Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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カテゴリ:詩 その他( 2 )


細見和之『石原吉郎 シベリア抑留詩人の生と詩』

b0138838_22222927.jpg このブログの読者であれば了解していただけようが、私は徹底的に散文的な人間であるから、詩や俳句についてはほとんど知識もなければ関心もない。しかし本書を書店で手に取るや私は迷うことなく買い求め、二日ほどかけて読み終えた。実に感動的な内容であった。疑いなく今年読んだ本の中でも最も深い余韻を残す一冊である。
 詩人の生涯をつづった評伝に私が興味をもった理由はいくつかある。まず石原がシベリア抑留という重い体験を負っていることだ。私はこれまでもこのブログで絶滅収容所、強制収容所、難民キャンプといった場所が表象という営みにどのように関わっているかという問題について文学や美術、批評といったジャンルを横断して繰り返し論じてきた。おそらく本書を通じて現代詩という言語芸術の一つの極限が、シベリア抑留というやはり極限的な場を経過することによっていかに陶冶されたかが明らかになると考えたことが一つ。著者はアドルノやフランクフルト学派に関して多くの刺激的な論文を公刊してきた気鋭の研究者であり、このブログでも以前、「カントからハーバーマスへ」というサブタイトルをもつ『「戦後」の思想』についてレヴューした覚えがある。細見自身も詩人としていくつかの詩集を発表しているから詩人の手による詩人の評伝に関心をもったことが一つ。しかし本書には生業を同じくする者同士の甘えは一切ない。それどころか細見による石原の作品についての分析は時にここまで言うかと感じるほど仮借がない。しかしそれが先行する詩人への深い敬愛に裏打ちされたものであり、誤解されることの多かった詩人の生の琴線に触れるものであるがゆえに私は深い感動を覚えたのだ。
 例えば中原中也であれば私でさえ「汚れつちまつた悲しみに」という詩句を反射的に連想する。しかしさすがに石原の代表作のフレーズを思い浮かべることは困難だ。本書には石原の代表的な詩がいくつも引かれているが、確かに多くが難解であり、決して気軽く口ずさめるような内容ではない。おそらく私同様にほとんど石原についての知識をもたない読者も多かろうから、細見に倣って「最初にこの一編」として細見も冒頭で引用する「河」という詩の全行を引く。

 河

そこが河口
そこが河の終り
そこからが海となる
そのひとところを
たしかめてから
河はあふれて
それをこえた
のりこえて さらに
ゆたかな河床を生んだ
海へはついに
まぎれえない
ふたすじの意志で
岸をかぎり
海よりもさらにとおく
海よりもさらにゆるやかに
河は
海を流れつづけた

 細見も説くとおり、この詩のよさは一目瞭然だ。海に流れ込んで交わることなく流れ続ける河の鮮烈なイメージ。そこにさまざまな暗喩を認めることは可能だが、この詩を引いた後、細見はこれが「詩の言葉においてのみ可能な表現である」ことを指摘し、「石原の優れた作品は、言葉のみが描き出す図像によって形成されている」と述べる。これがモダニズムの立場であることは言うまでもない。しかし石原に関して、このような立場からの作品研究は実は主流ではない。石原の詩を解釈するにあたって石原の経験、シベリア抑留はあまりにも重いのだ。「葬式列車」という代表作を文字どおり、収容所と収容所を結ぶストルイピンという囚人移送車輛の暗喩とみなす見解について細見は否定的に論及する。作者を作品の起源とみなすこのような発想がロラン・バルトからミシェル・フーコーにいたるポスト構造主義の中で徹底的に批判されたことは周知のとおりであるが、細見もまた作者ではなく作品こそが作者を決定するのではないかと説く。驚くべきことにこのような認識は既に石原本人によって言語化されている。「詩が」と題された作品に次のような一節だ。

詩がおれを書きすてる日が/必ずある/おぼえておけ/(中略)詩が、おれを/容赦なくやぶり去る日のために/だからいいというのだ/砲座にとどまっても

 私は少し語り急ぎ過ぎている。私たちも細見の所論に従って石原の足跡をもう少していねいに追うことにしよう。私たちの導き手となるのは二つの年譜だ。一つは全集の第Ⅲ巻にも収録された石原の手による自筆年譜、そしてもう一つは渡辺石夫によって編集された「石原吉郎年譜」である。なぜ二つの年譜が必要か。理由は明らかだ。自筆年譜はその対象や記述の疎密に関して(もとより自筆であるから客観的ではありえないにせよ)通常の年譜とはかけ離れた偏向が認められるのだ。具体的には自筆年譜においては帰国以後の記述が一切なく、1945年に関する記述が異様に多い。そして注意すべきはこの年はシベリア抑留以前であることだ。細見は二つの年譜を綿密に比較し、自筆年譜に過剰に書き込まれた部分こそが石原の詩作と深く関わるとみなして説得的な議論を展開していく。細見によれば「(石原の自筆年譜を)渡辺の『石原吉郎年譜』という笊(ざる)で濾したときに残っている異物こそが重要なのだ」この方法によって細見は石原の隠されていた自意識を抉り出していく。1915年、伊豆に生まれ、多感な青年期を送った石原は一年の浪人の後、東京外国語大学のドイツ語学科に入学する。後述するとおり、石原の詩人としての資質とも深く関係するが、石原は語学の才能があり、大学ではエスペラントに関心をもち学内にサークルを組織したという。細見は石原の青年期に強い影響を与えたいくつかの主題を名指しする。エスペラント、マルクス主義、そしてキリスト教、いずれも青年期の石原と詩の形成に決定的な影響を与えている。ここで注意すべきは今挙げた三つのモティーフはいずれも戦争に向かう日本という場においてはネガティヴな契機であったことだ。この点を細見はカール・バルトの弟子であり、石原が通った教会の客員であったエゴン・ヘッセルというドイツ人との関係をとおして検証している。通っていた住吉教会の老牧師が時局を反映した「キリスト教の日本的解釈」という国家主義的なキリスト教の宣撫を行っていたことに反発して、石原はヘッセルとともに別の教会に移る。しかし合同祈祷会の席でこの老牧師に「この中に裏切りの徒、ユダがおります」と断罪されて石原は深く傷つく。さらにヘッセルもドイツからの軍への召集を拒否して石原を残したまま、アメリカに亡命する。失意の中でキリスト教に光を見出した石原にとってこのような二重の「裏切り」は生涯にわたる決定的なトラウマとなったという。しかし青年期の体験は石原に貴重な出会いももたらした。1939年、24歳の時に召集令を受けた石原は静岡で歩兵砲中隊に所属する。東京外国語大学を卒業していた石原は当然の権利であった幹部候補生に応募しなかった。しかし軍は石原の経歴を見逃さない。石原は語学力を認められて大阪と東京でロシア語の特訓を受ける。石原はここで生涯にわたる友、鹿野武一と出会う。エスペランティストの集会で必ず歌われる歌を口笛で吹いたことによって二人はともにエスペラントを学んでいたことを知るのだ。エスペラントの原基であるロマンス語への志向について細見は石原の詩の本質と関連させて興味深い指摘を行うが、これについては後で論じる。二人はともに満州で特務機関に属すが、四年後の敗戦を機として武装解除されて収容所に送られ、そこで奇跡のような再会を果たす。石原は最初アルマ・アタという収容所に送られ、重労働25年という実質的に死刑に等しい判決を受ける、これ以後、囚人としてカラガンダ、タイシェトとバム鉄道沿線、そしてハバロフスクの四つの地域の収容所を転々とするが、このうち、カラガンダで同じ囚人として鹿野と再会するのである。1953年、石原は日本への帰還を果たすが、そこにいたる苛酷な抑留体験と鹿野というきわめて謎めいた人物については本書を参照していただくのがよいだろう。鹿野も日本に帰還を果たすが、わずか一年数か月の後、過労の果てに病死する。鹿野の「絶食事件」あるいはこの事件に関連して、当局から内通を教唆された鹿野が放った「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」という有名な言葉など鹿野について論じたいことはまだ多いが、読者には是非直接本書にあたっていただきたい。
 シベリアから帰還した後も石原にとっては厳しい生活が続く。「私は8年の抑留ののち、一切の問題を保留したまま帰国したが、これにひきつづく3年ほどの期間が、現在の私をほとんど決定したように思える。この時期の苦痛にくらべたら、強制収容所でのなまの体
験は、ほとんど問題でないといえる」しかしこの時期、石原は初めて心を許せる友人たちを得た。当時39歳の石原は『文章倶楽部』、現在の『現代詩手帖』に投稿を続け、実質上のデヴュー作「夜の招待」は、22歳の谷川俊太郎、34歳の鮎川信夫に激賞された。この雑誌への若い投稿者を中心に創刊された詩誌『ロシナンテ』は石原の多くの代表作を掲載することとなる。鹿野が没した同じ1955年に創刊号が発行された『ロシナンテ』は1959年の第19号をもって終刊するが、細見も論じるとおり、シベリアの苛酷な年月を経た石原にとってこの同人誌は一つの楽園であった。しかし発行同人のうち有力メンバーであった勝野睦人が事故によって、好川誠一がノイローゼによる自死によって命を絶たれたことを知るならば、それが果たして「楽園」であったかについては再考の余地があるかもしれない。ともかくこの時期、石原は『ロシナンテ』『文章倶楽部』を主たる舞台として「脱走」「自転車にのるクラリモンド」といった代表作を発表する。この二つの詩はそれぞれのタイトルからも想像されるとおり、内容を大きく違える。シベリアにおける脱走事件とその顛末を描いた前者と「自転車によるクラリモンドよ/目をつぶれ」という不思議で軽妙なリズムとともに始まる後者。そこには分裂があり、私たちはとりわけ前者において作品と作者の体験を結びつけてしまう。実際に石原にはシベリア抑留を主題とした文章も多い。しかし興味深いことに、石原がシベリアを主題とした一連のエッセイを書き始めたのはかなり後、1970年前後なのである。時系列を整理するならば、シベリアから帰還後、石原は直接にはシベリアを主題としない詩とともに詩壇にデヴューし、およそ15年後にシベリアを主題とした一連の散文、シベリア・エッセイを書き継いだのである。細見は初期詩編とシベリア・エッセイを切り離して考える必要を説き、両者の関係を詩人らしい卓抜な比喩を用いて説明する。「(最初の詩集である)『サンチョ・パンサの帰郷』の主流をなす作品は、シベリアを原郷としつつも、そのことが作者にとってさえ必ずしも明瞭には意識化されていなかった、という側面があったのである。石原のシベリア体験は、いわば厚い板の下で強力な磁力をもって存在していて、石原はその板の上で言葉を配置する。そのようにして、石原の繊細な語感と板の下からの磁力が絶妙に組み合わさったとき、あの一連の優れた作品が生まれたのだった。この比喩を続けると、石原にとってシベリア・エッセイを綴るということは、言葉と磁力の間に挟まっていたその厚い板を自ら打ち砕くことにほかならなかった」私たちは一人の人間によって書かれた言葉は常に書き手と親和していると信じている。しかしエッセイと詩という形式の差異が、書き手との関係を違えたとすればどうか。シベリアで手帳に書きつけていた日記を石原は書き終えるたびに焼き捨てていたという。書くことへの欲望と書かれたものへの憎悪。かかるアンヴィバレントな心性を細見は次のように説明する。長くなるが石原の詩業の本質を突く重要なパッセージであるからそのまま引く。

 極端に言えば、ここには、およそ生きることと書くことのあいだの本質的なズレが介在しているのではないだろうか。書かれたものであるかぎりは、それはすべて体験ではなく追体験なのだ。しかも石原の場合、その追体験がかつてと同様の苦痛を強いるだけでなく、その書かれたものを壁に塗りこめるような、あるいは焼却するような、強い欲動を書いた本人にたえず誘発しているようなのである。シベリア抑留にかかわるエッセイは、彼に抑留体験を追体験させただけでなく、むしろ真実の体験からますます彼を遠ざけるような、さらには放逐するような、そんな作用をもたらしたのではなかったか。そして、おそらくは、この苛酷な力学からかろうじてまぬがれえた、特権的とも呼ぶべき表現方法こそが、石原にとっての「詩」だったのである。

 細見は本書のあとがきの中でも詩とエッセイ、詩人と詩の間の分裂に次のような簡潔で鋭いコメントを加えている。「私がたどりついたのは、石原ではなく石原の用いる『言葉』がシベリアを追憶していた、ということである」言葉が詩人を選び、言葉がシベリアを追憶したという認識に私も全面的に同意する。細見はかかる直感の根拠を「私自身、学生時代からいまにいたるまで詩を書くことを続けてきた。そのことから来る実感というものも、そこには働いている」と若干の自負とともに語っている。おそらくここには詩人同士の連帯があるだろう。
 それではいかなる言葉がシベリアを追憶したのであろうか。細見は石原が用いる言葉に関して注目すべき対比を指摘する。「姿勢」「位置」「納得」「事実」、これらの石原の代表作は漢字、漢語から生じる連想によって綴られているとみなす。細見はそれを自らが専門とするベンヤミンのアレゴリー論へと結びつける。そしてかかるアレゴリーの連想作用を支えていたのがシベリア体験であったとみなすのである。これに対して石原は別の力学を言葉に与えることにも成功していた。漢字、漢語が帯びた重さ、重力に関して、例えば「クラリモンド」という言葉が与える解放的な力は正反対のヴェクトルを形成する。漢字、漢語の重力とエスペラントに由来するロマンス語の浮力、両者の拮抗として石原の詩業を検証する細見の視点はきわめて斬新で説得的であるが、惜しむらくはこの主題は必ずしも十分に深められていない。クロノロジカルな評伝という形式がこの問題に長く留まることを許さなかったのかもしれないが、両者の関係は一章を当ててより多角的に分析されてもよかったように感じる。そして重力と浮力、漢字とエスペラントの拮抗の中に石原の詩をとらえる時、このような詩が石原においてのみ可能であった理由も理解されよう。エスペラントによって培われたロマンス語との親和、そしてシベリア抑留体験、両者が比類なき結合を遂げたのが石原の詩業であり、同時にこのような詩はただ日本語においてのみ可能であったことも明らかだ。なぜなら細見がいう重力と浮力は、日本語の書字が漢字と仮名によって分かち書きされることによって初めて可能であるから。この時、最初に引いた「石原の優れた作品は、言葉のみが描き出す図像によって形成されている」という言葉は書字のレヴェルにおいては「日本語のみが描き出す図像によって形成されている」と書き換えることも可能かもしれない。
 私は石原の詩についてずいぶん多くのことを語った。ただし今の時点で私はまだ石原の詩集を取り寄せていないため、これらの事柄はすべて細見の評伝のみを通して私が石原について抱いた感慨であることをあらためて書き留めておきたい。書き足りないことはいくらでもある。私は石原が晩年に取り組んだ句集や俳句集については全く触れていない。鹿野武一との関係についても十分に論じていないし、公にされたシベリア・ノートが引き起こした親族間の葛藤についても触れていない。なによりも石原の突然の死、郷原宏が「法医学的にはどうであれ、文学的にみるかぎり、それは明らかに自殺であった」と記した最期については、パウル・ツェランやプリモ・レーヴィといったホロコーストのサヴァイヴァーたちと比較してみなければならないだろう。さらに私は本書を読んだ後、思わず書斎で一冊の画集を求めた。いうまでもない香月泰男の「シベリヤ画集」である。敗戦70年を迎えた今年、私は多くの美術館で香月の作品を目にした。シベリア抑留の表象、それは絵画と詩においていかに共鳴するのであろうか。画集にはやはり抑留の体験をもつ内村剛介の解説が付されており、石原の「脱走」が引用されている。内村と石原の複雑な関係についても細見は言及しているが、この問題についてもここでは触れる余裕がなかった。そして内村の名を引くならば、当然私たちの視界には同じ地で流刑の日々を送ったドストエフスキーも入って来るだろう。本書が喚起する問題はかくも多様で射程が深い。何度も味読されるべき評伝である。
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by gravity97 | 2015-09-18 22:25 | 詩 その他 | Comments(0)

『棺一基 大道寺将司全句集』

b0138838_17304091.jpg 大道寺将司という名前を聞いてもどのような人物であるか、直ちに理解する人は多くはないだろう。大道寺は1970年代に連続企業爆破事件を実行した東アジア反日武装戦線狼部隊のリーダーであり、その後、バーダー・マインホフ・グループを連想させる激烈な法廷闘争を経て1987年に死刑が確定し、現在も東京拘置所に収監されている死刑囚である。裁判は複雑な経緯をたどり、1975年と77年に日本赤軍によるクアラルンプール事件、そしてダッカ日航機ハイジャック事件によって大道寺の妻、あや子を含む数名のメンバーが「奪還」され、彼らは現在も国外逃亡中である。逮捕されたのが1975年、27歳の時であるから、大道寺はその後38年間、逮捕以前より長い時間を獄中で過ごしていることになる。2009年には骨髄腫を発症し、現在闘病中であるという。連続企業爆破、特に8名の死者を出した三菱重工爆破事件については私もよく覚えている。当時は実行犯たちに対して爆弾魔かテロリストといった印象を抱いていたが、実は必ずしも同意できないにせよ、彼らが明確な理念に基づいて行動し、一連の闘争に自らの命を賭けていた(実際にメンバーの一人は逮捕直後に服毒自殺した)ことを私は松下竜一が1986年に『文藝』に発表した「狼煙を見よ―東アジア反日武装戦線狼部隊」で知った。この優れたノンフィクションは今でも読むことができるはずだ。これを読んで、彼らの活動に関心をもった私は、当事者や関係者によって残された記録をずいぶん読んだ覚えがある。大道寺自身もいくつかの著書があり、私は大道寺が俳句を詠んでいることも知っていた。しかしこのたび一巻にまとめられた全句集を読み、私はその研ぎ澄まされた抒情性にあらためて深い感銘を受けた。
 
 棺一基 四顧茫々と 霞みけり

 この句集に序文と跋文を寄せる辺見庸は句集のタイトルの候補を尋ねた際、大道寺からの返事の冒頭に「棺一基」の語を見て息を呑んだという。なぜなら確定死刑囚である大道寺にとってこの言葉はあまりに身近であり、不吉であったからだ。実際に獄中にあって大道寺は墨を塗られた新聞によって同じ拘置所で死刑が執行されたことを知り、処刑される死刑囚の絶叫を聞いたという。私は俳句を全く解することのできない散文的な人間であるが、ここに収められた句の鋭さは感じ取ることできる。鋭さ、それは第一に余情を削ぎとった抒情性であり、第二に句の背後に看取される深い知性であり、そして第三に獄中にあってもなおなにものにもまつろわぬという決意である。例えばアト・ランダムに開いた頁から次の三つの句を挙げる。

 ふりむけば 白虹今し 立ち上がる
 ムルソーを 包みしごとき 熱波かな
 軍隊は 逃げ残るなり 沖縄忌

 これらの句がいずれも極限的な状況で書かれたことは直ちに理解できよう。いずれの句、さらにいえばこの全句集に収められたどの句も大道寺にとって辞世の句となる可能性を秘めている。「棺一基」の句はそのようなイメージをみごとに結晶させている。そしてこれらの句を詠むにあたって大道寺の前に広がるのは狭い独居房の空間のみなのである。大道寺も次のように記している。「毎年季節の変わり目になると同じような句を詠んでしまいます。直截的且つ即物的に反応してしまうのです。死刑囚として監獄に拘禁されているため自然に触れる機会が少なく、寒暖の差によってしか季節の変化を感じられないからかもしれません。あるいはまた、獄外で過ごした時間が長くはなかったため、かつてなしたこと、見聞したことが、季節の変化と結びついて色褪せずに記憶されているからだとも言えるでしょうか」死刑を宣告された者が、狭い独房の中で俳句を詠むことは可能か。先般、死刑囚によって描かれた絵画の展覧会が話題となったが、大道寺の句集もこのような問いに対する回答であろう。さらに言えば、句作は大道寺にとって一つの救いであったのではなかろうか、いや、この言葉は正しくない。明日命を絶たれるかもしれない者に対して救いといった傲慢な言葉は向けられるべきではないだろう。
b0138838_17311978.jpg
 独房とおそらくは歩くことを許されたごく限られた戸外から得た感覚に基づいているにもかかわらず、収められた句からは四季の移ろいや自然の営みさえ感じ取ることができる。先の言葉とはうらはらに、大道寺は私たちであれば見過ごしてしまうわずかなセンセーションを手がかりに句を彫琢する。膨大に溢れるセンス・データに無感覚になってしまった私たちは、「炎は地下深く埋葬され、首都の街区に、もう幾度目かわからなくなった冬」のめぐる1970年代中盤、体制にまつろうことにもはや無感覚であった私たちと似ていないだろうか。大道寺にとって俳句と爆弾はともに失われた感覚の回復を図る手段ではなかっただろうか。直ちに言い添えなければならないが、大道寺は爆弾闘争で死者や負傷者が出たことを深く悔い、自らが「被害者(つまり死者)との関係性において存在している」と言明する。「棺一基」の句もこの文脈に置くならば理解しやすいだろう。罪は罪として問われなければならないが、大道寺そして狼部隊のメンバーが思想なき爆弾魔ではなく、きわめて真摯な意識と純粋な心情に根ざして闘争を繰り広げたことを私は確信している。
 
 夏深し 魂消る声の 残りけり
 竜天に 夏草の根を 引つ掴み
 かぎろひて 命の消ゆる またひとつ

 この句集には多くの死者が登場する。最初の句は同じ拘置所に収監されていた「連続射殺魔」永山則夫の処刑を、二番目の句は先に触れた松下竜一が物故したことを詠んだ句であり、最後は2002年、イスラエルによるパレスチナ自治区への侵攻を詠んだものである。戦死者や難民、あるいはホームレスといった弱者への想いを読んだ句も多い。「狼は 檻の中にて 飼はれけり」という自嘲とは逆に私はこれらの句に獄中に死刑囚として在っても、自らの意志を貫く狼の凛とした気概を感じる。
 この句集には1996年から2012年までに詠まれた1200句にも及ぶ作品が収められているが、そこに通奏低音のように響くのは死者への想いである。このせいであろうか、私も本書を読み進めるうちに、この間に逝った多くの死者のことが脳裏に浮かんだ。この清冽な句集の主題は疑いなく死であろう。それは作者が国家によって死を宣告されているためであろうか、それとも作者が自らを死者との関係性において存在していると考えているためであろうか。制作年に従って本書を読み進める中で、私は2001と2011という二つの年記に出会う。この二つの年、私たちは多くの死者を伴い、世界を変えた二つの惨事を経験した。同時多発テロについて直接言及された句はない。しかし例えば次の句は明らかにこれと関連している。

 冬ざれの 空アフガンに 続きをり
 寒星や 難民の子の ひと見詰め
 山狭(やまかい)に 寧日来たれ 明の春

 マンハッタンの死者ではなく、報復として殺され、流民となったアフガニスタンの人々に視線が向けられている点が大道寺らしい。そして震災と原子力災害については次のような句が詠まれている。

 数知れぬ 人呑み込みし 春の海
 水底の 屍照らすや 夏の月
 日盛りの 地に突き刺さる 放射線
 無主物を 凍てし山河に 撒き散らす
 
 かくも深く死者に共感し、それを言葉として表現できる人物が死刑を宣告されて獄中にあること、私はそれを不条理と呼ぶしかない。そしてこの不条理は加罰感情に支えられた死刑制度という非人間的なシステムがこの国に存在することに由来する。そして先の見えない閉塞感の下、放射能に汚染されたこの国では、公務員や生活保護世帯、在日外国人への常軌を逸したバッシングが暗示するとおり、根拠のない加罰感情と同調圧力がかつてなく高まり、寛容さが失われている。近く予定されている選挙の結果、かかる趨勢がさらに力を得ることが危惧される。それは政治に民意が反映されず、なし崩しに戦争に突き進んだ時代の再現であり、このような時代にあっては国家に叛逆したがゆえに囚われた者の命はかつてない危機に瀕することになるだろう。

 序文と跋文として寄せられた辺見庸の文章が素晴らしい。この全句集の刊行を強く慫慂したのも辺見であったらしい。跋文に辺見は「虹を見てから」という題名を与えた。今私は国家への叛逆と記した。大道寺らが死刑を宣告された理由は連続企業爆破のみならず、未遂に終わった大逆、虹作戦によってまさしく日本という国家の中枢の転覆をはかったからである。長くなるため辺見の文章についてはここでは触れない。そして虹作戦の顛末についてはもう一人の死者、桐山襲の小説『パルチザン伝説』と関連させて別の機会に論じたい。

by gravity97 | 2013-07-15 17:42 | 詩 その他 | Comments(0)