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カテゴリ:思想・社会( 20 )

室井尚『文系学部解体』

b0138838_16523465.jpg 今や全てが暗転しつつあるこの国の一つの断面を鮮やかに浮かび上がらせるレポートを読んだ。本書は近年の日本の知的な環境の質的劣化を主題としている。しかしかかる状況は一般にはほとんど知られていない。それが大学という閉じられた世界の中で進行しているからだ。冒頭に著者は次のように書きつける。「世間の人たちはこのような大学の変化にまったく気づいていないといってもいいだろう。というよりも、今回の事件が起こるまでだれも大学のことなんか少しも気にかけていなかったのだ」私は私たちの日常と大学のかかる断絶もまた今日の知的状況の一端を暗示しているように感じる。「今回の事件」とは昨年の6月8日に、首相の盟友、文部科学大臣、下村博文によって全国の国立大学に対して行われた「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通達である。その中では「教員養成系や人文社会学系の学部、大学院については、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めること」が要請されていた。さらにこの通達の一週間ほど後、国立大学学長会議において下村は全国の国立大学の学長を前に、この要請を繰り返すとともに入学式、卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を各大学に「要請」した。したがって文系学部、学科の縮小、廃止と国旗国歌の大学への強制は連動したアクションととらえられるべきであろう。通達によって室井が課程長を務める横浜国立大学の人間文化課程は廃止が決定された。本書はかかる事態に対して、当事者である室井が徹底的な批判を加えるものであるが、そこからは単に愚かな大臣や首相の挙措を超えて、今日の日本を蝕む知的な退廃が浮かび上がるように感じられる。
 室井は私の少し上の世代に属している。しかし10歳も離れていないため、大学や大学院における室井の体験を私もほぼ共有していたように感じる。そして私の友人や後輩の多くは今も大学で教鞭を執っているから、彼らを通じて私は今日の大学が置かれた状況に関してある程度の知識を得てきた。このため私は「世間の人たち」よりは今日の大学をめぐる状況について明るいと思う。そして彼らから伝え聞いた大学の危機はまさに本書で語られているとおりである。本書ではまず2013年6月に閣議決定された「国立大学改革プラン」に基づいてわずか半年でなされた国立大学の「ミッションの再定義」について論じられる。「ミッションの再定義」とは端的に言うならば、国立大学を差別化し、不要な学科をスクラップするための方便である。この過程で本書のタイトルでもある「文系学部解体」が遂行され、具体的には教員養成系大学や学部の廃止が強行されたのである。かかる通達の欺瞞性と恣意性を指摘したうえで、室井はやや遡って「大学改革」の歴史を概観する。
 一連の「大学改革」の端緒を室井はひとまず1991年、中曽根政権時代に大学審議会によって答申された「大学設置基準の大綱化」に求める。室井によればこれは一種の規制緩和であり、大学の設置基準を簡略化する目的であったという。室井ならずとも直ちに疑問が生じるだろう。この時期、将来の少子化、大学生の減少は既に予想されていた。なぜこの時期に大学の増設という時代に逆行する施策がとられたのか。おそらくそれは競争原理を導入することによって大学を淘汰する狙いがあったのではないか。これには先例がある。イギリスにおいてサッチャー政権下で進められた大学の「エージェント」化である。そしてこの「改革」の中で「小講座制」から「大講座制」への移行、「学科制」の「課程制」による置換といった組織上の「改革」も進められたとのことであるが、組織「改革」の是非についてのニュアンスは大学から足を洗って久しい私にはよくわからないというのが正直なところだ。しかし少なくともこのような「改革」がサッチャーやレーガンが推し進めた新自由主義的な政策の一端であり、「グローバル市場経済社会」の端緒と同期している点は押さえておく必要があるだろう。このような動向が竹中平蔵をブレーンとした小泉政権においてさらに推進されたであろうことは誰でも予想することができよう。具体的には文部科学省初の女性キャリア出身の大臣、遠山敦子(確かこの人物は国立西洋美術館館長、文化庁長官も歴任したと記憶している)の名を取った「遠山プラン」の提案である。室井によれば遠山プランの柱は次の三点である。すなわち国立大学の再編統合を大胆に進めること、国立大学に民間的発想の経営手法を導入すること、国立大学に第三者評価による競争原理を導入することである。このプランに基づいて大学の学部が廃止され、大学が次々に統合されたことは私も記憶している。一方で遠山プランでは大学をランク付けしてトップ30校に重点的に予算を配分する構想が練られた。大学を差別化する発想、予算配分と規制、アメと鞭で大学を統制しようとする今日の「国立大学改革プラン」の本質は遠山プランに既に明らかである。そしてこのプランの結末が2004年の国立大学の独立行政法人化であることはいうまでもない。本書中に引かれている国会の参考人質疑における京都大学教授(当時)佐和隆光の次の発言はこの施策の本質を言い当てている。「国立大学法人化は、当初の意図に反して、科学・学術研究の中央集権的な『計画』と『統制』をその骨子としている。言い換えれば法人法案は国立大学の『ソビエト』化を目指している」五カ年計画だか六カ年計画だかの達成を大学に迫るこのような政策はまさしく全体主義、ソビエト化と呼ぶにふさわしい。
 しかしこのような政策は決して近年初めて策定された訳ではない。続いて室井は戦前までに立ち戻って国立大学、かつての帝国大学の成立の経緯を確認する。明治政府によって設置された帝国大学は終戦に伴い、新制大学へと姿を変える。しかしそこでも大学間のヒエラルキーは厳然と存在し、総合大学と地方大学、一期校と二期校といった序列が成立していた。したがって今回の「国立大学改革プラン」は乱暴で問答無用であったにせよ、従来の政府、文部科学省の方針を踏襲した内容にすぎない。しかし遠山プラン前後から国立大学には顕著な変化が生じていることも事実である。一つは先にも述べた教員養成系大学や学部が廃止され、多く地域や人間といった言葉を冠した文理融合的な新しい学部へと誘導されたことである。これはいうまでもなく本書のタイトルのとおり、文系学部を解体する手続きであり、あるいは必ずしも成功していないが、教職員ではなく学長選考会議によって学長を選出し、学長や執行部に文部科学省の意向を反映させようとする意図も透けて見える。さらに石原慎太郎の肝いりで創設された首都大学東京では教員への任期制、年棒制導入が策動された。この制度は結果的に2014年に廃止されたとのことであるが、現在、特任教授といった名で多くの任期制の教員が働いていることは私でも知っている。このような制度は教員の流動化を加速するとともに、大学教員の質的な変化をもたらした。かかる変化のもう一つの要因は博士号の大量生産である。大綱化以後、大学院が重点化される中で大量の博士号取得者が生まれた。その理由は単純だ。欧米と比べ特に人文科学系で博士号を取得している者が少ないため「国際競争力」を高めるうえで博士号が量産されねばならないのだ。室井は自分たちが大学で学んでいた頃は、少なくとも文学部において「文学博士号」は定年前の功成り名を遂げた教授たちが取得するならわしであったと述懐しているが、これは私の記憶とも一致する。しかし博士号取得者の数も大学院評価の指標となったことによって、大学院の評価を高めるために博士号を粗製乱造するという倒錯が生じた。以前、私は出版助成の審査の折に、ある大学に博士論文として提出されて受理された論文を査読したことがある。某美術館の成立と展開をまとめた長い論文であったが私はあまりのレヴェルの低さに呆れてしまった。先行研究を日本語に置き換えたにすぎず、なんら新たな知見が得られることはない。もちろん私は助成を否認したが、むしろ私はこのような拙劣な論文にそれなりに一流とみなされている大学から博士号が与えられたことにおおいに驚き、不審に感じた。(ちなみにこの論文は博士論文であるから、現在、ある出版社から公刊されている)かかる博士号の乱造は何をもたらすか。端的に「研究者」の増加である。大綱化によって研究者以外、つまり民間企業や官庁、政府機関から大学教師になる人が増え、「博士号」をもった研究者も増加することによって教員が飽和し、結果的に大学をめぐる環境が大きく変わった。大学教員としての優秀さが学生のアンケートや休講の数によって数値化され、教員の評価、さらには採任用の判定に用いられることを当然とする気風が醸成されたのだ。かかる数値化、効率化は少なくとも文系の学知にとってはむしろ批判されるべき姿勢ではないか。私が大学に入った頃、新年度の講義は多く連休を過ぎた頃から始まった。講義の開始時間から15分遅れて教室に現れ、15分前に終えることが学生に対するエチケットであると言って憚らぬ教師もおり、むろん学生たちもそれを歓迎していた。休講すると学生が抗議し、事務方から補講を命じられる昨今とは隔世の感がある。少なくとも「文系学部」において今日の状況は教師にとっても学生にとっても致命的に不幸であると私は感じる。室井が関わり、2005年の時点で開かれたシンポジウムにおいて大学教育の本質について二人の大学教員が興味深い見解を披歴している。吉岡洋はそれを〈隙間=空き地〉とみなし、大学を民間企業と同様の効率主義と成果主義に従わせることは、「知の自殺」であると述べ、内田樹は世間知や常識とは異なった「ノイズ」こそ大学教育にとって必要な知を生み出すと述べている。私も彼らの見解に全面的に同意する。私自身、自分にとって大学教育とは無限に思える自由な時間があり、読書や友人との語らいを通して徹底的に考える習慣を身につけたことこそがその意味であったからだ。それは個々の講義やゼミで得る知識とは全くレヴェルの異なる知であり、大学でしか得ることができない知であるはずだ。この点についても室井は的確な言葉を与えている。「大学の役割は基本的には『無知との戦い』あるいは『無思考との戦い』である。本当にこれでいいのかということを疑い、自分の頭で批判的に考え、行動する人々を育成して社会に送り出していくことである」現在の反知性的な政権がこのような自覚的な学生を嫌うことは直ちに理解できる。彼らは思考せず、指示に唯々諾々と従う学生を量産することこそが大学教育の本義と考えているだろう。この意味で今回の通達と国歌国旗の大学への強制の「要請」がセットでなされたことは大いに示唆的である。信じられないことに多くの大学がこの「要請」に従ったように、今や批判的な知の在り方は大学と学生の双方から否定されつつある。私が最初に現在の日本を蝕む知的退廃と呼んだのはかかる状況のことである。教員は大学当局、そして文部科学省の意向を忖度して学知に効率や成果を求め、嘆かわしきは学生たちもそれを是とする。そこには隙間もノイズも生じることがない。大学に世間知や常識がはびこるならば、もはや大学の存在意義などないに等しいではないか。世間知と常識の最たるものは大学とは就職にいたる一つの通過点にすぎないという認識であるが、「文系学部」に拠って立つ私にはこのような理解は大学に対する侮辱に等しいと感じる。室井は別の言葉を用いる。「我々が育てているのは『人間』であって国家やグローバル企業に奉仕する『人材』ではない」しかしかくも暗い時代にあって、自分は「人間」でなくても「人材」でよいと考える学生は多いはずだ。おそらく「文系学部」の存在意義は、人は「人材」ではなく「人間」であるという当たり前の事実を学生に示すことにあろうが、いまやこのような正論を説くことさえ難しくなっている。
 私が本書を興味深く読んだのは、ここで論じられている問題がもはや大学に留まらないことを強く意識したためである。いかに新自由主義が隆盛しようとも、効率や市場性を求めてはならない分野が存在する。いうまでもなく大学をその一端とする教育という分野であり、そしてまた文化もまたそのような領域ではないだろうか。今日、美術館も同じ攻撃にさらされている。先に掲げた遠山プランの大学を美術館に置き換えてみよう。美術館の再編統合を大胆に進めること、美術館に民間的発想の経営手法を導入すること、美術館に第三者評価による競争原理を導入すること。国立美術館の法人化に伴う再編成、学芸員にノルマを課して入場券を売り歩かせる美術館、第三者評価のためのくだらないベンチマークの考案に嬉々として取り組む美術館。自らのレゾン・ド・エートルとして効率主義や成果主義を自発的に取り入れようとする倒錯が美術館においても進行している。この意味で本書に記された大学の危機は正確に今日の美術館と重ね合わせることができる。
 本書の終章には「それでも大学は死なない」というタイトルが付されている。グローバリズムの進展とともにあらゆる分野で猖獗をきわめる効率主義や成果主義に抗しうる場は大学以外にはありえないというのが室井の結論である。室井は2001年のヨコハマ・トリエンナーレで巨大なバッタのバルーンを高層ビルに設置した経験、あるいは様々な学際的な取り組みなど、自らが深く関わった実践を例示して、今日においても大学で「自由な知」が可能であると論じる。私もこの言葉に深く同意するし、本書の読後感が悪くないのは、かかる学知への信頼に負っているだろう。ひるがえって考える。社会に「隙間」や「ノイズ」を作り出すという点においては、美術館もまた大学以上に重い使命を担っているはずだ。果たして今日、美術館はかかる社会の負託に十分に応じているだろうか。
by gravity97 | 2016-05-01 16:53 | 思想・社会 | Comments(0)

川村湊『戦争の谺』

b0138838_20595483.jpg 戦争と表現をめぐるきわめて刺激的な論攷を読んだ。「軍国、皇国、神国のゆくえ」というサブタイトルをもつ川村湊の『戦争の谺』である。私は川村の批評はこれまでしっかり読んだことがないが、川村がこの数年、日本における植民地の表象という問題を精力的に検証していることは知っていた。その一端は川村が中心となって編んだアンソロジー、集英社版「戦争×文学」中の二巻、「満州の光と影」「帝国日本と朝鮮・樺太」に反映されているだろう。私は近いうちにこれら二冊を読み通したいと考えている。植民地における表象という問題は、美術の分野でも近年、「官展にみる近代美術」といった優れた展覧会として結実しており、これについてはかつてこのブログでレヴューした。ただし川村の研究は必ずしも植民地の問題に特化した内容ではない。12章からなるこの論集のテーマはタイトルに明らかなとおり、むしろヒロシマ、ナガサキ、沖縄から「鬼畜米英」、「八紘一宇」、そしてゴジラと冷戦といった日本の戦争体験の系譜をたどる内容である。初出一覧を確認すればわかるとおり、本書は書き下ろしではなく、様々な機会に執筆されたテクストをまとめた内容が中心であり、テーマの多様さはこの点を反映している。それにもかかわらず、特に異和感なく読み進めることができるのは、川村の問題意識が一貫しており、ぶれないためであろう。それどころか多様なテクストの背景に浮かび上がる共通性に気づく時、私は日本人に宿痾のごとく取り憑いている一つのメンタリティーを理解することができた。それは戦間期のみならず、震災と原子力災害を経過した私たちにとって身近に感じられる。この意味で谺(こだま)とは象徴的なタイトルである。戦争の谺は今も響いているのだ。
 いくつかの章について具体的に論じることにしよう。最初の二つの章は広島と長崎における被爆の問題を論じている。川村は太宰治の「トカトントン」とい短編から語り起こす。天皇の終戦宣言を聞いて自決を決意した語り手の耳にどこかで金槌で釘を打つトカトントンという音が届く。この音は語り手の熱狂を一瞬に醒まし、一種の虚脱感を与える。確か高橋源一郎も『文学がこんなにわかってよいかしら』の中で同じ短編について触れていたと記憶する。川村は「トカトントン」をやや異なった視点からみる。それは復興の槌音であり、川村は栗原貞子を引きながら広島の早すぎる「復興」に注目する。「占領下の21年8月6日、『原爆を忘れて復興しよう』と被爆者の苦しみや遺族の悲しみをよそに、どのような乱痴気騒ぎが行われたか。町内はシャギリ、山車、俵もみ、仮装行列などを行って、『ピカッと光った原子のたまにヨイヤサーとんで上った平和の鳩よ』と三日間踊って歌った」被爆の一年後にかくも能天気な「復興」がなされていたことに驚くが、被爆の惨禍を覆い隠すこのような「復興」の強調に川村は日本人が原爆の被害に対してほとんどアメリカを批判することなく、あたかもそれが戦後の平和や自由へいたる通過儀礼であったかのごとく受け容れた点を原爆と関わるいくつかの建築物の建設の過程、そして47年の昭和天皇のヒロシマ行幸といった事実に関して説得的に論じる。それにしても大戦の当事者であり、考え方によってはヒロシマに原子爆弾による災厄をもたらした張本人である昭和天皇―「国体護持」の保障を得るためにポツダム宣言の受諾を遅らせ、そのために二つの都市の壊滅がもたらされたことは今や歴史的な事実だ―を万歳で迎えた広島市民、そして日本人のメンタリティーを私たちはどのようにとらえるべきであろうか。ここで私が直ちに連想したのは、このブログでも論じた白井聡の「永続敗戦論」の議論であった。白井は「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している」と説いた。私は少なくとも部分的には本書を白井が「永続敗戦論」で論じたテーマを文学に即して検証する試みとしてとらえることができるのではないかと考える。むろんこの点は本書のオリジナリティーをなんら減ずるものではない。この問題は長崎の被爆を扱った第二章でさらに鮮明となる。最初に川村はなぜ長崎には原爆ドームがないのかという人を食ったような問いから始める。しかしこの問いの射程は深い。長崎において浦上天主堂をはじめとする被爆建築は保存されることなく撤去される。さらに川村は「長崎の鐘」で知られる医者、永井隆のきわめて倒錯した論理について言及する。被爆者でありキリスト者でもある永井にとって長崎の被爆は神の摂理であったというのだ。永井は次のように書く。「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな神の摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」別のところ永井は昭和天皇の終戦の「聖断」も神の摂理とみなす。私は永井の主張を全く受け容れることができないが、ここにも被爆後に昭和天皇を万歳とともに迎え入れた広島市民と共通するメンタリティーをうかがうことができるように感じる。しかし永井にみられた被爆=被曝をめぐる倒錯した論理は半世紀を経て別のかたちで甦る。福島の原子力災害の後、同じ長崎大学医学部に所属する山下俊一という御用学者が、この事故による放射能の影響は健康に全く害を与えないという根拠のない説を唱導し、笑うことによって放射能の被害が減ずるといった馬鹿げた主張を唱えて反原発派から刑事告訴されたことはよく知られている。広島の被爆者を患者としてではなく実験動物としてデータの採取を試みた放射能医学研究所に連なる研究機関の存在が知られているが、永井と山下はかかる系譜の端緒と末端に位置しており、この意味においてナガサキとフクシマはつながっているのだ。
 「沖縄のユーリー」と題された第三章では沖縄が主題とされる。ユーリーとは幽霊のことであり、川村は今日も語られる沖縄戦と関連した一種の都市伝説、幽霊譚の系譜をたどる。このような都市伝説がアメリカ軍の駐留に伴い、別のかたちで沖縄に取り憑いたことを指摘したうえで、川村は沖縄戦におけるいわゆる「集団自決」をめぐって、大江健三郎の「沖縄ノート」をめぐる裁判の検証へと向かう。沖縄戦で沖縄の村人たちに集団自決を迫った旧日本軍の将校たちが、集団自決後にアメリカ軍に投降して自らは生き延びたという軍隊の本質を見せつけた事件については、曽野綾子ら右派の論客が執拗に事実の否定を繰り返した。川村はあらためて沖縄戦の非人間性と右派のデマゴーグへの批判を提起する。ここまでの三章が広島、長崎、沖縄という第二次大戦における惨事の舞台と関わる論考であったのに対して、次の二章では「鬼畜米英」と「八紘一宇」という大戦中の二つのスローガンを取り上げて興味深い分析が加えられる。「鬼畜米英」をめぐってはまず当時のアニメや「日米架空戦記」といった主題に沿って検証が続けられる。植民地支配を繰り広げる白人を鬼に見立てたプロパガンダ映画は確かに「鬼畜米英」の典型を示しているが、実はこれらの映画や戦記の中に欧米に対する敵愾心を強調した要素は少ないという。川村はさらに久生十蘭の「紀ノ上一族」といった今日ほとんど知られることのない「反米小説」に論及しながら反米の系譜をたどる。川村によれば和歌山からサンフランシスコに渡った、日本人移民、「紀ノ上一族」の子孫が最終的にアメリカ社会によって皆殺しにされるまでを描いたこの作品は、単なるプロパガンダ小説を超えてアメリカという国家がもつ差別性、階級性を浮き彫りにした点で意味をもつが、大戦末期において本土空襲、沖縄戦、そして原爆投下を通して、まさに鬼畜としてのアメリカの所業が明らかになった。しかし鬼畜米英への反発は戦後文学においてもきわめて屈折したかたちで内面化される。その典型的な例を川村は「沖縄ノート」を表した大江の短編「人間の羊」に認める。バスの中で主人公の青年がアメリカ兵から屈辱的な暴行を受ける場面は川村も述べるとおり、敗戦国日本が受けた精神的去勢を象徴している。かかる内面は最初に私が触れた日本人の宿痾とも呼ぶべきメンタリティーと深く関わっている。これに対して「八紘一宇」論においては、もう一つのキーワード「八紘一宇」が意外な文学者、宮沢賢治と結びつけられ、宮沢のユートピア思想と満州開拓の共通性が論じられる。満州における植民地文学の研究を背景とした川村の議論は説得的で実に興味深い。例えば「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ」で始まる「雨ニモマケズ」中の有名な章句における東西南北が八紘ならぬ四紘を暗示しているといった指摘がそれだ。川村は八紘一宇が一種のグローバリズムの思想であると看破する。しかし現在のグローバリズムと同様に、結局のところそれは空虚で差別的、一種の全体主義でしかなかったことも的確に批判されている。続く第六章「天皇と植民地の子供たち」においても興味深い論点が提起されている。それは皇太子の植民地巡啓という主題だ。知られているとおり、昭和天皇は朝鮮、満州はおろか沖縄にさえ足を運ぶことがなかった。(この意味において現天皇のパラオ訪問はきわめて重要な意味があると考えられるだろう)しかし皇太子や皇族が天皇の名代として植民地を訪れたことは何度かあった。川村は1907年、日韓併合以前、保護国としての朝鮮を当時皇太子であった大正天皇が、1923年、既に日本の植民地であった台湾をやはり皇太子であった昭和天皇が巡啓した事例を検証する。例えば大正天皇の訪韓にあたってソウルの南大門の一部が取り壊された一事からも明らかなとおり、これらは端的に宗主国と植民地をめぐる暴力の発露の一形態にすぎないのだが、川村は独特のテクストをとおしてこの事態を分析する。それは皇太子の巡啓を寿ぐ植民地の子どもたちの詩(童謡)である。詳しくは本書を読んでいただきたいが、二つの巡啓をめぐるテクストのぶれや振幅の中に植民地における表象の問題が生々しく露出するのだ。
 第七章以降は戦後に発表されたテクストから浮かび上がる「戦争の谺」が論じられる。簡単に触れるにとどめるが、「天皇とセブンティーン 天皇小説の周辺」においては大江健三郎の初期中編「セブンティーン」の続編、右翼の攻撃によって今もなお大江の小説中、唯一書籍化されていない「政治少年死す」をめぐる論考である。いうまでもこの背景には直前に実際に右翼の襲撃によって死者が出た深沢七郎の「風流夢譚」事件があった。川村は当時の大江が繰り返した性的なモティーフの変奏としての読解、あるいは終盤で暗示されるヒロシマの爆発と天皇制の関係まで興味深い議論を提起している。第九章の「ゴジラが来た」においては冷戦期における「戦争の谺」を主に映画、つまり「水爆大怪獣ゴジラ」に始まる一連の怪獣映画、核兵器を使用した第三次世界大戦を描いた一連の映画(本書では触れられていないが、キューブリックからシドニー・ルメットまで私はリストをいくらでも延長できる)、そして「ゴジラ」を制作した本多猪四郎の手による「マタンゴ」に典型的な、変身や巨大化を伴う一連の「放射能恐怖映画」の系譜をたどることによって分析している。詰め込みすぎの感がないでもないが、これらは熱核戦争と対極の位置にある冷戦の表象と関わっている。第十章の「戦後文学者のアジア体験」では大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した際に、自分より受賞にふさわしいと述べたと言われる井伏鱒二、大岡昇平、安部公房の三人が取り上げられる。シンガポール、フィリピン、満州という異なった場所で戦争に向かいあった彼らの小説に戦争はどのように「谺」しているか。比較的短い論考であるが、天変地異としての戦争、あるいは加害と被害の交錯する場としての戦争といったいくつかの興味深い論点が提起されている。第十一章の「事変下の“戦争文学”」においては、まだ「宣戦布告」がなされていない時代の「戦争文学」、つまり1931年の上海事変以後の中国を舞台にした小説が取り上げられている。むろん宣戦布告がなされていなかったにせよ、日本軍はそこで劫掠と殺人、強姦を繰り返していたのであり、火野葦平の兵隊三部作や田中英光の小説はかかる主題を扱い、さらに検閲という問題とも深く関わっている。川村の所論については直接本書を参照いただくことにして、私は基本的にクロノロジカルに編成されたこの論文集の巻末近くにあえて時代を遡行してこのテクストが置かれた意味を深読みしたい。つまり私たちも「宣戦布告」なき戦時下にいるのではないかという発想である。このレヴューを執筆中にパリで発生したテロを勘案するに、この章はあまりにもタイムリーとも感じられもするが、このテロがなかったとしても現政権のクーデタ的な憲法破壊によって今や私たちが戦時体制下に置かれていることは明らかであり、「事変下の文学」とは端的に今日の日本文学が置かれた状況を言い当てている。
 日中戦争から冷戦まで半世紀に満たない期間に発表されたテクストに幾重にも谺する戦争。本書を通読して、私は日本の戦後文学における大江健三郎の重要性をあらためて認識した。戦後文学をその最深部において貫通する本書において、大江の固有名は幾度となく繰り返される。広島、沖縄、天皇と関わる一連の小説やルポルタージュ、アメリカとの関係を主題とした「飼育」や「人間の羊」、本書は大江を手がかりとして戦後文学を再編成する試みといってもよい。反戦反核から、今や反原発、反戦争法案に関して活発な発言を繰り返す作家に励まされるのは私だけではないはずだ。
 繰り返されるのは大江の名前だけではない。たとえば本書の中で引かれる次のようなテクストを比較されたい。

 安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから

 陛下は、高瀬学長のご案内で、病床に寝ている私の近くまで、おそれおおくも御足をお運びになり、親しげにお言葉をたまわった。(中略)なんというありがたいお言葉だろう。いくら世の中が変わったからとて、これはあまりにももったいない次第であった。

 うれしいうれしい 吾々の/村に学校ができまして/男女の 区別なく/学の道に いたしむは/だれの御かげか これはみな/わが皇室の めぐみなり

 小誌一、二月号所載大江健三郎氏「セブンティーン」は山口二矢氏の事件にヒントを得て、現代の十代後半の人間の政治理念の左右の流れを虚構の形をとり創作化し、氏の抱く文学理念を展開したものである。が、しかし、右作品中、虚構であるとはいえ、その根拠になった山口氏および防共挺身隊、全アジア反共青年連盟並びに関係団体に御迷惑を与えたことは率直に認め深くお詫びする次第である。
 

 二番目の引用は永井隆が昭和天皇に拝謁した際の感激であり、そのほかのテクストについては説明不要であろう。これらを読んでなんとも居心地の悪い印象を受けないだろうか。例えば最初に引いた原爆慰霊碑の碑文。アメリカ軍が投下した原子爆弾の犠牲となった人々の鎮魂であり、本書中の表現を用いるならば原子爆弾とは「人が落とさにゃ、落ちてこん」にもかかわらず、この主語のない碑文においては「過ち」という言葉が用いられている。誰の「過ち」であるというのか。被爆という災厄をもたらした当事者である天皇に対して「もったいない」と感じることへの異和感については先にも触れた。あるいは植民地を収奪する宗主国の王としての「皇室」に「恵み」を感じる感性。かかる感謝が強制されたものかどうかはともかく、同様の感性は、右翼の脅迫に対して抵抗するどころか「御迷惑を与えたことを率直に認め深くお詫びする」『文学界』の編集長の姿勢にもうかがうことができる。これらに共通するのは、被害者が加害者に阿る、なんとも気持ちの悪い配慮、一種のマゾヒズムである。「『鬼畜米英』論」中、沼正三のマゾヒズム小説「家畜人ヤプー」への言及は暗示的である。本書を読むと戦争をめぐる多様な言説の中にアメリカあるいは天皇といった厄災の元凶を免罪し、それどころかそれらを救済とみなすまことに転倒した論理が繰り返し登場することが理解される。白井聡であれば「敗戦の否認」と呼ぶであろうかかるメンタリティーは文学の領域でも明瞭に追認できるのだ。
b0138838_2104933.jpg 「戦争の谺」において検証されるかかる倒錯から、私は一人の早世した作家の小説を連想した。このブログでも触れたことのある桐山襲のデヴュー作「パルチザン伝説」である。「週刊新潮」による悪意に満ちたミスリードによって右翼の攻撃を誘い込み、「風流夢譚」や「政治少年死す」同様、当初は単行本化が断念され、その後数奇な運命をたどったこの作品についてはいずれ詳しくレヴューする機会があるかもしれない。第二次大戦下、日本という国家に対してパルチザン闘争を行った架空の集団と、1974年に御用列車爆破を試みた現実の集団を対比的に描いたこの小説の中で私にとって印象的な一節がまさにこの問題と関わっているからだ。大戦末期、アメリカ軍の空襲によって東京が火の海と化し、多くの命が失われる中、主人公たちは空襲に呼応するかのように都内で爆弾闘争を繰り広げる。ある日、主人公の下宿を訪れた「隣組の男」は次のような感慨を述べる。

…戦争だから家が焼かれるのは仕方ないが工場が狙われるのが悔しい、それに宮城が心配だ…
なるほど、この国のひとびとはかつてない空爆のなかでそういうふうに考えているのか―動悸の細波が残っている胸を押さえながら、私は頭のどこかが痺れるのを感じていた。まだ焼かれ足りないのか、まだ殺され足りないのか、いや、全部焼かれ、全部殺されても、そう思い続けているのか

今から思えば、1983年に発表されたこの小説において、今日、川村湊と白井聡が別々の文脈で論じる日本人のメンタリティーは既に明らかであったのだ。自らが空襲に遭いながら、天皇の安否を心配する人々、かかる倒錯は今日にも引き継がれていないか。原子力災害に端的に示されるとおり、この国では大きな犯罪の責任者は一切責任をとることがなく、処罰されることもない。日本の首相は国会ではなくアメリカの議会でアメリカのための戦争法案を成立させることを誓い、沖縄のアメリカ軍基地をめぐってはマゾヒスティックな受忍論が渦巻いている。おそらく今年は日本がアメリカの戦時体制に組み込まれた年として長く記憶されることとなろう。2015年、永続敗戦の果てに、戦争の谺が響き渡るのだ。
by gravity97 | 2015-11-19 21:16 | 思想・社会 | Comments(0)

このブログで応接した作家のうち、村上春樹、コーマック・マッカーシーそしてドン・デリーロ以外の作家がノーベル文学賞を受賞するとは予想できなかった。しかしかかる作品の作者が受賞したことはおおいに意味があるだろう。原子力災害から4か月後、2011年7月4日にアップした記事を再掲する。

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 震災以来、このブログもシビアな記事が多い。今回取り上げるドキュメントの内容も今日の我々にとって決して楽しい話題ではない。私も必要を感じなければ、ここで取り上げる一連の記録を読むことはなかっただろう。しかしこれまで原発事故をめぐる一連の状況をフォローしてきた私にとって、これらの本を読むこと、あるいは政府や電力会社が開示しない情報を収集することは今の自分たちにとって死活的に重要であると感じる。
例えば数日前の読売新聞に「生活習慣と被曝 発がんリスクは」という意味不明の記事が掲載されている。「喫煙・大量飲酒、1000ミリシーベルトに匹敵?」という見出しの意図はあまりにも露骨だ。ここでは原発事故によって発生した「異常な」放射線の線量が喫煙や飲酒といった日常的な行為によって相殺されている。この記事の信憑性はひとまず措くにせよ、放射性物質の危険性を喫煙と飲酒のそれと併置して、あたかも日常の、それも相対的に小さな危険であるかのように扱う内容にはあいた口がふさがらない。喫煙や飲酒にリスクが伴うことは誰でも知っているが、私たちはそれを承知したうえ、自分の責任でそれらを楽しむ。これに対して原発事故に伴う放射線は電力会社の犯罪的な不作為がもたらした結果であって、私たちになんら責任はない。二つのリスクは本来全く無関係である。そもそも放射線のリスクが一番高いのは子供たちであって、喫煙や飲酒を日常としている私たちではない。大新聞の記者が「国立がん研究センター予防研究部長」といった肩書きの御用学者と一体になって繰り広げるかかるキャンペーンはこの数日来続く脅迫的な節電キャンペーンとともに、放射能の危険性を隠蔽し、原子力発電の延命を図っている。

『チェルノブイリの祈り』は1998年に単行本として刊行され、今回の原発事故を契機に先月、岩波現代文庫に収録された。無数の関係者からの聞き取りによって1986年に発生したチェルノブイリ原子力発電所の大事故の輪郭を浮かび上がらせている。聞き取りの相手や内容、登場する順序は一見無作為に感じられるが、実はよく練られている。すなわちプロローグとエピローグの位置に「孤独な人間の声」と題された二つの章が配され、その間の主たる三つの章の間には「兵士たちの合唱」「人々の合唱」「子どもたちの合唱」という三つの断章が挿入されている。主たる三つの章に関して、証言者は名前と役職や身分が明記されているが、「合唱」と題された三つの断章に収められた短い証言は証言者の名前をもたない。
とりわけ深い感銘を与えるのは巻頭と巻末に置かれた「孤独な人間の声」という二つの証言である。リュドミーラとワレンチナという二人の女性はいずれも原子力発電所事故の収拾に従事した二人の作業員の妻である。前者は原子力発電所で事故直後に消火作業にあたった消防士、後者は事故によって住民が強制移住させられた村の電気を止める処置を続けた高所作業組立工である。消防士は作業中の大量被曝による急性の放射線障害によって、組立工は被曝による全身のがんによって共にこのうえなくむごい死を迎える。正視に耐えないという言葉があるが、まさに読むに耐えない二人の悲惨な死は最愛の妻の口をとおして語られることによってかろうじて救いをみる。解説の中で広河隆一も記すとおり、放射能はもっとも悲惨な形で人間を死に向かわせる。二人の病状はほとんど人間のかたちをとどめないほどの凄惨さであり、私もここで繰り返すことはしない。しかしそれにも関わらず、死にいたるまで二人の妻は彼らに深い愛情を注ぐ。この凄絶なノン・フィクションが一種の文学性を帯びて成立する理由は、肉親の証言というある意味で客観性を欠いた形式に多くを負っている。さらに付言するならば二つの死のうち、とりわけ消防士ワシーリー・イグナチェンコの死は日本人にとって無縁ではない。チェルノブイリの災厄から13年後、茨城県東海村で起きたJCO臨界事故で、彼と同様に大量の放射線を浴びた大内久さんは懸命の治療もむなしく、やはり長く、筆舌に尽くし難い苦しみの中で死んでいった。リュドミーラの証言は30頁足らずの短い内容であるが、大内さんの闘病に関しては下に示した『朽ちていった命―被曝治療83日間の記録―』という詳細なドキュメントが公刊されている。この記録はもともとNHKスペシャルとして放映された番組に基づいており、高線量被曝という未知の恐怖に立ち向かう大内さんの人間としての尊厳、そして家族と医療スタッフの献身には胸をうたれる。私はこのブログで何度かNHKのディレクターによる安易なノン・フィクションを批判したが、このドキュメントは別だ。なぜならかくもいたましくも貴重な記録を文字に残すことはディレクターと遺族、医療者との間に深い信頼関係がなければありえないからだ。今回の原発事故に関してもNHKは早い時期に放射能で汚染された地域を独自に調査し、住民に警告を発するETV特集を放映し、公式発表を垂れ流す御用メディアとの対照を示したが、このような仕事は放射能問題に対する関心と現場主義が日頃より局内で共有されて初めて可能となったのではなかろうか。二人の女性の証言、そしてJCO事故の記録が明らかにするのは、被曝によってもたらされる死がいかに無残で、非人間的なものであるかということだ。この事実を知れば、飲酒と被曝を同一次元で扱う発想はありえない。もちろん先に触れた記事のテーマは急性障害ではなく、数年のレヴェルで発症する晩発性のがんである。しかしそこには原子力発電所に由来する放射性物質によってもたらされる障害がいかに異常なものであるかという認識が完全に欠落している。そして現在、福島で復旧作業にあたっている作業員たちが置かれる環境がチェルノブイリの作業員たちと異なるという証拠を政府も東京電力も今日にいたるまで開示していない。
それにしても恐るべきことに、25年前にチェルノブイリで発生した状況は今日の福島で正確に反復されている。事故直後、着のみ着のままで強制的に避難させられた人々はその後も自宅に戻ることができず、遺棄された地域に残された家畜やペットは次々に殺処分される。避難を試みる者は裏切り者として指弾され、被曝した人々は差別される。当局は一切事実を発表せず、故障したロボットの代わりに生身の作業員が復旧に投入される。したがって私たちは事故の数ヵ月後にチェルノブイリの近隣から運び込まれた牛肉や牛乳を検査した担当者がそれらはもはや食品ではなく放射性廃棄物であったと述懐し、さらにそれらが市場に流通していたと語るエピソードに自らを重ね合わせて慄然とせざるをえない。チェルノブイリにおいては国家がその威信を賭け、軍隊の力によって事故の収束作業、住民の避難や疎開、表土の除染にあたった。むろんそれは私権を制限することに躊躇ない強権的な国家において初めて可能であった対策であろうし、二つの原子力発電所の事故は性格が大きく異なる。しかし当時のロシアと現在の日本のいずれにおいて事故がより適切に処理されているのか、現時点で私は判断することができない。著者スペトラーナ・アレクシエービッチは「見落とされた歴史について」という章において、自らの言葉として次のように述べている。「最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、くちを閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい。チェルノブイリは、私たちをひとつの時代から別の時代へと移してしまったのです」いうまでもなくチェルノブイリをフクシマに置き換えることによって私たちが現在置かれた立場を再確認することができる。
書庫に下りて、タイトルにチェルノブイリの名が冠された関連書のいくつかをあらためて読み返す。歴史は繰り返す。現在、私たちが直面する事態はなんら意外なものではなく、既にこれらの中で報告、もしくは予想されている。これらの書はチェルノブイリ原発事故の直後に刊行されているが、先に述べたとおり、この後も日本ではJCO臨界事故によって放射線被曝の恐ろしさが広く知られ、さらに多くの原発トラブルによって電力会社の欺瞞的な体質も誰の目にも明らかとなったはずだ。私たちはそこから何も学ばなかったのだ。大量の放射線が人体から細胞の再生能力を奪うように、原発事故は共同体に回復不可能なダメージを与えるのではないか。たった一基の原子炉が壊滅的な事故を起こしたわずか三年後、その原子炉が所在していた国家は内部から瓦解した。果たしてフクシマの後も日本という国は存続しうるか。私は確言することができない。
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by gravity97 | 2015-10-09 21:03 | 思想・社会 | Comments(0)

b0138838_20175416.jpg このところ新聞もあまり読まないし、TVにいたってはほとんど見ない。震災後、日本の劣化がひどいが、その最たるものの一つはマスコミであろう。完全に翼賛化して政権の広報部かと見紛うばかりだ。国会における首相のあまりに品性に欠けたというか、人として見るに堪えない言動に対してはさすがに一部の報道が批判を浴びせているが、編集委員が首相に招かれてのこのこ会食に出掛けるような新聞社に体制を批判する資格があろうはずはない。従軍慰安婦問題への「誤報」が政権と右翼勢力からの激しい攻撃にあったという事情はあるにせよ、朝日新聞の編集委員もこのような「会食」に参加したと聞いて、私は深く失望した。最初に述べたとおり、私はこのところ新聞をしっかり読んでいないのだが、二つだけ必ず目を通す連載があり、いずれも朝日新聞に掲載されているからだ。一つは不定期で連載されている長谷部恭男と杉田敦の対談、そしてもう一つは高橋源一郎が毎月一回寄稿する「論壇時評」である。このほど四年分の連載、48本の記事が『ぼくらの民主主義なんだぜ』としてまとめられ、刊行された。
 朝日新聞の論壇時評はこれまでも必ずしも政治学や社会学の専門家でない書き手を得て、時に興味深く読んだが、高橋の時評の鋭さとリーダビリティは圧倒的だ。天の配剤と呼ぶべきであろうか、これほどまでのひどい時代に対して、よくぞ高橋という異才を対峙させたと思う。この時評の一回目はあの震災のほぼ一月後、2011年4月28日に掲載されているのだ。私は最初に掲載された内容をよく覚えている。それというのもそこに描かれている情景を私もほぼ正確に体験したからだ。震災から10日は経ってはいなかったが、福島の原子力発電所が破滅的な事故を起こしたことは明らかになっていた時期、私はやはり震災そして原子力災害と関係した協議の帰路、名古屋から新大阪まで新幹線を利用した。乗るとすぐさま私は車内の異様さに気づいた。ほとんどの乗客が幼い子供を連れた母親だったのだ。隣に座った女性と短い会話を交わす中で、私は彼女たちが震災と原子力災害から避難する途上にあることを知った。私は今でも車中のなんともいえない異様さと張りつめた緊迫感をまざまざと思い出すことができる。そして今、私たちはさらに異常な状況にある。震災と原子力災害でかくも傷ついた私たちが、それから五年も経たないうちに、憲法が認めておらず歴代の政権もことごとく否定した集団的自衛権を可能とする法律を整備した国に住むこととなり、「東京オリンピック」の狂騒によって被災地の復興は明らかに阻害され、きわめつけと言うべきは数年間原子力発電がなくとも私たちの生活になんら不自由はなかったにもかかわらず(新幹線の車内で若い母親が怯えていた「計画停電」とは一体何だったのか)早ければこの夏にも原子力発電所が「規制委員会」のお墨付きを得て再稼働しようとしている。一言で言って狂気の国であり、破滅へひた走る現在の私たちは第二次大戦直前の日本の姿を彷彿とさせる。この問題についてはもう一冊の批評と関連させて、後で立ち戻ることにするが、高橋は今触れた連載の初回で次のように明察している。「もしかしたら、わたしたちが向かおうとしているのは(第二の)『戦後』ではなく、(第二の?)『戦中』ではないのか。だとするなら、わたしたちが目の前にしている『戦争』とは、何だろうか」不幸にも今まさにこの言葉は的中しつつあるように感じられる。48回にわたる時評で論じられるのはヘイト・スピーチであり、ブラック企業であり、特定秘密保護法であり、従軍慰安婦問題である。いずれも平時であれば良識によって抑制され、批判され、理性的に論じられた問題であったはずだ。震災と原子力災害以後、戦時にある私たちの社会を、あたかもたががはずれたかのように、差別と憎悪、隠蔽と欺瞞が猛烈な勢いで蝕みつつあることを高橋の時評は抉り出す。
 高橋の巧みさは、引用するテクストの豊かさに由来するだろう。かつて同じ高橋は同じ新聞に連載した文芸時評において、広告から新聞社説といったおおよそ非文学的なテクストの中に「文学」の本質を開示するスリリングな読解を行ったが、同様の問題意識はここでも健在だ。高橋はいわゆる論壇誌のみならず、実に多岐にわたるテクストを渉猟する。ツイッター、フェイスブックといったSNSはいうまでもなく、映画や展覧会、田村泰次郎の小説から自民党の「日本国憲法改正草案」までを引用しつつ刺激的な議論が展開される。(引用された「文献」は連載時同様、注釈から確認することが可能だ)新聞に掲載される文章であるから、ある程度のわかりやすさが求められたことは予想できるが、高橋は明らかに誰にも届く言葉で自らの思考を紡ぐことを意図している。ハーバーマスやピケティが引用されることはあっても、それは難解な思考によって状況を俯瞰するためではなく、あくまでも私たちが自分の目線を介して状況を理解するうえで有用な一つの補助線として引かれている。私たちは現在の首相のふるまいから、彼が言葉に一切の信を置いていないことを理解している。食言や虚言のみならず、この数カ月、彼が国会で発した言葉からは、あたかもオーウェルが『1984年』で描いたニュースピークあるいはダブルスピークといった倒錯的な話法が寓話ではなく現実に用いられている状況を示すかのようだ。戦争を平和と呼び、拘束を自由と呼ぶディストピアは現実としてかくもたやすく実現されつつあるのだ。それがナオミ・クラインのいう、災厄を奇貨とした「ショック・ドクトリン」であったのかどうか直ちに判断はできないが、おそらく2010年の終りにこの時評への執筆を打診された高橋もわずか5年のうちに、時代がかくも暗転するとは想像できなかっただろう。原子力発電所の事故処理、ヘイト・スピーチ、橋下「改革」、首相官邸デモ、従軍慰安婦問題、ブラック企業、朝日新聞の誤報問題、ISの人質事件、多く暗澹たる話題が続く。しかし私たちが本書を読み進めることが苦痛でないのは、高橋がさまざまな表現をとおして、未来を切り開こうとする人々の小さな声を聞き取るからである。高橋自身があとがきに次のように記している。「この国は、(おそらく)かつて一度も体験したことのない未知の混乱に入りこんでいったように見えた。だから、ぼくは、一回一回の『時評』を、ほんとうに手探りするように書いていくしかなかった。大きな声、大きな音が、この社会に響いていた。だからこそ、可能な限り耳を澄まし、小さな声や音を聞きとろうと努めた。もう若々しくはなくなったのかもしれないけれど、できるだけ、自分の感受性を開き、微細な電波をキャッチしようと思った」高橋の感性はまだ十分に若々しい。そして自らの感性を総動員して小さな声を聞き届けることができなければ、高橋自身にとってこの批評を書くことは辛い作業だったはずだ。逆に高橋は大きな声、大きな音に対して懐疑的だ。「甘えているわけじゃない」と題された章において、高橋は自分の経験に即して、曾野綾子の「私の違和感 セクハラ・マタハラ・パワハラ 何でも会社のせいにする甘ったれた女子社員たちへ」(それにしても書き写すだけでも暗然とするタイトルだ)というエッセーを痛烈に批判する。高橋は自らが保育園に子供を連れて通った体験から説き起こし、保育園に子供を迎えに行く母親たちが(会社と子供の両方に対して)強い自責の念に駆られていることを指摘し、「産休」のような「女性をめぐる制度」を利用する女性は「自分本位で、自分の行動がどれほど他者に迷惑をかけているのかに気がつかない人」だという批判がいかに不当であるかを説く。この回の時評では高橋が珍しく正面から他者の言葉を名指しで批判しており、私も大いに共感したが、それというのもこのように弱者に対して一面的な「正義」を振りかざす「大きな声」が蔓延しているのが震災後、原子力災害後の私たちが置かれている状況であるからだ。在日朝鮮人、生活保護受給者、就職活動する若者、従軍慰安婦、これらの人々がいかに心ない言葉で傷つき、追い詰められているかについてはここで縷言する必要もないだろう。そして今日、最も大きな声で人々を恫喝しているのが国会という公の場で品性の下劣さを丸出しにしたぶざまな応答を繰り返す総理大臣や閣僚たちであることに私たちは絶望的な思いを感じる。「ぼく」あるいは「ぼくたち」という一人称が採用され、決して声を荒げる印象のない本書の中で二つの章のみ、「おれ」という一人称が採用されている。それは自民党が発表した「日本国憲法改正草案」について論じた「自民党改憲案は最高の『アート』だった」と言う章と朝日新聞バッシングについて論じた「〈個人的な意見〉『愛国』の『作法』について」という二つの章だ。怒りによって反駁することはかえって相手の術中にはまってしまう。高橋の冷静な筆運びには明らかにこのような認識がうかがえるのであるが、さすがにこの二つの章においては高橋も冷静に論じることができなかったと考えるべきであろうか。
b0138838_20183419.jpg さて、本書を読みつつ、あらためて震災後の年月を振り返るならば、先にも述べたとおり、いくらなんでもこちらには進まないだろうという方向にこの国が進んできたことが理解される。原発再稼働という方針(この経緯についてはこのブログでも触れた大鹿靖明の「メルトダウン」、それも単行本ではなくバックラッシュについても触れた文庫版を読むことをお勧めする)、特定秘密保護法案の成立、東京オリンピックの開催決定、憲法「改正」への策動、職業学校化される大学、そして今回の安全保障関連法案。常識的に考えてなぜこのような状況が発生するのか、私は全く理解ができなかった。しかし最近、このような疑問にきわめて説得的に答える対談を読んだ。示唆に富む内容であるから、本来ならばこの対談に関しても一篇のブログを割くべきであろうが、今まで述べた問題と関連して合わせてごく簡単に触れることとする。内田樹と白井聡の「日本戦後史論」である。白井についてはかつて「永続敗戦論」を論じた。この対談も基本的に「永続敗戦論」の延長上にあり、前半の議論はその確認といってよいが、後半になって二人は永続敗戦のレジームが今日の日本においてはさらに別の機制に転じているのではないかと論じる。それは一種の破滅願望である。内田は意見が拮抗して議論が生産される状況よりも一気にどちらかの極に触れることを日本人は好むと指摘し、白井は次のように述べる。「原発事故のことに関しても、なるべくそれを忘れようとする国民の傾向が非常に強い。だから一方でカタストロフィックなことが起きることを待望するような無意識がありつつ、実際そういうことが起きると、起きたら起きたで、『何も起きていない。あんなのは大したことないんだ』というこれまた現実の否認がある。なんだか奇妙なバランスというか、アンビバレントな状況にあると思います」確かに今、日本には無意識の破局願望が渦巻いているように感じられる。それは自分たちが破滅に向かって進んでいることを漠然と気づきながらも、なおも政府を、天皇を護持した結果、滅んでしまったかつてのこの国の相似形ではないだろうか。確かに愚かな政治家たちや内田のいう「忖度する小物」たちの恣にされているこの国を一回リセットしたい思いは私にもある。しかしそれは次の震災や原子力災害、あるいは戦争を期待することによってではなく、異なる意見を聞き入れ、対話を重ねるという、地道な努力を続けて達成されなければならない。弱者への憎悪と嫉妬が「大きな声」で語られる今日、それは気が遠くなるほどの時間がかかる作業かもしれない。しかし私たちは遅さをむしろ尊ぶべきなのだ。高橋、そして内田と白井もこのような救いに「民主主義」という名を与えていることは偶然の一致ではないだろう。
 「日本戦後史論」の中で白井は不気味な暗合を指摘している。東京オリンピック、1964年のそれではなく、1940年の戦争によって開催できなかった幻のオリンピックから2020年の東京オリンピックまで80年、その折り返し点の1980年に何があったか。ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻に抗議してアメリカや日本がボイコットして実質上実現されなかったモスクワ・オリンピックである。40年の東京と80年のモスクワ、両者の暗合が示すのは、もし何らかの理由で予定されていたオリンピックが開催できなかった場合、それから10年以内にその国家は滅んだという事実の反復だ。震災や大噴火、何よりも原子力発電所の事故処理の失敗、2020年の東京オリンピックが幻に終わる理由を私は直ちにいくつも思い浮かべることができる。果たしてこの国が滅ぶ前に私たちは「民主主義」を回復することができるだろうか。
by gravity97 | 2015-06-06 20:20 | 思想・社会 | Comments(0)

 現在のガザをめぐる情勢に鑑み、2010年8月に掲出したレヴューを再掲する。

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 テーバイの王権をめぐる争いの後、敗れたポリュネイケスの遺体は弔いを禁じられ、反逆者として野晒しにされる。遺体が放置されることに耐えられぬポリュネイケスの妹、アンティゴネは自らの死を覚悟して兄の亡骸を埋葬しようとする。よく知られたギリシャ悲劇、ソフォクレスの『アンティゴネ』のエピソードである。この物語が暗示するとおり、人間の死体を遺棄することは人倫への重大な侵害であり、人間の尊厳と関わっている。しかしこのような人間性への侵犯は絶えることがない。つい先日も大阪で私たちはなんとも胸のつまるような事例を知ったばかりである。
 1982年、ベイルート。長く続いた内戦はアメリカの調停でようやく終結し、パレスチナ解放戦線(PLO)の戦闘員たちは、シリアやヨルダンへの果てることなき転進に旅立っていった。監視にあたっていたアメリカ軍、多国籍軍も撤退する。停戦の合意内容の中にいわば丸腰で残されたパレスチナ民間人の保護という条項が含まれていたことはいうまでもない。しかし9月14日、一月ほど前に選出されたレバノンの新大統領、キリスト教マロン派指導者バシール・ジュマイエルが爆殺されるとイスラエル軍は協定を破り、西ベイルートに進駐し、パレスチナ・キャンプを包囲する。なるほどイスラエル軍が直接に手を下した訳ではない。しかし彼らの傍らでテロリスト掃討の名目でキャンプ内に侵入したキリスト教右派の民兵は三日三晩にわたって殺戮を繰り広げ、イスラエル軍が打ち上げる照明弾の煌々とした明かりは夜間もキャンプを照らし出していた。これらの事実は虐殺がイスラエルの暗黙の承認のもとで遂行されたことを暗示している。数千人の民間人が虐殺されたと推定されるキャンプの名前はサブラ・シャティーラ。
 虐殺の現場にいちはやく入った人々の中には日本人ジャーナリスト広河隆一氏がいた。さらに一人のヨーロッパ人によってこの事件は直ちに文学的に総括されることとなった。出生後、母親によって養護施設に遺棄され、窃盗を繰り返し、獄中で執筆した小説や詩がコクトーやサルトルに認められて恩赦を与えられた特異なフランス人作家、ジャン・ジュネの手による『シャティーラの四時間』、すなわち本書である。
 『パレスチナ研究誌』に招待されていたジュネはこの虐殺の直前、正確には9月12日、パレスチナ人女性活動家ライラ・シャヒードとともにダマスカスを経てベイルートに入る。その翌々日、ジュマイエルが暗殺される。虐殺は16日に始まり、18日まで続く。ジュネはキャンプに入ろうとするが、全ての入口がイスラエルの戦車によって封鎖されていた。虐殺が終了した翌日、19日にイスラエル軍は撤退し、キャンプはレバノン軍に引き渡される。本書はその日の昼前後、シャティーラでのジュネの4時間の見聞に基づいている。路上には無数の死体が放置され、「年寄りには親しみやすい」死臭が町を覆う。遺体に引き寄せられたおびただしい蝿の群れがジュネにもたかる。「蠅も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。一つの死体から他の死体に移るには死体を飛び越えてゆくほかはないが、このことも写真は語らない」炎天下、無数の死体が遺棄された場所を彷徨するという体験は私には想像がつかない。しかもジュネの見た限り、全員の死体にはここに記すことをためらわれるほどの残忍な拷問が加えられた形跡があり、目撃者の証言によれば兵士たちは「面白半分に」犠牲者たちに蛮行を加えたという。ジュネは次のように述べる。「多分私は一人きりだった。つまりただ一人のヨーロッパ人だった。それにしてもこの5、6人の人間(同行したフェダイーンやパレスチナの老女たち)がもしそこにいなかったら、しかもこの打ちのめされた町を、水平の、黒くふくれたパレスチナ人を発見してしまったとしたら、私は気が狂っていただろう。それとももう狂っていたのだろうか。この目で見た、あるいはすっかりそう思い込んだ粉々になって地に倒れ伏したあの町、強力な死の臭気が走りぬけ、持ち上げ、運んでいたあの町、あれは皆現実の出来事だったろうか」
 このような極限の中でジュネは思考する。「愛(アムール)と死(モール)。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラに行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。愛する体も死んだ体ももはや何も隠そうとしない。さまざまな体位、身のよじれ、仕草、合図、沈黙までがいずれの世界のものでもある」ジュネにとってシャティーラの体験は愛と死を重ね合わせることの発見であった。さらにいえばジュネの場合、愛とは明らかに同性愛の含意をもつ。ジュネのパレスチナへの支持が多分にフェダイーン(戦士たち)への同性愛的な共感に基づいていることもこの短いテクストを一読すると直ちに了解できる。訳者の鵜飼哲は本書に収録された興味深い論考の中で、ジュネがジャコメッティについて論じた文章を手がかりに、ジュネにとって芸術作品が死者に手向けられたものではないかと論じ、ジュネにおける死体と芸術作品の接近を語る。凄惨な虐殺について論じたこのテクストが単なる告発や糾弾の文書に終わることなく、読むに足る一つの作品へと昇華しているのはこのような発見や洞察による。このルポルタージュの特質は、蛮行がまさに行われた直後の現場で、安易な糾弾や問責の言葉を書きつけるのではなく、自らの体験を死をめぐる一つの思索へと深めている点に求められるだろう。私は例えばヒロシマの、あるいは光州の惨劇を一個の芸術に昇華させたいくつかの作例を思い浮かべることができる。それらは多く韻文でなされている。これほど残酷な現実に直面し、ルポルタージュというかたちをとりつつ、個人の死、いや、はっきりと言おう、放置された無数の無残な死体、無数の蠅と死臭を死そのものへの思考へと深め、遍在する死から唯一の死を観想するジュネの態度に私は強い感銘を受けた。
 「シャティーラの四時間」は1983年1月1日に発行された『パレスチナ研究誌』6号に発表された。本書にはこのほかにジュネ(とライラ・シャヒード)がオーストリア・ラジオの記者のインタビューに答えるかたちで「シャティーラの四時間」が執筆された経緯について語った「ジャン・ジュネとの対話」、さらに書下ろしではないがここで扱われた問題と深く関わる鵜飼哲の「〈ユートピア〉としてのパレスチナ―ジャン・ジュネとアラブ世界の革命」と題された論文、さらに最後にいわば本書全体の総括として置かれた「生きているテクスト―表現・論争・出来事」という鵜飼の論文が収められている。「シャティーラの四時間」と「ジャン・ジュネとの対話」は既に翻訳が存在したが、いずれも今日では入手することが困難な雑誌に発表されており、本書の刊行は喜ばしい。ここに収められた4篇のテクストは相互に乱反射するかのようにジュネの思考の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。そしてイスラエルが虐殺への加担を否認している以上、このテクストは政治的な意味を負わざるをえない。鵜飼が巻末のテクストで詳しく報告しているように、とりわけ「9・11」以後フランスでも高まる反イスラム感情を背景に、何人かの論者がジュネを反ユダヤ主義者として批判している。先ほど述べたとおり、ジュネは同性愛者で犯罪者であったため、このキャンペーンはユダヤ人問題、ジェンダー、さらにはフーコー的な犯罪/処罰の問題を包摂した多様な議論へと道を開くこととなった。鵜飼はパリの社会科学高等研究院のジャック・デリダのゼミで鵜飼自身が本書について発表を行った際、ジュネを反シオニズムとして批判する論者の一人が来場し、デリダに対して質問を投げかけた緊迫したやり取りを書き留めている。ジュネはこの後、やはりパレスチナへの深いシンパシーを表明した遺作『恋する虜』を著し、刊行される直前、1986年に没した。そしてインティファーダ以後のパレスチナ解放運動が深い混迷の中にあり、シャティーラの虐殺が時と場所を変えつつも現在にいたるまで繰り返されていることは知られているとおりである。
 なお『シャティーラの四時間』は1992年、虐殺から10年後にアラン・ミリアンティによって同名の舞台として上演された。ジュネが多くの戯曲を執筆したことを考えるならば驚くには値しないが、この上演は大きな反響を呼び、同年に『シャティーラのジュネ』という論集が刊行される契機となった。舞台『シャティーラの四時間』および関連するジュネの戯曲の上演は日本でも複数の演出家や劇団によって試みられており、『舞台芸術』誌11号でこれに関連したジュネの小特集が組まれている。
by gravity97 | 2014-07-13 11:12 | 思想・社会 | Comments(0)

白井聡『永続敗戦論』

b0138838_1041373.jpg 遅ればせながら話題となっている『永続敗戦論』を読む。世評に違わずきわめて刺激的な論考である。それは本書の中で全く新しい思考が開陳されるからでも、思考のパラダイム・チェンジがなされるからでもない。実際に白井が論じる問題の多くは既に多くの論者によって提起されているといってもよかろう。しかしそれにも関わらず本書が感動的な理由はこの年若い学者の文章に現実を前に立ちすくむことなくその因由を正面から問う気迫がうかがえるからだ。白井自身もあとがきに次のように記している。「いま必要なことは議論の目新しさではない、『真っ当な声』を一人でも多くの人が上げなければならない、という思いに駆られて私は本書の執筆に取り組んだ」私の経験に照らしても、おそらく現在ほど私たちが「真っ当な声」を上げることの無力感に苛まれる時代はかつてない。
 三章から成る本書の劈頭で「私らは侮辱のなかに生きている」という中野重治/大江健三郎の言葉が引かれることは当然であろう。2012年7月、脱原発集会で大江によって発せられたこの言葉は私たちの怒りを代弁している。私も今に至る自民党政権に対して怒りを覚えたことは数限りなくある。しかし少なくとも自分が侮辱されているという思いを抱いたことはなかった。震災を奇貨として「ショック・ドクトリン」を繰り広げる安倍政権の異様さはまさに異次元的といってよい。例えば冒頭で例示される原子力政策だ。国民の大多数が福島の惨劇の前に原子力というエネルギーへ拒絶反応を示しているにもかかわらず、再稼働はいうまでもなく外国へ原子力プラントを売り込もうという厚顔無恥な発想、これはもはや政治家としての人格の問題であるように感じられるが、御用マスコミと官僚、御用学者の三位一体のもとにかかる不正義が大手をふるい、民意が反映されることはない。私たちはいつからかかる絶望的な状況の中に閉じ込められてしまったのか。白井も震災以後の状況の異様さを認識している。最初に白井はかかる状況を「『戦後』の終わり」と規定し、その特性を次のように粗描する。長くなるがそのまま引用する。

 今日の日本社会が「本音モード」に入ってきたとは、こうした「否認の構造」が急速に崩壊しつつあることを指している。社会は「本当は知っていたけれども建前上口に出すのを憚ってきた本当のこと」を次々と語り出している。それはある意味で当然のことではある。原発事故を契機としてこの国の社会・権力の地金がはっきりと露呈してしまった以上、いまや曖昧なかたちで隠されたままにとどめられるべき事柄など存在しない。それは、卑劣漢であることがバレた卑劣漢が卑劣な振る舞いを躊躇う理由はないのと同じことだ。

 もちろん本書においてこのような認識は次に述べる「永続敗戦」という問題と関連して論じられる。しかし私はこのような状況は震災以前より新自由主義の台頭と軌を一にしていたように思われる。利潤と効率を唯一の価値と奉じて、格差や不公平を肯定する感情はリーマン・ショック以後、この国を蝕み、教育や医療、文化といった領域にも広がりつつある。社会自体がディーセンシーを失いつつある状況を震災、とりわけ原子力災害をめぐる当事者たちの見苦しいふるまいが加速させたように感じるのは私だけだろうか。
 本書に戻ろう。白井のいう「本音モード」とは現在の日本において、「戦後」という歴史感覚の欺瞞性がもはや隠蔽できないまでに揺らいでいることを暗示しているだろう。私たちは長い間、第二次世界大戦の「戦後」を生きてきた。しかしかかる「戦後」の本質とは何であったのか。白井によればそれは「終戦」という言葉を用いることによって、「敗戦」を否認することであり、「敗戦後」は存在しないとみなすメンタリティーである。再び白井の言葉を引く。「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論この二側面は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は『永続敗戦』と呼ぶ」この議論が加藤典洋によって1995年に発表された「敗戦後論」と関連して論じられたことは私には興味深く読んだ。b0138838_106960.jpg私も「敗戦後論」をほぼリアルタイムで読んだ記憶があるが、なんとも晦渋というより不透明な印象を受けたことを覚えているし、実際に加藤の論文は当時批判的に受容された。しかし白井によれば加藤の議論の本質は、戦争放棄という平和憲法の理想主義が冷戦体制の存続と天皇制の護持という暴力ないし不正義を前提としているという歪みを指摘した点にある。多くの日本人が敗戦をなかったものとして「永続敗戦」を生きたのに対して、徹底的に敗戦に拘泥した作家として加藤/白井は大岡昇平を評価する。戦時中捕虜となったことを理由に芸術院会員への推挽を拒否した大岡の真意は昭和天皇に対して「恥を知れ」というメッセージを送ることであったという。私は本書を読んであらためて加藤の所論を明瞭に理解することができた。
 続く第二章において白井は今日、最もクリティカルな二つの政治問題と関連させて「永続敗戦」の力学を説明する。一つは領土問題である。白井は尖閣諸島、北方領土、竹島問題という中国、ロシア、韓国との領土をめぐる係争を個別に分析しながら、日本の立場がきわめて場当たり的である点を指摘する。ただしここではどちらの国の主張が正しいかを検証することが目的とされているのではない。白井の論証は逐条的な入り組んだものであり、詳細については直接読んでいただくしかないが(ただしこれらの領土問題が沖縄問題と実は密接な関係にあること点にはあらためて注意を喚起しておきたい)、アメリカに対しては敗戦によって成立した従属構造を際限なく認めて永続化させる一方で、これらの国々に対する居丈高な態度はアジアに対して「敗北の否認」を持続させるという心性を反映している。そしてこのようなメンタリティーを象徴するのが、アメリカの右派シンクタンク、ヘリテージ財団という場で尖閣諸島購入を得意げに記者発表する「卑小なナショナリスト」、石原慎太郎のごとき存在である。そしてもう一つは北朝鮮問題だ。2002年、小泉首相は電撃訪朝し、以後、拉致問題を理由として強圧的にこの国と対峙してきた。しかし実はこれ以前、日本政府のプライオリティはむしろ国交正常化や核兵器問題にあった。かかる転換の理由、日本において拉致問題がことさらに重視された理由として(それが非人間的な蛮行であることは間違いない。しかし拉致被害者は日本だけでないのだ)、白井はこの問題がアジアに対する日本の立場を加害者から被害者へと転換させ、それゆえ永続敗戦の根幹をなす敗戦の否定という心情と親和したと指摘する。アメリカには従属しながら、アジアに対しては敗戦を否定するロジック、これこそが「永続敗戦」であり、この意味で「拉致問題に関して小泉首相から下駄を預けられた」現在の首相が、「憲法九条がなければ、拉致被害者を守ることができたかもしれない」といった妄言を繰り返す一方で、中国や韓国にも挑発的な言動をとり続けることは一貫した態度といえる。(ただし安倍政権がアメリカに従属どころか、今や見捨てられつつあることは最近の情勢が物語るとおりだ)
 本書の第三章は「戦後の『国体』としての永続敗戦」という表題をもつ。国体という言葉から直ちに連想されるのは天皇制である。先に大岡昇平に関連して触れたとおり、天皇制もまた本書の主題と深く関わっている。これもまた相当に入り組んだ議論であり、本書を直接参照していただくことが望ましいが、私の問題意識に引き寄せていくつかの点を指摘しておきたい。ひとまずこの問題について白井は次のように約言している。「戦前のレジームの根幹が天皇制であったとすれば、戦後レジームの根幹は永続敗戦である。永続敗戦とは『戦後の国体』であると言ってもよい」ついで白井は天皇機関説、あるいは久野収と鶴見俊輔の所論を手がかりに天皇制=国体の二重性について論じる。このような二重性は「永続敗戦」にも内在している。すなわち大衆レヴェルでは敗戦を否認し、その根拠として戦後日本の「平和と繁栄」を顕揚する。(ただしこの平和と繁栄も単に地政学的な偶然の結果であることも白井は指摘している)一方、指導層においては無制限かつ恒久的な対米従属を続けることである。白井は自民党の有力政治家たちの言動を負いながらきわめて逆説的なかたちでこのような心性を検証する。すなわち何人もの政治家によって言葉を変えて繰り返される「戦後」の総決算というスローガンは、逆にそれが永遠に実現しないこと、対米従属を永続させたいとする志向を暗示しているというのだ。本人たちに自覚があったか否かはともかく、反米を唱えつつアメリカに追従すること、それがきわめて高度な政治的テクニックであることに疑いの余地はない。しかし安倍政権にいたっては「屈従していることを自覚できないほど、敗戦を内面化」したため、かつては大衆レヴェルにおいて機能していた敗戦否認という心理の刷り込みが、政権内部において「抑えのきかない夜郎自大のナショナリズムとして現象し」、今やアメリカも日本を見放しつつある。このような状況を白井が「戦後の終わり」とみなし、第一章で詳しく論じたことは既に述べたとおりだ。さて、ここで白井は片山杜秀を引用しながら、国体の本質について次のような重要な指摘を行う。「里見(岸雄)は水戸学や『国体の本義』が声高らかには決して謳わず、吉田茂も決して触れようとしなかった国体の核心とでも言うべきものを赤裸々に抽出してみせた。端的に言えば犠牲を強いるシステムとしての国体である」犠牲を強いるシステムという言葉から私が直ちに連想したのは、このブログでも応接した高橋哲哉の『犠牲のシステム 福島・沖縄』である。今回確認したところ本書のはるか以前に刊行された高橋の論考に片山杜秀や里見岸雄への参照はみられないから、「犠牲のシステム」という言葉は偶然の一致であろうが、この暗合は大いに示唆的だ。国体たる天皇制が戦前はおろか戦後も犠牲を強いるシステムであったことについて、白井は豊下楢彦の実証的な研究を援用する。それによればサンフランシスコ講和条約と同時に調印された不平等条約、日米安全保障条約において米軍の駐留を要請したのはアメリカではなく日本であり、驚くべきことに昭和天皇自身が共産主義勢力の侵入と国内での蜂起によって自らの立場が危うくなることを恐れて、時に吉田茂やマッカーサーをも飛び越えてアメリカの当局にかけあったという。この過程で沖縄は捨石とされ、結果として米軍基地によって要塞化されたことについては今挙げた高橋哲哉の論文でも明確に指摘されていた。高橋は「犠牲のシステム」を次のように定義していた。「犠牲のシステムでは或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常隠されているか、共同体(国会、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化、正当化されている」今日、「犠牲にされるもの」として福島と沖縄を名指しする時、高橋の主張はわかりやすい。そしてこの一節を白井の論考に重ね合わせるならば、戦後の日本社会は「永続敗戦」という国体を護持するために、犠牲のシステムという機制を内面化していることが理解されよう。今日、多くの政治家たちの言葉の端々に国民に犠牲を強いることを恬として恥じない心性が感じられることは何の不思議もない。
 しかし今や私たちは新しい段階、「戦後」の終わりに際会している。歴代の自民党政権の「永続敗戦」の下でひとまず多くの国民は「平和と繁栄」を享受することができた。それが例えば沖縄の住民に「犠牲のシステム」を強いることによって成立したことは明らかであり、震災に伴う原子力災害が明らかにしたとおり、今や原子力発電所の所在地の住民は明日にでも新たな「犠牲のシステム」の中に組み込まれるかもしれない。それを認めたうえでもなおこれまでの政権が反米と対米従属、敗戦の否認という「永続敗戦」を続けたことによって、私たちは一種のパクス・アメリカーナの恩恵に浴し、かつては一億総中流化と呼ばれた時代さえあったのだ。しかし今やアメリカの権威は地に墜ち、国内では格差が助長される一方で排外主義と差別主義が大手を振っている。「永続敗戦」という私たちの戦後史に誇るべきものなど何もない。しかし今や「永続敗戦」どころか「卑劣漢であることがバレて、卑劣な振る舞いを躊躇うことのない卑劣漢たち」が政権の中枢を占め、私たちを支配しているのだ。本書の読後感はまことに暗澹たるものである。しかし私はあえてこのレヴューを草した。なぜか。本書のあとがきにも引用されたガンジーの言葉を記してその答えとする。

 「あなたがすることはほとんど無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためのである」
by gravity97 | 2014-06-01 10:13 | 思想・社会 | Comments(0)

b0138838_20245872.jpg このところドゥルーズに関する画期的な論考が次々に刊行されている。先般、河出書房新社から刊行された千葉雅也の『動きすぎてはいけない』も話題となっているが、しばらく前に岩波書店から岩波現代全書の劈頭を飾って刊行された本書はドゥルーズを学ぼうという者にとっては格好の入門となるだろう。これまでにも私は同じような役割をもついくつかの研究を読んだ覚えがある。ソシュールに対する丸山圭三郎、アルチュセールに対する今村仁司、デリダに対する東浩紀のごとき役割、つまり難解に思われていた思想家の思想に明確な見取り図を与える仕事は、私のごとき現代思想の門外漢にとっては大変ありがたく感じられる。本書を読んだからといって、ドゥルーズの思想が十分に理解できたとは到底思えないが、彼の著作がどのような布置を取るかおおよそ理解することはできたように思う。覚えの意味を含めて本書を読んだ所感を書き留めておく。
 私の世代、80年代に大学と大学院で文学や美術史を学んだ世代にとって、ドゥルーズやドゥルーズ=ガタリの名は現代思想と同義語であった。彼らに加えてデリダ、フーコー、アルチュセールといったフランスの思想家について私たちはひとまず翻訳書を求め、歯が立たないことを知るや日本語による解説を探した。浅田彰の『構造と力』が出版された1985年はこのようなフランス現代思想への憧憬が最高潮に達した時期であったといえるかもしれない。しかしその中でもドゥルーズは接近することが困難な哲学者であった。直ちにいくつもの理由を挙げることができる。まずこの時期、ドゥルーズは一人の哲学者というよりもドゥルーズ=ガタリという複数の名によって『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』という大著を著した書き手として知られており、しかも当時翻訳が刊行された前者は異様に難解な書物であった。『意味の論理学』をはじめ、ドゥルーズの主著は多くが翻訳されていたが、私たちはドゥルーズ=ガタリを経由してドゥルーズを知った気がする。一方でドゥルーズの著述の広がりも私たちを混乱させた。ベルグソンやニーチェ、ヒュームといった人名をタイトルあるいはサブタイトルに関した一連の著作が哲学研究であることは容易に理解される。しかしなぜかくも多くの思想家について論じるのか。さらにドゥルーズは『プルーストとシーニュ』というプルースト研究、あるいはガタリと共著でカフカ研究も発表している。さらに私がドゥルーズに関心を抱き始めた同じ時期、1983年にドゥルーズは『イメージ/運動』という映画を主題とした新著を発表した。ベルグソンの例があるとはいえ、そしてこの論文は一種のベルグソン研究であるにせよ、私は哲学者が映画を哲学の主題にすることに奇異の念を抱いたのである。つまりドゥルーズの難解さは一つにはドゥルーズとドゥルーズ=ガタリという著者の二重性に起因し、もう一つは先行する思想家から同時代の映画にわたる考察の対象の多様性に起因する。これに対して本書は快刀乱麻を断つがごとくこれら二組の難解さを整理していく。
 まず國分は「はじめに」においてドゥルーズの政治性という問題に触れ、多くの研究者にとってもドゥルーズとドゥルーズ=ガタリの混同が躓きの石であったことを指摘する。そして本書で扱うのが「ガタリ化」された政治的ドゥルーズではなく、思想家ドゥルーズであることを明言する。むろんこれは問題を単純化することを意味しない、実際に第Ⅳ章の「構造から機械へ」においてはガタリとの接近、そして『アンチ・オイディプス』という共著がもたらされた理由が、ドゥルーズに即してていねいに論じられる。しかしここではあくまでもドゥルーズの思想の展開の契機としてガタリとの関係が論じられているのだ。決して驚くほどの発想の転換ではないが、この断言によってドゥルーズへの接近は格段にたやすくなる。優れた入門書には常にこのような「コロンブスの卵」的な発見がある。
 最初にも述べたとおり、國分ほどのよきチチェローネを擁したとしてもドゥルーズの思想は相当に手強い。続いて私は五章から成る本書を私なりに読み解くこととするが、時に表面的な、時に誤った理解であるかもしれない点をあらかじめお断りしておく。五つの章にはそれぞれ「方法」「原理」「実践」「展開」「政治」というサブタイトルが付されている。最後の「政治」のみ異質である点はすぐさま理解されようが、これらのサブタイトルを念頭に置く時、議論の展開は比較的理解しやすい。すなわち第Ⅰ章においてはドゥルーズの哲学研究の方法が語られる。この点はなぜ彼がカントからベルグソンにいたる多様な思想家を対象にするかという問題に対する解答だ。つまりドゥルーズが問題としているのはそれぞれの思想家固有の思想ではなく、彼らの思想をドゥルーズ自らが語る方法なのである。この方法を國分は「自由間接話法的ヴィジョン」という卓抜な比喩によって説明する。詳しくは直接本書を読んでいただくのがよいが、國分はドゥルーズが先行する思想家たちについて何を語るかではなく、どのように語るかという点に注目する。以前、ローラン・ビネの『HHhH』をレヴューした際に引用した同じ箇所を引く。國分はかかる手法によってドゥルーズが目指すところを次のように的確に要約する。

もし哲学研究が、対象となる哲学者の思想を書き写すこと、まとめ直すことであるならば、それはその哲学者が述べたことをもう一度述べているにすぎない。そして、先に述べたとおり、対象となる哲学者の思想とは別の思想をその哲学者の名を借りて語っているのであれば、それは哲学研究ではない。ならば哲学研究は何をするべきか? 哲学者に思考を強いた何らかの問い、その哲学者本人にすら明晰に意識されていないその問いを描き出すこと、時にはその哲学者本人が意識して概念化したわけではない「概念」すら用いて、時にはその対象を論じるには避けて通れないと思われているトピックを飛び越えることすら厭わず、その問いを描き出すこと―ドゥルーズは、それこそが哲学研究の使命であると考え、そしてそれを実践した。

 つまりドゥルーズは先行するさまざまの思想家に思考を強いた問いそのものを描くことこそが哲学者の使命と考える。個々の思想家を超えた一種の「問いの系譜」の中に自らを置き、そこを出発点として自らの思想を鍛えるのである。
 最初の章でドゥルーズの問題意識の所在を明らかにしたうえで、第Ⅱ章では文字通り「ドゥルーズの哲学原理」が語られる。國分はそれを「超越論的経験論」と結論づけるが、超越論や経験論についての深い知識がない私にとってはきわめて難解な議論である。國分によればドゥルーズはヒューム、カント、ライプニッツらを批判的に検証する作業を繰り返す中で独自の思想的立場を形成する。ここでは「無人島」というドゥルーズの比較的知られることの少ない著作が引用されて興味深い議論が展開される。無人島、他者のいない島について論じながら、國分/ドゥルーズは他者を次のように再定義する。「他者とは、それなしでは知覚が機能しえなくなる『知覚領域の構造』である。言い換えれば対象の対象性を保証する構造である。他者は知覚領域における対象ではない。なぜなら他者がいなければ、知覚領域そのものが、したがって対象の対象性が成立しないのだから。それだけではない。他者こそが対象の対象性を保証しているのだとすれば、他者を欠いたところでは、そもそも自我というものを想定することができない。自我はア・プリオリに存在する基体ではない。対象の対象性の場合と同様、意識が他者によって『私はこうであった』へと落ち込んでいき、過ぎ去りつつも継起する〈私〉が対象として措定されて初めて自我というものが成立する」かなり難解な文章であるが、ここから読み取れるのはドゥルーズが対象や自我がいかにして発生するかという点に目を向けていることだ。このような関心からドゥルーズがフロイトの精神分析へ向かったことは理解できようし、この章でも最後に両者の関係が論じられるが、この部分も私には難解に感じられた。
 続く第Ⅲ章は比較的読みやすい。それというのもこの章で扱われるのがドゥルーズの実践であるからだ。その対象は小説と映画であり、『プルーストとシーニュ』、そして『イメージ/運動』と『イメージ/時間』といった著作が論じられる。この章が比較的わかりやすいのは、それらの著作に私が部分的に馴染んでいたこと、そしていずれも具体的な対象を擁したテクストであるからだろう。例えば特異なプルースト論である前者において、ドゥルーズはそれがマドレーヌの挿話にみられる過去への回想の物語ではなく、未来に向けられた「シーニュ」の習得の物語であると指摘する。なぜこの指摘が重要か。それはこの問題が思考の発生に関わるからだ。さらにドゥルーズは二つの映画論において主体の問題へと目を向ける。私はこれまでにもドゥルーズの映画論について論じた文章をいくつも読んできたが、このような観点からの分析は初めてであり、二つの映画論の間に主体性に関する認識の区別をみるという発想は斬新であった。きわめて入り組んだ議論であり、単純な要約を許さないが、このような読解が可能となるのは、文学や映画を対象としたドゥルーズの論文を単なる作品研究ではなく、自らの哲学の実践とみなす本書の枠組に依るところが大きい。多くの先行する思想家を「自由間接話法的ヴィジョン」によって語り直し、自らの哲学の原理を構築し、それによって具体的な対象を分析したとするならば、これまでばらばらに感じられていたドゥルーズの主著がそれぞれどのような意図のもとに執筆されていたか、きわめて明瞭に配置されるではないか。
 國分はⅢ章の最後でかかる図式にまとめられたドゥルーズの哲学の限界に本人が気づいたという仮説を提唱する。この結果、導入されたのが複数で書くという手法であり、『アンチ・オイディプス』という決定的な著作である。この点を論じて本書のクライマックスと呼ぶべき第Ⅳ章には「構造から機械へ」というタイトルが付されており、難解ではあるが読み応えがある。タイトルが示すとおり、この章では60年代に隆盛した構造主義の乗り越えという問題が扱われている。しかしながらドゥルーズは最初から構造主義に批判的であった訳ではない。それどころか1972年にフランソワ・シャトレの編集によって刊行された『哲学史』に「構造主義はなぜそう呼ばれるか」という緻密な構造主義論を寄せているのである。(國分によれば論文自体は1968年に完成されていたという)この論文を綿密に読み込み、そこに構造主義を覆す契機を見出す國分の議論はきわめて刺激的に感じられた。しかしドゥルーズが構造主義に関して抱いた違和感の由来は実は以前の章においても明らかであったのではなかろうか。すなわちドゥルーズが繰り返し論じた発生という問題に対して、構造主義は的確な説明を下すことができない。そこには時間的な機縁が存在しない。國分の言葉を引くならば、「ドゥルーズは、自ら構造主義に対するありうべき疑問を提示した上で、それに反論する、という論述を始める。その疑問とは、発生の問い、あるいは時間の問いである。ドゥルーズは『構造的なものに発生的なものを対立させることも、構造に時間を対立させることもできない』と言う。なぜなら『時間に対する構造主義の立場は明らかである。時間は、そこでは一つの現動化の時間である。それに沿って、潜在的に共存する諸要素が様々なリズムで実現されるのである』」かかる問題意識からドゥルーズがラカンを導入する必然性は容易に理解されよう。そしてラカン派の精神分析学者であったガタリとの協同がなされることとなる。両者が三冊の共著を著したことは先に述べたとおりであるが、異様に難解なラカンの理論に即して『差異と反復』そして『アンチ・オイディプス』が論じられる部分もラカンについての知識のない私にはハードルが高い。しかし最後に國分はドゥルーズとガタリによる分裂分析の目的として実に興味深い問題を提起する。「二人は、分裂分析の目標は、欲望する主体がいかにして自らの『抑制』を欲望することになるのかを明らかにすることにある、とも述べていた。ドゥルーズ=ガタリは、原抑圧の仮説を取り除くことにより、欲望をファルスの欠如によって説明する構造主義的なパースペクティヴからの脱却を図った。そのとき、欲望は、より広い社会的領野において決定されるものとして構想されることになる。そして、そのように構想された欲望を眺めた時、何よりもまず最初に発見されるのが、人はなぜ自らを抑制するのか、言い換えれば、なぜ自分たちの隷属を求めるのか、という問題なのだ」ここにおいてドゥルーズ(=ガタリ)の思想は政治哲学と接近する。最後の章の副題が「政治」と冠されたゆえんである。この飛躍こそ私が本書において最も感銘を受けた点である。b0138838_20255677.jpg
 発生という主題がラカンを召喚したように、隷属という主題がフーコーにつながる点は誰しも理解できよう。実際にドゥルーズは『フーコー』なる一書を1986年に上梓している。私はかねてよりドゥルーズに関心を抱いていたので、「ドゥルーズの思想」について論じたテクストをずいぶん読んできたつもりである。しかし國分も指摘するとおり、ドゥルーズとフーコーの関係について論じたテクストをほとんど知らない。興味深い例外はドゥルーズのフーコー論とフーコーのドゥルーズ論を一冊の本にまとめた蓮實重彦による小冊子であるが、慧眼と呼ぶべきか、1975年の時点で発行されている。國分はフーコーの権力論を仔細に読み込みながらドゥルーズに接続する。具体的には『知の考古学』で論じられた言説的編成という概念に対して非言説的編成という概念を提起し、『監獄の誕生』において両者が例えば法と監獄として密接に関連しながら作動する点を指摘した上で、フーコーにおける権力という問題が、ドゥルーズにおいては欲望と読み替えられて深化されている点を論じる。「権力とは、欲望の一つの変状である」そしてこのような読解によって「アンチ・オイディプス」から「千のプラトー」がひとつの文脈の中に浮かび上がるのである。このような補助線を与えるならばドゥルーズとフーコーの関係はラカンと比べてはるかにわかりやすい。それはラカンが難解であるからというよりも、ドゥルーズ/フーコーの哲学が今日において私にとってきわめて具体的で切迫したものと考えられるからだ。國分は巻末近くで次のように述べる。「なぜ人は自由になろうとしないのか? どうすれば自由を求めることができるようになるのか? これこそが〈政治的ドゥルーズ〉が発する問いなのだ」政治的ドゥルーズを排して続けられた分析が最後にこのような問いに帰着することは感動的ですらある。ドストエフスキーを連想するまでもなかろう、人と自由、それは文学において繰り返された問いかけではないか。私はここにきわめて先鋭なドゥルーズの思想がはらむ普遍性そして現在におけるアクチュアリティーを見た思いがする。最初に私は本書がドゥルーズの様々の著作の布置を明解に示した研究であると論じた。同時に本書は60年代のフランスの現代思想の知的達成の中にドゥルーズの仕事を位置づける作業でもあり、いくつかの箇所で私は目からうろこが落ちる思いであった。今なお私には『アンチ・オイディプス』を通読する膂力はない。しかし今、私は本書の光の下でいくつかのドゥルーズの著作を再読したい強い思いに駆られている。
by gravity97 | 2013-11-18 20:36 | 思想・社会 | Comments(0)

b0138838_20573426.jpg 昨年の衆議院選挙における自民党の大勝、そして第二次安倍内閣の下で一連の政策が着々と実現される過程を私は深い挫折感、いや絶望感とともに見守ってきた。今まさに特定秘密保護法案が国会の審議を経て成立しようとしている。オリンピックの開催が決まったにもかかわらず原子力災害の収束の目処が全く立っていない状況を機密保護の名目で糊塗するために設けられた法案が民意とは無関係に私たちに押しつけられるのだ。一方、あれほどの災厄を自国民にもたらしたにもかかわらず、私たちの首相は原子力発電のブラントを海外に輸出するための外遊を繰り返している。これはもはや政治や経済ではなく、人としての倫理の問題ではないだろうか。
 しかし本書において小熊は次のように力強く断言する。「日本において『脱原発』はすでに実現した。原発稼働ゼロを2012年5月に実現し、その後も原発依存度がもっとも高い関西電力の二基の稼働だけで、とりあえず日常生活は支障なく動いていた。(中略)『脱原発』はすでに既成事実である。『原発の止まった社会』は非現実的な夢どころか、すでに実現している。あとは、『再び原発に依存するか否か』の選択があるにすぎない」体制側のすさまじいバックラッシュの中にあって小熊はなぜかくも楽観的であるのか。それは小熊が反原発デモに参加する人々に、これまでの日本ではほとんど存在しなかった多くの「自立し、行動する個人」を認めたからである。私は東日本大震災以来、このたびの原子力災害に関して無数の本を読み継いできた。そのいくつかについてはこのブログでもレヴューしたが、ほとんどの記録において官僚や政治家、学者たちがいかに愚かで無責任か、自己保身と利権保全に汲々としているかが暴かれるばかりであり、暗澹とした思いにとらえられた。しかし本書は唯一、この状況の中に光明を見る。小熊は官邸前抗議デモをはじめとする、多くの反原発アクションに焦点をあて、社会学的な分析を加える。そこからうかがえるのは全く新しい人々の連帯の在り方、市民社会の成熟である。私は本書を読み通して思わず胸が熱くなることを覚えた。
 まず本書の構成について説明しておこう。小熊の序文に続いて、「官邸前からの証言」という座談会が収録されている。小熊を司会進行として、2012年夏に注目された官邸前抗議デモ主催者5名が自らの思いを述べる。今、主催者と述べたが、この言葉は必ずしも正しくない。もちろんここに登場する人たちは抗議デモで重要な役割を果たしたが、このデモの特性は後で分析されるとおり、参加者の自発性にある。ひとまずはこの抗議運動の輪郭をつかむ意味で収録されているとみるべきだろう。初出は『文藝春秋』2013年4月号。続いて各地で反原発の運動に関わる人50人に「あなたはどういう人か」「震災をどう迎えたか」「震災後にどう活動したか」といったテーマで自由に寄稿してもらった文章が掲載されている。小熊によれば、依頼した対象は面識がある人々、何かの縁で知り合った人々であるという。官邸前抗議デモに参加した人もいるが、そればかりではなく広い意味で反原発のアクションを起こした人々が含まれ、居住地も福島から東京、ニューヨークと多岐にわたる。単独で行動する人、運動を組織する人、放射能に関する専門家から全くのアマチュアまで文章を寄せた人の立場は様々だ。章の扉に小熊は次のように記している。「ここでは脱原発デモ、放射線計測、行政交渉、署名活動、避難など、様々な運動にとりくんだ50人の証言を集めた。どんな人が、どう震災を迎え、どんな運動をしたかが、取替えのきかない固有の肉声から浮かび上がる」。続いて同じ小熊による菅元首相へのインタビューが収録されている。『現代思想』2013年3月号に掲載され、小熊が菅に「歴史の法廷に立つ身」としての証言を迫ったこのインタビューを私は既に読んでいた。菅元首相が脱原発に積極的であり、それゆえに首相の座を追われたことを私たちはいくつかのドキュメントを通じて知っている。つまり本書は権力の内部と外部から原子力発電を批判した当事者たちの肉声とそれに基づいた分析から成立している。続く小熊の長い論考、「盲点をさぐりあてた試行」はこれらの証言をいわば原資料として一連の反原発のアクションを検証し、本書の中核をなす。巻末には本書の共編者である社会学者の木下ちがやの「反原発デモはどのように展開したか」という比較的短い論考、そして最後に付録として「2011年以降の反原発デモ・リスト」を収める。
 私は官邸前デモに参加したことはなく、これまでこのアクションについてよく知らなかった。それは必ずしも私ばかりに責任がある訳ではないだろう。なぜなら私がこの運動に関して得た情報はほとんどがツイッターやフェイスブック、ユーチューブといったソーシャルメディアを経由しており、(私はあまりTVを見ないにせよ)マス・メディアはこの話題をほとんど報じないからだ。私は本書を通じて反原発アクション、特に官邸前抗議デモの全貌を知った。小熊によれば震災後、最初の抗議活動は震災の翌日3月12日に経済産業省前で行われた抗議活動であり、独立系メディアによって記録されている。実は震災以前より反原発デモは各地で行われており、一連のアクションは突然にもたらされたものではないが、震災と原子力災害を機に急激な高まりを示した。中でも4月10日に高円寺で開かれた「原発やめろデモ」は注目に値するという。なぜならこのデモはいくつもの点で後の官邸前抗議デモの原型となったからである。すなわちサウンドカーを先頭にしたサウンドデモを取り入れ、音楽やサブカルチャーと連帯するスタイルである。このデモは高円寺でリサイクル店を営んでいた自営業者などによって以前より結成されていた「素人の乱」というネットワークの呼びかけで組織され、1万5千人もの人が参加した。これほどの人数が集まったことについては、これ以後、インターネットの呼びかけをもとに若者たちが集まったというステレオタイプの説明が広まるが、小熊によればこの時に集まった人々は地元のつながりや友人関係で参加する場合が多かったという。これ以後、脱原発デモは急速に拡大する。都内各地で開かれたこれらのデモはいくつかのグループに分けられる。従来から反原発に取り組んでいた市民団体によるデモ、「素人の乱」を中心とした「原発やめろデモ」、環境保護をうたう国際イベント、「アースデイ」を主催していたグループが呼びかける「エネルギーシフトパレード」である。6月11日のデモではこれらのグループが混じり合って解散地点の新宿駅東口駅前広場を3万人で占拠したという。これほどの大規模なデモを組織する中で主催者たちは誘導や警察対応、事故対応について工夫を重ねる。主催者たちの中にはかねてよりイラク反戦、反貧困などの運動に携わった者が多く、ノウハウを蓄積していったのである。しかしこれらの運動の高まりが直ちに官邸前行動に結びついた訳ではない。逆に9月、「原発やめろデモ」は12人の逮捕者を出した。しかしこの逮捕は意味があった。彼らを逮捕した警察当局は逮捕者に、誰に誘われたか誰に指示されたかといった質問を繰り返す。旧套な左翼運動の摘発の手法である。しかし参加者が自発的であり、一緒に歩いていた者の名前も知らないといった返答を繰り返すにつれて、当局も自分たちが対峙しているのが従来の組織化された「反体制運動」とは全く異なった、生活感に密着した運動であることを知ったのだ。このあたりの事情をチェルフィッチュの「三月の5日間」と関連させて分析したい気もするが、別の機会に論じることにしよう。この頃、デモ申請に行った関係者は警察から「ツイッターってなんだ」と問われたという。この時期、大江健三郎や瀬戸内寂聴らが呼びかけた反原発集会が6万人を集めて開かれたこともあり、当局側もこの運動の高まりを認識せざるをえなかった。この時期、反原発運動は裾野をさらに広げ、翌年の官邸前抗議デモの素地を形成した。同じ時期に経済産業省前に抗議の座り込みを行うテントが建てられ、撤去されずに抗議活動が続けられたことも反原発という主張が既に世論の多数を占めたことを暗示している。そして12年3月29日に始まり、最初は300名程度の結集にすぎなかった首都圏反原発連合による官邸前抗議は驚異的な広がりをみせる。小熊によればその一つの理由は官邸前というトポスであった。高円寺や渋谷ではなく、明確に抗議の対象が所在する官邸前は声を上げることによって自分たちの存在を為政者に伝えることができる。実際に当時の野田首相と面談した首都圏反原発連合の代表たちはデモの声が物理的に官邸に届いていることを官邸内で知り感銘を受けたと述べている。12年5月5日には北海道電力泊原発が定期点検のために停止し、遂に稼働している原発はゼロとなる。日本において『脱原発』が現実に実現した瞬間である。しかしながら野田政権は6月16日に福井県の大飯原発3号機と4号機の再稼働を決定し、これを契機に数千人単位の参加者であった官邸前抗議デモは数万人単位にふくれあがった。6月29日には主催者側発表で20万人もの人々が官邸前を埋め尽くした。これほど大規模な抗議運動でありながら警備側とのトラブルはなく、午後8時に首都圏反原発連合の代表者が抗議活動終了を宣言すると人々は「ゴミ一つ残さずに」帰っていったという。私はこの情景をツイッターやフェイスブックを介して参加者のスマートフォンで撮影された映像として見た記憶がある。このような抗議活動は官邸前だけでなく日本中で行われていたことも記憶されるべきであろう。抗議デモへの動員という点ではこの時期を頂点とするが、抗議活動は現在にいたるまで続けられている。小熊自身も官邸前抗議は12年の冬までは続かないと考えていたが、実際には今年の春にいたっても数千人単位の人々が金曜日の夕方になると地下鉄の「国会議事堂前」あたりに集まり、思い思いに抗議を繰り返しているという。
 以上の通時的概観に続いて、小熊はこの運動の共時的分析を行う。官邸前抗議デモの特質として小熊は自由参加の多さと固定的組織の不在、リーダーの不在を指摘する。この点は本書に収められた多くの証言からも明らかであろう。さらに小熊は過去の同様のアクション、例えば68年の学生叛乱などと比して今回の行動においては自分たちが多数派だという意識が認められる点を挙げている。それはそうであろう。各種の世論調査を確認するまでもなく、今や7割を越す人々が原子力発電に疑問を抱き、少なくともなければないにこしたことはないといった思いを抱いていることは明らかだ。自分たちが多数派であるにもかかわらず意志が反映されないことへの不全感がこれらの運動の背景にある。さらにデモが移動ではなく占拠というかたちをとることも2011年の運動の特質である。小熊はこれらの特質を「自由な参加者たちが中心地に集まって場を作る」と表現する。これらの特質が「アラブの春」やウォール街占拠といった近年の民衆運動と近似するという指摘は興味深い。次に小熊はアクションへの参加者を「中核的な担い手たち」と「一般参加者」に分けて分析する。詳細は本書を読んでいただくとして、前者、つまり本書に寄稿した人々の共通点としては次のような点が挙げられる。「職業的には、自営業・専門職・フリーランス・外資系・経営者・派遣社員・農民・大学講師・主婦など、時間と勤務形態に自由がきく形態が多い。外国との接触経験のある者、医学知識のある者が比較的多い。脱原発などの社会運動には縁がなかった者がむしろ多いが、何らかの自主的な企画を運営した経験のある者が多く、社会的経験はそれなりに経ている。学歴はおそらく平均的には高いが、自覚的に『やりたいこと』を優先して、進学を選ばなかったことを記している人も散見する」むろん本書の寄稿者、この分析の母集団はすでにその時点でそれなりのバイアスがかかっており、この点を小熊も理解している。しかしこのような分析と首都圏反原発連合についての「特に特定のリーダーがいる組織ということではなく、どんなことでも徹底的に話し合い、いざ纏まれば一斉に同じ方向を向いて走り出します。参加している人全員が、それぞれできることに最大限の貢献をしています。(自らの)企業の部門長という立場でも、これほど自律的に動くすばらしい人々は見たことがありません」というコメントを重ねるならば、中核となった人々のメンタリティーはおおよそ理解できよう。私は徒にこのアクションを美化するつもりはないが、日本でこれほどの規模の非暴力闘争が貫徹されている状況は私の記憶ではほかに例がない。デモにドラム隊として参加した文化人類学者は次のように述べている。「これまで世界中の運動が目指してはいたけれど、なかなか実現できなかったこと(非暴力直接行動の理想型)が、このアクテイヴィズム後進国の日本で起きていたわけだよ。いってみれば『周回遅れのトップランナー』みたいな感じだね。そもそも週一回、ほとんど通勤みたいに、金曜日なると六時ぴったりに集まって八時になるとさっと帰るというのは、ステレオタイプ的であるけれど、よくいわれる日本人の勤勉さとか我慢強さみたいなものにしっくり合ってたんじゃないかな」本書を読んで強く感じるのは参加者たちがきわめて抑制的にこのアクションに参加しているということだ。それは中心となる参加者たちによってこのデモがみごとにオーガナイズされているためであろうし、初めて可能となったこのような場を失ってはならないという参加者に共有された思いによるものでもあろう。小熊はこの事態を社会学者として次のように総括している。「官邸前で抗議を始めたのも一種の偶然なら、それが多くの人に受け入れられる受け皿だったというもの偶然だった。運動にかぎらず、成功する方法というものは、理論的に予測できるものではない。それは状況と歴史的文脈に沿って、その場その場で最善を尽くす試行錯誤の末に、手探りで獲得された『盲点』だったのである」
 さて、私たちはわずか二基の原子炉しか稼働していない状況で今年の異常に暑い夏を乗り切った。そして大飯原発4号機が定期検査のため停止した今年の9月15日以後、私たちは再び原発ゼロの日々を大きな支障なく送っている。誰にとっても明らかなこの事実をなぜマス・メディアは報道しないのだろう。一方で読売と産経をはじめとする大新聞はなおも死にものぐるいで原発再稼働のキャンペーンを張っているが、小熊が指摘するとおり、もはや勝敗は決しているようにも思われる。しかしその一方で一部の経済産業省の官僚や政治家たちがいかに姑息に再稼働を画策しているかについては大鹿靖明の『メルトダウン』の中で詳しく触れられている。この優れた調査報道については既に単行本版に関してこのブログでもレヴューしているが、今年の夏に刊行された講談社文庫版には単行本発行以後の状況、すなわち民主党政権でほぼ策定されるばかりとなっていた脱原発のシナリオが官僚たちの策謀によって握り潰される状況が克明に記録されている。小熊の楽観的な断定と悲観的な現実、私たちの未来はどちらの延長上にあるだろうか。私もまたどちらかといえば楽観的だ。本書の中には官邸前抗議デモを警備する警官たちが小声で「再稼働反対」とつぶやいたというエピソードが紹介されている。これは独裁国家において軍隊が銃口を民衆から独裁者へと向け直す瞬間を暗示している。今や誰にとっても原子力発電に未来はないことは明らかだ。ひととき史上最低の宰相を選んだとしても、私は自分たちがそこまで愚かではないと信じたい。本書は文藝春秋社から刊行されている。最初の座談会が『文藝春秋』に掲載されたといった事情はあったにせよ、イデオロギー的に必ずしも脱原発と親和的でないこの出版社がかくもラディカルな書物を刊行したこともまた一つの地殻変動を象徴しているのではないだろうか。
by gravity97 | 2013-10-30 21:07 | 思想・社会 | Comments(2)

 8月という月のせいであろうか、それとも原子力発電所が再稼働されたことへの無力感のゆえか、このブログも比較的厳しい内容の記事が続く。今回取り上げる石牟礼道子と藤原新也の対談集『なみだふるはな』も何かの片手間に読めるような内容ではない。
 帯に「今語られる水俣と福島」と記された二人の対話には日付がある。すなわち2011年6月13日から15日にかけての三日間、藤原が熊本の石牟礼の自宅を訪れて交わされた会話の記録である。震災の三ヶ月後に、常に社会の弱者を見据えてきた二人が語らうならば、かなり厳しい内容となっても不思議はないが、予想に反して二人の語りはきわめて抑制されている。それは冒頭に収録された藤原新也による写真が水俣と福島に取材しながらも、多く群生する花を写した静謐な内容であることと共振しているかのようだ。猫の話題に始まり、日々の暮らしについて語りながら、時折、水俣や東日本大震災の被災地について生々しい体験が挿入される。例えば被災地で藤原が見たという「鳥山」について語られる。「鳥山」とは通常、小魚が集まった海域の上にカモメなどの海鳥が群れる現象であるが、被災地ではそれが陸上で見られた。藤原によると海鳥は瓦礫の下に埋もれた無数の死体の上に「鳥山」を作っているのだという。しかしおそらく二人にとって死とは忌避されるべきものではない。「印度放浪」における水葬された死体を犬が食べている衝撃的な写真で知られた藤原にとって、死もまた一つの自然の摂理であり、従容と迎え入れるべき出来事にすぎない。一方、水俣の豊かな自然の中で生活してきた石牟礼にとっても死そのものは自然の一部である。藤原は自分が例外的に死体をカメラに収めた状況について「それを撮るのは、人生の流れというか生々流転という世界の生理の中にその死体が置かれているからです。それは死体ではありますが自然の一部なんですね」と説く。藤原は震災直後に被災地に入った時、空気に恐怖感が残っていたと語り、道端に座り込んで東北の頑丈な親父が泣く「むごい状況」について語る。しかし不思議にも藤原の口調は落ち着いており、それは震災を自然の一部と達観しているからであろう。実際の惨状を知る時、いささか冷酷にも感じられようが、本書を通読するならば、このような感慨も理解できる。そのヒントとなるのは、三日目の対談の冒頭で石牟礼が藤原にその日のささやかな饗応について説明する箇所だ。イワシのすり身を入れた豆腐の揚げ物、タマネギとクキワカメの酢味噌和え、椿の油で桜エビとチリメンジャコを炒め、ニンニクとタマネギのみじん切りを加えた混ぜご飯、そして大根に柚子酢をかけた蜜漬けである。書き写すだけで涎の出そうなメニューであり、それぞれの食材に関する石牟礼の語りは、私たちが自然の恵みの中で生きていることをみごとに謳い上げる。このメニューには植物由来の素材が多いが、同じ恵みを動物からも得ている、つまり私たちが動物の死によって生かされていることへの感謝は、続いてきびなごをどのように「おびく」(骨をはずす)かについて石牟礼が懐かしく説明する箇所から理解することができる。自然は与え、そして奪う。震災と津波について語りながらも、二人は死者を哀悼することはあっても、自然を恨むことはない。
 しかし今回の震災にただ諦念によって臨むことは難しい。いうまでもなく原子力発電所の事故が付随したからだ。それゆえ石牟礼と藤原の対談が成立し、ミナマタとフクシマが結びつけられるのだ。以前、このブログでアイリーン・スミスが掲げる「水俣病と原発事故に共通する国、県、御用学者、企業の10の手口」を紹介したが、事故から一年半が経過しようとする現在、両者の相似性は日を追って明らかとなっている。この点を予測して震災から3ヶ月後に対談をセットした編集者の卓見は賞賛に値する。そして石牟礼と藤原はみごとにこれから起きるべき状況を予見している。私の考えではフクシマと比較されるべきはチェルノブイリやハリスバーグではない。チェルノブイリでさえ、政府は子供たちをバスに乗せて強制的に避難させたではないか。無為と隠蔽、差別と犠牲という共通点においてフクシマと結びつけられるのはミナマタであるはずだ。藤原が巻頭に掲げた一文がこの点を明確に伝えている。やや長くなるがほぼ全文を抜き出す。「1950年代を発端とするミナマタ。/そして2011年のフクシマ。/このふたつの東西の土地は60年の時を経ていま、共震している。/非人道的な企業管理と運営のはての破局。/その結果、長年に渡って危機にさらされる普通の人々の生活と命。/まるで互いが申し合わせるかのように情報を隠蔽し、さらに国民を危機に陥れようとする政府と企業。/そして、罪なき動物たちの犠牲。/やがて、母なる海の汚染。/歴史は繰り返す、という言葉を鮮明に再現した例は稀有だろう」水俣との関係を論じる時、「罪なき動物たちの犠牲」という言葉は重い。水俣病の場合、まず猫が「猫踊り病」にかかり、次々に狂死した。炭鉱のカナリアならぬ水俣の猫は水俣病の予兆として犠牲になった訳である。これに対して福島はさらに悲惨だ。住民が強制退去させられた地域には多くの畜舎や鶏舎が存在した。飼い主が戻って飼料を与えた例がない訳ではないようであるが、多くの牛や豚、鶏は放置されたまま餓死した。あまりにも状況が悲惨なためであろう、取り残されたペットを引き取るお涙頂戴的なエピソードが時折報道されることを除いて、この問題に関してマスコミは完全に沈黙を守り、私たちに知らせようとしない。私は佐野眞一の一連のルポルタージュの中で、豚舎の中の豚がついには共食いを始めるという地獄について知った。全く何の罪もない動物、さらに言うならば、人間に頼ることなしに生存できない家畜がむごく死んでいく状況は、胎児性水俣病の患者を連想させないだろうか。動物や植物と強く共感し、人の足音を聞いて逃げる貝のざわめきや、日の出に向かって一斉に合掌するタチウオ(本書の中で最も美しいイメージの一つだ)について語る二人にとって、かかる悲惨は母なる自然の所産ではない。飯館村の地面で狂ったように踊る二匹のアリ、あるいは原発近くに自生するフキの異常な大きさや桜の血のような鮮やかさへの言及は、物言わぬ動物や植物をとおして災厄の大きさを推し量ろうとする二人の感覚の鋭敏さを示している。
 二人の会話はこの災厄にどのような意味があるのか、誰が責任を負うべきかという問題にも向かう。石牟礼は杉本栄子という水俣病の患者の言葉を引く。彼女は石牟礼に次のように述べる。「私は全部許すことにしました。チッソも許す。私たちを散々卑しめた人たちも許す。恨んでばっかりおれば苦しゅうしてならん。毎日うなじのあたりにキリで差し込むような痛みのあっとばい。痙攣もくるとばい。毎日そういう体で人を恨んでばかりおれば、苦しさは募るばっかり。親からも、人を恨むなといわれて、全部許すことにした。親子代々この病ばわずろうて、助かる道はなかごたるばってん、許すことで心が軽うなった。病まん人の分まで、わたし共が、うち背負うてゆく。全部背負うてゆく」。「苦海浄土」のエッセンスのごとき美しい言葉であるが、藤原は原発問題の解決に当たってはこのような奥ゆかしさは無力だと説き、内橋克人からの引用として敦賀市長であった高木孝一という男の演説を引く。私が絶対に使用しない言葉が含まれるが、あえてそのまま引用する。「まあそんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、50億円で運動公園はできるわねえ。(中略)そりゃあもうまったくタナボタ式の町づくりができるんじゃなかろうか、と。そういうことで私はみなさんに(原発を)おすすめしたい。これは信念をもっとる、信念。えー、その代わりに100年経って片輪が生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部片輪になるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階ではおやりになったほうがよいのではなかろうか。こういうふうに思っております。どうもありがとうございました。(大拍手)」杉本の言葉と並べること自体が許しがたいような暴言であるが、すべての病を背負うという言葉の横に置く時、子孫がどうなろうと今の自分さえよければよいという高木の言葉は原発推進論者のメンタリティーをあからさまに象徴している。
 今、対照的な二つの言葉を引いた。病苦を自ら背負うことを決意した弱者、そして誰が犠牲になろうとも自分さえ金銭的利益を得ればよいという強者。私が気になるのは、この20年ほどの間に後者の声が前者をかき消し、弱者が苦しみを背負うこと、強者が弱者の犠牲の上に利を貪ることを当然とする風潮が強くなってきているように感じられる点である。上に掲げた二つの言葉を対照するならば、いずれが「正しい」かは明らかであろう。しかし実際には私たちの社会では強者や声の大きな者、富める者を是とする価値観が支配的になり、例えば生活保護世帯を批判する政治家とマスコミのキャンペーン、在日朝鮮人への右翼の攻撃、あるいは公務員への異常なバッシングなど、通常であれば大声で語ることをはばかられるような主張が近年公然と唱えられ、このような正義の名を借りた弱者へのいじめを率先するポピュリストが首長として支持を得ているのである。私はこのような強者の論理の横行は政治や社会のみならず文化においても顕著に認められると感じる。今や収益によって展覧会を評価するシステムが時に美術館側から提案され、指定管理度や任期制学芸員といった美術館になじまない制度がほとんど批判されることなく導入されている。社会的優越や収益性、知名度は美術の本質とは全く関係がない。私がこのブログで村上隆や商業主義的な展覧会、雑誌を一貫して批判するのはこの理由による。
 話が飛躍してしまった。本書に戻ろう。長い間、水俣病という業苦とともに生きてきた石牟礼の言葉の端々には一種の現世への達観が見え隠れする。やはり時折発せられる貧しさと紙一重であった前近代へのやみくもの憧憬とともに、私はこの点には違和感を禁じえない。石牟礼は巻頭に「花を奉る」という詩を寄せている。この詩は次のように結ばれる。「現世はいよいよ 地獄とやいわん/虚無とやいわん/ただ滅亡の世せまるを待つのみか/ここにおいて われらなお/地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す」一輪の花が現世の地獄に拮抗するという思想は美しいが、ここには一種のペシミズム、いやニヒリズムがうかがえないだろうか。同様のニヒリズムは自分たちは滅んでもよい、いや滅ぶべきだと語る藤原にも共通している。しかし水俣には希望も残されていた。二人は水俣病になった漁師(杉本栄子の夫)が語る日の出に向かって合掌するタチウオのエピソードに深い意味を見出す。水俣の海でタチウオは何を祈るのであろうか。藤原は二日目の対話を「この福島の大きな災禍がいかなる年月を経てそのような神話を産むのか、あるいは産まないのか、僕は目の黒いうちはそれを見届けようと思います」と結語する。私は福島の事故について書かれた多くの本を読んできた。それらはほとんど愚行と無能、傲慢と隠蔽の記録であり、怒りと虚脱感しか残らなかった。事故は未だに収束しておらず、あまりにも愚かな政治を前に私たちは絶望を感じる。しかしなおもそこには希望があるのではないか。きわめて文学的な感慨であるが、水俣の経験に鼓舞されるように、被災地に咲いた花に励まされるように、本書を読んで私は初めて一抹の光明を見る思いがした。
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by gravity97 | 2012-08-16 22:18 | 思想・社会 | Comments(0)

b0138838_2118126.jpg 今回の原子力災害をめぐる出版物は数多く、私も書架の一つが埋め尽くされるほどの本を読んだ。本書もまたコンパクトながらいくつもの思考を誘発する刺激的な内容である。著書の高橋哲哉自身が福島出身であり、高橋が震災後直ちに本書を構想した理由は容易に推察される。タイトルとされている「犠牲」という概念は高橋の研究の中心的な課題であるらしい。高橋哲哉に関して、私は歴史修正主義に対する批判をいくつか読んだ程度であるため、この概念がいかにしてもたらされたか詳しくは知らないが、今回の原発事故を考えるにあたって説得的な出発点である。
 最初に高橋はこの事故に対する自分の位置を定めようとする。福島、それも浜通りの出身である高橋は原子力災害によって故郷を奪われた被害者であるかもしれず、(東京も放射能汚染の被害を受けつつある点においては措くとして)福島で生産された電力を東京で消費する者として一面では加害者かもしれず、さらに大学入学とともに故郷を離れた人間としての罪責感も負っている。いくつもの立場を兼ねているのは高橋だけではない。原発によって作られた電力によって受益しながら原発事故によって受苦する(「受苦」という概念を私はこのブログでも取り上げた開沼の研究で知った)のは私たちすべてであろう。しかしそれにもかかわらず、いやそれゆえに高橋は事故の責任の所在を問題としているように感じられる。むろんそれは単に刑事責任の追求や処罰を求めてのそれとは異なる。日本を呪縛する犠牲というシステムが不可避的に宿す無責任の体系を根底的に批判するためである。それでは犠牲というシステムとは何か。高橋自身が約言している。「犠牲のシステムでは或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望など)を犠牲にして生みだされ、犠牲にするもの利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生みだされないし、維持されない。この犠牲は、通常、隠されているか、共同体(国家、国民、社会、企業等)にとっての『尊い犠牲』として美化され、正当化されている」原子力災害を経験した私たちにとってこのようなシステムを理解することは比較的たやすい。「犠牲のシステム」において犠牲とされる集団を階級や民族ではなく、地域として限定した点に本書の独自性があるだろう。すなわち福島と沖縄であり、たまたま事故を起こした原子力発電所が立地していたため、本書では福島の名が与えられたが、前者が潜在的に東北地方を含意していることは下北半島、六ヶ所村に使用済み核燃料の再処理工場が存在することを想起する時、明らかであろう。震災から一カ月後、現地のルポとして発表された本書のレジュメとも呼ぶべき一文を巻頭に置いた後、第二章において高橋は原子力発電所における「犠牲のシステム」を四つの「犠牲にされるもの」に分類して分析する。最初はいうまでもなく今回の原発事故の当時者としての福島であり、高橋は被曝という具体的な被害、風評による被害、差別される人としての、そして土地としての被害といったいくつものレヴェルにおける「犠牲」について論じる。続いて今回の事故とは無関係に日常的な被曝を受けてきた原発労働者たちである。この点についても以前から幾度となく指摘されてきた点であるが、福島以後、状況はさらに複雑化している。つまり実際に高線量下で事故処理にあたる東京電力の社員と作業員は多くが福島出身であり、今後、事故によって失職した福島の人々がやむなく事故処理に従事することは大いにありうる。つまり第一の「犠牲」と第二の「犠牲」は重複する可能性が高い。第三の「犠牲」とは核燃料の原料となるウラン鉱の採掘にあたる人々であり、多く海外の先住民がこれにあたっているという事実はこれまで高橋が検証した「犠牲のシステム」とも符合している。ただしこの問題は本書では深く論じられることがない。第四の「犠牲」は原発が存在する限り、恒常的に存在する問題としての放射性廃棄物の処分地である。先日、私はマイケル・マドセン「100000年後の安全」というドキュメンタリーを見て、あらためて原子力発電と人類は共存できないという思いを強くした。先に六ヶ所村について触れたが、事故が発生すれば日本はおろか世界が壊滅するような施設は本質的に原子力発電所と変わるところがないことは明らかだ。高橋も述べるとおり、これらの「犠牲のシステム」は単に誰かが誰かを虐げているといった単純な問題ではなく、それなくしてはシステム自体が立ち行かない点に特徴がある。つまり原子力発電は「犠牲のシステム」を構造化しているのだ。
 高橋が挙げる四つの「犠牲」に私はさらに二つの「犠牲」を加えたいと考える。一つは後続する世代の「犠牲」である。処分地をめぐる「犠牲」が空間的な問題であるのに対し、原子力発電所は時間的にも私たちより若い世代に深刻な負担を強いる。時間的な遅延を伴うため、このような「犠牲」は認識されにくい。しかし私たちが電力を享受するために(或る者たちの利益)、放射能廃棄物の処理を後続する世代に押しつけるとするならば、それは他の者たちの安全を犠牲としてかろうじて成り立つシステムであることは明白である。世代間における「犠牲のシステム」は環境汚染や地球温暖化といった問題をとおして先例がない訳ではない。しかしかくも苛酷な「犠牲」を強いるシステムはほかに存在しないであろうし、おそらく数年のうちに私たちはその予兆を知るだろう。それがもう一つの「犠牲」、つまり胎児や年少者が犠牲となる後発性の放射能障害である。これも先日、私は「チェルノブイリ・ハート」というドキュメンタリーを見た。原発事故後、ベラルーシ共和国で発生した多くの放射能障害、先天性障害を記録したこのドキュメンタリーについては機会があればあらためて論じたいが、特徴的なのは障害が幼児から高校生くらいの世代に集中的に発現する点である。放射能による障害が年若い世代を直撃することを私は既に小出裕章らの著書から知っていたが、このドキュメンタリーはその事実を冷酷なまでに明らかにしていた。これら二つの「犠牲」を加えることによって私たちは原子力発電所という「犠牲のシステム」の特性を認めることができる。まずそれは端的に、弱者を選択的に標的とする。東京に対する東北、日本に対するアジア(モンゴルに原発の廃棄物の最終処理地を建設しようとした計画を想起するがよい)そして成人に対する乳児や幼児。さらにそれは私たちから離れた、不可視の存在を標的とする。六ヶ所村やモンゴルといった遠隔地、あるいは私たちがその顔を見ることもない未来の世代。犠牲とされる対象を不可視化することによって私たちはこのシステムの非人間性から目を逸らされる。厚生労働省でも文部科学省でもよい。国の責任として当然開始すべきき福島の子供たちの放射能障害に関する網羅的な疫学的調査が全くなされないことも同じ理由によっている。犠牲のシステムは統計として可視化されてはならないのだ。
 高橋によれば「犠牲のシステム」は通常、隠蔽されるか、美化、正当化される。次に高橋はこのような機制を災害に対してしばしば用いられる天罰論ないしその裏返しとしての天恵論に即して分析する。東日本大震災に際しても石原某が「この津波は日本人の我欲を洗い落とすための天罰」と述べたことはよく知られている。かかる発想が関東大震災以来、様々な論者に寄って繰り返されてきたことを高橋は丹念に検証して、天罰論、天恵論のいずれもが「犠牲のシステム」の隠蔽に寄与したことを論じる。このような言説は原子力災害の責任をあいまいにして、ゆえなき受苦を正当化、美化する。高橋の分析を読み進めて私はこのような発想が関東大震災以来、様々の思想家や宗教家に通底して認められること、それなりに尊敬に値する仕事や著述を残した人たちも同様の発言をしていることにあらためて驚いた。「犠牲のシステム」はかくも固く私たちを拘束し、内面化されているのである。そしてこの問題を考えるうえで重要な先例を高橋は沖縄にみる。第二次大戦中は苛酷な戦場であり、戦後はアメリカ軍の基地という厄介な施設を抱え込むことを強いられた沖縄もまた「犠牲のシステム」が不可視化された場であった。高橋は沖縄戦とアメリカによる占領に関して昭和天皇の責任を史料に基づいて指摘し、現在もなお沖縄の受苦によって日本の同盟体制が維持されている点を検証する。責任を明確にして、不可視化されている構造を明るみに出すことが「犠牲のシステム」を批判する第一歩であるからだ。そして高橋のごとき研究者さえも沖縄が「犠牲のシステム」であることに原発事故を介して想到したという事実は、私たちが沖縄に対していかに鈍感であるかを暗示しているだろう。
 4年前にこのブログを書き始めた時、私は文学や美術、映像や音楽といった話題をめぐる基本的に快い体験に言葉を与えていくつもりであった。しかし3・11以後、このような体験を純粋に味わうことが難しくなったような気がする。今や私たちは何を読んでも、何を見ても放射能汚染という現実と無関係にそれらを享受することができない。ずいぶん昔に読んだ原子力発電を批判する論集に『われら、チェルノブイリの虜囚』というタイトルが掲げられていたことを想起する。今や私たちはフクシマの虜囚となってしまった。しかしいかに苛酷であっても、私たちはフクシマについて考え続けなければならない。なぜならそれは端的に私たちの生存に関わっているからだ。
by gravity97 | 2012-04-10 21:19 | 思想・社会 | Comments(0)