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巨大美術館の黄昏

 

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 久しぶりにパリとロンドンの美術館をめぐった。いずれの都市も最後に訪れてから10年以上の時間が経過している。以前は仕事でヨーロッパに出張することも多かったが、その場合もコレクターや批評家との面会をすませるとそそくさと次のアポイントメント先に向かうことが多かったため、いわゆる大美術館を訪ねる機会はあまりなかった。今回はプライヴェイトな旅行であり、久しぶりにルーブルやロンドンのナショナル・ギャラリーといった有名美術館に足を運ぶことにした。思い起こせば、私がこれらの美術館を初めて訪れたのは大学院の修士課程を終えて初めて海外に出かけた一人旅の折であり、今年はそれからちょうど30年目にあたる。最初にルーブルを訪れた際の感動を私は今でもありありと思い出すことができるが、現在、同じ美術館を訪問する若者は果たして同じ感動を抱くことができるだろうか。21世紀を迎えて大美術館は大きな変質を遂げつつあるように感じた。今回は特定の展覧会に限定することなく、旅先で得た偶感を文章にとどめておきたい。

 今述べたとおり、私はこれらの美術館を実に久々に訪れた。したがって私が感じた変貌がどの程度妥当であるかについては留保の余地がある。次に述べるような状況はずっと以前から明確であったかもしれず、(時期的にありえないとは思うが)たまたま私が訪れた時期の特異な現象であったかもしれない。しかし最後に述べるとおり、おそらくこのような状況は現在日本の多くの美術館が直面する悪弊と深く関わっている。私が「巨大美術館の黄昏」と名づけた美術館の不全感はきわめて単純な事実に負っている。来場者が多すぎるのだ。これらの美術館はすでに作品を見る場所ではなくなっている。ルーブルでもよいナショナル・ギャラリーでもよい。入場者はセキュリティーチェックを十重二十重に取り囲み、作品の前には芋を洗うように人々が蝟集している。はるか以前にこれらの美術館を訪れた記憶をたどっても、これほどの人が入場していたとは思えない。《モナ・リザ》のごとき有名な作品を除いて、少し時間をかければ作品の前に立ち、ある程度の時間を作品と共有することができたように思う。しかし今日では作品に近づくことさえ容易ではない。I.M.ペイによるルーブルのピラミッドやノーマン・フォスターによる大英博物館のグレートコートを想起するならば理解されるとおり、近年のリノベーションを経て、かつての迷宮のような美術館も順路や導線が劇的に改善されたはずだ。しかしながら混雑は増すばかり。来場者が飛躍的に増えたからである。来場者の顔を見比べれば、東洋系それも中国人が圧倒的に増えたことが直ちに了解される。90年代、パリを歩くと日本人ばかりであったが、このたびロンドンでもパリでも日本人を見かける機会は少なく、代わって中国系、時に韓国系の団体客と思われる集団に頻繁に遭遇した。美術館の中でもツアーとしてめぐっているのはほとんどが中国人団体客であった。むろんこれは端的に国力の消長、日本の没落と中国の台頭を示している訳であり、経済的必然にすぎない。しかしかつてはほとんどが白色系の人種によって観者が占められていたフランスやイギリスの美術館を訪れる観衆の中心が黄色人種、しかも中国人であることに隔世の感を受ける。富裕層が中心であるにせよ、おそらく頻繁に欧米を訪ねることはない彼らのヨーロッパの美術館への執着は強い。

 さらにもう一つの要素が加わる。写真とSNSだ。近年、美術館の中で撮影が許可されることは普通であり、その写真をSNSで拡散させることが展覧会の広報宣伝の一つの戦略となっている。ヨーロッパの大美術館で写真撮影が許可されるようになったのはいつ頃であろうか、私が最初に訪れた80年代後半、フラッシュと三脚を用いなければ撮影が許可されていた気もするし、禁止されていた気もする。少なくとも美術館内で公然と写真を撮ることは行われていなかった。しかるに現在、多くの来場者が作品と一緒に自分を写し込む、いわゆる「自撮り」を目的とした写真撮影を行っている。実際、私も中国人観光客から《モナ・リザ》を背景に彼のポートレートを撮影するように要求さえされたのである。携帯や小型カメラであろうと、作品の写真を撮影するためには一定の時間が必要とされる。ましてや「自撮り」や他人に頼んで作品と並んだ自分のポートレートを撮影するためには相当の時間が必要とされる。かくして作品の前に人が滞留する時間は、作品を鑑賞することとは別の目的のために長引くこととなる。今触れた《モナ・リザ》が展示された部屋にいたっては広い室内のおよそ半分が写真撮影のために《モナ・リザ》ににじり寄る観衆で占められ、その両側に展示された作品は見ることさえできない状態だ。ここでは人は作品を「鑑賞」することなど不可能である。人は作品がそこにあることを「確認」して次の部屋に進む。私はこれらの美術館において作品の撮影は禁止すべきではないかと考える。一つは混雑の緩和が目的であるが、さらに本質的な問題としては、作品はカメラのレンズではなく人の目を通して見られるべきであり、それによって初めて作品を鑑賞し理解することが可能とされるからだ。写真は作品をその本質から遠ざける。今日、来場者は自らの携帯やカメラに作品のイメージを収めることによって作品を見たことを確認するのであるが、これは実に奇妙な倒錯ではないか。美術と写真は複雑な関係にある。例えば美術史学と美術全集、これらはいずれも近代の産物であるが、写真という技術の確立によって可能とされた。前者においては暗闇の中に二台のスライドから投じられるイメージによって、後者においては無数の図版によって、教師や愛好者は絵画について語ることが可能となった。質感やサイズ、ファクチュール、そして何よりもそれが所在する場所といった実物の作品を通してしか感受できないいくつもの要素を省いたとしても、それらのイメージは図像の確認や作者の特定といった一定の目的には使用可能だからである。このようなイメージの複製可能性、交換可能性は「近代美術館」の成立と深く関わっている。ニューヨーク近代美術館を嚆矢とする「近代美術館」は作品が文脈において初めて意味をもつという理解、一種の相対主義へと私たちを導いた。これに対して常設展を基本とするヨーロッパの美術館は作品と場所の結びつきを強調していたはずだ。《メデューズ号の筏》はルーブルにおいて、《大使たち》はナショナル・ギャラリー以外で見ることができない。しかしそれにもかかわらず、まさにその場でしか見(まみ)えない現実の作品の傍らで、それをせっせと写真=複製という抽象的な場へ送り出すふるまいは倒錯と呼ぶしかない。

 別の観点からこの状況について考えてみよう。かつて名画は王侯や貴族に秘蔵されていた。革命をとおして彼らの手から美術品を奪い、市民に公開する目的で設立されたのがルーブルのごとき巨大美術館であり、この意味において美術館とは市民革命の成果である。美術館に行けば、誰もが先人の描いた優れた絵画に触れることができるという私たちの通年はこのような経緯を通して可能となった。つまり権力者によって寡占されていた美術品は美術館という施設を得て市民に共有されることとなったのだ。しかし「市民」という概念の一定の広がりを勘案するにせよ、ここで想定されていた市民とは一つの国家、一つの民族に限定されており、それは近代的な国家観に対応するものでもあった。近代が終焉し、グローバリゼーションが進む今日、美術館で作品を享受する人々が多国籍化することは一つの必然であるかもしれない。もはや巨大美術館を訪れるのはそれが所在する国の市民ではない。観光客としてそこを訪れる無数の人々のために巨大美術館は存立するのである。先日、新聞紙上で、ヴェネツィアやバルセロナといった観光都市では近年、住民に対する観光客の比率が増えすぎ、地元住民が平穏な生活を送ることが困難になっているため、むしろ観光客の流入を規制する施策が提案されていることが報道されていた。「観光客」というテーマの射程は私たちが考えるよりはるかに深い。最近、東浩紀も「観光客の哲学」という著作を上梓している。ここで東の所論について詳述する余裕はないが、そこで論じられる問題はこれまで述べてきた主題とも関連しているだろう。東は次のように記している。「世界はいま、かつてなく観光客に満たされ始めている。20世紀が戦争の時代だとしたら、21世紀は観光の時代になるのかもしれない」今回ルーブルを再訪した私は、そこがもはや人が美術作品と接する場ではなくなっていることを実感し、30年前、まだ作品を作品として見ることができる時代に初めてそこを訪れたことの幸福を思い知った。おそらくこのような状況は世界規模で生起しているだろう。以前、このブログで私はかつてウィーン美術史美術館でフェルメールの絵に一人で対峙した際の幸福感について記したことがある。このような体験はもはや奇跡のような僥倖であろう。観光客にジャックされた大美術館は今や見ることの逸楽と無縁の場所になっている。

 しかしこのような状況はある種の人々にとっては好ましいことであるに違いない。愚劣な大臣の「学芸員は癌」という発言は記憶に新しいが、この男が理想として掲げるのは観光客がひっきりなしに訪れる観光施設としての美術館であろう。美術館や展覧会は収益や動員数によって評価される。国立美術館が独立法人化された頃より、このような臆面もない発言が放言されることとなった。皮肉なことに彼らにとって現在のルーブルやナショナル・ギャラリーはそのような理想を体現しているし、日本でも先日の国立新美術館のミュシャ展や草間彌生展の会場の雑踏もまた彼らが理想とするところであろう。経済にしか価値を見出さない愚かな政権によって今後日本の美術館がこのような方向に誘導される可能性はきわめて高い。しかし考えてもみるがよい、私たちは作品と静かに時間をかけて対話することによって初めて美術の価値に目覚め、深く内面化するのではないか。観光地化された美術館、群衆で埋め尽くされた展覧会場でそのような出会いがあるはずもなかろう。グローバリズムの進展に伴い、ヨーロッパの巨大美術館は不幸にも美術という営みの本質から最も遠い場所となってしまった。もはやこの状況が解消されることはないだろう。


by gravity97 | 2017-08-16 19:49 | 展覧会 | Comments(0)

「没後90年 萬鐵五郎展」

 

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葉山の神奈川県立近代美術館で萬鐵五郎展を見る。会場を埋め尽くす膨大な数の作品に圧倒されるが、それでもまだ100点以上の未陳作品があり、会期中に大規模な展示替えが行われるという。萬については、これまで大正期の新興美術と関連した企画展や主要な美術館の常設展で多くの作品を見てきたが、なぜかちょうど20年前に東京と京都の国立近代美術館で開催された回顧展を見落としている。このたび初めて回顧展というかたちでこの画家の画業を通覧し、多くの発見や確認を得ることができた。

 以前より萬の作品が気になっていたのは、画業の中にいくつもの奇妙な作品が散りばめられているからだ。代表作である《裸体美人》のモデルが置かれた空間の歪み、より正確には仰臥と直立の中間にあるような不思議な姿勢については蔵屋美香が考察を加えていた記憶がある。あるいは《雲のある自画像》に現れる頭の上の雲という謎めいたモティーフ、「仁丹」の文字が大書された奇妙な風景画。その一方でキュビスムや未来派、あるいは表現主義の日本における規範的な作品も同じ一人の画家によって制作されているのである。これほど分裂的で魅力に満ちた作品がわずか41年という短い生涯の中で制作されたことには誰しも感銘を受けるだろう。

 展示の最初に東京藝術大学に在学中の油彩や水彩が展示されている。首席で入学したという逸話もさもありなんと思われる端正でみずみずしい作品である。黒田清輝の影響を強く受けた様子もうかがえる。しかし数年のうちに作風は大きく変わる。分割技法、あるいはフォーヴィスム風の表現が取り入れられ、明らかに同時代の先端的な表現を進取する姿勢が認められる。外遊といえばアメリカに比較的短い時期しか滞在したことがない萬がこれらの表現をどのようにして知ったかは興味深い問題であり、いくつかの先行研究が存在する。しばしば指摘されるとおり、ヨーロッパにおいて別々の文脈に生まれたキュビスムや未来派、表現主義といった動向はほぼ同時に区別されることなく日本に導入された。この時代にあって萬はあたかも一人の画家が最先端の動向を次々に試行するがごとき特異な作品を残して、その早すぎる生涯を閉じた。首席で入学した萬が、点描風の《自画像》と先述の《裸体美人》を卒業制作として提出し、卒業時の成績は本科卒業生19名中16位であったというエピソードは今述べたような新しい表現に対するアカデミズムの敵意を反映しているだろう。しかし萬は臆することなく制作を続ける。《裸体美人》が日本におけるフォーヴィスムの典型であるように、《風船を持つ女》や《赤い目の自画像》といった作品は日本における未来派受容の規範的な作品であり、表現主義からキュビスムまでこのようなリストを広げることはたやすい。

 今回の展示で私があらためて関心を抱いたのは、展示の中で「沈潜」というタイトルを与えられた1914年以降、いわゆる土沢時代と呼ばれる時期の作品である。家族とともに郷里の岩手県土沢に帰った萬は展覧会のキャッチコピーにある「目をあけている時は即絵を描いている時だ」という言葉のとおり、絵画の制作に没頭する。日本におけるキュビスムの代表作とも呼ぶべき《もたれて立つ人》が制作されたのもこの時期である。しかし私は表現の幅を超えて、むしろこの時期の作品に認められる一つの共通性に興味を引かれた。それは色彩、具体的には独特の赤褐色の画面である。この時期、萬は人物や風景、静物といった多様なモティーフを描いたが、そのほとんどを赤褐色の濃厚なマティエールの中に実現されている。かかる色彩が何に由来するかは私にはわからないが、この多産な時期、萬が色彩に関してはきわめて抑制的であったことは記憶されてよかろう。キュビスムもその草創期においてはモノクロームに近い色調が多用され、それは形態の探求という目的に対して色彩という非関与的な要素の介入を減じるためであった。しかし萬はキュビスムに意識的であっただろうか。確かに《もたれて立つ人》は日本におけるキュビスム受容を論じるにあたって必ず言及される作品である。しかし今回の展示を通覧して、私はキュビスムに類した作例がさほど多くないことをあらためて知った。確かに人体を描いたドローイングの中にはニグロ彫刻に着想を得たピカソの絵画に類した例も認められよう。しかし自画像の系譜の最後に《目のない自画像》を置くならば、作家の関心はキュビスム的な明晰さではなく、むしろアンフォルムとでも呼ぶべき不透明さ、晦渋さへと向けられていることが理解されよう。この点は風景画においてはさらに明確だ。キュビスムにおいて幾何学図形へと解体される風景とは異なり、そこに描かれるのはうねり、脈打つようななんとも生命的な風景である。私はこれらの風景から脈動あるいは蠕動といった言葉を連想した。《丘の道》と題された作品に対して「内臓模型のような」という言葉が残されているというが、的確な評であろう。《丘の道》とおそらくは同じ風景を描きながらも、補色対比という点で不穏な印象を与える作品には《かなきり声の風景》というタイトルが付されている。いずれも風景が身体のメタファーとして提示されていることを暗示してはいないだろうか。「風景の中の女性」という主題は西欧にあってはルネッサンス以降、伝統的なモティーフであるが、萬が描く肉感的な風景は風景と人体を折衷するかのようである。一連の風景画の中でも私が特に感銘を受けたのは1918年の《木の間風景》という油彩画である。タイトルのとおり木の間から透かし見たような風景が抽象的に表現されており、浅い奥行きの中にたたみ込まれるように展開するイメージはきわめて独特で美術史に類例を求めることが難しい。ただし今回一緒に展示されていたドローイングを見て、かすかにカンディンスキーの残響を認めることができるように感じた。実際の影響関係については詳細な研究を待ちたいが、すでにこの時代に一種の国際的な同時性、モダニズムへの志向が認められることは興味深い。

 土沢時代の特に風景画からは画家の内面の不安が感じ取れる。実際にこの時期、神経衰弱と肺結核と診断された萬は1919年に神奈川県茅ヶ崎に転居し、いわゆる茅ヶ崎時代が始まる。この展覧会では「解放」という章のタイトルが与えられている。転地療養の効果を示すように、画面には明るい色彩が回復され、土沢時代の一途で切迫した印象からは「解放」される。キュビスム的な対象の把握は保持される場合が多いが、人物の描写もおおらかな場合が多く、とりわけ娘を描いた一連の作品からは父としての愛情が伝わってくる。実験的な作品は比較的少ないが、その中でも《水浴する三人の女》という大作が帝展落選後、作家によって裁断されてしまったことは残念である。セザンヌやマティスを彷彿とさせるイメージが萬によってどのような変奏を遂げたかは、たとえ作家が失敗作とみなしたとしても是非見てみたかったと思う。(裁断された一部は本展にも出品され、構図を確認するデッサンが数枚残されている)それというのも、私はデッサンに残された三人の裸婦の姿から、セザンヌやマティス以上にピカソの《アヴィニョンの娘たち》が連想されてならないからだ。この時期の萬の絵画も成熟とか熟成とは無縁の相当な異様さをはらんでいるように私は感じた。しかし萬に残された時間はさほどなかった。1926年にはいくつかの絵画でモデルを務めた長女登美が結核のため亡くなり、その悲嘆もあったのであろうか、翌年、萬も肺炎によって短い生涯を終えた。絶筆となった《宝珠をもつ人》もまた奇妙な作品であり、カタログの作品解説には「謎めいた絵ばかり多い萬の中の、最大の謎作品といえるだろう」と記されている。この作品については原田光が各論の一つを割いて論じているから、ここではこれ以上触れることはしないが、まことに萬の絶筆にふさわしい謎めいた作品である。

 最初に書いたとおり、今回の充実した展示から多くの発見があった。例えば丁字路や飛び込み、あるいは傘をもつ女性といったモティーフを萬が好み、いくつもの作品に描いたことを私は初めて知った。ふんだんに配置された資料類、とりわけ萬自身によって撮影された写真と絵画の関係も興味深い。夭折した画家であるにもかかわらず、これほどの作品と資料が残されていることは作家の旺盛な創造力、そして遺された作品や資料が大事に伝えられてきたことを暗示しているだろう。今回あらためて驚き、私の中では謎として残ったのが、多くの南画系の水墨画の存在である。後年期、茅ケ崎時代が多いらしいが、萬は膨大な数の水墨画を制作し、今回の会場でも十分に紹介されていた。このような探求は比較的初期から続けられ、早すぎる晩年には《水浴する三人の女》の帝展落選後のスランプから立ち直るきっかけともなったらしい。油彩画との関連が認められる作例もない訳ではないが、多くが主題的にも東洋的であり、作家の全く異なった境地を見せている。最初に私は萬の画業を分裂的と評したが、分裂は単に油彩画の画風のみならず、油彩画と南画の間にも認められる。かかる分裂の間で一体、萬がどのような絵画を構想していたのか。この展覧会を見て、作家と作品への関心は深まるばかりである。

 一人の作家の個展は展覧会の基本であるが、この展示は萬とゆかりの深い三つの美術館が総力を結集して組織した充実した内容であり、見どころに富む。先般の愚かな大臣による「学芸員は癌」という発言にみられるとおり、現在、民営化やコンセッションといった本来美術館と背反する制度の導入が画策され、収益と集客といった「別の評価基準」が美術館に対して臆面もなく要求されている。これに対してこのような手堅い展示を淡々と続けることは美術館のレゾン・ド・エートルをあらためて表明する意味でもきわめて重要であろう。これほどの展覧会が盛岡、葉山、長岡の三館しか巡回せず、西日本で展示に触れる機会がないことは残念に感じられる。


by gravity97 | 2017-07-23 20:59 | 展覧会 | Comments(0)

「抽象の力」

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 豊田市美術館で開催されている「抽象の力」を訪れる。美術家の岡崎乾二郎によって監修され、豊田市美術館のコレクションを中心にした展示であるとはいえ、きわめてラディカルで問題提起的な展覧会だ。ゲスト・キューレーターを招いたコレクション展自体は近年さほど珍しくないが、美術界きっての理論家でもある岡崎を招いて企画されたこの展示は私たちが慣れ親しんだ近代美術に関する定見を一新する。さらに出品された作品もいわゆるコレクション展の域をはるかに超えている。確かに豊田市美術館は優れたコレクションで知られているとはいえ、他館から借用された作品のレヴェルもきわめて高い。たとえば東京国立近代美術館所蔵の村山知義の《コンストルクチオン》が出品されていることを知って私は驚愕した。このフラジャイルな作品は私の理解では村山の回顧展以外、門外不出であったはずだ。後述する通り、展示の中でこの作品が占める位置を考える時、いかにして出品が可能となったかという点も興味深いが、単に名品を揃えたということ以上に、通常の美術展とは全く異なる作品の選択に驚く。

 私がこの展覧会に足を運ばなければならないと考えた理由はフライヤーに記された挑発的な一文にある。カタログにもそのまま収録されている。長くなるが、この展覧会の核心でもあるため、引用する。

 キュビスム以降の芸術の展開の核心にあったのは唯物論である。/ すなわち物質、事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける。その具体性、直接性こそ抽象芸術が追究してきたものだった。アヴァンギャルド芸術の最大の武器は、抽象芸術の持つ、この具体的な力であった。/ だが第二次大戦後、こうした抽象芸術の確信は歪曲され忘却される。その原因の一つは(アメリカ抽象表現主義が示したような)抽象を単なる視覚的追究とみなす誤読、もう一つは(岡本太郎が唱えたような)抽象をデザイン的な意匠とみなす偏見。三つめは(具体グループが代表するような)具体という用語の誤用である。これらの謬見が戦前の抽象芸術の展開への正当な理解を阻害してきた。ゆえにまた、この世界動向と正確に連動していた戦前の日本の芸術家たちの活動も無理解に晒されてきたのである。

 後から述べるとおり、若干の異論もあるものの、私はここで開陳された言明に深く同意する。しかし同時にこのような見解は抽象美術に関する相当に特異な理解である。今少しこのテクストにこだわるならば、ここでは「世界動向と正確に連動していた戦前の日本の芸術家たちの活動」の理解を阻害した要因として三つの集団や作家が名指しされている。すなわち抽象表現主義、岡本太郎、具体美術協会であり、当然これらの作品は展覧会には出品されていない。(正確には具体美術協会のリーダー吉原治良と重要なメンバーの一人である田中敦子の作品は出品されている。しかしそれも従来の「抽象表現」の理解からは程遠い)私は展覧会とは選択と排除の力学であると考えるから、むしろこれらの集団や作家が排除されたことに関心をもつ。それは一つには豊田市美術館のコレクションに含まれていなかったことに起因するかもしれないが、先述のとおりこの展覧会では他館からの借用もなされている訳であるから、私は逆にコレクションにおける作品の不在を奇貨として岡崎がこの展示を構想したのではないかとさえ勘繰ってしまう。それではフォーマリズムの判断や意匠性を欠いた「唯物論としての抽象芸術」とはいかなる表現であろうか。具体的に展示をめぐることにしよう。

 展示は四室から成る。一番広い最初の部屋にヨーゼフ・ボイス、イミ・クネーベル、田中敦子の大作や高松次郎の「単体」と「点」シリーズなどが配置されている。この美術館のコレクションとしてはいずれも見慣れた作品であるが、これらの作品が「抽象の力」という展覧会の冒頭に置かれたことには奇異の念を感じないだろうか。確かにこれらは「具象絵画」や「具象彫刻」ではないが、抽象という表現で括ることができるだろうか。私たちはこの展覧会において抽象が具象の対立概念ではなく、いわば審級を違えたレヴェルで把握されていることを知る。それらは多く端的に「モノ」として存在しており、岡崎が唯物論と呼んだ存在の在り方を暗示している。同時にこのような展示はこの展覧会が抽象表現を通時的、系統樹的に概観する美術史的配慮とは全く無縁であることも示唆しているだろう。歴史性を断ち切られた会場には奇妙な道具が展示されていた。それはフレーベル、モンテッソーリらの教育玩具である。色彩豊かで形態もヴァリエーションに富んだこれらの玩具は実際に幼児教育で使用され、会場には日本やドイツで子どもたちがこれらの玩具と戯れている様子を記録した写真も展示されている。もちろんそれらの色や形状から同じ室内に展示された作品との共通点を見出すことは可能だ。しかしおそらくここで求められているのはそのような共通性の確認ではない。玩具を私たちは手に取って、いわば五感を動員して操る。ここでは抽象という営みが本質においてそのような共感覚を本質としていることが暗示されているのではなかろうか。それは端的に抽象表現を視覚性に還元することへの批判であり、先ほどの三つの批判のうち、最初のものに相当する。確かにボイスのフェルトや高松のコンクリートはむしろ触覚性に訴求し視覚的な明瞭性に欠ける。今述べたとおり玩具とは視覚よりも身体と関わる。私たちは抽象絵画を鑑賞する際に一定の距離をとって正対することを常としてきた。これに関して、今回、作品のキャプションは壁面のきわめて低い位置に掲出されており、私たちは身を屈めることなしにそれらを読むことはできない。このような配置に抽象表現を再び視覚から身体に関わる営みとして奪回しようという岡崎の明確な意図をうかがうことができるのではないだろうか。

 続く第二室では美術と文学の関係が問われる。岡崎は夏目漱石の「草枕」とキュビスム絵画の類似性という思いがけない論点を提出した後、漱石の影響を受けた画家としてとりわけ熊谷守一を評価する。しかしこの展覧会に出品されたのは《裸婦》と題された豊田市美術館所蔵の小品、そして参考出品として《轢死》という陰惨な主題を描いた作品の赤外線写真などである。岡崎はこれらの主題をキュビスムが時に用いた裸婦の主題へと関連させ、さらにブラックやデュシャンの作品と接続させる。カタログにおいて岡崎は「あらかじめ統一された対象が実体としてあるのではない。ばらばらに入ってくる感覚刺激=感情の断片が、それを感受した人の脳の中で知的に作り出す構成が対象である。この落差(プロセス)が絵画の力を作り出す」と論じている。さらに岡崎によれば、キュビスムが抽象表現へ道を開いたとする私たちの認識は正しくない。「むしろキュビスムも抽象も表象システム=見えるかたちで何かを表現、代表するという仕組みへの疑義を共有し、その同じ土台から分岐して派生したと見るべきだろう」日本におけるキュビスムを代表する画家が萬鐵五郎であるならば、抽象の鼻祖は恩地孝四郎である。さらに展示では必ずしも判然としなかったが、実は恩地は幼児教育とも深く関わり、先に触れたフレーベルの教育玩具とも縁があるという。キュビスムと抽象表現を区別する発想、そして抽象表現の起源に教育玩具を見出す発想は斬新である。この時、抽象とは表現の一つのモードではなく、いわば現実に向かい合う一つの姿勢とみなされるのではないだろうか。

 明るい外光に満たされた第三室で私たちはまたもや意外な作品に出会う。それは作品というよりは正確にはドナルド・ジャッドが設計した一連の家具であり、20世紀初めに制作された扇風機やトーマス・リートフェルトの椅子であり、岸田日出刀らによって編まれた「現代建築大観」である。美術というよりデザイン、建築といったジャンルと結びついたこれらの品やイメージがなぜこの展覧会に含められたのかを理解することはさほど困難ではない。抽象はモードではなく事物をとおして実現されるのであるから、岡崎のいう「抽象の力」はジャッドのいうスペシフィック・オブジェクトと結びつく。「ジャッドは新しい事物が与える明確さ、強さはいったい何からもたらされるのか、つっこんだ分析をしなかったが、それが事物と人との身体的かつ機能的な応答に結びついていることは明らかだった」この時、抽象という概念に対してより適切な言葉が浮かび上がる。それは具体性(concreteness)である。この展覧会に「現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」というサブタイトルが付されていることはこの点を暗示する。冒頭の文章にあったとおり、この展覧会の目的は日本の抽象美術が潜在的に有していた可能性の復権であったが、この点を考慮するならばこのセクションでは戦前にあって日本の建築もまた構成主義建築あるいはモダニズム建築などと呼ばれる国際様式に比肩していたことが暗示されているといえよう。建築という参照項を得て、展示は村山知義の一連の作品に新しい光を当てる。私も村山がかつて「マヴォ理髪店」の外装を担当したという事実は知っていた。(おそらくカタログに掲載された「山の手美容院」と同一であろう)なるほど多くの開口部を有するその立面は当時の建築の立面図との類比を許し、村山が舞台装置を担当した「朝から夜まで」とも共通する。岡崎の発想の卓抜さはこのような構造を「ちょうど電話の交換台のように世界中のどこかに通じているインターフェースであるかのようだ」と喝破する点にある。この時、最初に触れた《コンストルクチオン》がこの展覧会にとって枢要な位置を占めることが理解されよう。カタログでは当時の電話の交換台の写真に並べて掲載された作品の図版は、「視覚ではなく触覚的な接触によって感受され、視覚的な造形であるよりも身体を触発し、具体的に作動させる装置」としての村山の作品の意味を正確に反映している。さらにいえば、展示においても通常の高さではなく、「電話の交換台」のごとく人が座った姿勢で操作可能な位置に設置されていることもこのような理解を補強するものであることはいうまでもない。このような展示の技巧も見逃してはならない。ここでは主知的、観念的な造形とは全く異なった抽象表現の可能性が試されている。あるいは展示の中では必ずしも十分に触れられていないが、村山を経由する時、まさに身体の表現としてのダンスという問題が浮上する。この点はこのブログで論じたやなぎみわによる一連の演劇と深く関わっており、さらに私は数年前にニューヨーク近代美術館において「TOKYO 1955-1970 A NewAvant-Garde」と同時期に開催されていた、その名も「抽象の発明」という展覧会の中で上映されていたメアリー・ウィグマンの「抽象ダンス」を連想した。(これらの展示についてもかつてこのブログで論じている)この点からも抽象がダダや表現主義といった特定の運動と結びつけられることなく、それらを背後から律する態度であったという岡崎の主張にはおおいに共感できる。かくのごとく様々に思考を広げることが優れた展覧会の醍醐味であることは今さらいうまでもなかろう。

 最後の第四室はいくつかのセクションに分かれている。今述べた村山に続いて、斎藤義重、長谷川三郎、吉原治良、そして瑛九といった日本の抽象絵画の先駆者たちの1930年代の絵画が展示されている。とりわけ長谷川三郎と瑛九の抽象表現をめぐる岡崎の犀利な分析についてはカタログ(すでに完売したと聞くが、その内容は美術館のHPからアクセスできるはずだ)を参照していただくことにして、ここでは吉原治良に関して若干のコメントを添えておきたい。後に具体美術協会のリーダーとなる吉原が戦前より海外の美術雑誌を介して同時代の先端的な表現に接し、とりわけイギリスの前衛運動に深い関心を寄せていたことはかねてより論じられてきた。岡崎もベン・ニコルソンやバーバラ・ヘップワースの絵画と吉原の抽象表現の類似性について触れている。それ以上に私が興味をもったのは彼らの作品と同じ部屋に「NIPPON」や「FRONT」といった日本の国策プロパガンダ誌が展示されていたことである。岡崎はそこに掲載されたイメージやグラフィックデザインと抽象表現の親近性を暗示しているが、この点は以前私も確認したことがある。吉原の場合、航空機からの視覚が、独自の抽象表現の着想源となったのではないかと考えられるのだ。このような視覚は大戦期の航空機の発達と深い関係があり、航空機を介した未見の視覚は今引いたプロパンガンダ誌にしばしば掲載されていた。同様の関係を岡崎は恩地孝四郎の「飛行官能」について指摘し、会場には私が以前より関心をもっていた長谷川三郎の一連の写真作品も展示されていた。再現性を本質とするはずの写真が抽象表現の成立と深い関係をもつという指摘は示唆的だ。ここから連想されるのはベンヤミンが論じた視覚的無意識であり、「視覚における無意識的なものはカメラによって私たちに知られる。それは衝動における無意識的なものが精神分析によって初めて私たちに知られるのと同様である」ここからは抽象絵画と精神分析の成立がほとんど同期しているという事実にも関係線を引くことができるかもしれないが、さすがにこのレヴューで扱うべき範囲を超えている。ここでは写真のリテラリズムによって、逆に岡崎が「写実の欠如」と呼ぶ視覚対象からの解放が促されたのではないかという点を指摘しておこう。この点を理解したうえで、私たちはこの展覧会でも最もラディカルな最後のセクションに足を踏み入れるのがよかろう。そこで私たちを待つのは岸田劉生の《鯰坊主》という奇怪な肖像である。岡崎によれば岸田の芸術の根本は写実、レアリズムであるが、その土台は視覚ではなく触覚性として現出される物質感にあるという。岸田のいう「無形なもの」がバタイユのアンフォルムといかに関わるか、さらにこの感覚がフロイトのいう「不気味なもの」とどう結びつくかといった問題もこのレヴューの範囲を超えているが、このような感覚を超現実と呼ぶ時、この展覧会にダリが含められていることに驚く必要はない。さらにベーコンとフォンタナという共に豊田市美術館に所蔵されているが一見して全く異なった作品がこの展覧会に召喚された理由も想像がつく。最後のセクションには通常の理解では抽象という範疇に収めることが困難な作品が多数展示されているが、単なる様式を超えて物質性や触覚性、視覚的逸脱の系譜をめぐってきた私たちはもはや大きな違和感なくそれらの作品を受け取ることができるはずだ。

 ゾフィー・トイベル=アルプや坂田一男といった何人かの重要な出品作家について全く論及できなかったが、ひとまず以上で私はこの展覧会の内容を概観した。既に述べたような展示における工夫を知るうえでもこの展覧会は展示とテクストの両面から検証されるべきであり、可能であればあと一週間ほどの会期中に是非豊田を訪れてほしい。

この展覧会は多くの問題を誘発するが、最後に私も一点のみ論点を提起しておきたい。それは冒頭の文章で日本における抽象についての正当な理解を阻害した一つの要因と名指しされている具体美術協会についてである。私の理解では具体美術協会こそ岡崎が抽象表現の核心とみなした唯物論に深く関わった動向であるからだ。これまで十分に論じられたことのない問題であるが、初期の具体美術協会の活動は独特の物質感に根ざしている。最初に引いたテクストの中に「物質、事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける。その具体性、直接性こそ抽象芸術が追究してきたものだった」という表現があるが、この箇所はあたかも「具体美術宣言」を念頭において草されたかのようだ。「具体美術においては人間と精神とが対立したまま、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない」という宣言中のよく知られた一文と岡崎のテクストは同一の事態を論じているのではないだろうか。あるいは具体の活動の初期に認められる多くのオブジェが一種の共感覚を主題としていることを想起してもよい。踏んで体感する作品、触覚性を強く刺激するゴムや水を用いた作品、そしていうまでもなく泥やパネルと激突するアクション、唯物論と呼ぶかどうかは別にして、これらの特質はこの集団の物質との特異な関わりを雄弁に語っている。さらに岡崎がフレーベルやモンテッソーリの教育玩具に関心を示したように、具体美術協会の作家たちも児童画と深く関わっている。これらの点がニューヨークにおける具体展においてはことに強調され、彼らの活動は「素晴らしい遊び場」としてモダニズム美術の正系から放逐されていたことについては以前このブログで論じた。私も具体美術協会の絵画が、具象に対する抽象という意味での抽象絵画とは審級を違えていることを以前より感じていた。この時、まさに彼らの「絵画」こそがこの展覧会にふさわしいものではなかったかという気がするのだ。

 展覧会は611日まで。詳細は未定らしいが、終了後に関連して共同討議も開かれると聞いている。この展覧会を契機として様々なレヴェルで絵画をめぐる議論がさらに深められることであろう。そして来場者でごった返す東山魁夷展の傍らで、さりげなくかくも意義のある展覧会が開かれたことに美術館の矜持を見る思いがした。


by gravity97 | 2017-06-05 14:28 | 展覧会 | Comments(0)

「小泉明郎 帝国は今日も歌う」

 

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東京の原宿、VACANTというスペースで小泉明郎の新作「帝国は今日も歌う」を見る。公開された日付とともに記憶されるべき問題作だ。一週間ほどの短い展示であり、既に公開は終了している。私も一度しか見ていないから、細部に誤りがある可能性もあるが、記録に留められるべき作品であり、忘れないうちにレヴューを残しておきたい。

 インターネットで確認したところ、この27分の映像インスタレーションは昨年、オランダのデ・ハーレン・ハーレム美術館で開催された小泉の個展に際して発表された新作の映像インスタレーション「夢の儀礼―帝国は今日も歌う」を日本で初めて公開したものである。会場には角度を違えて三面の大型スクリーンが密着する形で設置され、同時に三つの映像が投影される。

 最初、画面には白昼の歩行者天国の中に佇む一人の青年の姿が映し出される。群衆の中で彼は何かを叫ぶかのように口に手を当てる。彼に振り付けを示すような動作をする人物が一瞬登場し、おそらくこの人物が作者の小泉であろう。しかし小泉の映像作品の例に漏れず、青年の言葉は言いよどみ、時に息づかいのみが繰り返されて、彼が何を話しているかは必ずしも判然としない。そのうちに一つの夢に関する物語が告白される。その内容については「服従の儀礼」というタイトルで小泉の名とともにパンフレットに示されている。短い文章であるから全文を書き写しておく。

たしか6歳か7歳くらいだったと思う。こんな変な夢を見た。/ 食糧不足のため、ニワトリの生産が低下していた。そこで人間をニワトリの餌にすることになる。誰かが命を犠牲にして、餌にならなければならない。その状況で、私の父が餌に選ばれる。私は父と別れるのが悲しくてたまらず、泣きじゃくる。しかし父は冷静に自分の運命を受け入れ、車に乗せられ連れて行かれてしまう。父がいなくなると急に大きな不安に襲われ、私はさらに激しく泣き続ける。

続いて東京の夜景が映示される。時に空撮されたごとき映像もあるが、多くは走行する車内から映像であろう。実際に映像は移動し、夜の高速道路、トンネル内らしき映像が延々と映し出される。あるいは駅頭もしくは何かの施設の入り口であろう、行き交う群衆の姿。こちらに向かって無表情に歩いて来る人々の姿がやはり淡々と上映される。映し出される情景自体は特段変わったものではないが、間歇的に挿入される荒い息づかいや今引いた幼時の悪夢についての語り、あるいは「人間の夜を使ってこの帝国は夢を見ます」「私の夢も帝国に侵されたことがあります」といった言葉がヴォイスオーヴァーされるにつれ、画面は次第に緊迫感と不穏さを増す。作品の後半ではヘイトスピーチを行う集団と警察や機動隊が画面を覆い尽くし、ヘイトスピーチの聞くに耐えない罵声や差別的な言葉がそのまま挿入される。冒頭で歩行者天国の中に佇んでいた青年は中央のスクリーンで警察官や機動隊員に取り囲まれて登場する。いつのまにか彼の両腕は後ろ手に手錠をかけられている。左右のスクリーンからはヘイトスピーチを発する集団の絶叫が繰り返され、中央のスクリーンに映し出される青年は両側から圧迫されるかのようだ。このような配置は明らかに意図的であろう。右翼と警察が入り乱れる騒然とした街頭の情景の中に私たちは一瞬奇妙な人々を見かける。警官たちの後ろに一列に並んで醜悪な光景を遮断するように両目を両手でふさぎ、何かを歌うかのように口をあける一団の男女だ。(上に掲げたイメージの中にも写り込んでいるから確認されたい)これらの男女を含めて、登場する人物の位置関係は判然としない。全体の印象としては右翼や在特会の連中はむしろ道の両側から警官越しに怒声を浴びせるようであるが、それならば罵声が向けられた対象は中央にいるはずだ。しかし警官たちに囲まれて中央のスクリーンを進む青年以外にその対象となるような人物は映っていない。これらの怒声は彼一人に向けられているのだろうか。通常であればヘイトスピーチのデモが街路を練り歩き、彼らを制止するために警察や機動隊が配置されるのに対して、位置が逆転している、もしくは道の両端から差別主義者たちが投げかける罵声の対象としての集団が映像からかき消されている印象がある。もっともかつてこのブログでもレヴューした、東京都現代美術館のグループ展から当時の学芸課長によって放逐された作品においても情景の中心である皇族たちの姿が消去されていたことを考えるならば、イメージの存在/不在の操作は小泉が好んで用いる手法といえるかもしれない。さて今皇族に言及したが、この作品も終盤において天皇制へと接続する。作品の終盤で映し出される松林の風景は皇居のそれであろう。ここにおいて「歌」が重なる。挿入される歌を私は初めて聞いたが、独特の曲調からそれが讃美歌であることはたやすく理解できる。この映像の中で歌が歌われている場面としては先に引いた目を手でふさいで口をあける人々しか存在しないから、私たちは彼らの歌がヘイトスピーチに対する抵抗であったと想像するし、実際に讃美歌であればそのような意味をもちうることが期待される。ところがここで挿入される歌が1895年にメソヂスト教会によって出版された聖歌集に収録された讃美歌「第四百十八『國歌護國を祈る』」であり、隣の頁に讃美歌「第百四十九『國歌 君が代』」が掲載されていたことを知るならば、私たちは意味が反転する場に立ち会う。ちなみに字幕として私たちに明示される『國歌護國を祈る』の歌詞は次のようなものだ。

一 日の本なる 神国(みくに)を/萬代まで 憐み/波風なく いと安穏(やすら)に 護り給へ わが神  

二 日の本なる 大君を/千代に八千代に ことぶき/松の緑 色移らず/護り給へ わが神

三 日の本なる 御民を/代々変はらず 憐み/清く高き 富栄えに/進み給へ わが神

 説明は不要であろう。この歌詞はキリスト教への信仰が明治期に天皇制に屈服し迎合した歴史的事実の証拠だ。実はこのような主題は小泉の個人的な記憶と深く関わっている。今回の展示に際して刊行されたパンフレットに寄せられた短いテクストによれば、小泉の父は敬虔なクリスチャンであり、当然ながら天皇制に反対していたが、小泉が制作した昭和天皇のコラージュを見た折の不全感から、自分がいかに天皇制を内面化していたかを思い知ったという。ヘイトスピーチの騒音に対して天皇家の永続を神に祈るこれらの讃美歌が歌われる場面は一種の静穏が支配する。しかしそれは天皇制の二つの顔だ。すなわち臣民たる日本国民あらざる者、端的に在日コリアンに対しては聞くもおぞましい悪罵を投げつける一方で、帰順したキリスト者に対しては「大君が護り給う」。暴力と融和の二面性を兼ね備えた帝国=天皇制の本質が露呈されている。「歌う」には二つの意味がある。声に節をつけて唱える、そして一斉にほめたたえるという意味だ。讃美歌を歌うのが前者であれば、逆説的に日本という民族をほめたたえコリアンを罵倒するヘイトスピーチは後者だ。「帝国は歌う」とは懐柔と弾圧という帝国の二つの顔を象徴しているといえよう。

 映像にはヘイトスピーチを繰り返す差別主義者の群れと茫然と立ちつくす青年のほかに別の集団が記録されている。いうまでもなく両者を分かつ警官ないし機動隊員の姿である。先に述べた自らの手で目をふさぐ男女を含めて、ここで上映された映像にどの程度小泉の演出が施されているか、どの程度現実が記録されているか、私には判断する手掛かりがない。しかし制服あるいは「警視庁」と記されたベストを着用して無表情に両者を隔てる彼らがどちらの側に立つかは明らかだ。彼らは国家のための暴力装置以外の役割を果たしたことがない。しかし彼らによって中央の青年が守られている逆説もまた帝国の二重性の錯綜した表象かもしれない。さらに可視と不可視という問題が浮上する。最初に述べたとおり、冒頭近く、行き交う群衆を映し出すシーンがあるが、よく見るとそこに登場する無数の人々の顔は巧妙に処理されていて個別に識別することができない。そして警官や機動隊員もヘルメットで顔を覆い、多くが匿名化されている。これに対して、顔が明確に識別される人物も登場する。中央の青年、そしてヘイトスピーチを繰り返す男女であり、エンドロールが流れる中で「おう、お前、何を撮っとるんじゃ」とすごむ男たちである。可視化された当事者たちと不可視化された群衆と警官。フーコーをもちだすまでもなく、可視と不可視の問題は権力と深く関わっている。あるいはあえて目をふさぐ男女の姿も可視/不可視という問題圏へと結びつくだろう。このような分析からも明らかなとおり、この映像において可視性という主題はきわめて屈折しており、単純な分析を許さない。そしてこのような可視/不可視の関係は天皇と民草の関係へと敷衍することもできるかもしれない。東京都現代美術館で美術館当局によって検閲された《空気》という作品が同じ問題を扱っていたことを想起するならば小泉の問題意識は一貫している。

 私はこれまで小泉の作品を五つの会場で見た。大阪のサントリー・ミュージアムにおけるグループ展、アーツ前橋における個展、銀座のメゾンエルメスにおける二人展、そして美術館から排除された作品を近くのギャラリーで発表した「空気」、そしてこのブログでレヴューした京都芸術センターにおける個展「CONFESSIONS」である。最初を除いて、いずれも美術館ではなくオルターナティヴ・スペースとも呼ぶべき空間における発表であった。何度も述べる通り、東京都現代美術館におけるグループ展で予定されていた発表はキャンセルされている。この点は小泉の作品が美術館という制度にとって異物である点を暗示しているだろう。もっとも緊張や不穏をみなぎらせているにせよ、私の見た限りいずれの作品も明確な不敬や禁忌に関わるものではない。それにもかかわらず、小泉の作品が美術館から排除される構造は、現在この国に瀰漫している自己検閲と忖度の風潮と深い関係があるだろう。会田誠から新海覚雄、最近では白川昌生、この数年、政治性を理由として作品が美術館から排除ないし検閲された事案は事例に事欠かない。本来であれば表現の自由を保証する砦であるはずの美術館がなりふりかまわず作品を排斥する状況は時代の鏡であるかのようだ。私はこのレヴューを2017519日に脱稿し、同日にアップする。この日付を記憶しておいてほしい。現在、戦後最低最悪の首相とその政権のもと、国会で共謀罪の成立に向けた採決が強行されようとしているが、本日この法案は衆議院法務委員会で強行採決された。人の内面にまで踏み込んで処罰を加え、疑心暗鬼の中で私たちを分断することがこの法案の目的だ。治安維持法に比されるこの悪法が施行されたならば美術館は政治的な表現の発表に対してこれまで以上に萎縮することは明らかである。私たちからは自由な表現とその発表の機会が奪い去られようとしている。

今まさに帝国は私たちの心を侵そうとしている。帝国は再び歌い始めた。さすがの私も自分が生きているうちにこのような暗黒の時代が到来するとは想像していなかった。


by gravity97 | 2017-05-19 20:25 | 展覧会 | Comments(0)

「殿敷侃:逆流の生まれるところ」

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 殿敷侃は1980年代の後半に自動車のタイヤを用いた独特のインスタレーションで注目を浴びた。1992年に50歳という若さで夭折したため、少なくとも私の知る範囲ではこれまで作品がまとめて展示される機会がなく、以前より関心をもちながら、その全貌に触れることができない作家であった。山口の作家という印象を抱いていたが、生地である広島でこの作家の回顧展が開かれたことは大きな意味をもつだろう。なぜならば後述するとおり、殿敷の作品は被爆という体験と密接に関わっているからだ。
 私が比較的まとまった数の殿敷の作品を見たのは、このブログでも論じたとおり、2014年に森村泰昌がディレクターを務めた横浜トリエンナーレにおいてであった。この際は今回の展示では実物が出品されていた巨大なお好み焼き状の廃物オブジェを制作する情景が映像として上映されていたように記憶する。余談となるが、このトリエンナーレで殿敷と同様に大きく取り上げられていた作家は松澤宥であるが、偶然とはいえ松澤についてもごく最近、小規模な展覧会が開かれたと聞く。私は未見であるが、これに際して発行された資料価値の高いカタログを最近手に入れた。これまで十分に紹介されていない作家たちの検証が進められていることは喜ぶべきであろうし、作品を見ることによって多くの新しい発見がある。b0138838_20544576.jpg

 最初に述べたとおり、殿敷の作品を回顧的に見たのは初めてであり、作家に対する見方が大きく変わった。タイヤを用いたインスタレーションが鮮烈であったために、漠然とインスタレーションもしくはランド・アートの作家という印象を抱いていたのだが、殿敷の本領はむしろ平面作品にある点を認識することができたように感じる。展覧会は基本的にクロノロジカルに構成され、全体として五つのセクションに分かれ、いわゆるインスタレーション系の作品は最後のセクションに分類されている。確かにこれらの派手な作品は作家としての殿敷のイメージをかたちづくったが。仕事の中では必ずしも本流ではない。両者がどのように接続されるかという点は殿敷の作品を理解するうえで重要なポイントとなるだろう。そして私の考えでは殿敷の「平面作品」もまたインスタレーションと深く関わるラディカルな特質を秘めている。とはいえ、殿敷も最初から独自の表現に向かった訳ではない。最初期に描かれた絵画の堅牢な画面から例えば同じ山口出身の香月泰男を連想するのはやや安易だろうか。しかし1966年に制作された風景画のカンヴァスの裏面に「何くそ、こんな絵は書(ママ)きたくない」という文字が乱暴に書きつけられていたことを知るならば、すでにこの時点において伝統的な具象画を描くことに対して作家の煩悶がめばえていたことがうかがえる。作家が自らの方向を見出すにはしばしの時間が必要とされた。1970年前後に制作された、開いた口とその間にのぞく歯を主題とした一連の絵画は具象性と卑俗なモティーフという点でポップ・アートを連想させないでもないが、長くは続かない。殿敷が自らの画風を確立するのは1970年代に入って始められた一連の細密なペン画、そして銅版画によってであった。カタログによれば緻密な点描画は、当時殿敷が勤務していた国鉄の同僚であった画家、池田一憲に触発されたものであったという。口や指といった身体の部位、顔のない背広姿の人物といった幻想的なイメージが緻密に描かれたこれらの作品はシュルレアリスムを連想させないでもないし、50年代に池田龍雄や石井茂雄によって描かれた一連の細密なペン画、光田由里が線描絵画と呼んだ表現との類似も示している。「密室の絵画」はしばしば社会的な主題と接したが、殿敷の場合は個人的な経験と関わる一つの主題が次第に明らかになる。それは被爆体験だ。殿敷の父は広島に原爆が投下された際に、爆心地の真下にあった郵便局に勤務しており、その亡骸を探して被爆直後の広島に入った母子は入市被爆した。母は数年後に死亡し、殿敷もおそらくはそれを原因とする肝臓障害を患うこととなった。インクで細密に描かれたきのこ雲のイメージは1972年に登場する。70年代後半には同様の点描の手法が油彩画にも応用され、鉄かぶとや襦袢、帯といった身につける品物が描かれた。鉄かぶとは父の遺品として爆心地から持ち帰られたものであり、絵のモデルとなった実物も出品されていた。鉄かぶとについて遺品という言葉を用いたが、殿敷が描く着物や装身具も持ち主の死後に残された品物という印象が濃厚である。被爆という事件と重ね合わせるならば、このようなモティーフの選択からは石内都の一連の写真が連想される。この一方、同じ時期に、銅板に直接物を置いて陰となった部分もしくは露出した部分を腐食させる技法によって制作されたエッチングも制作されている。油彩画とエッチング、いずれの場合も色彩は抑制され緻密な点描によって画面が成形されている。
80年代に入るとエッチングに代わってシルクスクリーンが導入されるが、その場合もイメージは無数の痕跡の集合として成立している。「霊地」と呼ばれるシリーズにおいてはモノクロの画面を三日月状のきわめて小さな単位が稠密に満たしているが、実はこの形は爪を暗示しており、1978年に制作された《釋寛量信士(父のつめ)》と題された油彩画の中に描きこまれた爪の形状に由来している。父の爪が父の形見、遺物を暗示していることはいうまでもないから、この一見オールオーバーな画面にも死が影を落としていることはたやすく理解できよう。爪を暗示する単位で画面を満たす方法はシルクスクリーンを介してさらに応用され、写真や地図、広告のモノクロームのイメージが同様の処理を加えたうえで次々に作品化されている。もう一点、注目すべきはやはり80年代の初めにきのこ雲のイメージをシルクスクリーンで転写して反復した巨大な作品が発表されている点である。手法的にウォーホルを模したことは間違いないが、この連作は殿敷の作品の中に原子爆弾と被爆の問題が顕在化した数少ない例である。そして82年頃より鉛筆やボールペンを用いて画面を線や点で塗りつぶし、「集積」という言葉をタイトルに付した一連の作品が制作される。私がこの展覧会で最も興味深く見たのはこれらの連作であった。これらについてカタログには「1982年のヨーロッパ、アメリカへの旅を通して刺激を受けた殿敷は、帰国後、無意識に手を動かすことで、内面の存在感や精神性を確かめたいと語り、ボールペンや鉛筆を用いて無数の線を引き、画面を塗りつぶす作品を制作するようになった」とのコメントが寄せられている。同様の手法を用いる作家は決して少なくはない。リチャード・セラや草間彌生、あるいは松谷武判らの作品がすぐさま連想されようが、殿敷はそれらの作品にも拮抗する強度を有しているように感じられた。あるいはそのヴァリエーションとして、数字のスタンプを画面中にくまなく押した作品からはローマン・オパルカが想起されるかもしれない。
1980年代初めに始まる一連の廃物インスタレーションは、このような集積の手法が現実の事物を使用して空間的に拡張された試みとしてひとまずは理解することができるだろう。実際に1983年に小郡で実施された「黒のイベント」はギャラリーの壁などの空間を鉛筆で塗りつぶすものであり、1987年、栃木県立美術館で開かれた「アート・ドキュメント ‘87」においては美術館のガラス壁全面に赤いチョークを塗りつけ、88年の広島での個展における画廊の壁面をしたたり落ちる赤い絵具の痕跡は直ちにヘルマン・ニッチの一連の儀式を連想させる。これらの作例において作品は絵画との関係をかろうじて保っているが、もはや作品が平面に帰着する必要はなかった。1983年に山口県の県展に出品されたインスタレーションは美術館の前庭に1500本の古タイヤをはじめ、ごみ集積場から拾い集めたトラック三台分の黒い廃棄物をまき散らした過激な作品である。もっともこのような作品も決して類例のないものではない。60年代のアッサンブラージュやアンチフォーム、ロバート・モリスやリチャード・セラの手によるフロア・ピースあるいはスキャター・ピースと呼ばれる作品においてもしばしば加工されない素材や廃品が多く室内に雑然と放置されていた。大量のTVの受像器を用いて空間を遮断する作品も既製品の使用と遮断という手法の結合という点においてクリストやヤニス・クネリスを連想させる。一方で殿敷は同じ時期にプラスティックの廃品を埋めたうえで火をつけて、お好み焼き状のオブジェとして提示するパフォーマンスも何度か行っている。最初に述べたとおり、私はその模様を記録した映像を2014年の横浜トリエンナーレで見たが、驚いたことにこのようなオブジェは一部が残存しており、今回の会場に展示されていた。廃品を用いたオブジェに関しても多くの先例があるが、殿敷の場合、野外での大がかりな制作は一種のパフォーマンス、あるいはランド・アートといって差し支えないだろう。そして展示の最後に代表作とも呼ぶべき「タイヤのなる木」が登場する。立木の枝に無数の古タイヤを引っかけた作品は殿敷のトレードマークであり当時、雑誌や新聞で紹介する記事をよく見かけた記憶がある。今回も実際の制作の過程を記録した映像やマケットが出品されていた。
展示を一巡してあらためて驚くのは、ここで紹介される殿敷の活動がわずか四半世紀ほどの短い間になされている点である。あらためて作家の夭逝を惜しみつつ、例によって若干の所感を書き留めておくことにする。
述べてきたとおり、殿敷の作品は潜在的に重いコノテーションをはらんでいる。いうまでもなく間接的な被爆の体験であり、戦争にまつわる記憶を多くモノクロームによって表現した点は先に名前を引いた香月泰男を連想させないでもない。しかし展覧会を見た印象として私は作家が被爆という主題を声高に主張したようには感じられない。出品作のうち、原子爆弾との直接の関係を暗示するのは被爆死した父の遺品(正確に述べるならば鉄かぶとが父のものであったという確証はない)を描いた一連の作品と、きのこ雲をシルクスクリーンによって反復した作品のみである。この問題は被爆をいかに表象するかという問題と重なる。このブログでは美術や文学、あるいは映画といったジャンルを超えて何度も言及した問題であるが、20世紀の歴史の中には表象不可能な事件がいくつか存在する。多くの美術家、作家、映像作家がこの難問に挑んだ成果をこれまでにも何度か紹介したが、殿敷の仕事もこの問題と直接関わっている。
鍵となるのは「霊地」と題されたシリーズを埋め尽くす三日月状の形態である。このかたちは先に述べたとおり、父の遺品の上に置かれた赤い爪の形に由来し、作家によれば「父の霊が地表から湧き出るイメージ」であるから、爆心地で被爆した父、つまり被爆の経験と深い関係がある。ここで私が注目するのはその形状だ。つまり展示の中では「爪のかたち」と説明されていたが、私たちの爪は三日月形ではない。正確にはそれは爪の跡、爪で何かが押された痕跡なのである。ここから直ちに一つの主題の系列が明らかとなる。それは接触という主題だ。私は殿敷の仕事は絵画や版画、インスタレーションといったジャンルを超えて、接触という共通の問題と深く関わっていたのではないかと考えるのだ。例えば被爆の遺品として描かれた対象を考えてみよう。鉄かぶと、襦袢、足袋、あるいはシャツや帽子、ここには一つの共通点がある。それらは私たちが身につける品物であり、皮膚と直接接触する。「集積」あるいは「数字」という言葉を冠されたシリーズは、ボールペンや鉛筆、あるいは数字のスタンプと支持体の表面との気の遠くなるような接触の連続によって成立している。殿敷が版画という、いうまでもなく版との接触によって成り立つ表現を好んだことの理由もこの点から説明することができるだろう。再び被爆の問題に戻ろう。被爆の表象として私たちがまず思い浮かべるのは丸木位里と俊による「原爆の図」であろう。被爆直後の惨禍をいくつもの主題に分けて描いた一連の作品は原子爆弾の炸裂という圧倒的な暴力がもたらした惨状を一つの似姿、アイコンとして表象している。表現としては再現的であり、視覚的、空間的といえよう。これに対して殿敷の作品は別のかたちで被爆を表象しているとはいえないか。鉄かぶとやシャツが具象的に描かれているとしても、それは原子爆弾の熱線によって変形した品物の提喩であり、一種の抽象性を宿している。衣服や「ドームのレンガ」といった対象の選択とその表現は明らかに触覚的である。さらに言えば接触とは通常、二つの異なった表面が一定の時間、境界を接することによって成立するから時間性を内包している。(爪跡は爪をしばらく押し付けることによって残される)つまり殿敷にとって被爆の体験は「原爆の図」とは全く異なったかたちで作品に取り入れられている。この差異は、作家にとって被爆が間接的な体験であったことに起因しているかもしれない。
接触という補助線を得ることによって、私たちは一連のインスタレーションに対して新たな角度から接近できるだろう。まず自動車のタイヤという独自の素材が用いられた理由を、それが常に地面と接触しているからと考えるのは強引だろうか。この時、すぐさま連想されるのはロバート・ラウシェンバーグとジョン・ケージが制作した自動車タイヤプリントである。周知のごとくこの作品はケージが運転するフォードの車輪にラウシェンバーグがインクを垂らしながら長い紙の上を走行することによって制作された。ここでも接触と痕跡が作品をかたちづくっている。しかし殿敷はタイヤを直ちに平面作品に結びつけようとはしない。おそらくタイヤはサイズと色が一様であることによってアッサンブラージュの単位として選ばれている。この点は爪ではなくタイヤを単位として「霊地」同様のオールオーバーな画面を構成した《集積するタイヤ》という作品からも確認できる。しかし一方で「タイヤのなる木」についても接触という視点を応用することができるのではなかろうか。ミシンと蝙蝠傘ではないが、タイヤと立木という本来的に無関係な二つの要素はタイヤを枝にかけること、物理的な接触をとおして結びつけられる。そしてこれらの作品は視覚的な効果というより、むしろタイヤの重みやタイヤを枝にかける行為といった身体的な感覚に訴求しないだろうか。実は殿敷の作品にとって視覚性はさほど重要な要素ではない。形象が描かれることは少なく(しかも多く新聞や広告といったレディメイドのイメージだ)色彩に関してもモノクロームの場合が多い。何が描かれているかではなく表面がどのように組成されているかという点に私たちの関心は向けられる。表面への、あえて言えば触覚的な関心においてはお好み焼き状のオブジェも同様だ。タイヤと立木が接触を介して作品化されたように、無数の廃物は土の中で焼かれて接触を介した新しいかたちを与えられる。接触が作品の機縁であり、作品は隣接性をその原理としている。私は廃品オブジェにおいて、燃やすという行為が決定的に関与している点に注目したい。先に私は殿敷の作品には死の影が落ちていると述べた。例えば盆の送り火から連想されるとおり、炎を放つ行為を死者に対する一種の弔いとしてとらえることはできないだろうか。そしていうまでもなくそこには爆心地で燃え尽きたであろう作家の父の姿が重ねられているはずだ。火傷そしてケロイド、東松照明の有名な写真を連想してもよい、被爆という体験は目に見える光景ではなく、皮膚と触覚を通してより深く記憶されるのではないか。この時、殿敷は被爆という表象不可能な事件を一貫して接触という原理を通して作品の中で追体験したと考えることはできないか。もしそうであれば、殿敷の作品の黒は生涯にわたる服喪の色であったはずだ。

by gravity97 | 2017-04-02 21:25 | 展覧会 | Comments(0)

「POSTWAR」

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 優れた展覧会は、たとえ展示を見なくともカタログだけでも十分に楽しむことができる。今月の26日までミュンヘンのハウス・デア・クンストで開かれている「ポスト・ウォー」展のカタログを入手した。60ヶ国から218人の作家の作品を集めた展覧会自体も超弩級であるが、カタログがすごい。私はこれほど重量のある展覧会カタログを知らない。その威容は写真に掲げたとおりだ。オクウィ・エンヴェゾー、カティー・シーゲル、ウルリッヒ・ヴィルムスの三人による企画であり、本来ならばエンヴェゾーらのテクストを通読して企画の意図を確認したうえでレヴューすべきであろうが、図版に示された質量ともに圧倒的な作品群はそれだけで豊かな問題を提起する。テクストを参照していないことをあらかじめお断りしたうえで、この大展覧会によって触発された思考を書き留めておきたい。

 展覧会のサブタイトルは「太平洋と大西洋の間の美術」という。モダニズム美術が基本的に大西洋の両岸の美術であったことを想起すれば、サブタイトルの含意は明らかだ。太平洋と大西洋の間とは、端的に全球、地球全体を示しており、アジアとアフリカを含むいわゆる世界美術史と関わる展覧会であることを暗示している。実際にカタログを通覧するならば、名前の読み方もよくわからない中国やアフリカ、あるいは東欧の作家、そして後述するとおり、多くの日本の作家も含まれており、出品作品が世界中から選ばれていることが理解される。戦後というテーマを全世界に拡大することによって展示に一種の普遍性を与えようとする意図が確認できる。それにしてもこのような「普遍性」が当然のものとして受容されるようになったのはごく最近である点についてはあらためて指摘しておく必要があるだろう。それは1989年にポンピドーセンターで開催された「大地の魔術師たち」を嚆矢としており、たかだかこの四半世紀の常識なのだ。そしてかかる同時性、共時性の認識がなければこのブログで扱った池上裕子やミン・ティアンポの研究は成立しえなかったはずだ。この意味において会場となったハウス・デア・クンストが悪名高い「退廃芸術展」と対をなす「大ドイツ芸術展」の会場であったことはなんとも象徴的だ。「大ドイツ芸術展」はゲルマン民族の優位性を誇示する目的で開催され、ナショナリズムと深く結びついた展覧会であったからだ。これに対して今回の展示においては国家や体制、人種を横断するかたちで「戦後」に関する表現が紹介されている。

 まずはカタログに沿って展示の構成を確認しておこう。展覧会とカタログは八つのセクションによって構成され、冒頭にそれぞれ簡潔な説明が付されている。展覧会の劈頭を飾る第一部は「Aftermath : Zero Hour and theAtomic Age」と題されている。アフターマスには直後という意味もあるから、このパートは第二次大戦直後と原子爆弾投下直後の二重の意味をもつ。冒頭に山端庸介の被爆直後の長崎を撮影した写真、そして東松照明と磯崎新の被爆と関連した作品が掲出され、この展覧会は日本の爆心地からスタートする。被爆直後の映像と丸木俊と位里による「原爆の図」、日本のアフターマスが直示的であるのに対して、ヨーロッパの戦争のアフターマス、端的に絶滅収容所の解放は展示の中では暗示的に示されている。一見、テーマとの関連が不明に思われるフランク・ステラのブラックペインティングは「働けば自由になる」というタイトルがユダヤ人強制収容所の入口に掲げられた標語であったことを想起するならば、展示に含まれた理由が理解されよう。しかしさらに深読みするならば、絶滅収容所に関する表象がほとんど含まれていない点は表象の不可能性というランズマン/ディディ=ユベルマン的な問題を浮かび上がらせるかのようである。

 第二部は「Form Matters」と題され、物質との関係が主題化されている。戦後において物質という問題が最初に浮上したのはいわゆる「アンフォルメル」においてであり、その広がりを誇示するかのようにポロックから白髪一雄にいたる多様な作家が取り上げられている。しかし「戦後」においてなぜ物質が作品の主題とされたかという問いはいまだに十分に答えられていない。それは戦災の廃墟に由来するかもしれず、爆心地や絶滅収容所で炭や肉塊と化した人体に由来するかもしれない。かかる物体は再現的なイメージを欠いている。「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質を偽らない」という「具体美術宣言」の先見性が問われるのはこの点である。私はアクション以上にかかる特異な物質観こそが初期の具体美術協会の特質を形作ったと考えるが、この点はいまだにほとんど論じられたことがない。白髪からフォートリエにいたる一連の物質的な絵画と並んでアルベルト・ブッリの毀損された表面やニキ・ド・サンファールの射撃絵画といった作品は傷ついた身体の換喩/提喩として成立しており、「戦後」というテーマにふさわしい。一方でエヴァ・ヘスや草間彌生の立体も確かに身体の提喩であるが、「戦後」というテーマとの関係が不明確に感じられる。この展覧会では1945年から65年までの美術が扱われているが、50年代までに対象を限定した方がテーマをより明確に示すことができたのではなかろうか。この展覧会を読み解くうえでは第二部と続く第三部「New Images of Man」を対比的にとらえるのがよかろう。今述べたとおり、第二部においても身体は潜在的なモティーフであったが、表現としては換喩的もしくは提喩的であった。これに対して第三部においては身体がアイコニックに表象されるという意味において、作品は隠喩的な構造をとる。そしてここに表現された「人の新しいイメージ」は大きく二つに分類できるだろう。まずピカソやシケイロスにみられる現実の戦争や事件に触発され、対象にデフォルメを加えながらも直接的に表象する作品である。これに対して、フランシス・ベーコンやヴィレム・デ・クーニングらは具体的な出来事ではなく人体の変形や歪曲を主題としている。今日、重要なのはいうまでもなく後者であり、20世紀の前半にあって身体の表現を次々に革新したピカソもついにこの時点で時代に遅れたことが暗示されている。このような限界は、人類が原子爆弾と絶滅収容所という未曾有の地獄を体験したことと関わっているのだろうか。「戦後」ならぬ「戦前」の表現の頂点を画したあの《ゲルニカ》と出品作品との比較はこの問題を考えるにあたって意味をもつかもしれない。きわめて興味深い作例は河原温である。今回の展覧会には千葉市美術館所蔵の《考える男》が出品されている。これまで河原の初期作品は海外の同時代の動向と対比されることがなかったが、この作品はフランシス・ベーコンやゲオルグ・バゼリッツの傍らに置かれても全く遜色がない。「死仮面」や「浴室」シリーズといった同じ時期の作品も同様のはずだ。断片化された身体、客体(オブジェ)としての身体、そしてフリークスへの関心、彼らの作品は多くの共通点をもつ。河原の問は50年代のいわゆる「密室の絵画」の代表的な作家として知られている。冷戦構造が強化される50年代にあって線描性や色彩の抑制、印刷物との親和といった特性によって論じられてきた「密室の絵画」の世界的な同時性を私は今回のカタログを通じてあらためて感得したように思う。これまで「密室の絵画」は当時の社会状況との関係で論じられることが多かったが、より広い普遍性あるいは必然性を有していたのではないだろうか。

続く第四部、「Realisms」(複数形である点に注意)のセクションも興味深い。レナート・グットゥーゾからアンドリュー・ワイエスまで多様な作品が紹介されているが、このセクションを通覧するならば、戦後美術においてリアリズムとは端的に社会主義リアリズムであり、社会主義の美化と深く関わっていたことが理解される。スターリンや毛沢東といった個人崇拝のイメージのみならず、リアリズムは蜂起や社会闘争、労働争議といったモティーフを好んだ。ひるがえって今挙げた「密室の絵画」もこのような特性をはらんでいたのではなかろうか。つまり河原や池田龍雄らの絵画はこの展覧会でいえば第三部と第四部、新しい人間の表現とリアリズムという二つの主題を総合する営みであったとはいえないか。先日、埼玉県立近代美術館等を巡回した「日本におけるキュビスム」において別の角度から検証されていた問題であるが、私は日本の1950年代の美術はなお十分に解明されていないように感じる。

 ここまで扱われた作品が具体的、物質的であったのに対して「Concrete Visions」と題された第五部では抽象的な動向が扱われる。冒頭にコンクリート・ポエトリーについての論文が掲載され、北園克衛の図版が掲載されているのには驚く。カール・アンドレやロバート・モリスと並んでこのセクションで詳しく紹介されているのはリジア・クラークやヘリオ・オイティシカら、ブラジルの戦後美術の動向である。これまでにこのブログで扱ったいくつかの展覧会や研究を通して、私は欧米圏において近年、中南米の美術への関心が高まっているように感じる。例えばクレア・ビショップの研究では60年代のアルゼンチン美術に紙幅が費やされていたが、パフォーマンスを中心としたきわめて「具体的」な美術の一方で、ここで取り上げられた多くの抽象的な造形が軍政下にあった中南米諸国で制作されていた点は興味深い。前のセクション、「レアリズム」と対比するならば、ここにかつてのソビエトの共産党政権下における社会主義レアリズムとロシア構成主義の対立関係の反復を見出すのは私だけだろうか。さらにミニマル・アートへと補助線を引き、一見非政治的な作品とベトナム戦争との関係を問うならば、なるほど「戦後」に新しい視界が開けるかもしれない。このパートにはなぜか具体美術協会の二人の作家、田中敦子の布の作品と元永定正の色水による構成も収められていることを付言しておこう。

 続く第六部「Cosmopolitan Modernism」と第七部「NationsSeeking Form」においては対比的な問題が扱われている。前者がアラブやアフリカの未知の作家によってモダニズムという西欧に特有のパラダイムの相対化を試みるのに対して、後者は国旗や神話、伝説といった象徴的なイメージによって国家ないし民族を統合しようとする試みを紹介している。最初に触れたとおり、この展覧会は西欧を特権化することなく全球的な「戦後」の表象を確認することを目的としているから、モダニズムの相対化と、とりわけ第三世界をめぐる統合の象徴の探求という意図はわからないでもない。例えばマーク・トビーのホワイトライティングとイブラヒム・エル・サラヒというスーダン生まれの画家の作品が対置される時、複数のモダニズムの可能性が示唆されるかもしれない。しかしほかのパートに比べてこの二つのパートは作品数が少なく、なによりもポスト・ウォー、戦後という問題といかに切り結ぶか、作品を見る限り必ずしも判明ではない。おそらくこの二つのパートは戦後における植民地の独立、そして第三世界の伸長と深く関わっているが、主題性としての凝縮力にやや欠ける。最後の第八部は「Networks, Media &Communication」と題されている。冒頭の解説によれば、「戦後」の最終局面として、マス・カルチャーや消費社会に関わる記号の提示に代わり、テクノロジーを介した記号の循環と分配の時代の到来を意味しているらしい。ラウシェンバーグ、ウォーホルからボイスまで、そしてほかのパートと同様に多くの名も知らぬ作家まで多様な作品が紹介されているが、その選択の基準はこれまでにも増して恣意的に感じられる。経度と緯度を示した河原温の作品はともかく、高松次郎の紐の作品や田中敦子の「電気服」がこのセクションに分類された理由が私には理解できない。

カタログを通覧するだけでも様々な発見がある。いくつかの所感を記すならば、まずこの展覧会においては戦後美術にあってドグマティズムとして機能したグリーンバーグ流のフォーマリズムは完全に相対化されている。相対化されているどころか、この展覧会には抽象的な作品自体が少なく、抽象的であっても多くは人の姿や手の跡を感じさせる。むろんそれはこの展覧会が「ポスト・ウォー」をキーワードとしたテマティックな内容であるためだ。平面性や視覚性に代わってこの展覧会を貫通するモティーフを挙げるならば、人体のイメージと物質性ではないだろうか。この意味においても展覧会のハイライトは前半、とりわけ第二部と第三部に求められるだろう。やや強引な読みをするならば、第二次世界大戦によって人間が物質と化すことを経験した私たちはまさにこの現実から出発しなければならなかったのであり、原子爆弾と絶滅収容所がこの展覧会の出発点となったことは必然性を有している。別の言葉を用いるならば、「戦後」の表現は本質において表象不可能なこの二つの出来事―いずれもその場に居合わせた者の絶滅をその本質としている―をいかにして表現するかというアポリアから始められた、被爆した人々の幽霊のような姿とカンヴァスの上に盛り上げられた絵具がその手掛かりなったことはおおいにありうる。この展覧会で私たちは歪められ変形した身体、そして毀損され破壊された物質に出会う。会場がかつて「大ドイツ芸術展」が開催された建築であったことを再び想起しよう。「大ドイツ芸術展」のカウンターパートであった「退廃芸術展」においても、醜く描かれた人体やコラージュやモンタージュといった破壊的手法のゆえに一群のモダンアートが弾劾され、排斥されたのではなかったか。モダンアートにおいても人体は美化して表現されることがなかったことを想起するならば、この展覧会に出品された作品はその末裔と位置づけられるかもしれない。一方でこの展覧会には、美化された人のイメージが集められたセクションが存在する。いうまでもなく「リアリズム」のセクションであり、そこではスターリンや毛沢東といった個人崇拝の対象および革命や社会闘争の情景が一種の理想化を経て表出されていた。戦後にあって社会主義リアリズム以外にリアリズムは存在しえなかったのであるが、そこで描かれる英雄や正義のための闘争は「大ドイツ芸術展」に出品され、今日忘れ去られた画家たちの作品を連想させないだろうか。この意味においても対象を美化することなく社会的闘争を描いた50年代の日本の「リアリズム」の実践は独特であり、この点からいわゆる「レアリズム論争」が再検討されてもよいかもしれない。

 先にも述べたとおり、ここに並べられた作品はモダニズム美術の正系からは逸脱している。かかる逸脱を検討するうえで興味深い作品が本書の冒頭に掲げられている。グリーンバーグのフォーマリズム絵画理論によればモダニズム絵画の一つの帰結とみなされる画家、モーリス・ルイスが画業の初期、1951年に描いた二つの作品《無題(ユダヤの星)》と《黒焦げの雑誌》である。カンヴァスにアクリル絵具を用いて制作された二つの作品のうち前者は初見であったが(大書された六芒星にタイトルの意味は明白だ)、ユダヤ人虐殺と焚書というナチスドイツの蛮行との関係はタイトルから明らかである。あるいは先に述べたとおり、ルイスと並べて展示されたステラのブラックペインティングも強制収容所の暗示を秘めていた。グリーンバーグやマイケル・フリードによってモダニズム絵画の最終形態とみなされた作家たちが第二次大戦の記憶と深く関連した作品を制作したという事実を私たちはいかにとらえるべきであろうか。彼らがモダニズム/フォーマリズムの文脈に組み込まれるうえでは、戦争の記憶の喪失が代償とされたということであろうか、それともフォーマリズムという原理自体が「戦後性」の解消ともいうべき一種の政治性に奉仕したのであろうか。さらにポロックやマーク・ロスコといった抽象表現主義の作家がいわゆるブレークスルーを遂げる中で、それまでの絵画に濃厚であった人体のイメージと画面の物質性、まさに私たちが論じた特質がいずれも解消されている点は興味深い。抽象表現主義絵画の成立は文字通り「戦後」の超克によって可能とされたといえるかもしれない。

 最後にこの展覧会に出品された日本人作家について触れておきたい。この展覧会には多くの日本人作家も含まれている。しかし私は一種の既視感とともに彼らの作品を確認した。「原爆の図」に始まり、具体美術協会の作家たち、河原温、工藤哲巳、草間彌生から小野洋子にいたるまで、私の知る限りほとんどすべての作品が過去に海外で展示されている。つまり今世紀に入ってほぼ十数年のうちに日本の戦後美術を世界に紹介するにあたってのクリシェが形成されたのである。むろんこれほどの大展覧会であれば対象地域を精査する十分な余裕はなかろうから、以前に欧米で紹介され、カタログに掲載された作品が再度紹介される可能性が高くなることは仕方がない。私が危惧するのはこのような安易な反復を介して、欧米の美術館、ことに商業ベースのギャラリーによって、彼らにとって都合よく日本の戦後美術の独自性が再文脈化されることである。私はこの点についてこのブログにおいてもグッゲンハイム美術館での具体美術展やミン・ティアンポの研究と関連して何度も警告した。先ほど論じたとおり、この展覧会に出品された河原温の初期作品はこれまで海外でほとんど紹介されることがなく、それゆえきわめて興味深い視点を展示全体に与えているし、私はその傍らに池田龍雄や石井茂雄らの「密室の絵画」が展示されていたなら、さらに展示に奥行きが与えられたと感じる。逆に田中敦子の《電気服》や元永定正の吊り下げられた色水の作品は日本の作家も加えることのアリバイ以上の意味をもたないように感じられた。私たちはかかる画期的な展覧会に日本の作家の作品が出品されたことに一喜一憂するのではなく、不在の作品も含めて展覧会の文脈を相対化し、逆に日本の戦後美術の可能性について思いをめぐらせる時期に来ているのではないだろうか。

なお、先日よりexcite blog の投稿の際のフォーマットが強制的に変更され、結果としてフォントやポイントが統一されずおおいに見苦しくなっている。改善を要求する。


by gravity97 | 2017-03-14 22:13 | 展覧会 | Comments(0)

「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」

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 既に終了した展覧会であるが、国立国際美術館で開かれた「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」についてレヴューを残しておきたい。会期の長い展覧会ではよくあることだが、私自身、会場を訪れたのは終了直前であり、すでに販売用のカタログは売り切れていた。もちろん彼らの活動については以前から知っていた。私は90年代に関西の美術館で開かれ、このグループが参加したいくつかの集団展を訪れているし、2011年に今回と同じ会場、同じ学芸員によって企画された「風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム」も見ている。しかしそれらにおいては集団展の一角として紹介されたためであろうか、いずれの場合もさほど強い印象を受けることがなかった。しかし今回、あらためてその活動を回顧する展覧会に足を運び、多くの発見があった。この集団が世界的にみても類例のない特異な活動を繰り広げてきたことを今さらながら思い知る。
 今、発見という言葉を用いたが、むしろ私は今までこのグループについていかに無知であったかという点を今度の展示で認識した気がする。まず驚いたのは、プレイという集団が今もなお存在しており、活動を続けているということだ。確かに私は今触れた「風穴」、あるいは最近では2015年の堂島リバービエンナーレにおける発表に立ち会っているから近年の活動自体は知っていた。しかし私はそれらの発表を展覧会にあたって作品が再制作もしくは再演されたものだと思い、過去の活動から切り離して理解していた。しかし今回の展示とカタログを見て驚く。頻度こそ減っているものの、彼らは1990年代にも独自の活動を続けており、今日にいたるまで活動を継続しているのである。このような事情も含めて、まずカタログの冒頭に表記されたこのグループの「略歴」を引用しておく。

プレイ略歴
関西を中心に1967年から活動。現在プレイとして活動するのは池水慶一、小林愼一、鈴木芳伸、二井清治、三喜徹雄の5名。メンバーは流動的で、何らかのかたちでこれまでプレイに参加した人数は100名を超える。発泡スチロール製のイカダで川を下る。京都から大阪へ羊を連れて旅をする、山頂に丸太材で一辺20メートルの三角塔を建て雷が落ちるのを10年間待つなど、自然の中で「行為」を計画し、実行し、その体験を日常に持ち帰ることを繰り返している。

 活動を開始した時点は定められているが、終えたとは記されていない。67年から数えれば今年でちょうど半世紀である。私の知る限り、半世紀の長きにわたってハプニング(この言葉の当否については後で論じる)を繰り広げた集団は世界に類例がない。さらに構成員についての知識もお粗末であった。歴代のメンバーのうち、私は池水慶一と安土修三(ガリバー)の名しか知らない。彼ら二人が個人としても活動しているためであろうが、これは私の無知ばかりによるのではなく、プレイが固有名のない集団として活動したことを暗示している。同時代の二つの集団と比較することによってプレイの独自性を明らかにすることができるだろう。略歴の中に「流動的」という言葉があったが、この言葉から連想されるのはいうまでもなくフルクサスである。綱領なきハプニング集団という点で両者は共通するが、フルクサスにはたとえばジョージ・ブレクト、ディック・ヒギンズといったよく知られた作家が加わっており、私たちは集団というよりも、むしろこれらの作家が束ねられた共同体としてフルクサスをイメージする。彼らの活動は個別でばらばらな印象があり、必ずしも共通性をもたない。一方、プレイに先行して日本にもハイレッド・センターという集団が存在した。名称こそ高松、赤瀬川、中西の頭文字をとっているが、彼らの活動は匿名性をその本質としていた。ハイレッド・センターについては先般展覧会の形で検証され、このブログでもレヴューしたとおりである。活動期間は4年に満たず凝縮感は強い。これらと比べるならば、プレイの活動は固有名と匿名性をともに欠いたゆるやかな輪郭をもっている。彼らが活動を始めた時期を考えるならば、関西ではまだ具体美術協会が影響力を有しており、多くの美術団体も含めて、縦のヒエラルキーを有した集団が割拠していた。この一方、京都アンデパンダン展、さらに京都ビエンナーレなどを舞台に集団によらないアナーキーな作家たちの活動も時代の気風を形作っていた。(ここでは詳しく論じる余裕がないが、京都市美術館を舞台にしたこれらの展覧会は今なお十分に総括されていない。関係者が存命のうちに是非とも調査、ないし展覧会として検証する必要性を感じる)これらと比較する時、ゆるやかにまとまりつつ、プロジェクトごとに構成員を違えて活動を持続させるプレイの戦略は独特であり、結果的に半世紀にわたる活動の持続を可能にしたように感じる。今回の展覧会カタログではプレイの活動がクロノロジカルにまとめられており、活動を概括する充実したテクストとともに、今後貴重な資料となることだろう。
b0138838_20271641.jpg 展覧会の所感をいくつか記しておく。会場には「雷」と題されたプロジェクトにおいて京都府相楽郡、鷲峰山・大峰山の山頂に設えられた三角錐が再現され、「現代美術の流れ」において使用された矢印型の発泡スチロールのイカダが設置されている。しかしこれらを除いて、かたちを伴った「作品」は少ない。そもそもこれらもプロジェクトに使用された「道具」にすぎず、オリジナリティーや真正性が重視される「作品」ではない。展示されているのは映像を含めた資料が大半であり、会場はさながらプレイのアーカイヴのごとき様相を呈している。会期中にアーカイヴに関するシンポジウムがあったと記憶するし、アーカイヴの問題は今日の美術館にとって一つの焦点をかたちづくっているが、これについては措く。作品の不在は先に触れたハイレッド・センターの展覧会と鋭い対照を示している。ハイレッド・センターを回顧するにあたってはオブジェの展示が中心となり、作家たちはそれぞれに紐や梱包、あるいは洗濯挟みといったオブセッシヴな品や手法を用いて多くのオブジェを制作した。これに対して、今回の展示では作品ならざる資料、パンフレットや様々の記録、映像や写真が整然と配置され、半世紀にわたる彼らの活動をコンパクトに理解することができる。資料展示といえば通常無数の資料がケース内に積み重ねられた雑然としたそれを連想するが、今回は会場に並べられた同じ規格の木製パネルに資料類が整然と展示され、きわめてスタイリッシュな印象を受けた。会場の展示デザインは作家、学芸員のいずれの手によるものであろうか。近年、展示構成には展示デザイナーや建築家が関わる場合が多く、しばしば担当者の名前がクレジットされる。この点について会場もしくはカタログに説明があってもよかったのではなかろうか。インスタレーションならずとも現代美術の展示に関しては会場デザインを誰が決定するかという問題も今後、美術館や展覧会にとって一つの課題となるように感じるが、これについてもこれ以上は触れない。ここで私が確認したいのは、プレイの「ハプニング」が本質においてオブジェを志向していないという点である。この点は今回紹介された彼らのプロジェクトを一瞥する時、直ちに理解できる。落雷を待つ、イカダで川を下る、羊を連れて旅する、それらはすべて動詞形で示される。カタログの章立ても「旅する、暮らす、流れる」「風景を変える」「体験する」といった動詞によって区別されている点は象徴的である。かつてリチャード・セラも動詞のリストを掲げ、それに従って素材を加工した。セラのリストが他動詞であったのに対して、プレイのリストは自動詞だ。彼らの行為は何かに受肉されることがない。例えば1976年の「風」という作品は、北海道、宗谷のサロベツ原野を5日間にわたって風の吹いてくる方向に向かって歩くというものであり、確かに会場には前屈みに草原を歩く作家たちの姿を撮影した写真が展示されていたが、記録は残ったとしても、このハプニングは実体を伴わない。カタログテクストの中で富井玲子はプレイのハプニングをプロジェクト協働系と儀式系の二つに分けているが、野外に置かれた白い十字の布や巨大な旗が今回展示されていなかったことからも理解されるとおり、プレイの場合、儀式系のハプニングにおいて使用されたオブジェもフェティッシュ化されることがない点は注目されてよい。ハプニング芸術の創始者アラン・カプローの場合、「アッサンブラージュ、エンヴァイロメンツ・アンド・ハプニングス」という著書のタイトルが暗示するとおり、ハプニングはオブジェの集積、演じられる環境と深い関係を有した。カプローが提唱するハプニングはポロックのアトリエや60年代の一連のジャンクアートにおける環境に由来し、プレイのそれとは起源を違えている。プレイは早い時期からハプニングという言葉を用いているようであるが、彼らの活動をカプローに由来するハプニングの変種とみなすか否かは微妙だ。この点を富井は彼女の言う「世界美術史」におけるローカル・ヒストリーの一つとして興味深い議論を展開している。私はプレイの「ハプニング」、オブジェに収斂しない行為を端的に一種の演劇とみなしてはどうかと考える。なぜならばプレイの場合、「ハプニング」はしばしば起点と終点をもつからだ。それは「現代美術の流れ」にみられるように宇治川塔之島付近から中之島東端までといった空間によって区切られる場合もあれば、「雷」の10年間、「風」の5日間といった具合に時間的に限定される場合もあるが、いずれにせよ始まりと終わりという時間的な枠組をもつ。このような構造は美術より演劇に近い。そして演劇という項を得て、新しい関係線が引かれる。プレイの場合、一つの「ハプニング」に要する時間はかなり長い。「現代美術の流れ」においては12時間、「羊」においては京都から神戸に向かう羊をつれた野宿の旅は当初8日間が予定されていた。(高槻で終了したのこと)あるいはウォルター・デ・マリアを連想させながらもそれより早い「雷」が10年間と期間を区切って続けられたことは述べたとおりだ。プレイの場合、メンバーたちが繰り広げる行為は作品の制作というより労働に近く、多くの場合集団的で肉体的な労働である。私はこれらの活動から「合宿」という言葉を想起した。一つの集団がある目的に向かって一定の期間、寝起きを共にして作品に向かう姿勢から私は維新派の野外劇を連想した。そもそも会場内に設置された丸太組から私は2010年に犬島で見た彼らの演劇を連想したのであるが、実際に松本雄吉とプレイは接触があったようである。今回のカタログの謝辞にも松本の名があり、ともに大阪教育大学の出身である。両者の関係については今後の研究が俟たれる。
b0138838_20284091.jpg 維新派とプレイの共通点はもう一つある。それは多くの場合、ハプニングが野外で演じられたことである。しかし時に維新派が屋内もしくは劇場で公演を行ったように(それらのレヴューは以前に記したとおりだ)、プレイも時に美術館を舞台とした発表を行っている。カタログの中で「美術館を解き放つ」と題された章で紹介された発表がそれだ。残念ながら私は未見であるが、いずれも相当にラディカルな試みだ。中でも1980年、兵庫県立近代美術館で開かれた「アート・ナウ ‘80」で発表された作品は会期中、美術館の東側の大窓を外し、展示室内に移動するという内容である。言うは易しという言葉通り、これがとんでもないことであることは学芸員ならずともすぐにわかるだろう。これによって展示室内の空調が無効化され(作家たちは「部屋が呼吸を始め、気流の中にある」と表現した)防犯上の問題も発生するはずだ。管理的、官僚的になった今日の美術館では不可能な試みであり、当時の美術館の度量を感じさせるエピソードである。窓が展示室の中にあることそれ自体は驚くに値しないかもしれないが、そのために必要とされた交渉、作業を想像することが見る側に試されるのだ。このような作品の在り方は私に重量物を移動させるマイケル・ハイザーの作品を連想させた。アースワークという補助線を引くならば、「京都ビエンナーレ 集団としての美術」、あるいは同じ兵庫県立近代美術館で開かれた「明日の美術館を求めて―美術劇場」に出品された作品はいずれも展示室内に設置された作品と野外に置かれた作品、もしくは特定の場所との関係を主題としている点においてロバート・スミッソンの「サイト/ノンサイト」を想起させないだろうか。これらに対して今回の展示では、同様に美術館を舞台としながらもかかる過激さが影を潜め、文字通りこれまでの活動の回顧に終始した印象がある。もっとも「風穴」の場合は会期終了後に展示されていたイカダを用いて「現代美術の流れ」の再現(カタログによれば「続き」)が演じられているから、今後この展覧会を契機として結成50周年を迎えたこの集団によって思いもかけないハプニングが挙行される可能性があることを指摘しておきたい。
 最後に論じておきたいのは記録の問題だ。先に述べたとおり、プレイの場合、行為はかたちをとらないが、彼らは概念を提示するコンセプチュアル・アートを目指している訳ではない。両者は明確に区別されなければならないだろう。この時、行為を記録することの重要性が浮かび上がる。興味深いことには、一連の記録写真にはイカダに乗り、巨大な卵を洋上に浮かべ、雷を待つ櫓を組み立てるメンバーたちの様子が記録されている。この点は行為する者を記録する者が外部にいたことを暗示している。行為に没入するのではなく、行為しつつ、それを記録するという冷静な意志がそこには存在していたのである。したがって彼らが三回にわたって新聞を発行し、四回にわたって詳細な資料集を刊行していたことは驚くに値しない。残念な点はこれらの資料を今日入手することが困難なことである。今回の展示を見て、なおも膨大な資料が残されていることを私は確信することができた。今後、これらの資料がアーカイヴとして整理され、可能であれば資料集もしくはインターネットを介して私たちもアクセス可能となることが望ましい。ハイレッド・センターそして九州派については近年美術館の手によって、活動の全幅を十分に参照することが可能な資料集が発行されている。黒田雷児の大著をはじめとして、痕跡を残さない行為を主体とした美術活動についてもようやく近年美術史の中に回収する作業が進められている。今回のカタログはコンパクトでわかりやすいが、個々のハプニングについての情報がやや少ない。彼らの活動を世界的に位置づけるうえでも、入手しやすくさらに詳細な資料集の整備を期待したい。

by gravity97 | 2017-01-28 20:35 | 展覧会 | Comments(0)

「endless 山田正亮の絵画」

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 東京国立近代美術館に「endless 山田正亮の絵画」を訪ねる。素晴らしい展示であったが、それゆえ山田正亮という画家の不幸についてあらためて思いをめぐらす。山田については1990年に美術出版社から作品集が刊行され、生前の2005年には府中市美術館で展覧会が開催されているから、これまでもその画業を知ることは必ずしも困難ではなかった。しかし山田については経歴、そして作品についてかねてから疑問が呈され、これらが枷となって国立美術館レヴェルでの回顧的な作品の検証が困難であった。展覧会の挨拶にある「2010年の画家の逝去を経て6年、今私たちは、彼の社会へのある種独特な向き合い方に対して毀誉褒貶が重ねられてきた生前の状況から距離を取り、山田正亮の生と作品の総体を冷静にみわたすことができるようになったといえるでしょう」というもってまわった言い回しはこういった事情を暗示している。多くの困難を克服して開催された今回の展覧会については関係者の労を多とするとともに、そもそもかかる困難も作品の本質と深く関わっていたのではないかと思う。
 私の知る限り、山田については作家と作品に対して、二つの疑惑が指摘されていた。一つは当初、画家の経歴として記されていた「東京大学文学部中退」が詐称であるとされた事件であり、これによって同じ東京国立近代美術館でかつて予定されていた回顧展がキャンセルされたという。一方、作品についても制作年代を偽った、あるいは近作を過去作として発表したという疑惑がささやかれてきたという。今回の展覧会カタログでは巻末の「編集されざるもの―年譜にかえて」という企画者による長い注記によって両方の疑問について答えられている。すなわち前者については1990年頃までの出版物に記載されていた「1954年 東京大学文学部中退」という履歴の記載が1994年の『美術手帖』1月号において「東京府立工業高専卒」と修正されたが、いずれについても記録による裏付けはなされていないというものであり、後者については展覧会を準備するにあたって計1,100点以上の作品を実見し、そのうち4割以上については専門家による科学的調査を行った結果、「1.100点のうち数点、画面に損傷が生じた作品について、作者本人が経年後手を加え、その結果当初の画面をとどめていないと判断できるものが見出された。とはいえ、新作を意図的に旧作として発表するという『年代詐称』にあたるようなケースは見られなかった」と記されている。慎重な物言いではあるが、この展覧会を開くことの意義を強く確信した企画者の思いが伝わる内容である。しかしそもそもモダニズムの画家にとってこれらは問題となるような瑕疵であろうか。むろん学歴詐称は不正である。しかしながら私たちがモダニズムの絵画に求めるのは作品の質であって作家の意図や人格、ましてや学歴ではない。例えば藤枝晃雄のごとき日本におけるフォーマリズム批評の第一人者がこの点を理由に山田をことさらに批判することに私はかねてより不審を感じていた。これについては事実関係の確認の問題であるから今後の検証に任せるとして、私にとってより重要に感じられるのは作品の制作年の問題である。これについても例えば制作年を偽って作品を売買したような事実があれば、一種の犯罪であろうが、今引用した箇所からも明らかなとおりそのような事実はない。今回のカタログに作品の科学的分析についての論文が寄せられ、会場にも同じ問題に関する説明パネルが掲出されている点は、かかる批判への反証であろう。
 作品の本質と無関係なゴシップ的な話題に紙幅を費やすことは消耗的であるが、学歴の問題はともかく作品の制作年の問題は山田のみならずモダニズム絵画の在り方全般と関わる。私の理解ではモダニズムの絵画は多く次のような特質を秘めている。まず作家は多作であり、作品はシリーズによって深められ、シリーズによる作品の変化は劇的である。例えばピカソが好例だ。ピカソほど旺盛な作品制作で知られる作家はほかに例がなく、青の時代に始まり、キュビスムからシュルレアリスム、ばら色の時代へと同じ作家とは思えないほどの激しい変化をみせながらも常に時代の先端で活動を続けた。戦後においても多作とシリーズ制作で知られる作家としては例えばモーリス・ルイスとフランク・ステラを挙げることができよう。ルイスは早世したにもかかわらず600点に及ぶ作品を制作し、しかもほとんどがヴェイル、アンファールッド、ストライプという三つの類型のいずれかに分類される。ステラもことに初期から中期にかけてはブラック・ペインティングに始まるいくつものシリーズによって作品を深めてきた。このうちルイスについては初期に制作したアンフォルメル系の絵画については作品を処分したため、今日カタログ・レゾネを参照しても確認することが困難である。画家がある時点で意に沿わなくなった過去の作品を処分するこということは決して珍しいことではない。独特の静物画で知られるジョルジョ・モランディが自らのイメージを固定化するために一部の作品を破棄し、のみならず批評家による批評にまでも介入した点については岡田温司がモノグラフの中で詳細に論じている。もっとも作品の成立にどの程度まで作家が関与するかという問題は単純ではない。以前の作品に後年作家が手を加えることは比較的よくあることであり、美術館泣かせである。私も作家が修復という名目で手を入れたため、美術館が収集した当時と様相を違えてしまった作品をいくつか知っている。あるいはデ・クーニングの有名な《女Ⅰ》も個展で発表され、ニューヨーク近代美術館が購入を決めた後も収蔵されるまでに作家が手を入れたというエピソードが残っていたと記憶する。
 山田の画業は典型的なモダニストのそれだ。展覧会の挨拶においては「絵画との契約」と表現された圧倒的な専心の結果、油彩と紙作品をあわせて5,000点にのぼる作品が残された。山田の作品がいくつものシリーズに分類されることは明らかであるが、山田はシリーズを名付けることすらせず、Workという総称の後に、50年代であればB、60年代であればCといった機械的な分類番号を割り振っている。初期の静物画から抽象に移行した後は、同心矩形やストライプといった一目で識別可能ないくつかのパターンをそれこそ数限りなく試行し、しかも新しいパターンへの移行は劇的である。海外の作家を視野に入れたとしても、先に述べたモダニズム絵画の条件をこれほど過不足なく満たした作家を思いつくことは困難であろう。このような作家に対して作家の成長とか作品の成熟といったクロノロジカルなモデルを適応することに果たして積極的な意味が見出せるだろうか。例えばルイスが制作した無数のヴェイル絵画に時間的な展開を求めることは困難であり、作品はいずれも非時間的な類型のヴァリエーションとして成立している。山田正亮の絵画もまた時間的な契機を欠いているのではないか。後で述べる通り、Workがアラベスク、同心矩形、ストライプの順に制作されたことは間違いない。しかし個々のシリーズ内のクロノロジーはたとえ作品番号がそれを暗示しているとしても確証がないし、そもそもそれを問うことに意味がない。制作された年代の不確定性が山田の絵画の本質と関わるというのはこのような意味においてである。
b0138838_20425376.jpgモダニズム絵画の範例として、山田の作品はこれまで形式的な観点から論じられることが多かった。さいわいにも今回の展覧会を契機として企画者の中林和雄、あるいは松浦寿夫、早見堯といった批評家たちが力のこもった作品論を発表しており、その一部は今回の展覧会カタログ、そして『ART TRACE PRESS』の02号、今回の展覧会に合わせるかのように発行された04号に掲載されている。また私は未読であるが、この研究会の報告書とも呼ぶべき書籍としてこのたび水声社から刊行された『絵画との契約-山田正亮再考』もミュージアムショップで目にした。今回、あらためてこれらの論文や鼎談のいくつかを読んで感じるのは、山田の絵画とフォーマリスティックな分析の親和性である。実際、『ART TRACE PRESS』の04号に掲載された対談においては、府中市美術館での展示の際になされた松浦と林道郎の公開対談に際して、当時、府中市美術館の館長であり、山田についても興味深い論文を執筆している本江邦夫が、話題が形式に集中し過ぎている点を叱責したといったエピソードも披露されている。実際、私は今回、今述べたいくつかの論文を集中的に読んで、山田の絵画についてのフォーマリスティックな分析はこれらにほぼ尽きているという印象さえもった。これに対して、本江、そして本江の論文を評価する峯村敏明はやや異なった観点から山田に論及している。知られているとおり、山田は1978年の康画廊での連続個展まで日本の美術界からほとんど黙殺され、学歴詐称問題が浮かび上がった頃からは一種の禁忌のごとく扱われていたから、この機会にこれらの目利きたちによる多くの批評を得たことは作家にとって幸いであった。しかしむしろこのような機会は作家の生前にこそ準備されるべきではなかったかと感じる。
 これほど多くの山田の絵画が公開されたことは初めてであり、私も大きな感銘を覚えた。今触れた文章の中で多くの論者も指摘しているとおり、山田の絵画は大きく三つの時期に分けることができるように思われる。まずStill Life と名づけられて番号が振り当てられた初期の静物画を中心とした具象的な作例。これらもあらためて通覧するならば実に興味深く、今後多くの研究を生むであろう。続いてWork という総称が与えられ、山田の作品の大半を占める膨大な作品群。これらの一連の作品は50年代後半にアラベスクとかジグソーパズルと呼ばれる Work B と呼ばれる作品群に始まる。これらのオールオーバー絵画も実に豊饒だ。山田の色彩感覚はすでにこの時点で完成していることが理解されるし、アンフォルメル旋風が吹き荒れていた当時の日本の美術界の中でかかる作品をこつこつと制作していた点は驚くべきことと感じられる。同心矩形をモティーフに扱った一連の作品に続いて、1960年頃より Work C と呼ばれる代表作、ストライプ絵画の制作が始まる。ヴァリエーションを伴いつつ会場に並べられた無数のストライプは圧巻である。続いて山田は一連のグリッド絵画、そして均等に機械的なストライプが反復される絵画を制作する。Work C と Work D に分類されるこれらの絵画も山田の代表作であり、この時期の最後、先に述べた康画廊における発表で山田は広く注目を浴びることになった。この後、80年代の Work E のあたりから作風はやや変化する。筆触が強調され、それまで描かれることのなかった斜交する線が描かれることとなるのだ。おそらく康画廊の個展である程度体系的に作品を通覧したこと、そしてもしかするとニューペインティングの抬頭も影響を与えていたかもしれない。ただし Work E そして90年代に始まる Work F は時に大きなサイズの作品が制作されることはあっても、これまでの作品と比べてやや甘く感じられることを何人かの論者が指摘しており、今回作品を実見して私も同じ印象をもった。そして三番目の時期を画すのは1997年に始まる Color と呼ばれる作品群だ。いくつもの色彩が塗り込められたそれぞれに異なるほぼモノクロームの色面から成る最晩年の作品は、作家がタイトルを違えたことが示唆するとおり、Workとは別の構造によって成り立っている。ただし今回の展示では冒頭に Color の連作が置かれているから、山田の作品を何の予備知識もなくまとめて見る者にとっては画業の展開を理解することは容易でないかもしれない。あらためてこれらを通覧して私は先に述べた二番目の疑惑が全く根拠のないものであることを確信した。山田の絵画の展開は決してわかりやすいものではない。しかしそこにはぶれることのない歩みがある。これほど真摯に絵画に向かい合った画家が意図的に作品を改作したり、過去作を模した作品を制作することはありえないだろう。むしろ私が関心をもったのは、Color における作品の突然の転調である。作家はこの理由を明確に語っている。すなわち1995年の時点で Work シリーズは「その円環を形成した」として、作家自らによって完了を宣言され、続くColor シリーズが始められたのである。峯村は山田のこのような物言いに「うそ臭さ」を感じたと述懐しているが、それは直線的に展開し、「円環を閉じる」ことがないモダニズム美術との間の違和感ではないだろうか。山田の場合、何がかかる円環を保証したか。展覧会を見て私はこの点を理解することができた。それは1948年から1972年までの年記をもつ自筆の制作ノート56冊である。その詳細についてもカタログ中で説明されているが、なんとも中途半端な年代の幅、その存在が知られたのが今世紀に入ってからであること、ノートでありながら配列や構成については可変的な可能性が残されていることなど、なお多くのテクスト・クリティークの必要が残されている。展覧会場にはこれらのノートも陳列され、カタログにもその一部が収録されている。絵画のスケッチとそれについてのコメント、日記的時事的な記録が混在するこのノートが制作に関する一種の覚え書であることは明らかだ。確かにこのノートには個々の作品についてのかなり具体的な説明や図示があるから、両者の密接な関係は明らかである。おそらく今後も両者の関係の究明は関係者によって続けられようし、文献や書誌を好む「美術史家」にとってかかるノートが恰好の研究材料であることもまた明らかである。しかし同時にこのようなノートの存在はモダニズム絵画の本質に反する。なぜならモダニズム絵画とは直接性によって特徴づけられており、図表や写真、なかんずく言語の介在を許容しないからである。この展覧会は典型的なモダニズムの画家の中心的な画業の展開を、間接的、言語的な二次資料によって保証するという倒錯を示しているとはいえないだろうか。
 かかる保証が成立しえない Color を、山田が初期作品同様に自らの画業から意図的に切断したことはおおいにありうる。さらにいえば、モダニズム絵画という圏域の外にあってもColorは画業の上に屹立しているという自負もありえたかもしれない。私はひとまずこれらの絵画についての判断を保留する。今回、あまりにも多くの作品を一度に見たため、山田の絵画を見る体験がいわば飽和状態に達して、個別の作品についての判断を下しかねるためだ。このような経験は私にとってもまれであるが、きわめて幸福な体験であったことを言い添えておく必要があるだろう。Color が図表的、言語的な補助を必要としない作品であったことは書き留めておく意味がある。そもそも色彩とは図示できず、言語による説明が困難な絵画の要素である。山田が「絵画との契約」の果てにかかる絵画へと逢着したことは私にはなにかしら暗示的な出来事であったように感じられるのだ。
 本ブログにおける展覧会のレヴューとしてはきわめて異例なことに、具体的な作品について論じる以前にほぼ紙数が尽きてしまった。最初に述べたとおり、かかる迂回を経たうえでなければ作品へと向かえないことは作家にとって不幸であるかもしれないが、私は山田の作品は総体として一つの体系をかたちづくっており、作品と同様にかかる体系、あるいは体系の外部について語ることを不可避的に要求すると考える。先に言及した関連文献において何人かの論者が指摘するとおり、かかるシステムは直ちに言語のそれを連想させる。したがって私は記号論を援用することによって、このような体系そして個々の作品についてさらに深い分析を加えることができるのではないかと考える。実際に今回のカタログに収められたテクストにおいては沢山遼がロマン・ヤコブソンを援用しながら、山田の作品を分析している。私はもう一度会場に足を運び、子細に山田のノートを確認しつつ、作品とあらためて向き合う必要を感じる。さいわい東京での会期は長く、終了後、京都国立近代美術館への巡回も予定されている。私は今後何度かこの展覧会に足を運ぶつもりだ。そしておそらくはもう一度、作品のレヴェルにおいて山田の画業について論じることとなるだろう。

by gravity97 | 2016-12-23 20:44 | 展覧会 | Comments(1)

「小泉明郎 CONFESSIONS」

 京都芸術センターで開催されていた「小泉明郎 CONFESSIONS」を訪れた。会期の最終日に訪れたために事後の報告となること、私はヴィデオ・アートそして小泉について専門的に語る知識も作品の体験もないことを初めにお断りしたうえで、以下のレヴューを記録として留めておく。会場で上演されていた作品のうち、《最後の詩》と題されたヴィデオ・インスタレーションについては、せっかちで当日時間的な余裕のなかった私は全てを視聴したうえでの批評でないこともあらかじめ「告白」しておくことにしよう。それにもかかわらずそこで上映されていた二つの作品は私になにごとかを語るように強いる。
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 私が小泉の作品を初めて見たのは、2010年、大阪のサントリーミュージアムで開かれた「レゾナンス」においてであったと記憶する。《若き侍の肖像》と題された映像作品では特攻として自爆攻撃に参加すると思しき扮装の若者が両親に対して自らの思いを絶叫する。しかし彼の語りに対しては画面の外から演技の指導が入ることによって、かかる「告白」が演出されていることが暗示される。結果として、スクリーンのこちら側にいる私たちにとってきわめて気まずい思いがもたらされたことを覚えている。今日振り返るに、この作品における当惑と混乱は小泉の作品の本質であった。この後、私は昨年の春、前橋で開かれた「捕われた声は静寂の夢を見る」と題された個展を訪れ、夏に銀座のメゾンエルメスフォーラムで開催された高山明との二人展への出品作からも強い衝撃を受けた。さらに今年の春、東京都現代美術館における「キセイノセイキ」においても、一部の作品が検閲され、撤去された状態ではあったが、小泉の作品に接したことは以前このブログで論じたとおりだ。今回出品されていた二つの作品のうち、《忘却の地にて》はメゾンエルメスにおける二人展にも出品されていた。もう一つの《最後の詩》は私にとって初見であった。
 おそらく作家の指示に基づく意図的な欠落であろうが、これまで私が見たいずれの映像作品も単に作品が上映されるのみで、言葉による説明が付されていなかった。映像の冒頭で簡単な説明が入る場合もあるが、最初から見ることができるとは限らないから、ほとんどの場合、映像の内容について知識のないまま作品に直面することとなる。今回、このレヴューを書くにあたって、この展覧会も含まれる京都国際舞台芸術祭のホームページを参照したところ、映像についてのかなり詳しい説明が記されていた。この記述を引用することによって、まず二つの映像がどのようなものであるかを簡単に紹介しておこう。すなわち《忘却の地にて》は「21歳の時に交通事故で脳に損傷を受け、それ以来、記憶障害を抱えて生活してきた、ある男性とともに制作された。小泉が彼に与えた指示は、一人の日本兵のトラウマに関する証言を記憶して、読み上げるということである」。そして《最後の詩》は「小泉のFacebook上での呼びかけに応じた、匿名の個人6名へのインタビューと都市の風景から構成されている。素性不明の彼らに覆面を被らせ、人前では絶対に言えないような心の奥底の思いを打ち明けるように小泉は促す。しかし、彼らの声は、東京の街頭のフィールドレコーディングの雑多な音によって吹き替えられ、ことばの意味や込められた感情から切り離された「音」として再生される」。
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 まず《忘却の地にて》についてもう少し詳しく説明しておこう。語られる内容は今述べたとおりであるが、より具体的に述べるならば、おそらくは第二次大戦中に生物兵器か化学兵器の撒布作業に従事した日本兵の忌まわしい記憶、目撃者がいたら殺せという命令に従って、その場にいた子供を高い場所から突き落としたという体験が語られる。内容を反映するかのように語りそのものも屈折し、同じ言葉が何度も繰り返され、しばしば叫びともうなり声ともつかない音が挿入される。内容も語り口も聞いているだけで息苦しくなるようなナレーションである。しかしながら映示される情景はそれとは無関係の静謐さを漂わせている。一つは杉本博司のシースケイプのごとき、水平線が広がる海の情景、そしてもう一つは何かが燃える炎のゆらぎである。一方、《最後の詩》は一枚のスクリーンの表と裏に別々の映像が映示され、やはり語りが重ねられる。最初に述べたとおり、私はこの作品を全て見た訳ではないから一部分のみを視聴したうえでの説明となるが、《忘却の地にて》が独白として成立しているのに対し、《最後の詩》は小泉と思しきインタビュアーと複数のインタビューイとの対話として構成されている。匿名のインタビューイの語りも実に過激だ。私が見た範囲内でも雑踏や満員電車の中で他者に圧迫されることによって快感を覚える一種の変態性欲の告白と、東日本大震災の際にボランティアと称して現地に赴き、震災の犠牲者の死体を鑑賞するネクロフィリア(屍体愛好)に関する証言が引き出されていた。スクリーンの一方では彼らが口の部分のみを露出させた覆面を被って質問に答えている。この手法は「キセイノセイキ」における《オーラル・ヒストリー》の場合と似ている。《オーラル・ヒストリー》では口元のみをクローズアップすることによって発話者を特定しながらも匿名的な語りが重ねられ、そこでもしばしば韓国人や中国人への差別的、嘲弄的な言葉が繰り返されていた。今回の展示では映像の提示方法にも工夫がみられた。すなわちスクリーンの反対側に回り込むならば同じ言葉が都会の街頭でさまざまな人物が発する音の連鎖として提示される。先に引用したホームページの言葉を借りるならば「彼らの声は、東京の街頭のフィールドレコーディングの雑多な音によって吹き替えられ、ことばの意味や込められた感情から切り離された『音』として再生される。発話の主体を宙づりにすることで、都市に潜在する狂気が浮かび上がってくる」ということらしい。今回の展示ではこれら二つの映像作品が別々のギャラリーに設置され、展示全体のタイトルとしては CONFESSION、告白というまことに内容にふさわしい言葉が当てられている。
 いずれの映像においてもトラウマとなった記憶、隠された欲望、人前ではとても口に出せない個人的な告白がなされる。観者は作品の前でなんともいえない気まずさを覚える。聞くべきではない告白を聞かされた思いといってもよかろう。しかもそれは直接になされるのではない。《忘却の地にて》においては記憶障害のある男性が読み上げる語りとして、《最後の詩》においては本人の語りといわば都会の雑踏の中からザッピングされた「音」の連なりの同期として、おぞましい物語が開陳されるのだ。小泉の作品においては記憶や情動が他者に転移されたうえで言葉にされる。そこからは個人の体験を他者が語ることは可能かという重い主題が浮かび上がる。彼らの語りが戦争や震災といった災厄に関わるものであったことは偶然ではなかろう。私はこのブログでジャンルを横断しながら「表象の不可能性」という問題を検証してきたが、この作品も同じ主題に深く関わっている。小泉の場合、表象不可能な出来事が他者によって語られる。忌まわしい記憶は事故によって記憶に障害を受けた男性によって反復され、個人の秘められた欲望はいわば非人称の声の集積として私たちの前に提示される。ここで私がこれらの作品から反射的に連想した現代美術に関係する二つの記憶を書き留めておくこともなんらかの意味をもつだろう。まず《忘却の地にて》において、語り手は何度も言いよどむ。子供を突き落とした場面を述懐するにあたって、語り手は「飛行機が飛んできました」、「子供が上を見上げた瞬間」、「私はその子を突き落としました」といったフレーズを幾度となく繰り返す。吃音のごとく反復されるフレーズから私はミニマル・ミュージックを連想した。ことに突き落とされた子供の状態を表現する「血が出ていた」という言葉の反復から、スティーヴ・ライヒの初期の作品[Come Out]におけるblood come out to show themというフレーズの反復を連想することはたやすい。小泉の作品の場合、言葉の繰り返しはミニマル・ミュージックにみられた合理性や構築性の反映ではなく、精神分析によって検証されるべき錯誤行為と関わっている。あるいは《最後の詩》において室内を二分するかのように配置された巨大な液晶スクリーンから私が連想したのはビルバオで見たリチャード・セラの傑作《ストライク》であった。この作品については以前このブログで論じたことがある。両者に共通するのは作品が表裏をもち、それを一望する視点は存在しない点だ。今述べたとおり、《最後の詩》における語りは覆面をした特定の話者によってなされる一方、スクリーンの裏に回り込むならば同じ語りが不特定で無数の語り手による「音」の集積として成立している。両者は構造的に両立しえない。「声」と「音」は同期するが、発話者を同時に見ることができない、ここにおいては聴覚的統合と視覚的分離が構造化されたきわめて独特の形式として作品が成立しているのである。
 小泉において本来一人の人間に帰属するはずの記憶や感情、声や身振りは他者を媒介として表明される。小泉の作品が演劇的と呼ばれる理由はこの点に由来するだろう。しかしながらそこで表明されるトラウマや嗜好はしばしば他者が抱えるにはあまりにも重い。幼児に対する虐待や屍体愛好といった「告白」は私たちの良識や社会通念を大きく逸脱している。会場内にも「作品の中に刺激的な発言がある」という注意書きが掲示されていたと記憶する。かかる重い語りが可能となるのは、話者が匿名化されているためではないだろうか。《忘却の地にて》にほとんど人物は登場せず、同時に小泉の映像には覆面や口元のクローズアップ、街頭で録音された雑多な音声といった多くの匿名的なモティーフが登場する。この一方で「キセイノセイキ」展において美術館から撤去された作品において、匿名の対極の存在とも呼ぶべき皇族たちが、端的に不在として表象されていた点は暗示的に感じられる。《最後の詩》においてはフィールドレコーディングされた多くの匿名的な声が「告白」を形作っていた。聴覚的に成立する、かかる匿名の声を、今日、可視化することも可能であろう。それはインターネットの書き込みだ。本来的に匿名的なインターネット上の発言もおびただしく集積する時、一種の社会的無意識を形作る。そしてこのような匿名の無意識がしばしば悪意と攻撃性に満ちていることを私たちは知っている。かつてベンヤミンは映画という新しいメディウムの出現に際して「精神分析によって欲動的無意識について知ったように、私たちは映画によって初めて視覚的無意識について知る」と述べた。新しいメディウムの登場は新しい無意識の成立を伴うとはいえないか。おそらくインターネットもまた人類がこれまでに経験したことのない新しいメディウムであろう。そしてそれによって増幅された匿名の無意識はかつてなくネガティヴな性格を帯びている。小泉の作品を前にして私たちが味わう困惑は、新しい集団的無意識、いわば「映像的無意識」への反応とはいえないだろうか。

by gravity97 | 2016-12-01 06:09 | 展覧会 | Comments(0)

「サイ・トゥオンブリーの写真―変奏のリリシズムー」

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 しばらく前にDIC川村記念美術館で見た「サイ・トゥオンブリーの写真 変奏のリリシズム」についてレヴューを残しておく。素晴らしい展覧会であることは直ちに感得されたが、レヴューまで時間がかかったことは端的にトゥオンブリーの作品について語ることの迷い、困難を暗示している。
 昨年の原美術館におけるワークス・オン・ペーパーが素晴らしかったこともあり、私はトゥオンブリーを絵画とドローイングの作家であると認識していた。したがって今回の展示が「サイ・トゥオンブリーの写真」と銘打たれていたことにまず驚いた。しかし会場に赴くならば、それらの写真はトゥオンブリーの絵画やドローイングとなめらかに連なり、それどころか写真を通してトゥオンブリーの作品の本質に触れた気さえした。この意味でこの展覧会に国内に所蔵された絵画や版画、さらにサイ・トゥオンブリー財団所蔵の彫刻とドローイングが加えられ、作家の創造を幅広いジャンルにわたって通覧できたことはきわめて適切であったように感じる。まず私はトゥオンブリーが早い時期から写真という表現に手を染めていたことに驚いた。展覧会に出品された作品のうち最も早い例は1951年のブラック・マウンテン・カレッジ時代に撮影されており、翌年のヨーロッパ旅行の際に撮影されたと思しき神殿のエンタシスの写真が続く。ロバート・ラウシェンバーグのアトリエを撮影した1954年の作品も興味深い。しかしこの後、写真作品は突然中断され、再開されるのは80年代に入ってからである。カタログのテクストによれば、それは50年代後半よりトゥオンブリーが絵画の制作に全力を傾注したためであり、写真同様に彫刻もしばらく制作されなかったという。むしろ驚くべきは四半世紀を経て1980年に再開された写真が、モノクロとカラーという差異こそあれ、それまでの作品と全く違和感なく連続していることである。このような断絶と連続から私はかつてやはり四半世紀ぶりに発表された埴谷雄高の『死霊』の第五章を『群像』誌上で読んだ際の驚きを連想した。その後、2011年に没するまでおよそ30年にわたって継続的に制作されたトゥオンブリーの写真はモティーフによっていくつかに分類することができる。室内や室内に置かれた彫刻を撮影したタイプ、野菜や花を近接して撮影したタイプ、自らの彫刻や絵画を撮影したタイプ、そして風景を撮影したタイプなどである。共通するのはいずれも意図的に焦点がぼかされて不明瞭であり、何が撮影されているかすら判然としない写真も多い。よく知られているとおり、トゥオンブリーについてはロラン・バルトが比較的長い論考を残しており、そこで提起された盲目性という概念と関連してしばしば論じられてきた。バルトといえば「明るい部屋」と題された写真論でも知られており、盲目/光の欠如、明るい部屋、写真という三つのコンセプトを並べるだけでもトゥオンブリーについて短い論文が書けそうだ。ただし私はバルト的な高踏さとは程遠い人間であるから、ここでは作品から受けたいくつかの感想をひとまず記すに留める。
 私が感じた印象の一つは事後性である。報道写真を例にとるとわかりやすいが、本来、写真という表現の一つの目的はなんらかの決定的瞬間を記録することであろう。同時性といってもよい。これに対してトゥオンブリーの写真は何かが終えられた後のように感じられないだろうか。廃墟や雑然とした室内、散らされた花々、これらのイメージは何事かが終えられた痕跡のようだ。しかも何が起きたかは明らかではない。一種、神秘性のオーラに包まれたイメージ。とりわけラウシェンバーグのアトリエを撮影した作品にこのような雰囲気は濃厚である。散らかったアトリエを撮影した写真には有名な先例がある。いうまでもなく描画するポロックを撮影したハンス・ネイムスの一連の写真であり、そこには作家のアクションのみならず様々の素材が放置されたアトリエが映し出されており、1967年のニューヨーク近代美術館におけるポロックの回顧展に際して展示されたそれらの写真がロバート・モリスやリチャード・セラらのアンチフォームあるいはプロセス・アートと呼ばれる作品にインスピレーションを与えた可能性があることが指摘されている。トゥオンブリーの写真は54年に撮影されているが、雑然としたラウシェンバーグのアトリエはモリスやセラのフロア・ピースの記録写真であるといっても違和感はないだろう。出品作の中でもかなり異質なこの写真がどのような経緯で撮影されたかは不明であるが、興味深い作例といえよう。そして事後性とはトゥオンブリーの絵画やドローイングにも認められる。ロザリンド・クラウスは『視覚的無意識』の中で次のように記している。「1955年までにトゥオンブリーは、表現主義の絵具をたっぷり含んだ刷毛による絵画をやめ、その代わり、尖った鉛筆の先端を用いて、なめらかに漆喰を塗ったカンヴァスの表面を傷つけ、引っ掻き、荒廃させ始めた。すなわち彼は落書きをする者や略奪者、まっさらな壁を毀損する者の攻撃の道をたどり始めた。そして毀損者のモデルとしたのが、ジャクソン・ポロックであることを彼は明らかにした」展示されていた《What Wing Can Be Held ? 》という絵画の表面に書き散らされた、時にエロティックなイメージがあえて言うならば便所の落書きを連想させることは意味がある。落書きとは完成されたイメージに対して事後に介入することであり、ひとたび落書きされるやイメージは永遠に毀損される。この意味においてトゥオンブリーの作品は事後的であり、絵画がはらむ緊張はこの問題と関連している。一つ間違えば全てのイメージがキャンセルされる緊張は今回展示されたドローイングからも濃厚に感じられた。
 私が感じたもう一つの印象は触覚性である。既に述べたとおり、多くの写真はピントがぼけており、写された対象が何であるか判然としない場合が多い。特に今回の展示では作品の横にキャプションが付されておらず、会場で配布されたフロアプランと突き合わせる必要があるため、写り込んでいるのがズッキーニであるかチーズであるかを一目で理解することは困難である。そもそもそのような確認の必要があるだろうか。彫刻のディテールを写し込んだ作品も多く出品されていたが、それらのイメージと食品を近接して撮影した作品はほとんど区別がつかない。写真とは視覚的な営みであるがトゥオンブリーの作品は、手を伸ばせば触れることができるような感覚、触覚的な印象が強い。彫刻や野菜、花、通常、触れることによって私たちがその存在を感知する対象が視覚的に判然としない状態で提示されている。展示の冒頭に「詩を読むことは目で聞くこと、詩を聞くことは耳でみること」というオクタビオ・パスのエピグラフが掲げられている。どのような意図で選ばれたかわからないが、確かにトゥオンブリーの写真の共感覚的な在り方を象徴する言葉である。そしてこのような作品の在り方はトゥオンブリーの絵画やドローイングにも共通しているのではなかろうか。今回は絵画の展示は少なかったが、私はかつてヒューストンでメニル・コレクションに収められた大作をまとめて見たことがある。しばしば小さく文字や数字が書き込まれた画面は時に身体のスケールに親密であるが、離れて一望するならば身体をはるかに超えるスケールを帯びている。近接して触覚的に対峙すべきか、離れて視覚的に一望すべきか、身の置きどころがはっきりとしない。今回、私は同様の感覚を同じ美術館のロスコ・ルームで圧倒的なロスコの作品の前に立った時にも味わったから、今回この美術館でトゥオンブリーの展覧会が開かれたことはおおいに意味がある。そしてこのような共感覚は別のレヴェルにも反映されているのではないか。すなわちトゥオンブリーの写真においていくつかの感覚が捩り合わされるように、トゥオンブリーは絵画とドローイング、彫刻と写真といった作品のジャンルも捩り合わす。いくつかの写真にはトゥオンブリーの彫刻や絵画が写り込んでいる。いうまでもなく、それらは作品の記録として撮影されたのではなく。近接し、焦点をずらすことによって不分明なままその姿を浮かび上がらせている。トゥオンブリーは明瞭さに抗う。モダニズム美術とは絵画や彫刻、ドローイングや写真といったメディウムをあらかじめ切り分けたうえでそれぞれのジャンルにおける純粋化をはかった。ジャンルを横断するトゥオンブリーの実践はかかる前提に抗う。この意味において今回の展示自体がトゥオンブリーの作品の本質に連なる問題意識に裏づけられていたといえよう。
 私はトゥオンブリーの作品の特質として事後性と触覚性を挙げた。これらはいずれもモダニズム絵画の原理に対する異議である。モダニズム美術にとっては現在性こそが恩寵であり、絵画とは事後ではなく現在として提示されるべきであるからだ。モダニズム絵画がなによりも視覚性を重視してきたことはいうまでもない。これまで私にとってトゥオンブリーの絵画は魅力的であるが、なんとも言語化しがたいものであった。今回の展示を見て、ようやく私は得心することができた。時に抽象表現主義との類似が論じられることがあったとしても、トゥオンブリーの絵画はその本質においてモダニズム美術への根底的な異議申し立てとして成立している。先ほども少し触れたが、このような作品の体験をロスコ・ルームにおいて作品を享受する体験と比較することは大きな意味をもつ。このブログで論じるにはあまりに大きな問題であるから、これ以上議論を敷衍することは控えるが、思いをめぐらせるならば数年前までこの美術館にはバーネット・ニューマンの《アンナの光》さえ展示されていたのだ。トゥオンブリーとロスコ、さらにニューマンの傑作を一つの場で体験できるような美術館を私は知らない。それはモダニズム絵画の絶頂、そしてその体験を様々な角度から検証するうえで、世界的にも例のない機会になったはずだ。この美術館がコレクションの中からレンブラントやルノアールではなく、ニューマンを売却したことの代償は限りなく重い。

by gravity97 | 2016-07-19 22:33 | 展覧会 | Comments(0)