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飯島洋一『建築と歴史』

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 飯島洋一の批評については以前『「らしい」建築批判』についてレヴューした。新国立競技場をめぐる騒動から語り始める『「らしい」建築批判』も安藤忠雄や伊藤豊雄の「らしい」建築を完膚なきまでに批判する攻撃的な論攷であったが、本書もまたきわめてポレミックな批評である。「建築と歴史」というタイトルは必ずしも内容を十分に反映しているとは思えない。もちろん建築や歴史について論じられる部分もあるのだが、私の考えでは本書のテーマは「日本の建築の歴史」がいかに他者、すなわち西欧によって捏造されたかという問題と関わり、一種のオリエンタリズム批判が主題とされている。そして次に述べる通り、前著同様に建築のみならず美術の分野にも拡張可能な思考が繰り広げられていた。
 本書は一昨年から昨年にかけて金沢21世紀美術館で開催された「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」に対する深い違和感から説き起こされ、この違和感は続く章においても繰り返し表明される。私は未見であるが、この展覧会はポンピドーセンターの副館長フレデリック・ミゲルーが企画したという。飯島がこの展覧会に加える批判は多岐にわたるが、まず日本の現代建築の「起源」として第二次世界大戦の戦災を出発点としてとらえ、さらに日本の場合、そのような「起源」が複数存在するという展覧会の構成に関するミゲルーの認識が「完全な誤り」であり「致命的な誤り」であると飯島は主張する。この点は続く章においていくつかの観点から分析されるが、その前に美術館にとっても看過できない問題が提起される。まず単純な疑問から始めよう。なぜフランスのポンピドーセンターの副館長が日本の現代建築に関する展覧会を企画するのか。飯島は建築とは芸術でありえないことを繰り返し主張してきたが、図面や模型が美術館に取り込まれることによって、美術品とみなされる風潮が一連のアンビルドの建築家(いうまでもなくその代表が先日急逝したザハ・ハディドだ)らの活動を契機に生じてきた。私はこのような状況を70年前後に作品の商品化を拒否したコンセプチュアル・アートが美術館に収蔵されていった過程と比較して検証したい誘惑に駆られる。本来ならば建築の施工とともに意味を失うはずの図面や模型を自らのコレクションに加えようという美術館の欲望を飯島は批判する。「この金沢での大規模な戦後日本建築展の終了後に行われる、展覧会そのものより重大なイベントは、今回、この会場に展示された日本の戦後建築の膨大なコレクションの、ポンピドーセンターによる、あるいはミゲルーによる『収集』のはずである。つまり、この展覧会の終了後に行われるのは、ミゲルーによる展示品の『買い取り』となるはずなのである。まずは、どの建築家のドローイングなり模型なりを買い取ろうか、その『オークションの場』が実はこの金沢の大規模な展覧会の真の正体なのである。つまり、この展覧会は、本来、展覧会がするべきことと、その結末が、全く逆転している。ミゲルーはこの展覧会を開いたから、その展示品を買い取りたくなったわけではない。事実はその逆である。彼は最初から図面や模型を買い取りたいからこそ、この展覧会を開いてみせたのである」飯島はこれを西欧の「異国趣味」の一例とみなして、ナポレオンからフランク・ロイド・ライトにいたるエキゾチックな遺物の収集の歴史を論じる。飯島はかかる欲望と一連のスター建築家にみられる、「建築におけるアート化現象」が連動してかかる展覧会として結実したとみなす。後者の問題は『「らしい」建築批判』で詳細に論じられたとおりである。私が関心をもったのは、ミゲルーのごときキューレーターの欲望が美術の領域でもしばしば認められることだ。この30年ほどの間に、外国人キューレーターの手によって日本の戦後美術を検証する展覧会が次々に企画されたことは知られているとおりである。同じポンピドーセンターであれば、1986年の「前衛の日本」、あるいは1994年、グッゲンハイム美術館ソーホー分館における「戦後日本の前衛美術」、最近ではこのブログでもレヴューしたニューヨークにおける具体美術協会や1960年の前後の東京に焦点を当てた展示。そこで提起された美術史観の妥当性について今は措く。問題は日本において自国の建築史や美術史がしばしば西欧という他者の目をとおしてかたちづくられてきたという事実である。もちろん私は千葉成夫や椹木野衣のそれなりに独特の研究や論考を高く評価するが、展覧会は現実の作品をとおして検証されるため、作品の所有という欲望と直結している。ミゲルーによる「買い取り」、すなわち展覧会によって権威づけた作品を関係者が購入するという一種のマッチ・ポンプは現代美術の領域ではさらに露骨に進められ、具体美術協会の一部の作家に明らかなとおり、投機的な様相さえ帯びている。しかしこれは単に西欧が日本を収奪するという単純な図式に収まる問題ではない。飯島は次のようにも説く。「展覧会の後に、自分たちの建築の図面や模型を、是非ともフランスの名のある美術館のパーマネント・コレクションとして収集してほしいという日本の建築家たちの現実主義的な願望も、十分に作動している」飯島はこれを建築家(非西洋、被支配者)とコレクター(西洋、支配者)の「共犯関係」と論じる。近年のにわかな日本の現代美術ブームを想起するならば、建築の分野に限定された問題とはいえないだろう。次いで飯島は「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」の構成をいわば逐条的に批判する。この過程で例えばリーダーズ・ダイジェスト日本支社を設計し、展覧会で取り上げられているアントニン・レーモンドが一方で戦時中、アメリカ軍の空襲に際して焼夷弾の効果を最大にするために日本家屋のレプリカを作って燃やす実験において大きな役割を果たしたといういわば建築史の暗部を明らかにする。なんのことはない。日本建築の「起源」であり、無数の人々が惨死を遂げた空襲の焼野原、それに手を貸した人物が展覧会の中では顕彰されているのだ。
 本書の中ではむしろ余談に当たる部分であろうが、「コレクションの欲望」と題された最初の章の最後で語られる金沢21世紀美術館への批判は私も強く同意する。それは単に俎上に上げられた展覧会のみならず、この美術館の方針や建築と深く関わっている。飯島は初代館長が『超集客力革命―人気美術館が知っているお客の呼び方』(それにしてもなんというタイトルであろうか)の中に記した「極めて『下品』な物言い」(書き写すだけでも汚らわしいので直接本書を参照していただきたい)を引用した後、次のように述べる。「こうして美術館というものの本来の意味が、ますます薄れてきている。きちんとしたかたちで展示品を楽しみたい普通の人達のことを、公共美術館の責任者がまるで考えていない。お金儲けや有名になることばかりに、あるいは美術館としての金銭的な成功ばかりに熱心である。つまり、ここにあるのは資本主義の『下品な俗物趣味』だけなのである。「美術館冬の時代」にあってこの異形の美術館を華々しい成功例として称賛するばかりの美術ジャーナリズムの中にあって私は初めて真っ当な批判を聞いた思いがする。以前にも記したが、私は美術館の中でいつも迷子になり、次の順路を探すのに一苦労するSAANAによる建築が美術館として優れていると思ったことは一度たりともない。飯島も言及しているが、別の県で前身となった美術館の理念やコレクションを一顧だにせず、同じ建築家を用いて、新生美術館なる奇怪な構想を推進している人物がかつて21世紀美術館の立ち上げに関わり、先日レヴューした「キセイノセイキ」展において作品を検閲した学芸課長であることをここに書き留めておきたい。
 「近代の『起源』」と題された第二章においては「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」の鍵概念たる「起源」の恣意性が写真やモードといったジャンルを引きながら論じられ、さらに「近代」という概念が多角的に検証される。「起源」という発想が恣意的であることは特に驚くべき指摘ではないが、ミゲルーは展覧会をとおしてルネッサンスという起源から直線的に進化する西欧の建築に対して、日本においては複数の起源が存在すると主張していた。飯島は近代、モダンという概念が直線的で不可逆的であり、「時間は反復不可能である」という感覚に根拠を置いていると説く。西欧とは別の根拠に根ざす場所として日本が想定されており、同様の認識のオリエンタリズムは飯島も説く通りロラン・バルトやレム・コールハースにも認められる。ここでも本書の問題圏からやや逸脱して、モダンが単線的で反復不可能であるという理念に対して、先日このブログで論じたカルロス・フェンテスの「テラ・ノストラ」の異質性を確認しておこう。この長大な小説が複数性と反復性を原理としていることは論じたとおりであり、この点はモダンとは異なった原理は日本のみならず西欧以外の地域にしばしば認められることを暗示している。いや、モダンという概念、単一の起源という発想こそ西欧という限定された場における特殊な事例ではないか。しかしその特殊が自らを絶対として他者を自分のために裁断する時、サイードのいうオリエンタリズムが発生するのだ。続く第三章「黒船の意味」において飯島は歴史を遡行し、文字通り黒船の来航、江戸末期から明治以降において「近代建築」がいかに日本に着生していったかを検証する。結論として飯島は明治以降、日本は西欧を全て真似ており、結果として日本も西洋近代と同様に一つの起源に依存していると結論づける。したがって複数の起源を主張するミゲルーの展覧会コンセプトは破綻している。飯島は次のように結語する。「日本は、明治以降、自分たちの『伝統』ですら、支配者である西洋人に、『これがそうだ、これがあなたたち日本人の「伝統」だ』と、教えてもらうのである。繰り返すが、こうして西洋人が見つけたものだけが『日本的なるもの』として、日本の建築史に書き込まれることになる」ミゲルーによる展覧会がこのような「日本の建築史」の最新の上書きであることはいうまでもないが、私はこの言葉が建築のみに向けられたものだとはとても思えない。美術史においても私たちは自らの「正史」を欧米によって書き留められている。以前、このブログでも触れたが、先年、ニューヨーク近代美術館で「TOKYO 1955-1970 ; A New Avant-garde」が開催された折に「戦後からポストモダンへ」という日本の戦後の美術批評のアンソロジーが刊行された。編集に日本の批評家も関わっているとはいえ、他国の美術のみならず美術批評を英語によって再編成しようとするMOMAの姿勢は端的に植民地主義のそれだ。もちろんそれに類した試みが日本でなされたことはないから、このようなアンソロジーは一定の意味をもつかもしれない。ただしそれはあくまでも英語を解す言語圏にとって手っ取り早い参照例としての意味にすぎない。しかしこのようにして非西洋、被支配者の美術史が西洋と支配者によって歴史化/上書きされていくのである。
 続く第四章「桂と伊勢」でも語られる問題は基本的に同一である。グロピウスやブルーノ・タウトらによって例えば桂離宮の「近代性」が「発見」される。日本人ではなく西欧の目を通してこれらの建築が「発見」されたことこそが重要であり、丹下健三らの「伝統論争」もこの射程の中にあると飯島は説く。そしてここでもMOMAの政治性が論じられる。1954年から55年まで近代美術館の中庭に吉村順三の手で書院造りの建築が設えられて評判を呼ぶ。飯島はこの経緯を丹念にたどったうえで、この背景にアーサー・ドレクスラーやロックフェラー三世といった近代美術館の関係者がおり、彼らの目的が「日本が共産主義に傾かないように監視し、アメリカは日本の文化に関心をもっているという戦略的な布石を投じていた」と説く。以前にこのブログでニューヨーク近代美術館が組織した1959年の「新しいアメリカ絵画」について論じた。この展覧会がアメリカ絵画の優位をヨーロッパに見せつけ、自由主義陣営の盟主たるアメリカの文化的優越を誇示するものだったとするならば、逆に極東に対しては被支配者の文化を支配者の中に取り込むという一種の懐柔策が用いられていたということであろう。日本の建築界も美術館が主導する冷戦下の文化戦略に組み込まれていた訳である。
 最も長い最終章「黒と戦災」では再び戦時下の日本における空襲の問題から語り起こされる。何度も論じる通り、問題とされた展覧会が戦災を起源として日本の建築史を見直すものであるから、かかる反復は意味をもつ。なぜ日本人が空襲あるいは原爆といった蛮行の犠牲とされたか。飯島はそこに欧米人の人種的偏見を認める。このような偏見は日本人に対するものだけであっただろうか。いうまでもなく答えは否だ。支配者である西洋、とりわけヨーロッパにおいてもユダヤ人という人種の最終解決=絶滅政策が進められていた。飯島はヴィシー傀儡政権によってフランスがかかる蛮行に積極的に加担した点を実証したうえで、植民地主義こそがかかる大量虐殺の起源でることを論じる。そしてミゲルーが展示の中で空爆による破壊を象徴する部屋を「黒」によって表現したことに着目し、「黒」の多義性を論じたうえで、いよいよ歴史という問題へと向かう。フーコーからハバーマス、デリダ、ポール・ド・マンそしてサイードといったビッグネームを次々に引用しながらポストモダン、歴史修正主義そして言語論的転回といった問題が自在に論及されるこの章は本書の白眉であり、簡単な要約を許す内容ではない。しかしながら高度で抽象的な問題を扱っているために、具体的な例証に欠け、建築との関係が希薄である印象も免れえない。ある程度予想されたことではあるが、本書は「支配者、西欧によって選び取られた日本の文化の最新版」である「クール・ジャパン」批判によって終わる。それは西欧の日本に対するエキゾティシズムの一変種に過ぎないからだ。
 私は美術に関わる問題意識に過度に引きつけて本書を読んだかもしれない。しかしここで語られる問題は近現代美術の領域においてもほぼ正確に反復されている思いがする。日本において「近現代美術史」なるものが果たして存在するか。私は千葉成夫が「戦後美術逸脱史」において無意識的に、椹木野衣が「日本・現代・美術」において意識的に問うた問題こそまさにこの点に関わっていると感じる。後者に通底するペシミズムについてはこれまでも何度か論じた。「建築と歴史」は次の一文で終えられる。「西洋と東洋の力の非対称性、あるいは力の差異こそが、黒船以来現在までずっと続いている、世界資本主義市場における日本の真の姿である。/このような日本が置かれている本質的な事態を皮肉にも再確認させてくれたのが、この「ジャパン・アーキテクツ1945-2010」展の、唯一の功績であった、と言えるのかもしれない」飯島の結論もまたきわめてペシミスティックであることは偶然の一致であろうか。
 今や私たちは深いペシミズムに冒されている。「一億総活躍」やら「女性が輝く」やら、現政権が打ち上げる、戦前を連想させるスローガンに反して、かかるペシミズム、いやもはやニヒリズムは今の日本の社会に深く瀰漫しており、この国を蝕んでいるように感じられる。政治家はもとよりマスコミから大学まであらゆる領域で劣化が進行している。「戦災から震災まで」という本書のサブタイトルは暗示的だ。ミゲルーの展覧会があえて2010年で終わっている点を飯島は批判しているが、2011年以後、私たちは愚かな為政者たちのもとで「震災から戦災まで」を今まさに経験しつつあるのだ。
by gravity97 | 2016-10-02 21:21 | 建築 | Comments(0)

b0138838_2047782.jpg 『ユリイカ』連載時より話題となっていた飯島洋一の「『らしい』建築批判」が大幅な加筆修正のうえ、刊行された。きわめて刺激的で挑発的な論考であり、美術に関わる者としても看過できない多くの重大な問題を扱っている。私はこれまでも飯島の建築論をずいぶん読んできた。とりわけ同時多発テロと東日本大震災を顕在的/潜在的な主題とした『建築と破壊』と『破局論』は印象に残っている。しかし今世紀の二つの「破局」を主題としながらも、飯島の論考はどちらかといえば抽象的、韜晦的であった。これに対して本論はきわめて具体的かつ攻撃的であり、私はまず飯島の書きぶりの変化に驚いた。そして飯島が徹底的な批判を加えるのは安藤忠雄と伊東豊雄という日本の建築界、いや世界の建築界のトップランナーなのだ。飯島は次のように記す。「それならば、安藤忠雄や伊東豊雄には、1970年代以降の建築家の、いわばその代表者の立場にあると、そのように演繹的に考えてもいいはずである。だから彼らには、それなりの社会的責任というものがある。そのため私は、この本で、あえて彼ら二人を集中的に俎上に載せた。それは決して間違った判断ではないと確信している」私には飯島の批判が二人の建築家のみならず、文化の体制と深く関わっているように感じられる。それは飯島の言葉を用いるならば「革命の終焉」であり、それ以後、表現を生業とする者がいかに生きるべきかという問題だ。飯島の問題提起が論理的というより倫理的であるのはこのゆえであり、これから述べるとおり同じ問題は建築のみならず、現代美術にも深く関与している。
 本書を執筆した動機が新国立競技場の設計競技のコンペティションに対する強い異議であったことを飯島は冒頭で明らかにしている。周知のとおり、安藤忠雄を審査委員長として進められたこのコンペではイラク出身の花形女性建築家ザハ・ハディドのプランが最優秀賞を得た。しかしハディドのプランに対しては槇文彦が異論を提起し、さらに(飯島によれば当初から明らかであったとおり)予算の大幅超過が明らかになるなど、いまだにその帰趨は定かではない。飯島はこのコンペ自体が公的な「公開コンペ」であるにもかかわらず、応募資格が著しく制限されている点を批判する。すなわちこれまでに15000人以上を収容するスタジアムを設計した経験のあること、もしくは世界的に権威のある五つの建築賞のいずれかの受賞者であることが応募の条件であり、初めから実質的に若手の才能のある建築家たちを排除しているのだ。ちなみに二番目の条件とされている五つの建築賞の全てを受賞しているのはおそらく安藤忠雄だけであろうとのことだ。このような制限を設けてまでもなぜ主催者そして審査員たちは大物建築家のみを選抜の対象として、そしてハディドの奇抜な案を選んだのか。飯島は次のように推理する。「端的に言えば、東京五輪招致のプレゼンのために、この派手なハディドの案と、さらに言えば、世界的建築家ザハ・ハディドの名前とがとにかく必要だったのである。(中略)コンペの審査のプロセスで、何よりもはっきりと求められていたのは、最初からそのような五輪の祭典に適うスター建築家、そしてブランド建築家の存在だったのである」私はこの見立ては正しいと思う。今やハディド案は予算オーバーのために大幅に縮小されて実施される可能性が高い。(この予算はいうまでもなく私たちの税金によって賄われている)飯島は「(招致委員の一人である)水野が自慢げに掲げたものよりも、東京五輪のメイン・アリーナは、確実に劣るものができることになったのだ。それならばIOCとしても、これでは当初と話がまるで違うではないかと、今からそう主張しても全くおかしくない」かかる欺瞞と完全な相似形をなすのは私たちの首相が五輪招致のプレゼンテーションで述べた「汚染水が完全にコントロールされている」という虚言である。私は2020年の東京オリンピックとは日本にとって将来の汚点となる不正義以外のなにものでもないと確信しているが、招致のプレゼンテーションを取り繕うために嘘で固めたアリーナのプランと首相の演説、いずれもこの事業の本質を暗示している。そして飯島はかかる強引さが建築をめぐる現在の状況の裏返しであると指摘する。「こうしたことは、ただ建築家ザハ・ハディド一人だけの問題でなく、実は現在の先進諸国の世界的な建築家の多くに、かたちを変えて感じ取れる事柄なのである。こういう傾向はすでに20世紀末から少しずつ見えはじめていたが、それが今や止まることを知らないところにまで暴走している。そしてこの暴走へのかなり強い危機感が、いまあえて本書を執筆した私の最大の動機である」
 飯島が指摘するとおり、同様の強引さは安藤や伊東、ハディドのみならずフランク・ゲーリーあるいはレム・コールハス、SANAAの建築にも指摘できるだろう。以前私はこのブログでビルバオのグッゲンハイム美術館を訪れた際の印象について論じたが、「アイコン建築」の典型とも呼ぶべきこの美術館においてはフランク・ゲーリーの意匠が全面展開し、展示される作品はどうでもよいといった印象を受けた。この美術館にリチャード・セラは《スネーク》という蛇行する曲面の大作を設置したが、その際にセラとゲーリーの間で確執があったと何かで読んだ記憶がある。あるいはニューヨークのニューミュージアム、金沢21世紀美術館、兵庫県立美術館、有名建築家によって設計されたこれらの美術館のいずれも私は展示効果、あるいは美術館としての機能という点で感心したことがない。それぞれの建築家のブランドを美術館という場で誇示したに過ぎないからだ。
 このような傾向を飯島は歴史的に概観する。飯島によればこのような傾向が顕著となるのは1970年代以降であり、断絶は1968年に画された。いうまでなくパリ、五月革命の年である。飯島はル・コルビュジエから説き起こし、この建築家が推進したモダニズムが革命の精神と深く結びついていた点を論証する。飯島は革命とモダニズムが車の両輪のように稼働して、アカデミズムと激しい戦いを繰り広げた様子をウィリアム・モリス、ドイツ工作社連盟などの活動を丹念に追いながら検証する。革命を是としたモダニズムはアメリカにおいてフィリップ・ジョンソンのインターナショナル・スタイルの中で換骨奪胎される。本書の中で飯島は磯崎新の言葉を引きながら、この点を明快に説明する。「問題は、モダニズムがスタイルなのかイデオロギーなのかということだと思うんです。イズムである限りイデオロギーであるはずですが、我々が建築のモダニズムを見ていると大体スタイルなんですよね。(中略)だから彼(フィリップ・ジョンソン)にとってモダニズムはスタイルなんです。イデオロギーはなくなっている。インターナショナル・スタイルの成立に伴うイデオロギーなきスタイルの台頭、そして1968年における革命の終焉。この二つの事件を経て1970年代以降、資本主義が一人勝ちする社会の中で建築は大きく変わる。飯島は次のように的確に評している。「1968年の革命終焉以後の資本の論理に大きく準じる建築が、つまりスノビズムに準じることが、ここで言う趣味的という概念である。つまり、よりわかりやすく言えば、それからの建築家はお金だけがものを言う建築を、嫌でもつくるようになったのだ」冒頭の新国立競技場のコンペと関連して飯島は次のようにも述べている。「当時、まだ東京都知事だった猪瀬直樹はIOCへのプレゼンテーションの中で、東京都には銀行に行けば明日にでも下せる多額のキャッシュがあると主張していた。猪瀬はまるでそのお金は自分が全て稼いだものであるかのように胸を張っていた。その姿は、お金さえあれば、この世界では何でもできるのだと、傲慢になっている人間の姿に見えた」この意味においてもハディドのプランはまことに「東京五輪」にふさわしいといえよう。
 ハディドのプランへの批判は本書全体を通底し、これから私が美術に引きつけて論じるような問題へと応用可能な射程を有している。問題はきわめて単純だ。建築は設置される場所とどのような関係をもつべきか。飯島は安藤に即しながら、その変節を検証する。少なくとも初期において安藤はこの問題を思考している。安藤の初期作品はケネス・フランプトンによって「批判的地域主義」と呼ばれ、地域に対する意識を持った建築とみなされている。やや屈折した議論となるが、例えばよく知られた「住吉の長屋」を飯島は場所性と歴史性を無視してコンクリートの箱を挿入し、住吉区の長屋の連続性を切断していると批判する。しかしこのような建築に安藤は「都市ゲリラ」の名を与えて、ネガティヴな意味づけであるにせよ、少なくとも建設された時点においては場との関係を意識し、一種の緊張感を建築に与えていると私は考える。問題はこれらの一連の作品によって自らのブランドを確立した後の建築家のふるまいだ。例えば彼のブランドであるコンクリート打ち放しの建築が海外に応用された2008年の「スリランカの住宅」と2011年、メキシコの「モンテレイの住宅」をみるがよい。「安藤の二作品からは、二つの異なる場所の相違がまるで感じ取れないのである。(中略)そもそも、スリランカやモンテレイという風土や当地の施工技術に、安藤忠雄の打ち放しコンクリートが無理なく合うものだろうか」飯島は施工にかかる条件や安藤の著述を詳細に検討したうえで次のように結論づける。「(安藤がこの二つの建築で用いた)たとえばそのZ型の幾何学が、あるいはその研磨されたコンクリート打ち放しが、さらには『安藤忠雄がつくった』という事実が、安藤忠雄のブランドであり、商標であり、ロゴだからである。すなわち、スリランカやモンテレイの資産家たちが心底欲しがっているのは、彼の建築ではなく、その建築の出来栄えですらなく、この安藤忠雄のロゴである」ここで指摘された施主の意図は当然安藤も了解しているだろう。もちろん建築とは施主がいて初めて成立するから、私は単純に安藤を批判しようとは思わない。しかし、かつてル・コルビュジエ、革命の建築家に心酔して建築を志したはずの安藤にとってこのような妥協は自らの建築家としての生き方の根幹に関わるのではないだろうか。安藤によれば「スリランカの住宅」は次のような人物によって求められたらしい。「クライアントは、現地で製造業を興し、グローバルな企業へと発展させた会社社長である夫、スリランカの風土にインスパイアされた作品をつくり続けている画家である妻の、ベルギー人夫妻である。一年の多くをスリランカで過ごし、その風土と文化、人々をこよなく愛している」なんのことはない、第三世界を収奪している「グローバル」企業のオーナーがオリエンタリズムとモダニズムのアマルガムとして世界的な日本人建築家のロゴを現地に求めただけではないか。もちろん私はそれを批判できる立場にはいない。しかし安藤忠雄という才能が結局のところ、革命ではなく資本主義のアイコンへと堕してしまったことは否定しがたい。飯島はこの状況を次のように評している。「こうした事情は世界の建築界においても、まるで同じことである。いわば世界の建築の動向は、安藤忠雄『らしい』建築が、つまり定番商品が欲しいというマーケットの欲望の中で、常にくるくると回り続けているのである」
 「マーケットの欲望」というキーワードを得て、話題を変えよう。先般、東京国立近代美術館で「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である」という長いタイトルの展覧会が開かれた。台湾のヤゲオ財団が収集した現代美術の名品を紹介する展覧会であり、現在も国内を巡回しているはずだ。リヒターやデ・クーニング、杉本博司からグルスキーまで私好みの作品も多く、展示された作品のクオリティーはかなり高い。しかし私はここに展示された作品が形式においても内容においてもいかにもばらばらであることを不審に感じた。その理由は本書を読んで腑に落ちた。飯島は安藤のロゴを求めるようなクライアントがしばしば現代美術のコレクションを有することを指摘し、辛美沙の文章を引用してこのようなクライアントの人物像を描写している。それによれば「情報技術の革新と金融のグローバル化に伴い、プライベートジェットで好きな場所に行き来し、超高級デザイナーズコンドミニアムを世界中にいくつも所有し、マンションに住まうヘッジファンド長者たちにとって、安ものの作品で自宅の壁を飾ることなどありえない。高額のアートを買うことは、豪華なクルーザーを所有し、秘境の高級リゾートに出かけ、子供をスイスのボーディングスクールに通わせ、プラダやグッチを身にまとうことと同様に、ライフスタイルの一部であり、あるソーシャルキットに属するための必須アイテムなのだ」この描写にヤゲオ財団があてはまるかどうかは今は措く。しかし私にはそこに展示されていた作品のラインナップが安藤の建築同様に、富裕層にとって共通のアイコン、チャールズ・ジェンクスのいうアイコン建築ならぬアイコン美術作品で占められていたように感じられたのだ。それであれば作品の統一感のなさも了解される。確かにヘッジファンド長者たちは一昔前のバブル長者のように、作品を投機の対象とみなしてはいないかもしれない。それは彼らの生活、正確には帰属する階級のシンボルなのだ。むろん美術品とは常にそのようなものであったかもしれず、それが動産である以上、対価を払って所有することは可能だ。しかし私はこのような意識に基づいて作品を収集することが正しいとは考えない。少なくとも私が作品に求める価値とは異なる。このようなアイコン美術作品を麗々しく並べて、コレクションを顕揚することが果たして美術館が果たすべき役割であろうか。私はこの展覧会を東京で見たが、その際には作品の横に作品価格にかんするインフォメーションが掲示されていたと記憶する。それはアイコン美術作品に対するアイロニーというより、端的に美術館が「マーケットの欲望」に跪拝した敗北宣言のように感じられた。
 美術館や展覧会という制度と関連させながら、飯島は建築と芸術を峻別する。「何よりも重要なのは、建築はそれを使う人たちのためのものだという当たり前の事実である。だからお金を出す人よりもそれを実際に使う人の意見を素直に聞くのが、本来の建築家の正しい在り方である。この当たり前の仕事が、本質的に全ての建築家に使命として求められている。その意味で建築家とは芸術家ではなく、あくまでも設計技術者であるべきである」この意味において飯島は美術館における「建築展」に対しても批判的である。「こうした事態に並行するのが、一部の美術館の学芸員の、建築に対する最近の際立ったスタンスである。一部の学芸員は、若手建築家の、『建築』としては構造的にとても実現できないプロジェクトを面白がって、それを『建築作品』として自分たちの美術館で堂々と展示している」石上純也らを例証としてなされるこの批判は重要である。建築に関わる展覧会は現在も流行しているが、それは特定の場所にしか存在しえない建築を、美術館という特権的な場所に導入するという本来的に不可能な試みである。しかしアースワークの作品が様々な手法でギャラリーや美術館に持ち込まれて売買されたように、今や建築に付随する様々の表現が美術館で展示されている。本書で手厳しく批判される二人の建築家が自分の名を冠し、自分自身の「建築」を展示する美術館を設計していることは偶然ではないだろう。本来であれば施主に属すべき情報が「マーケットの欲望」に応じて、「作品」化されて麗々しく美術館に展示される。ここでも美術館は「マーケットの欲望」に奉仕している。私は美術館がこのような欲望から超然としてあれ、といった理想論を打ち上げるつもりはない。そもそも「近代美術館」にホワイトキューブの空間が成立したことによって、私たちはあらゆる時代、あらゆる地域から「美術作品」を拉致して、「展覧会」という制度に接続させることが可能となったのであり、美術館がかかる建築、かかる制度と密接に結びついている以上、革命に代わって資本に殉じる建築や美術を私たちはたやすく否定することはできない。
 本書はきわめてペシミスティックな言葉で結ばれている。「結局、いくら資本主義を激しく批判しても、最終的な結末は資本主義の勝利に終わるのである。(中略)したがって建築家は、これからも、イデオロギー抜きの趣味的な社会で、ただ資本主義体制に倣っていくだけである。少なくとも、いま、はっきりとわかっていることは―これは絶望的な事実であるが―ただ、それだけなのである」今後建設され、神宮外苑の歴史的景観を完膚なきまでに破壊するザハ・ハディドの新国立競技場はこのようなペシミズムを絶えず想起させるまことにネガティヴなアイコンとなるだろう。金だけがものをいう建築、美や完成度ではなく市場価値のみを価値基準とする美術。革命の終焉から半世紀、私たちが生きているのはなんとも寒々しい世界だ。
by gravity97 | 2014-10-07 20:50 | 建築 | Comments(0)

 現在の東京都庁は1985年に指名コンペで設計が公募され、下馬評どおり丹下健三が提出したゴシックの大寺院を連想させる二棟の超高層案が選ばれ、建設にいたった。このコンペには丹下のほか九者の建築事務所や建築会社の設計部が参加し、建築や予算の規模として戦後最大級の指名コンペとなった。様々な超高層棟案が提出される中、でただ一人、中層案で師丹下に挑み、敗れ去った磯崎新の軌跡とコンペでの戦いぶりを記録したノンフィクションが本書である。
 テート・モダーンからWTC跡地再開発まで、著名建築家を指名して設計を競わせる指名コンペは昨今さほど珍しくないし、実現されなかったプランの方が選ばれたプランより興味深い場合も多々あることは安藤忠雄の『連戦連敗』などを読めば明らかである。しかし実際にこのようなコンペがいかに実行されるかについての情報は多くない。日本の建築家と建築会社の設計部のみが指名されているため、いささか華やかさに欠けるとはいえ、時あたかもバブル前夜、新宿に巨大なスカイスクレーパーを建設する大事業の内幕はいかなるものであったか。
 筆者によると、東京都が示した条件は、容積率の関係で最初から高層案を強く推奨するものであったという。敷地との関係で建築家の選択は高層を一棟、二棟のいずれで設計するかという点に集約される。コンペに「ぶっちぎりで勝つ」ことを宣言した丹下は、事前の周到な「質疑応答」によって一棟案が事実上不可能であることを確認したうえで、自らの建築の集大成としてコンペ案に向かう。これに対して磯崎は官僚制というヒエラルキー=ツリー構造を相対化する作業概念としてドゥルーズ/ガタリのいう「リゾーム」構造を導入し、ツリーが暗示する垂直ではなく、水平方向を基軸としたプランに向かう。官僚が用意したプラットホームを拒否し、抽象的な理念を建築の核とする磯崎らしいプランではあるが、当時、「ミル・プラトー」や「器官なき身体」といった言葉が一部の知識人の言説に流行というより蔓延していたことを想起する時、果たしてかかる意味不明な現代思想のジャーゴンにいかに建築という実体を与えることができるかという問題が磯崎のプランの成否を握ることは誰にとっても明らかである。
 全ての芸術の中で建築はおそらく最も政治と結びつきやすい。このようなコンペに「公正さ」を求めること自体がナンセンスであろう。もちろんこの本の中でも当時の都知事、鈴木俊一の側近であった丹下のプランが選ばれたことの是非が問われている訳ではない。しかし少なくとも建築科出身の筆者が磯崎の実現されざるプランを主題とする以上、リゾーム、あるいは錯綜体といった抽象的な概念が高層案に対してどのような意味をもち、設計プランの中でいかに具体的に実現されたかという問題に対して、建築の問題として応える義務があるのではなかろうか。能力がないのか、調査不足のせいか、この本質的な問いはほとんど深められることがない。代わって延々と羅列されるのは磯崎アトリエのスタッフや磯崎本人をめぐるとりとめのない逸話である。もちろん磯崎のスタイルがどのように形成されたかという点もこのノンフィクションの主題であろうし、彼が提出した都庁の設計案とも深く関わっている。「コンペはたった一つの極端に突出したアイデアを捜している」という磯崎のコメント、あるいは磯崎のプレゼンテーションの中に村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』への言及があったといった指摘など、それなりに興味深い知見も得られるが、記述は総じて散漫で最後まで焦点を結ぶことがない。まさか磯崎が都庁プランの基本概念とした「錯綜体」を実践した訳でもあるまいが、コンペの進行と雑多なエピソードが脈絡なく交錯するため、本来ならば緊迫感をもって語られるはずのコンペの帰趨もいつのまにかうやむやとなる。さらに言えば対象に対して妙に馴れ馴れしい文章は品がない。
 筆者は十分に自覚していないが、フーコーを引くまでもなく、建築とは端的に権力関係である。この点を意識すればバブルに狂い咲いたかのような、現代のバベルの塔に反映されたいわば建築的無意識の含意は明らかである。そして国会意志を体現する建築を次々と手がけてきた丹下も、自らが出品したミラノ・トリエンナーレが学生叛乱によって粉砕された経験をもつ磯崎もこの点に十分に意識的であったはずだ。丹下は都知事という小皇帝とそれに傅(かしず)く官僚たちが下界を睥睨するための宮殿を構想した。これに対して、磯崎は巨大な建築の中にサン・ピエトロ大聖堂をしのぐ巨大な広場を取り込み、雑多な民衆が自由に交通するシティホールを設計した。垂直と水平、管理と叛乱、睥睨と交通、統制と混沌、かかる対比を検討するならば、丹下案の採用は必然であり、磯崎案が本質においてこのコンペにおいて「たった一つの極端に突出したアイデア」であった点も容易に理解される。
 b0138838_21181197.jpgコンペから10年以上が経過した。私たちはバブルとその破綻、それ以後の日本社会の閉塞と低迷を経験した。都庁と東京都現代美術館、東京国際フォーラムなどをバブル期の東京五大粗大ゴミと呼んだのは磯崎その人であった。しかし今も丹下の都庁、垂直の宮殿は下界を睥睨し、都市と地方、より正確には東京と東京以外の地域間格差はかつてないほど広がっている。地方の疲弊と対照的に、東京では少なくとも表面上は相変わらずの好況と建築バブルが続き、在日外国人や老人に対する差別を公言して憚らない小皇帝は今やオリンピックの誘致を絶叫する。いうまでもなくオリンピックとは本来不必要な大規模施設を税金で建設するための政治的儀式であり、国家がセキュリティー・システムを強化するうえでの口当たりのよい口実である。東京都庁と並ぶ丹下の代表作が東京オリンピック屋内総合競技場であったことは偶然ではない。一体誰がこのような建築を欲しているのか。そもそも公共建築とは誰のためのものか。私たちはもう一度このごく当たり前の問いから始めるべきではないか。
 
by gravity97 | 2008-07-01 21:09 | 建築 | Comments(0)