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優雅な生活が最高の復讐である

カテゴリ:日本文学( 25 )

阿部和重『ピストルズ』

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 『群像』に連載時は「ピストルズ」と片仮名表記されていたから、pistols、拳銃のことであろうと思いこんでいたが、表紙にあるとおり、pistils、雌しべという意味らしい。『シンセミア』同様、ダブル・ミーニングの謎めいたタイトルであるが、「雌しべ」というタイトルからは直ちに作品の内容と深く関わる二つの主題系列が浮かび上がる。一つは植物、花、さらに香りといったフローラルな主題であり、もう一つは女性性という主題である。この長大な小説にこれら二つの主題が横溢していることは直ちに明らかになる。物語が始まるや、様々な花の名前が言及され、物語の主人公たる一族が操る秘術は植物や香水と深い関係を帯びる。「シンセミア」もsin semillaとsinsemilla の二つの含意をもち、前者は「種子がない」、後者は高純度のマリファナというやはり植物と関連した意味をもっていたことも想起されよう。「シンセミア」は一つの町を暴力と騒擾が襲うマッチョな物語であったのに対し「ピストルズ」は秘術によって他者を操る特殊な能力をもった菖蒲(あやめ)という一族の四人姉妹をめぐる年代記である。しかし女性性という問題に関して注目すべきは内容以前に文体だ。一人称によって語られるこの小説には、二人の話者が存在する。書店主石川と菖蒲家の次女で小説家のあおばである。説話的にはやや複雑な構造をもち、あおばの語りは石川に対してなされ、石川はそれをPC内に文書ファイルとして記録する。つまりこの小説は本人の独白も含め、PC内に残された石川の手記として読むことができる。石川という男性によって記された手記にいかにして女性性を賦与するか。語りにおける性差の問題は実はこの小説の成否に関わっており、阿部は巧妙な手法によってこれに応える。つまりあおばによる独白としては、ですます調の慇懃きわまりない特異な文体が導入される。石川の語りとあおばの語りは小説の内容において区別される以前に、文体をとおして弁別されるのだ。通常私たちは一つの文章が男性、女性のいずれによって書かれたかを意識しないが、「ピストルズ」における過度に女性的な語りに読む者は一種の居心地の悪さを覚える。文体における女性性の発露は語尾のみならず表記のレヴェルでも周到に計算されている。一例を挙げよう。文中には「ひみつ」という言葉が頻出する。もちろん「秘密」のことであるが、地の文中にこの言葉だけ平仮名で表記され、きわめて異様な印象を与える。しかし若い女性による語りの中であれば、「ひみつ」という言葉は様々なコノテーションとともにさほど違和感なく収まる。阿部は小説の形式的側面に拘泥する作家であるが、本作においても様々な形式的、文体的配慮がなされていることが理解されよう。女性の語りという手法が部分的に初めて用いられたのは『ミステリアス・セッティング』であったように記憶しているが、今から思えば、それは『ピストルズ』の準備ではなかっただろうか。私にとって本小説はまず文体の実験であるように感じられた。
 例によって形式的な側面ばかり論じてしまったが、続いて内容についてやや立ち入って検討することにしよう。この小説の舞台は山形県神町。阿部の出身地であり、実在する地名である。阿部はこの地を舞台にしたいくつもの作品を発表し、これらはヨクナパトーファ・サーガならぬ神町サーガと呼ばれている。本作品はほかの作品で言及された事件との関係が特に強い。私が気づいた限りにおいてもこれまでに発表された四つの小説と関係している。まずこの物語は全体として『シンセミア』の後日譚であり、『シンセミア』で語られた6年前の事件が別の角度から再話される。ついで『グランドフィナーレ』の主人公がこの小説の終盤で重要な役割を果たす。さらに登場人物の一人は、その特殊な苗字から中篇「ニッポニア・ニッポン」の関係者であることが推測される。そして最後でとってつけたように言及される事件は明らかに『ミステリアス・セッティング』のカタストロフであるはずだ。小説が互いに嵌入しあう構造は、フォークナーは言うに及ばず日本でも大江健三郎や中上健次の一連の作品にも認められ、阿部がこれらの作家を強く意識していることをうかがわせる。
 阿部の小説は日付が明確に書き込まれる場合が多い。再び形式的な話題に戻るが、本作品が実際に『群像』に連載されたのは2007年から09年である。物語の冒頭が設定されているのは2006年であり、物語の終盤で語られる「血の日曜日事件」は05年8月に発生している。したがってこの物語は05年8月をクライマックスとする一連の事件を06年という時点で語ったものであり、さらに最後に「補遺」として2013年の年記をもつ章が挿入されている。この小説における年記の明確さには理由があるだろう。この小説では一つの歴史を語ることが主題とされているからだ。出所の怪しいいくつもの文献を参照しながら菖蒲という特殊な能力をもつ一族の活動が遠くは弘法大師の時代から説き起こされる。このような発想が作中でも言及される半村良の『産霊山秘録』を直接に反映していることは明らかであろう。ただし半村が「ヒー族」なる超能力を操る家系の歴史を戦国時代から現在までの長いスパンで扱ったのに対して、『ピストルズ』で描かれるのは比較的最近、1970年頃以降という比較的短い期間の菖蒲一族と神町の関わりであり、その発端はいわゆるフラワー・ムーブメントである。フラワー・ムーブメントがこの小説の一つの主題であることは本書のカバーの下に隠されたよく知られた写真が暗示しており、語り手の石川が初めて菖蒲家を訪れた際、広大な敷地で繰り広げられる風景は1960年代から70年代にかけてのヒッピー文化のそれである。マリファナ、神秘体験、瞑想、あるいはフリーセックスといったヒッピー文化特有のモティーフがこの長大な小説の内容ときわめて親和的であることは読み始めると直ちに理解されよう。菖蒲一族は様々な植物を調合して作り出した薬品や歌声によって他者を思いのままに操るアヤメメソッドとよばれる秘術を一子相伝で伝える。しかもこの継承は一族の内部における権力の委譲を意味するから、子は親を倒すことによってこの秘術を我がものとする。したがって四女みずきによる秘術の継承はジェンダー間の闘争でもあり、みずきの修行を描いた箇所は作品の一つのクライマックスを形成する。『ピストルズ』は過去から未来へ、親から子へという時間軸を物語の原理としており、物語は時間軸に沿っていわば垂直的に展開されるのであるが、最後の部分で一挙に水平化され、この点は物語の成立とも深く関わっている。垂直と水平、ここで時間に対比されるのは空間ではない。石川がPCに文書ファイルとして残した菖蒲一族の物語はウイルスに感染したファイル共有ソフトを介してインターネット上に流出してしまうのだ。かくしてアヤメメソッドによって本来ならば石川の記憶から消去されるはずであった一族の物語を私たちは『ピストルズ』という小説として読むこととなる。情報の秘匿を意味する一子相伝というモティーフと遍在する情報としてのインターネットを対比させ、両者の対立に絡めて語りの必然性を導入する構造も巧みである。
 かくのごとく小説の形式的完成度は高い。阿部との対談の中で蓮實重彦が本作品を高く評価する理由も理解できる。しかし私はいくつかの不満を感じた。阿部の小説にみられた疾走感が感じられないのだ。『ピストルズ』は七つの章によって構成されているが、それぞれは例えば菖蒲家におけるフラワー・ムーブメントの高まり、あおばの異母姉妹の紹介、あるいはみずきの修行といったテーマに細分され、有機的な統一性を欠いている。章によっては冗長に感じられる箇所もあり、最初に述べたほかの小説との関係も、いささか強引、時にこじつけめいてちぐはぐな感じがする。クライマックスの「血の日曜日事件」もあまりにあっけない。端的に言って、形式における完成度にまで内容が達していない印象が強いのである。形式と内容の乖離はこれまでも阿部の小説を読む際に時折感じていた点であるが、『ピストルズ』においては文体の実験が一定の成果をあげているだけに惜しまれる。
聞くところによれば『シンセミア』と『ピストルズ』は神町サーガ、長編三部作のうちの二篇として構想されているという。作家の力量に疑問の余地はない。最後の一篇を鶴首して待つこととしよう。
by gravity97 | 2010-05-01 08:06 | 日本文学 | Comments(0)
 少し前、ベルギー人のキューレーターと会食する機会があった。話が日本文学に及び、日本の作家で誰が読まれているか尋ねたところ、私より少し上の世代に属すると思われる彼女は「私の世代ではミシマ、でも今では圧倒的にハルキ・ムラカミ」と答え、私が発売された直後の『1Q84』を見せたところ、嬉しそうに携帯で表紙を撮影していた。
 村上春樹の長編が世界各国で翻訳されていることはよく知られているが、短編集に関してはアメリカのクノップフから刊行された『象の消滅』(1993)がいわば底本として存在し、同じ短編を収録した短編集が各国の言語で出版されているらしい。出版に付随する権利関係の錯綜を回避するためらしいが、そうであれば一層、どの短編を選択するかは重要であろう。日本では2005年に刊行された『象の消滅』に続いて、同じクノップフを版元とする第二短編集『めくらやなぎと眠る女』の「翻訳」が最近新潮社から刊行された。当初は日本の複数の出版社から出版された短編がアメリカの一つの出版社によってコンパイルされて翻訳され、それが再び新潮社という日本の出版社から短編集として刊行されるというのは考えてみると変な話である。
 さて、以前にも書いたとおり、村上春樹については『アンダーグラウンド』系列のノンフィクション以外、私はほぼ全ての小説を読んできた。『象の消滅』はアメリカ人の編集者によって収録作品が選択され、テクストそのものは(若干の異同はあるにせよ)日本語で発表された時と同一であるから新作を読む楽しみはない。それにもかかわらず、しゃれた装丁に引かれてこの本を買い求め、一読した私は驚いてしまった。作品のセレクションが素晴らしいのだ。村上春樹の作品はとぼけた味わいのあるショート・ショートからシリアスで不気味な短編まで多岐にわたる。日本語で読んでいてもなかなかつかむことができないその全体像がこの短編集によってくっきりと焦点を結んだように感じられたのである。収録された作品は必ずしもよく知られた作品ばかりではない。さまざまな短編集から選ばれた作品はこの短編集の中に位置を占めることによって、新たな魅力を得たように感じた。おそらくここには編集という、日本で軽視されている営みの真髄があるだろう。本書から私はマルカム・カウリーの『ポータブル・フォークナー』を連想した。カウリーという批評家によって編集され、入念な紹介を付したアンソロジーが刊行されたことによってそれまで難解さのゆえにほとんど無視されていたフォークナーの小説は一挙に世界文学として脚光を浴びた。もちろん村上は既に欧米でもある程度の知名度を得た作家であっただろう。しかしいくつかの短編集の中からテイストの異なる17の短編が選びぬかれ、配列され、そして英語に翻訳されることによって村上春樹はハルキ・ムラカミとなったのではなかろうか。この過程に日本人は関わっていない。私はあらためて編集という営為がきわめて創造的な行為であること、そして欧米圏におけるその成熟を思い知った気がした。
 『めくらやなぎと眠る女』には24の短編が収められており、二つを合わせると村上の主な短編はほぼ網羅されているといってよいだろう。村上には『神の子どもたちはみな踊る』という連作短編の傑作があるが、これは『地震のあとで』というタイトルで英訳が刊行されているらしい。もう一つの連作短編集として2005年の『東京奇譚集』があるが、この内容は本書に全て収録されている。村上は作品を新たに収録するにあたって手を入れる場合が多く、例えばタイトルにもなっている「めくらやなぎと眠る女」は最初『蛍・納屋を焼く・その他の短編』に収録され、『レキシントンの幽霊』収録時に改訂され、さらに今回の短編集に収める際にも訂正がなされている。このあたりのテクスト・クリティークも個人的にはなかなか興味深いが、私は一愛読者であって研究者ではないので、ひとまず措く。
 『象の消滅』の巻頭には編集者であるゲイリー・フィスケットジョンの序文、自分の短編が英訳され、とりわけに『ニューヨーカー』誌に掲載された際の喜びを率直に語った村上の自序など、刊行にいたる経緯を記したいくつかテクストが付され、それなりに興味深く読んだ。これに対して『めくらやなぎと眠る女』は作家自選による短編集であるためか選択がいささか甘い。『東京奇譚集』は優れた短編集で連作といっても作品相互の関係がほとんどないとはいえ、これを全て収録するのはいかがなものか。あるいは「蟹」という短編は『回転木馬のデッド・ヒート』に収められた「野球場」という短編中で言及される小説を実際に村上が書き下ろしたもので、むしろ村上龍的な味わいのややグロテスクな小品である。この短編は英語版しか存在しなかった訳であり、日本語版を発表する際の読者サービスかもしれないが、私としてはほかの短編を採ってほしかった気がする。全般に作品の選択がわかりやすく、『象の消滅』にみられた意外性、端的に言って編集の批評性が見当たらないのだ。この短編集も日本語以外の言語の使い手によって、可能であれば編者のイントロダクションとともに刊行してほしかったと思うのは私だけだろうか。
 例によって形式的な側面からやや批判的なコメントを加えたが、実際に本書を読むこと、さまざまの短編を再読することは実に愉しい体験であった。例えば『ノルウェイの森』の原型である「蛍」は完成度の高い、とりわけ最後の場面が印象に残る抒情的な佳作であり、おそらく多くの読者にとって村上の短編のベストの一つであろう。(それゆえこの短編が『象の消滅』に収められていなかった点に編者の批評性を感じたのである)あるいは私は「とんがり焼の盛衰」「かいつぶり」といったシュールな笑いを誘う短編が大好きなのであるが、おそらくそれはこれらが収録された『カンガルー日和』を、修士論文を執筆する合間に息抜きのように読んでいたことが影響しているだろう。ちょうど今のような暗い12月のことだ。あるいは『東京奇譚集』冒頭の「偶然の旅人」は私が最も好きな村上の短編であるが、以前この作品を再読した折、ある知人と偶然の再会があった。小説自体も偶然の出会いを主題としており、現実と小説の不思議な一致は、村上の言葉を借りるならば「小説の神様が片目をつぶって微笑みかけている」かのようであった。
 
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村上の短編を読むならば、かくのごとく次々とさまざまな小説的記憶がよみがえる。不思議に楽しい思い出が多い。喪失や不安をめぐる小説の重い内容とこれに反してリラックスした記憶の鮮やかな対照もまた私がこの作家に魅せられる理由かもしれない。先に記したとおり、海外ではこれら二つの短編集と連作短編集『神の子どもたちはみな踊る』以外に村上の短編は翻訳されていないらしい。これらに収録されていない多くの魅力的な短編を思う時、私はあらためて日本語を読めることの幸運を感じる。
by gravity97 | 2009-12-16 22:02 | 日本文学 | Comments(0)

村上春樹『1Q84』

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 誰の評論であったか、村上春樹が長編、中篇、短編を発表するペースを分析し、それぞれ「マラソンの時間配分」のごとき規則的なサイクルを形成していることから、次の長編が発表される時期は高い確度で予想できると論じた文章があった。果たして予想は的中しただろうか。『海辺のカフカ』以来、7年ぶり、待望の書き下ろし長編『1Q84』はこれまでの村上の集大成であるばかりか、作家の新しい境地も示して、今後、代表作の一つとみなされることとなろう。非常な売れ行きで書店でも手に入らない状態が続いていると聞く。これから頁を開く読者の感興を殺がないように内容そのものに深く立ち入ることは避けながら、所感を述べる。
 ひとまずこの小説の達成を三つの観点から指摘することができよう。まず形式について。この小説は全体で24の章から成り立っている。章のタイトルとしてはその章に書きつけられた文章の一部が引用されているが、タイトル自体にさほど意味はない。章の表示の傍らに奇数章には「青豆」、偶数章には「天吾」という文字が記されている。その意味は直ちに了解される。それらは二人の主人公の名前であり、章ごとに二人をめぐる物語が記される。両者は正確に交替し、量的にもほぼ均等である。二つのエピソードが交互に併置される構造はいくつかの先例をもつ。フォークナーがこの手法によっていくつかの傑作を残し、村上自身も『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』が同じ構造をもつ。さらに遡れば『1973年のピンボール』においても「ぼく」と「鼠」をめぐる二つの物語が並行し、『海辺のカフカ』にも僕とナカタさんという二人の主人公がいた。しかし『1Q84』がそれらと異なるのは形式的な完成度である。つまりこれまでの作品において二つの物語には不均衡がみられた。例えば『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』は「世界の終わり」と「ハードボイルドワンダーランド」の二つの物語群によって構成されているが、量においても内容においても後者がメインプロットであり、前者がそれを補完して物語の深みが形成されていた。これに対して、この小説の中で奇数章と偶数章は完全に拮抗している。この均衡は奇跡のように美しい。そして二つの世界は合一しないまま次第に一つの物語へと糾われていく。このあたりの小説的技巧の巧みさは特筆に価する。一例を挙げよう。冒頭の場面、青豆は渋滞に巻き込まれたタクシーの中でヤナーチェックの「シンフォニエッタ」を聞く。読了後、読者は「シンフォニエッタ」がこの長い小説の通奏低音のごとく常に響き渡っていたことに気づく。あるいはそれまで男の子、少女などと呼ばれていた「青豆」の章における天吾、「天吾」の章における青豆はある絶妙の瞬間からそれぞれ固有名を与えられる。小説の中にはこのような巧妙な仕掛けがいたるところに施されている。これまで村上の小説にさほど構築性を感じたことはなかったが、『1Q84』の章立てと物語の相称性、全体と部分の緊密な関係は私に精密な建築を連想させる。内容についてはどうか。これに関しても村上は新たな一歩を踏み出している。つまりこの小説において社会と個人の関係が正面から作品の主題とされたのである。『ノルウェイの森』でも「納屋を焼く」でもよい、これまでの村上の小説の魅力はきわめて個人的な状況の中から孤独や喪失といった普遍的な主題が浮かび上がってくることにあった。私は『ねじまき鳥クロニクル』中、ノモンハン事件に関するエピソードに作家の姿勢の変化を感じたが、まだ戦争や政治が物語の中に直接前景化されることはなかった。おそらく明らかな変化は2004年の『アフターダーク』に兆していたのではないか。風俗的なモティーフを導入した中篇は村上の小説にあって特異な印象を与えたが、この小説の前哨ととらえると理解できる。『アフターダーク』冒頭の特異な語りの視点、『1Q84』における三人称の使用はこの問題と関連している。村上が社会と対峙しようとした理由は何か。三番目の達成がこの問題と関わる。村上は1990年代後半に『アンダーグラウンド』『約束された場所で』という地下鉄サリン事件に取材した二つのノンフィクションを著している。『1Q84』がオウム真理教をめぐる一連の事件を濃厚に反映していることは明らかである。当時は唐突に思われたこれらの仕事がそれから10年以上経って執筆される新作長編の準備であったとは誰が想像しただろうか。あるいは比較的最近、レイモンド・チャンドラーを翻訳した経験がこの小説中のいくつかの描写に影響を与えているように思われる。最初に集大成と記したが、これらの意味においても『1Q84』は村上が自らの持つ経験と技巧を全て投入して執筆した小説といえよう。
 先に触れたとおり、この小説は二人の男女を主人公とする。ともにまもなく三十歳を迎えようとする青豆と天吾。鍛えられた肉体と孤独な魂をもつ青豆はフィットネス・クラブでインストラクターを務めるかたわら、謎めいた老婦人のもとである特殊な仕事に従事している。予備校で数学を教える作家志望の天吾はある文学賞の下読みで「ふかえり」という少女から送られてきた拙くも奇妙な魅力をもつ小説に出会う。天吾は編集者と共謀し、この小説に自ら手を入れて世に送り出そうとする。冒頭の数章で早くも明らかとなる魅力的な設定に沿って読み始めるや、もはや頁を繰る手を止める術はない。
 物語の舞台はタイトルが示すとおり、1984年という近過去の東京である。しかしそこに広がる世界は私たちの見知った世界とは微妙に異なる。警官の制式拳銃、月面開発、いくつかのディテイルをとおして世界は奇妙なほころびを露わにする。自分が別の現実の中に迷いこんだことを知った青豆はそれに「1Q84」という名を与える。青豆が1984年から「1Q84」へと移行する瞬間は具体的に暗示されている。一方、天吾は「空気さなぎ」という小説に手を入れる過程で少しずつ「1Q84」へと移行する。このような移行を介して、世界はその姿を変える。明らかにこの年記はジョージ・オーウェルのディストピア小説に由来する。オーウェルの描くありうべき未来、1984年はビッグブラザーによって全てが合理化され、監視される全体主義国家であった。これに対して村上が描くありうべき過去、「1Q84」は不合理で、不気味な世界である。そこでは空に浮かぶ二つの月の下、正体不明の「リトル・ピープル」が現実と物語を行き来する。確かにそこにはこれまでの小説でもおなじみのモティーフが登場する。ヤナーチェックに始まる音楽への頻繁な言及、様々な料理のレシピの開陳、放縦な性描写(なんと婦人警官を交えた乱交まで描かれるのだ)。そして多くの物語と同様、『1Q84』でも喪失が大きな主題となっている。「1Q84」に移行するまで彼らの生活は一つのルーティンに沿った規則性をもっていた。青豆が仕事としてマッサージを施す時の手順。天吾が毎週一回、年上の人妻と交わす情事。私はかねてより規則性という観点から村上の小説を分析してみたいと考えている。このような規則性が崩れる時、二人の世界から様々なものが失われ、あるいは損なわれていく。『1Q84』において喪失は多く暴力の暗示に富み、詳細は明らかでない。何人かの登場人物は物語の途中で姿を消し、彼らの帰趨が語られることはない。『ノルウェイの森』のごとき作品において喪失は登場人物の内面に起因した。しかし『1Q84』における喪失は突然に外部からもたらされる。その理由は明らかでなく、それに関与するとみなされる人物や存在は現実とは思えぬ不気味な印象を与える。そして登場人物たちの多くが自らの与り知らぬところからもたらされる禍々しい暴力と関わっている。小説の中には家庭内暴力や少女への性的虐待といったモティーフが何度も現われる。『ねじまき鳥クロニクル』のノモンハン、『海辺のカフカ』のおけるジョニー・ウォーカーの猫殺し、『アフターダーク』では風俗嬢への暴行。1995年以降、村上の長編において暴力という主題の比重が増えている点は注目に値する。
 今日、私たちは1995年という年記を二つの忌まわしい事件とともに記憶している。阪神大震災と地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教をめぐる事件。前者を主題とする作品を既に村上は発表している。「地震のあとで」というサブタイトルをもった『神の子どもたちはみな踊る』。興味深いことにはこの連作を構成する6篇の短編の中で阪神大震災は直接の主題とされることはない。村上が得意とする寓意という手法を用いることによって、私たちは物語の背後にかろうじて震災の残響を聴き取ることができる。直接的な描写はないが、私はこの一連の抽象的な物語を震災という災厄に対する鎮魂であるように感じる。しかしオウム真理教をめぐる物語を作品とするにあたって、村上はこのような洗練された手法を使うことはできなかった。それはおそらく二つのノンフィクションの取材の中で、村上がこの事件の内部にあまりにも深く入り込んでしまったためではないだろうか。1995年の災厄をめぐって、私は『神の子どもたちはみな踊る』と『1Q84』が青豆と天吾のごとく、一組の対をなしているような気がする。本書でカルト集団と個人の関係が主題とされたことは必然であった。私は村上のノンフィクションを読んでいないため、それらと本書の関係を具体的に指摘することはできないが、ここで語られる教義や指導者の主張は現実、つまり村上が取材を通して知ったオウム事件の核心をある程度反映しているのではなかろうか。青豆は老婦人の指令のもと、カルト集団の指導者と対決する。しかし老婦人が組織する謎の集団も明らかに一つのカルトである。そこにはもはや善悪、正邪の区別はない。事実を善悪や正邪といった観点を超えたものとして認めること、これが文学の出発点ではないだろうか。私たちは戦争の後に優れた文学が輩出することを知っている。80年代にあっては鼠や羊を相手にプライヴェイトな物語を紡いでいた村上が90年代以降、戦争や性暴力を主題の一角に据え、この小説にいたってはきわめて具体的な事件を連想させる社会性を物語に与えたことは作家の内的な必然、暴力が蔓延する社会、いずれの要請に基づいているのであろうか。
 最後に一言付言するならば、私はかなり熱心に村上の小説を読み継いで来たつもりだ。具体的に説明することは難しいが、『1Q84』は彼の小説の中でも言葉が最も念入りに彫琢されている印象がある。最初に私は精密な建築と評したが、おそらく村上の中でも最も長い小説でありながら、表現に関してもやや大げさにいえば一言一句ゆるがせにできないほどの完成度を感じるのである。この点もこの小説の大きな魅力をかたちづくっている。おそらく村上は楽しみながらこの小説を書いたことと思う。上下巻ではなく1巻、2巻と表記されているが、完結性が高いので『ねじまき鳥クロニクル』のようにさらに続編が執筆されるとは考えにくい。作家にとって大きな達成感のある仕事と感じられたことだろう。
by gravity97 | 2009-06-14 10:11 | 日本文学 | Comments(0)
b0138838_19281824.jpg 17回忌ということであろうか、『ユリイカ』の最新号で中上健次が特集されている。10年ほど前に集英社版の全集が刊行された頃は中上に関した記事や特集が相次いだが、それ以来、久しぶりにまとめて中上論を読む機会となった。
 中上が没してもう16年が経つ。私は生前から作品を読み継いでいたが、作家の死後もいくつもの注目すべき関連書が発表されてきた。その中でも私が感銘を受けたのはいわゆる熊野大学、新宮の部落青年文化会における中上の連続講演の記録である。柄谷行人と渡部直巳が編集し、2000年に上梓された『中上健次と熊野』の中に収められた一連の講演は日本の戦後文学、いや文学一般に関するきわめて犀利な洞察であり、しかもそれがその場に集った聴衆、おそらく知り合いを含めた郷里の青年たちを意識したきわめて平明な語り口の中で説かれていることに私は深い感銘を受けた。古事記からジョイスまで多くの先行作品を渉猟しながら文学の原型と類型、古典の語り、差別と文学といったきわめて根源的な問題をこれほどまで明快に語る点に私は文学者としての中上の類まれな資質を再認識した。とりわけ第一次戦後派に対する辛辣な批判は、私にとって目からうろこが落ちる思いであった。例えば部落差別と文学という問題を語る際にしばしば論及されてきた野間宏の『青年の環』を文字通り一刀両断という印象で切り捨てる鮮やかさはある意味で私自身がこれらの作家たちによって「呪縛」されていたことを自覚する契機ともなりえた。
 今回の特集は書き手においても主題においても二つの焦点を結んでいるように感じられる。書き手という点では一方で蓮實重彦や渡部直巳といった、中上と直接親交を結び、作家の生前より作品に対して批評を加えていた年長世代の批評家たちの論文と、例えば東浩紀や斉藤環に代表される、世代的に若くおそらく作家と直接の交渉がなかった批評家たちの批評である。渡部はこの特集に寄せた論文の冒頭で渡部や高澤秀次らによって中上の没後も続けられてきた熊野大学、新宮における中上をめぐる連続セミナーの運営を若い世代に完全に引き渡したと述べているので、この意味でも本特集は一つの移行を徴しているかもしれない。一方、論じられる主題においてもいわゆる秋幸三部作を中心とした完成度の高い前期の作品群を中心に論じる論文と早すぎる晩年の問題作、具体的には『異族』を中心とした議論とが拮抗している印象を受けた。年長の世代が秋幸三部作を中心に論じることが多いのに対して、若い世代がどちらかといえば後期の作品に論及している点は偶然の一致であろうか。
 寄せられた論考は充実したものが多く、読み応えがある。個人的な回想を交えて中上の死を語る蓮實の追悼的なエッセー。渡部は例によって周到なテクストの読み込みをとおして、中上と上田秋成の関係を論じる。『異族』とフォークナーの関係を論じた論文や同時代性という観点から、初期作品と松下竜一、さらには東アジア反日武装戦線を接続させる論文なども私の個人的関心と照応して興味深く読んだ。熊野大学における東浩紀のレクチュアを前提とした東と前田塁の対談では『異族』が議論の中心となっており、何度も批判されてきたこの作品の平板さをフラットといった概念に結びつける点はやや強引に感じるが、「キャラクター小説」という概念で中上の作品を読み解くあたり、なかなか示唆的であった。書き手の中にはこれまであまり感心したことのない批評家もいるが、総じてそれなりに興味深い論点が引き出されていることは端的に中上の小説のテクストとしての豊かさを証明しているだろう。
 これらの論考を通読したうえで一点のみ私見を示すならば、私はこの特集においても顕著な、『異族』に中上の小説の特異点をみる発想に異和感を覚える。このような議論は「路地」が消滅した後、物語がいかにして可能かという問いに始まり、その帰結として『異族』にみられる「平板さ」が批判されるというクリシェをとるのであるが、私はまず作家が物語の帰趨に責任をもつという発想に疑問を感じる。「路地」が消滅したとしても作家はその後日譚を語る義務はない。時間的に『地の果て至上の時』の後で執筆されたとしても、私は『異族』が「路地」消滅後の物語と想定される必然性が今ひとつ理解できない。つまりなぜ「路地もの」と『異族』を時間的な先後関係、因果関係として語られなければならないのか。この時期、同じように空間的な移動を主題とした小説としては『日輪の翼』、あるいは性愛という主題をデモニッシュなまでに深めた『讃歌』といった傑作が路地とは直接的な関係をもたないまま執筆されている。私は『異族』もこのような小説の一つであり、単に中上はこの小説を終わらせることができなかったのではないかと感じる。なぜ、『異族』のみが「路地もの」に拮抗する意味を賦与されねばならないのか。そこには中上という天才が早世したことへの痛恨の思い、作家の意図はともかくこの長大な小説が未完のまま終えられたことへの無念の思いが重ねられているように思う。没後16年を経て、いまだにかくも挑発的な議論を喚起する作品群を私はあらためて再読しなければという思いを強くした。
by gravity97 | 2008-10-31 19:28 | 日本文学 | Comments(0)

平野啓一郎『決壊』

 
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『新潮』に長期連載されていたとはいえ、平野としては『葬送』以来、6年ぶりの長編である。しかし優雅な芸術家小説『葬送』から一転し、凄惨きわまりない1500枚の物語には一片の救いもない。凶悪事件が頻発する昨今、この小説は例えば先般の秋葉原での無差別殺傷、続発する遺体損壊事件、インターネットを介した性犯罪などと関連づけて論じられることとなろう。しかし私たちが目を向けるべきは表面的な類似ではなく、これらの事件とこの小説が何と同期しているかという点である。
 決壊とは堤防や堤が崩れることであり、これまで堅く守られていた秩序が崩壊したことの比喩であろう。確かに昨今、日本という社会を少なくとも第二次大戦後、支えていた常識やモラルがいともたやすく突き崩されつつある不気味な感触を私たちは感じる。それは戦争や天災、テロといった目に見える崩壊ではなく、むしろ私たちの内部が蝕まれつつある予感である。今挙げた事件はその兆候であり、平野は小説家としての想像力を駆使して、かかる決壊の認識を一つの陰惨な物語として提示したといえるかもしれない。この物語は北九州、京都、東京、鳥取などの異なった都市を舞台として同時に進行する。一見ばらばらの物語を結びつけるのはインターネットであり、かかる「決壊」がインターネットの普及と密接に関わっていることを暗示している。平野はインターネットと親和した世代に属し、今までも小説の主要な小道具として携帯電話やPCを用いていた。最近の中篇『顔のない裸体たち』においてもインターネットによって媒介された性と暴力が主題とされていたことが想起されよう。平野は梅田望夫と『ウェブ人間論』という共著も著している。正直に言って私はこの対談に異和感を覚えた。インターネットで世界は薔薇色、ネットの中は善人ばかりといった梅田のオプティミズムはそれなりの見識であるから特に批判するつもりはないが、少なくとも文学は人間の暗黒面に関わるものであるはずだ。梅田の話に迎合していては作家として資質が問われるのではないかと考えていたところ、思いがけずこの暗澹たる長編の登場である。平野の愛読者としては逆に安堵した思いすらする。
 新刊でもあり、内容に深く立ち入ることは控えるが、いくつかの物語が錯綜しつつ進行する。一方で登場人物の人格の崩壊や家庭の崩壊といったいわば内部からの崩壊が描かれる。かかる主題は文学史にあってさほど新奇なものではない。これに対してこの小説がかくもセンセーショナルであるのは、インターネットを経由して外部からもたらされる未知の暴力が生々しく記されているからではなかろうか。例えば登場人物の一人はクラスメイトに対する陰湿な性的中傷を投稿サイトに書き込み、その報復として凄惨なリンチを受ける。登場人物の一人が「悪魔」を名乗る人物に殺害されることになったきっかけは彼が開設したブログの記事にあった。殺人事件の被害者と加害者のいずれに対しても心ない誹謗や中傷が投げかけられるが、多くの場合、それはネットへの書き込みというかたちをとり、あるいはネットを経由して実体化される。興味深い点はこれらの暴力が作品の形式、つまり文体としても実現されている点だ。かねてより私はインターネット上の掲示板への匿名の書き込みについて、その内容以前に文体、つまり単語の変換ミスの意図的な使用、絵文字や仲間内だけの特殊で野卑な言葉の多用といった文章の形式に強い嫌悪を感じていたが、この小説においては地の文の中にこれらの醜悪な文体が意図的に幾度となく挿入されることによって、私たちの日常的言語の中にインターネットを介した「おぞましい言語」が増殖しつつある状況が視覚化されている。これはまことに不気味な兆候である。知られているとおり、私たちは言語を自らの力で習得するのではなく、既に成立している言語というシステムの中に事後的に挿入されることによって、その体系に自身を馴致する。今後、インターネットを一つの参証源として言語のネットワークに囲い込まれる世代はいかなる文体を獲得することとなるだろうか。このほかにもこの小説の中には週刊誌の記事、TVでのインタビューやバラエティ番組でのタレントの発言といった私たちが日常でなじんだ多く匿名的な言葉が次々にコラージュされる。いずれも過剰な攻撃性において共通する。私は現在の日本を特徴づけるのは「犠牲者を非難する言説」の蔓延であると考える。社会的弱者や犯罪被害者、いわれなき差別の対象、本来ならば社会システムの犠牲者である弱者を逆に鞭打つ異常な言説はインターネットをはじめ、今挙げたようなメディアの中で増幅され、生きづらい社会を現出させている。平野はこれまでもテキストの視覚的な意味に関して自覚的であったが、コラージュが多用され、様々なフォントの活字が使用された独特の文体は、今述べた作品の主題と密接に関係している。
 物語の中に登場人物の一人が夫のブログを夫に知らせることなく盗み読むというエピソードがある。ブログはインターネットで公開されているから、正確には盗み読むという表現はあたらないが、ここでは配偶者の日記の窃視という谷崎的なモティーフが換骨奪胎されている。しかも妻はこのブログに対して匿名で書き込みをし、夫もそれが妻の書き込みとは気づかないというさらに倒錯した関係が結ばれている。さらに同様に書き込みを行い、妻が別人と誤認していた匿名の書き手こそ「悪魔」と呼ばれる殺人者であった。あるいは生の意味をめぐる「悪魔」の演説は直ちにドストエフスキーを連想させるが、彼の長広舌は絶命しようとする被害者の前でなされ、その模様は被害者の家族に送りつけられると同時にインターネットを介して公開される。匿名性と同時性、先行する作品に起源をもつ文学的主題がインターネットという場を経由して生じる歪みもこの小説の主題といえよう。インターネットが普及してまだわずか20年ほどにすぎない。しかしこの能動的で攻撃的なメディアが主体に及ぼす影響ははかりしれない。確かにインターネットは道具にすぎない。しかし本来道具にすぎないはずの、例えばカメラ・オブスクーラが、映画が、タイプライターが逆にそれを操る主体の内面をいかに変容させたかは、ジョナサン・クレーリーやフリードリッヒ・キットラーの近年の研究に明らかである。私たちはパンドラの箱をあけてしまったのではないか。炭鉱のカナリアではないが、かかる転機を極めて意識的に主題としたことにおいて『決壊』はすぐれて兆候的な小説といえよう。かつてポール・バーホーベンは映画の本質は暴力とセックスであると喝破し、実際にそれを体現するかのような怪作を確信犯的に次々と製作した。本書を読んで私はインターネットの本質もまた暴力とセックスではないかという暗然とした思いにとらわれた。そしてもはや私たちがそれを手放せないことも明らかである。
 最後に装丁について述べる。平野も自身のブログの中で言及しているが、菊池信義による装丁がすばらしい。タイポグラフィーのアクセントを効かした菊池らしいカヴァーもよいが、なんといっても黒く塗られた小口部分のインパクトが圧倒的である。単に内容を暗示した禍々しい印象を与えるだけでなく、読み進めるうちに小口部分のインクが指を、そして指を介して頁を汚す。本を汚すことなしに通読できない小説、このような実体性、物質性は私が本書の主題と考えるインターネット内のバーチャルなリアリティーの対極にある。同時に自らの手を汚しながら、このいたたまれない小説を最後まで読みぬく体験は、インターネットを用いることによって意図せずとも他者への暴力に加担するという、私たちの生の比喩であるかのようだ。
by gravity97 | 2008-07-12 21:38 | 日本文学 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック