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b0138838_7525619.jpg サルマン・ルシュディが1995年に発表した小説がこのたび翻訳された。(これまで作家名はラシュディと表記されていたが、今回より改められている。その事情については訳者解説の冒頭部を参照されたい)最初に邦訳された『真夜中の子供たち』を随分前に読んで、私はこのインド出身の作家の才能に驚愕した。それ以来翻訳された長編をほぼ全て読み継いできたが、ルシュディの長編を通読するためには常に時間と集中力が必要である。
 これもまた相当に手ごわい小説である。一例を挙げよう。この小説は次のような一文によって始まる。「アンダルシアの山村ベネンヘリに聳える、ヴァスコ・ミランダの血も凍るような狂気の城を脱出したときから数えて幾日経ったのか、分からなくなった」これ自体、意味のわかりにくい文章であるが、ここで唯一言及される人物ヴァスコ・ミランダなる人物が物語の中に正式に登場するのはなんと頁にして150頁、物語の三分の一が語り終えられた後なのである。次々に脈絡もなく新しい人物やらエピソードが語られ、読み進めるうちにそれらの登場人物や逸話の関係がおぼろげに明らかとなる。しかしヴァスコ・ミランダの例にみられるとおり、物語は思いがけぬところで結びつき、入り組んだフラッシュバックとフラッシュフォワードは説話上の効果をねらってというよりも、むしろ読者を混乱させるために重ねられるかのようだ。
 モラエス・ゾゴイビーという語り手によって語られる、きわめて錯綜したこの小説は一種の芸術家小説として読むことができる。芸術家とはモラエスの母、インドの現代美術において独自の位置を占める架空の画家、オローラ・ダ・ガマである。オローラがカッセルのドクメンタ、あるいはニューヨークのメアリー・ブーン・ギャラリーで作品を展示するといったエピソードは、オローラの作品に関するニュー・ペインティング風の記述を念頭におくならば微笑を誘う。そもそも小説のタイトルである「ムーア人の最後のため息」とはオローラが描いたモラエスとオローラの肖像画であり(ムーアとはモラエスの通称)、数奇な運命をたどったこの肖像画が物語全体の鍵を握ることとなる。オローラは絵の上に絵を重ねるパリンプセストという技法を用いて作品を制作するが、パリンプセストとは実にこの小説の隠喩でもある。そもそもモラエスの怪しげな出自たるやインド航路を発見したポルトガル人、ヴァスコ・ダ・ガマの末裔を母に、スペイン、アンダルシアのイスラム王朝最後の王の末裔を父とするものであり、主人公の中にいくつもの血統が重ね描きされているのである。語り手は一貫してモラエスであるが、語り自体も時間的な脈絡や一貫性を欠き、物語の上に物語が重ね描きされていくかのようである。
 このような構造を説明するためにひとまずこの物語を簡単に要約するが、あらかじめ知っていても楽しみを減じることはないだろう。この要約は必ずしも物語の継起と対応していないし、要約が意味をもたないほど錯綜した物語なのであるから。物語は四部構成で、最後の第四部のみ、やや短い。物語の舞台も第三部まではインドのボンベイ、第四部はスペイン、アンダルシアのベネンヘリという町であり、先に引用した冒頭の一文を想起するならば、この長大な小説が一種の円環を形成していることはたやすく理解されよう。「内輪もめの家」と題された第一部ではモラエスの眷族、特に母オローラの系統であるダ・ガマ一族をめぐる数々の奇怪なエピソードが三代に遡って語られる。巻頭に掲載された系図を参照するならば、これらのエピソードを追うことはさほど困難ではない。しかし主人公=語り手が登場する前に曽祖父や曾祖母、祖父や祖母とその係累のエピソードがいつ果てるともなく続く様子は通常の小説を読み慣れた読者には異様に感じられよう。もっとも先祖への何重にもわたる遡及、メインストーリーの遅延は『真夜中の子供たち』も同様であったと今になって思う。ゾゴイビーの先祖たちの過去の物語に語り手たるゾゴイビーの現在が重ねられることはいうまでもない。さらに彼らが生きた時代、例えばインド独立とロシア革命をめぐる狂騒やガンディーの「塩の行進」といった歴史的事件、シェークスピアやフォークナーからの引用までが重ね描きされ、全てはゾゴイビーの語りの中で濃密に溶け合う。私は以前よりルシュディのきわめて独特の語り口をどのように理解すればよいのか考えていたが、なるほどパリンプセスト(重ね描きされた羊皮紙)とはルシュディの語りの実に卓抜なメタファーである。時間を超え、現実と幻想の区別なく次々に描き込まれるエピソードはしばしば比されるマルケスとは全く異なった魔術的レアリズムの効果、つまり物語の異常なまでの密度を形成するように感じられる。ダ・ガマ一族の奇矯な歴史、そしてオローラと父エイブラハム・ゾゴイビーの不幸な恋の顛末が語られる第一部に続いて、第二部の冒頭でようやく語り手たるモラエス・ゾゴイビーが誕生する。右手に障害をもち、しかも謎のキノコ売りの老婆から常人の二倍の速さで成長するという呪いをかけられたモラエスの半生の記述においてはメインプロットとサブプロットは分かちがたく結びつき、次々に新たな物語が重ね描きされていく。母オローラと父エイブラハム、あるいは姉たちとの確執、あるいはメーンダック(蛙)と呼ばれる政治漫画家フィールディングに統率され、ゾゴイビー財閥と対立する「ムンバイ(=ボンベイ)枢軸」なる排他的な政党の台頭。そしてモラエスと結ばれるウマ・サラスヴァティという宿命の女性の登場。ウマはゾゴイビー一族に次第に入り込み、近親姦を暗示させる奸計によってモラエスを廃嫡に追い込んだ後、自殺を図る。モラエスがウマ殺害の容疑で逮捕された場面で第二部は終わる。続く第三部においてモラエスはブリキ人間サミー・ハザレや「五本かじりのチャガン」といった奇怪な面々と共に「ムンバイ枢軸」のフールディングの用心棒として登場し、ゾゴイビー一族と対立する位置を占める。様々なエピソードが重ねられた後で、母オローラの死をめぐり、モラエスはある人物に復讐を果たすが、ほぼ同時にボンベイ全体を爆弾テロが襲い、登場人物の多くが爆死したことが暗示される。パキスタンの現代史を同様の魔術的レアリズムで描いた長編『恥』においてもラシュディは最後の場面に大きな爆発のカタストロフを置き、パキスタンによる核開発、核実験の暗示であるという解釈がなされてきたが、『ムーア人の最後のため息』における爆発はその規模や建造物、都市の破壊というモティーフにおいて明らかに9・11の同時多発テロを反映しているだろう。このようなカタストロフを生き延びたモラエスは第四章でヴァスコ・ミランダを追って、スペイン、アンダルシアに飛ぶ。作中で何度も言及されるボアブディルなる王がスペインのイスラム朝の最後の王であった(そしてボアブディルの末裔がエイブラハムである)ことを想起するならば、かかる場面転換には必然性があるが、そこにルシュディはもう一つのエピソードを付け加える。すなわち作品のタイトルでもあり、盗まれたはずのオローラの代表作「ムーア人の最後のため息」がなぜかミランダの元にあり、この作品にオローラ殺害の真犯人が隠されているというのだ。「血も凍るような狂気の城」と表現されたミランダの居城にはもう一人の人物が監禁されていた。それはアオイ・ウエという絵画修復士の日本人女性である。おそらく源氏物語の葵上から名前が取られたこの女性は画面の下に覆い隠されている真犯人を明らかにするため重ね描きされた絵具を剥離する作業を強要されていた。一方、モラエスもまた監禁されて一族の物語を書き残すことを強要される。したがってミランダの脅迫のもと、スティーヴン・キングの『ミザリー』のごとき状況で書かれたモラエスの物語が、自分が今読み進める小説そのものであることを読者は最後の章で理解する。重ね描きされた絵画から余分な絵具を削り取るアオイ・ウエの作業と、物語の上に物語を重ね描きしていくモラエスの執筆が対照的であることは興味深い。あえて結末と真犯人には触れないが、このようにかなり強引に単純化した要約からもこの小説が実に豊かな混沌をはらんでいる点は想像していただけるだろう。
 最初に述べたとおり、本書は決して読みやすい小説ではないが、芸術家小説の名に恥じず、文学のみならず芸術という営みに深い示唆を与える。この小説ではオローラの描く絵画が重要な役割を果たし、オローラが描いた絵画についての記述も多い。ところで一般に絵画は空間芸術、小説は時間芸術と考えられてきた。モネでもピカソでもよい、重ねられる絵具(まさにパリンブセストだ)はその下に描かれたイメージを覆い、私たちは常に最終的な絵画の相しか見ることができない。例外的にポロックの絵画は制作の過程をある程度最終的な画面に反映させており、この点をロバート・モリスは高く評価した。しかし原理的に絵画は過程、つまり時間を内包することが困難である。一方、小説は初め、中、終わりという時間的な構造をもち、(一部の実験的な詩や小説を除いて)視覚的、空間的な構造を獲得しえない。この時、『真夜中の子供たち』や『悪魔の詩』においても認められ、『ムーア人の最後のため息』においては形式のみならず主題として顕在化するパリンプセストという手法は文学と絵画を媒介する手段と考えることができるのではなかろうか。異なった時間と何人もの語り手、多様な事件が幾重にも折り重ねられた厚み、通常ではありえないこのような錯綜を私たちはゾゴイビーの語りをとおして透かし見る。それは一つの物語の中に複数の時間や場所、人物や事件が同時に共存するという奇跡に立ち会うことなのだ。
by gravity97 | 2011-05-01 07:56 | 海外文学 | Comments(0)

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 久しぶりにバルガス=リョサの作品を読んで、いつもながらの感銘を受ける。これもまた実にみごとな小説である。疑いなく今後、バルガス=リョサの代表作の一つに数えられることとなろう。
 物語の舞台はカリブ海に浮かぶ島国ドミニカ。20世紀中盤に実質的にこの国を支配し、「総統」、「大元帥」、「祖国の恩人」などと呼ばれた独裁者トゥルヒーリョが主人公である。1930年にクーデターを起こし、全権を掌握したトゥルヒーリョは個人崇拝を徹底し、秘密警察を駆使して中央アメリカにおいて最も堅固な独裁国家を樹立する。本書の中で明らかとされるようにこの過程でトゥルヒーリョは農園労働者のストライキに際して領内のハイチ人の大虐殺を行い、一族の経営する企業に富が集中するシステムを構築する。傀儡を大統領に据えて富と権勢をほしいままに残忍な統治を続けるトゥルヒーリョは次第に国民の反発を買い、1961年に暗殺される。今回、本書を読み進める中で関心が生じて、ドミニカ共和国の歴史を調べてみた。当然であるが、ここに描かれた事件は全て事実であり、この意味においてこの小説の内容には作家の創意を加える余地がない。この点はブラジルにおけるカヌードスの反乱を描いた傑作長編『世界終末戦争』(原著は1981年に発表。昨年のバルガス=リョサのノーベル賞受賞を受けて最近新潮社から翻訳が復刊された。是非併読されたい)と共通している。バルガス=リョサは実在の人物と架空の人物を巧妙に織り交ぜて、現実を超えた現実を創造する。今述べたとおり一種の歴史小説であるから、事実という枷から自由にはなりえないが、バルガス=リョサは得意とする多層的な語りによって事実に圧倒的な奥行きを与える。『チボの狂宴』の場合は次のような語りだ。24章から構成されるこの物語は途中まで章ごとに三つの視点が規則正しく交代する。このような手法は村上春樹の『1Q84』のBOOK 3を連想させないでもないが、バルガス=リョサの場合はもっと手が込んでいる。三つの視点とは、まずトゥルヒーリョに献身的に仕えながらもある時期より理由もなく疎んじられ、失意のうちに病に倒れ老残を晒す上院議員アウグスティン・カプラルの娘、ウラニアの視点。続いて独裁者トゥルヒーリョの視点。そしてトゥルヒーリョの暗殺を企て、車の中で待ち伏せする男たちの視点である。もっともこの小説の場合、話者に視点が限定されている訳ではない。彼らとは別に全能の話者も介入して物語を牽引する。いつもながらこの構成がきわめて巧みなのだ。冒頭のウラニアの章は物語の核となるトゥルヒーリョ暗殺から、話者においても時間においても最も離れているため、最初、読者は物語との距離を測りかねる。第2章においては老いたトゥルヒーリョの日常が描かれる。第3章に入るといきなり読者は狭い車の中で独裁者を待ち伏せする男たちの会話に加わる。この三つの章を通読しただけで物語が絶妙の濃淡、緩急のぶれによって律されていることが理解されよう。独裁者暗殺という物語の核心は早い段階で明らかにされながらも、物語は時にそこから離れ、時に事件の現場へと立ち戻り、時間的にも錯綜したままめまぐるしく推移する。この過程で物語の背景、トゥルヒーリョがアッベス・ガルシアという秘密警察の長官に命じて行った残酷な弾圧、あるいは敵に慈悲深い恩赦を与える一方で部下にいわれなき罰を与えるトゥルヒーリョの巧みな人心収攬のエピソードが語られる。そして物語を読み進める中で自然にいくつもの謎が浮かび上がる。なぜウラニアは父を見捨ててニューヨークに旅立ち、それ以来、一度もドミニカに戻らなかったのか。トゥルヒーリョによって翻弄される人物のうち、誰が彼を裏切り、誰が彼を継ぐことになるのか。物語の核心と深く関わるこれらの謎に対する回答は次第に明らかにされる。特に最初の章と最後の章の対照はみごとだ。最初はばらばらに提示される人名、意味ありげにほのめかされる事件が小説を読み進めるにつれて、次第に収まるべき位置に収まり、巨大な歴史壁画の完成に立ち会う興奮はバルガス=リョサの小説を読むいつもながらの醍醐味である。
 冒頭で既に暗示されているとおり、暗殺は成功し、独裁者は除かれる。しかし物語はハッピーエンドからは程遠い。それどころか独裁者の死によってさらなる暴虐と残虐な拷問の嵐が吹き荒れる。このあたりの描写が現実をどの程度反映しているかはわからないし、知りたくもない気がする。血を血で洗う無意味な暴力の連鎖から私は北野武の「アウトレイジ」を連想した。革命の後に凄惨な暴力が吹き荒れることを私たちは例えばフランス革命に学んだ。独裁者が除かれたにもかかわらず、いや除かれたことによって一つの国家がさらなる混沌の中に呑みこまれるという非劇は、冒頭の章に書きつけられたトゥルヒーリョ時代を懐古する言葉の中に暗示されているのだ。それは民主政治と無縁なラテン・アメリカの歴史という主題と密接に関わっている。周知のごとく、バルガス=リョサはかつてペルーの大統領選に出馬したことがある。この際に、決選投票でバルガス=リョサを破ったアルベルト・フジモリが後に日本大使公邸人質事件の際にとった強権的な解決を想起する時、この小説で描かれた事件は決して現在と無縁でない。この小説は権謀術数とマキアヴェリズムに彩られたラテン・アメリカの政治の本質を一種のカリカチュアとして提示したといえるかもしれない。
 それにしてもラテン・アメリカ文学には独裁者小説という他に類例のないジャンルが存在するのではないだろうか。アストゥリアスの『大統領閣下』からマルケスの『族長の秋』まで、独裁者、将軍、大統領といった主人公を扱った小説に事欠かない。禿鷹たちが大統領府の窓という窓の金網を食い破り、そこから漂う死体の腐臭で全市民が目覚めたという印象的な冒頭で始まる『族長の秋』、あるいはマルケスの一連の独裁者小説が語りの中で一種の神話性を帯び、魔術的レアリズムと呼ばれる独特の余韻を残すのに対して、バルガス=リョサの独裁者小説は一貫してレアリズムに貫かれている。しかしバルガス=リョサの小説を単なる歴史小説から隔てるのは語りの形式に関する深い自覚と実験精神である。思い起こせば最初に邦訳が刊行された『緑の家』においても複数の語りが混在する独自の手法が用いられていた。密林や石器時代そのままの集落、そして奥地の娼館といった多様な舞台が交錯する物語にとってかかる語りはきわめて効果的であった。あるいは初期の『ラ・カテドラルでの対話』においてもペルーの腐敗した政権下の社会がやはり複雑な語りの中に浮かび上がったことも想起される。今にして思えば、錯綜した時間構造、腐敗した政権をめぐる父娘ならぬ父と息子の葛藤など、『ラ・カテドラルでの対話』は『チボの狂宴』と多くの共通点を有している。しかし両者を比較するならば物語のダイナミズムと語りの形式的な完成度においてバルガス=リョサの作家としての成熟は明らかである。
『チボの狂宴』は原著が2000年に発表された。10年の時を経て、私たちはバルガス=リョサの新作を読むことができた訳である。(実際には2003年の『楽園への道』が先んじて翻訳されている)そしてカルロス・フェンテスやホセ・ドノソをはじめ、バルガス=リョサも含めてラテン・アメリカ文学に関してはまだ未訳の大作、問題作が数多く残されている。今世紀に入っても私たちはこの新大陸から届けられる文学の果実を楽しみ続けることができそうである。
by gravity97 | 2011-02-07 13:51 | 海外文学 | Comments(0)

 『失われた時を求めて』については既に何度かこのブログでも触れた。この大著の翻訳をめぐって、昨年いくつかの動きがあった。11月に吉川一義の新訳による岩波文庫版全14巻の刊行が開始され、それより少し早く光文社古典新訳文庫からも高遠弘美の手で全巻訳し下ろしの初巻が刊行された。この機会に再読したいとも考えているのだが、いずれの翻訳も全巻完結までにしばらくの時間が必要とされるだろうし、読み始めたら最後、ほかの本が読めなくなってしまうことも懸念され、新訳を手に取るにはいたっていない。やはり留学か長い海外出張の折に携えるのがよいかもしれない。代わりにプルーストを読む楽しみを語った格調高いエッセーを読む。
 この大長編については私なりに思うところも多いが、もちろんフランス語で味読する能力はないし、小説のテーマについて論じようにもあまりにも長大かつ豊饒な内容であるため、整理することが難しい。この時、フランス文学の碩学にして実際にプルーストの翻訳者でもある筆者が語る読書の喜びはまことに適切な導きであるように感じられる。例えば「水中花のように」と題された第二章で筆者は有名なプチ・マドレーヌの挿話に即しながら、そこでフランス語における時制が巧みに使い分けられ、具体的には過去形と現在形を混在させつつその緩衝として不定法動詞を配すといった巧みな構文によって情景が生き生きと浮かび上がるさまが説得的に説明される。翻訳では必ずしも判然としない原語のニュアンスについて私たちは多くを知ることができる。もちろん作品に即して文法を学ぶことが目的ではなく、この豊かな小説が周到な形式的配慮の上にも成り立っていることを私たちはあらためて了解するのである。
 『失われた時を求めて』同様、本書も読みどころが多い。例えば吉田秀和に捧げられた第三章ではこの小説の中で音楽という主題がいかに描出されているか、実に丹念に論じられている。もちろん筆者も論じるとおり、音楽という、本来的に言語化することが困難な対象をプルーストがこの小説の中で精彩に富んだ言葉を用いて表象していることもみごとなのであるが、この長い小説の随所に現れる音楽のモティーフがいかに登場人物の内面と関わっているかを論じる保苅の分析も素晴らしい。保苅の文章をとおしてヴェルデュラン夫人の夜会で聞いたソナタの一楽節は登場人物の一人、スワンにとって愛人オデットとの官能的な記憶、そして恋の苦しみと深く結びついていること、音楽的記憶が浮かび上がるのだ。確かに私たちも偶然聞いた音楽によって様々な感情がよみがえる体験を味わうことがある。記憶の回帰を一つの主題とするこの小説の中でプルーストはプチ・マドレーヌやヴェネツィアの舗石を契機として、このような回帰について幾度となく語る。長い小説を読み継ぐ中では往々にして読み過ごしてしまうこのような挿話相互の照応を筆者は音楽という主題に関してもみごとに探り当て、流麗な訳文とともに私たちに説明してくれる。
 以前このブログに記したとおり、ノルマンディーの海辺の町、バルベックに逗留する主人公のもとに、後の物語で主人公と恋仲になるアルベルチーヌという娘を含む「花咲く乙女たち」が姿を現すシーンは私にとってこの小説の中でも最も印象深いシーンである。「海と娘と薔薇の茂み」という章でこの情景に関する詳しい分析があることも嬉しい。私はこの情景がかくも強い喚起力を帯びていると感じるのは単に個人的な感慨かとも思っていたが、本書を読むとこの場面の表現がきわめて入念に構想されており、小説全体のテーマとも深く関わっていることが理解される。これほど長い小説であるにも関わらず、細部が全体のテーマと密接に照応し、しかも細部の表現がよく考え抜かれているのである。保苅が示す一例を引こう。「花咲く乙女たち」が最初に登場する際に、彼女たちの一団をプルーストはまずロングショットでとらえ、風景の中の「斑点」と記述する。この箇所から原著で30頁ほど進んだ箇所でプルーストは彼女たちの少女時代に思いを馳せ、同じ「斑点」という言葉を用いている。もちろんこのような言葉の一致は意識的であり、この二つの言葉の間には時の経過にともなう移ろいと同一性が暗示されているのである。さすがにここまで精緻な読解は保苅ほどのプルースト読みでなければできないだろうが、本書ではいたるところでこのような仕掛けや構想の妙がきわめて具体的に解き明かされるのだ。同じ著者には『プルースト・印象と隠喩』という研究があるが、この著作が学究的なプルースト研究としてやや硬い印象を与えたのに対して、本書ではタイトルのとおり、読書の喜びというテーマに沿って筆者も肩の力を抜き、しかしながら驚くべき観察力と綿密さでプルーストの大著を読み解いている。
 汽車や電話といったテーマを扱った章もプルーストの現代性を考えるうえで非常に興味深く感じられたが、本書の圧巻はやはり「死の舞踏」と題された最終章、『失われた時を求めて』においてもクライマックスであるゲルマント大公夫妻の邸宅におけるマチネを扱った章であろう。知られているとおり、この場面はこの長大な物語の最後に位置し、登場した人物たちが次々に集まってくる極めて印象的な箇所である。(余談であるが、私はこの箇所からいつもクロード・ルルーシュの「愛と哀しみのボレロ」の終幕を連想してしまう)それまでの物語の中でそれぞれに強い印象を与えた登場人物たちは皆一様に同じ相を刻まれている。それは老いである。時を主題とした小説にとって必然であろうか、彼らの多くは老残あるいは落魄という言葉がふさわしい。ゲルマント公爵、シャルリュス男爵。かつて権勢を誇った人物の現在は無残である。しかし老いとは万人にとって避けることができない。物語の語り手たる主人公もこの場で自分の老いを自覚したこと、老いという概念の抽象性について筆者は語る。老いの先にあるのが死であることはいうまでもない。しかしプルーストは最後の場面に死に抗する二つの希望を置く。一つはジルベルトとサン・ルーの娘、サン・ルー嬢である。うかつな話であるが、本書を読んで彼女がジルベルトの属すメゼグリーズ、サン・ルーの流れを汲むゲルマントという二つの流れの合一を体現する象徴的な存在であることに私は初めて気づいた。老醜無残な面々の中に唯一人香り立つような美しい娘の存在は確かに一つの希望である。富と名誉の結節点に位置するサン・ルー嬢はやがて名もない文学者を夫としてつつましい生活を送ることになる。ここには死に抗するもう一つの希望が暗示されている。それはいうまでもなく芸術である。フェルメールの絵の前で絶命するベルゴットの挿話を引きながら保苅は死に対抗する営みとして、プルーストが芸術を措定していることを示唆する。このような対照を念頭に置く時、私はこの長大な小説が本質において芸術家小説でありエルスチール、ヴァントゥイユそしてベルゴットといった登場人物を介して、美術が、音楽が、そして文学の本質が幾度となく物語の俎上に上げられることの意味をよりよく了解することができた。
 本書は文字どおり全編本を読むことの喜びに満ちている。幾度となく語られる(プルーストに限定されない)読書体験の楽しさは読書が好きな者にとっては誰しも共感される内容であろう。本書を通読するならば、もう一度最初から『失われた時を求めて』の頁を繰りたいという誘惑には抗しがたいものがある。思わずかつて読んだ巻を書架から取り出してみた。読み始めた日と読み終えた日を書き入れた覚えがある。読み始めたのは2004年1月17日、ほぼ7年前、厳寒のニューヨークであった。b0138838_20583133.jpg
by gravity97 | 2011-01-14 21:01 | 海外文学 | Comments(1)

b0138838_23264126.jpg 小説を読むことの愉しみをこころゆくまで堪能させてくれる作家。私にとってポール・オースターはそのような作家である。このブログでも取り上げた前作『幻影の書』はテーマ的に重すぎて、必ずしもオースターの本領が発揮された印象を受けなかったが、ニューヨークを舞台とした本書は紛れもなくオースターの傑作である。マンハッタンに舞台を限定した物語は初期のニューヨーク三部作以来久しぶりではないか。オースターとマンハッタン、クリスマス休暇にはうってつけの読み物であろう。
 オースターの初期作品には「エレガントな前衛」というキャッチコピーが付されていたように記憶する。オラクル・ナイト、神託の夜。本書もまた愛と不信をめぐるきわめてエレガントな物語である。本書ではオースターが得意とする物語内物語という手法が効果的に用いられている。主人公、シドニー・オアは大病から復帰したばかりの小説家である。彼と妻グレース、二人の共通の友人であるジョン・トラウズの三人が主な登場人物であるが、オアが書く小説や映画のシノプシス、あるいはトラウズが若き日に書いた寓話的小説などが作品内にいわば垂直に挿入されることによって物語は厚みを帯びる。
 オアはリハビリテーションを兼ねた散歩の途中、新しく開店したムーン・パレスならぬペーパー・パレスという文房具店でポルトガル製の青いノートを買い求める。この行為によって物語が起動し、文房具店主チャンもまた入り組んだかたちで物語に関わることとなる。物語自体も入り組んでいる。オアは青いノートに退院後初めての小説を書き始める。オアの小説、編集者ニック・ボウエンをめぐる物語の中に登場し、ボウエンの運命を変えることとなる小説のタイトルもまた『オラクル・ナイト』である。『オラクル・ナイト』の作者シルヴィア・マックスウェルの子孫であり、ボウエンのもとに原稿を届けたローザ・レイトマンなる女性に一瞬にして魅惑されたボウエンは妻イーヴァを置き去りにして奇妙な失踪を遂げる。イーヴァの造形にグレースの面影が深く関与していることからも理解されるとおり、オアとグレース、ボウエンとイーヴァという二組の夫婦は小説の中でパラレルな関係にある。さらにオアがボビー・ハンターというハリウッドの映画監督に依頼されて執筆するH.G.ウエルズの『タイム・マシン』の翻案、ボウエンの物語の中に登場する『オラクル・ナイト』、そしてトラウズが自らの若書きとしてオアに手渡す「骨の帝国」という政治的寓話。この小説の中にはいくつもの別の小説が重層的に織り込まれ、物語の奥行きをかたちづくっている。興味深いことにオアの物語の中に挿入されるこれらの物語はいずれも完結することがない。『タイム・マシン』の翻案は最終的に採用されず、「骨の帝国」の原稿にいたっては満員電車の雑踏の中に置き去りにされる。ニック・ボウエンをめぐる「架空の」物語における名前の喪失あるいは監禁といった主題はオースターの「現実の」小説である『幽霊たち』や『偶然の音楽』を連想させるが、ボウエンの物語はきわめて印象的な場面で中断され、再開されることはない。個人的にはオアの物語以上にボウエンの物語の帰結を見届けたいようにさえ感じた。過剰とも思われる物語の錯綜は何を意味しているだろうか。私の考えではそれは語ることへの希望である。オースターの場合、作家が主人公という小説が多く、いずれも彼らが何かを書き始めることによって物語は幕を開ける。いうまでもなくオアもまたオースターによって書き留められた人物である。あなたが読んでいるポール・オースターという現実の作家の小説『オラクル・ナイト』の主人公オアは別の小説の主人公ボウエンを創造する。そしてボウエンもまた『オラクル・ナイト』という別の小説の読み手なのである。このようなチャイニーズ・ボックスの構造は次のような可能性を暗示するのではなかろうか。私たちはオースターという作家を現実の存在と考え、オアをオースターによって創造された人物とみなす。なぜならオースターとオアは審級が異なるからだ。(ちなみにオアとともに小説中の「架空の」登場人物であるトラウズ Trause の名はオースター Auster のアナグラムである)同様の比較はオアに対するボウエン、あるいはオアと彼が翻案した『タイム・マシン』中のジャックとジルという人物に対しても可能であろう。『オラクル・ナイト』の構造はこのような関係が無限に連鎖しうることを示唆している。この時、読者である私たちが最上の審級にあることは果たして保証されているのか。私たちもまた物語中の人物ではないのか。むろん全ての物語内物語にはこのような問いかけが内包されている。しかしオースターほど優雅にかかる存在論的な問いを投げかける作家を私は知らない。ひるがえって考えるならば、シドニー・オア、あるいはニック・ボウエンはそれぞれオースターとオアが小説を書くことによって初めて存在する。人は語ることによって存在し、語ることによって生きるのである、私が語ることを希望と呼ぶのはこのような理由による。語ることはいかにして可能か、この問いはモダニズムの文学において絶えず問われ、書簡体小説や意識の流れといった多様な技巧が編み出されてきた。「エレガントな前衛」という名のとおり、かかる問題意識を共有する点においてオースターはモダニズム文学の系譜に連なるとともに、この難問をみずみずしい物語の魅力によって軽々と超えてみせる。小説中に子供の溺死を扱った長編詩を発表し、その詩のとおりに自分の子供が海で溺死したことを嘆き、豊かな才能に封印するフランスの詩人のエピソードが登場する。ここで言葉は単に事物を指し示すだけではなく、出来事を起こす力としてとらえられている。言葉が現実を模倣するのではなく、現実が言葉を模倣するのだ。オースターの描くチャイニーズ・ボックス、物語の中の物語にとらえられた読者は、通常であれば一笑に付してしまうであろうかかる魔術的な言語観をなんら違和感なく受け入れるだろう。
 ところで注意深く読むならば2003年に発表された『オラクル・ナイト』に描かれた事件は具体的な年記を伴っている。物語が始まる日、オアがチャンの店に立ち寄る日は1982年9月18日と特定されている。この年、オースターによる最初の小説『孤独の発明』が発表されたことは偶然ではないはずだ。先に述べたとおり、オースターは注意深く主人公のオアではなく友人のトラウズに自分の分身としての役割を与えた。しかし明らかにオアこそがオースターの分身であり、本書は書くことをめぐるオースターの葛藤の記録と読めないこともない。最初に『オラクル・ナイト』は愛と不信をめぐるエレガントな物語であると述べたが、終盤に立て続けに悲劇的な事件が発生し、物語は一つのカタストロフを迎える。そして真実は明らかとされないまま、オアはそもそもの物語の発端である青いノートを破棄する。しかし物語の結末には静かな明るさが満ちているように感じられる。読み終えた時、私たちはオアが再び新しいノートに向かって小説を書き始めることを確信するだろう。そしてこの時、私たちは語ることへの希望をオア、そしてオースターと確かに共有するのである。
by gravity97 | 2010-12-15 23:27 | 海外文学 | Comments(0)

 
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 このところ、仕事の合間、あるいは恐るべき『メイスン&ディクスン』を読み疲れた時など、ちくま文庫で全三巻にまとめられた「カフカ・セレクション」を少しずつ読み進めることが日課になっている。私はカフカの作品については大半を読んだつもりでいたが、今回、この選集に出会ったことによってカフカの小説に対する印象が大きく変わった。もとよりカフカの文学について論じることは私の手に余るが、この選集を読んで感じたいくつかの所感を書き留めておくことにする。
 周知のごとく、カフカには『城』『審判』『失踪者』という三つの長編があるが、この選集の中にはこれ以外の中篇、短編さらには未完の草稿、断片がほぼ網羅されているという。カフカの短編についてはこれまでも様々な機会に紹介されてきたから、ことさらに珍しい作品や重要な作品が紹介されている訳ではない。それぞれの巻に対しては「時空/認知」、「運動/拘束」、「異形/寓意」という三つのテーマが編者の平野嘉彦によって設定されている。いずれもすぐれてカフカ的な主題であることがただちに了解されよう。収録される作品の選定は平野によってなされ、巻ごとに平野を含めた三人の訳者によって新たに訳し下ろされている。この選集のユニークさは端的に作品の配列に求められる。いずれの巻においても作品は短いテクストから長いテクストへ、長さを唯一の基準として機械的に配列されているのだ。この結果いずれの巻も断章のごとき短いテクストで始まり、巻末近くに「ある戦いの記」「流刑地にて」「変身」といったよく知られた中篇が配置されている。
  このような異例の配列によって、文学研究において重視される二つの前提が無効化される。一つは作品相互の時間的な関係だ。本選集においてカフカの小説はまずテーマごとに分類され、次いで長さを基準に配置されることによって二重の意味で時間的な脈絡を失う。私たちは一人の小説家が時間の経過の中、自らの体験に基づいて世界観や文学観を深め、さらに深遠なテーマに挑むという発想になじんでいる。みずみずしい処女作『貧しき人々』で文壇にデビューし、シベリア流刑といった過酷な体験の末、最晩年に『カラマーゾフの兄弟』という傑作を遺したドストエフスキーはこのような作家―作品モデルの理想であり、このような作家主義的、歴史主義的な発想は19世紀文学とその批評には適応していた。これに対して作品を短い順に並べるという機械的な配列は作家の成長や作品の深化といった理解を拒絶する。そしてもう一つは「作品」そのものの成立と関わる。周知のとおり、カフカが残した原稿には断章や未定稿が多く、何をもって一篇の作品とするかは議論が分かれるところである。私はカフカの専門家ではないので収録された作品の成否については何も述べる立場にないが、1頁に満たない断章あるいは箴言風のパッセージから、比較的知られた中篇まで、長さに応じて滑らかに配置された時、私たちは中篇と短編、さらにいえば作品と非作品との間に線引きをすることがほとんど不可能であることに気づく。つまり作品研究において前提とされる「作品」の輪郭がきわめて不確定なのである。
 しかしかかる特殊な構成によって、逆にカフカの生前に刊行された短編集をそのまま通読していても得ることのできなかった多くの発見がもたらされ、彼の小説の特質が明らかになるように思われる。最初に述べたとおり、本選集には断章に近い多くの文章が掲載されている。タイトルが与えられている場合はタイトルが、与えられていない場合は冒頭の文章を〔 〕内に引用することによってそれぞれのテクストは区別されている。しかしそれぞれの巻の最初に収められた短いテクストと巻末に位置する中篇の間に本質的な差異は果して認められるだろうか。この点は小説の成立と関わるきわめて微妙な問題である。確かにいくつかの短いテクストはより長いテクストと関連を結ぶ場合があるから、習作もしくは下書きといった意味をもつかもしれない。実際に私はこの中に収められた比較的長いテクストの中に、『変身』のプロトタイプとも呼ぶべきイメージが挿入されていることに気づいた。しかしおそらくカフカのテクストの本質はこのような予定調和的な理解の対極にある。第一巻のあとがきで平野はカフカがノートに書きつけた「庭仕事、見通しのなさ」という謎めいた一句について論じているが、確かに明晰さと不合理がそのまま結びついたようなこの一句はカフカの全ての作品につながる奇妙な味わいがある。短いテクストから長いテクストへという配列はこの点できわめて示唆的だ。つまり読み進めるにしたがってある漠然としたテーマをめぐって繰り返されるカフカの思考のエッセンスのごときものが浮かび上がってくるのだ。それは名指すことがきわめて困難であり、まさにカフカの文章の魅力にほかならない。しかもかかるエッセンスは場合によっては短い文章にくっきりと示されることもあるのだ。別の言い方をするならば、カフカの小説は始まり、中盤、終わりという物語的な結構を欠いている。つまりどこから入ってもそれなりに面白く読める。(この点でザムザの変身と死という起点と終点をもつ『変身』はむしろ例外的な小説であるかもしれない)カフカの小説はいわば反物語なのであるが、同じ立場を標榜するヌーヴォー・ロマンを読み進めることがほとんど苦痛に近い体験であるのに比べて、カフカは読むことが楽しい。細部がきわめて精彩に富むのだ。
b0138838_200167.jpg いさかさ飛躍するようであるが、カフカの小説を現代美術に特有の一つの構造と比較することはできないだろうか。伝統的な美術作品においては部分と全体が調和的な関係を結んでいる。部分が一つでも欠けると、全体は損なわれ、全体に手を加えると部分との関係が損なわれる。古典的な絵画はこのような揺るがせなさを誇示し、同様の特質をアルベルティは建築について語っていた。これに対してノン・リレーショナルと呼ばれるジャクソン・ポロックの絵画、ドナルド・ジャッドの立体の構造はこのような調和を欠いている。極言するならば、それらはどこで分割されても、さらに部分が付け加えられたとしても基本的な作品構造は変わらない。カフカの場合も断章であろうと中篇であろうと、物語の強度はさほど変わらない。この点は長短とは無関係に作品が同様の構造を保持している点を示唆しているのではなかろうか。このような構造をもつ小説を私はほとんど知らない。カフカの小説の魅力とは全体に還元されない部分の魅力であり、断片や断章、未完のテクストがかくも心を惹きつける理由もこれによって説明ができよう。『城』のごとき長編に関しても、このような観点からの分析があってよいかもしれない。
by gravity97 | 2010-08-26 20:13 | 海外文学 | Comments(0)

 これはまぎれもない傑作である。ただし本書は誰もが気楽に読める小説ではない。それどころか多くの者が思わず眉をひそめる内容であろう。
 具体的な年と地名についても言及があるが、舞台は19世紀中盤、開拓時代のアメリカ中西部。名前を与えられない主人公、「少年」は14歳で家出をした後、各地を放浪し、ならず者たちと渡り合う。物乞いと盗み、刃傷沙汰と暴力の果てに、「少年」はグラントン大尉という無頼漢を頭目としたインディアン討伐の頭皮狩り隊に加わり、インディアンたちの殺戮を続ける。頭皮狩り隊とはその名のとおり、殺したインディアンの頭皮を剥ぎ取り、その数に応じて報酬を受け取るという残虐無残な部隊である。グラントンをはじめ、人間性の片鱗もうかがえぬ男たちは灼熱の太陽のもと、暴力と退廃が支配する砂漠地帯を転進する。殺戮の合間に報酬を求めて立ち寄った町でも彼らは殺人や略奪、強姦に明け暮れ、悪疫のごとく忌み嫌われる。しかし彼らだけが暴力に染まっている訳ではない。インディアンたちも白人たちを襲撃して残忍に殺戮する。実際にグラントンたちも襲撃を受け、隊員や斥候として随行するデラウェア族のインディアンらが次々と惨殺される。それにしても悪夢のような道行きだ。胸の悪くなるような殺戮の応酬。ここに書くこともはばかられるほどグロテスクなエピソードが延々と続く。ここには『サンクチュアリ』において「自分が想像しうる最も恐ろしい物語を描こうとした」フォークナーの遠い残響がうかがえるかもしれない。
 かくも無残な物語がなぜ傑作なのか。それはこの小説が虚無という主題に明確な言葉を与えているからだ。私たちは世界に意味がないという事実に耐えられない。私たちの生、人間という存在、歴史という営み、私たちはこれらがなにかしらの意味をもつと信じている。逆にいえばその意味を探求するために文学や美術が存在するのではなかろうか。この小説はこのような前提をあっさりと否定する。冒頭から巻末までひたすら繰り返される非道な行為の数々、それは私たちが世界の意味の枠組とみなしてきた例えば神、あるいはヒューマニズムといった超越した理念の破綻をあからさまに示している。この点をドストエフスキーと比較してみよう。『カラマーゾフの兄弟』においても次兄イワンが三男アリョーシャにトルコ兵が幼児に対して働く蛮行の数々を語る。神が存在するにも関わらず、なぜこのような所業が許されるのか。イワンが提起するのは神への懐疑である。しかしイワン/大審問官がとる反キリストという立場は、逆にいえばキリスト=神を拒絶することによってその存在を認めている。したがってそのような不条理が存在するにも関わらず神を信じること、正確には神を信じる自由を担保することは逆説的にも熱烈な信仰告白たりえたのである。しかしもはや私たちにそのような楽天的な思考は許されないことをこの苛酷な小説は教える。
 『ザ・ロード』同様、この小説でも特異な叙述形式がとられている。登場人物に関してほとんど内面描写がなされず、会話も全て地の文の中に織り込まれている。一文が異様に長く、視覚的にリアルでありながら行為の主体が不明確な詰屈した翻訳は明らかに原文の文体を反映しているだろう。マッカーシーの文体の異常さに触れたければ、巻末の一頁に満たぬ「エピローグ」を一読することを勧める。物語の内容とは直接の関係をもたないからこのパッセージだけ読んでも読書の愉しみを減じることはない。(そもそも巻末にかかるエピローグが置かれていること自体も異様なのであるが)私はこれまでかくもいびつな文章を読んだことがないが、逆にこの小説の魅力の大半、そしてかくも困難な主題への取り組みを可能にした条件はこのような異常な文体に求められる。風景も人物も行為も発話も均質化された語りの中では人間も語られる風景の一部と化し、特権的な位置を与えられることがない。この点は今述べたヒューマニズムの破産と深く関わっているだろう。「少年」はこの小説を最初から最後まで見届けるが、決して物語の語り手といった役回りではない。そもそも彼の内面は最後まで私たちに閉ざされている。世界はいわば登場人物たちと無関係に存在し、人物は前景化されることなく、出来事の継起のみが淡々とつづられる。内面描写がなされないため、読者はいずれの登場人物にも焦点化することができないが、一人だけ圧倒的な存在感を与える人物が登場する。眉毛も睫毛もない禿頭の巨漢、「判事」である。グラントンに帯同し、平然とインディアンを殺戮する「判事」はいくつもの外国語に通じ、深い学識をもち、ダンスや楽器の名手でもある。「判事」は殺戮の道すがらグラントンの部下たちに奇怪な寓話や倫理観を語って煙に巻く。彼はアパッチ族を虐殺した後、生き残りの小さな男の子を自分の鞍に乗せて連れ去り、数日間面倒をみた後、思いついたように殺してはその頭皮を剥ぐ。この物語においては生も死も何の意味ももたない。あとがきの中で翻訳者の黒原敏行は「判事」を『闇の奥』に登場するクルツと対比させていたが、学知(外国語の習熟あるいは土器や骨角器への関心)と芸術的才能(楽器の扱いや素描の技術)が残虐な行為、非人間的な精神となんら矛盾することなく同居する「判事」という存在は、近代以降の人間の在り方の暗喩かもしれず、あるいはこのブログで何度か取り上げたアドルノ的アポリアの表象かもしれない。
 「世界は意味もなければ不条理でもない。ただ単にそこに『ある』だけである」と記したのはアラン・ロブ=グリエであった。ロブ=グリエが無機的なヌーヴォー・ロマンに託した認識をマッカーシーはこの凄惨な物語の中で別のかたちで開陳する。古生物の風化した大腿骨を発見した「判事」は「この骨に神秘的なところなど何もない」と断言し、怪訝な顔の兵士たちに「この世に神秘などないということこそ神秘的である」と説く。意味なき世界、神秘なき世界にあって小説を書くことはいかなる意味をもつか。そもそもそこで文学は可能か。殺伐とした内容にも関わらず、『ブラッド・メリディアン』は本質においてきわめて思弁的な、小説についての小説なのである。20世紀以降、同様の認識、つまり人間は世界の中心ではなく、ヒューマニズムはもはや失効したという発見が言語学から哲学にいたる様々な領域でパラダイム・シフトを引き起こした。ここで詳述することは控えるが、例えば現代美術においても私は非人間的な作品の連綿たる系譜を直ちに想起することができる。(非人間的というのは人間性に反するという意味ではなく、人間とは無関係に存在するという意味である)文学の領域ではひとまずバタイユの名前を挙げることができようか。しかしバタイユと比してもこの小説が圧倒的に優れている点はこのような認識をその内容のみならず、形式、つまり独特の文体において実現している点である。
 b0138838_1045235.jpgタイトルのメリディアンとは子午線の意味であるが、あとがきで黒原は『ツァラトゥストラはかく語りき』を引きながらニーチェ的な絶頂という含意を読み取っている。最初に本書の主題は虚無であると論じたが、ニーチェとの暗合はなんとも示唆的である。物語の中でも一箇所、この言葉が言及されている。野営地の焚火のかたわらで、無辜の者を殺戮する不気味な寓話を語った後、「判事」は次のように述べたうえでニーチェの永劫回帰に近似した思想を語る。「人間に関しては生命力の発現が最高潮に達する正午が夜の始まりの合図となる。人間の霊はその達成の頂点で燃え尽きる。人間の絶頂(メリディアン)は同時に黄昏でもあるんだ」ブラッド・メリディアン、血の絶頂。虚無の支配の暗喩、ヒューマニズムへのアンチ・テーゼとしてこれほど適切な言葉があるだろうか。
 最後に一言。さほど長い小説でもないが単純な誤植が目についた。これほどの作品に対して失礼であろう。出版業界全体の質的劣化を反映しているのでなければよいのだが。
by gravity97 | 2010-01-30 10:10 | 海外文学 | Comments(0)

b0138838_21145765.jpg スティーヴ・エリクソンが2005年に発表した小説の邦訳が刊行された。エリクソンの翻訳に関しては奇妙なねじれがあり、近作については出版社として集英社と筑摩書房、翻訳者として柴田元幸と越川芳明が交互に訳書を刊行してきた。本書は内容的には1999年に原著が発表された『真夜中に海がやってきた』の続編であるが、日本ではそれ以前に発表された『アムネジア・スコープ』がいわば割り込むように先に翻訳されている。したがって私たちは本来ならば続けて読むべき二つの小説の間に、それ以前に発表された、直接の関係のない作品を読むこととなった訳である。この二つの小説は連続性が強く、特に本書の難解さを思う時、可能であれば続けて訳出されるべきであったと感じる。もちろんあらためて両者を通読すればよいのであろうが、残念ながらそれほどの余裕はない。私は『真夜中に海がやってきた』とその解説にざっと目を通したうえで本書に取り組んだ。
 1999年と2005年、二篇の小説が発表された二つの年記の間に何が起きたか。いうまでもなく、2001年9月11日の惨劇である。幻視者エリクソンが、終末のヴィジョンとも呼ぶべきこの事件にインスパイアされないはずがない。本書の中では、ニューヨークならざるロスアンジェルスの中心に、グランド・ゼロならざるレイク・ゼロ、Z湖と呼ばれる湖が出現する。頁を開くや、エリクソンが好んで描く妖しいカタストロフのイメージが横溢する。水というモティーフは明らかに前作から持ち越されている。『真夜中に海がやってきた』の最後で東京を襲った大洪水は、地中から湧き、次第に成長する湖としてロスアンジェルスに出現する。東京、歌舞伎町で客と記憶を交換するメモリー・ガールという仕事に就いていた主人公クリスティンは『エクスタシーの湖』ではカークという息子とともにロスアンジェルスに暮らす。カークの出産と湖の出現が同期していることが暗示するとおり、クリスティンと湖は秘密めいた関係がある。エリクソンのほかの小説と同様、『エクスタシーの湖』もストーリーを要約することはきわめて難しい。鮮烈なイメージが次々に弾けるように繰り広げられ、ストーリー以前にイメージに眩惑されてしまうのだ。クリスティンは湖の出現の意味を知っていた。湖は彼女からカークを奪うためにロスアンジェルスの交差点に最初は水溜りとして出現したのだ。物語が全体の三分の一ほど進行したあたりでクリスティンはカークをゴンドラに乗せてZ湖に漕ぎ出し、経血の赤い夜明けの中で湖に身を投げる。実際に本書を手に取らないとわかりにくいかもしれないが、湖に身を投げたクリスティンの意識はこれ以後、本書の左頁を貫通する一行のテクストとして巻末まで続く。つまりここから小説のテクストが二つに分裂する訳である。メイン・テクストも以後、時に字数や行数が一定でない特殊なレイアウトによってつづられ、視覚的にも波のたゆたいや主人公たちの心情を暗示するという、視覚詩に近い手法が採用される。後で述べるとおり、この手法は小説の成否に関わる点である。エリクソンがこのような手法を用いたのは初めてであり、内容も含めて、おそらく本書で初めてエリクソンの小説に触れる読者は大いにとまどうことあろう。
 本書では今述べた一行で延々と続くテクストが鍵となる。このテクストは湖に身を投げたクリスティンの意識の流れであり、湖への投身はもう一つのロスアンジェルスへの移行を意味している。この点を認識するならば、この難解な小説の構造はある程度理解できる。もう一つの現実という主題はエリクソンを読みなれた読者にとっておなじみのものである。読み進むに従っていくつもの二重性があらわとなる。カークを伴って湖に漕ぎ出すクリスティンの挙措そのものが文中でも言及されるアブラハムの供犠、わが子イサクを神に生贄として差し出す身振りに重ねられ、もう一つのロスアンジェルスにはクリスティンの分身とも呼ぶべきルル・ブルーが存在している。双子を懐妊していたはずのクリスティンのもとにはなぜか息子カークしかいない。クリスティンが身投げした近未来のアメリカは内戦状態であり、湖の消長、傍受される怪電波、湖に身を投げた女の関係を探る軍隊の司令官ワンは天安門事件において素手で戦車に立ち向かった青年であることが暗示される。ワンはシャトーXという館のSMパーティーでボンテージ・クイーン、ブロンテから鞭打たれるが、ブロンテこそカークの分身、双子の片割れなのである。ブロンテはSMパーティーの狂乱からケール(いうまでもなくカークの別名である)という青年によって助けられた後、行く先の定かでない列車に乗ってプエブロ・インディアンの居住区へと向かう。クリスティンの投身を契機として湖の水が引き始めた世界ではKと呼ばれる女性(彼女もまたクリスティンの分身である)の息子キムと日本人との混血の美女サキ、彼らの娘のアンジーが湖の出現した場所を訪ねる。様々な分身、相互に矛盾するストーリー、幾重にも及ぶ時間のねじれが相互に乱反射するかのようだ。
 この小説が『真夜中に海がやってきた』の後日譚であることは先に述べたが、二つの物語は相互に嵌入しあっている。クリスティンやルル・ブルーは両方の小説に登場し、前著においてはクリスティン/ルル・ブルーのごとく、アンジーとサキは同一人物であった。(サキの名は原子爆弾が炸裂した長崎からとられているという)さらに注意深く読むならばほかの小説もこの物語の中に侵入している。クリスティンが居住するホテル・ハンブリンは『アムネジア・スコープ』の語り手の宿でもある。あるいはシャトーXの中で私たちは懐かしい名前に出会う。バニング・ジェーンライト。バニングとは『黒い時計の旅』の中でヒトラーのためにポルノ小説を執筆する巨漢ではないか。この物語の中ではヒトラーが生き続ける20世紀の偽史がバニングによって執筆される。複雑な入れ子構造をとりながら、多くの物語でエリクソンもまた無数の偽史を書き連ねる。20世紀初めのパリ、禁酒法時代のシカゴ、敗れざる第三帝国。これまでのエリクソンの偽史においてはある程度具体的な時代が特定されたのに対して、本小説でエリクソンは初めて未来の年記を書き入れた。先に述べた複雑なテクストの構成がこれらの物語相互の位置を推定することを著しく困難にしている。個々のストーリーは矛盾しあい、錯綜する。最初にも述べたとおり、エリクソンの小説の前で私たちは次々に炸裂するがごとき異様なヴィジョンに眩惑される。洪水や砂嵐に襲われる都市、氷結した街路と干上がった水路、喚起力が強く、多く終末論的なヴィジョンの数々に私たちは魅了される。私の知る限り、このようなイメージを駆使する作家としてはJ.G.バラード、サルマン・ラシュディらが連想されるくらいである。この小説においても、赤い夜明けや水没する都市、エリクソンが描くヴィジョンがきわめて視覚的であることに私たちはあらためて気づく。この小説の一部が文字を独特に配置した一種の視覚詩として成立していることは最初に述べた。イメージのみならず、活字のレイアウトによって視覚的な効果を強化することはエリクソンが意図的に選んだ方法であろう。テクストの中を貫通するクリスティンの意識の流れは最後でもう一度メインのテクストに回収される。原著の活字組に対応して、かなり苦労して本文のレイアウトが組まれたことは容易に想像される。しかし私はエリクソンの小説はここで一種の飽和点に達してしまったように思う。形式的にあまりにも錯雑したテクストは逆にイメージの喚起力を弱めているように感じられるのだ。『エクスタシーの湖』はエリクソンの優れた小説が備えていた一種の速度、ドライブ感を失っている。正直言って、この小説を読み進めることはかなり厳しい体験であった。特に左頁の中央を貫通するテクストの存在には絶えず異和感を覚え、波打つような文字のレイアウトもむしろテクストへの集中を阻害するように思われた。多義的なイメージ、錯綜するストーリーが時に像を結び、時に像を解く。そのような像と戯れることがエリクソンの小説を読むことの悦楽なのであるが、この小説では必ずしも十分な効果が得られていないようだ。作家は少々技巧に淫しすぎたのではなかろうか。
by gravity97 | 2010-01-21 21:18 | 海外文学 | Comments(0)

 新訳でコンラッドの『闇の奥』を読む。『闇の奥』にはいくつかの邦訳が存在する。一番よく知られたものは中野好夫訳による岩波文庫版で、初版が1958年に発行されている。書庫を探すと私も一部所持していた。名高い小説であるが、読み通した記憶はない。今回初めて通読するにあたって両者の解説を読んでみたがいずれの訳者も翻訳の難しさについて縷述している点が印象的だ。新訳の訳者はいくつかの具体的な例を挙げ、これまでの翻訳と比較しながら自分が最終的な訳文を採った理由を説明している。中野にいたっては岩波版以前に自らが訳した日本初訳となる河出書房版について「正直にいってたいへんな難物だった。旧本の読者諸氏にはまことにすまぬ話だが、相当の誤訳のあることも十分予想できたし、まことに自信のない話だった」とそこまで言ってよいかと感じられるほど正直な感想を述べている。新訳を読んでから中野の訳にも目を通してみたが、活字のポイントがきわめて小さいことと、語りの途中でむやみに引用を示す括弧が用いられていることを除いて(この二点が読みにくさの最大の理由であるが)さほど差があるようにも思えない。もちろんそれは私が一度読み通して物語の全体を理解していたためであるかもしれない。
 前置きが長くなった。今回の訳者は黒原敏行。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』という難物を途切れることのない緊張感の中に訳した練達の若手である。コンゴ川を遡る暗澹とした道行きは『ザ・ロード』を連想させないこともない。物語の構造はさほど複雑ではない。物語はテムズ川に停泊する船上における乗組員マーロウの語りとして記述される。テムズ川とコンゴ川、二つの川の間をたゆたうように、語りも現実と回想の間を往還する。マーロウは若い時、ベルギーの貿易会社に雇われ、現地で殺された前任者の仕事を継ぐためにコンゴに向かう。コンゴ川の出張所で故障した蒸気船の修理を待つ無為の時間、マーロウはアフリカという野生に直面する。人を拒む密林と暗い川、意志の疎通を欠いた黒人たちと病気で次々に命を落とす白人社員たち。コンラッドの文章の濃密さは翻訳でも十分に堪能できる。出張所でマーロウはクルツという謎めいた人物の存在を知る。大量の象牙を出張所に届けながら、自身は姿を隠し密林の奥で隠然たる権力をふるう男。クルツが病床にあるという情報に基づき、マーロウはクルツを審問すべくコンゴ川を遡る。困難な航行と蛮族の襲撃。操舵手を失い、ようやく奥地の出張所にたどり着いたマーロウはクルツに仕えるロシア人青年、そして瀕死の床にあるクルツに会う。クルツは婚約者への手紙や写真をマーロウに託し、最後に「The horror ! The horror !」という謎めいた言葉を残して息絶える。
 物語の粗筋を知ったとしてもこの小説の魅力が減じることにはないだろう。密林を連想させる濃密で粘着的な物語を読み進むこと自体がコンゴ川遡上の比喩であるかのようだ。今日、この小説は多様な読み方が可能である。もちろん現地人に対する白人の蔑視や暴力を理由に人種差別的な小説と批判することも可能であるし、逆に植民地主義への批判ととらえることもできよう。あるいはポスト・コロニアリズムの洗礼を受けた我々は(女性はほとんど登場しないにせよ)ジェンダーや階級、あるいは資本主義、帝国主義といった様々な函数を介して分析することも可能であろう。しかしながら私はそれらの明晰な解釈に抗う異様な晦渋さこそこの小説の本領ではないかと感じる。この点はクルツなる人物の造形に関して明確となる。密林の奥に君臨するクルツがこの小説の影の主役であることは明らかである。詩を朗誦し、深い教養を備え、ロシア人青年に信奉されるクルツの正体は最後まで明かされることがない。クルツのみならず物語全体を一種の不透明さが覆っている。このような不透明感は内容のみならずおそらく文体そのものに起因しており、幾多の翻訳者を悩ませたゆえんであろう。残念ながら私はコンラッドのほかの小説を読んだことがないが、このような難解さが本小説のみに指摘される点は、それが意図的に導入されていることを暗示している。視覚的な比喩となるが、私はこの小説を読みながらさながら背後を見透かすことができないほど樹木が繁茂する川面を蒸気船で往航するような印象を受けた。手近の岸や叢ははっきりと識別できるのに対して、その背後、奥を見通すことができないのだ。個々のエピソードは比較的明瞭であるが、全体としてのストーリーの展開は不明瞭で方向が定まらず、全体を見通す奥行きが失われている。Heart of Darkness の邦訳タイトル「闇の奥」の当否については異論もあろうが、以上の点を勘案するに十分に喚起的な言葉が選ばれているように感じた。
 よく知られているとおり、フランシス・コッポラはこの小説を翻案して「地獄の黙示録」として映画化した。19世紀のコンゴはベトナム戦争下のインドシナに置き換えられていたが、両者は深いところで結ばれている。今述べたとおり、これらの作品は人が西欧的な合理性の埒外にある晦渋、不透明性と出会う物語である。アフリカやインドシナはそれぞれ植民地時代のヨーロッパ人、1960年前後のアメリカ人にとって自らの理解を超えた外部である。西欧が外部に直面した際、どのような反応を示したか。『闇の奥』の随所に暗示される植民地への暴力的支配、あるいは「地獄の黙示録」中、サーフィンに便利な立地であるという理由で一つの村落をナパームで焼き払う挿話はこの問いへの応答である。これに対して、コンラッドはクルツというきわめて独特の人物を造形し、今まで非合理対合理あるいは未開対文明といった外面的な対立としてとらえられてきた両者の関係を登場人物に内面化することに成功している。アフリカという絶対的な他者と出会う中で次第に内面を崩壊させるクルツというパーソナリティはコッポラのフィルム中でマーロン・ブランドが演じたカーツ(いうまでもなくクルツの英語読みである)大佐においてさらに深められ、一方、『闇の奥』におけるマーロウの役回りである「地獄の黙示録」の主人公ウィラード大尉もカーツを追ってメコン・デルタを遡航する過程で次第に精神を失調させる。ここにおいて、文化衝突がもたらす「闇の奥」Heart of Darknessは人間精神のそれへと転じるのである。
 19世紀にはアフリカが「闇の奥」であったかもしれない。しかし今日なお私たちは同様の文化衝突をさらに殺伐としたレヴェルで繰り返している。アメリカにとってのアフガニスタン、あるいはロシアにとってのチェチェンを現代の「闇の奥」と呼べないだろうか。おそらく「闇の奥」は時代と無関係である。いつであろうと、人にとっていかなる共感も交流も成立しえない絶対的な他者が存在し、それらと直面することは直ちに自らの内部に「闇の奥」を生ぜしめる。クルツの最後の言葉「地獄だ!地獄だ!」(あとがきにもあるとおり、これは中野好夫による翻訳。黒原訳は「怖ろしい!怖ろしい!」。ただしこの部分に関しては中野訳の方が適切であるように思われる)とは、絶対的他者の前であっけなく否定された啓蒙や進歩といった西欧的価値の断末魔の叫びであるように感じられる。そして20世紀以降も私たちは一体どれほど多くの地獄を体験してきたことか。ヒューマニズムの対極に存在する、かかる暗鬱な認識を白日のもとにさらして、刊行後一世紀以上経った今も『闇の奥』は古びることがない。
 
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蛇足かもしれないが 最後に一つだけ付言する。本書を通読し、私はアフリカの密林を舞台に同様の黙示録的世界を描いた小説としてJ.G.バラードの『結晶世界』を想起した。同じイギリスの作家によって発表されたSFならぬスペキュレイション・フィクションは果たしてコンラッドの嫡子であろうか。
by gravity97 | 2009-11-24 21:37 | 海外文学 | Comments(0)

 8月にフォークナーを読む。今年の夏がミシシッピーのごとき炎暑の夏であればよかった。
私は大学の教養時にフォークナーを耽読した。当時は『響きと怒り』『八月の光』『サンクチュアリ』そして『アブサロム、アブサロム!』といった代表作が普通に文庫本で手に入ったのだ。『アブサロム、アブサロム!』は集英社文庫に収められていた。篠田一士による同じ翻訳であるが、先般、池澤夏樹の編集による河出書房新社版世界文学全集の一巻として新装版が刊行されたことを機に再読することにした。かつて通読したことは覚えているが、初読の際には、とにかく読みにくく、内容の理解に抗うかのような異様な小説であったことしか覚えていない。文字のポイントも非常に小さかった印象がある。活字の大きさはともかく、今回、内容を文庫版と比較して難解さの理由が判明した。今回の全集版には巻末に作家自身が作成した年譜と系譜(登場人物の紹介)さらには地図が収められている。文庫版には年譜しか収録されず、それが作家本人の手によることも明記されていない。このため最初に読んだ際には特に参照しなかった訳だが、今から思えば、これでは物語を理解できようはずがない。今回、再読にあたってはまず年譜と系譜を何度も読んで物語の枠組を確認したうえでおもむろに本文に取り組む。
 この小説は語りが異常に入り組んでいる。冒頭で読者は暑い9月のミシシッピー、ブラインドを閉ざした熱気のこもる部屋に招き入れられる。物語を語るのはミス・コールドフィールドという老女。実に鮮烈な幕開けだ。しばらく読み進めると聞き手はクウェンティン・コンプソンというハーヴァード大学に進学した青年であることが明らかになる。そして冒頭の描写から明らかなとおり、彼らの背後にも三人称の語りを操る匿名の話者が存在し、作者にも擬せられる匿名の話者はこの後もたびたび物語に介入する。続く二章から四章まで、聞き手は同じコンプソンであるが、語り手はコンプソンの父親に代わる。五章はそのほとんどをローザ、つまりミス・コールドフィールドの内的独白が占める。フォークナーは活字の字体を変えて、五章の語りがいわば意識の流れであり、通常の語りとは異なる点を形式的に暗示する。字体の変調はこの長い小説の随所に認められる。六章以降はコンプソンがハーヴァード大学の寮の自室で友人シュリーヴ・マッキャノンを相手に自分の見聞を語る。語りの構造をひとまずこのように整理するならば、この小説の要に位置するのがクウェンティン・コンプソンであることは理解できるが、現実には語りが相互に嵌入し、語り手は判然としない。このため読者はいずれの登場人物に焦点化することも困難で物語はきわめて錯綜する。
 なぜかくも複雑なナラティヴが要請されるのか。この問いに答えることはさほど難しくない。『アブサロム、アブサロム!』で語られるのはトマス・サトペンなる人物の汚辱にまみれた一生である。ウエスト・ヴァージニアのプア・ホワイトの息子として生まれたサトペンはトラウマとなった幼年時代の屈辱に追われるように西インド諸島に渡り、なにかしらやましい仕事の結果巨万の富を手に入れてジェファーソンに帰還する。フォークナーの多くの物語の舞台となるヨクナパトーファ郡の町に多くの黒人奴隷とフランス人の大工を引き連れて到来したサトペンはそこに巨大な屋敷を建設し、町の商店主の娘、エレン・コールドフィールドと結婚し、ヘンリーとジューディスという二人の子をもうける。しかし自らが封印した過去の中からよみがえるかのようにいくつもの忌まわしい事件がサトペンの身辺で出来し、サトペンは破滅していく。近親姦と兄弟殺し。アメリカ深南部を舞台として、物語は神話的な様相を呈す。フョードル・カラマーゾフやレオポルド・ブルームを想起してもよい。野卑で俗悪な人物が神のごとき深みを帯びるという奇跡、それは優れた文学に共通する特質といえないか。サトペンの一代記、そして彼の子供たちをめぐる忌まわしい物語は常に他者によって語られる。しかも時系列は錯雑し、容易にその全体を見通すことはできない。神話との類比を考えるならば、この点は容易に了解される。神は決して一人称で語ることはない。神は矛盾しあう語りの中にこそその姿を現す。物語に神話的な奥行きを与えるために、フォークナーはきわめて意図的にこの晦渋な語りを採用したことが理解されよう。そして謎めいた語りの中から呪われた物語が次第に姿を現す場に立ち会うことがこの小説を読む醍醐味であろう。
 再読していくつかのことを感じた。まずフォークナーの小説には奴隷制がその影を色濃く落としている。ヨクナパトーファ・サーガを構成する物語は南北戦争後を舞台としている場合が多いから、黒人奴隷という制度自体は廃止されている。しかしアメリカ深南部において、奴隷制という暴力装置の痕跡はなおも生々しく残存し、差別や私刑、強姦や殺人といった主題に結びつくことはフォークナーの読者であればたやすく理解できよう。『アブサロム、アブサロム!』においてもこのような暴力性がいたるところで突出し、それは厩の中で黒人と半裸で血まみれになってあえぎながら殴り合いを繰り返すサトペンの姿に象徴されている。差別が物語を駆動する決定的なモメントとなっているのである。一つの社会における規範の喪失はこの小説の隠された主題であり、それは奴隷制という人間性の退廃と密接に結びついている。
 差別という問題と関連するならば、私はあらためてこの小説と中上健次の小説、とりわけ秋幸三部作との強い類縁性に驚いた。兄弟殺し、妹との相姦、そして父殺し、これらは『枯木灘』から『地の果て、至上の時』にいたる物語の中で正確に反復されている。私はフォークナーを読んだ後に中上を読んだから、当然この点に気づくべきであったが、思い至ることがなかった。『アブサロム、アブサロム!』の語りはそれほどまでに難解であったということであろう。しかしこのような類似の指摘は中上の小説を貶めることにはならない。それどころか日本語でフォークナーに拮抗する小説を書き上げた点に逆に世界文学としての中上の可能性を認めることができる。
 b0138838_154655.jpg『地の果て、至上の時』が『枯木灘』の後日談であるように。『アブサロム、アブサロム!』もまた『響きと怒り』という後日談をもつ。前者で物語の要の役割を果たしたクウェンティンは後者において入水自殺を遂げる。そしてここでも規範の喪失という主題が特異きわまりない語りの手法を介して浮かび上がる。ここで『響きと怒り』について詳しく触れる余裕はないが、この二つの小説ではいくつかのモティーフが共有され、ともに破滅と崩壊が語られる。ヨクナパトーファ・サーガとは総体として凋落する一つの時代の肖像といえるかもしれない。それは具体的には南北戦争後のアメリカ深南部という特定の時空と関わっていた訳であるが、同じような規範の喪失、凋落の予感を今日の日本に重ねあわせるのは私だけであろうか。
by gravity97 | 2009-09-14 15:05 | 海外文学 | Comments(0)

 再び『失われた時を求めて』について、きわめて断片的な所感を記す。

 メメント・モリ、死を想え。この言葉が切実さをもつ年齢にはまだ達していないとはいえ、知人を送ることが多かった今年の前半を経て、自分なりに死について考えるところがある。死については二つの真理を挙げることができる。基本的に人は自らの死をコントロールすることができない。人はいつ、いかに死ぬかを選ぶことはできない。そして人は自らの死について語ることができない、デュシャンの墓碑銘ではないが「されど、死ぬのは常に他人」ということだ。
 『失われた時を求めて』の中にもいくつかの死をめぐる挿話がある。印象に残るところでは主人公マルセルの祖母の死のエピソードがあり、伝聞として伝えられるアルベルチーヌの死がある。この長大な物語の中に頻出する眠りというモティーフが死の暗喩であることも容易に理解されよう。今回私が論じたいのは,主要な登場人物の一人である作家のベルゴットの死の場面である。よく知られているとおり、この小説の中には文学、美術、音楽という三つの分野を代表する三人の人物が配されている。すなわち文学におけるベルゴット、美術におけるエルスチール、音楽におけるヴァントゥイユであり、彼らがこの小説の随所にほぼ同じ頻度で登場する点は『失われた時を求めて』が芸術に関する小説であることを暗示している。エルスチールについて、具体的な作品への言及からモネが連想されることは既に述べた。これに対してベルゴットとヴァントゥイユについては特定の作家や音楽家にイメージを重ねることは困難に感じられる。いずれにせよ主人公にとって文学への身近なそして信頼すべき誘い手であったベルゴットは第五篇「囚われの女」の中ほどで劇的な死を遂げる。軽微な尿毒症の発作のため安静を命じられていたベルゴットはハーグ博物館から出品された一つの絵を見るためにオランダ美術展に出かけ、その絵の前で目眩を起こし、続く発作で長いすから転げ落ちて絶命する。この小説の中で絵画や音楽、文学に関して具体的な作品名が言及されることは少ないが、ベルゴットが末期に見た作品については固有の名前が与えられている。フェルメールの《デルフトの眺望》。プルーストとフェルメールの関係については無数の専門的な研究が発表されており、実際にプルーストが死の前年にもジュ・ド・ポーム美術館で開催された「オランダ派絵画展」でこの作品を見たことが確認されている。
 《デルフトの眺望》は現在、デン・ハーグのマウリッツハイス美術館に収められている。私にとっても最初に見たフェルメールの作品の一つである。運河をはさんだ港町の風景、手前の岸には何人かの人物を配し、対岸にはいくつかの塔を含めた多くの建築が描きこまれている。画面の上半分は雲がたなびく空が描かれ、運河には空と建物の反映が映り込んでいる。比較的小さな作品であるが、同じ美術館にある有名な《真珠の耳飾りの少女》と比べてもなんら遜色なく、それどころか空気の透明さ、画面に充溢する静かな光は私にこの画家の天才を深く印象づけた。もちろんそれまでにも図版では幾度となく見たことのある絵画であったが、日常の、それでありながら神秘をたたえた情景の中に私はたちまち引き込まれるかのように感じた。
 先に述べたとおり、プルーストもパリで実際にこの作品を見ている。もちろんプルーストとベルゴットを安易に同一視すべきではないが、作品のどこに魅せられたのか、作家は具体的に記述している。それは「その絵の中の黄色の小さな壁」である。ベルゴットは画面の右側、運河に面した煉瓦造りの洋館の背後に小さく描かれた「庇のある黄色い小さな壁」を確認するために美術館に出かけた。ベルゴットはこの小さな壁の前で次のように嘆息する。「俺はこんな風に書くべきだった。近頃の作品は無味乾燥だ。上から上へといくつも絵具を塗り重ね、俺の文書の一句一句を立派なものにすべきだった。この黄色い小さな壁のように」この一節の中で絵具と言葉、絵画と文学が対比されている点は興味深い。図版を参照するならば、この「黄色い小さな壁」は確かに画面の中で光り輝く美しい部分ではあるが、例えば遠近法における消失点のような特権的な意味をもつものではない。しかし小説の中ではこの壁を認識することは不吉な意味をもつ。「最後に黄色いほんの小さな壁のみごとなマチエールに注目した。目眩がひどくなってゆく。(中略)彼の目には天の秤に、自分の生命が一方の皿にのっているのが見えた。もう一方の皿には黄色でみごとにかかれた小さな壁がのっている。彼は小さな壁のために無謀にもいのちを犠牲にしたことを感じていた」つまり「黄色い小さな壁」を見ることの代償としてベルゴットは命を失うのである。静謐な港町の情景の中に一人の作家の命を奪う罠が仕掛けられているとは誰が想像しえたであろうか。
 美しい情景、なめらかな筆致の中に差し込まれた異物、具象性をいわば内部から解体する契機にジョルジュ・ディディ=ユベルマンは pan という名を与える。プルーストのいう「黄色い小さな壁」の原語は petit pan de mur jaune である。ここでも pan の語が用いられていることはもちろん偶然ではない。いつもながらディディ=ユベルマンの分析は難解で私も十全な理解からほど遠いが、そのニュアンスはかろうじて把握することができる。「pan とは絵画の変容能力、〈平面における三つ編みの議論〉の突き刺すような先端をいうのであろう。それは絵画をその突き刺すような平面の効果においていうのかもしれない」彼にとって pan とは一種暴力的な衝動と捉えられている。ディディ=ユベルマンはこの言葉を分析するにあたって『失われた時を求めて』を参照し、さらに彼は同様の pan をフェルメールの《レースを編む女》に描かれた赤い糸の塊に認めている。フェルメールの静謐で写真のごとき具象性の中に秘められた暴力的な衝動の発見は暗示的である。このような発見、自明のものとして見過ごされていた形象に何かしらの兆候を見出す手法は直ちにサン・マルコ修道院のフラ・アンジェリコの《影の聖母》の祭壇下部に関する鋭利な論考を連想させ、ディディ=ユベルマンの面目躍如たるものがある。ここでは pan という主題をこれ以上深める余地も能力もないが、フェルメールの絵画と同様に、プルーストの流麗な物語を断ち切るかのように唐突に挿入された死という主題が、やはり《デルフトの眺望》の「黄色い小さな壁」に触発されたものであったとするならば、ここでもプルーストとフェルメールが主題的に交差する点を指摘しておきたい。
 メメント・モリ。私は冒頭で人はいかに死ぬかを選ぶことができないと記した。しかしもし選べるとしたらどのような死に方が理想であろうか。私には《デルフトの眺望》の前で絶命したベルゴットは、たとえ小説であるにせよ、一つの理想の死を体現しているように思われる。あるいは『失われた時を求めて』を味読する途中で息絶えるというのはどうであろうか。「囚われた女」において、プルーストとフェルメール、おそらく人類最上の文学と美術が出会い、しかもその甘美な出会いの傍らに死が寄り添うことを知る時、私はそのような夢想に抗うことができない。
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by gravity97 | 2009-08-07 22:16 | 海外文学 | Comments(0)