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陣野俊史『テロルの伝説 桐山襲烈伝』

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 今日、桐山襲(きりやま・かさね)という名を聞いても、それが小説家の名であること、ましてや彼の書いた小説を知る人は少ないことと思う。実際、今、アマゾンで検索しても彼の小説を新刊として入手することは不可能のようだ。わずかにこのブログでも論じた集英社版の「文学×戦争」中の一巻「オキナワ 終わらぬ戦争」に収録された「聖なる夜、聖なる穴」を読むことは可能であるが、彼の小説を読み継いだ私としてはこれほどの才能が完全に埋もれている状況はおおいに遺憾に感じられる。よもや彼の小説の主題がこのような事態を招いた訳ではなかろうが、権力という暴力がここまでも厚顔無恥に私たちを恫喝する時期にこの評伝が刊行された意義は大きい。
 最初に本書に基づいて桐山の閲歴を簡単に紹介する。桐山は1949年に東京に生まれた。1968年に早稲田大学第一文学部に入学。この年の世情、特に大学をめぐるそれについては説明を要さないだろう。政治の季節の中で、桐山は解放派と呼ばれるセクトに属して大学闘争に加わる。「スターバト・マーテル」の最後の方に唐突に挿入された言葉が解放派の理論的支柱であったローザ・ルクセンブルグから引かれていることを私は本書を読んで初めて知った。大学を卒業した桐山は1972年に東京都教育庁に就職し、以後、公務員として勤務する傍らで小説の執筆に取り組む。しかし小説家、桐山襲が私たちの前に現れるまでにはしばらくの時を要した。1982年、『文藝』に投稿した「パルチザン伝説」が文藝賞の候補作となり、翌83年の10月号に掲載される。最終選考に残ったとはいえ前年に投稿された落選作を翌年の文芸誌に掲載することは陣野も述べるとおりかなり異例ではないだろうか。「パルチザン伝説」は二つの時代、二つの大逆の物語である。すなわち第二次大戦下、空襲によって炎上する東京においてアメリカ軍に呼応するかのように手製の爆弾を用いて都内、そして宮中内でパルチザン闘争を繰り広げる男たちの物語と、1974年8月14日に荒川鉄橋を爆破してお召列車ごと昭和天皇の爆殺を図ったグループの物語が重ねられる。時を隔てた二つの大逆の関係、それが精緻な語りの中に浮かび上がる様子は本書の中で詳しく分析されているからここでは触れない。日時が特定されていることから想像されるとおり、後者の事件には実在のモデルがある。それは東アジア反日武装戦線狼部隊による「虹作戦」であり、実際に橋梁に爆薬の配線まで行いながら、この計画は未遂に終わり、この時使用されなかった爆弾はその後、三菱重工本社ビルの爆破に使用され、多くの死傷者を出した。桐山の小説は文字通り事実と虚構を「文学的に」昇華しており、重い主題に見合った小説的技法、文体が駆使されている。しかしそこから「天皇暗殺」というスキャンダリズムのみを抽出したのが「週刊新潮」であった。新潮社という日本でも最大級の出版社から発行されているこの週刊誌は直ちに「おっかなビックリ落選させた『天皇暗殺』を扱った小説の『発表』」という煽情的で悪意に満ちた記事で応接した。週刊誌の発表を待っていたかのように右翼の街宣車が『文藝』の発行元である河出書房新社に押しかけ、脅迫的な街宣を繰り返し、雑誌の回収、作者の特定、出版社の謝罪、単行本化の中止を要求した。出版社は桐山と協議のうえ、このうち単行本化の中止を受け入れた。しかし「パルチザン伝説」をめぐる騒動はこれで終わらなかった。桐山はひそかに関係者とともに「パルチザン伝説刊行委員会」なる組織を結成し、ほかの出版社からの刊行を進めていた。しかしそれより以前にこの小説は作家本人の了承も得ぬまま、第三書館という左翼系の出版社から「天皇制アンソロジー」なる叢書に無関係なテクストと一緒に収録されて「海賊出版」されてしまったのだ。桐山は後述する「『パルチザン伝説』事件」の中に次の言葉を残している。「『天皇制アンソロジー』と銘打たれたその本は、様々な政治的文書といっしょに私の作品を収録していました。しかし、私の作品が政治的文書とは表現様式を異にする一個の文学的作品であってみれば、そのような出版形態は作品としての自殺行為以外の何ものでもありません。その出版社の意図は、作品から単に素材だけを抜き取っているという点で、例の週刊誌記事と同様の水準に立っているということができます。(中略)自分の作品が怪文書まがいの姿で書店に並べられていることは、表現者として耐え難いものがありました」右翼の攻撃と左翼による海賊出版という二重の苦難を味わった「パルチザン伝説」は紆余曲折を経て、84年6月に作品社から正式に刊行されるこの時点ですでに桐山は二つの中編小説を発表していた。「スターバト・マーテル」と「風のクロニクル」であり、いずれも芥川賞候補となっている。前者は連合赤軍事件、すなわち山岳におけるリンチ殺人とあさま山荘事件を主題とし、後者は具体的に特定されないが大学闘争の終焉期の暴力を主題としており、いずれも桐山の作家としての立場を明確に示している。「風のクロニクル」は後に桐山によって戯曲化もされた。このほかにも桐山は時事的な評論や書評などをいくつか発表しており、それらのテクストを陣野はていねいに確認している。そして86年、『文藝』の春季号に「聖なる夜、聖なる穴」が発表される。後でも述べるとおり、私は『文藝』に掲載されたこの小説で初めて桐山の作品に接した。さほど長い小説ではないが、これは紛れもない傑作であり、私は初読の際に受けた衝撃を今でもありありと思い出すことができる。もちろん「パルチザン伝説」をめぐる騒動は知っていた。しかし私は作品社から刊行された時点ではそれに目を通していない。私は直ちに単行本として入手可能であった「パルチザン伝説」と「風のクロニクル」を買い求め、これ以後も新作が発表さえるたびに心待ちに読み続けた。87年も桐山は旺盛な執筆活動を続けた。やはり『文藝』の春季号に「亜熱帯の涙」を発表し、「聖なる夜、聖なる穴」を単行本として上梓した。夏には「パルチザン伝説」をめぐる事件の顛末を記録した『「パルチザン伝説」事件』を作品社から刊行する。前年に日本文藝家協会に入会した際、桐山は「入会挨拶」として一連の事件を手短に要約して新潮社を批判し、「勿論、新潮社から本を出しているこの国の文学者にはそのようなこと(抗議行動を指す)は望むべくもありません。ですからここはやはり、自分自身の手によって報復を行うしかないと、私は考えています。もとより私は微力ではありますが、一寸の虫にも五分の魂、必ずや新潮社への報復を実現するでしょう。入会の挨拶といたします」というブラックユーモア的な文章を残しているが、この一文と「『パルチザン伝説』事件」の刊行によって彼なりにこの表現弾圧については一つの落とし前をつけたというべきであろうか。「亜熱帯の涙」は桐山には珍しく神話的、あるいは魔術的レアリズムと呼ぶべき想像力が横溢した長編であるが、楽園的な南島が帝国の暴力によって蹂躙されるというモティーフはいうまでなく「聖なる夜、聖なる穴」に連なっている。88年にも桐山は短編をいくつか発表しているが、この年、日本は異常な時代を経験した。いうまでもない、昭和天皇裕仁の病状が悪化し、来たるべきXデイに向けて異様な緊張と自粛モードが私たちを締めつけたのだ。東アジア反日武装戦線、連合赤軍、皇太子に火炎瓶を投擲する男、あるいは難波大助。一貫して「まつろわぬ者」の側に身を置いてきた桐山にとって耐え難い状況が続いたことは容易に想像できる。例えば次のような文章が残されている。「マスメディアの騒乱はとどまる処を知らない。ヒロヒトとアキヒトを賛美する大合唱は、連日の紙面と電波とを占拠している。(中略)だが注目すべきは、合唱団の中にひときわ『文学者』の姿の多いことであろう。とうに滅亡してよいはずの『文学者』という生き物を飼っておいたのは、この日のための支配者階級の英知だったと言わねばならない」裕仁は89年1月に没し、ほぼ前後して桐山は『都市叙景断章』を発表する。記憶を失った若者を通して断章形式で学生叛乱や連合赤軍事件が再話される桐山らしい長編である。なぜかくも「あの時代」に拘泥するのか。桐山は次のように語っている。「それはやはり、いまだ書かれざるあの時代、という思いが私の中に深くあるからでしょうね。全共闘の叙事詩というものは未出なんですよ」もし桐山が今も存命であったら果たして「全共闘の叙事詩」は書かれていたであろうか。今となっては詮無い問いかもしれないが、私は問わずにはおられない。89年は比較的多くの作品やエッセイが発表されたのに対して、90年に発表された作品を私は「神殿レプリカ」しか知らない。「神殿レプリカ」と大嘗祭との関係を指摘する佐木隆三の視点は興味深い。この年、桐山は執筆活動以上に永山則夫の文藝家協会入会問題に力を傾注していたことを私は本書を読んで知った。この年の暮れに桐山は悪性リンパ腫で入院し、闘病生活を綴ったいくつかの文章を残している。ただ、桐山は入院以来ずっと床についていた訳ではなく、翌年夏には退院して抗がん剤治療を続けながら公務員としての勤務さえこなしていたらしい。この生活の中で執筆された最後の小説「未葬の時」は死者が身体から離脱して、自分の死を外部から眺めるという一種の奇譚である。私の手元に初出の『文藝』92年夏季号がある。冒頭に「遺作」と記され。最後に92年2月22日脱稿と表記されており、まるで自身の死を見越したような、清冽でユーモアさえ漂う佳作である。脱稿からちょうど一月後の3月22日、桐山は入院先の病院で没した。享年42歳という若さであった。
 次に書誌的事実を確認しておこう。私が確認した範囲では桐山は生前没後を通して「天皇制アンソロジー」を除いて、9冊の小説と1冊の戯曲を公刊し、このうち「スターバト・マーテル」と「未葬の時」は文庫化されている。(ただし講談社文芸文庫に収められた「未葬の時」には「スターバト・マーテル」と「風のクロニクル」も収録されている)現在、これらはすべて絶版で入手は困難である。「天皇制アンソロジー」のみ版を重ねているというとも聞くが、事実であれば皮肉な話だ。桐山の読書体験については私と陣野はよく似ている。陣野は次のように記している。「小説に関しては、沖縄の歴史と現在に取材した『聖なる夜、聖なる穴』が『文藝』春季号に掲載された。私はこの小説を桐山作品の中で最初に読んだ。衝撃的だった。語りの多層性、人称の複雑さ、歴史に対する態度、そして乾いた抒情性」先にも述べたとおり、現在、この小説は集英社版の「文学×戦争」中の一巻に収録されており、入手することが可能であるから関心をおもちいただいた読者には是非お読みいただきたい。私のブログでも短く論じている。実はこの時期の『文藝』はきわめて刺激的であった。この前後にこの文芸誌は月刊から季刊に移行し、それゆえ内容が凝縮された印象があり、私は毎号買い求めていた。この小説が掲載された号が手元に見当たらないので具体的に述べることができないが、おそらくその号も桐山ではなく特集ないしほかの作品を目当てに買い求めたと記憶するが、「聖なる夜、聖なる穴」を一読して私は圧倒されてしまったのだ。私は当時在学していた大学の大学新聞に書評を寄せたことさえ記憶している。ちなみに同じ年の冬季号には「パルチザン伝説」のモデルとなった東アジア反日武装戦線の真実を克明に描いた松下竜一の「狼煙を見よ」が掲載されており、私はこのノンフィクションからも深い感銘を受けたことを覚えている。大学がほぼ非政治化された80年代に大学の門をくぐった者として、70年代に自分と同世代の若者たちがかくも真摯に時代の不条理に向かいあっていたことを知ることは衝撃以外のなにものでもなかった。b0138838_2262496.jpg 書架を確認するならば、私は桐山の全ての主著を単行本と初出誌のかたちで所有しているが、「亜熱帯の涙」のみ欠いている。私はこの小説を読んだ記憶があるから、『文藝』誌上で読んだことは間違いない。単行本として所持していれば必ず残っているはずだが、雑誌であるためなんらかの機会に処分してしまったのであろうことが悔やまれる。
 ほとんどの小説が現在入手できないため、陣野がそれぞれの作品の紹介にかなりの頁を割いていることは私としては少々かったるい。「パルチザン伝説」によるデビューから死を予感するかのような「未葬の時」まで、10年にも満たない小説家としての桐山の活動を陣野はクロノロジカルにたどっていく。主要な作品については内容を紹介したうえで「解題」と称する短い分析がなされる。この中で多くの小説や文献が参照され、興味深い分析がなされる。例えばこのブログでも紹介した大道寺将司の句集「棺一基」が引用されていることは大道寺が「パルチザン伝説」のモデルとなった東アジア反日武装戦線のメンバーで死刑囚として現在、病舎に収監されていることを考えるならば理解できよう。このほかにも古川日出男の「聖家族」や道浦母都子、船本洲治、奥崎謙三、さらにはやはり若くして自死した佐藤泰志の「海炭市叙景」そして最後に目取真俊の「面影と連れて」(偶然ではあるが、この短編については以前このブログで応接した)といった多様な書き手、多くまつろわぬ者たちが召喚され、桐山の小説との間に時に潜在的、時に顕在的な関係を結ぶ。私がことに興味をもったのは、桐山がラテン・アメリカ文学に強い関心をもっていたという指摘だ。桐山は「パルチザン伝説」が引き起こした騒動を避けるため沖縄に逃れ、その顛末を「亡命地にて」という短編に記している。(ただしこれはブラフであり、実際には桐山は東京で仕事を続けていたことが本書で明らかにされている)桐山は大学時代、日本に返還される前の沖縄を旅行したことがあり、本人にも作品にも一種の南島志向が求められる。陣野は「亜熱帯の涙」と類似した作品の存在を指摘している。それはロイド・ジョーンズというニュージーランド出身の作家による「ミスター・ピップ」という小説である。原著の刊行年は記されていないが、邦訳は2009年のことであり、おそらく桐山は原書を読んでいない。南島における革命、書物と記憶との関係など、両者を結ぶ主題の暗合は興味深い。この延長上にラテン・アメリカ文学への関心があるだろう。私は桐山と同じ時代を共有しているので、彼が生きた時代に日本でもラテン・アメリカ文学のブームがあったことを知っている。桐山はドノソやアストゥリアスへ言及しており、確かに「神殿レプリカ」における閉ざされた屋敷に跋扈する凶々しい存在から「夜のみだらな鳥」を、「亜熱帯の涙」の年代記から「グアテマラ伝説集」における物語の連なりを連想することは容易だ。「亜熱帯の涙」には「自分たちが最初の輝ける道として地上に姿を現すこと―ただそのことだけが問題だった」という一文があるが、「輝ける道」、センデロ・ルミノソとはペルーのゲリラ・グループの名前であることを陣野は正確に指摘している。この集団の名前はやはりこのブログで応接したリョサの「アンデスのリトゥーマ」にも認められる。フジモリが日本大使公邸を占拠したゲリラたちを無慈悲にも虐殺したように、そしてマルケスをはじめとする一連の独裁者小説に明らかなとおり、ラテン・アメリカには新しい文学の宝庫であると同時に軍政と独裁、戦前の日本を彷彿とさせる暴力的な体制が今なお残存している。「追い詰められた革命軍」がリンチ殺人の果てに斃れた北関東の山岳の氷雪の白と南島やラテン・アメリカの時に血にまみれた原色。両者の対比は鮮やかである。私は両者が桐山によるありうべき「全共闘の叙事詩」の中で総合されることを夢想する。
 それにしても桐山が今も生きていたとすれば、いかなる感慨を覚えただろうか。かつて少なくとも日中戦争や太平洋戦争、あるいは日本の軍隊という制度に関して文学者はそれなりの総括を残している。ひとまず大岡昇平と野間宏の名を挙げれば理解できるだろう。これに対して桐山が確信的に拘泥した70年前後の学生叛乱についてまともに総括した小説は果たして存在するだろうか。以前にもこのブログに記したが、三田誠広と立松和平という二人の当事者が残した小説の犯罪的な反動性を私たちはいかに理解すべきであろうか。あるいはあさま山荘事件について徹頭徹尾弾圧側に立って検証した原田眞人の「突入せよ!あさま山荘事件」の犯罪性に触れて若松孝二が「実録連合赤軍 あさま山荘への道程」の制作を決意したことについても以前論じた。この問題についての文学的総括として私はいまだに1973年に発表された大江健三郎の「洪水はわが魂に及び」を超える作品を知らない。そしてこの評伝を通読して、私は桐山の小説の魅力でもあり、弱さでもある特質をあらためて思い知った気がする。それは叙情性である。「都市叙景断章」の分析の中で陣野はこの小説の最後を長々と引用した後、次のように記す。「小説はここで終わる。それにしても、この最後の数ページのなんとポエティックであることか!私的な夢想と呼んで差し支えないほどの、いわば小説の極北のような文章が小説を締めくくっている。そして、右の文章は、桐山襲という作家名義で書かれた最後の長編小説の末尾でもあった」確かに「都市叙景断章」は抒情性という点で桐山の作品でも群を抜いている。例えば「名前はたしか、真昼子…」という冒頭の一句にこのような特質は明らかであり、同様の抒情は「パルチザン伝説」以降、桐山の作品の通奏低音をかたちづくっている。桐山の小説は詩的である。しかしこの抒情性は連合赤軍や東アジア反日武装戦線といった叛逆者たちの叙事詩を描くには言葉として繊細すぎるのではないだろうか。おそらくこの点は桐山の小説が比較的短いこととも関係しているだろう。革命を扱った作品、例えば今述べた若松のフィルム、あるいはおそらくは桐山も親しんだであろう高橋和巳の「邪宗門」といった小説にみられる一種の即物性と桐山は無縁であった。もちろん抒情性こそ桐山の作品の魅力であるから、ないものねだりと言われても仕方なかろうし、何よりも作家の早すぎる死がこの優れた作家の別の可能性を断ち切ってしまった。
 私は本書に記された多くの事実をあえて十分に論じなかった。桐山が永山則夫の文藝家協会入会問題に深くコミットしたこと、天安門事件に対する意外な反応、あるいは南方熊楠への関心。それらの問題については本書を直接参照しながら、読者に思いをめぐらしていただきたいからだ。陣野は「この本を通じて、桐山襲の読者が一人でも生まれれば、幸甚である」と記している。私も同感だ。まず陣野の評伝を読み、それを入口として一人でも多くの人にこの夭折した才能とその小説に関心をもってほしい。おそらく大きな図書館に行けば、今でも彼の作品を読むことは可能なはずだ。このブログもその入口の一つとなればよいと願っている。

by gravity97 | 2016-06-20 22:12 | 評伝・自伝 | Comments(0)

小林紀晴『メモワール 写真家・古屋誠一との20年』

b0138838_16481871.jpg 年末に実に重い内容の本を読んだ。自身も写真家である小林紀晴がオーストリア在住の写真家古屋誠一について記した12章から成るエッセイである。タイトルの「メモワール」とは古屋が発表した何冊かの写真集に共通するタイトルでもある。サブタイトルが示すとおり、小林は1991年に初めて古屋の個展を訪れて以来、その作品に惹かれ、何度となくグラーツの古屋のもとを訪ね、世界各地で開かれた展覧会を訪れ対話を続けた。小林は対話の中で写真という表現についての思索を深め、本書は写真論として読めなくもない。一方で古屋の写真について語ることは写真家の個人的な歴史と関わることでもあるから、本書は一個の評伝でもある。
 私は写真の専門家ではなく、古屋についてもその存在は知っていたが、展覧会を見たことはなく、おそらく作品も図版のかたちでした見たことがない。またこの文章を書くにあたって、あえて私はカタログや写真集を参照することを控えた。古屋の作品には写真という芸術の本質に関わる問題がむき出しで提示されており、私はこの問題を具体的な作品を経由せずあくまでも原理的、抽象的なレヴェルで考えてみたいと思ったからだ。
 小林は古屋について語るに先立ち、プロローグで二つのカタストロフについて論じる。一つは自身がマンハッタンで遭遇した9・11 の同時多発テロであり、もう一つは東日本大震災である。10年の時を隔てて発生した二つの事件が私たちの精神に決定的な影響を与えたことは今や自明であろうが、小林はニューヨークのラボでWTC崩壊直後の瓦礫を撮影した写真に手を加えようとする男との出会い、あるいは震災の被災地に行くべきか逡巡する中で、作品にしてよい被写体と作品にしてはいけない被写体があるのではないかという思いに達する。この発見こそがこのエッセイの出発点であった。先に述べたとおり、小林と古屋の交流は1991年に始まる。しかしこのエッセイが執筆されたのが、震災後であり、小林も述懐するとおり、震災の体験によって初めて執筆が可能となったことの意味は何度注意を促したとしても促しすぎることはないだろう。
 古屋の写真の被写体は多く彼の妻であるクリスティーネであった。本書の冒頭にはクリスティーネを撮影した何枚かの写真が掲載され、続いて小林が2005年にグラーツで撮影した古屋のポートレートが掲載されている。その傍らにはやや異例にも古屋の略歴が掲載されている。古屋の出身やヨーロッパに向かった経緯が簡単に記された後、記事は次のように続く。「古屋は妻となる女性と知り合ってすぐ、その姿を撮り始めた。結婚後も日常的に撮り続けた。やがて妻は精神を病んだ末に、東ベルリンのアパートの上階から身を投げ、自殺。その直後の姿も古屋はカメラに収めた。/1985年のことだ。妻・クリスティーネ・フルヤ・ゲッスラーと共に過ごした時間は7年8ヶ月ほどだった。現在、オーストリア第二の都市グラーツで暮らしている」精神を病んで自死した妻のポートレート。これほど苛酷な被写体を思いつくことは難しい。そして同様に私たちはこれほどに深刻な来歴をもつ作品の由来について写真家を問い質したいとは思わないだろう。しかし小林は最初に古屋の作品に「魅了」されて以来、およそ20年にわたって古屋と密接なコンタクトをとり、残された家族の中に分け入るように(後述するとおり、古谷はクリスティーネとの間に光明という息子がおり、さらに最近までクリスティーネの母と一緒に生活していた)古屋へのインタビューを続けた。私はこのような小林の姿勢にも一種鬼気迫るものを感じる。おそらくそれは小林が写真という営みに関わるうえで、一連のクリスティーネの肖像から逃げることができなかったからであろうし、さらに小林の思考がかくのごとき形をとって結実するためには、今世紀に入って人類が味わった最大級のカタストロフが必要であったという事実もまたきわめて暗示的に感じられる。
 1991年、初めて訪れた個展の会場に置かれた写真集の中に、小林はクリスティーネが投身した現場が撮影されている写真を見つけ、大きな衝撃を受ける。個展の会場に展示されていたのは妻の肖像だけではないが、いずれも「負のエネルギーが充満していた」という。それから数年のうちに二度、小林は帰国していた古屋と短い時間会話を交わし、面識を得る。そして古屋について取材したいことを伝え、承諾を受けて小林はグラーツへ向かう。2000年5月のことである。古屋について何か書きたいという漠然とした思いはあっただろうが、具体的な当てもないままにオーストリアに向かう小林が強い衝迫に追われていたことに疑いの余地はない。この時点までに古屋は「メモワール」と題した写真集を三冊出版していた。最初の『メモワール』(1989)が、小林によれば混乱した心境を露呈させた「過去」の記録であるのに対して、二冊目の『メモワール1995』(1995)は「現在」を感じさせ、必ずしも重くない。三冊目の『メモワール1978-85』(1997)は古屋の文章も添えられ、265枚もの写真が収められているという。この年記は古屋がクリスティーネと出会ってから彼女が自殺するまでの期間であり、全ての写真にクリスティーネが写っている。多く海外で出版されたこれらの写真集を通して、古屋の評価は高まっていった。2002年の『ラスト・トリップ・トゥ・ヴェニス』で古屋は伊奈信男賞を受賞する。精神を病み、突然に頭を丸刈りにしたクリスティーネは病院からも半ば強制的に退院させられ、最後の逃避行のように古屋とともにヴェニスに向かった。文字通り最後の旅、私はこのエピソードからプルーストを想起せずにはいられない。小林は執拗なインタビューを通じて、これらの経緯の詳細を古屋から聞き出す。精神を病んだ妻との生活、このような主題から直ちに連想されるのは島尾敏雄の『死の棘』であろう。島尾の場合は言語を介すことによって現実との間に若干の距離を保つことができたかもしれない。しかし写真という表現はあまりにも直截にクリスティーネの病状を記録する。小林との対話の中で古屋は少しずつ当時の事情について語る。対話を通して、私たちの関心は次第に一つの時間と場所に向かう。1985年10月7日12時30分過ぎ、東ベルリンの彼らのアパート、いうまでもなくクリスティーネが身を投げた地点だ。この直後に古屋はおそらく彼のその後の半生に限りなくその意味を問い返すこととなる二つのふるまいにおよぶ。一つは息子の光明との会話である。母が死んだことを告げる父に対して、光明は「パパがママを殺したの」と問い、古屋は「そうだ」と答える。そしてもう一つ、妻の亡骸を確認した古屋は部屋に戻ってカメラを取り出し、あらためて自死した妻の姿を撮影したのだ。私たちも本書の中でこの時間と場所に縫いつけられる。
 2006年、古屋は『メモワール1983』という写真集を発表する。小林はこの写真集への当惑を隠さない。「私は『1983』を出版された直後に手にした。しかし、最後のページまで進むことができなかった。思わず途中でページを閉じてしまった。それは古屋が踏み込んではならない領域に入ってしまった気がしたからだ」小林の当惑の理由は単純だ。古屋がこの中にクリスティーネが残した多くのメモを収録したためである。それらは半ば狂気の領域にあった妻による走り書きであり、常識的に考えれば文字にせず、ましてや公刊しない内容である。実際に古屋にとってもそれらのメモを読み下すことは困難であり、古屋は(ネイティヴでない古屋にとって妻の乱れたドイツ語の筆記を判読することが困難であったこともあり)二人と関係をもたないドイツ人に依頼してそれらを読み下してもらったうえで活字にする。いうまでもなく誰に宛てた訳でもないきわめてプライヴェイトな文章であり、しかも書き手が精神を病んでいたとするならば、本来公表の必要はない。私はこの写真集を見たことはないが、古屋でさえグラーツを離れたパリでなければ読めなかったというクリスティーネのメモは本書によれば例えば次のようなものである。「この遊びは死ぬまで続く。私は殺人者になる。母かまたは光明の、あるいは二人の、あるいは三人すべての」死者を鞭打つという言葉があるが、確かにこれはあえて公にする必要のある言葉ではないだろう。それではなぜ古屋はあえてこの写真集を出版したのか。この謎をめぐって小林は古屋をよく知る評論家と写真家のもとを訪ねる。飯沢耕太郎と荒木経惟である。亡くなった妻を写真に残すという発想から私も本書を読み始めてすぐに荒木の『センチメンタルな旅・冬の旅』を連想した。少々驚いたことに古屋と荒木は実際に親交があり、それどころか荒木がヨーロッパで受容されるにあたっては古屋の協力が大きかったという。飯沢と荒木はともに古屋の写真に対して興味深い解釈を与える。しかし二人とも『1983』にいたる古屋の仕事にネガティヴな態度をとる。飯沢は古屋とクリスティーネの人生に関わるのはもう引き受けきれないと述べる。荒木の妻、陽子に対する写真を通しての関わりが「一回きり」であるのに対して、古屋は執拗すぎるというのが理由だ。一方、荒木は亡き妻、陽子の写真を撮ったとしても、それを発表するかしないかについては自分の中に明確な一線があると述べる。なぜ古屋は『1983』を出版したか。小林が暗示する解答はきわめてデリケートなものである。実はこの写真集は実は息子の光明に向けて発表されているのだ。古屋はクリスティーネが残した狂気のメモを活字、それも日本語にするにあたって一人だけ許可を求めた。それは息子の光明であった。先に引いたメモから推測されるとおり、当然そこには光明のことも書かれており、狂気に陥った母が子に向けて書いた(発表を前提としない)文章が含まれていた。私はこのあたりの壮絶な葛藤についてコメントできる立場にない。いつか『1983』を光明が見るのではないかという問いに対して、古屋はおそらく既に見ている、自分は写真集をそこらに置いておくから、自分がいない時に見ているはずだと答える。続いて古屋はこの写真集が光明への間接的なメッセージなのかという問いに対して全面的に肯定する。「すべての写真集はそういう意味合いがある。いつか光明が見るという意識がずっとあるわけね。言葉で直接言えないことを、要するに、そういう部分を写真集に託すということ」村上龍の小説であったと思うが、精神を病んで人との直接の対話ができないため、握りしめた人形に話しかけるかたちで他者と会話する人物が登場した。本書から私は反射的にこのエピソードを連想した。他者とは息子、人形が写真である。そして古屋の場合は語り手の精神が失調しているからではなく、語るべき話題があまりにも重いためにかかる間接話法がとられたのではないだろうか。言葉で表現しえないことを伝えるメディアとしての写真。私は写真論に精通している訳ではないが、写真が端的に死の表象であることについて多くの議論が費やされてきたことは知っている。最初に述べたとおり、本書は無数の死を眼前にした震災の経験を介して(しかし私たちは震災の写真を通して一人の死者も見ていない、この問題は考えるべき余地がある)あらためて書き起こされたことはきわめて重要である。小林はプロローグの最後にスーザン・ソンタグが『他者の苦痛へのまなざし』の中で引用したプラトンの言葉、死者を見ることについての言葉を引く。「さあ来たぞ。お前たち呪われた眼よ。この美しい光景を思いきり楽しめ」かかる主題からはソンタグやバルトはいうまでもなく、絶滅収容所の表象をめぐるジョルジュ・ディディ=ユベルマンの議論までが射程に入るだろう。しかしそこまで議論を敷衍することは私の能力を超えている。
 2010年に古屋は東京都写真美術館などで個展を開き、それに際して新しい写真集『メモワール. 1984-1987』を出版する。メモワールの後にピリオドが打たれていることからわかるとおり、古屋の中では「メモワール」はこれで完結した。写真は厳密な時系列に沿って掲載され、クリスティーネの文章が一篇だけ収録されているという。小林の質問に古屋は「何もわからなかったということが、わかった」と答える。いうまでもなく写真を介して他者を理解することの不可能性を指し示している。写真を生業として、妻のポートレートを撮り続けた写真家がそれによっては何もわからないことを知った時の感慨を私は想像することもできない。このような会話を交わしてグラーツから小林が日本に帰国した直後、古屋は脳出血で倒れ、九死に一生を得るものの、個展のオープニングへ参加することはできなかった。その後の古屋の動静については本書では触れられていない。エピローグで小林は再び震災について、そして自分の父のデス・ポートレートについて語る。同じ写真家として小林は古屋の仕事をとおして写真とは何かという根源的な問いに向き合っている。20年に及ぶ二人の関係は友情と呼ぶにはあまりに壮絶だ。ともに写真という魔に魅入られ、愛する者の生と死の往還の中でその可能性を探る同志と呼ぶべきであろうか。
 私は本書を四日前に書店で求め、ほぼ一日で通読して、年末の二日間という多忙かつごく短い期間で一気にこの原稿を書き上げた。書き足りぬことは多いが、小林をグラーツに向かわせたような衝動、古屋の写真についてなんとか自分の言葉で応接したいという止むにやまれぬ衝動が、読み終えるや直ちに私の中に生まれたのである。これまでこのブログにたくさんの書評を書いてきたが、このような経験はかつてない。今年の読書の最後を締めくくるにふさわしい凄絶かつ喚起的な記録であった。

by gravity97 | 2012-12-31 17:00 | 評伝・自伝 | Comments(0)

ガルシア・マルケス『生きて、語り伝える』

b0138838_20365054.jpg 新潮社から刊行された「ガルシア・マルケス全作品」の別巻という位置づけであろうか、2002年に発表されたマルケスの自伝が最近翻訳された。600頁を超す分量のため読了するまでやや時間がかかったが、予想通り抜群の面白さである。例えば読み始めると直ちに出会う次のような一句。
 
その村に関する私の思い出もまだ、ノスタルジアによる理想化を受けていなかった。あるがままに記憶していたのだ。―そこは暮らすのにいい場所で、誰もが知り合いで、澄みきった水のほとばしる川のほとりにあって、その川床にはすべすべになった岩が、白くて大きくてまるで先史時代の卵のような岩がごろごろしているのだった。

 このパッセージから『百年の孤独』の冒頭、マコンドの風景を連想しないでいることは難しい。そして数頁後に「マコンド」は実在したバナナ農園の名前として登場する。既にこのあたりで読者は自分がマルケスの描く神話的な物語の中にいるのか、作家の自伝に描かれた現実を読んでいるのかわからなくなる。本書の劈頭で22歳のマルケスは自分が生まれた家を売却するために母とともにアラカタカという町へ向かうが、この道行きは直ちに『コレラの時代の愛』に描かれた船による移動というモティーフとつながる。さらにマルケスの一族に連なる(ウルスラのごとき)高齢の老女が煙草を反対向きにくわえて、つまり火のついている端を口の中に入れて吸うというエピソードを読んで思わず私は手を打ってしまった。煙草を逆向きにくわえるという喚起的なイメージは既に脳裏に強く焼きついていた。私の記憶が正しければ、それはやはり『コレラの時代の愛』の中で山中を行軍する革命軍か自由党の兵士たちが夜間、敵に見つからないように煙草を吸うために編み出した手法であったはずだ。さらに本書の第一章、つまりマルケスが生まれるまでの物語、マルケスの父母の恋愛の顛末たるや『コレラの時代の愛』のヒーローとヒロインのそれと同じではないか。熱烈な恋愛の駆け引き、家族の反対、電報を用いた秘密の通信。どこまでが物語でどこまでが事実かもはやその境界は判然としない。進学のため、あるいはジャーナリストの仕事のため、マルケスは引越しを繰り返す。最初にコロンビアと舞台となる都市の地図が掲載されている。アラカタカ、バランキーヤ、カルタヘーナあるいはシパキラー。土地の名、名。コンブレやバルベックに比して、なんとエキゾチックな街の名であることか。おそらく本書を読むことがなければ一生知ることもなかったカリブ海沿いの町の名。
 私は大学に入学した直後に友人に勧められて『百年の孤独』を読んだ。既に高校で私は海外の現代文学に随分親しんでいたつもりであったが、この傑作については不覚にもその存在すら知らなかった。確か安部公房もドナルド・キーンにこの小説を推奨され、英訳で読むことの面倒を語ったところ、既に邦訳があると言われて驚いたとどこかに書いていたと思う。一読し、私は驚嘆した。そこに文学の未知の沃野が広がっていることを理解したからである。私の直感は直ちに証明された。ちょうど当時ラテンアメリカ文学のブームが巻き起こったこともあり、幸運にも主要な作家の代表作が次々に翻訳されたのである。リョサの『緑の家』、ドノソの『夜のみだらな鳥』、フェンテスの『脱皮』あるいはプイグの『蜘蛛女のキス』。さすがに『百年の孤独』ほどの衝撃を受けることはなかったにせよ、いずれも傑作の名に恥じない。それらを次々に読み継ぎながら、私は自分にとって全く未知の土地、日本と対蹠の土地でこれほどの豊かな文学の果実が次々に生み出されていたことに深い衝撃を受けた。
 『生きて、語り伝える』は無数のエピソードに彩られている。マルケスの親族を描いて『百年の孤独』を連想させる奇怪な物語が横溢する幼年時代。パランキーヤでの厳格な学生生活。ボゴタでの文学仲間との交流、1948年4月9日、ボゴタで汎アメリカ会議が開催されている最中に突発した自由党党首のホルヘ・ガイタンの暗殺と引き続く首都の暴動の模様が生々しく描かれ、カルタヘーナにおける文学修行が語られる。物語作家とジャーナリストという二つの顔をもつマルケスらしく、エピソードは時に幻想的に、時にリアルに語られて私たちは飽くことがない。マルケスの最初期の小説が新聞に発表されていたという事実も興味深かった。日本でも明治期に多くの名作が新聞小説というかたちをとったことも連想されるし、以前から不思議に思っていたそれらの作品のばらばらな印象も説明がつく。マルケスの現実の体験はしばしば小説へと昇華される。例えばユナイテッド・フルーツというアメリカ企業の進出に伴う一つの町の変貌は(さらに変奏されて後年『百年の孤独』の中でも語られることは周知のとおりであるが)初期の中篇『落葉』のモティーフとなり、自宅の扉の前で殺された知人の物語は後年『予告された殺人の記録』として結実する。いくつかの初期の小説について言及されるものの、本書はマルケスの位置を不動のものとした『百年の孤独』まで達することはない。本書の最後でマルケスは新聞社の特派員として半ば亡命するかのようにジュネーブへ旅立つ。そして取材のために出かけたはずのヨーロッパにマルケスはこの後数年逗留することを余儀なくされる。作家の「遍歴の物語」はなおも続くのである。巻末の解説によれば、マルケスは現在『百年の孤独』を書き上げるまでを描いた自伝の第二巻を執筆しているという。
 ヨーロッパに旅立つ直前、空港へ向かう道すがらタクシーの車窓ごしに垣間見た恋人にあてた手紙をマルケスは空港で投函する。本書の最後に記されたその顛末は『コレラの時代の愛』を連想させるロマンティックなエピソードである。『コレラの時代の愛』自体が手紙とその遅配をめぐる一つのエピソードから出発したことをどこかで作家は語っていた。それは駆落ちのために水曜日の指定された時間に指定された場所で会うことを約束した手紙がポストの中に置き去りにされたため、それから何十年も毎週同じ時間、同じ場所で恋人を待ち続けた男のエピソードであったが、本書を読んで私は郵便というテーマがマルケスの多くの作品に通底していることに思い当った。おそらくそれは様々の土地を転々としたマルケスにとって、家族や恋人へあてた手紙を書くという行為と小説を書く行為を切り離すことが困難であったためだろう。文章を書くにあたって当時、手紙というメディアが保持していた切迫感はもはや今日の私たちは想像することすらできない。偶然にも私が大学入学直後、ほぼ同じ時期に読み、おそらくは『百年の孤独』の強い影響の下に構想された大江健三郎の『同時代ゲーム』がメキシコ・シティ(いうまでもない、『百年の孤独』が執筆された都市だ)に滞在する兄から妹への書簡という形式をとっていたことはこの点と無関係ではないはずだ。
 本書を読むといたるところで作家の文学に対する信頼、書くことへの喜びを感じることができる。冒頭のアラカタカへの船旅にマルケスはフォークナーの『八月の光』を携える。あるいはカフカの『変身』やジョイスの『ユリシーズ』を読んだ際のみずみずしい感動が随所で語られる。私の聞いたことのないラテンアメリカの作家からギリシャ悲劇まで無数の文学作品が言及される。先ほど、マルケスの小説と郵便との類縁性に触れた。そもそも文学という営みが一つの郵便と考えられないだろうか。ソフォクレスからフォークナーにいたる無数の手紙を読み、マルケスもまた一つの手紙を書く。最初に述べたとおり、私が『百年の孤独』を読んだ際に受けた感銘は、自分の全く知らない世界、敢えて言うならば西欧という「文学」の主流から遠く離れた土地でかくも魅力的な小説が書かれたことについての驚きであった。しかし本書を読んで私はそのような感想がきわめて傲慢であったことを恥じる。マルケスが加わった文学サークルの知的な充実を知る時、文学という営みが国家や言語といった小さな枠組を超えた普遍性をもち、優れた作品つまり手紙は国や時代を超えて、必ずそれを読むべき誰かに届けられることが確信される。このブログでも触れた水村美苗の『日本語が亡びるとき』の中で世界中からオハイオに集まった様々な国籍の作家たちが、夜、それぞれの部屋でパソコンに向かい、それぞれの言語で文章を書いていた印象的な情景も連想されよう。そしてなんとも興味深いことには例えば『八月の光』や『変身』への返書として書かれた『百年の孤独』はそれらのいずれとも全く似ていないのである。
 ダッカでもよい、ブタペストでもよい。私は今日様々な場所で例えばイアン・マキューアンから、例えばハルキ・ムラカミから受け取った郵便を読む若者たちを想う。フォークナーの言葉がカリブ海沿いの小さな町に届いたように、優れた文学は必ず誰かのもとに届けられるはずだ。文学とは宛先のない郵便である。しかしそれは必ず届くべき相手に届き、新たな読者に向けられた新しい手紙を誘う。文学という営みへの信頼。普段であれば口にすることがいささか気恥かしい私の信念も、本書を読み終えた後であればごく自然に書きつけることができる気がする。

by gravity97 | 2010-02-20 20:41 | 評伝・自伝 | Comments(0)

辻井喬『叙情と闘争』

 セゾン・グループの総帥であった堤清二が辻井喬という筆名で多くの詩集、小説を発表してきたことはよく知られている。本書は彼が読売新聞に一年間にわたって連載した回顧録である。カヴァーには二人の名が併記され、タイトルの「叙情と闘争」もこのような分裂を暗示している。帯の惹句にも「文学者と経営者、二つの顔を往来した半生」とある。連載時にも折に触れて読んでいたが、単行本として刊行された機会に改めて通読してみた。
 私は辻井喬という詩人/小説家の作品を読んだことがないし、特に読みたいとも思わない。この回顧録の中にはいくつかの詩が引用されているが、読んでみても特に感慨はない。マッカーサーから中曽根元首相まで、その交遊の幅は綺羅星のごとき華やかさであり、帯に記された言葉どおり、政治家や経営者だけでなく、安部公房から田中一光にいたる作家や美術家、文化人の知己も多い。ことに三島由紀夫との深い関係がうかがえる。文中に「精神性を大事にする人の世界と毎日を実利の世界に生きている人との、音信不通と言ってもいい断絶」という言葉があるが、堤/辻井はこの断絶の間で生きなければならなかったのだろう。元衆議院議長で西武グループの創業者である父堤康次郎へのアンヴィバレンツな思い(これは小説の主題となっている)や複雑な親族関係とその確執はよく知られた話であるが、回顧談でありながら、これらの点に関してはあまり生々しい言及がない。必ずしも幸せな生涯を送ったとはいえない母と妹についての言及はやや感傷的で、著者の屈折は行間からうかがえる。先にも述べたとおり、毎回錚々たる面々との交流の記憶が語られるが、名前こそ華々しいものの彼らとのつきあいに情熱や思い入れが感じられず、総じて他者に冷淡な印象を受けるのは、著者の性格と醒めた文体、いずれによるか判然としない。
 連載中より私は堤清二が80年代をいかに回顧するかという点に個人的な興味があった。西武百貨店とセゾン・グループは明らかに当時の先端的な文化を牽引していた。インターネットもアマゾンも存在しない時代、海外の美術に関する文献や外国の展覧会カタログを手に入れるためには池袋西武のアール・ヴィヴァンに足を運ぶことがほとんど唯一の方法であり、そこに集められたおびただしい美術洋書に私はいつも圧倒された。稀覯書や絶版書も充実し、私は数年間探し回っていたモーリス・ルイスの画集をここで見つけた日のことを今もよく覚えている。同じ池袋西武にあった西武ブックセンターの人文書の書棚の充実も今日にいたるまで語り草となっており、何という名であっただろうか、その一角には現代詩を専門とする小さな書店さえ存在していた。本書の中では特に言及がないが、このような充実の背景には実務を司る有能な担当者とともに、詩人であり経営者であった堤の意向が働いていたのではなかろうか。ウェブ上に無尽蔵の書籍を備えた仮想書店が存在する今日、逆に文化あるいは知といった営みを書籍の集積という具体的な現実を通して実感することはきわめて困難となっている。80年代から90年代にかけて、場所もあろうに百貨店の中にかかる異常な書店群が成立していたことは特記されてよかろう。
 b0138838_20535371.jpg本書を読むと小説家、詩人から画家、デザイナーにいたる「西武系文化人」と呼ぶべき一群の存在も明らかである。例えば田中一光、小池一子、糸井重里らの名前は無印良品、西武百貨店と関連しても記憶されている。評価は分かれようが、彼らの仕事はバブルに向かう消費社会の感性を的確に反映していた。さらに比較的知られることのない事実であるが、実は当時の西武の文化戦略の周辺には90年代以降、頭角を現す若い才能が多数存在した。例えば本書を読んで私はセゾン・グループのグループ史編纂委員会に作家の車谷長吉が在籍していたことを知った。保坂和志も西武百貨店に勤務していたはずであり、変わったところでは阿部和重が渋谷のシードホールで映写技師を務め、その体験は『アメリカの夜』に反映されている。そのほか今日、音楽や美術の批評の第一線で活躍する批評家の中にもセゾンと深い関係を持つものは多い。
 本書の中には「セゾン現代美術館」なる一章があり、1981年、軽井沢にこの美術館が「マルセル・デュシャン展」とともにオープンした際の興味深い回想がつづられている。この美術館は現在も存続しているが、セゾン・グループとの関連を論じる時にまず触れるべきは西武美術館、後のセゾン美術館であろう。1975年に西武美術館として開館し、89年にセゾン美術館と改称し、「ウィーン世紀末」という展覧会で幕開けしたセゾン美術館は日本の美術館の歴史を語る際に特筆すべき存在である。80年代から90年代にかけて西武/セゾン美術館は百貨店に併設された美術館としてはまとこに異例かつ画期的な展覧会を次々に企画した。つまり普通であれば収益と販売促進の目的で、それゆえほとんど「美術」とは無関係な企画が続く百貨店内の美術館でありながら、美術館に伍する、それどころか美術館でさえ企画できない斬新な展覧会が陸続と組織された。堤の回想を読むといくつかの事情が理解できた。例えば西武美術館では1982年に「芸術と革命」というロシア・アヴァンギャルドを扱った重要な展覧会が開かれたが、このような展覧会を可能にしたのは堤が70年代後半より培ったソビエト連邦の各機関との太いパイプであり、さらにその背後には学生時代に遡る日本共産党と堤との複雑な関係が垣間見える。むろん全ての展覧会が堤の肝煎りで企画された訳ではなく、優秀な美術館スタッフの存在も大きいだろう。今直ちに思いつくだけでも84年のヨーゼフ・ボイス展、87年の「もの派とポストもの派の展開」といった展覧会は本来ならば公立美術館が企画すべき画期的な展示であった。さらにこの美術館は西武美術館時代には「アール・ヴィヴァン」、後年のセゾン・アート・プログラム時代には「SAPジャーナル」といった歴史的な美術ジャーナリズムの出版元でもあった。これらの活動に関して堤の存在は企業のオーナーというよりパトロネージュと呼ぶべきものではなかっただろうか。経営者と美術館のこのような関係は、フジサンケイグループの鹿内一族と彫刻の森美術館の関係と対比する時、きわめて興味深いのであるが、別の機会に譲ろう。
 西武/セゾン美術館の活動がいわゆるバブル経済と同期していた点は興味深い。私も当時、いくつかの展覧会でこの美術館と一緒に仕事をしたことがある。エネルギッシュで公立美術館にありがちな制約のない学芸員たちとの協同は楽しい思い出である。バブルの破綻とともに、当然のようにセゾン美術館も閉鎖が決まった。1999年のことである。同じ時期に東武美術館も閉館となったこともあり、美術館が冬の時代に入ったことを象徴する事件とみなされた。しかしそもそもこの国の美術館に冬以外の時代があっただろうか。この本を読んであらためて感じるのは、美術館の要諦をなすのは建物でもコレクションでもなく、人であるという事実だ。西武/セゾン美術館の場合、キューレーターのみならずグループの総帥が「実利より精神性を重んずる」生き方に理解があった結果として、いくつもの重要な展覧会や出版物が可能となったのではないか。私は堤清二という個人になんら幻想を抱くことはないし、セゾン文化を礼賛するつもりもない。しかし本書を読んでこの異例の経営者なくしては採算を度外視した異例の文化事業はありえなかったという思いを強くした。この意味で西武/セゾン美術館をめぐる文化の高揚は単に一人のカリスマの存在に帰せられるかもしれない。それをバブルの徒花と呼ぶことはたやすい。しかしバブルに沸き立つ当時、この国にはなおもこのような冒険を許す社会的度量があった。ほとんどの美術館が成果主義、営利主義にがんじがらめにされた今日の日本といずれが「文化的」であるかはおのずから明らかであろう。

by gravity97 | 2009-06-27 20:55 | 評伝・自伝 | Comments(0)

デイヴィッド・リーフ『死の海を泳いで スーザン・ソンタグ最期の日々』

b0138838_20271331.jpg 表紙の写真がよい。おそらくはマンハッタンの路上、書店かカフェの前であろう。ガラスの扉を背にして、きりっとした表情でやや上方を見上げるスーザン・ソンタグ。強い意志と知性が感じられる肖像だ。
 ソンタグは2004年12月28日、71歳で没した。本書はサブタイトルにもあるとおり、最期の九ヶ月、息子であるデイヴィッド・リーフの目を通してつづられたソンタグの闘病の記録である。ヨルダン川西岸地区のルポルタージュの仕事から帰国したリーフが母から血液検査の不調を告げられ、共に再検査の結果の告知に立ち会うことを求められる冒頭から、読者は直ちにソンタグの最後の戦地に召還される。本書を読んで初めて知ったが、実はソンタグは40代前半に進行性の乳がんのため、根治的な乳房切除手術を受けて一命をとりとめ、その後も定期的に血液検査を続けていた。乳がんからの生還自体が確率的には奇跡的なものであり、ソンタグは自身のこのような生を、苦痛と身体の毀損を代償に獲得しえたとみなしていた。がんが再発した懸念はその後も何度か検査の中で浮かび上がったが、「確率に打ち勝つ人」ソンタグはそのたびにそのような疑いを振り払ってきた。しかし2004年3月、彼女は息子のデイヴィッドとともに自らが白血病の一種、MDS(骨髄異形成症候群)という不治の病で余命いくばくもないという宣告を受ける。
 彼女が最初に手術を受けたのが40代前半というから1970年代のはずだ。私が初めて読んだソンタグの文章は竹内書店新社から刊行されていた『反解釈』(現在はちくま学芸文庫)所収のハプニングに関する論考であったが、この著作でラディカルな才媛の登場を印象づけてまもなく彼女は最初のがんとの戦いに赴いたこととなる。私が彼女の闘病生活を知らなかったことは無理もない。80年代以降もソンタグは常にアクティヴであり、そのような気配は全く感じられなかった。写真論をはじめとするいくつもの重要な著作、そしていくつかの小説を著し、よく知られているとおり、1993年には内戦状態にあったサラエヴォに赴いて、ろうそくの明かりのもとでベケットの「ゴドーを待ちながら」を演出した。あるいは今回、あらためてバックナンバーを繰って確認すると95年のことであるが、ソンタグは浅田彰らが主宰する『批評空間』誌の共同インタビューに応じ、浅田と柄谷行人を歯牙にもかけぬといった態度で、自分たちのような知識人(ソンタグによれば「私たちのような大人」)は漫画や大衆雑誌は一切読まず、TVも見ないと断言し、くだらぬTV番組に出演しているという理由で大島渚を全否定した。あるいは先日、村上春樹がそれなりに印象的な受賞演説を行ったエルサレム賞をソンタグも2001年に受賞しているが、この際、彼女はエルサレムでイスラエル軍による「一般市民への均衡を書いた火力兵器攻撃、彼らの家の解体、彼らの果樹園や農地の破壊、彼らの生活手段と雇用、就学、医療、近隣市街・居住区との自由な往来の権利の剥奪」を強く非難する格調高い演説を行っている。さらに9・11の同時多発テロの後、熱狂的なパトリオシズムがアメリカを覆う中で、イラク爆撃を批判し、報復の恐れのない高空から殺戮を繰り返すアメリカ軍こそ他者を殺すために自ら死んでいく者より卑劣だと述べたことも記憶に新しい。(これら二つのテクストは日本語に訳され『この時代に想う テロへの眼差し』に収録されている。参照されたい)
 予想されることであるが、自らの病に向かうソンタグの姿勢も峻烈きわまりない。彼女は生き延びることをこの戦いの目的とした。延命医療の現場で重要視されるQOL、生活の質という概念はソンタグにとって何の意味ももたない。彼女は可能な限りMDSに関する情報を集め、少しでも生きながらえるためであれば、いかなる療法も受け入れると宣言する。苛酷な手術と治療を経て、ひとたび乳がんから生還したことが彼女の姿勢をかえって頑なにしたといえるかもしれない。日本人には病と共生するという発想があり、がんの場合も完治しなくともそれこそ「生活の質」を保つことが優先されることが多い。しかし彼女にとって病とはいかなる手段を用いても排撃すべき異物であり、妥協はありえない。これらのエピソードは私に口腔がんのために33回にもわたる手術を繰り返しながら、旺盛な活動を続けたジークムント・フロイトの晩年を連想させる。フロイトはともかく、ソンタグの姿勢には80年代にニューヨークのゲイ・サークルの中で猛威をふるい、おそらく彼女の知人の多くを死にいたらしめたエイズの猖獗に立ち会った経験、そして彼女同様、アメリカを代表する進歩的知識人であり、奇しくも同じ血液のがんでソンタグに先んじて逝ったエドワード・サイードの闘病生活が影響しているのではなかろうか。本書を通読することによって、80年代から90年代にかけて彼女が病という特殊な主題に拘泥した理由を初めて理解するとともに、私はこれら二つの著作『隠喩としての病』と『エイズとその隠喩』を直ちに読む必要を感じた。リーフによれば、サイードがやはり苛酷な処置によって「臨月の妊婦のように」腹を膨らませながら書き上げたという『晩年のスタイル』については既にこのブログで触れた。ソンタグもサイードも自らが書き上げるべき原稿、仕上げるべき仕事が残されている間はいかなる苦痛があろうとも病と共存することを拒む。二つの知性が人生の終幕にあたって病と和解ではなく対決することを選んだことに私は感銘を覚える。このような決意と選択に9・11以降のアメリカの知的状況、知識人の間にさえ不寛容の気運が広がり、ソンタグの言葉を借りれば「時代がますます悪くなる」状況が与っていることに疑いの余地はない。
 ソンタグは自らインターネットを検索し、デイヴィッドや友人たちを総動員してMDSの治療法、根治は不可能であっても寛解の期間を長らえる方途を探るが、入手できる情報は絶望的な内容ばかりである。最後の賭けであった骨髄移植も失敗し、病状は日増しに悪化する。死を前にした母のために何ができるか。内省をめぐらす著者の姿は痛々しい。もちろんこれは普遍的な問題である。私事となるが、私も父をがんで亡くし、今年に入って、年若い友人と先輩が続けざまにがんで逝った。いずれも長い闘病の後の死であり、この意味でも私にとって本書を読むことは辛い体験であった。しかし死を従容と受け入れるのではなく、徹底的に死に抗ったソンタグの最期の日々は、死をいかに迎えるかという誰もが避けて通ることができない問いに対する選択肢を広げ、知識人の表象というサイードの問いかけとも深く関わっているように感じられた。

by gravity97 | 2009-05-29 20:27 | 評伝・自伝 | Comments(0)

坂本龍一『音楽は自由にする』

b0138838_2049433.jpg 坂本龍一の自伝が刊行された。自伝といっても『エンジン』誌に二年以上にわたって掲載された連載をまとめたもので、同誌のカリスマ編集長、鈴木正文に語った内容を書き起こした内容である。無数の註が付されているとはいえ、本人の口述であるから、正確さは必ずしも担保されず、美化されている点も多々あるだろう。私生活に関する記述が少ないのも残念である。幼時よりピアノや作曲を学び、新宿高校ではバリケード封鎖された構内でヘルメットをかぶってドビュッシーを弾き(よく知られた逸話であるが、韜晦と呼ぶべきか、これについて本人は否定も肯定もしない)、東京芸大の入学試験を「チャッチャッと解いた」といった「芸術家伝説」には少々うんざりするものの、語りかけるような口調は読みやすく、思わず引き込まれる。
 多くの人がそうであろうが、私もYMOを通して坂本を知り、YMO散開以降も華々しい活躍に注目してきた。もう30年も前になるが、イエロー・マジック・オーケストラなる未知の日本人グループがいきなり海外公演を行って大きな話題を博したことを聞き、日本のポップスの文脈とは全く断絶した(ように当時は思われた)、テクノとも民族音楽とも異なる独特のサウンド、人民服を模した奇抜なコスチュームなど、次々にもたらされる情報に興奮と当惑を覚えたことは未だに鮮烈な記憶である。
 しかし本書を通読すると、私たちが抱いている印象とは逆に、大学以降の坂本の経歴がむしろ多くの偶然に委ねられ、順風満帆といった風情から遠いものであったことが理解される。YMO結成にいたる事情も屈折しているし、YMOという独特の個性と才能をもった三人の協同は強いストレスを伴っていたようである。この点はビートルズからキング・クリムゾンまで歴史的なグループに例外なく出来する事態といえよう。YMOは海外公演の成功と巧妙なパブリシティ戦略によって国内でも一挙にメジャー・デビューを果たすが、異様な反響への当惑と、それを文字通り「パブリック・プレッシャー」というアルバムとして発表する彼らの批評性にはあらためて感心するとともに、結果的にそれ以後も坂本の活動は絶えずYMOという大きな影から自由ではないように感じた。もちろんソロ活動を始めてからも坂本は話題に事欠かない。特にベルトルッチの「ラスト・エンペラー」への出演と映画音楽をめぐる様々の内幕は興味深い。映画が巨大な文化産業であり、そこでは享楽と危険が隣り合わせであることに強い印象を受けた。ここにも多くの偶然が作用しており、坂本が強運の持ち主であることがよくわかる。
 ところで知る人ぞ知る関係であるが、坂本の父君は坂本一亀といい、河出書房の純文学担当の伝説的な編集者であった。ワンカメと呼ばれた坂本の父は、野間宏、椎名麟三、高橋和己といった私好みの作家と深く関わり、多くの名作の産婆役を果たした。先年、新装改訳版が刊行された『アレキサンドリア・カルテット』の訳者によるあとがきを読んでいたら、この四部作が最初に河出海外小説選の一冊として刊行された際、担当であった一亀は近くに住んでいた訳者の高松雄一のもとをしばしば訪れ、翻訳の進捗について相談に乗ったというエピソードが披瀝されていた。その際に自転車の後ろに乗せられていた少年が後年の坂本龍一であろうと高松は回顧している。なかなかよい話ではないか。ただし龍一自身はむしろ父に反発を感じていたことがこのインタビューの行間からうかがえ、実際にピアノや作曲への興味を引き出し、前衛的な傾向への関心を培ったのは母であったらしい。とはいえ坂本が学生時代から難解な哲学書に親しみ、後年、哲学者と対談し、作家や思想家との交流を深める背景には明らかに父の後姿の薫陶があったことは容易に想像される。
 近年、坂本は社会的な発言や運動にも参画し、反戦、環境問題あるいは核廃棄物問題などに深く関わっており、その理由も本書の中で説明されている。9・11を世界貿易センターに隣接する自宅で体験し、アフリカやグリーンランドに実際に赴いた坂本にとってかかるコミットメントは必然かもしれない。しかし私にはこのような発言はあまりにもナイーヴに感じられて、腑に落ちない。これらの主張は誰によってもなしうるし、正面から反駁しえない。しかし逆に反駁しえない主張のいかがわしさを批判し、モラルを相対化することが文学という営みの本質ではないだろうか。果たして息子のふるまいを亡き父はどのようにみるのであろうか。いや、さほど深刻に考える必要もない。戦争と環境破壊を批判することは坂本龍一のごとき世界的な「アーティスト」にとっては単なるノーブレス・オブリージにすぎないかもしれない。
 ところで本書の中でも言及されているが、YMOは2008年に約30年ぶりのヨーロッパ公演を行い、ロンドンとスペインのヒホンにおけるライヴが発売されている。この二つのライヴは同じツアーを音源として、収録された曲目も順序こそ違え同一である。私は特に熱心なYMOの聞き手ではないので聞き違えているのかもしれないが、両者に特に積極的な差異はないように感じる。あのクラフトワークでさえ、ライヴ「ミニマム・マキシマム」を発表するにあたって、ワールド・ツアーから各曲の音源を慎重に選んでいるのに対して、あまりに安易ではないか。加えてライヴ自体も初期のような緊張感がなく、いわばぬるい。このようなライヴは権利関係が複雑であろうから、どの程度、坂本の意思が反映されているかわからないとはいえ、4日を隔てた同じツアーのライヴを別々のアルバムとして発表する。このような姿勢を商業主義と呼ばずして、何と呼ぼう。
 ちなみにタイトルの「音楽は自由にする Musik macht frei 」は何に由来するのか判然としないが、わざわざドイツ語で表記されたこの言葉はアウシュビッツ強制収容所の入口に掲げられていた「労働は自由にする」というスローガンを直ちに想起させて私には居心地が悪い。何か反語的な意味があるのであろうか。

by gravity97 | 2009-04-22 20:52 | 評伝・自伝 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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