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Living Well Is the Best Revenge

カテゴリ:展覧会( 58 )

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 横浜に五回目となる横浜トリエンナーレを訪ねる。今回のアーティスティック・ディレクターは森村泰昌が務めている。作家がディレクターの役割を果たすのは第二回の川俣正以来、二回目となる。川俣の場合は当初のディレクターに予定されていた磯崎新が降板するというアクシデントを受けての着任であったが、今回のディレクターは数年前から予告されていたから、森村は万全の態勢で準備に望んだはずだ。期待どおりの素晴らしい展示であった。これまで私はこのトリエンナーレを全て訪れている。どの回もそれなりに充実しており、甲乙つけがたい印象があるが、逆にいえば突出して素晴らしい展示もなかった。これは組織化された大展覧会の宿命といえるかもしれない。ところが、今回のトリエンナーレの展示の特異さと充実に私は圧倒される思いであった。これはきわめて単純な理由による。ディレクターである森村の意向が展覧会の隅々にまで反映され、きわめて個人的な思い入れによって構成された展覧会でありながら、その批評性が普遍的なレヴェルに達しているのだ。
 展覧会のテーマはいつになく文学的だ。「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」。「華氏451」とはいうまでもなくレイ・ブラッドベリのディストピア小説のタイトルだ。華氏451度とは紙が自然発火する温度であり、この小説に描かれる全体主義国家では書物が禁じられている。主人公は書物を焼くことを職務とする「ファイアマン」であるが、一人の女性と知り合うことによって焚書に疑問をもち、社会から追われていく。最初にこのテーマを聞いた際には、かかる特殊なテーマを国際展の中に取り入れことが果たして可能か、少々不安に感じたが、展覧会を訪れると直ちに疑問は解消された。この小説から導かれる検閲や焚書、沈黙、忘却あるいは炎といった主題は展示の中で幾度も繰り返されて展覧会の通奏低音を形成し、結果としてこの展覧会は私たちが現在直面する状況を審美的なレヴェルのみならず社会的なレヴェルにおいても問い直しているのだ。このレヴューを執筆している最中に日本でも進歩的とみなされてきた新聞が自らに批判的な記事を署名原稿であるにもかかわらず掲載拒否したという報に接した。私たちが現在の憲法のもとで当然の権利と考えていた表現の自由さえもかくもたやすく奪われることを知るならば、この展覧会のテーマは実にアクチュアルである。(ガイドブックの末尾に記されたこの展覧会の「名誉会長」として悪名高きNHKの会長、そして先日なんともぶざまな謝罪会見を行った朝日新聞の社長の名が並んでクレジットされていることに、私はブラックユーモアを通り越して不気味さすら感じた)そしてそれが最新の表現ばかりでなく、この半世紀の間に発表された日本と欧米の多様な表現、時に驚くべき作家をとおして表明されることに私は新鮮な感慨を覚えたのだ。
 もしこれから展覧会を訪れるとすれば、構成に従って、つまり二つの会場のうち、横浜美術館から始めることをお勧めする。展示自体が一つの脈絡をもった物語を構成しているため、新港ピア会場から始めると小説を途中から読むようなぎこちなさを味わってしまうだろう。横浜美術館の展示の劈頭において私たちは沈黙に迎えられる。マレーヴィッチの絶対絵画とジョン・ケージの「4分33秒」の楽譜とはこの展覧会にとって完璧なイントロダクションではないか。すでにいくつかのレヴューでも指摘されているとおり、かかる導入は横浜トリエンナーレのごとき展覧会においては通常ありえない。このような展覧会に求められるのは祝祭性であるからだ。引き続き、私にとって未知の作家であったジョシュ・スミス、そしてアグネス・マーティンから村上友晴にいたるミニマリズムの絵画、モノクロームで表現性を欠いた沈黙の絵画が続く。冒頭にかくも禁欲的な作品を配置した点にディレクターたる森村の暗黙の意志、すなわちこのトリエンナーレを通常のそれとは全く異なった、いわば反トリエンナーレとして実現しようとする思いは明らかである。ディレクターの意向がどの程度反映されるか、あるいは作家の選定にあたって展覧会のアソシエイトたちといかなる協議がなされたか不明であるとはいえ、明らかに今回のトリエンナーレは従来の予定調和を目指していない。早くも導入部においてディレクターのかかる決意を感じた私は襟を正して次のパート、「釜ヶ崎芸術大学」に向かった。このパートの背景を理解することは容易だ。かつて「なにものかへのレクイエム」と題された森村の個展を見た私にとって、森村がレーニンに扮して西成で演じた《なにものかへのレクイエム(夜のウラジミール)》の前景にたむろする労務者たちが「釜ヶ崎芸術大学」の構成員であることはたやすく了解された。ここでも祝祭性を否定し、文字を覚えることから始める未組織労働者の「芸術」に焦点をあてた展示は濃厚な社会性とともに、文字が文字として認識されない「華氏451度」の世界の一つのメタファーを提起している。続く展示も刺激的だ。オーウェルの「1984年」から「華氏451度」までディストピアとはメディアが果たすべき機能を失った世界の物語であり、それゆえ私はそれがまさに現在の日本の暗喩であるとも感じるのだが、続く展示に配されるのはTVというメディアの暴力性を扱ったポップ・アートの陰画、エドワルルド・キーンホルツのTV受像機をモティーフとした作品や鏡文字で印刷された「華氏451度」のペーパーバックを台の上に山積みしたドラ・ガルシアの作品であり、バーミヤンの破壊された石仏と爆撃によって燃やされたカッセルの図書館を結びつけるマイケル・ラコウィッツという作家の作品である。このセクションは「第3話 華氏451はいかに芸術にあらわれたか」と題され、無名作家とよく知られた作家を取り混ぜながら、展覧会のテーマを明確に反映している。そしてこのセクションで最も挑発的な展示は第二次大戦中、多くの文学者が著した翼賛的な文芸書を集めた「大谷芳久コレクション」であろう。そこには野口米次郎から瀧口修造にいたる意外な名前が認められる。戦争記録画は今日に伝えられているが、これらの書籍を今日目にすることは難しい。なぜならここに展示された書籍はそれぞれの著者にとって焚書に付されるべき過去の汚点であるからだ。対比的に松本竣介の家族に宛てた私信が展示されていたが、両者を単純に色分けすることが目指されていたわけではないだろう。存在してはならない書物とはまことに「華氏451度」的なテーマではないか。
b0138838_2182556.jpg 横浜美術館の展示の後半はややテーマ性を離れ、芸術家の作家性とでも呼ぶべき主題をめぐっている。FRPによって成形されたバルーンと「何もすることがない」という言葉がぎっしり繰り返されたドローイング、福岡道雄による二種類の作品は象徴的な導入といえよう。それにしても現代美術の最先端を紹介する展覧会に福岡が1960年代に制作した作品を展示するセンスはただものではないし、さらに驚くべきことに福岡の作品は時代のカッティングエッジを構成する作品と一緒に並べられてもなんら遜色がないのだ。そして関西の80年代の美術に親しんだ私にとって、この展覧会からは先鋭さとともに大いに懐かしさも感じられたのだ。b0138838_21101234.jpg「第5話 非人称の漂流」というセクションは1980年代、毎年春先に開かれていた京都アンデパンダン展において林剛と中塚裕子が一室を全て用いて発表していた「Court」という一連のインスタレーションの「再現」である。どのような経緯でこれらのインスタレーションが展示に加えられたかはわからないが、これらの作品と先般、京都国立近代美術館で小さな回顧展が開催されたヨシダミノルの作品、というよりヨシダの一家が会期中、美術館の中で生活するというハプニングは、京都アンデパンダン展の名物とも呼ぶべきおなじみの風景であった。森村は松井智恵ややなぎみわといった作家と親交があり、さらにこのセクションの副題として用いられている「Still Moving」あるいは「第二話」のタイトルに掲げられた「漂流する教室」といったキーワードからは、現在、京都で京都国際現代芸術祭を準備している河本信治が京都国立近代美術館在職中に企画したいくつかの展覧会が想起される。今回のトリエンナーレには国際性と現在性の傍らに、森村のバックグラウンドである関西の地域性と80年代の時代精神が絶妙に同居し、ことに私のような者は大いに楽しめた。しかしそれらの作家やキーワードはお友達の紹介や引用ではなく、展示構成の中に必然性をもって配置され、みごとな効果を上げている。これまでの横浜トリエンナーレにおいて作家の選択はある程度中立的な印象を与えた。それは何人かのディレクターやキューレーターの合議で決定される以上、当然なのであろうが、今回の作家と作品の選択には森村の強い思い入れが感じられ、美術の最前線を見せる国際展というよりもよく考え抜かれたテーマ展を見るような驚きが随所に散りばめられているのである。このような驚きと楽しみは連絡バスに乗って向かった第二会場の新港ピアにおいても強められることはあっても裏切られることはない。
 新港ピアの会場入口、「第11話 忘却の海に漂う」のセクションの冒頭にはやなぎみわが台湾で購入したという特注のトレーラー、移動舞台車が置かれている。やなぎは近年、演劇に傾斜し、いくつかの公演についてはこのブログでも触れた。今回はいわば新作の舞台装置の展示である。トレーラーが導入されたことには理由がある。やなぎが予定している新作とは中上健次の「日輪の翼」であり、この小説では七人の老婆たちを乗せ、二人の若衆が運転するトレーラーが熊野から皇居にいたる聖地を巡礼する。今回の展示を見て新作への期待は増すばかりである。新港ピアではジェンダーや民族といった問題も緩やかに射程に収められている。「日輪の翼」の最後で老婆たちは何処ともなく消えていくが、友人の祖母が残したセミヌードをめぐる消滅と忘却、記憶と虚構といった問題をアーカイヴの手法で作品化したベイルートのアクラム・ザタリの作品も本展のテーマを深く内面化している。あるいはメルヴィン・モティというオランダの作家はエルミタージュ美術館の作品が戦時中、館外へ疎開したという史実を背景に、作品が展示されていないエルミタージュ美術館のギャラリーツアーを上映する。ここでは焚書ならぬイコノクラスムがテーマとされている。そしてその傍らには地面に横たわる人体状のオブジェが燃やされるアナ・メンディエッタの「シルエッタ」が上映されているのだ。この展示において「華氏451度」の暗示するテーマが様々に変奏されつつ、地下水脈のごとくいたるところで出現する点がおわかりいただけるだろう。燃え上がる炎のモティーフに対しては、忘却の海、水平の海のイメージが対置される。順序が逆になったが「第10話 洪水のあと」は今年第5回展が開催される福岡アジア美術トリエンナーレと連携し、過去にこの展覧会に出品したアジアの作家の作品が紹介されている。私はここに展示された作品のレヴェルの高さに驚いた。特に映像作品が素晴らしい。バングラデシュ、チッタゴンの海上で巨大な船舶を有毒物質に対する防御手段を一切講じないまま素手で解体する人々を映し出すヤスミン・コビールの映像、そして閉鎖された工場の廃墟で清掃作業を続ける女性工員たちを記録したチェン・ジェレンの作品は釜ヶ崎から南西アジアまで広がる貪欲な資本主義社会への抵抗という意味において「釜ヶ崎芸術大学」に呼応し、さらにそこで繰り広げられる労働者たちの苛酷な仕事ぶりは、やはり横浜美術館に展示されていた美術家たちの「たった独りで世界と格闘する重労働」とも鋭い対比を示している。横浜美術館でバルーンにぶら下がっていた福岡道雄の姿と、100人の労働者と相撲をとって負け続けるハァ・ユンチャの姿からはいずれも美術という営みを相対化する批評的なユーモアが感じられるのではないだろうか。キム・ソンヨンが撮影した玄界灘の不穏な海の情景に始まるこのセクションは、燃料切れのヘリコプターが次々に墜落する黙示録的光景(いうまでもなくベトナム戦争末期の象徴的な情景だ)で幕を閉じる。ディン・キュー・レの作品においてもヘリコプターを呑み込むのは静かに広がる海であり、展示全体が「忘却の海」を暗示していることが理解されよう。
 さらに私が感銘を受けたのはこの展示の中でこれまで日本の美術館においても相応の検証がなされていない二人の作家についてテーマと関連させながら回顧的な紹介がなされていたことである。殿敷侃と松澤宥である。日本では珍しいアースワーク的な広がりをもったプロジェクトを展開した殿敷と、日本的な概念芸術の一類型を提起した松澤。殿敷は活動時には美術雑誌等でしばしば作品を目にしていたが、早世したこともあり、作品をまとめて見る機会はこれまでほとんどなかった。今回は映像によっていくつかのプロジェクトが紹介されていた。作家の介入(労働)を介して物体が作品へと変わるという発想は横に展示されていたジャック・ゴールドスタインの映像とも呼応しているだろう。松澤宥については確か以前に川口現代美術館で回顧展が開かれたと記憶しており、作家自らが白い装束をまとって執り行う儀式もどこかで見た覚えがある。確かに忘却や消滅は松澤が多用するキーワードであるが、「オブジェを消せ」という啓示を受けた作家が情念的なオブジェや以前の展覧会で使用された品々をこれほど残していたとは知らなかった。松澤の作品は私のテイストとは相容れないが、今後検証されるうえで大きな手がかりとなる展示であり、この展覧会では本来美術館においてなされるべき作業も行われている。そしてそれがあくまでもテーマとの関連において要請されている点には留意する必要がある。
 論じるべき作家や作品はまだ多く残されているが、ひとまず私は今回の展覧会を一望した。国際展をこのように一つの文脈の中に論じることは通常ありえない。なぜなら先にものべたとおりこのような国際展においては表現のカッティングエッジを紹介することが求められており、選ばれる作品に統一的な脈絡など初めから求められていいないからだ。このブログを書き始めてからも何度か訪れたにもかかわらず、私はこのトリエンナーレをレヴューしようと思ったことはない。「メガ・ウェイヴ」、「アートサーカス」、「タイムクレヴァス」そして「アワ・マジック・アワー」、これまでのテーマを並べるならばいずれも抽象的でそれゆえいかなる作品も包含可能であることがわかる。これに対して今回の展示を特徴づけるのは、文学的かつ切迫したテーマ性であり、このテーマに基づいて選び抜かれた作家とよく練られた展示構成である。今述べたとおり、この展示をめぐるならばいくつかのモティーフと関連した作品が相互にゆるやかな関係を保ち、時に思いがけない関係を結びながら随所に配されていることが理解される。このような体験に類した展覧会として、私は例えばこのブログでも論じた2007年、ヴェネツィアにおける「アルテンポ」を想起する。ヴェネツィア・ビエンナーレと併催されながらも、むしろ博物学的な現代美術展において展示された作品は相互に不思議な関係を結んでいた。思い起こせば、私が森村の「荒ぶる神々の黄昏」と題されたシリーズを最初に見たのも、同じ折、サンマルコ広場の近くのギャラリーであったから、もしかすると森村も「アルテンポ」を見ていたかもしれない。「アルテンポ」が今回の展示にインスピレーションを与えたということは果たしてありうるだろうか。
 横浜トリエンナーレは今後も開かれるだろう。しかしおそらく今回ほど刺激的な展示に出会うことは二度とあるまい。今回の展示は国際展の常識をことごとく外している。「横浜トリエンナーレ2014」とは森村という傑出した才能が、国際展という枠組を借りて、現在私たちを取り巻く状況に対して、他者の作品によって批評を加えるというまことに贅沢な、おそらくは空前絶後の試みなのだ。
by gravity97 | 2014-09-15 21:16 | 展覧会 | Comments(1)

「OTHER PRIMARY STRUCTURES」

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 先般、昨年ヴェネツィアで開催された1969年、ハロルド・ゼーマンの「態度がかたちになる時」の再現展示について論じた。こういった展覧会が流行っているのであろうか、今度はニューヨークのジューイッシュ美術館で1966年に開かれた「Primary Structures」が同じ会場で「Other Primary Structures」として「再現」された。展示は今月の初めに終了し、私は未見であるが、カタログを取り寄せ、インターネットで関連情報を検索したところ、なかなか興味深い展覧会であることが理解された。
 オリジナルの「Primary Structures」はジューイッシュ美術館のキューレーター、キーナストン・マクシャインによって企画された大展覧会で「若いアメリカとイギリスの彫刻家たち」というサブタイトルが付されていた。primary structure とは基本構造とでも訳すのであろうか、単純な形態の無機的な抽象彫刻を集めた展示であることを暗示している。今日、この展覧会はミニマル・アートの最初のデモンストレーションとみなされているが、事情はそれほど単純ではない。出品しながらもロバート・モリスやドナルド・ジャッドは当時においてこの展覧会への反発を語っているし、実際に出品作品を参照するならば、一見してミニマル・アートと了解される作品はさほど多くない。展示空間を作品の函数とするミニマル・アートは作品そのものより設置された状況を検証する必要があるが、近年発表された、例えばジェームス・マイヤーの「minimalism : art and polemics in the sixties」のごとき研究書には当時の展覧会風景が記録された写真が多数収録されており、このような作業は比較的容易になった。上に示したとおり、今回の展覧会カタログは二分冊というか、再発行された66年の展覧会カタログも付されている。このカタログを入手できずにいた私としては今回のリイシューは大いにありがたい。2冊のうち左側が「Primary Structures」のカタログであり、今回の展覧会カタログがこのフォーマットを踏襲していることも理解されよう。ないものねだりを承知のうえで言うならば、カラー図版であればなおよかった。しばしば指摘されるとおり、Primary Structuresの特質は形態とともに色彩にも認められ、多くの場合、派手な色によって表面が彩色されているからだ。東野芳明は「女が彫刻を叩くとき 色彩彫刻の新しい波」というテクストでこの展覧会をレヴューし、この展覧会に出品された作品の特質を台座の不在、工業用素材の使用、単純な形態の使用、そして鮮やかな色彩の四点にまとめている。東野らしい的確な要約である。一方、クレメント・グリーンバーグは早くも1949年に発表した「新しい彫刻」において来るべき彫刻の特性として「蜃気楼のごとく、形も重みもなく、ただ視覚的に存在する」ことを挙げているが、これらの彩色彫刻はこの言葉に対応するかのようだ。展覧会の入り口にはアンソニー・カロの《タイタン》が置かれている。カロはイギリスでヘンリー・ムーアの助手を務め、アメリカではデヴィッド・スミスと親交があったからこの展覧会の出発点として象徴的である。先に述べたとおり、この展覧会にはイギリスとアメリカの若い世代の作家たちが出品しているが、今回あらためてカタログに掲載された図版を参照するならば国籍によって作風の違いがかなり明確であるように感じられる。先ほど出品されている作品が単純で無機的と述べたが、実はかなりの数の作品が単純でも無機的でもないのだ。多くの金属彫刻が有機的なシルエットをもち、複雑な構造を呈している。それらはしばしば人体を喚起し、多くはイギリスの、今や名を知られることもない彫刻家の作品である。工業用素材を用いた単純な形態の立体がなお横たわる人やうずくまる人の暗示を伴っている点に彫刻における人体イメージの潜在力を感じるのは私だけではなかろう。これに対して、アメリカの作家たち、特に後にミニマル・アートと呼ばれる動向を推進した作家たちの作品は人体への連想を断ち切っている。おそらくここに非人間的な美術としてのミニマル・アートの独自性がある。ヨーロッパ美術のヒューマニズムを可能性ではなく限界と読み代えることによって戦後のアメリカ美術は現代美術の前線を広げたのである。(知られているとおり、マイケル・フリードは非擬人的とみなされたミニマル・アートに一種の演劇性を認めて批判を加えているが、ここではこれ以上議論を敷衍することは控える)絵画において抽象表現主義が同時代のフランス絵画に対して優越を示したように、彫刻においても同時代のイギリスの若い作家たちとの比較を通してアメリカ美術の特異さを誇示することがこの展覧会の意図であったとするならば、陳列された作品の寡黙とはうらはらにこの展覧会が秘めたしたたかな政治性も明らかである。
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 ただしここは「Primary Structure」について語る場ではない。もう一度、「Other Primary Structure」に目を転じよう。この展覧会を企画したのはジェンス・ホフマン、記憶にある名前だ。「態度がかたちになる時」に関しては先に述べたとおり、ジェルマーノ・チェラントによって2013年、ヴェネツィアで再現されているが、これに先んじて若手作家によってこの展覧会をアップデートする試みがなされた。サンフランシスコとデトロイトを巡回した「When Attitude Became Form Become Attitude」と題された展示については、先にチェラントの展覧会についてこのブログで論じた際にも触れた。この展覧会を企画したのがジェンス・ホフマンであり、確かにこの展示と「Other Primary Structures」は発想が似ている。カタログに寄せたテクストによれば、ホフマンが過去の展覧会を再構成するという手法の可能性に想到したのは、1991年にLAのカウンティーミュージアムで企画された「退廃芸術展」を見た際であったという。次いでホフマンは「態度がかたちになる時」をめぐる一連の再構成の試みについて触れた後、今回の試みについて説明している。3月から8月までの会期は、前半のOthers 1と後半のOthers 2という二つのパートに分けられ、いずれも15名前後の作家が出品している。作家の分類はほぼ機械的である。つまり出品作品は1960年から69年までの60年代をカヴァーしており、1966年に開催された「Primary Structures」によってこのディケイドはほぼ二分されている。Others 1 は60年代前半、Others 2は60年代後半に発表された作品によってそれぞれ構成されている。しかし展覧会は「Primary Structures」に影響を与えた作品群とそこから影響を受けた作品群といった文脈を形成することはない。それどころか、ここに集められた作品はいずれも「Primary Structures」で展示されていたとしても大きな違和感を与えないのだ。これは何を意味するか。「Primary Structures」に展示された作品はイギリスとアメリカという国籍の限定を受けている。つまり「Other Primary Structures」の出品作はほぼ同じ時代にあって、ほかの地域で制作された同様の傾向をもつ作品を紹介する展覧会なのである。ホフマン自身、次のように記している。「タイトルにあるotherは二つの意味をもっている。一つは文字通り、追加的とかさらに多くの作品を見せるという意味である。二番目はポストコロニアル的な意味における『他者』、すなわち西欧の優勢な美術史学的な正典(キャノン)において周縁化され、抑圧されてきた多くの文化的、民族的、あるいは政治的グループとしての『他者』を喚起する意味である」いうまでもなくここで重要なのは二番目の意味だ。美術の脱中心化という発想から私が連想するのは1999年にクイーンズ・ミュージアムで開かれた「グローバル・コンセプチュアリズム」である。points of origin というサブタイトルの複数形が暗示するとおり、この展覧会では日本を含む世界各地にコンセンプチュアル・アートの起源を求め、系統樹ではなく同時発生としての美術史を構築することが試みられていた。このような傾向は90年代以降顕著であり、私は同様に同時性、あるいはグローバリズムをテーマにした国際展をいくつも思い浮かべることができる。チェラントによる「態度がかたちになる時」の目的が69年の展覧会に実際に展示された作品を可能な限り集めて展示を再現することであったの対し、この展示の目的は文字通り「別のプライマリー・ストラクチュアズ」を提示することにある。b0138838_114620.jpg最初に述べたとおり、私は今回の展示を見ていないが、ジューイッシュ美術館のHPを確認するならば、実際の展示では精密に作られた当時の美術館の建築模型の中に66年に展示された作品がミニチュアで配されて展示の再現が図られる一方で、展示室内には今回の出品作の背後に前回の会場写真が大きく引き伸ばされて展示され、いわば展示が二重化されていたようである。このような展示の意図は明らかだ。今回の出品作と前回の出品作が互いに似ていることを示して、文字通りOther Primary Structuresの可能性を示唆しているのだ。
 あえてここで具体的な作品を挙げることはしない。代わりに作家の国籍を示そう。パキスタン、アルゼンチン、ブラジル、レバノン、イスラエル、ベネズエラ、日本、クロアチア、ポーランド、フィリピンそして韓国、みごとに第三世界を中心としたラインナップではないか。何人かの作家については私も知っていた。例えばブラジルのリジア・クラークとヘリオ・オイティシカ、フィリピンのデヴィッド・メデラ。ただ私はこれらの選択になんとも政治的というか、端的に商業的なセンスを感じてしまうのだ。出品作家が比較的少なく、知られていない作家が多いといった事情もあろうが、出品に際しては特定のギャラリーが介在している場合が多く、所蔵しているコレクターも限られている。日本についてはもの派と関連する作家、吉田克朗、小清水漸、関根伸夫、管木志雄、高松次郎、李禹煥が出品している。高松次郎の《ネットの弛み》がプライマリー・ストラクチュアと関係しているか否かについてはここでは論じない。しかし数年前からのニューヨークの「もの派」ブームに便乗して、現地でおなじみの作家をポストコロニアリズムの傍証として動員した印象が拭えないのだ。おそらく同じ時代に単純な形態、工業用素材の使用、表面への彩色といった特性を有する作家はヨーロッパにも多くいたはずだ。(ちなみにこれらの要件は多くもの派にはあてはまらない)しかしこの展覧会では彼らを排除し、ポストコロニアル体制下の「プライマリー・ストラクチュア」を捏造するためにあらためてこれらの作家が召喚されたのではないか。私はこのような恣意性には与することができない。さらに意地の悪い見方をするならば、私は今回の作家と作品の選定にマーケットの要請が関わっている気がするのだ。「態度がかたちになる時」に出品された作品の多くがその場限りの展示であって、保存や売買が困難であったのに対して、(再制作も数点含まれているとはいえ)「Primary Structures」周辺の作品、非欧米に由来する実体的な作品は新しい市場をかたちづくる。近年の具体美術協会の絵画の異常な高騰を想起してもよい。私にとって今回の展覧会はポストコロニアリズムが文化において一つの正義となることの危うさを物語っているように感じられた。

24/08/14追記
MOMAのカレンダーを確認したところ、リジア・クラークの展覧会が5月から本日まで開催されていたことを知った。具体やもの派もそうであったが、新奇な売れ筋を求めて、最近のニューヨークのアート・マーケットの「選択と集中」にうんざりするのは私だけであろうか。
by gravity97 | 2014-08-17 11:07 | 展覧会 | Comments(0)

「官展にみる近代美術」

 
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  早いうちに見て、もっと早くレヴューしておくべきであったと悔やまれる展覧会が神戸で開かれていた。福岡、府中、神戸と三つの美術館を巡回した「官展にみる近代美術」である。既に終了しているので事後報告となるが、地味ではあってもきわめて重要な展覧会であったと感じられる。私は官展にも、「植民地の美術」にも全く疎いから、適切な批評ができるか心もとないが、少なくともこの展覧会について何かしらの感想を文字として残す必要を感じる。
 展覧会のタイトルの上に四つの都市の名前が重ねられる。東京、ソウル、台北、長春。東京はともかく、残りの四つの都市は韓国(旧朝鮮)、台湾、満州国という日本によって統治されていた国の首都であり、このうち中国東北部に存在した満州国は今はない。出品リストを参照するならば最も古い作品は1909年、新しい作品は1945年に制作されている。カタログに付された年表の上限は1889年、下限は1947年である。1989年とは大日本帝国憲法が発布され、東京美術学校が開設されたというこの展覧会にとってメルクマールとなる年であるが、下限としては第二次世界大戦終結の2年後が設定されている。あらかじめこのように空間と時間を限定したうえで本展のテーマとして設定されたのはタイトルに示されたとおり、国家によって組織された公募美術展、官展である。舞台が四つあるから、当然ながら官展も四つの名前をもつ。すなわち東京においては「文部省美術展覧会」もしくは「帝国美術院展覧会」であり、それぞれ文展、帝展と略称された。朝鮮では「朝鮮美術展覧会」、台湾では「台湾美術展覧会」そして満州国では「満州国美術展覧会」。それぞれの地域で第一回展が開かれたのはそれぞれ1922年、27年、37年であり、それはこれらの地域が大日本帝国の版図に組み入れられた時期を暗示しているだろう。これらの展覧会名が韻を踏んでいることも当然である。これらの展覧会は日本の植民地政策の一環、一種の宣撫工作として実施されたのだから。これらは1907年に開始された日本の文展をモデルとして組織され、植民地主義が貫徹している。したがって朝鮮と台湾における官展の劈頭に掲げられた文書に現地の美術に関する次のような認識が明記されていたとしても驚くには値しない。すなわち朝鮮に対しては「朝鮮の美術は曾て三国時代より高麗時代に亘りて非常なる発達を為し、次で李朝時代の初期に於ても尚燦然たる光華を放つて居つたのであるが、其の中庸以来漸次陵夷して復た振はず、遂に制度の廃弛時運の衰微に伴い殆むど昔日の観を失ふに至つたのは真に遺憾に勝へぬ次第である」台湾に対しては「領台四十有余年、皇化に潤ふ島民は楽土安業に其の日を送っているのであるが、さてかうなつてはじめて心の余裕も取り戻し、美術に対する関心も持ち始めるようになつた。そして目覚めた眼をあげて島内の美術界を眺め渡しときに、そこには非芸術的な建物と服飾、幼稚な色彩に色どられた寺廟の装飾を得ただけであって、美術的には全く荒廃しきった姿の外何物もなかつたのである」偏見に満ちた、書き写すだけで気分が悪くなるような文章であるが、宗主国が植民地を教化し、善導するという発想は日本に限らず当時の欧米列強と同一であり、もちろんだからといって免罪されるはずもない。さらに官展という発想自体が本質において美術の国家統制であり、民主的な運営からはほど遠いものであることは、文展設立当初からの審査制度をめぐる紛糾、展覧会の改組をめぐる混乱からも明白であり、昨今の日展の審査をめぐる数々の疑惑を想起するならば、同じ体質が今日まで持ち越されていることもまた明らかではある。今回のカタログは資料的価値が高く、各展覧会に関する貴重な情報が掲載されているが、それによればこれら外地における展覧会の審査にあたっては審査員として日本画であれば結城素明から山口蓬春、洋画であれば藤島武二から梅原龍三郎にいたる錚々たる面々が現地に赴いている。これらの資料を繙いても実際の審査がどのように進められたか、とりわけどの程度現地の関係者が加わったかについては判然としないが、例えば朝鮮美術展においては日本人受賞者の賞状からは朝鮮人審査員の名が削除され、日本人審査員への謝金は現地の審査員への謝金の10倍近かったといった記述からも、おそらく審査自体が植民地主義を濃厚に反映させ、当落や入賞者の決定に関しては日本人審査員が決定的に与っていたと考えてほぼ間違いないだろう。作品ジャンルの変遷やジャンルごとの作品数、あるいは各地に伝えられてきた絵画と「日本画」の関係など、詳しく検討してみたい問題は多いのだが、残念ながら私の能力を超えている。ここでは私が関心を抱いた点についていくつかの所感を記すに留める。
 この展覧会の地味な印象は、出品された作品がいずれもよく似ている点に帰せられるかもしれない。出品作品はジャンルとしては大半が東洋画と西洋画に分類されるが、後者がいわゆる洋画として西欧に由来し、東アジアのいずれの国にとっても外来の表現であったのに対して、東洋画という概念は日本画も内包しつつ、朝鮮や台湾固有の絵画も包摂することが可能な便利な概念といえよう。実際には朝鮮美術展覧会には「書・四君子」と呼ばれる独特のジャンルが一定期間存在していたことが検証されている。もしそれぞれの地域に「日本画」に対応する固有の表現が存在したとすれば、それらの表現が官展という制度といかなる摩擦を引き起こしたかという点に私は興味を覚える。もっとも実際にはかかる抵抗はさほどなかったかもしれない。なぜならば第一に日本も含めて東アジアの美術は中国の圧倒的な影響を受けてきたから、「日本画」が特に独自性をもつということはなかっただろう。逆にこのような親近性が官展という制度を植民地に導入するうえで助けとなったと考えらるかもしれない。第二に先に述べたとおり、このような官展の実施が宗主国による宣撫工作の一環であるならば、必ずしも強権的な文化支配が目指される必要はなかったからだ。実際に収録された論文によれば、例えば朝鮮において総督府が朝鮮美術展の審査員を決定するにあたっては現地画壇の意向が重視され、この結果、内地の官展では諸団体の確執が続いていたにもかかわらず、「鮮展では内容的にも内地の展覧会より多様性をおびていて、なによりもうれしいことである」という伊原宇三郎の物言いは興味深い。まさに「五族協和」という展覧会の理想を逆説的に暗示しているかもしれない。それにしても「植民地の美術」が提起する問題の射程は実に深い。例えば近年いくつかの展覧会で検証されつつあるとはいえ、大陸ではなく南方諸島と美術の関係はどうか。近年、文学の領域では何人かのキーパーソンをめぐってこの問題が深められつつある。あるいはかつてこのブログでもレヴューした維新派にみられる南太平洋への志向など、大日本帝国の版図の表象は今日にいたるまで多くの作家の想像力を刺激してきた。ずいぶん以前に読んだため小熊英二であったか李孝徳であったか判然としないが、昭和初期の国家の表象という問題に触れた論文の中で、私は当時の日本に時差があったという指摘に驚愕したことを覚えている。あるいは当時の時刻表を参照するならば、今日のトーマスクックのごとく、国内と大陸が鉄路によって結ばれている状況は一目瞭然である。かかる空間的拡張が当時の人々の美的感性に決定的な影響を与えたことに疑いの余地はない。
 少し話がずれた。展覧会に戻ろう。展示された作品の穏健さ、同質性は出品作家の多くが日本で美術教育を受けたことにも起因しているだろう。宗主国が高等教育をとおして植民地の文化に決定的な影響を与えることは驚くに値しない。実際に大陸の官展に出品された作品のいくつかは日本の文展や帝展に並んでいたとしても異和感がない。多くの作品が一種のエキゾチシズムを漂わせていたとしても、それは扱われた主題による。朝鮮であればチマ・チョゴリや祭礼、台湾であれば熱帯的な樹木や草花の繁茂。しかしこの展覧会を見るならば、これらのモティーフは当時の日本の画家たちにも好まれ、実際に山口蓬春や和田三造(いずれも大陸の官展で審査員を務めた作家だ)らによって日本でも作品の主題とされていたことが明らかとなる。現地の画家が描いた大陸の風景と日本の画家が描いたそれに積極的な差異を見出すことは難しい。日本の画家が描いた大陸、かかる主題系列から直ちに連想されるのが戦争記録画であることはいうまでもない。ここで戦争画の問題にまで踏み込むことは問題をあまりに広げてしまうが、同じ大陸の風景を記録した日本人による絵画として朝鮮美術展覧会や満州国美術展覧会に出品されていた作品と、いわゆる戦争記録画がいかなる補完関係にあったかという問題は今後深く掘り下げられるべきであろう。おそらくそれは平時と戦時の対立のみに還元されることはない。構図や技法、人物と観者の関係なども含めて多角的な分析が可能ではないだろうか。
 四つの官展に出品された作品に積極的な差異を見出しにくいことは今述べたとおりであるが、作品の数としては圧倒的な不均衡がある。東京、ソウル、台北の作品はほぼ同数が出品されているのに対し、長春の作品はきわめて少ない。巻末の資料によれば展覧会の開催数自体が、文展帝展は30余回、朝鮮美術展覧会は23回、台湾美術展覧会が16回を数えるのに対して満州国美術展覧会は8回、しかも最後の回は設営直後にソ連軍が新京に侵攻したため公開されなかったという。そして満州国という国家自体も混乱の中に消滅してしまったため、美術館や大学といった作品を庇護すべき機関も存在せず、さらに日本人の引き揚げに際しては書画類の持ち出しが禁止されたため、多くの絵画が現地に遺棄されたという。これらの作品の命運は満州国という虚構の国家を象徴しているようではないか。このため今回の展覧会では記録写真によって展示の模様が紹介され、逆に写真図版を通して、この展覧会に出品された作品が同定されて国内の美術館から追加出品された例もあったと聞く。満州国美術展覧会のセクションに出品された作品は少ないが、何点かの洋画にきわめて独自のモティーフが導入されている。それは地平線である。例えば劉榮楓という画家の二点の洋画はいずれも画面が地平線で二分され、落日と虹が描き込まれている。いうまでもなく地平線は広大な大陸において初めて一望可能なヴィジョンであり、ほかの地域の絵画には認められない。ただしほぼ同じ時期に地平線というモティーフがこの時期、広くに日本に導入されつつあったことは2003年に東京国立近代美術館で開かれた「地平線の夢」という展覧会で綿密に検証されたとおりだ。この展覧会を企画した大谷省吾はこのような構図の由来をダリの影響、古代ギリシャ・ローマへの憧憬、そして大陸の風景に求めている。今述べたとおり実景としての地平線は内地では得ることの困難なヴィジョンであり、その起源をダリやイヴ・タンギー、デ・キリコといったシュルレアリスムに求めることは決して強引ではないだろう。この時、当然ながら日本の官展からは排除されていたシュルレアリスム的な構図が長春の官展では広く受容されていた可能性が浮かび上がる。さらにいえば同じ時代に地平線や水平線を伴った構図が多用されたもう一つのジャンルは戦争記録画である。戦況を俯瞰するうえでは深い奥行をともなったプラトー構造が適切であったのだ。なおも論を敷衍するならば、戦争記録画には今述べた構造が顕著な、例えば鶴田吾郎の《神兵パレンバンに降下す》のごとき作例とともに藤田嗣治の一連の絵画に顕著な、蝟集する兵士たちが垂直の壁をかたちづくるオールオーバーで平面的な作例も数多い。このような対照、つまり戦争記録画の形式的分析にはなお多く研究の余地がある。
 この展覧会から浮かび上がる問題は際限がない。最後にもう一点だけ、私が関心を抱く主題を記して筆を擱くことにしよう。それは官展とモダニズムの関係である。今、シュルレアリスムとの関係について触れたが、基本的にアカデミズムとして成立する官展とモダニズムの関係は微妙である。日本国内における両者の関係についてはいくつかの先行研究や展覧会が存在するが、大陸という函数を得て、新しい視野が広がる。残念ながらこの展覧会でこの問題は十分に検証されていない。それは満州国美術展覧会のセクションの相対的な貧弱さと関係しているだろう。私の考えではソウル、台北が東アジアの一端としてヨーロッパに対して同じようなポジションを占めるのに対して、「出品者名簿には日本人や中国人だけでなく白系ロシア人と思われる名前が混じっていた」満州国にはコスモポリタニズムの萌芽が認められる。長春ではないが、例えば同じ満州国の大連において1924年から27年にかけて安西冬衛らは日本のモダニズム詩の先駆的な存在となる詩誌『亞』を発行し、尾形亀之助も参加している。当時の大連が国際都市であったことについては多くの証言が残されており、この地域が東アジアにあって早くからヨーロッパのモダニズムを受容していたことが理解される。もし満州国美術展覧会の作品が多く残されていたら、この問題にも多くの知見がもたらされたと考えられるのだ。カタログの裏表紙にこの展覧会のタイトルの英訳が記されている。Toward the Modernity : Images of Self & Others in East Asian Art Competition まことに含蓄のあるタイトルではないか。
by gravity97 | 2014-07-27 10:35 | 展覧会 | Comments(0)

中村一美展

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 国立新美術館で「中村一美展」を見る。久しぶりに絵画を見て圧倒される体験を味わった。150点に及ぶ巨大で難解、異様な緊張感を帯びた作品の数々が並ぶ。美術館における中村の個展はこれが初めてではないが、いずれの会場も訪れるにはやや遠く、これほどの規模で中村の作品に接する、私にとっては初めての体験となった。もっとも私は比較的早くから中村の絵画に注目し、90年代中盤あたりまでコンスタントに中村の個展に通ったため、見覚えのある作品も多い。しかしそれ以降は数年の間隔をあけて開かれる南天子画廊での新作発表くらいしか作品を見る機会がなく、作品の展開をたどることはかなり困難に感じられた。したがって今回の展覧会はあらためて中村の作品の展開、その連続と断絶に触れる得がたい機会であったが、それを言葉にすることはかなり難しい。そしてとりわけ「鳥としての絵画」以降の作品はおそらくは言語化の困難と深く関係する晦渋さ、一種の異様さを秘めているように感じられる。
 現代の画家に関して、新美術館ではこれまでも松本陽子や辰野登恵子の作品を写真家との二人展という形式で紹介してきた。この際にもクロノロジカルな構成は意図的に放棄されていたが、今回も会場の途中に初期作品が挿入されるというややイレギュラーな構成がとられていた。しかし基本的には1980年以降の作品が年代を追ってシリーズごとに配置され、ゆるやかな時系列を構成している。ごく初期の作品を除いて、今回の展覧会では中村の画業がほぼクロノロジカルに「空間としての絵画」「社会意味論(ソーシャル・セマンティックス)としての絵画」「鳥としての絵画」の三つに大別され、それぞれのセクションがさらに三つないし四つのシリーズに分類されている。中村がデビューした直後の作品、すなわち「空間としての絵画」の最初の二つ、「Y型」と「斜行グリッド」の二つの連作は比較的わかりやすい。それらはともに東京芸術大学の芸術学科で中村が研究した抽象表現主義の影響を反映している。濃厚なストロークが残された「Y型」はデ・クーニング風のアクション・ペインティングを連想させるし、「斜行グリッド」においては中村が論文の主題としたバーネット・ニューマンのジップ絵画が参照されている。しかしこの二つの連作において既に抽象表現主義を批判的に克服しようとする中村の意図は明らかだ。前者においては画面に連作名が示すY字型の構造がこれみよがしに挿入され、アクションと構築性の両立が図られている。一方後者においてもタイトルが暗示するとおり、斜行線というモダニズム絵画のタブーによって画面を構築することが図られている。知られているとおり、ニューマンはモンドリアンを批判することによって近代絵画の克服を試みたが、両者はともにディアゴナルな構造を忌避した。なぜならそれは奥行きというイリュージョンを喚起するからだ。しかしY字型も斜行グリッドも本来的に斜線を内包している。マスキングテープで形成されたシャープな線条からはミニマリズムも連想されるが、中村があくまでも絵画の問題として初期作品を制作していることも明らかだ。なぜならハードエッジによる斜行グリッドとほぼ同じ時期にストロークによっても同じ構造が描かれており、作家の関心が画面の仕上げではなく構造に向けられていることを暗示している。これらの構造の由来についても中村は明言している。それは山間の樹木であり、桑の木であり、紫式部日記絵巻に描かれた蔀戸である。一見抽象的でありながら、中村の絵画が具体的な参照源を有している点は注目に値する。中村は明確な歴史意識をもった画家であり、端的に抽象表現主義の超克をめざしている。中村は絵画のみならず多くの文章も残しており、幸いにも著作選集としてまとめられている。b0138838_10195467.jpg初期の重要なテクスト「示差的イメージ」においては絵画を二種に分け、そのうち「非具象であれ、具象であれ、描かれたものがその描かれたものをストレートに表出しているもの。イメージ即イメージの絵画」として抽象表現主義を挙げる。そしてこれに対して自らが求める方向は別種、すなわち「非具象であれ、具象であれ、描かれたものがその描かれたものを提示しはするが、それだけでは解決のつかないあるものを、指向あるいは示唆しているもの。そこでは描かれたものと、その指向との間に一種のズレ(示差)が生じ、その結果意味が生み出される」と述べている。中村の文章は絵画同様に難解であるが、この言明は比較的わかりやすい。つまり中村は絵画が形式的強度として成立したポロックやニューマンの絵画を批判的に乗り越えようとしている。モダニズムを絵画において批判することと言い換えてもよいだろう。このような探求にあたって中村は絵画の主題性、あるいは日本という極東に位置することを繰り返し揚言している。ニューマンが絵画の主題に拘泥したことはよく知られている。しかしクレメント・グリーンバーグ流の教条的フォーマリズムにおいて主題の問題は往々にして軽視され、グリーンバーグ自身「全ての優れた絵画はニューヨークを経由する」という文化帝国主義的なコメントを臆面もなく表明していたことを考慮する時、中村が示すフォーマリズムへの対案は注目に値する。さらに付言するならば中村はかつて「絵画の消滅」という小論で宮川淳の文人的、文学的美術批評に対して徹底的な批判を加えた。ここでこれ以上論及する余地はないが、同様にフォーマリズムから出発した者として私は中村の宮川批判が今日もある種の「美術批評家」たちに対して有効であるように感じる。
 作品に戻ろう。批判的であるにせよ、抽象表現主義、フォーマリズムを参照項としているから「Y字」と「斜行グリッド」は比較的わかりやすい。私が中村の絵画に最初に関心を抱いたのはこの理由による。しかし続く「開かれたC型」そして「社会意味論としての絵画」以降の中村の歩みはあえてわかりにくさ、言語化の困難さを自らに課すかのようである。中村は「ダイアゴナルから開かれたCへ」という短い文章を残している。「部分的な奥行きとヴォリュームのための『開かれたC型』。それは水平方向へ畳み込むように配置される。『開かれたC型』と連動する車線の還元化された形体は、依然として斜めにズレこむ空間を形成する。この『開かれたC型』と斜線による形体は、超越的形体でもなく、いわゆる構成的形体でもない。それらは、空間に潜む精神の触発作用と深く関わるものだ」作品を参照することなしに理解することが困難なコメントであるが、「精神の触発作用」という言葉がやや唐突に記されている点に留意しておきたい。この時期、中村は洋の東西を問わず先行する表現に触発されて独特の構成を確立したように思われる。中村が参照するのは「西園寺縁起」という参詣図やマティスの《会話》という作品であり、いずれもきわめて特殊な作品である。これらの作品から中村が抽出したのはいわば絵画の骨格のようなものではなかっただろうか。つまり「開かれたC型」、「連差―破房」、「破庵」といった連作は、それぞれに異なった骨格としか呼びようのない抽象的な、絵画のあり方のタイポロジーを示しているように感じられるのだ。このように考えるならば、90年代の中村の絵画の意味に新しい角度から光を与えることができるかもしれない。中村の絵画とは、絵画が強度を帯びる骨格の探求であった。確かに抽象表現主義にもそのような姿勢は認められ、例えばニューマンのジップ絵画はこのような骨格をぎりぎりまで切り詰めたものと考えることができよう。しかし中村は絵画をその形式の内部で完結させることを拒む。抽象表現主義の探求は絵画という形式を単線的に進める中での取り組みであったから、作品の強度の由来はわかりやすく、言語化が比較的容易である。これに対して先に引いた「示差的イメージ」の中で説くとおり、中村は絵画を形式ではなく一種の指向性としてとらえる。同じ連作という手法を用いても、モダニズム絵画におけるそれが一つの主題を順列組み合わせ的に試す手段であったのに対し、中村は連作をとおして作品の間にずれを生起し、そこに意味を求めようとしているのだ。モダニズム絵画が本質主義的であるのに対して、中村の絵画は間テクスト的といえるかもしれない。一つの作品について語ることはまだたやすい。しかし作品相互の差異について語り、それを作品の本質として提起することは容易ではない。中村の絵画の難解さ、それについて語ることの難解さはこの点に由来する。そしてこれらの絵画において中村が主題の必要性を繰り返す点にもう一度私たちは注目しなければならない。例えば《潅木と虐殺》あるいは《ネガティヴ・フォレスト》、これらのタイトルはベトナム戦争におけるアメリカの非人道的行為、枯葉剤作戦などを暗示しており、中村は作品を解説する文章の中で9・11テロや溶鉱炉に落ちて死んだ友人の父親といった生々しく、多く暴力や死と関連するテーマに触れている。
 先ほど私は絵画の骨格という言葉を使った。「開かれたC型」に始まるいくつかの連作をあらためて一望するならば、画家は絵画の骨格を手探りしながら楽しんで実験している様子がうかがえて、この時期の作品、特に横長の絵画は中村としては珍しく多くのびやかな印象を与える。会場には多くのドローイングも展示されている。作家はまずドローイングをとおして連作の骨格を見定め、ペインティングで骨格に肉付けしているのではないだろうか。連作の中では時に激しいストロークが、時に斜行グリッドを連想させる直線が用いられ、Y字やストライプといったかつての/新たな骨格も自由に導入される。中村は自らの絵画が抽象でも具象でもなく、Social Semantic(社会意味論)を扱うと述べている。確かにこれらの絵画が何かを参照しているか否か、表現主義的かミニマリズムかといった問いは意味をなさない。絵画はそれ自体で自足せず、かといって何かを参照することもない。このような絵画を支えるのは苛烈な主題への絶えざる回帰であった点は留意されるべきであろう。さて、「社会意味論としての絵画」の多くが死や暴力といった重い主題と関連していたことについては先に触れた。今回の展覧会を見て、今世紀に入って中村の絵画に大きな転機が訪れたことが理解される。すなわち「採桑老」を一つの転機として、一種の再生、死から生への転換が図られているように感じられるのだ。この転機に当たって桑の木が大きな役割を果たした点は興味深い。中村が何度も述懐するとおり、桑とは養蚕を営んでいた母方の実家をとおして中村の原風景とも呼ぶべきイメージであり、出発点の「Y字」にも投影されていたことが想起されよう。「採桑老」とは死を招くという不吉な伝承を伴った雅楽でもあるが、桑という言葉から次のシリーズ「織桑鳥」が触発され、中村はそれに「フェ―ニッ―クス」、不死鳥というルビをふる。「私にとって『不―死―鳥』とは同一のものが甦ることを意味するのではなく、似ても似つかない姿、全く異形の姿を以て出現すべきものを意味するのだ」中村によれば鳥とは現代における災厄であり、例えば紛争地帯に介入する軍産複合体とまで具体的に名指しされている。「我々はそれを、死滅させ、全く異質な姿形へと再生させねばならないだろう」死滅したもの、それは養蚕業であり、桑畑であろうか、しかし私はここで暗示されているのは何よりも「絵画の死」ではないかと考える。むろん20世紀以降、絵画は常に死を宣告され、現実に映像表現の圧倒的な隆盛の前で、今日絵画は衰退している。私は「採桑老」と「織桑鳥」を経て、つまり「絵画の死」の後にあって中村が「鳥としての絵画」という圧倒的な連作を開始したことに感動を覚える。
 この連作はまさに「全く異形の姿」をとる。私は何度かこれらの絵画を南天子画廊の個展で見たことがある。しかし正直よくわからなかった。それまでの絵画と比べてもきわめて異質に感じられたのだ。中村は「存在の鳥」について次のように記している。「《存在の鳥》とは、あらゆる存在の飛翔についての絵画である。存在は飛翔しなければならず、飛翔しうるもののみが存在である」いうまでもなく「存在」とは「絵画」と読み替えられるべきである。カタログによれば、「存在の鳥」とはこれまでで最大の連作であり、すでに300点を超えるという。「存在の鳥」の骨格は比較的わかりやすい。上に掲げたカタログの表紙に掲出された作品からも明らかなとおり、それは羽を広げた鳥を模しており、画面左上に左向きの頭部とくちばしを暗示する形態が描き込まれ、多く画面中央下に足を連想させる二本の線が表出されている。今までと同様に中村はこのような骨格を定めたうえで「空間の鳥」を自由に変奏する。色面がモノクロームへと転じ、あるいはストロークの強調によって、鳥の形象が定かでない作品もあるが、その場合でも作品の骨格は残されている。作品は垂直的な印象を与え、大画面が多い。私は事後的に図版に縮小されたイメージをもとに羽を広げた鳥と記したが、会場でこのような判断はなされえない。実際に直面する時、作品はなんとも名状しがたい。私が今まで見た絵画の中で近似した印象を受けた例はクリフォード・スティルの巨大な色面抽象である。両者は異様さにおいて一致する。したがってこの絵画はタイトルと骨格においてこそ鳥を連想させるが、もはや鳥の似姿として実現されていると考えるべきではない。中村が言うとおり、これは存在の飛翔についての絵画であり、飛翔という力動性、現実からの跳躍、一つの指向性こそが主題とされているのだ。これと関連して、この連作において画面の物質性がかつてなく強調されている点も注目に値する。チューブから捻り出されたような物質感のある絵具、それもピンクやエメラルドグリーンのメタリックな色彩が用いられる場合が多い。私はこの一種凶暴にさえ感じられる物質性の強調に興味を抱いた。なぜならこれほど強調されているにもかかわらず、それらは物質というよりイメージとして機能しているように感じられたからである。おそらくその理由の一端は最後の部屋の特殊な設えに起因しているだろう。なんと「存在の鳥」連作18点が展示された部屋は壁面がオレンジに塗られ、過去の作品から引用された斜行グリッドのパターンがウォール・ペインティングとして描かれているのである。ホワイトキューブを否定するこのような壁面を背景とした時、「空間の鳥」の異様さは相対化される。そもそも蔀戸を連想するまでもなく、斜行グリッドは建築と深く関わっていた。かかるインスタレーションにおいて絵画はその飛翔の場を建築ではなく絵画の内部に準備する。必然的にそこには新しい示差が発生する。
 そもそも中村が説くように作品の差異によって意味が発生するのであれば、一つの連作がある程度まとまって展示され、相互に参照しえて初めてその意味を確認することができるはずだ。したがっていくつもの連作がまとまって紹介されたこのような展覧会によって作家の探求は明瞭となる。画廊で見た際にはよくわからなかった「存在の鳥」の意味が私なりにつかめたのは多くの作品を比較することができたからであろう。ソシュールに倣うならば、この大展覧会においては作品がその場に不在の作品との間に紡ぐパラディグマティックな意味と、斜行グリッドの上に配置された「空間の鳥」が紡ぐサンタグマティックな意味の両方を見て取ることができる。常に記号論的な意識に基づいて作品を制作してきた中村にとって本展はその集大成といってよいだろう。絵画という営みの本質に触れる作品の数々に圧倒されるとともに、今日なおこのような展覧会が可能であることに日本の美術館への一抹の希望を感じた。
by gravity97 | 2014-05-07 10:25 | 展覧会 | Comments(0)

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 20世紀の美術史は展覧会によってかたちづくられたといっても過言ではない。印象派展から「大地の魔術師たち」まで、かかる系譜をたどることはたやすい。その中でも1960年代後半は展覧会の名が一つの運動の代名詞となるような歴史的な展覧会が陸続と開催された時期であった。私はその中でもほぼ同じ時期に開かれた三つの大展覧会が現代美術の極北を示していると感じる。すなわち1969年3月、スイスのベルン美術館における「態度がかたちになるとき」、同じ年の5月、ニューヨークのホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン 手続き/素材」そして70年5月に東京都美術館で開催されたいわゆる東京ビエンナーレ「人間と物質」である。これらはいずれもコンセプチュアル・アート系の作家を多く含み、通常の展覧会の形式を逸脱した作品が多数出品されていた。それらの作品は永続的なかたちをもたない場合が多く、今日では写真によってかろうじて展覧会の状況を知ることができる。
 このうち、ハロルド・ゼーマンによって企画された「態度がかたちになるとき」について、このところ関連する展示や出版が続いている。まず一昨年から昨年にかけてジェンス・ホフマンによって企画されたWhen Attitudes Became Form Become Attitudes、―「態度がかたちになるとき」が態度になるとき、といった意味であろうか―という展覧会がサンフランシスコとデトロイトを巡回した。現在活躍する80名以上の作家が参加したこの展示は「態度がかたちになるとき」へのいわばオマージュとして構想されており、図版で示すとおり、69年の展覧会カタログを踏襲した奇抜なデザインのカタログが刊行されている。このカタログにはジェンスとゼーマンの対談なども収録されていて興味深いが、出品作家について私はほとんど知らない。一方、国内では昨年10月にイオスアートブックスから発行された「Contemporary Art Theory」の創刊号にゼーマンが「態度がかたちになるとき」に寄せた序文などが訳出された。この批評誌のほかの記事もこのブログで応接すべき興味深い内容をはらんでいるが、今はひとまず措く。そして昨年のヴェネツィア・ビエンナーレの開催に合わせてプラダ財団でジェルマーノ・チェラントの企画によって69年の展覧会が再現されるという企画が開かれ、この際に刊行された大部のカタログを先日入手した。私は展覧会を実見していないが、このカタログ自体がきわめて充実した内容であり、今回はこのカタログをとおして69年/13年の二つの「態度がかたちになるとき」について考えてみたい。
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 今回のカタログでまず圧倒されるのは巻頭に365頁にわたって掲載された69年の「態度がかたちになるとき」の記録写真である。先に挙げた三つの展覧会のうち、「アンチ・イリュージョン」と「人間と物質」について、私はコピーも含めてカタログを所持しており、さらに前者については1995年に同じホイットニー美術館で開かれた「新しい彫刻」展でかなり入念なドキュメンテーションが残され、後者については当時の『美術手帖』などを参照すれば展示の状況をかなり具体的に確認することができる。したがってこれまでほとんど情報のなかったこの展覧会についてかくも詳細なドキュメントを与えられたことは幸運であったといえよう。あらためてこの展覧会に多くのエポック・メイキングな作品が出品されていることを知る。リチャード・セラの《ベルト》と《スプラッシング》は同じ部屋に展示されている。ヤニス・クネリスは穀物や石炭を麻袋に詰め、ボイスはフェルトと脂肪を出品している。ボイスがフェルトを床に重ねたのに対して、同じフェルトに切り込みを入れて壁に掛けたのはロバート・モリス、同じ部屋に設置されたロープ・ピースはモリスではなくバリー・フラナガンの作品だ。日本からは長沢英俊が野村仁を連想させるドライアイスの作品を出品していたことを私は初めて知った。セラの《スプラッシング》の傍らには思いがけずフィリップ・グラスの姿を認めることができるし、オープニングの来客の中にはパンザ伯爵もいる。これらの写真を眺めていると私はいつまでも見飽きることがない。
 これらの写真と一緒に詳細な会場の図面も掲載され、出品された作品の一つ一つに番号が振られてキャプションによって同定されている。無理もない。展示された作品は多く放置された素材の印象を与え、どれが作品でどれが設備か、判然としない場合も多いのだ。室内に置き忘れられたような金網や木箱、鉄パイプ、四角形に剥ぎ取られた壁面が作品であり、美術館の前の公道の窪みが作品なのだ。私がこの展覧会を現代美術の極北とみなす意味がおわかりいただけるだろう。この展覧会には「作品―概念―過程―状況―情報」というサブタイトルが付されている。いうまでもなく概念や過程、状況や情報といった本来はかたちをもたない要素が作品となるという意味であり、記録写真を見る限り、まさにそのとおりのことが発生している。ゼーマンはカタログに寄せた文章で次のように述べている。(ただしこのカタログにはゼーマンのテクストは収録されていない。先に言及した『Contemporary Art Theory』所収の河田亜也子の翻訳からの引用である)「(これまでこれらの作品に与えられた様々な名称は)形態に対する外見上の抵抗、個人的かつ感情に支えられた関与の度合の高さ、それまで芸術とみなされていなかった物体が芸術であるという宣言、結果から過程への興味の移行、ありふれた素材の使用、作業と素材の相互作用、作品の素材あるいは作品の場所としての母なる大地、または概念としての砂漠、という側面である」「この展覧会に出品している作家たちはいずれもオブジェの作り手ではない。反対に彼らはオブジェからの自由を希求し、それによってオブジェを超えた極めて重要な状況に至るようにオブジェの意味層を深化させる。彼らは芸術的過程が最終的な制作物や『展覧会』でも目に見えるようになることを望んでいる」最後の一文からはロバート・モリスの「アンチ・フォーム」の概念なども連想され、かかる気風が当時広くアメリカとヨーロッパで共有されていたことを暗示している。あるいは私はこれらの写真から、ここに展示された作品が数年後に日本で勃興する「もの派」の動向とあまりにも多くの共通点を有すことにあらためて驚く。「もの派」のオリジナリティーはもう一度検討されるべきではなかろうか。展示の雑然とした状況、そして炎(ゾリオ)やコンクリート片(ボエッティ)といった「素材」の使用、鉄球で公道を破壊するハイザーの所業などから68年の学生叛乱を連想しないでいることは難しいし、おそらくこのような印象は来場者にも共有されたのではなかっただろうか。過程や状況といった「関係」への関心からは当時注目されつつあった構造主義との関係を指摘することができるかもしれない。かくのごとくカタログに軽く目を走らせるだけでいくつもの発見や疑問が湧き上がるのは優れた展覧会の常とはいえ、ここで論じたいのは69年の展覧会ではない。むろんこのようなドキュメントが刊行された以上、その再検証は直接展示を見ることができなかった世代の研究者によって今後なされることとなろうが(このあたりの事情は例えば2001年に発表されたジェイムス・マイヤーによるドキュメントがその後のミニマル・アート研究に切り開いた可能性と比較できるだろう)、ここでは私は69年のベルンの展覧会がほぼ半世紀の時を隔ててヴェネツィアで「再現」されたことの意味について考えてみたい。
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 今回の展示はアルテ・ポヴェラを主導した批評家ジェルマーノ・チェラントの手によってヴェネツィアで「再現」された。69年の展示にはアルテ・ポヴェラの作家も多数参加したから、アルテ・ポヴェラ再興/再考といった意図があるのかもしれない。分厚いカタログには多くのテクストも収められており、いくつかには目を通したが、もしかするとこのあたりの事情を論じたテクストが収録されていたかもしれない。序文の冒頭でチェラントは展覧会以前、69年1月にゼーマンと面会し、作家に関する情報を交換したことを記している。チェラントが「アルテ・ポヴェラ」を企画したのは68年のことであり、二つの展覧会の出品作家はかなり重なっている。この意味でゼーマン亡き後、この展覧会を「再現」するうえではチェラントが最もふさわしい批評家であった。しかしそもそも69年のベルン美術館で開かれた展覧会を13年のプラダ財団で「再現」」―カタログではremakeとreconstructionの二つの言葉が用いられている―することは可能であろうか。例えば出品作家だ。カタログには二つの展覧会の出品作家リストが添えられているが、よく見ると微妙な異同がある。例えばダニエル・ビュランや長沢英俊といった作家が69年のリストには加えられていないが、13年のリストには挙がっている。しかし図版を参照するならば彼らはゼーマンの展覧会にも出品しているはずだ。単純な表記のミスか、深い意味があるのか、私としては判断する材料がない。しかしながら今回の展覧会がゼーマンの展覧会の可能な限り忠実な「再現」を目指していることもまた明らかだ。69年の出品作家はほぼ網羅されており、カタログの中には二つの展覧会を対照するかたちで69年の全出品作品のリストが付され、作品ごとにExhibited / Not Exhibited という表記によって今回の展示に加えられているか否かを確認することができる。さらにカタログには二つの展覧会の作品の配置図が掲載されており、驚くべきことに今回の展覧会ではプラダ財団の会場内にベルン美術館と同じ空間が挿入されるかたちで壁面が構成されたようである。カタログの表紙には会場のデコラティヴな装飾を分断するように白い壁面が設置されている写真が掲載されているが、おそらく仮設的な構造を用いてベルンの美術館の空間がヴェネツィアの宮殿に移設されたのであろう。カタログを参照するならばこのような再現に協力したのが建築家のレム・コールハースと写真家のトーマス・デマンドであり、チェラントと二人の短い対談も掲載されている。チェラントは当時の図面に基づいてまず作品が展示される空間を再現し、そこに存在した作品をあらためて再配置したのである。これが大変な事業であることは直ちに理解されよう。当時展示された作品のうち、かたちを有して今日まで伝えられている作品については現在の所蔵者と交渉して借用し、かたちをもたない作品については作家が存命であれば再制作を依頼しなければならない。69年の展覧会にはそれぞれの作家にとって代表的な作品が多く出品されているとはいえ、それから四半世紀以上経過した後に所在を確認し、作家と交渉する作業がいかに困難であるかは容易に理解される。ことにかたちをもたない作品に関して作品は再制作によって再現されるしかない訳であるが、この場合、オーセンティシティの問題も浮上する。つまり作品の真正性を保証するのは何かという問題だ。なおも作品と作家を結びつける発想が強い私たちにとっては同じ作家が時を隔てて同じ作品を制作することがその保証であると感じられる。しかし構造主義を経過した私たちにとって作品とは作家、時代、場所、素材といった要素の函数にすぎない。ロラン・バルトが作品に代わるテクストという概念を提起した今日において、作家だけをオーセンティシティの起源とする発想はもはや時代遅れだ。例えばソル・ルウィットは69年の展覧会に典型的なウォール・ドローイングを出品している。この際にルウィット自身が制作にあたったか否かは判然としないが、ルウィットが没した後に企画された今回の展示では「ル・ウィット・エステイトによる再現」という注釈とともに同じ作品が壁面に直接描かれている。ルウィットの場合は作家の生前より、作品の制作は作家が抱えるドラフトマンたちによって代行されていたので、今回の展覧会にも真正のルウィットの作品が出品されたことに疑いの余地はなく、この場合、作家は作品の起源ではない。コンセプチュアル・アートにおいては常に作品のオーセンティシティが何によって保証されるかという点が問われてきた。そして今回の展示では会場の同一性、つまり作品の配置がその根拠とされている。これはきわめて斬新な発想ではないだろうか。通常私たちは作品が選択、配置されることによって展覧会が成立すると考える。しかし13年のヴェネツィアにおいては作品が一つの展覧会において特定の位置、つまり69年と同じ場を占めることによって意味を与えられている。極言するならば作家も制作年も無関係なのだ。先ほど私はゼーマンの展覧会と構造主義の関係に触れたが、かかる意味で13年の展覧会はテクストの織物としてきわめて構造主義的な特質を有しているといえよう。
 しかしながら、この展覧会は多くの問題もはらんでいる。まず69年において革新的な意味を持った展覧会をおよそ半世紀後に再現することにいかなる意味を見出せるかという問題だ。美術、ことに現代美術はカッティング・エッジとして意味をもつ。今回の展覧会に関して目にした数少ない日本語によるレヴューが69年の展示を今日、再現することの意味を問う内容であったことは当然であろう。チェラントはゼーマンというビッグネーム、「態度がかたちになるとき」という歴史的な展覧会の権威を利用して、確信犯的に展覧会の再現という類例のない試みを挙行したといえるかもしれない。そもそも展覧会のアイデンティティーは何に求められるか。企画者のコンセプトか、展示された作品か、展示された場所か、あるいはカタログや記録写真か。この問題はなかなか奥が深い。ことに「態度がかたちになるとき」のごとき、実体的な作品を伴わない作品が多く出品された展示においては、たとえ同じ会場が使用されたとしても同一の作品を展示することは困難である。この問題を考えるにあたって一つのヒントを与えるのは、2005年、グッゲンハイム、ニューヨークにおけるマリーナ・アブラモヴィッチの[Seven Easy Pieces]であろう。アブラモヴィッチは歴史的なパフォーマンスを自らの身体によって再演するにあたって、それらのパフォーマンスを初演した作家の許諾を得て著作権料を支払っている。アブラモヴィッチの例はパフォーマンスにおいては作家の意図やコンセプトが実際の上演より重要である点を暗示している。今回の展示において、ゼーマンの展覧会に出品した作家もしくは遺族の意図はどのように反映されているのだろうか。この問題はさらに作品を再制作する権利は何に由来するかという問題へと敷衍されていく。今日、失われた作品を作家や美術館が「再制作」する例は数多い。しかしそれらのオーセンシティは何に求めることができるだろう。ちょうど一年前にグッゲンハイムで開かれた具体美術協会の回顧展についてはこのブログでも触れたが、そこにも多くの「再制作」が展示されていた。作家自らの手によるもの、国内の美術館が収蔵する「再制作作品」、そして現地で展覧会のために再制作された作品、かかるヴァリエーションの広がりはコンセプチュアル・アートの本質と直結しているように感じられ、この意味においても具体美術協会は戦後美術の出発点であった。
 この展覧会自体がいくつもの論考の端緒となる。展示を実見しておらず、まだカタログを読み込んでいない私としては、ここではひとまず問題の輪郭を粗描するに留めたが、あらためて展覧会という営みの批評性を痛感させる出来事であった。実際に展示を御覧になった方からコメントをいただくことができればありがたく感じる。
by gravity97 | 2014-03-01 21:39 | 展覧会 | Comments(0)

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 国立国際美術館で「あなたの肖像 工藤哲巳回顧展」を見る。国立国際美術館で工藤の回顧展を開くのは二回目であり、現在の中之島に移転する以前、千里にこの美術館があった頃、1994年の回顧展にも私は足を運んでいる。国立美術館で同じ作家の回顧展を二度開くことは異例であり、600ページにも及ぶ厚さのカタログとともにこの作家に対する美術館の力の入れ方が理解できよう。94年の回顧展は岡山へ巡回したように記憶しているが、今回も東京国立近代美術館、青森県立美術館への巡回が予定されているから、この異端の作家の認知度が高まることは間違いない。
 工藤哲巳は1935年に大阪で生まれ、青森、岡山で青少年期を過ごした後、東京藝術大学に入学し、読売アンデパンダン展などで数々のスキャンダラスな作品を発表した。1962年にはパリに渡り、以後、パリを拠点としてヨーロッパで活動する。80年代以降はパリと日本を往復しながら作品の発表を続け、87年には東京藝術大学の教授に就任して私たちを驚かせた。しかしこの時すでに工藤は癌に冒されており、90年に55歳の若さで没した。94年の展覧会カタログには巻末にそれまでに判明している作品の300点に及ぶカタログ・レゾネ(ただし図版は一部)が付されていたから、ある程度の調査の蓄積はなされていたと考えられようが、今回の展示では作品の量も格段に増え、海外からも多くの作品が借用されている。工藤の作品はフラジャイルな素材で制作されている場合が多いため、輸送や展示にもずいぶん気を遣ったはずだ。美術館の力業という印象が強い。
 前回の回顧展でその全貌を見知っていたため、作品そのものに驚きはなかった。アンフォルメル風の絵画やアクション・ペインティングに始まり、たわしと紐を用いた一連のオブジェ、ペニスを連想させる「インポ哲学」の作品群、人体の一部が剥げ落ちたようなグロテスクなオブジェ群、鳥かごの中に身体器官や植物を配置した悪趣味な作品、そして糸巻きや凧を模した早すぎる晩年の作品、所狭しと展示された異様な作品の数々には圧倒される。中でも圧巻は一室全体を占拠する《インポ分布図とその飽和部分における保護ドームの発生》である。1962年の第14回読売アンデパンダン展に出品され、大きな話題を呼んだこの作品はインスタレーションの早い例というか一つの部屋全体を用いた造形であり、それゆえ再現不可能であると考えられていたが、その後、オランダのコレクター、フリッツ・ベヒトによって収集され、現在ミネアポリスのウォーカー・アート・センターに所蔵されている。私は今年初めにニューヨーク近代美術館で開かれた「TOKYO 1945-1970」展にこの作品が出品されているのを見て大いに驚いたのであるが、今回の展示はその際と全く印象が異なる。ニューヨークではペニス状のオブジェは天井から吊された状態であったため数も限られており、正直言ってさほどの衝撃はなかった。しかし今回はペニス状オブジェが吊されるのみならず三面の壁の上のあちこちに密集し、観者は作品の中にインヴォルヴされた状態となる。このような展示が最初の発表に近いことはいうまでもない。あるいはデッキチェアの上に崩れ、溶けかけたような身体器官がなすりつけられた不気味な《あなたの肖像》がいくつも並べられたコーナー、鳥かごの中に不気味なオブジェがぎっしりと詰め込まれた作品が一堂に会したコーナーも衝撃的である。前回の回顧展に比して明らかに出品作品の数は増え、しかも代表的な作品が加えられている。前回は含まれていなかったベヒト旧蔵の代表作が内外の美術館に収蔵され、今回展示された意義は大きい。カタログを確認するならば、この展覧会に対して工藤夫人の全面的な協力があったことがわかるが、それにしても先に述べたとおり、作家としてのキャリアを海外で築いた作家についてこれほど多くの情報を集めることが大変な作業であったことは直ちに理解される。私がこの展覧会を力業とよぶゆえんであるし、この展覧会は一人の作家の回顧展のいわば理念型を示している。カタログの中にはこの展覧会を企画した担当者による20章から成る編年体のドキュメントが添えられ、工藤の歩みが手に取るようにわかる。前回の回顧展で試みられたカタログ・レゾネ・イン・プログレスの試みはさらに拡大されて、今回は448点に及ぶ作品が図版付きで掲載されている。このような展覧会が開かれ、カタログが作成されたことは作家にとって幸福なことであり、美術館が本来なすべき務めを果たしたということもできようが、それは国立美術館の潤沢な予算と多くのインターン・スタッフの存在によって初めて可能とされている点を忘れてはならないだろう。
 当然ながら展覧会を見て多くの発見があり、多くの思考が誘発された。先般、このブログでハイレッド・センターの回顧展について触れたが、オブジェという問題に関して、60年前後に近似した意識が共有されていたことがあらためて理解される。廃品の使用、アッサンブラージュの導入といった点において工藤と同時代の作家たちにさほど距離はない、それどころか紐という素材の導入において工藤と高松は一致するし、大量生産される卑俗な品物という点で工藤のたわしと中西の洗濯挟みに大きな差異はないように感じられる。工藤のオブジェが読売アンデパンダン展の中で独自性があったとすれば、ペニスを連想させる形態を導入したことであろうが、これとて赤瀬川の《ヴァギナのシーツ》や工藤の盟友であった吉岡康弘が出品してたちまち撤去されたという女性器の超拡大写真、TOKYO展にも出品されていた菊畑茂久馬の《奴隷系図》の丸太に添えられたペニスとヴァギナを想起するならば工藤のみによって探求された主題とは考えにくい。いかなる集団にも属さず、出品した時期も短かったにもかかわらず、工藤が読売アンデパンダン展の中核的な作家とみなされたことには理由があるだろう。このように考えるならば、工藤が真に表現のオリジナリティーを獲得したのは、フランスという異郷に渡り、ヨーロッパ文化を相対化して批判する視座を獲得した後と考えることができよう。後から述べるとおり、私は工藤の西欧批判、ヒューマニズム批判が作品によって十全に実現されているとは考えないが、少なくともこのような視座をもちえたことによって、工藤はしばしば類比が指摘されるエドワルド・キーンホルツやブルース・コナーといったアメリカのグロテスク・リアリズムの作家よりもはるかに深い問題を提起している。
 それにしてもヨーロッパでの工藤の活躍はめざましい。展示というよりもカタログを通して知ったのだが、工藤は渡仏して1年も経たないうちにきわめて重要なハプニングを挙行している。それはジャン=ジャック・ルベルの誘いに従って参加した63年2月のブローニュ映画撮影所における「破局の精神の悪魔祓いのために」である。ペニスか芋虫を連想させるグロテスクなオブジェをからだに縛りつけてのたうちまわる工藤のショッキングな写真は今回の展覧会のポスター等にも使用されていたが、この際に用いられたオブジェが先に読売アンデパンダン展の《インポ分布図》で使用されたものであったことを私は今回のカタログを読んで初めて知った。つまり読売アンデパンダン展からこのハプニングまでは一つの連続として捉えることができる訳だ。さらにこの時のハプニングの模様はアラン・カプローの大著『アッサンブラージュ・エンヴァイロメンツ・アンド・ハプニングス』にも収録されている。早速、同書を確認したところ図版に示したような写真が確認できた。
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下の図版で工藤の左上に写っている女性はパリでギャラリーを開いたばかりのイリアナ・ソナベントであろう。ソナベントは工藤が滞在中のホテルの部屋を用いて作品を展示した際にもその場を訪れたという記述がカタログ中にあるが、かくも早い段階で工藤がヨーロッパとアメリカを結ぶ作家、ギャラリストたちのネットワークに接続していた点には驚く。そして工藤にとってニューヨークでなくパリを拠点に活動したという点は決定的に重要であるように感じる。60年代初めから開始され、展覧会のタイトルともされた「あなたの肖像」は工藤がいうところのヒューマニズム、人間中心主義を挑発、批判するにあたってはヨーロッパという前提が不可欠であったと考えるからだ。「あなたの肖像」はいくつもヴァリエーションをもち、単純に総括することは難しいが、多くが断片化された身体器官のアッサンブラージュとして構成され、しかもそれらは抜け殻、ケロイド、培養や増殖といったグロテスクなコノテーションをはらんでいる。ヒューマニズムの象徴として例えば劇作家イヨネスコのマスクが用いられ、工藤はこれに執拗な攻撃を加える。工藤がヒューマニズムを批判する際のキーワードは養殖、放射能、エコロジーといったものであるが、カタログの中でも指摘されているとおり、養殖 cultivation とは語源的に文化 culture や文明 civilization と関連し、放射能という言葉が3・11 以後の日本人に対してもつ意味については論じるまでもなかろう。さらに工藤の用語法はエコロジーという言葉が使われたきわめて早い例である。私はここから工藤の先見性や予言性を評価する見方には必ずしも与しないが、重要な問題であることは間違いない。
 70年代中盤より工藤の作品に転機が訪れる。78年、工藤はベルリンに長期滞在するが、その前後より経済的な困難、長女の出生に伴う夫人の多忙などを背景に工藤はアルコールに依存した生活を送るようになる。80年にパリで入院を伴う治療を受けたことによって、依存症から回復した工藤は作風を変え、オブジェは攻撃性よりむしろ内省的、思索的な性格を強める。それまで攻撃の対象とされていたイヨネスコのマスクに代わってパスカルのマスクが用いられることが増え、作家によればそれは自画像でもあったという。作品は多く鳥かごを枠組として、最初はグロテスクなオブジェが詰め込まれていたが、次第に色とりどりの糸が封じられるようになる。糸は綾取り、そして染色体といった多義的な意味をはらんでいる。80年にポンピドーセンターで行われた「灯は消えず」というセレモニーは白装束を身にまとった工藤が賛美歌と般若心経が流れる中、黙々と綾取りをするという内容であり、60年代の過激なハプニングとの相違は明らかであろう。これ以後、工藤はパリと日本を往還しながら生活するが、ほぼ同じ時期に70年代の工藤の仕事の大半に使用された鳥かごは用いられなくなる。中原佑介が「最大級の脱皮」と呼んだ情念的なオブジェとの決別である。工藤といえばグロテスクなオブジェのイメージがあまりにも強烈なため、私はかつての回顧展を見たことがあるにもかかわらず、作風の展開という点に思いをめぐらせることがなかった。しかし今回の展示を見て、80年頃に作品の大きな断絶があることにあらためて気づいた。これ以後、工藤は色のついた糸という素材を用いながらもそれを円錐形、円筒形、もしくは球状に巻きつけた比較的シンプルなオブジェを発表する。絡み合った紐状のオブジェという点で初期の作品を連想させないでもないが、両者の間には決定的な差異が存在するように感じた。工藤はこれらの作品に「天皇制の構造」というタイトルを与えたが、展示を見て、カタログを読んでも作家の意図するところは必ずしも判然としない。むしろ津軽塗や津軽凧といった工藤の生まれ育った環境との関係がうかがえる。80年代後半は闘病の時期でもあったから、作品がサイズとしても小さく、やや弱い印象があることは否めないにせよ、この時期の作品については今後さらに多様な角度から検証されることが望まれる。
 工藤の仕事の全幅に触れる体験は多くの発見と同様に、あらためてこの作家の限界についても思いを巡らす契機となった。この点は工藤が同時代の多くの作家が向かったニューヨークではなく、パリを拠点に活動したことと関係しているだろう。工藤はヨーロッパのヒューマニズムを徹底的に批判した。工藤によれば人間は自由にはなりえないし、今やヒューマニズムの破産は自明である。作家はそれを環境汚染や放射能といったキーワードをとおして作品化した。しかしアンチ・ヒューマニズムもヒューマニズムの一側面とは考えられないか。それは人間という存在を前提としている。「ヨーロッパから学ぶものは何もない」と信じていた工藤さえも西欧近代という磁場の中に呑み込まれてしまったといえるかもしれない。確かに工藤は断片化された人体、痕跡化された人間、養殖される身体器官といった一連のグロテスクな作品をとおして、人間を世界の中心に置く思想を否定した。しかしそれはネガティヴに人間の存在を認めることである。少し厳しい言い方をするならば、私は工藤の仕事はシュルレアリスムのリヴァイヴァルではなかったと考える。シュルレアリスムも人間の理性や意識を否定した。しかし人間そのものを否定することはなかった。工藤の仕事も人間という前提がなければ成立しえない。具体的な作品に即して論じよう。この意味でも今回の展覧会はきわめて興味深い対照例を用意している。工藤は活動の早い時期にペニスを模した一連のオブジェを制作する。それは時には天井から吊るされ、かごの中に入れられ、時に作家自らが装着した。私たちはほぼ同じ時期にやはりペニス状のオブジェを発表したもう一人の作家をたやすく思い出すことができる。いうまでもなく草間彌生であり、実際に常設展示においてはペニスを家具の上に密集させたこの美術館が所蔵する優れた作例が展示されていた。しかしこれら二つのペニスは対照的といってよい。工藤のペニスは例えば芋虫、あるいはさなぎといった気色悪いコノテーションを伴い、作品の中心に位置する。これに対して銀色に塗られた草間のペニスはそのような連想を拒み、作品の中心というより単なる構成要素として、アッサンブラージュによって独特の効果をあげている。つまり作品におけるデノテーションとしてペニスが問題とされているのだ。別の言葉を用いるならば、工藤のペニスはその場に不在の不吉な記号と関係を結ぶことによって暗喩的に機能する。しかし草間のペニスはどのように配置されるかという点において換喩的に機能するのだ。この意味で私が工藤における興味深い例外と考えるのは《インポ分布図とその飽和部分における保護ドームの発生》である。この作品は単にペニス状オブジェの空間への拡張として成立しているのみならず、ペニスのメタファーに依存することなく一つのエンヴァイロメントの形成が試みられている。しかし多くの場合工藤のペニスは様々なコノテーションを秘めて作品の中心に君臨する。意味論的にそれはシュルレアリスムのオブジェと変わるところがない。これに対して草間のペニスは多く中性的な銀色に彩色され、空間を埋め尽くすように増殖する。それ自体のメタフォリカルな意味を逓減し、空間的、形式的な問題へと接続するのだ。草間のネット・ペインティングも同様の問題意識をはらんでいることは言うまでもない。そしてそれを最初に評価したのがドナルド・ジャッドであった点に注意を喚起しておこう。私の考えではミニマル・アートこそヒューマニズムと全く別の位相で作品を構想する重大な契機であった。それは工藤のような反ヒューマニズムではなく、端的に非ヒューマニズムとしての芸術へと道を開いた。ミニマル・アートはなおも観者の身体を要請したが、人間とは無関係に美術が存在しうるという発想は彼らに後続する一連の作家、例えばリチャード・セラやロバート・スミッソンの作品において実現され、全く新しい美術の地平を瞥見させた。しかしヨーロッパの重い歴史と戦った工藤にとっては、圧倒的な伝統としてのヒューマニズムに対してアンチ・テーゼを提出することが最重要の課題であり、ヒューマニズムとは無関係に美術が存在しうるという発想はありえなかったのではないか。この時、工藤にとって反ヒューマニズムは可能性であると同時に限界であったのだ。
by gravity97 | 2013-12-30 08:58 | 展覧会 | Comments(0)

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 師走に入り、今年一年を振り返る時期となったが、今年は日本の戦後美術を回顧する展覧会の当たり年だったといえよう。昨年暮れに始まった東京国立近代美術館における50年代をテーマにした一連の展示、ニューヨークでの「TOKYO 1955-1970」展と具体美術協会の回顧展、現在も国内を巡回している「実験工房」展、そして未見ながら先日より国立国際美術館で開催中の「工藤哲巳」展。今回レヴューする名古屋市美術館における「ハイレッド・センター 直接行動の軌跡」展もこれらの展覧会に呼応し、これまで展覧会として検証されることのなかった戦後美術の重要なトピックを紹介する試みである。
 ハイレッド・センターとは何か。この問いに答えることは容易だ。「エンサイクロペディア・ハイレッド・センタニカ」なる怪しげな出典とともに当事者によって明確に定義されている。

 ハイレッド・センター Hi-red Center ある集合体。HRCと略称されることもある。発起人とみられる高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の最初の字、「高」、「赤」、「中」の英訳でその名称が作られたというのが定説である。(中略)構成員も、多くの記録では前記した発起人三名のほかに和泉達も含まれているが、その四名はあくまでも公式要員といわれるごく一部であるにすぎず、それ以外に非常に多くの非公式要員、別称、地下要員、または匿名センター要員がいるといわれている。そして最近の調査によれば、構成員の存在は流動的なものであるらしく、特定の状況のなかで一時的にかなりの人員の増加をみることもあれば、極端に減少することもあるらしい。(中略)この点から、ハイレッド・センターは集合体ですらないという説もある。(後略)

 HRCは匿名の集団として1960年代初頭の東京、多く街頭などの公共的な空間で奇矯なパフォーマンスを繰り返した集団である。しかし日本でこれまで彼らの活動が紹介される機会はほとんどなかった。もちろん今挙げた三人の作家の個展に際して、いわば活動の周縁として紹介されることはこれまでにもあったし、1999年に東京都現代美術館に巡回した「アクション 行為がアートになるとき」において、戦後日本のパフォーマンスを代表する集団の一つとして取り上げられたことはあったが、その活動が正面から展覧会の主題とされたことは今回が初めてである。このような遅延についてはおそらく二つの理由が考えられるだろう。まず彼らが繰り広げたイヴェントは本質的にエフェメラルであり、永続的な「作品」を展示する展覧会、あるいは美術館といった制度になじまない。第二にHRCの活動は、当事者の一人である赤瀬川が1984年に著した『東京ミキサー計画』の中で詳細にわたって総括されたため、これ以上検証する余地がないように感じられたのだ。この二つの理由は実は相互に関係している。つまり彼らのイヴェントは一過性で実体を伴わない、それゆえ美術館での展示になじまないが、情報として一巻の書物の中で十分に総括しうるという発想だ。今回の展覧会はこれら二つの予断がいずれも誤りであることを明確に示している。まずこの集団は実に多くの実体的な作品、さらに言うならば審美的なオブジェを残している。それどころかHRCほど特定のオブジェと結びついた活動を繰り広げた集団は存在しないのではなかろうか。彼らが使用したオブジェ(ないし手法)を私は直ちに個別に特定することができる。すなわち、高松の紐、赤瀬川の梱包、そして中西の洗濯挟みだ。これら日常に遍在する品物ないし操作がそれぞれ作品化されて美術館に収蔵されている点は会場をめぐる時、明らかである。のみならずそれらのオブジェは今日においても実にエレガントではないか。同様にアッサンブラージュの手法を用いて発表された同時代のネオ・ダダやヌーヴォーレアリスムのオブジェと比してもHRCのオブジェが圧倒的に洗練されていると感じるのは私だけではなかろう。第15回読売アンデパンダン展、二つの画廊で開かれた第5次と第6次のミキサー計画、さらには中原祐介が企画した「不在の部屋」といった展覧会に展示された多くのオブジェは美術館に収蔵されて今日に残され、この展示の中核をかたちづくっている。私はあらためて作家としての高松、赤瀬川、中西の力量を思い知った。HRCは匿名的な集団であるが、独立した作品としての品格を有したオブジェを残した作家がこの三人だけであったことは展示からも明らかであろう。HRCのオブジェについて語ることは興味深いが、それだけで優に数篇の論文の主題たりうる。そしてオブジェへ集中してしまうならばHRCの活動の本質は見失われてしまう。彼らは第一になんとも不穏なハプニング集団であったからだ。b0138838_22423911.jpg
 後述するとおり、彼らの活動の輪郭を見定めることは難しい。それにしても彼らの最初の主要なハプニング、「山手線フェスティヴァル」(ハプニングの呼称は以下、全てカタログに準じる)が当時の国電山手線という公共空間で実施されたことに私たちは驚きを禁じえないだろう。公共交通機関たる電車内での不穏な身振りから私たちが否応なく連想するのはほぼ30年の時を隔てて地下鉄の車内や駅構内で引き起こされた毒ガステロである。駅頭で奇怪な行為を繰り返す彼らの所業は毒ガスマスクを装着して街頭を行進したゼロ次元のアクション(「ベトナム反戦行進」1967年)同様、今日においては直ちに処罰の対象となっただろう。このような不穏さは中期の「シェルター・プラン」あるいは後期の「ドロッピング・ショー」、「首都圏清掃整理促進運動」などにも明らかである。一方で私たちはほぼ同じ時代に寺山修司が一連の市街劇を携えて都市空間に介入していたことも想起すべきであろう。これまで研究史がなく、私も具体的な接点については考えが及ばないが、匿名の送り手から不特定多数の人へインストラクションが郵送されるというシェルター・プランで採用された手法と寺山の書簡演劇、あるいはHRCが街頭で演じたハプニングと無関係の市民も巻き込んで演劇が上映される一連の市街劇が無関係であったとは考えられない。(中西と舞踏の関係、例えば土方巽の舞台美術との関係は知られている。あるいは寺山の行きつけのビルの屋上について高松が墓地のようだと評したエピソードが残されている。個々の作家レヴェルで交友があったことは確認できるが、ハイレッド・センターと寺山の関係はまだ十分に検証されていない)そして私たちは今やかかる芸術的挑発を許容する公共空間が消滅してしまったことを認識せざるをえない。市街地は監視カメラによって常に記録され、隣接する児童公園で朝礼を行った朝鮮学校に対しては「不法占拠」として在特会の常軌を逸した抗議行動が繰り広げられるのだ。その一方で「原発を止める人々」の中で語られたように、現在、反原発あるいは特定秘密保護法案への反対を表明するデモによって首都の街路が再び公共空間として整然と奪回されつつある。この意味においてもこの時期にハイレッド・センターの活動が検証される意義は大きい。
 話が逸れた。展覧会に戻ろう。多くのオブジェとともにこの展覧会にはたくさんの記録写真が展示されている。未見の写真も多く、興味深く確認した。この展覧会を企画する際の困難の一つはHRCの輪郭がきわめてあいまいであることだ。例えば集団名の「ハイレッド・センター」という名称にしても、各種文書を検証するならば「ハイ・レッド・センター」、「ハイ・レッドセンター」を含む少なくとも6種類の表記が確認されることがカタログのテクストの中で触れられている。このような錯綜、混同は明らかに意図的なものであるし、構成員の多様性は先に引用した一文の中にも明らかだ。最初に私は彼らの活動が赤瀬川の『東京ミキサー計画』の中で詳細に紹介されたために展覧会による回顧が遅れたと述べたが、この展覧会を見た後ではHRCについてはなおも多くの知られざる展示やハプニングが存在していたことに気づく。例えば四人目のHRCと呼ぶべき和泉達の二度目の個展「指紋検出」に関する展示があった。今、『東京ミキサー計画』を読み返してみるならば、確かにこの個展についての記述もあるが、デニス・オッペンパイムを連想させる和泉の作品の詳細を私はこの展覧会で初めて知った。この展覧会では1962年の「敗戦記念晩餐会」から1967年、村松画廊における「表現の不自由」展まで40項目にわたってHRCの直接行動がピックアップされ、それぞれの日時、場所、当事者、目撃者、証拠が列挙されている。企画者はカタログ・テクストの中でこの展覧会がいわば広義のHRCを対象としていることを言明している。先の定義から明らかなとおりHRCの構成員は特定されていないので、誰の、どのような行為をHRCの活動とみなすかはきわめて恣意的な選択となる。
 今、私は恣意性という言葉を挙げた。恣意性こそHRCの戦略ではなかろうか。先に私は紐、梱包、洗濯挟みという彼らが用いるオブジェや手法を特定した。なぜこれらのオブジェや手法が選ばれたか。この点についてはさらに精密な議論が必要であるにせよ、私の考えではこれらのオブジェや手法は例えばシュルレアリスムやダダイスムにみられたような必然性を伴っていない。先ほど、ピックアップという言葉を用いたが、それらは無数の選択肢の中から恣意的に選ばれたとは考えられないだろうか。同様の恣意性は彼らの「直接行動」にもあてはまる。日常の様々の行為の中から彼らが「直接行動」と呼ぶ一種の芸術的な営為はいかにして区別されるか。もちろん個展ないしグループ展として挙行されたそれもあれば、「山手線フェスティヴァル」のごとき明らかな事件性をもったハプニングも存在する。しかし雑誌広告や書籍の出版をあえて「直接行動」のリストに加える必然的な理由はあるだろうか。さらに言えば例えば途中で終えられたという説もある「山手線フェスティヴァル」において、どこからどこまでが「直接行動」とみなされるだろうか。それはHRCが駅に入った時点か、あるいはオブジェを取り出した時点か。このように考えるならば、一つの行為を芸術と結びつける決定はきわめて恣意的になされていることがわかる。そして一つの行為が恣意的に芸術と結びつけられるならば、それは同様に恣意的に犯罪と結びつけられはしないか。赤瀬川は1964年1月、オブジェと関連して制作した一連の作品、いわゆる「模型千円札」が通貨偽造にあたるとして任意の取り調べを受け、悪名高い「千円札裁判」が始まる。この事件をめぐる一連の裁判がHRCの活動と完全に同期していることは留意されるべきである。一つの行為が犯罪であると恣意的に断じられたこの事件に対して、HRCは逆に裁判そのものを芸術とみなすことによって反撃する。私はこの発想から本展にも出品された赤瀬川の《宇宙の缶詰》を連想した。蟹缶の中身をあけて、ラベルを内側に貼ったうえでハンダづけして密封し、缶詰の外側すなわち世界の全体を閉じ込めてしまうという発想は犯罪と名指しされた行為を逆に芸術と名指しして、意味を帳消しにしてしまうことと似ている。実際にカタログに収められたHRCの直接行動No.37は「法廷における大博覧会」と名づけられた1966年8月の公判であった。行為を犯罪とみなすか、芸術とみなすか、それは当事者の恣意に委ねられている。果たして裁判長にそれを判定する資格はあるのか。この裁判は恣意性をめぐる闘争であったとはいえないか。そして私は日常性への侵犯を本質とするHRCの活動がこの裁判においておおよそ終了したことは一つの必然であったと感じる。60年代後半より、三人の作家は次第に別の方向を目指す。高松はもの派の先駆とも呼ぶべき概念的な仕事に取り組み、中西は絵画の制作を本格的に開始する。赤瀬川はHRCを連想させないでもない一連の仕事の傍ら、小説の執筆を始める。もちろんそこにHRCの活動が反映されていない訳ではないが、おそらく彼らは恣意性と戯れることの危険に気づいたのではないだろうか。一つの行為を恣意的に芸術とみなすことが可能であれば、同様にそれは犯罪とも名指しされうる。消耗的な裁判闘争を経て、彼らは大文字の芸術へと回帰する。展覧会中、HRCのセクションとpost-HRCと題されたセクションとの断絶、彼らの作品の意図的な脱政治化は実はきわめて戦略的な選択であったと考えられよう。
さて、私はこの文章を12月8日に書いた。一昨日の国会参議院で特定秘密保護法案がまともな審議もないまま可決され、私たちはかかる稀代の悪法と共存せざるをえない状況に追い込まれた。もはや私はHRCの展覧会を単に美術史という観点のみからレヴューすることはできない。法案が国会を通過する同じ時期にこの展覧会が開催されていたことは私には一種の暗合のように感じられる。なぜならこの悪法も恣意性を本質としているからだ。既に報じられているとおり、「特定秘密」とは恣意的に決定される。かかる恣意性のゆえに私たちは権力に対して萎縮してしまい、それこそがこの法案の目的なのである。大きな震災から自由な表現を奪う法律の制定、そして東京オリンピックへ、かかる連鎖はこの国が泥沼のような戦争に陥っていった時代を正確に反復している。いうまでもなくここで言うオリンピックとは日中戦争で中止となった1940年の東京オリンピックのことだ。1964年の東京オリンピックにHRCは「首都圏清掃整理促進運動」によって応接した。2020年、もしも東京オリンピックが開催されたとしても、果たして私たちに「直接行動」の自由は残されているだろうか。
by gravity97 | 2013-12-11 22:44 | 展覧会 | Comments(0)

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 以前、クーリエの仕事でマドリードのレイナ・ソフィア芸術センターに赴いたことがある。仕事を終えてもまだ十分な時間があり、特別展(確かドイツの現代美術に関する大がかりな展覧会であった)を見た後、私は常設展を巡った。この美術館のコレクションとしてはピカソの《ゲルニカ》が有名であり、ミロやダリといったシュルレアリスムの名品も多いのだが、戦後美術のセクションで思わず足を止めてしまった。1950年代の抽象絵画が素晴らしいのだ。タピエスとサウラは知っていた。しかし私が初めて見るほかの多くの画家の作品もレヴェルが高く、私はスペインでアンフォルメルがこれほどの充実を示していたことを初めて知った。そして数年前、フランクフルト近代美術館のブックショップを訪ねた際に私は「アンフォルメルの反乱」というサブタイトルをもつ『À REBOURS』という展覧会の分厚いカタログを見つけて買い求めたのであるが、ドリー・アシュトンによって企画され、当時においてはアンフォルメルを主題にした、私の知る限り唯一の展覧会も1999年に同じレイナ・ソフィアで開催されていた。
 現在、国立西洋美術館の常設展示の中で「内と外―スペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』」という展覧会が開かれている。常設展に組み込まれていることもあり、併催されている「ミケランジェロ展」の喧噪に比して地味な展示であるが、なかなか見応えがある。レイナ・ソフィア所蔵の14点によって構成されているから、おそらくかつて私が見た作品も入っているはずだ。大賑わいの「ミケランジェロ展」の陰で忘れられそうなこの展示についてレヴューを残しておく。(ついでながらやはり同じ常設展示の中で開かれている「ル・コルビュジエと20世紀美術」も実に充実した展示だ。西洋美術館を訪れるならば特別展よりも常設展に時間をとることをお勧めする)
 「アンフォルメル」に関しては日本でも二年前にブリヂストン美術館で充実した内容の展覧会が開催され、このブログでも取り上げた。フランスの美術批評家ミシェル・タピエに唱導されたこの運動は世界的な広がりをもつ。フランスのマチウやスーラージュ、イタリアのフォンタナやカポグロッシから当時パリに留学していた堂本尚郞や今井俊満まで多くの国籍の作家を擁し、アメリカの抽象表現主義とも深い関係をもっていた。ブリヂストン美術館の展覧会では前アンフォルメルとも呼ぶべきヴォルス、フォートリエ、デュビュッフェの三人に加えて主にフランスの作家の作品が展示されていたが、今述べたとおり、アンフォルメルの本分はフランスを超えた国際的な広がりにある。これまで私はヨーロッパ各国の美術館で戦後美術に関する展示を見るたびにアンフォルメルが国際様式として想像以上に強い影響力をもっていたことにあらためて驚いたのであるが、今回、今まで紹介される機会がまれであったスペインの作家たちの作品をまとめて見たことによってアンフォルメルに関する様々の思考がさらに誘発された。
 この展覧会には日本でもこれまで紹介されたことがあるアントニ・タピエスとアントニオ・サウラに加えて、ホセ・ゲレーロとエステバン・ビセンテというほとんど未知の二人の作家が加えられている。展覧会のサブタイトルにある「二つの顔」とは多義的な概念であるが、直接にはバルセロナとマドリッド、スペイン国「内」で活動したタピエスとサウラ、アメリカという国「外」で活動したゲレーロとビセンテを対比させていると考えられる。(ただしゲレーロは1965年にスペインに帰国している)企画者はこの対立を国内亡命と国外亡命というかなり刺激的な言葉で表現している。さらに後の二人は経歴として抽象表現主義の画家ともみなしうるから、二つの顔とは端的にヨーロッパのアンフォルメルとアメリカの抽象表現主義という1950年代の表現主義的絵画に与えられた二つの名ととらえることもできるかもしれない。しかし画面からは両者の区別は困難だ。確かにゲレーロの色使いや浮遊するがごとき形態からはロバート・マザウェル、ビセンテの画面構成や色面の重なりからは初期のデ・クーニングとフィリップ・ガストンといった抽象表現主義の画家がたやすく連想される。しかしそれならばサウラの絵画もストロークとモノクロームによってフランツ・クライン、人の姿を彷彿とさせるオールオーバー絵画によってポロックを連想させるではないか。実際にカタログの表紙にも使われている大作《大群衆》は極端に横長のフォーマット、垂直性の強調、さらに人体の暗示といった点が直ちにポロックのグッゲンハイム邸壁画に近似している。四人の中ではタピエスのみ抽象表現主義には類例を求めることが困難な作家であり、画面の物質性からはむしろフォートリエやヴォルスらアンフォルメルに先駆けた作家たちが思い起こされる。
 国内亡命と国外亡命という対比は示唆的である。この対比から私は「スペインのアンフォルメル絵画」が置かれた微妙な立場に思いをめぐらす。例えばストロークだ。抽象表現主義にとって奔放なストローク、自由な身振りによって生成される絵画とは自由主義体制における個人の自由のメタファーであり、冷戦下においては共産主義の抑圧に対する批判として機能した。これに対してフランコの独裁体制下にある50年代のスペインにおいても自発的なストローク、自由な抽象表現は成立しうるか。自由主義社会の前衛にとっては共産主義同様にファシズムも打倒すべき対象であり、先に名を挙げたマザウェルはフランコ批判を含意した「スペイン共和国へのエレジー」という連作を発表している。タピエスとサウラという才能がスペインではなく、パリを中心にしたアンフォルメルという国際様式の中で初めて認められたことは必然であろう。果たして彼らの作品はスペインではどのように受け容れられたのか。このあたりの微妙な消息を企画者はカタログの冒頭で次のように述べている。少し長くなるが引用する。

ソフィア王妃芸術センターのコレクションの最も重要な分野の一つは、スペインのアンフォルメル芸術である。スペインのアンフォルメル芸術は、フランコ独裁政権下―内戦終結の1939年から75年のフランコの死まで続く―において認められていなかった前衛的精神の回復の象徴であり、その歴史的意義と生み出された作品の高い質から高く評価されている。/1950年代のヨーロッパにおいて、スペインは文化的、政治的に特異な位置にあった。それ故にアンフォルメルの画家たちは、スペインの長い戦後の孤立の後、現代の伝統を回復した功労者としての地位を確立することになる。

 国内亡命と国外亡命、両者の境遇の差異は作品にも反映されているように感じられる。ゲレーロやビセンテはベティ・パーソンズ・ギャラリーやクーツ・ギャラリーといった抽象表現主義の拠点となったギャラリーで作品を発表し、実際にニューヨーク・スクールの作家たちと交流している。出品作だけで判断することは難しいとはいえ、開放的で抒情的な作風は例えば今述べたとおりゴーキー、デ・クーニング、マザウェルらが抽象表現主義を確立していく時期に似た一種の遠心性を有している。これに対してサウラとタピエスの絵画を特徴づけるのは強い緊張感と物質性であり、画面はむしろ求心性を秘めている。色彩が抑制されている点も共通する。今回、サウラは《磔刑》と《フィリペ二世の想像上の肖像画》という作品を出品しているが、このような主題と激しく変形された人物の姿からは今年大規模な展覧会が開かれたフランシス・ベーコンも連想されよう。あるいはタピエスの《横向きの指の痕跡のある茶色、No.63》はタイトルから理解されるとおり、物質感の強い画面に指の痕が残されている。触覚的な画面からはジャスパー・ジョーンズの一連の作品も連想されるが、タピエスの画面にジョーンズのユーモアはなく、身体を強引に(横向きに)壁に押しつけるという一種の暴力的な行為が暗示されているように感じられる。スペインで「国内亡命」して活動を続けたサウラとタピエスの絵画が、ゲレーロやビセンテと比して鋭い緊迫感を秘めている理由は独裁政権下における彼らの社会的位置の不安定さを反映しているとみなすのは安易だろうか。ただし彼らは50年代にパリに滞在し、アンフォルメル運動に参加し、スペイン帰還後もアンフォルメルの牙城とも呼ぶべきスタドラー画廊で定期的に個展を開き、ヴェネツィア・ビエンナーレやサンパウロ・ビエンナーレ、あるいは1960年にニューヨーク近代美術館で開催された「新しいスペインの絵画と彫刻」といった重要な展覧会に、いわばスペインの戦後絵画を代表する作家として出品を重ねている。このあたりの事情はフランコ政権の文化政策とも関連して、今後検証が待たれる問題であるように感じられる。
 今回の展示を見てあらためて感じたのは「アンフォルメルとは何か」(奇しくもブリヂストン美術館の展覧会のタイトルである)という根源的な問題である。今回の展覧会には「スペイン・アンフォルメル絵画」というサブタイトルが付されているが、四人の作風はばらばらであり、共通点を見出すことは困難だ。このあたりの事情は「内と外」というタイトルにも反映されているだろう。例えば先のブリヂストン美術館での展示においてもアンフォルメルの先駆と呼ぶべきフォートリエ、ヴォルス、デュビュッフェはともかく、展示の核とされた作家は例えばアンリ・ミショーであり、ザオ・ウーキーであり、いずれもアンフォルメルの中心作家とみなすことには無理がある。あるいは最初に記したレイナ・ソフィアにおける1999年の展覧会にはジャコメッティやベーコンさえも含まれているのだ。かかる融通無碍こそがアンフォルメルの特質であり、それゆえタピエはアンフォルメル、あるいは「別の芸術」という概念によって日本の具体美術協会、さらにはアメリカの抽象表現主義までも包摂しようとしたのであった。逆にアンフォルメルを真に体現した作家は誰か。この問いに答えることは難しい。マチウの名を挙げることは可能であろう。しかしそのほかに誰がいるか。試みにタピエが組織した展覧会に複数回にわたって名を連ねた作家を列挙してみよう。ブリエン、リオペル、セルパンといった作家は今日ほとんど知られていない。デ・クーニングやポロックはいうまでもなく抽象表現主義、アペルはコブラの文脈で理解されることはあってもアンフォルメルの作家とはみなされないだろう。アンフォルメルとは一見すると全世界を巻き込んだ巨大な運動でありながら、実は巨大な空虚であり、空虚さゆえに抽象表現主義から具体美術協会にいたる同時代の多様な表現主義的絵画を呑み込むことができたのではなかろうか。早すぎる退潮のゆえに今日アンフォルメルは美術運動として軽視されがちであるが、例えば「タピエ、マチウ、サム・フランシスを迎えて開く国際アンフォルメルの祭典」と銘打って開かれた1957年、ブリヂストン美術館における「世界現代芸術展」においてはサウラ、タピエスと並んで、ポロック、デ・クーニング、マーク・トビー、フォートリエ、デュビュッフェ、フォンタナ、ブッリ、そして堂本尚郎、今井俊満といったおおよそ共通項のない雑多な、しかし今日から考えるならば夢のような作家のラインナップが出品リストに名を連ねている。具体美術協会が主催した1958年の「新しい絵画世界展」も同様である。私たちはこのような展覧会がヨーロッパやアメリカではなく日本で開かれたことの意味についても真剣に考えるべきであろう。
 最後にカタログを読んで気がついたトリヴィアルな疑問を二つほど書きつけておきたい。ベレン・ガランというレイナ・ソフィアのキューレーターのテクストによれば、1957年にバルセロナのガスパール画廊およびマドリッドの国立現代美術館において「別の芸術」という展覧会が開かれ、サウラ、タピエスを含むスペインの画家たちとともにフォートリエやヴォルス、ポロック、デ・クーニングといった作家の作品が展示されたという。展覧会のタイトルと作家の顔ぶれからはミシェル・タピエの介在が予想されるのであるが、ガランによればこの展覧会はスペインの国立現代美術館館長ホセ・ルイス・フェルナンデス・デル=アモによって企画されたという。この人物とタピエの関係、そしてアンフォルメル運動におけるこの展覧会の位置づけはいかなるものであったか。以前、私はフランシスコ・ビセンスという人物によってコンパイルされ、『別の美学のための序説』と題されたミシェル・タピエの長大な論文集を読んだことがある。その際にこの書物がパリではなくバルセロナで出版されたことに奇異の念を抱いたが、確認するならばこの論集はバルセロナの国際美学センターから出版されている。私の記憶ではタピエのコレクションが収められた国際美学センターはバルセロナではなくイタリアのトリノに開設されていたのではなかったか。両者は同じ機関なのであろうか。そもそもアンフォルメルの拠点とも呼ぶべきこの施設がパリではなく、スペインもしくはイタリアに設置されたのはなぜなのだろうか。タピエの批評の晦渋さのゆえでもあろう、アンフォルメルはなおも多くの謎を残した運動なのである。
by gravity97 | 2013-10-24 20:16 | 展覧会 | Comments(0)

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 国立新美術館で「アンドレアス・グルスキー」展を見る。グルスキーの作品は日本でも既にいくつかの展覧会で紹介されており、私も初見ではない。しかしいずれもグループ展の中での紹介であったのに対して今回は日本で初の大規模な個展であり、巨大な作品の数々に圧倒された。私は写真の専門家ではないが、展示の中でもしばしば触れられていたとおり、グルスキーの作品は写真という文脈よりも、現代絵画あるいは現代美術との関係において検討した方が理解しやすい。彼の作品はデュッセルドルフ芸術アカデミーでベルント&ヒラ・ベッヒャーに学んだことに多くを負っており、私は一種のコンセプチュアル・アートとしてとらえることさえ可能ではないかと考える。
 ひとまず上に掲げたイメージ、カタログの表紙とされた2007年の《カミオカンデ》から始めてみよう。ポスター等にも使用され、おそらく今後グルスキーの代表作の一つとみなされるであろうなんとも壮麗なイメージだ。タイトルからわかるとおり、これは岐阜県飛騨市の神岡鉱山の地下深くに建設されたニュートリノ検出装置スーパーカミオカンデの情景だ。それは5万トンの超純水を湛えた直径39.3メートル、深さ41.4メートルの円筒形のタンクであり、その内部には光電子増倍管と呼ばれる円形のセンサーが無数に設置されている。上部から差し込む光によって内部は黄金色に満たされ、戦慄的な光景が広がっている。もっともタイトルもしくは説明がなければここに繰り広げられているのが一体いかなる風景なのか、そもそもそれが風景であるかさえ理解することは困難だ。しかしこの作品は内部に一点、そのヒントを含んでいる。画面右下を注意深く見るならば、そこにはゴムボートに乗り帽子をかぶった二人の人物を認めることできる。今述べたとおり、このタンクは超純水で満たされているから、ゴムボートが存在することは不思議ではない。しかし実際にこの写真が撮影された際には破損した光電子倍増管の修理のために水は抜かれており、二人の人物や周囲が映り込んだ水面はグルスキーが撮影した写真をデジタル的に処理する過程で付加されたという。直ちに一つの疑問が浮かぶだろう。なぜ作家はことさらに人物の姿を情景の中に加えたのか。予想される解答の一つは、作家が作品を抽象的なイメージとして捉えられることを嫌ったというものであろう。実際、この展覧会に出品された作品はほとんどが具体的な対象に依拠しており、タイのチャオプラヤー川の水面を撮影して一見抽象的な「バンコク」連作においても、よく観察すると川面に浮かぶ油やゴミが見てとれる。あるいは《カミオカンデ》と近似した黄金のイメージ《カタール》もいかなる施設を撮影したものか判然としないが、同様に床にうずくまる小さな人影を確認するならば、具体的な建築の内景であることが了解される。
 しかしここに付加された人物はさらに興味深い問題へと私たちを導く。美術史学を学んだ者であれば、《カミオカンデ》からカスパー・ダーヴィト・フリードリッヒが描いた一連の風景画を連想しないでいることは難しい。フリードリッヒの絵画においても壮大なスケールの自然、あるいは自然現象を前に手前に多く後ろ向きの人物が小さく描き込まれる場合が多い。この場合、人は一つにはスケールの指標であり、人の大きさと比べることによって描かれた光景の壮大さが理解される。そしてさらに重要な点は後ろ向きの人物という、観者が自らを最も投影しやすいイメージによって、私たちも絵画の中に招き入れられるのである。ジェラール・ジュネットが焦点化と呼ぶ作品と享受者の特殊な関係を敷衍して、ロバート・ローゼンブラムがさら問題を深化させたことはよく知られている。ローゼンブラムはフリードリッヒの絵画にみられる圧倒的な存在を前にした人間が抱く感情を崇高と呼び、同様の感情が抽象表現主義絵画、特に色面抽象絵画を前にした観者にも共有されていると説く。典型的な例を挙げるならば、断崖の上に立って茫漠とした空間に対する人物を描いたフリードリッヒの《海辺の僧侶》に対して、同様に茫漠としたイメージを描いたロスコの巨大な絵画。そこでは絵画内から現実へと審級を転じたうえで、人を圧倒し、理解を絶した存在を前にした超越的な体験が繰り返されるのであり、ローゼンブラムはそれを抽象的崇高と呼ぶ。既に指摘されている点であろうが、崇高という概念はグルスキーの作品を分析する際にも有効である。私たちはそれが入り組んだかたちで実現されていることに注意しなければならない。今述べたとおり、フリードリッヒとロスコを比較するならば、フリードリッヒにおいて画中の人物は自らの前に繰り広げられる風景に圧倒され、私たちはそれらの人物と同一化することによって崇高を追体験する。これに対してロスコの場合、私たちは現実の中で絵画という異様な存在に直面し、直接に特殊なセンセーションを感じる。つまり崇高の感覚はフリードリッヒにおいては間接的、ロスコにおいては直接的なのである。グルスキーの場合、崇高の感覚は両方に関わる。《カミオカンデ》において私たちは二人の人物に目を止めることによって、ここに展開する風景の壮大さを理解する。しかし仮に二人に気がつかなかったとしても、黄金色の円盤がオールオーバーに配置された巨大で異様なイメージを前にして感受されるセンセーションはロスコと共通するだろう。ここできわめて興味深い問題が発生する。それは写真のサイズという問題だ。写真がアイコン記号、インデックス記号のいずれであるかは軽々に断ずることができない問題であるが、通常、写真においてサイズはその本質に非関与的な要素と考えられている。パスポートの写真がビルボード大に拡大されたとしても私たちは同じ人物だと認識することができる。しかしグルスキーの場合、実際の作品とカタログに小さく掲載された《カミオカンデ》は全く印象が異なるのだ。つまり小さな図版であれば、二人の人物は見過ごされる可能性が高く、ここに広がる情景の意味が認識されない。(「カミオカンデ」が実験施設の名称であることは日本人でも知らない場合が多いだろう)この作品を十全に享受するためには画面内に人の姿を認知することが可能な大きさ、つまり会場芸術として通用しうる作品のサイズが必要とされるのだ。私の印象ではこれまでグループ展でグルスキーが紹介された機会において作品は比較的小さく、この意味でも作品の本質は今回の展示で初めて明らかとなったのではなかろうか。現実に作品に直面する体験が作品の本質そのものに深く関与するという点において確かにグルスキーと抽象表現主義絵画は共通する。
 今、私はグルスキーの作品を崇高という概念と関連させて論じた。彼の写真において崇高はどのように実現されているのか。もう少し詳しく分析してみよう。まず明らかなのは被写体の想像を絶するスケールである。多くの作品は内部に人を写し込んでいるため、情景のスケールを想定することが可能であり、多くの場合、とてつもない広がりや高さを有している。被写体のスケールは人間の身体をはるかに超え、インド洋および南極大陸を撮影したイメージにいたってはもはや地図的な想像力なくしてその広がりを理解できない。おそらく航空写真ないし衛星写真が用いられたのであろうが、私はこれほどの広がりを純粋に視覚に還元できる技術が存在すること自体に大きな驚きを抱いた。かかるヴィジョンに対してもはや人間的な視覚は対応しえず、グルスキーの作品が内包する一種の非人間性はこの点に由来しているだろう。第二にグルスキーの構図は対象が画面に対して強い正面性ないし垂直性を宿している場合が多い。初期の代表作である《モンパルナス》はパリのアパルトマンを正面から撮影し、巨大なグリッドの連なりとして提示したものである。これほどの広がりを単視点でとらえること、そして画面全体に焦点を合わすことは不可能であるから、おそらく数台のカメラで撮影された映像をデジタル技術によって繋ぎ合わせたのであろうが、この意味でもここに実現された視覚は非人間的といえよう。グルスキーのイメージはスケールにおいても知覚においても人間のそれを絶しており、それゆえ崇高という感情へと接続されるのである。
 正面性ないし垂直性の問題は別の角度から美術史に介入する。フリードリッヒの絵画が茫漠とした広がりを示していたのに対して、グルスキーの画面は意図的に奥行が消去され、私たちの視線を遮断する。アパルトマンの正面、ショーケース、空港の電光掲示板、グルスキーの作品には視線を正対して遮断する多くのモティーフが用いられている。奥行の拒絶といってもよいだろう。アスバラガス畑の遮光用の黒いビニールのストライプを無数に反復させた《ベーリッツ》は本来であれば水平的な広がりの情景であるはずなのに、航空写真に基づいているのであろうか、一切の奥行を欠いた平面的なイメージとして成立している。グルスキーは広がりをもった対象に対しては水平な、高さをもった対象に対しては垂直な視覚を設定することによって、画面から奥行の暗示を排除する。消失点に向かう奥行は透視図法と呼ばれ、絵画史に決定的な役割を果たした。別の観点に立つならば、奥行の排除とは画面から時間を排除する試みでもある。遠近法が消失点に向かって物語を起動させたのに対して、グルスキーの写真には時間がない。1990年の《東京証券取引所》と99年の《シカゴ商品取引所》を比較するならば(いずれも広い空間を撮影しているにもかかわらず、鳥瞰的な構図によって平面的な印象を与えている点に留意されたい)ともに無数の人々が働いている情景であるが、前者ではぶれやずれによって人物の動きと時間が暗示されているのに対し、後者はほとんどそのような要素がないために時間が静止している印象がある。さらに北朝鮮のマスゲームを撮影した《ピョンヤン》においてこのような印象は強められるが、マスゲームとは元来観客や独裁者に対して一つの壮大な情景を細切れに与える試みであるから、このような非時間性に適したモティーフと考えることができるだろう。崇高と時間の関係についてはすでにバーネット・ニューマンの絵画との関係において、作家本人による「崇高は今」、そしてJ.F.リオタールによる「崇高と前衛」という二つのテクストの中で論じられている。私はこの問題をさらに敷衍して、マイケル・フリードがモダニズム絵画の理念として掲げた現在性、presentness という概念とも対比してみたいと考えるが、本論の中で分析することはさすがに私の手に余る。このブログでも触れたとおり、フリードは2008年に『なぜ、写真は今、かつてないほど美術として重要なのか』という写真論を上梓しており、当然ながらグルスキーも取り上げられている。私は不勉強でこの研究書を通読していないが、今、手元で調べたところでは、特にグルスキーの作品が現在性という問題との関係で検証された形跡はないようである。
 出品作中に一点、美術館に展示された作品を撮影した写真がある。ニューヨーク近代美術館が所蔵するポロックの《ワン:ナンバー31》を正面から撮影した《無題Ⅵ》である。この作品もきわめて興味深い。美術館に展示された作品を撮影する写真家としては直ちにトーマス・シュトルートが連想されるが、グルスキーの問題意識は全く異なり、視覚の軸性と関わっているのではないか。周知のごとくポロックの絵画は床に敷いたカンヴァスに上方から絵具を撒布して制作された。つまりグルスキーの構図はポロックのアトリエの天井から制作中の作品を見下ろした視覚に一致し、それは実際にカンヴァスの上でアクションを繰り広げるポロックの視覚とも共通している。上方からの視覚、先に私はそれを航空写真と関連させたが、かつてロザリンド・クラウスがポロックのアクション・ペインティングを航空写真との類比によって論じたことも想起されてよかろう。航空写真とグルスキーの視覚の一致は暗示的である。モダニズム絵画との関連に関してはカタログのテクストの中でグルスキーの作品が平面性という観点からクレメント・グリーンバーグのモダニズム理論と関連づけられていたが、見当外れに感じられる。グルスキーの作品の特性を挙げるならば平面性ではなく、立面性もしくは正面性を指摘すべきであろう。確かに奥行の欠落はグルスキーの作品の特質であるが、それはメディウムの自己言及とは関係なく、カメラと被写体の位置関係によって結果的に生じた特質ではなかろうか。この時、ポロックの絵画を撮影した作品は抽象表現主義とグルスキー、平面性と立面性の差異を象徴的に示しているように感じられる。
 展示にはもう一点、ポロックを連想させる作品が出品されている。ゴミの集積が地面を覆う風景を撮影した《無題Ⅷ》である。廃物が水平に撒き散らされた風景はロバート・モリスのスキャター・ピースのようだ。先にも述べたとおり、水平的な風景を直立させる手法はグルスキー特有であるが、この作品をポロックに結びつけるのは(画面の上方、地平線より上には何も写っていないにせよ)画面が中心を欠いたオールオーバー構造をとっている点だ。多くの作品を通じてオールオーバー構造もグルスキーの作品の特徴である。これまで私はグルスキーにおいて作品に崇高性を賦与する要素として被写体のスケール、正面性、非時間性、さらに作品が物理的にはらむ巨大さ、あるいは垂直性などを指摘した。オールオーバーネスもまたかかる特質と関わっている。今挙げたランダムなオールオーバーネスはグルスキーにおいてはむしろ例外的であり、この作家を特徴づけるのは単位が無限に反復して構成される規則的なオールオーバーネスだ。上に掲げた《カミオカンデ》もその例であるが、牛舎や書棚、オフィスやアパルトマンの窓枠が気の遠くなるほど繰り返される情景はグルスキーのイメージの典型であろう。反復がミニマリズムの基本的な語法であったことはいうまでもない。しかしこれほどまで執拗に繰り返されることによって、そして画面の巨大さを介して、画面はミニマリズムの凡庸の美学を超えた崇高の美学へと達しているのではないか。(この点に関してはごく初期の《ガスレンジ》と後年の《タイムズ・スクエア》の比較が有効かもしれない)あるいはロスアンジェルスのディカウントショップの内部を撮影した《99セント》。食品や日常用品、スーパーに山積みにされた商品はポップ・アートにとっても格好の主題であり、写真家は明らかに美術史を参照している。ここでも商品の棚が水平に反復され、安物の(なにせ「どれでも99セント」なのだから)商品がぎっしりと詰め込まれた情景は奥行に向かうことなく見る者に向かって立ち上がるかのようだ。壮大な風景、異様な建築から崇高という概念が喚起されることは不思議ではない。しかしここではビスケットやジュース飲料がところ狭しと並べられた何の変哲もないスーパーマーケットの光景が異化され、一種の衝撃とともに見る者に迫る。それを崇高と呼ぶことはためらわれもするが、劇的な内容を一切欠いた、全てが均等化された画面が与えるセンセーション、日常の光景さえも反復と巨大化という形式的な操作を介していわば「即物的崇高」の感覚を宿すという発見はミニマリズムと崇高という問題を考える際にも多くの示唆を与えるだろう。
 最後に展示の手法について述べておく。作家は来日したということであるから、作品の配置は作家に帰せられるはずだ。興味深い試みがなされていた。カタログはクロノロジカルな配列となっているが、実際の展示においては制作年やテーマがシャッフルされ、「バンコク」や「オーシャン」などのシリーズ、建築の内景を撮影した作品、群衆を撮影した作品といった共通性をもつ作品も集められることなくばらばらに配置されていた。時間軸や主題に沿って作品を見る経験に慣れた私たちにとってやや困惑する経験であったが、これも一種のオールオーバーネスの経験かもしれない。このような配置は作家の成熟と作品の類型というモダニズム美術の前提に異を唱える。この点においても現在にいたるグルスキーの仕事を形式的にしばしば比較されるバーネット・ニューマンやケネス・ノーランドの「画業」と比較することは意味があるかもしれない。さらにこのような姿勢はグルスキーの師であったベルント&ヒラ・ベッヒャーがまさに類型という概念によって作品を制作したことへの批判としてとらえることはできないだろうか。まことにグルスキーの作品から誘発される思考は際限がない。
 なお、下に示した図版は今回の出品作であるが、今回の展示風景ではない。作品のスケールを示すために掲げた。
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by gravity97 | 2013-07-23 20:12 | 展覧会 | Comments(0)

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 東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン」展を見る。ベーコンを専門とする二人の学芸員が担当しただけあって、力の入った展示である。私は前回、1983年のベーコン展も京都で見た記憶がある。あらためてカタログを取り出してみるとこの展覧会にはトリプティクを含めて45点の作品が出品されており、点数については今回より多く、重複する作品もある。しかしその際にさほど強い印象を受けなかったのはなぜであろうか。83年の展覧会が元々オーストラリアを巡回する展覧会として企画され(結局、オーストラリア巡回は実現しなかった)、マールボロ・ギャラリーとブリティッシュ・カウンシルの全面的な支援を受けて実現された、いわばあらかじめ誂えられた展覧会であったのに対して、今回の展示が学芸員のいささか偏向した熱意によって企画されたことがその大きな理由であろう。
 展覧会は四つのセクションから構成されている。すなわち「移りゆく身体」「捧げられた身体」「物語らない身体」そしてエピローグとしての「ベーコンに基づく身体」である。エピローグの部分のみ土方巽とペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスというベーコン以外の作家の作品を紹介している。タイトルの後には年記が示され、それぞれのパートが扱う時期が50年代まで、60年代、70年代以降の三期に分けられていることが明示されている。したがって展覧会は基本的にクロノロジカルに配置されているが、かかる構成そして各パートのタイトルからしてすでに挑発的である。
 ベーコンの作品を理解するうえで身体というテーマはわかりやすい。ベーコンの多くの作品に共通するのは、捻れ、変形し、投げ出された身体であるからだ。しかしながら身体に関して、先に掲げたセクションのタイトルが意味するところは必ずしも明確ではない。「移りゆく身体」において確かにいずれのイメージもなんらかの移行の相を示しているという指摘はそう言われるならばそうであろうが、果たしてこの時期の作品のみに指摘しうる特質であろうか。むしろ肖像、教皇、そしてスフィンクスといった主題ごとに整理した方がわかりやすい気がする。あるいは「捧げられた身体」という言葉から誰しも想像するのは磔刑図であるが、このセクションには(カタログには参考図版が掲載されているものの)磔刑図の出品はなく、出品作をそのための「スタディ」とみなすことはやや苦しい。「物語らない身体」についてもそこで圧倒的な存在感を示す4組の巨大なトリプティクは作品の形式においては共通するが、描かれたイメージに企画者いうところの「物語の生贄」を認めるには相当高度の専門的知識が必要であろう。したがってここでは設定されたテーマに拘泥することなく、ベーコンの作品について若干の私見を述べておく。
b0138838_932591.jpg ベーコンの絵画を批評する者がしばしば陥る罠はイメージ・ソースの探求である。ベラスケス、ゴッホ、エイゼンシュタイン、イメージの原型をたどることはさほど困難ではないし、それは美術史の学徒にとってはほとんど反射的な態度といえるかもしれない。しかしベーコンがベラスケスの教皇像を連想させる絵画を描いたとしても、作家がベラスケスのイメージをアイコニックに模倣することに何の関心も持っていないことは明らかだ。私たちが問うべきは作家をしてそれらの主題を選ばせ、さらに異様な変形を加えたうえで私たちの前に提示する衝動の由来であろう。イメージ・ソースの探求が常に起源へと遡及するのに対して、私はむしろ同時代の表現と対照することがベーコンの絵画を理解するうえで有効ではないかと考える。具体的にはベーコンとほぼ同じ世代、正確には5歳年上のアメリカの画家、ヴィレム・デ・クーニングとの比較である。それというのも会場で出品作中の一点、フランクフルト近代美術館所蔵の《裸体》から直ちに私はデ・クーニングの「女」シリーズを連想したからである。直ちに言い添えなければならないが、1960年に制作されたこの作品がデ・クーニングと似ている、もしくは影響下にあるというのではない。逆に両者の相違こそが重要であると感じる。今、似ていないと述べたが、《裸体》の醜く歪められた表情、あるいは横向きに押しつぶされたような乳房の表現などは「女」シリーズの一部の作品を強く想起させる。しかし私は両者の間に決定的な隔たりを感じる。それは画家、あるいは観者と描かれた人物の距離である。デ・クーニングの場合、画家とイメージ、観者とイメージは直接につながっている。しかしベーコンにおいて両者は隔絶している。別の言葉を用いるならばデ・クーニングが描く人物は私たちとともにある。しかしベーコンの場合は別の世界にいるかのようだ。まずこのための様々な仕掛けを検分してみよう。今回あらためて感じた点であるが、図版からの印象に反してベーコンの作品は物質性が希薄である。絵具のストロークによって表情や身体が生々しく変形するのではなく、薄塗りの画面に残されたそれらのイメージはあらかじめ変形した身体の映像のように感じられる。この点においてもデ・クーニングとの比較が有効である。デ・クーニングの人物がストロークでずたずたにされるのに対して、ベーコンの人物は変形されつつも静的な印象を与える。出品作品のうち、《椅子から立ち上がる男》において男の足下に白い絵の具の塊が付着し、精液を連想させるというコメントが付されていたが、この点はベーコンにおいて絵具が明確に物質として認知される場合がむしろ稀であることを暗示しているだろう。デ・クーニングの物質的な絵画はイメージが絵具という現実の物質によって構成されていることを自覚させ、絵画が私たちとともに在ることを意識させる。これに対してベーコンのイメージは私たちと隔てられたあちら側に在る。額縁とガラスもまたこのような隔絶に寄与しているだろう。会場に掲出されたコメントによれば、ベーコンは作品をガラスで覆い、大仰な金色の額縁をつけることを好んだという。結果としてベーコンの作品はいかにも絵画然としている。さらに画面に目を向けるならば、ベーコンの描く人物は多くの場合、何らかの枠の中に囚われている。画面の中に描かれた奇妙な矩形、教皇が座るというより身を押し込められたかのような玉座、あるいは奇妙な台や窓枠、これらの形態は多くの場合、その内部に人物を閉じ込めている。これはデ・クーニングが背景をストロークで埋めて特定しえない場所に人物を置くことと対照的である。ニューヨーク近代美術館に収蔵された有名な《女Ⅰ》が最初窓のある室内に描かれながら、次第に塗り込められて背景と一体化された経緯を想起してもよかろう。ベーコンの人物はいずれも何かしらの枠の中に閉じ込められ、さらにガラスと額の中に密封される。彼らはしばしば絶叫するかのように口を開けるが、それはあたかも檻の中に閉じ込められる恐怖の悲鳴のようだ。私たちは彼らに檻の外から眼差しを向けるが、時にガラスの反射にあって不分明な人物たち、暴力的に歪められた肉体からほとばしる絶叫は視覚ではなく触覚や聴覚に痛みのような刺激を与える。この共感覚的なセンセーションはベーコン特有である。閉じ込められる恐怖、ベーコンの絵画は求心的であり、これに対しデ・クーニングの絵画は遠心的といってもよかろう。
 いうまでもなく遠心性とは抽象表現主義絵画に共有された特質であった。ポロックの、ニューマンの、ロスコの絵画は外に向かって開かれ、展示された空間と関係をもつ。先ほど額縁の問題に触れたが、彼らの絵画の多くは額縁をもたず、備えていたとしても存在感は抑制されている。私は絵画という物体が現実と接することによって絵画の現代が画されたと考える。この意味でベーコンは過激なイメージにも関わらずなおも絵画の近代に留まった。むろんこれは否定的な意味ではなく、あえて留まることによって逆に20世紀後半にあって可能ななんとも不穏なイメージを成立させたのである。考えてもみるがよい、ベラスケスの描いた教皇像、これほどまでに西欧絵画の典型と呼ぶべき作品がほかにあろうか。それは一方ではキリスト教という膨大なイメージ・ソースの中心に位置し、一方では肖像画という長い伝統をもつ形式と連なる。それを換骨奪胎してかくも独特のイメージとして結実させるという行為はいわば西欧絵画全体のネガを提示するかのようだ。絵画という形式を踏み越えることなく、近代絵画という枠組の中でこのような取り組みがなされたことはむしろ必然であっただろう。
 会場に不在のデ・クーニング(実際には同じ美術館の常設展示における関連企画の中にも一点が展示されていた)との対比が求心/遠心という対立を導き出すとするならば、最後のセクションに実際に並べられた二つの舞踏とベーコンの絵画との対比は別の対立を導き出す。会場の最後にあえて舞踏の映像を上映する点に展覧会の批評性が明確に示されている。ダンスの中で実際にベーコンが参照されるペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスはいうまでもなく、土方巽のアーカイヴに遺された資料の中に見出されたベーコンへの言及がこの展覧会の一つの着想源であったことは明らかだ。企画者もセクション解説の中で記すとおり、ベーコンの影響は文学から映画、音楽にいたる広い領域に認められる。私も最近読んだバルガス=リョサの『継母礼賛』に掲出された6葉の名画の図版の中にベーコンの《頭部Ⅰ》を認めて驚いたばかりだ。それにしても舞踏/ダンスとはまことにベーコン的なジャンルではないか。展覧会を一巡するならば、多くの作品の画面上部にホリゾントのような空間が暗示され、画面が一種の舞台として実現されていることが理解されよう。あるいは画面に描かれた窓枠のような空間、それが「移りゆく身体」を保証していることはいうまでもないが、かかる空間はアルベルティ的な窓というより、舞台の書き割りとしての扉に見えないだろうか。マイケル・フリードではないがこのようなシアトリカルな空間に置かれた身体は既に俳優やダンサーを暗示している。ベーコンが描く空間はきわめてあいまいであるが、そこを上下に分割する線は高い位置に置かれているため、私たちはかなり高い位置から情景を俯瞰するような印象を受ける。対象に向けられた私たちの視覚は比較的安定しており、水平方向に向けられる。このような視覚を舞台上の演技やダンスに目を凝らす観客のそれに比すことは容易である。先に私はガラスの反射によって遮られ、絶叫や身体の変形を主題としたベーコンの絵画が共感覚的であると述べたが、今述べた点を考慮するならば、ベーコンの絵画における視覚性はかなり入り組んだ構造をとり、安定した視覚と不安定な視覚が葛藤している。絵画とは本来的に視覚的な営みであるから、西欧近代絵画の伝統の掉尾に連なるベーコンが一連のトリプティクに明らかな視覚的明瞭さを強調した構図を多用する意図は十分に理解される。しかしそれにもかかわらずそのような明瞭さを無効にしてしまうような不穏さを絵画は宿していないだろうか。土方とフォーサイスを参照する時、このような不穏さの由来が明らかになる。会場で上映されていた土方の「疱瘡譚」において土方は舞台の上に何度もくずおれる。この時、観者の視線が向かう画面に向かって奥方向のヴェクトルとは全く異なった軸性が露わとなる。それは重量をもった身体が倒れる際の下向きのヴェクトル、つまり重力の方向だ。土方の舞踏の異様さはその扮装もさることながら、立とうとして倒れる、身体が重力によって変形される過程にある。身体の変容もまた土方の一つの関心であり、ベーコンの絵画に認められる肉体の変形から触発され、土方が舞踏の中に重力という効果を導入したことは大いに考えられる。重力が視覚ではなく身体に関与する力であることはいうまでもない。絵画を一望しようとする水平の軸と重力にとらえられた身体の垂直の軸、ここでも二つの軸が対比される。このように考える時、ヴェルツ/フォーサイスの作品が展示に加えられた意味もまた明白である。フォーサイスは靴と手袋にグラファイトをまぶしてベーコンの絶筆をなぞる。フォーサイスの動きは白い床に残されたグラファイトの痕跡として記録される。ここに重力が関与していることはいうまでもないが、さらに注目すべきはこのような身振りをペーター・ヴェルツが上方、正面、横という三つの角度から撮影して三つのスクリーンに投影することである。ここで重要なのはうずくまるフォーサイスの姿態がベーコンの人物を連想させる点ではない。ベーコンのイメージに潜在的に関与した力、つまり肉体を歪ませる重力がスクリーンに可視化されたことである。そして重力とは身体に働く現実の力であるが、絵画においては表象されえない。(ここではポロックのポアリングまで議論を広げることは控えよう)つまりヴェルツ/フォーサイスはベーコンの絵画における身体という問題に全く新しい観点から光を当てているのだ。
 ベーコンに関して、ここでは絵画の求心性と遠心性、水平性と垂直性という二つの対立に即して私見を述べた。ひとまず議論を導入したにすぎず、まだ論じるべき多くの遺漏があろうし、なおも検討すべき点も多いことを認めたうえで、このうち後者の問題についてはおそらく本展を見ることなくして着想されなかったことを書き留めておきたい。以前にも記したとおり、優れた作家に関する真剣な展覧会は常に多くの新しい発見をもたらすのである。
by gravity97 | 2013-03-31 09:44 | 展覧会 | Comments(0)