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 既に終了した展覧会であるが、国立国際美術館で開かれた「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」についてレヴューを残しておきたい。会期の長い展覧会ではよくあることだが、私自身、会場を訪れたのは終了直前であり、すでに販売用のカタログは売り切れていた。もちろん彼らの活動については以前から知っていた。私は90年代に関西の美術館で開かれ、このグループが参加したいくつかの集団展を訪れているし、2011年に今回と同じ会場、同じ学芸員によって企画された「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム」も見ている。しかしそれらにおいては集団展の一角として紹介されたためであろうか、いずれの場合もさほど強い印象を受けることがなかった。しかし今回、あらためてその活動を回顧する展覧会に足を運び、多くの発見があった。この集団が世界的にみても類例のない特異な活動を繰り広げてきたことを今さらながら思い知る。
 今、発見という言葉を用いたが、むしろ私は今までこのグループについていかに無知であったかという点を今度の展示で認識した気がする。まず驚いたのは、プレイという集団が今もなお存在しており、活動を続けているということだ。確かに私は今触れた「風穴」、あるいは最近では2015年の堂島リバービエンナーレにおける発表に立ち会っているから近年の活動自体は知っていた。しかし私はそれらの発表を展覧会にあたって作品が再制作もしくは再演されたものだと思い、過去の活動から切り離して理解していた。しかし今回の展示とカタログを見て驚く。頻度こそ減っているものの、彼らは1990年代にも独自の活動を続けており、今日にいたるまで活動を継続しているのである。このような事情も含めて、まずカタログの冒頭に表記されたこのグループの「略歴」を引用しておく。

プレイ略歴
関西を中心に1967年から活動。現在プレイとして活動するのは池水慶一、小林愼一、鈴木芳伸、二井清治、三喜徹雄の5名。メンバーは流動的で、何らかのかたちでこれまでプレイに参加した人数は100名を超える。発泡スチロール製のイカダで川を下る。京都から大阪へ羊を連れて旅をする、山頂に丸太材で一辺20メートルの三角塔を建て雷が落ちるのを10年間待つなど、自然の中で「行為」を計画し、実行し、その体験を日常に持ち帰ることを繰り返している。

 活動を開始した時点は定められているが、終えたとは記されていない。67年から数えれば今年でちょうど半世紀である。私の知る限り、半世紀の長きにわたってハプニング(この言葉の当否については後で論じる)を繰り広げた集団は世界に類例がない。さらに構成員についての知識もお粗末であった。歴代のメンバーのうち、私は池水慶一と安土修三(ガリバー)の名しか知らない。彼ら二人が個人としても活動しているためであろうが、これは私の無知ばかりによるのではなく、プレイが固有名のない集団として活動したことを暗示している。同時代の二つの集団と比較することによってプレイの独自性を明らかにすることができるだろう。略歴の中に「流動的」という言葉があったが、この言葉から連想されるのはいうまでもなくフルクサスである。綱領なきハプニング集団という点で両者は共通するが、フルクサスにはたとえばジョージ・ブレクト、ディック・ヒギンズといったよく知られた作家が加わっており、私たちは集団というよりも、むしろこれらの作家が束ねられた共同体としてフルクサスをイメージする。彼らの活動は個別でばらばらな印象があり、必ずしも共通性をもたない。一方、プレイに先行して日本にもハイレッド・センターという集団が存在した。名称こそ高松、赤瀬川、中西の頭文字をとっているが、彼らの活動は匿名性をその本質としていた。ハイレッド・センターについては先般展覧会の形で検証され、このブログでもレヴューしたとおりである。活動期間は4年に満たず凝縮感は強い。これらと比べるならば、プレイの活動は固有名と匿名性をともに欠いたゆるやかな輪郭をもっている。彼らが活動を始めた時期を考えるならば、関西ではまだ具体美術協会が影響力を有しており、多くの美術団体も含めて、縦のヒエラルキーを有した集団が割拠していた。この一方、京都アンデパンダン展、さらに京都ビエンナーレなどを舞台に集団によらないアナーキーな作家たちの活動も時代の気風を形作っていた。(ここでは詳しく論じる余裕がないが、京都市美術館を舞台にしたこれらの展覧会は今なお十分に総括されていない。関係者が存命のうちに是非とも調査、ないし展覧会として検証する必要性を感じる)これらと比較する時、ゆるやかにまとまりつつ、プロジェクトごとに構成員を違えて活動を持続させるプレイの戦略は独特であり、結果的に半世紀にわたる活動の持続を可能にしたように感じる。今回の展覧会カタログではプレイの活動がクロノロジカルにまとめられており、活動を概括する充実したテクストとともに、今後貴重な資料となることだろう。
b0138838_20271641.jpg 展覧会の所感をいくつか記しておく。会場には「雷」と題されたプロジェクトにおいて京都府相楽郡、鷲峰山・大峰山の山頂に設えられた三角錐が再現され、「現代美術の流れ」において使用された矢印型の発泡スチロールのイカダが設置されている。しかしこれらを除いて、かたちを伴った「作品」は少ない。そもそもこれらもプロジェクトに使用された「道具」にすぎず、オリジナリティーや真正性が重視される「作品」ではない。展示されているのは映像を含めた資料が大半であり、会場はさながらプレイのアーカイヴのごとき様相を呈している。会期中にアーカイヴに関するシンポジウムがあったと記憶するし、アーカイヴの問題は今日の美術館にとって一つの焦点をかたちづくっているが、これについては措く。作品の不在は先に触れたハイレッド・センターの展覧会と鋭い対照を示している。ハイレッド・センターを回顧するにあたってはオブジェの展示が中心となり、作家たちはそれぞれに紐や梱包、あるいは洗濯挟みといったオブセッシヴな品や手法を用いて多くのオブジェを制作した。これに対して、今回の展示では作品ならざる資料、パンフレットや様々の記録、映像や写真が整然と配置され、半世紀にわたる彼らの活動をコンパクトに理解することができる。資料展示といえば通常無数の資料がケース内に積み重ねられた雑然としたそれを連想するが、今回は会場に並べられた同じ規格の木製パネルに資料類が整然と展示され、きわめてスタイリッシュな印象を受けた。会場の展示デザインは作家、学芸員のいずれの手によるものであろうか。近年、展示構成には展示デザイナーや建築家が関わる場合が多く、しばしば担当者の名前がクレジットされる。この点について会場もしくはカタログに説明があってもよかったのではなかろうか。インスタレーションならずとも現代美術の展示に関しては会場デザインを誰が決定するかという問題も今後、美術館や展覧会にとって一つの課題となるように感じるが、これについてもこれ以上は触れない。ここで私が確認したいのは、プレイの「ハプニング」が本質においてオブジェを志向していないという点である。この点は今回紹介された彼らのプロジェクトを一瞥する時、直ちに理解できる。落雷を待つ、イカダで川を下る、羊を連れて旅する、それらはすべて動詞形で示される。カタログの章立ても「旅する、暮らす、流れる」「風景を変える」「体験する」といった動詞によって区別されている点は象徴的である。かつてリチャード・セラも動詞のリストを掲げ、それに従って素材を加工した。セラのリストが他動詞であったのに対して、プレイのリストは自動詞だ。彼らの行為は何かに受肉されることがない。例えば1976年の「風」という作品は、北海道、宗谷のサロベツ原野を5日間にわたって風の吹いてくる方向に向かって歩くというものであり、確かに会場には前屈みに草原を歩く作家たちの姿を撮影した写真が展示されていたが、記録は残ったとしても、このハプニングは実体を伴わない。カタログテクストの中で富井玲子はプレイのハプニングをプロジェクト協働系と儀式系の二つに分けているが、野外に置かれた白い十字の布や巨大な旗が今回展示されていなかったことからも理解されるとおり、プレイの場合、儀式系のハプニングにおいて使用されたオブジェもフェティッシュ化されることがない点は注目されてよい。ハプニング芸術の創始者アラン・カプローの場合、「アッサンブラージュ、エンヴァイロメンツ・アンド・ハプニングス」という著書のタイトルが暗示するとおり、ハプニングはオブジェの集積、演じられる環境と深い関係を有した。カプローが提唱するハプニングはポロックのアトリエや60年代の一連のジャンクアートにおける環境に由来し、プレイのそれとは起源を違えている。プレイは早い時期からハプニングという言葉を用いているようであるが、彼らの活動をカプローに由来するハプニングの変種とみなすか否かは微妙だ。この点を富井は彼女の言う「世界美術史」におけるローカル・ヒストリーの一つとして興味深い議論を展開している。私はプレイの「ハプニング」、オブジェに収斂しない行為を端的に一種の演劇とみなしてはどうかと考える。なぜならばプレイの場合、「ハプニング」はしばしば起点と終点をもつからだ。それは「現代美術の流れ」にみられるように宇治川塔之島付近から中之島東端までといった空間によって区切られる場合もあれば、「雷」の10年間、「風」の5日間といった具合に時間的に限定される場合もあるが、いずれにせよ始まりと終わりという時間的な枠組をもつ。このような構造は美術より演劇に近い。そして演劇という項を得て、新しい関係線が引かれる。プレイの場合、一つの「ハプニング」に要する時間はかなり長い。「現代美術の流れ」においては12時間、「羊」においては京都から神戸に向かう羊をつれた野宿の旅は当初8日間が予定されていた。(高槻で終了したのこと)あるいはウォルター・デ・マリアを連想させながらもそれより早い「雷」が10年間と期間を区切って続けられたことは述べたとおりだ。プレイの場合、メンバーたちが繰り広げる行為は作品の制作というより労働に近く、多くの場合集団的で肉体的な労働である。私はこれらの活動から「合宿」という言葉を想起した。一つの集団がある目的に向かって一定の期間、寝起きを共にして作品に向かう姿勢から私は維新派の野外劇を連想した。そもそも会場内に設置された丸太組から私は2010年に犬島で見た彼らの演劇を連想したのであるが、実際に松本雄吉とプレイは接触があったようである。今回のカタログの謝辞にも松本の名があり、ともに大阪教育大学の出身である。両者の関係については今後の研究が俟たれる。
b0138838_20284091.jpg 維新派とプレイの共通点はもう一つある。それは多くの場合、ハプニングが野外で演じられたことである。しかし時に維新派が屋内もしくは劇場で公演を行ったように(それらのレヴューは以前に記したとおりだ)、プレイも時に美術館を舞台とした発表を行っている。カタログの中で「美術館を解き放つ」と題された章で紹介された発表がそれだ。残念ながら私は未見であるが、いずれも相当にラディカルな試みだ。中でも1980年、兵庫県立近代美術館で開かれた「アート・ナウ ‘80」で発表された作品は会期中、美術館の東側の大窓を外し、展示室内に移動するという内容である。言うは易しという言葉通り、これがとんでもないことであることは学芸員ならずともすぐにわかるだろう。これによって展示室内の空調が無効化され(作家たちは「部屋が呼吸を始め、気流の中にある」と表現した)防犯上の問題も発生するはずだ。管理的、官僚的になった今日の美術館では不可能な試みであり、当時の美術館の度量を感じさせるエピソードである。窓が展示室の中にあることそれ自体は驚くに値しないかもしれないが、そのために必要とされた交渉、作業を想像することが見る側に試されるのだ。このような作品の在り方は私に重量物を移動させるマイケル・ハイザーの作品を連想させた。アースワークという補助線を引くならば、「京都ビエンナーレ 集団としての美術」、あるいは同じ兵庫県立近代美術館で開かれた「明日の美術館を求めて―美術劇場」に出品された作品はいずれも展示室内に設置された作品と野外に置かれた作品、もしくは特定の場所との関係を主題としている点においてロバート・スミッソンの「サイト/ノンサイト」を想起させないだろうか。これらに対して今回の展示では、同様に美術館を舞台としながらもかかる過激さが影を潜め、文字通りこれまでの活動の回顧に終始した印象がある。もっとも「風穴」の場合は会期終了後に展示されていたイカダを用いて「現代美術の流れ」の再現(カタログによれば「続き」)が演じられているから、今後この展覧会を契機として結成50周年を迎えたこの集団によって思いもかけないハプニングが挙行される可能性があることを指摘しておきたい。
 最後に論じておきたいのは記録の問題だ。先に述べたとおり、プレイの場合、行為はかたちをとらないが、彼らは概念を提示するコンセプチュアル・アートを目指している訳ではない。両者は明確に区別されなければならないだろう。この時、行為を記録することの重要性が浮かび上がる。興味深いことには、一連の記録写真にはイカダに乗り、巨大な卵を洋上に浮かべ、雷を待つ櫓を組み立てるメンバーたちの様子が記録されている。この点は行為する者を記録する者が外部にいたことを暗示している。行為に没入するのではなく、行為しつつ、それを記録するという冷静な意志がそこには存在していたのである。したがって彼らが三回にわたって新聞を発行し、四回にわたって詳細な資料集を刊行していたことは驚くに値しない。残念な点はこれらの資料を今日入手することが困難なことである。今回の展示を見て、なおも膨大な資料が残されていることを私は確信することができた。今後、これらの資料がアーカイヴとして整理され、可能であれば資料集もしくはインターネットを介して私たちもアクセス可能となることが望ましい。ハイレッド・センターそして九州派については近年美術館の手によって、活動の全幅を十分に参照することが可能な資料集が発行されている。黒田雷児の大著をはじめとして、痕跡を残さない行為を主体とした美術活動についてもようやく近年美術史の中に回収する作業が進められている。今回のカタログはコンパクトでわかりやすいが、個々のハプニングについての情報がやや少ない。彼らの活動を世界的に位置づけるうえでも、入手しやすくさらに詳細な資料集の整備を期待したい。
by gravity97 | 2017-01-28 20:35 | 展覧会 | Comments(0)

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 東京国立近代美術館に「endless 山田正亮の絵画」を訪ねる。素晴らしい展示であったが、それゆえ山田正亮という画家の不幸についてあらためて思いをめぐらす。山田については1990年に美術出版社から作品集が刊行され、生前の2005年には府中市美術館で展覧会が開催されているから、これまでもその画業を知ることは必ずしも困難ではなかった。しかし山田については経歴、そして作品についてかねてから疑問が呈され、これらが枷となって国立美術館レヴェルでの回顧的な作品の検証が困難であった。展覧会の挨拶にある「2010年の画家の逝去を経て6年、今私たちは、彼の社会へのある種独特な向き合い方に対して毀誉褒貶が重ねられてきた生前の状況から距離を取り、山田正亮の生と作品の総体を冷静にみわたすことができるようになったといえるでしょう」というもってまわった言い回しはこういった事情を暗示している。多くの困難を克服して開催された今回の展覧会については関係者の労を多とするとともに、そもそもかかる困難も作品の本質と深く関わっていたのではないかと思う。
 私の知る限り、山田については作家と作品に対して、二つの疑惑が指摘されていた。一つは当初、画家の経歴として記されていた「東京大学文学部中退」が詐称であるとされた事件であり、これによって同じ東京国立近代美術館でかつて予定されていた回顧展がキャンセルされたという。一方、作品についても制作年代を偽った、あるいは近作を過去作として発表したという疑惑がささやかれてきたという。今回の展覧会カタログでは巻末の「編集されざるもの―年譜にかえて」という企画者による長い注記によって両方の疑問について答えられている。すなわち前者については1990年頃までの出版物に記載されていた「1954年 東京大学文学部中退」という履歴の記載が1994年の『美術手帖』1月号において「東京府立工業高専卒」と修正されたが、いずれについても記録による裏付けはなされていないというものであり、後者については展覧会を準備するにあたって計1,100点以上の作品を実見し、そのうち4割以上については専門家による科学的調査を行った結果、「1.100点のうち数点、画面に損傷が生じた作品について、作者本人が経年後手を加え、その結果当初の画面をとどめていないと判断できるものが見出された。とはいえ、新作を意図的に旧作として発表するという『年代詐称』にあたるようなケースは見られなかった」と記されている。慎重な物言いではあるが、この展覧会を開くことの意義を強く確信した企画者の思いが伝わる内容である。しかしそもそもモダニズムの画家にとってこれらは問題となるような瑕疵であろうか。むろん学歴詐称は不正である。しかしながら私たちがモダニズムの絵画に求めるのは作品の質であって作家の意図や人格、ましてや学歴ではない。例えば藤枝晃雄のごとき日本におけるフォーマリズム批評の第一人者がこの点を理由に山田をことさらに批判することに私はかねてより不審を感じていた。これについては事実関係の確認の問題であるから今後の検証に任せるとして、私にとってより重要に感じられるのは作品の制作年の問題である。これについても例えば制作年を偽って作品を売買したような事実があれば、一種の犯罪であろうが、今引用した箇所からも明らかなとおりそのような事実はない。今回のカタログに作品の科学的分析についての論文が寄せられ、会場にも同じ問題に関する説明パネルが掲出されている点は、かかる批判への反証であろう。
 作品の本質と無関係なゴシップ的な話題に紙幅を費やすことは消耗的であるが、学歴の問題はともかく作品の制作年の問題は山田のみならずモダニズム絵画の在り方全般と関わる。私の理解ではモダニズムの絵画は多く次のような特質を秘めている。まず作家は多作であり、作品はシリーズによって深められ、シリーズによる作品の変化は劇的である。例えばピカソが好例だ。ピカソほど旺盛な作品制作で知られる作家はほかに例がなく、青の時代に始まり、キュビスムからシュルレアリスム、ばら色の時代へと同じ作家とは思えないほどの激しい変化をみせながらも常に時代の先端で活動を続けた。戦後においても多作とシリーズ制作で知られる作家としては例えばモーリス・ルイスとフランク・ステラを挙げることができよう。ルイスは早世したにもかかわらず600点に及ぶ作品を制作し、しかもほとんどがヴェイル、アンファールッド、ストライプという三つの類型のいずれかに分類される。ステラもことに初期から中期にかけてはブラック・ペインティングに始まるいくつものシリーズによって作品を深めてきた。このうちルイスについては初期に制作したアンフォルメル系の絵画については作品を処分したため、今日カタログ・レゾネを参照しても確認することが困難である。画家がある時点で意に沿わなくなった過去の作品を処分するこということは決して珍しいことではない。独特の静物画で知られるジョルジョ・モランディが自らのイメージを固定化するために一部の作品を破棄し、のみならず批評家による批評にまでも介入した点については岡田温司がモノグラフの中で詳細に論じている。もっとも作品の成立にどの程度まで作家が関与するかという問題は単純ではない。以前の作品に後年作家が手を加えることは比較的よくあることであり、美術館泣かせである。私も作家が修復という名目で手を入れたため、美術館が収集した当時と様相を違えてしまった作品をいくつか知っている。あるいはデ・クーニングの有名な《女Ⅰ》も個展で発表され、ニューヨーク近代美術館が購入を決めた後も収蔵されるまでに作家が手を入れたというエピソードが残っていたと記憶する。
 山田の画業は典型的なモダニストのそれだ。展覧会の挨拶においては「絵画との契約」と表現された圧倒的な専心の結果、油彩と紙作品をあわせて5,000点にのぼる作品が残された。山田の作品がいくつものシリーズに分類されることは明らかであるが、山田はシリーズを名付けることすらせず、Workという総称の後に、50年代であればB、60年代であればCといった機械的な分類番号を割り振っている。初期の静物画から抽象に移行した後は、同心矩形やストライプといった一目で識別可能ないくつかのパターンをそれこそ数限りなく試行し、しかも新しいパターンへの移行は劇的である。海外の作家を視野に入れたとしても、先に述べたモダニズム絵画の条件をこれほど過不足なく満たした作家を思いつくことは困難であろう。このような作家に対して作家の成長とか作品の成熟といったクロノロジカルなモデルを適応することに果たして積極的な意味が見出せるだろうか。例えばルイスが制作した無数のヴェイル絵画に時間的な展開を求めることは困難であり、作品はいずれも非時間的な類型のヴァリエーションとして成立している。山田正亮の絵画もまた時間的な契機を欠いているのではないか。後で述べる通り、Workがアラベスク、同心矩形、ストライプの順に制作されたことは間違いない。しかし個々のシリーズ内のクロノロジーはたとえ作品番号がそれを暗示しているとしても確証がないし、そもそもそれを問うことに意味がない。制作された年代の不確定性が山田の絵画の本質と関わるというのはこのような意味においてである。
b0138838_20425376.jpgモダニズム絵画の範例として、山田の作品はこれまで形式的な観点から論じられることが多かった。さいわいにも今回の展覧会を契機として企画者の中林和雄、あるいは松浦寿夫、早見堯といった批評家たちが力のこもった作品論を発表しており、その一部は今回の展覧会カタログ、そして『ART TRACE PRESS』の02号、今回の展覧会に合わせるかのように発行された04号に掲載されている。また私は未読であるが、この研究会の報告書とも呼ぶべき書籍としてこのたび水声社から刊行された『絵画との契約-山田正亮再考』もミュージアムショップで目にした。今回、あらためてこれらの論文や鼎談のいくつかを読んで感じるのは、山田の絵画とフォーマリスティックな分析の親和性である。実際、『ART TRACE PRESS』の04号に掲載された対談においては、府中市美術館での展示の際になされた松浦と林道郎の公開対談に際して、当時、府中市美術館の館長であり、山田についても興味深い論文を執筆している本江邦夫が、話題が形式に集中し過ぎている点を叱責したといったエピソードも披露されている。実際、私は今回、今述べたいくつかの論文を集中的に読んで、山田の絵画についてのフォーマリスティックな分析はこれらにほぼ尽きているという印象さえもった。これに対して、本江、そして本江の論文を評価する峯村敏明はやや異なった観点から山田に論及している。知られているとおり、山田は1978年の康画廊での連続個展まで日本の美術界からほとんど黙殺され、学歴詐称問題が浮かび上がった頃からは一種の禁忌のごとく扱われていたから、この機会にこれらの目利きたちによる多くの批評を得たことは作家にとって幸いであった。しかしむしろこのような機会は作家の生前にこそ準備されるべきではなかったかと感じる。
 これほど多くの山田の絵画が公開されたことは初めてであり、私も大きな感銘を覚えた。今触れた文章の中で多くの論者も指摘しているとおり、山田の絵画は大きく三つの時期に分けることができるように思われる。まずStill Life と名づけられて番号が振り当てられた初期の静物画を中心とした具象的な作例。これらもあらためて通覧するならば実に興味深く、今後多くの研究を生むであろう。続いてWork という総称が与えられ、山田の作品の大半を占める膨大な作品群。これらの一連の作品は50年代後半にアラベスクとかジグソーパズルと呼ばれる Work B と呼ばれる作品群に始まる。これらのオールオーバー絵画も実に豊饒だ。山田の色彩感覚はすでにこの時点で完成していることが理解されるし、アンフォルメル旋風が吹き荒れていた当時の日本の美術界の中でかかる作品をこつこつと制作していた点は驚くべきことと感じられる。同心矩形をモティーフに扱った一連の作品に続いて、1960年頃より Work C と呼ばれる代表作、ストライプ絵画の制作が始まる。ヴァリエーションを伴いつつ会場に並べられた無数のストライプは圧巻である。続いて山田は一連のグリッド絵画、そして均等に機械的なストライプが反復される絵画を制作する。Work C と Work D に分類されるこれらの絵画も山田の代表作であり、この時期の最後、先に述べた康画廊における発表で山田は広く注目を浴びることになった。この後、80年代の Work E のあたりから作風はやや変化する。筆触が強調され、それまで描かれることのなかった斜交する線が描かれることとなるのだ。おそらく康画廊の個展である程度体系的に作品を通覧したこと、そしてもしかするとニューペインティングの抬頭も影響を与えていたかもしれない。ただし Work E そして90年代に始まる Work F は時に大きなサイズの作品が制作されることはあっても、これまでの作品と比べてやや甘く感じられることを何人かの論者が指摘しており、今回作品を実見して私も同じ印象をもった。そして三番目の時期を画すのは1997年に始まる Color と呼ばれる作品群だ。いくつもの色彩が塗り込められたそれぞれに異なるほぼモノクロームの色面から成る最晩年の作品は、作家がタイトルを違えたことが示唆するとおり、Workとは別の構造によって成り立っている。ただし今回の展示では冒頭に Color の連作が置かれているから、山田の作品を何の予備知識もなくまとめて見る者にとっては画業の展開を理解することは容易でないかもしれない。あらためてこれらを通覧して私は先に述べた二番目の疑惑が全く根拠のないものであることを確信した。山田の絵画の展開は決してわかりやすいものではない。しかしそこにはぶれることのない歩みがある。これほど真摯に絵画に向かい合った画家が意図的に作品を改作したり、過去作を模した作品を制作することはありえないだろう。むしろ私が関心をもったのは、Color における作品の突然の転調である。作家はこの理由を明確に語っている。すなわち1995年の時点で Work シリーズは「その円環を形成した」として、作家自らによって完了を宣言され、続くColor シリーズが始められたのである。峯村は山田のこのような物言いに「うそ臭さ」を感じたと述懐しているが、それは直線的に展開し、「円環を閉じる」ことがないモダニズム美術との間の違和感ではないだろうか。山田の場合、何がかかる円環を保証したか。展覧会を見て私はこの点を理解することができた。それは1948年から1972年までの年記をもつ自筆の制作ノート56冊である。その詳細についてもカタログ中で説明されているが、なんとも中途半端な年代の幅、その存在が知られたのが今世紀に入ってからであること、ノートでありながら配列や構成については可変的な可能性が残されていることなど、なお多くのテクスト・クリティークの必要が残されている。展覧会場にはこれらのノートも陳列され、カタログにもその一部が収録されている。絵画のスケッチとそれについてのコメント、日記的時事的な記録が混在するこのノートが制作に関する一種の覚え書であることは明らかだ。確かにこのノートには個々の作品についてのかなり具体的な説明や図示があるから、両者の密接な関係は明らかである。おそらく今後も両者の関係の究明は関係者によって続けられようし、文献や書誌を好む「美術史家」にとってかかるノートが恰好の研究材料であることもまた明らかである。しかし同時にこのようなノートの存在はモダニズム絵画の本質に反する。なぜならモダニズム絵画とは直接性によって特徴づけられており、図表や写真、なかんずく言語の介在を許容しないからである。この展覧会は典型的なモダニズムの画家の中心的な画業の展開を、間接的、言語的な二次資料によって保証するという倒錯を示しているとはいえないだろうか。
 かかる保証が成立しえない Color を、山田が初期作品同様に自らの画業から意図的に切断したことはおおいにありうる。さらにいえば、モダニズム絵画という圏域の外にあってもColorは画業の上に屹立しているという自負もありえたかもしれない。私はひとまずこれらの絵画についての判断を保留する。今回、あまりにも多くの作品を一度に見たため、山田の絵画を見る体験がいわば飽和状態に達して、個別の作品についての判断を下しかねるためだ。このような経験は私にとってもまれであるが、きわめて幸福な体験であったことを言い添えておく必要があるだろう。Color が図表的、言語的な補助を必要としない作品であったことは書き留めておく意味がある。そもそも色彩とは図示できず、言語による説明が困難な絵画の要素である。山田が「絵画との契約」の果てにかかる絵画へと逢着したことは私にはなにかしら暗示的な出来事であったように感じられるのだ。
 本ブログにおける展覧会のレヴューとしてはきわめて異例なことに、具体的な作品について論じる以前にほぼ紙数が尽きてしまった。最初に述べたとおり、かかる迂回を経たうえでなければ作品へと向かえないことは作家にとって不幸であるかもしれないが、私は山田の作品は総体として一つの体系をかたちづくっており、作品と同様にかかる体系、あるいは体系の外部について語ることを不可避的に要求すると考える。先に言及した関連文献において何人かの論者が指摘するとおり、かかるシステムは直ちに言語のそれを連想させる。したがって私は記号論を援用することによって、このような体系そして個々の作品についてさらに深い分析を加えることができるのではないかと考える。実際に今回のカタログに収められたテクストにおいては沢山遼がロマン・ヤコブソンを援用しながら、山田の作品を分析している。私はもう一度会場に足を運び、子細に山田のノートを確認しつつ、作品とあらためて向き合う必要を感じる。さいわい東京での会期は長く、終了後、京都国立近代美術館への巡回も予定されている。私は今後何度かこの展覧会に足を運ぶつもりだ。そしておそらくはもう一度、作品のレヴェルにおいて山田の画業について論じることとなるだろう。
by gravity97 | 2016-12-23 20:44 | 展覧会 | Comments(1)

「小泉明郎 CONFESSIONS」

 京都芸術センターで開催されていた「小泉明郎 CONFESSIONS」を訪れた。会期の最終日に訪れたために事後の報告となること、私はヴィデオ・アートそして小泉について専門的に語る知識も作品の体験もないことを初めにお断りしたうえで、以下のレヴューを記録として留めておく。会場で上演されていた作品のうち、《最後の詩》と題されたヴィデオ・インスタレーションについては、せっかちで当日時間的な余裕のなかった私は全てを視聴したうえでの批評でないこともあらかじめ「告白」しておくことにしよう。それにもかかわらずそこで上映されていた二つの作品は私になにごとかを語るように強いる。
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 私が小泉の作品を初めて見たのは、2010年、大阪のサントリーミュージアムで開かれた「レゾナンス」においてであったと記憶する。《若き侍の肖像》と題された映像作品では特攻として自爆攻撃に参加すると思しき扮装の若者が両親に対して自らの思いを絶叫する。しかし彼の語りに対しては画面の外から演技の指導が入ることによって、かかる「告白」が演出されていることが暗示される。結果として、スクリーンのこちら側にいる私たちにとってきわめて気まずい思いがもたらされたことを覚えている。今日振り返るに、この作品における当惑と混乱は小泉の作品の本質であった。この後、私は昨年の春、前橋で開かれた「捕われた声は静寂の夢を見る」と題された個展を訪れ、夏に銀座のメゾンエルメスフォーラムで開催された高山明との二人展への出品作からも強い衝撃を受けた。さらに今年の春、東京都現代美術館における「キセイノセイキ」においても、一部の作品が検閲され、撤去された状態ではあったが、小泉の作品に接したことは以前このブログで論じたとおりだ。今回出品されていた二つの作品のうち、《忘却の地にて》はメゾンエルメスにおける二人展にも出品されていた。もう一つの《最後の詩》は私にとって初見であった。
 おそらく作家の指示に基づく意図的な欠落であろうが、これまで私が見たいずれの映像作品も単に作品が上映されるのみで、言葉による説明が付されていなかった。映像の冒頭で簡単な説明が入る場合もあるが、最初から見ることができるとは限らないから、ほとんどの場合、映像の内容について知識のないまま作品に直面することとなる。今回、このレヴューを書くにあたって、この展覧会も含まれる京都国際舞台芸術祭のホームページを参照したところ、映像についてのかなり詳しい説明が記されていた。この記述を引用することによって、まず二つの映像がどのようなものであるかを簡単に紹介しておこう。すなわち《忘却の地にて》は「21歳の時に交通事故で脳に損傷を受け、それ以来、記憶障害を抱えて生活してきた、ある男性とともに制作された。小泉が彼に与えた指示は、一人の日本兵のトラウマに関する証言を記憶して、読み上げるということである」。そして《最後の詩》は「小泉のFacebook上での呼びかけに応じた、匿名の個人6名へのインタビューと都市の風景から構成されている。素性不明の彼らに覆面を被らせ、人前では絶対に言えないような心の奥底の思いを打ち明けるように小泉は促す。しかし、彼らの声は、東京の街頭のフィールドレコーディングの雑多な音によって吹き替えられ、ことばの意味や込められた感情から切り離された「音」として再生される」。
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 まず《忘却の地にて》についてもう少し詳しく説明しておこう。語られる内容は今述べたとおりであるが、より具体的に述べるならば、おそらくは第二次大戦中に生物兵器か化学兵器の撒布作業に従事した日本兵の忌まわしい記憶、目撃者がいたら殺せという命令に従って、その場にいた子供を高い場所から突き落としたという体験が語られる。内容を反映するかのように語りそのものも屈折し、同じ言葉が何度も繰り返され、しばしば叫びともうなり声ともつかない音が挿入される。内容も語り口も聞いているだけで息苦しくなるようなナレーションである。しかしながら映示される情景はそれとは無関係の静謐さを漂わせている。一つは杉本博司のシースケイプのごとき、水平線が広がる海の情景、そしてもう一つは何かが燃える炎のゆらぎである。一方、《最後の詩》は一枚のスクリーンの表と裏に別々の映像が映示され、やはり語りが重ねられる。最初に述べたとおり、私はこの作品を全て見た訳ではないから一部分のみを視聴したうえでの説明となるが、《忘却の地にて》が独白として成立しているのに対し、《最後の詩》は小泉と思しきインタビュアーと複数のインタビューイとの対話として構成されている。匿名のインタビューイの語りも実に過激だ。私が見た範囲内でも雑踏や満員電車の中で他者に圧迫されることによって快感を覚える一種の変態性欲の告白と、東日本大震災の際にボランティアと称して現地に赴き、震災の犠牲者の死体を鑑賞するネクロフィリア(屍体愛好)に関する証言が引き出されていた。スクリーンの一方では彼らが口の部分のみを露出させた覆面を被って質問に答えている。この手法は「キセイノセイキ」における《オーラル・ヒストリー》の場合と似ている。《オーラル・ヒストリー》では口元のみをクローズアップすることによって発話者を特定しながらも匿名的な語りが重ねられ、そこでもしばしば韓国人や中国人への差別的、嘲弄的な言葉が繰り返されていた。今回の展示では映像の提示方法にも工夫がみられた。すなわちスクリーンの反対側に回り込むならば同じ言葉が都会の街頭でさまざまな人物が発する音の連鎖として提示される。先に引用したホームページの言葉を借りるならば「彼らの声は、東京の街頭のフィールドレコーディングの雑多な音によって吹き替えられ、ことばの意味や込められた感情から切り離された『音』として再生される。発話の主体を宙づりにすることで、都市に潜在する狂気が浮かび上がってくる」ということらしい。今回の展示ではこれら二つの映像作品が別々のギャラリーに設置され、展示全体のタイトルとしては CONFESSION、告白というまことに内容にふさわしい言葉が当てられている。
 いずれの映像においてもトラウマとなった記憶、隠された欲望、人前ではとても口に出せない個人的な告白がなされる。観者は作品の前でなんともいえない気まずさを覚える。聞くべきではない告白を聞かされた思いといってもよかろう。しかもそれは直接になされるのではない。《忘却の地にて》においては記憶障害のある男性が読み上げる語りとして、《最後の詩》においては本人の語りといわば都会の雑踏の中からザッピングされた「音」の連なりの同期として、おぞましい物語が開陳されるのだ。小泉の作品においては記憶や情動が他者に転移されたうえで言葉にされる。そこからは個人の体験を他者が語ることは可能かという重い主題が浮かび上がる。彼らの語りが戦争や震災といった災厄に関わるものであったことは偶然ではなかろう。私はこのブログでジャンルを横断しながら「表象の不可能性」という問題を検証してきたが、この作品も同じ主題に深く関わっている。小泉の場合、表象不可能な出来事が他者によって語られる。忌まわしい記憶は事故によって記憶に障害を受けた男性によって反復され、個人の秘められた欲望はいわば非人称の声の集積として私たちの前に提示される。ここで私がこれらの作品から反射的に連想した現代美術に関係する二つの記憶を書き留めておくこともなんらかの意味をもつだろう。まず《忘却の地にて》において、語り手は何度も言いよどむ。子供を突き落とした場面を述懐するにあたって、語り手は「飛行機が飛んできました」、「子供が上を見上げた瞬間」、「私はその子を突き落としました」といったフレーズを幾度となく繰り返す。吃音のごとく反復されるフレーズから私はミニマル・ミュージックを連想した。ことに突き落とされた子供の状態を表現する「血が出ていた」という言葉の反復から、スティーヴ・ライヒの初期の作品[Come Out]におけるblood come out to show themというフレーズの反復を連想することはたやすい。小泉の作品の場合、言葉の繰り返しはミニマル・ミュージックにみられた合理性や構築性の反映ではなく、精神分析によって検証されるべき錯誤行為と関わっている。あるいは《最後の詩》において室内を二分するかのように配置された巨大な液晶スクリーンから私が連想したのはビルバオで見たリチャード・セラの傑作《ストライク》であった。この作品については以前このブログで論じたことがある。両者に共通するのは作品が表裏をもち、それを一望する視点は存在しない点だ。今述べたとおり、《最後の詩》における語りは覆面をした特定の話者によってなされる一方、スクリーンの裏に回り込むならば同じ語りが不特定で無数の語り手による「音」の集積として成立している。両者は構造的に両立しえない。「声」と「音」は同期するが、発話者を同時に見ることができない、ここにおいては聴覚的統合と視覚的分離が構造化されたきわめて独特の形式として作品が成立しているのである。
 小泉において本来一人の人間に帰属するはずの記憶や感情、声や身振りは他者を媒介として表明される。小泉の作品が演劇的と呼ばれる理由はこの点に由来するだろう。しかしながらそこで表明されるトラウマや嗜好はしばしば他者が抱えるにはあまりにも重い。幼児に対する虐待や屍体愛好といった「告白」は私たちの良識や社会通念を大きく逸脱している。会場内にも「作品の中に刺激的な発言がある」という注意書きが掲示されていたと記憶する。かかる重い語りが可能となるのは、話者が匿名化されているためではないだろうか。《忘却の地にて》にほとんど人物は登場せず、同時に小泉の映像には覆面や口元のクローズアップ、街頭で録音された雑多な音声といった多くの匿名的なモティーフが登場する。この一方で「キセイノセイキ」展において美術館から撤去された作品において、匿名の対極の存在とも呼ぶべき皇族たちが、端的に不在として表象されていた点は暗示的に感じられる。《最後の詩》においてはフィールドレコーディングされた多くの匿名的な声が「告白」を形作っていた。聴覚的に成立する、かかる匿名の声を、今日、可視化することも可能であろう。それはインターネットの書き込みだ。本来的に匿名的なインターネット上の発言もおびただしく集積する時、一種の社会的無意識を形作る。そしてこのような匿名の無意識がしばしば悪意と攻撃性に満ちていることを私たちは知っている。かつてベンヤミンは映画という新しいメディウムの出現に際して「精神分析によって欲動的無意識について知ったように、私たちは映画によって初めて視覚的無意識について知る」と述べた。新しいメディウムの登場は新しい無意識の成立を伴うとはいえないか。おそらくインターネットもまた人類がこれまでに経験したことのない新しいメディウムであろう。そしてそれによって増幅された匿名の無意識はかつてなくネガティヴな性格を帯びている。小泉の作品を前にして私たちが味わう困惑は、新しい集団的無意識、いわば「映像的無意識」への反応とはいえないだろうか。
by gravity97 | 2016-12-01 06:09 | 展覧会 | Comments(0)

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 しばらく前にDIC川村記念美術館で見た「サイ・トゥオンブリーの写真 変奏のリリシズム」についてレヴューを残しておく。素晴らしい展覧会であることは直ちに感得されたが、レヴューまで時間がかかったことは端的にトゥオンブリーの作品について語ることの迷い、困難を暗示している。
 昨年の原美術館におけるワークス・オン・ペーパーが素晴らしかったこともあり、私はトゥオンブリーを絵画とドローイングの作家であると認識していた。したがって今回の展示が「サイ・トゥオンブリーの写真」と銘打たれていたことにまず驚いた。しかし会場に赴くならば、それらの写真はトゥオンブリーの絵画やドローイングとなめらかに連なり、それどころか写真を通してトゥオンブリーの作品の本質に触れた気さえした。この意味でこの展覧会に国内に所蔵された絵画や版画、さらにサイ・トゥオンブリー財団所蔵の彫刻とドローイングが加えられ、作家の創造を幅広いジャンルにわたって通覧できたことはきわめて適切であったように感じる。まず私はトゥオンブリーが早い時期から写真という表現に手を染めていたことに驚いた。展覧会に出品された作品のうち最も早い例は1951年のブラック・マウンテン・カレッジ時代に撮影されており、翌年のヨーロッパ旅行の際に撮影されたと思しき神殿のエンタシスの写真が続く。ロバート・ラウシェンバーグのアトリエを撮影した1954年の作品も興味深い。しかしこの後、写真作品は突然中断され、再開されるのは80年代に入ってからである。カタログのテクストによれば、それは50年代後半よりトゥオンブリーが絵画の制作に全力を傾注したためであり、写真同様に彫刻もしばらく制作されなかったという。むしろ驚くべきは四半世紀を経て1980年に再開された写真が、モノクロとカラーという差異こそあれ、それまでの作品と全く違和感なく連続していることである。このような断絶と連続から私はかつてやはり四半世紀ぶりに発表された埴谷雄高の『死霊』の第五章を『群像』誌上で読んだ際の驚きを連想した。その後、2011年に没するまでおよそ30年にわたって継続的に制作されたトゥオンブリーの写真はモティーフによっていくつかに分類することができる。室内や室内に置かれた彫刻を撮影したタイプ、野菜や花を近接して撮影したタイプ、自らの彫刻や絵画を撮影したタイプ、そして風景を撮影したタイプなどである。共通するのはいずれも意図的に焦点がぼかされて不明瞭であり、何が撮影されているかすら判然としない写真も多い。よく知られているとおり、トゥオンブリーについてはロラン・バルトが比較的長い論考を残しており、そこで提起された盲目性という概念と関連してしばしば論じられてきた。バルトといえば「明るい部屋」と題された写真論でも知られており、盲目/光の欠如、明るい部屋、写真という三つのコンセプトを並べるだけでもトゥオンブリーについて短い論文が書けそうだ。ただし私はバルト的な高踏さとは程遠い人間であるから、ここでは作品から受けたいくつかの感想をひとまず記すに留める。
 私が感じた印象の一つは事後性である。報道写真を例にとるとわかりやすいが、本来、写真という表現の一つの目的はなんらかの決定的瞬間を記録することであろう。同時性といってもよい。これに対してトゥオンブリーの写真は何かが終えられた後のように感じられないだろうか。廃墟や雑然とした室内、散らされた花々、これらのイメージは何事かが終えられた痕跡のようだ。しかも何が起きたかは明らかではない。一種、神秘性のオーラに包まれたイメージ。とりわけラウシェンバーグのアトリエを撮影した作品にこのような雰囲気は濃厚である。散らかったアトリエを撮影した写真には有名な先例がある。いうまでもなく描画するポロックを撮影したハンス・ネイムスの一連の写真であり、そこには作家のアクションのみならず様々の素材が放置されたアトリエが映し出されており、1967年のニューヨーク近代美術館におけるポロックの回顧展に際して展示されたそれらの写真がロバート・モリスやリチャード・セラらのアンチフォームあるいはプロセス・アートと呼ばれる作品にインスピレーションを与えた可能性があることが指摘されている。トゥオンブリーの写真は54年に撮影されているが、雑然としたラウシェンバーグのアトリエはモリスやセラのフロア・ピースの記録写真であるといっても違和感はないだろう。出品作の中でもかなり異質なこの写真がどのような経緯で撮影されたかは不明であるが、興味深い作例といえよう。そして事後性とはトゥオンブリーの絵画やドローイングにも認められる。ロザリンド・クラウスは『視覚的無意識』の中で次のように記している。「1955年までにトゥオンブリーは、表現主義の絵具をたっぷり含んだ刷毛による絵画をやめ、その代わり、尖った鉛筆の先端を用いて、なめらかに漆喰を塗ったカンヴァスの表面を傷つけ、引っ掻き、荒廃させ始めた。すなわち彼は落書きをする者や略奪者、まっさらな壁を毀損する者の攻撃の道をたどり始めた。そして毀損者のモデルとしたのが、ジャクソン・ポロックであることを彼は明らかにした」展示されていた《What Wing Can Be Held ? 》という絵画の表面に書き散らされた、時にエロティックなイメージがあえて言うならば便所の落書きを連想させることは意味がある。落書きとは完成されたイメージに対して事後に介入することであり、ひとたび落書きされるやイメージは永遠に毀損される。この意味においてトゥオンブリーの作品は事後的であり、絵画がはらむ緊張はこの問題と関連している。一つ間違えば全てのイメージがキャンセルされる緊張は今回展示されたドローイングからも濃厚に感じられた。
 私が感じたもう一つの印象は触覚性である。既に述べたとおり、多くの写真はピントがぼけており、写された対象が何であるか判然としない場合が多い。特に今回の展示では作品の横にキャプションが付されておらず、会場で配布されたフロアプランと突き合わせる必要があるため、写り込んでいるのがズッキーニであるかチーズであるかを一目で理解することは困難である。そもそもそのような確認の必要があるだろうか。彫刻のディテールを写し込んだ作品も多く出品されていたが、それらのイメージと食品を近接して撮影した作品はほとんど区別がつかない。写真とは視覚的な営みであるがトゥオンブリーの作品は、手を伸ばせば触れることができるような感覚、触覚的な印象が強い。彫刻や野菜、花、通常、触れることによって私たちがその存在を感知する対象が視覚的に判然としない状態で提示されている。展示の冒頭に「詩を読むことは目で聞くこと、詩を聞くことは耳でみること」というオクタビオ・パスのエピグラフが掲げられている。どのような意図で選ばれたかわからないが、確かにトゥオンブリーの写真の共感覚的な在り方を象徴する言葉である。そしてこのような作品の在り方はトゥオンブリーの絵画やドローイングにも共通しているのではなかろうか。今回は絵画の展示は少なかったが、私はかつてヒューストンでメニル・コレクションに収められた大作をまとめて見たことがある。しばしば小さく文字や数字が書き込まれた画面は時に身体のスケールに親密であるが、離れて一望するならば身体をはるかに超えるスケールを帯びている。近接して触覚的に対峙すべきか、離れて視覚的に一望すべきか、身の置きどころがはっきりとしない。今回、私は同様の感覚を同じ美術館のロスコ・ルームで圧倒的なロスコの作品の前に立った時にも味わったから、今回この美術館でトゥオンブリーの展覧会が開かれたことはおおいに意味がある。そしてこのような共感覚は別のレヴェルにも反映されているのではないか。すなわちトゥオンブリーの写真においていくつかの感覚が捩り合わされるように、トゥオンブリーは絵画とドローイング、彫刻と写真といった作品のジャンルも捩り合わす。いくつかの写真にはトゥオンブリーの彫刻や絵画が写り込んでいる。いうまでもなく、それらは作品の記録として撮影されたのではなく。近接し、焦点をずらすことによって不分明なままその姿を浮かび上がらせている。トゥオンブリーは明瞭さに抗う。モダニズム美術とは絵画や彫刻、ドローイングや写真といったメディウムをあらかじめ切り分けたうえでそれぞれのジャンルにおける純粋化をはかった。ジャンルを横断するトゥオンブリーの実践はかかる前提に抗う。この意味において今回の展示自体がトゥオンブリーの作品の本質に連なる問題意識に裏づけられていたといえよう。
 私はトゥオンブリーの作品の特質として事後性と触覚性を挙げた。これらはいずれもモダニズム絵画の原理に対する異議である。モダニズム美術にとっては現在性こそが恩寵であり、絵画とは事後ではなく現在として提示されるべきであるからだ。モダニズム絵画がなによりも視覚性を重視してきたことはいうまでもない。これまで私にとってトゥオンブリーの絵画は魅力的であるが、なんとも言語化しがたいものであった。今回の展示を見て、ようやく私は得心することができた。時に抽象表現主義との類似が論じられることがあったとしても、トゥオンブリーの絵画はその本質においてモダニズム美術への根底的な異議申し立てとして成立している。先ほども少し触れたが、このような作品の体験をロスコ・ルームにおいて作品を享受する体験と比較することは大きな意味をもつ。このブログで論じるにはあまりに大きな問題であるから、これ以上議論を敷衍することは控えるが、思いをめぐらせるならば数年前までこの美術館にはバーネット・ニューマンの《アンナの光》さえ展示されていたのだ。トゥオンブリーとロスコ、さらにニューマンの傑作を一つの場で体験できるような美術館を私は知らない。それはモダニズム絵画の絶頂、そしてその体験を様々な角度から検証するうえで、世界的にも例のない機会になったはずだ。この美術館がコレクションの中からレンブラントやルノアールではなく、ニューマンを売却したことの代償は限りなく重い。
by gravity97 | 2016-07-19 22:33 | 展覧会 | Comments(0)

「1945年±5年」

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 事後の報告となるが、兵庫県立美術館で先日まで開催されていた「1945±5年」についてレヴューを残しておきたい。(7月30日から10月10日まで広島市現代美術館に巡回)昨年は戦後70周年ということで、第二次大戦とちなんだ多くの展覧会が開かれた。私も名古屋と東京でこれに連なる展覧会に足を運び、このうち藤田嗣治の展示についてはこのブログでもコメントした。展覧会が重なると重要な作品は取り合いとなってしまうから、あえて一年の間をおいたということであろうか。充実した展示であった。そしてこの一年でさらにきな臭くなった世情を背景に、画家と表現、戦争と美術といった問題を考えるうえでもこの展覧会は切実な問題を提起しているように感じられた。
 「1945年±5年」というタイトルが展覧会の内容を要約しており、出品作品も制作年の機械的な限定の中から選ばれている。戦争記録画をはじめ、いくつかの中心的な主題を指摘することはできるが、むしろいくつもの主題のゆるやかなつながりの中に10年間の表現を検証することにこの展示の意味があるだろう。展覧会は松本竣介の《街(自転車)》という作品から始まる。1940年の作品であるから、すでに日中戦争は始まっており、人々の生活は統制下にあったはずだが、そこに描かれるのはごく普通の街景である。実際に展覧会の導入部に展示された作品は戦争を感じさせることがない。松本と駒井哲郎による都市を描いた風景画、そして小磯良平の一連の肖像画、中でも有名な集団肖像画《斉唱》は1941年に制作されている。これらの作品は戦時にあっても日常的な情景が描かれていたという当たり前の事実を示しているが、次に述べるとおり、今挙げた画家たちが戦火の広がる中でどのように身を処したかという問題と重ねて考えてみる必要があるだろう。この展覧会は構成が巧みで、テーマに沿ってほぼ時系列に従って作品を見る中でカタログにカテゴライズされたいくつかの主題が浮かび上がる。戦時下の日常を描いた作品に続いて、ハルピンや京城、あるいは満州といった植民地の風景を描いた作品が展示される。ここでも多く日常の光景が描かれているから、この時点で私たちはそこに戦争という背景を見出すことは困難である。植民地の表象という問題は近年、美術の領域でも大きな注目を浴びており、私は同じ美術館で見た「官展にみる近代美術」という展覧会については既にレヴューしている。この展覧会では日本人作家が植民地を訪れた際の記録としての多く風景画が展示されており、一種のエキゾチシズムを漂わせている。文学に関する川村湊の仕事、あるいは先日物故した松本雄吉が率いる維新派に見られた南洋への志向、かつて日本の版図であった植民地をめぐる表現への関心はほかの領域でも高まっていることを指摘しておこう。
 しかし植民地は時に戦場でもありえた。展覧会では伊谷賢蔵の《楽土建設》のあたりから、戦時色が強まり、多くのいわゆる戦争記録画へとつながっていく。現在東京国立近代美術館に無期限貸与されている戦争記録画については近年研究も進み、いくつかの画集も刊行されて、私たちも馴染んできた。昨年の藤田嗣治の全作品展示の中で多くの戦争記録画が一堂に展示されたことも記憶に新しい。今回の展覧会を見て、そして企画者によるカタログのテクストを読んで私はあらためて思い当たったのであるが、戦争記録画に描かれた兵士たちは多く後姿もしくは横から描かれる場合が多い。論じられているとおり、それは報道カメラマンの視点である。従軍した画家たちは兵士たちと行動を共にするのであるから、常に同じ方向を向き、彼らを後ろからとらえることしかできない。兵士たちを正面からとらえる視点はむしろ敵の視点なのだ。カタログによればこの問題に関して、河田明久は興味深い指摘を加えている。すなわち日中戦争という理念のはっきりしない戦争を描く場合には登場人物が画面に背を向ける構造が多かったのに対し、欧米を排斥するという大義を得たアジア・太平洋戦争においては兵士たちが正面から描かれる演劇的な構図が増えたという。構図の問題については後で再び触れることにして、展示には花岡萬舟や清水登之といった画家の、私にとっては初見の作例が加えられ、さらに従軍画家ではなく徴兵されて戦地に赴いた画家たちの現地でのスケッチや家族に向けて描かれた手紙類も展示されていた。必ずしも発表することを前提としないそれらのスケッチや書簡も画家たちと戦争との関わりを知るうえでは興味深かった。今まで戦争という主題は多く戦争記録画と関連して論じられていたが、この展覧会では銃後を扱ったいくつかの絵画も目を引いた。勤労奉仕を扱った東山魁夷の作品、《貯蓄報国》と題された新海覚雄の作品、製鉄や炭鉱といった産業の振興を主題とした絵画はある意味で戦争記録画のカウンターパートとして戦時下の国民へ国家主義的な規範を提示していた。きわめつけは「女流美術家奉公隊」の手による《大東亜戦皇国婦女皆働之図》という奇怪な大作である。様々な場面で勤労奉仕する女性たちを描いた画面から「一億総活躍社会」という愚劣な政策を思い浮かべたのは私だけであろうか。よく言われることであるが、日本でかかるキッチュなプロパガンダ絵画が制作されていた同じ時期、アメリカでは抽象表現主義の画家たちがそれぞれのブレークスルーに向けて絵画の実験を深めていたのである。この展覧会に抽象絵画がほとんど出品されていないことは当然といえば当然であろうが、かかる対比によっても彼我の国力の差は歴然としていた。このパートには「銃後と総力戦」というタイトルが当てられている。須田国太郎の《学徒出陣壮行の図》、刑部人の《少年通信兵》あるいは杉全直の《整備教室》といった作品にはタイトルが暗示するとおり、多くの若者が描かれている。有為ある若者たちを戦場に駆り出して殺していったかつての日本という国家の非人間性の表象といえよう。
 展示においてはやや前後するが、この時期の表現にみられた特徴としては「大きな物語とミクロコスモス」と題されたパートも示唆的であった。戦意を鼓舞するためにいくつかの作品では神話や伝説が導入された。それは中山正實が描く神武天皇であり、花岡が描く楠木正成である。一方、和田三造は天皇の下にアジアの諸民族が集う、八紘一宇の図式化のごとき大作《興亜曼荼羅》を描いた。(出品されたのは下絵とのこと)いずれもイデオロギー装置としての絵画の機能が発揮された作品であるが、私が興味を抱いたのはむしろ「ミクロコスモス」と呼ばれた作品群、すなわち靉光や寺田正明、吉原治良といった画家が昆虫や蔬菜、鉢植えなどを対象に沈潜するかのように描いた一連の作品である。一様に暗く、濁ったこれらの画面に作家たちは何を込めたのであろうか。大戦の最中、戦意を鼓舞する絵画とは全く逆のベクトルをもつ絵画が制作されていたという事実は注目に値する。総力戦の後に敗戦が訪れた。この展覧会では「廃墟」というパートによってかかるテーマに一つの総括が与えられている。しかし企画者も述べるとおり、「廃墟」というテーマは一種の逆説を秘めている。戦時中に戦災による廃墟を描くことは許されるはずがなかったし、戦勝国が駐留した戦後においてもそれは一つのタブーであっただろう。このように考える時、丸木以里と赤松俊子による《原爆の図》の意味もまた明らかだ。この作品は第二次大戦によって私たちが受けた被害を、玉砕や名誉の戦死といった支配者側の言葉を経ることなしに伝えた稀有の例であるからだ。1950年に制作され、ぎりぎりでこの展示に収められたこの作品が展示の掉尾を飾ることは、日本において戦災を表象することがきわめて困難であったことを暗示しているだろう。たしかに私たちは東京大空襲や長崎の被爆を美術として表象した例をほとんど知らない。カタログの中に「敗者は映像をもたない」という大島渚の言葉が引かれているが、この問題は例えばホロコーストの表象不可能性といった問題の傍らに置く時、さらに示唆的ではないだろうか。
 以上、展示されていた作品を概観した。幻想的ではあるが、何気ない日常の風景を描いた松本峻介の《街》からシンガポール陥落を描いた藤田嗣治の戦争記録画までわずか二年の時間が経過したに過ぎない。この点は今日の私たちもわずか数年後には戦時体制に組み込まれているかもしれない可能性を示唆する。実際に虚言と食言を繰り返す現在の政権下ではいつ日本が戦時下となるやもしれず、自らの政権に危機が迫るや、安倍が中国に対して戦端を開くことを私は確信している。今回の展示を見て私が考えたのは次のような問題だ。愚劣な為政者の下で戦争が始まることはいつの時代でもありうる。そして画家はそれに協力するか否かの態度を迫られるはずだ。私は戦争記録画を描いた画家は程度の差こそあれ、戦争に翼賛したとみなされると思う。なぜならそのような時代にあっても戦争を描かなかった画家が存在するからだ。例えば松本峻介と小磯良平という対比を考えてみよう。この展覧会のメインヴィジュアルとして用いられた小磯の《斉唱》は、清楚な女子学生たちの合唱を描くことによって戦争記録画に対する免罪符とみなされてきた。もちろん新制作協会の俊英であった小磯は優秀であったからこそ従軍画家として大陸に派遣され、《娘子関を征く》をはじめとする戦争記録画を残したという弁明はありうる。しかし画家にとってそれを拒否するという選択肢はありえたはずだ。私はこの問題を再び画面の形式に引き戻してみたい。先に述べた通り人が描かれた場合、描かれた人物の視線はそれに眼差しをむける私たちと関係を結ぶ。この展覧会に出品された多くの小磯の肖像画において描かれた人物は私たちと視線を交わすことはない。《T嬢の像》においても《斉唱》においても描かれた女性たちは私たちから目を逸らしている。これに対して、この展覧会に出品されていないが、やはり同じ時期、1942年に制作された松本の《立てる像》において私たちは描かれた人物と視線を交わす。(ちなみにこの作品は先日の国立国際美術館における森村泰昌の展覧会でも取り上げられていた)私たちから目を逸らす小磯の少女たちが画家の無意識、従軍しても比較的穏健な情景を描いて戦争の真実を直視することがなかった小磯の無意識を反映しているとみなすのは厳しすぎるだろうか。それはあえて死屍累々たる風景を描いて描くことへのデーモニッシュな決意を示した藤田とは異なった、しかし同様に時流に抵抗することができなかった画家の姿ではないだろうか。一方で靉光に典型的にみられる「ミクロコスモス」、身辺の静物への沈潜は静かなプロテストとみなすことはできないだろうか。この展覧会にやはり静物画を出品している吉原治良は、当時の美術雑誌の座談会において検閲を担当する軍人の「この非常時にもかかわらず○や△を描いて遊んでいる非国民がいる」という発言が不気味であったという感慨を残しているが、この不安はもはや私たちにとってなじみのないものではない。先日、「キセイノセイキ」についてレヴューをアップしたが、このところ日本の多くの美術館で展示に関して当局からの検閲が強められ、さらには美術館上層部による自己規制といった信じられない事態が発生していることは知られているとおりだ。表現の自由にとって最後の砦たる美術館において学芸課長がなにものかの意志を忖度して、作家に対して作品の発表の自粛を要請するといった倒錯が現実にありうるのだ。いうまでもなくこれは一つの兆候である。数日後に迫った参議院選挙の結果いかんでは憲法が改悪される可能性がある。現在、自民党が発表している改憲草案21条に表現の自由についての規定があるが、「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する」という現行の憲法の規定からわざわざ「これを」という言葉を削除したうえで、新たに第二項として「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、ならびにそれを目的として結社をすることは認められない」との文言が加えられているのだ。端的に表現の自由が否定されている。表現の自由のない社会とはどのようなものか、私にとっては想像することすらできない。しかし数日後の選挙の結果次第ではかかるディストピアが実現する可能性もきわめて高い。先日美術評論家連盟の有志が「表現の自由について」という簡潔な声明を発表したが、この声明は明らかにかかる状況を憂慮したものである。アメと鞭を使い分けた現政権のマスコミ操作の結果、これらの問題はほとんど議論されることがない。上に示したカタログの表紙には1945年を中心にして前後10年の年記が刻まれている。今、私たちはどのあたりにいるのだろうか。まもなく戦争が始まる。(それにしてもこのブログを始めた頃にはこれほどまでに状況が悪化するとはさすがに想像できなかった)表現に関わる者として、自らの立場をこの展覧会に出品したどの画家に定めるのか。批評を生業とする私を含めて決意が問われているように感じる。
by gravity97 | 2016-07-07 22:03 | 展覧会 | Comments(1)

b0138838_1616488.jpg 遅ればせながら、賛否分かれる話題の展覧会、東京都現代美術館における「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」を訪れた。なるほどいくつもの問題をはらんだ展覧会である。MOTアニュアルは1999年以来、若手を中心に現代美術を紹介する目的で開催され、毎回、テーマを設定している。今回はタイトルが示すとおり、「キセイノセイキ」がテーマである。カタカナで表記されている点は規制/規正、世紀/性器といった多重的な意味を暗示しているだろう。(出品作品に性的な暗喩を含んだ作品はほとんどないが、会期中に「ろくでなし子」事件の判決が出たことを記録に留めておきたい)後でも触れるとおり、この展覧会はテクスチュアルな参照を欠いており、4月中旬の刊行が予告されていたにもかかわらず、私が訪れた時点でもカタログは発行されていなかった。展覧会の趣意をフライヤーから引く。

 今の社会を見渡すと、インターネットを通して誰もが自由に声を発することができる一方で、大勢の価値観と異なる意見に対しては不寛容さが増しているように思われます。表現の現場においても、このひずみが生み出す摩擦はしばしば見受けられます。そうした中で、既存の価値観や社会規範を揺るがし問題提起を試みるアーティストの表現行為は今、社会や人々に対してどのような力を持ちえるでしょう。

 表現の現場における摩擦といえば、昨年同じ美術館で開かれた「ここはだれの場所?」における会田家の作品に対する自己「規制」問題が直ちに連想されようし、それであればこの事件と展覧会の関係が興味を引くところであるが、この問題についてはいかなるレヴェルでも触れられることはない。さらにこの展覧会は東京都現代美術館と「アーティスツ・ギルド」という組織との「協働企画」として企画されたとの文言があり、フライヤーの裏面には「アーティスツ・ギルド」についての簡単な説明が記されている。「AGはアーティスト自らが立ち上げた芸術支援の新しい可能性を模索する社会実験の一形態です。2009年に制作や展示における個々の経済負担の軽減を図るために映像機器の共有システムを立ち上げ、2013年に合同会社AGプロダクションを設立し、展覧会や関連イベントの映像記録を請け負っています。アーティスト個々のアプローチとはまた違う、会社組織としても芸術に関わっていくことを実践しています」とのことだ。アーティスツ・ギルドに所属する作家の多くがこの展覧会に出品しているらしいから、「協働企画」というのもわからないではないが、例えば作家の選択といった展示の根幹に関わる部分がどのように決定されたかよくわからない。私の持論であるが、展覧会においてカタログは決定的に重要である。展覧会はエフェメラルであるが、残されたカタログによって私たちは展示の意味を検証できるからだ。フライヤーによれば「展覧会公式カタログ」はtorch press という版元から刊行とのことだ。私の記憶ではこれまでMOTアニュアルのカタログは東京都現代美館によって発行されていたから、なぜ変更されたのであろうか。昨年、美術館の自己検閲問題を引き起こした「ここはだれの場所?」においても展覧会が開かれていた時期にカタログは刊行されず、先般カタログではなく「記録集」が発行された。この「記録集」は送料を負担すれば無料で頒布されるとのことであったから、私も早速取り寄せて読んでみた。これについてはここでは触れないが、なぜ美術館が主催した事業のカタログを自館で発行することができないのか。これらの展覧会におけるカタログの迷走については美術館側からなんらかの説明があってもよいのではないだろうか。
b0138838_1617589.jpg 最初からいくつかの批判を加えた。実際にこの展覧会に関して、これまでに目を通したレヴューは多く批判的であったが、私はこの展覧会が開催されたことを評価したい。この展覧会がどの時点で企画されたかはわからないが、昨年の検閲事件の後にあえてこのようなテーマを選んだことに企画者の問題意識を認めるからだ。結果的には相当ぶざまな内容となったかもしれないが、MOTアニュアルは特にテーマに制限を有していないから、もっと穏当で非政治的な主題を選ぶことも可能であったはずだ。実際に私の記憶の及ぶ限り、これまでこのアニュアル展で今回に類した主題が扱われたことはなかった。おそらく現場の学芸員の強い問題意識、さらにいえば危機感がこのようなテーマを導き出したのだろう。しかし私の得ている情報によれば、館の上層部、それも学芸サイドからの圧力によってかかる可能性は再び無残にも摘み取られてしまった模様だ。したがってここでは実現されなかったプランも含めて、この展覧会をその可能性のうちに検証したいと考える。
 まずは会場に並べられた作品を確認することから始めよう。カタログが存在しないため、すべての作品について詳細に記述することはできないし、私の記憶の誤りがあるかもしれないことを最初に申し添えておく。入口ではスミノフというウォッカを酒瓶に直接口をつけて飲み下す制服姿の女子高生の姿がプリントされた齋藤はぢめの作品が私たちを迎える。私はこの作家についてはほとんど知らないが、幕開けにふさわしい挑発的なイメージである。続けて展示された古屋誠一の作品を私は懐かしく感じた。(実は私は順路を間違えており、古屋の作品は展示の最後に位置する。確かにその方が展示の起承転結が明確だ)古屋の作品については、かつて作家の評伝と作品論が一体化された小林紀晴の『メモワール 写真家・古屋誠一との20年』について、このブログの「評伝・自伝」のカテゴリーで論じたことがある。是非そちらも参照していただきたいが、被写体は自死した妻のクリスティーネであると記せば、この展覧会の主題との関連性は明らかであろう。しかも今回展示された三点のうち一点は、投身自殺を遂げた直後のクリスティーネのポートレートなのである。若手でもないこの作家をあえて展示に加えた点に企画者の批評性が感じられる。続く藤井光のインスタレーションもきわめて批評的、自己言及的な展示である。会場には空のショーケースと空のガラスケースが並び、キャプションのみが添付されている。インターネット等で収集した情報によれば、このインスタレーションは東京大空襲の追悼と戦争の記憶の継承を目的に設立が計画されながらも戦時の加害記録の扱いをめぐって議会で紛糾し、現在にいたるまで凍結されている平和祈念館に収められるべき映像や戦災資料を文字通り不在として表象するものであるらしい。ただし会場の展示と掲示からかかる意味を読み取ることはかなり難しい。この展覧会に致命的に欠落しているのはテクスチュアルな補助である。カタログもない、作品に関する説明的な掲示もない。会場で配られていたA3一枚のハンドアウトにしても、私は受付で要求してようやく入手した。不親切というより、むしろ意図的な欠落であるようにさえ感じられるのだ。《爆撃の記憶》と題された藤井の作品の場合、今述べたとおり、ケース内には無数のキャプションが配置され、それによって来場者はそこに展示されるはずであった内容を推測するのであるが、会場で上映されていたそれらのキャプションを配置するボランティアたちの映像はこの作品にとってどのような意味があるのか私には理解できなかった。単に私が見落とした可能性もあるが、誰が、誰の指示によって、いかにしてキャプションを配置したかはこの作品の根幹に関わると思うのだが、十分な説明がなされていない。さらにこの会場に不在であったのは展示されるべき資料、あるいは作品についての解説のみではなかった。なんと展示されるべき作品もまた美術館側の自己「規制」、端的に検閲の結果、館外へと追放されていたのだ。排除されたのは小泉明郎の《空気》という作品だ。小泉はこの展覧会に《空気》と《オーラルヒストリー》という二つの作品を出品する予定であった。20世紀前半に東アジアでどのような事件が起きたかを問われた人々が、口々に応答する様子(口元のみが撮影されているため話者を同定することはできない)を記録した後者は確かに会場で上映されていた。しかし前者は配布された「作品解説」の中にタイトルも示されているにもかかわらず会場には存在せず、確かキャプションのみにスポットライトが当てられていたように記憶する。しかし幸いにも私は当初展示が予定されていた《空気》を別の会場で見ることができた。この作品、そして美術館による検閲は本展の本質と深く関わるから、後で詳しく触れることとして、ひとまず会場めぐりを続けよう。続く小部屋には明治期から第二次大戦にいたるまで「内務省警保局」が編集した「禁止単行本目録」が置かれている。規制や検閲とかかわる内容であるとはいえ、私の見た限りではこれらの資料にも説明がなかったから、なぜこれらの資料がここに配置されているのか理解できない。これらの資料から私はかつて森村泰昌がディレクターを務めた横浜トリエンナーレにおいて展示されていた、戦時中の一連の翼賛的な書籍を連想した。横浜の場合、それは本来存在してはならない書物という意味で「華氏451度」という展示のテーマとみごとに呼応していたが、今回、これらの資料はあまりにも唐突に出現し、意味不明であった。橋本聡の展示は自らのパフォーマンスの記録と来場者にアクションを促す一連のインストラクションによって構成されている。例えば角材を倒す、光を反射させるといったインストラクションが時折来場者によって実行されていたが、何かに切りつけよというインストラクションとともに壁に設置された出刃包丁は、来場者の安全に配慮してという美術館側のコメントとともにアクリルの箱に密封され、室内を仕切る金網のフェンスの傍らにはそれを乗り越えるにように唆すインストラクションとやはり「安全のために」乗り越えることを禁止する美術館による警告がともに傍らに掲出されている。いずれもダブルバインド的な状況が生み出されているのであるが、私はこの状況は作家と美術館のなれ合いのようにしか感じられなかった。そもそもこれらのインストラクションは既視感が強く、ヨーコ・オノ、マリーナ・アブラモヴィッチ、エイドリアン・パイパーらの作品が直ちに連想される(ここで名前を挙げた作家がすべて女性である点は暗示的である)。作家は自らが示したインストラクションが美術館側に拒否された時点ですべての作品を撤去すべきではなかったか。インストラクションの必然性というか真剣味が感じられないのだ。このタイプの作品にとって作家の態度は死活的に重要なはずだ。一方で美術館側も「安全」という誰もが批判できない理由によって作家の提案を一方的に拒絶しつつ、わざとらしい警告を掲示して作家の意図を不十分ながら反映させたというポーズをとっている。美術館の側に作家の提案を真剣に検討した形跡はなく、アリバイの捏造に汲々としているが、作家の側もかかる中途半端な展示で満足している。いずれにもプロフェッショナリズムが欠落している。横田徹の作品は私たちが中立的とみなしている映像の恣意性を露呈させて興味深かった、すなわちパレスチナやアフガン戦争、リビア内戦といった、今日生々しい暴力が露呈する地域の映像を映示しながら、横田はそこにいくつかの検閲のレヴェルを設ける。すなわち中学生向けと高校生向けという二つのブースを設えて、教師たちのアドバイスに従って中学生でもアクセスできる映像と高校生であればアクセスしてよい映像を対比する。結果として、中学生向けのブースではそれらの地域で人々が日常的に触れる多くの情景、すなわち、武器の使用、爆発、戦闘や負傷者のイメージは検閲されて映示されない。高校生のブースではこの基準は緩和されている。いうまでもなくここにおけるスクリーニングはきわめて恣意的である。そして私たちは同様の映像のスクリーニングが現実においても遂行されているであろうことに気づく。映画におけるR18指定はわかりやすい例であるが、私たちが通常の報道において目にする事実も検閲を介して私たちに届けられる。この点においても先に言及した2014年の横浜トリエンナーレの主題はこの展覧会と密接に関連している。そして美術館における展示もまたこのようなスクリーニング、検閲の結果、許された範囲における展示でしかないことを先に触れた小泉や橋本の作品はまさに身をもって明らかにしている。中学生に死体を見せてはならない。それでは死者を撮影することは許されるかという問いは冒頭(実は展示の最後の)古屋の作品へと回帰する。
 すべての作品に触れることができなかったが、ひとまず私たちはこの展覧会に出品されている主な作品について論じた。しかし展示はこれで終わりではない。この展覧会が現実に「規制」した作品を確認するため、私たちは美術館から歩いて10分ほどの距離にある無人島プロダクションのギャラリーで開催されている「空気展」に向かおう。この展示が実現にいたった経緯はわからないが、会期は4月29日から5月15日までであるから「キセイノセイキ」と重なる日数はさほど多くない。私にとって二つの展示を訪れ、美術館が排除した作品を実見することができたのは幸運であった。思わせぶりな書き方は嫌いだから《空気》とはいかなる作品か端的に説明しよう。それは天皇の不在による天皇の表象だ。園遊会や被災地の訪問、明らかに天皇が臨在する場を再現しながらも天皇の姿のみがかき消された一連の集団ポートレートはきわめて興味深い問題を提起する。常に中心に存在しながら不可視化された存在は現実における天皇を暗示しているかのようだ。修辞に黙説法(レティサンス)という技法がある。あえて語らないことによって語られない対象を意識させ、強調する手法であり、ここでは当然画面の中心にいるはずの天皇が存在しないことによってかえって際立つというかなり高度な表現である。もし美術館による検閲がなかった場合、この作品は先に触れた《オーラルヒストリー》という映像作品の傍らに並べられていたはずだ。そして二つの作品の対比はこれらの作品の意味を理解するうえで重要であろう。《空気》が対象の不在によって特徴づけられるのに対して、20世紀前半のアジアについての具体的な言及を促す《オーラルヒストリー》は匿名の証言者の存在を前提としている。視覚的不在の前者と聴覚的存在の後者を対比してもよかろう。いうまでもなく20世紀前半のアジアにおいて昭和天皇裕仁は暴力の起源であった。現天皇明仁による園遊会における慰労、避難所における慰撫との対照は明らかであり、《オーラルヒストリー》の中でしばしば繰り返される国家主義的で攻撃的な言葉(このため同じ作品が韓国で発表された際には「検閲」があったと聞く)と不在の対象を取り囲む、時に和やかな、時に感謝に満ちた家族主義的な情景もまた対照的だ。二つの作品の間にかかる対立はいくつも組織することができようし、隠喩と換喩といった記号論的な観点からの分析も可能であろう。しかしいうまでもなくそれは私がたまたま二つの作品を異なった会場で見ることができる時期に美術館を訪ねたからであり、この作品を追放した「キセイノセイキ」の会場ではかかる思考が触発されることはない。美術館自らが作品の意味を破壊しているのだ。「空気展」の会場には作品の検閲をめぐる経緯についての小泉自身のコメントがテクストとして置かれていた。まさか現代美術館のスタッフを慮ってではなかろうが、会場閲覧用しか準備されておらず、持ち帰り可能なハンドアウトが配布されていなかった点は不審に思われた。私の見落としかもしれないが、今のところインターネット上でも作家のコメントを読むことはできないようだ。それを読めば、かかる検閲は行政的あるいは官僚的な判断ではなく、学芸課長によってなされ、おそらくは担当学芸員が作家と美術館の板挟みとなって苦労したことが理解できるからだ。そもそも無人島プロダクションに展示されていた作品は、美術館が検閲しなければならないほどの過激な政治性を有しているだろうか。この展覧会に出品するにあたって小泉が周到な戦略を立てたことは明らかであり、それゆえ視覚的黙説法と複数の語りという対比が意図的に採用されたのである。天皇は表象されず、暴力は視覚化されていない。私は学芸員たちが理論武装すれば、たとえ外部からの攻撃があったとしても展示室で《空気》の展示を続行することができたと考えるし、それだけの深みを備えた作品であるように感じた。それは美術館の義務であり、同様の事例に際して学芸員が職を辞したことは欧米ではいくらでもあったと記憶している。美術館の撤去要請に対して、作家が拒絶するというケース、例えば昨年の会田家のような事案であればまだ理解できる。今回のように美術館の側がなにものかの意志を忖度し(一体何を恐れたのだろう)、作品の展示を「自粛」するという事例はスキャンダル以外のなにものでもなく、戦争に向かうこの国にふさわしいエピソードである。私が訪ねた時、同じ美術館ではピクサーというアニメーション・スタジオの展覧会が同時に開催され、入場待ち2時間以上というとんでもない行列ができていた。大量動員をもくろんで外部から持ち込まれた企画が隆盛する一方で、学芸員が真摯に企画した展示からは要となる作品が学芸責任者の手によって撤去される。まことに今日の美術館の退廃を象徴する風景といえよう。

追記 28/5/16
ブログの中で私は橋本聡の作品にどちらかといえば批判的に言及したが、今回の展示をめぐっては展示されている作品とは別に以下のような葛藤があったことを知った。私が微温的とコメントした今回の橋本の作品は以下のような経緯を含めてその意味を問われるべきであると考えるので、あらためて追記しておきたい。
http://xxxmot.artists-guild.net/aida/
by gravity97 | 2016-05-22 16:32 | 展覧会 | Comments(0)

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 何度か関西に出張する機会があったので、私は先日閉幕したこの展覧会を二度見た。刺激的な展示ではあったが、一度見ただけではよくわからない印象を受けたことが一つの理由である。二度通覧することによって、ある程度私なりに理解することができたようにも感じるのでひとまずレヴューとして記録に留めたい。
 テマティックな展覧会はいかなる作品を選択し、いかに配置するかという問題と関わっている。The Human Images of Contemporary Art という総花的なサブタイトルをもつこの展覧会にとってもこれら二つの問題はその根幹に関わる。特別展とはいえ、作品リストを参照する限り、国立国際美術館の所蔵作品が大半を占めているから、まず作品の選択という点においてある程度の制限があったことが想像される。もっとも所蔵品を中心としてテマティックな展覧会を構成することは、展覧会予算の逼迫への対応として最近しばしばなされていることである。国立館であれば借用した作品を中心に展示を構成するくらいの余裕はあるだろうと嫌味の一つも言いたくなるが、特に驚くことでもない。おそらくこの展覧会の困難の最大の理由は人体表現という、あまりにも美術と密着したテーマを中心に据えたことに求められるだろう。もちろん「現代の人間像」であるから、古典主義や理想主義が描いた「人間像」が展開されるはずはなく、ひたすらおぞましい人間像が提示される訳であるが、人間という汎用性の高いテーマが取り上げられたため、選び方も分類、つまりその配置も恣意的に感じられるのだ。カタログで確認するならば、この展覧会は三部構成をとり、それぞれ「日常の悲惨」「肉体のリアル」「不在の肖像」というタイトルを付されている。第二次大戦直後に制作された作品を中心に戦争という惨禍が人間の身体を物質化/物体化する状況を描いた「日常の悲惨」のセクション、作品を通して直接間接に血液や傷、内臓などを露呈させて文字通り「肉体のリアル」を造形するセクション、肉体を不在において表象する「不在の肖像」のセクション。企画者の問題意識はわからないではないが、例えば工藤哲巳の作品が「肉体のリアル」で塩田千春の傍らに、ウォーホルの作品が「不在の肖像」でトーマス・ルフの横に展示されていたとしてもおそらく異和感はない。人間像あるいは身体というテーマが漠然としているためである。もちろん私はここで、テーマに異を唱えている訳でもないし、作品の選択と配置の妥当性をいちいち点検するつもりもない。ひとまず括られたテーマに沿って多様な作品を楽しむのが、テマティックな展覧会の大人の楽しみ方なのだ。ただし今挙げた三つのテーマについてもう少し詳しい説明があってもよかった気がする。カタログには二つのテクストが収められているが、一つは小谷元彦とジャコメッティの作品を比較する各論的な内容であり、もう一つの「予兆と反転―現代の人間像は、見えない」と題された、タイトルからもおそらくは総論にあたるテクストにおいては「ゼロ地点へ―人間像を解体する」、「ゼロ地点から―人間像を再構築する」「不可視の人間像」という三つの章が設けられている。それぞれ展覧会の三つのセクションに対応していると思われるが、比較的短いテクストであることもあり、テクストと章立ての対応を理解することは難しい。このような緩さを勘案するならば、これから述べるようにこの展覧会を私なりの問題意識に即して読み取ることも許されるだろう。今回のレヴューにおいては展覧会そのものに対する批評というより、そこに並べられた作品に触発されて、「現代の人間像」について私がめぐらした思考を書き留めておきたい。
 サブタイトルに「人間像」とある。実はこのサブタイトルによってこの展覧会から一群の作品が排除されたことが暗示されている。私はテマティックな展覧会においてはいかなる作品を選択したかという点以上に、いかなる作品を選択しなかったかという点が重要であると感じるのであるが、「現代の人間」ではなく「現代の人間像」と記すことによって、企画者は本展の主題とされる作品が、「人間」を表象したなんらかの「像」であることを暗黙裡のうちに示している。つまり「人間」は一度、「像」へと変換されなければならない。この点は私が本展を見ておおいに疑問に感じた問題への回答でもある。つまり本展には抽象的な作品がほとんど出品されていない。私は「現代の人間」が抽象表現によって表現できないという見方には同意できないが、「人間像」であるならば仕方ないかもしれない。人間は一度、像へと転換されねばならないのであるから。解体や再構築、あるいは不可視といったこの展覧会のキーワードも、人間ではなく人間像に焦点をあてることによって可能となる主題と連なる。この点は「人間」を「身体」という概念に置き換えてみる時、明瞭に理解される。「身体の表現」という主題系列は二つに分けることができるだろう。一つは文字通り、「身体についての表現」であり、鶴岡政男でもフランシス・ベーコンでもよい、この系列は今回の展覧会への出品作とつながる。肥大した指や爪、ねじれた肉塊、それらは異様な変形を被ってはいるが、身体を描いた「像」であることは歴然としている。客体としての身体といってもよかろう。しかしこれに対してもう一つ、「身体による表現」という主題系がありえるはずだ。それは例えばアクションの痕跡としての絵画であり、行為が押印された物質としての彫刻として実現される。そこでは身体は表出されるのではなく表現の契機とされている。つまり主体としての身体である。私は作品を分析するうえで、記号論に基づいたディコトミー(二分法)の観点を導入することはきわめて有効と考えるが、本展では身体ではなく人間という、より抽象的、哲学的な観点が導入され、加えて人間ではなく人間像という、あくまでも表象された内容、シニフィアンではなくシニフィエを強調することによって検証すべきテーマがよくいえば限定され、悪く言えばあいまいにされているように感じた。
 さて、私は本展を見て別のディコトミーに思い当たった。ただしこの場合も人間よりも身体という言葉を使う方がふさわしいだろう。というのも、この展覧会のテーマについての異和感のかなりの部分は、ことさらに「人間像」という言葉が用いられていることに起因しているからだ。フーコーの「言葉と物」を引くまでもなく、とりわけ構造主義を経過した私たちは人間とか作者といった言葉をそのまま使用することに躊躇を感じる。この点に関して、何の留保もなく人間あるいは人間像という言葉を用いる今回の企画はあまりにもナイーヴというか無防備に感じられてしまうのだ。身体という言葉であればかかるコノテーションとは無関係だ。そして私が提案するディコトミーとは、交換不可能な身体と交換可能な身体という区別だ。この区別はこの展覧会の章立てと無関係ではない。フォートリエの《人質の頭部》は画家自身が目撃したという、壁際に並べられて銃殺されたレジスタンスの身体と交換不可能なイメージとして描かれているはずだ。この作品をはじめ、最初のセクションに並んだ作品の多くは戦争や基地闘争をはじめとする多くの暴力を暗示している。暴力が身体にとって脅威と感じられるのは、交換不可能な私たちの身体に対して不可逆的な苦痛を強いるからである。「肉体のリアル」のセクションで私たちが出会う多くの傷跡や血痕、内臓や骨格もかかる苦痛の苛酷な表象であることはいうまでもない。私はこの展覧会を見て一つのフィルムを強く連想した。それはこのブログでもかつて論じたリドリー・スコットの「ブレードランナー」であり、冒頭部において、被験者が人であってレウリカントではないと証明するために実施される blush response なる試験は残酷な状況に対して、被験者が共感することが可能であるかどうかを基準としていた。出品作の中でも最もグロテスクなオルランの作品は、自らが受けた美容整形手術の模様を写真として提示するものであるが、私たちがそれらの情景から思わず目をそむけるのは、それらが一人の人間の交換不可能な身体に対して加えられた侵襲であることを知り、痛みとともに共感するからである。木下晋が描くフリークス、ローリー・トビー・エディソンが撮影する肥満した女性、村岡三郎の作品に添付された死亡証明書、これらもまた私たちの身体的特徴、そして死が自身のみに占有され他者によっては共有不可能であることを暗示している。これに対してこの展覧会ではもう一つの身体の在り方が示されていた。それは交換可能な身体である。小谷元彦の《Terminal Impact》は義足を装着した女性と義足を用いた奇妙な器具の一連の動作を記録した映像作品であるが、私たちはこの映像から手足や毛髪といった本来なら個人に帰属する身体器官が交換可能であることを知る。義眼や毛髪、ウィグ、あるいはペニス状のオブジェなど何人かの作家が使用するイメージやオブジェも同様の暗示を内在させている。あるいは北野謙という作家の作品を私は今回初めて目にしたが、それは天安門広場の警備兵やデモの群衆といったそれ自体が交換可能な任意の人物を数十名、写真の上で重ね合わせて得られた匿名的な肖像である。そこでは個々の人物、身体は識別できず、複数の人間が同時に存在しいている。記号論的な観点に立つならば、身体という問題に関して小谷と北野の作品がそれぞれメトニミー、メタファーという別々の関係性に立脚している点も興味深い。交換不可能な身体、あるいは身体の複数性というモティーフを内在させた作品はこの展覧会でも少数であったが、それはこれらの主題が比較的新しいためであろうか。かかるモティーフはむしろ近年の映画において顕著であり、「マトリックス」から「バイオハザード」にいたるSF映画の系譜をたどる時、交換され複数化された身体という主題の変奏をいくらでも指摘することが可能だ。今回の展覧会で私にとって最も印象的な作品は今挙げた小谷や北野らの作品であったが、それは単に初めて見たという理由にとどまらず、身体という美術、とりわけ彫刻表現にとって密接に関わる主題に新しい解釈を与えている点によるだろう。そしてそれはおそらく今日における人間観の変貌とも関わっている。これらの作品は医療技術の発達によって身体器官が代替され、IT技術の進展によって一人の人間の内部に複数の人格が共存しうる時代において、人間はもはや交換不可能な存在ではなくなったことを示唆しているのではなかろうか。
 この展覧会に並べられた生々しい作品群に対して、同じ時期に開かれていた竹岡雄二の個展は対照的であり、やはり興味深い内容であった。ミニマリズムとレディメイドという現代彫刻の二つの流れを独自に咀嚼した竹岡の個展は今後埼玉に巡回する予定と聞く。これについては機会があればあらためて論じてみたい。
by gravity97 | 2016-03-26 20:54 | 展覧会 | Comments(0)

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 終了直前に興味深い展示に駆け込んだ。大阪南港、名村造船旧大阪工場跡を会場とした「クロニクル、クロニクル!」である。ツイッター等で情報を得ていたので関心を抱いていたのだが、一体どのような展覧会かよくわからなかった。まず会期である。今年の1月25日から来年の2月19日まで、なんと一年以上もある。フライヤーをもう少し詳しく確認するならば、展覧会としては今年の1月25日から2月21日まで、そして2017年の1月23日から2月19日までとある。つまり展覧会は二回にわたって繰り返されるが、二つの展覧会の間の期間も会期に含められている訳である。さらに厳密に言えば、今回の展覧会の会期は2月19日に終了する。21日までとあるのは、作品の搬出も含めて展覧会に含められていることを暗示している。フライヤーには「もしかしたら一度起こったことで、それで完結するものなんて何もないんだ」という言葉が引かれている。このブログでもレヴューしたフォークナーの『アブサロム、アブサロム』からの引用らしい。このあたりの批評的な意識にも関心を抱いた。さらに驚いたのは同じフライヤーに唯一掲載されている図版が吉原治良の《大阪朝日会館緞帳のための原画》であったことだ。現在、兵庫県立美術館に収蔵されているこの作品は私も見た覚えがあるが、タイトルのとおり、今は取り壊された大阪の朝日会館の舞台の緞帳として描かれたものだ。手元のカタログで確認したところ、原画ということもあるだろうが、92年の芦屋での回顧展には出品されているが、05年から06年に東京国立近代美術館等を巡回した回顧展には出品されていない。企画者は一体どこでこのマニアックな作品の存在を知ったのであろうか。出品作家のセレクションも謎めいている。吉原や斎藤義重、三島喜美代といったヴェテランが入っているかと思えば、リュミエール兄弟という映画の草創に関与したフランス人、そして初めて名前を聞く若手まで、一体この展覧会はいかなる文脈の中に構想されているのか、私は大いに関心をもって展覧会に足を運んだ。会場で企画者と比較的長い時間対話することができたので、いくつかの疑問は解消された。まだ不明の点もいくつかあるが、予想していたとおり、きわめて示唆に富む展示であり、ひとまずレヴューとして記録に留めておきたい。
 
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この展覧会はなんといっても会場が圧巻だ。四階建ての旧造船工場を私は初めて訪れた。元々は隣接するドックで建造される船の部品や設計図などを制作する場であったらしく、広大で独特の建築である。特に低い天井に無数の蛍光灯が設置された「現図工場」と題された四階部分はそれ自体がインスタレーションの空間であるかのようだ。現図とは原寸大の船体の設計図面のことで、操業当時、かがんだ姿勢でたくさんのドラフトマンが設計に勤しんでいる様子の写真が展示されていた。現在、造船所は佐賀県に移り、この建物は使用されていないが、その内部は圧倒的な存在感があり、ここに作品を並べることは作家にとっても相当にチャレンジングなはずだ。
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少し先を急ぎ過ぎた。今述べた吉原治良の緞帳のための壁画の原画複製が掲げられた入り口を曲がるとリュミエール兄弟が1895年に撮影した〈工場の出口〉という名高いフィルムがDVDによって上映されている。文字通り造船工場の出口で工場の出口の風景が上映されるという同語反復的、自己言及的な展示が実現されている訳だ。その脇を抜けて二階に上がると、受付の横には斎藤義重の《複合体》のマケットというか模型と図面が配置され、斎藤へのインタビューが上映されている。知られているとおり、《複合体》はいくつかのパーツで構成された幾何学的な立体であるが、設置に際して斎藤が立ち会っていることから理解できるとおり、それらを実際に組み合わせる場合は配置や設置に若干のヴァリエーションが介在する余地がある。マケットと図面はおそらくはそれらに関する指示であり、言い換えるならば作品がいかに再現されるかという同一性の問題が関与する。このような作業と先に触れた「現図」の作成、すなわち原寸大の船の設計図面の間にパラレルな関係を読み取るのは深読みに過ぎるだろうか。その傍らには三島喜美代のコラージュを用いた60年代中盤の絵画が展示され、さらに荻原一青という城郭研究家による日本各地の名城を描いた多数のデッサンが展示されている。
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その奥に広がる空間で目を引くのは何体かのマネキンと清水九兵衛の二つの立体、そして牧田愛の変形パネルの絵画である。一番奥には小部屋が二つあり、向かって左側には川村元紀の《Storeroom》というインスタレーション。タイトルのとおり乱雑な倉庫の内部のような空間が提示されている。向かって右側の笹岡敬のインスタレーションは暗い室内の中央にHIDランプが吊された状態で回転し、室内に配置された鏡やミラーボールがそれを乱反射するという作品。カウンターの横から三階に上がると広い空間に作品が散在している。コンセプチュアルな映像とパフォーマンスの残骸らしきオブジェの連なり、建築の部分をモンタージュした写真、水道の蛇口にとりつけられたビニールホースが室内を一巡し、最後は窓から垂れ下がって水を排出する作品。ここでも展示された作品に共通性や方向性を認めることは困難だ。そして最後に四階に上がると、先にも触れた無数の蛍光灯が照らし出す室内はがらんどうで両端にメッセージと写真による作品が貼り付けられている。もっとも、繰り返しとなるがこの空間はそれ自体が作品のような印象を与える。
場所の選定、作家の選定、作品の設置、いずれも謎めいた展覧会は少なくともこの時点ではカタログに類した記録が作られていないこともあり、会場を訪れただけではその内実を知ることが難しい。企画者から聞いた話を私が理解した範囲で記すならば、この展覧会はこの施設を美術と関連させて活用するプログラムとして、プロポーザルの中から選ばれた試みらしい。私のおぼろげな記憶によればおそらく10年くらい前にもこの造船所を舞台に美術系の展示を長期にわたって継続する計画が進められていると聞いたことがある。カタログはないが、会場には企画者からの長文のメッセージのハンドアウトが準備されており、展示の構想の一端をうかがうことができる。少し長くなるが引用する。

「クロニクル、クロニクル!」は1年間続くある出来事たちにつけられた名前です。核となる会場は、1911年に操業を開始した名村造船所。現在は近代化産業遺産にも登録されアートスペースとして生まれ直しているそこは、言わばつくることと生きることがひとつであるような場所です。
つくることといきることを、端的に「しごと」と名指すことができるかもしれない。日々の繰り返しの中で研磨される「しごと」と類するような展覧会をしようと思いました。同じ展覧会を2度繰り返そうと思いました。「繰り返すこと」「繰り返されること」について考える展覧会をしようと思いました。

 このようなコンセプトに基づいていくつかのルールが設定されている。要約するならば、一年間の会期の初めと終わりに日時を区切った展覧会を二度開催し、「繰り返すこと」「繰り返されること」について一年間考え続けるというものだ。展覧会がまだ「繰り返されて」いない状況でかかるコンセプトについて分析することは少々難しいが、これらのテクストを読んで私が直ちに連想したのはロバート・モリスの1969年の個展「日々変わり続ける連続するプロジェクト」である。後にモリスの論文集のタイトルともなったこの個展において、モリスは自身によるインスタレーションに日々手を加えて、少しずつその様相を変えていった。繰り返しが主題とされた本展と、時間的変化が主題とされたモリスの個展とは微妙に問題意識を違えるが、作品の設置や撤収も展覧会の一部と見なす発想、そして特に三階の会場に顕著な、様々の素材が放置された印象はモリスの展示と共通している。さらにいえば私は今回の展示からこのブログでも触れた同じ年、ハロルド・ゼーマンが企画した「態度がかたちになる時」、あるいはホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン」を想起した。いずれの展示も素材や作品が展示というより放置された印象が強く、何が作品か判別しがたい状況が提示されているのだ。例えば谷中佑輔の一連の作品はおそらくその場で実施されたパフォーマンスの残骸であろうことが想像され、作品というよりも何かの痕跡である。内部を水が流れるビニールホースは作品なのか設備の一部なのか判然としない一方で先に触れた「現図工場」はダン・フレイヴィンのインスタレーションと言われれば信じてしまいそうだ。素材とも作品ともつかぬオブジェの傍らには明らかに絵画と認められる作品も展示されており、かかる混沌もまた60年代末の過激な展覧会を彷彿とさせる。先に述べたとおり、会場となった元造船所は場としての圧倒的であり、通常の絵画や彫刻では存在感を示せないために即物性、行為性の強い作品が選ばれたのであろう。
 フライヤーの裏面に四つのキーワードが示されている。すなわち「ジェーン台風」「緞帳」「マネキン」「IMAX」である。フライヤーとハンドアウトの限られた情報量ではこれらのキーワードの意味するところは必ずしも判然としないのだが、まずジェーン台風とは1950年、名村造船所があった大阪臨港地区に大きな被害を与えた台風の名前であり、この台風のために大阪に公立の美術学校を開設しようとする計画が頓挫してしまったという。さらに出品者の一人荻原一青は描き貯めていた城郭の復元図を一度目は空襲で、二度目はこの台風によってすべて失い、展示された作品は三度目に制作されたものである。まさに「繰り返すこと」が続けられた訳だ。さらに思考をめぐらすならば、今回の出品作家の一人である斉藤義重もまた1930年代に制作し失われた作品を30年以上後になって再制作している。かかる問題は今日の美術館や展覧会で多用される再制作という問題を「繰り返し」という視点から検証する契機となるかもしれない。近年、かつての展示を再現する展覧会が流行していることはこのブログでも何度か論じたが、これに対して本展でどのような観点から展覧会の「繰り返し」がなされるかは興味深い問題である。さらにいえば「ジェーン台風」という天災と美術の関係を問うことは、端的に震災後の美術のあり方を問うことでもあるだろう。二番目のキーワード「緞帳」とはいうまでもなく今回複製が展示された吉原治良の緞帳原画に由来する。緞帳とは舞台と観客を遮り、「見るもの」と「見られるもの」を隔てる両義的な存在である。緞帳の意味は存在論的にも深めることができようが、企画者は吉原と緞帳との関係から、吉原が関わった西宮球場の「たそがれコンサート」、そして光という問題へと議論を広げていく。この時、本展にリュミエール兄弟が召喚された理由も明らかであろう。そしてもう一つのキーワード「IMAX」の意味も明らかだ。いうまでもなくIMAXとは特殊な映画映写システムであり、かつて会場からほど近いサントリーミュージアムにもこの方式を用いた劇場が存在した。最後のキーワード「マネキン」の意味も大森達郎、清水凱子、ジャン=ピエール・ダルナという三人の手によるマネキン作品を見るならば明らかとなる。企画者によれば、日本においてはしばしば美術家、特に彫刻家はマネキン製作に関わり、先の引用にあった「つくることと生きること」の狭間にあったといえるかもしれない。これらの作品から村上隆の初期作品を連想することは、この意味においてもある程度の妥当性があるだろう。
 展覧会は通常一過的な営みとみなされてきた。これに対して一年間という異例の長い会期を設け、しかも最初と最後に展覧会を繰り返すという試みはいくつかの批評的な視点を提起する。例えば通常の展覧会においてはいつ来場しても、同じ作品の同じ様相を見ることとなる。しかし多くのパフォーマンスやワークショップを伴うこの展覧会はその残滓としての「作品」を積極的に取り入れることによって、常に姿を変える。先にも述べたようにこのような試みはすでにロバート・モリスに先例がある。しかし今日においてはSNSという技術を用いることによって、かかる変化の状況をリアルタイムに報告することができるし、そもそも一年という長期にわたる展覧会はSNSによる情報発信を介してその都度必要な情報を関係者に提供しながら、「1年間続くある出来事たち」を組織することが可能となったことによって実現したといえよう。通常の展覧会が時間的にどの断面を切り取っても同じ相貌を示しているのに対して、この展覧会においては出来事が蓄積していくとはいえないだろうか。この点においてもSNSは重要な役割を果たす。通常であればすでに終えられたイヴェントはかたちを残さないのに対して、ウェブ上では情報を蓄積することが可能であるからだ。再びロバート・モリスを引こう。モリスはポロックのポード絵画の特質を最終的な画面からそれが描かれた経過を読み取ることができる点に求めた。作品が制作の経過を内包しているというのだ。時間が空間化されていると言ってもよいかもしれない。この展覧会は少なくとも理念の上では同様の意図をもっているかもしれない。すなわち一年間にわたって展覧会をめぐる様々な経験が蓄積されていく試みであり、それは現実においては旧名村造船大阪工場という場において、仮想空間としてはウェブのSNSにおいて日々更新されているのだ。展示は来年も同じ場所で繰り返されるという。おそらく私は来年、もう一度北加賀屋を訪れることになるだろう。
by gravity97 | 2016-02-27 19:46 | 展覧会 | Comments(0)

「九州派」展

b0138838_21292596.jpg 福岡市美術館で開催中の「九州派展」に滑り込みで駆けつける。常設展示の枠内での展示であるから、大盛況の「モネ」展のかたわら、ほとんど広報もされていないが、このグループがこれほどの規模で紹介されるのは伝説的な1988年の「九州派展」以来、四半世紀ぶりであり、この美術館が秋から改修に伴う休館に入るといった事情を勘案するに今後しばらくは見ることの困難な作品群である。私は88年の「九州派展」を実見していないから、今回初めてこの集団の全貌に触れた。
 九州派の起点と終点をどこに置くかはなかなか難しい問題であるから、ここでは深入りしない。しかし九州派という集団が戦後美術の文脈に組み込まれたのは比較的最近であり、そもそも組み込まれたか否かについても議論の余地があるだろう。私自身が九州派という集団の存在を初めて意識したのは先日物故したヨシダヨシエの『解体劇の幕降りて』中の「九州派の英雄たち」という章においてであり、奥付等を確認するならば造形社版は1982年の刊行。その原型である「戦後前衛所縁荒事十八番」は1960年代後半の『美術手帖』に連載されたはずだ。このあたりの書誌的事実の確認はひとまず措くとして、戦後美術の通史として知られる針生一郎の『戦後美術盛衰史』と千葉成夫の『現代美術逸脱史』においてもいずれも短く言及されるのみである。(ただし針生は実際に「九州派」と深く関わるとともに60年代に簇生した地方の前衛集団のうち、九州派の特異性をいちはやく見抜き、後述する88年のシンポジウムにはパネラーとして参加している)、これに対して椹木野依は『日本・現代・美術』の中でかなりの紙数を費やしてこの集団に触れ、アドルノと関連づけて次のように論じているのは慧眼と呼ぶべきであろう。いきなり結論めくが参照すべき視点であるからまず引用する。

 九州派は、そのあからさまな暴力衝動において、近代美術とも現代美術とも決定的に袂を分かち、それゆえに作品も記録もほとんど残されず、いま、歴史の空白でひたすら眠りこけている。しかしそれが「野蛮」と最も遠くあるための、数少ない選択肢のひとつでなかったと、誰がいえるだろうか?彼らは、「アンフォルメル以後」に生きる野蛮に耐えかねて、「アンフォルメル以前」に暴力的に瓦解することを、ほとんど本能的に選び取っていたのではないだろうか。

b0138838_2131968.jpg   九州派が注目される契機となったのは同じ美術館で1988年に開催された「九州派―反芸術プロジェクト」であった点は既に述べた。当時、私も福岡でとんでもない展覧会が開かれているという噂を耳にしたのであるが、展覧会を訪ねることがかなわず、カタログを取り寄せて、確かにとんでもない作品が出品されていることに驚愕したことを覚えている。この展覧会はなかば神話化されていたこの集団が決して「作品も記録も残さなかった」訳ではなく、多くのきわめて特異な作品を残していることを明らかにした。
 今回の展示はクロノロジカルに構成され、九州派前史と呼ぶべき時代から60年代までの作品が展示されている。先にも述べたとおり、九州派の活動期間、特にそれがいつ終わったかについては議論が分かれるところであり、88年のカタログテクストで黒田雷児は「九州派は遅くとも1968年には完全に死んでいた」と記し、今回の展覧会を契機に刊行された「九州派大全」に寄せたテクストで山口洋三は「九州派の真に九州派らしい特性は1959年までの前期にある」と述べている。活動の初発のエネルギーが次第に減衰していく様子は九州派がしばしば比較される具体美術協会と似ている。しかし具体美術協会がやはり80年代中盤の再評価以来、国内外で何度も大きな展覧会として取り上げられたのに対して、九州派を取り上げた展覧会は福岡市美術館以外で開催されることがなく、今回の年表を参照しても九州派に属する作家が集団展で取り上げられる場合、テマティックな展覧会に何名かの作家が取り上げられ場合を除いて、集団として回顧される例はほとんどない。これには二つの理由が挙げられるだろう。一つは残された作品数が少ないことである。88年の展覧会は「九州派の残存作品が極めて少なく、展覧会を成立させるに足る作品数の確保が不可能」という通説に抗して、企画者が綿密な調査を続け、約90点の作品を発見したことによって成立した訳であるが、その際のカタログと今回の展示を比べても作品数はさほど変わらない。再評価が進むにつれて外国からの買い戻しや作品の再発見などで作品数が増え、新たな視点からの検証も可能となった具体美術協会と比べて、九州派の作品は多くが失われて再検証が困難なまま今日にいたっている。88年のカタログでは九州派の活動が絵画期、オブジェ期、解体期に分けて総括されているが、オブジェは破棄されパフォーマンスやインスタレーションは残らないという理由によるのであろうか、今日に伝えられる作品は初期に制作された絵画が多い。しかしこの点は必ずしも消極的な意味ばかりをもつ訳ではない。黒田は展覧会にあたって再制作という手法を用いなかったことと関連させて、88年に次のように記している。「ひとつは『制作時の熱気は再現不可能だ』という常識に従ったものであり、もうひとつは『作家は作品を残すのが当然だ』というもうひとつの常識を、同時代の『ネオ・ダダ』らと同様に九州派が顧慮しなかったことを重視したからである。『作品がない』という現実自体も、いわばネガティヴな意味での九州派の痕跡なのである」この主張がネオ・ダダをめぐる膨大な行為のエフェメラを記録した1993年の「ネオ・ダダの写真」展、そしてこのブログでもレヴューした大著『肉体のアナーキズム』へと結実したことは今や明らかである。もう一つの理由はさらに重要だ。先に椹木のコメントを紹介したが、そこでは九州派が近代美術とも現代美術とも決定的に袂を分かった営みとみなされていた。おそらく九州派を理解することの困難の一因はモダニズムとの関係を一切欠いていることに由来する。この点では具体美術協会との比較が有効だ。確かに具体美術協会の活動も一見するならばモダニズム絵画の理路、例えば形式の純粋化や視覚性の強化からは大きく逸脱する。それゆえ白髪一雄の絵画はクラウス=ボアの「アンフォルム」概念の例証として用いられもした。しかしそれは彼らの作品が屈折したかたちでモダニズムとの紐帯を維持していたことを示唆しているのではないだろうか。このグループのリーダー吉原治良は阪神間モダニズムを主導した画家であり、具体美術協会を結成時の問題意識は欧米の抽象絵画、その極北としてモンドリアンをいかに克服するかという点であった。つまり結果的にモダニズムの原理を逸脱することになったとしても、この集団には歴史的前衛という明確な意識が存在した。しかしこのような歴史意識を九州派に求めることは難しい。もちろん具体美術協会は活動時から欧米の批評家や作家と交渉があり、80年代以降はアクションやアンフォルムといったモダニズムとは別の経路を介して、海外の美術界が一定の関心を寄せていた。しかし九州派は後年サンフランシスコで作品を発表するといった機会があったにせよ、欧米の批評の規矩とは無関係に、椹木の言葉を借りれば近代美術とも現代美術とも決別したまま活動を展開したのではないだろうか。
 もちろん残された作品は興味深い。会場をめぐりながら、様々な思いが浮かんだ。例えば多くの作家が素材としてアスファルトを使用した理由だ。当時、九州各地の道路の建設においてアスファルトがしばしば使用されたという背景があったらしく、安価で手に入る素材であるため好んで用いられたとのことであるが、私たちは黒いアスファルトに炭鉱のイメージ、そして労働運動や政治的な主張さえうかがってしまう。しかし意外にも作品からはそのようなメッセージはほとんど感じられない。あるいは絵画の物質的相貌からは時代的に少し先行する何人かの作家が連想される。それはフォートリエやデュビュッフェといったアンフォルメルの先駆とも呼ぶべき作家たちであり、作品がほとんど残されていないオチ・オサムの絵画は北欧のコブラ・グループとの類比を許すが、おそらく彼らの間に影響関係は存在しないはずだ。九州派におけるアスファルトの使用、物質的絵画の成立は同時代の絵画とどのような関係を結んでいたのだろうか。一方で彼らは頻繁に東京で展覧会を開いている。九州という地方に根ざすことを強調しつつも、彼らは東京に積極的に進出し、例えば読売アンデパンダン展などに展開される先鋭な表現を摂取しようとした形跡が認められる。彼らにおいて中央と地方の関係はいかに認識されていたのであろうか。あるいは何人かの作家に認められる儀式性やグロテスク・リアリズムへの接近をどのようにとらえるか。マネキンや人工の毛髪といったフェティッシュな素材への嗜好。再制作され、今回初めて見た田部光子の《人工胎盤》という作品はフェミニズムの観点からも興味深いが、そもそもマッチョズモという点でおそらく右に出る者のいないこの集団において女性作家はいかなる位置を与えられていたのか。
 このような問いのリストはいくらでも増やすことが可能だ。そしてこれらの問いに答えるうえでは残された作品があまりにも少ないことをあらためて感じる。彼らが作品を残すことを必ずしも必要と感じていなかった点についてはいくつかの証言が残されているが、かかる集団を美術館という場で展覧会の形式で扱う手法についても今回の展覧会、そして88年の最初の「九州派」展は重要な示唆を与えてくれる。88年の展覧会ではカタログに作品図版のみならず活動を記録した写真が多く残されている。同時に当時は存命であった作家たちにアンケート形式で質問し、作家たちの証言を引き出している。この際には「作家は作品を残す」という常識への抵抗として彼らの活動をとらえ、むしろ「作品として残存しない営み」によってもう一つの「美術史」をかたちづくることが試みられたように感じる。そしてかかる問題意識が「ネオ・ダダの写真」という展覧会と『肉体のアナーキズム』という大著に引き継がれたことは先に述べたとおりである。
 特別展ではなく所蔵品を中心とした常設展示の枠内で実現されたためであろう。今回の展示には記録写真やヴィデオの上映といった設えは少なかったように記憶する。しかし特筆すべき成果がある。展覧会にあわせて刊行された『九州派大全』という浩瀚な資料集である。驚くべきことにはこの資料集の刊行は既に予告されていた。88年の展覧会カタログの「ごあいさつ」の中に記された展覧会の方針に次の一文がある。「昭和65年度に発行予定の『福岡市美術館叢書5 九州派資料集(仮称)』制作のため、九州派に関する資料を収集・整理して正確な記録を作成する」なんと「昭和」である。実際に今回発行された『九州派大全』の表紙には「福岡市美術館叢書6」という言葉がある。四半世紀以上の間隔をあけて、担当者が交代しながらもこのような充実した資料集が刊行された訳であり、地方の美術館の息の長い仕事に脱帽する。この資料集には今回の企画者による書き下ろし論文のほか、作品図版と詳細な年表や参考文献、参考資料などが収録されている。私は知らなかったのであるが、九州派も1957年以降、「九州派」というタイトルの機関誌を8号まで発行しており、この機関誌の誌面、さらに展覧会のパンフレットや抗議文、通知が印刷されたハガキやビラなど、多く多く転載するのではなく図版として掲載され、当時の雰囲気を伝えている。私はまだ精読していないので内容についての検討は控えるが、全体に漂う扇情的、挑発的な口調は当時の労働争議や政治闘争のそれを連想させないだろうか。以前から感じていたことであるが、50年代から60年代にかけて、多くの前衛集団が機関誌を発行している。これらのリトルマガジンの比較分析はいまだになされていないが、重要な研究となるだろう。(Tiger’s Eye などアメリカの抽象表現主義と関連したリトルマガジンについては近年いくつかの研究書が公刊されたように記憶する)このような研究の前提として、やはりこのブログで取り上げた『具体』誌の復刻と並んで、本資料集の発行は大きな意義があるだろう。さらに驚くのはこの中に88年の「九州派」展のテクスト部分がほぼまるごと再録されている点である。おそらく以前のカタログは今日入手することが困難であろうし、このカタログに収録された論文は九州派についての基本文献ばかりであるから当然といえば当然かもしれないが、この意味でもきわめて充実した内容となっている。そしてきわめつけは88年の展覧会の際に開催されたシンポジウムの書き起こしが収録されていることだ。それから27年、既に基調講演を行った針生一郎とパネリストのうち3名が鬼籍に入っている。幽冥からの声を聞くようではないか。遅すぎたというのはあたらないだろう。おそらくこのようなパロールが資料としての意味をもつという認識は昨今のオーラル・アートヒストリーの活動の成果を前提としており、このほかにも三つの聞き書きによる記録が収められている。エクリチュールとパロール、「大全」の名のとおり、この資料集は現時点における九州派に関する資料を網羅しているといえよう。私は今回、九州派そのものについてはほとんど論じることができなかったが、これからこの特異な集団について考えるうえで本書が出発点となることは間違いない。
 
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 作品によって回顧することが困難な九州派の活動に対して、88年の展覧会が写真と証言をとおして新しい輪郭を与える内容であったとするならば、今回の展示は言語として残された資料を最大限に網羅してかたちを与える試みであったといえよう。この意味において展示を見ることができたのは大きな幸運であったとはいえ、今回の展覧会の果実はこの資料集であったといえよう。九州派のシンボル・カラーである黒に対して、あえてオフ・ホワイトで造本された資料集は『肉体のアナーキズム』や菊畑茂久馬の作品集の版元として知られるグラム・ブックスから発売され、編集サイドともみごとに息が合っている。美術館まで足を運ばずとも書店で購入できることは嬉しい。ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート以来、実体のない作品をいかに展示、収蔵するかという問題が美術館を悩ませてきた。九州派の展示は同じ問題が一つの集団を回顧する際にも発生することを暗示している。福岡市美術館の二つの展覧会はそれぞれ異なったかたちでのこの問いに対する回答であり、記録写真やエフェメラ、証言やオーラル・ヒストリー、アーカイヴといったこれまで作品の外部とみなされてきたコーパス(資料の集積)が美術の内部に取り入れられていく状況を反映している。それを美術館という制度の欲望とみなすか、展覧会という制度の限界とみなすか。私たちは立ち止まって考えるべき時期に来ているかもしれない。
by gravity97 | 2016-01-17 21:37 | 展覧会 | Comments(0)

「Re: play 1972/2015」

 このところ、このブログの展覧会というカテゴリでは東京国立近代美術館によって企画された展覧会のレヴューが続いている。お読みいただけばわかるとおり、私は必ずしもそれら全てを評価する立場ではないが、少なくとも大いに問題提起的な展覧会が続いていることは間違いない。今開催中の「Re: play 1972/2015」と題された展覧会もその例に漏れない。決してわかりやすい展示ではないが、展覧会という営みの本質と関わる実に刺激的な内容である。
 展覧会の内容はサブタイトルによって明確に示されている。「『映像表現’72』展、再演」というサブタイトルは、この展覧会が1972年に京都市美術館で開催された《映像表現”72》(展覧会のタイトルの表記についてもテクスト・クリティークの必要を感じるが今は措く)を2015年に東京国立近代美術館で「再演」する内容であることを暗示している。実は過去の展覧会を「再演」する試みは近年流行している。このブログで取り上げた展示だけでも1966年、キーナストン・マクシャイン企画の「プライマリー・ストラクチュアズ」と1969年、ハロルド・ゼーマン企画の「態度がかたちになる時」がそれぞれニューヨークとヴェネツィアで「再演」された例がある。これらと比しても、京都市美術館の「展示」の再現は困難をきわめる。なぜならそこに展示された作品はタイトルが示すとおり、ほとんどが映像であって実体をもたないからだ。実体をもたない作品の「再現」は可能か。コンセプチュアル・アートの核心と関わる問題が展覧会をとおして提起され、今回の展示はこの問題にまさに正面から挑んでいる。
 この展覧会については展示構成というリテラルなレヴェル、映像の再現というテクニカルなレヴェル、そして付随するテクストに関わるテクスチュアルなレヴェルから論評を加えることができよう。まず展示構成についていえば、最近この美術館においてしばしば試みられているように、今回も建築家、具体的には西澤徹夫が会場構成にあたっている。会場構成に専門の建築家を配する余裕など今や国立美術館以外にはありえないと嫌味の一つも言いたくなるが、今回の展示にとって建築家の協力は必要不可欠であったはずだ。会場はチャイニーズ・ボックス、入れ子状の構造をとり室内にもう一つの部屋が設置され、その周囲を取り囲むように細いコリドーが設えられている。内部の部屋にかつての京都での展覧会を「再現」し、周囲に作品についての情報や現時点における出品作家の回想を交えたインタビューなどを配置するという趣向だ。したがって周囲をめぐってから展覧会の「再現」に向かった方が展示を理解しやすいが、私の記憶では順路についての明確な指示はなく、それどころか監視員が先に内部の部屋へ誘導していた場面もみられた。もちろん展示をどのような順で見るかは観衆の自由に任されているとはいえ、入口に展覧会の構成についてもう少し詳しい説明なり指示があった方が親切ではないだろうか。きわめてマニアックな展覧会であるから関係者しか訪れないという想定があるのかもしれないが、以下でも論じるとおり、今回の展示は全般に説明不足という感が拭えない。展示構成についてさらに続けよう。72年の京都市美術館の展示を「再現」するにあたって、西澤は建築家らしい緻密な検証を続ける。会場図面は残されていないから、西澤は当時の写真と実際の京都市美術館の展示室の図面、そして作家たちの記憶に基づいて東京国立近代美術館の展示室の内部に同じ空間の再現を試みる。会場にはその手続きについても詳しい説明があり、確か技術的な制約もあって、実際には90パーセントの縮小として会場が再現されているとコメントされていたのではなかっただろうか。展覧会の内容については今回カード形式で再現された「展覧会カタログ」中、企画者の説明の中に明確に総括されている。少し長くなるがそのまま引用する。

 「第5回現代の造形〈映像表現72〉―もの・時間・空間―Equivalent Cinema」展は、1972年10月14日-19日、京都市美術館で開催された。エンドレスで上映するためにフィルムが蜘蛛の巣のように張り巡らされた薄暗がりの会場では16名の造形作家による作品の映写機やヴィデオデッキ、スライドプロジェクターの機械音が響き、そこかしこの壁やモニター映像が明滅していた。暗闇で終始着席したまま映像に没頭する映画館から美術館へと場所を移し、複数の作品が同時に上映される中を観客は動き回り、どの映像から見るのも、どれだけ見るのも自由。このような映像展は日本では初、世界的に見ても先駆的な試みであった。

 この要約は同じ企画者による、同じ時代のアメリカのヴィデオ・アートを対象としたもう一つの展覧会「ヴィデオを待ちながら」と比較する時、意味をもつ。「ヴィデオを待ちながら」についてもこのブログでレヴューしたが、出品されたヴィデオ作品はTVスクリーンを関して淡々と上映され、近年の映像展示でおなじみの大掛かりなヴィデオ・インスタレーションは一切用いられていなかった。ヴィデオという媒体がかかる制約の根拠であるが、同時に私たちは作品を順番に一定の時間見ながら会場を巡ることとなった。そこでは作品の意味は映像の中のみにあり、上映形式にはなかった。これに対して今回の展示は今引いた文章に明らかなとおり、複数の映像がエンドレスに上映されている会場を来場者は主体的にめぐり、映像のみならずそれを取り巻く環境を知覚する。今回の展示の場合、上映されていた映像をヴィデオ化して、順番に上映することは全く意味をもたない。私たちが映像を見る状況も作品の一部なのであるから。一種現象学的なこのような問題意識を念頭に置く時、企画者が特にこの展覧会を選んで「再現」したことに関する次のような説明は容易に理解できるだろう。

 「映像表現’72」をこの「再演」の対象に選んだ理由は「[…]スクリーン以外の空間が映画を見ることにより排除されることのない。時間と空間がいわゆる映画に収斂されることのない。つまり〈映画における時間と空間〉と〈観客における時間と空間〉が等価な〈映像と人間〉との関係としての〈場〉が設定できないだろうか」という「映像表現‘72」のもくろみが、「出来事としての展覧会」、「状況・布置としての美術」という在り方の、新たな可能性を指し示すものと思われたためである。

本展は先に同じ会場で開かれた「No Museum No Life?」同様に自己参照的な内容であるが、参照された展覧会そのものきわめて自己言及的であったことが示唆される一節である。等価の映画、equivalent cinema という謎めいたサブタイトルの意味も了解されよう。実際に今回の会場でも薄暗い室内を私たちは作品を特に順番を決めずにめぐり、時に映像の前に滞留し、時に映像の横を通り過ぎる。このような作品のリテラルな併置は「態度がかたちになる時」などにも共通し、当時の美学的気風を示しているが、映像を主体とする展覧会としてかかる展示が実現されたことはなんともラディカルであり、それが実行委員会形式で作家たちによって主導されたことに驚く。1970年の「人間と物質」の京都巡回以来、京都では多く作家たちが主体的に関与して京都アンデパンダン展や「京都ビエンナーレ」といった展覧会が陸続と開かれた。これらの展覧会の詳細については美術館との関係も含めて今後検証されるべきであろう。
 「映像表現‘72」の出品作家は16名。河口龍夫、植松奎二、庄司達、村岡三郎あるいは野村仁といった今日まで活動を続ける作家もいるが、数名の作家について私は初めて名前を知った。解説によると中心となってこの展覧会を企画したのは松本正司であるらしいが、私はこの作家についてはほとんど知るところがない。私が関西の現代美術に接することとなったのは1980年代に入ってからであるから、10年ほどの空白はなんとももどかしい思いだ。それにしてもあらためて驚くのはこれらの多様な作家たちが皆、映像という表現に積極的に取り組んでいる点である。確かに山本圭吾や今井祝雄らは早くから映像や写真表現を積極的に取り入れており、この分野におけるパイオニア的存在である。しかし今日私たちは長沢英俊や村岡三郎を立体の作家として、庄司達はファイバーワークの作家として理解している。この点は当時、映像表現がジャンルを超えて注目を浴びていたことを暗示する。このような関心は一体どこからもたらされたのであろうか。この点についても今後の研究が待たれる、写真作品として知られる須磨海岸の干満を記録した作品を河口龍夫が映像としても発表していたこと、柏原えつとむの人を食ったような作品、おそらくは「視覚のブラウン運動」へと展開される野村仁の比較的早い時期の作品、そして山中信夫のピンホールカメラ(私は二度中に入ったが映像を確認することができなかった。果たして機能していたのであろうか)。「再現」された作品は多くの発見を誘いつつ、私たちを一つの漠然とした疑問へと差し向ける。それは出品された作品がかつて京都市美術館で上映された作品と同一であるという保証はいかにして得られるかという問いであり、かくして私たちは先に述べた二番目のレヴェル、テクニカルな審級における作品の同一性という問題に直面する。この展覧会では厳密に全ての作品が「再現」された訳ではなく、いくつかの作品については作品が上映されていた場所に作品についてのメモのみが残されていた。映像もしくは上映形態についての記録が残されていなかったための処置であろうが、この意味において今回の展示は72年の展示の完全な再現ではない。もちろん私はこれを批判するつもりはないし、それどころかかかる困難を乗り越えて多くの作品が再現された点には敬意を表したい。映像とはテクノロジーと深く結びつき、媒体と密接に関わっている。例えばこの展示でしばしば使用された8mmフィルムは今日ほとんど目にする機会がなく、ネガが存在しないため複製も不可能だ。私は技術に詳しくないが、おそらく今回の展示ではオリジナルのフィルムを上映し、その映像をヴィデオなどの別の媒体によって記録し、あらためて会場で上映するというきわめて倒錯された手法がとられたはずである。8mmからヴィデオに媒体が変わることによって作品の本質に変化が生じるか否かは難しい問題だ。しかしながらこの展示が映像そのもの以上に提示の形式を主題化しており、例えば彦坂尚嘉の8mmフィルムを「蜘蛛の巣のように」張り巡らして一種の無限ループとして成立させた作品など、具体的な機材や建築を作品の中に取り込んでいることを勘案する時、機材の変更は展示の内容にも関与するように思われる。作品にとって関与的/非関与的な要素の区別はこの展示の根幹と関わっているはずだ。準備と展示、どの時点で撮影されたものか不明であるが、東京国立近代美術館のホームページには当時の会場の様子を記録した写真がアップされているので下に示す。
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 この写真と今回の展示の情景を比較することによってある程度、「展示の再現」の成否を判断することができよう。それぞれの作品の傍らにおそらく作者らしき人物が佇む当時の写真と比較するならば、今回の展示はいかにも展覧会然としていたが、それは会場の周囲に配置された情報によるところが大きいだろう。一過的な展示を再現する手法としては通常は写真や映像、資料を展示する方法がとられていた。これに対して今回のごとき再現方法は、それが展覧会についての展覧会であることを明確に示す。つまり再現された展示を取り巻く資料群が絵画に対する額縁、彫刻に対する台座として展覧会を聖別するのだ。しかし72年に京都市美術館を訪れたならば、人はこれらの展示と現実との区別をつけることが困難であろう。現実としての美術、このような感性が当時共有されていたことは、「アンチ・イリュージョン」あるいは「アート・オブ・ザ・リアル」といったメルクマールとなった展覧会名からも明らかである。これに対して今回の展示は現実と遮断された、周到に組織された展覧会であることを問わず語りに表明している。周囲の回廊、作品や作家についての説明なしに、いきなり当時の展示の部分のみを近代美術館の中に再現した場合はどのように印象が異なっただろうか。先に引用した同じ文章の中で企画者はこの展示を「43年前にわずか6日間だけ行われた『映像表現’72』を、京都から東京へと場を移して『再び舞台に乗せる』、すなわち『再演(replay)』するものだ」と述べているが、今回の展示においてはこれが一つの展覧会であるあることは既に所与の事実として示されている。展覧会をもう一度括弧内に括ることによって、おそらく72年の展示とは決定的に異なる一種の完結性がこの展覧会に賦与されたのではないだろうか。
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 最後にテクスチュアルな側面に目を向けよう。展示と映像の再現のレヴェルにおいては72年の展覧会が新たな構成と技術を介して、いわばアップデートされていたのに対してテクスチュアルなレヴェルでは72年の展示がほぼ踏襲されていた。つまり京都市美術館の展示の際に会場で配布されたカード式のパンフレットが再現され、袋詰めされてミュージアムショップで販売されていた。カード形式にした理由は明らかだ。会場に順路がないように、表裏に作家の略歴と展覧会のプランが印刷されたカードはばらばらで綴じられておらず、順番や階層をもたない。おそらく72年の展示に協賛したであろう書店や喫茶店の広告も同封され(その中には新京極ピカデリーで上映中の「成人映画」、「情欲エロフェッショナル」の広告も含まれる)、当時の気風を伝える。主催者あいさつと企画者の解説なども緑色の紙に印刷されて同封されているが同じ版型であるため、レヴェルの異なるテクストの介入はさほど目立たない。印刷のプロセスが当時とは一新された今日、当時の活版活字を再現することは不可能であり、この意味においてはこれらのテクストも形式においてアップデートされているといえるかもしれない。しかし私はもう少し詳しいテクスチュアルな介入があってもよかったのではないかと感じた。例えば展示の中で、この展覧会に対しては平野重光らの充実した批評が応接したことが指摘され、展示中に掲出されていた。企画者の解説のみならず、同時代になされたこれらの批評がパンフレットの中に再掲されていれば私たちの理解もさらに深まったのではないだろうか。今回の再現展示は情報量が多いにもかかわらず、72年の展示同様にあまりにもエフェメラルに感じられる。今述べた批評のほかにも今回会場で上映されていた関係者の証言、あるいは会場の設営や映像の再現に関する建築家や技術者の証言を書き起こして一連の資料集とすることができれば、72年の展示の輪郭がくっきりと浮かび上がったのではなかろうか。ただ私は、今、今回のカード式パンフレットをめくっていて、奥付の部分に Catalogue Vol.1という表記を見つけた。もしかしてそれらを収めたVol.2が作成される可能性があるのであろうか。これについても会場に特に説明はなかったように記憶する。
 今回、私は上映された作品についてはほとんど論じることがなかった。紙数の関係もあるが、今回の展示の意味が個々の作品ではなく、展覧会の再現というメタレヴェルに存すると考えるからだ。比較的短い時間で薄暗い会場をめぐったため、見落としや事実誤認があるかもしれない。その場合はコメントにて指摘いただきたい。作品について論じていないこともあり、かなりわかりにくいレヴューとなってしまったのではないかと危惧するが、かかるチャレンジングかつ概念的な展示にまともに応接する記事を今日の美術ジャーナリズムに期待することはできない。ひとまず所感を記し、記録として留める。
by gravity97 | 2015-11-03 11:15 | 展覧会 | Comments(0)