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Living Well Is the Best Revenge

カテゴリ:SENSATION( 6 )

KAMAKURA, 2016.1.31

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 始まりに立ち会うことは珍しくないが、終わりに立ち会うことはさほど多くない。始まりが何かの事件によって画されるのに対して、終わりはしばしば終えられた後になって初めて気づく場合が多いからだ。しかし今年の1月31日、私は紛れもない一つの終焉に立ち会った。いうまでもない、神奈川県立近代美術館鎌倉館の閉館である。
 以前から予告されていたから、当日は多くの人が美術館を訪れていた。入館券売り場には長い列が出来ており、いたるところにカメラを手にして、この美術館の名残を写真にとどめようとする人々の姿があった。もちろん私も大きな感慨とともにこの地を踏んだ。私は単なる来館者としてだけではなく、共催する展覧会の担当者としても何度かこの美術館に足を運んだ。このブログは匿名を原則としているから、具体的な展覧会名には触れず、若干のフィクションを交えて思いを記すこととする。
 神奈川県立近代美術館鎌倉館は1951年に日本で最初の「近代美術館」として開館する。近代を関した美術館としては、世界的にもきわめて早い例であり、東京国立近代美術館の開館はこの翌年のことであった。この美術館は土地を隣接する鶴岡八幡宮から借用していたが、借地契約が今年の3月末で満了するため、神奈川県は鎌倉館での美術館活動を終了することとなった。2003年に葉山館が新設されたことはこの事態に対する布石であり、美術館活動そのものは葉山館、そして隣接する鎌倉館別館で継続されることとなったが、いくつかの問題が残った。最大のそれは現在の鎌倉館の処遇であり、一時は坂倉準三の歴史的名建築が取り壊され、更地となることさえ危惧されたのである。現時点で私の得ている情報によれば、本館棟は残されて、今後おそらくは八幡宮の施設として使用されることとなるらしいが、耐震基準に問題がある新館棟は取り壊される予定であるという。鶴岡八幡宮の境内は国史跡の指定を受けているため、新館棟の改修が困難であることが理由であるにせよ、1966年に同じ坂倉によって増築された新館棟を欠いた鎌倉館をどう見るかは難しい。そもそも新館棟は2007年以来使用されておらず、私自身これ以後の展示に立ち会って、以前と比べて使用できる面積がずいぶん減り、余裕のある展示が難しくなったと感じたことを覚えている。鎌倉館は決してユーザーフレンドリーな空間ではなかった。そもそもこの美術館は「近代美術館」という概念が形成されつつある時代に成立したから、開館直後の展覧会記録写真を見るならば、展示室の周囲にめぐらされたガラスケース、かなり貧弱な仮説壁など、従来の博物館の延長にあった日本における草創期の美術館の特徴がよく理解できる。あるいは関係者にはよく知られた話であるが、この美術館にはエレベーターがない。重量のある作品を二階に展示する場合は正面の階段を人力で上げるしか方法がないため、展示は天候によって左右された。オフィスビルに間借りして始まったニューヨーク近代美術館に対して、優れた建築家が新築した美術館であるにもかかわらず、作品を展示する際には過渡期に起因する不便があったように感じる。しかしながらこの美術館の建築は素晴らしい。私も日本各地、世界各地の美術館をめぐった経験があるが、この美術館ほど気持ちのよい空間を思いつくことは難しい。池と山にはさまれ、温湿度管理や虫害予防といった観点からは必ずしも好条件にある美術館ではないのだが、この空間は日常から離れて美術に向かいあう場にまことにふさわしく、特に展覧会を目的とせずふらりと立ち寄ってもいつも懐かしい場所であった。イサムノグチの作品が置かれた中庭、水面の反射が天井に映えるテラス、あるいは昭和の面影を残す喫茶室。この美術館の空間はなんとも優しく、ヒューマンスケールなのだ。例えば安藤忠雄による兵庫県立美術館、SANAAが手がけた金沢21世紀美術館、そしてシーザー・ペリの国立国際美術館、これらは今世紀になって建設され、建築が話題になった美術館であるが、私はそれらの建築をよいと思ったことは一度もない。兵庫県立美術館は村野藤吾の手による前身の兵庫県立近代美術館に比べてなんとも威圧的で閉鎖的、中に入るといつも息苦しさを覚える。金沢21世紀美術館の安っぽさはどうだ。私はいつも車のショールームを連想し、展示室に入るならば自分がどこにいるかわからず、常に導線が不明だ。国立国際美術館については(建築家の責任ではないかもしれないが)美術館が置かれた位置に強い違和感を覚える。自然災害の多いこの国でことさらに地下(それも川に挟まれた中州の地下)という人間的でない場所に作品を展示、収蔵するという発想は美術館の本質と乖離しているのではないか。超高層に所在する美術館を私が嫌悪するのも同じ理由による。これらの美術館と比べるならば、鎌倉館の優しさは理解していただけるだろう。そこでは美術館の内部と外部がつながり、建築が息づいているような印象を受けないだろうか。もちろん先に述べたような不便さや古さは存在する。しかし日本で最初に建設された近代美術館が半世紀以上の時を経ても、なお日本の美術館建築において屹立する存在であることの意味は検証されてよいのではなかろうか。
b0138838_20323016.jpg 開かれていた展覧会は「鎌倉からはじまった。」と題された連続展の第三部である。半年にわたる展覧会では現在から過去へ、鎌倉館の歴史を遡行するかたちで美術館が回顧された。それぞれのサブタイトルを紹介するならば「Part 1: 1985-2016 近代美術館のこれから」、「Part 2: 1966-1984 発信する近代美術館」、「Part 3: 1951-1965 『鎌倉近代美術館』誕生」である。このうち、私は第一部と第三部を見た。いずれも所蔵作品を中心とした名品展であり、あらためてこの美術館が日本の近代美術史に与えた影響を感じることができた。例えば佐伯祐三や高橋由一、松本峻介といった画家たちは今でこそ日本の近代美術史に刻まれたビッグネームであるが、彼らはこの美術館で作品が展示され、収蔵されることによって評価を高めたのである。ただ私が興味を抱くのは、この美術館で好んで取り上げた作家たちが必ずしも近代美術の正史にきっちりと収まる作家ばかりではないことである。もっとも果たして日本の近現代美術に「正史」が存在するのかという問いはありうる。しかし例えば東京国立近代美術館のコレクション展示と比べるならば、明らかにそれとは異なった一群の作家たちへの偏愛が認められるように思われる。両者の違いを説明することはなかなか難しいが、東京国立近代美術館は国家機関として文化勲章や重要無形文化財を頂点とする美術家たちの序列を調整することをよくも悪くも一つの存在理由としている。したがって国立近代美術館によってコレクション展示の中に列聖される作家たちは好む好まざるにかかわらず一種の権威を帯びる。これに対して神奈川県立近代美術館が好む作家たちにしばしば一種の異端性が認められることは注目されてよいだろう。おそらくそこには国立美術館に対する在野の精神、公立美術館としての矜持が存在しているであろうし、さらに具体的に述べるならば、とりわけ第二代館長であった土方定一の意志が働いているように思われる。b0138838_20342847.jpg 閉館を記念して作成された『鎌倉から始まった。』という冊子の第1章、ちょうど今回の展示に対応するセクションのリードに次のような的確な要約がある。「こうして、坂倉準三の建築が体現する開放されたモダニズムの空間を舞台に、当時の土方定一副館長を中心とする草創期の学芸スタッフたちの飽くなき挑戦の積み重ねによって『鎌倉近代美術館』という独自の文化空間が生まれたのであった」ここでまた一つの疑問が生まれる。鎌倉館が最初の近代美術館、モダン・ミュージアムであったとするならば、ここにおけるモダンとは何を意味しているのだろうか。ここで対比されるべきは最初のモダン・ミュージアム、ニューヨーク近代美術館ではなかろうか。知られているとおり、1929年に開館したニューヨーク近代美術館が館長アルフレッド・バーの強力なリーダーシップのもと、展覧会と作品収集によってモダニズム美術の文脈を形成し、アメリカ美術をその正嫡へと位置づけた。しかしながら神奈川県立近代美術館は美術史におけるモダニズムとも一線を画しているように感じられる。先にも述べたとおり、そこで取り上げられる作家はモダニストと呼ぶには少々泥臭く、やはり異端という呼び方がふさわしい。神奈川県立近代美術館鎌倉館は主として近代の作家を取り上げたが、それはいわゆるモダニズム礼賛ではなかった。この微妙でありながら決定的な差異は重要ではないだろうか。この一方、私の考えではこの美術館はその姿勢において決定的にモダンであった。つまり美を独立した価値とみなして、ほかの価値と混同することがなかった。先にも触れた『鎌倉からはじまった。』という冊子にはこれまでこの美術館で開かれた展覧会のリストが掲載されている。このリストを眺めるだけで多くの発見がある。「セザンヌ・ルノワール展」に始まり、最初の一年になんと22本もの展覧会が開かれたことは驚きであり、学芸員たちはこれほどの数の展覧会をどのように捌いたのだろうか。あるいはごく初期の展覧会のいくつかが「複製展」と銘打たれていることは、敗戦からまもない当時、人々がどれほど美術に飢えていたかを物語るものであろう。このリストを眺めていると、私は今日しばしば開催されるあるタイプの展覧会がほとんど存在しないことに気づいた。それは「X美術館名品展」といった類の展示だ。今日においてこれはむしろ異例に感じられる。例えば国立新美術館のラインナップを想起するならば、この施設が基本的に貸会場であることを勘案するにせよこの手の展覧会がほとんどを占めている。それらはきわめて安易な展覧会だ。借用は一つの美術館のみで完結するし、その中に数点、よく知られた作品を入れておけばある程度の来場者は確保できる。このような展覧会の場合、作品の選択は多く所蔵館側によってなされる。つまり借用する側の主体性はほとんど存在しないのだ。私はこれを展覧会の植民地化と呼ぶ。国立から私立まで現在、宗主国に阿ったくだらない展覧会がいかに多いことか。しかもこれらの展覧会は基本的に顔のある美術館学芸員ではなく新聞社やTV会社の匿名の事業部によって組織されている。彼らに随行して宗主国の美術館を「表敬訪問」した学芸員たちが「国際展」を組織したと勘違いする愚かさには失笑を禁じえない。なぜこのようなタイプの展覧会が隆盛するのか。理由は単純だ。収益を上げることができるからだ。美術が営利手段として用いられているのだ。先にも述べたとおり美術は独立した価値の源泉であるから、本来ならば入場者数や収入といった市場的な価値とは無関係のはずである。しかし今や「新自由主義者」たちに乗っ取られたこの国ではかかる原則が顧みられることはない。それどころか収益を前提としない展覧会は悪とさえみなす風潮が蔓延している。もっともこの点は鎌倉館が大新聞社やTV会社と展覧会を共催しなかったことを意味しない。私が実見した展覧会の中から任意に挙げるが、「セント・アイヴス展」、「芸術の危機 ヒトラーと退廃芸術」、「実験工房展」、例えばこれらの展覧会は新聞社との共催によって開催されたはずである。しかしなんと渋いラインナップであることか。いずれも動員や収益は見込めない展覧会であろうが、新聞社と組むことによって可能となった展示であろうし、逆に言えばかつては新聞社側にもその程度の度量があったのだ。言い換えるならば、この美術館の場合、学芸員が展覧会に主体的に関わるという姿勢が貫徹されている。当然といえば当然だが、今述べたとおり、見栄えこそよいものの国立美術館でさえ海外の美術館の巡回展の下請けと化している状況においてはかかる原則も空洞化しつつある。もちろん展覧会の開催にはさまざまな力学が働くから、このように単純に論じるべきではないし、かくいう私自身このようなタイプの展覧会に関わったことがあるから、批判できる立場にないことも認識している。しかし私は展覧会とはその本質において作品に文脈をつける営みであると信じている。そしてそのような文脈を提起することこそ学芸員の仕事の本質ではないだろうか。他の美術館のコレクションを右から左に並べる展覧会の最大の問題は、このような文脈が成立しない、もしくは文脈の成立に関与できない点である。この点は最近では全国を巡回した台湾の現代美術コレクションの展覧会から(私は未見であるが)現在、横浜美術館で開催されている村上隆のコレクション展まで通じる問題であろう。コレクターによって既に文脈を与えられた作品を美術館で展示することはあってよいと思う。しかし美術館という公共の場に並べる以上、それらをいかに再文脈化するかという問題意識が企画者に求められるのではなかろうか。
 少し話が逸れた。鎌倉に戻ろう。今述べたとおり、いかなる展覧会を実施するかについては複雑な力学が働く。しかしこの美術館が一貫して植民地的な展覧会を退け、学芸員が主体的に関わる展覧会を企画してきた背景に美術館としての意志と学芸スタッフの明確な意識が働いていたことは間違いない。冒頭に終わりというのは終えられた後に初めて認識されることがあると記した。近代に特化した特別展、特別展と常設展の併置、多様なジャンルの作品の紹介、あるいは現存作家の近作を展示する展覧会、「近代美術館」と関わるこれらの制度は少なくとも草創期においてはこの美術館を中心に模索され、確立されてきたように思われる。この意味において鎌倉館はハードにおける「近代美術館」の起源であると同時にソフトにおける「近代美術館」の濫觴でもあった。しかし半世紀以上の時間が経過して、展覧会という制度も微妙な変質を始めている。国立館と比べるならば鎌倉館は決して潤沢な予算がある美術館ではない。しかしおそらくは館是として今日にいたるまで一人の学芸員が主体的に関わり、作家との良好な関係の中で展示された作品に文脈を与えるというタイプの展覧会を続けてきた。私はこの点こそ鎌倉から学ぶべき点であり、最初に建設された近代美術館にふさわしい気風であるように感じる。今日、多くの美術館にとってこのような展覧会を企画することは次第に負担になりつつあるように感じられる。美術館にとって冬の時代と呼ばれる現在、なおも「近代美術」の理想を掲げて美術に関わることができるのか、それとも単なる効率化や収益性といった価値に美術を重ねてしまうのか。時が経って、この美術館の閉館が日本における「近代美術館」の理念そのものの終焉であったと気づくことがないことを願いつつ、私は襟を正してこの美術館の最期を見届けた。
by gravity97 | 2016-02-08 20:44 | SENSATION | Comments(0)

MARFA, 1996.11.1

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 雑誌であったか新聞であったか、先日、私はカタールに完成した驚くべきプロジェクトについて知った。それはリチャード・セラによる「East-West/West-East」という作品であり、カタールの荒涼とした砂漠に等間隔で屹立する高さ16.7mもしくは14.7mの四枚の巨大なモノリスだ。この鉄板はドイツで加工されたとのことであるが、かかる巨大かつ重量のある作品をいかに製造し、輸送し、設置したか、私の想像をはるかに絶している。インターネットの記事などを参照するならば、セラ自身もこのプロジェクトを自身のキャリアにおいても最も成功した例の一つと見なしているとのことであるから、風景の中でいかなる偉容を呈しているか大いに気になるところだ。以前このブログでも触れたことがあるが、セラにはこの作品同様、野外に垂直的なモノリスを設置した例がある。アイスランドに設置された「AFANGAR」である。極寒と灼熱、二つの荒涼とした土地に設置された沈黙の作品群、その対照は私たちの想像力をかき立てる。カタールとアイスランド、二つの土地に設置された作品はほかにも共通点を有している。いずれも日本からは遠く離れ、訪れることが困難であることだ。私は出来ることならばこれらの作品を実際に見てみたいと願う。このうちカタールは、近年、国立美術館が中心となってオイルマネーを用いて現代美術の優品を次々に収集しているから、今後訪れる機会が全くないとはいえない。しかし設置された土地の苛酷さを写真からうかがう限りにおいても、少なくともこれら二つの「作品」を見るためには、それのみを目的とした旅程を組む必要があるだろう。それは現代美術の聖地巡礼だ。

 以前の記事と一部重複するが、今回はこのような巡礼の思い出を記すことにしよう。巡礼地はテキサス州マルファ。そこにはミニマル・アートの巨匠、ドナルド・ジャッドが自らの作品のために選んだいくつもの施設が点在している。今、この町の位置を確認するためにグーグル・マップを開いてみると、この周囲にいくつものランド・アートの名作が分布していることを知る。たまたま私は同じ画面にアマリロという地名を確認したが、現代美術に詳しい者であれば、この地名とロバート・スミッソンの最後の作品、制作中に飛行機事故で死亡した《アマリロ・ランプ》を結びつけることはたやすい。あるいは25号線を北上し、ニューメキシコ州に入るならば、ウォルター・デ・マリアの名高い《ライトニング・フィールド》まではおよそ一日の距離だ。自動車さえあれば、数日の間にこれらを巡回することは不可能ではない。もっともランド・アートは位置を記した地図の記述が恣意的であり、作品を見つけることができない場合が多いことを多くの研究者が指摘している。GPSを用いたナヴィゲーション・システムが発達した今日、ランド・アートへのアクセスはどのように変化したのだろうか、これは興味深い問題だ。
 私たちは空路でメキシコ国境の街、テキサス州エル・パソに入り、レンタカーを借りてマルファに向かった。エル・パソはメキシコと国境を接しており、橋を渡れば一時的にメキシコに入国することができる。エル・パソにはたまたま昼前に着いたこともあり、私たちは検問所を越えてメキシコ側のレストランで昼食を取ることにした。アメリカとメキシコの国境間の移動という主題からはさまざまの映像的記憶、文学的記憶が喚起されよう。映画であれば「バベル」、「トラフィック」から「フロム・ダスク・ティル・ドーン」、小説であればコーマック・マッカーシーの「すべての美しい馬」と「血と暴力の国」。実際、メキシコに入国すると奇妙に空気が変わる雰囲気があった。これに似た体験は壁の廃墟を境に町のたたずまいが明らかに異なるベルリンで味わったことがある。閑散としたレストランでメキシコ料理を注文した記憶があるが、この旅行ではいたるところでテクス・メクスを味わったためか、具体的に何を食べたかは覚えていない。
 エル・パソから南東に半日ほど走るとマルファに到着する。以前にも記したが、この町の名前はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に由来するという。この町に鉄道が敷設された当時、鉄道の機関士が読んでいたドストエフスキーの小説の登場人物にちなんで命名したという冗談のような話が伝えられている。主要人物ではないから注意深く読まなければわからない。フョードル・カラマーゾフに仕える実直な下男グリゴーリーの妻、マルファがこの町の名の起源のはずだ。ジャッドは1971年にこの地に移り、73年に町はずれの荒れ果てた建物を購入し、自分の作品を設置した。そして86年にはチナティ・ファウンデーションを設立し、自身の作品を含めた現代美術の作品を恒久展示する施設の本格的な整備に乗り出す。94年に没するまでの間、実に四半世紀近くにわたって、この地に現代美術のユートピアを築くことに作家は身命を賭したのである。ジャッドは「自分の作品を守るために」というテクストの中で次のように語っている。「チナティ・ファウンデーションの目的は、自分と他の作家の作品を、それらにふさわしいと私が考える空間に保存することである。私はそのために作品の制作に次ぐ努力を払ってきた。そして政策と保存という二つの関心は徐々に融合し、建築に繋がっていったのである。私や他の作家たちの作品は創り出されると同時に設置される。だから作品は、空間的にも社会的にも時間的にも制作された場から切り離されてはならない。しかしたいていの美術館ではそれが切り離されてしまうことになる。私の作品にとって、それを取り囲む空間は決定的に重要であり、作品そのものと同じくらい考え抜かれたものである。ニューヨークとマルファでの設置は、他の場所での私の作品の設置の規範となるものである」単に作品設置の理想を述べたにとどまらず、ミニマル・アートの本質と深く関わる重要なコメントである。このテクストを再読して私はあらためてジャッドの先見性を知る。作品は設置されるべき場所があり、多くの場合、それは都市ではなく田園、もしくは自然であるという発想である。それは端的に美術の商業性を否定している。
 この問題については後で立ち返るとして、私たちの旅に戻ろう。私たちというのは、ジャッドと懇意のギャラリストを含めて8名ほどの集団である。ソーホーのギャラリーを巡るのとは異なり、さすがにアメリカ中西部に点在するアート・スポットを単身で回ることは難しい。既に何度かマルファを訪ねたことがあるギャラリストを導き手として、私たちは車に分乗してマルファに入り、その日の夕方、ジャッドに関係する二つのファウンデーションを訪れた。一つは先に引いたテクスト中に「ニューヨークでの設置」と表現されたニューヨーク、スプリングストリートのジャッドの住居、そしてマルファにおいてジャッドの初期作品を展示した施設などを管理するジャッド・ファウンデーション、そしてもう一つがテクストの中にあったチナティ・ファウンデーションである。両者の関係については詳しくわからないが、私の印象としてはジャッド・ファウンデーションがジャッドの住居や作品を保守、管理する施設であるのに対して、チナティ・ファウンデーションはいわばジャッドの精神を未来に向かって伝えていく施設であるように感じられた。ただし作家の存命中にも何度かここを訪れたことがあるギャラリストによれば、ジャッドの没後、いずれのファウンデーションもかつての緊張感がいくぶん失われ、この一事によっても作家の存在の大きさがうかがえるとのことであった。しかし快活な若いスタッフと会話を交わす限り、このような機微について私が理解することはできなかった。その夜は、アルパインという隣町のレストランでリブ・ステーキを食べたことを覚えている。ファウンデーションの職員たちに薦められたこのレストランではアメリカン・スタイルの巨大なステーキが供され、一人で食べきることは困難であった。
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 翌日、私たちはあらためて二つのファウンデーションを訪れた。マルファは人口2000人というから、さほど大きな街ではない。ジャッド・ファウンデーションの事務所は二つの道が交差する中心部の近く、チナティ・ファウンデーションは南西のやや街はずれに位置する。このほか街のあちこちにジャッドと関連した施設が所在し、最初に訪ねたジャッド・ファウンデーションのスタッフが案内してくれた。私たちはまずジャッドの住居を見学した。先にも述べたとおり、私たちが訪ねる二年前にジャッドは他界していたが、ジャッドの書斎や読書に疲れると横になったというソファなどはまだそのままのかたちで残されており、私は書架の中にクレメント・グリーンバーグの全集をめざとく見つけた。近くにはジャッドの初期の作品が展示してある施設もあり、そこで見た作品のいくつかと私は99年に埼玉と大津で開かれたジャッドの展覧会で再会することとなる。一方、ジャッドの仕事場はその近くのメインストリートに面し、元々は銀行として使用されていた建物にあったと記憶している。ジャッドは立体だけでなく、版画や家具も制作し、建築にも関心をもっていた。確かこのビルディングは家具の設計のために用いられており、室内に置かれた家具は多くが作家自身によって設計されたものである。街の中に住居といくつもの仕事場、さらには作品の展示施設を配置し、職住接近というか生活と仕事、日常と芸術を両立させるライフスタイルがミニマリズムの作家によって営まれていた点はなかなか興味深い。
 いくつもの施設を案内してくれたジャッド・ファウンデーションのスタッフに感謝を述べた後、私たちはチナティ・ファウデーションに向かった。前日は不在であったディレクター、マリアナ・ストックブラントが戻っていたのだ。私はドイツ生まれのジャッドのパートナーと初めて会い、彼女の案内で広い敷地内に設置された作品群を巡った。このうち100点のアルミニウム・ピースが収められた体育館のような施設は写真等で私も見知っていた。この作品をめぐっては確かDIAファウンデーションとの間で確執があったはずだ。野外に配置された巨大なコンクリート・ピースもホイットニー美術館における個展のカタログの表紙として見覚えがあった。作品の近くにガラガラヘビがいるから注意するようにと言われたことを覚えている。私が驚いたのは、敷地や施設内に多くのほかの作家の作品も設置、展示されていたことだ。バーネット・ニューマンやダン・フレイヴィンはわからないでもない。しかしクレス・オルデンバーグやジョン・チェンバレン、さらにイリヤ・カバコフといったおよそミニマリズムのテイストからは遠い作家の作品も配置されているのだ。ジャッドは次のように記している。「この新しい社会構造は芸術を殺そうとしているのである。これに抵抗しなければならない。私は常に自分の作品を守ってきた。私は全ての公開される展示を自分で設置してきたし、自分自身の空間に作品を設置し、保存してきた。そのほとんどはマルファの自分の建物での展示である。チナティ・ファウンデーションは、これを大きなスケールで展開し、フレイヴィンとチェンバレンの作品にも広げようとする試みである。これは芸術の存在を完全かつ自然に見せようとする、私の知る限りほとんど唯一の試みだ」おそらくジャッドは自分の作品については厳しいミニマリズムの原理を貫いたが、ほかの作家の作品を判断するにあたってはその原理を機械的に適用することのない広い度量があった。そして美術館や学芸員によって汚染される前に、自らが評価する作品をふさわしい場所に設置する試みを作家はその晩年に続けていた訳である。このような芸術のユートピア思想の由来も私には興味深く感じられる。
 ストックブラントはその晩、私たちをディナーに招待してくれた。会場はファウンデーションの中の旧体育館。床にはコンクリートと砂利が整然と敷かれ、清潔でリジッドな印象の室内であった。中央にはおそらくジャッドが設計した長いテーブルが置かれている。明かりはロウソクだけであったように記憶する。ストックブラントはステーキを手ずから調理し、切り分け、私たちにサーヴしてくれた。二晩続けてのステーキであったが、その晩のビーフがことのほか美味に感じられたのは、私たちがユートピアにいたためであろうか。この夜はアメリカ中西部を訪ねた比較的長い旅行の最後の晩であったが、翌朝は早く宿舎を発たねばならない。意地汚い私としてはワインを自制しなければならなかったことが唯一の心残りであった。

 近年、日本でも現代美術をめぐる聖地巡礼が流行し、美術雑誌は「アートの旅」といったお手軽な特集を組んでいる。ツーリズムと現代美術の連動は一方では各地で開催されるビエンナーレ、トリエンナーレといった大規模な国際展の隆盛と関連し、もう一方ではサイトスペフィックな作品の増加と関わっているだろう。かくいう私もこのブログでも取り上げたとおり、横浜トリエンナーレを訪れ、犬島で演劇を見る日程に合わせて直島や豊島に設置された作品や美術館を回った。もちろん私はこれらの機会を大いに楽しんだのであるが、このような体験はマルファのそれとは大きく異なる。近年の日本のアート・ツーリズムは端的に商業主義と深く結びついている。言葉を換えるならばそれらは一種の「村起こし」の手段となっているのだ。この点に関して藤田直哉は「前衛のゾンビたち」という論文で「地域アート」について次のように論じている。「ここで重視されているのは、地元と『融け合う』ことや、産業を活性化させること、都市のアイデンティティーを失わせないこと、観光客を呼び込むことである。その芸術の中身や『美』については触れられていない」ジャッドがめざしたことはマルファに「地域アート」を興すことではないし、私たちのマルファへの旅もそれ自体が目的となることはない。私たちがはるばるテキサスまで赴いたのは端的にそこに行かなければ作品に出会えないからだ。ジャッドはマルファの町おこしのために作品を設置したのではない。それが芸術として存在するために場を選んだのだ。再びジャッドの言葉を引こう。「私たちの知っている芸術と建築は残ってきたものである。一番良いのはそれが描かれ、置かれ、建てられた場所にとどまることだ。移動可能だった過去の芸術のほとんどは、征服者たちによって奪い取られた。結局のところ、最近のほとんどすべての芸術作品は作られるはなから征服され、というのもそれは最初から売るために展示され、一度売れたなら見知らぬ美術館で外来者として並べられる。一般大衆は芸術とは買い取ることができて、持ち運び可能な何かにほかならないと思い込んでしまい、建設的な努力はなされない」移動可能な美術作品が征服者によって奪われ、本来あるべき場とは異なった地に存在することはヨーロッパの大きな美術館を想起すれば明確に理解できよう。近代以降はさすがに力によって強奪されることは少なくなったが、資本主義あるいは商業主義という別のかたちの暴力が「合法的な」作品の移動を生みだした。美が商業主義という全く別の体系に絡め取られていく状況に、私たちはもはや意識することないまでに馴致させられているのだ。マルファで作家が試みた抵抗とは作品を本来置かれるべき場所に留め、移動させないことであり、これによって初めて私たちは作品を場の体験として理解することができる。そしてミニマル・アートがめざした体験はそのようなものであったはずだ。かかる体験がむしろイレギュラーな出来事となっている状況は私たちの美術が完全に商業主義に冒されていることを暗示している。この一方、近年の日本で隆盛するその場限りの「地域アート」は、芸術体験の一回性を担保するためではなく、ツーリズムや「村おこし」という別のかたちの商業主義によって要請されている。「作品は財産にされてはならない。それはただ単に芸術なのだ」というジャッドの願い、マルファの奇跡を実現することはもはや不可能なのであろうか。
by gravity97 | 2015-02-03 20:54 | SENSATION | Comments(0)

LONDON, 2002.9.19

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 2002年の秋、私は「ドクメンタ11」を含めたいくつかの展覧会とテート・モダンでのバーネット・ニューマンの回顧展を見るためにヨーロッパをめぐった。ロンドンに着いた初日、街角のキオスクで漢字の見出しが大書された国際版の日本語新聞を見かけて驚いたことを覚えている。ちょうど小泉首相が電撃訪朝し、多くの拉致被害者が死亡していたことを伝えられた同じ日であったのだ。携帯電話もスマートフォンも持参してはいなかったが、自分たちが時差のない世界に生きていることをあらためて痛感させる出来事であった。テート・モダンには午前中に入った。日本を発つ前に得た情報ではこの日が展覧会初日のはずであったが、会場に入るとその日は招待客のみのプレヴューであった。幸い英語で記されたIDを携行していたので、それを示してこの展覧会を見るために日本から来たと告げると会場に入ることができた。
 私はこの時初めてテート・モダンを訪れたから、発電所を改造した美術館の内部にも大いに驚いた。あるいはあえてテーマを設定して、モネとリチャード・ロングを併置する常設展示の手法も斬新に感じたが、それらについて記せばとりとめがない。ここではニューマンの回顧展についていくつかの所感を記しておく。
 私はこの数年前にもロンドンで抽象表現主義の巨匠の回顧展に立ち会っている。いうまでもなく1999年の初めにテート・ギャラリーで開かれたジャクソン・ポロックの回顧展である。私は幸運にもこの回顧展をニューヨークとロンドンという二つの会場で見ることができた。さらに同じ時期、ロンドンのロイヤル・アカデミーでは「20世紀のモネ」という画期的な展覧会が開催されていた。大画面を中心にして、明らかにポロックの回顧展を意識して開催されたモネの展覧会を同時に見ることができたのは得難い体験であった。私はポロックとニューマンという抽象表現主義の両雄の回顧展を同じロンドンで見た訳であるが二つの展覧会の印象は大きく異なる。一言で述べるならば、ポロックの大展覧会は(あらかじめニューヨークで見たうえで立ち寄ったことを考慮するにせよ)一人の作家の回顧展としてみごとな結構を有していたのに対して、ニューマンの展示はそのような調和を根底から突き崩す不穏さを内在させていたように感じられたのだ。ポロックの作品の展開は展覧会をとおして追体験することがある程度可能である。確かにポロックはオールオーバー・ポーリング絵画という絵画史上未曾有の達成を果たしたが、多くの研究が明らかにしたとおり、そこにはフランス近代絵画、とりわけキュビスムとシュルレアリスムの影響が濃厚であり、両者を止揚することによって独自の画面を創造したといってもよい。私は展示を通してこのような歴史的文脈を確認した。これに対して、ニューマンの場合、初期のシュルレアリスムや表現主義的抽象を連想させる小品からジップ絵画への移行は劇的であり、かかる飛躍の由来を推測することはかなり困難である。知られているとおり、ニューマンにおいてブレークスルーを画す作品は1948年の《ワンメントⅠ》であり、何ヶ月にもわたってこの比較的小さな作品に取り組むことによってニューマンは後年のジップ絵画の大作へと道を開いた。ニューマンの場合、《ワンメントⅠ》の前後で作品は断絶している。この点はロンドンの回顧展でもはっきりと認識できた。さらに意外にも私の印象としてニューマンのジップ絵画は作品によって質にかなりのばらつきがあるように感じられた。私はこれ以前にも主としてヨーロッパでニューマンの絵画を何度か見たことがあるが、実はその際にも同様の感触を得ていた。この点は奇妙に感じられる。なぜなら巨大な色面にジップと呼ばれる垂直線が陥入するニューマンの絵画は構造において比較的単純で、作品によって大きな差異を生じることがないように思われるからだ。しかし実際には強い存在感のある作品とあまり印象を与えない作品が混在し、これはポロックの場合と大きく異なる。ポロックの場合は早すぎた晩年のブラック・ポーリングを除いて(これらの作品をいかにとらえるかは今も私にとって大きな問題だ)作品は常に圧倒的な密度があり、クオリティーにぶれがない。一方でニューマンの落差は何によるのであろうか。一つのヒントは作品の状態にあるかもしれない。会場をめぐりながら私はコンディションのよくない作品が思いのほか多いことに驚いた。後年、私はニューマンの作品は状態が悪いものが多く、大規模な展覧会を開く際の障害となっていると聞いた。確かに同時代の抽象表現主義の作家、例えば同じ色面抽象で知られたロスコやスティルと比しても、ニューマンの絵画は薄塗りの場合が多く、さほど強い物質感を感じさせない。しかし会場で私が感じた異和は作品そのものに由来するばかりではなかった。それ以上に作品が会場となじんでいない印象を受けたのである。この点は検討に値する。先に述べたとおりテート・モダンは古い発電所を改装しており、中央にタービンホールが位置するかなり癖のある建築であるが、展示室は基本的にホワイトキューブの中性的な空間であったと記憶する。作品と空間の異和の一因はニューマンの作品が以前に味わった不幸に求められるだろう。すなわち1986年、アムステルダム市立美術館で展示されていたニューマンの作品がナイフで切り裂かれるという事件が発生した。この事件を現代のイコノクラスムと考えるならば、ニューマンの作品について興味深い議論を敷衍することもできるが、今はひとまず措く。世界各地から借用された作品を保護するために、テート・モダンでは作品と来場者の間に不自然なほどの距離が保たれ、多く結界が配されていたのである。もちろんニューマンは大作が多いから、ある程度の距離を置かなければ全体を把握できない場合もある。しかし私はこのような展示方法はニューマンの絵画の理解を決定的に妨げたと感じる。かつてニューマンはニューヨークの画廊で作品を展示した際、作品になるべく近寄って鑑賞するように求めるコメントを掲出した。その際に展示されていた作品もジップ絵画の大作であった。b0138838_20195370.jpgあるいは作家の生前、ジップ絵画の手前に作家と女性が写りこんだ写真が発表されている。この有名な写真はあたかも作品の鑑賞法を説明するかのようだ。二人ともごく近い距離から作品に対している。実はニューマンの絵画は作品としての在り方以上に、いかに知覚されるかという点を主題にしている。この問題については既にイヴ=アラン・ボアが「ニューマンを知覚する」という論文で詳細に論じ、同じ問題は2010年に川村記念美術館で開かれ、このブログでもレヴューしたニューマンの展覧会のカタログに掲載された論文でも扱われている。近接して初めて理解できる表面の精妙さ、あるいは近接した時と一望した時の知覚の隔たり、これらの問題はこれまで崇高、瞬間性、あるいは側向性などという概念と関連して論じられ、ニューマンの絵画の本質と深く関わっている。別の言葉を用いるならば、ニューマンの絵画はどのように知覚されるかという点が重要であり、その場合、当然ながら作品が設置された空間も重要な意味をもつ。したがってテート・モダンにおける展示は作家の意図に反している。ニューマンの作品は時に近接、時に遠望して設置された空間との関係において認識されるべきであり、空間を一つの函数としているのだ。展覧会の中でワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵の「ステーション・オブ・ザ・クロス」連作が非常に強い印象を与えたこともこの点を傍証しているだろう。私はナショナル・ギャラリーにおける展示を見たことがないが、当初から一つの空間に配置されることを想定して制作された14点の作品はロンドンでも一つの室内に展示されることによってみごとな効果をあげていた。連作という形式で連想されるのはロスコの壁画であるが、ここで両者を比較することも意味があるだろう。色面抽象絵画を代表する二人の作品は本質においてずいぶん異なる。ロスコの絵画が求心的であるのに対し、ニューマンの絵画を遠心的ととらえることはできないだろうか。ロスコの画面のにじみ出るような色彩は私たちの意識を絵画の内部へと向ける。ロスコの絵画がしばしば精神性といった言葉で語られることはこの点と関わっている。これに対して、ニューマンの絵画において私たちの視線は表面ではねつけられ、画面に沿って横向きに滑っていく。圧倒的な色面は崇高と結びつけられることはあっても精神性という主題とは無縁だ。ロスコあるいはポロックの絵画の表面は堅牢で仕上げられた印象があるのに対して、ニューマンのファクチュールは時に無造作に感じられ、おそらく作家自身もこの点をさほど気にしていない。先に私が述べた作品の質的な格差はこのような問題とも関わっているだろう。やや誇張して言うならば、ポロックやロスコが作品の充実に心を砕くのに対して、ニューマンは作品の体験を重視する。ここで想起されるべきはニューマンの次の有名な発言である。「絵画について私が必要と感じることは、それによって人に場の感覚を与えることである。つまり見る者が自分がそこにいる感じ、それゆえ自分自身を意識することである」一人の作家の作品が年代順に機械的に展示される回顧展の会場でこのような感覚を意識することは難しい。ニューマンの作品は通時的に配置されるよりも、共時的で空間的な配慮によってこそ意味をもつ。この意味でニューマンがミニマル・アートの作家たちに大きな影響を与えたことは必然であり、作品の自律的価値を説くヨーロッパ近代絵画を決定的に拒絶したのはポロックではなくニューマンであった。かかる過激さは例えば展覧会、近代美術館といった近代と深く結びついた制度さえも相対化する可能性を秘めている。このように考えるならば、展覧会自体は素晴らしい内容であったにもかかわらず、「ニューマンの回顧展」が本来的に一種の語義矛盾であり、最初に触れた一種の不穏さをみなぎらせていたことは当然であっただろう。

 2002年に開かれたこの大展覧会で最上の空間を占有していた作品は川村記念美術館に所蔵されていた《アンナの光》であった。当然であろう。横幅6メートルを超えるこの大作はニューヨーク近代美術館所蔵の《英雄的にして崇高なる人》と並ぶニューマンの最高傑作であり、ほぼこの作品のみを検証することによって2010年に川村記念美術館では「アメリカ抽象絵画の巨匠 バーネット・ニューマン展」が成立しえたのだ。私はやはりこのブログで同じ美術館で開かれたマーク・ロスコの展覧会をレヴューするにあたって、ロスコの壁画とニューマンの代表作を同じ美術館で見ることができる奇跡について論じた。(このブログで私は川村記念美術館の展覧会をしばしば批判したが、アメリカの現代美術を積極的に紹介するこの美術館の姿勢を私は高く評価していることをあらためて言い添えておきたい)しかし私はしばらく前に信じられない情報を得た。この美術館を運営する親会社、DIC株式会社によって《アンナの光》が海外企業に103億円で売却されたのである。作品は公開されるとのことであるが、現時点で私は売却先を確認していない。既に作品は海外に持ち出された模様で、もはや川村記念美術館で作品を見ることはできない。一体これはどういうことであろうか。むろん美術作品も所蔵する企業にとっては一つの資産にすぎないから、売却という選択肢はありうる。しかしこの作品はかつてその所蔵を理由として一つの展覧会を組織するほどの名品ではなかったか。私はこの美術館が所蔵する多くの名品のうち、レンブラントやルノアールではなく、バーネット・ニューマンを売却したことに注目したい。このような選択にこれらの作品を所蔵する企業の美術に関する見識が垣間見える。DIC株式会社にとっては《アンナの光》も一つの社有資産にすぎず、実際、この件を報じる同社のHPには「当社保有の絵画の譲渡に伴う特別利益の計上及び業績予想の修正について」というまことに散文的なタイトルが付されている。私は美術館がひとたび収蔵した作品を売却すべきではないとは必ずしも考えない。海外の美術館においてはコレクションの欠落した部分を買い足すために重複する作品を売却することはよくあるし、ましてや《アンナの光》は美術館に展示されているとはいっても親会社の「資産」である。美術館の学芸員の無念さは想像に余りあるとはいえ、親会社が存続しなければ美術館も存立しえない以上、「当社保有の絵画の譲渡」を一方的に批判するほど私はうぶではない。ここではこの作品売却から浮かび上がる問題を二点のみ手短に指摘しておきたい。
 一つは言うまでもなく、作品の売却という美術館の禁じ手が公認されたことだ。今述べたとおり、川村記念美術館は企業によって設置された私立美術館であるから、所蔵作品を売却することのハードルは比較的低い。私はこのような事態が直ちに公立美術館に波及するとは考えない。しかしこの美術館はこれまでにルイスやロスコ、ニューマンの展覧会を開いてアメリカ現代美術の紹介を先導してきた施設である。この美術館が自らのレゾン・ド・エートルのごとき作品を海外に売却したことの意味はやはり大きい。今日、各地の公立美術館に「評価」の名のもとに、アメリカでキャリアを築いた「経営コンサルタント」たちが出入りしていることは知られているとおりだ。彼らが「自分たちには理解できないが、資産価値の高い」現代美術の名品を手っ取り早い「特別利益の計上」の手段と考えることは大いにありうるし、私はそのような兆候が既に認められるように感じる。これに対抗する論理を構築するというミッションが、今後美術館と学芸員に課せられることとなるだろう。もう一点はこの問題に対する美術ジャーナリズムの反応がほぼ皆無であったことだ。日本では美術ジャーナリズムが機能していないと結論すればそれまでであるが、この問題は現代美術、美術館運営、作品のコレクションといった多くの問題と関わり、様々な議論の余地がある。そのような議論があってこそ、私たちの美術や美術館に関する認識は深まるはずだ。しかし私はこの問題が活字となった例をほとんど知らず、今、検索してみてもツイッター上のコメントばかりだ。真偽は定かではないが、各新聞社は川村記念美術館の親会社から印刷インクの供給を受けているため、この問題に関して新聞社の美術記者も及び腰にならざるをえないという。私はコレクションの売却というデリケートな問題に関してはいろいろな立場があってよいと考える。そして少なくとも議論の場を整えることはジャーナリズムの責任ではないだろうか。今に始まったことではないがこの国の美術ジャーナリズムはこのような責任を完全に放棄している。

 展覧会を見終わった後、私はテート・モダンの近くのパブに寄って遅い昼食をとった。もちろんビール、そして確かチキンカレーを食べたはずだ。ニューマンの回顧展は日本からはるばる訪れるに値する充実した内容であったが、最初に述べたとおり決してわかりやすいものではなく、一種の不全感も残った。かかる不全感が何に由来するか、まだはっきりとはわからなかった。しかし日本に帰れば今見た《アンナの光》があるではないか。遠からず佐倉を再訪し、再び作品に向き合って考えてみることにしよう、その時の私はまだ幸福に信じることができた。
by gravity97 | 2014-04-29 20:26 | SENSATION | Comments(0)

VENICE, 2007.8.19

b0138838_21522320.jpg  2007年の夏、私としては三度目となるヴェネツィア・ビエンナーレを訪ねた。ジャルディーニのパヴィリオンをめぐった後、街の中に設置してある作品を探して迷路のような市街をさまよっていると、突然異様な光景を目にした。古い建築のファサードに上方から巨大なタペストリーが垂れ下がり、建物を覆っているのだ。後に日本でも個展が開催され、このブログでも論じたナイジェリアの美術家、エル・アナツイの作品を見た最初である。その場所を通りかかったことは偶然であるが、そこで開かれている展示の噂は日本を出発する以前から聞いていた。ジャン=ユベール・マルタンらが企画し「時間が美術になる場所 Where Time Becomes Art」というサブタイトルを付した「ARTEMPO」という展覧会であり、サブタイトルはゼーマンの69年の伝説的な展覧会を反映しているだろう。
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 展覧会の会場はフォルトゥニー宮というデコラティヴな邸宅である。ヨーロッパの美術館は王侯や貴族の居住していた屋敷が転用され、ホワイトキューヴからほど遠い建築である場合も多いから、会場自体にさほど驚きはなかった。私が驚いたのは展示方法である。多くの作品が机の上や棚の上に無造作に配置され、どれが作品でどれが装飾か判別できないのだ。フンラシス・ベーコンの歪んだ人物像やフォンタナのスリット絵画など、直ちに作家名を言い当てることが可能な作品も存在する。しかし大半は作品とも室内の備品とも判然としない謎めいたオブジェなのだ。なるほどデ・キリコのマネキンはシュルレアリスムの絵画だ。しかし全身の血管の浮き出た不気味な解剖模型は作品なのか調度品なのか。キャビネットの中の鉱石は展示の一部であるのか否か。このような混乱を初めは不審に感じたが、部屋をめぐるうちに、このような併置こそがこの展覧会の一つのテーマであることが了解された。例えばメダルト・ロッソの手による女性の頭部とイヌイットのマスク、両者は形態的には相似するが、通常の美術展においては決して併置されなかったはずだ。なぜなら前者が展示されるべき場所は美術館であり、後者が収められるべき場所は博物館であるからだ。しかしこのような囲い込みは実はきわめて恣意的ではないか。かつて吉田憲司は『文化の発見』という示唆に富んだ著書の中で、「西洋」の「天才」たちの「傑作」が作者名と制作年を表記されて麗々しく展示される「近代美術館」と「異文化圏」の「作り手」による「器物」が民族名のみを記されて展示される「民族学博物館」を対比させ、両者がみごとなまでに相互に排他的な関係を築いてきたことを指摘している。むろん両者を同じ場に展示する試みがなかった訳ではない。例えば1984年、ニューヨーク近代美術館でウィリアム・ルービンによって企画された悪名高き「20世紀美術におけるプリミティヴィズム」においてはピカソからアース・ワークにいたる「モダン・アート」の系譜に連なる作品150点とそれらに「対応」する部族社会の作品200点が展示され、両者の類縁性、affinityが検証された。しかしこの展示に対しては人類学者のジェイムズ・クリフォードから根底的な批判が加えられ、ルービンも応酬している。ここでその詳細について立ち入るつもりはないが、クリフォードはまず類縁性という概念に疑問を呈したうえで、部族社会の作品が結局のところ西欧モダニズム美術の価値を確認するために利用されていると批判する。いうまでもなくここには他者の表象を最終的に西欧の優越を保証するアリバイとして用いるオリエンタリズムの発想がある。私はルービンの展覧会は見ていないが、カタログを参照する限りにおいてもかかる批判はそれなりの根拠がある。私は近代美術館の展覧会への批判は、良くも悪くもこの展覧会の真剣さ、キューレーションの厳密さに由来しているように感じる。これに対して今回はずいぶん印象が異なる。もちろん時代が違うということもあるだろうが、さすがにポンピドーセンターでポスト・コロニアリズムの里程標となった「大地の魔術師たち」を企画したマルタンの企画だ。「ARTEMPO」の展示には緻密さよりおおらかさが横溢し、正統と異端、中心と周縁の区別がなく、意外な発見、思いがけない出会いに満ちている。端的に会場をめぐることが楽しいのだ。
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 私は日頃から、展覧会とは畢竟、選択と配置の技術だと信じている。配置はともかくこの展覧会ほど、近年、選択の妙を味わった展覧会はない。予備知識なしに会場に入った私は驚愕した。なんと村上三郎の《六つの穴》が展示室の中央に置かれているのではないか。(ただし私は2006年に再制作されたというこの作品のアトリビューションを現時点では確認できていない)作品の対比も鮮やかだ。入ってすぐ、私はやはり具体美術協会の作家の思いがけない写真を目にした。白髪一雄の名高いアクション「泥に挑む」である。そしてその傍らに配されているのはなんとアルテ・ポヴェラのアリギエロ・ボエッティの作品だ。不定形のコンクリート片を人型に並べた作品と泥の中でのたうつ作家の写真、さらにその横ではアントナン・アルトーの制作したフィルムが上映されているのだが、その内容たるやアルトーが文字通り泥の中で転げ回っているというものだ。同じ会場に白髪の物質性の強い絵画も展示されているから、白髪のアクションをめぐる道具立てとしては完璧ではないか。残酷演劇と具体美術協会という取り合わせは多くのインスピレーションを呼ぶ。私は会場に展示された作品/器物を介してこのような取り合わせの妙を何度となく体験した。例えばウォーホルの酸化絵画と水銀の表面が剥落した17世紀にイタリアで製作された鏡、そして村上三郎の剥落する絵画、アメリカ、ヨーロッパ、日本の時代も意図も全く異なった三つの作品/器物が併置され、金属片をかき集める動作を撮影したリチャード・セラのヴィデオの傍らには自らの掌を描いた17世紀のスペインの画家のテンペラ画が展示されている。中国の北宋代の仏像はオパルカのホワイト・ペインティングに囲まれて瞑想する。仏陀の姿はさらにキム・スージャのヴィデオ作品に反復されているとみなすのは考えすぎか。私はこれまでに数え切れない展覧会を見てきたが、かくも異質の作品/器物が様々の地域や時代、ジャンルから選ばれ、かくもみごとに展示された例を知らない。類縁性といった固苦しい概念の代わりに企画者の自由な直感によって作品が選ばれ、配置されている印象がある。
 さて、先に記したとおり、この展覧会は時間を主題としている。この時、私は一つの参照項を連想した。それは1984年にブリュッセル、パレ・デ・ボザールで開かれた「美術と時間」という展覧会だ。b0138838_2149017.jpg私はこの展覧会は未見であるし、手元のカタログ、というよりその際に発行された論集には出品作品のチェックリストが付されていないため、実際の展示がどのような内容であったかは不明である。しかし二つのカタログを比較するならば、「ARTEMPO」の特異さもまた明らかになる。「四次元に関して」というサブタイトルが付された「美術と時間」はその名のとおり、抽象美術を時間性という観点から検証しようとする当時広く共有されていた関心を反映している。リンダ・ヘンダーソンの『近代美術における四次元と非ユークリッド幾何学』が刊行されたのはその前年のことであり、ロスアンジェルスのカウンティ美術館で「抽象美術における霊的なもの」が開かれたのは1986年のことであった。ブリュッセルの展覧会はあくまでも美術という枠組を前提としている。カタログによれば展示は(実際に出品されたとは思えないが)ブロンツィーニからナム・ジュン・パイクにいたる広い時代を対象としているが、展覧会の力点は未来派、キュビスム、オルフィスム、シュルレアリスムといった西欧近代、モダニズム美術の中枢に置かれている。この意味でこの展示はきわめて美術史的であり、啓蒙的といえよう。これに対して「ARTEMPO」はなんとも不穏な気配をみなぎらせている。それは美術史の範疇を逸脱するオブジェが多く含まれているからであり、見る者は美術と美術あらざるものの間の緊張に直面するのだ。しかしなぜ、それらの美術あらざるオブジェはフォルトゥニー宮に召喚されたのであろうか。ここで私たちは時間という概念を造形の問題にとらわれることなく、より広い観点からとらえなければならない。
 「美術と時間」における時間とは表象された時間であった。未来派における運動、キュビスムにおける同時性、モネにおける瞬間、これらは全て絵画というメディウムを介して表象されている。これに対して「ARTEMPO」には現実の時間が介入している。世界各地より集められた儀式に用いるマスク、木像や石像、これらは長い時間を閲(けみ)している点で共通する。そこに記録されるのは現実の時間であって時間の表象ではない。この点を認識するならば、「ARTEMPO」に展示された作品の多くが、第二次大戦後に制作されていることの理由はたやすく理解される。つまり美術において現実の時間が作品に介入することとなるのは現代美術、1945年以降の美術であるからだ。具体美術協会の作品が多く展示されていることに不思議はない。アクションを用いて絵画に現実の時間を封入する実験を始めたのは彼らであったからだ。そしてこの時、「具体美術宣言」の中の次の一節の意味があらためて明瞭となる。「ここに興味あることは過去の美術品や建築物の時代の損傷や災害による破壊の姿に見られる現代的な美しさだ。これ等は頽廃の美としてとりあつかわれているけれど、案外人工の粉飾のかげから本来の物質の性質が露呈しはじめた美しさではないか。廃墟が案外に温く(ママ)親しみ深く我々を迎え入れ、さまざまな亀裂や剥だつの美しさをもって語りかけることは物質が本来の生命をとりかえした復讐の姿かもしれない。以上の意味に於て、現代の美術ではポロック、マチュウ等の作品に敬意を払う」私は具体美術協会における物質性の意味はなおも十分に検証されていないと感じるが、この展覧会は初期具体におけるアクションと物質性の結合の必然性について大きな手がかりを与えてくれるだろう。つまり物質は時間が介入することによって作品へと昇華されるのだ。このような発想は常識的な作品観の対極にある。すなわち通常はイメージを、あるいはかたちを永続させるために絵画や彫刻は制作される。肖像画や肖像彫刻と念頭に置くならば、この点はたやすく理解される。これに対して物質が時間の経過による蚕食、瞬間的激発による変形をとどめることが「時間が美術になる場所」なのだ。
 テマティックな展覧会を見る際の一つのテクニックとして、出品された作品ではなく、どのような作品が不在であるかを確認する方法がある。「ARTEMPO」に不在の作品とは幾何学的、抽象的な作品である。時間をテーマにしながらもフォンタナが出品されているにもかかわらず、ボッチョーニやバッラは不在だ。(19世紀以前の作品も出品されているから、この選択が制作時期に由来しないことは明らかだ)例えばボッチョーニの一部の作品が抽象的であるのに対し、フォンタナのスリット絵画は抽象ではない。先に用いた言葉を繰り返すならば、それは抽象ではなく現実なのだ。かかる選択は企画者の見識の高さを示しているだろう。この展覧会が崩壊や風化を主題としている以上、調和や永遠性と関わる幾何学的抽象の不在はたやすく理解できる。この一方、この展示で多くの作品に共通して認められるのは身体というモティーフである。仏像や仮面、骨格標本や人型(インプリント)、さまざまな表現をとおして時に明示的に時に暗示的に身体が主題化される。身体もまた時の移ろいの中で朽ち果てる。かくして多くの現代美術の名品に彩られた画期的な展覧会はメメント・モリという中世以来の主題系列に接続するのだ
by gravity97 | 2014-03-16 22:04 | SENSATION | Comments(0)

BILBAO, 2000.10.21

 クーリエの仕事でマドリッドに出張した折に、展示スケジュールの関係で途中に一日自由な時間があることがわかった。このような場合、私は近郊の街に小旅行して作品やら建築を見て回ることにしている。ちょうどビルバオにフランク・ゲーリーの建築によるグッゲンハイム美術館が建設されて話題となってから間もない頃であった。小旅行というには移動距離が長いが、飛行機を用いれば、マドリッドから日帰りで往復できる。空港から美術館まではタクシーで移動できる距離であることを事前にリサーチしておいた。私にとってビルバオとはかねてよりベルリン、ブタペストと並び、Bを頭文字としてヨーロッパで訪れたい都市のうちの一つでもあった。マドリッドでの仕事の合間を縫ってビルバオ往復のフライトを予約する。
 朝、ホテルにタクシーを呼び、8時半にバラハス空港に入る。ビルバオへのフライトは50人乗りくらいの小さなプロペラ機であった。一時間足らずの飛行でビルバオに到着する。この街はバスク地方の中心都市であり、空港も国際空港としての機能をもつ。ロンドンからも空路の便利がよいという話を後で聞いた。マドリッド同様、天気は雨模様。市街に入ると直ちにグッゲンハイム、ビルバオがその威容を現した。もっとも既に当時から美術館というより、巨大な観光施設という印象が強く、駐車場には無数の観光バスが並び、美術関係者よりもむしろ観光客によって賑わっていた。現代美術になじみのない来館者たちは狐につままれた気分を味わったかもしれない。b0138838_20124623.jpg
巨大な吹き抜けの空間の一階と三階を用いて開かれていたのは「Changing Perceptions」と題されたパンザ・コレクションの展覧会であり、ミニマル・アートとコンセプチュアル・アートの歴史的名作の数々が展示されていたのだから。もっとも吹き抜けに設置されたリチャード・セラのコミッションワーク《スネーク》をはじめ、建築的スケールを擁した作品は実際に内部に入り込むことができるし、10人ごとにまとまって入場することを求められるロバート・モリスのラビリンスは文字通り迷路として体験することができるから、堅苦しい理論を知らずとも作品を楽しむことは十分に可能であっただろう。
 会場にはドナルド・ジャッド、カール・アンドレ、そしてモリスらの大作が並ぶ一方、ブルース・ナウマンやジョセフ・コススの作品も展示され、美術館サイズの、しかも先鋭的な作品が多く収められてコレクターの見識を暗示していた。中でも私が圧倒的な感銘を受けたのはセラの《ストライク》(1969-71)であった。むろん私はそれまでに幾度となくセラの大作を見る機会があった。それまではただ存在感に圧倒される印象であったが、私はこの時初めてそれがきわめて入念に構想された知的な作品であることを理解した。
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 作品の形状はきわめてシンプルである。高さが2.5メートル、厚みが4センチほどの鉄板が部屋の一角に向かって45度の角度で押しつけられるように設置してある。多くのセラの作品同様、見る者はまずむき出しの鉄板の圧倒的なスケールと重量を意識するだろう。工業用素材の使用、素材の直接的な提示という点ではミニマル・アートと共通する。鉄板の制作自体は工場に発注されていることも明らかだ。このような理由で私はそれまでセラとミニマル・アートを同一視していた。先に述べたとおり、パンザ・コレクションはミニマル・アートとコンセプチュアル・アートの名品を多く収蔵していることで知られているから、この意味でもビルバオでセラに出会ったことに大きな驚きはなかった。実際の同じ会場にはセラの初期の代表的な作品、《ベルト》も展示されていた。9本のゴムのベルトを壁から垂らし、時にポロックのグッゲンハイム邸壁画との類似が指摘される有名な作品も、モリスやナウマンに同様の可塑的な素材を使用した作例があることを想起するならばさほど異和感はない。しかし《ストライク》を前に、私は奇妙な困惑、不全感を強く感じた。このような異和が何に由来するか、作品の周囲をめぐるうちに次第にその理由が理解されてきた。私たちは作品を前にして、無意識のうちに自分が立つべき位置を定める。絵画であれば設置された壁面に正対して作品との距離を調整し、立体であれば作品の全貌が一望可能で、作品がなるべく安定したゲシュタルトをかたちづくる場所を捜す。ミニマル・アートも例外ではない。それどころかモリスは一度観者の知覚のうちにゲシュタルトが確立されると作品についての情報が尽きてしまう「ユニタリーな形態」を高く評価し、彼自身も円筒形やドーナツ形を用いた作品を発表している。しかし《ストライク》はこのようなゲシュタルトを拒絶するのだ。見上げるような2.5メートルの高さに突き出た鉄板を前にして私たちは作品の表と裏のいずれかしか見ることができない。唯一両面を視野に収めうるのは作品のエッジに正対する視覚であるが、この位置に立つならば、作品は一つの直線としてむしろ不可視となる。言い換えるならばこの作品は徹底的に視覚による把捉を拒絶するべく実現されている。極端に横長の作品の形状と、側面から見た際の垂直の線条から私はたやすくバーネット・ニューマンの絵画を連想するし、セラとニューマンの関係はきわめて重要な問題を提起するが、ここではこれ以上敷衍しない。《ストライク》は視覚による享受を徹底的に拒絶する。この作品の全体を一望することは構造的に不可能なのだ。そしてその理由は実は作品ではなく私たちの身体に求められる。私たちは通常直立して作品に対し、高さにして1メートルから2メートルの間、水平に並んだ二つの目を通して対象を知覚する。《ストライク》のサイズと配置はこのような条件を正確に反映し、知覚の不可能性を主題としている。このような姿勢はミニマル・アートの作家たちと正反対であるように私は感じる。ミニマル・アートの作家たちは視覚を常に安定したものととらえ、純粋に視覚的な存在としての作品を追求した。美術作品を純粋に視覚的な存在とみなす発想がモダニズム/フォーマリズムにも認められることはいうまでもない。ミニマル・アートとモダニズム美術の錯綜した関係はこのような観点からも分析することが可能であろう。確かに《ストライク》に対しても一望視的な視点、中立的な視点を設定することは不可能ではない。それは作品をはるか上方から鳥瞰する視点だ。実際、セラが1972年の「ドクメンタⅤ」で発表した《サーキット》は部屋の四つの隅に向かって《ストライク》状に鉄板を差し入れた作品であり、今日私たちは四つの鉄板を上方から撮影した写真によってこの作品を確認することができる。(このようなポジション以外にこの作品の全景を一枚の写真の中に収めることは不可能である)しかしおそらくこのイメージは作品の本質と大きくかけ離れている。セラの作品は見る者が作品の中に自分の身体を挿入することによって体験されるべきであり、かかる超越的、特権的な視座とは無縁であるからだ。(なお「鳥瞰」という視点は印象派以後の美術史に対して、いくつもの興味深い問題を提起する。この点については既にカーク・ヴァーネドゥーが論じていたように記憶するし、ロザリンド・クラウスもポロックのアクション・ペインティングにこの観点から論及している)《ストライク》は観者の身体という問題を経由することによって、作品の享受体験の抽象性を否定する。私たちはグッゲンハイム、ビルバオという具体的な場において、自らの身体を介して作品を体験する。逆にそれによってしか作品を知覚しえないのである。セラの《ストライク》を前にして、私は初めてモダニズム美術とは全く別の美術の在り方を知った。私の考えではミニマル・アートとセラの間の断絶は、ミニマル・アートとアンソニー・カロの間の断絶よりはるかに重大である。そして人間を中心としない作品、視覚に還元されないない作品はほぼ同じ時期、例えばロバート・スミッソンやウォルター・デ・マリアによっても探求されている。おそらく1970年前後に現代美術は大きな転回を経験した。しかし錯綜した美術の状況はこのような転回の重要性を覆い隠し、かかる転回の意味は今日もなお十分には検証されていないのではないだろうか。
 もちろんこのような思考が作品の前で直ちに浮かんだ訳ではない。私は驚くべき美術館を訪れ、素晴らしい展覧会を見た興奮とともに美術館を後にした。しかしそこで見た多くの作品の中でも真に画期的な作品は《ストライク》であることを、すでにこの時点で私は確信とともに感得していた。正午をはるかに過ぎ、雨は上がっていた。私は美術館からさほど離れていない区画の古びたバルに立ち寄り、何杯かの白ワインとともにメルルーサ(たら)のバスク風煮込みを注文した。優れた作品を見た後、知的な興奮の余韻の中で味わうワインと料理はいつになく美味に感じられた。
 美術作品をとおして私はこのようなセンセーションを何度味わってきたことであろうか。このカテゴリでは私がこれまでに体験した芸術的官能について書き留めることとする
by gravity97 | 2014-01-16 20:23 | SENSATION | Comments(0)

KASSEL. 1987.8.17

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 5年ごとにフランクフルト近郊の小さな町、カッセルでドクメンタと呼ばれる国際美術展が開かれている。大規模な現代美術展は往々にして厳しい批判によって迎えられるが、今年のドクメンタは例外的に評判がよい。もっとも以前であれば国際美術展は美術雑誌か新聞にずいぶん遅れて紹介されるのが常であり、日本語によるレヴュー自体、それほど存在しなかった。ところが昨今はツイッターやフェイスブックを通じて無数のレヴューがリアルタイムでもたらされる。展示についての批評だけでなく、展示の混雑状況、ホテルやレストランの情報までが現地に赴かずとも入手できる時代を私たちは生きている。今や批評という営みはその中心を活字媒体から電子媒体へ、過去の記録から現在の情報へと移行しつつある。このような転換は批評の内容にどのような変化をもたらすかという点は今後、真剣に検討されるべき問題であろう。
 今年は残念ながら出かける機会はなさそうだが、私はドクメンタを過去に三度訪れたことがある。最初に訪れたのは25年前、1987年の「ドクメンタⅧ」であった。私にとって海外の国際美術展を体験する最初の機会だったためであろうか、私が訪れた三回のドクメンタのうちでも圧倒的に印象に残る展示であった。時評を原則とする本ブログとしては異例となるが、今回はいささかの懐旧の念も込めて、この展覧会について論じておきたい。

 四半世紀前に見た展覧会であるが、私の中では展示の印象は今なお鮮烈だ。1987年に開催された「ドクメンタⅧ」に赴いた私はそれが一つの不在、あるいは服喪の気配に満たされていることに気づいた。いうまでもなくその前年に没したヨーゼフ・ボイスの面影である。フリデアリチアヌム美術館の最もよい展示室、天井が高く、明るい光の差し込む一区画がボイスの展示のために用いられていた。ボイスは1984年に来日して西武美術館で個展を開き、同じ時期に東京都美術館で個展を開いていたナム・ジュン・パイクとともにパフォーマンスを行った。私自身は作家を目にすることこそなかったが、これら二つの展覧会のために東京に出かけたことを覚えている。神話的な存在であった作家が日本で個展を開き、講演さえも行ったことは十分に衝撃的であったから、数年前に水戸芸術館で開かれた「ボイスがいた8日間」と題された展覧会はおそらくは私と同じ世代で同様の感慨を抱いたキューレーターによって企画されたのであろう。ただし私自身はこの際のボイスの行状に大きな違和感を覚えたことも率直に記しておきたい。ここで縷述する余裕はないが、西武という商業資本に抱き込まれたボイスの来日は彼の説く「社会彫刻」とどのように折り合いをつけるのか、ボイスが使用した黒板を作品として収集する姿勢は美術というよりフェティシズムではないのか、多くの疑問が生じた。しかしいずれにせよ、日本を含めた当時の現代美術界にとってボイスは特別な存在であり、87年のドクメンタが一面においてボイスを追悼する儀式としての役割を担っていたことは遠来の私でさえ直ちに理解できた。
 私の記憶ではこのドクメンタには三人の日本人作家が出品していた。吉沢美香は全く印象に残っていないが、カール・アンドレのシダー・ブロックをそのまま焼き焦がしたような遠藤利克の立体と廃墟と化した教会に廃材を配置した川俣正のインスタレーションは悪くはなかった。しかし彼らも会場に並んだ欧米の作家たちの作品の横では存在感は薄かった。そして今日では信じられないことに、少なくとも私が記憶する限り、この三人以外にアジア人の作家は一人も出品していなかったのではなかっただろうか。この一方、前回の「ドクメンタⅦ」がいわゆるニュー・ペインティングの台頭によって特徴づけられたのに対して、87年の展示では特にまとめて紹介される動向はなかった。しかし新表現主義の余韻は明らかであり、私は初めて見たアンゼルム・キーファーの絵画の強度に圧倒された。エジプト神話からタイトルをとった二点の作品が展示されていた様子は今でもまざまざと眼前によみがえる。キーファーをニュー・ペインティングとみなすことには異論もあろうが、会場でもう一人私を驚かせたのはロバート・モリスの新作であった。漆黒のレリーフの中に骸骨や人体、明らかにホロコーストを連想させるイメージからはもはやかつてのミニマリストの片鱗も感じられなかった。私は作家名を何度もキャプションで確認したことを覚えている。方向はわからないが、確かに新しい美術の胎動が始まっているという思いを強くした展覧会であった。
 ドクメンタではカッセルの市街や公園にも作品が配置されている。街の中心で私は異様な風景を目にした。H状に組立てられた巨大な鉄板によって街路が遮断されているのである。最初はその区画が封鎖されているのかと思ったが、周囲をめぐるうちにこれが一つの作品であることがわかった。いうまでもなくリチャード・セラ、《ストリート・レヴェル》と題された作品であった。私はその後、セラの「公共的」な作品をいくつも見たので、今となればこの作品の結構について理解できる。しかしセラの大作を見ることさえ初めての私は市街に理不尽に介入する作品からなんとも落ち着きの悪い威圧感、悪意に近い攻撃性を感じた。私は今でもこの印象は間違っていなかったと思う。セラの作品はオブジェクションとして交通を、往来を遮断するだけでなく、視覚的にも都市の風景を遮る。一件無造作に配置されたセラの立体が風景との、建築とのきわめて計算された関係として成り立っていることを私はその後、いくつもの作品を通して知った。それは人が自分の身体を作品の中に差し出して初めて感得される違和感であり、人の安定した視覚を突き崩す違和感である。今から思えば、私が感じた違和感は私がなじんできたモダニズム美術の失効を暗示していた。《ストリート・レヴェル》は一見してそれが作品と感じられないからではなく、美術館という制度、視覚という感覚になじまない点においてモダニズム美術への本質的な批判であり、セラにとってこのような態度は一貫したものであった。そして思えば今述べたモリスの作品もモダニズムからの反転を戯画的とも呼べる露骨さで示したものではなかったか。正直に言うならば、私は当時、セラの鉄板とアンドレの金属板の本質的な差異を理解しておらず、両者が本質的に異なる営みであることを知るためにはそれから何度も国内外でセラとミニマル・アートの作品を体験することが必要であった。しかしこの時、セラの作品から感受した不穏さはそれ以後の私の美術批評の原点となったと今になって思う。
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by gravity97 | 2012-09-09 20:54 | SENSATION | Comments(0)