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ジョセフ・コンラッド『闇の奥』

 新訳でコンラッドの『闇の奥』を読む。『闇の奥』にはいくつかの邦訳が存在する。一番よく知られたものは中野好夫訳による岩波文庫版で、初版が1958年に発行されている。書庫を探すと私も一部所持していた。名高い小説であるが、読み通した記憶はない。今回初めて通読するにあたって両者の解説を読んでみたがいずれの訳者も翻訳の難しさについて縷述している点が印象的だ。新訳の訳者はいくつかの具体的な例を挙げ、これまでの翻訳と比較しながら自分が最終的な訳文を採った理由を説明している。中野にいたっては岩波版以前に自らが訳した日本初訳となる河出書房版について「正直にいってたいへんな難物だった。旧本の読者諸氏にはまことにすまぬ話だが、相当の誤訳のあることも十分予想できたし、まことに自信のない話だった」とそこまで言ってよいかと感じられるほど正直な感想を述べている。新訳を読んでから中野の訳にも目を通してみたが、活字のポイントがきわめて小さいことと、語りの途中でむやみに引用を示す括弧が用いられていることを除いて(この二点が読みにくさの最大の理由であるが)さほど差があるようにも思えない。もちろんそれは私が一度読み通して物語の全体を理解していたためであるかもしれない。
 前置きが長くなった。今回の訳者は黒原敏行。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』という難物を途切れることのない緊張感の中に訳した練達の若手である。コンゴ川を遡る暗澹とした道行きは『ザ・ロード』を連想させないこともない。物語の構造はさほど複雑ではない。物語はテムズ川に停泊する船上における乗組員マーロウの語りとして記述される。テムズ川とコンゴ川、二つの川の間をたゆたうように、語りも現実と回想の間を往還する。マーロウは若い時、ベルギーの貿易会社に雇われ、現地で殺された前任者の仕事を継ぐためにコンゴに向かう。コンゴ川の出張所で故障した蒸気船の修理を待つ無為の時間、マーロウはアフリカという野生に直面する。人を拒む密林と暗い川、意志の疎通を欠いた黒人たちと病気で次々に命を落とす白人社員たち。コンラッドの文章の濃密さは翻訳でも十分に堪能できる。出張所でマーロウはクルツという謎めいた人物の存在を知る。大量の象牙を出張所に届けながら、自身は姿を隠し密林の奥で隠然たる権力をふるう男。クルツが病床にあるという情報に基づき、マーロウはクルツを審問すべくコンゴ川を遡る。困難な航行と蛮族の襲撃。操舵手を失い、ようやく奥地の出張所にたどり着いたマーロウはクルツに仕えるロシア人青年、そして瀕死の床にあるクルツに会う。クルツは婚約者への手紙や写真をマーロウに託し、最後に「The horror ! The horror !」という謎めいた言葉を残して息絶える。
 物語の粗筋を知ったとしてもこの小説の魅力が減じることにはないだろう。密林を連想させる濃密で粘着的な物語を読み進むこと自体がコンゴ川遡上の比喩であるかのようだ。今日、この小説は多様な読み方が可能である。もちろん現地人に対する白人の蔑視や暴力を理由に人種差別的な小説と批判することも可能であるし、逆に植民地主義への批判ととらえることもできよう。あるいはポスト・コロニアリズムの洗礼を受けた我々は(女性はほとんど登場しないにせよ)ジェンダーや階級、あるいは資本主義、帝国主義といった様々な函数を介して分析することも可能であろう。しかしながら私はそれらの明晰な解釈に抗う異様な晦渋さこそこの小説の本領ではないかと感じる。この点はクルツなる人物の造形に関して明確となる。密林の奥に君臨するクルツがこの小説の影の主役であることは明らかである。詩を朗誦し、深い教養を備え、ロシア人青年に信奉されるクルツの正体は最後まで明かされることがない。クルツのみならず物語全体を一種の不透明さが覆っている。このような不透明感は内容のみならずおそらく文体そのものに起因しており、幾多の翻訳者を悩ませたゆえんであろう。残念ながら私はコンラッドのほかの小説を読んだことがないが、このような難解さが本小説のみに指摘される点は、それが意図的に導入されていることを暗示している。視覚的な比喩となるが、私はこの小説を読みながらさながら背後を見透かすことができないほど樹木が繁茂する川面を蒸気船で往航するような印象を受けた。手近の岸や叢ははっきりと識別できるのに対して、その背後、奥を見通すことができないのだ。個々のエピソードは比較的明瞭であるが、全体としてのストーリーの展開は不明瞭で方向が定まらず、全体を見通す奥行きが失われている。Heart of Darkness の邦訳タイトル「闇の奥」の当否については異論もあろうが、以上の点を勘案するに十分に喚起的な言葉が選ばれているように感じた。
 よく知られているとおり、フランシス・コッポラはこの小説を翻案して「地獄の黙示録」として映画化した。19世紀のコンゴはベトナム戦争下のインドシナに置き換えられていたが、両者は深いところで結ばれている。今述べたとおり、これらの作品は人が西欧的な合理性の埒外にある晦渋、不透明性と出会う物語である。アフリカやインドシナはそれぞれ植民地時代のヨーロッパ人、1960年前後のアメリカ人にとって自らの理解を超えた外部である。西欧が外部に直面した際、どのような反応を示したか。『闇の奥』の随所に暗示される植民地への暴力的支配、あるいは「地獄の黙示録」中、サーフィンに便利な立地であるという理由で一つの村落をナパームで焼き払う挿話はこの問いへの応答である。これに対して、コンラッドはクルツというきわめて独特の人物を造形し、今まで非合理対合理あるいは未開対文明といった外面的な対立としてとらえられてきた両者の関係を登場人物に内面化することに成功している。アフリカという絶対的な他者と出会う中で次第に内面を崩壊させるクルツというパーソナリティはコッポラのフィルム中でマーロン・ブランドが演じたカーツ(いうまでもなくクルツの英語読みである)大佐においてさらに深められ、一方、『闇の奥』におけるマーロウの役回りである「地獄の黙示録」の主人公ウィラード大尉もカーツを追ってメコン・デルタを遡航する過程で次第に精神を失調させる。ここにおいて、文化衝突がもたらす「闇の奥」Heart of Darknessは人間精神のそれへと転じるのである。
 19世紀にはアフリカが「闇の奥」であったかもしれない。しかし今日なお私たちは同様の文化衝突をさらに殺伐としたレヴェルで繰り返している。アメリカにとってのアフガニスタン、あるいはロシアにとってのチェチェンを現代の「闇の奥」と呼べないだろうか。おそらく「闇の奥」は時代と無関係である。いつであろうと、人にとっていかなる共感も交流も成立しえない絶対的な他者が存在し、それらと直面することは直ちに自らの内部に「闇の奥」を生ぜしめる。クルツの最後の言葉「地獄だ!地獄だ!」(あとがきにもあるとおり、これは中野好夫による翻訳。黒原訳は「怖ろしい!怖ろしい!」。ただしこの部分に関しては中野訳の方が適切であるように思われる)とは、絶対的他者の前であっけなく否定された啓蒙や進歩といった西欧的価値の断末魔の叫びであるように感じられる。そして20世紀以降も私たちは一体どれほど多くの地獄を体験してきたことか。ヒューマニズムの対極に存在する、かかる暗鬱な認識を白日のもとにさらして、刊行後一世紀以上経った今も『闇の奥』は古びることがない。
 
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蛇足かもしれないが 最後に一つだけ付言する。本書を通読し、私はアフリカの密林を舞台に同様の黙示録的世界を描いた小説としてJ.G.バラードの『結晶世界』を想起した。同じイギリスの作家によって発表されたSFならぬスペキュレイション・フィクションは果たしてコンラッドの嫡子であろうか。
by gravity97 | 2009-11-24 21:37 | 海外文学 | Comments(0)

ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』

 8月にフォークナーを読む。今年の夏がミシシッピーのごとき炎暑の夏であればよかった。
私は大学の教養時にフォークナーを耽読した。当時は『響きと怒り』『八月の光』『サンクチュアリ』そして『アブサロム、アブサロム!』といった代表作が普通に文庫本で手に入ったのだ。『アブサロム、アブサロム!』は集英社文庫に収められていた。篠田一士による同じ翻訳であるが、先般、池澤夏樹の編集による河出書房新社版世界文学全集の一巻として新装版が刊行されたことを機に再読することにした。かつて通読したことは覚えているが、初読の際には、とにかく読みにくく、内容の理解に抗うかのような異様な小説であったことしか覚えていない。文字のポイントも非常に小さかった印象がある。活字の大きさはともかく、今回、内容を文庫版と比較して難解さの理由が判明した。今回の全集版には巻末に作家自身が作成した年譜と系譜(登場人物の紹介)さらには地図が収められている。文庫版には年譜しか収録されず、それが作家本人の手によることも明記されていない。このため最初に読んだ際には特に参照しなかった訳だが、今から思えば、これでは物語を理解できようはずがない。今回、再読にあたってはまず年譜と系譜を何度も読んで物語の枠組を確認したうえでおもむろに本文に取り組む。
 この小説は語りが異常に入り組んでいる。冒頭で読者は暑い9月のミシシッピー、ブラインドを閉ざした熱気のこもる部屋に招き入れられる。物語を語るのはミス・コールドフィールドという老女。実に鮮烈な幕開けだ。しばらく読み進めると聞き手はクウェンティン・コンプソンというハーヴァード大学に進学した青年であることが明らかになる。そして冒頭の描写から明らかなとおり、彼らの背後にも三人称の語りを操る匿名の話者が存在し、作者にも擬せられる匿名の話者はこの後もたびたび物語に介入する。続く二章から四章まで、聞き手は同じコンプソンであるが、語り手はコンプソンの父親に代わる。五章はそのほとんどをローザ、つまりミス・コールドフィールドの内的独白が占める。フォークナーは活字の字体を変えて、五章の語りがいわば意識の流れであり、通常の語りとは異なる点を形式的に暗示する。字体の変調はこの長い小説の随所に認められる。六章以降はコンプソンがハーヴァード大学の寮の自室で友人シュリーヴ・マッキャノンを相手に自分の見聞を語る。語りの構造をひとまずこのように整理するならば、この小説の要に位置するのがクウェンティン・コンプソンであることは理解できるが、現実には語りが相互に嵌入し、語り手は判然としない。このため読者はいずれの登場人物に焦点化することも困難で物語はきわめて錯綜する。
 なぜかくも複雑なナラティヴが要請されるのか。この問いに答えることはさほど難しくない。『アブサロム、アブサロム!』で語られるのはトマス・サトペンなる人物の汚辱にまみれた一生である。ウエスト・ヴァージニアのプア・ホワイトの息子として生まれたサトペンはトラウマとなった幼年時代の屈辱に追われるように西インド諸島に渡り、なにかしらやましい仕事の結果巨万の富を手に入れてジェファーソンに帰還する。フォークナーの多くの物語の舞台となるヨクナパトーファ郡の町に多くの黒人奴隷とフランス人の大工を引き連れて到来したサトペンはそこに巨大な屋敷を建設し、町の商店主の娘、エレン・コールドフィールドと結婚し、ヘンリーとジューディスという二人の子をもうける。しかし自らが封印した過去の中からよみがえるかのようにいくつもの忌まわしい事件がサトペンの身辺で出来し、サトペンは破滅していく。近親姦と兄弟殺し。アメリカ深南部を舞台として、物語は神話的な様相を呈す。フョードル・カラマーゾフやレオポルド・ブルームを想起してもよい。野卑で俗悪な人物が神のごとき深みを帯びるという奇跡、それは優れた文学に共通する特質といえないか。サトペンの一代記、そして彼の子供たちをめぐる忌まわしい物語は常に他者によって語られる。しかも時系列は錯雑し、容易にその全体を見通すことはできない。神話との類比を考えるならば、この点は容易に了解される。神は決して一人称で語ることはない。神は矛盾しあう語りの中にこそその姿を現す。物語に神話的な奥行きを与えるために、フォークナーはきわめて意図的にこの晦渋な語りを採用したことが理解されよう。そして謎めいた語りの中から呪われた物語が次第に姿を現す場に立ち会うことがこの小説を読む醍醐味であろう。
 再読していくつかのことを感じた。まずフォークナーの小説には奴隷制がその影を色濃く落としている。ヨクナパトーファ・サーガを構成する物語は南北戦争後を舞台としている場合が多いから、黒人奴隷という制度自体は廃止されている。しかしアメリカ深南部において、奴隷制という暴力装置の痕跡はなおも生々しく残存し、差別や私刑、強姦や殺人といった主題に結びつくことはフォークナーの読者であればたやすく理解できよう。『アブサロム、アブサロム!』においてもこのような暴力性がいたるところで突出し、それは厩の中で黒人と半裸で血まみれになってあえぎながら殴り合いを繰り返すサトペンの姿に象徴されている。差別が物語を駆動する決定的なモメントとなっているのである。一つの社会における規範の喪失はこの小説の隠された主題であり、それは奴隷制という人間性の退廃と密接に結びついている。
 差別という問題と関連するならば、私はあらためてこの小説と中上健次の小説、とりわけ秋幸三部作との強い類縁性に驚いた。兄弟殺し、妹との相姦、そして父殺し、これらは『枯木灘』から『地の果て、至上の時』にいたる物語の中で正確に反復されている。私はフォークナーを読んだ後に中上を読んだから、当然この点に気づくべきであったが、思い至ることがなかった。『アブサロム、アブサロム!』の語りはそれほどまでに難解であったということであろう。しかしこのような類似の指摘は中上の小説を貶めることにはならない。それどころか日本語でフォークナーに拮抗する小説を書き上げた点に逆に世界文学としての中上の可能性を認めることができる。
 b0138838_154655.jpg『地の果て、至上の時』が『枯木灘』の後日談であるように。『アブサロム、アブサロム!』もまた『響きと怒り』という後日談をもつ。前者で物語の要の役割を果たしたクウェンティンは後者において入水自殺を遂げる。そしてここでも規範の喪失という主題が特異きわまりない語りの手法を介して浮かび上がる。ここで『響きと怒り』について詳しく触れる余裕はないが、この二つの小説ではいくつかのモティーフが共有され、ともに破滅と崩壊が語られる。ヨクナパトーファ・サーガとは総体として凋落する一つの時代の肖像といえるかもしれない。それは具体的には南北戦争後のアメリカ深南部という特定の時空と関わっていた訳であるが、同じような規範の喪失、凋落の予感を今日の日本に重ねあわせるのは私だけであろうか。
by gravity97 | 2009-09-14 15:05 | 海外文学 | Comments(0)

マルセル・プルースト『囚われの女』

 再び『失われた時を求めて』について、きわめて断片的な所感を記す。

 メメント・モリ、死を想え。この言葉が切実さをもつ年齢にはまだ達していないとはいえ、知人を送ることが多かった今年の前半を経て、自分なりに死について考えるところがある。死については二つの真理を挙げることができる。基本的に人は自らの死をコントロールすることができない。人はいつ、いかに死ぬかを選ぶことはできない。そして人は自らの死について語ることができない、デュシャンの墓碑銘ではないが「されど、死ぬのは常に他人」ということだ。
 『失われた時を求めて』の中にもいくつかの死をめぐる挿話がある。印象に残るところでは主人公マルセルの祖母の死のエピソードがあり、伝聞として伝えられるアルベルチーヌの死がある。この長大な物語の中に頻出する眠りというモティーフが死の暗喩であることも容易に理解されよう。今回私が論じたいのは,主要な登場人物の一人である作家のベルゴットの死の場面である。よく知られているとおり、この小説の中には文学、美術、音楽という三つの分野を代表する三人の人物が配されている。すなわち文学におけるベルゴット、美術におけるエルスチール、音楽におけるヴァントゥイユであり、彼らがこの小説の随所にほぼ同じ頻度で登場する点は『失われた時を求めて』が芸術に関する小説であることを暗示している。エルスチールについて、具体的な作品への言及からモネが連想されることは既に述べた。これに対してベルゴットとヴァントゥイユについては特定の作家や音楽家にイメージを重ねることは困難に感じられる。いずれにせよ主人公にとって文学への身近なそして信頼すべき誘い手であったベルゴットは第五篇「囚われの女」の中ほどで劇的な死を遂げる。軽微な尿毒症の発作のため安静を命じられていたベルゴットはハーグ博物館から出品された一つの絵を見るためにオランダ美術展に出かけ、その絵の前で目眩を起こし、続く発作で長いすから転げ落ちて絶命する。この小説の中で絵画や音楽、文学に関して具体的な作品名が言及されることは少ないが、ベルゴットが末期に見た作品については固有の名前が与えられている。フェルメールの《デルフトの眺望》。プルーストとフェルメールの関係については無数の専門的な研究が発表されており、実際にプルーストが死の前年にもジュ・ド・ポーム美術館で開催された「オランダ派絵画展」でこの作品を見たことが確認されている。
 《デルフトの眺望》は現在、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館に収められている。私にとっても最初に見たフェルメールの作品の一つである。運河をはさんだ港町の風景、手前の岸には何人かの人物を配し、対岸にはいくつかの塔を含めた多くの建築が描きこまれている。画面の上半分は雲がたなびく空が描かれ、運河には空と建物の反映が映り込んでいる。比較的小さな作品であるが、同じ美術館にある有名な《真珠の耳飾りの少女》と比べてもなんら遜色なく、それどころか空気の透明さ、画面に充溢する静かな光は私にこの画家の天才を深く印象づけた。もちろんそれまでにも図版では幾度となく見たことのある絵画であったが、日常の、それでありながら神秘をたたえた情景の中に私はたちまち引き込まれるかのように感じた。
 先に述べたとおり、プルーストもパリで実際にこの作品を見ている。もちろんプルーストとベルゴットを安易に同一視すべきではないが、作品のどこに魅せられたのか、作家は具体的に記述している。それは「その絵の中の黄色の小さな壁」である。ベルゴットは画面の右側、運河に面した煉瓦造りの洋館の背後に小さく描かれた「庇のある黄色い小さな壁」を確認するために美術館に出かけた。ベルゴットはこの小さな壁の前で次のように嘆息する。「俺はこんな風に書くべきだった。近頃の作品は無味乾燥だ。上から上へといくつも絵具を塗り重ね、俺の文書の一句一句を立派なものにすべきだった。この黄色い小さな壁のように」この一節の中で絵具と言葉、絵画と文学が対比されている点は興味深い。図版を参照するならば、この「黄色い小さな壁」は確かに画面の中で光り輝く美しい部分ではあるが、例えば遠近法における消失点のような特権的な意味をもつものではない。しかし小説の中ではこの壁を認識することは不吉な意味をもつ。「最後に黄色いほんの小さな壁のみごとなマチエールに注目した。目眩がひどくなってゆく。(中略)彼の目には天の秤に、自分の生命が一方の皿にのっているのが見えた。もう一方の皿には黄色でみごとにかかれた小さな壁がのっている。彼は小さな壁のために無謀にもいのちを犠牲にしたことを感じていた」つまり「黄色い小さな壁」を見ることの代償としてベルゴットは命を失うのである。静謐な港町の情景の中に一人の作家の命を奪う罠が仕掛けられているとは誰が想像しえたであろうか。
 美しい情景、なめらかな筆致の中に差し込まれた異物、具象性をいわば内部から解体する契機にジョルジュ・ディディ=ユベルマンは pan という名を与える。プルーストのいう「黄色い小さな壁」の原語は petit pan de mur jaune である。ここでも pan の語が用いられていることはもちろん偶然ではない。いつもながらディディ=ユベルマンの分析は難解で私も十全な理解からほど遠いが、そのニュアンスはかろうじて把握することができる。「pan とは絵画の変容能力、〈平面における三つ編みの議論〉の突き刺すような先端をいうのであろう。それは絵画をその突き刺すような平面の効果においていうのかもしれない」彼にとって pan とは一種暴力的な衝動と捉えられている。ディディ=ユベルマンはこの言葉を分析するにあたって『失われた時を求めて』を参照し、さらに彼は同様の pan をフェルメールの《レースを編む女》に描かれた赤い糸の塊に認めている。フェルメールの静謐で写真のごとき具象性の中に秘められた暴力的な衝動の発見は暗示的である。このような発見、自明のものとして見過ごされていた形象に何かしらの兆候を見出す手法は直ちにサン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコの《影の聖母》の祭壇下部に関する鋭利な論考を連想させ、ディディ=ユベルマンの面目躍如たるものがある。ここでは pan という主題をこれ以上深める余地も能力もないが、フェルメールの絵画と同様に、プルーストの流麗な物語を断ち切るかのように唐突に挿入された死という主題が、やはり《デルフトの眺望》の「黄色い小さな壁」に触発されたものであったとするならば、ここでもプルーストとフェルメールが主題的に交差する点を指摘しておきたい。
 メメント・モリ。私は冒頭で人はいかに死ぬかを選ぶことができないと記した。しかしもし選べるとしたらどのような死に方が理想であろうか。私には《デルフトの眺望》の前で絶命したベルゴットは、たとえ小説であるにせよ、一つの理想の死を体現しているように思われる。あるいは『失われた時を求めて』を味読する途中で息絶えるというのはどうであろうか。「囚われた女」において、プルーストとフェルメール、おそらく人類最上の文学と美術が出会い、しかもその甘美な出会いの傍らに死が寄り添うことを知る時、私はそのような夢想に抗うことができない。
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by gravity97 | 2009-08-07 22:16 | 海外文学 | Comments(0)

マルセル・プルースト『花咲く乙女たち』

 『失われた時を求めて』は私がこれまでに読んだ小説の中でも最も深い余韻を残すものの一つである。しかしこの長大な小説を正面から論じることは私の手に余る。このブログの中で私はこの小説についてこれから何度か論じてみたいと考えるが、まずはプルーストに倣って個人的な記憶から始めることとしよう。
 2004年の冬、私は比較的長期間、ニューヨークに滞在する機会を得た。仕事のための出張とはいえ、途中、オースティンとサンフランシスコへ数日間赴くことを除いて、同じ宿舎で過ごし、自由な時間も多かったので、私はこれまで読む余裕がなかった長い小説に挑戦することにした。プルーストを持参することに躊躇はなかった。実は私はそれまでに二度この小説を繙きながらも、いずれも「スワンの恋」を読み終えたあたりで挫折していたのだ。大学時代に求めた新潮社版全七巻のうち、ひとまず最初の二巻をスーツケースの筐底にしのばせて私はニューヨークに向かった。読書は思ったより順調に進み、確か出張の途中で「ゲルマント公爵夫人」を日本から送ってもらい、滞在中にこれら三冊、全体のほぼ半分を読み終えたと記憶している。
 その年、ニューヨークの冬は零下20度くらいの猛烈な寒さであった。しかも宿舎がハドソン・リバー沿いのマンションであったため、外出すると川面から顔に吹きつける風は寒さではなく、痛みを感じさせた。予想していたより読書が進んだのはおそらく外出が困難であったという事情も働いていただろう。私は毎朝、アムステルダム・アヴェニューにあるスターバックスに通い、温かいコーヒーを飲みながら一時間ほどプルーストの長編に取り組むことを日課とした。プルーストの小説を読み進めるためには一定の膂力が必要とされる。それはジムで毎日課せられた距離を泳ぐことにも似た、その場においては苦行にも近い体験であった。今でも『失われた時を求めて』の白い背表紙を手に取ると、スターバックスの窓越しに見たニューヨークの朝の雑踏が思い起こされるが、それはいつのまにか幸福な記憶へと転じている。
 小説を読んだ場所と状況について長々と書き連ねたが、それというのもこの小説のテーマが土地の記憶と深く関わっているからである。この小説には様々な土地の名が登場する。コンブレ、マルタンヴィル、あるいはパリやヴェネツィア。その中にはメゼグリーズとゲルマントのごとく、小説の中で対立的な象徴性を担わされた地名さえある。決して舞台が次々に転換される印象はないが、いくつかの土地をめぐる記憶がこの小説を構成している。帰国後も私は出張のたびに本書を携え、ほぼ半年をかけてこの長大な小説を読み通した。結果的にこの本を読んだ記憶は私の中で国内外のさまざまの土地と分かちがたく結びつくこととなった。偶然とはいえ、自宅の書斎ではなく、それぞれに記憶に残る土地でこの本を読み進めたことは作品の内容に適っていたような気もする。

 さて、今回は本書の中で私が一番印象に残っている情景について記すこととしよう。それは第二篇「花咲く乙女たち」の第二部、奇しくも「土地の名・土地」と題された章の中、一群の少女たちが語り手の前に姿を現す場面である。土地の名はバルベック。物語の語り手、マルセルが祖母とともにしばらく逗留するノルマンディーの海沿いの街の名である。ジルベルトという娘への淡い思いが断たれ、失意というほどではないにせよ、傷心のマルセルはこの地でそれからの生涯に大きな意味をもつこととなる何人かの人物に出会う。祖母と旧知のヴィルパリジス夫人の甥で後に親友となるサン・ルー、あるいは後年、驚くべき秘密が暴かれるシャルリュス男爵、モネを連想させる画家のエルスチール。(語り手の記憶をとおして読者は既にこれらの名前に馴染んでいる場合もあるが、注意深く読むならば彼らとマルセルが初めて現実に出会うのはこの海辺の街である)そしてこのような出会いの最後を飾るかのように、滞在先のグランド・ホテルの外で手持ち無沙汰に佇むマルセルの前に六人の「花咲く乙女たち」が現れる。ある者は自転車を手で押し、またある者はゴルフのクラブをもって浜の堤防から近づいてくる娘たちの描写に私はひときわ鮮烈な印象を受けた。この部分を読んだ時、私は物語の中に突如明るい光が射し込んだような思いにさえとらわれたのである。
 今回、この文章を書くにあたってその部分を再読してみたが、意外にも初読の際ほどの感銘を受けることはなかった。その部分だけを再読するのと物語の流れの中でこの箇所に逢着するのでは小説から受ける印象が全く異なるように思う。幼時を過ごしたコンブレの思い出、スワンやオデット、そしてスワンの娘のジルベルトとの関係が語られる「スワンの恋」は物語の中に動きが比較的少ない。しかもよく知られているとおり、物語は話者であるマルセルの記憶というフィルターをとおして語られるため、しばしば往還と停滞を繰り返し、冗長で際限がない。先ほど思わず苦行という言葉を用いてしまったが、この冗長さの体験を甘美さと読み替えることができるようになった時、読者は初めてプルーストの小説の真髄に触れることができる。しかしそのような境地に達するまではしばらく時間がかかる。私にとって停滞していた物語に初めて動きが感じられたのは「土地の名・土地」の冒頭で回想されるバルベック出発の場面である。祖母とともに鉄道でノルマンディーまで赴き、現地のホテルに滞在する。語り手の移動(正確には移動に関する記憶の発動)とともにそれまで宵寝のまどろみの中に滞留していた物語は賦活され、精彩を帯びる。動き始めた物語を祝福するかのように、輝く浜辺の方から華やかな娘たちが登場する。それは私にとってこの長い長い小説の中で最も強い印象を与える場面となった。スワンとオデット、あるいはマルセルとジルベルトをめぐる際限のない物語を根気よく読み進める中で次第に私の小説に関する感性が研ぎ澄まされ、この箇所における物語の転調をはっきりと意識できたのであろうか。それとも単に酷寒のニューヨークに一人で滞在していた私にとって、夏のノルマンディーの海水浴場に現れた娘たちのイメージがあまりにも魅惑的であったためであろうか。
 
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マルセルの前に現れた娘たちの一人こそ、後年の「囚われの女」、アルベルチーヌ・シモネであった。マルセルとアルベルチーヌの不幸な恋愛はこの小説の後半の主要なテーマとなる。第六篇「消え去ったアルベルチーヌ」(プレイヤッド版では「逃げ去る女」)の中ではこの長大な小説をとおして二度目の鉄道旅行が語られる。マルセルは祖母ではなく母とともに、バルベックではなくヴェネツィアに向かう。しかしこの時、既にアルベルチーヌはこの世の人ではなかった。
by gravity97 | 2009-05-01 06:20 | 海外文学 | Comments(0)

ドン・デリーロ『墜ちてゆく男』

 長い小説なので図書館から借りて読もうという了見がよくないのだろう。長編好きの私が何度か挑戦しながらも通読できない例外的な作家がドン・デリーロである。『リブラ 時の秤』も『アンダーワールド』も重厚さと評判に魅かれて手にしたものの、ともに挫折というか読了しないままに返却したことを覚えている。ただしいずれの小説にも名状しがたい読みにくさがあった気はする。この読みにくさについてはいずれこれらの小説に再挑戦する際に考えてみる余地はあるかもしれない。
 『アンダーワールド』の表紙カバーでは屹立するツインタワーのイメージが鮮烈であったが、本作品はそのツインタワーの崩壊とともに幕開けする。2001年9月11日の同時多発テロ、とりわけ世界貿易センタービルの崩落が小説の背景となる。物語は世界貿易センターにオフィスをもつエリート・ビジネスマン、キース・ニューデッカーがタワー崩壊の中でからだ中に灰を浴び、顔面に無数のガラスを突き立てたまま自宅の玄関に現われる衝撃的な場面とともに幕を開ける。錯時法を用いた語りは決してわかりやすいものではないが、物語の輪郭をたどることはさほど困難ではない。キースは編集者である妻リアンとジャスティンという娘とマンハッタンに暮らし、夫婦関係は必ずしも良好ではない。双方に愛人の存在が暗示され、キースが家庭を顧みずに同じタワー内に勤務する友人たちとポーカーに明け暮れていた様子も浮かび上がる。物語は9・11以前と以後、二つの時間を往還する。それにしても戦時下ならばともかく、資本主義の牙城とも呼ぶべき大伽藍が人為的で物理的な攻撃を受けて、多くの人命もろとも壊滅するといったカタストロフを一体誰が予想しえただろう。キースのポーカー仲間の何人かはタワーの中で絶命し、リアンはキースの死を確信する。作中でキースやリアンが味わった恐怖がニューヨーク市民に広く共有されたであろうことは想像に難くない。解説によれば、デリーロ自身も事件直後にグラウンド・ゼロに赴いたという。しかしこのようなカタストロフを小説として作品化することはたやすいことではない。作品が発表されるまでに要した6年間という時間はそれを暗示しているだろう。
 私たちはこの事件を小説に反映させた例として既にイアン・マキューアンの『土曜日』を知っている。この小説の中でマキューアンは理由のない暴力とそれからの癒しを洗練された手つきで脳外科医の一日に挿入した。冒頭で語られる火を噴きながらヒースローへと向かう飛行機のイメージはあくまでもメタファーとして機能していた。しかしながらデリーロの場合、そのような優雅なメタファーや容易な癒しは存在しえない。作品の随所に倒壊するタワーの内部やタワー倒壊後のニューヨークの情景が描き込まれ、タイトルの「墜ちてゆく男」とはタワーから落下するビジネスマンの衝撃的な写真を連想させる。しかし『墜ちてゆく男』は世界貿易センターの崩壊を扱った小説ではないし、そのように読まれるべきではない。「墜ちてゆく男」のもう一つの含意はすぐに明らかとなる。それはスーツを着込み、安全ベルトを装着して高所から飛び降りるパフォーマンスアーティストである。デイヴィッド・ジャニアック。マンハッタン各所でこのパフォーマンスを繰り返し、事件の記憶を生々しく留める男の名前は物語の終わり近くで彼の死亡記事とともに明らかになる。三章から成るこの小説は各章のタイトルとして人名が当てられ、ジャニアックは最後の章のタイトルである。あと二つの章のタイトルも内容と深く関わる。第一章のタイトルとされるビル・ロートンとはジャスティンに高層ビルに住む兄妹とともに空を監視するように命じる空想上の男であり、ジャスティンは兄妹の住む高層のアパートメントに双眼鏡を持参して飛来する飛行機を監視する。ビル・ロートンという名前はマス・メディアの中で繰り返されるビン・ラディンという固有名詞が子供たちの想像力の中で変異したものであることが明らかとなる。第二章のアーンストン・ヘキンジャーとはリアンの母、ニナの愛人であるマーティン・リドナウの本名である。ヨーロッパ出身で美術品のディーラーであり、ドイツの過激派との関係が示唆されるマーティンもビル・ロートン同様に謎の存在であり、その正体は最後まで明かされることがない。メインプロットとは無関係の三人の名前が章の題名とされている点は暗示的である。三者に共通するのはキースらにとって正体不明の他者であるということだ。
 ポーカーに明け暮れ、外泊を繰り返していたキースはタワー崩壊の阿鼻叫喚の中から自宅へ帰還する。しかし物語は当然ながら蕩児の帰還といった枠組に収まることはない。キースは崩壊するタワーの中で拾ったブリーフケースを持ち主の女性に届け、彼女と関係をもつ。リアンは同じマンションの中で耳障りなイスラム系の音楽を流し続ける女性のもとを訪ね、口論の果てに彼女を殴る。あるいはリアンが参加する認知症の初期段階の患者たちとのセッション。テロとは比べるべくもないが、いくつかの不穏なエピソードが相互に関係なく散りばめられる。作品を通じて作者であるデリーロの存在は希薄である。このような非人称性は現代文学の一つの特性であり、小説の手触りを無機的なものとしている。全てを俯瞰する話者の視点は神に比せられようが、何千人もの人が瓦礫に埋もれるという惨事の後でまず問われるべきは、神の存在そのものである。神が存在するのであれば、なぜこのような事件を許すのか、そもそも旅客機を乗っ取って世界貿易センターに突入した「テロリスト」たちも別の神を信じていたのではないか。マーティンとニナの間で交わされる議論はドストエフスキー的な色彩を帯びる。
 b0138838_2039373.jpgこの小説と喚起的な文体は9・11というカタストロフの周囲を時間的にも空間的にも旋回するような印象を与える。崩壊する世界貿易センターがその中心にあるが、その周囲を旋回しながらデリーロが描出しようとしたのはアメリカというきわめて抽象的な場ではないだろうか。なぜならこのような小説はアメリカ以外のいかなる国においても成立しえないからである。それは同時多発テロがアメリカで発生したからではない。かかる混沌、多様性、複数の声がまぎれもなくアメリカを表象しているからである。例えばこれらの点をトマス・ピンチョンとスティーヴ・エリクソンのテクストの傍らにおいて検証することは興味深い主題を形成するだろう。しかし同時にこの小説には明らかに異物として挿入される三つの断章が存在する。それはハンブルグで、ロスアンジェルスでテロを準備する「テロリスト」たちの肖像であり、そこにはアミド(モハメド・アタ)という実行犯の実名さえ記されている。これらの断章の存在は物語、つまり「アメリカ性」に強い負荷を与える。「ハドソン回廊」(ハイジャック機が飛行したハドソン川上空のことであろう)と題された巻末の断章においてアミドらに制圧された航空機内の模様が描かれた後、世界貿易センターへの突入を介して、物語の焦点は航空機内の実行犯からタワー内のキースへと転換され、凄絶なクライマックスが現出する。最初に述べたとおり、この小説は時間的には同時多発テロの以前と以後を往還する構造をもつが、最後の瞬間にいたっていわばゼロ時間の中へ全てが流れ込み、航空機とタワー、「テロリスト」と犠牲者たち、アメリカと非アメリカが炸裂する。かかる緊張感、幻惑的なイメージを喚起することは小説という言語以外では不可能であろう。デリーロの硬質の文体、無機的な声はこのような主題にみごとに応じている。
 一つの都市や共同体を破壊する災厄。私はこのような災厄に拮抗する文学の系譜が存在するように感じる。むろんそのような主題を取り上げたからといって優れた作品となる訳ではない。デリーロの作品が形式と文体によってこの困難な試みに挑戦したとするならば、寓意という手法によって同じ試みに挑んだ例として、私は村上春樹の『神の子どもたちは皆踊る』を別の機会に分析してみたい誘惑に駆られる。

 なお、昨今のパレスティナ情勢の緊迫を反映したのであろう。このブログの同じカテゴリーで取り上げたガッサーン・カナファーニーの『ハイファに戻って/太陽の男たち』が河出書房新社より先頃、新装版として復刊された。書店で実際に手に取られたい。
by gravity97 | 2009-03-24 20:41 | 海外文学 | Comments(0)

ポール・オースター『幻影の書』

b0138838_23162787.jpg 10年以上にわたって、新刊が翻訳されるたびに買い求め、一度も期待を裏切られたことのない作家はさすがにあまり例がない。ポール・オースターは私にとってこのような異例の作家である。書庫で調べてみると最初の邦訳、『シティ・オブ・グラス』が1989年の発行であるから、ほぼ20年にわたって読み継いだこととなる。2002年に発表された本書がいつもどおり柴田元幸の手によって翻訳されて先ほど刊行された。帯には「最高傑作」と銘打たれているが、それはどうであろうか。オースターの場合、どの小説を「最高傑作」とみるかはおそらく個人的な趣味による。私としては『ムーン・パレス』の完成度が一番高いのではないかと考えるが、本作品もオースターらしさが十分に発揮された佳作である。
 オースターの作品は多く最初に謎が提出され、それをめぐる探索が物語を構成する。しかもその謎の輪郭は物語のごく最初の段階で提示される。本書においても物語の骨格自体は冒頭のわずか10頁ほどで間然するところなく示されている。主人公デイヴィッド・ジンマーは大学の教員。飛行機事故で妻と子供たちを亡くし、生ける屍のごとき人生を送っていたが、偶然見たサイレント末期のコメディアン、へクター・マンの短編映画に感銘を受け、多くが失われていた彼のフィルムを研究することによって社会に復帰する。へクターは60年前、その絶頂期にあって突然謎の失踪を遂げていた。ある日、ジンマーのもとにへクターとの面会を求めるヘクター夫人からの手紙が届く。なんとも魅力的な設定ではないか。才能ある作家であれば、一つの物語を起動するに十分な材料が散りばめられた冒頭である。ただし私の印象としては、本作品においては物語の展開がいささかぎこちない。物語の中の物語という趣向はオースターの多くの作品に共通するが、本書においては挿話がつぎはぎされた印象があり、物語の潤滑性を阻んでいる。つまり登場人物の一人の口を借りて語られるへクターの失踪の理由とその後の行路のエピソードは、ヘクターと会う直前に語られたにしてはあまりにも長いし、そもそもジンマーの生活に闖入した人物の三人称による語りはその真偽が担保できない。このため終盤で再開されるジンマーによる一人称の語りへの移行はいささかぎくしゃくしている。オースターほどのストーリーテラーにしてはやや雑な構成ではないだろうか。
 オースターは実際に映画の脚本や監督も手がけており、映画との親和性の高い小説を発表してきた。また彼の小説の多くが消尽や消滅と関わっていたことを想起するならば、この小説の主題に「失われたフィルム」が選ばれたことの必然性は容易に理解される。思うにヴィデオやDVDが登場する前のフィルムとしての映画ほど実体性からかけ離れた芸術はほかにない。文学や美術において作品は書籍や絵画といった具体的なかたちをとって存在するのに対して、いかに大掛かりなスペクタクルが繰り広げられたとしても、フィルムそのもの、あるいは映写機そのものは何のイメージも提供しない。フィルムを映写機に装着し、上映する瞬間にのみ私たちは映画というかりそめのイメージに見えることができるが、そのイメージの根拠として存在する実体は燃えやすいセルロースのフィルムの上に定着された無数の光学的イメージである。映画とは私たちがそれを見る間だけ存在する「幻影」であり、瞬時的なイメージを切り取って定着することはできない。この問題はジル・ドゥルーズがベルグソンを援用しながら的確に分析した点であり、ショットを画面として定着することが可能なヴィデオやDVDが普及することによって逆に意識されなくなった映画の本質である。そして実体をともなわず、持続の中にしか存立しえない映画の「幻影」は私たちの生の暗喩でもありうるだろう。ジンマーもへクターも映画的といってよい数奇な運命をたどる。彼らの生はとりかえしのつかない事件、偶然によって引き起こされた悲劇に満ちている。そして物語も終盤にいたっていくつものとりかえしのつかない悲劇が連鎖する。オースターは「幻影」をキーワードに映画と登場人物の生を巧妙に重ね合わせる。映画と生という「幻影」にかたちを与えるものは何か。それは書くことではなかろうか。物語の中でジンマーはへクターのいくつかの映画について詳細に記述する。そのうちの一つは一度上映された後、永遠に失われることになる映画である。あるいは私たちはジンマーが「精神を崩壊させてしまう思い」と呼ぶ邪悪な想像、へクターの死をめぐる秘密について彼の手記、つまりこの小説を読むことによって知る。書くこととは幻影にかたちを与えることである。この小説が存在する理由はここにあり、それは端的に文学のレゾン・ド・エートルでもある。
 燃え上がるフィルムのイメージは私にたやすくもう一つの炎上のイメージ、フランソワ・トリュフォーのフィルム、「華氏451度」を連想させる。ここでも文学と映画が交錯する。レイ・ブラッドベリの名品が炎による破壊の後に一つの希望を準備したように、「幻影の書」も末尾において一つの希望が語られる。炎を主題とするこれら二つの物語が、暗然たる破壊や死の果てにあえかな希望とともに終幕することは偶然の一致であろうか。
by gravity97 | 2008-12-09 23:21 | 海外文学 | Comments(0)

クッツェー『鉄の時代』

b0138838_1143020.jpg これもまた暴力についての、実に苛酷な物語である。舞台は1986年の夏から秋にかけて、南アフリカ、ケープタウンとほぼ具体的に特定されており、それは巻末に記されたこの小説が執筆された時期と同期している。解説によれば、この時期はアパルトヘイト政策が崩壊に向かいつつあった時期らしい。物語の中で語られる、黒人の学校の閉鎖と騒擾、黒人居住区への焼き討ちや警官による暴行もまた現実と同期していると考えてよいだろう。しかしこの小説が優れている理由の一つは、暴力を単なる人種間の差別の問題に還元していない点である。主人公のミセス・カレンは白人、彼女の使用人のフローレンスは黒人であることはある程度読めば推察される。しかしほかの登場人物たちはストーリーの展開から漠然と人種を推定できるものの、少なくとも人種の差異が明確に描き込まれ、それによって物語が起動することはない。むろん背景を知るならばこれは差別を合法化するアパルトヘイトという暴力装置と深く関わった小説である。しかし人種差別という問題が前景化されることがないため、この作品は広く人と暴力一般に関わる深みを湛えている。
 物語はミセス・カレンが末期癌の宣告を受けた日に始まる。主人公の老女カレンは夫に先立たれ、アメリカに渡った一人娘ともほとんど交渉がない。住み込みのフローレンスというメイド以外に話し相手をもたない孤独な生活を送っている。自らの余命を自覚したこの日、彼女の生活に一人の闖入者が現れる。それは後にファーカイルという名を与えられる浮浪者、カレンの家のガレージ脇に段ボールを持ち込んだホームレスの男性である。悪臭を放ち、人間としての品位も尊厳も欠いた浮浪者をカレンは最初拒絶するが、次第にファーカイルは家の中に入り込み、奇妙な共同生活が始まる。やがてフローレンスの息子ベキとその友人(彼の本名は最後まで明らかにされない)も加わる。彼らが住む黒人居住区では暴動が発生し、学校も閉鎖されたらしいことが暗示される。カレンはベキと少年に不穏な印象を抱き、実際二人はファーカイルに暴行を加える。しかし彼らの間に加害と被害の一方的な関係がある訳ではない。物語が進行するにつれ、加害者が被害者となる暗澹たる暴力の連鎖が浮かび上がる。黒人居住区で何が起きているか、明確に語られることはない。しかし警察国家というかたちをとった暴力装置、アパルトヘイトは次第にカレンの周りにも触手を伸ばし、登場人物たちは次々と犬のように殺されていく。
 かつてカレンは学校でラテン語を教えていた。登場する人物の中で唯一彼女だけが知性を感じさせる人物である。しかしアドルノを引くまでもなく、そのような教養もアパルトヘイトという暴力の前では無力である。病の痛みを押えてトルストイを読み、「平均律クラヴィーア」を弾く姿は痛々しささえ感じさせる。彼女は決して状況から逃げることなく、冷厳たる現実に直面する。彼女はファーカイルに仕事を与え、施しではなく労働の対価として金銭を与える。警察の暴力に対しては毅然として抗議し、黒人の自警団に対して正義を説く。彼女の娘がアメリカに渡ったのは南アフリカという国家に絶望したからである。カレンも同様にこの警察国家へ絶望しているが、彼女は娘の亡命を容認しつつも、自らはそこに留まる。さらに末期癌の宣告を受けた患者であれば当然許されるであろう病院への入院と介助も拒絶し、荒れ果てた家に浮浪者とともに留まることを選ぶ。
 私はアパルトヘイトについてはほとんど何も知らない。しかし人種差別を合法化する政策がいかに人心を荒廃させるか、この小説の中で次々に語られる寒々しい情景がその暗喩であることは容易に想像がつく。このような制度は警察や軍といった暴力によってしか維持されえないが、それはほんの10年程前まで存続していたのだ。私はあらためていかに多くの事実が私たちの目から隠されているかということを知る。同様に私たちはボスニア・ヘルツェゴビナについて、ジェニンについて、ルワンダについて何を知っているだろうか。
浮浪者ファーカイルの登場とともにこの小説は始まる。次に述べるとおり、彼はこの小説の要となる存在である。老女と浮浪者は共同生活を送り、時に必要に迫られて一緒にドライブに出かけ、時に老女の介護らしき世話をすることもある。しかしこのような殺伐とした世界に生きる二人が安易なヒューマニズムとは無縁であることも明らかだ。彼らは最後の場面で同衾さえする。しかしそれは情愛やセックスからは程遠い。「あの人が私を両腕に抱いて、息が私から一気に出ていくように渾身の力で抱きしめた。その抱擁からはどんな温もりも感じられなかった。」という巻末の一文のなんという酷薄。接近とか理解といった予定調和を突き崩し、物語は読者を置き去りにする。
 しかしそれにも関わらず、私はこの小説に希望の兆しを認める。それは小説の内容ではなく、形式と関わっている。この小説=手記が誰に向けて書かれているかは冒頭の一文から明らかだ。「ガレージのわきに細い通路があるのを、おぼえているかしら、あなたがときどき友だちと遊んでいたところ。」この小説は遠いアメリカにいる娘にあてた手紙である。むろん書簡体小説は無数に存在するから、驚くに値しない。私たちが想起すべきは、手紙とは常に何者かによって届けられるという事実である。どのような内容が記されていようと、手紙は配達されなければ決して読まれることはない。手紙を届ける役割をカレンはファーカイルに託す。むろんアメリカまで届けろというのではない。あらかじめ切手の貼られた手紙を郵便局のカウンターに置くだけでよい。冒頭でカレンが死病に冒されていることが明かされるから、おそらくそれは老女の死後になされることとなろう。そして、いわば娘への遺言を託す相手として、ファーカイルほど信頼から遠い存在もいないだろう。この印象は作品を読み通しても変わることはない。しかし私たちが今この小説を読んでいるということは言い換えるならば、手紙が確かに届けられたということの証ではないだろうか。書くことへの信頼とそれが未来の読者に届けられることへの信頼、二つの信頼を前提として初めてこの小説は成り立つ。
 思うに私たちが暴力に抗う唯一の方法は、それを記憶し、伝えることではなかろうか。おそらく文学の一つの起源はこの点にある。今まであまり顧みられたことのない点であるが、書くことと同様にいかにして伝えるかという問いは文学にとって重要な課題であったはずだ。『オデュッセイアー』における吟遊詩人から18世紀フランスにおける書簡体小説の隆盛、昨今のケータイ小説にいたるまで、何が書き手と読み手の間に介在するかという問題はもっと深く思考されてよい。インターネットが四通八達する今日、私たちは自分が書いたものが何の障害もなく読み手に届けられることを疑うことがない。しかし果たしてそうであろうか。小説の中でカレンは自らの手記を瓶の中に入れられて波間を漂うメッセージに準える。文学の本質に関わるまことに明敏な洞察である。小説を書くことはそのような不可能への挑戦であり、ある意味であなたが読んでいるこのブログもまた同様の不可能な通信なのである。
 さほど遠くない将来、「存在してはならない場所」から持ち出された四枚の写真をめぐって、私は伝えることの不可能性についてもう一度このブログで論じることになるだろう。
by gravity97 | 2008-10-14 11:44 | 海外文学 | Comments(0)

ガッサーン・カナファーニー『太陽の男たち/ハイファに戻って』

b0138838_9255054.jpg『オリエンタリズム』を持ち出すまでもなく、私たちはイスラム圏の人たちに対して、きわめてステレオタイプな理解しか持ち合わせていない。テロリスト、大富豪、遊牧民。映画や小説で増幅された貧困なイメージは多くネガティヴな印象を与える。ましてや私たちは「パレスチナ人」の表象としてどのようなイメージを抱くことができるだろうか。
 ガッサーン・カナファーニーは1936年、イギリス委任統治下のパレスチナに生まれ、第一次中東戦争の際に故郷を追われ、レバノンそしてシリアで難民生活を送る。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)のスポークスマンとして活動し、機関紙の編集に携わる一方でいくつかの小説を発表した。しかしイスラエルの秘密警察の手によってわずか36歳の時、ベイルートで姪とともに爆殺されるという悲劇的な最期を遂げた。このあたりの事情はスピルバーグの『ミュンヘン』を想起すればよかろう。カナファーニーの作品は近年、岡真理の手で翻訳され『前夜』という雑誌に数回にわたって掲出された。私も岡真理の著書をとおしてこの作家の主著が70年代に日本でも翻訳されていたことを知った。
 この本には表題となった比較的長い二編の小説と短編五編、あわせて七編の小説が収められている。いずれもパレスチナという土地を強く反映した研ぎすまされた刃物のような小説である。ここでは表題の二編の小説について内容にも踏み込んで論じる。
 「太陽の男たち」はイラクからクウェートへの密入国を主題としている。いうまでもなくこの移動は貧富の格差によるものである。バブル期の東京でも中東からの越境はみられたし、今日もメキシコからアメリカへ、トルコからドイツへの越境は続いている。しかしイラクからクウェートへ、苛酷な炎天下、砂漠の中での禁じられた越境は文字通り生命の危険を伴う。登場人物は彼らをめぐる挿話からパレスチナ難民であることが了解される。後で述べるとおり、1948年、イスラエル軍によって父祖の地から追放された彼らにとって貧困から逃れる数少ない手段がクウェートで出稼ぎし、故郷に送金することであった。国境付近には密入国を請け負ういかがわしいブローカーが暗躍し、密入国者たちのなけなしの金を奪おうとする。様々の「パレスチナ的背景」を抱えた三人の男が「竹竿親父」なる請負人の斡旋でクウェートへの集団密入国を図る。その方法とは空の給水車のタンクに潜んで二つの検問を通り過ごすというものであった。炎天下に鉄のタンクの中に潜むことは自殺行為である。しかし検問の書類審査の数分の間だけ耐えればクウェートの地を踏めると説得された彼らがほかに選ぶ道はない。最初の検問を息も絶え絶えに乗り切った三人であったが、二番目の検問で運転手が検問の職員の無駄話につきあわされているわずか数分を耐えることができずタンクの中で絶命する。物語は彼らの死体をごみ集積所に捨てた運転手が「なぜタンクの壁を中から叩かなかったのか」と絶叫するシーンで終わる。
 なんとも救いのない物語である。ブローカーとの間に生き馬の目を抜くようなやりとりがあるとはいえ、密入国者たちが悶死したのは何者かの悪意のゆえではない。単に検問所で運転手が数分の間拘束されたからであり、検問つまり国境の存在が罪なき者たちの死に関与している。国家や国境、自然には存在しない擬制がいともたやすく人を圧殺するという主題をこれほどむきだしに提示した物語は例がないだろう。カナファーニーがこれらの問題に敏感であるのはいうまでもなく彼自身が国籍を剥奪され、捏造された国境の外へと放逐された身であるからだ。自らの過失とも呼べぬ過失によって何人もの男を死に至らしめた運転手が物語の最後で発する「なぜタンクの壁を叩かなかったのか」という叫びは何かの寓意であろうが、それが何の寓意か、私はまだわからずにいる。
 1948年、パレスチナのデイルヤーシンという村でイスラエル軍と民兵による老人や子供も含めた住民の大量虐殺事件が発生する。恐慌に陥った多くのパレスチナ人はシリアやレバノンに一時避難する。彼らはこの退避は一時にすぎず、まもなく帰還すると考え、家も家財道具もそのままに脱出したが、彼らの土地はイスラエルに占領され、彼らが居住した土地には世界各地から帰還したユダヤ人が入植する。イスラエル建国と密接に関わるこの事件はナクバ(大災厄)と呼ばれ、先述のとおり12歳のカナファーニーにとって原体験とも呼ぶべき出来事となった。かつてナチス・ドイツはユダヤ人強制収用所を完全に破壊し、跡地を整地してホロコーストの痕跡を抹消しようとした。(ちなみにかかる暴挙は近年、イスラエルがパレスチナの難民キャンプをブルドーザーで建物ごと破壊する情景と完璧な相似形をなしている)その数年後、今度はシオニストが別のかたちで事件の痕跡を消し去ろうとする。生活の痕跡を抹消するのではなく、別の入植者を住まわせることによって元の入植者の生活の痕跡を消す試み。ナチス・ドイツによる記憶の絶滅が書字を全て削り取ることによってなされたとすれば、シオニストたちが試みたのは書字の上に別の字を重ね書きして本来の字を読めなくする、いわばパランプセストによる記憶の抹消である。かかる暴力が文学の主題にならぬはずがあろうか。
 「ハイファに戻って」はまさにこの問題を扱っている。ハイファとは地中海沿岸の都市の名。主人公はかつてこの街に住んでいたが、ナクバとそれに続くイスラエル軍侵攻のため、とるものもとりあえず街から逃れる。その際に主人公と妻は乳飲み子だった長男を置き去りにせざるをえなかった。二人は20年ぶりにハイファを再訪する。むろん住民も地名も変わってしまった街で生活することはできない。二人は自分たちが住んでいた家をもう一度訪れたいというささやかな希望を胸にハイファに向かう。彼らの家は残っていたが、そこにはイタリアから来たというユダヤ人の老女が暮らし、ずっと二人が訪れるのを待っていたと述べる。老女は父をアウシュビッツで亡くし、夫も中東戦争で戦死したらしいことが暗示される。彼女はあかたも絶滅収容所に始まる20世紀の暴力の歴史を一身にまとうかのようである。ゆえなくして故郷を追われた二人と意図せず彼らの家を占拠した老女との緊張をはらんだ対話はこの小説の白眉である。そしてさらに驚くべき事実が明らかとなる。彼らが残した生後五ヶ月の男の子は偶然にも老女に引き取られ、息子として育てられていた。ユダヤ人として育てられたパレスチナ人、ハルドゥンとドウフという二つの名をもつ息子はいずれを両親として認識するか。関連するいくつかの挿話を交えながら、再会の時が到来する。あろうことか、彼らの息子は実の両親を否定し、自分がイスラエルに帰属し、将来イスラエル国軍に参加するつもりであることを明言する。実の両親が拒絶されるというエピソードを、彼の弟、つまり主人公たちの次男がフェダーインというパレスチナの武装勢力に参加を表明し、主人公がそれを許さなかったという挿話の傍らに置く時、政治や国境が家族を、兄弟を引き裂いていく非情さの自覚は実際にナクバを経験したカナファーニーならではであろう。
 「ハイファに戻って」の主人公の名はサイードという。なんという偶然であろうか。私はこの小説に先んじてもう一人のパレスチナ人、もう一人のサイードがやはり45年ぶりに生地を訪ねた記録を読んでいた。1991年、白血病の宣告を受けたエドワード・サイードは翌92年、家族を伴って自らの生地エルサレムを再訪する。パレスチナ出身でアメリカを代表する知識人であるサイードの帰還は大きな反響を呼ぶ。サイードが生地を離れた理由や再訪のエピソードは「ハイファに戻って」ほど劇的ではない。しかし自らがかつて居住した家がそのまま残され、しかしそこには別の者が居住しているという同じ不条理をエドワード・サイードも味わう。事実は小説より奇なりというが、私にとって「パレスチナ/イスラエルに帰る」を読んだ後で「ハイファに戻って」を読む体験は、事実を小説で追認するがごとき奇妙な感覚であった。
先ほど私はナチスとイスラエルが行なった二通りの痕跡の抹消について述べた。一方では証拠と証人を完全に破壊し、抹殺することによって事件の痕跡を抹消する。他方では事件の上に別の事件を重ね書きして、本来の事件を読み取りがたくする。痕跡の抹消と痕跡の過剰。この二つの暴力がいずれもユダヤ人問題と関わっていることは暗示的ではないか。私はこの主題をさらにロバート・ラウシェンバーグのドローイング、そしてジャック・デリダの一連の著作へと押し広げたい誘惑に駆られるが、それはまた別の機会としよう。
カナファーニーを含む「現代アラブ小説全集」は河出書房新社から1978年に初版が刊行され、88年に新装版が刊行されている。現在ではインターネットでも入手困難であるが、大きな図書館に行けば閲覧可能であろう。いくつかの小説については最初に触れた岡真理がフェミニズムやコロニアリズムの視点なども絡めて興味深い論考を発表しており、ほかの作家についても読んでみたいと思う。決して部数が見込める出版ではないが、このような小説をきちんと翻訳して出版することは最初に述べた、他者の表象という問題と深く関わり、読書という行為の本質と関わっている。最近では感じることのまれな出版社の良心をうかがうことができる。
by gravity97 | 2008-07-28 09:26 | 海外文学 | Comments(1)

コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

 b0138838_21273734.jpg『オン・ザ・ロード』ではなく『ザ・ロード』。こちらには希望がない。
 放射能汚染についての記述がないから、核戦争による破滅ではなかろう。何かの理由によって文明が崩壊した後、気温が下がり、太陽の光も閉ざされた終末の世界を南へと歩く父と息子の物語である。舞台はアメリカと推測されるが、二人は常に「男」と「少年」と呼ばれ、物語中に固有名詞は皆無といってよい。食糧と必需品をカートに積み、道なき道を南下する二人を取り巻くのは悪意に満ちた世界である。生き残った者たちは互いに貪りあい、人肉食も横行している。男と少年は「火」を運ぶ者として、不要な殺人は行なわない、食人を行なわないことを誓い合う。しかし「善き者」でさえも自らの安全は自らの手で確保しなければならない。道中で二人は何人かの生存者と遭遇するが、相手が弱者の場合はそのまま見捨て、危険な相手の場合は身を隠し、やり過ごす。実際に少年をナイフで脅した武装集団の一員を男は拳銃で射殺する。二人は廃屋や廃墟を捜して、食糧や有用な品が残されていないかを捜す。むろんそのような僥倖はほとんどありえず、二人は飢えと寒さ、病気に苛まれながら過酷な道行きを続ける。季節はおそらく秋の終わりであり、冬を越すために彼らは南へと向かうが、確固たる目的地がある訳でもない。物語の終盤近く、二人はひとまず目指していた海岸線に達するが、暗く冷たく広がる渚にはいかなる光明もない。
 まずはスティーヴ・エリクソンを彷彿とさせる圧倒的な幻視力に感服した。ナウシカからマッドマックスまで、アニメや映画をとおして私たちは世界が破滅した後の物語になじんできた。しかし秩序も正義も理性も失われた世界をここまで仮借なく描いた例を私は知らない。もちろんこのようなロード・ムーヴィーならぬロード・ノヴェルは多くの先例がある。世界が壊滅した後に舞台を設定した小説として私が直ちに連想したのはスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』であり、やはりキングの新作『セル』も息子を捜す父が何人かの同行者とともにゾンビが跳梁する終末以後の世界を旅する話であった。寓意性の強いキングはともかく、先行する類似した主題の小説においては世界がなぜ破滅したのかという点が物語の根幹に関わり、登場人物はなおも待ち受ける何らかの希望に向かって移動する。これに対してマッカーシーの場合、世界が今破滅してあることへの説明は全くない。冒頭から私たちは何の説明もないままにこの世の終わりを彷徨う父と子に同行することを強いられる。この小説は過去との断絶、未来への展望の欠落においてきわめて独自である。少年がこのような崩壊の後に誕生したらしいこと、少年の母あるいは男の妻は彼らを見捨てて姿を消したらしいことが暗示されたパッセージがあるが、そのほかに過去に関する記述はない。さらに文体も独特である。章立てはなく、比較的短い無数のパラグラフが間隔をあけて淡々と続く。地の文の中に時折会話文が挿入されるが、いうまでもなくそのほとんどは父と子の会話である。
 かかる内容と文体が意味するものは何か。私は物語が常に現在に留め置かれることではないかと考える。今述べたとおり、この小説は神の視点で語られているにも関わらず、時間的なぶれがほとんどない。あまりにも過酷な現実が現在から視点を移すことを許さないかのようである。語り手の視線は常に二人の上に留められている。二人を介すことなくいかなる情報ももたらされることはない。きわめてストイックな説話構造を介して、読み手たる私たちは登場人物の二人に限りなく同化していく。この小説を読む際の異様な切迫感、焦燥感もこの点に由来する。通常の小説であれば、私たちは小説を読む前から登場人物をめぐる様々な情報を得ており、物語の行方、登場人物たちの未来についてもある程度、予想することが可能である。これに対して、『ザ・ロード』において私たちは困難な旅を続ける二人と同じ状況に置かれる。二人は偶然に手つかずの食糧貯蔵庫を発見し、生活用品や衣服も手に入れる。しかし彼らの唯一の行動指針は移動を続けることであり、カートに詰め込めるだけの食糧と日用品を積み込むと彼らは追われるように旅立つ。迫り来る冬から逃れるためとはいえ、かかる設定はケルアック同様、移動こそが作品の主題である点を暗示している。読み手は移動する登場人物と周囲との関係をリアルタイムに把握することを強いられる。文学史上類例のない切迫した物語の先行例として私は例えば『野生の棕櫚』におけるフォークナーを連想した。フォークナー、ケルアックそしてマッカーシー。かかる特質をアメリカという土地と関連づけることは強引だろうか。かつて宮川淳は「記憶と現在」というエッセーの中で、アクション・ペインティングからミニマル・アートにいたる戦後アメリカ美術の系譜を「プロテスタンティズム」と「現在性」という視点から説得的に分析した。宮川によれば記憶と歴史にとらわれたヨーロッパの近代美術に対して、記憶を否定し、現在を無限に反復するアメリカの現代美術は広漠たる空間の国において初めて可能な表現であった。同様の対照は文学においても指摘することが可能ではないか。記憶と希望のいずれからも切断され、ひたすら現在に直面する父と子の道行きは、一片のマドレーヌから母を追想する甘美な物語の対極にある。
by gravity97 | 2008-07-17 21:28 | 海外文学 | Comments(0)

ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』

 河出書房新社の世界文学全集の劈頭を飾り、新訳が刊行されたことを契機にジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』を読む。存在を意識しながらも読まずにいたという小説がある。かつての『路上』もそのような一冊であった。今回が初読なので、翻訳を比較することはできないが、青山南の今回の新訳は内容に見合った疾走感がある。
ニューヨークからサンフランシスコ、デンヴァーからメキシコ・シティへ、本書はサルことサルヴァドーレ・パラダイスとディーンことディーン・モリアーティの二人の間断なき移動の記録である。『西遊記』から『日輪の翼』まで移動を主題とした物語を私たちはたやすく想起できるし、アメリカ文学であれば例えば『怒りの葡萄』のごとき、偉大な先行例が存在する。しかし『オン・ザ・ロード』が異例であるのは、この移動が天竺や皇居、カリフォルニアのごとき目的地をもたないことである。ある時はヒッチハイク、ある時は車を送り届けるために、彼らはアメリカを何度も横断し、縦断する。
 セックスやドラッグといった主題が頻出するこの小説がビートニクと呼ばれる世代にとって一つの規範を提示することは容易に理解できるが、世代を超えて半世紀後に読んでも魅力が褪せることがないのは、この小説の「反抗」が単に権威や社会だけでなく、文学という制度そのものに関わっているからであるように思われる。つまり、小説とは初めと中と終わりがあり、その中で何事かが語りb0138838_21325982.jpg終えられるという暗黙の前提に対して、ひたすら移動と通過を繰り返すこの小説にあって、中心となる事件やクライマックスは存在しない。小説が基本的に時間的な構造を有しているのに対して、『オン・ザ・ロード』は空間性をその原理としている。同様にクライマックスを否定する姿勢を私たちは例えばフランスの現代小説が共有していたことを知っている。しかし貧血のようなヌーヴォー・ロマンと比べて断然こちらの方が「いいね!いいね!」
 読み始めるや直ちに同じような背景と構造をもった作品として、デニス・ホッパーの『イージー・ライダー』が想起された。しかしこの映画が最後のシーンで説話論的な構造を完結させるのに対して、サルとディーンは物語にいかなる痕跡も残すことなく、走り去っていく。1957年に発表された本書が、その10年以上後に制作されたアメリカン・ニューシネマの代表作よりはるかに革新的なゆえんである。
by gravity97 | 2008-05-04 21:33 | 海外文学 | Comments(0)