを「手によって塗りたくられたイメージ」と表現することができるかもしれない。それは50年代の「女」たちがなおも視覚的な再現性を留保していたことと対照的である。ここで視覚と触覚を対比させていることは意図的であり、この問題は例えばアクション・ペインティングとカラーフィールド・ペインティングの対比といった抽象表現主義全体に応用することも可能であろう。しかし私はむしろデ・クーニングの女たちをもう一つの人間のイメージと比較したいのである。b0138838_20221828.jpgフォートリエの「人質」だ。それはたまたまブリヂストン美術館を訪ねた翌日、大阪でフォートリエ展に足を運んだことにも由来しているかもしれない。抽象表現に関心を示さなかったフォートリエと抽象と具象を往還するデ・クーニングが資質において大いに異なることはいうまでもない。しかしながら私は戦後美術の二人の巨匠が人間をともに「塗りたくられた絵具の痕跡」として表現した点に関心をもつ。(ちなみにフォートリエも技法に強い関心をもっており、さらに二人が制作した彫刻を通してもこの問題は検証可能かもしれない)そこには人間観の決定的な変質が兆しているのではないだろうか。正確に述べるならば人間をもはや「塗りたくられた絵具の痕跡」としてしか表現しえなくなった状況とはいかなるものであるか。第二次大戦中、レジスタンスたちが銃殺される情景から着想されたという「人質」であればこの点は理解しやすい。しかし60年代にデ・クーニングが描いた女性像がかくも触覚的、物質的な印象を与えたのはなぜであろうか。私はこれらの絵画から「肉」を強く連想した。暖色を中心にした色彩、輪郭のはっきりしない形状、そして何よりも唇/性器の存在感がこのような印象に大いに与っている。最初に私はこれらの絵画を自宅に飾ることへの異和感を指摘したが、それがこのような印象と関わっていることはいうまでもない。絵画と視覚という問題はフォーマリズムに連なる論者を得て戦後美術における重要な主題系をかたちづくった。これに対して絵画と触覚という問題は今日にいたるまで十分に究明されていない。触覚の絵画の系譜は50年代の広義のアンフォルメル、あるいは具体美術協会の絵画を経て、ミニマル・ペインティング、そしてニューペイティングまでの広がりを有している。これらの絵画は体系的に記述されたことがないし、記述の方法も確立されていないが、例えば「アンフォルム」といった作業仮説を得て、近年、再び注目を浴びていることは知られているとおりだ。この系譜の中でもデ・クーニングの異質さは際立っている。今まで論じたとおり、60年代のデ・クーニングは「女」の「肉」というきわめて特異なモティーフによってこの系譜に応接する。私は当時男性誌に掲載されていたピンナップ・ヌード、あるいはリップスティックの広告といったマス・イメージと関連させて社会学的な視点からこの問題を考察することが可能であろうと考える。そこには当然ジェンダーや階級性の問題が持ち込まれるだろう。かくのごとく、この展覧会に並べられたデ・クーニングの絵画が指し示す問題の射程は広く、きわめて今日的である。しかしながらあまりにも多くの問題が未解明のまま残されているのだ。

by gravity97 | 2014-11-09 20:30 | 展覧会 | Comments(0)

「横浜トリエンナーレ2014」

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 横浜に五回目となる横浜トリエンナーレを訪ねる。今回のアーティスティック・ディレクターは森村泰昌が務めている。作家がディレクターの役割を果たすのは第二回の川俣正以来、二回目となる。川俣の場合は当初のディレクターに予定されていた磯崎新が降板するというアクシデントを受けての着任であったが、今回のディレクターは数年前から予告されていたから、森村は万全の態勢で準備に望んだはずだ。期待どおりの素晴らしい展示であった。これまで私はこのトリエンナーレを全て訪れている。どの回もそれなりに充実しており、甲乙つけがたい印象があるが、逆にいえば突出して素晴らしい展示もなかった。これは組織化された大展覧会の宿命といえるかもしれない。ところが、今回のトリエンナーレの展示の特異さと充実に私は圧倒される思いであった。これはきわめて単純な理由による。ディレクターである森村の意向が展覧会の隅々にまで反映され、きわめて個人的な思い入れによって構成された展覧会でありながら、その批評性が普遍的なレヴェルに達しているのだ。
 展覧会のテーマはいつになく文学的だ。「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」。「華氏451」とはいうまでもなくレイ・ブラッドベリのディストピア小説のタイトルだ。華氏451度とは紙が自然発火する温度であり、この小説に描かれる全体主義国家では書物が禁じられている。主人公は書物を焼くことを職務とする「ファイアマン」であるが、一人の女性と知り合うことによって焚書に疑問をもち、社会から追われていく。最初にこのテーマを聞いた際には、かかる特殊なテーマを国際展の中に取り入れことが果たして可能か、少々不安に感じたが、展覧会を訪れると直ちに疑問は解消された。この小説から導かれる検閲や焚書、沈黙、忘却あるいは炎といった主題は展示の中で幾度も繰り返されて展覧会の通奏低音を形成し、結果としてこの展覧会は私たちが現在直面する状況を審美的なレヴェルのみならず社会的なレヴェルにおいても問い直しているのだ。このレヴューを執筆している最中に日本でも進歩的とみなされてきた新聞が自らに批判的な記事を署名原稿であるにもかかわらず掲載拒否したという報に接した。私たちが現在の憲法のもとで当然の権利と考えていた表現の自由さえもかくもたやすく奪われることを知るならば、この展覧会のテーマは実にアクチュアルである。(ガイドブックの末尾に記されたこの展覧会の「名誉会長」として悪名高きNHKの会長、そして先日なんともぶざまな謝罪会見を行った朝日新聞の社長の名が並んでクレジットされていることに、私はブラックユーモアを通り越して不気味さすら感じた)そしてそれが最新の表現ばかりでなく、この半世紀の間に発表された日本と欧米の多様な表現、時に驚くべき作家をとおして表明されることに私は新鮮な感慨を覚えたのだ。
 もしこれから展覧会を訪れるとすれば、構成に従って、つまり二つの会場のうち、横浜美術館から始めることをお勧めする。展示自体が一つの脈絡をもった物語を構成しているため、新港ピア会場から始めると小説を途中から読むようなぎこちなさを味わってしまうだろう。横浜美術館の展示の劈頭において私たちは沈黙に迎えられる。マレーヴィッチの絶対絵画とジョン・ケージの「4分33秒」の楽譜とはこの展覧会にとって完璧なイントロダクションではないか。すでにいくつかのレヴューでも指摘されているとおり、かかる導入は横浜トリエンナーレのごとき展覧会においては通常ありえない。このような展覧会に求められるのは祝祭性であるからだ。引き続き、私にとって未知の作家であったジョシュ・スミス、そしてアグネス・マーティンから村上友晴にいたるミニマリズムの絵画、モノクロームで表現性を欠いた沈黙の絵画が続く。冒頭にかくも禁欲的な作品を配置した点にディレクターたる森村の暗黙の意志、すなわちこのトリエンナーレを通常のそれとは全く異なった、いわば反トリエンナーレとして実現しようとする思いは明らかである。ディレクターの意向がどの程度反映されるか、あるいは作家の選定にあたって展覧会のアソシエイトたちといかなる協議がなされたか不明であるとはいえ、明らかに今回のトリエンナーレは従来の予定調和を目指していない。早くも導入部においてディレクターのかかる決意を感じた私は襟を正して次のパート、「釜ヶ崎芸術大学」に向かった。このパートの背景を理解することは容易だ。かつて「なにものかへのレクイエム」と題された森村の個展を見た私にとって、森村がレーニンに扮して西成で演じた《なにものかへのレクイエム(夜のウラジミール)》の前景にたむろする労務者たちが「釜ヶ崎芸術大学」の構成員であることはたやすく了解された。ここでも祝祭性を否定し、文字を覚えることから始める未組織労働者の「芸術」に焦点をあてた展示は濃厚な社会性とともに、文字が文字として認識されない「華氏451度」の世界の一つのメタファーを提起している。続く展示も刺激的だ。オーウェルの「1984年」から「華氏451度」までディストピアとはメディアが果たすべき機能を失った世界の物語であり、それゆえ私はそれがまさに現在の日本の暗喩であるとも感じるのだが、続く展示に配されるのはTVというメディアの暴力性を扱ったポップ・アートの陰画、エドワルルド・キーンホルツのTV受像機をモティーフとした作品や鏡文字で印刷された「華氏451度」のペーパーバックを台の上に山積みしたドラ・ガルシアの作品であり、バーミヤンの破壊された石仏と爆撃によって燃やされたカッセルの図書館を結びつけるマイケル・ラコウィッツという作家の作品である。このセクションは「第3話 華氏451はいかに芸術にあらわれたか」と題され、無名作家とよく知られた作家を取り混ぜながら、展覧会のテーマを明確に反映している。そしてこのセクションで最も挑発的な展示は第二次大戦中、多くの文学者が著した翼賛的な文芸書を集めた「大谷芳久コレクション」であろう。そこには野口米次郎から瀧口修造にいたる意外な名前が認められる。戦争記録画は今日に伝えられているが、これらの書籍を今日目にすることは難しい。なぜならここに展示された書籍はそれぞれの著者にとって焚書に付されるべき過去の汚点であるからだ。対比的に松本竣介の家族に宛てた私信が展示されていたが、両者を単純に色分けすることが目指されていたわけではないだろう。存在してはならない書物とはまことに「華氏451度」的なテーマではないか。
b0138838_2182556.jpg 横浜美術館の展示の後半はややテーマ性を離れ、芸術家の作家性とでも呼ぶべき主題をめぐっている。FRPによって成形されたバルーンと「何もすることがない」という言葉がぎっしり繰り返されたドローイング、福岡道雄による二種類の作品は象徴的な導入といえよう。それにしても現代美術の最先端を紹介する展覧会に福岡が1960年代に制作した作品を展示するセンスはただものではないし、さらに驚くべきことに福岡の作品は時代のカッティングエッジを構成する作品と一緒に並べられてもなんら遜色がないのだ。そして関西の80年代の美術に親しんだ私にとって、この展覧会からは先鋭さとともに大いに懐かしさも感じられたのだ。b0138838_21101234.jpg「第5話 非人称の漂流」というセクションは1980年代、毎年春先に開かれていた京都アンデパンダン展において林剛と中塚裕子が一室を全て用いて発表していた「Court」という一連のインスタレーションの「再現」である。どのような経緯でこれらのインスタレーションが展示に加えられたかはわからないが、これらの作品と先般、京都国立近代美術館で小さな回顧展が開催されたヨシダミノルの作品、というよりヨシダの一家が会期中、美術館の中で生活するというハプニングは、京都アンデパンダン展の名物とも呼ぶべきおなじみの風景であった。森村は松井智恵ややなぎみわといった作家と親交があり、さらにこのセクションの副題として用いられている「Still Moving」あるいは「第二話」のタイトルに掲げられた「漂流する教室」といったキーワードからは、現在、京都で京都国際現代芸術祭を準備している河本信治が京都国立近代美術館在職中に企画したいくつかの展覧会が想起される。今回のトリエンナーレには国際性と現在性の傍らに、森村のバックグラウンドである関西の地域性と80年代の時代精神が絶妙に同居し、ことに私のような者は大いに楽しめた。しかしそれらの作家やキーワードはお友達の紹介や引用ではなく、展示構成の中に必然性をもって配置され、みごとな効果を上げている。これまでの横浜トリエンナーレにおいて作家の選択はある程度中立的な印象を与えた。それは何人かのディレクターやキューレーターの合議で決定される以上、当然なのであろうが、今回の作家と作品の選択には森村の強い思い入れが感じられ、美術の最前線を見せる国際展というよりもよく考え抜かれたテーマ展を見るような驚きが随所に散りばめられているのである。このような驚きと楽しみは連絡バスに乗って向かった第二会場の新港ピアにおいても強められることはあっても裏切られることはない。
 新港ピアの会場入口、「第11話 忘却の海に漂う」のセクションの冒頭にはやなぎみわが台湾で購入したという特注のトレーラー、移動舞台車が置かれている。やなぎは近年、演劇に傾斜し、いくつかの公演についてはこのブログでも触れた。今回はいわば新作の舞台装置の展示である。トレーラーが導入されたことには理由がある。やなぎが予定している新作とは中上健次の「日輪の翼」であり、この小説では七人の老婆たちを乗せ、二人の若衆が運転するトレーラーが熊野から皇居にいたる聖地を巡礼する。今回の展示を見て新作への期待は増すばかりである。新港ピアではジェンダーや民族といった問題も緩やかに射程に収められている。「日輪の翼」の最後で老婆たちは何処ともなく消えていくが、友人の祖母が残したセミヌードをめぐる消滅と忘却、記憶と虚構といった問題をアーカイヴの手法で作品化したベイルートのアクラム・ザタリの作品も本展のテーマを深く内面化している。あるいはメルヴィン・モティというオランダの作家はエルミタージュ美術館の作品が戦時中、館外へ疎開したという史実を背景に、作品が展示されていないエルミタージュ美術館のギャラリーツアーを上映する。ここでは焚書ならぬイコノクラスムがテーマとされている。そしてその傍らには地面に横たわる人体状のオブジェが燃やされるアナ・メンディエッタの「シルエッタ」が上映されているのだ。この展示において「華氏451度」の暗示するテーマが様々に変奏されつつ、地下水脈のごとくいたるところで出現する点がおわかりいただけるだろう。燃え上がる炎のモティーフに対しては、忘却の海、水平の海のイメージが対置される。順序が逆になったが「第10話 洪水のあと」は今年第5回展が開催される福岡アジア美術トリエンナーレと連携し、過去にこの展覧会に出品したアジアの作家の作品が紹介されている。私はここに展示された作品のレヴェルの高さに驚いた。特に映像作品が素晴らしい。バングラデシュ、チッタゴンの海上で巨大な船舶を有毒物質に対する防御手段を一切講じないまま素手で解体する人々を映し出すヤスミン・コビールの映像、そして閉鎖された工場の廃墟で清掃作業を続ける女性工員たちを記録したチェン・ジェレンの作品は釜ヶ崎から南西アジアまで広がる貪欲な資本主義社会への抵抗という意味において「釜ヶ崎芸術大学」に呼応し、さらにそこで繰り広げられる労働者たちの苛酷な仕事ぶりは、やはり横浜美術館に展示されていた美術家たちの「たった独りで世界と格闘する重労働」とも鋭い対比を示している。横浜美術館でバルーンにぶら下がっていた福岡道雄の姿と、100人の労働者と相撲をとって負け続けるハァ・ユンチャの姿からはいずれも美術という営みを相対化する批評的なユーモアが感じられるのではないだろうか。キム・ソンヨンが撮影した玄界灘の不穏な海の情景に始まるこのセクションは、燃料切れのヘリコプターが次々に墜落する黙示録的光景(いうまでもなくベトナム戦争末期の象徴的な情景だ)で幕を閉じる。ディン・キュー・レの作品においてもヘリコプターを呑み込むのは静かに広がる海であり、展示全体が「忘却の海」を暗示していることが理解されよう。
 さらに私が感銘を受けたのはこの展示の中でこれまで日本の美術館においても相応の検証がなされていない二人の作家についてテーマと関連させながら回顧的な紹介がなされていたことである。殿敷侃と松澤宥である。日本では珍しいアースワーク的な広がりをもったプロジェクトを展開した殿敷と、日本的な概念芸術の一類型を提起した松澤。殿敷は活動時には美術雑誌等でしばしば作品を目にしていたが、早世したこともあり、作品をまとめて見る機会はこれまでほとんどなかった。今回は映像によっていくつかのプロジェクトが紹介されていた。作家の介入(労働)を介して物体が作品へと変わるという発想は横に展示されていたジャック・ゴールドスタインの映像とも呼応しているだろう。松澤宥については確か以前に川口現代美術館で回顧展が開かれたと記憶しており、作家自らが白い装束をまとって執り行う儀式もどこかで見た覚えがある。確かに忘却や消滅は松澤が多用するキーワードであるが、「オブジェを消せ」という啓示を受けた作家が情念的なオブジェや以前の展覧会で使用された品々をこれほど残していたとは知らなかった。松澤の作品は私のテイストとは相容れないが、今後検証されるうえで大きな手がかりとなる展示であり、この展覧会では本来美術館においてなされるべき作業も行われている。そしてそれがあくまでもテーマとの関連において要請されている点には留意する必要がある。
 論じるべき作家や作品はまだ多く残されているが、ひとまず私は今回の展覧会を一望した。国際展をこのように一つの文脈の中に論じることは通常ありえない。なぜなら先にものべたとおりこのような国際展においては表現のカッティングエッジを紹介することが求められており、選ばれる作品に統一的な脈絡など初めから求められていいないからだ。このブログを書き始めてからも何度か訪れたにもかかわらず、私はこのトリエンナーレをレヴューしようと思ったことはない。「メガ・ウェイヴ」、「アートサーカス」、「タイムクレヴァス」そして「アワ・マジック・アワー」、これまでのテーマを並べるならばいずれも抽象的でそれゆえいかなる作品も包含可能であることがわかる。これに対して今回の展示を特徴づけるのは、文学的かつ切迫したテーマ性であり、このテーマに基づいて選び抜かれた作家とよく練られた展示構成である。今述べたとおり、この展示をめぐるならばいくつかのモティーフと関連した作品が相互にゆるやかな関係を保ち、時に思いがけない関係を結びながら随所に配されていることが理解される。このような体験に類した展覧会として、私は例えばこのブログでも論じた2007年、ヴェネツィアにおける「アルテンポ」を想起する。ヴェネツィア・ビエンナーレと併催されながらも、むしろ博物学的な現代美術展において展示された作品は相互に不思議な関係を結んでいた。思い起こせば、私が森村の「荒ぶる神々の黄昏」と題されたシリーズを最初に見たのも、同じ折、サンマルコ広場の近くのギャラリーであったから、もしかすると森村も「アルテンポ」を見ていたかもしれない。「アルテンポ」が今回の展示にインスピレーションを与えたということは果たしてありうるだろうか。
 横浜トリエンナーレは今後も開かれるだろう。しかしおそらく今回ほど刺激的な展示に出会うことは二度とあるまい。今回の展示は国際展の常識をことごとく外している。「横浜トリエンナーレ2014」とは森村という傑出した才能が、国際展という枠組を借りて、現在私たちを取り巻く状況に対して、他者の作品によって批評を加えるというまことに贅沢な、おそらくは空前絶後の試みなのだ。

by gravity97 | 2014-09-15 21:16 | 展覧会 | Comments(1)

「OTHER PRIMARY STRUCTURES」

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 先般、昨年ヴェネツィアで開催された1969年、ハロルド・ゼーマンの「態度がかたちになる時」の再現展示について論じた。こういった展覧会が流行っているのであろうか、今度はニューヨークのジューイッシュ美術館で1966年に開かれた「Primary Structures」が同じ会場で「Other Primary Structures」として「再現」された。展示は今月の初めに終了し、私は未見であるが、カタログを取り寄せ、インターネットで関連情報を検索したところ、なかなか興味深い展覧会であることが理解された。
 オリジナルの「Primary Structures」はジューイッシュ美術館のキューレーター、キーナストン・マクシャインによって企画された大展覧会で「若いアメリカとイギリスの彫刻家たち」というサブタイトルが付されていた。primary structure とは基本構造とでも訳すのであろうか、単純な形態の無機的な抽象彫刻を集めた展示であることを暗示している。今日、この展覧会はミニマル・アートの最初のデモンストレーションとみなされているが、事情はそれほど単純ではない。出品しながらもロバート・モリスやドナルド・ジャッドは当時においてこの展覧会への反発を語っているし、実際に出品作品を参照するならば、一見してミニマル・アートと了解される作品はさほど多くない。展示空間を作品の函数とするミニマル・アートは作品そのものより設置された状況を検証する必要があるが、近年発表された、例えばジェームス・マイヤーの「minimalism : art and polemics in the sixties」のごとき研究書には当時の展覧会風景が記録された写真が多数収録されており、このような作業は比較的容易になった。上に示したとおり、今回の展覧会カタログは二分冊というか、再発行された66年の展覧会カタログも付されている。このカタログを入手できずにいた私としては今回のリイシューは大いにありがたい。2冊のうち左側が「Primary Structures」のカタログであり、今回の展覧会カタログがこのフォーマットを踏襲していることも理解されよう。ないものねだりを承知のうえで言うならば、カラー図版であればなおよかった。しばしば指摘されるとおり、Primary Structuresの特質は形態とともに色彩にも認められ、多くの場合、派手な色によって表面が彩色されているからだ。東野芳明は「女が彫刻を叩くとき 色彩彫刻の新しい波」というテクストでこの展覧会をレヴューし、この展覧会に出品された作品の特質を台座の不在、工業用素材の使用、単純な形態の使用、そして鮮やかな色彩の四点にまとめている。東野らしい的確な要約である。一方、クレメント・グリーンバーグは早くも1949年に発表した「新しい彫刻」において来るべき彫刻の特性として「蜃気楼のごとく、形も重みもなく、ただ視覚的に存在する」ことを挙げているが、これらの彩色彫刻はこの言葉に対応するかのようだ。展覧会の入り口にはアンソニー・カロの《タイタン》が置かれている。カロはイギリスでヘンリー・ムーアの助手を務め、アメリカではデヴィッド・スミスと親交があったからこの展覧会の出発点として象徴的である。先に述べたとおり、この展覧会にはイギリスとアメリカの若い世代の作家たちが出品しているが、今回あらためてカタログに掲載された図版を参照するならば国籍によって作風の違いがかなり明確であるように感じられる。先ほど出品されている作品が単純で無機的と述べたが、実はかなりの数の作品が単純でも無機的でもないのだ。多くの金属彫刻が有機的なシルエットをもち、複雑な構造を呈している。それらはしばしば人体を喚起し、多くはイギリスの、今や名を知られることもない彫刻家の作品である。工業用素材を用いた単純な形態の立体がなお横たわる人やうずくまる人の暗示を伴っている点に彫刻における人体イメージの潜在力を感じるのは私だけではなかろう。これに対して、アメリカの作家たち、特に後にミニマル・アートと呼ばれる動向を推進した作家たちの作品は人体への連想を断ち切っている。おそらくここに非人間的な美術としてのミニマル・アートの独自性がある。ヨーロッパ美術のヒューマニズムを可能性ではなく限界と読み代えることによって戦後のアメリカ美術は現代美術の前線を広げたのである。(知られているとおり、マイケル・フリードは非擬人的とみなされたミニマル・アートに一種の演劇性を認めて批判を加えているが、ここではこれ以上議論を敷衍することは控える)絵画において抽象表現主義が同時代のフランス絵画に対して優越を示したように、彫刻においても同時代のイギリスの若い作家たちとの比較を通してアメリカ美術の特異さを誇示することがこの展覧会の意図であったとするならば、陳列された作品の寡黙とはうらはらにこの展覧会が秘めたしたたかな政治性も明らかである。
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 ただしここは「Primary Structure」について語る場ではない。もう一度、「Other Primary Structure」に目を転じよう。この展覧会を企画したのはジェンス・ホフマン、記憶にある名前だ。「態度がかたちになる時」に関しては先に述べたとおり、ジェルマーノ・チェラントによって2013年、ヴェネツィアで再現されているが、これに先んじて若手作家によってこの展覧会をアップデートする試みがなされた。サンフランシスコとデトロイトを巡回した「When Attitude Became Form Become Attitude」と題された展示については、先にチェラントの展覧会についてこのブログで論じた際にも触れた。この展覧会を企画したのがジェンス・ホフマンであり、確かにこの展示と「Other Primary Structures」は発想が似ている。カタログに寄せたテクストによれば、ホフマンが過去の展覧会を再構成するという手法の可能性に想到したのは、1991年にLAのカウンティーミュージアムで企画された「退廃芸術展」を見た際であったという。次いでホフマンは「態度がかたちになる時」をめぐる一連の再構成の試みについて触れた後、今回の試みについて説明している。3月から8月までの会期は、前半のOthers 1と後半のOthers 2という二つのパートに分けられ、いずれも15名前後の作家が出品している。作家の分類はほぼ機械的である。つまり出品作品は1960年から69年までの60年代をカヴァーしており、1966年に開催された「Primary Structures」によってこのディケイドはほぼ二分されている。Others 1 は60年代前半、Others 2は60年代後半に発表された作品によってそれぞれ構成されている。しかし展覧会は「Primary Structures」に影響を与えた作品群とそこから影響を受けた作品群といった文脈を形成することはない。それどころか、ここに集められた作品はいずれも「Primary Structures」で展示されていたとしても大きな違和感を与えないのだ。これは何を意味するか。「Primary Structures」に展示された作品はイギリスとアメリカという国籍の限定を受けている。つまり「Other Primary Structures」の出品作はほぼ同じ時代にあって、ほかの地域で制作された同様の傾向をもつ作品を紹介する展覧会なのである。ホフマン自身、次のように記している。「タイトルにあるotherは二つの意味をもっている。一つは文字通り、追加的とかさらに多くの作品を見せるという意味である。二番目はポストコロニアル的な意味における『他者』、すなわち西欧の優勢な美術史学的な正典(キャノン)において周縁化され、抑圧されてきた多くの文化的、民族的、あるいは政治的グループとしての『他者』を喚起する意味である」いうまでもなくここで重要なのは二番目の意味だ。美術の脱中心化という発想から私が連想するのは1999年にクイーンズ・ミュージアムで開かれた「グローバル・コンセプチュアリズム」である。points of origin というサブタイトルの複数形が暗示するとおり、この展覧会では日本を含む世界各地にコンセンプチュアル・アートの起源を求め、系統樹ではなく同時発生としての美術史を構築することが試みられていた。このような傾向は90年代以降顕著であり、私は同様に同時性、あるいはグローバリズムをテーマにした国際展をいくつも思い浮かべることができる。チェラントによる「態度がかたちになる時」の目的が69年の展覧会に実際に展示された作品を可能な限り集めて展示を再現することであったの対し、この展示の目的は文字通り「別のプライマリー・ストラクチュアズ」を提示することにある。b0138838_114620.jpg最初に述べたとおり、私は今回の展示を見ていないが、ジューイッシュ美術館のHPを確認するならば、実際の展示では精密に作られた当時の美術館の建築模型の中に66年に展示された作品がミニチュアで配されて展示の再現が図られる一方で、展示室内には今回の出品作の背後に前回の会場写真が大きく引き伸ばされて展示され、いわば展示が二重化されていたようである。このような展示の意図は明らかだ。今回の出品作と前回の出品作が互いに似ていることを示して、文字通りOther Primary Structuresの可能性を示唆しているのだ。
 あえてここで具体的な作品を挙げることはしない。代わりに作家の国籍を示そう。パキスタン、アルゼンチン、ブラジル、レバノン、イスラエル、ベネズエラ、日本、クロアチア、ポーランド、フィリピンそして韓国、みごとに第三世界を中心としたラインナップではないか。何人かの作家については私も知っていた。例えばブラジルのリジア・クラークとヘリオ・オイティシカ、フィリピンのデヴィッド・メデラ。ただ私はこれらの選択になんとも政治的というか、端的に商業的なセンスを感じてしまうのだ。出品作家が比較的少なく、知られていない作家が多いといった事情もあろうが、出品に際しては特定のギャラリーが介在している場合が多く、所蔵しているコレクターも限られている。日本についてはもの派と関連する作家、吉田克朗、小清水漸、関根伸夫、管木志雄、高松次郎、李禹煥が出品している。高松次郎の《ネットの弛み》がプライマリー・ストラクチュアと関係しているか否かについてはここでは論じない。しかし数年前からのニューヨークの「もの派」ブームに便乗して、現地でおなじみの作家をポストコロニアリズムの傍証として動員した印象が拭えないのだ。おそらく同じ時代に単純な形態、工業用素材の使用、表面への彩色といった特性を有する作家はヨーロッパにも多くいたはずだ。(ちなみにこれらの要件は多くもの派にはあてはまらない)しかしこの展覧会では彼らを排除し、ポストコロニアル体制下の「プライマリー・ストラクチュア」を捏造するためにあらためてこれらの作家が召喚されたのではないか。私はこのような恣意性には与することができない。さらに意地の悪い見方をするならば、私は今回の作家と作品の選定にマーケットの要請が関わっている気がするのだ。「態度がかたちになる時」に出品された作品の多くがその場限りの展示であって、保存や売買が困難であったのに対して、(再制作も数点含まれているとはいえ)「Primary Structures」周辺の作品、非欧米に由来する実体的な作品は新しい市場をかたちづくる。近年の具体美術協会の絵画の異常な高騰を想起してもよい。私にとって今回の展覧会はポストコロニアリズムが文化において一つの正義となることの危うさを物語っているように感じられた。

24/08/14追記
MOMAのカレンダーを確認したところ、リジア・クラークの展覧会が5月から本日まで開催されていたことを知った。具体やもの派もそうであったが、新奇な売れ筋を求めて、最近のニューヨークのアート・マーケットの「選択と集中」にうんざりするのは私だけであろうか。

by gravity97 | 2014-08-17 11:07 | 展覧会 | Comments(0)

「官展にみる近代美術」

 
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  早いうちに見て、もっと早くレヴューしておくべきであったと悔やまれる展覧会が神戸で開かれていた。福岡、府中、神戸と三つの美術館を巡回した「官展にみる近代美術」である。既に終了しているので事後報告となるが、地味ではあってもきわめて重要な展覧会であったと感じられる。私は官展にも、「植民地の美術」にも全く疎いから、適切な批評ができるか心もとないが、少なくともこの展覧会について何かしらの感想を文字として残す必要を感じる。
 展覧会のタイトルの上に四つの都市の名前が重ねられる。東京、ソウル、台北、長春。東京はともかく、残りの四つの都市は韓国(旧朝鮮)、台湾、満州国という日本によって統治されていた国の首都であり、このうち中国東北部に存在した満州国は今はない。出品リストを参照するならば最も古い作品は1909年、新しい作品は1945年に制作されている。カタログに付された年表の上限は1889年、下限は1947年である。1989年とは大日本帝国憲法が発布され、東京美術学校が開設されたというこの展覧会にとってメルクマールとなる年であるが、下限としては第二次世界大戦終結の2年後が設定されている。あらかじめこのように空間と時間を限定したうえで本展のテーマとして設定されたのはタイトルに示されたとおり、国家によって組織された公募美術展、官展である。舞台が四つあるから、当然ながら官展も四つの名前をもつ。すなわち東京においては「文部省美術展覧会」もしくは「帝国美術院展覧会」であり、それぞれ文展、帝展と略称された。朝鮮では「朝鮮美術展覧会」、台湾では「台湾美術展覧会」そして満州国では「満州国美術展覧会」。それぞれの地域で第一回展が開かれたのはそれぞれ1922年、27年、37年であり、それはこれらの地域が大日本帝国の版図に組み入れられた時期を暗示しているだろう。これらの展覧会名が韻を踏んでいることも当然である。これらの展覧会は日本の植民地政策の一環、一種の宣撫工作として実施されたのだから。これらは1907年に開始された日本の文展をモデルとして組織され、植民地主義が貫徹している。したがって朝鮮と台湾における官展の劈頭に掲げられた文書に現地の美術に関する次のような認識が明記されていたとしても驚くには値しない。すなわち朝鮮に対しては「朝鮮の美術は曾て三国時代より高麗時代に亘りて非常なる発達を為し、次で李朝時代の初期に於ても尚燦然たる光華を放つて居つたのであるが、其の中庸以来漸次陵夷して復た振はず、遂に制度の廃弛時運の衰微に伴い殆むど昔日の観を失ふに至つたのは真に遺憾に勝へぬ次第である」台湾に対しては「領台四十有余年、皇化に潤ふ島民は楽土安業に其の日を送っているのであるが、さてかうなつてはじめて心の余裕も取り戻し、美術に対する関心も持ち始めるようになつた。そして目覚めた眼をあげて島内の美術界を眺め渡しときに、そこには非芸術的な建物と服飾、幼稚な色彩に色どられた寺廟の装飾を得ただけであって、美術的には全く荒廃しきった姿の外何物もなかつたのである」偏見に満ちた、書き写すだけで気分が悪くなるような文章であるが、宗主国が植民地を教化し、善導するという発想は日本に限らず当時の欧米列強と同一であり、もちろんだからといって免罪されるはずもない。さらに官展という発想自体が本質において美術の国家統制であり、民主的な運営からはほど遠いものであることは、文展設立当初からの審査制度をめぐる紛糾、展覧会の改組をめぐる混乱からも明白であり、昨今の日展の審査をめぐる数々の疑惑を想起するならば、同じ体質が今日まで持ち越されていることもまた明らかではある。今回のカタログは資料的価値が高く、各展覧会に関する貴重な情報が掲載されているが、それによればこれら外地における展覧会の審査にあたっては審査員として日本画であれば結城素明から山口蓬春、洋画であれば藤島武二から梅原龍三郎にいたる錚々たる面々が現地に赴いている。これらの資料を繙いても実際の審査がどのように進められたか、とりわけどの程度現地の関係者が加わったかについては判然としないが、例えば朝鮮美術展においては日本人受賞者の賞状からは朝鮮人審査員の名が削除され、日本人審査員への謝金は現地の審査員への謝金の10倍近かったといった記述からも、おそらく審査自体が植民地主義を濃厚に反映させ、当落や入賞者の決定に関しては日本人審査員が決定的に与っていたと考えてほぼ間違いないだろう。作品ジャンルの変遷やジャンルごとの作品数、あるいは各地に伝えられてきた絵画と「日本画」の関係など、詳しく検討してみたい問題は多いのだが、残念ながら私の能力を超えている。ここでは私が関心を抱いた点についていくつかの所感を記すに留める。
 この展覧会の地味な印象は、出品された作品がいずれもよく似ている点に帰せられるかもしれない。出品作品はジャンルとしては大半が東洋画と西洋画に分類されるが、後者がいわゆる洋画として西欧に由来し、東アジアのいずれの国にとっても外来の表現であったのに対して、東洋画という概念は日本画も内包しつつ、朝鮮や台湾固有の絵画も包摂することが可能な便利な概念といえよう。実際には朝鮮美術展覧会には「書・四君子」と呼ばれる独特のジャンルが一定期間存在していたことが検証されている。もしそれぞれの地域に「日本画」に対応する固有の表現が存在したとすれば、それらの表現が官展という制度といかなる摩擦を引き起こしたかという点に私は興味を覚える。もっとも実際にはかかる抵抗はさほどなかったかもしれない。なぜならば第一に日本も含めて東アジアの美術は中国の圧倒的な影響を受けてきたから、「日本画」が特に独自性をもつということはなかっただろう。逆にこのような親近性が官展という制度を植民地に導入するうえで助けとなったと考えらるかもしれない。第二に先に述べたとおり、このような官展の実施が宗主国による宣撫工作の一環であるならば、必ずしも強権的な文化支配が目指される必要はなかったからだ。実際に収録された論文によれば、例えば朝鮮において総督府が朝鮮美術展の審査員を決定するにあたっては現地画壇の意向が重視され、この結果、内地の官展では諸団体の確執が続いていたにもかかわらず、「鮮展では内容的にも内地の展覧会より多様性をおびていて、なによりもうれしいことである」という伊原宇三郎の物言いは興味深い。まさに「五族協和」という展覧会の理想を逆説的に暗示しているかもしれない。それにしても「植民地の美術」が提起する問題の射程は実に深い。例えば近年いくつかの展覧会で検証されつつあるとはいえ、大陸ではなく南方諸島と美術の関係はどうか。近年、文学の領域では何人かのキーパーソンをめぐってこの問題が深められつつある。あるいはかつてこのブログでもレヴューした維新派にみられる南太平洋への志向など、大日本帝国の版図の表象は今日にいたるまで多くの作家の想像力を刺激してきた。ずいぶん以前に読んだため小熊英二であったか李孝徳であったか判然としないが、昭和初期の国家の表象という問題に触れた論文の中で、私は当時の日本に時差があったという指摘に驚愕したことを覚えている。あるいは当時の時刻表を参照するならば、今日のトーマスクックのごとく、国内と大陸が鉄路によって結ばれている状況は一目瞭然である。かかる空間的拡張が当時の人々の美的感性に決定的な影響を与えたことに疑いの余地はない。
 少し話がずれた。展覧会に戻ろう。展示された作品の穏健さ、同質性は出品作家の多くが日本で美術教育を受けたことにも起因しているだろう。宗主国が高等教育をとおして植民地の文化に決定的な影響を与えることは驚くに値しない。実際に大陸の官展に出品された作品のいくつかは日本の文展や帝展に並んでいたとしても異和感がない。多くの作品が一種のエキゾチシズムを漂わせていたとしても、それは扱われた主題による。朝鮮であればチマ・チョゴリや祭礼、台湾であれば熱帯的な樹木や草花の繁茂。しかしこの展覧会を見るならば、これらのモティーフは当時の日本の画家たちにも好まれ、実際に山口蓬春や和田三造(いずれも大陸の官展で審査員を務めた作家だ)らによって日本でも作品の主題とされていたことが明らかとなる。現地の画家が描いた大陸の風景と日本の画家が描いたそれに積極的な差異を見出すことは難しい。日本の画家が描いた大陸、かかる主題系列から直ちに連想されるのが戦争記録画であることはいうまでもない。ここで戦争画の問題にまで踏み込むことは問題をあまりに広げてしまうが、同じ大陸の風景を記録した日本人による絵画として朝鮮美術展覧会や満州国美術展覧会に出品されていた作品と、いわゆる戦争記録画がいかなる補完関係にあったかという問題は今後深く掘り下げられるべきであろう。おそらくそれは平時と戦時の対立のみに還元されることはない。構図や技法、人物と観者の関係なども含めて多角的な分析が可能ではないだろうか。
 四つの官展に出品された作品に積極的な差異を見出しにくいことは今述べたとおりであるが、作品の数としては圧倒的な不均衡がある。東京、ソウル、台北の作品はほぼ同数が出品されているのに対し、長春の作品はきわめて少ない。巻末の資料によれば展覧会の開催数自体が、文展帝展は30余回、朝鮮美術展覧会は23回、台湾美術展覧会が16回を数えるのに対して満州国美術展覧会は8回、しかも最後の回は設営直後にソ連軍が新京に侵攻したため公開されなかったという。そして満州国という国家自体も混乱の中に消滅してしまったため、美術館や大学といった作品を庇護すべき機関も存在せず、さらに日本人の引き揚げに際しては書画類の持ち出しが禁止されたため、多くの絵画が現地に遺棄されたという。これらの作品の命運は満州国という虚構の国家を象徴しているようではないか。このため今回の展覧会では記録写真によって展示の模様が紹介され、逆に写真図版を通して、この展覧会に出品された作品が同定されて国内の美術館から追加出品された例もあったと聞く。満州国美術展覧会のセクションに出品された作品は少ないが、何点かの洋画にきわめて独自のモティーフが導入されている。それは地平線である。例えば劉榮楓という画家の二点の洋画はいずれも画面が地平線で二分され、落日と虹が描き込まれている。いうまでもなく地平線は広大な大陸において初めて一望可能なヴィジョンであり、ほかの地域の絵画には認められない。ただしほぼ同じ時期に地平線というモティーフがこの時期、広くに日本に導入されつつあったことは2003年に東京国立近代美術館で開かれた「地平線の夢」という展覧会で綿密に検証されたとおりだ。この展覧会を企画した大谷省吾はこのような構図の由来をダリの影響、古代ギリシャ・ローマへの憧憬、そして大陸の風景に求めている。今述べたとおり実景としての地平線は内地では得ることの困難なヴィジョンであり、その起源をダリやイヴ・タンギー、デ・キリコといったシュルレアリスムに求めることは決して強引ではないだろう。この時、当然ながら日本の官展からは排除されていたシュルレアリスム的な構図が長春の官展では広く受容されていた可能性が浮かび上がる。さらにいえば同じ時代に地平線や水平線を伴った構図が多用されたもう一つのジャンルは戦争記録画である。戦況を俯瞰するうえでは深い奥行をともなったプラトー構造が適切であったのだ。なおも論を敷衍するならば、戦争記録画には今述べた構造が顕著な、例えば鶴田吾郎の《神兵パレンバンに降下す》のごとき作例とともに藤田嗣治の一連の絵画に顕著な、蝟集する兵士たちが垂直の壁をかたちづくるオールオーバーで平面的な作例も数多い。このような対照、つまり戦争記録画の形式的分析にはなお多く研究の余地がある。
 この展覧会から浮かび上がる問題は際限がない。最後にもう一点だけ、私が関心を抱く主題を記して筆を擱くことにしよう。それは官展とモダニズムの関係である。今、シュルレアリスムとの関係について触れたが、基本的にアカデミズムとして成立する官展とモダニズムの関係は微妙である。日本国内における両者の関係についてはいくつかの先行研究や展覧会が存在するが、大陸という函数を得て、新しい視野が広がる。残念ながらこの展覧会でこの問題は十分に検証されていない。それは満州国美術展覧会のセクションの相対的な貧弱さと関係しているだろう。私の考えではソウル、台北が東アジアの一端としてヨーロッパに対して同じようなポジションを占めるのに対して、「出品者名簿には日本人や中国人だけでなく白系ロシア人と思われる名前が混じっていた」満州国にはコスモポリタニズムの萌芽が認められる。長春ではないが、例えば同じ満州国の大連において1924年から27年にかけて安西冬衛らは日本のモダニズム詩の先駆的な存在となる詩誌『亞』を発行し、尾形亀之助も参加している。当時の大連が国際都市であったことについては多くの証言が残されており、この地域が東アジアにあって早くからヨーロッパのモダニズムを受容していたことが理解される。もし満州国美術展覧会の作品が多く残されていたら、この問題にも多くの知見がもたらされたと考えられるのだ。カタログの裏表紙にこの展覧会のタイトルの英訳が記されている。Toward the Modernity : Images of Self & Others in East Asian Art Competition まことに含蓄のあるタイトルではないか。

by gravity97 | 2014-07-27 10:35 | 展覧会 | Comments(0)

「中村一美展」

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 国立新美術館で「中村一美展」を見る。久しぶりに絵画を見て圧倒される体験を味わった。150点に及ぶ巨大で難解、異様な緊張感を帯びた作品の数々が並ぶ。美術館における中村の個展はこれが初めてではないが、いずれの会場も訪れるにはやや遠く、これほどの規模で中村の作品に接する、私にとっては初めての体験となった。もっとも私は比較的早くから中村の絵画に注目し、90年代中盤あたりまでコンスタントに中村の個展に通ったため、見覚えのある作品も多い。しかしそれ以降は数年の間隔をあけて開かれる南天子画廊での新作発表くらいしか作品を見る機会がなく、作品の展開をたどることはかなり困難に感じられた。したがって今回の展覧会はあらためて中村の作品の展開、その連続と断絶に触れる得がたい機会であったが、それを言葉にすることはかなり難しい。そしてとりわけ「鳥としての絵画」以降の作品はおそらくは言語化の困難と深く関係する晦渋さ、一種の異様さを秘めているように感じられる。
 現代の画家に関して、新美術館ではこれまでも松本陽子や辰野登恵子の作品を写真家との二人展という形式で紹介してきた。この際にもクロノロジカルな構成は意図的に放棄されていたが、今回も会場の途中に初期作品が挿入されるというややイレギュラーな構成がとられていた。しかし基本的には1980年以降の作品が年代を追ってシリーズごとに配置され、ゆるやかな時系列を構成している。ごく初期の作品を除いて、今回の展覧会では中村の画業がほぼクロノロジカルに「空間としての絵画」「社会意味論(ソーシャル・セマンティックス)としての絵画」「鳥としての絵画」の三つに大別され、それぞれのセクションがさらに三つないし四つのシリーズに分類されている。中村がデビューした直後の作品、すなわち「空間としての絵画」の最初の二つ、「Y型」と「斜行グリッド」の二つの連作は比較的わかりやすい。それらはともに東京芸術大学の芸術学科で中村が研究した抽象表現主義の影響を反映している。濃厚なストロークが残された「Y型」はデ・クーニング風のアクション・ペインティングを連想させるし、「斜行グリッド」においては中村が論文の主題としたバーネット・ニューマンのジップ絵画が参照されている。しかしこの二つの連作において既に抽象表現主義を批判的に克服しようとする中村の意図は明らかだ。前者においては画面に連作名が示すY字型の構造がこれみよがしに挿入され、アクションと構築性の両立が図られている。一方後者においてもタイトルが暗示するとおり、斜行線というモダニズム絵画のタブーによって画面を構築することが図られている。知られているとおり、ニューマンはモンドリアンを批判することによって近代絵画の克服を試みたが、両者はともにディアゴナルな構造を忌避した。なぜならそれは奥行きというイリュージョンを喚起するからだ。しかしY字型も斜行グリッドも本来的に斜線を内包している。マスキングテープで形成されたシャープな線条からはミニマリズムも連想されるが、中村があくまでも絵画の問題として初期作品を制作していることも明らかだ。なぜならハードエッジによる斜行グリッドとほぼ同じ時期にストロークによっても同じ構造が描かれており、作家の関心が画面の仕上げではなく構造に向けられていることを暗示している。これらの構造の由来についても中村は明言している。それは山間の樹木であり、桑の木であり、紫式部日記絵巻に描かれた蔀戸である。一見抽象的でありながら、中村の絵画が具体的な参照源を有している点は注目に値する。中村は明確な歴史意識をもった画家であり、端的に抽象表現主義の超克をめざしている。中村は絵画のみならず多くの文章も残しており、幸いにも著作選集としてまとめられている。b0138838_10195467.jpg初期の重要なテクスト「示差的イメージ」においては絵画を二種に分け、そのうち「非具象であれ、具象であれ、描かれたものがその描かれたものをストレートに表出しているもの。イメージ即イメージの絵画」として抽象表現主義を挙げる。そしてこれに対して自らが求める方向は別種、すなわち「非具象であれ、具象であれ、描かれたものがその描かれたものを提示しはするが、それだけでは解決のつかないあるものを、指向あるいは示唆しているもの。そこでは描かれたものと、その指向との間に一種のズレ(示差)が生じ、その結果意味が生み出される」と述べている。中村の文章は絵画同様に難解であるが、この言明は比較的わかりやすい。つまり中村は絵画が形式的強度として成立したポロックやニューマンの絵画を批判的に乗り越えようとしている。モダニズムを絵画において批判することと言い換えてもよいだろう。このような探求にあたって中村は絵画の主題性、あるいは日本という極東に位置することを繰り返し揚言している。ニューマンが絵画の主題に拘泥したことはよく知られている。しかしクレメント・グリーンバーグ流の教条的フォーマリズムにおいて主題の問題は往々にして軽視され、グリーンバーグ自身「全ての優れた絵画はニューヨークを経由する」という文化帝国主義的なコメントを臆面もなく表明していたことを考慮する時、中村が示すフォーマリズムへの対案は注目に値する。さらに付言するならば中村はかつて「絵画の消滅」という小論で宮川淳の文人的、文学的美術批評に対して徹底的な批判を加えた。ここでこれ以上論及する余地はないが、同様にフォーマリズムから出発した者として私は中村の宮川批判が今日もある種の「美術批評家」たちに対して有効であるように感じる。
 作品に戻ろう。批判的であるにせよ、抽象表現主義、フォーマリズムを参照項としているから「Y字」と「斜行グリッド」は比較的わかりやすい。私が中村の絵画に最初に関心を抱いたのはこの理由による。しかし続く「開かれたC型」そして「社会意味論としての絵画」以降の中村の歩みはあえてわかりにくさ、言語化の困難さを自らに課すかのようである。中村は「ダイアゴナルから開かれたCへ」という短い文章を残している。「部分的な奥行きとヴォリュームのための『開かれたC型』。それは水平方向へ畳み込むように配置される。『開かれたC型』と連動する車線の還元化された形体は、依然として斜めにズレこむ空間を形成する。この『開かれたC型』と斜線による形体は、超越的形体でもなく、いわゆる構成的形体でもない。それらは、空間に潜む精神の触発作用と深く関わるものだ」作品を参照することなしに理解することが困難なコメントであるが、「精神の触発作用」という言葉がやや唐突に記されている点に留意しておきたい。この時期、中村は洋の東西を問わず先行する表現に触発されて独特の構成を確立したように思われる。中村が参照するのは「西園寺縁起」という参詣図やマティスの《会話》という作品であり、いずれもきわめて特殊な作品である。これらの作品から中村が抽出したのはいわば絵画の骨格のようなものではなかっただろうか。つまり「開かれたC型」、「連差―破房」、「破庵」といった連作は、それぞれに異なった骨格としか呼びようのない抽象的な、絵画のあり方のタイポロジーを示しているように感じられるのだ。このように考えるならば、90年代の中村の絵画の意味に新しい角度から光を与えることができるかもしれない。中村の絵画とは、絵画が強度を帯びる骨格の探求であった。確かに抽象表現主義にもそのような姿勢は認められ、例えばニューマンのジップ絵画はこのような骨格をぎりぎりまで切り詰めたものと考えることができよう。しかし中村は絵画をその形式の内部で完結させることを拒む。抽象表現主義の探求は絵画という形式を単線的に進める中での取り組みであったから、作品の強度の由来はわかりやすく、言語化が比較的容易である。これに対して先に引いた「示差的イメージ」の中で説くとおり、中村は絵画を形式ではなく一種の指向性としてとらえる。同じ連作という手法を用いても、モダニズム絵画におけるそれが一つの主題を順列組み合わせ的に試す手段であったのに対し、中村は連作をとおして作品の間にずれを生起し、そこに意味を求めようとしているのだ。モダニズム絵画が本質主義的であるのに対して、中村の絵画は間テクスト的といえるかもしれない。一つの作品について語ることはまだたやすい。しかし作品相互の差異について語り、それを作品の本質として提起することは容易ではない。中村の絵画の難解さ、それについて語ることの難解さはこの点に由来する。そしてこれらの絵画において中村が主題の必要性を繰り返す点にもう一度私たちは注目しなければならない。例えば《潅木と虐殺》あるいは《ネガティヴ・フォレスト》、これらのタイトルはベトナム戦争におけるアメリカの非人道的行為、枯葉剤作戦などを暗示しており、中村は作品を解説する文章の中で9・11テロや溶鉱炉に落ちて死んだ友人の父親といった生々しく、多く暴力や死と関連するテーマに触れている。
 先ほど私は絵画の骨格という言葉を使った。「開かれたC型」に始まるいくつかの連作をあらためて一望するならば、画家は絵画の骨格を手探りしながら楽しんで実験している様子がうかがえて、この時期の作品、特に横長の絵画は中村としては珍しく多くのびやかな印象を与える。会場には多くのドローイングも展示されている。作家はまずドローイングをとおして連作の骨格を見定め、ペインティングで骨格に肉付けしているのではないだろうか。連作の中では時に激しいストロークが、時に斜行グリッドを連想させる直線が用いられ、Y字やストライプといったかつての/新たな骨格も自由に導入される。中村は自らの絵画が抽象でも具象でもなく、Social Semantic(社会意味論)を扱うと述べている。確かにこれらの絵画が何かを参照しているか否か、表現主義的かミニマリズムかといった問いは意味をなさない。絵画はそれ自体で自足せず、かといって何かを参照することもない。このような絵画を支えるのは苛烈な主題への絶えざる回帰であった点は留意されるべきであろう。さて、「社会意味論としての絵画」の多くが死や暴力といった重い主題と関連していたことについては先に触れた。今回の展覧会を見て、今世紀に入って中村の絵画に大きな転機が訪れたことが理解される。すなわち「採桑老」を一つの転機として、一種の再生、死から生への転換が図られているように感じられるのだ。この転機に当たって桑の木が大きな役割を果たした点は興味深い。中村が何度も述懐するとおり、桑とは養蚕を営んでいた母方の実家をとおして中村の原風景とも呼ぶべきイメージであり、出発点の「Y字」にも投影されていたことが想起されよう。「採桑老」とは死を招くという不吉な伝承を伴った雅楽でもあるが、桑という言葉から次のシリーズ「織桑鳥」が触発され、中村はそれに「フェ―ニッ―クス」、不死鳥というルビをふる。「私にとって『不―死―鳥』とは同一のものが甦ることを意味するのではなく、似ても似つかない姿、全く異形の姿を以て出現すべきものを意味するのだ」中村によれば鳥とは現代における災厄であり、例えば紛争地帯に介入する軍産複合体とまで具体的に名指しされている。「我々はそれを、死滅させ、全く異質な姿形へと再生させねばならないだろう」死滅したもの、それは養蚕業であり、桑畑であろうか、しかし私はここで暗示されているのは何よりも「絵画の死」ではないかと考える。むろん20世紀以降、絵画は常に死を宣告され、現実に映像表現の圧倒的な隆盛の前で、今日絵画は衰退している。私は「採桑老」と「織桑鳥」を経て、つまり「絵画の死」の後にあって中村が「鳥としての絵画」という圧倒的な連作を開始したことに感動を覚える。
 この連作はまさに「全く異形の姿」をとる。私は何度かこれらの絵画を南天子画廊の個展で見たことがある。しかし正直よくわからなかった。それまでの絵画と比べてもきわめて異質に感じられたのだ。中村は「存在の鳥」について次のように記している。「《存在の鳥》とは、あらゆる存在の飛翔についての絵画である。存在は飛翔しなければならず、飛翔しうるもののみが存在である」いうまでもなく「存在」とは「絵画」と読み替えられるべきである。カタログによれば、「存在の鳥」とはこれまでで最大の連作であり、すでに300点を超えるという。「存在の鳥」の骨格は比較的わかりやすい。上に掲げたカタログの表紙に掲出された作品からも明らかなとおり、それは羽を広げた鳥を模しており、画面左上に左向きの頭部とくちばしを暗示する形態が描き込まれ、多く画面中央下に足を連想させる二本の線が表出されている。今までと同様に中村はこのような骨格を定めたうえで「空間の鳥」を自由に変奏する。色面がモノクロームへと転じ、あるいはストロークの強調によって、鳥の形象が定かでない作品もあるが、その場合でも作品の骨格は残されている。作品は垂直的な印象を与え、大画面が多い。私は事後的に図版に縮小されたイメージをもとに羽を広げた鳥と記したが、会場でこのような判断はなされえない。実際に直面する時、作品はなんとも名状しがたい。私が今まで見た絵画の中で近似した印象を受けた例はクリフォード・スティルの巨大な色面抽象である。両者は異様さにおいて一致する。したがってこの絵画はタイトルと骨格においてこそ鳥を連想させるが、もはや鳥の似姿として実現されていると考えるべきではない。中村が言うとおり、これは存在の飛翔についての絵画であり、飛翔という力動性、現実からの跳躍、一つの指向性こそが主題とされているのだ。これと関連して、この連作において画面の物質性がかつてなく強調されている点も注目に値する。チューブから捻り出されたような物質感のある絵具、それもピンクやエメラルドグリーンのメタリックな色彩が用いられる場合が多い。私はこの一種凶暴にさえ感じられる物質性の強調に興味を抱いた。なぜならこれほど強調されているにもかかわらず、それらは物質というよりイメージとして機能しているように感じられたからである。おそらくその理由の一端は最後の部屋の特殊な設えに起因しているだろう。なんと「存在の鳥」連作18点が展示された部屋は壁面がオレンジに塗られ、過去の作品から引用された斜行グリッドのパターンがウォール・ペインティングとして描かれているのである。ホワイトキューブを否定するこのような壁面を背景とした時、「空間の鳥」の異様さは相対化される。そもそも蔀戸を連想するまでもなく、斜行グリッドは建築と深く関わっていた。かかるインスタレーションにおいて絵画はその飛翔の場を建築ではなく絵画の内部に準備する。必然的にそこには新しい示差が発生する。
 そもそも中村が説くように作品の差異によって意味が発生するのであれば、一つの連作がある程度まとまって展示され、相互に参照しえて初めてその意味を確認することができるはずだ。したがっていくつもの連作がまとまって紹介されたこのような展覧会によって作家の探求は明瞭となる。画廊で見た際にはよくわからなかった「存在の鳥」の意味が私なりにつかめたのは多くの作品を比較することができたからであろう。ソシュールに倣うならば、この大展覧会においては作品がその場に不在の作品との間に紡ぐパラディグマティックな意味と、斜行グリッドの上に配置された「空間の鳥」が紡ぐサンタグマティックな意味の両方を見て取ることができる。常に記号論的な意識に基づいて作品を制作してきた中村にとって本展はその集大成といってよいだろう。絵画という営みの本質に触れる作品の数々に圧倒されるとともに、今日なおこのような展覧会が可能であることに日本の美術館への一抹の希望を感じた。

by gravity97 | 2014-05-07 10:25 | 展覧会 | Comments(0)

WHEN ATTITUDES BECOME FORM Bern 1969/Venice 2013

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 20世紀の美術史は展覧会によってかたちづくられたといっても過言ではない。印象派展から「大地の魔術師たち」まで、かかる系譜をたどることはたやすい。その中でも1960年代後半は展覧会の名が一つの運動の代名詞となるような歴史的な展覧会が陸続と開催された時期であった。私はその中でもほぼ同じ時期に開かれた三つの大展覧会が現代美術の極北を示していると感じる。すなわち1969年3月、スイスのベルン美術館における「態度がかたちになるとき」、同じ年の5月、ニューヨークのホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン 手続き/素材」そして70年5月に東京都美術館で開催されたいわゆる東京ビエンナーレ「人間と物質」である。これらはいずれもコンセプチュアル・アート系の作家を多く含み、通常の展覧会の形式を逸脱した作品が多数出品されていた。それらの作品は永続的なかたちをもたない場合が多く、今日では写真によってかろうじて展覧会の状況を知ることができる。
 このうち、ハロルド・ゼーマンによって企画された「態度がかたちになるとき」について、このところ関連する展示や出版が続いている。まず一昨年から昨年にかけてジェンス・ホフマンによって企画されたWhen Attitudes Became Form Become Attitudes、―「態度がかたちになるとき」が態度になるとき、といった意味であろうか―という展覧会がサンフランシスコとデトロイトを巡回した。現在活躍する80名以上の作家が参加したこの展示は「態度がかたちになるとき」へのいわばオマージュとして構想されており、図版で示すとおり、69年の展覧会カタログを踏襲した奇抜なデザインのカタログが刊行されている。このカタログにはジェンスとゼーマンの対談なども収録されていて興味深いが、出品作家について私はほとんど知らない。一方、国内では昨年10月にイオスアートブックスから発行された「Contemporary Art Theory」の創刊号にゼーマンが「態度がかたちになるとき」に寄せた序文などが訳出された。この批評誌のほかの記事もこのブログで応接すべき興味深い内容をはらんでいるが、今はひとまず措く。そして昨年のヴェネツィア・ビエンナーレの開催に合わせてプラダ財団でジェルマーノ・チェラントの企画によって69年の展覧会が再現されるという企画が開かれ、この際に刊行された大部のカタログを先日入手した。私は展覧会を実見していないが、このカタログ自体がきわめて充実した内容であり、今回はこのカタログをとおして69年/13年の二つの「態度がかたちになるとき」について考えてみたい。
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 今回のカタログでまず圧倒されるのは巻頭に365頁にわたって掲載された69年の「態度がかたちになるとき」の記録写真である。先に挙げた三つの展覧会のうち、「アンチ・イリュージョン」と「人間と物質」について、私はコピーも含めてカタログを所持しており、さらに前者については1995年に同じホイットニー美術館で開かれた「新しい彫刻」展でかなり入念なドキュメンテーションが残され、後者については当時の『美術手帖』などを参照すれば展示の状況をかなり具体的に確認することができる。したがってこれまでほとんど情報のなかったこの展覧会についてかくも詳細なドキュメントを与えられたことは幸運であったといえよう。あらためてこの展覧会に多くのエポック・メイキングな作品が出品されていることを知る。リチャード・セラの《ベルト》と《スプラッシング》は同じ部屋に展示されている。ヤニス・クネリスは穀物や石炭を麻袋に詰め、ボイスはフェルトと脂肪を出品している。ボイスがフェルトを床に重ねたのに対して、同じフェルトに切り込みを入れて壁に掛けたのはロバート・モリス、同じ部屋に設置されたロープ・ピースはモリスではなくバリー・フラナガンの作品だ。日本からは長沢英俊が野村仁を連想させるドライアイスの作品を出品していたことを私は初めて知った。セラの《スプラッシング》の傍らには思いがけずフィリップ・グラスの姿を認めることができるし、オープニングの来客の中にはパンザ伯爵もいる。これらの写真を眺めていると私はいつまでも見飽きることがない。
 これらの写真と一緒に詳細な会場の図面も掲載され、出品された作品の一つ一つに番号が振られてキャプションによって同定されている。無理もない。展示された作品は多く放置された素材の印象を与え、どれが作品でどれが設備か、判然としない場合も多いのだ。室内に置き忘れられたような金網や木箱、鉄パイプ、四角形に剥ぎ取られた壁面が作品であり、美術館の前の公道の窪みが作品なのだ。私がこの展覧会を現代美術の極北とみなす意味がおわかりいただけるだろう。この展覧会には「作品―概念―過程―状況―情報」というサブタイトルが付されている。いうまでもなく概念や過程、状況や情報といった本来はかたちをもたない要素が作品となるという意味であり、記録写真を見る限り、まさにそのとおりのことが発生している。ゼーマンはカタログに寄せた文章で次のように述べている。(ただしこのカタログにはゼーマンのテクストは収録されていない。先に言及した『Contemporary Art Theory』所収の河田亜也子の翻訳からの引用である)「(これまでこれらの作品に与えられた様々な名称は)形態に対する外見上の抵抗、個人的かつ感情に支えられた関与の度合の高さ、それまで芸術とみなされていなかった物体が芸術であるという宣言、結果から過程への興味の移行、ありふれた素材の使用、作業と素材の相互作用、作品の素材あるいは作品の場所としての母なる大地、または概念としての砂漠、という側面である」「この展覧会に出品している作家たちはいずれもオブジェの作り手ではない。反対に彼らはオブジェからの自由を希求し、それによってオブジェを超えた極めて重要な状況に至るようにオブジェの意味層を深化させる。彼らは芸術的過程が最終的な制作物や『展覧会』でも目に見えるようになることを望んでいる」最後の一文からはロバート・モリスの「アンチ・フォーム」の概念なども連想され、かかる気風が当時広くアメリカとヨーロッパで共有されていたことを暗示している。あるいは私はこれらの写真から、ここに展示された作品が数年後に日本で勃興する「もの派」の動向とあまりにも多くの共通点を有すことにあらためて驚く。「もの派」のオリジナリティーはもう一度検討されるべきではなかろうか。展示の雑然とした状況、そして炎(ゾリオ)やコンクリート片(ボエッティ)といった「素材」の使用、鉄球で公道を破壊するハイザーの所業などから68年の学生叛乱を連想しないでいることは難しいし、おそらくこのような印象は来場者にも共有されたのではなかっただろうか。過程や状況といった「関係」への関心からは当時注目されつつあった構造主義との関係を指摘することができるかもしれない。かくのごとくカタログに軽く目を走らせるだけでいくつもの発見や疑問が湧き上がるのは優れた展覧会の常とはいえ、ここで論じたいのは69年の展覧会ではない。むろんこのようなドキュメントが刊行された以上、その再検証は直接展示を見ることができなかった世代の研究者によって今後なされることとなろうが(このあたりの事情は例えば2001年に発表されたジェイムス・マイヤーによるドキュメントがその後のミニマル・アート研究に切り開いた可能性と比較できるだろう)、ここでは私は69年のベルンの展覧会がほぼ半世紀の時を隔ててヴェネツィアで「再現」されたことの意味について考えてみたい。
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 今回の展示はアルテ・ポヴェラを主導した批評家ジェルマーノ・チェラントの手によってヴェネツィアで「再現」された。69年の展示にはアルテ・ポヴェラの作家も多数参加したから、アルテ・ポヴェラ再興/再考といった意図があるのかもしれない。分厚いカタログには多くのテクストも収められており、いくつかには目を通したが、もしかするとこのあたりの事情を論じたテクストが収録されていたかもしれない。序文の冒頭でチェラントは展覧会以前、69年1月にゼーマンと面会し、作家に関する情報を交換したことを記している。チェラントが「アルテ・ポヴェラ」を企画したのは68年のことであり、二つの展覧会の出品作家はかなり重なっている。この意味でゼーマン亡き後、この展覧会を「再現」するうえではチェラントが最もふさわしい批評家であった。しかしそもそも69年のベルン美術館で開かれた展覧会を13年のプラダ財団で「再現」」―カタログではremakeとreconstructionの二つの言葉が用いられている―することは可能であろうか。例えば出品作家だ。カタログには二つの展覧会の出品作家リストが添えられているが、よく見ると微妙な異同がある。例えばダニエル・ビュランや長沢英俊といった作家が69年のリストには加えられていないが、13年のリストには挙がっている。しかし図版を参照するならば彼らはゼーマンの展覧会にも出品しているはずだ。単純な表記のミスか、深い意味があるのか、私としては判断する材料がない。しかしながら今回の展覧会がゼーマンの展覧会の可能な限り忠実な「再現」を目指していることもまた明らかだ。69年の出品作家はほぼ網羅されており、カタログの中には二つの展覧会を対照するかたちで69年の全出品作品のリストが付され、作品ごとにExhibited / Not Exhibited という表記によって今回の展示に加えられているか否かを確認することができる。さらにカタログには二つの展覧会の作品の配置図が掲載されており、驚くべきことに今回の展覧会ではプラダ財団の会場内にベルン美術館と同じ空間が挿入されるかたちで壁面が構成されたようである。カタログの表紙には会場のデコラティヴな装飾を分断するように白い壁面が設置されている写真が掲載されているが、おそらく仮設的な構造を用いてベルンの美術館の空間がヴェネツィアの宮殿に移設されたのであろう。カタログを参照するならばこのような再現に協力したのが建築家のレム・コールハースと写真家のトーマス・デマンドであり、チェラントと二人の短い対談も掲載されている。チェラントは当時の図面に基づいてまず作品が展示される空間を再現し、そこに存在した作品をあらためて再配置したのである。これが大変な事業であることは直ちに理解されよう。当時展示された作品のうち、かたちを有して今日まで伝えられている作品については現在の所蔵者と交渉して借用し、かたちをもたない作品については作家が存命であれば再制作を依頼しなければならない。69年の展覧会にはそれぞれの作家にとって代表的な作品が多く出品されているとはいえ、それから四半世紀以上経過した後に所在を確認し、作家と交渉する作業がいかに困難であるかは容易に理解される。ことにかたちをもたない作品に関して作品は再制作によって再現されるしかない訳であるが、この場合、オーセンティシティの問題も浮上する。つまり作品の真正性を保証するのは何かという問題だ。なおも作品と作家を結びつける発想が強い私たちにとっては同じ作家が時を隔てて同じ作品を制作することがその保証であると感じられる。しかし構造主義を経過した私たちにとって作品とは作家、時代、場所、素材といった要素の函数にすぎない。ロラン・バルトが作品に代わるテクストという概念を提起した今日において、作家だけをオーセンティシティの起源とする発想はもはや時代遅れだ。例えばソル・ルウィットは69年の展覧会に典型的なウォール・ドローイングを出品している。この際にルウィット自身が制作にあたったか否かは判然としないが、ルウィットが没した後に企画された今回の展示では「ル・ウィット・エステイトによる再現」という注釈とともに同じ作品が壁面に直接描かれている。ルウィットの場合は作家の生前より、作品の制作は作家が抱えるドラフトマンたちによって代行されていたので、今回の展覧会にも真正のルウィットの作品が出品されたことに疑いの余地はなく、この場合、作家は作品の起源ではない。コンセプチュアル・アートにおいては常に作品のオーセンティシティが何によって保証されるかという点が問われてきた。そして今回の展示では会場の同一性、つまり作品の配置がその根拠とされている。これはきわめて斬新な発想ではないだろうか。通常私たちは作品が選択、配置されることによって展覧会が成立すると考える。しかし13年のヴェネツィアにおいては作品が一つの展覧会において特定の位置、つまり69年と同じ場を占めることによって意味を与えられている。極言するならば作家も制作年も無関係なのだ。先ほど私はゼーマンの展覧会と構造主義の関係に触れたが、かかる意味で13年の展覧会はテクストの織物としてきわめて構造主義的な特質を有しているといえよう。
 しかしながら、この展覧会は多くの問題もはらんでいる。まず69年において革新的な意味を持った展覧会をおよそ半世紀後に再現することにいかなる意味を見出せるかという問題だ。美術、ことに現代美術はカッティング・エッジとして意味をもつ。今回の展覧会に関して目にした数少ない日本語によるレヴューが69年の展示を今日、再現することの意味を問う内容であったことは当然であろう。チェラントはゼーマンというビッグネーム、「態度がかたちになるとき」という歴史的な展覧会の権威を利用して、確信犯的に展覧会の再現という類例のない試みを挙行したといえるかもしれない。そもそも展覧会のアイデンティティーは何に求められるか。企画者のコンセプトか、展示された作品か、展示された場所か、あるいはカタログや記録写真か。この問題はなかなか奥が深い。ことに「態度がかたちになるとき」のごとき、実体的な作品を伴わない作品が多く出品された展示においては、たとえ同じ会場が使用されたとしても同一の作品を展示することは困難である。この問題を考えるにあたって一つのヒントを与えるのは、2005年、グッゲンハイム、ニューヨークにおけるマリーナ・アブラモヴィッチの[Seven Easy Pieces]であろう。アブラモヴィッチは歴史的なパフォーマンスを自らの身体によって再演するにあたって、それらのパフォーマンスを初演した作家の許諾を得て著作権料を支払っている。アブラモヴィッチの例はパフォーマンスにおいては作家の意図やコンセプトが実際の上演より重要である点を暗示している。今回の展示において、ゼーマンの展覧会に出品した作家もしくは遺族の意図はどのように反映されているのだろうか。この問題はさらに作品を再制作する権利は何に由来するかという問題へと敷衍されていく。今日、失われた作品を作家や美術館が「再制作」する例は数多い。しかしそれらのオーセンシティは何に求めることができるだろう。ちょうど一年前にグッゲンハイムで開かれた具体美術協会の回顧展についてはこのブログでも触れたが、そこにも多くの「再制作」が展示されていた。作家自らの手によるもの、国内の美術館が収蔵する「再制作作品」、そして現地で展覧会のために再制作された作品、かかるヴァリエーションの広がりはコンセプチュアル・アートの本質と直結しているように感じられ、この意味においても具体美術協会は戦後美術の出発点であった。
 この展覧会自体がいくつもの論考の端緒となる。展示を実見しておらず、まだカタログを読み込んでいない私としては、ここではひとまず問題の輪郭を粗描するに留めたが、あらためて展覧会という営みの批評性を痛感させる出来事であった。実際に展示を御覧になった方からコメントをいただくことができればありがたく感じる。

by gravity97 | 2014-03-01 21:39 | 展覧会 | Comments(0)