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カテゴリ:展覧会( 58 )

「Re: play 1972/2015」

 このところ、このブログの展覧会というカテゴリでは東京国立近代美術館によって企画された展覧会のレヴューが続いている。お読みいただけばわかるとおり、私は必ずしもそれら全てを評価する立場ではないが、少なくとも大いに問題提起的な展覧会が続いていることは間違いない。今開催中の「Re: play 1972/2015」と題された展覧会もその例に漏れない。決してわかりやすい展示ではないが、展覧会という営みの本質と関わる実に刺激的な内容である。
 展覧会の内容はサブタイトルによって明確に示されている。「『映像表現’72』展、再演」というサブタイトルは、この展覧会が1972年に京都市美術館で開催された《映像表現”72》(展覧会のタイトルの表記についてもテクスト・クリティークの必要を感じるが今は措く)を2015年に東京国立近代美術館で「再演」する内容であることを暗示している。実は過去の展覧会を「再演」する試みは近年流行している。このブログで取り上げた展示だけでも1966年、キーナストン・マクシャイン企画の「プライマリー・ストラクチュアズ」と1969年、ハロルド・ゼーマン企画の「態度がかたちになる時」がそれぞれニューヨークとヴェネツィアで「再演」された例がある。これらと比しても、京都市美術館の「展示」の再現は困難をきわめる。なぜならそこに展示された作品はタイトルが示すとおり、ほとんどが映像であって実体をもたないからだ。実体をもたない作品の「再現」は可能か。コンセプチュアル・アートの核心と関わる問題が展覧会をとおして提起され、今回の展示はこの問題にまさに正面から挑んでいる。
 この展覧会については展示構成というリテラルなレヴェル、映像の再現というテクニカルなレヴェル、そして付随するテクストに関わるテクスチュアルなレヴェルから論評を加えることができよう。まず展示構成についていえば、最近この美術館においてしばしば試みられているように、今回も建築家、具体的には西澤徹夫が会場構成にあたっている。会場構成に専門の建築家を配する余裕など今や国立美術館以外にはありえないと嫌味の一つも言いたくなるが、今回の展示にとって建築家の協力は必要不可欠であったはずだ。会場はチャイニーズ・ボックス、入れ子状の構造をとり室内にもう一つの部屋が設置され、その周囲を取り囲むように細いコリドーが設えられている。内部の部屋にかつての京都での展覧会を「再現」し、周囲に作品についての情報や現時点における出品作家の回想を交えたインタビューなどを配置するという趣向だ。したがって周囲をめぐってから展覧会の「再現」に向かった方が展示を理解しやすいが、私の記憶では順路についての明確な指示はなく、それどころか監視員が先に内部の部屋へ誘導していた場面もみられた。もちろん展示をどのような順で見るかは観衆の自由に任されているとはいえ、入口に展覧会の構成についてもう少し詳しい説明なり指示があった方が親切ではないだろうか。きわめてマニアックな展覧会であるから関係者しか訪れないという想定があるのかもしれないが、以下でも論じるとおり、今回の展示は全般に説明不足という感が拭えない。展示構成についてさらに続けよう。72年の京都市美術館の展示を「再現」するにあたって、西澤は建築家らしい緻密な検証を続ける。会場図面は残されていないから、西澤は当時の写真と実際の京都市美術館の展示室の図面、そして作家たちの記憶に基づいて東京国立近代美術館の展示室の内部に同じ空間の再現を試みる。会場にはその手続きについても詳しい説明があり、確か技術的な制約もあって、実際には90パーセントの縮小として会場が再現されているとコメントされていたのではなかっただろうか。展覧会の内容については今回カード形式で再現された「展覧会カタログ」中、企画者の説明の中に明確に総括されている。少し長くなるがそのまま引用する。

 「第5回現代の造形〈映像表現72〉―もの・時間・空間―Equivalent Cinema」展は、1972年10月14日-19日、京都市美術館で開催された。エンドレスで上映するためにフィルムが蜘蛛の巣のように張り巡らされた薄暗がりの会場では16名の造形作家による作品の映写機やヴィデオデッキ、スライドプロジェクターの機械音が響き、そこかしこの壁やモニター映像が明滅していた。暗闇で終始着席したまま映像に没頭する映画館から美術館へと場所を移し、複数の作品が同時に上映される中を観客は動き回り、どの映像から見るのも、どれだけ見るのも自由。このような映像展は日本では初、世界的に見ても先駆的な試みであった。

 この要約は同じ企画者による、同じ時代のアメリカのヴィデオ・アートを対象としたもう一つの展覧会「ヴィデオを待ちながら」と比較する時、意味をもつ。「ヴィデオを待ちながら」についてもこのブログでレヴューしたが、出品されたヴィデオ作品はTVスクリーンを関して淡々と上映され、近年の映像展示でおなじみの大掛かりなヴィデオ・インスタレーションは一切用いられていなかった。ヴィデオという媒体がかかる制約の根拠であるが、同時に私たちは作品を順番に一定の時間見ながら会場を巡ることとなった。そこでは作品の意味は映像の中のみにあり、上映形式にはなかった。これに対して今回の展示は今引いた文章に明らかなとおり、複数の映像がエンドレスに上映されている会場を来場者は主体的にめぐり、映像のみならずそれを取り巻く環境を知覚する。今回の展示の場合、上映されていた映像をヴィデオ化して、順番に上映することは全く意味をもたない。私たちが映像を見る状況も作品の一部なのであるから。一種現象学的なこのような問題意識を念頭に置く時、企画者が特にこの展覧会を選んで「再現」したことに関する次のような説明は容易に理解できるだろう。

 「映像表現’72」をこの「再演」の対象に選んだ理由は「[…]スクリーン以外の空間が映画を見ることにより排除されることのない。時間と空間がいわゆる映画に収斂されることのない。つまり〈映画における時間と空間〉と〈観客における時間と空間〉が等価な〈映像と人間〉との関係としての〈場〉が設定できないだろうか」という「映像表現‘72」のもくろみが、「出来事としての展覧会」、「状況・布置としての美術」という在り方の、新たな可能性を指し示すものと思われたためである。

本展は先に同じ会場で開かれた「No Museum No Life?」同様に自己参照的な内容であるが、参照された展覧会そのものきわめて自己言及的であったことが示唆される一節である。等価の映画、equivalent cinema という謎めいたサブタイトルの意味も了解されよう。実際に今回の会場でも薄暗い室内を私たちは作品を特に順番を決めずにめぐり、時に映像の前に滞留し、時に映像の横を通り過ぎる。このような作品のリテラルな併置は「態度がかたちになる時」などにも共通し、当時の美学的気風を示しているが、映像を主体とする展覧会としてかかる展示が実現されたことはなんともラディカルであり、それが実行委員会形式で作家たちによって主導されたことに驚く。1970年の「人間と物質」の京都巡回以来、京都では多く作家たちが主体的に関与して京都アンデパンダン展や「京都ビエンナーレ」といった展覧会が陸続と開かれた。これらの展覧会の詳細については美術館との関係も含めて今後検証されるべきであろう。
 「映像表現‘72」の出品作家は16名。河口龍夫、植松奎二、庄司達、村岡三郎あるいは野村仁といった今日まで活動を続ける作家もいるが、数名の作家について私は初めて名前を知った。解説によると中心となってこの展覧会を企画したのは松本正司であるらしいが、私はこの作家についてはほとんど知るところがない。私が関西の現代美術に接することとなったのは1980年代に入ってからであるから、10年ほどの空白はなんとももどかしい思いだ。それにしてもあらためて驚くのはこれらの多様な作家たちが皆、映像という表現に積極的に取り組んでいる点である。確かに山本圭吾や今井祝雄らは早くから映像や写真表現を積極的に取り入れており、この分野におけるパイオニア的存在である。しかし今日私たちは長沢英俊や村岡三郎を立体の作家として、庄司達はファイバーワークの作家として理解している。この点は当時、映像表現がジャンルを超えて注目を浴びていたことを暗示する。このような関心は一体どこからもたらされたのであろうか。この点についても今後の研究が待たれる、写真作品として知られる須磨海岸の干満を記録した作品を河口龍夫が映像としても発表していたこと、柏原えつとむの人を食ったような作品、おそらくは「視覚のブラウン運動」へと展開される野村仁の比較的早い時期の作品、そして山中信夫のピンホールカメラ(私は二度中に入ったが映像を確認することができなかった。果たして機能していたのであろうか)。「再現」された作品は多くの発見を誘いつつ、私たちを一つの漠然とした疑問へと差し向ける。それは出品された作品がかつて京都市美術館で上映された作品と同一であるという保証はいかにして得られるかという問いであり、かくして私たちは先に述べた二番目のレヴェル、テクニカルな審級における作品の同一性という問題に直面する。この展覧会では厳密に全ての作品が「再現」された訳ではなく、いくつかの作品については作品が上映されていた場所に作品についてのメモのみが残されていた。映像もしくは上映形態についての記録が残されていなかったための処置であろうが、この意味において今回の展示は72年の展示の完全な再現ではない。もちろん私はこれを批判するつもりはないし、それどころかかかる困難を乗り越えて多くの作品が再現された点には敬意を表したい。映像とはテクノロジーと深く結びつき、媒体と密接に関わっている。例えばこの展示でしばしば使用された8mmフィルムは今日ほとんど目にする機会がなく、ネガが存在しないため複製も不可能だ。私は技術に詳しくないが、おそらく今回の展示ではオリジナルのフィルムを上映し、その映像をヴィデオなどの別の媒体によって記録し、あらためて会場で上映するというきわめて倒錯された手法がとられたはずである。8mmからヴィデオに媒体が変わることによって作品の本質に変化が生じるか否かは難しい問題だ。しかしながらこの展示が映像そのもの以上に提示の形式を主題化しており、例えば彦坂尚嘉の8mmフィルムを「蜘蛛の巣のように」張り巡らして一種の無限ループとして成立させた作品など、具体的な機材や建築を作品の中に取り込んでいることを勘案する時、機材の変更は展示の内容にも関与するように思われる。作品にとって関与的/非関与的な要素の区別はこの展示の根幹と関わっているはずだ。準備と展示、どの時点で撮影されたものか不明であるが、東京国立近代美術館のホームページには当時の会場の様子を記録した写真がアップされているので下に示す。
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 この写真と今回の展示の情景を比較することによってある程度、「展示の再現」の成否を判断することができよう。それぞれの作品の傍らにおそらく作者らしき人物が佇む当時の写真と比較するならば、今回の展示はいかにも展覧会然としていたが、それは会場の周囲に配置された情報によるところが大きいだろう。一過的な展示を再現する手法としては通常は写真や映像、資料を展示する方法がとられていた。これに対して今回のごとき再現方法は、それが展覧会についての展覧会であることを明確に示す。つまり再現された展示を取り巻く資料群が絵画に対する額縁、彫刻に対する台座として展覧会を聖別するのだ。しかし72年に京都市美術館を訪れたならば、人はこれらの展示と現実との区別をつけることが困難であろう。現実としての美術、このような感性が当時共有されていたことは、「アンチ・イリュージョン」あるいは「アート・オブ・ザ・リアル」といったメルクマールとなった展覧会名からも明らかである。これに対して今回の展示は現実と遮断された、周到に組織された展覧会であることを問わず語りに表明している。周囲の回廊、作品や作家についての説明なしに、いきなり当時の展示の部分のみを近代美術館の中に再現した場合はどのように印象が異なっただろうか。先に引用した同じ文章の中で企画者はこの展示を「43年前にわずか6日間だけ行われた『映像表現’72』を、京都から東京へと場を移して『再び舞台に乗せる』、すなわち『再演(replay)』するものだ」と述べているが、今回の展示においてはこれが一つの展覧会であるあることは既に所与の事実として示されている。展覧会をもう一度括弧内に括ることによって、おそらく72年の展示とは決定的に異なる一種の完結性がこの展覧会に賦与されたのではないだろうか。
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 最後にテクスチュアルな側面に目を向けよう。展示と映像の再現のレヴェルにおいては72年の展覧会が新たな構成と技術を介して、いわばアップデートされていたのに対してテクスチュアルなレヴェルでは72年の展示がほぼ踏襲されていた。つまり京都市美術館の展示の際に会場で配布されたカード式のパンフレットが再現され、袋詰めされてミュージアムショップで販売されていた。カード形式にした理由は明らかだ。会場に順路がないように、表裏に作家の略歴と展覧会のプランが印刷されたカードはばらばらで綴じられておらず、順番や階層をもたない。おそらく72年の展示に協賛したであろう書店や喫茶店の広告も同封され(その中には新京極ピカデリーで上映中の「成人映画」、「情欲エロフェッショナル」の広告も含まれる)、当時の気風を伝える。主催者あいさつと企画者の解説なども緑色の紙に印刷されて同封されているが同じ版型であるため、レヴェルの異なるテクストの介入はさほど目立たない。印刷のプロセスが当時とは一新された今日、当時の活版活字を再現することは不可能であり、この意味においてはこれらのテクストも形式においてアップデートされているといえるかもしれない。しかし私はもう少し詳しいテクスチュアルな介入があってもよかったのではないかと感じた。例えば展示の中で、この展覧会に対しては平野重光らの充実した批評が応接したことが指摘され、展示中に掲出されていた。企画者の解説のみならず、同時代になされたこれらの批評がパンフレットの中に再掲されていれば私たちの理解もさらに深まったのではないだろうか。今回の再現展示は情報量が多いにもかかわらず、72年の展示同様にあまりにもエフェメラルに感じられる。今述べた批評のほかにも今回会場で上映されていた関係者の証言、あるいは会場の設営や映像の再現に関する建築家や技術者の証言を書き起こして一連の資料集とすることができれば、72年の展示の輪郭がくっきりと浮かび上がったのではなかろうか。ただ私は、今、今回のカード式パンフレットをめくっていて、奥付の部分に Catalogue Vol.1という表記を見つけた。もしかしてそれらを収めたVol.2が作成される可能性があるのであろうか。これについても会場に特に説明はなかったように記憶する。
 今回、私は上映された作品についてはほとんど論じることがなかった。紙数の関係もあるが、今回の展示の意味が個々の作品ではなく、展覧会の再現というメタレヴェルに存すると考えるからだ。比較的短い時間で薄暗い会場をめぐったため、見落としや事実誤認があるかもしれない。その場合はコメントにて指摘いただきたい。作品について論じていないこともあり、かなりわかりにくいレヴューとなってしまったのではないかと危惧するが、かかるチャレンジングかつ概念的な展示にまともに応接する記事を今日の美術ジャーナリズムに期待することはできない。ひとまず所感を記し、記録として留める。
by gravity97 | 2015-11-03 11:15 | 展覧会 | Comments(0)

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 敗戦70周年の今年の夏、戦争と関わる展覧会をいくつか訪ねた。いずれもよく練られ、このブログで応接するに十分な内容であったが、最終的に最も強く印象に残ったのはテーマ展ではなく、東京国立近代美術館の常設展示で見た藤田嗣治の全所蔵作品展示であった。例えば名古屋市美術館で開かれた「画家たちと戦争」も藤田を含め、日本画、洋画あわせて14名の作家の戦中戦後の作品を一堂に展示し、画家の処世、戦争と表現といった問題について深く思いをめぐらす貴重な機会となった。名古屋の展覧会では作品が対比的に示されて、戦争に向かい合う画家の生き方という重い主題が問われていていたのに対して、東京国立近代美術館において私をあらためて圧倒したのは作家の生き方ではなく作品であった。戦争の表象という点で藤田の絵画は他の画家を卓絶している。
 今回展示されたのは東京国立近代美術館が「所蔵」する25点に加えて京都国立近代美術館の1点、合わせて26点の藤田の作品だ。あえて京都国立近代美術館が所蔵する《タピスリーの裸婦》を加えた理由は、私の考えによれば藤田の典型的な作例、乳白色の裸婦の代表作を加えることによって「戦争記録画」の異様さを相対化するためではなかっただろうか。しかし全所蔵作品展示のクライマックスが点数にして14点、展示の半数を超える「戦争記録画」であることは明らかである。これらの絵画は今なおアメリカからの「無期限貸与」という枷のもとにあり、近年、常設展示の中で展示されることが多いとはいえ、なかなかその全貌を知る機会がなかった。これまでも部分的に見た記憶があるが、全てが展示される機会は今後もほとんどないだろう。目立たない常設展示の中に組み込まれているとはいえ、これゆえ必見の展示といえよう。
b0138838_1111619.jpg 今回は出品作品の図版を全て収録したパンフレットが制作されている。藤田の戦争記録画の全貌を知るうえでも貴重な資料であろう。まずは表紙に掲げられた二つの作品、収蔵庫内のスクリーンに配架された《五人の裸婦》と《アッツ島玉砕》の対比から始めてみよう。いずれも藤田の代表作といってよいが、印象は大きく異なる。ベッドもしくはソファを背景とした明るい室内に五人の裸婦が整然と配置された前者と、不分明な画面の中に無数の兵士が折り重なるように描きこまれた後者、描かれた裸婦たちが明確に識別できる前者と個々の兵士がもはや区別不可能なまでに画面に溶け込んだ後者。明暗が対比されたような二つの画面である。しかし両者にはいつかの共通点も認められる。一つは人数こそ大いに異なるが、ともに複数の人物を描き込んだ群像として成立していることである。さらにどちらの作品においても画面が奥行きを欠き、一種のレリーフ的な空間の中に人物が配置されていることである。b0138838_11113310.jpg《アッツ島玉砕》においては背景に雪を冠した山が描かれているが、前景に群がる兵士たちとの間に中景が存在しないため、書割のような印象を与え、それは《五人の裸婦》の背景と同様である。奥行きのないいわば平面的な画面は藤田の絵画の特徴の一つである。今回出品された14点の「戦争記録画」においても《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》において画面が一種のプラトー構造、情景を見下ろした構図としてあいまいな遠近法が成立していることを除いて、大画面に広大な情景が描かれる場合があったにせよ、いずれも奥行きに欠ける。描かれた人物は画面から私たちに向かって滑り落ちそうな印象を与える場合が多い。先ほど私は裸婦を描いた絵画と戦争記録画を明暗の対比として比較したが、実は両者をつなぐ作品が存在する。2006年に同じ美術館で開かれた回顧展のカタログを参照するならば、1928年に制作された《ライオンのいる構図》がそれだ。3×3メートルという大画面に描かれ、フランスに残されているこの作品においては20人を超える人物が画面に配され、独特の乳白色の画面の中に群像表現が成立している。カタログにはこの作品がミケランジェロのシスティナ礼拝堂壁画から影響を受けた可能性が示唆されているが、私の印象としても十分にありうるだろう。この時期の藤田の絵画には単独像から群像へという方向性が認められ、《ライオンのいる構図》は画業の一つの頂点を形作っているといってよかろう。藤田は1931年から33年にかけてブラジル、メキシコを巡った後に帰朝する。中南米に滞在した時期、藤田は乳白色に代わり褐色を基調として現地の人々を描いた一連の作品を発表し、画風の刷新を図る。しかし日本に帰国した頃、時局は戦時に至り、藤田はその描写力を評価されて戦争記録画へと動員されるのである。今回展示された14点の「戦争記録画」のうち《南昌飛行場の焼打》《武漢進撃》《哈爾哈河畔之戦闘》は昼間の情景を描き、興味深いことにいずれも地平線もしくは水平線によって画面が二分されている。最後の作品はいわゆるノモンハン事件を扱っており、同じ主題を扱いながらも日本軍の死屍累々といった情景を描いた作品も制作されていたという記録がある。しかし太平洋戦争開戦直後という戦局を反映しているのであろうか少なくともこれら三点にはさほど切迫した印象はない。最初の二つの作品に関して、藤田は実際の戦地を取材し、あるいは関係者への聞き取りのうえ、作品に取り組んだという。続く《12月8日の真珠湾》と《シンガポール最後の日》も描かれているのは昼間の情景であろうが、画面は暗く沈む。そして1943年から45年の間に制作された9点の絵画こそ藤田の戦争記録画の真骨頂といえるだろう。いずれも異様きわまりない絵画として成立している。今さら指摘する必要もなかろうがアッツ島、ガダルカナル、サイパンといった激戦地を描いた絵画の晦渋さはどうだ。私はこれらの絵画をこれまで幾度となくこの美術館の常設展示の中で見ている。しかし今回、作品に付された解説を読んで、初めてそこにヴァチカンにあるジュリオ・ロマーノの《ミルウィウス橋の戦い》との比較が可能な刺し違える二人の兵士の図像が存在し、《薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す》の中に台湾の高砂族によって編成された勇猛な部隊が敵の首を切断した情景が描かれていることを知った。私は会場で解説を読み、あらためて作品の前に立ち戻り、これらの情景の確認を試みたが、それらの図像を識別することは決して容易ではなかった。実際に図版によっては写真の明度が高く、比較的容易に図像を判別できる場合もあるが、実物にあたるならば実に混濁した印象があり容易に判別できない。一連の乳白色の裸婦が画面の澄明さで特徴づけられていたのに対して、これらの絵画の不透明さは対照的といってよい。おそらくそこには藤田の独特の技法が深く関与しているだろう。藤田の技法の秘密に関しては多くの研究があり、私はほとんど知るところがないが、少なくとも面相筆で描かれた細密な描写と画面全面を覆う独特のニスのような層は裸婦像と戦争記録画に共通している。前者の澄明な効果と後者の晦渋な効果は同じ技法の裏表であるように思われるのだ。初期の戦争記録画においては飛行機や戦車といった兵器が中心に置かれたのに対して、後期の戦争記録画は文字通りに兵士たちが肉塊として描かれ、もはやオールオーバーといってもよい異様な構図として実現されている。既に誰かが指摘している点かもしれないが、私がこれらの絵画から連想したのはドラクロアであり、具体的には《サルダナパールの死》、《キオス島の虐殺》といった作品である。それらはいずれも大画面に群像が描かれ、なんとも不透明な印象が共通している。印象派を経過した私たちは絵画が光を宿すことを知っている。しかし印象派以前の絵画は不透明な表面の連なりであった。輝く裸婦から闇の中の兵士たちへ、藤田の絵画は美術史を遡行するかのようであるが、例えばルーブルでロマン主義の名画に親しんだ藤田にとって、それは決して退行や逆行ではなく新たな絵画の実験、偉大な絵画への接近であったはずだ。出品作中に《ソロモン海域に於ける米兵の末路》という作品がある。サメが群れ泳ぐ海上を小舟で漂流するアメリカの兵士たちを描いたこの作品がジェリコーの《メデューズ号の筏》から着想されたことは明らかであろう。《メデューズ号の筏》に特徴的に認められる三角形の構図が藤田の戦争記録画にもしばしば用いられていることはかねてより指摘されてきたが、ロマン主義の作家にみられた劇的なテーマと構図は戦争という主題を描く藤田に格好の枠組を与えたように感じられる。それに際しては逆に光の効果を抑制し、画面を均質に充填することによって藤田は大戦末期の玉砕、集団自殺、肉弾戦といった主題をおそるべき緊張感と閉塞感の中に表現したのである。初期の戦争記録画と異なり、これらの作品は現地や生存者へ取材することなく、藤田が自身で構想したものである。それにしても同じ時代に描かれ、これに類した絵画がほかに存在するであろうか。そもそも戦争記録画といった種類の絵画が欧米に存在するか私は寡聞にして知らない。アメリカに接収されたそれらの絵画は現在無期限貸与として東京国立近代美術館に収蔵され、そのほかにも日本画から彫刻にいたるまで、戦時下で制作された作品の全貌はすでにいくつかの画集の中で明らかとなっているとはいえ、玉砕や集団自殺を扱った一連の藤田の絵画は完成度において突出している。もちろん戦争記録画というジャンルが存在せずとも、戦争と革命、虐殺と略奪が古来よりヨーロッパの大画家たちの絵画の主題であったことはよく知られており、パリで生活した藤田がそれらに親しんでいたことは明白である。太平洋戦争は藤田に対して平時ではありえない主題と取り組むチャンスを提供した。おそらく藤田にとって描かれる個々の主題についての関心はさほどなかったのではなかろうか。画家は兵士たちを勇猛に描こうとか、厭戦的な気風を醸成しようとかいった意識をもっていない。藤田は自らがミケランジェロからドラクロアにいたる系譜に連なることをめざして、乳白色の裸婦たちを通して培ったすべての技術を戦争記録画に投じた。言い換えるならば藤田にとっては絵画の内容ではなく形式こそが重要であり、主題ではなく技法こそが問われたのである。この意味において、藤田自身、自分が戦争責任を問われると夢想だにしなかったことは十分にありうるだろう。しかし戦争記録画とはあまりにもデーモニッシュな主題であった。b0138838_1112021.jpg私はこの展示を見ながら、これらの戦争記録画の数年前に制作され、同じ東京国立近代美術館に収蔵されている一枚の絵画を反射的に連想していた。それは靉光の《眼のある風景》である。同じ戦時下、1938年に制作されたこの作品もまた何が描かれているのか判然としない晦渋な絵画であり、画面の中心に見開かれた目が強烈な印象を残す。細密に描かれた暗い画面、近接的な構図、アンフォルムとでも呼ぶべき形状、実は《眼のある風景》とこれらの絵画には多くの共通点がある。7年前の回顧展カタログではこの作品に描かれた目が「現実の奥底を、あるいは暗澹たる時代の果てを見通す意志のシンボル」と評されていた。戦争という狂気を見通すために画家は時代を超越した透徹した目を持つべきであった。しかし藤田はあまりに時代に密着しすぎたのではないか。私は藤田の戦争責任云々について論じようという訳ではない。パリでヨーロッパの名画の数々に出会い、それらに連なるべく独自の技法を開発し、一連の裸婦像へと昇華させた形式主義者としての藤田の才能と、太平洋戦争という時代の狂気が不幸な出会いをした結果、圧倒的な完成度を示しながらも顧みられることのない一群の呪われた絵画が誕生したのではないかと考えるのだ。
 戦後、藤田はフランスに帰化し、祖国の土を踏むことはなかった。戦後の作品をどうとらえるかは難しい問題であるが、私は時にグロテスクとさえ感じられるマニエリスム的熟練をめざしたそれらの作品に一種の退廃を感じる。少なくともそこには戦前の裸婦像のようなおおらかさや澄明感はない。今回の展示にもラ・フォンテーヌ寓話に触発されたと思しき数点の作品が加えられていたが、技巧の限りを尽くしたような細密描写を見て痛々しさを覚えないだろうか。マニエリスムとは戦争記録画というデーモンに見つめられた画家にとって唯一の逃避場所ではなかったのか。東京国立近代美術館に収蔵された藤田の作品を通覧し、私は今さらながら絵画という営みの業の深さに思いを致した。
by gravity97 | 2015-10-12 11:18 | 展覧会 | Comments(0)

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 タイトルに「具体の画家―正延正俊」とある。作家名のみでなく、具体美術協会に所属していたことを示して、展覧会をアピールしようとする美術館のやや苦しい戦略が見え隠れするが、確かにこのタイトルは正延の位置を暗示している。正延は具体美術協会の創立会員であり、解散まで在籍したメンバーの一人であるから、具体の中核といってよいが、白髪一雄や元永定正、あるいは村上三郎や田中敦子といったメンバーに比べて知名度が低い。しかし今回あらためてその画業を振り返るならば、作品の完成度はきわめて高く、今回の展覧会は具体美術協会においてこれまで見過ごされていた可能性に思いをめぐらす得難い機会となったように感じる。
 正延がこれまで正当な評価を受けなかった理由を挙げることはたやすい。初期の具体美術協会は派手なアクション・ペインティングで知られているが、正延は一貫して緻密な手法で絵画を描いてきた。さらに正延は1911年生まれであるから1905年生まれの具体美術協会のリーダー。吉原治良と6歳しか違わない。具体美術協会の会員たちが多く吉原と親子ほどの年齢差があり、それゆえたやすく師弟関係が成立したのに対して、正延と吉原の関係が微妙であったことは想像に難くない。おそらくこの理由によって正延はこのグループにおいても異質の絵画を描き続けることが許されたといえるかもしれない。65年というから作家が54歳の時にグタイピナコテカで開いた個展の出品作を導入部、そしてハイライトとした今回の展示は大いに見応えがあり、おそらく今後、作家の評価はさらに高まることとなるだろう。
 今回の展示でまず興味深く感じられたのは、戦前期、つまり正延が具体の結成に参加する以前に制作した一連の具象的な絵画である。具体美術協会の作家たちの個展はこれまでにもたびたび開催されてきたが、いずれも習作期とも呼ぶべき、このグループに参加する以前、端的に具象的な作品はほとんど展示されていなかった。これにもいくつかの理由がある。まず作家たちは当時まだ若く、具体美術協会に加わる以前にはほとんど作品を発表していなかった。さらに白髪一雄と田中敦子を例外として、いわゆる正式の美術教育を受けた作家は少なく、この意味でも彼らに作品を残すという発想はなかった。さらに具体美術協会の初期の活動の中で彼らの多くは一気に表現上のブレークスルーを遂げたから、それ以前の作品を意図的に自己の画業から外した可能性がある。これに対して、正延は具体美術協会結成時に43歳であり、それまでに多くの作品を制作していた。カタログにはそのあたりの事情をていねいに検証する論文が掲載されている、今回の展示には多くの戦前期の作品が出品され、それらはきわめてアカデミックで手堅い仕事である。なるほど同時代にあって正延の作品はほかの作品に埋もれてしまったかもしれず、それは東京と神戸で教鞭を執りながら作家としては刻苦していた正延の姿と二重写しになるかのようであるが、岸田劉生を連想させるマティエールの強調された絵画から、構成主義的、キュビスム的な絵画にいたる一連の作品は決して悪いものではない。絵画に真摯に応答する作家の姿勢は明らかだ。正延は戦後まもなく神戸市民美術教室で吉原に師事し、54年の具体美術協会の結成に参加する。私にとってはそれまで抽象ではあっても比較的穏健な作品を制作していた正延が、具体美術協会初期のスタイルに一挙に転じた点こそが興味深く感じられた。今回の展示には具体美術協会の機関誌『具体』の創刊号に掲出された正延の作品が『具体』誌の当該頁とともに展示されていた。私は作風の激変に驚いた。板の上にほぼモノクロームで絵具が塗りつけられた物質的な絵画はアンフォルメル風であるが、それまでの堅実な抽象絵画とは印象を大きく違えるのだ。私は具体美術協会という集団が正延のごとき年長で、ある程度作風を確立しつつあった作家に対しても、かくも変貌を強いたという事実に驚くのだ。具体美術協会は吉原治良という絶対的指導者に統率された集団であったから、かかる変貌は吉原が求めたものかもしれない。いや、私は次のように考える。正延が感じたであろう一種の集団的圧力、それはリーダーたる吉原も感じていたのではないか。そして同様の強迫は吉原をもとらえていたのではないか。シュルレアリスムから構成主義まで西欧のモダニズム絵画を自己の画業の中で追体験するかのように作品の制作を続けていたモダニスト吉原は1950年代中盤に大きな転機を迎える。それはしばしばカリグラフィックな線描を伴う物質的な絵画であり、正延同様に唐突な転回であった。しかも50年代後半の吉原の絵画は質的に必ずしも高くない。アクションを導入して、物質と精神の結合のごとき作品を量産した白髪や嶋本昭三らに比して、指導者たる自分の作品の質が劣っていることを吉原は意識し、それゆえ苦悩した。この点に関しては多くの証言が残されている。具体美術協会が活動の初期に残した物質的な絵画は相互に差別化されにくい。とりわけモノクロームの図版で確認するならば、誰の作品であるかさえ画面から識別することは困難である。このような同質性は異様にも感じられるが、ひるがえって彼らの独自性を保証していたかもしれない。若い画家たちが独特のアクション・ペインティングを編み出してかかるアポリアを克服したのに対して、吉原は物質的な絵画の中にとらわれてしまったのだ。
 多くの画家がアクションに可能性を見出し、リーダーたる吉原が物質の中に埋没したのに対して、正延は異なった手法で難局から脱した。今回出品された作品のうち、物質性が強化された作品は今触れた『具体』誌に掲載された作品ほかごくわずかであり、早い時期に正延は独自の画面に到達した。しかもそれはアクションとも物質性とも異なった手法であった。早くも55年に正延は縦長の画面を、ドードリングと呼ぶのであろうか、ほぼ同じ大きさのいたずら書き風の単位で埋め尽くす独特の構成による絵画を発表している。いかなる発想あるいは意図から正延がかかる画面に想到したかは定かではない。65年の個展のパンフレットに寄せた吉原のテクストにはマーク・トビーの名が引かれているから、吉原の蔵書等を通して正延がトビーのホワイト・ライティングを知った可能性は否定できない。しかしおそらくは正延は独自にかかる構造に到達したのではないか。吉原の指導の下にいる限り、具象への後退は許されなかった。しかし正延は決してアクションの画家ではなく、それを証明するかのように画面にストロークの跡が認められることはまれである。正延はオールオーバーという独特な画面構造を選ぶことによって新たな境地に立った。興味深いことに抽象表現主義絵画に広く認められたオールオーバー構造は具体美術協会においてはむしろまれであった。アクションに基づくストローク、そして画面の物質性はともにオールオーバー構造の成立を阻害したのだ。正延とともに同様の構造を画面に与えたのは、おそらく上前智祐だけであり、いずれも具体美術協会の活動に一貫してペインターとして関与した。いたずら描きのような無数の線の戯れは大きさや粗密を変えて画面を覆い尽くす。50年代後半にスタイルを確立した正延はこの後、いわばテーマズ・アンド・ヴァリエーションズとして作品の幅を広げ、その成果を一望に示したのが最初に触れた65年のグタイピナコテカにおける個展であった。油彩に加えてエナメルを使用することによって独特の形態が時に面的、時に線的に画面を構成し、時に沈潜し、時に躍動感のある優れた抽象絵画が成立している。私はこの個展に出品された、多様でありながら一貫する、正延の絶頂との呼ぶべき作品群がほとんど国内の主要な美術館に収められていることに安堵した。とりわけ大阪新美術館建設準備室が所蔵する1964年の《作品》は素晴らしい。このセクションの白眉とも呼ぶべきこの作品は具体美術協会の作家が制作した作品の中でも屈指といってよいし、抽象表現主義の絵画と比べても遜色がない。決して主流ではない一人のメンバーがこれほどのクオリティーを備えた作品を軽々と発表した点に具体美術協会の凄みがある。そしてこの作品は今日までほとんど顧みられることさえなかったのだ、
 展覧会でいえば第四章以降、個展以降の作品の評価は難しい。比較的作品数は少ないが、それは作家が制作しなかったためか、今回の展覧会に選ばれなかったか、いずれの理由か判然としない。さらに最後の部屋に集められたサムホールの小品についてはもう少し展示の中で説明がほしかった。どのような経緯で続けられたかわからないが、半世紀にわたって制作された小品は単に正延の作品の変遷を示すのみならず、作品としても魅力に富んでいるからだ。
 展覧会を一巡した後、再び初期作品が展示された部屋に戻り、早い時期に描かれ、吉原に激賞されたという《黄の塑像》を見る。確かに素晴らしい作品だ。この作品とほぼ同時期に描かれた《黒の塑像》を比較するならば、そこに描かれたモティーフが同一であることはたやすく理解され、ごていねいにもカタログにはそこで描かれた塑像のシルエットの写真が掲出されている。これらの半具象的な作品と一連のオールオーバー絵画を比べる時、私は両者が実は類似した構造に基づいているのではないかと感じた。つまり一見するとオールオーバーに塗り込められながらも、そこにはモティーフを隠す/隠されるという画面構造が認められ、私の印象では隠されるモティーフとは多くトルソ、人体のように感じられるのだ。このような構造から直ちに連想されるのはポロックであり、実際に正延の線的な抽象からはポロック同様、その内部の人の姿をうかがうことができる。正延の絵画がほとんど縦長のフォーマットをとることはこの問題と深く関わっている。正延の描くドードリング、あるいは線は決して野放図に引かれているのではない。私があえて構図性と呼ぶイメージの背後の骨格と表面を埋め尽くすオールオーバー構造とのせめぎあいは美しい緊張を画面に与えている。それにしても正延はこのような画面をいかに描いたのであろうか。とりわけ先に触れた大阪新美術館建設準備室所蔵の大作において稠密な線は筆で描かれたのか、それとも特殊な技法によって描かれたのか、私は深い興味を感じた。正延は制作中、家族もアトリエに入ることを嫌ったという。技法の面からも正延の絵画は今後検証されるべき多くの余地を残している。そして漠然としたフィギュアを残しながら画面を一体化する手法、それは吉原が戦後のごく短い時期に試しながら、十分に成功しえなかった絵画の可能性であったのではなかろうか。
 具体美術協会に関しては、リーダーの吉原をはじめ、白髪、田中、元永あるいは村上といった数名の作家たちが注目され、多くの展覧会が組織されてきた。しかし今回の展覧会を一覧し、正延のごとくこれまで周縁的とみなされてきた画家が私の考えでは抽象表現主義の名品に匹敵する絵画を制作していたという事実はあらためてこの集団の奥深さをうかがわせる。私の知る限り、一人のリーダーに統率された集団がこれほど多様かつクオリティーの高い絵画を量産した例はかつてない。これまでは今名前を挙げたような中心的な作家たちのみにスポットライトが当たってきたが、今回の個展はその周囲にも多くの優れた作家が存在したことを明らかにするとともに、具体美術協会においてまだ十分に究明されていない絵画の可能性を暗示している。今回の展覧会は西宮と高知という作家にゆかりにある二つの都市で開催される。正延の存在を示すために首都圏を含めた大都市圏で開かれてもよかったと感じるが、このように地域と関わる作家を地道に検証する作業こそが公立美術館の使命であろう。志の感じられる展覧会であった、
by gravity97 | 2015-08-06 21:19 | 展覧会 | Comments(0)

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 NO MUSEUM、NO LIFE ? 美術館なくして人生なし、とでも訳すのであろうか。独立行政法人国立美術館によって企画され、東京国立近代美術館で開催されている展覧会を訪れる。国立の5美術館の所蔵作品によって展示を構成する試みは2010年の「陰翳礼讃」展に続き二回目であるという。前回はストレートな名品展であったが、今回は「美術館」をテーマにした変化球。おそらく見る者によって印象は大きく異なるだろう。インターネットを検索したところ、変わった切り口で楽しめたといった感想が多かったが、私が覚えたのはむしろ漠然とした不全感であった。
  「これからの美術館事典」というタイトルに即して展示はAからZまでのキーワードを追うかたちで構成されている。日本で企画された「事典」であるならば、「あ」から「ん」ではないかといった意地悪は言わないことにしよう。50近いテーマを設定するのは大変であろうし、展示の面積から考えてもAからZ、26のキーワードの方が会場を構成しやすいからだ。しかし会場をめぐってみるとやや事情が違う。例えばAならばArchitecture、Archive、 Artist、 Art Museumと四つの項目が扱われているのに対して、K、Q、Uについては項目がない。XやZといったキーワードを設定しにくいアルファベットに対してもそれぞれX-ray、Zeroといったやや苦しいキーワードが当てられているのに対してなんとも不徹底というか恣意的だ。そもそも展覧会をアルファベット順に構成するという手法はイヴ=アラン・ボアとロザリンド・クラウスの企画によって96年にポンピドゥー・センターで開かれた「アンフォルム」を模しているが、「アンフォルム」に事典形式が導入された理由は、キーワードをアルファベットに機械的に対応させることによって通常の展示のコンテクストを破壊するためであった。つまり26のキーワード(実際には28)を任意に設定することによって作家別とか時代順といった脈絡を欠いた展示の実現がめざされていた。しかし今回の展示においては複数のキーワードが存在するアルファベットとキーワードが存在しないそれが混在している。50個ほどの候補から最終的にキーワードを36個に絞ったとのことであるが、美術館と関わる言葉を恣意的に選ぶのであれば初めからアルファベット順の配列や「事典」という形式に拘泥する必要はないように感じる。
 このような不徹底はキーワードの選択そのものにも認められる。この展覧会が美術館という制度を主題にしたものであることはタイトルからも明らかである。確かにArchitecture、GuardあるいはStorageといった項目は美術館の形式、あるいは外形的事実と関わっている。しかし例えばHaptic、Naked/NudeそしてOriginalといった項目は展示される作品と関わっており、意味性のレイヤーが異なるように感じられる。私の感想を述べるならば、この展覧会がもし美術館あるいは展覧会の外形的な事実のみに焦点をあてていたら、きわめて刺激的な内容になったと思う。例えばHangingというキーワードと関連して、いわゆる金属製の吊り金具、ワイヤーが展示されている。通常は絵画の後ろに隠されているこの器具を「展示」することによって来場者は作品がいかに保守されているかを知るだろう。余談となるが、カタログ中でも触れられているとおり、日本の吊り金具は世界的にもきわめて優秀であり、私も以前、ポンピドゥー・センターから展示に立ち会うために来日し、その精密さに驚嘆した関係者(コンサヴェーターであったと記憶する)から、一個でよいから持ち帰らせてほしいと懇願された経験がある。あるいはTemperature に関してはどこの美術館でもよく見かける自記式温湿度計、Guardと関連しては、フランシス・ベーコンの作品を取り囲むように配された金属の結界、これらに焦点をあてた展示はあってよいし、それなりに多くの発見をもたらすだろう。しかしそのようなテーマの展覧会であれば、そもそも作品を展示する必要はない。実際、私はもしこの展覧会にそこまでの決意とともに「これからの美術館」を展望する覚悟があれば、つまり一点の「美術作品」も展示することなく、展示器具や資材、「作品」ではなく「資料」の展示によって構成されていたのであれば、それなりの見識を感じる。しかし理事長の「ごあいさつ」によればこの展覧会の目的は「キーワードに沿いながら、紀元前から現代、西洋から東洋までと幅広い、合計約4万点の国立美術館のコレクションの中から約170点の作品を厳選して紹介する」ことであるらしい。つまり美術館という制度を問うているのか、「名品」を紹介するのか、展覧会の目的がどっちつかずなのだ。4万点の中から約170点の作品がどのように厳選されたのか、その理由がよくわからない。例えばNaked/Nude のセクションだ。国立美術館の所蔵品から裸体に関連した作品を選ぶことは誰にとってもたやすい「キューレーション」であり、私は「これからの美術館」をテーマとした展示の中にこのような安易なキーワードが存在することに不審を感じる。さらにこのセクションに展示された裸体がほとんど女性であることにも驚く。ジェンダーについての申し訳程度の言及はカタログにもあるが、膨大なコレクションの中から選ぶ以上、単なる名品選ではなくもう少し批評的な視点を介在させることができなかったのだろうか。この項目に象徴的にみられるとおり、この展覧会ではそれぞれのキーワード、ことに美術館というテーマと直接の関係をもたないキーワードについては個々の作品が対応する必然性があまり感じられないのだ。もちろん国立美術館の所蔵作品であるから、作品のクオリティーは高い。しかし作品は「キーワード」を説明するために制作されたのではないはずだ。
 このブログの読者なら理解していただけると思うが、私は小説でも演劇でもメタ的な構造を好む。美術館/展覧会についての展覧会という発想は本来ならば、大いに私を楽しませてくれるはずであった。これに対して、今回の展示が煮え切らない印象しか残さなかったとすればその理由は明らかだ。この展覧会は美術館/展覧会へのメタ批評ではなく楽屋落ちに終始している。カタログの中でも触れられているとおり、美術館ないし展覧会を主題とした展覧会としてはいくつか先例がある。2001年、国立国際美術館における「主題としての美術館」、同じ年、東京国立博物館を会場とした「美術館を読み解く」、2002年、兵庫県立美術館の開館記念展「美術館の夢」あるいはこのブログでも取り上げた2010年、京都国立近代美術館における「マイ・フェイバリット―とある美術の検索目録/所蔵作品から」。これらの展覧会は私も見た覚えがある。このうちコレクションについてのメタ批評の域に達していた試みは「マイ・フェイバリット」のみである。むろんそれぞれに問題意識が異なるから一括して論じることはできないし、メタ・レヴェルであればよいという訳でもないことは十分に承知している。しかしそれらと比べても今回の展示は美術館としてのディーセンシーに欠けているのではないか。Handling という項目ではHanging の項目で展示されたミロスワフ・バウカの作品が東京国立近代美術館に搬入されてから展示されるまでの一部始終、カトーレックの作業の人たちの仕事ぶりが記録として映示されている。私はこの映像に恥ずかしさを覚えた。作品の展示が作業員たちの入念な仕事によって保証されていることは学芸員であれば誰でも知っている。しかしそれを一般の来場者にことさらに公開する必要があるだろうか。これに対してCuration の項目には「ここでは、本展の企画準備段階で生まれた資料類を展示することで、われわれ自身のキューレーションの一端をさらけ出すことにする」という何やら得意げなテクストとともに展示室の模型を前に作品配置について協議する本展の「キューレーター」らしき人々の写真が掲載されている。このような仕事は学芸員であれば(国立美術館ほど恵まれた環境になくとも)誰でも行っていることだ。私にはこのような作業は来場者にことさら見せる必要もないし、見せるべきでもないという信念がある。自分たちの「苦労」を誰にも知らせることなく展示に組み込むことが私たちの世代の学芸員の美学であったが、若い「キューレーター」たちは展覧会を通して自分たちの「苦労」を来場者たちに知らせたいらしい。さらに言えば、私の感覚では美術品の専門業者ではなく「キューレーター」こそがHandlingの項目に挿入されるべきではなかったか。あるいはMoney の項目では作品の展示はなく、日本の国立五館の収入(交付金をを含む)をルーブル美術館、ニューヨーク近代美術館のそれと比較した表が掲出されている。カタログにあるとおり、「これをどう読むかは、立場によって異なるだろう」が、少なくとも直示的な意味としては日本の国立美術館は欧米の美術館よりはるかに少ない収入で運営されているということであろう。国立美術館に国威の発揚を求める政治家であれば、憤って予算をつけてくれるかもしれないが、今日、日本の美術館において国立館が一人勝ちの様相を呈していることは美術館関係者であれば誰でも知っている。おそらくこの展覧会で美術館の楽屋落ちを楽しむ多くの学芸員たちに決して愉快な印象を与えることのないメッセージである。
 私は今回の企画の意図そのものには共感する。先にも述べたとおり、これほど大規模な展示でなくても、例えばコレクション展の一角、今回も「事物」という興味深い展示がなされていたくらいのスペースで、美術館や展覧会そのものに批評を加える展示を組織することは可能なはずだ。ワイヤーや額縁、作品が収められていたクレート、さらには(私自身であれば展示に加えることを躊躇するが)作品の調書といったアイテムが美術館や展覧会に対して果たす批評性はこの展示をとおして理解された。この場合、ことさらに作品を用いる必要はない。私たちは優れた作品に出会うために美術館や展覧会に通うのであって、気の利いた「キューレーション」の例証や図解として作品が引用されるのを確認するためではないのだから。
 蛇足かもしれないが、関連して最後にもう一言述べておく。今年は高松次郎をめぐる二つの大きな展覧会が東京国立近代美術館と国立国際美術館で開催された。ともに国立美術館を舞台としているが、実は別々の展覧会であり、展覧会としては国立国際美術館の「高松次郎 制作の軌跡」の方がはるかに印象的であった。理由はきわめて単純だ。国立国際美術館の展示では常設展示も全て使用して、圧倒的に多くの作品がクロノロジカルにきわめてシンプルに展示されていたからだ。これに対して東京国立近代美術館の「高松次郎 ミステリーズ」においては、タイトルが暗示するとおり、三期に分類された作品群をそれぞれ一人の学芸員が解き明かすという趣向で構成されており、配置も複雑であれば解説もやたらと多かった。難解とされる高松の作品を来場者にわかりやすく解き明かそうという後者の意図はわからないでもない。しかし来場者の啓蒙を前面に押し出す美術館の姿勢は私にはいささか押しつけがましく感じられた。高松の作品は確かに難解かもしれないが、誰かにその意味を解き明かしてもらわずとも十分に存在感があり、魅力的である。そもそも私たちは作品を見に来たのであり、作品の解釈を学びに来た訳ではない。「ミステリーズ」と「事典」、二つの展覧会が真犯人やら定義やら、一義的な答えを必要とする説話や書物をタイトルに付している点は暗示的だ。
 展覧会を組み立てることの困難は重々承知しているが、今や会場デザインやグラフィックデザインまで専門家を雇って(これについても言いたいことは多いが、ここでは控える)展覧会を実施する余力のある美術館は国立館以外にほとんど存在しない。この展覧会は独立行政法人国立美術館がいわば総力で取り組んだ展覧会のはずだ。異論もあろうが、あえて苦言を呈すゆえんである。
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by gravity97 | 2015-07-18 17:36 | 展覧会 | Comments(0)

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 ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵のバーネット・ニューマン「十字架の道行き」連作14点が信楽のMIHO MUSEUMで特別展示されるとの情報を得た時には二重の意味で驚愕した。このような展覧会が日本で開かれることが一つ、そしてMIHO MUSEUMという会場で開かれることが一つ。しかしいずれにも理由があった。まずワシントン・ナショナル・ギャラリーは現在改修中のため、作品の大規模な貸し出しが可能となったようである。そういえば先日も私は三菱一号館美術館で印象派を中心にしたこの美術館のコレクション展を見たばかりであった。ニューマンの14点組はミュージアム・ピースと呼ぶべき作品であるから通常であれば貸出しはありえない。(唯一の例外は作家の回顧展であろう。私は2002年、テート・モダンで開かれたニューマンの回顧展でこの作品を見ている)このような機会に、こともあろうに日本への貸与が実現したことは奇跡のように感じられるが、これには二番目の事情、つまりMIHO MUSEUMという会場が関わっている。この二つの美術館はいずれもI.M.ペイが建築を手がけており、建築がとりもつ縁でこのような展覧会が可能となったらしい。私は以前にもMIHO MUSEUMを訪ねたことがある。レセプションから美術館まで電気自動車で向かう行程はロスアンジェルスのゲッティ・ミュージアムを連想させ、地上から楽園へ、宗教法人でなければありえない豪奢な造りの美術館である。しかしコレクションに現代絵画は含まれておらず、展示はガラスケースが多用されるから、果たしてニューマンの大作が映えるのだろうか。このような懸念は会場に入るや霧消した。ゲストキューレーターにポロック展の大島徹也氏を迎えた展示はさすがによく練られている。出品作は連作14点、そしてこの連作に深く関係する《Be Ⅱ》のみに限定され(ワシントン・ナショナル・ギャラリーはこのほかにもニューマンを所蔵しているから、ニューマン展と銘打って点数を増やすという選択肢もありえたはずだ)、特別展示室ではなく狭い常設展示室に八面の壁を設えて、集中的な展示がなされていた。展示効果は劇的といってよい。その完成度において私は以前このブログでも論じた川村記念美術館でのロスコ展を想起した。今述べたとおり、私はこの連作を2002年にロンドンでニューマンの回顧展でも見ている。その際にも強い印象を受けたが、今回とは比較にならない。これらの作品は回顧展の一部としてではなく、あくまでも独立した連作として見られるべきであろう。それどころか展覧会全体の印象としては今回の方が強いかもしれない。まさにモダニズム絵画の絶頂を画する作品であり、必見の展示といえよう。
b0138838_21515662.jpg 「十字架の道行き Stations of the Cross」とはキリスト教美術にとって伝統的な図像の一つである。キリストが死刑を宣告され、十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩み、そこで磔刑に処されるまでの物語を14の場面に分けて描くものであるが、場面が多すぎるせいか、「聖衣剥奪」といった図像が単独で描かれることはあっても連作として知られる例としてはマティスのヴァンス、ロザリオ礼拝堂の装飾プランしか思い浮かばない。マティスの作品に関して岡崎乾二郎が「ルネサンス 経験の条件」の冒頭で詳細な分析を加えたことは記憶に新しい。私たちはまずニューマンがここに展示された連作を長い期間にわたって制作した点に注目しなければならない。《第一留》と《第二留》が1958年に制作された後、この連作は基本的に二年間に二点ずつというペースで制作され、1966年に最後の二点が完成された。つまり連作の開始から完成までには8年もの時間が費やされている。これらの作品は66年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で、今回も展示された《Be Ⅱ》とともに初めて公開された。これらの連作に関して私は二つの事実を指摘しておきたい。一つは遅さである。14枚の作品は8年の年月をかけて制作された。少し長くなるが、ニューマンのステートメントを引用する。

 誰かが私にこれらの「十字架の道行き」をつくるように求めたのではない。それらはどこかの教会から委嘱されたものではない。それらは慣例的な意味における「教会」芸術ではない。だがそれらは私が感じ理解するところの「受難」にまさにかかわっている。そして私にとって一層重要なことは、それらが教会なしに存在しうるということである。
 私はこれらの絵画を8年前に始めた。何であれ絵画を始めるに際して私がとってきた仕方で、つまり描くことによって、自分が何か特殊なものをここで扱っていることに思い至ったのは作品を描いているさなかのことであった。(そのとき私は4番目のものに取り組んでいた)あの瞬間、それらの絵画がもっていると感じられた強度が、私に「十字架の道行き」のことを思い起こさせたのである。

 作家が述べるとおり、委嘱された仕事ではないから期限があった訳ではなかろう。しかし今回のカタログの論文にもあるとおり、当時ニューマンは不遇の中にあった。ほかの抽象表現主義の画家が華々しい成功を収める中で、作品は売れず、57年には最初の心臓発作が作家を襲っている。しかし逆境の中にあっても作家は実にゆっくりとしたペースでこの連作を制作している。上の引用にあるとおり、自分が何を扱っているかを想到したのが四番目の作品を制作している時であったというから1960年、最初の作品を描き始めてから2年後のことである。作家自身も自分が何を描いているのか理解するまでに2年もの時間がかかったのである。それはニューマンにとって初めての体験ではなかっただろう。1948年、作家にとってブレークスルーとなる《ワンメントⅠ》の制作の途上で、作家は自分が何をしたかを確かめるために作品をイーゼルの上に留めたまま数ヶ月にわたって思考したことが知られている。ジップ絵画、そしてこの連作は作家にとってもそれがどのような意味をもつかを確信するまでに長い時間を必要としたのである。もう一つの事実も《ワンメントⅠ》との比較が有効だ。色彩や構図といった要素を可能な限り排除した二つの絵画は垂直のジップのみによって成立する点で共通している。しかし根本的な相違として《ワンメントⅠ》は一点の作品として構想されたのに対して、「十字架の道行き」は二点ずつの組として描かれている。絵画が対として構想されている点が二番目の事実だ。《第一留》と《第二留》は1958年に制作され、《第三留》と《第四留》は1960年といった具合に二年ごとに二点というペースがほぼ踏襲されている。
 先にも述べたとおり、「十字架の道行き」はよく知られた物語であり、伝統的な図像である。しばらく前に私はメル・ギブソンの「パッション」を見て、この道行きの苛酷さと凄惨さをあらためて思い知った。もちろんニューマンの作品にはキリストはおろか具象的な対象は一切描かれていない。色彩は白と黒に限定され、注目すべきは地塗りされないカンヴァス、いわゆるロウ・カンヴァスが導入されている点だ。ただし今回、作品を実見して初めて気づいたが、作品中、《第十二留》(主題としてはキリストの死、クライマックスとなる箇所だ)は黒ではなくグレーが用いられている。きわめて微妙な色調の変化なので、実物を見なければわからないし、複製をとおした場合、今回のカタログのような大図版で、あらかじめ差異を見出そうとしなければ識別することの困難な相違である。ロウ・カンヴァスの意味については後で論じる。もう少し子細に作品を見てみよう。198×153cmという作品のサイズは14点とも同一であり、作品の構造もおおむね相似している。《第十四留》など面的な構成がとられた数点を除いて、垂直のジップが画面の左端と画面に向かって右四分の一あたりに貫入している。ただしジップは時に絵具を塗り込んで、時に塗り残して実現されており、色彩の存在と不在、ポジとネガとして成立している。画面にはニューマンとしては比較的珍しい刷毛や滴りの跡が残されているが、興味深いことには多くイメージの右側に残されているため、全体としてこの連作は左から右への方向性を帯びている。今回の展示においても、《第一留》から《第十四留》までは展示室内で時計回りに、つまり左から右へ向かって陳列されている。カタログで確認する限り、64年のグッゲンハイム美術館においても同じ方向性を伴って展示されていた。この点においても《ワンメントⅠ》との比較は有効だ。《ワンメントⅠ》は比較的小品であるが、シンメトリカルな構成をとり、観者に対して垂直的で直面的な印象を与える。時に崇高に擬されるニューマンの絵画における特殊な享受の体験はこのような直接性、そして非時間性と関わっている。モダニズム絵画の知覚の特殊な時間性はマイケル・フリードがミニマル・アートを批判する根拠となった。ニューマンの絵画における時間性はこれとは異なり、作家自身のテクスト「崇高はいま」にいたる豊かな問題群を形成しているが、ここで詳述することは控える。私が指摘したいのは「十字架の道行き」においては明らかに《ワンメントⅠ》とは異なった時間性へのアプローチが用いられている点だ。そこでは一枚の絵画ではなく連作として一つの主題を確立することがめざされている。この連作の主題については先にも引用したステートメントの中でニューマン自身が次のように述べている。「レマ―何のために?―という叫び、これが〈受難〉であり、私がこれらの絵画において喚起しようと試みたものである」レマ・サバクタニ、何故私をお見捨てになったのですかという十字架上のキリストの叫びはこの展覧会のサブタイトルとして与えられているほどに重要である。4枚目の絵画を制作する中で初めて得られたというこの主題はこの連作においていかに実現されているであろうか。
私の予断を述べよう。ニューマンにおいて絵画の主題は、私たちの体験の審級を知覚から事件へと転じることによって実現されている。通常私たちは絵画を視覚的に認知する。絵画とは視覚的であるがゆえに、図版を介しても再現可能であり、作品に直面せずとも同じ経験が与えられるとみなされてきた。しかしニューマンの絵画の知覚はやや異なる。先に色彩に関して述べたとおり、一見黒に見える色彩は実見するならば濃いグレーであり、図版として再現するにはあまりにも精妙なのである。おそらく同様の困難は例えばロスコの絵画にも認められる。ロスコ・チャペルの深い紫の壁画は天井から差し込む自然光の効果とも相俟ってその相貌を刻々と変える。抽象表現主義の大画面はその巨大さゆえに単純な視覚的体験に還元されない特殊な視覚を形成する。ニューマンの大画面は観者の身体を函数として成立しており、見る者に対していわばその場限りの知覚を与える。作家自身が鑑賞に際してなるべく作品に接近するように求めたというエピソードはこのような知覚の成立に関与している。このような体験がミニマル・アートの作家たちに大きな示唆を与えたことに疑いの余地はない。一度きりの視覚、再現されない視覚とは知覚ではなく事件と呼ばれるべきではないか。さらに「十字架の道行き」においては作品のみならず、観者も事件の契機となりうる。キリストが十字架を背にヴィア・ドロローサを歩んだように私たちも時間をかけて絵画の中を歩むのだ。私たちが事件を体験することによって主題が実現されると言ってもよかろう。私はワシントンを訪れたことがないので、ナショナル・ギャラリーでこれらの作品がどのように展示されているか知らない。しかし作家の生前になされたグッゲンハイム美術館での展示の写真を確認する限り、観者は建築の構造上、《第一留》から《第十四留》までを順番にたどったはずだ。この行程は不可逆的だ。つまり一つの方向性とともに展示室をめぐることが作品の構造に組み込まれている。ニューマンのジップ絵画に特徴的であった、瞬時的あるいは非時間的な知覚と、「十字架の道行き」の知覚は大きく異なる。この点はカタログの中でも次のように指摘されている。「《ワンメントⅠ》などの作品が『私はここにいる』という高らかな宣言を引き出すものだとしたら、〈十字架の道行き〉は『私はどこにいるのか?』という疑問を提起しているように思われる」私たちは「十字架の道行き」において複数の場所、複数の時間をもつ。ニューマンは「場の感覚」の重要性について繰り返し論じている。通常のジップ絵画において私たちが絵画によって「場の感覚」を与えられるのに対して、「十字架の道行き」においては私たち自身が「場の感覚」をつかみとらなければならない。ジップ絵画の単数性に対して「十字架の道行き」の複数性。最初に述べたとおり、この連作が二点ずつ対比されつつゆっくりと制作された事情はかかる問題と関わっているだろう。
 グッゲンハイムの展示に際して、ニューマンは連作とは直接関係をもたない《Be Ⅱ》を加えて15点の作品を展示した。「復活」という別称から、《Be Ⅱ》は端的にキリストの復活を暗示しているとみなされている。両端にオレンジと黒が細く塗り込まれたこの作品も構図において特異である。私はこの作品にニューマンがあえて「存在せよ」というタイトルを与えた点に興味をもつ。カバラ的解釈に立つトマス・ヘスはこれをユダヤ教において創造主が被造物に発する命令であると理解する。しかし私はこの命令は私たち観者にこそ向けられているのではないかと考える。つまり絵画という場の中に「存在せよ」と命じられているのだ。「十字架の道行き」において色彩が白と黒に限定されていることはすでに述べた。このほか地塗りされないロウ・カンヴァスも作品の重要な構成要素だ。ニューマン自身もロウ・カンヴァスが必要に迫られて導入されたと述べ、次のように続ける。「それは数ある色彩のなかのひとつとしてではなく、(中略)私は素材それ自身を真の色彩へとつくりかえなければならなかったのである。白い光のように、黄色い光のように、黒い光のように」ロウ・カンヴァスは色彩ならざる光として導入されたのである。「十字架の道行き」がモノクロームと光によって描かれているとするならば、それは「教会なしの受難劇」の表象にまことにふさわしい。これに対してオレンジという「数ある色彩のなかのひとつ」が加えられた《BeⅡ》とは神意ではなく世俗、神に対する人、受難を目撃する民衆、あるいは作品に対する観者の位置を占めると考えるのはいささか安易な発想であろうか。ニューマンの絵画の前に立つ時、私たちを満たす圧倒的な感情については多くが論じられてきた。「十字架の道行き」をめぐりながら、私たちは作品の主題から現実の展示まで重層的に「場の感覚」が実現されていることを知る。本来ならば作品が設置された場でなければ体験できないかかるセンセーションをもはや《アンナの光》なき日本において体験すること、それはまさに一つの奇跡といえよう。
by gravity97 | 2015-04-22 21:54 | 展覧会 | Comments(0)

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 先日より京都で「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」が開かれている。ひとまずメインとなる京都市美術館と京都府京都文化博物館を訪れてみた。予想通りあまたの国際美術展と比べても遜色のない、充実した内容の展示であった。
 知られているとおり、このところ国内で国際芸術祭が相次いでいる。昨年夏の横浜トリエンナーレについてはこのブログでも評したが、その後も札幌で札幌国際芸術祭が開かれ、あいちトリエンナーレと瀬戸内国際芸術祭は来年に開催が予定されている。町おこし地域おこしを絡めた芸術祭のラッシュの中で、後発の京都国際芸術祭にとってその内容をいかに差異化するかということが大きな課題であったはずだ。展覧会に先立っておびただしいプレ・イヴェントが開催され、出品作家が数次にわたって発表されたが、出品作家を知って私はやや失望した。多くの作家が国際展の常連であり、さらにこの国際展のディレクターである河本信治氏が企画する展覧会への出品者であったからだ。ウィリアム・ケントリッジ、ピピロッティ・リスト、やなぎみわといった作家たちは既視感が強い。実際に展覧会を見た印象としても映像が多用される展示、あるいはカタログの形式は「プロジェクト・フォー・サバイヴァル」や「STILL/MOVING」といったかつて京都国立近代美術館で企画された展覧会を強く連想させる。しかし作家や展示方法の類似にもかかわらず、実際に会場を回ってみるとPARASOPHIAは国際現代美術展を知悉し、自身も第一回横浜トリエンナーレのディレクターの一人を務めた河本氏ならではたくらみや仕掛けに満ちた企画であり、国際展の在り方を相対化する、批判的、自覚的な意識が反映されているように感じた。以下、この展覧会の特質を三つの点から論じる。
 この展覧会の成功の第一の理由は、作家を国際展としては比較的少数の40組に限定し、それぞれに十分なスペースを与えた点だ。出品作家はこれまでに何度も国内で作品が展示された作家から、初めて名前を知り作品を見る作家まで多様であるが、数はさほど多くない。展示は二つの美術館以外にも市内に散在しているが、京都市美術館で8割以上を見ることが可能である。市内に設置された作品についても地図等のインフォメーションは豊富であるから、この時期、京都くらいの大きさの町であれば、ミュンスターの彫刻展のごとく自転車を借りて作品巡りをすることも楽しいだろう。現代美術ファンならずとも手頃に作品に親しむことができる作家数とスケールである。国際展に赴くととにかく作品数が多くて疲れ切ってしまうことが多い。確かにたくさんの作品を一度に見ることができるのは国際展の醍醐味であるが、作家数や作品数を増やすことに腐心して、結果として必ずしも質の高くない作品が散見される場合が多いのに対して、PARASOPHIA は明確な対案を提起している。次に論じる問題とも関わっているが、開催にあたって、主催者は出品作家に現地を確認させている。展覧会のフライヤーに次の言葉がある。「PARASOPHIAは準備期間の2年間を通じて参加作家のほとんど京都に招聘しました。作家たちは京都の歴史や文化遺産からだけでなく、人々の暮らし方からも多くのものを読み取り、京都と関わることで新しい作品に挑戦しました。京都市内の場所と出会い、その場の人々や歴史と対話することで新しいビジョンを得た作家たちもいます」予算規模にもよるだろうが、国内外から作家を招聘し、適切に対応するためには確かに40組という出品作家の規模は適正というか限界であったかもしれない。個々の作家には作品に応じてかなり広い空間が与えられる。美術館の場合、時に展示室を数室利用して作品が設置されている。このような贅沢な空間は国際展というより、連続個展といった方がよいかもしれない。映像を使用する作家が多いため、空間的な余裕は大きな効果を上げていた。充実した展示が多いためであろうか、PARASOPHIAは中心的な作品、一人の作家や一つの作品で展示が代表されることがない。確かにメインヴィジュアルのピピロッティ・リストややなぎのトレーラーは強い印象を与えるが、例えば横浜トリエンナーレにおける塩田千春やダニエル・ビュレンのごとき中心的な作品は存在しない。今回のカタログにはディレクターによる出品作家の選定基準が端的に記されている。「参加作家は『私が、いま(も)興味深いと思える作家』という基準で選びました。40組を統合するテーマや表現傾向があるわけではありません」興味深いことに2年前から始めた準備作業の最優先事項は、親しみやすい呼称を決定することであったという。PARASOPHIAとは「向こう側の別の知性」という意味で、言葉の意味と女性的で軽い音感の結合によって選ばれたという。展覧会のテーマや出品作家以前に呼称を決めるという発想は斬新であり、確かにパラソフィアという語感はこの展示にふさわしい。
 b0138838_2055227.jpg第二の特質は作品と会場、とりわけメイン会場とされた京都市美術館との強い親和性に求められる。以前から強く感じていたことであるが、1933年に開館したこの美術館は壮麗な帝冠様式の建築で、内装も実に凝っている。しかしながら恒常的に貸し会場として用いられてきたため、建築は展示壁の中に隠され、全貌をうかがうことができなかった。今回の展示では美術館のほぼ全体を用い、ふだん見ることのできない場所も実に効果的に使用されていた。例えば私としても初めてその存在を知った地下室を利用して二つの展示がなされていた。一つは高嶺格の《地球の凹凸》というインスタレーション、もう一つは「美術館の誕生」という展示だ。後者はおそらく事務局によって企画された展示であろうが、「大礼記念京都美術館の誕生」「接収期から京都市美術館の誕生まで」「現代美術と京都市美術館」という三つのテーマのスライドショーが上映されており、実に興味深かった。昭和天皇の即位の奉祝事業として建てられたこの美術館は戦後、米軍に接収された経緯がある。地下室で70年の時を隔てて私たちの前に示されるSHOE SHINEの文字、当時の靴磨きの看板はあたかもコンセプチュアル・アートのようではないか。そしてこの展示を見て私は長年の疑問の一つが氷解した。「現代美術と京都市美術館」のセクションでは1970年に中原祐介が企画した名高い展示、東京ビエンナーレ「人間と物質」の京都巡回について触れられている。その際にリチャード・セラは市美術館の庭に鉄製のスクエアを敷設し、セラの作品集にも掲載されている(設置場所が京都国立近代美術館と誤記されている文献もある)。私は以前より市美術館に赴くたびにそれとなく建物の近くを捜してみたのだが、見つからず、長らく不審に感じていた。しかし今回の展示に付されたキャプションによればこの作品のあった場所は現在収蔵庫が新設されているとのことなので、おそらくその際に撤去されたのであろう。同じように上野公園に敷設された鉄のサークルは多摩美術大学に移設されたと聞くから、この顛末を聞いてセラは《傾いた弧》同様に怒るのであろうか、それとも場と関係をなくした作品にもはや存在理由を認めないだろうか。
 この問題は国際展の在り方に一つの問いを突きつけるし、PARASOPHIAでかかる問題が問われたことは意味がある。「人間と物質」にあたってセラは東京で次の言葉を残している。「たいていの作家は(東京ビエンナーレのごとき国際展に)来る前にプロジェクトが出来ていて、いわばパッケージをもってやってきて、それを開いて見せているだけだ。それでは来た意味がない。ここ東京にいるなら、東京にいるという事実に立つべきだ。おれはいつもその場所での経験だけに興味がある」東京ビエンナーレの際にも多くの作家が来日したが、今回の展示においても作家たちを招聘し、自分たちの作品が展示される施設や街を体験させたことは大きな意味があるように感じる。作品と場との関係はミニマル・アート以来、何度となく作品とされてきた。この問題に関して注目すべき作品を発表していたのは田中功起である。田中はこの美術館をリサーチして、先にも触れた二つの出来事、米軍による接収と「人間と物質」展の開催に着目する。事前に田中は地元の高校生たちを集め、ワークショップを開催した。彼らは在日米軍に関するレクチュアを聞き、戦争と平和について討論する。展示室の床に布を設置するパフォーマンスはいうまでもなく「人間と物質」におけるクリストの展示の追体験だ。さらに彼らがバスケットボールの練習に励む映像は、接収されていた時期、展示室内にバスケットのゴールが設えられて、米兵たちがバスケットボールに興じていたというエピソードに由来する。この作品からは戦争と芸術とスポーツが一つの場に重ねられた美術館の記憶が立ち現れる。田中は必ずしもサイト・スペシフィシティーを原理とする作家ではないが、今回の発表はこの展覧会でなければありえない内容であった。
 今再び「人間と物質」に触れた。PARASOPHIAは35年前に同じ会場で開かれた国際美術展への応答と捉えることができるかもしれない。この機会に「人間と物質」関係の資料を確認したところ、奇しくも「人間と物質」にも同じ数、40名の作家が参加している。「人間と物質」の場合は日本人作家が12名含まれているが、全ての日本人作家と17名の外国人作家が最初の開催地である東京での陳列に参加したという。この点は「参加作家のほとんどを京都へ招聘した」というPARASOPHIAの取り組みと似ている。展覧会コミッショナーの中原祐介は次のように記している。「それ(人間と物質の関係の協調や体験)はまた、多くの参加者が、アトリエのなかであらかじめ作品をつくり、それを展示するのではなく、直接、場所をたしかめ、その状況を知ったうえで、仕事をするという行為とも結びついている。場所もまた抽象的なものではなく、この人物と物質の触れ合いのなかに包含される無視できない要素だからである」「人間と物質」あるいはほぼ同じ時期に開かれた「態度がかたちになるとき」、あるいは「アンチ・イリュージョン」といった国際展においても同様の臨場主義が認められ、「態度がかたちになるとき」についてはこのブログでも論じた。これらの展覧会においては作家が実際に現地で作品を構想し、設置するという意味において場と換喩的に関係が結ばれるのに対して、PARASOPHIAにおいてはむしろ事前に京都を訪れプレ・イヴェントなどに参加した作家たちがそこでインスピレーションを得て、あらためて出品作品を構想するという隠喩的な関係性が成立している。映像という表現はこのような手法に向いており、「人間と物質」とPARASOPHIAのかかる潜在的な関係性は私には大変興味深く感じられた。
 b0138838_207850.jpg三番目の特質は展覧会と関連した出版物に関わっている。今回、感心したのは会場入口にうずたかく積まれた無料のガイドブックである。来場者はそれを手に会場に向かう。このガイドブックが優れているのは、ほぼ作品の展示順に作品が掲載されていることだ。その点は冒頭に明記されており、逆に言うならば、このガイドブックに従えば展示作品を全て見ることができるのだ。当たり前のことのようであるが、これは親切な配慮である。巨大な美術館や倉庫で開かれる展覧会の場合、私たちは適切な順路を見つけ出すことができず、往々にして作品を見落とすことがある。もちろん必ずしもその順序に従って会場を巡る必要はないが、ガイドブックを片手に作家名を確認しながら進むことによって、来場者は正しい順路と作家についての最小限の知識を知ることができる。通常の国際展でも会場にガイドブックが用意されることがある。しかし多くの場合、それらは有料であり、ガイドブックというより、カタログが刊行されるまでの間、(多くの国際展でカタログは会期中、場合によって終了後に発行される)カタログの代用品としての中途半端な位置に留まっている。今回のようなガイドブックを作成するためには事前に作品の設置場所を定め、作品や作家についての情報を得ておくことが必要となる。PARASOPHIAにおいてこれが可能となったのは作家数の限定、そして事前の下見によるところが大きいだろう。それがなければ地下室が使用されたり、美術館の備品である巨大な展示ケースが展示に組み込まれることはなかったはずだ。無料かつ情報に富み、書き込みやマーキングが自由なガイドブック。決して驚くほどの工夫ではないのだが、その存在はていねいに作り込まれたこの展覧会にふさわしい。そしてかくも充実したガイドブックが無料で準備されたことによって、開幕と同時に会場に準備されたカタログは別の役割を帯びることとなった。350ページに及ぶカタログは出品作品に関するインフォメーションに富んでいる。デザインは河本氏の企画した展覧会のカタログを一貫して手掛けてきた西岡勉氏による。いつものように企画者による簡潔なイントロダクションに続いて、それぞれの作家について作家の言葉や関係者による解説が加えられている。例えばアラン・セクーラのセクションでは表象文化論学会で発表されたセクーラについて研究が掲載されており、それ自体が作家論を形成するかのようだ。インデックスがないため、検索に時間がかかる点が(おそらくは意図された)不便であるが、これほどの情報量をもった国際展のカタログを私は知らない。確かにディレクターや関係者が文章を書き連ねたカタログは数多い。しかし、このカタログでは展示の理念やコンセプトが長々と論じられるのではなく、あくまでも出品作家の資料集であることが目指されている。国際展に関する出版物は単なる報告と考えられがちであるが、PARASOPHIAにおいてはこの点に関しても深い配慮が認められる。
 以上、個々の作家や作品についてはあえて詳しく言及することなく、展覧会全体について論じた。実際には私も会場で多くの興味深い作品に出会ったのだが、それらについてはここでくどくど述べるよりも、まず実見していただくのがよいだろう。私たちは次々に開かれる国際展やらビエンナーレ、トリエンナーレにいささか食傷している。それは多く美術の本質とは全く無関係の、国威発揚、地域おこし、あるいは記念事業といったくだらない目的のアリバイとして作品が召喚されてきたことに起因する。しかし昨年の横浜トリエンナーレ、そして今回のPARASOPHIAと、ディレクターに人を得た時、日本においてもそれなりに興味深い展覧会を実現することも可能なのだ。奇しくも今、信楽のMIHO MUSEUMでもバーネット・ニューマンの奇跡的な展覧会が開催中である。春に向かい、まもなく京都も桜が満開となろう。この時期、二つの展覧会を合わせて出かけてみるならば、現代美術の素晴らしく充実したエクスカーションとなることを私は保証する。
by gravity97 | 2015-03-28 20:11 | 展覧会 | Comments(0)

b0138838_19322938.jpg 震災に関連したレヴューを続ける。といっても東日本大震災ではなく、今年の初めに20周年を迎えた阪神・淡路大震災と関わる内容である。
 先日、神戸の兵庫県立美術館で「阪神・淡路大震災から20年」という展示を見た。通常は常設展示に使用される展示棟を用いた三部構成の展覧会である。兵庫県立美術館の前身である王子公園の兵庫県立近代美術館は阪神大震災で最も激しく被災した美術館であったから、この館が震災と表現の関係を検証することを自らの責務とみなすことは十分に理解できる。実際に震災から5 年が経過した2000年、兵庫県立近代美術館時代にも「震災と美術」という展覧会が企画され、私も見た記憶がある。この展覧会では震災に触発された多くの作品が展示され、カタログも震災から展覧会が開かれた時点までの詳細な記録を掲載し、震災の記憶の生々しさをうかがわせた。それに対して、阪神大震災から相当の時間が経過した今回の展示では、より巨視的で抽象的なレヴェルで震災と美術の関係を検証する内容となっており、さらに興味深い。今回の展示の三部構成はそれぞれ「自然、その脅威と美」「今、振り返る―1.17から」「10年、20年、そしてそれから-米田知子」と題されている。タイトルから推測されるとおり、最後の第三部のみ個展形式をとり、第一部は他館から借用された作品、第二部はこの美術館のコレクションと震災の際にレスキュー作業の対象とされた作品を中心とした展示である。かかる構成は震災と美術というテーマが重層的な意味をもっていることを暗示している。私の言葉に置き換えるならば、第一部においては美術が震災を含めた自然災害をいかに表象するかという問題が問われ、第二部では逆に震災が美術作品と美術館にいかなる問いを突き付けたか、そして第三部においては震災の表象不可能性という問題が扱われている。
b0138838_19332571.jpg 第一部に展示された作品は比較的理解しやすい。文字通り、自然の脅威としての災害を描いた作品群が展示されている。噴火、台風、そして震災や津波といった自然現象を主題とした黒田清輝から大岩オスカールまで多様な作家による作品が展示されているが、自然災害の被害を記録した作品は比較的少ない。震災後の風景を描いた作品として私は以前、東京都現代美術館で鹿子木孟郎、京都国立近代美術館で池田遙邨という二人の画家のスケッチをまとめて見た覚えがあり、後者は今回も展示されていた。鹿子木には震災を描いた油彩画もあったように記憶する。震災の直後の情景を記録にするには手早く制作できるデッサンやスケッチが有効であるが、記録性において写真には及ばないかもしれない。展示の第二部には阪神大震災を主題とした作品も数点出品されているが、写実的な作例は少なく、上に掲げた福田美蘭の作品のごとく一種コンセプチュアルな表現さえ用いられていた点は留意すべきであろう。この点は東日本大震災においても反復されている。原子力災害という不可視の災害が発生したこととも関連しているであろうが、例えばChim↑Pom や竹内公太の作品は、いずれも映像として成立しており、私たちを襲う災厄が今や絵画のリアリズムを超えていることを暗示している。ところで自然の脅威は災害をもたらすと同時に美に匹敵するセンセーションの起源であることも今日広く知られている。それは崇高という感覚だ。自然の圧倒的な脅威とそれを前にした人間の卑小さの自覚は崇高という観念を呼び起こした。知られているとおり、ロバート・ローゼンブラムはかかる系譜をドイツロマン主義から抽象表現主義への理路として位置づけ、抽象的崇高という概念を提起した。しかし黒田清輝の筆による桜島の噴火から金山平三の描く荒天の海にいたるまで、日本においては崇高という感情を喚起するほどの自然現象や風景を眼前にすることは稀であり、この意味でここに展示された作品はやや中途半端な印象を与える。抽象的崇高という点から私はここに近年の中村一美の作品を加えたい思いがあるが、さすがに展覧会としては分裂的な印象を与えるかもしれない。
 第二部ではかかる夢想を断ち切るリテラリズムが徹底される。最初に津高和一の作品が象徴的に置かれている。いうまでもない、関西を代表する抽象画家であった津高は震災によって夫人とともに落命した。私は作家が存命中にアトリエを訪れたことがある。日差しのよいアトリエでたくさんの猫に囲まれていた夫妻の姿が今も目に浮かぶ。作家のみならず作品も震災で大きなダメージを受けた。この点は既に何度か報告されているが、今回の展示では震災によって物理的に損傷したジュリ・ゴンザレスやメダルト・ロッソの彫刻、マックス・クリンガーの版画などがその修復の記録とともに提示されている。天災とはいえ作品が損傷を負ったという事実は美術館としてはなかなか公表しにくい。今回このような形で展示に加えることが可能となったのは、それらが今日最善とされる方法で修復されたこととともに、やはり震災から20年という時間が経過したことが大きな理由であろうし、美術館が新築され、かつての機能が王子公園から岩屋に移ったことも影響しているだろう。美術館が倒壊した現場で破損した作品の記録を展示することはさすがに生々しい。とはいえ会場には被災した美術館の写真や当時の新聞記事が多数展示され、当時の記憶を留めている。当時、この美術館に勤務していた学芸員が何かのインタビューで、震災直後、美術館を遺体安置所として使用できないかという打診があったと述べていたことを記憶する。かつてキャロル・ダンカンは「美術館という幻想」の中で霊廟としての美術館について言及していたが、美術館と死者との関係は深く思考するに値する。この美術館は損傷が激しいため遺体安置所としても使用できなかったが、当時、避難所として使用され、展示室で人々が生活していた美術館も阪神間には存在するのだ。一方でこのセクションでは被災直後より続けられたレスキュー活動についても紹介されている。中心として取り上げられているのは芦屋にあった写真家中山岩太のスタジオから救出された作品と資料であり、会場にはカメラや資料群、救出されたネガからプリントされた写真作品などが展示されていた。このレスキュー作業は当時の芦屋市立美術博物館や兵庫県立美術館の学芸員、文化庁の呼びかけに呼応した「文化財レスキュー」の専門家チームが参加し、この事業としても最初の試みであったという。余震が続く中での作業は相当に困難であったと思う。展示されていた作品の中には中山が神戸の風景を記録した何枚かの作品があった。そこに写っていた阪急三宮駅の駅舎は戦災には耐えたものの震災で倒壊したとキャプションにあり、いささかの感慨を覚えた。この写真については後でもう一度触れる。このセクションの最後の部分は作品の保存・修復と教育・普及活動を扱い、この美術館で修復された作品や作品に寄せられた子供たちの感想などが紹介してあった。この部分には若干の異和感を覚えた。というのはここで紹介されている作品は例えば1998年に東灘区の邸宅から取り外された北村四海の鋳造レリーフであるが、年代からわかるとおり、直接震災との関係を有していない。先に述べたとおり阪神大震災に始まる「文化財レスキュー」のノウ・ハウは引き継がれ、先の東日本大震災の折にも多くの作品を救出した。レスキュー事業の全貌は二つの震災に関して全国美術館会議から発行された報告書に詳しい。震災は美術館で保存・修復にあたるスタッフにとっても修羅場であり、震災とコンサヴェーションは深い関係がある。しかしこの部分の展示では震災と直接関係のない作品が例示されているため、緊張感が殺がれるのだ。むろん修復作業にせよ普及活動にせよ美術館で日常的に続けられる活動である。いわば戦時の美術館を主題としたこの展覧会で平時の姿を見せられても少々当惑してしまう。今述べたとおり、阪神大震災直後、戦時の美術館においても修復や普及は続けられた。当時の資料を確認するならば、被災後日を置かずしてLAよりポール・ゲッティ美術館の担当者が来場し、破損した作品の処置について助言したという。(奇しくもゲッティ美術館も阪神大震災のちょうど一年前に地震で被災していた)先に述べた文化庁の文化財レスキューの活動もあったはずだ。被災し、修復された作品とともにこれらについて詳しく紹介した方が本展の趣旨にふさわしかったのではなかろうか。あるいは普及活動についても、会場に置かれたパンフレットによれば、世情が落ち着いた3月頃より、全国の美術館から寄せられた作品の絵はがきを避難所等に配布する作業のためにボランティアが活動したこと、あるいは市内の銀行のロビー等を利用して一種の移動美術館を開催したことが触れられている。震災下における修復や普及活動こそ展示に組み込まれるべきではなかっただろうか。
b0138838_19353486.jpg 第二部までが震災と美術の関係を多様な角度から問う内容であったのに対し、米田知子の個展として構成された第三部は趣を異にする。展示されたのは101×120cmのカラー写真が8点。いずれも無人の市街や風景、室内が撮影されている。実はこれらの写真は震災10年後の2005年、芦屋市立美術博物館で開かれた個展「震災から10年 米田知子展」に出品された作品であり、タイトルが示すとおり、震災から10年が経った芦屋市内の風景が写し出されていた。パンフレットによれば、この際には震災から間もない時期に被災地の風景を撮影したモノクロ絵画も合わせて発表され、二つの風景が対比されていたという。私はこの展示を見ていないので、出品作品数や二つの風景がどのように「対比」されていたかはわからないが、撮影対象は作品名として明示されている。例えば《空地Ⅱ―市内最大の被害を受けた地域》、《教室Ⅰ―遺体安置所をへて、震災資料室として使われていた》といった具合だ。これらの写真の意味については会場のパンフレットに的確に要約されている。少し長くなるが引用する。

 震災から10年近く経った時点で撮られたこれらの写真にはたとえば倒壊した建物のように震災に直結するイメージは全く見当たりません。人気のない部屋や、ぼっかり空いた更地など、むしろそこに何も「ない」ことが強調されているようにさえ見えます。写真は目の前にあるものを記録し伝える媒体であるという一般的な理解からすれば、なんとも逆説的なことかもしれませんが、この作品の場合は、震災の具体的なイメージが「ない」がらんと静まりかえった世界であるからこそ、見えない不安や恐怖、そして喪失感が、より強く感じられるのではないでしょうか。そこにはたった10年で「見えないもの」になってしまう、という怖さも含まれているかもしれません。

 美術でも文学でも映画でもよい、私たちは表現によっていかなる対象も表象 re-present できると考えている。字義通り、それは出来事を再=提示することだ。しかし果たしてそうか、歴史の中には表象しえない事件が存在するのではないか。正確にいえば表象することによってその本質を逸する事件が存在するのではないか。このような問題はユダヤ人問題の「最終解決」、ホロコーストをめぐって提起された。具体的にはクロード・ランズマンの1985年のフィルム、「ショアー」だ。現在、東京で上映されているらしいこの作品を私はかつてNHKのBS放送で見たことがある。今、確認すると奇しくも阪神大震災の年、1995年のことだ。私はTVを見る習慣がほとんどないから、この映像を見ることができたのは奇跡的な偶然であった。当時、私はこの作品について知らず、おそらく深夜、何かの理由があってTVをザッピングしている時に偶然に視聴したのであるが、一度目にすると私は目を離すことができず、最後まで見たことを覚えている。私が記憶しているのはかつて絶滅収容所があった場所を映しながら、サヴァイヴァーの回想がヴォイスオーヴァーされる場面、そして確か床屋でランズマンの質問に答える元SSの証言を隠し撮りする場面である。かくも強い印象を受けながら私がこの際の放送による上映を翌日以降見なかった理由は内容のあまりの重さに耐えかねたためであろう。震災がホロコースト同様に表象不可能な事件であるか否かという問題には議論の余地がある。しかしランズマンのフィルムは表象しえないものの表象という難問にいくつかのヒントを与えてくれる。知られているとおりランズマンは記録映像の類を一切使用せず、現在の絶滅収容所跡の風景と関係者へのインタビューによってこのフィルムを構成した。つまり徹底的に現在の視点に立つのだ。かかる視点を得て、不在という問題が浮かび上がる。彼が表象しようとしたのはそこに収容された万を単位とするユダヤ人がもはや存在しないという事実なのであり、それこそがホロコーストの本質なのだ。一事業者の善意によって何人かのユダヤ人が救われたという事件をあたかもホロコーストの表象のごとく差し出すスピルバーグの「シンドラーのリスト」をランズマンが全否定することは当然であろう。物語による表象は事件の本質を隠蔽する。さて、ジャン=フランソワ・リオタールは同じ絶滅収容所について、地震と関連した比喩によって論じている。人間の歴史にとってこの事件は地震計、つまりそれを外部から測定する基準までも破壊するあまりにも大きな地震であったというのである。ホロコーストと地震の類比、そして「ショアー」が制作されて10年後に日本で放映され、同じ年に阪神大震災が発生し、そしてさらにその10年後に米田知子がこれらの風景を撮影したという暗合は興味深い。ここに提示された風景は「ショアー」同様に惨事が発生した場所の現在の風景なのである。先に中山岩太が撮影した阪急三宮駅のイメージについて触れた。それはイメージの充実として存在する。しかし米田は充実ではなく空虚、存在ではなく不在によって事件を表象する。私たちはそれによってしか1995年1月17日の出来事に達することができないのではなかろうか。そして今、私たちは震災から20年、ここに撮影された風景から再び10年を経て作品に向かう。この作品においては時間が重層化されている。表象されるべき事件、表象された風景、作品を見る経験、それぞれが(偶然にも10年という等間隔で隔てられた)異なった時間に帰属しつつ、作品を見る体験の中で一体化されているのだ。この作品、そしてこの展示は深い思索性を秘めている。そして先に引用した一文の中でも明確に述べられているとおり、かかる距離感は経験の風化という問題にも関わっている。
さらに私はここに福島の原子力災害という補助線を引きたい。いまだに放射能を発しながら崩壊を続ける原子力発電所に隣接する地域では、更地さえも造成することができない。そこには2011年3月11日という、あの日のままの不在の光景が広がっているはずだ。かつて収容所にいたユダヤ人たちが殺されて存在しないように、かつてはそこで生活を営んでいた住民たちが強制的に疎開させられてもはや存在しないフクシマの光景。不可視でありながら致命的な放射能。かかる主題の表象は本質として不在の表象、表象の不可能性と関わるのではないだろうか。これに対して例えば現地で若者たちを集めてシュプレヒコールを上げ、それを記録することによってなにがしかの表現が成立したと考えるのは果たして正しい行いであろうか。震災をめぐる表現は作家の倫理の問題へと立ち返るのだ。
 今回の展覧会は未曾有の震災に対して美術家と美術館がいかに対応したかという記録として大きな意味をもつ。かつての私は阪神大震災のごとき体験は生涯にただ一度であろうと考えていた。しかしまもなく私たちはさらに悲惨な震災と原子力災害を経験し、一つの都市どころか東日本が死滅するかもしれない状況を経験した。ミロスワフ・バウカではないが、私たちが食間ならぬ災間にたまたま生を与えられているに過ぎないことは今や明らかだ。果たして私たちは時に表象の可能性さえ超えた出来事に、なおも表現で応じ、さらにその表現を後代に伝えていくことができるだろうか
by gravity97 | 2015-03-17 19:39 | 展覧会 | Comments(0)

「温故知新」

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 先のブログでドナルド・ジャッドのパーマネントのインスタレーションが設置されたチナティ・ファウンデーションを訪れた際の印象を記したが、先日、ジャッドがその場に立ち会ったならば卒倒してしまうような展示に立ち会った。4日間という短い期間であるが、京都の中心、室町通りに面した古い日本家屋で開かれていたジャッドと河原温の二人展、タイトルを「温故知新」という。この展示は公益財団法人現代芸術振興財団という組織によって企画され、出品された作品はこの財団の理事長が保有する「数ある現代アートコレクション」の中から選ばれたジャッドと河原温の作品の一部とのことである。会場は古くからの帯問屋であり、重厚な造りの日本家屋であるが、この財団との関係はわからない。
 会場にはジャッドのプログレッション系の作品2点と河原温のデイト・ペインティングが多数展示されている。(カタログにはこのほかに2点1組のジャッドの作品が掲載されているが、この作品は展示されていなかったと思う。さほど広い会場でもなかったから、このサイズの作品を見落としたとは考えにくい)このうちジャッドの作品はエナメルを塗ったアルミニウムの箱を組み合わせた作品であり、今述べたとおり壁に取り付けるプログレッション系の作品であるが、ジャッドのカタログを参照するならば1980年代後半に制作された比較的珍しいタイプの作品だ。展示方法に唖然とする。なんと台座の上に置かれているではないか。床置きならばまだわかる。そうではなくて、おそらくこのために制作され、作品と同じサイズの底面をもつ黒い台座の上に設置されているのだ。b0138838_20533215.jpgここでミニマル・アートの特性について詳述する必要もなかろう。作家によってそれなりに多様なそれらの作品に共通する特質の一つは台座をもたないことだ。ジャッド自身、あるインタビューの中で台座なき彫刻という概念が完全に彼自身の着想であることを言明している。ミニマル・アートが台座を排除した理由は明らかだ。それは作品が現実の空間に存在することを明確に示すためだ。ジャッドは「明確なオブジェ」という名高い論文の中で次のように述べている。「三次元とは現実の空間である。それはイリュージョニスムの問題、およびリテラルな空間、描かれた印や色彩の周辺や内部にみられる空間の問題から自由になる。作品は考えられる限り力強くなりうる」彫刻の台座とは絵画における額縁だ。それらは作品が現実とは別の世界に存在することを暗示する。ジャッドは作品に強度を与えるためにはそれが現実の中に存在することが必要だと考えたのである。ここでアンドレやモリスにまで言及する必要はないだろう。ミニマリズムの感性において作品は私たちが存在する現実と切り離されるべきではない。確かに今回の展示では底面積を同一にし、黒く塗られることによって台座は存在感を切り詰めている。しかしそれはあくまでも台座であり、現実とは審級の異なる「芸術」、会場の掲示に倣えば「現代アート」をその上に据えるために召喚されている。台座の存在は作品の意味構造を変えてしまう。プログレッションとは等比級数やフィボナッチ級数を原理として構成されたレリーフ状の作品であり、通常は壁面に直付けされる。今回の展示を見た後、私は手元にあるジャッドの展覧会カタログや作品集にもう一度目を通してみた。確かにプログレッションのうち、このタイプの作品のみ、壁付けされず床に設置された例が存在する。しかしそれらはいずれも巨大で奥行きのある作品であり、プロポーションとして壁付けに馴染まず、おそらく重量の点でも壁面に設置することが困難であったのだろう。それらは全て床に直置きされている。先に述べたとおり、今回の展示は古い木造の日本家屋が使用されているから、比較的小品とはいえども壁面に設置するための造作を施すことが構造的に不可能であったと推測される。奥行き30cmというサイズから直に床に置くことが躊躇されたかもしれない。しかし台座はないだろう。今回の展示はこの展覧会の企画者の作品への無理解をはしなくも露呈している。
 河原温はどうか。カタログで確認するならば今回は11点のデイト・ペインティングが展示されている。このうち、床の間に展示された《1987年5月1日》は巨大なサイズの作品であるが、ほかの作品はデイト・ペインティングで見慣れた比較的小さなサイズである。日付を確認するならば2005年8月と9月に制作された6点の作品が時期的に集中しているから、同じ機会に収集された可能性がある。デイト・ペインティングに関しては既にいくつかの研究があり、作品の制作にあたって制作の時間や表記、作品の色彩やカンヴァスのサイズについて厳密なルールがあることが指摘されている。《1987年5月1日》はおそらく最大級のサイズであり(デイト・ペインティングは表記された一日、24時間以内に完成されなければならないから、これ以上巨大な作品を制作することは不可能であろう)1998年の時点で10点が制作されているようだ。デイト・ペインティングには制作された当日の新聞の切り抜きが一種の証拠書類として同梱されている。 b0138838_20541377.jpg今回の展示ではそれらの資料も展示されていて興味深かった。日付を描くという一種匿名的な作品でありながら、その真正性を担保する工夫は随所に認められる訳である。河原は個展のオープニングはおろか、一切のインタビューに応じず、ポートレートも公開せず、自らの匿名化をはかっている。河原の大規模な個展は過去に何度か開かれ、偶然、現在もニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催中であるが、作品の展示方法に関して作家は指示を与えるのであろうか。作家によってオーソライズされたであろう過去の展覧会を見た限りにおいて、デイト・ペインティングはホワイトキューブに機械的に設置された印象がある。少なくとも床の間はありえないし、そのように推測するいくつかの理由がある。今回、作品を掛け軸のごとく床の間に展示することによって企画者はそれが「現代アート」である点をことさらに強調しようとしている。確かに日付のみを記したカンヴァスは現代美術の文脈を理解していない者にとっては麗々しく床の間に飾らなければ「アート」と了解することは困難かもしれない。しかしカール・アンドレの煉瓦やダン・フレイヴィンの蛍光灯を想起するまでもなく、これらの作品は展示される場所によって意味を与えられるほど弱くはない。逆に作品が場を定義することさえあるはずだ。かかる作品をことさら和室のハイライトとして設置することは「和の空間との融合」ではなく、端的に作品に対して礼を失しているように感じられる。さらにこの作品は大作ではあってもデイト・ペインティングの一点にすぎない。デイト・ペインティングにおいては作品のサイズや完成度ではなく、そのコンセプトとそれを継続する行為が重要であり、作品は全て対等であるはずだ。サイズの大きな作品をことさらに重視する姿勢もまた作品の本質への無理解に起因しているように思われる。
 今回の展示に批判的に言及したが、この展覧会は逆説的な意味で現代美術、特にミニマル・アートとコンセプチュアル・アートにとってきわめて重大な問題を提起している。それは作家のインストラクションをいかに徹底するかという問題だ。ジャッドが作品の図面を工場に渡し、ソル・ルウィットがウォール・ドローイングの指示をドラフトマンに示すことから理解できるとおり、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートは実は作家のインストラクションがどの程度リテラルに実現されるかという問題と関わっている。作品の制作/遂行については作家がほぼ完全に掌握し、作品のオーセンティシティーの根拠をかたちづくる。しかし作品の展示という局面においては作家以外に多くの函数が存在する。例えば美術館における展覧会の場合、展示には必ず学芸員が介入する。伝聞であるが、以前、北九州と静岡を巡回したジャッド展の折、作品のインスタレーションに立ち会った作家は作品が多すぎるとしていくつかの作品の撤去を求めたという。それらの作品もカタログに掲載されているから、学芸員としては受け容れることが困難な要求である。結局どうなったかは知らないが、ジャッドがチナティに恒久インスタレーションを設置しようと考えた直接の理由はホイットニー美術館における回顧展の展示がひどすぎたからだというエピソードも知られている。ジャッドは次のように記している。「作品を注意深く設置するには、莫大な時間と思考が必要である。この点はいつも心に留めておくべきである」美術館や学芸員にとってなんとも耳が痛い言葉ではないだろうか。河原温に関してはさらにデリケートな問題が発生する。それは展示権という問題だ。通常、作品を所蔵する美術館はその作品を常設展示の一部として展示する権利を有するし、作家も作品が展示されることを望むから両者の利害は一致する。しかしテーマ展においてはどうか。実は河原は自身が望まないテマティックな展覧会に作品を加えることを一貫して拒否してきた。日本の美術館の場合、作品を貸与するにあたって作家が展示に同意したかまで確認する例はあまりない。日本の戦後美術を概観するような展示にデイト・ペインティングが出品されているような例を時折見かけるが、おそらく作家は出品を承諾していないだろう。この問題に関してはかつて井上有一の作品の展示にあたって、一緒に展示されている書家が気に食わないとして関係者が井上の作品を撤去することを要求し、係争となった事例があったように記憶するが、展示の可否について作者と所蔵家のいずれを優先するかは微妙な問題だ。ここではこれ以上敷衍しないが、歴史を遡れば、例えば退廃芸術展のようなケースもこの問題に対して示唆を与えるように思われる。もっとも私の知る限り、河原はいかなるテーマ展に対しても出品を拒否している訳ではない。かつて私はニューヨークに作家を訪ねたことがあるが、その際に河原はカスパー・ケーニッヒの企画による、デイト・ペインティングと他の作家の作品を年ごとに一点ずつ組み合わせた展示を高く評価していたことを記憶している。しかしおそらく河原が存命であったとしても、日本家屋を用いたジャッドとの二人展への出品を肯ったとは思えない。
 この問題は作家とコレクターの関係と深く関わっている。いずれの作家も実力のあるギャラリーによって作品が管理されていたから、作品が売却されるにあたっては作家もしくはギャラリーを介して作品の設置や展示について具体的なインストラクションを所蔵家に示したはずだ。実際にジャッドの作品を設置するにあたってはしばしば所蔵館の学芸員が立ち会いを要求し、デイト・ペインティングの借用にあたっては作家の同意書を確認する美術館を私は知っている。しかし私の推測では今回展示された作品はセカンダリーな市場、つまり最初の所蔵者が手離した後、別のギャラリーもしくはオークションを介して収集されたのではないだろうか。入口にサザビーズからの大きな花輪が飾られていたことがこのような推理の根拠だ。この時、作家の意図が所蔵者に正しく伝えられるかという点は大いに疑問であるし、存命であっても作家と直接のコンタクトがないまま、所蔵家は作品を所有し、展示することとなるだろう。
 誤解なきように直ちに言い添えるが、私は所蔵家が展示にあたって作者の意図に必ず従わなければならないと主張するほど傲慢ではない。今回の展示はそれなりに興味深いものであったし、成功していたか否かはともかく、日本家屋とミニマリズムを掛け合わせるという企画者の意図に一定の意味を認めることにやぶさかではない。私が指摘したいのは、奇しくもここで展示されたジャッドと河原温の作品は実体としての作品のみならず、それがどのように展示されるかという点もまた作品の構造の中に組み込んでいる点である。興味深いことにこの二人は展示との関係において記号論的に異なった文脈に拠っている。ジャッドの場合、作品が展示空間内でどのように配置されるかという顕在的で換喩的な意味構造が問題とされる。これに対して河原の場合はデイト・ペインティングがほかの作品といかなる潜在的な意味を取り結ぶかという隠喩的な意味が問題とされている。いずれも作品自体ではなく作品が展示と取り結ぶ関係を主題としている。このような問題はこれまでモダニズム美術の文脈では意識されることがなかった。例えばセザンヌの絵画はコレクターの客間に飾られようが物置に置かれようが、ピカソの横に展示されようが森村泰昌の横に展示されようが作品自体の意味は変わらない。しかしジャッドと河原の作品は展示される場やともに展示されるべき作品を選ぶのである。作品と場との関係はミニマル・アートにおいて決定的に主題化されたが、抽象表現主義の中にも明らかに同じ意識が兆していた。例えばロスコ・チャペルをはじめとする一連のロスコの建築的作品群、あるいは近く日本で公開されるバーネット・ニューマンの「十字架の道行き」連作。これらの作品は場をかたちづくり、本来的に移動することができない。この発想とチナティ・ファウンデーションは連続している。あるいは共に展示される作品との関係について、私はクリフォード・スティルのエピソードを想起する。狷介孤高として知られるスティルは多くの作品をバッファローのオルブライト=ノックス美術館に寄贈するにあたって条件を付したが、それは自分の作品を決してほかの作家の作品と一緒に展示してはならず、作品をほかの美術館の企画展に貸し出してはならないというものであった。彼らは建築によって、あるいは契約によって自らの作品が展示される状況を守ったのである。本来的に「場の美術」であるミニマル・アート、同一性を保証されて初めて成立するコンセプチュアル・アートにとって、作品のみならず作品の外部、作品をめぐる場も決定的に重要である。しかし残念ながら多くの作家たちはこの点について十分な戦略をもちあわせていなかった。今や「現代アート」は消費材として流通しており、金さえあれば誰でも手に入れることができる。この事実を端的に示す台湾の「現代アート」の「コレクター」の展覧会が現在、国立美術館を巡回し、『芸術新潮』の最新号には同じ「コレクター」のバスルームに飾られたマン・レイの油彩画が「アートと暮らす」麗しき実例として恥ずかしげもなく紹介されているのだ。彼らにとって作品は自分たちの資産であるから、どこに展示しようとどのように展示しようと自由なのである。しかしある一群の作品にとっては展示の状況も作品の一部であり、切り離して考えることはできない。偶然としては出来過ぎている気もするが、ジャッドと河原温はまさにそのような作家の代表なのだ。台座の上のジャッド、床の間のデイト・ペインティングは単なる消費材と化した「現代アート」の無残さを私たちに知らせ、「現代アート業界」をめぐる悲喜劇的な倒錯を象徴している。
 会場内は撮影が許されていたため、当日撮影した写真を示している。もし掲出に問題があれば、コメント欄にて連絡いただきたい。
by gravity97 | 2015-03-02 21:04 | 展覧会 | Comments(0)

b0138838_1721814.jpg 「透明人間から抜け落ちた髪の透明さ」と題された久しぶりの石原友明の個展を東京で見る。きわめて画期的な内容であり、レヴューとして記録を残す必要を強く感じる。一見、抽象絵画を連想させるモノクロームの線描が描かれた平面は、最初こそこれまでの石原の作品からかけ離れた印象を与えるが、仔細に観察するならばそこには身体性やセルフ・ポートレート、アナログ/デジタルの対比といったこれまでの石原の作品の特徴がはっきりと刻まれ、何よりもいつもながらの明晰な知性の関与が明らかである。
 とはいえ、作品を正確に理解するためには少々の説明が必要であろう。展示された作品は大小とり混ぜて6点、すべて平面である。作品はサイズこそ違うが同じモティーフを表現していることは明らかだ。図版として掲げるとおりすべて画面全体にオールオーバーに広げられた曲線によって構成されている。このようなイメージからは誰もがたやすくポロックを連想するだろうし、ほかにも線的抽象を描く何人かの画家が連想されるかもしれない。しかしこの作品はいかなる意味においても抽象ではない。驚くべきことに、それは石原のまぎれもないセルフ・ポートレートなのだ。意味ありげなタイトルを参照するならば事情を理解することは困難ではない。「抜け落ちた髪の毛」とは石原のそれであり、線描と思われた無数の曲線は石原の身体から脱落した毛髪である。会場に置かれた解説はこのあたりの事情を次のように的確に説明している。「本展で石原友明は、Bathroom picture と題された一連のカンヴァス作品を展示する。主題は『自画像』である。これらの作品はカンヴァスにジェッソで下地を塗った後、特殊なインクで表面にプリントされている。 曲線によるモノクロームのドローイングに見える本シリーズは、作家自身の毛髪を集めてスキャニングしたものをベクタ形式のデータに変換(数値化)して、平面作品として構成したもの、つまりセルフ・ポートレートである」つまりこのイメージは浴室、おそらくはバスタブの中に残された自分の毛髪を一つの画面の中に配置し、スキャンして得られたものなのである。確かに画面に配置された線は連続することなく、多くが中断していている。さらによく見ると中断された端は微妙なふくらみを帯びており、それが毛根であることを暗示している。このような作品からは直ちにいくつもの美術史的記憶が喚起されるだろう。そもそもBathroom paintingというシリーズ名は先ほど亡くなった河原温の浴室シリーズを踏まえているだろうし、身体から廃棄された老廃物を作品化するという発想はアンディ・ウォーホルのピス・ペインティング(小便絵画)と同一だ。身体を一種のデータに変換して表象するという発想からはロバート・モリスの脳波絵画も連想されよう。
b0138838_173219.jpg 今回の発表には伏線がある。先の解説にも明記されていたが、ちょうど20年前の1994年、石原は「美術館で、盲人と、透明人間が出会ったと、せよ」というデュシャン風のタイトルをもつテクストを発表している。「見ることができるが見えない存在」と「見えないが見ることができる存在」のキアズム的な邂逅をつづった美しい文章であるが、そのテクストの中から今回の展示のために次のようなパッセージが引かれている。「透明になった自分から抜け落ちた髪が床に落ちる。からだから離れるとそれは徐々に透明でなくなっていった。そうして見えるものになり、死んで、もはや自分の一部ではなくなった髪を見つめるとなぜかそれこそが懐かしい自分自身の生きたからだを眼前するかのような反転した感覚にめまいするのだった」図版に掲げた私の手元にある同名のパンフレットの中にはこの一節が存在しないので、私はこの文章の出典を確認できずにいるが、このテクストにおいては見る/見えないという視覚的な問題ではなく、身体あるいは身体の残滓が問題とされている。写真を主たる媒体として用いながらも、しばしばオブジェとして作品を提示してきた石原にとって視覚と身体を往還することこそ作品の主題であり、かかる問題意識が現代美術の中核に位置していたことはあらためて指摘するまでもなかろう。
 さて、今日において遺棄された毛髪がなにかしらの意味を形作るとすれば、それは美術という領域ではない。それは犯罪捜査の場であり、犯行現場に残された証拠としての毛髪であるはずだ。何事かの結果、インデクス記号として毛髪は特異な位置を占める。私の毛髪とあなたの毛髪、肉眼つまり視覚によって両者を判別することは必ずしも容易ではない。しかし今やDNAの解析という手段を経て、かかる証拠物件はたやすく個人に同定される。美術史と犯罪捜査、実は両者は深い関係がある。ジョバンニ・モレッリとシャーロック・ホームズを引きながらロザリンド・クラウスは「もつれた髪の毛の塊」としてのポロックのポアリング絵画に言及していなかっただろうか。モレッリやホームズが視覚的に観察可能な手がかりから、多くアナログ的な手法によって(analogueには相似的という意味がある)証拠の背後の人物に迫るのに対して、石原が用いる毛髪とはDNA解析という非視覚的でデジタルな手法をとおして特定の個人と結びつく。ここにはきわめて興味深い逆説が存在する。すなわち先に述べたとおり、スキャンされた毛髪は現実の毛髪と毛根のふくらみまで一致する完璧なアイコン記号でありながら、そのアイコン性によっては意味を与えられず(例えば作品の中に石原以外の毛髪が混入していたとしても、イメージとして識別することは不可能である)、非視覚的な分析を経て初めてそれが表象する意味が明らかとされるのである。インデクスとしてのイメージ、聖骸布からウォーホルのピス・ペインティングにいたる、体液による一連の表現をこの作品の傍らに置く時、その批評的な位置は明らかといえよう。さらにサイズの問題についても石原の作品はきわめて興味深い問題を提起する。私はコンピュータ・グラフィクスには詳しくないため、解説の受け売りとなるが、この作品においてはベクタ形式のデータが用いられているらしい。ベクタとはjpegやtiff に類した画像処理のフォーマットであり、この形式を用いて画像を処理することによって「イメージを劣化させずにサイズを無限に拡大かつ縮小でき等身大という概念もなくなる」とのことである。ここで私たちは接触によって得られるインデクス記号の特質が実物大、等身大であったことを想起しよう。今挙げた聖骸布でもラウシェンバーグの自動車タイヤプリントでもよい。インデクス記号においてイメージは多く等身大、実物大として実現される。この意味において興味深い例は高松次郎が用いる「影」というインデクス記号であるが、ここでこれについて詳しく論じる余裕はない。石原の用いる毛髪というイメージは二つの意味を具備している。すなわちその起源(出所、犯人)との関係においてはインデクス記号であり、その形状(似姿、相似)においてはアイコン記号である。そしてベクタ形式で処理されたことによってサイズが非関与的な要素となっているのである。これに対して、石原のイメージの意味にとって関与的な要素はむしろイメージの形状ではないか。作品を注意深く眺めるならば一点だけ曲線の形状が異なる作品があることに気づく。ほかの作品が Bathroom picture というシリーズ名をもつのに対し、その作品は trim と題されている。いうまでもなくtrim とは刈り込むことであり、ほかの作品がバスタブに残された濡れた状態の毛髪をスキャンしているのに対して、trim は散髪直後の乾いた毛髪をスキャンしているのだ。trim の曲線が多く丸まった形状で表現されていることはこの点を暗示している。つまり両者のイメージの相違は、濡れた/乾燥した、あるいは脱落した/刈り込まれたという意味と対応しているのだ。
 毛髪のイメージは特殊なインクを用いてカンヴァスに定着されている。しばしば写真による表現を発表してきた石原がカンヴァスという支持体を用いた点は注目に値する。しかし過去を振り返るならば、この作品には先例が存在する。それは1989年頃に制作されたカンヴァスに感光乳剤を塗布して自身のヌードを転写した一連の作品である。複数のカンヴァスを螺旋状に積み上げた信濃橋画廊での発表は今も鮮明に脳裏に浮かぶ。この時、カンヴァスは皮膚のメタファーと考えられよう。この点は会場の解説も明確に論じている。「石原は、データとして変換された身体のパーツを改めて画布を張ったあるサイズのカンヴァスに定着させることで、『新しい皮膚と身体を与え再身体化』させるという」カンヴァスを皮膚と見立てる発想はさらに以前の皮革を用いた一連の立体作品に由来しているだろう。89年の仕事も身体を皮膚としての身体に定着させるという点において今回の作品と共通する。しかし前者において身体がきわめて視覚的に与えられ、接触を介した等身大のイメージであったのに対して、新作における身体は非視覚的であって、今述べたとおり最新の技術を用いることによってサイズは一定しない。アナログとデジタル、色彩とモノクローム、両者をめぐってはいくつかの対比を組織することが可能であろうし、毛髪が身体の一部であることを想起するならば、両者を隠喩と堤喩という記号論的な観点から分析することも可能であろうが、ひとまずここで留める。
 石原の新作は毛髪という身体の残滓を用いたセルフ・ポートレートであり、作家の身体はイメージからデータへ、アイコンからインデクスへ変換されている。それはテクノロジーを介在させた類像性批判とみなすこともできようし、今や身体性がデジタルなデータによって完全に管理されていることへの批判とみなすこともできよう。(モリスの脳波計ではないが、私たちは健康診断の際に渡されるデータの一覧として自身の身体を表象することさえできるのではないか)しかし最後に付け加えておかねばならないのは、石原の新作はかかる概念的、非視覚的な問題を提示しつつ、まず作品として強い強度を有しており、それゆえ圧倒的な印象を与える点である。しかもこの作品はこれまでの石原の探求の延長上にあり、抽象と具象、平面と立体、アナログとデジタルといった対立を巧妙にくぐりぬけながら、石原しか表現しえない新たな境地をみごとに示している。本稿では詳しく論じることができなかったが、この新作は先に言及した高松次郎の影と比較することによって、現代美術に対してさらに豊かな問題提起をなすことができるだろう。意図的に開催時期を合わせたか否かは定かでないが、石原の個展の会期中、高松のよくオーガナイズされた回顧展が竹橋で開かれている。私は石原の「毛髪」に高松の「影」がアップデイトされた姿を見る思いがした。せっかくの機会であるから両方を訪ねることをお勧めしたい。石原の個展は1月18日まで。会場は恵比寿のMEM。
by gravity97 | 2014-12-16 17:08 | 展覧会 | Comments(0)

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 ブリヂストン美術館で「ウィレム・デ・クーニング展」が開催されている。デ・クーニングはポロックと並び称される抽象表現主義の巨匠であるが、印象派や近代日本画の上品なコレクションで知られるこの美術館で、ある意味で相当に悪趣味のデ・クーニングの展覧会が開催されるとはやや意外に思われる。現代美術を直接の対象とした展覧会は、以前このブログでも応接したアンフォルメルに関する展覧会以来であろうが、50年代から60年代にかけてブリヂストン美術館が現代美術とも深く関与したことを想起し、デ・クーニング自身もこの美術館を訪れた記録があると知ってようやく得心する。
 今回の展示の中心となるのはコロラド州、アスペンのパワーズ・コレクションに収められた作品群である。ジョンとキミコ、パワーズ夫妻によって収集された現代美術コレクションのクオリティーの高さはよく知られており、近年、国立新美術館でパワーズ・コレクションによる大がかりなポップ・アートの展覧会が開催されたことは記憶に新しい。このコレクションはポップ・アートとミニマル・アートの優品によって知られているから、デ・クーニングの作品がこれほど収められていたとは驚きである。サインとともにパワーズ夫妻への献辞が付された作品も散見され、作家とコレクターの親密な関係は明らかである。このほかに国内の美術館に所蔵されているデ・クーニングをほとんど借用して総数にして35点、二室を用いた展示は決して大規模ではないが、結果的に60年代のデ・クーニングに焦点がしぼられ、見応えがあるとともに、多くの問題に思いをめぐらす興味深い内容となっている。
 デ・クーニングに関しては1983年にホイットニー美術館ほかで、2011年にニューヨーク近代美術館で大規模な回顧展が開催されている。私はいずれも未見であるが、手元にあるカタログを参照する限りでは、今回の展覧会で展示された作品はいずれの展示にも出品されておらず、この意味においても貴重な機会といえよう。パワーズ夫妻は自分たちの邸宅に作品を展示していたとのことであり、このため比較的小品が多いが、作品の質は高い。50年代前半に制作された二点のドローイングを含め、ほとんど全ての作品において「女」が主題とされている点は興味深い。おそらくこの点は作品が集中的に収集された時期と関連しており、かかる選択にコレクターの趣味がどの程度反映されているかは微妙な問題であるが、これらの絵画を自宅の壁に掛けるにあたっては相当の神経が必要ではないか。これから論じる問題とも関わっているが、展示された作品は個人の住宅のリヴィングルームを飾るにはあまりにも生々しく感じられるのだ。この点はこれらの「女」たちを50年代に制作された「女」たちと比べると理解しやすい。最初キュビスムの影響を濃厚にとどめた独特の抽象絵画を携えて登場したデ・クーニングは1952年に現在ニューヨーク近代美術館に収蔵されている有名な《女Ⅰ》を発表して、大きなセンセーションを引き起こした。50年代前半には「女」と題された作品が多く制作され、「マリリン・モンロー」という固有名を与えられた「女」さえ存在する。この後、50年代後半に作家は再び抽象へと回帰し、激しいストロークが刻まれ、多く風景のコノテーションを有する絵画を制作した。絵画を生の方法(way of living)と断じるデ・クーニングにとって、具象/抽象という区別は大きな意味をもたず、このような転回はさほど重要ではない。むしろ50年代の「女」たちと60年代の「女」たちの区別こそ注目に値する。50年代の「女」たちはなおも女性像としての結構を有していた。具体的には目や口(しばしばむき出しの歯として表現される)、乳房や手足が凶暴なストロークとともに描きこまれ、たとえ彼女たちが「醜悪の使徒」であろうとも、女性が描かれていることは理解できる。これに対してやはり激しいストロークで描かれた60年代の「女」たちは風景の中に溶け込んだかのようだ。この時期の作品において50年代に時を追って探求された二つの主題、女性像と風景のイメージが統合されたと考えることは不可能ではない。実際にいくつかの作品には《風景の中の女》あるいは《水の中の女》といったタイトルが付されている。風景と女性、あるいは水面と女性といったモティーフからは古今の名画の系譜がたどれる。「私の絵画は多くが他者の絵画から来る」と説くデ・クーニングがヴェネツィア派からフランドル絵画にいたる様々な絵画からインスピレーションを得たことは明らかだ。インタビューの中ではキミコ・パワーズが「絵画同様に完成することのない」アトリエのために準備されたドアのフォーマットをデ・クーニングが気に入って、しばしばそのサイズで作品を制作したという興味深い証言を残している。確かに出品された作品はかなり縦長のフォーマットが多く、直立する人物を描くには好都合であるから、支持体のフォーマットがなんらかのかたちでイメージを規定した可能性はある。今回の出品作が制作される直前、1960年に《Door to the River》といった抽象表現による傑作が残されていることも考慮するならば、デ・クーニングとドアという問題は一つの研究の主題となりうるかもしれないが、ひとまずは措く。
 このレヴューにおいて私が注目するのは風景の中に溶解するがごとき60年代の女たちにおいて、女性性の象徴のごとく反復される一つの記号が確認できることである。それは唇のイメージだ。今回出品された多様な女性像において唯一共通するのは赤く塗られた唇であり、時に《歌う女》のごとく口を開き、木炭画や版画においては唯一の色彩が与えられた場として画面の焦点をかたちづくっている。唇に関しては50年代の「女」たちとは興味深い対照が認められる。先にも触れたとおり、50年代の「女」において、女たちの口がむき出しの歯として描かれることは《女Ⅰ》に典型的にみられるとおりだ。女たちは多くの場合、英語であればgrinと表現されるであろう、にやにや笑いを浮かべている。しかし60年代の女たちは歯が描かれることがない。今、私はニューヨーク近代美術館の分厚いカタログを参照してみたが、このような対比は今回の出品作のみならず二つの時期に描かれた「女」たちにほぼあてはまる。かかる変化は何を意味するのか。ひとまず私は二つの仮説を提起しておこう。一つは歯ではなく唇を描くことによって接触性が強く喚起される点だ。私たちにもっとも身近な唇のイメージはキスマークであり、リップスティックを塗った唇を何かに押し当てることによって得られるイメージであり、かかるインデクス的なイメージは物理的な接触を前提としている。デ・クーニングは実際に妻エレーヌの唇を押し当てて描いたいくつかのドローイングを残しており、あたかもイヴ・クラインの「人体測定」のフェティシズム版であるかのようだ。実際、唇というモティーフはデ・クーニングにおいてフェティシズムの問題とも絡めて検証可能かもしれないが、これについても今後検証されるべき課題として指摘するに留める。これに対して歯は接触的ではない。なぜならば、人は歯をみせた状態で唇のイメージを転写することができないからだ。デ・クーニングの初期の抽象絵画にも歯のような形状がしばしば認められる。明らかにピカソとキュビスムを経由するこれらの形態は60年代には一掃される。そしてこの問題とも関わる点であるが、唇のイメージが喚起する二番目の意味とは端的に女性器である。歯の生えた性器、ヴァギナ・デンタタとは精神分析の領域で提起された概念であり、シュルレアリスムあるいはポロックの精神分析ドローイングなどに頻出するイメージである。デ・クーニングの場合、女たちが歯を失うことによって、唇は性器というダブル・ミーニングを得たのである。人体において女性器ほど触覚的な器官は存在しないだろう。したがってこの点も60年代のデ・クーニングの女性像が本質において触覚的であることを暗示している。
 さらにここでは十分に検討する余裕がないが、絵画の触覚性に関連して指摘すべきは、この時期、デ・クーニングが多くのコラージュの実験を重ねていることである。私も会場で作品を実見して驚いたのであるが、《サッグ・ハーバー》という作品にはマスキングテープが貼りつけられたままであり、《リーグ》という作品ではイメージの基底に新聞紙が貼られ、絵具の間に垣間見える LEAGUE という文字が作品タイトルの由来となっている。実際にコラージュはこの作家が多用した技法であり、初期作品以来、多くの作品に認められるコラージュの重要性について既に多くの研究者が指摘している。ここで初期の抽象絵画においてキュビスム、それもピカソの分析的キュビスムの影響が濃厚であった点を想起しよう。ウィリアム・ルービンはポロックの絵画の展開を総合的キュビスムから分析的キュビスムへの遡行として位置づけたが、デ・クーニングにおいては分析的キュビスムから総合的キュビスムという展開が反復されている。ただしデ・クーニングの場合、今述べたとおりコラージュ技法の導入は比較的早い時期から認められ、総合的キュビスムにおける現実との接点の回復という意味は認められない。異素材は時に激しいアクションを受け止める抵抗として、時にイメージを物理的に切断する手法として導入されており、いずれの場合もイメージは視覚ではなく触覚、端的に手と結びついている。
手や触覚と結びついたイメージ。私たちは60年代の「女」たちを「手によって塗りたくられたイメージ」と表現することができるかもしれない。それは50年代の「女」たちがなおも視覚的な再現性を留保していたことと対照的である。ここで視覚と触覚を対比させていることは意図的であり、この問題は例えばアクション・ペインティングとカラーフィールド・ペインティングの対比といった抽象表現主義全体に応用することも可能であろう。しかし私はむしろデ・クーニングの女たちをもう一つの人間のイメージと比較したいのである。b0138838_20221828.jpgフォートリエの「人質」だ。それはたまたまブリヂストン美術館を訪ねた翌日、大阪でフォートリエ展に足を運んだことにも由来しているかもしれない。抽象表現に関心を示さなかったフォートリエと抽象と具象を往還するデ・クーニングが資質において大いに異なることはいうまでもない。しかしながら私は戦後美術の二人の巨匠が人間をともに「塗りたくられた絵具の痕跡」として表現した点に関心をもつ。(ちなみにフォートリエも技法に強い関心をもっており、さらに二人が制作した彫刻を通してもこの問題は検証可能かもしれない)そこには人間観の決定的な変質が兆しているのではないだろうか。正確に述べるならば人間をもはや「塗りたくられた絵具の痕跡」としてしか表現しえなくなった状況とはいかなるものであるか。第二次大戦中、レジスタンスたちが銃殺される情景から着想されたという「人質」であればこの点は理解しやすい。しかし60年代にデ・クーニングが描いた女性像がかくも触覚的、物質的な印象を与えたのはなぜであろうか。私はこれらの絵画から「肉」を強く連想した。暖色を中心にした色彩、輪郭のはっきりしない形状、そして何よりも唇/性器の存在感がこのような印象に大いに与っている。最初に私はこれらの絵画を自宅に飾ることへの異和感を指摘したが、それがこのような印象と関わっていることはいうまでもない。絵画と視覚という問題はフォーマリズムに連なる論者を得て戦後美術における重要な主題系をかたちづくった。これに対して絵画と触覚という問題は今日にいたるまで十分に究明されていない。触覚の絵画の系譜は50年代の広義のアンフォルメル、あるいは具体美術協会の絵画を経て、ミニマル・ペインティング、そしてニューペイティングまでの広がりを有している。これらの絵画は体系的に記述されたことがないし、記述の方法も確立されていないが、例えば「アンフォルム」といった作業仮説を得て、近年、再び注目を浴びていることは知られているとおりだ。この系譜の中でもデ・クーニングの異質さは際立っている。今まで論じたとおり、60年代のデ・クーニングは「女」の「肉」というきわめて特異なモティーフによってこの系譜に応接する。私は当時男性誌に掲載されていたピンナップ・ヌード、あるいはリップスティックの広告といったマス・イメージと関連させて社会学的な視点からこの問題を考察することが可能であろうと考える。そこには当然ジェンダーや階級性の問題が持ち込まれるだろう。かくのごとく、この展覧会に並べられたデ・クーニングの絵画が指し示す問題の射程は広く、きわめて今日的である。しかしながらあまりにも多くの問題が未解明のまま残されているのだ。
by gravity97 | 2014-11-09 20:30 | 展覧会 | Comments(0)