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中村文則『掏摸』

b0138838_20361624.jpg 中村文則の作品を読むのは初めてではない。以前に『最後の命』という長編を読んだことがある。面白くなかった訳ではないが、暴行殺人、ホームレス同士の集団レイプ、あるいは自殺念慮といった主題があまりに重いというか露悪的に感じられて、辟易した。今回、本書を読んだこともあり、いくつかの短編に目を通してみたが、児童虐待や性犯罪といった物語の連続にいささか食傷してしまう。それらと比較する時、本書はきわめて完成度が高い。本書が大江健三郎賞を受賞したこともうなずける。全くの偶然であるが、私はこの一月ほどの間にこの賞を受賞した作品を立て続けに読んだ。岡田利規の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』と星野智幸の『俺俺』、そして本書である。全くテイストの違うそれぞれにめちゃくちゃな小説に自らの名を冠した賞を与える選者大江の感覚も相当に凄い。岡田の作品については以前、岡田の演劇論と関連してこのブログでも触れたが、これら三冊は個別に論じるに値するだろう。
 ひとまずは中村文則の『掏摸』について。以前より世評の高かったこの小説を文庫化されたタイミングで通読する。タイトルのとおり掏摸(すり)を生業とする男の一人称によって語られるこの物語も実に重い。扱われるテーマは掏摸にはじまり、殺人、売春、万引き、そして育児放棄。登場する人物もことごとく救いがない。この意味で本書はほかの中村の小説とさほど変わるところがない。なぜ本書は特に優れているのか。それは一見、現代風の風俗をとらえながらも、作者が世界文学の中で繰り返し問われてきた普遍的な主題に正面から取り組んでいるからだ。この点を論じるうえでは内容に深く立ち入る必要がある。具体的なストーリーの細部にも触れることを断ったうえで若干の分析を加えたい。
時系列はやや錯綜するが、ストーリー自体は比較的単純である。腕のよい掏摸として都会の雑踏にまぎれこんで生活する「僕」は、かつて一緒に仕事をした立花という男と出会う。仕事といってもまともな仕事ではない。闇の組織に誘われて、主人公と仲間の立花、石川の三人はある老人の家に押し込み強盗を働いたのだ。正確にいえば、三人は命じられたとおりに老人ではなくそこにいた家政婦兼愛人を縛り上げて監視し、同行した名も知らぬ男たちが老人から金と書類を奪ったのであった。三人は自分たちの役目がさほど必要とも感じられないことに不審の念を抱きつつも、報酬の500万円を受け取って別れる。名のない男たちを途中まで車で送るように命じられた石川は別れ際に「僕」に翌日の待ち合わせ場所を記したメモをこっそりと渡す。しかし翌日指定した場所に石川は現れず、生き延びたければ口を閉ざせという何者かからのメッセージがその場にいたホームレスの老人の口をとおして「僕」に伝えられる。時をおかずして、書類の強奪が目的と聞かされていた強盗事件の現場で老人の死体が発見され、おそらくこの強盗殺人と関係があるいくつもの殺人や自殺がほぼ同時に発生していたことを「僕」は知る。闇の組織の巨大な陰謀が進められていたのだ。再会した立花は「あれが、また何かやるらしい。巻き込まれないうちに消えたがほうがよい」と不気味な忠告を残して姿を消す。
 同じ時期に「僕」は近くのスーパーで幼い息子に万引きをさせる女と出会う。「僕」から店側に疑われていることを耳打ちされてあやうく検挙を免れた薄汚い女は1万円で自分を買わないかと「僕」を誘う。まことにこの作家らしい救いのないエピソードを経て「僕」は次第にその少年にシンパシーを抱くようになる。おそらく「僕」も子供の頃に親から虐待を受け、少年にかつての自分を投影していることが暗示される。「僕」は少年に万引きや掏摸のテクニックを教え、両者の間には人間的な交流が生まれる。少年が母親と暮らす男から暴行を繰り返されていることを知り、「僕」は少年が保護施設に入所できるように手続きを始める。その矢先、「僕」は思わぬかたちで先の強盗事件の首謀者である木崎という男と再会する。「僕」が知らずして木崎から財布を盗み取ろうとした場を取り押さえられたのであるが、この再会は木崎によって計画されたものであり、木崎は「僕」に掏摸としての腕を生かしてこれから数日のうちに三人の男から三つの品を盗めと命じる。木崎は「僕」が完全に木崎の支配下にあることを宣告した上で、もし逃げれば女と少年を殺す、失敗した場合は「僕」を殺すと告げる。前回の強盗と同様にその目的や背景は語られることがない。「僕」は果たしてこの仕事をやり遂げることができるか。ここではその帰趨については触れない。
 木崎という男の造形が秀逸である。「ブランドのわからない黒のスーツを着込み、サングラスをし、ブランドのわからない時計を左手に巻いて」登場した木崎は、その場にいたやくざ風の男たちを一瞬にして威圧する。ドストエフスキーの「罪と罰」を知っているかと問いかけた後、木崎はそこにいた男の一人をいきなり理由もなくめちゃめちゃに殴打し、「突然こういうものを見ても動じないことだ」と告げる。ほとんど理由が説明されることのないこの男のふるまいから、私はこのブログでも論じた一つの小説の登場人物を連想した。コーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』中の「判事」である。残虐なインディアン狩り集団に随行する容貌魁偉なこの巨漢は虐殺したインディアン部族の中から一人の少年を救い、しばらく連れ回した後、思い出したように殺してその頭皮を剥ぐ。意味を欠いた酷薄な行動は木崎と判事に共通し、主人公たちに不気味な寓話を語る点でも似ている。あるいは圧倒的な存在感をもちながらほとんど人物の背景が語られない点において同じマッカーシーの原作をコーエン兄弟が映画化した「ノーカントリー」に登場し、ハビエル・バルデムが怪演した不気味な殺し屋が連想されるかもしれない。
 現実にありうるあらゆる悲惨を詰め込んだ点でこの小説はリアリズムかもしれない。しかし木崎という男の存在はリアリズムを内部から食い破る。例えば石川は行方をくらまし、「僕」はホームレスの老人から警告を受け取る。これが現実であるならば、石川は強盗を実行した名前のない男たちからおそらくは暴力を受けて「僕」と横浜で待ち合わせしたことを自白させられた後に殺されたのであろう。実際、木崎は石川が「消えたよ、跡形もない。正確にいえば、歯だけ残っている」と「僕」に告げる。この小説の中には絶えず暴力の風が吹いている。しかし木崎をめぐる暴力は超越的で現実感がない。人間的な個性をもたず、絶対悪を体現したかの木崎は一つのメタファーではないか。中村は文庫版のあとがきで次のように書いている。「この小説を書く前、『旧約聖書』を読んでいた。偶然ではなく、もちろん意図的に。この小説には、そのような古来の神話に見られる絶対的な存在/運命の下で動く個人、という構図がある」木崎がドストエフスキーについて尋ねる場面も象徴的だ。「僕」に対して絶対的な存在としてふるまう木崎とは神、もしくは運命の暗喩ではなかろうか。木崎は「僕」に対して、もはや自分の命令を受け容れるより術がないことを宣告したうえで次のような寓話を語る。奴隷制度が存在していた頃、あるフランスの貴族が使用人として美少年を買い取る。貴族はその少年の一生をあらかじめノートに書き込んだうえでその通りの人生を送るように差配する。偶然に起きたような出会いや別れも全ては貴族によって段取りされたものであった。最後に貴族は少年にノートを見せて、少年の一生があらかじめ自分によって定められていたことを知らせ、そこに記されているとおりに少年を殺すというものだ。これが神、あるいは運命と人との関係であることは明白だ。木崎は次のように語る。「他人の人生を、机の上で規定していく。他人の上にそうやって君臨することは、神に似ていると思わんか。もし神がいるとしたら、この世界を最も味わっているのは神だ。俺は多くの他人の人生を動かしながら、時々、その人間と同化した気分になる。(中略)あらゆる快楽の中で、これが最上のものだ」この小説ではこれまで多くの作家によって繰り返し問われてきた神と人との関係が再話されているといってもよかろう。中村が小説の中で繰り返し凄惨な事件、残酷な境遇に置かれた人々を主題とするのは一方ではかかる状況の中にあっても神、あるいは神の摂理は存在するかというまことにドストエフスキー的、あるいは「ヨブ記」的な問いかけであり、この問題は直ちに私たちは真に自由であるかという問いにつながる。中村はクリスチャンではなかろうし、私たちが生きる現在はもはやかかるナイーブな問いを許す時代ではない。ことにあの3月11日以降、来るべき震災という迫り来るカタストロフ、放射能汚染という潜み行くカタストロフの下にいる私たちにとって、突然犬のように殺されたり、住む土地を追われたりすること、理不尽な苦痛を味わうことはありえないどころではなく、大いにありうる未来なのである。
 神なき時代にあって生の無残さといかに対峙するか。この問題は20世紀文学においても一つの主題系を形成している。セリーヌやカミュ、あるいは今挙げたマッカーシーを挙げてもよい。私たちはこの系譜をいくらでも拡張できる。しかし神という問題が直接に作品で言及されることの少ない日本において、この問いは十分に深められたとは言い難い。今述べたとおり、この小説は神、この言葉がそぐわなければ、運命や摂理と言い換えてもよいが、かかる存在と個人の関係を正面から主題に据えた点において異例であり、そして本書は両者の対立を超えた一つの地平を垣間見させる点において注目に値する。本書は18の章から成立しているが、終盤近くにストーリーとは直接関係のない奇妙な断章が挿入されている。それは「僕」が子供の頃から幻視した「塔」についてのエピソードだ。不幸な少年時代に「僕」は他人から盗むことを覚える。「光が目に入って仕方ないなら、それとは反対に降りていけばよい。(中略)今こそ、あの塔は、僕に何かを言うだろうと思った。あの塔は長く長く、立ち続けていたのだから。だが、塔はなおも、美しく遠くに立つだけだった。恥の中で快楽を感じた僕を、肯定も、否定もすることなく。僕はそのまま目を閉じた」このパッセージにこそ本書の核心が凝縮されている。木崎が支配する世界、神によって定められた世界のさらに背後に屹立する塔のイメージは鮮烈で喚起的だ。主人公は塔に励まされるかのように、かかる残忍な世界の中でも自らの意志をもって生きようとする。小説の最後で「僕」は木崎から掏った500円硬貨を空中に投げる。このエピソードに先に触れた「ノーカントリー」の原作であるマッカーシーの『血と暴力の国』においても、殺し屋アントン・シュガーが相手を殺す前にコインを投げて、裏か表のいずれであるかを問うイメージの反映を見ることは深読みに過ぎるだろうか。空中に投じられたコインとは自由意志の象徴であり、これゆえこの希望のない小説は結末で一縷の光明が差す。
 あとがきによれば、本書には『王国』という続編が存在するらしい。投じられたコインはいかなる未来を照らしたか。読まなければなるまい。
by gravity97 | 2013-05-26 20:42 | 日本文学 | Comments(0)

『オキナワ 終わらぬ戦争』

 「コレクション 戦争×文学」について評するのは三回目となる。このコレクションに収められたアンソロジーを読むこと自体が三回目であるから、読むたびに書評として応接していることになるが、無理もない。いずれの巻もなおざりに読み飛ばすことができない重い内容だ。この暑い夏に私が手に取ったのは5月に刊行された「オキナワ 終わらぬ戦争」。沖縄を舞台にした小説に関しては国書刊行会による「沖縄文学全集」というアンソロジーが先行しているらしいので、作品の選定自体は比較的容易であったかもしれないが、ほぼ半世紀にわたり、小説や詩、川柳、戯曲にいたる幅広い表現を通じて戦争、差別、暴力といった主題を扱った作品が丹念に集められている。
 全20巻から成るこの叢書はそれぞれ5巻ずつ、「現代編」「近代編」「テーマ編」「地域編」という四つのテーマに分けられている。このうち「地域編」は満州、帝国日本と朝鮮・樺太、帝国日本と台湾・南方、ヒロシマ・ナガサキ、そしてオキナワによって構成されている。前の三者は中国、北方、南方という日本のかつての版図と関わり、後の二つは第二次世界大戦によって日本国内で最も熾烈な被害を受けた土地と関わっている。このうちかつての日本の植民地については今日も検証されるべき多くの問題が残されており、例えば近年、満州や南方諸島が美術作品としていかに表象されてきたかを主題とした興味深い展覧会が次々に開催されたことは記憶に新しい。これらの地域のうち、オキナワの受難の特殊性は「終わらぬ戦争」というサブタイトルが雄弁に語っている。広島、長崎に今日も残存する被爆の問題を別にするならば、満州や朝鮮、南方諸島において第二次世界大戦はひとまず終結した問題だ。しかし沖縄のみ、大戦の爪痕は今も生々しく残されているのだ。すなわち大戦後もアメリカに統治され、日本に返還された後も広大なアメリカ軍の基地が残留し、基地に由来する事故や兵士たちによる市民への暴行が続く。国土のごく一部にすぎない沖縄県に米軍基地の大半が存在し、政権が交代してもその一部を移転すらできないという苦い体験を私たちは味わったばかりである。「ヒロシマ・ナガサキ」の巻末年表は福島第一原子力発電所事故で終わっていたが、琉球処分と関わるいくつかの事件で始まる本書の巻末年表も2011年に集団自決をめぐる裁判で大江健三郎・岩波書店が勝訴したという記事で終わる。私たちはなお戦争の中にいるという思いが強い。
 内容について触れよう。高橋敏夫の解説によると本書は琉球処分をめぐる沖縄の近代を背景とした作品による第一部、沖縄戦とアメリカの軍事支配を描いた作品による第二部、そしてヤマトの作家による沖縄を主題とした小説を集めた第三部から構成されているといえよう。書き手がウチナンチュであるかヤマトンチュであるかによって私は作品の内容が区別できるとは考えないので、このような構成には疑問を感じない訳でもないが、今は措く。興味深い点は、私たちが沖縄と戦争との関係を考える時、すぐに思い浮かべる第二次大戦末期の沖縄戦を直接の主題とした作品は11編の小説中、霜多正次の「虜囚の哭」と田宮虎彦の「夜」というわずか2編であることだ。逆に言うならば沖縄戦に触れずとも沖縄という地域が琉球処分以降、常に戦争と暴力の下にあったことが暗示されている。日本にこれほど長きにわたってかかる苦痛を経験した地域がほかにあるだろうか。実際にいくつかの小説においては戦争と暴力がこの島の歴史を貫通していることが暗示されている。形式的にもこの点をみごとに作品化した桐山襲の『聖なる夜 聖なる穴』については後で詳しく触れる。知念正真の戯曲「人類館」では調教師と沖縄出身の男女一組を主人公として、交錯する支配/被支配の関係が役割のめまぐるしい交代、多様な言語を用いて暗示され、沖縄の人々が生きた長い苦難の時代が示されている。「人類館」は1903年に大阪天王寺で開かれた内国勧業博覧会で「学術人類館」なるパヴィリオンが設置され、「アイヌ」「朝鮮」「琉球」などといった看板の下に現地の人々が「展示」されたという差別事件に想を得たものであろうが、沖縄において戦争と差別が分かちがたく結びついている点も本書は明らかにしている。琉球処分以前は中国と関係が深く、東アジア一円と密接に結びついた沖縄はさらに戦後、大量のアメリカ兵が駐留したことによって、ウチナンチュ、ヤマトンチュ、朝鮮人、ニグロを含むアメリカ人といった多様な人種が時に自らの意図に反して生を営むこととなった。このような社会は重層的な差別構造を生む。本書に収録された作品の大半においてはウチナンチュとヤマトンチュ、つまり沖縄と日本の関係が問われるのに対して、大城立裕の「カクテル・パーティー」と又吉栄喜の「ギンネム屋敷」はともに沖縄に生まれ、芥川賞を受賞した作家の佳作であるが、前者では日本人とアメリカ人、後者では日本人と朝鮮人の間の差別的な葛藤が仮借ない筆致で描かれる。戦争と差別はいわばコインの両面であり、これらの作品において戦争は少なくとも前景化されることはないが、物語の暗い背景を形作っている。
 戦争が暴力機械であるならばその中心に位置するのは誰か。本書は日本において長くタブーとされてきたこの問題に鋭く切り込むだけでなく、同じ暴力機械が戦後も駆動していることを白日のもとにさらす。戦争の中心、それはいうまでもなく天皇制だ。長堂英吉の「海鳴り」、「人類館」、「夜」、あるいは岡部伊都子の「ふたたび『沖縄の道』」、そして灰谷健次郎の「手」といった主題も時代も異なった多くの作品、いや収録されたほとんど全ての作品の中にあたかも不吉な記号であるかのように「テンノウヘイカ」あるいは「天皇陛下」という言葉が刻まれていることを私たちは知る。20巻から構成されたこのコレクションの中でも、天皇裕仁に対する呼びかけは本書が一番多いはずだ。そこには沖縄という美しい島が天皇の名のもとに蹂躙されたことに対する作家たちの激しい怒りがうかがえようし、天皇が敗戦後、アメリカによる琉球諸島の軍事占領を希望したという史実も反映されているだろう。この暴力機械は戦後も軍隊に代わって警察や機動隊を身にまとって、沖縄の地を苛んできた。さすがに裕仁は沖縄の地を踏むことはできなかった。しかしその名代としての皇太子の沖縄訪問が直ちに本書に収録された二つの小説の主題へと転じている点はなんとも暗示的であり、天皇一族に対するこの島の拒否反応の激しさを示している。一つは沖縄出身の目取真俊の「平和通りと名付けられた街を歩いて」であり、もう一つは東京に生まれた桐山襲の「聖なる夜 聖なる穴」である。前者は1983年7月に皇太子夫妻が日本赤十字社の名誉副総裁として那覇で開かれた献血運動推進全国大会出席のため来沖した際に行啓の順路となった街路から物売りが暴力的に排除された事件、そして警察によって厳重な警戒が敷かれる中、少年と老婆によるささやかな反抗を扱っている。ここで描かれる出来事はかつてコペンハーゲンで起きた天皇襲撃を連想させないでもないが、おそらくは作者の創作であろう。これに対して「聖なる夜 聖なる穴」は現実の事件、すなわち1975年7月17日に沖縄海洋博開会式に出席するために来沖した皇太子夫妻が戦跡のひめゆりの塔を訪ねた際に火炎瓶を投げられた事件に向かって収斂していく。しかしほぼ時系列に沿って語られる目取真の短編とは異なり、この中編は説話論的にかなり複雑な構造をとる。この優れた小説は現在、おそらく本書によってしか読むことができないであろうから、ここでは内容にも立ち入りながら若干の分析を加えておきたい。
 この小説では時代を違えたいくつかのストーリーが並行する。しかもそれらは1872年の沖縄処分から1972年の沖縄返還まで一世紀の振幅を伴っているのだ。冒頭と末尾に語られる二つの史実、70年のコザ暴動、そして75年の皇太子へのテロ未遂をはさんで沖縄と日本の歪んだ交渉史が入子構造の複雑な語りの中に語られる。開発の調査に沖縄を訪れたヤマトンチュの技師とコザの娼婦の間の一夜の物語、そして二人のかみあわない睦言の中に登場する一人のテロリストの独白、そして琉球処分直前に沖縄に生まれ、県費留学生として日本に渡り、明治天皇の拝謁の栄に浴しながらも、沖縄に戻るや日本国家の走狗として沖縄の山林を収奪し、最後には狂死するジャハナと呼ばれる男の生涯の物語、さらにテロリストが皇太子を待ち伏せする洞穴の中で幻視する沖縄戦で惨死した娼婦たちの物語。これらの物語を媒介するのは性的な暗喩に富んだ穴としての洞窟、そしてなによりも天皇制であろう。従来の物語は唯一の話者によって私有されてきた。このような語りはあからさまに天皇制の隠喩であったが、この作品においては複数の話者、しかも多く死者の独白が幾重にも重ねられることによって、小説の形式の面でも唯一的なイデオロギーによる束縛を解体し、歴史の私有を拒否するのである。桐山はこの小説の中で詩的言語を自在に駆使しながら、この重い内容をはらんだ小説の主題と形式をみごとに一致させている。
 桐山は連合赤軍や東アジア反日武装戦線といった70年代にあって体制にまつろわぬ者たちを一貫して作品の主題に据えてきた。初期の代表作である「パルチザン伝説」を発表した後、「週刊新潮」の悪質な宣伝によって右翼からの攻撃が始まり、桐山は一時沖縄に避難し、その印象を「亡命地にて」という旅行記風の短編にまとめている。桐山の沖縄への共感はこの際に生じたかもしれない。しかし早世したこともあり、「首都の街路に炎の絶えていく」時期に闘争を続けた者たちへの哀切に満ちた共感をたたえた一連の作品を今日読むことは難しい。桐山の作品はいずれも完成度が高いが、その中でも白眉とも呼ぶべき「聖なる夜 聖なる穴」が今回、このコレクションの一冊に収録されたことは、その内容から考えてもきわめて適切であり、この機会に多くの読者の手に渡ることを望みたい。 
 最後に一言付け加えておきたい。このブログで以前、高橋哲哉の『犠牲のシステム 福島・沖縄』を取り上げた。先ほど私は、これほど長きにわたって苦痛を経験した地域が沖縄のほかにあるだろうかと述べた。この言葉は今日大きな留保が必要だろう。これから福島県に住む人々も沖縄とはまた異なった耐え難い苦痛を経験する可能性が高いからだ。そしてこのような苦痛は原子力発電所が立地する地域であればどこの住民が味わってもなんら不思議はない。しかし政府は次々に原子力発電所を再稼働して、国家のための棄民政策を改めようとはしない。オキナワからヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマ。これらの地域は完全につながっている。琉球処分から一世紀半が経過しようとしている。そこから垣間見えるのは国土が(砲火による/放射能による)焦土と化しても、多くの「国民」が(戦争による/被曝による)犠牲となったとしても天皇や電力利権を死守しようとする日本という国家の本質である。
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by gravity97 | 2012-08-06 20:54 | 日本文学 | Comments(0)

古井由吉『仮往生伝試文』

b0138838_20441054.jpg 古井由吉は以前より気になっていた作家であるが、作品が比較的入手しにくかったこともあり、読む機会を逸していた。今春より河出書房新社より自撰作品全八巻の刊行が始まり、最初の配本となった『杳子・妻隠/行隠れ/聖』を書店で手に取るや、私は一頁も開くことなく直ちにレジへと直行した。中身を読むまでもない。菊池信義の入魂の装幀がすばらしいのだ。カヴァーの紙質や色合い、表題の字体と配置。デザインに関しても目次から奥付まで頁の端々に装幀家の気合いが感じられる。これらは電子書籍では決して味わうことのできない書籍の魅力であり、書籍とは単なる情報の集積ではなく、それ自体がアートワークであることをあらためて実感する。
四篇の小説が収められた『杳子・妻隠/行隠れ/聖』も不思議な読後感を残した。そして二回目の配本となる『仮往生伝試文』は紛れもない傑作である。しかしながらこれほど論じることの難しい小説もあまり例がない。全部で13の章から構成されているが、たとえば「厠の静まり」と題された最初の章の冒頭部を示す。

 ―されば、まことに思ひ出でむこと、かならず遂ぐべきなり。/今日は入滅という日に、寝床の中から弟子に命じて、碁柈を取り出させ、助け起き直らせてそれに向かうと、碁を一柈打たん、と細い声で甥にあたる聖人を呼んで、呆れる弟子たちの見まもる中、念仏も唱えずに石を並べはじめる。たがいに十目ばかり置いたところで、よしよし打たじ、と石を押しやぶり、また横になる。/多武峯の增賀上人の往生の話である。甥の聖人がおそるおそる今の振舞いの訳を聞くと、むかし小坊師であった頃、人の碁を打つのを見たが、ただいま念仏を唱えながら、心に思い出されて、碁を打たばやと思ふによりて、碁を打ったのだと答えた。

 これは一体何だろう。擬古文が用いられ、内容からもなんらかの古典が引かれていることが推測される。しかし「多武峯の增賀上人の往生の話である」という一文は何か。ここには別の話者が暗示されている。読み続けるうちにこの小説の構造はおぼろげに明らかになる。古典の物語を引用しつつ、作者であろう語り手がそれに対するコメントを加えることによって物語は進む。いや、物語と断じるのは早すぎる。しばらく読み進めると今度は唐突に日付とともに競馬の話が語られ、明らかに日記の一部が挿入されるのである。つまり古典の引用とそれに関する随想、さらには日記というレヴェルの異なったディスクールが混然と一体化されてこの稀有の小説は成立しているのである。
 私には古典の素養がないので詳細はわからぬが、冒頭のエピソードは『今昔物語』から引かれたらしい。また作中には『明月記』と明らかに出典を記して言及される挿話もある。『今昔物語』の本歌取りからは誰でも芥川龍之介の王朝ものを想起するだろう。実際に『仮往生伝試文』の中には芥川の「羅生門」についての言及さえ認められるのだ。しかし芥川が「今昔物語」中の物語を語り直すのに対して、古井は「今昔物語」と『仮往生伝試文』の間、平安と現在を往還しながら語る。日記の挿入からも明らかなとおり、ここには古井という明確な話者がいる。それにもかかわらず一貫して小説を特徴づけるのは語り手の圧倒的な希薄さだ。一人称で語られながらも、作者の存在感はほとんど感じられない。比較的印象の近い作品としては古井が大学の卒論で取り上げたというカフカの一連の「小説」くらいしか思い当たらない。(フランスのヌーヴォー・ロマンは作者の不在それ自体を作品の主題としているから、明らかに異なる)
 当然ながら内容を要約することはきわめて難しい。要約をすり抜けるように次々に話題が展開する。しかしながら全体に共通するテーマは明らかだ。タイトルが示すとおり、往生、すなわちこの世からあの世への転生である。このような主題は今示した冒頭の一節が上人の往生に関わる話であったことからもうかがえようし、実際この物語は多くの往生譚を含んでいる。古典からの引用ということで上人、つまり徳の高い僧の往生をめぐる逸話が多いが、盗賊や下人の往生に関する話もあり、さらに現代を生きる作者の周辺における死をめぐる逸話も次々に開陳される。しかし「死」が主題とされているにもかかわらず、通常であればはらむ重さは全く感じられず、全体を奇妙な透明感が漂っている。それは死が死そのものではなく往生、つまりこの世からあの世への移行として語られるからであろう。そしてこの移行は必ずしも明瞭に画されることはなく、いたるところでこの世とあの世は連続していることが暗示されている。冒頭の章に次のような印象的な文章がある。「ところでいつ往生したことになるのだろう、この僧は。もちろん、伊予の古寺の林の中で死んだ時だ。しかしそれまでの数十年の間、往生を念じながら東塔の厠の中でおぼえた静まりが、たえず続いていなかったか。それが往生だとはいえない。寿命がまだ尽きていない以上は、さまざま曲折を経る」つまり『仮往生伝試文』においては死と生を往還可能な二つの相としてとらえ独特の死生観が提示されている。余談であるが、私は冒頭の碁打ちのエピソードから私はやはり乾いた笑いともに近似した主題を扱った小松左京の「安置所の碁打ち」という短編を連想した。かかる往還の自在さは内容のみならず、古典の引用やパスティッシュとしての再話ではなく、古典の物語と作者をめぐる現実の間を地の文の連なりの中で往還するテクストの形式にも明らかに反映されている。たとえば「物に立たれて」という章ではタクシーの運転手にとって人影の全く見えない客がいるという話から、百鬼夜行の道中に出くわしたため、運悪く姿を消されてしまい、誰からも相手をされなくなる不運な男、おそらく「今昔物語」に典拠をもつ物語が引き出され、「憂ひなきにひとしく」という章では昨今、人が死ななくなったという嘆息に続いて、閻魔から現世に差し戻された男が亡者の中に取り残されて惑う話が語られる。唐突に突き合わされる物語に最初は困惑した私たちも読み進むにつれて、この小説の独特のリズムになじんでくる。古典が引用される箇所は多くの場合、なんらかの物語性を内在させているが、それらが作者=語り手の恣意によって次々に中断し、別の脈絡にとって変わられ、作者のとりとめのない随想のような文章の中に紛れていく。さらに時折事実関係を記した日記体の文章も重ねられる。往生とは越境であるとするならば、この小説では生と死、フィクションと現実、事実と印象、王朝と現在、現世と異界、さまざまな境界が軽々と踏み越えられ、そもそもそのような境界が存在するかが問われる。そして最終的には果たして小説といったかりそめの現実が存在するかといったきわめて根源的な問いへと読者への思いを向けるところにこの作品の凄みがあるといえよう。
 決して読みやすい小説ではないし、読み通すにはそれなりの覚悟も必要と感じられるが、これまで日本語で書かれた「小説」の中でも特筆に値する傑作であることを私は確信した。高い抽象性を帯びた物語の中に時折のぞくなまめかしいエロティシズムについてはここで論じる余裕がなかった。芥川賞を受賞した『杳子』は1971年、本書は1989年に発表された。以後も今日にいたるまで古井の作品は大きな変貌を遂げていると聞く。このたびの作品集の刊行はこの特異な作家の全体像を正面から受け止めるよい契機となるだろう。
by gravity97 | 2012-05-22 20:46 | 日本文学 | Comments(0)

『9・11 変容する戦争』

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 集英社の「コレクション 戦争と文学」についてレヴューするのは「ヒロシマ・ナガサキ」に続いて二度目となる。今回のテーマは「9・11 変容する戦争」。同時多発テロの日付がタイトルに掲げられているが、収録されている作品のテーマはもう少し広く、具体的には湾岸戦争、自衛隊のイラク派兵、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争から同時多発テロとそれへの報復としてのアフガニスタン空爆、イラク戦争、さらには地下鉄サリン事件や具体的に時期を特定しにくいシエラレオネでの内戦なども含まれている。巻末の年表は「1989年、ソ連、アフガニスタンからの撤退完了」という項目で始まり、「2011年、オバマ大統領がウサマ・ビン・ラディンの殺害を発表」という項目で終わる。年表を一覧してこの20年の歴史もまた「戦争」に血塗られたそれであったことにあらためて暗澹とした思いを抱く。そしてタイトルにあるとおり、この時期、私たちにとって「戦争」の内実は著しく変容した。収録された作品中、私にとって既知の作品は平野啓一郎の短編と、チェルフィッチュの公演として見た「三月の5日間」のみであった。しかし私は本書を通読して、日本が直接の当事者でないこれらの現代史の暗部、無数の暴力、虐待や虐殺に対しても多くの文学者が誠実に応接し、日本語による表現として多くの注目すべき作品を生み出していたことに勇気づけられる思いがした。
 収録されている作品は多いため、小説の中から特に印象に残った作品について記すこととする。冒頭のリービ英雄の「千々にくだけて」は作家の分身とも呼ぶべき日本に定住するアメリカ人青年がバンクーバー乗り継ぎでニューヨークの母のもとに向かう機内で同時多発テロの知らせを受ける場面で始まる。アメリカ人青年エドワードはバンクーバーのモーテルで長い待機を強いられる。モーテルのTVを介して映し出されるWTCの倒壊の模様、虚脱する人々、「悪を行う者は必ず罰せられる」と叫ぶ大統領、テロに直接に立ち会っていないがゆえにいわば傍観者として体験する9・11以後の寒々とした光景が、日本に住むアメリカ人青年という屈折した存在をとおして描かれる。小説の中に「見て、百十階の窓からOLが飛び下りている」という言葉がある。「見て」という言葉が暗示するとおり、惨事は目撃されるが、自らの身体を通して体験されることがない。戦争がTVの画面を介した別世界の事件のように感じられ始めたのは私の記憶では91年の湾岸戦争以来であり、WTCへの攻撃はそのスペクタクル性においてまさに映画の中の出来事のようであった。このような距離感、非現実感は本書に収められた多くの作品の通奏低音をかたちづくっている。「千々にくだけて」において何も声高に叫ばれることはない。しかしそれゆえさらに深く人々の無力感が行間ににじむ。タイトルは芭蕉の句からの引用である。「島々や、千々にくだけて、夏の海」、broken into thousands of pieces という一句は強い喚起力を備えている。砕けたのはWTCや航空機だけではないはずだ。
同時多発テロの「被害者」であるアメリカが中近東で引き起こした戦争と関わる一連の作品もそれぞれ味わいが深い。米原万里の「バグダットの靴磨き」はアメリカによって占領されたイラクにおける民間人の受難を描く。私はこの小説をガッサーン・カナファーニーの「ラムレの証言」と重ね合わさずにはいられない。テヘランに生まれたシリン・ネザマフィが日本語で書いた「サラム」は入国管理局に難民申請を行いながらも受理されないアフガニスタン難民の女性の通訳として弁護士たちとともに救援活動に携わる学生の視点で語られる。最初は割のよいアルバイトといった意識で始めた通訳の仕事を介して、語り手はレイラという難民女性をめぐる悲劇、明らかにアメリカの爆撃に起因する内戦によって強いられた彼の地の人々の流亡について思いをめぐらすこととなる。弁護士たちの活動も空しく強制送還されることとなったレイラの前で、語り手は自らの位置がどこにあるのかを自問する。同じ主題は岡田利規の「三月の5日間」にも認められる。私はチェルフィッチュの演劇をとおしてこの戯曲を知った。岡田もここで当事者でないことをどのように生きるかという問いを突きつける。知られているとおり、この戯曲は2003年3月、アメリカによるイラクへの空爆が始まった日に知り合った男女が渋谷のラブホテルで5日間にわたって連泊するという物語である。実際の上演に立ち会った際には俳優たちの独特の身振りや語り口に圧倒されてしまったが、この戯曲は当事者でないことの居心地の悪さを主題としている。空爆によってイラクで罪のない人々が殺されている同じ時間に自分たちは渋谷で無為の時間を送っている。登場人物たちは、まもなくイラクではアメリカによる空爆が始まることを自覚し、おそらくは自分たちがホテルを出る時には戦争が終わっているのではないかと予想さえする。遠い地で戦争が続く間、自分たちはライヴハウスで知り合った相手と行きずりのセックスを重ねる。登場人物の会話の端々、劇中のいたるところに突出する異和感や不全感はチェルフィッチュの公演の中でぎくしゃくとした身振りや唐突な場面転換によってさらに増幅された。しかしこのような感情はTV越しに戦争を体験していた私たちにとって決して覚えのないものではないだろう。
本書に収録された作品の中で私が最も鮮烈な印象を受けたのは楠見朋彦という私にとって未知の若い書き手の「零歳の詩人」という小説であった。この中編はボスニア・ヘルツェゴビナ紛争という、日本人にとって湾岸戦争やイラク戦争以上に知ることの少ない内戦を主題としている。この内戦がいかに凄惨なものであったかは情報としていったが、楠見は全く仮借のない筆致でこの地獄を描写する。主人公がアキラと呼ばれる日本人であることは読み始めるとまもなくわかる。アキラは〈トラヴィ〉、〈眼鏡〉、〈お喋り〉といったニックネームで呼び合う仲間たちと銃撃戦の続く戦闘地帯の防空壕に潜んでいる。アキラたちは時に戦争孤児を街から救い出し、共同生活を送っている。しかし戦争は次第に彼らのうえに残酷な影を落とす。楠見はアキラとは別に随所に非人称の視点を持ち込んで、この内戦が人間性を全く欠いた悪夢のような殺し合いであることを報告する。残忍きわまりない殺害方法、生きている人間、死体の区別なく身体を損壊する行為が繰り返される。捕虜や民間人に対する無意味な拷問や強姦、幼児や妊婦、老人に対する目をそむけたくなるような蛮行。これでもかとばかりに記述される身体の毀損についての言及は、ほかの小説にみられた傍観者然とした表現の対極にあり、読むうちに痛みさえ覚える。この作品は近年私が読んだ小説の中でも最も凄惨な内容である。しかし塚本邦雄に師事し、歌集も著しているという楠見の文体は独特の透明感と対象との距離感があり、残酷な内容にもかかわらず、最後まで一気に読ませる。この「戦争」の特性はもはや誰が敵なのか、なぜ殺しあうのかが全く理解できない点にある。蛮行を加える者たちは「兵士」と名指しされるだけで、それがセルビア人であるか、ボスニア人であるかは問われることがない。この内戦は現実でありながら現実感がない。読者は直ちに一つの疑問を抱くであろう。なぜこのような凄絶な戦場に日本人である主人公がいるのか。この問い自体は明確に答えられることはない。しかし回想の中でアキラはごく短く自分の過去について触れる。日本においてアキラの家庭は破綻していた。「あいつらは家族なんかではない。僕は家族である仲間であるみんなと、いつまでもここに居て戦争が終わるのを待ち、もう日本に帰ることはないだろう。なぜってこの地下壕には僕がいままで知らず、知らないながら求めていた本来の家族があるように感じるからだ」このような殺し合いの状況さえも、現代の日本より幸福であると述べるアキラ。このパッセージを読んで私は唐突に理解した。なぜ私たちは現在の日本が平和であると考えるのか。現在の日本、それは90年代の旧ユーゴスラビアと同様に苛烈な戦場ではないか。確かに私たちは武器を手に取って互いに殺し合うことはない。しかし生きることの息苦しさは近年ますます強まり、毎年多くの者が自殺し、一度失敗すると人は社会から自動的に排除されてしまう。このような生き辛さはいつの時代にも存在し、それゆえ多くの文学の主題となってきたのではないかという反問がなされるかもしれない。しかし私の経験に即すならば、弱者を切り捨て、強者の論理によって支配される傾向が強まったこの20年ほどの(いうまでもなくこの作品集が対象とする時代である)日本はそれまでの日本とは全く異質であり、戦争状態といっても差し支えはない。駅の構内で地下鉄サリン事件の犠牲者たちの傍らを脇目もふらず会社に向かう会社員たち、弱者を執拗にいじめ、誰も見ぬふりをする学校社会、辺見庸が、重松清がここに収録された作品の中で描写する戦地ではなく日本の情景は例えば遠藤周作や野間宏が戦争や軍隊を描いた小説と本質的に異なることはない。そして3-11以後、私たちは現実においても一つ間違えば殺されてしまうかもしれない戦場の中にいるかのような切実さとともに生きていないだろうか。実際に再び大きな震災が起きれば、「修理中」の原子炉が致命的なダメージを受け、東日本が壊滅し、全国に戒厳令が敷かれるというシナリオは決してありえないことではない。
本書の解説で高橋敏夫はアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『マルチチュード』を引きながら、今日の戦争の特質を次の四点に要約している。すなわち第一に戦争は国家の間で争われるのではなく、〈帝国〉内の内戦または警察的行動として実現される。第二にドマス・ホッブスが『リヴァイアサン』の中で描写した「戦争状態」として実現され、始まりも終わりもない。第三に場所に関しても限定されることはない。第四に戦争はもはや社会の例外状態ではなく、永続的かつ全般的、日常的な戦争状態として実現される。この指摘は本書で扱われている小説の主題をうまく説明しているが、警察的行動をとおして掣肘される、終わりなき戦争状態とはまさに3・11以後の私たちの日常を指し示すかのようである。本書の帯には「画面のすぐ向こうの戦火 文学はどう対峙したか?」という惹句がある。しかし原子力災害以後を生きる私たちにとって、戦火は画面の向こうではない。私たちとともにあるのだ。
by gravity97 | 2012-04-24 21:32 | 日本文学 | Comments(0)

『ヒロシマ・ナガサキ』

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 集英社から全20巻で構成された「コレクション 戦争と文学」という重厚なアンソロジーの刊行が開始された。初回配本として同時に刊行された「アジア太平洋戦争」と「ヒロシマ・ナガサキ」のうちひとまず後者を求めた理由が先般の原子力発電所事故にあることはいうまでもない。巻末に関連年表が付されている。そこに記された最初の項目は1942年6月18日、アメリカにおけるマンハッタン計画の発足であり、最後の項目は2011年3月11日の東日本大震災による福島第一原子力発電所での事故である。アルファとオメガ、年表が物語るとおり、私たちは核/原子力という災いのただ中に生を受けているのだ。
 収録された作品のセレクションがよい。小説のみならず短歌や川柳までジャンルは多岐にわたり、ヒロシマ、ナガサキを扱ったよく知られた小説から未知の作家、さらに意外な作家の作品まで幅広い範囲から選ばれている。ここでは主に小説について論じる。本書は四つの章から成り立っており、第一章にはもはや古典と呼ぶべき作品が収められている。原民喜の「夏の花」、大田洋子の「屍の街」、林京子の「祭りの場」、そして栗原貞子と峠三吉の詩は原爆投下直後の地獄のような状況を中心に描写している。続く第二部に収められた三篇はかろうじて死を免れた人々を待ち受ける過酷な運命を描く。すなわち「原子爆弾症」による悶死への不安に駆られ、アメリカ軍の調査団に実験動物のように扱われ、秋の枕崎台風によって再び大きな被害を受ける被爆から数ヶ月の間の物語だ。これに対して第三部に収められた五編において原爆投下は既に過去の事件である。しかしこの非人間的な兵器がなおも人々の精神を冒し、差別を生み、後続する世代にも理不尽な苦しみを与え続ける。最後の第四部では南太平洋における核実験、被爆孤児の処遇といったヒロシマとナガサキからやや距離をおいた問題が扱われ、きわめて暗示的な手法で原子力発電所における被曝の問題を扱った水上勉の短編も収められている。つまり本書は章を追うに連れて、あたかも爆心地(あるいは事故を起こした原発)から次第に遠ざかるかのように原爆が炸裂した瞬間から離れていく。しかしその被害はいつまでも終わることがない。どの作品も重い読後感を残す。
 率直に言って炎暑の中、被爆という重いテーマを扱った800頁にも及ぶ分厚いアンソロジーを読み続けることはきつい体験であった。子供の頃より、広島や長崎と関連した書物はずいぶん読んだつもりであったが、題名こそ知っていたとはいえ、ほとんどの作品が初読であることにあらためて気づく。収録された作品の初出と底本の一覧が巻末に付されているが、大半の作品は今日では図書館に足を運ばない限り読むことが難しいだろう。この一事を考慮しても本書が刊行された意味は大きい。一方でフクシマを経過したことによって、今日これらの小説の内容をさらに明確に理解できるようになった思いも強い。例えば「原子爆弾症」あるいは「原爆病」と一括される症状、つまり被爆時にあってはほとんど目に見えるダメージを受けていないにもかかわらず数日から数週間の時間を隔てて突然発症し、激しい苦痛を伴って死に至る一連の事例は、高線量の放射能を浴びた結果としての急性障害であり、同じ症状を私たちは20世紀後半にもチェルノブイリで、そしてJCOの臨界事故で身近に体験したのだ。あらためて私は原子爆弾という兵器と原子力発電所が全く同根の営みであることを思い知る。私たちはヒロシマとナガサキの死者たちから何も学ぶことがなかったのだ。
 個々の作品の完成度に関しては疑問を感じない訳ではない。(記憶による引用であるが)かつて中上健次が三田誠広のごときくだらない作家でも戦争があれば小説を書くことができるという趣旨の発言をしたことを記憶している。私も同感であるが、戦争があれば優れた小説を書けるかといえばまた別の問題であろう。私の考えでは収録された小説の一部は被爆という重いテーマを担うだけの文体や形式を備えていないため、平板ないし図式的な印象から免れえない。私が感心したのは川上宗薫の『残存者』という短編である。本書を読んで私は川上が長崎の被爆で母と妹二人を失い、牧師であった父も平和活動家に転じたことを初めて知った。川上が被爆体験を主題として執筆したおそらく唯一の作品である『残存者』は被爆後、廃墟となった街で邂逅する男女の感情の機微をとらえて淡々とした文章の中に緊張を湛えた佳品であり、原子爆弾や被爆といった事件はむしろ後景に退いている。知られているとおり、川上は70年代にはいわゆる官能小説の第一人者として勇名を馳せる。私はこの哀切な小説の作者としての川上と流行作家としての川上とのギャップに興味を抱く。意外な作家ということであれば、美輪明宏の『戦』という短編も疎開から被爆、終戦そして進駐軍といった敗戦期のいくつも主題を連ねて印象に残る。収録作家や作品がどのように選ばれたかは不明であるが、思いがけない書き手を含めたことによって、このアンソロジー自体が深みを増したことは、意外な作家、作品を含めることによって展覧会のパースペクティヴが広がることと同様である。
 今述べたとおり、多くの小説が核爆発という惨事のあまりの巨大さ、おぞましさの前に言葉としてはむしろ萎縮し、それゆえ厳しい読後感を残すのに対して、言葉によって惨事に拮抗しようとする意志が認められるのは井上ひさしの「少年口伝隊一九四五」である。当時の国民学校の六年生であった三人の少年を主人公に据え、被爆のため新聞を発行できない中国新聞の記事を口で伝えて人々に報道するという任務を与えることによって、物語の中に口語が導入される。そしてさらに原爆を正当化するトルーマンやチャーチルの発言、進駐軍を迎える政府の発表などを挿入しながら、枕崎台風の襲来にいたる広島の暑く残酷な夏の情景が浮かび上がる。無数の声が交錯するこの短編は戯曲に長じた井上ならではの多声的な構造をとり、口伝隊の少年たちの私的な声と、為政者や政府が発表する権力の声はしばしば対立する。いうまでもないが、今私たちも福島第一原子力発電所の事故をめぐって、無数の声が交錯し、権力の声が私たちの声を押し潰そうとする状況の中にある。この短編は一つの出来事の評価をめぐる闘争が端的に言葉をめぐる争い、多くの場合、話し言葉と書き言葉の争いであったことを暗示している。おそらく今日、ここには第三の言葉とも呼ぶべきインターネット上の言葉を重ねることもできようし(果たしてインターネットに蓄積されるおびただしい言葉は話し言葉なのであろうか、書き言葉なのであろうか)、この意味で原爆投下から半世紀以上が経った後に発表されたこの小説は今日でも実に生々しく感じられるのだ。
 読み進むにつれて爆心地から遠のいていく印象について記した。実際に発表された時期を参照しても、1947年に発表された巻頭の「夏の花」から2006年に発表された巻末の田口ランディの「似島めぐり」まで、発表された時期もほぼ年代順といってよい。つまり原爆投下から半世紀以上が過ぎた今日でもなお、ヒロシマとナガサキをめぐるヴィヴィッドな小説は営々と執筆されているのだ。これは映画から漫画にいたる多くの領域でも検証できる事実であり、文化が非人間的な状況に対する抵抗の礎であることを物語っているだろう。しかし同時に私はヒロシマ、ナガサキを主題とした小説を書くことの困難も感じる。ここに収録された小説がアンソロジーのほかの巻に収められる多くのそれと決定的に異なるのは、ほかの戦争体験とは異なり、原子爆弾とは体験した者の全滅を前提とした兵器であることだ。ヒロシマ、ナガサキがナチスの絶滅収容所、あるいは9・11と結びつくのはこの点においてである。証言者のいない事件をいかに表象するか。このブログで何度か取り上げた表象の不可能性という問題は必然的に本書の隠された主題を構成している。
 証言者が存在しない光景を表象することは可能か。津波によって全てが押し流された被災地、人間の立入りが禁じられ、家畜の死骸が累々と横たわるフクシマの平原。これもまた全滅の後の光景だ。果たしていつの日かそれらが小説や美術として表象されることはあるだろうか。
by gravity97 | 2011-07-31 21:59 | 日本文学 | Comments(0)

石牟礼道子『苦海浄土』

b0138838_21391125.jpg ほぼ半世紀前に発表された本書を初めて通読する。それはきわめて辛い体験であり、私は何度となく頁を閉じたいという思いに駆られた。
 水俣病といっても、今日では特別措置法や未認定患者をめぐる訴訟問題が時折話題となるくらいで忘れ去られつつあるが、かつては日本の公害問題の象徴として耳目を集めた公害病である。新日本窒素肥料株式会社(チッソ)が無処理のまま水俣湾に垂れ流した工場排水中の有機水銀が魚介類の中に蓄積され、食物連鎖の結果、水俣湾周辺の漁民を中心に水銀中毒による神経障害が発生し、多くの者が死に至った。さらに胎盤を通じて胎児の段階で水銀中毒となり、生まれつきの障害に侵される胎児性水俣病という悲劇を生んだ。水俣病という言葉から私は例えばユージン・スミスの有名な写真を連想するし、かつてこの問題を扱った吉田司の『下下戦記』を読んで感銘を受けたことも覚えている。しかしスミスの写真があくまでも水俣病をめぐる一つの情景を切り取ったものであり、『下下戦記』がいわば水俣病のその後をグロテスク・リアリズムという手法で描いた内容であったのに対して、本書からは水俣病を共に生き、告発する著者のひたむきな熱情が感じられた。
 水俣病は昭和30年代にいわゆる高度経済成長を突き進む日本の暗部を象徴している。私は本書を読んで、人間の尊厳という言葉に思いをめぐらした。水俣病が悲惨であるのはそれが人間から尊厳を奪い去るからである。数年前まで一家の大黒柱として、熟練した漁師として、地域のリーダーとして周囲から尊敬されていた人物が、口から涎を垂らし、言葉も思うにまかせず、全身を痙攣させて、ゆっくりと悶死していく。あるいは生まれつき言葉も話せず、意志を表示することさえできず、排泄すら自由にならぬ胎児性水俣病の患者たち。何の罪もない人々がおおよそ人間の想像できる最悪の地獄を味わうこととなったのだ。チッソが垂れ流した有機水銀は患者の身体だけでなく、家族や地域社会を破壊し、蝕んでいく。そもそも魚が、貝が汚染されているとするならば漁業を生業とする人々にとって生活の糧を奪われることに等しい。本書の中には詳しい言及はなかったがかつて『下下戦記』を読んだ際に、わずかな日当のために出漁した漁師たちが、港まで持ち帰りながらも汚染されているため市場に出荷できない魚をタンクの中に廃棄する寒々とした光景の描写に慄然としたことを覚えている。しかし当然の対価である漁業補償そして水俣病に対する補償に対しても、一般市民たちからは怠業あるいは詐病ではないかという白い目が向けられる。無責任な風説の広まりと病気に対するいわれなき差別は人間性の暗部をのぞきこむ思いがする。チッソという企業は単に患者の健康のみならず地域という共同体、人々の人間性までも回復不能なまでに破壊したのである。本文中に胎児性水俣病の患者を前にしたカネミ油症患者の青年が「神さま、罪のない人をなぜこんなにしたのですか。どうして救ってあげないのですか」とつぶやく描写がある。あるいは死後、病理解剖された胎児性水俣病の少年の耳から頭蓋にかけて残された縫合の跡とそこににじむ血の色。この本を読むことの辛さが理解していただけよう。
 それにも関わらず、私が本書を閉じることがなかったのは、『苦海浄土』が高い文学性を有しているからである。単に被害の実態を報告し、チッソを告発するだけのルポルタージュであれば、あまりの悲惨さにおそらく私は最後まで読み通すことができなかっただろう。しかし本書は水俣病を告発すると同時に、それによって失われた豊かな自然、自然との共生の記録であり、それによっても失われることのない人間性の記録でもある。例えば胎児性水俣病の患者である江津野杢太郎という少年について語るにあたって、筆者は練達の漁師である祖父の口を借りる。江津野家は祖父と祖母、やはり水俣病患者であるその息子、そして杢太郎少年を含む三人の孫の六人家族である。(杢太郎少年の母は出奔した)水俣病によって壊された家庭にあって、焼酎を晩酌に祖父は少年に語りかける。「杢よい、」と少年を呼びながら、老人は不知火の海の上がいかに豊かであるかを説く。「あねさん東京の人間な、ぐらしか(かわいそうな)暮らしばしとるげななばい。(中略)それにくらべりゃ、わしども漁師は、天下さまの暮らしじゃあござっせんか」池澤夏樹も指摘するとおり、水俣病の犠牲となった数百人の漁民に対置されるべきは、チッソが象徴する高度経済成長の恩恵にあずかった全ての人々、とりわけ都会に居住する者であったはずだ。これに対して身体の自由も奪われた孫の前で、老人が自分たちの暮らしの方が人間的であると淡々と言い放つ様に私は深い感動を覚えた。それにしても本書の語りを貫く水俣のダイアレクト(方言)のなんと豊かで勁いことか。この作品の魅力は多くを独自の語りによっている。『苦海浄土』は漁民たちと同じ言葉を操り、「あねさん」と呼ばれるまでに彼らの生活に入り込んだ石牟礼でなくては著しえなかった惨禍の記録であろう。
 むろんこの惨禍は人によってもたらされた。第一部の巻末に昭和34年にチッソによって提示された患者との間の「紛争調停案契約書」が掲載されている。水俣病が工場排水を原因とするものであることが判明しても新たな保証金を求めないことを条項に含んだこの契約書の内容たるや、死者に対して年30万円、発病した成人に対して年10万円という冗談のような見舞金を支払うことによって事態を隠蔽しようとする、人権意識のかけらもない内容である。あるいは本書の中には交渉の場で患者たちに傲岸な態度で接する厚生政務次官橋本龍太郎に関する短い記述がある。産業の発展のためには貧しい漁民たちの健康や命などとるに足らないとする「強者」のメンタリティは行間からも明らかである。しかし弾劾や告発は本書の目的ではない。本書が優れた文学作品である理由は怒りや苦しみの吐露ではなく、ゆえなくしてこれほどの業苦を味わいながらも、漁師たち、母たち、そして患者たちが水俣の豊かな自然の中で人間としての誇りを捨てることがなかったことを、彼ら自身の語りを通して、おおらかなダイアレクトによって記録しているからである。職業作家でもルポライターでもない一人の主婦がかくも言葉を巧みに用いて一つの悲劇を文学として結晶させたことに私は驚く。
 今日、未認定患者の問題は残るにせよ、水俣病問題は一応の決着をみており、この海域の漁獲についても安全宣言が出されているという。しかし私は暗鬱な感慨を抱かずにはおれない。水俣病が終わったのは発生から半世紀が経過して、劇症の患者はもちろん、多くの患者が死に絶えたからではないだろうか。死者は言葉をもたない。今日、私たちがかかる不条理な悲劇、高度成長の暗黒面をかろうじて知ることができるのは、ただ石牟礼という才能による『苦海浄土』という傑出した記録が存在するという理由によっているのではないだろうか。彼女がいなければ私たちは一企業によるこの未曽有の犯罪について知ることさえなかったのではないか。『苦海浄土』は人を慰安する文学の対極に位置する。しかし現実に拮抗するただ唯一の営みとしても文学は存在しうることをこの作品は雄弁に語っている。
 本書は2004年に藤原書店から刊行された石牟礼の全集の第二巻と第三巻を底本としたうえで、池澤夏樹が個人編集した河出書房新社の世界文学全集の中の一巻として刊行された。今月刊行されるコンラッドの『ロード・ジム』によって完結するこの全集を通読した訳ではないが、私はこの全集の編成を評価している。三島でもなく大江でもなく、日本の作家としてただ一人、石牟礼を「世界文学」に登記したことによっても、この全集の批評性は明らかだ。『苦海浄土』は『ブリキの太鼓』や『存在の耐えられない軽さ』と比してもなんら遜色はない。語りえぬ死者に代わって水俣病を語り継ぐ本書は、この全集に収められたことによって、あらためて多くの新しい読者を得たことと思う。
by gravity97 | 2011-03-11 21:41 | 日本文学 | Comments(0)

村上龍『歌うクジラ』

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村上春樹の『1Q84』に対抗するかのように村上龍が書いたもう一つの『1984年』、それが『歌うクジラ』だ。きわめて野心的な問題作であり、その内実を検討するためには内容にかなり立ち入って論じなければならない。
読者は冒頭から物語の中に強引に連れ込まれる。そこは性犯罪者や不法移民、毒素を分泌するクチチュと呼ばれる突然変異者が収容された「新出島」と呼ばれる隔離地域であり、このような設定は直ちに『半島を出よ』の冒頭、川崎のホームレス居住区の情景を想起させる。ディストピア小説は村上龍が得意とするジャンルであり、『愛と幻想のファシズム』から『五分後の世界』にいたる作品の系譜を形作っている。この小説で主人公は私たちの生と地続きのディストピア、荒廃した22世紀の日本を旅する。読み進めば了解され、結末でも明らかにされるとおり、この作品の主題は移動である。冒頭で新出島からの脱出を試みた主人公は西日本を横断し、最後は地上から宇宙ステーションへと移動する。
このようなディストピアの由来はタイトルに暗示されている。2022年のクリスマス・イヴ、ハワイ、マウイ島近くの海底でグレゴリオ聖歌中の旋律を繰り返し歌うザトウクジラが発見された。このザトウクジラの皮膚組織や神経組織のDNAを研究する過程でSW(Singing Whale)遺伝子という、人を不老不死にする遺伝子とその副産物とも呼ぶべき人の老化を急激に早める遺伝子が開発された。この発見によって人類の平等という原則が崩れ去る。ノーベル賞受賞者や宇宙飛行士はSW遺伝子を注入され永遠の生に恵まれ、殺人犯や性犯罪者は逆の処置が施されて老化を促される。このような分類を許容する社会は、差別が、階級性が公認された社会である。それから100年が経過した後、世界は「老人施設」と呼ばれる施設で安逸な生を送る少数の富裕層と彼らから遮断され、劣悪な環境で暮らす大多数の人々に二分される。後者は監視ロボットの制圧のもとに無機的な集合住宅に住み、パンと見世物よろしく、棒食と呼ばれる規格食品をあてがわれ、ガスケットという残酷なスポーツに熱狂する。集合住宅の周囲にはさらに犯罪者、移民、異常者らによって構成されたスラムが広がっている。これらの人々の間には全く交通がない。この時、移動が小説の主題となる理由も明らかであろう。老化遺伝子を注入される刑に処せられた父親の遺言に従って、主人公の少年、タナカアキラはヨシマツなる「老人施設」の権力者のもとへと向かう。アキラの移動は空間における水平的なそれであると同時に、階級社会における垂直的な移動でもあり、かかる移動を介して通常では交差することのない社会や階層、思想が攪拌されていくのだ。村上龍は22世紀の『神曲』や『夜の果てへの旅』を書きたかったと述べている。犯罪者の隔離施設に始まり、人種や文化の坩堝と化した奇怪な歓楽街、ホームレスたちが蝟集する羊バスと呼ばれる貧民街、もはや人間の形状をなさない高齢者たちが収容された悪夢のような施設、そして宇宙ステーションへといたる主人公の道行は確かに一種の地獄巡りであり、村上らしい緊張感のある文体と炸裂するイマジネーションは読む者をとらえて離さない。むろんこれは一つのフィクションである。しかし例えば日本でも小泉純一郎が唱えた「改革」が一定の支持を得た後、成果主義の名のもとに今も階級や差別の固定化が進行していることを想起するならば、本書は現実との接点を失っていない。
 この小説がきわめて刺激的である理由は内容以上に形式、端的にその文体に求められる。『歌うクジラ』とは実は言語を主題にした小説である。括弧を用いず、会話を全て地の文の中に入れた独特の文体はこのブログでも何度か取り上げたコーマック・マッカーシーなどとも共通し、語りにおいて状況と会話が区別されず、文章に対する集中を絶えず読む者に要求する。主人公の移動を可能としたのは父親のデータベースを介して習得した敬語を話す能力であった。なぜなら2050年代に始まった文化経済効率化運動の中で禁止され、もはや使用されていない敬語が薬物の闇取引に際して必要であったからだ。管理社会を言語の使用の問題と関連させたこのようなエピソード、そして「文化経済効率化運動」という言葉から、ジョージ・オーウェルの『1984年』における「ニュースピーク」を連想しないでいることは難しい。「ニュースピーク」とはオーウェルが描く全体主義国家、オセアニアの中で使用される極度に単純化され、語義が制限された語法であったが、オーウェル同様、村上も社会の管理が言語の統制をとおしてなされることに意識的である。それゆえ本書において最も注目すべきは、助詞の変則的使用という表現の形式なのである。サブロウというクチチュの男とアンという娘とともに監視ロボットの群れから逃れた主人公はアンの仲間である反乱移民たちと行動をともにすることとなる。反乱移民の頭目であるヤガラは主人公に向かって最初に次のように語りかける。良い発音からイントネーションをほぼ完璧だろう。正しくは、良い発音とイントネーションはほぼ完璧だろう、であろう。日本語の場合、助詞の使用によって文意は大きく変わる。したがって移民の能力を判定するにあたって助詞の使用にどの程度習熟しているかが試された。これに対して反乱移民たちは反抗の意思表示として助詞を故意に崩した言葉を用いて会話することになったのである。助詞の変則は一つの意志表明であり、反乱移民との会話においては意味を了解するために読者は常に緊張をもって言葉に対峙することを強いられる。あるいは小説中の数箇所で主人公は、記憶映像を強制的に喚起するメモリアックという装置の影響下に置かれる。その際に主人公は言語を介して見知らぬ男から話しかけられる。ここでは映像と言語が奇妙に歪んだ関係を結ぶ。さらに物語の終幕近くで主人公は、一人の登場人物の人格が崩壊していく過程に立ち会うが、このような崩壊の兆候は言い間違いや言葉の無意味な繰り返しとしてもたらされる。巨大な食品モールにおける虫のようなロボットの襲撃、貧民街や医療施設のグロテスクな描写、あるいは歓楽街の食堂における虐殺の情景、村上は視覚的な印象の表現に長けた作家であり、その技巧は本小説においても遺憾なく発揮されている。しかし同時にこの小説においては言語を介すことによってのみ表象可能な緊張がみなぎっている。しかもそれは助詞の変則的使用や言い間違い、意味のない繰り返しといった言語そのものを解体する契機をとおしてかろうじて実現されているのである。このような超絶的な技法、言語実験の先例として私が想起できるのはシュルレアリスムの一群の作品とフィリップ・K・ディックの『火星のタイムスリップ』くらいである。
 新出島を脱出し、サブロウやアン、反乱移民たちとともに老人施設を目指す苦難の行程は息苦しいような閉塞感と強い緊張を秘めている。いつもながら移動や破壊、差別と暴力、身体の毀損や変態的なセックスを描く時、村上の表現は精彩に富む。惜しむらくはこの小説においてかかる緊張は最後にやや失速する。クライマックスにおける失調は村上の小説に時折認められる。『半島を出よ』の場合も、それまで圧倒的な緊張をもって語られていた物語が終盤にいたってハリウッド映画的な予定調和に回収されてしまったように感じたのは私だけだろうか。『歌うクジラ』の場合、かかる失速の理由を問うことはさほど難しくない。宇宙港、宇宙エレベーター、あるいは宇宙ステーション、これらのSF的な設定をめぐって私たちの想像力はキューブリックの「2001年宇宙の旅」以来さほどの進歩がない。最後のいくつかの章におけるロボットや宇宙船、宇宙ステーションの船室の装備や機能についての記述は平板に過ぎ、それまで用いられていた濃密で鋭利な言語と乖離した印象を与えるのだ。最後の部分における宇宙への場面転換は果たして必要であっただろうか。トラックから汎用車、飛行自動車から宇宙エレベーターへ、主人公の移動手段がインフレーションを続けたように、物語の枠組は空間的に拡張される。しかし派手な道具立てに頼らずとも、言語においてのみ可能な負荷を物語に与えることは可能なはずであり、外宇宙というSF的、特異な状況を描写する中で逆に小説の言語はそれまでの密度を失ったような気がする。
 例によってやや辛口の評となったが、本作品は村上龍の小説家としての膂力を十分に示す傑作である。何よりも物語の内容のみならず形式、つまり言語が解体されるぎりぎりの実験をとおして組織される全編にみなぎるテンション、私の知る限り、それは近来日本の作家において類例がない。
by gravity97 | 2010-11-16 23:15 | 日本文学 | Comments(0)

奥泉光『シューマンの指』

 昨年刊行され、野間文芸賞を受賞した『神器―軍艦「橿原」殺人事件』はいささか冗長に感じられた。奥泉光の小説はあまり長くない方がよい。書き下ろしで発表された本作品は全編に張り詰める緊張感と随所に張り巡らされた小説的技巧という点で『神器』よりはるかに奥泉の本領が発揮されている。
 多くの奥泉の小説と同様、本編も一篇のミステリーという性格を宿している。中盤で一つの殺人事件が語られ、物語はその犯人探しと読めないこともない。しかしながら奥泉の小説が一筋縄で終わるはずはなく、最終的には一種のメタ・ミステリーとして物語は閉じられる。ミステリーである以上、内容に深く立ち入ることは控えなければならないが、冒頭で開陳される魅惑的な謎そのものが本書のテーマと深く関わっている。それは物語の語り手、里橋優のもとへ留学中の旧友、鹿内堅一郎から送られてきた一通の手紙であり、鹿内がシューマンの生地、ツヴィッカウを訪れた際に偶然にも二人の共通の友人であるピアニスト、永嶺修人の演奏会に立ち会ったことが記されていた。しかし永嶺はかつてなんらかの事故もしくは事件によって指を切断したのではなかったか。果たして一度指を切断した者がピアニストとして聴衆の前に立つことは可能か。当然ながらここで読み手の関心は永嶺が指を切断することとなった事情に向けられる。しかしこの経緯については物語の終盤まで明かされることがなく、読者は宙吊りにされたまま物語の中に置き去りにされる。このあたりの語りの巧みさは奥泉らしい。
 さて、タイトルからも明らかなとおり、この小説は音楽を主題としている。かつてエドワード・サイードは今日の文学的知識人が古典音楽についての常識的知識をもちあわせていないことを批判した。音楽といえばロックと現代音楽にしか関心のない私にとってまことに耳の痛い指摘である。楽曲や演奏に関する学殖に満ちたこの小説は古典音楽に素養のある者であればさらに楽しむことができようが、私のごとき音楽に無知な者に対しても物語として圧倒的な魅力を備えている。音楽を主題とした小説として私は例えば平野啓一郎の『葬送』を連想する。ドラクロアとショパンを主人公としたこの芸術家小説も絵画や楽曲を言語によって表象しようとする力技であったが、『シューマンの指』ではさらに深く「音楽」の本質が言語の俎上に上げられている印象がある。
 本書の大半は里橋が残した手記という体裁をとっている。正確には里橋と鹿内、長嶺らがシューマンに倣って結成した「ダヴィッド同盟」という結社の中で交わされた6冊の交換日記の最後の巻に記された内容である。したがってここに書かれた内容の真偽は書き手である里橋に帰せられる。クリスティーの『アクロイド殺人事件』を持ち出すまでもなく、奥泉ほどの書き手がミステリーを書くにあたって一人称の話者を選ぶ場合、なんらかのたくらみがめぐらされていることは容易に予想されるだろう。
 里橋はかつて音楽大学でピアノを学んだが、大学を中退し音楽も放擲し、医者として働いている。音楽との決別は長嶺の事件と関連しているであろうが、その詳細は語られない。物語は回想と現在の間でゆるやかな振幅をもちながら展開する。音楽大学受験を志していた里橋は自身の高校に入学した天才的な美少年ピアニスト、永嶺修人と知り合い、年下の永嶺を導師として音楽の神秘に触れる。シューマンを跪拝する長嶺は里橋や鹿内らとともに「ダヴィッド同盟」なる結社を結成する。先に述べたとおり、私は知識がないため読み過ごすしかないが、シューマンをめぐるペダンティックな議論はこの小説の一つの山場を形成している。高名なコンクールで入賞し、天才ピアニストと呼ばれる永嶺の演奏を里橋は生涯に三度だけ聴く。それらはいずれも本小説にとって決定的な事件と関わっている。最初の機会は先に触れた殺人事件が起きた夜であり、里橋はそれを「幻想曲の夜」と呼ぶ。永嶺が演奏したのはシューマンの《幻想曲ハ長調》。二度目は武蔵野市民ホールにおいて永嶺の師匠が企画したジュニア・コンサートの場であり、永嶺が弾いたのはシューマンの《ピアノソナタ第三番ヘ短調》。そして最後は「ダヴィッド同盟」に加わった里橋、永嶺共通の知人の別荘におけるシューマンの《天使の主題による変奏曲》の演奏であった。おそらくこのような選曲についてもシューマンの音楽に通暁していればなんらかの意味を読み取ることができるかもしれない。未読の読者も多かろうから、暗示的な指摘にとどめるが、三度の演奏は直ちに殺人や狂気、身体の毀損といった凶々しいイメージと結びつき、長嶺に関わった人間はほとんど例外なく悲惨な死を遂げ、あるいは失踪する。シューマンの音楽はあたかもこの不吉な物語の通奏低音のようである。語り手あるいは長嶺の口を通して語られるシューマンの生涯そのものも暗い影を刻印されている。シューマン自身も切断こそしていないが、過度の練習もしくは病気のために若くして指が麻痺したためピアニストとして生計を立てることを断念している。さらに本書の中では明確に言及されていないが、伝記的事実をひもとくならば、シューマンは晩年におそらくは梅毒が原因と思われる狂気の発作に襲われている。この時、シューマンと登場人物は二重化される。別の言葉で言えば登場人物はシューマンの分身なのである。
 鹿内堅一郎からの手紙とともに幕開けした『シューマンの指』は、終盤で「幻想曲の夜」の殺人をめぐるいくつもの推理が重ねられた後、やはり登場人物の一人から一人に宛てられた短い手紙とともに終幕する。この小説は書き手の異なった三つのテクストから成り立っており、つまり物語の本編たる里橋優の手記は二つの短い手紙の間に挟みこまれている。きわめて緻密に考え抜かれた構成である。ひとたび手記を読み終え、物語の一応の決着を見届けた後、最後に添えられた手紙を読んで読者は驚愕するに違いない。この手紙によって里橋の手記の意味は一変するのだ。このようなどんでん返しは小説でしかありえず、本作品は奥泉らしい説話の超絶技巧である。種明かしにならない程度にほのめかすならば、先にも述べたとおり、この小説は無数の分身をめぐる物語である。(シューマンの批評に登場する『ダヴィッド同盟』も分身の集合体であることを明らかに奥泉は意識している)小説と音楽、超絶技巧という点で奥泉をシューマンの分身になぞらえることはさすがに過褒であろうか。
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by gravity97 | 2010-09-18 20:57 | 日本文学 | Comments(0)

村上春樹 ロングインタビュー

b0138838_9365833.jpg このブログの「日本文学」のジャンルにはこれまで6本ほどの記事を書いた。『1Q84』の刊行という事情や個人的な嗜好を別にしても、そのうちの半分が村上春樹関係とは、我ながら少々情けない。
『考える人』の最新号に村上春樹のロング・インタビューが掲載されている。村上のインタビューは比較的珍しいとはいえ、過去にもいくつかの雑誌に掲載されたことがあり、村上には海外での生活、マラソンやジャズについて語ったいくつものエッセーもある。しかし今回は箱根、おそらくは冨士屋ホテルで三日間にわたって行われた文字通りのロング・インタビューで情報量も格段に多い。インタビュアーは同誌編集長の松家仁之。松家は新潮社のいくつかの雑誌の編集長を務め、本号をもって『考える人』誌から退くということであり、インタビューにも気合が入っている。松家はおそらく過去に文芸関係の仕事も経験したのであろう。村上の作品や過去の発言にも詳しく、ジャズについても村上と対等に話せるほどの素養をもっていることがわかる。
当然ながら初日は『1Q84』の話題が中心となる。村上の中でもこの小説が一つのメルクマールを画すことが語られ、まだ完結していないとも語られる。これまで執筆した作品についても簡単なコメントが加えられるが、『ノルウェイの森』がきわめて異質の物語であった点については私も同感である。二日目はこれまで比較的触れられることの少なかった村上の学生時代や「ピーター・キャット」という店を経営していた頃の回想、そして読書体験が回顧され、最後に村上の典型的な日常が語られる。村上自身は「一番退屈な部分」と言っているが、作家の日常生活は私にとって大変興味深かった。三日目は村上が手がけた翻訳の話に始まり、村上の小説をいかなる方法で海外に売り込んだかというかなりプラクティカルな内容のインタビューが続く。この部分も初めて聞く話が多く楽しめる。
通読していくつかの感慨を抱いた。まず当然予想していた点であるが、村上が小説の方法という点にきわめて意識的な作家であることが言葉の端々から明らかになる。最初に『風の歌を聴け』から『1Q84』にいたる作品の展開が、本質において一人称から三人称への移行であったことが語られる。この変化の契機としては間違いなく地下鉄サリン事件に取材した一連のノンフィクションが存在し、個人と社会の関係を考えるうえでも示唆的な論点を提起している。あるいは村上は小説家にとって重要な三つの資質として文体と内容とストラクチャーを挙げる。初めの二つは誰でも思いつくが、ストラクチャーという発想はこの作家ならではのものではないか。そして村上はサリンジャーの小説の欠点はストラクチャーの不在であると鋭い指摘を行っている。
このインタビューを通読するならば、村上の小説が二つの異なったバックグラウンドの中に形成されていることがあらためて理解される。一つは外国語との関わりである。村上は高校時代から英語のペーパーバックを耽読し、ヨーロッパやアメリカに長期滞在した経験をもつ。知られているとおり、村上はサリンジャーからカーヴァー、チャンドラーにいたる20世紀のアメリカ小説に関して多くの翻訳も続けてきた。村上によると小説を書くことと翻訳することは全く異なった営みで、小説の執筆に苦しんでいる時、翻訳はよい息抜きになるという。インタビューの中で村上は自らの翻訳作法についてかなり具体的に述べている。一つの表現を別の言語に移すという営みが自らの言葉を陶冶するうえで小説家にとって大きなヒントになることは想像に難くない。村上は(柴田元幸に倣って)翻訳の際の正確さを重視する。したがって村上にとって翻訳とは表現ではなく技術である。一つの観念を正確に別の言語に置き換えること。私は村上の独自の文体はこのような作業と深い関係にあるように感じる。以前から気になっていた点であるが、それにしてもなぜ村上が好む小説家は一人の例外もなく、私にとって著しく魅力を欠いた作家ばかりなのであろうか。私自身もこれまでにフィッツジェラルド、カポーティー、サリンジャーあるいはジョン・アーヴィングやカーヴァーといった作家の作品をさまざまな訳者、時に村上訳で読んできた。村上の翻訳は多少読みやすくも感じられるが、一部の作品を除いて(といってもサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』と『フラニーとゾーイー』くらいだ)彼らの小説は端的に面白くない。世代的な差もあるだろうし、村上が最初、原書で読んだという事情が大きく関わっているだろうが、逆に例えば村上の発言の中に、ヘミングウェイやケルアック、最近ではオースターからエリクソンといった私好みの作家についての言及がみごとなまでにない点は逆に興味深く思われた。
もう一つのバックグラウンドはランニングのトレーニングである。このインタビューの中で村上は自分がどんなに気分が乗らない日であっても一日に10キロ走ることを自らに課していることを述べる。実は私はこのインタビューと前後して文春文庫から刊行された村上のメモワール『走ることについて語る時にぼくの語ること』を読んだ。この中でも集団競技や勝ち負けを争う競技を嫌う村上にとって、走ることが最も手頃なスポーツであり、生活のペースメイカーであることが率直に語られていた。それにしても毎年フルマラソンを走る作家はさすがにほかに例がないだろう。このような日常、毎日のルーティンが小説の執筆のアナロジーであることはたやすく理解できる。実際、インタビューの中で村上は毎朝起床すると10キロならぬ原稿用紙10枚分の原稿を書くことを自らに課していることを語っている。ランニング同様にどんなに気が乗らない日でも10枚書くという習慣の重要性を村上はチャンドラーの言葉を引きながら力説する。ここから直ちに連想されるのは村上の小説の登場人物の生活にみられる規則性である。『ねじまき鳥クロニクル』の主人公が作るパスタの手順、『1Q84』では青豆のストレッチ・トレーニングの手順(青豆の造形には村上が個人的に利用している女性のストレッチ・トレーナーがいくぶん寄与しているかもしれない)。規則性あるいは手順を遵守することへのやや神経症的な拘りは作家の私生活と小説の登場人物の日常に共通している。さらに『1Q84』の中には天吾がふかえりの小説を推敲する手順についての長い記述があるが、この手順も村上がフィッツジェラルドやカーヴァーを翻訳する方法を彷彿とさせる。
プロの翻訳家並みに英語に堪能でありながら、大学や英文学といったアカデミズムの世界とは無縁の小説家。毎日定められた量の執筆とトレーニングを繰り返し、規則正しい生活を送る小説家。このような作家像はいずれも私たちが日頃抱きがちな小説家、あるいは「文士」のイメージからほど遠い。しかし長いインタビューを読みとおして、私は村上が真の小説家であることをあらためて痛感した。村上も語るとおり、もはや19世紀的な小説は成立しない。今日、小説を書くことは、絵画を描くことや思想を彫琢することと同様に困難である。しかしこのインタビューからは意志さえあれば、今日でも小説は可能であること、そしてそれが言語能力と自らの身体という、小説家にとって当たり前といえば当たり前の前提を鍛えることによって可能となることを教えられた。
by gravity97 | 2010-07-19 09:37 | 日本文学 | Comments(0)

村上春樹『1Q84』BOOK3

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 一年ほど前、このブログに刊行まもない『1Q84』のレヴューを書いた折には「完結性が高いので続編が執筆されるとは考えにくい」と記したが、しばらくして続編が執筆されていることが明らかとなり、先日、BOOK 3が刊行の運びとなった。一篇の小説を二度批評することは変な感じもするが、それに値する小説ではある。最初に二巻まで発表され、時間をおいて三巻が刊行されるという経緯は『ねじまき鳥クロニクル』と同様である。新作を読むにあたり最初からもう一度通読したため、やや遅れての書評となった。
 ここではBOOK2までを既に読了した読者を想定したうえで、これから読む読者の感興を殺がぬ程度に内容に立ち入って論じたい。といっても最初に目次に目を通すならば、物語の帰趨は明らかだ。前回も書いたとおり、『1Q84』は形式性がきわめて高い。BOOK1とBOOK2ではいずれも、青豆と天吾という二人の主人公をめぐって拮抗する物語が交互に語られる。二つの物語は次第に接近するのであるが、最後まで交差することはない。この点は目次からも明らかだ。いずれの章もタイトルに二人の名前のいずれかが表記され、それぞれ12章ずつ、分量的にも均等である。この形式は長調、短調それぞれ12曲で構成され、作中でも言及されるバッハの平均律クラヴィーアと対応しているかのようだ。グレン・グールドの演奏によって名高いこの楽曲集が1巻と2巻から成立しているという事情も私が『1Q84』はBOOK2をもって完結と考えた理由であった。これに対してBOOK3は全31章で構成され、青豆と天吾に加えてもう一人の人物の名前が章のタイトルに冠せられる。新たに加わるのは、「空気さなぎ」の発表後に天吾のもとを訪れ、恫喝とも買収ともつかない申し出を行う奇妙な風体の男、牛河である。ちなみに村上春樹の小説にはいくつかの小説に同じ名前をもった人物が登場するが、牛河は『ねじまき鳥クロニクル』にもほぼ同じ役回りとして登場していた。BOOK3でも牛河、青豆、天吾の章が順序よく整然と配置された後、「青豆と天吾」と題された最終章が配される。既にこの時点で作品の内容がほぼ予想されるし、実際にこの予想が裏切られることはない。しかしたとえ結末が予想されたとしても本書を読む楽しみは損なわれないだろう。
 BOOK2の最終部で1Q84年が閉ざされ、そこからの脱出が不可能であることを知った青豆は拳銃を口にくわえる。この場面で青豆の章が終えられたため、私たちは青豆の死と天吾との再会が果たされずに物語が終わった印象を受けたのであるが、正確には「引き金にあてた指に力を入れた」という記述に留まっている。今回再読してみると、BOOK2からBOOK3への移行はきわめて滑らかであり、自殺を思い止まった青豆はごく自然に物語に復帰する。実は青豆の翻意はBOOK2の最後の章、父親が入院する療養所を訪れた天吾の不思議な体験と密接に関わっており、この物語の緻密な構成の一角を占めている。再開された物語の展開は比較的容易に予想される。青豆と天吾はいつ、どの世界で再会することとなるか。読者の興味はこの点に向けられ、いくつかの新たなエピソードを加えながら、物語は再会の時に向けてゆるやかに動き始める。その過程でBOOK3に持ち越された謎のいくつかについては一応の解決が与えられる。前回のレヴューで私はこの小説において村上の作品の中でも「言葉が最も念入りに彫琢されている印象」について論じた。この印象は今回も変わることがない。世評も高く、大ベストセラーとなったBOOK1、BOOK2同様に、構成そして表現いずれにおいてもきわめて綿密に練られた印象があり、物語はみごとに完結する。
 しかしかかる完結性は果たしてこの小説にとって望ましいものであっただろうか。かつて蓮實重彦は『小説から遠く離れて』という興味深い小説論の中で、当時発表された、作者も内容も全くことなるいくつかの小説が実は同じ構造をもっていることを指摘したことがある。その際に引用されたのは例えば村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』、井上ひさしの『吉里吉里人』、丸谷才一の『裏声で歌へ君が代』、さらに中上健次の『枯木灘』、そして村上春樹の『羊をめぐる冒険』であった。私はBOOK3を読み終えて、この評論を連想した。『1Q84』はきわめて独創的な物語でありながら、その構造において非常に単純というか、伝統的な説話構造に立脚している。青豆と天吾、「さきがけ」と「柳屋敷」、NHKと証人会そして1984年と1Q84。この小説にはいたるところに対立的、二元的な構造が成立している。物語を駆動するこのデュアリズムは神話や伝説でもおなじみのものである。二つの物語の並立がフォークナーの『野生の棕櫚』のごとく最後まで無関係に交差するのであれば、そこには物語の構造に対する批評性が成立するし、少なくともこの小説がBOOK2で完結していればこのような可能性がありえた。しかしBOOK3で再び青豆と天吾をめぐるラブ・ストーリーが再開された時、それは予定調和的な結末を予想させる。さらに1984年と1Q84の往還というモティーフもきわめて図式的である。高速道路にあるエッソの広告看板のエピソードをめぐり、二人が最後に別の「1Q84」へ移行した可能性は暗示されつつも、この小説は一種の異界伝説として読むことができよう。そしてBOOK2まで漂っていた村上の小説特有の不気味さもBOOK3ではいくぶん希薄となる。特に「梃子で持ち上げた岩の間から這い出してきたとんでもないもの」と形容され、正体不明であった牛河が主要な登場人物の一人となって、その履歴や言動がつぶさに語られる時、もはや彼は読者に負荷を与える存在ではない。BOOK2の途中で一旦姿を消した小松をめぐるエピソードも同様だ。BOOK3を読むと、それまで物語に緊張を与えていたいくつかの問題に解決が与えられる。小説の冒頭に登場した天吾の母のイメージ、あるいは天吾の父と母の関係。父というモティーフが初めて村上の小説に導入された点は何人もの論者が指摘している点であるが、父をめぐる謎解きはやや安易ではなかろうか。私は小説とは必ずしも因果論によって説明されるべきではないと考える。むしろ因果論を超えた奇妙な歪みが与えられた時、精彩に富むように感じるのである。
 『1Q84』は単にベストセラーになったということだけでなく、小説家としての村上の到達点を示す高い完成度をもつ小説である。結末も多くの読者にとって受け容れられやすいものであり、おそらく作家の代表作の一つとして今後も長く読み継がれることとなるだろう。ただ私はこの小説を最後まで通読し、多くの未完の小説の書き終えられた姿を夢想するのと逆に、もしこの小説がBOOK3まで書き進められることなく、BOOK2で終えられていたらどうであったかというありえざる夢想もまた禁じることができない。
by gravity97 | 2010-05-17 09:58 | 日本文学 | Comments(0)