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「1945年±5年」

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 事後の報告となるが、兵庫県立美術館で先日まで開催されていた「1945±5年」についてレヴューを残しておきたい。(7月30日から10月10日まで広島市現代美術館に巡回)昨年は戦後70周年ということで、第二次大戦とちなんだ多くの展覧会が開かれた。私も名古屋と東京でこれに連なる展覧会に足を運び、このうち藤田嗣治の展示についてはこのブログでもコメントした。展覧会が重なると重要な作品は取り合いとなってしまうから、あえて一年の間をおいたということであろうか。充実した展示であった。そしてこの一年でさらにきな臭くなった世情を背景に、画家と表現、戦争と美術といった問題を考えるうえでもこの展覧会は切実な問題を提起しているように感じられた。
 「1945年±5年」というタイトルが展覧会の内容を要約しており、出品作品も制作年の機械的な限定の中から選ばれている。戦争記録画をはじめ、いくつかの中心的な主題を指摘することはできるが、むしろいくつもの主題のゆるやかなつながりの中に10年間の表現を検証することにこの展示の意味があるだろう。展覧会は松本竣介の《街(自転車)》という作品から始まる。1940年の作品であるから、すでに日中戦争は始まっており、人々の生活は統制下にあったはずだが、そこに描かれるのはごく普通の街景である。実際に展覧会の導入部に展示された作品は戦争を感じさせることがない。松本と駒井哲郎による都市を描いた風景画、そして小磯良平の一連の肖像画、中でも有名な集団肖像画《斉唱》は1941年に制作されている。これらの作品は戦時にあっても日常的な情景が描かれていたという当たり前の事実を示しているが、次に述べるとおり、今挙げた画家たちが戦火の広がる中でどのように身を処したかという問題と重ねて考えてみる必要があるだろう。この展覧会は構成が巧みで、テーマに沿ってほぼ時系列に従って作品を見る中でカタログにカテゴライズされたいくつかの主題が浮かび上がる。戦時下の日常を描いた作品に続いて、ハルピンや京城、あるいは満州といった植民地の風景を描いた作品が展示される。ここでも多く日常の光景が描かれているから、この時点で私たちはそこに戦争という背景を見出すことは困難である。植民地の表象という問題は近年、美術の領域でも大きな注目を浴びており、私は同じ美術館で見た「官展にみる近代美術」という展覧会については既にレヴューしている。この展覧会では日本人作家が植民地を訪れた際の記録としての多く風景画が展示されており、一種のエキゾチシズムを漂わせている。文学に関する川村湊の仕事、あるいは先日物故した松本雄吉が率いる維新派に見られた南洋への志向、かつて日本の版図であった植民地をめぐる表現への関心はほかの領域でも高まっていることを指摘しておこう。
 しかし植民地は時に戦場でもありえた。展覧会では伊谷賢蔵の《楽土建設》のあたりから、戦時色が強まり、多くのいわゆる戦争記録画へとつながっていく。現在東京国立近代美術館に無期限貸与されている戦争記録画については近年研究も進み、いくつかの画集も刊行されて、私たちも馴染んできた。昨年の藤田嗣治の全作品展示の中で多くの戦争記録画が一堂に展示されたことも記憶に新しい。今回の展覧会を見て、そして企画者によるカタログのテクストを読んで私はあらためて思い当たったのであるが、戦争記録画に描かれた兵士たちは多く後姿もしくは横から描かれる場合が多い。論じられているとおり、それは報道カメラマンの視点である。従軍した画家たちは兵士たちと行動を共にするのであるから、常に同じ方向を向き、彼らを後ろからとらえることしかできない。兵士たちを正面からとらえる視点はむしろ敵の視点なのだ。カタログによればこの問題に関して、河田明久は興味深い指摘を加えている。すなわち日中戦争という理念のはっきりしない戦争を描く場合には登場人物が画面に背を向ける構造が多かったのに対し、欧米を排斥するという大義を得たアジア・太平洋戦争においては兵士たちが正面から描かれる演劇的な構図が増えたという。構図の問題については後で再び触れることにして、展示には花岡萬舟や清水登之といった画家の、私にとっては初見の作例が加えられ、さらに従軍画家ではなく徴兵されて戦地に赴いた画家たちの現地でのスケッチや家族に向けて描かれた手紙類も展示されていた。必ずしも発表することを前提としないそれらのスケッチや書簡も画家たちと戦争との関わりを知るうえでは興味深かった。今まで戦争という主題は多く戦争記録画と関連して論じられていたが、この展覧会では銃後を扱ったいくつかの絵画も目を引いた。勤労奉仕を扱った東山魁夷の作品、《貯蓄報国》と題された新海覚雄の作品、製鉄や炭鉱といった産業の振興を主題とした絵画はある意味で戦争記録画のカウンターパートとして戦時下の国民へ国家主義的な規範を提示していた。きわめつけは「女流美術家奉公隊」の手による《大東亜戦皇国婦女皆働之図》という奇怪な大作である。様々な場面で勤労奉仕する女性たちを描いた画面から「一億総活躍社会」という愚劣な政策を思い浮かべたのは私だけであろうか。よく言われることであるが、日本でかかるキッチュなプロパガンダ絵画が制作されていた同じ時期、アメリカでは抽象表現主義の画家たちがそれぞれのブレークスルーに向けて絵画の実験を深めていたのである。この展覧会に抽象絵画がほとんど出品されていないことは当然といえば当然であろうが、かかる対比によっても彼我の国力の差は歴然としていた。このパートには「銃後と総力戦」というタイトルが当てられている。須田国太郎の《学徒出陣壮行の図》、刑部人の《少年通信兵》あるいは杉全直の《整備教室》といった作品にはタイトルが暗示するとおり、多くの若者が描かれている。有為ある若者たちを戦場に駆り出して殺していったかつての日本という国家の非人間性の表象といえよう。
 展示においてはやや前後するが、この時期の表現にみられた特徴としては「大きな物語とミクロコスモス」と題されたパートも示唆的であった。戦意を鼓舞するためにいくつかの作品では神話や伝説が導入された。それは中山正實が描く神武天皇であり、花岡が描く楠木正成である。一方、和田三造は天皇の下にアジアの諸民族が集う、八紘一宇の図式化のごとき大作《興亜曼荼羅》を描いた。(出品されたのは下絵とのこと)いずれもイデオロギー装置としての絵画の機能が発揮された作品であるが、私が興味を抱いたのはむしろ「ミクロコスモス」と呼ばれた作品群、すなわち靉光や寺田正明、吉原治良といった画家が昆虫や蔬菜、鉢植えなどを対象に沈潜するかのように描いた一連の作品である。一様に暗く、濁ったこれらの画面に作家たちは何を込めたのであろうか。大戦の最中、戦意を鼓舞する絵画とは全く逆のベクトルをもつ絵画が制作されていたという事実は注目に値する。総力戦の後に敗戦が訪れた。この展覧会では「廃墟」というパートによってかかるテーマに一つの総括が与えられている。しかし企画者も述べるとおり、「廃墟」というテーマは一種の逆説を秘めている。戦時中に戦災による廃墟を描くことは許されるはずがなかったし、戦勝国が駐留した戦後においてもそれは一つのタブーであっただろう。このように考える時、丸木以里と赤松俊子による《原爆の図》の意味もまた明らかだ。この作品は第二次大戦によって私たちが受けた被害を、玉砕や名誉の戦死といった支配者側の言葉を経ることなしに伝えた稀有の例であるからだ。1950年に制作され、ぎりぎりでこの展示に収められたこの作品が展示の掉尾を飾ることは、日本において戦災を表象することがきわめて困難であったことを暗示しているだろう。たしかに私たちは東京大空襲や長崎の被爆を美術として表象した例をほとんど知らない。カタログの中に「敗者は映像をもたない」という大島渚の言葉が引かれているが、この問題は例えばホロコーストの表象不可能性といった問題の傍らに置く時、さらに示唆的ではないだろうか。
 以上、展示されていた作品を概観した。幻想的ではあるが、何気ない日常の風景を描いた松本峻介の《街》からシンガポール陥落を描いた藤田嗣治の戦争記録画までわずか二年の時間が経過したに過ぎない。この点は今日の私たちもわずか数年後には戦時体制に組み込まれているかもしれない可能性を示唆する。実際に虚言と食言を繰り返す現在の政権下ではいつ日本が戦時下となるやもしれず、自らの政権に危機が迫るや、安倍が中国に対して戦端を開くことを私は確信している。今回の展示を見て私が考えたのは次のような問題だ。愚劣な為政者の下で戦争が始まることはいつの時代でもありうる。そして画家はそれに協力するか否かの態度を迫られるはずだ。私は戦争記録画を描いた画家は程度の差こそあれ、戦争に翼賛したとみなされると思う。なぜならそのような時代にあっても戦争を描かなかった画家が存在するからだ。例えば松本峻介と小磯良平という対比を考えてみよう。この展覧会のメインヴィジュアルとして用いられた小磯の《斉唱》は、清楚な女子学生たちの合唱を描くことによって戦争記録画に対する免罪符とみなされてきた。もちろん新制作協会の俊英であった小磯は優秀であったからこそ従軍画家として大陸に派遣され、《娘子関を征く》をはじめとする戦争記録画を残したという弁明はありうる。しかし画家にとってそれを拒否するという選択肢はありえたはずだ。私はこの問題を再び画面の形式に引き戻してみたい。先に述べた通り人が描かれた場合、描かれた人物の視線はそれに眼差しをむける私たちと関係を結ぶ。この展覧会に出品された多くの小磯の肖像画において描かれた人物は私たちと視線を交わすことはない。《T嬢の像》においても《斉唱》においても描かれた女性たちは私たちから目を逸らしている。これに対して、この展覧会に出品されていないが、やはり同じ時期、1942年に制作された松本の《立てる像》において私たちは描かれた人物と視線を交わす。(ちなみにこの作品は先日の国立国際美術館における森村泰昌の展覧会でも取り上げられていた)私たちから目を逸らす小磯の少女たちが画家の無意識、従軍しても比較的穏健な情景を描いて戦争の真実を直視することがなかった小磯の無意識を反映しているとみなすのは厳しすぎるだろうか。それはあえて死屍累々たる風景を描いて描くことへのデーモニッシュな決意を示した藤田とは異なった、しかし同様に時流に抵抗することができなかった画家の姿ではないだろうか。一方で靉光に典型的にみられる「ミクロコスモス」、身辺の静物への沈潜は静かなプロテストとみなすことはできないだろうか。この展覧会にやはり静物画を出品している吉原治良は、当時の美術雑誌の座談会において検閲を担当する軍人の「この非常時にもかかわらず○や△を描いて遊んでいる非国民がいる」という発言が不気味であったという感慨を残しているが、この不安はもはや私たちにとってなじみのないものではない。先日、「キセイノセイキ」についてレヴューをアップしたが、このところ日本の多くの美術館で展示に関して当局からの検閲が強められ、さらには美術館上層部による自己規制といった信じられない事態が発生していることは知られているとおりだ。表現の自由にとって最後の砦たる美術館において学芸課長がなにものかの意志を忖度して、作家に対して作品の発表の自粛を要請するといった倒錯が現実にありうるのだ。いうまでもなくこれは一つの兆候である。数日後に迫った参議院選挙の結果いかんでは憲法が改悪される可能性がある。現在、自民党が発表している改憲草案21条に表現の自由についての規定があるが、「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する」という現行の憲法の規定からわざわざ「これを」という言葉を削除したうえで、新たに第二項として「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、ならびにそれを目的として結社をすることは認められない」との文言が加えられているのだ。端的に表現の自由が否定されている。表現の自由のない社会とはどのようなものか、私にとっては想像することすらできない。しかし数日後の選挙の結果次第ではかかるディストピアが実現する可能性もきわめて高い。先日美術評論家連盟の有志が「表現の自由について」という簡潔な声明を発表したが、この声明は明らかにかかる状況を憂慮したものである。アメと鞭を使い分けた現政権のマスコミ操作の結果、これらの問題はほとんど議論されることがない。上に示したカタログの表紙には1945年を中心にして前後10年の年記が刻まれている。今、私たちはどのあたりにいるのだろうか。まもなく戦争が始まる。(それにしてもこのブログを始めた頃にはこれほどまでに状況が悪化するとはさすがに想像できなかった)表現に関わる者として、自らの立場をこの展覧会に出品したどの画家に定めるのか。批評を生業とする私を含めて決意が問われているように感じる。

by gravity97 | 2016-07-07 22:03 | 展覧会 | Comments(1)

「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」

b0138838_1616488.jpg 遅ればせながら、賛否分かれる話題の展覧会、東京都現代美術館における「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」を訪れた。なるほどいくつもの問題をはらんだ展覧会である。MOTアニュアルは1999年以来、若手を中心に現代美術を紹介する目的で開催され、毎回、テーマを設定している。今回はタイトルが示すとおり、「キセイノセイキ」がテーマである。カタカナで表記されている点は規制/規正、世紀/性器といった多重的な意味を暗示しているだろう。(出品作品に性的な暗喩を含んだ作品はほとんどないが、会期中に「ろくでなし子」事件の判決が出たことを記録に留めておきたい)後でも触れるとおり、この展覧会はテクスチュアルな参照を欠いており、4月中旬の刊行が予告されていたにもかかわらず、私が訪れた時点でもカタログは発行されていなかった。展覧会の趣意をフライヤーから引く。

 今の社会を見渡すと、インターネットを通して誰もが自由に声を発することができる一方で、大勢の価値観と異なる意見に対しては不寛容さが増しているように思われます。表現の現場においても、このひずみが生み出す摩擦はしばしば見受けられます。そうした中で、既存の価値観や社会規範を揺るがし問題提起を試みるアーティストの表現行為は今、社会や人々に対してどのような力を持ちえるでしょう。

 表現の現場における摩擦といえば、昨年同じ美術館で開かれた「ここはだれの場所?」における会田家の作品に対する自己「規制」問題が直ちに連想されようし、それであればこの事件と展覧会の関係が興味を引くところであるが、この問題についてはいかなるレヴェルでも触れられることはない。さらにこの展覧会は東京都現代美術館と「アーティスツ・ギルド」という組織との「協働企画」として企画されたとの文言があり、フライヤーの裏面には「アーティスツ・ギルド」についての簡単な説明が記されている。「AGはアーティスト自らが立ち上げた芸術支援の新しい可能性を模索する社会実験の一形態です。2009年に制作や展示における個々の経済負担の軽減を図るために映像機器の共有システムを立ち上げ、2013年に合同会社AGプロダクションを設立し、展覧会や関連イベントの映像記録を請け負っています。アーティスト個々のアプローチとはまた違う、会社組織としても芸術に関わっていくことを実践しています」とのことだ。アーティスツ・ギルドに所属する作家の多くがこの展覧会に出品しているらしいから、「協働企画」というのもわからないではないが、例えば作家の選択といった展示の根幹に関わる部分がどのように決定されたかよくわからない。私の持論であるが、展覧会においてカタログは決定的に重要である。展覧会はエフェメラルであるが、残されたカタログによって私たちは展示の意味を検証できるからだ。フライヤーによれば「展覧会公式カタログ」はtorch press という版元から刊行とのことだ。私の記憶ではこれまでMOTアニュアルのカタログは東京都現代美館によって発行されていたから、なぜ変更されたのであろうか。昨年、美術館の自己検閲問題を引き起こした「ここはだれの場所?」においても展覧会が開かれていた時期にカタログは刊行されず、先般カタログではなく「記録集」が発行された。この「記録集」は送料を負担すれば無料で頒布されるとのことであったから、私も早速取り寄せて読んでみた。これについてはここでは触れないが、なぜ美術館が主催した事業のカタログを自館で発行することができないのか。これらの展覧会におけるカタログの迷走については美術館側からなんらかの説明があってもよいのではないだろうか。
b0138838_1617589.jpg 最初からいくつかの批判を加えた。実際にこの展覧会に関して、これまでに目を通したレヴューは多く批判的であったが、私はこの展覧会が開催されたことを評価したい。この展覧会がどの時点で企画されたかはわからないが、昨年の検閲事件の後にあえてこのようなテーマを選んだことに企画者の問題意識を認めるからだ。結果的には相当ぶざまな内容となったかもしれないが、MOTアニュアルは特にテーマに制限を有していないから、もっと穏当で非政治的な主題を選ぶことも可能であったはずだ。実際に私の記憶の及ぶ限り、これまでこのアニュアル展で今回に類した主題が扱われたことはなかった。おそらく現場の学芸員の強い問題意識、さらにいえば危機感がこのようなテーマを導き出したのだろう。しかし私の得ている情報によれば、館の上層部、それも学芸サイドからの圧力によってかかる可能性は再び無残にも摘み取られてしまった模様だ。したがってここでは実現されなかったプランも含めて、この展覧会をその可能性のうちに検証したいと考える。
 まずは会場に並べられた作品を確認することから始めよう。カタログが存在しないため、すべての作品について詳細に記述することはできないし、私の記憶の誤りがあるかもしれないことを最初に申し添えておく。入口ではスミノフというウォッカを酒瓶に直接口をつけて飲み下す制服姿の女子高生の姿がプリントされた齋藤はぢめの作品が私たちを迎える。私はこの作家についてはほとんど知らないが、幕開けにふさわしい挑発的なイメージである。続けて展示された古屋誠一の作品を私は懐かしく感じた。(実は私は順路を間違えており、古屋の作品は展示の最後に位置する。確かにその方が展示の起承転結が明確だ)古屋の作品については、かつて作家の評伝と作品論が一体化された小林紀晴の『メモワール 写真家・古屋誠一との20年』について、このブログの「評伝・自伝」のカテゴリーで論じたことがある。是非そちらも参照していただきたいが、被写体は自死した妻のクリスティーネであると記せば、この展覧会の主題との関連性は明らかであろう。しかも今回展示された三点のうち一点は、投身自殺を遂げた直後のクリスティーネのポートレートなのである。若手でもないこの作家をあえて展示に加えた点に企画者の批評性が感じられる。続く藤井光のインスタレーションもきわめて批評的、自己言及的な展示である。会場には空のショーケースと空のガラスケースが並び、キャプションのみが添付されている。インターネット等で収集した情報によれば、このインスタレーションは東京大空襲の追悼と戦争の記憶の継承を目的に設立が計画されながらも戦時の加害記録の扱いをめぐって議会で紛糾し、現在にいたるまで凍結されている平和祈念館に収められるべき映像や戦災資料を文字通り不在として表象するものであるらしい。ただし会場の展示と掲示からかかる意味を読み取ることはかなり難しい。この展覧会に致命的に欠落しているのはテクスチュアルな補助である。カタログもない、作品に関する説明的な掲示もない。会場で配られていたA3一枚のハンドアウトにしても、私は受付で要求してようやく入手した。不親切というより、むしろ意図的な欠落であるようにさえ感じられるのだ。《爆撃の記憶》と題された藤井の作品の場合、今述べたとおり、ケース内には無数のキャプションが配置され、それによって来場者はそこに展示されるはずであった内容を推測するのであるが、会場で上映されていたそれらのキャプションを配置するボランティアたちの映像はこの作品にとってどのような意味があるのか私には理解できなかった。単に私が見落とした可能性もあるが、誰が、誰の指示によって、いかにしてキャプションを配置したかはこの作品の根幹に関わると思うのだが、十分な説明がなされていない。さらにこの会場に不在であったのは展示されるべき資料、あるいは作品についての解説のみではなかった。なんと展示されるべき作品もまた美術館側の自己「規制」、端的に検閲の結果、館外へと追放されていたのだ。排除されたのは小泉明郎の《空気》という作品だ。小泉はこの展覧会に《空気》と《オーラルヒストリー》という二つの作品を出品する予定であった。20世紀前半に東アジアでどのような事件が起きたかを問われた人々が、口々に応答する様子(口元のみが撮影されているため話者を同定することはできない)を記録した後者は確かに会場で上映されていた。しかし前者は配布された「作品解説」の中にタイトルも示されているにもかかわらず会場には存在せず、確かキャプションのみにスポットライトが当てられていたように記憶する。しかし幸いにも私は当初展示が予定されていた《空気》を別の会場で見ることができた。この作品、そして美術館による検閲は本展の本質と深く関わるから、後で詳しく触れることとして、ひとまず会場めぐりを続けよう。続く小部屋には明治期から第二次大戦にいたるまで「内務省警保局」が編集した「禁止単行本目録」が置かれている。規制や検閲とかかわる内容であるとはいえ、私の見た限りではこれらの資料にも説明がなかったから、なぜこれらの資料がここに配置されているのか理解できない。これらの資料から私はかつて森村泰昌がディレクターを務めた横浜トリエンナーレにおいて展示されていた、戦時中の一連の翼賛的な書籍を連想した。横浜の場合、それは本来存在してはならない書物という意味で「華氏451度」という展示のテーマとみごとに呼応していたが、今回、これらの資料はあまりにも唐突に出現し、意味不明であった。橋本聡の展示は自らのパフォーマンスの記録と来場者にアクションを促す一連のインストラクションによって構成されている。例えば角材を倒す、光を反射させるといったインストラクションが時折来場者によって実行されていたが、何かに切りつけよというインストラクションとともに壁に設置された出刃包丁は、来場者の安全に配慮してという美術館側のコメントとともにアクリルの箱に密封され、室内を仕切る金網のフェンスの傍らにはそれを乗り越えるにように唆すインストラクションとやはり「安全のために」乗り越えることを禁止する美術館による警告がともに傍らに掲出されている。いずれもダブルバインド的な状況が生み出されているのであるが、私はこの状況は作家と美術館のなれ合いのようにしか感じられなかった。そもそもこれらのインストラクションは既視感が強く、ヨーコ・オノ、マリーナ・アブラモヴィッチ、エイドリアン・パイパーらの作品が直ちに連想される(ここで名前を挙げた作家がすべて女性である点は暗示的である)。作家は自らが示したインストラクションが美術館側に拒否された時点ですべての作品を撤去すべきではなかったか。インストラクションの必然性というか真剣味が感じられないのだ。このタイプの作品にとって作家の態度は死活的に重要なはずだ。一方で美術館側も「安全」という誰もが批判できない理由によって作家の提案を一方的に拒絶しつつ、わざとらしい警告を掲示して作家の意図を不十分ながら反映させたというポーズをとっている。美術館の側に作家の提案を真剣に検討した形跡はなく、アリバイの捏造に汲々としているが、作家の側もかかる中途半端な展示で満足している。いずれにもプロフェッショナリズムが欠落している。横田徹の作品は私たちが中立的とみなしている映像の恣意性を露呈させて興味深かった、すなわちパレスチナやアフガン戦争、リビア内戦といった、今日生々しい暴力が露呈する地域の映像を映示しながら、横田はそこにいくつかの検閲のレヴェルを設ける。すなわち中学生向けと高校生向けという二つのブースを設えて、教師たちのアドバイスに従って中学生でもアクセスできる映像と高校生であればアクセスしてよい映像を対比する。結果として、中学生向けのブースではそれらの地域で人々が日常的に触れる多くの情景、すなわち、武器の使用、爆発、戦闘や負傷者のイメージは検閲されて映示されない。高校生のブースではこの基準は緩和されている。いうまでもなくここにおけるスクリーニングはきわめて恣意的である。そして私たちは同様の映像のスクリーニングが現実においても遂行されているであろうことに気づく。映画におけるR18指定はわかりやすい例であるが、私たちが通常の報道において目にする事実も検閲を介して私たちに届けられる。この点においても先に言及した2014年の横浜トリエンナーレの主題はこの展覧会と密接に関連している。そして美術館における展示もまたこのようなスクリーニング、検閲の結果、許された範囲における展示でしかないことを先に触れた小泉や橋本の作品はまさに身をもって明らかにしている。中学生に死体を見せてはならない。それでは死者を撮影することは許されるかという問いは冒頭(実は展示の最後の)古屋の作品へと回帰する。
 すべての作品に触れることができなかったが、ひとまず私たちはこの展覧会に出品されている主な作品について論じた。しかし展示はこれで終わりではない。この展覧会が現実に「規制」した作品を確認するため、私たちは美術館から歩いて10分ほどの距離にある無人島プロダクションのギャラリーで開催されている「空気展」に向かおう。この展示が実現にいたった経緯はわからないが、会期は4月29日から5月15日までであるから「キセイノセイキ」と重なる日数はさほど多くない。私にとって二つの展示を訪れ、美術館が排除した作品を実見することができたのは幸運であった。思わせぶりな書き方は嫌いだから《空気》とはいかなる作品か端的に説明しよう。それは天皇の不在による天皇の表象だ。園遊会や被災地の訪問、明らかに天皇が臨在する場を再現しながらも天皇の姿のみがかき消された一連の集団ポートレートはきわめて興味深い問題を提起する。常に中心に存在しながら不可視化された存在は現実における天皇を暗示しているかのようだ。修辞に黙説法(レティサンス)という技法がある。あえて語らないことによって語られない対象を意識させ、強調する手法であり、ここでは当然画面の中心にいるはずの天皇が存在しないことによってかえって際立つというかなり高度な表現である。もし美術館による検閲がなかった場合、この作品は先に触れた《オーラルヒストリー》という映像作品の傍らに並べられていたはずだ。そして二つの作品の対比はこれらの作品の意味を理解するうえで重要であろう。《空気》が対象の不在によって特徴づけられるのに対して、20世紀前半のアジアについての具体的な言及を促す《オーラルヒストリー》は匿名の証言者の存在を前提としている。視覚的不在の前者と聴覚的存在の後者を対比してもよかろう。いうまでもなく20世紀前半のアジアにおいて昭和天皇裕仁は暴力の起源であった。現天皇明仁による園遊会における慰労、避難所における慰撫との対照は明らかであり、《オーラルヒストリー》の中でしばしば繰り返される国家主義的で攻撃的な言葉(このため同じ作品が韓国で発表された際には「検閲」があったと聞く)と不在の対象を取り囲む、時に和やかな、時に感謝に満ちた家族主義的な情景もまた対照的だ。二つの作品の間にかかる対立はいくつも組織することができようし、隠喩と換喩といった記号論的な観点からの分析も可能であろう。しかしいうまでもなくそれは私がたまたま二つの作品を異なった会場で見ることができる時期に美術館を訪ねたからであり、この作品を追放した「キセイノセイキ」の会場ではかかる思考が触発されることはない。美術館自らが作品の意味を破壊しているのだ。「空気展」の会場には作品の検閲をめぐる経緯についての小泉自身のコメントがテクストとして置かれていた。まさか現代美術館のスタッフを慮ってではなかろうが、会場閲覧用しか準備されておらず、持ち帰り可能なハンドアウトが配布されていなかった点は不審に思われた。私の見落としかもしれないが、今のところインターネット上でも作家のコメントを読むことはできないようだ。それを読めば、かかる検閲は行政的あるいは官僚的な判断ではなく、学芸課長によってなされ、おそらくは担当学芸員が作家と美術館の板挟みとなって苦労したことが理解できるからだ。そもそも無人島プロダクションに展示されていた作品は、美術館が検閲しなければならないほどの過激な政治性を有しているだろうか。この展覧会に出品するにあたって小泉が周到な戦略を立てたことは明らかであり、それゆえ視覚的黙説法と複数の語りという対比が意図的に採用されたのである。天皇は表象されず、暴力は視覚化されていない。私は学芸員たちが理論武装すれば、たとえ外部からの攻撃があったとしても展示室で《空気》の展示を続行することができたと考えるし、それだけの深みを備えた作品であるように感じた。それは美術館の義務であり、同様の事例に際して学芸員が職を辞したことは欧米ではいくらでもあったと記憶している。美術館の撤去要請に対して、作家が拒絶するというケース、例えば昨年の会田家のような事案であればまだ理解できる。今回のように美術館の側がなにものかの意志を忖度し(一体何を恐れたのだろう)、作品の展示を「自粛」するという事例はスキャンダル以外のなにものでもなく、戦争に向かうこの国にふさわしいエピソードである。私が訪ねた時、同じ美術館ではピクサーというアニメーション・スタジオの展覧会が同時に開催され、入場待ち2時間以上というとんでもない行列ができていた。大量動員をもくろんで外部から持ち込まれた企画が隆盛する一方で、学芸員が真摯に企画した展示からは要となる作品が学芸責任者の手によって撤去される。まことに今日の美術館の退廃を象徴する風景といえよう。

追記 28/5/16
ブログの中で私は橋本聡の作品にどちらかといえば批判的に言及したが、今回の展示をめぐっては展示されている作品とは別に以下のような葛藤があったことを知った。私が微温的とコメントした今回の橋本の作品は以下のような経緯を含めてその意味を問われるべきであると考えるので、あらためて追記しておきたい。
http://xxxmot.artists-guild.net/aida/

by gravity97 | 2016-05-22 16:32 | 展覧会 | Comments(0)

「エッケ・ホモ 現代の人間像を見よ」

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 何度か関西に出張する機会があったので、私は先日閉幕したこの展覧会を二度見た。刺激的な展示ではあったが、一度見ただけではよくわからない印象を受けたことが一つの理由である。二度通覧することによって、ある程度私なりに理解することができたようにも感じるのでひとまずレヴューとして記録に留めたい。
 テマティックな展覧会はいかなる作品を選択し、いかに配置するかという問題と関わっている。The Human Images of Contemporary Art という総花的なサブタイトルをもつこの展覧会にとってもこれら二つの問題はその根幹に関わる。特別展とはいえ、作品リストを参照する限り、国立国際美術館の所蔵作品が大半を占めているから、まず作品の選択という点においてある程度の制限があったことが想像される。もっとも所蔵品を中心としてテマティックな展覧会を構成することは、展覧会予算の逼迫への対応として最近しばしばなされていることである。国立館であれば借用した作品を中心に展示を構成するくらいの余裕はあるだろうと嫌味の一つも言いたくなるが、特に驚くことでもない。おそらくこの展覧会の困難の最大の理由は人体表現という、あまりにも美術と密着したテーマを中心に据えたことに求められるだろう。もちろん「現代の人間像」であるから、古典主義や理想主義が描いた「人間像」が展開されるはずはなく、ひたすらおぞましい人間像が提示される訳であるが、人間という汎用性の高いテーマが取り上げられたため、選び方も分類、つまりその配置も恣意的に感じられるのだ。カタログで確認するならば、この展覧会は三部構成をとり、それぞれ「日常の悲惨」「肉体のリアル」「不在の肖像」というタイトルを付されている。第二次大戦直後に制作された作品を中心に戦争という惨禍が人間の身体を物質化/物体化する状況を描いた「日常の悲惨」のセクション、作品を通して直接間接に血液や傷、内臓などを露呈させて文字通り「肉体のリアル」を造形するセクション、肉体を不在において表象する「不在の肖像」のセクション。企画者の問題意識はわからないではないが、例えば工藤哲巳の作品が「肉体のリアル」で塩田千春の傍らに、ウォーホルの作品が「不在の肖像」でトーマス・ルフの横に展示されていたとしてもおそらく異和感はない。人間像あるいは身体というテーマが漠然としているためである。もちろん私はここで、テーマに異を唱えている訳でもないし、作品の選択と配置の妥当性をいちいち点検するつもりもない。ひとまず括られたテーマに沿って多様な作品を楽しむのが、テマティックな展覧会の大人の楽しみ方なのだ。ただし今挙げた三つのテーマについてもう少し詳しい説明があってもよかった気がする。カタログには二つのテクストが収められているが、一つは小谷元彦とジャコメッティの作品を比較する各論的な内容であり、もう一つの「予兆と反転―現代の人間像は、見えない」と題された、タイトルからもおそらくは総論にあたるテクストにおいては「ゼロ地点へ―人間像を解体する」、「ゼロ地点から―人間像を再構築する」「不可視の人間像」という三つの章が設けられている。それぞれ展覧会の三つのセクションに対応していると思われるが、比較的短いテクストであることもあり、テクストと章立ての対応を理解することは難しい。このような緩さを勘案するならば、これから述べるようにこの展覧会を私なりの問題意識に即して読み取ることも許されるだろう。今回のレヴューにおいては展覧会そのものに対する批評というより、そこに並べられた作品に触発されて、「現代の人間像」について私がめぐらした思考を書き留めておきたい。
 サブタイトルに「人間像」とある。実はこのサブタイトルによってこの展覧会から一群の作品が排除されたことが暗示されている。私はテマティックな展覧会においてはいかなる作品を選択したかという点以上に、いかなる作品を選択しなかったかという点が重要であると感じるのであるが、「現代の人間」ではなく「現代の人間像」と記すことによって、企画者は本展の主題とされる作品が、「人間」を表象したなんらかの「像」であることを暗黙裡のうちに示している。つまり「人間」は一度、「像」へと変換されなければならない。この点は私が本展を見ておおいに疑問に感じた問題への回答でもある。つまり本展には抽象的な作品がほとんど出品されていない。私は「現代の人間」が抽象表現によって表現できないという見方には同意できないが、「人間像」であるならば仕方ないかもしれない。人間は一度、像へと転換されねばならないのであるから。解体や再構築、あるいは不可視といったこの展覧会のキーワードも、人間ではなく人間像に焦点をあてることによって可能となる主題と連なる。この点は「人間」を「身体」という概念に置き換えてみる時、明瞭に理解される。「身体の表現」という主題系列は二つに分けることができるだろう。一つは文字通り、「身体についての表現」であり、鶴岡政男でもフランシス・ベーコンでもよい、この系列は今回の展覧会への出品作とつながる。肥大した指や爪、ねじれた肉塊、それらは異様な変形を被ってはいるが、身体を描いた「像」であることは歴然としている。客体としての身体といってもよかろう。しかしこれに対してもう一つ、「身体による表現」という主題系がありえるはずだ。それは例えばアクションの痕跡としての絵画であり、行為が押印された物質としての彫刻として実現される。そこでは身体は表出されるのではなく表現の契機とされている。つまり主体としての身体である。私は作品を分析するうえで、記号論に基づいたディコトミー(二分法)の観点を導入することはきわめて有効と考えるが、本展では身体ではなく人間という、より抽象的、哲学的な観点が導入され、加えて人間ではなく人間像という、あくまでも表象された内容、シニフィアンではなくシニフィエを強調することによって検証すべきテーマがよくいえば限定され、悪く言えばあいまいにされているように感じた。
 さて、私は本展を見て別のディコトミーに思い当たった。ただしこの場合も人間よりも身体という言葉を使う方がふさわしいだろう。というのも、この展覧会のテーマについての異和感のかなりの部分は、ことさらに「人間像」という言葉が用いられていることに起因しているからだ。フーコーの「言葉と物」を引くまでもなく、とりわけ構造主義を経過した私たちは人間とか作者といった言葉をそのまま使用することに躊躇を感じる。この点に関して、何の留保もなく人間あるいは人間像という言葉を用いる今回の企画はあまりにもナイーヴというか無防備に感じられてしまうのだ。身体という言葉であればかかるコノテーションとは無関係だ。そして私が提案するディコトミーとは、交換不可能な身体と交換可能な身体という区別だ。この区別はこの展覧会の章立てと無関係ではない。フォートリエの《人質の頭部》は画家自身が目撃したという、壁際に並べられて銃殺されたレジスタンスの身体と交換不可能なイメージとして描かれているはずだ。この作品をはじめ、最初のセクションに並んだ作品の多くは戦争や基地闘争をはじめとする多くの暴力を暗示している。暴力が身体にとって脅威と感じられるのは、交換不可能な私たちの身体に対して不可逆的な苦痛を強いるからである。「肉体のリアル」のセクションで私たちが出会う多くの傷跡や血痕、内臓や骨格もかかる苦痛の苛酷な表象であることはいうまでもない。私はこの展覧会を見て一つのフィルムを強く連想した。それはこのブログでもかつて論じたリドリー・スコットの「ブレードランナー」であり、冒頭部において、被験者が人であってレウリカントではないと証明するために実施される blush response なる試験は残酷な状況に対して、被験者が共感することが可能であるかどうかを基準としていた。出品作の中でも最もグロテスクなオルランの作品は、自らが受けた美容整形手術の模様を写真として提示するものであるが、私たちがそれらの情景から思わず目をそむけるのは、それらが一人の人間の交換不可能な身体に対して加えられた侵襲であることを知り、痛みとともに共感するからである。木下晋が描くフリークス、ローリー・トビー・エディソンが撮影する肥満した女性、村岡三郎の作品に添付された死亡証明書、これらもまた私たちの身体的特徴、そして死が自身のみに占有され他者によっては共有不可能であることを暗示している。これに対してこの展覧会ではもう一つの身体の在り方が示されていた。それは交換可能な身体である。小谷元彦の《Terminal Impact》は義足を装着した女性と義足を用いた奇妙な器具の一連の動作を記録した映像作品であるが、私たちはこの映像から手足や毛髪といった本来なら個人に帰属する身体器官が交換可能であることを知る。義眼や毛髪、ウィグ、あるいはペニス状のオブジェなど何人かの作家が使用するイメージやオブジェも同様の暗示を内在させている。あるいは北野謙という作家の作品を私は今回初めて目にしたが、それは天安門広場の警備兵やデモの群衆といったそれ自体が交換可能な任意の人物を数十名、写真の上で重ね合わせて得られた匿名的な肖像である。そこでは個々の人物、身体は識別できず、複数の人間が同時に存在しいている。記号論的な観点に立つならば、身体という問題に関して小谷と北野の作品がそれぞれメトニミー、メタファーという別々の関係性に立脚している点も興味深い。交換不可能な身体、あるいは身体の複数性というモティーフを内在させた作品はこの展覧会でも少数であったが、それはこれらの主題が比較的新しいためであろうか。かかるモティーフはむしろ近年の映画において顕著であり、「マトリックス」から「バイオハザード」にいたるSF映画の系譜をたどる時、交換され複数化された身体という主題の変奏をいくらでも指摘することが可能だ。今回の展覧会で私にとって最も印象的な作品は今挙げた小谷や北野らの作品であったが、それは単に初めて見たという理由にとどまらず、身体という美術、とりわけ彫刻表現にとって密接に関わる主題に新しい解釈を与えている点によるだろう。そしてそれはおそらく今日における人間観の変貌とも関わっている。これらの作品は医療技術の発達によって身体器官が代替され、IT技術の進展によって一人の人間の内部に複数の人格が共存しうる時代において、人間はもはや交換不可能な存在ではなくなったことを示唆しているのではなかろうか。
 この展覧会に並べられた生々しい作品群に対して、同じ時期に開かれていた竹岡雄二の個展は対照的であり、やはり興味深い内容であった。ミニマリズムとレディメイドという現代彫刻の二つの流れを独自に咀嚼した竹岡の個展は今後埼玉に巡回する予定と聞く。これについては機会があればあらためて論じてみたい。

by gravity97 | 2016-03-26 20:54 | 展覧会 | Comments(0)

「クロニクル、クロニクル!」

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 終了直前に興味深い展示に駆け込んだ。大阪南港、名村造船旧大阪工場跡を会場とした「クロニクル、クロニクル!」である。ツイッター等で情報を得ていたので関心を抱いていたのだが、一体どのような展覧会かよくわからなかった。まず会期である。今年の1月25日から来年の2月19日まで、なんと一年以上もある。フライヤーをもう少し詳しく確認するならば、展覧会としては今年の1月25日から2月21日まで、そして2017年の1月23日から2月19日までとある。つまり展覧会は二回にわたって繰り返されるが、二つの展覧会の間の期間も会期に含められている訳である。さらに厳密に言えば、今回の展覧会の会期は2月19日に終了する。21日までとあるのは、作品の搬出も含めて展覧会に含められていることを暗示している。フライヤーには「もしかしたら一度起こったことで、それで完結するものなんて何もないんだ」という言葉が引かれている。このブログでもレヴューしたフォークナーの『アブサロム、アブサロム』からの引用らしい。このあたりの批評的な意識にも関心を抱いた。さらに驚いたのは同じフライヤーに唯一掲載されている図版が吉原治良の《大阪朝日会館緞帳のための原画》であったことだ。現在、兵庫県立美術館に収蔵されているこの作品は私も見た覚えがあるが、タイトルのとおり、今は取り壊された大阪の朝日会館の舞台の緞帳として描かれたものだ。手元のカタログで確認したところ、原画ということもあるだろうが、92年の芦屋での回顧展には出品されているが、05年から06年に東京国立近代美術館等を巡回した回顧展には出品されていない。企画者は一体どこでこのマニアックな作品の存在を知ったのであろうか。出品作家のセレクションも謎めいている。吉原や斎藤義重、三島喜美代といったヴェテランが入っているかと思えば、リュミエール兄弟という映画の草創に関与したフランス人、そして初めて名前を聞く若手まで、一体この展覧会はいかなる文脈の中に構想されているのか、私は大いに関心をもって展覧会に足を運んだ。会場で企画者と比較的長い時間対話することができたので、いくつかの疑問は解消された。まだ不明の点もいくつかあるが、予想していたとおり、きわめて示唆に富む展示であり、ひとまずレヴューとして記録に留めておきたい。
 
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この展覧会はなんといっても会場が圧巻だ。四階建ての旧造船工場を私は初めて訪れた。元々は隣接するドックで建造される船の部品や設計図などを制作する場であったらしく、広大で独特の建築である。特に低い天井に無数の蛍光灯が設置された「現図工場」と題された四階部分はそれ自体がインスタレーションの空間であるかのようだ。現図とは原寸大の船体の設計図面のことで、操業当時、かがんだ姿勢でたくさんのドラフトマンが設計に勤しんでいる様子の写真が展示されていた。現在、造船所は佐賀県に移り、この建物は使用されていないが、その内部は圧倒的な存在感があり、ここに作品を並べることは作家にとっても相当にチャレンジングなはずだ。
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少し先を急ぎ過ぎた。今述べた吉原治良の緞帳のための壁画の原画複製が掲げられた入り口を曲がるとリュミエール兄弟が1895年に撮影した〈工場の出口〉という名高いフィルムがDVDによって上映されている。文字通り造船工場の出口で工場の出口の風景が上映されるという同語反復的、自己言及的な展示が実現されている訳だ。その脇を抜けて二階に上がると、受付の横には斎藤義重の《複合体》のマケットというか模型と図面が配置され、斎藤へのインタビューが上映されている。知られているとおり、《複合体》はいくつかのパーツで構成された幾何学的な立体であるが、設置に際して斎藤が立ち会っていることから理解できるとおり、それらを実際に組み合わせる場合は配置や設置に若干のヴァリエーションが介在する余地がある。マケットと図面はおそらくはそれらに関する指示であり、言い換えるならば作品がいかに再現されるかという同一性の問題が関与する。このような作業と先に触れた「現図」の作成、すなわち原寸大の船の設計図面の間にパラレルな関係を読み取るのは深読みに過ぎるだろうか。その傍らには三島喜美代のコラージュを用いた60年代中盤の絵画が展示され、さらに荻原一青という城郭研究家による日本各地の名城を描いた多数のデッサンが展示されている。
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その奥に広がる空間で目を引くのは何体かのマネキンと清水九兵衛の二つの立体、そして牧田愛の変形パネルの絵画である。一番奥には小部屋が二つあり、向かって左側には川村元紀の《Storeroom》というインスタレーション。タイトルのとおり乱雑な倉庫の内部のような空間が提示されている。向かって右側の笹岡敬のインスタレーションは暗い室内の中央にHIDランプが吊された状態で回転し、室内に配置された鏡やミラーボールがそれを乱反射するという作品。カウンターの横から三階に上がると広い空間に作品が散在している。コンセプチュアルな映像とパフォーマンスの残骸らしきオブジェの連なり、建築の部分をモンタージュした写真、水道の蛇口にとりつけられたビニールホースが室内を一巡し、最後は窓から垂れ下がって水を排出する作品。ここでも展示された作品に共通性や方向性を認めることは困難だ。そして最後に四階に上がると、先にも触れた無数の蛍光灯が照らし出す室内はがらんどうで両端にメッセージと写真による作品が貼り付けられている。もっとも、繰り返しとなるがこの空間はそれ自体が作品のような印象を与える。
場所の選定、作家の選定、作品の設置、いずれも謎めいた展覧会は少なくともこの時点ではカタログに類した記録が作られていないこともあり、会場を訪れただけではその内実を知ることが難しい。企画者から聞いた話を私が理解した範囲で記すならば、この展覧会はこの施設を美術と関連させて活用するプログラムとして、プロポーザルの中から選ばれた試みらしい。私のおぼろげな記憶によればおそらく10年くらい前にもこの造船所を舞台に美術系の展示を長期にわたって継続する計画が進められていると聞いたことがある。カタログはないが、会場には企画者からの長文のメッセージのハンドアウトが準備されており、展示の構想の一端をうかがうことができる。少し長くなるが引用する。

「クロニクル、クロニクル!」は1年間続くある出来事たちにつけられた名前です。核となる会場は、1911年に操業を開始した名村造船所。現在は近代化産業遺産にも登録されアートスペースとして生まれ直しているそこは、言わばつくることと生きることがひとつであるような場所です。
つくることといきることを、端的に「しごと」と名指すことができるかもしれない。日々の繰り返しの中で研磨される「しごと」と類するような展覧会をしようと思いました。同じ展覧会を2度繰り返そうと思いました。「繰り返すこと」「繰り返されること」について考える展覧会をしようと思いました。

 このようなコンセプトに基づいていくつかのルールが設定されている。要約するならば、一年間の会期の初めと終わりに日時を区切った展覧会を二度開催し、「繰り返すこと」「繰り返されること」について一年間考え続けるというものだ。展覧会がまだ「繰り返されて」いない状況でかかるコンセプトについて分析することは少々難しいが、これらのテクストを読んで私が直ちに連想したのはロバート・モリスの1969年の個展「日々変わり続ける連続するプロジェクト」である。後にモリスの論文集のタイトルともなったこの個展において、モリスは自身によるインスタレーションに日々手を加えて、少しずつその様相を変えていった。繰り返しが主題とされた本展と、時間的変化が主題とされたモリスの個展とは微妙に問題意識を違えるが、作品の設置や撤収も展覧会の一部と見なす発想、そして特に三階の会場に顕著な、様々の素材が放置された印象はモリスの展示と共通している。さらにいえば私は今回の展示からこのブログでも触れた同じ年、ハロルド・ゼーマンが企画した「態度がかたちになる時」、あるいはホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン」を想起した。いずれの展示も素材や作品が展示というより放置された印象が強く、何が作品か判別しがたい状況が提示されているのだ。例えば谷中佑輔の一連の作品はおそらくその場で実施されたパフォーマンスの残骸であろうことが想像され、作品というよりも何かの痕跡である。内部を水が流れるビニールホースは作品なのか設備の一部なのか判然としない一方で先に触れた「現図工場」はダン・フレイヴィンのインスタレーションと言われれば信じてしまいそうだ。素材とも作品ともつかぬオブジェの傍らには明らかに絵画と認められる作品も展示されており、かかる混沌もまた60年代末の過激な展覧会を彷彿とさせる。先に述べたとおり、会場となった元造船所は場としての圧倒的であり、通常の絵画や彫刻では存在感を示せないために即物性、行為性の強い作品が選ばれたのであろう。
 フライヤーの裏面に四つのキーワードが示されている。すなわち「ジェーン台風」「緞帳」「マネキン」「IMAX」である。フライヤーとハンドアウトの限られた情報量ではこれらのキーワードの意味するところは必ずしも判然としないのだが、まずジェーン台風とは1950年、名村造船所があった大阪臨港地区に大きな被害を与えた台風の名前であり、この台風のために大阪に公立の美術学校を開設しようとする計画が頓挫してしまったという。さらに出品者の一人荻原一青は描き貯めていた城郭の復元図を一度目は空襲で、二度目はこの台風によってすべて失い、展示された作品は三度目に制作されたものである。まさに「繰り返すこと」が続けられた訳だ。さらに思考をめぐらすならば、今回の出品作家の一人である斉藤義重もまた1930年代に制作し失われた作品を30年以上後になって再制作している。かかる問題は今日の美術館や展覧会で多用される再制作という問題を「繰り返し」という視点から検証する契機となるかもしれない。近年、かつての展示を再現する展覧会が流行していることはこのブログでも何度か論じたが、これに対して本展でどのような観点から展覧会の「繰り返し」がなされるかは興味深い問題である。さらにいえば「ジェーン台風」という天災と美術の関係を問うことは、端的に震災後の美術のあり方を問うことでもあるだろう。二番目のキーワード「緞帳」とはいうまでもなく今回複製が展示された吉原治良の緞帳原画に由来する。緞帳とは舞台と観客を遮り、「見るもの」と「見られるもの」を隔てる両義的な存在である。緞帳の意味は存在論的にも深めることができようが、企画者は吉原と緞帳との関係から、吉原が関わった西宮球場の「たそがれコンサート」、そして光という問題へと議論を広げていく。この時、本展にリュミエール兄弟が召喚された理由も明らかであろう。そしてもう一つのキーワード「IMAX」の意味も明らかだ。いうまでもなくIMAXとは特殊な映画映写システムであり、かつて会場からほど近いサントリーミュージアムにもこの方式を用いた劇場が存在した。最後のキーワード「マネキン」の意味も大森達郎、清水凱子、ジャン=ピエール・ダルナという三人の手によるマネキン作品を見るならば明らかとなる。企画者によれば、日本においてはしばしば美術家、特に彫刻家はマネキン製作に関わり、先の引用にあった「つくることと生きること」の狭間にあったといえるかもしれない。これらの作品から村上隆の初期作品を連想することは、この意味においてもある程度の妥当性があるだろう。
 展覧会は通常一過的な営みとみなされてきた。これに対して一年間という異例の長い会期を設け、しかも最初と最後に展覧会を繰り返すという試みはいくつかの批評的な視点を提起する。例えば通常の展覧会においてはいつ来場しても、同じ作品の同じ様相を見ることとなる。しかし多くのパフォーマンスやワークショップを伴うこの展覧会はその残滓としての「作品」を積極的に取り入れることによって、常に姿を変える。先にも述べたようにこのような試みはすでにロバート・モリスに先例がある。しかし今日においてはSNSという技術を用いることによって、かかる変化の状況をリアルタイムに報告することができるし、そもそも一年という長期にわたる展覧会はSNSによる情報発信を介してその都度必要な情報を関係者に提供しながら、「1年間続くある出来事たち」を組織することが可能となったことによって実現したといえよう。通常の展覧会が時間的にどの断面を切り取っても同じ相貌を示しているのに対して、この展覧会においては出来事が蓄積していくとはいえないだろうか。この点においてもSNSは重要な役割を果たす。通常であればすでに終えられたイヴェントはかたちを残さないのに対して、ウェブ上では情報を蓄積することが可能であるからだ。再びロバート・モリスを引こう。モリスはポロックのポード絵画の特質を最終的な画面からそれが描かれた経過を読み取ることができる点に求めた。作品が制作の経過を内包しているというのだ。時間が空間化されていると言ってもよいかもしれない。この展覧会は少なくとも理念の上では同様の意図をもっているかもしれない。すなわち一年間にわたって展覧会をめぐる様々な経験が蓄積されていく試みであり、それは現実においては旧名村造船大阪工場という場において、仮想空間としてはウェブのSNSにおいて日々更新されているのだ。展示は来年も同じ場所で繰り返されるという。おそらく私は来年、もう一度北加賀屋を訪れることになるだろう。

by gravity97 | 2016-02-27 19:46 | 展覧会 | Comments(0)

「九州派」展

b0138838_21292596.jpg 福岡市美術館で開催中の「九州派展」に滑り込みで駆けつける。常設展示の枠内での展示であるから、大盛況の「モネ」展のかたわら、ほとんど広報もされていないが、このグループがこれほどの規模で紹介されるのは伝説的な1988年の「九州派展」以来、四半世紀ぶりであり、この美術館が秋から改修に伴う休館に入るといった事情を勘案するに今後しばらくは見ることの困難な作品群である。私は88年の「九州派展」を実見していないから、今回初めてこの集団の全貌に触れた。
 九州派の起点と終点をどこに置くかはなかなか難しい問題であるから、ここでは深入りしない。しかし九州派という集団が戦後美術の文脈に組み込まれたのは比較的最近であり、そもそも組み込まれたか否かについても議論の余地があるだろう。私自身が九州派という集団の存在を初めて意識したのは先日物故したヨシダヨシエの『解体劇の幕降りて』中の「九州派の英雄たち」という章においてであり、奥付等を確認するならば造形社版は1982年の刊行。その原型である「戦後前衛所縁荒事十八番」は1960年代後半の『美術手帖』に連載されたはずだ。このあたりの書誌的事実の確認はひとまず措くとして、戦後美術の通史として知られる針生一郎の『戦後美術盛衰史』と千葉成夫の『現代美術逸脱史』においてもいずれも短く言及されるのみである。(ただし針生は実際に「九州派」と深く関わるとともに60年代に簇生した地方の前衛集団のうち、九州派の特異性をいちはやく見抜き、後述する88年のシンポジウムにはパネラーとして参加している)、これに対して椹木野依は『日本・現代・美術』の中でかなりの紙数を費やしてこの集団に触れ、アドルノと関連づけて次のように論じているのは慧眼と呼ぶべきであろう。いきなり結論めくが参照すべき視点であるからまず引用する。

 九州派は、そのあからさまな暴力衝動において、近代美術とも現代美術とも決定的に袂を分かち、それゆえに作品も記録もほとんど残されず、いま、歴史の空白でひたすら眠りこけている。しかしそれが「野蛮」と最も遠くあるための、数少ない選択肢のひとつでなかったと、誰がいえるだろうか?彼らは、「アンフォルメル以後」に生きる野蛮に耐えかねて、「アンフォルメル以前」に暴力的に瓦解することを、ほとんど本能的に選び取っていたのではないだろうか。

b0138838_2131968.jpg   九州派が注目される契機となったのは同じ美術館で1988年に開催された「九州派―反芸術プロジェクト」であった点は既に述べた。当時、私も福岡でとんでもない展覧会が開かれているという噂を耳にしたのであるが、展覧会を訪ねることがかなわず、カタログを取り寄せて、確かにとんでもない作品が出品されていることに驚愕したことを覚えている。この展覧会はなかば神話化されていたこの集団が決して「作品も記録も残さなかった」訳ではなく、多くのきわめて特異な作品を残していることを明らかにした。
 今回の展示はクロノロジカルに構成され、九州派前史と呼ぶべき時代から60年代までの作品が展示されている。先にも述べたとおり、九州派の活動期間、特にそれがいつ終わったかについては議論が分かれるところであり、88年のカタログテクストで黒田雷児は「九州派は遅くとも1968年には完全に死んでいた」と記し、今回の展覧会を契機に刊行された「九州派大全」に寄せたテクストで山口洋三は「九州派の真に九州派らしい特性は1959年までの前期にある」と述べている。活動の初発のエネルギーが次第に減衰していく様子は九州派がしばしば比較される具体美術協会と似ている。しかし具体美術協会がやはり80年代中盤の再評価以来、国内外で何度も大きな展覧会として取り上げられたのに対して、九州派を取り上げた展覧会は福岡市美術館以外で開催されることがなく、今回の年表を参照しても九州派に属する作家が集団展で取り上げられる場合、テマティックな展覧会に何名かの作家が取り上げられ場合を除いて、集団として回顧される例はほとんどない。これには二つの理由が挙げられるだろう。一つは残された作品数が少ないことである。88年の展覧会は「九州派の残存作品が極めて少なく、展覧会を成立させるに足る作品数の確保が不可能」という通説に抗して、企画者が綿密な調査を続け、約90点の作品を発見したことによって成立した訳であるが、その際のカタログと今回の展示を比べても作品数はさほど変わらない。再評価が進むにつれて外国からの買い戻しや作品の再発見などで作品数が増え、新たな視点からの検証も可能となった具体美術協会と比べて、九州派の作品は多くが失われて再検証が困難なまま今日にいたっている。88年のカタログでは九州派の活動が絵画期、オブジェ期、解体期に分けて総括されているが、オブジェは破棄されパフォーマンスやインスタレーションは残らないという理由によるのであろうか、今日に伝えられる作品は初期に制作された絵画が多い。しかしこの点は必ずしも消極的な意味ばかりをもつ訳ではない。黒田は展覧会にあたって再制作という手法を用いなかったことと関連させて、88年に次のように記している。「ひとつは『制作時の熱気は再現不可能だ』という常識に従ったものであり、もうひとつは『作家は作品を残すのが当然だ』というもうひとつの常識を、同時代の『ネオ・ダダ』らと同様に九州派が顧慮しなかったことを重視したからである。『作品がない』という現実自体も、いわばネガティヴな意味での九州派の痕跡なのである」この主張がネオ・ダダをめぐる膨大な行為のエフェメラを記録した1993年の「ネオ・ダダの写真」展、そしてこのブログでもレヴューした大著『肉体のアナーキズム』へと結実したことは今や明らかである。もう一つの理由はさらに重要だ。先に椹木のコメントを紹介したが、そこでは九州派が近代美術とも現代美術とも決定的に袂を分かった営みとみなされていた。おそらく九州派を理解することの困難の一因はモダニズムとの関係を一切欠いていることに由来する。この点では具体美術協会との比較が有効だ。確かに具体美術協会の活動も一見するならばモダニズム絵画の理路、例えば形式の純粋化や視覚性の強化からは大きく逸脱する。それゆえ白髪一雄の絵画はクラウス=ボアの「アンフォルム」概念の例証として用いられもした。しかしそれは彼らの作品が屈折したかたちでモダニズムとの紐帯を維持していたことを示唆しているのではないだろうか。このグループのリーダー吉原治良は阪神間モダニズムを主導した画家であり、具体美術協会を結成時の問題意識は欧米の抽象絵画、その極北としてモンドリアンをいかに克服するかという点であった。つまり結果的にモダニズムの原理を逸脱することになったとしても、この集団には歴史的前衛という明確な意識が存在した。しかしこのような歴史意識を九州派に求めることは難しい。もちろん具体美術協会は活動時から欧米の批評家や作家と交渉があり、80年代以降はアクションやアンフォルムといったモダニズムとは別の経路を介して、海外の美術界が一定の関心を寄せていた。しかし九州派は後年サンフランシスコで作品を発表するといった機会があったにせよ、欧米の批評の規矩とは無関係に、椹木の言葉を借りれば近代美術とも現代美術とも決別したまま活動を展開したのではないだろうか。
 もちろん残された作品は興味深い。会場をめぐりながら、様々な思いが浮かんだ。例えば多くの作家が素材としてアスファルトを使用した理由だ。当時、九州各地の道路の建設においてアスファルトがしばしば使用されたという背景があったらしく、安価で手に入る素材であるため好んで用いられたとのことであるが、私たちは黒いアスファルトに炭鉱のイメージ、そして労働運動や政治的な主張さえうかがってしまう。しかし意外にも作品からはそのようなメッセージはほとんど感じられない。あるいは絵画の物質的相貌からは時代的に少し先行する何人かの作家が連想される。それはフォートリエやデュビュッフェといったアンフォルメルの先駆とも呼ぶべき作家たちであり、作品がほとんど残されていないオチ・オサムの絵画は北欧のコブラ・グループとの類比を許すが、おそらく彼らの間に影響関係は存在しないはずだ。九州派におけるアスファルトの使用、物質的絵画の成立は同時代の絵画とどのような関係を結んでいたのだろうか。一方で彼らは頻繁に東京で展覧会を開いている。九州という地方に根ざすことを強調しつつも、彼らは東京に積極的に進出し、例えば読売アンデパンダン展などに展開される先鋭な表現を摂取しようとした形跡が認められる。彼らにおいて中央と地方の関係はいかに認識されていたのであろうか。あるいは何人かの作家に認められる儀式性やグロテスク・リアリズムへの接近をどのようにとらえるか。マネキンや人工の毛髪といったフェティッシュな素材への嗜好。再制作され、今回初めて見た田部光子の《人工胎盤》という作品はフェミニズムの観点からも興味深いが、そもそもマッチョズモという点でおそらく右に出る者のいないこの集団において女性作家はいかなる位置を与えられていたのか。
 このような問いのリストはいくらでも増やすことが可能だ。そしてこれらの問いに答えるうえでは残された作品があまりにも少ないことをあらためて感じる。彼らが作品を残すことを必ずしも必要と感じていなかった点についてはいくつかの証言が残されているが、かかる集団を美術館という場で展覧会の形式で扱う手法についても今回の展覧会、そして88年の最初の「九州派」展は重要な示唆を与えてくれる。88年の展覧会ではカタログに作品図版のみならず活動を記録した写真が多く残されている。同時に当時は存命であった作家たちにアンケート形式で質問し、作家たちの証言を引き出している。この際には「作家は作品を残す」という常識への抵抗として彼らの活動をとらえ、むしろ「作品として残存しない営み」によってもう一つの「美術史」をかたちづくることが試みられたように感じる。そしてかかる問題意識が「ネオ・ダダの写真」という展覧会と『肉体のアナーキズム』という大著に引き継がれたことは先に述べたとおりである。
 特別展ではなく所蔵品を中心とした常設展示の枠内で実現されたためであろう。今回の展示には記録写真やヴィデオの上映といった設えは少なかったように記憶する。しかし特筆すべき成果がある。展覧会にあわせて刊行された『九州派大全』という浩瀚な資料集である。驚くべきことにはこの資料集の刊行は既に予告されていた。88年の展覧会カタログの「ごあいさつ」の中に記された展覧会の方針に次の一文がある。「昭和65年度に発行予定の『福岡市美術館叢書5 九州派資料集(仮称)』制作のため、九州派に関する資料を収集・整理して正確な記録を作成する」なんと「昭和」である。実際に今回発行された『九州派大全』の表紙には「福岡市美術館叢書6」という言葉がある。四半世紀以上の間隔をあけて、担当者が交代しながらもこのような充実した資料集が刊行された訳であり、地方の美術館の息の長い仕事に脱帽する。この資料集には今回の企画者による書き下ろし論文のほか、作品図版と詳細な年表や参考文献、参考資料などが収録されている。私は知らなかったのであるが、九州派も1957年以降、「九州派」というタイトルの機関誌を8号まで発行しており、この機関誌の誌面、さらに展覧会のパンフレットや抗議文、通知が印刷されたハガキやビラなど、多く多く転載するのではなく図版として掲載され、当時の雰囲気を伝えている。私はまだ精読していないので内容についての検討は控えるが、全体に漂う扇情的、挑発的な口調は当時の労働争議や政治闘争のそれを連想させないだろうか。以前から感じていたことであるが、50年代から60年代にかけて、多くの前衛集団が機関誌を発行している。これらのリトルマガジンの比較分析はいまだになされていないが、重要な研究となるだろう。(Tiger’s Eye などアメリカの抽象表現主義と関連したリトルマガジンについては近年いくつかの研究書が公刊されたように記憶する)このような研究の前提として、やはりこのブログで取り上げた『具体』誌の復刻と並んで、本資料集の発行は大きな意義があるだろう。さらに驚くのはこの中に88年の「九州派」展のテクスト部分がほぼまるごと再録されている点である。おそらく以前のカタログは今日入手することが困難であろうし、このカタログに収録された論文は九州派についての基本文献ばかりであるから当然といえば当然かもしれないが、この意味でもきわめて充実した内容となっている。そしてきわめつけは88年の展覧会の際に開催されたシンポジウムの書き起こしが収録されていることだ。それから27年、既に基調講演を行った針生一郎とパネリストのうち3名が鬼籍に入っている。幽冥からの声を聞くようではないか。遅すぎたというのはあたらないだろう。おそらくこのようなパロールが資料としての意味をもつという認識は昨今のオーラル・アートヒストリーの活動の成果を前提としており、このほかにも三つの聞き書きによる記録が収められている。エクリチュールとパロール、「大全」の名のとおり、この資料集は現時点における九州派に関する資料を網羅しているといえよう。私は今回、九州派そのものについてはほとんど論じることができなかったが、これからこの特異な集団について考えるうえで本書が出発点となることは間違いない。
 
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 作品によって回顧することが困難な九州派の活動に対して、88年の展覧会が写真と証言をとおして新しい輪郭を与える内容であったとするならば、今回の展示は言語として残された資料を最大限に網羅してかたちを与える試みであったといえよう。この意味において展示を見ることができたのは大きな幸運であったとはいえ、今回の展覧会の果実はこの資料集であったといえよう。九州派のシンボル・カラーである黒に対して、あえてオフ・ホワイトで造本された資料集は『肉体のアナーキズム』や菊畑茂久馬の作品集の版元として知られるグラム・ブックスから発売され、編集サイドともみごとに息が合っている。美術館まで足を運ばずとも書店で購入できることは嬉しい。ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート以来、実体のない作品をいかに展示、収蔵するかという問題が美術館を悩ませてきた。九州派の展示は同じ問題が一つの集団を回顧する際にも発生することを暗示している。福岡市美術館の二つの展覧会はそれぞれ異なったかたちでのこの問いに対する回答であり、記録写真やエフェメラ、証言やオーラル・ヒストリー、アーカイヴといったこれまで作品の外部とみなされてきたコーパス(資料の集積)が美術の内部に取り入れられていく状況を反映している。それを美術館という制度の欲望とみなすか、展覧会という制度の限界とみなすか。私たちは立ち止まって考えるべき時期に来ているかもしれない。

by gravity97 | 2016-01-17 21:37 | 展覧会 | Comments(0)

「Re: play 1972/2015」

 このところ、このブログの展覧会というカテゴリでは東京国立近代美術館によって企画された展覧会のレヴューが続いている。お読みいただけばわかるとおり、私は必ずしもそれら全てを評価する立場ではないが、少なくとも大いに問題提起的な展覧会が続いていることは間違いない。今開催中の「Re: play 1972/2015」と題された展覧会もその例に漏れない。決してわかりやすい展示ではないが、展覧会という営みの本質と関わる実に刺激的な内容である。
 展覧会の内容はサブタイトルによって明確に示されている。「『映像表現’72』展、再演」というサブタイトルは、この展覧会が1972年に京都市美術館で開催された《映像表現”72》(展覧会のタイトルの表記についてもテクスト・クリティークの必要を感じるが今は措く)を2015年に東京国立近代美術館で「再演」する内容であることを暗示している。実は過去の展覧会を「再演」する試みは近年流行している。このブログで取り上げた展示だけでも1966年、キーナストン・マクシャイン企画の「プライマリー・ストラクチュアズ」と1969年、ハロルド・ゼーマン企画の「態度がかたちになる時」がそれぞれニューヨークとヴェネツィアで「再演」された例がある。これらと比しても、京都市美術館の「展示」の再現は困難をきわめる。なぜならそこに展示された作品はタイトルが示すとおり、ほとんどが映像であって実体をもたないからだ。実体をもたない作品の「再現」は可能か。コンセプチュアル・アートの核心と関わる問題が展覧会をとおして提起され、今回の展示はこの問題にまさに正面から挑んでいる。
 この展覧会については展示構成というリテラルなレヴェル、映像の再現というテクニカルなレヴェル、そして付随するテクストに関わるテクスチュアルなレヴェルから論評を加えることができよう。まず展示構成についていえば、最近この美術館においてしばしば試みられているように、今回も建築家、具体的には西澤徹夫が会場構成にあたっている。会場構成に専門の建築家を配する余裕など今や国立美術館以外にはありえないと嫌味の一つも言いたくなるが、今回の展示にとって建築家の協力は必要不可欠であったはずだ。会場はチャイニーズ・ボックス、入れ子状の構造をとり室内にもう一つの部屋が設置され、その周囲を取り囲むように細いコリドーが設えられている。内部の部屋にかつての京都での展覧会を「再現」し、周囲に作品についての情報や現時点における出品作家の回想を交えたインタビューなどを配置するという趣向だ。したがって周囲をめぐってから展覧会の「再現」に向かった方が展示を理解しやすいが、私の記憶では順路についての明確な指示はなく、それどころか監視員が先に内部の部屋へ誘導していた場面もみられた。もちろん展示をどのような順で見るかは観衆の自由に任されているとはいえ、入口に展覧会の構成についてもう少し詳しい説明なり指示があった方が親切ではないだろうか。きわめてマニアックな展覧会であるから関係者しか訪れないという想定があるのかもしれないが、以下でも論じるとおり、今回の展示は全般に説明不足という感が拭えない。展示構成についてさらに続けよう。72年の京都市美術館の展示を「再現」するにあたって、西澤は建築家らしい緻密な検証を続ける。会場図面は残されていないから、西澤は当時の写真と実際の京都市美術館の展示室の図面、そして作家たちの記憶に基づいて東京国立近代美術館の展示室の内部に同じ空間の再現を試みる。会場にはその手続きについても詳しい説明があり、確か技術的な制約もあって、実際には90パーセントの縮小として会場が再現されているとコメントされていたのではなかっただろうか。展覧会の内容については今回カード形式で再現された「展覧会カタログ」中、企画者の説明の中に明確に総括されている。少し長くなるがそのまま引用する。

 「第5回現代の造形〈映像表現72〉―もの・時間・空間―Equivalent Cinema」展は、1972年10月14日-19日、京都市美術館で開催された。エンドレスで上映するためにフィルムが蜘蛛の巣のように張り巡らされた薄暗がりの会場では16名の造形作家による作品の映写機やヴィデオデッキ、スライドプロジェクターの機械音が響き、そこかしこの壁やモニター映像が明滅していた。暗闇で終始着席したまま映像に没頭する映画館から美術館へと場所を移し、複数の作品が同時に上映される中を観客は動き回り、どの映像から見るのも、どれだけ見るのも自由。このような映像展は日本では初、世界的に見ても先駆的な試みであった。

 この要約は同じ企画者による、同じ時代のアメリカのヴィデオ・アートを対象としたもう一つの展覧会「ヴィデオを待ちながら」と比較する時、意味をもつ。「ヴィデオを待ちながら」についてもこのブログでレヴューしたが、出品されたヴィデオ作品はTVスクリーンを関して淡々と上映され、近年の映像展示でおなじみの大掛かりなヴィデオ・インスタレーションは一切用いられていなかった。ヴィデオという媒体がかかる制約の根拠であるが、同時に私たちは作品を順番に一定の時間見ながら会場を巡ることとなった。そこでは作品の意味は映像の中のみにあり、上映形式にはなかった。これに対して今回の展示は今引いた文章に明らかなとおり、複数の映像がエンドレスに上映されている会場を来場者は主体的にめぐり、映像のみならずそれを取り巻く環境を知覚する。今回の展示の場合、上映されていた映像をヴィデオ化して、順番に上映することは全く意味をもたない。私たちが映像を見る状況も作品の一部なのであるから。一種現象学的なこのような問題意識を念頭に置く時、企画者が特にこの展覧会を選んで「再現」したことに関する次のような説明は容易に理解できるだろう。

 「映像表現’72」をこの「再演」の対象に選んだ理由は「[…]スクリーン以外の空間が映画を見ることにより排除されることのない。時間と空間がいわゆる映画に収斂されることのない。つまり〈映画における時間と空間〉と〈観客における時間と空間〉が等価な〈映像と人間〉との関係としての〈場〉が設定できないだろうか」という「映像表現‘72」のもくろみが、「出来事としての展覧会」、「状況・布置としての美術」という在り方の、新たな可能性を指し示すものと思われたためである。

本展は先に同じ会場で開かれた「No Museum No Life?」同様に自己参照的な内容であるが、参照された展覧会そのものきわめて自己言及的であったことが示唆される一節である。等価の映画、equivalent cinema という謎めいたサブタイトルの意味も了解されよう。実際に今回の会場でも薄暗い室内を私たちは作品を特に順番を決めずにめぐり、時に映像の前に滞留し、時に映像の横を通り過ぎる。このような作品のリテラルな併置は「態度がかたちになる時」などにも共通し、当時の美学的気風を示しているが、映像を主体とする展覧会としてかかる展示が実現されたことはなんともラディカルであり、それが実行委員会形式で作家たちによって主導されたことに驚く。1970年の「人間と物質」の京都巡回以来、京都では多く作家たちが主体的に関与して京都アンデパンダン展や「京都ビエンナーレ」といった展覧会が陸続と開かれた。これらの展覧会の詳細については美術館との関係も含めて今後検証されるべきであろう。
 「映像表現‘72」の出品作家は16名。河口龍夫、植松奎二、庄司達、村岡三郎あるいは野村仁といった今日まで活動を続ける作家もいるが、数名の作家について私は初めて名前を知った。解説によると中心となってこの展覧会を企画したのは松本正司であるらしいが、私はこの作家についてはほとんど知るところがない。私が関西の現代美術に接することとなったのは1980年代に入ってからであるから、10年ほどの空白はなんとももどかしい思いだ。それにしてもあらためて驚くのはこれらの多様な作家たちが皆、映像という表現に積極的に取り組んでいる点である。確かに山本圭吾や今井祝雄らは早くから映像や写真表現を積極的に取り入れており、この分野におけるパイオニア的存在である。しかし今日私たちは長沢英俊や村岡三郎を立体の作家として、庄司達はファイバーワークの作家として理解している。この点は当時、映像表現がジャンルを超えて注目を浴びていたことを暗示する。このような関心は一体どこからもたらされたのであろうか。この点についても今後の研究が待たれる、写真作品として知られる須磨海岸の干満を記録した作品を河口龍夫が映像としても発表していたこと、柏原えつとむの人を食ったような作品、おそらくは「視覚のブラウン運動」へと展開される野村仁の比較的早い時期の作品、そして山中信夫のピンホールカメラ(私は二度中に入ったが映像を確認することができなかった。果たして機能していたのであろうか)。「再現」された作品は多くの発見を誘いつつ、私たちを一つの漠然とした疑問へと差し向ける。それは出品された作品がかつて京都市美術館で上映された作品と同一であるという保証はいかにして得られるかという問いであり、かくして私たちは先に述べた二番目のレヴェル、テクニカルな審級における作品の同一性という問題に直面する。この展覧会では厳密に全ての作品が「再現」された訳ではなく、いくつかの作品については作品が上映されていた場所に作品についてのメモのみが残されていた。映像もしくは上映形態についての記録が残されていなかったための処置であろうが、この意味において今回の展示は72年の展示の完全な再現ではない。もちろん私はこれを批判するつもりはないし、それどころかかかる困難を乗り越えて多くの作品が再現された点には敬意を表したい。映像とはテクノロジーと深く結びつき、媒体と密接に関わっている。例えばこの展示でしばしば使用された8mmフィルムは今日ほとんど目にする機会がなく、ネガが存在しないため複製も不可能だ。私は技術に詳しくないが、おそらく今回の展示ではオリジナルのフィルムを上映し、その映像をヴィデオなどの別の媒体によって記録し、あらためて会場で上映するというきわめて倒錯された手法がとられたはずである。8mmからヴィデオに媒体が変わることによって作品の本質に変化が生じるか否かは難しい問題だ。しかしながらこの展示が映像そのもの以上に提示の形式を主題化しており、例えば彦坂尚嘉の8mmフィルムを「蜘蛛の巣のように」張り巡らして一種の無限ループとして成立させた作品など、具体的な機材や建築を作品の中に取り込んでいることを勘案する時、機材の変更は展示の内容にも関与するように思われる。作品にとって関与的/非関与的な要素の区別はこの展示の根幹と関わっているはずだ。準備と展示、どの時点で撮影されたものか不明であるが、東京国立近代美術館のホームページには当時の会場の様子を記録した写真がアップされているので下に示す。
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 この写真と今回の展示の情景を比較することによってある程度、「展示の再現」の成否を判断することができよう。それぞれの作品の傍らにおそらく作者らしき人物が佇む当時の写真と比較するならば、今回の展示はいかにも展覧会然としていたが、それは会場の周囲に配置された情報によるところが大きいだろう。一過的な展示を再現する手法としては通常は写真や映像、資料を展示する方法がとられていた。これに対して今回のごとき再現方法は、それが展覧会についての展覧会であることを明確に示す。つまり再現された展示を取り巻く資料群が絵画に対する額縁、彫刻に対する台座として展覧会を聖別するのだ。しかし72年に京都市美術館を訪れたならば、人はこれらの展示と現実との区別をつけることが困難であろう。現実としての美術、このような感性が当時共有されていたことは、「アンチ・イリュージョン」あるいは「アート・オブ・ザ・リアル」といったメルクマールとなった展覧会名からも明らかである。これに対して今回の展示は現実と遮断された、周到に組織された展覧会であることを問わず語りに表明している。周囲の回廊、作品や作家についての説明なしに、いきなり当時の展示の部分のみを近代美術館の中に再現した場合はどのように印象が異なっただろうか。先に引用した同じ文章の中で企画者はこの展示を「43年前にわずか6日間だけ行われた『映像表現’72』を、京都から東京へと場を移して『再び舞台に乗せる』、すなわち『再演(replay)』するものだ」と述べているが、今回の展示においてはこれが一つの展覧会であるあることは既に所与の事実として示されている。展覧会をもう一度括弧内に括ることによって、おそらく72年の展示とは決定的に異なる一種の完結性がこの展覧会に賦与されたのではないだろうか。
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 最後にテクスチュアルな側面に目を向けよう。展示と映像の再現のレヴェルにおいては72年の展覧会が新たな構成と技術を介して、いわばアップデートされていたのに対してテクスチュアルなレヴェルでは72年の展示がほぼ踏襲されていた。つまり京都市美術館の展示の際に会場で配布されたカード式のパンフレットが再現され、袋詰めされてミュージアムショップで販売されていた。カード形式にした理由は明らかだ。会場に順路がないように、表裏に作家の略歴と展覧会のプランが印刷されたカードはばらばらで綴じられておらず、順番や階層をもたない。おそらく72年の展示に協賛したであろう書店や喫茶店の広告も同封され(その中には新京極ピカデリーで上映中の「成人映画」、「情欲エロフェッショナル」の広告も含まれる)、当時の気風を伝える。主催者あいさつと企画者の解説なども緑色の紙に印刷されて同封されているが同じ版型であるため、レヴェルの異なるテクストの介入はさほど目立たない。印刷のプロセスが当時とは一新された今日、当時の活版活字を再現することは不可能であり、この意味においてはこれらのテクストも形式においてアップデートされているといえるかもしれない。しかし私はもう少し詳しいテクスチュアルな介入があってもよかったのではないかと感じた。例えば展示の中で、この展覧会に対しては平野重光らの充実した批評が応接したことが指摘され、展示中に掲出されていた。企画者の解説のみならず、同時代になされたこれらの批評がパンフレットの中に再掲されていれば私たちの理解もさらに深まったのではないだろうか。今回の再現展示は情報量が多いにもかかわらず、72年の展示同様にあまりにもエフェメラルに感じられる。今述べた批評のほかにも今回会場で上映されていた関係者の証言、あるいは会場の設営や映像の再現に関する建築家や技術者の証言を書き起こして一連の資料集とすることができれば、72年の展示の輪郭がくっきりと浮かび上がったのではなかろうか。ただ私は、今、今回のカード式パンフレットをめくっていて、奥付の部分に Catalogue Vol.1という表記を見つけた。もしかしてそれらを収めたVol.2が作成される可能性があるのであろうか。これについても会場に特に説明はなかったように記憶する。
 今回、私は上映された作品についてはほとんど論じることがなかった。紙数の関係もあるが、今回の展示の意味が個々の作品ではなく、展覧会の再現というメタレヴェルに存すると考えるからだ。比較的短い時間で薄暗い会場をめぐったため、見落としや事実誤認があるかもしれない。その場合はコメントにて指摘いただきたい。作品について論じていないこともあり、かなりわかりにくいレヴューとなってしまったのではないかと危惧するが、かかるチャレンジングかつ概念的な展示にまともに応接する記事を今日の美術ジャーナリズムに期待することはできない。ひとまず所感を記し、記録として留める。

by gravity97 | 2015-11-03 11:15 | 展覧会 | Comments(0)

「特集:藤田嗣治、全作品展示。」

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 敗戦70周年の今年の夏、戦争と関わる展覧会をいくつか訪ねた。いずれもよく練られ、このブログで応接するに十分な内容であったが、最終的に最も強く印象に残ったのはテーマ展ではなく、東京国立近代美術館の常設展示で見た藤田嗣治の全所蔵作品展示であった。例えば名古屋市美術館で開かれた「画家たちと戦争」も藤田を含め、日本画、洋画あわせて14名の作家の戦中戦後の作品を一堂に展示し、画家の処世、戦争と表現といった問題について深く思いをめぐらす貴重な機会となった。名古屋の展覧会では作品が対比的に示されて、戦争に向かい合う画家の生き方という重い主題が問われていていたのに対して、東京国立近代美術館において私をあらためて圧倒したのは作家の生き方ではなく作品であった。戦争の表象という点で藤田の絵画は他の画家を卓絶している。
 今回展示されたのは東京国立近代美術館が「所蔵」する25点に加えて京都国立近代美術館の1点、合わせて26点の藤田の作品だ。あえて京都国立近代美術館が所蔵する《タピスリーの裸婦》を加えた理由は、私の考えによれば藤田の典型的な作例、乳白色の裸婦の代表作を加えることによって「戦争記録画」の異様さを相対化するためではなかっただろうか。しかし全所蔵作品展示のクライマックスが点数にして14点、展示の半数を超える「戦争記録画」であることは明らかである。これらの絵画は今なおアメリカからの「無期限貸与」という枷のもとにあり、近年、常設展示の中で展示されることが多いとはいえ、なかなかその全貌を知る機会がなかった。これまでも部分的に見た記憶があるが、全てが展示される機会は今後もほとんどないだろう。目立たない常設展示の中に組み込まれているとはいえ、これゆえ必見の展示といえよう。
b0138838_1111619.jpg 今回は出品作品の図版を全て収録したパンフレットが制作されている。藤田の戦争記録画の全貌を知るうえでも貴重な資料であろう。まずは表紙に掲げられた二つの作品、収蔵庫内のスクリーンに配架された《五人の裸婦》と《アッツ島玉砕》の対比から始めてみよう。いずれも藤田の代表作といってよいが、印象は大きく異なる。ベッドもしくはソファを背景とした明るい室内に五人の裸婦が整然と配置された前者と、不分明な画面の中に無数の兵士が折り重なるように描きこまれた後者、描かれた裸婦たちが明確に識別できる前者と個々の兵士がもはや区別不可能なまでに画面に溶け込んだ後者。明暗が対比されたような二つの画面である。しかし両者にはいつかの共通点も認められる。一つは人数こそ大いに異なるが、ともに複数の人物を描き込んだ群像として成立していることである。さらにどちらの作品においても画面が奥行きを欠き、一種のレリーフ的な空間の中に人物が配置されていることである。b0138838_11113310.jpg《アッツ島玉砕》においては背景に雪を冠した山が描かれているが、前景に群がる兵士たちとの間に中景が存在しないため、書割のような印象を与え、それは《五人の裸婦》の背景と同様である。奥行きのないいわば平面的な画面は藤田の絵画の特徴の一つである。今回出品された14点の「戦争記録画」においても《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》において画面が一種のプラトー構造、情景を見下ろした構図としてあいまいな遠近法が成立していることを除いて、大画面に広大な情景が描かれる場合があったにせよ、いずれも奥行きに欠ける。描かれた人物は画面から私たちに向かって滑り落ちそうな印象を与える場合が多い。先ほど私は裸婦を描いた絵画と戦争記録画を明暗の対比として比較したが、実は両者をつなぐ作品が存在する。2006年に同じ美術館で開かれた回顧展のカタログを参照するならば、1928年に制作された《ライオンのいる構図》がそれだ。3×3メートルという大画面に描かれ、フランスに残されているこの作品においては20人を超える人物が画面に配され、独特の乳白色の画面の中に群像表現が成立している。カタログにはこの作品がミケランジェロのシスティナ礼拝堂壁画から影響を受けた可能性が示唆されているが、私の印象としても十分にありうるだろう。この時期の藤田の絵画には単独像から群像へという方向性が認められ、《ライオンのいる構図》は画業の一つの頂点を形作っているといってよかろう。藤田は1931年から33年にかけてブラジル、メキシコを巡った後に帰朝する。中南米に滞在した時期、藤田は乳白色に代わり褐色を基調として現地の人々を描いた一連の作品を発表し、画風の刷新を図る。しかし日本に帰国した頃、時局は戦時に至り、藤田はその描写力を評価されて戦争記録画へと動員されるのである。今回展示された14点の「戦争記録画」のうち《南昌飛行場の焼打》《武漢進撃》《哈爾哈河畔之戦闘》は昼間の情景を描き、興味深いことにいずれも地平線もしくは水平線によって画面が二分されている。最後の作品はいわゆるノモンハン事件を扱っており、同じ主題を扱いながらも日本軍の死屍累々といった情景を描いた作品も制作されていたという記録がある。しかし太平洋戦争開戦直後という戦局を反映しているのであろうか少なくともこれら三点にはさほど切迫した印象はない。最初の二つの作品に関して、藤田は実際の戦地を取材し、あるいは関係者への聞き取りのうえ、作品に取り組んだという。続く《12月8日の真珠湾》と《シンガポール最後の日》も描かれているのは昼間の情景であろうが、画面は暗く沈む。そして1943年から45年の間に制作された9点の絵画こそ藤田の戦争記録画の真骨頂といえるだろう。いずれも異様きわまりない絵画として成立している。今さら指摘する必要もなかろうがアッツ島、ガダルカナル、サイパンといった激戦地を描いた絵画の晦渋さはどうだ。私はこれらの絵画をこれまで幾度となくこの美術館の常設展示の中で見ている。しかし今回、作品に付された解説を読んで、初めてそこにヴァチカンにあるジュリオ・ロマーノの《ミルウィウス橋の戦い》との比較が可能な刺し違える二人の兵士の図像が存在し、《薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す》の中に台湾の高砂族によって編成された勇猛な部隊が敵の首を切断した情景が描かれていることを知った。私は会場で解説を読み、あらためて作品の前に立ち戻り、これらの情景の確認を試みたが、それらの図像を識別することは決して容易ではなかった。実際に図版によっては写真の明度が高く、比較的容易に図像を判別できる場合もあるが、実物にあたるならば実に混濁した印象があり容易に判別できない。一連の乳白色の裸婦が画面の澄明さで特徴づけられていたのに対して、これらの絵画の不透明さは対照的といってよい。おそらくそこには藤田の独特の技法が深く関与しているだろう。藤田の技法の秘密に関しては多くの研究があり、私はほとんど知るところがないが、少なくとも面相筆で描かれた細密な描写と画面全面を覆う独特のニスのような層は裸婦像と戦争記録画に共通している。前者の澄明な効果と後者の晦渋な効果は同じ技法の裏表であるように思われるのだ。初期の戦争記録画においては飛行機や戦車といった兵器が中心に置かれたのに対して、後期の戦争記録画は文字通りに兵士たちが肉塊として描かれ、もはやオールオーバーといってもよい異様な構図として実現されている。既に誰かが指摘している点かもしれないが、私がこれらの絵画から連想したのはドラクロアであり、具体的には《サルダナパールの死》、《キオス島の虐殺》といった作品である。それらはいずれも大画面に群像が描かれ、なんとも不透明な印象が共通している。印象派を経過した私たちは絵画が光を宿すことを知っている。しかし印象派以前の絵画は不透明な表面の連なりであった。輝く裸婦から闇の中の兵士たちへ、藤田の絵画は美術史を遡行するかのようであるが、例えばルーブルでロマン主義の名画に親しんだ藤田にとって、それは決して退行や逆行ではなく新たな絵画の実験、偉大な絵画への接近であったはずだ。出品作中に《ソロモン海域に於ける米兵の末路》という作品がある。サメが群れ泳ぐ海上を小舟で漂流するアメリカの兵士たちを描いたこの作品がジェリコーの《メデューズ号の筏》から着想されたことは明らかであろう。《メデューズ号の筏》に特徴的に認められる三角形の構図が藤田の戦争記録画にもしばしば用いられていることはかねてより指摘されてきたが、ロマン主義の作家にみられた劇的なテーマと構図は戦争という主題を描く藤田に格好の枠組を与えたように感じられる。それに際しては逆に光の効果を抑制し、画面を均質に充填することによって藤田は大戦末期の玉砕、集団自殺、肉弾戦といった主題をおそるべき緊張感と閉塞感の中に表現したのである。初期の戦争記録画と異なり、これらの作品は現地や生存者へ取材することなく、藤田が自身で構想したものである。それにしても同じ時代に描かれ、これに類した絵画がほかに存在するであろうか。そもそも戦争記録画といった種類の絵画が欧米に存在するか私は寡聞にして知らない。アメリカに接収されたそれらの絵画は現在無期限貸与として東京国立近代美術館に収蔵され、そのほかにも日本画から彫刻にいたるまで、戦時下で制作された作品の全貌はすでにいくつかの画集の中で明らかとなっているとはいえ、玉砕や集団自殺を扱った一連の藤田の絵画は完成度において突出している。もちろん戦争記録画というジャンルが存在せずとも、戦争と革命、虐殺と略奪が古来よりヨーロッパの大画家たちの絵画の主題であったことはよく知られており、パリで生活した藤田がそれらに親しんでいたことは明白である。太平洋戦争は藤田に対して平時ではありえない主題と取り組むチャンスを提供した。おそらく藤田にとって描かれる個々の主題についての関心はさほどなかったのではなかろうか。画家は兵士たちを勇猛に描こうとか、厭戦的な気風を醸成しようとかいった意識をもっていない。藤田は自らがミケランジェロからドラクロアにいたる系譜に連なることをめざして、乳白色の裸婦たちを通して培ったすべての技術を戦争記録画に投じた。言い換えるならば藤田にとっては絵画の内容ではなく形式こそが重要であり、主題ではなく技法こそが問われたのである。この意味において、藤田自身、自分が戦争責任を問われると夢想だにしなかったことは十分にありうるだろう。しかし戦争記録画とはあまりにもデーモニッシュな主題であった。b0138838_1112021.jpg私はこの展示を見ながら、これらの戦争記録画の数年前に制作され、同じ東京国立近代美術館に収蔵されている一枚の絵画を反射的に連想していた。それは靉光の《眼のある風景》である。同じ戦時下、1938年に制作されたこの作品もまた何が描かれているのか判然としない晦渋な絵画であり、画面の中心に見開かれた目が強烈な印象を残す。細密に描かれた暗い画面、近接的な構図、アンフォルムとでも呼ぶべき形状、実は《眼のある風景》とこれらの絵画には多くの共通点がある。7年前の回顧展カタログではこの作品に描かれた目が「現実の奥底を、あるいは暗澹たる時代の果てを見通す意志のシンボル」と評されていた。戦争という狂気を見通すために画家は時代を超越した透徹した目を持つべきであった。しかし藤田はあまりに時代に密着しすぎたのではないか。私は藤田の戦争責任云々について論じようという訳ではない。パリでヨーロッパの名画の数々に出会い、それらに連なるべく独自の技法を開発し、一連の裸婦像へと昇華させた形式主義者としての藤田の才能と、太平洋戦争という時代の狂気が不幸な出会いをした結果、圧倒的な完成度を示しながらも顧みられることのない一群の呪われた絵画が誕生したのではないかと考えるのだ。
 戦後、藤田はフランスに帰化し、祖国の土を踏むことはなかった。戦後の作品をどうとらえるかは難しい問題であるが、私は時にグロテスクとさえ感じられるマニエリスム的熟練をめざしたそれらの作品に一種の退廃を感じる。少なくともそこには戦前の裸婦像のようなおおらかさや澄明感はない。今回の展示にもラ・フォンテーヌ寓話に触発されたと思しき数点の作品が加えられていたが、技巧の限りを尽くしたような細密描写を見て痛々しさを覚えないだろうか。マニエリスムとは戦争記録画というデーモンに見つめられた画家にとって唯一の逃避場所ではなかったのか。東京国立近代美術館に収蔵された藤田の作品を通覧し、私は今さらながら絵画という営みの業の深さに思いを致した。

by gravity97 | 2015-10-12 11:18 | 展覧会 | Comments(0)

「具体の画家―正延正俊」

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 タイトルに「具体の画家―正延正俊」とある。作家名のみでなく、具体美術協会に所属していたことを示して、展覧会をアピールしようとする美術館のやや苦しい戦略が見え隠れするが、確かにこのタイトルは正延の位置を暗示している。正延は具体美術協会の創立会員であり、解散まで在籍したメンバーの一人であるから、具体の中核といってよいが、白髪一雄や元永定正、あるいは村上三郎や田中敦子といったメンバーに比べて知名度が低い。しかし今回あらためてその画業を振り返るならば、作品の完成度はきわめて高く、今回の展覧会は具体美術協会においてこれまで見過ごされていた可能性に思いをめぐらす得難い機会となったように感じる。
 正延がこれまで正当な評価を受けなかった理由を挙げることはたやすい。初期の具体美術協会は派手なアクション・ペインティングで知られているが、正延は一貫して緻密な手法で絵画を描いてきた。さらに正延は1911年生まれであるから1905年生まれの具体美術協会のリーダー。吉原治良と6歳しか違わない。具体美術協会の会員たちが多く吉原と親子ほどの年齢差があり、それゆえたやすく師弟関係が成立したのに対して、正延と吉原の関係が微妙であったことは想像に難くない。おそらくこの理由によって正延はこのグループにおいても異質の絵画を描き続けることが許されたといえるかもしれない。65年というから作家が54歳の時にグタイピナコテカで開いた個展の出品作を導入部、そしてハイライトとした今回の展示は大いに見応えがあり、おそらく今後、作家の評価はさらに高まることとなるだろう。
 今回の展示でまず興味深く感じられたのは、戦前期、つまり正延が具体の結成に参加する以前に制作した一連の具象的な絵画である。具体美術協会の作家たちの個展はこれまでにもたびたび開催されてきたが、いずれも習作期とも呼ぶべき、このグループに参加する以前、端的に具象的な作品はほとんど展示されていなかった。これにもいくつかの理由がある。まず作家たちは当時まだ若く、具体美術協会に加わる以前にはほとんど作品を発表していなかった。さらに白髪一雄と田中敦子を例外として、いわゆる正式の美術教育を受けた作家は少なく、この意味でも彼らに作品を残すという発想はなかった。さらに具体美術協会の初期の活動の中で彼らの多くは一気に表現上のブレークスルーを遂げたから、それ以前の作品を意図的に自己の画業から外した可能性がある。これに対して、正延は具体美術協会結成時に43歳であり、それまでに多くの作品を制作していた。カタログにはそのあたりの事情をていねいに検証する論文が掲載されている、今回の展示には多くの戦前期の作品が出品され、それらはきわめてアカデミックで手堅い仕事である。なるほど同時代にあって正延の作品はほかの作品に埋もれてしまったかもしれず、それは東京と神戸で教鞭を執りながら作家としては刻苦していた正延の姿と二重写しになるかのようであるが、岸田劉生を連想させるマティエールの強調された絵画から、構成主義的、キュビスム的な絵画にいたる一連の作品は決して悪いものではない。絵画に真摯に応答する作家の姿勢は明らかだ。正延は戦後まもなく神戸市民美術教室で吉原に師事し、54年の具体美術協会の結成に参加する。私にとってはそれまで抽象ではあっても比較的穏健な作品を制作していた正延が、具体美術協会初期のスタイルに一挙に転じた点こそが興味深く感じられた。今回の展示には具体美術協会の機関誌『具体』の創刊号に掲出された正延の作品が『具体』誌の当該頁とともに展示されていた。私は作風の激変に驚いた。板の上にほぼモノクロームで絵具が塗りつけられた物質的な絵画はアンフォルメル風であるが、それまでの堅実な抽象絵画とは印象を大きく違えるのだ。私は具体美術協会という集団が正延のごとき年長で、ある程度作風を確立しつつあった作家に対しても、かくも変貌を強いたという事実に驚くのだ。具体美術協会は吉原治良という絶対的指導者に統率された集団であったから、かかる変貌は吉原が求めたものかもしれない。いや、私は次のように考える。正延が感じたであろう一種の集団的圧力、それはリーダーたる吉原も感じていたのではないか。そして同様の強迫は吉原をもとらえていたのではないか。シュルレアリスムから構成主義まで西欧のモダニズム絵画を自己の画業の中で追体験するかのように作品の制作を続けていたモダニスト吉原は1950年代中盤に大きな転機を迎える。それはしばしばカリグラフィックな線描を伴う物質的な絵画であり、正延同様に唐突な転回であった。しかも50年代後半の吉原の絵画は質的に必ずしも高くない。アクションを導入して、物質と精神の結合のごとき作品を量産した白髪や嶋本昭三らに比して、指導者たる自分の作品の質が劣っていることを吉原は意識し、それゆえ苦悩した。この点に関しては多くの証言が残されている。具体美術協会が活動の初期に残した物質的な絵画は相互に差別化されにくい。とりわけモノクロームの図版で確認するならば、誰の作品であるかさえ画面から識別することは困難である。このような同質性は異様にも感じられるが、ひるがえって彼らの独自性を保証していたかもしれない。若い画家たちが独特のアクション・ペインティングを編み出してかかるアポリアを克服したのに対して、吉原は物質的な絵画の中にとらわれてしまったのだ。
 多くの画家がアクションに可能性を見出し、リーダーたる吉原が物質の中に埋没したのに対して、正延は異なった手法で難局から脱した。今回出品された作品のうち、物質性が強化された作品は今触れた『具体』誌に掲載された作品ほかごくわずかであり、早い時期に正延は独自の画面に到達した。しかもそれはアクションとも物質性とも異なった手法であった。早くも55年に正延は縦長の画面を、ドードリングと呼ぶのであろうか、ほぼ同じ大きさのいたずら書き風の単位で埋め尽くす独特の構成による絵画を発表している。いかなる発想あるいは意図から正延がかかる画面に想到したかは定かではない。65年の個展のパンフレットに寄せた吉原のテクストにはマーク・トビーの名が引かれているから、吉原の蔵書等を通して正延がトビーのホワイト・ライティングを知った可能性は否定できない。しかしおそらくは正延は独自にかかる構造に到達したのではないか。吉原の指導の下にいる限り、具象への後退は許されなかった。しかし正延は決してアクションの画家ではなく、それを証明するかのように画面にストロークの跡が認められることはまれである。正延はオールオーバーという独特な画面構造を選ぶことによって新たな境地に立った。興味深いことに抽象表現主義絵画に広く認められたオールオーバー構造は具体美術協会においてはむしろまれであった。アクションに基づくストローク、そして画面の物質性はともにオールオーバー構造の成立を阻害したのだ。正延とともに同様の構造を画面に与えたのは、おそらく上前智祐だけであり、いずれも具体美術協会の活動に一貫してペインターとして関与した。いたずら描きのような無数の線の戯れは大きさや粗密を変えて画面を覆い尽くす。50年代後半にスタイルを確立した正延はこの後、いわばテーマズ・アンド・ヴァリエーションズとして作品の幅を広げ、その成果を一望に示したのが最初に触れた65年のグタイピナコテカにおける個展であった。油彩に加えてエナメルを使用することによって独特の形態が時に面的、時に線的に画面を構成し、時に沈潜し、時に躍動感のある優れた抽象絵画が成立している。私はこの個展に出品された、多様でありながら一貫する、正延の絶頂との呼ぶべき作品群がほとんど国内の主要な美術館に収められていることに安堵した。とりわけ大阪新美術館建設準備室が所蔵する1964年の《作品》は素晴らしい。このセクションの白眉とも呼ぶべきこの作品は具体美術協会の作家が制作した作品の中でも屈指といってよいし、抽象表現主義の絵画と比べても遜色がない。決して主流ではない一人のメンバーがこれほどのクオリティーを備えた作品を軽々と発表した点に具体美術協会の凄みがある。そしてこの作品は今日までほとんど顧みられることさえなかったのだ、
 展覧会でいえば第四章以降、個展以降の作品の評価は難しい。比較的作品数は少ないが、それは作家が制作しなかったためか、今回の展覧会に選ばれなかったか、いずれの理由か判然としない。さらに最後の部屋に集められたサムホールの小品についてはもう少し展示の中で説明がほしかった。どのような経緯で続けられたかわからないが、半世紀にわたって制作された小品は単に正延の作品の変遷を示すのみならず、作品としても魅力に富んでいるからだ。
 展覧会を一巡した後、再び初期作品が展示された部屋に戻り、早い時期に描かれ、吉原に激賞されたという《黄の塑像》を見る。確かに素晴らしい作品だ。この作品とほぼ同時期に描かれた《黒の塑像》を比較するならば、そこに描かれたモティーフが同一であることはたやすく理解され、ごていねいにもカタログにはそこで描かれた塑像のシルエットの写真が掲出されている。これらの半具象的な作品と一連のオールオーバー絵画を比べる時、私は両者が実は類似した構造に基づいているのではないかと感じた。つまり一見するとオールオーバーに塗り込められながらも、そこにはモティーフを隠す/隠されるという画面構造が認められ、私の印象では隠されるモティーフとは多くトルソ、人体のように感じられるのだ。このような構造から直ちに連想されるのはポロックであり、実際に正延の線的な抽象からはポロック同様、その内部の人の姿をうかがうことができる。正延の絵画がほとんど縦長のフォーマットをとることはこの問題と深く関わっている。正延の描くドードリング、あるいは線は決して野放図に引かれているのではない。私があえて構図性と呼ぶイメージの背後の骨格と表面を埋め尽くすオールオーバー構造とのせめぎあいは美しい緊張を画面に与えている。それにしても正延はこのような画面をいかに描いたのであろうか。とりわけ先に触れた大阪新美術館建設準備室所蔵の大作において稠密な線は筆で描かれたのか、それとも特殊な技法によって描かれたのか、私は深い興味を感じた。正延は制作中、家族もアトリエに入ることを嫌ったという。技法の面からも正延の絵画は今後検証されるべき多くの余地を残している。そして漠然としたフィギュアを残しながら画面を一体化する手法、それは吉原が戦後のごく短い時期に試しながら、十分に成功しえなかった絵画の可能性であったのではなかろうか。
 具体美術協会に関しては、リーダーの吉原をはじめ、白髪、田中、元永あるいは村上といった数名の作家たちが注目され、多くの展覧会が組織されてきた。しかし今回の展覧会を一覧し、正延のごとくこれまで周縁的とみなされてきた画家が私の考えでは抽象表現主義の名品に匹敵する絵画を制作していたという事実はあらためてこの集団の奥深さをうかがわせる。私の知る限り、一人のリーダーに統率された集団がこれほど多様かつクオリティーの高い絵画を量産した例はかつてない。これまでは今名前を挙げたような中心的な作家たちのみにスポットライトが当たってきたが、今回の個展はその周囲にも多くの優れた作家が存在したことを明らかにするとともに、具体美術協会においてまだ十分に究明されていない絵画の可能性を暗示している。今回の展覧会は西宮と高知という作家にゆかりにある二つの都市で開催される。正延の存在を示すために首都圏を含めた大都市圏で開かれてもよかったと感じるが、このように地域と関わる作家を地道に検証する作業こそが公立美術館の使命であろう。志の感じられる展覧会であった、

by gravity97 | 2015-08-06 21:19 | 展覧会 | Comments(0)

「NO MUSEUM, NO LIFE ? これからの美術館事典」

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 NO MUSEUM、NO LIFE ? 美術館なくして人生なし、とでも訳すのであろうか。独立行政法人国立美術館によって企画され、東京国立近代美術館で開催されている展覧会を訪れる。国立の5美術館の所蔵作品によって展示を構成する試みは2010年の「陰翳礼讃」展に続き二回目であるという。前回はストレートな名品展であったが、今回は「美術館」をテーマにした変化球。おそらく見る者によって印象は大きく異なるだろう。インターネットを検索したところ、変わった切り口で楽しめたといった感想が多かったが、私が覚えたのはむしろ漠然とした不全感であった。
  「これからの美術館事典」というタイトルに即して展示はAからZまでのキーワードを追うかたちで構成されている。日本で企画された「事典」であるならば、「あ」から「ん」ではないかといった意地悪は言わないことにしよう。50近いテーマを設定するのは大変であろうし、展示の面積から考えてもAからZ、26のキーワードの方が会場を構成しやすいからだ。しかし会場をめぐってみるとやや事情が違う。例えばAならばArchitecture、Archive、 Artist、 Art Museumと四つの項目が扱われているのに対して、K、Q、Uについては項目がない。XやZといったキーワードを設定しにくいアルファベットに対してもそれぞれX-ray、Zeroといったやや苦しいキーワードが当てられているのに対してなんとも不徹底というか恣意的だ。そもそも展覧会をアルファベット順に構成するという手法はイヴ=アラン・ボアとロザリンド・クラウスの企画によって96年にポンピドゥー・センターで開かれた「アンフォルム」を模しているが、「アンフォルム」に事典形式が導入された理由は、キーワードをアルファベットに機械的に対応させることによって通常の展示のコンテクストを破壊するためであった。つまり26のキーワード(実際には28)を任意に設定することによって作家別とか時代順といった脈絡を欠いた展示の実現がめざされていた。しかし今回の展示においては複数のキーワードが存在するアルファベットとキーワードが存在しないそれが混在している。50個ほどの候補から最終的にキーワードを36個に絞ったとのことであるが、美術館と関わる言葉を恣意的に選ぶのであれば初めからアルファベット順の配列や「事典」という形式に拘泥する必要はないように感じる。
 このような不徹底はキーワードの選択そのものにも認められる。この展覧会が美術館という制度を主題にしたものであることはタイトルからも明らかである。確かにArchitecture、GuardあるいはStorageといった項目は美術館の形式、あるいは外形的事実と関わっている。しかし例えばHaptic、Naked/NudeそしてOriginalといった項目は展示される作品と関わっており、意味性のレイヤーが異なるように感じられる。私の感想を述べるならば、この展覧会がもし美術館あるいは展覧会の外形的な事実のみに焦点をあてていたら、きわめて刺激的な内容になったと思う。例えばHangingというキーワードと関連して、いわゆる金属製の吊り金具、ワイヤーが展示されている。通常は絵画の後ろに隠されているこの器具を「展示」することによって来場者は作品がいかに保守されているかを知るだろう。余談となるが、カタログ中でも触れられているとおり、日本の吊り金具は世界的にもきわめて優秀であり、私も以前、ポンピドゥー・センターから展示に立ち会うために来日し、その精密さに驚嘆した関係者(コンサヴェーターであったと記憶する)から、一個でよいから持ち帰らせてほしいと懇願された経験がある。あるいはTemperature に関してはどこの美術館でもよく見かける自記式温湿度計、Guardと関連しては、フランシス・ベーコンの作品を取り囲むように配された金属の結界、これらに焦点をあてた展示はあってよいし、それなりに多くの発見をもたらすだろう。しかしそのようなテーマの展覧会であれば、そもそも作品を展示する必要はない。実際、私はもしこの展覧会にそこまでの決意とともに「これからの美術館」を展望する覚悟があれば、つまり一点の「美術作品」も展示することなく、展示器具や資材、「作品」ではなく「資料」の展示によって構成されていたのであれば、それなりの見識を感じる。しかし理事長の「ごあいさつ」によればこの展覧会の目的は「キーワードに沿いながら、紀元前から現代、西洋から東洋までと幅広い、合計約4万点の国立美術館のコレクションの中から約170点の作品を厳選して紹介する」ことであるらしい。つまり美術館という制度を問うているのか、「名品」を紹介するのか、展覧会の目的がどっちつかずなのだ。4万点の中から約170点の作品がどのように厳選されたのか、その理由がよくわからない。例えばNaked/Nude のセクションだ。国立美術館の所蔵品から裸体に関連した作品を選ぶことは誰にとってもたやすい「キューレーション」であり、私は「これからの美術館」をテーマとした展示の中にこのような安易なキーワードが存在することに不審を感じる。さらにこのセクションに展示された裸体がほとんど女性であることにも驚く。ジェンダーについての申し訳程度の言及はカタログにもあるが、膨大なコレクションの中から選ぶ以上、単なる名品選ではなくもう少し批評的な視点を介在させることができなかったのだろうか。この項目に象徴的にみられるとおり、この展覧会ではそれぞれのキーワード、ことに美術館というテーマと直接の関係をもたないキーワードについては個々の作品が対応する必然性があまり感じられないのだ。もちろん国立美術館の所蔵作品であるから、作品のクオリティーは高い。しかし作品は「キーワード」を説明するために制作されたのではないはずだ。
 このブログの読者なら理解していただけると思うが、私は小説でも演劇でもメタ的な構造を好む。美術館/展覧会についての展覧会という発想は本来ならば、大いに私を楽しませてくれるはずであった。これに対して、今回の展示が煮え切らない印象しか残さなかったとすればその理由は明らかだ。この展覧会は美術館/展覧会へのメタ批評ではなく楽屋落ちに終始している。カタログの中でも触れられているとおり、美術館ないし展覧会を主題とした展覧会としてはいくつか先例がある。2001年、国立国際美術館における「主題としての美術館」、同じ年、東京国立博物館を会場とした「美術館を読み解く」、2002年、兵庫県立美術館の開館記念展「美術館の夢」あるいはこのブログでも取り上げた2010年、京都国立近代美術館における「マイ・フェイバリット―とある美術の検索目録/所蔵作品から」。これらの展覧会は私も見た覚えがある。このうちコレクションについてのメタ批評の域に達していた試みは「マイ・フェイバリット」のみである。むろんそれぞれに問題意識が異なるから一括して論じることはできないし、メタ・レヴェルであればよいという訳でもないことは十分に承知している。しかしそれらと比べても今回の展示は美術館としてのディーセンシーに欠けているのではないか。Handling という項目ではHanging の項目で展示されたミロスワフ・バウカの作品が東京国立近代美術館に搬入されてから展示されるまでの一部始終、カトーレックの作業の人たちの仕事ぶりが記録として映示されている。私はこの映像に恥ずかしさを覚えた。作品の展示が作業員たちの入念な仕事によって保証されていることは学芸員であれば誰でも知っている。しかしそれを一般の来場者にことさらに公開する必要があるだろうか。これに対してCuration の項目には「ここでは、本展の企画準備段階で生まれた資料類を展示することで、われわれ自身のキューレーションの一端をさらけ出すことにする」という何やら得意げなテクストとともに展示室の模型を前に作品配置について協議する本展の「キューレーター」らしき人々の写真が掲載されている。このような仕事は学芸員であれば(国立美術館ほど恵まれた環境になくとも)誰でも行っていることだ。私にはこのような作業は来場者にことさら見せる必要もないし、見せるべきでもないという信念がある。自分たちの「苦労」を誰にも知らせることなく展示に組み込むことが私たちの世代の学芸員の美学であったが、若い「キューレーター」たちは展覧会を通して自分たちの「苦労」を来場者たちに知らせたいらしい。さらに言えば、私の感覚では美術品の専門業者ではなく「キューレーター」こそがHandlingの項目に挿入されるべきではなかったか。あるいはMoney の項目では作品の展示はなく、日本の国立五館の収入(交付金をを含む)をルーブル美術館、ニューヨーク近代美術館のそれと比較した表が掲出されている。カタログにあるとおり、「これをどう読むかは、立場によって異なるだろう」が、少なくとも直示的な意味としては日本の国立美術館は欧米の美術館よりはるかに少ない収入で運営されているということであろう。国立美術館に国威の発揚を求める政治家であれば、憤って予算をつけてくれるかもしれないが、今日、日本の美術館において国立館が一人勝ちの様相を呈していることは美術館関係者であれば誰でも知っている。おそらくこの展覧会で美術館の楽屋落ちを楽しむ多くの学芸員たちに決して愉快な印象を与えることのないメッセージである。
 私は今回の企画の意図そのものには共感する。先にも述べたとおり、これほど大規模な展示でなくても、例えばコレクション展の一角、今回も「事物」という興味深い展示がなされていたくらいのスペースで、美術館や展覧会そのものに批評を加える展示を組織することは可能なはずだ。ワイヤーや額縁、作品が収められていたクレート、さらには(私自身であれば展示に加えることを躊躇するが)作品の調書といったアイテムが美術館や展覧会に対して果たす批評性はこの展示をとおして理解された。この場合、ことさらに作品を用いる必要はない。私たちは優れた作品に出会うために美術館や展覧会に通うのであって、気の利いた「キューレーション」の例証や図解として作品が引用されるのを確認するためではないのだから。
 蛇足かもしれないが、関連して最後にもう一言述べておく。今年は高松次郎をめぐる二つの大きな展覧会が東京国立近代美術館と国立国際美術館で開催された。ともに国立美術館を舞台としているが、実は別々の展覧会であり、展覧会としては国立国際美術館の「高松次郎 制作の軌跡」の方がはるかに印象的であった。理由はきわめて単純だ。国立国際美術館の展示では常設展示も全て使用して、圧倒的に多くの作品がクロノロジカルにきわめてシンプルに展示されていたからだ。これに対して東京国立近代美術館の「高松次郎 ミステリーズ」においては、タイトルが暗示するとおり、三期に分類された作品群をそれぞれ一人の学芸員が解き明かすという趣向で構成されており、配置も複雑であれば解説もやたらと多かった。難解とされる高松の作品を来場者にわかりやすく解き明かそうという後者の意図はわからないでもない。しかし来場者の啓蒙を前面に押し出す美術館の姿勢は私にはいささか押しつけがましく感じられた。高松の作品は確かに難解かもしれないが、誰かにその意味を解き明かしてもらわずとも十分に存在感があり、魅力的である。そもそも私たちは作品を見に来たのであり、作品の解釈を学びに来た訳ではない。「ミステリーズ」と「事典」、二つの展覧会が真犯人やら定義やら、一義的な答えを必要とする説話や書物をタイトルに付している点は暗示的だ。
 展覧会を組み立てることの困難は重々承知しているが、今や会場デザインやグラフィックデザインまで専門家を雇って(これについても言いたいことは多いが、ここでは控える)展覧会を実施する余力のある美術館は国立館以外にほとんど存在しない。この展覧会は独立行政法人国立美術館がいわば総力で取り組んだ展覧会のはずだ。異論もあろうが、あえて苦言を呈すゆえんである。
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by gravity97 | 2015-07-18 17:36 | 展覧会 | Comments(0)

バーネット・ニューマン「十字架の道行き」

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 ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵のバーネット・ニューマン「十字架の道行き」連作14点が信楽のMIHO MUSEUMで特別展示されるとの情報を得た時には二重の意味で驚愕した。このような展覧会が日本で開かれることが一つ、そしてMIHO MUSEUMという会場で開かれることが一つ。しかしいずれにも理由があった。まずワシントン・ナショナル・ギャラリーは現在改修中のため、作品の大規模な貸し出しが可能となったようである。そういえば先日も私は三菱一号館美術館で印象派を中心にしたこの美術館のコレクション展を見たばかりであった。ニューマンの14点組はミュージアム・ピースと呼ぶべき作品であるから通常であれば貸出しはありえない。(唯一の例外は作家の回顧展であろう。私は2002年、テート・モダンで開かれたニューマンの回顧展でこの作品を見ている)このような機会に、こともあろうに日本への貸与が実現したことは奇跡のように感じられるが、これには二番目の事情、つまりMIHO MUSEUMという会場が関わっている。この二つの美術館はいずれもI.M.ペイが建築を手がけており、建築がとりもつ縁でこのような展覧会が可能となったらしい。私は以前にもMIHO MUSEUMを訪ねたことがある。レセプションから美術館まで電気自動車で向かう行程はロスアンジェルスのゲッティ・ミュージアムを連想させ、地上から楽園へ、宗教法人でなければありえない豪奢な造りの美術館である。しかしコレクションに現代絵画は含まれておらず、展示はガラスケースが多用されるから、果たしてニューマンの大作が映えるのだろうか。このような懸念は会場に入るや霧消した。ゲストキューレーターにポロック展の大島徹也氏を迎えた展示はさすがによく練られている。出品作は連作14点、そしてこの連作に深く関係する《Be Ⅱ》のみに限定され(ワシントン・ナショナル・ギャラリーはこのほかにもニューマンを所蔵しているから、ニューマン展と銘打って点数を増やすという選択肢もありえたはずだ)、特別展示室ではなく狭い常設展示室に八面の壁を設えて、集中的な展示がなされていた。展示効果は劇的といってよい。その完成度において私は以前このブログでも論じた川村記念美術館でのロスコ展を想起した。今述べたとおり、私はこの連作を2002年にロンドンでニューマンの回顧展でも見ている。その際にも強い印象を受けたが、今回とは比較にならない。これらの作品は回顧展の一部としてではなく、あくまでも独立した連作として見られるべきであろう。それどころか展覧会全体の印象としては今回の方が強いかもしれない。まさにモダニズム絵画の絶頂を画する作品であり、必見の展示といえよう。
b0138838_21515662.jpg 「十字架の道行き Stations of the Cross」とはキリスト教美術にとって伝統的な図像の一つである。キリストが死刑を宣告され、十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩み、そこで磔刑に処されるまでの物語を14の場面に分けて描くものであるが、場面が多すぎるせいか、「聖衣剥奪」といった図像が単独で描かれることはあっても連作として知られる例としてはマティスのヴァンス、ロザリオ礼拝堂の装飾プランしか思い浮かばない。マティスの作品に関して岡崎乾二郎が「ルネサンス 経験の条件」の冒頭で詳細な分析を加えたことは記憶に新しい。私たちはまずニューマンがここに展示された連作を長い期間にわたって制作した点に注目しなければならない。《第一留》と《第二留》が1958年に制作された後、この連作は基本的に二年間に二点ずつというペースで制作され、1966年に最後の二点が完成された。つまり連作の開始から完成までには8年もの時間が費やされている。これらの作品は66年にニューヨークのグッゲンハイム美術館で、今回も展示された《Be Ⅱ》とともに初めて公開された。これらの連作に関して私は二つの事実を指摘しておきたい。一つは遅さである。14枚の作品は8年の年月をかけて制作された。少し長くなるが、ニューマンのステートメントを引用する。

 誰かが私にこれらの「十字架の道行き」をつくるように求めたのではない。それらはどこかの教会から委嘱されたものではない。それらは慣例的な意味における「教会」芸術ではない。だがそれらは私が感じ理解するところの「受難」にまさにかかわっている。そして私にとって一層重要なことは、それらが教会なしに存在しうるということである。
 私はこれらの絵画を8年前に始めた。何であれ絵画を始めるに際して私がとってきた仕方で、つまり描くことによって、自分が何か特殊なものをここで扱っていることに思い至ったのは作品を描いているさなかのことであった。(そのとき私は4番目のものに取り組んでいた)あの瞬間、それらの絵画がもっていると感じられた強度が、私に「十字架の道行き」のことを思い起こさせたのである。

 作家が述べるとおり、委嘱された仕事ではないから期限があった訳ではなかろう。しかし今回のカタログの論文にもあるとおり、当時ニューマンは不遇の中にあった。ほかの抽象表現主義の画家が華々しい成功を収める中で、作品は売れず、57年には最初の心臓発作が作家を襲っている。しかし逆境の中にあっても作家は実にゆっくりとしたペースでこの連作を制作している。上の引用にあるとおり、自分が何を扱っているかを想到したのが四番目の作品を制作している時であったというから1960年、最初の作品を描き始めてから2年後のことである。作家自身も自分が何を描いているのか理解するまでに2年もの時間がかかったのである。それはニューマンにとって初めての体験ではなかっただろう。1948年、作家にとってブレークスルーとなる《ワンメントⅠ》の制作の途上で、作家は自分が何をしたかを確かめるために作品をイーゼルの上に留めたまま数ヶ月にわたって思考したことが知られている。ジップ絵画、そしてこの連作は作家にとってもそれがどのような意味をもつかを確信するまでに長い時間を必要としたのである。もう一つの事実も《ワンメントⅠ》との比較が有効だ。色彩や構図といった要素を可能な限り排除した二つの絵画は垂直のジップのみによって成立する点で共通している。しかし根本的な相違として《ワンメントⅠ》は一点の作品として構想されたのに対して、「十字架の道行き」は二点ずつの組として描かれている。絵画が対として構想されている点が二番目の事実だ。《第一留》と《第二留》は1958年に制作され、《第三留》と《第四留》は1960年といった具合に二年ごとに二点というペースがほぼ踏襲されている。
 先にも述べたとおり、「十字架の道行き」はよく知られた物語であり、伝統的な図像である。しばらく前に私はメル・ギブソンの「パッション」を見て、この道行きの苛酷さと凄惨さをあらためて思い知った。もちろんニューマンの作品にはキリストはおろか具象的な対象は一切描かれていない。色彩は白と黒に限定され、注目すべきは地塗りされないカンヴァス、いわゆるロウ・カンヴァスが導入されている点だ。ただし今回、作品を実見して初めて気づいたが、作品中、《第十二留》(主題としてはキリストの死、クライマックスとなる箇所だ)は黒ではなくグレーが用いられている。きわめて微妙な色調の変化なので、実物を見なければわからないし、複製をとおした場合、今回のカタログのような大図版で、あらかじめ差異を見出そうとしなければ識別することの困難な相違である。ロウ・カンヴァスの意味については後で論じる。もう少し子細に作品を見てみよう。198×153cmという作品のサイズは14点とも同一であり、作品の構造もおおむね相似している。《第十四留》など面的な構成がとられた数点を除いて、垂直のジップが画面の左端と画面に向かって右四分の一あたりに貫入している。ただしジップは時に絵具を塗り込んで、時に塗り残して実現されており、色彩の存在と不在、ポジとネガとして成立している。画面にはニューマンとしては比較的珍しい刷毛や滴りの跡が残されているが、興味深いことには多くイメージの右側に残されているため、全体としてこの連作は左から右への方向性を帯びている。今回の展示においても、《第一留》から《第十四留》までは展示室内で時計回りに、つまり左から右へ向かって陳列されている。カタログで確認する限り、64年のグッゲンハイム美術館においても同じ方向性を伴って展示されていた。この点においても《ワンメントⅠ》との比較は有効だ。《ワンメントⅠ》は比較的小品であるが、シンメトリカルな構成をとり、観者に対して垂直的で直面的な印象を与える。時に崇高に擬されるニューマンの絵画における特殊な享受の体験はこのような直接性、そして非時間性と関わっている。モダニズム絵画の知覚の特殊な時間性はマイケル・フリードがミニマル・アートを批判する根拠となった。ニューマンの絵画における時間性はこれとは異なり、作家自身のテクスト「崇高はいま」にいたる豊かな問題群を形成しているが、ここで詳述することは控える。私が指摘したいのは「十字架の道行き」においては明らかに《ワンメントⅠ》とは異なった時間性へのアプローチが用いられている点だ。そこでは一枚の絵画ではなく連作として一つの主題を確立することがめざされている。この連作の主題については先にも引用したステートメントの中でニューマン自身が次のように述べている。「レマ―何のために?―という叫び、これが〈受難〉であり、私がこれらの絵画において喚起しようと試みたものである」レマ・サバクタニ、何故私をお見捨てになったのですかという十字架上のキリストの叫びはこの展覧会のサブタイトルとして与えられているほどに重要である。4枚目の絵画を制作する中で初めて得られたというこの主題はこの連作においていかに実現されているであろうか。
私の予断を述べよう。ニューマンにおいて絵画の主題は、私たちの体験の審級を知覚から事件へと転じることによって実現されている。通常私たちは絵画を視覚的に認知する。絵画とは視覚的であるがゆえに、図版を介しても再現可能であり、作品に直面せずとも同じ経験が与えられるとみなされてきた。しかしニューマンの絵画の知覚はやや異なる。先に色彩に関して述べたとおり、一見黒に見える色彩は実見するならば濃いグレーであり、図版として再現するにはあまりにも精妙なのである。おそらく同様の困難は例えばロスコの絵画にも認められる。ロスコ・チャペルの深い紫の壁画は天井から差し込む自然光の効果とも相俟ってその相貌を刻々と変える。抽象表現主義の大画面はその巨大さゆえに単純な視覚的体験に還元されない特殊な視覚を形成する。ニューマンの大画面は観者の身体を函数として成立しており、見る者に対していわばその場限りの知覚を与える。作家自身が鑑賞に際してなるべく作品に接近するように求めたというエピソードはこのような知覚の成立に関与している。このような体験がミニマル・アートの作家たちに大きな示唆を与えたことに疑いの余地はない。一度きりの視覚、再現されない視覚とは知覚ではなく事件と呼ばれるべきではないか。さらに「十字架の道行き」においては作品のみならず、観者も事件の契機となりうる。キリストが十字架を背にヴィア・ドロローサを歩んだように私たちも時間をかけて絵画の中を歩むのだ。私たちが事件を体験することによって主題が実現されると言ってもよかろう。私はワシントンを訪れたことがないので、ナショナル・ギャラリーでこれらの作品がどのように展示されているか知らない。しかし作家の生前になされたグッゲンハイム美術館での展示の写真を確認する限り、観者は建築の構造上、《第一留》から《第十四留》までを順番にたどったはずだ。この行程は不可逆的だ。つまり一つの方向性とともに展示室をめぐることが作品の構造に組み込まれている。ニューマンのジップ絵画に特徴的であった、瞬時的あるいは非時間的な知覚と、「十字架の道行き」の知覚は大きく異なる。この点はカタログの中でも次のように指摘されている。「《ワンメントⅠ》などの作品が『私はここにいる』という高らかな宣言を引き出すものだとしたら、〈十字架の道行き〉は『私はどこにいるのか?』という疑問を提起しているように思われる」私たちは「十字架の道行き」において複数の場所、複数の時間をもつ。ニューマンは「場の感覚」の重要性について繰り返し論じている。通常のジップ絵画において私たちが絵画によって「場の感覚」を与えられるのに対して、「十字架の道行き」においては私たち自身が「場の感覚」をつかみとらなければならない。ジップ絵画の単数性に対して「十字架の道行き」の複数性。最初に述べたとおり、この連作が二点ずつ対比されつつゆっくりと制作された事情はかかる問題と関わっているだろう。
 グッゲンハイムの展示に際して、ニューマンは連作とは直接関係をもたない《Be Ⅱ》を加えて15点の作品を展示した。「復活」という別称から、《Be Ⅱ》は端的にキリストの復活を暗示しているとみなされている。両端にオレンジと黒が細く塗り込まれたこの作品も構図において特異である。私はこの作品にニューマンがあえて「存在せよ」というタイトルを与えた点に興味をもつ。カバラ的解釈に立つトマス・ヘスはこれをユダヤ教において創造主が被造物に発する命令であると理解する。しかし私はこの命令は私たち観者にこそ向けられているのではないかと考える。つまり絵画という場の中に「存在せよ」と命じられているのだ。「十字架の道行き」において色彩が白と黒に限定されていることはすでに述べた。このほか地塗りされないロウ・カンヴァスも作品の重要な構成要素だ。ニューマン自身もロウ・カンヴァスが必要に迫られて導入されたと述べ、次のように続ける。「それは数ある色彩のなかのひとつとしてではなく、(中略)私は素材それ自身を真の色彩へとつくりかえなければならなかったのである。白い光のように、黄色い光のように、黒い光のように」ロウ・カンヴァスは色彩ならざる光として導入されたのである。「十字架の道行き」がモノクロームと光によって描かれているとするならば、それは「教会なしの受難劇」の表象にまことにふさわしい。これに対してオレンジという「数ある色彩のなかのひとつ」が加えられた《BeⅡ》とは神意ではなく世俗、神に対する人、受難を目撃する民衆、あるいは作品に対する観者の位置を占めると考えるのはいささか安易な発想であろうか。ニューマンの絵画の前に立つ時、私たちを満たす圧倒的な感情については多くが論じられてきた。「十字架の道行き」をめぐりながら、私たちは作品の主題から現実の展示まで重層的に「場の感覚」が実現されていることを知る。本来ならば作品が設置された場でなければ体験できないかかるセンセーションをもはや《アンナの光》なき日本において体験すること、それはまさに一つの奇跡といえよう。

by gravity97 | 2015-04-22 21:54 | 展覧会 | Comments(0)