カテゴリ:海外文学( 50 )

b0138838_11124617.jpg
 年末年始に比較的長い休日をとることができた。かねてから読みたいと思っていたディケンズの『荒涼館』を通読する。19世紀の長い小説を久しぶりに読んだためか、最初こそとまどったが、第2巻あたりでペースをつかむと面白いことこのうえない。一気呵成に一週間足らずのうちに通読した。ディケンズの小説は中学校の頃に『二都物語』を読み、毎年季節になると『クリスマス・キャロル』を読み返すことはあったが、これほどしっかり読む体験は初めてだ。この小説への関心は実は村上春樹に由来する。村上の短編集『東京奇譚集』の冒頭の短編「偶然の旅人」は私のお気に入りの短編の一つであるが、この小説の中で「荒涼館」は重要な小道具として扱われている。しかしなにぶんにも全4巻の大長編であるから片手間に読むことは難しい。例年より長く、珍しく抱えた原稿のない今回の休暇はよい機会となった。
 中学校や高校の頃は19世紀の小説、いわゆる大文字の「長編小説」を数多く読んだので、『荒涼館』は決して私にとって初めての読書体験ではなかった。しかしそれ以降主として20世紀文学に親しんできた私にとってこの小説は懐かしくはあるが、異質の小説のように感じられた。その理由は簡単だ。ディケンズにとって小説という枠組は自明であり、物語を語ることになんら抵抗はない。しかしプルーストとジョイス以降、私たちは小説という形式をあらためて問い、なぜ一つの物語が小説という形式をとって語られなければならないかという点を常に意識しながら小説を読むことを強いられるからだ。モダニストとして私は後者の立場に立つが、読書という営みに関してどちらの認識が幸せであるかという点について判断することは難しい。
 『荒涼館』はディケンズの代表作として、まさに19世紀の大長編小説たる風格を備えている。ロンドンとイギリス東部のリンカンシャー州を主たる舞台として、エスタ・サマソンなる女性の半生の物語であり、登場人物も数多い。途中でいかなる人物かわからなくなって前の頁を繰って確認することもしばしばであったが、このような経験は私にとってトルストイ以来ではなかっただろうか。それにしてもディケンズの小説技法の巧さには舌を巻く。物語のいたるところに周到な伏線や謎めいた手がかりが散りばめられ、次々に驚くべき秘密が明らかになっていく。今必要があって、冒頭に近い箇所を読み返してみたが、なるほど初読の際には読み飛ばしたいくつもの細部が実は深い意味をもっていたことがあらためて理解された。再読するならば本書がこのような発見に満ちていることに疑いの余地はない。本書はまずもって19世紀のイギリスを描いた社会小説であるが、一種の推理小説として読むことも不可能ではない。実際に物語中で語られる一人の登場人物の怪死事件とその真相の解明は、みごとな本格推理である。多くの人物が秘密を抱え、それが明らかになった際の驚きもディケンズならではであろう。『荒涼館』は全部で67の比較的短い章によって構成されており、それぞれの章ごとに謎が深められていくから、長編であっても読みやすい。本書がどのような形式で発表されたかはわからないが、スティーヴン・キングが『グリーン・マイル』を月ごとの分冊形式で発表した際にディケンズに範を仰いだと述べていたことも想起されよう。
 カヴァーの裏に記されたあらすじをたどる程度、つまりこれから読む読者の興を殺がぬ範囲で内容に触れる。この小説は最初がややとっつきにくい。すなわち「大法官裁判所」と題された第一章においては霧雨に烟る暗鬱なロンドンの情景が描かれ、大法官裁判所なる法廷で「ジャーンディス対ジャーンディス事件」なる裁判が進行中であることが明らかとなる。この裁判はこの小説全体の背景となるのであるが、後述するとおりその真相は明らかにされず、実はこの章には主要人物は一人も登場していない。続いて「上流社会」と題された第二章において主要な登場人物の一人であるレスタ・デッドロック卿とその奥方の生活が粗描される。この二つの章は神の視点、すなわち三人称を用いて記述される。これに対して第三章は先に名を挙げたえエスタ・サマソンという女性の一人称で語られる。第三章以降、この小説は神の視点とエスタの一人称が交互に繰り返されるという独自の語りによって展開する。養母のもとで不幸な幼年時代を送っていたエスタは養母の死後、後見人のジャーンディスの支援によって寄宿学校で教育を受け、その後、同じくジャーンディスが後見人を務めるリチャード、アイダという二人の子供達とともにジャーンディスが住む邸宅、通称「荒涼館」で生活を送ることになる。名前から推測されるとおり、ジャーンディスそして三人の子供たちはなお係争中の「ジャーンディス対ジャーンディス事件」の当事者である。エスタ、リチャード、アイダはすぐに互いに打ち解け、彼らの後見人であるジャーンディスおじさんも実に親切な人物である。全く非のうちどころのない人物たちが物語の要衝を占める点に私はやや奇異の感じを受けるのであるが、おそらくこの小説が書かれた時代にはこのような設定もさほど違和感を覚えることがなかったのであろう。このほかにも小説の中には善意の塊のごとき人物が何人か登場し、時に彼らの間で誤解が生じることはあるにせよ、基本的な人物造形は変わることがない。一方でこの小説には一度読んだら忘れることのできない奇矯な人物たちも登場する。例えば自分の妻にとって自分が三人目の夫であることを公言し、のみならず前二人の夫がいかに優れた人物であったかをことあるごとに吹聴する医師、老いた妻を絶えず罵倒する老人、自分の家庭や子供たちを全く顧みることなくアフリカに関する慈善事業に邁進する女性、ディケンズの小説の魅力はこれらのバイ・プレイヤーたちが生き生きと物語に介入する点にも負っているだろう。あるいは今日からみるならば荒唐無稽と感じられるエピソード、例えば登場人物の一人は自然発火によって焼死する。これは人が強い酒を長期にわたって飲み続けると血液中のアルコールが高まり、ついには自然発火して死にいたるという当時の俗説を反映しており、ディケンズ自身も巻末に収録された「単行本への序文」の中で言及している。無数の挿話を織り込みながらもメインストーリーは孤児エスタの成長の軌跡であり、エスタの出生の秘密が次第に明らかになっていく過程である。第二章で言及され、その後もしばしばその動静について言及されるデッドロック卿夫妻がこの問題に深く関わっていることは予想されるのであるが、ディケンズは様々なエピソード、様々な小道具を介して実に巧妙に両者を結びつけていく。このあたりが本書の読みどころといえよう。小説のほぼ半分、文庫本でいえば第二巻の終わりのあたりで読者は両者の関係をほぼ理解するのであるが、物語は後半に入るや、たたみかけるよう数々の事件が出来し、読者はまさに巻措く能わざるといった感じで事件の推移を見守ることとなるのだ。この意味でもキングがディケンズに私淑することは当然であろう。多くの驚きを経過して結末もまた感動的である。ディケンズはエスタのみならず、多くの登場人物についてもその行く末を丁寧に書き込む。結果として多くの登場人物が複雑に絡み合って一つの時代の壮大なパノラマがかたちづくられたような読後感が残る。
 ここでは本書を読んで私が関心を抱いたテーマを二つ指摘しておきたい。ひとつは貧困というテーマである。「荒涼館」は一方ではデッドロック卿をはじめとするエスタブリッシュされた階級、そしてエスタらのようにそのような階級への参入が予想される人々の物語であるが、同時に当時の貧民階級へも周到な目配りがなされている。注目すべきは両者が必ずしも分かたれていない点だ。先にも触れた慈善家ミセス・ジュビリーがブルジョアに属すか否かは必ずしも判然としないが、彼女はアフリカへの慈善事業に執着し、エスタたちも幾度となく貧民街に足を運んで多くの登場人物と交流する。エスタは物語の途中で病名こそ明示されないが、「病後は美しさが損なわれた」という表現から天然痘と推定される大病を患うが、荒涼館にこの病気を持ち込んだのは彼女と交流のあった貧民層の少年であった。貧しい人々、あるいは孤児への暖かい眼差しは多くのディケンズの小説にも共通するが、私は貧困というテーマが同じ時代に多くのヨーロッパの小説に共有されていたことを想起する。フランスであれば『レ・ミゼラブル』(私はバルザックをあまり読んでいないのだ)、ロシアであればドストエフスキーの小説、いずれも貧困という主題が隠されたテーマであることは明らかだ。むろん20世紀にも貧困は存在する。しかし私はいくつかの例外を除いて、貧困が主題とされた小説を挙げることはかなり困難に感じられる。これはおそらく先にも述べたとおり、20世紀においてはテーマよりも小説の形式が重視されるようになったことと関係があるかもしれないし、例えば疎外、大量死、絶滅収容所といったさらに重い主題が浮かび上がった時代と関わっているかもしれない。そして指摘すべきはディケンズの時代において小説は貧困、階級差といった社会的な問題を告発するきわめて効果的な手段であったことである。文学を含めた人文科学が社会的な問題との関係を希薄化しつつある今日、主題としての貧困の意味はなお検証されてよいだろう。
 もう一つのテーマとは裁判あるいは審判という問題だ。以前から感じていたのであるが、西欧には裁判をめぐる文学というジャンルが明らかに存在する。例えば『カラマーゾフの兄弟』を挙げてみよう。この傑作は複雑な縁で結ばれた一族と父殺しをめぐる物語であるが、後半部においては法廷を舞台とした審問が延々と描かれる。あるいはトルストイでもデュマでもよい、19世紀に発表された長編小説をランダムに想起するならば、国籍を問わず裁判というテーマが重要な意味をもつことが理解されよう。この点を日本の近代文学と比較する問題は興味深いがひとまず措く。ディケンズの場合もほかにも裁判とかかわる小説は存在するが、ことに裁判所の記述に始まり、「リンカン法曹学院」や「大法官府横丁」が主たる舞台となる『荒涼館』においてこの印象は強い。しかし同時にこの小説において裁判のテーマはきわめてあいまいである。なぜなら多くの登場人物が関与する「ジャーンディス対ジャーンディス事件」という審問の内実が全く明らかにされないからだ。それが遺産相続をめぐるきわめて錯綜した裁判であり、ジャーンディスとエスタ、エイダ、リチャードが訴訟における立場を必ずしも共有していないことは読み進めるうちにおぼろげに理解される。しかし肝心の裁判については既に冒頭で次のような説明がある。「ジャーンディス対ジャーンディス事件はいつまでもだらだら長引いている。時が経つにつれて、このこけおどしの訴訟はすっかりこみっていしまったので、もう誰にもさっぱりわけがわからなくなってしまった。しかも一番わからなくて困っているのはほかでもない、訴訟の当事者たちである」誰にも理解できない裁判システム、おそらくここから誰もが連想するのはカフカの一連の小説であろう。審判制や官僚制が肥大し、誰もがその全貌を把握できなくなる不条理な状況をカフカは『審判』や『城』で描いた。『荒涼館』の中にはその日に判決が言い渡されることを信じて裁判所に日参するフライトという一種の狂女が登場する。フライトは裁判所について「吸い寄せるのですよ。人々を吸い寄せるのです。人々から平静を吸い取ってしまうのです。正気を吸い取ってしまう。いい顔色を。いい性質を。夜になると私の安らかな眠りすら吸い取ってしまうような気さえしました。あの冷たい、きらきら光る悪魔めが」とエスタに語り、当時弁護士をめざしていたリチャードも裁判所に吸い寄せられようとしていると警告する。なにものをも拒み、時に被告を犬のように殺すカフカの「城」や「審判」がここで予示されているとみなすのはさすがに強引すぎようか。
 強引ついでにもう一つの連想を。私は本書を読みながら直ちに同じイギリスで今世紀に発表された小説を想起した。『荒涼館』の中心人物は語り手であるエスタ、そして親友のアイダ、そしてアイダと結ばれることになるリチャードの三人である。三人を軸に語られる小説は比較的珍しいのではないかと考えるが、私たちは全く同じ関係をカズオ・イシグロが2005年に発表した『わたしを離さないで』におけるキャシー、ルース、トミーの三人にも認めることができる。両者はそれぞれ「荒涼館」、「ヘールシャム」と呼ばれる閉鎖された空間を物語の主要な舞台としている点においても共通し、さらにいずれも出生の秘密とも呼ぶべき問題が小説の根幹を成している点でも一致する。「荒涼館」で暗示される階級差が極限化された世界がカズオ・イシグロの小説であると考えるのは飛躍のしすぎか。そういえばカズオ・イシグロも村上春樹のお気に入りの作家であった。
by gravity97 | 2014-01-04 11:13 | 海外文学 | Comments(0)

ローラン・ビネ『HHhH』

b0138838_952984.jpg

 先日から國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』を読んでいる。最近、若手によって発表されたこのドゥルーズ論についても機会があればこのブログで応接したいが、最初に國分はドゥルーズの哲学について「自由間接話法的ヴィジョン」という興味深いテーマを提起する。周知のごとくドゥルーズはヒュームやベルグソン、あるいはプルーストやカフカといった哲学者や文学者のテクストに寄り添いながら、自身の哲学を開陳したとみなされてきた。しかし國分は異なった見方をする。

 もし哲学研究が、対象となる哲学者の思想を書き写すこと、まとめ直すことであるならば、それはその哲学者が述べたことをもう一度述べているにすぎない。そして、先に述べたとおり、対象となる哲学者の思想とは別の思想をその哲学者の名を借りて語っているのであれば、それは哲学研究ではない。ならば哲学研究は何をするべきか? 哲学者に思考を強いた何らかの問い、その哲学者本人にすら明晰に意識されていないその問いを描き出すこと、時にはその哲学者本人が意識して概念化したわけではない「概念」すら用いて、時にはその対象を論じるには避けて通れないと思われているトピックを飛び越えることすら厭わず、その問いを描き出すこと―ドゥルーズは、それこそが哲学研究の使命であると考え、そしてそれを実践した。

 最初から長い引用になったが、2009年に発表されたこの奇妙なタイトルの小説を読み始めるや、私は自然に國分のいう「自由間接話法的ヴィジョン」という概念を連想した。もちろんこの若いフランス人によって書かれた書物は「小説」であって哲学研究ではないし、ここで扱われるのは歴史であって、哲学者の思想ではない。しかし対象との距離に関してきわめて意識的な点において私は國分の論じるドゥルーズとローラン・ビネという作家に共通点を認めるのである。ドゥルーズが『失われた時を求めて』を解読する過程でそこに作者さえ意識しなかった「シーニュの生産」という機能を織り込んだように、ビネはナチスへの抵抗を自らが検証する過程そのものを物語の中に組み込んでいくのだ。もう少しわかりやすく述べるならば、この小説の独自性はまさに「話法」にある。一般的に歴史的事実について記述するには二つの方法がある。一つは自分が体験した事実として歴史を語るいわゆる直接話法だ。例えば大岡昇平が『野火』においてフィリピン戦線について書く時、作者である大岡の分身である「私」の物語が語られる。これに対してソルジェニーツィンの『収容所群島』の場合も語る主体こそ「私」であるが、ソルジェニーツィンの場合は様々な歴史的資料を渉猟し、史実の積み重ねによって、ラーゲリという暴虐をいわば第三者的に明らかにしていく。この小説における語りは間接話法といってよい。歴史をめぐる物語は全てこの二つの語りのいずれかに立つ。しかし本当にそうであろうか。歴史について「私」が語る物語が常に真実であることを保証するのは何か。同様に「客観的事実」として提示される物語の真実性は何によって担保されるのか。本書の語り手はこの二つの問いの間を揺れながら歴史へと接近する。
 本書の冒頭近くでビネは次のように記している。「ミラン・クンデラは『笑いと忘却の書』のなかで、登場人物に名前をつけなければならないことが少し恥ずかしいとほのめかしている。とはいえ、彼の小説作品にはトマーシュとかタミナだとかテレーザだとか名づけられた登場人物があふれ、そんな恥の意識などはほとんど感じさせないし、そこにははっきりと自覚された直感がある」クンデラは小説の中で架空の人物に名前を与えることの不思議さを語る。これに対して本書の登場人物は確固たる固有名をもつ。タイトルのHHhHとはドイツ語で「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」という文章の頭文字。ヒムラーとはナチス・ドイツで内務大臣、警察長官などを務めたハインリヒ・ヒムラーのことであり、ハイドリヒとはヒムラーの片腕としてゲシュタポの長官を努め、ユダヤ人問題の「最終解決」すなわち絶滅収容所での大量虐殺を発案し、実行したラインハルト・ハイドリヒを指す。「金髪の野獣」と呼ばれ、ホロコーストの首謀者として恐れられたハイドリヒに仕掛けられた暗殺計画が本書の主題であることは冒頭の20頁ほどを読めば明らかとなる。しかし作者はこの事件を語るにあたって、例えば暗殺者の一人称といった直接話法を採用することなく、一方、歴史的事実を三人称で記述する歴史書のごとき間接話法も用いない。作者は自らハイドリヒが登場するいくつもの映画をDVDで確認したことを報告し、事件の模様が展示された博物館を訪れる。このような記述を通して読者はおぼろげにハイドリヒ暗殺計画の輪郭を知る。暗殺はパラシュートで降下したチェコ人によって試みられたらしい。この暗殺計画は「類人猿作戦」と呼ばれていたらしい。計画を遂行する過程で何らかの不手際が発生したらしい。この暗殺計画に対する報復としてリディツェという村の村民全員が虐殺されたらしい。しかし作者は暗殺の成否そのものについては慎重に断言を避ける。(訳者あとがきではこの点が明言されているから、なるべくあとがきを読まずに本書にとりかかることをお勧めする)
 本書は長短合わせて257の章によって構成されている。ある章でハイドリヒの生い立ちや少年時代のエピソードについて語った後、次の章で作者は友人に自分が今書いている本(もちろん本書のことだ)の感想を求める。このため読者もハイドリヒの物語に没入できず、現実と歴史の間、一人称と三人称の間に宙吊りとなる。読み進める過程で読者は先ほど挙げたクンデラのほかにもロバート・ラドラムやタランティーノの『キル・ビル』といった固有名に出会う。第二次世界大戦前後を扱った物語の中で唐突にまことに現代的な名前に出会う時、私たちは違和感を覚えざるをえない。しかしこのような居心地の悪さの中でこそ、私たちは真に歴史に向かい合うことができるのではないだろうか。つまり一つの歴史的事実について私たちは常に現在から、事後的にしか立ち会えない。あたかも暗殺計画が実行された場に立ち会ったように書くこと、自分たちとは無関係の新聞記事のように事実を記すこと、いずれの方法も歴史に対して誠実ではない。私たちは語られる出来事に対して、自分が現在に位置していることを自覚したうえで過去を語るべきではないか。このような作者の意識は物語の終盤で驚くべき手法によって物語の内容へと転化される。それについて述べることはここでは控えよう。
 私の悪い癖で、本書の形式的側面、語りの問題についてくどくどと述べたが、時折歴史的文書や関係者の日記などを交えながら、断章形式でめまぐるしく推移する物語はサスペンスルフルで読み出したら止まらない。先に述べたとおり、話者はしばしば現在に立ち戻るため最初はとまどうが、読み進めるうちに次第に慣れる。ハイドリヒが生まれた1904年から暗殺事件のあった1942年まで、つまりナチス・ドイツが台頭し、実権を掌握していく重苦しい時代の詳細が多くハイドリヒが関わった具体的な事件を積み重ねて描かれる。突撃隊のレームを粛清したいわゆる「長いナイフの夜」、ハイドリヒの工作によるスターリンの赤軍大粛清、オーストリアの併合、「水晶の夜」と呼ばれる反ユダヤ人暴動、そしてユダヤ人問題の最終解決をめざした絶滅収容所の建設。本書において物語は一方でハイドリヒ暗殺が試みられた1942年5月、プラハというクライマックスに向けてぎりぎりと締めつけられていく。一方で20世紀前半、ヨーロッパで吹き荒れた様々な暴力や裏切りが壮大なタペストリーのようにあらわとなる。ヒトラーやヒムラー、ルドルフ・ヘス、そしてアイヒマン、ジェノサイドという人類史上まれにみる戦争犯罪に手を染めた者たちをめぐって、ナチス・ドイツという組織、政治権力が暴力装置と化して文字通り人々を圧殺していく過程がダイナミックに描出される。本書を読んで私は虚言や食言、差別や扇動といったナチスの指導者の「手口」が、現在の首相や大阪市長に共有されていることをあらためて認識した。本書が一方で暗殺計画に向かう求心性、他方で第二次世界大戦に向かう暴力装置のメカニズムを俯瞰する遠心性を秘めているとするならば、それは先に触れたとおり、現在と過去、二つの時点に軸足を置いた語りに由来しているだろう。
 本書の帯には何人かの文学者や研究者が賛辞を寄せいている。『アメリカン・サイコ』のブレット・イーストン・エリスとバルガス・リョサの賛辞を確認した時点で直ちに私は本書の購入を決めたが、エリスはともかくリョサのコメントは興味深い。なぜならリョサもまた暗殺をめぐるきわめて錯綜した傑作を発表しているからだ。このブログでも触れた『チボの狂宴』である。『チボの狂宴』は2000年に発表され、本書は2009年に出版されているから、リョサが本書の影響を受けたことはありえない。しかし両者は多くの共通点を有す。つまり大統領や政府高官の暗殺というテーマが設定され、物語がその一点に向かって収斂する点、そして暗殺というクライマックス以後の関係者に対する無残な弾圧が一つの主題をかたちづくっている点である。あとがきによればリョサは本書について「フィクションの傑作というよりは、偉大な書物と呼びたい」と絶賛した後で、次のように評しているという。「この平明で曇りのないスタイルは、こけおどしのたぐいを避け、あくまでも自然な語りの背後に留まろうとしているようにみえる。こうして読者は一種、陶酔状態の中で、いつしか語られている事実の時空に運ばれ、ハイドリヒの乗るオープンカーを待ちかまえている二人の若者の熱い内部に文字どおり滑りこんでいく」『チボの狂宴』は20ヵ国語以上に翻訳されているというから、おそらくフランス語にも翻訳されているであろう。私は逆にビネがリョサを読んだことは大いにありうると思う。ハイドリヒの暗殺を図って待ち伏せする二人の男という設定は、『チボの狂宴』の最初、独裁者トゥルヒーリョを斃すために車の中で待ち伏せする男たちとそっくりではないか。私はむしろこの相似に関心を抱く。ブログの中でも論じたが、リョサの小説では三人の話者が順番に語りを務めることによってトゥルヒーリョ暗殺をめぐる物語に奥行きが与えられる。このあたりの小説的技巧の巧みさはリョサならではであるが、リョサは歴史を物語ることになんら疑念を抱いていない。ヴァレリー風に言えばリョサは「公爵夫人は5時に外出した」と記すことにためらいを感じないのだ。しかし登場人物の命名にさえ自覚的なビネにとって、歴史を語ることは決して自明ではない。ビネはリョサのように、三人の話者に語りの全権を委譲することなく、自らも語りの中に介入しつつ物語にかたちを与える。いや、そのように語ることによってしかビネは歴史を語ることのリアリティーを感じることができないのだ。この差異は小説の手管に長けたノーベル賞作家とナイーヴな若手作家の相違であろうか。小説という言葉に信頼を寄せ、見事な物語へと転じる才能、そして言葉を語る自分を意識し、言葉と自分との関係を物語として提示する才能。おそらく全ての優れた小説はこれら二つの立場の中間にあり、私はいずれの小説も大いに楽しんだ。
by gravity97 | 2013-09-25 09:13 | 海外文学 | Comments(0)
b0138838_21264666.jpg
 出張の移動中、車中で読むために少し長めの小説、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』を携える。『長いお別れ』ではなく『ロング・グッドバイ』。1958年、清水俊二の手による翻訳が前者、2007年に村上春樹が新しく訳した内容が後者である。村上が多くの彼自身お気に入りの小説を翻訳していることはよく知られているし、同様に既訳がありながら新たに訳しおろした小説としてはサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(旧訳は野崎孝の『ライ麦畑でつかまえて』)がすぐに思い浮かぶ。ただしなぜであろうか、英語で書かれた小説について私は村上と趣味が全く合わない。これまでフィツジェラルドやジョン・アーヴィングあるいはレイモンド・カーヴァーといった村上のお気に入りについては、時に村上の訳でずいぶん読んだのだが、正直どれもあまり面白くない。(唯一の例外がカーヴァーの「ささやかだけれど、役にたつこと」だ。これについてはこのブログにも記した)逆に私が愛好するポール・オースターやコーマック・マッカーシーあるいはスティーヴ・エリクソンといった作家について村上が論じた文章を読んだこともない。(これまた唯一の例外がイギリス圏のカズオ・イシグロであり、確か村上もイシグロを絶賛していたと思う)私にとってチャンドラーを読むのは初めての体験であった。果たしてこの作家はどうか。
 今回は私も実にすんなりと物語の中に入り込めた。それどころか私はロスアンジェルス郊外で繰り広げられる濃密な愛憎劇から目を離すことができず、一気に読み切ってしまった。殺人があり、謎があり、真犯人がいるからミステリというジャンルに区分されるかもしれない。しかしそのようなジャンル分けを無効にするほどに、この小説は「別格の存在であり、みごとに傑出したものがある」という村上の見立てに私も深く同意する。ストーリーはさほど複雑ではない。主人公は私立探偵のフィリップ・マーロウ。彼はふとしたきっかけでテリー・レノックスという男と知り合う。レノックスはハーラン・ポッターという大富豪の娘シルヴィアの夫であるが破滅的な生活を送っている。何度か杯を重ねるうちに二人には友情が芽生える。しかしある朝、拳銃を手にマーロウの前に現れたレノックスはメキシコへの逃避を手伝うように頼む。途中まで彼を車で送ったマーロウは帰宅するなり、警察に拘束される。シルヴィアが自宅で撲殺されていたのだ。そしてまもなくレノックスがメキシコの僻村で犯行声明を残して自殺を遂げたという知らせが入る。果たして本当にレノックスがシルヴィアを殺したのか。マーロウは独自に捜査を始める。一方、同じ時期、マーロウのもとにニューヨークの出版社から依頼が届く。ロスアンジェルス郊外に住むロジャー・ウェイドというベストセラー作家の身辺警護の仕事だ。いささか芝居がかった状況で依頼者やウェイドの妻と出会ったマーロウは一旦依頼を断るものの、次第にウェイド夫妻とも深く関わることとなる。このような展開から読者はレノックスが引き起こした事件にウェイド夫妻がなんらかのかたちで関わっていることを予想するだろう。しかし物語は単純な謎解きのかたちをとらない。医者や作家や大富豪、物語はアメリカの裕福なサヴァーヴィアンたちの退廃的な生活を活写しながら、驚くべき結末へと向かって進む。かなり長い小説であるが、章ごとの物語の切り返しが巧妙で、意外な事件の連続に読者は最後まで飽きることがない。
 しかし私が興味をもったのは物語の内容以上にきわめてシックな文体である。文体、といっても翻訳小説であるから、この文体の成立には村上春樹自身が大きく寄与しているはずだ。村上自身、文庫版に付した長いあとがきの中で、自分が最初にこの本を読んだとき、なによりもその「文体の普通でなさ」にショックを受けたと記している。私には原文のニュアンスはわからないが、確かにこの小説の魅力はストーリーの展開や小説的技巧以上に、まず文体にある。もっとも文体という言葉で何を指すかは難しい。村上はあとがきの中で村上なりにチャンドラーの文体について分析しているが少々わかりづらい。少し長くなるが、まず私が強く印象に残った二つのパッセージを引用しよう。

テリー・レノックスとの最初の出会いは〈ダンサーズ〉のテラスの外だった。ロールズロイス・シルバー・レイスの車中で、彼は酔いつぶれていた。駐車係の男は車を運んできたものの、テレー・レノックスの左脚が忘れ物みたいに外に垂れ下がっていたので、ドアをいつまでも押えていなくてはならなかった。酔っ払った男は顔立ちこそ若々しいが、髪の毛はみごとに真っ白だった。泥酔していることは目を見れば明らかだが、それをべつにすれば、ディナー・ジャケットに身を包んだ、当たり前に感じの良い青年の一人でしかない。人々に湯水のごとく金を使わせることを唯一の目的として作られた高級クラブに足を運び、そのとおり金を使ってきた人種だ。

女はほっそりとして、かなりの長身だった。高級な仕立ての白い麻の服を着て、白と黒の水玉模様のスカーフを首に巻いていた。髪はおとぎ話に出てくる王女を思わせる淡い金髪だ。小さな帽子をちょこんとかぶり、淡い金髪がそこに巣の中の小鳥のように収まっていた。瞳は矢車草のブルー、あまりない色だ。まつげは長く、はかないばかりに白い。彼女は通路を隔てた向かいのテーブルに行って、肘まで隠れる白い長い手袋をとった。年寄りのウェイターが彼女のために恭しくテーブルを引いた。私がウェイターにそんな立派なテーブルのひき方をされることはきっと死ぬまであるまい。彼女は腰を下ろし、バッグのストラップに手袋をはさみ、ウェイターに微笑みかけ、礼を言った。

最初はこの小説の冒頭、マーロウがレノックスに初めて会う場面、二つ目もやはりマーロウが小説の主要人物であるウェイド夫人を初めて目にするシーンの描写だ。直ちに情景が浮かぶような鮮やかな描写である。二人の人物がまずその外面において記述される。しかしこれは客観的な描写ではない。いずれの文章も後段にマーロウのコメントが加えられていることからわかるとおり、これはマーロウの視点から見たレノックスとアイリーン・ウェイドの描写なのだ。かくのごとくこの小説はすべてマーロウの視点から語られている。文中でも一人称が用いられているから、このような視点の設定自体はなんら不自然ではない。興味深い点は一人称が用いられているにもかかわらず、マーロウの内面描写が全くない点である。当然ながらこの点には村上も注目し、次のように述べている。「我々はフィリップ・マーロウを主人公とするいくつかの物語を読み、様々の事象についてのフィリップ・マーロウの所見のありようを知ることになる。行動の基本的様式のようなものを理解することになる。(中略)ところがそれによって、我々が少しでもフィリップ・マーロウという人間の本質を理解できたかというと、おそらくそんなことはない。我々がそこで理解するのは、あくまでもフィリップ・マーロウという『視点』による世界の切り取られ方であり、そのメカニズムの的確な動き方でしかない。」村上はここから「仮説システム」という難解な概念を提起するが、むしろ今引いた説明の方がわかりやすい。一人称を用いながら、語り手の内面について全く語らない語り。これはきわめて独特な姿勢であり、私はこのような語りが先に述べた独特の「文体」に由来していると思う。つまりチャンドラーにあって「文体」とは、修辞の巧拙や語彙の豊かさ、比喩の巧みさといった問題とは関係なく、端的に世界との関わり方、村上の言葉では「世界の切り取られ方」であるからだ。物語を通してロスアンジェルスの退廃した上流社会はあたかもマーロウという存在によって分光されていくかのようだ。マーロウはいわばプリズムであって、私たちはプリズムをとおして世界を知るが、プリズムそれ自身については何の知識も得ることができない。このような話者は私にとっても大いに新鮮であった。通常であれば私たちは一人称を用いた小説を読み進める中で、次第に語り手について知り、多くの場合、語り手に共感しながら物語を共有する。確かに私たちはシニカルなマーロウの感慨に触れ、時に手荒で時に繊細な彼の行動を追うことによって、タフでジェントルな(『プレイバック』中の有名な台詞だ)マーロウという私立探偵にシンパシーを抱くかもしれない。しかし私たちは決して彼の内面にまで踏み込むことはできないのだ。マーロウという人物のなんともいえない魅力もこのような語りと深く結びつく。私たちは彼を通して物語の中に導かれながらも、彼の本性については何一つ知りえない。
 この点はヨーロッパ文学とアメリカ文学の区別を考えるにあたって一つの手がかりになるかもしれない。村上も書いているとおり、心理描写を削ぎ落とした「文体」の先例としてはヘミングウェイが思い浮かび、(私は未読だが)チャンドラーが師と仰ぐダシール・ハメットにも同じ傾向があるらしい。あるいは私はこの系譜の端にこのブログでも何度か取り上げたコーマック・マッカーシーの異様な「文体」を直ちに位置づけることができると思う。読者は登場人物の内面を知ることなく、描写される事実によってそれを忖度するしかない。かかる姿勢はイギリスやフランスの心理小説の伝統、あるいは「意識の流れ」を主題とした一連の作品の対極にある。ジョイスやプルーストを想起すれば理解されるとおり、このようなヨーロッパ的伝統は一方でモダニズム文学の正系をかたちづくりながらも、あまりに洗練、主知化されたために一般に受け容れられるものではなかった。これに対してヘミングウェイ以降のアメリカのハードボイルドが、チャンドラーにみられるとおり、時にジャンル小説に分類されながらも大衆の支持を受けたことは興味深い。(この点でフォークナーはきわめて微妙だ。この問題はそれ自体で一個の論文の主題となるだろう)そして私が感銘を受けるのはチャンドラーがかかる独特の文体を一人称の話者とともに駆使している点である。今挙げたヘミングウェイからマッカーシーにいたるアメリカの「非情の文学」の系譜においては多くの場合、三人称が用いられているはずだ。なぜなら一人称を用いながら、語り手の内面に一線を引いた描写とはそれ自体が二律背反、矛盾した語りであり、叙述の難度がきわめて高いからだ。最初に述べたとおり、チャンドラーは今回が初読であるため、私はマーロウが登場するほかの小説を読んだことはない。しかし村上のあとがきによればチャンドラーは20年の間にフィリップ・マーロウを主人公とする小説を7冊発表しているという。ほかの小説でも同様の文体が用いられているとするならならば、今指摘した困難を勘案するに、奇跡的な仕事といえるのではなかろうか。村上はチャンドラーという作家が「生きていくために文章を書くことを必要とし、たとえそれがどんなものであれ、うまく書かないわけにはいかなかった」と述べ、作家への深い共感と敬意を示している。それはおそらく村上も同じモラルを自らに課しているからであろう。チャンドラーと村上、作風としては大きく異なりながらも、両者は小説家としての職人性、書くことへの敬虔さにおいて共通する。村上がこれまで本書を時に訳書で、時に原書で何度となく読み返すに飽き足らず、ついには自ら翻訳した理由は明らかだ。本書は二人の稀代のプロフェッショナルによる麗しき協同の結実なのである。
by gravity97 | 2013-08-27 21:31 | 海外文学 | Comments(0)
b0138838_17334544.jpg 初めてカズオ・イシグロを読んだ際に受けた感銘はこのブログに『日の名残り』のレヴューとして書き留めた。私は関心をもった作家については固め読みすることが多いが、この作家についてはあえてゆっくりと読み継いでいる。急いで読むのが惜しいのだ。これまでに私は音楽を主題にした短編集『夜想曲集』、カフカ的な不条理小説『充たされざる者』、そしてなんとも切ない読後感を残す『わたしを離さないで』という三つの小説をあえて時間をあけて読んだ。驚くべきことには、内容は全く異なりながらもいずれも傑作と呼ぶにふさわしい。私はイシグロの小説家としての資質にあらためて舌を巻いた。
 久しぶりに同じ作家の『わたしたちが孤児だったころ』を読む。これもまた今まで読んだどの小説とも異なった内容でありながら、いかにもイシグロらしい味わいのある傑作である。実はこの小説に先立ち、私はコーマック・マッカーシーの『チャイルド・オブ・ゴッド』とドン・デリーロの短編集『天使エスメラルダ』を続けて読んだ。いずれもこのブログで応接したことのある作家であり、どちらも相当な問題作である。しかしこの二冊の横に本書を置くならば、私がまずレヴューしたい小説は明らかだ。なによりも『わたしたちが孤児だったころ』には小説を読む愉しみがあふれている。以下、内容にも立ち入りながらこの小説について論じる。
 今、私はカズオ・イシグロの小説がお互いに全く似ていないと述べた。第二次世界大戦前後のイギリスの貴族の邸宅、東欧を連想させる何処とも知れぬ街、近未来の謎めいた寄宿舎。イシグロの小説は舞台も登場人物もそれぞれに異なる。その一方で私は『わたしたちが孤児だったころ』の冒頭に私は既視感も覚えた。「1923年の夏のことだった。その夏、わたしはケンブリッジ大学を卒業し、シュロップシャーに戻ってほしいと伯母が願っていたにもかかわらず、自分の未来は首都ロンドンにあると心に決め、ケンジントンのベッドフォード・ガーデンズ14b番地に小さなフラットを借りた」という冒頭の一文。すでにここでいくつかの説話的な構造が明らかになる。まずこれが一人称によって語られる物語であること、時代と場所が特定可能であること、そしてさらに重要な点はこの物語が未来の一点から回顧として語られていることである。このような語りは『日の名残り』の主人公、執事スティーブンスの語りとよく似ている。事後としての語り、ここには既に一つの説話的な企みが凝らされている。すなわち話者はあらかじめ何が起きたかを全て知っているのに対し、読者は物語の中で生起する事件を話者の語りを通してしか知りえない、このような不均衡をイシグロほどみごとに小説に生かす作家を私は知らない。
 全部で7章から成るこの小説はいずれも章のタイトルに時間と場所が明示される。すなわち1章と2章は1930年と31年のロンドン。3章は1937年のロンドン、そして4章から6章までは1937年の上海、7章は1958年のロンドンが物語の舞台とされている。最初に述べたとおり、この小説は一人称の語り手の気ままな語りによって成立しているから、それぞれのエピソードの時と場所はめまぐるしく変わるが、この章立てを頭に入れておけば物語の推移を追うことはさほど難しくない。最初の二つの章で語り手、すなわちケンブリッジ大学を卒業した青年クリストファー・バンクスによって一つの謎が発せられる。いかなる謎か。勿体ぶる必要はなかろう。この謎は物語の中で明確に語られるし、そもそもタイトルがそれを暗示している。貿易会社に勤務する両親や乳母たちと上海の租界で安穏と暮らしていた少年クリストファーの前から父そして母が相次いで謎の失踪を遂げたのである。イギリスの伯母の元に引き取られ、長じて探偵としての成功をおさめたクリストファーは父母の消息を求めて日中戦争の最中にある上海へ旅立つ。ロンドン出立から上海における探索がこの小説の3章から6章までを占める。父母の失踪にまつわる謎は6章の最後で一応の解明をみる。そして時を隔てた20年後、7章において物語全体が静かに一つの結末を迎える。未読の読者のために謎の解明と最後の結末については触れないが、このように乱暴に物語を要約したとしても作品の魅力は全く色あせない。少しずつ明らかにされる謎、巧妙な伏線と意外な展開、交錯する人間関係、頻繁なカットバックやフラッシュフォワード、イシグロが次々に繰り出す小説的技巧に翻弄される中で私たちはあらためて小説を読むことの愉楽に身を任せる。
 この小説における時制、つまりそれぞれの章がどの時点で執筆されたかを特定することは難しい。一つの手がかりはそれぞれに章の冒頭に書きつけられた日時と場所だ。第2章の末尾に次の記述がある。「だが、今は眠らなければならない。朝には仕事がたくさん待っているし、今日の午後、サラとバスの二階に乗ってロンドンを動き回ったために失った時間も取り返さなければならない」この記述からこの章はクリストファーがロウアー・リージェント・ストリートのレストランでサラ・ヘミングスという女性と再会した日に記されたことが推定され、おそらくそれは章の扉に掲げられた1931年5月15日の出来事であっただろう。したがって章のタイトルに付された年記と地名はそれぞれの章を執筆した時と場所の覚えであると考えられる。この時、この小説は2章と3章の間に大きな断絶をはらんでいる。先に述べた通り、最初の2章がロンドンで1930年代初頭に執筆されたのに対して、3章以降は1937年の上海、具体的にはキャセイ・ホテルで記されたはずだ。(厳密には3章にはロンドンという表記があるが、内容的に上海へ渡航する前触れであるから2章との間に断絶がある)形式的にも最初の二つの章と3章以降には大きな違いが認められる。最初の二つの章ではフラッシュバックが頻繁に用いられ、読者はロンドンと上海、現在と過去をめまぐるしく往還する。しかし3章以降、語り手の意識は現在、つまり1937年の上海に集中する。別の言葉を用いるならば、1章と2章が語り手の記憶に基づいて常に過去を参照するのに対し、クリストファーが上海に赴き、両親の捜索を開始する3章から6章はいわば探索の経過報告、現在形の物語へと転ずるのだ。(ただし時制としては全編を通して過去形が用いられている)かかる複雑な時制の理由は明らかである。先に記したとおり、本書は一人称の話者が事後的に回顧するという形式をとっているため、物語の時間的位置に客観的な判断を下す根拠が存在しないのだ。そしてこのような混乱は明らかに意図的に導入されている。上海での探索の過程でクリストファーは思いがけなく旧友の日本人アキラ、ロンドンの社交界で旧知であったサラ・ヘミングスらと再会する。このあたりの錯綜、つまり記憶の中に登場した人物と現在形として出会う人物との交錯がこの小説の大きな魅力をかたちづくっているといえよう。
 記憶と現在、このような対比が与えられる際、通常であれば記憶はあいまいであり、現在は明晰なはずだ。しかし奇妙にもこの小説においては語り手の記憶を介して語られる過去の上海はくっきりと浮かび上がるのに対して、父母の消息をもとめてクリストファーが彷徨する1937年の上海は奇妙に歪んでいる。もちろんそれはこの都市が日中戦争という混沌とした状況下にあることが一つの理由かもしれない。実際に物語の終盤でクリストファーは市街戦が繰り広げられている上海を父母の手がかりを求めてさまよう。しかしここで描かれる上海はどこか非現実的なのである。例えばクリストファーを迎える上海市参事会代表、グレイスンなる人物はまもなくクリストファーの両親が囚われの身から解放されると説き、彼らの歓迎式典のプロトコルについて繰り返しクリストファーに質す。唐突に語られるグレイスンの挿話は物語に挿入された異和であり、その意味が明らかになることもない。このような奇妙なエピソードからは長編『充たされざる者』が想起されよう。『充たされざる者』においてはヨーロッパの小都市を訪れたピアニスト、ライダーが彼を迎える人々によって歓待され、「木曜の夕べ」という演奏会への期待を表明される。しかし彼が迎えられた目的、そして彼がなすべき仕事は一向に判明しない。カフカを強く連想させるこの小説においては主人公と彼を取り巻く世界の不調和が主題とされている。東欧と思しき落ち着いた佇まいの街と戦火の中にある上海、舞台は大きく異なるものの、単に人々と意志の疎通ができないだけではなく、そもそも都市の時空自体がねじれているような印象を与える。『充たされざる者』においては車で出かけた遠い屋敷のドアはライダーが宿泊しているホテルに通じており、『わたしたちが孤児だったころ』では上海で偶然に出会ったイギリスの寄宿舎時代の友人に連れて行かれた邸宅はなぜかクリストファーが幼時を過ごした家であったのだ。このような記述は不条理というより夢の中の出来事のようにも感じられる。したがってこの小説は記憶と夢を描いているといえるかもしれない。記憶も夢も意識の中には存在しながら、かたちをもたない。それは小説を読む体験と似ている。
 「わたしたちが孤児だったころ」というタイトル自体も一つの謎を提示している。「わたしたち」とは誰か。語り手、両親を失踪によって失ったクリストファーが孤児であることはたやすく了解される。しかし「わたし」ではなく「わたしたち」なのだ。この小説には三人の「孤児」が登場する。クリストファー、社交界で男から男へと渡り歩くミス・サラ・ヘミングス、そして両親を海難事故で亡くし、クリストファーに引き取られた娘ジェニファーであり、いずれもこの物語の中心に位置し、三人の葛藤は物語の縦軸を構成している。しかし単にこの三人を指しているのであろうか。孤児とは何の係累ももたずに世界に直面する者のことだ。孤児は用心深く、手探りで世界との距離を測る。物語の冒頭にクリストファーがイギリスの学校に転入した最初、いかにみごとに学校や仲間に適応し、社会に順応していったかを誇らしげに語る記述がある。おそらくこの感慨は長崎に生まれ、5歳の時にイギリスに渡った石黒一雄の体験を反映しているかもしれない。しかしさらに広げて私たちは誰でも生まれながらに「孤児」であると考えることはできないだろうか。私たちを取り巻く世界、それは必ずしも私たちにとって調和的ではない。私たちもまた手探りで世界との距離を測りつつ、世界の中で私たちが占めるべき位置を定めるのではないだろうか。上海で少年時代を送り、ロンドンで成長するクリストファーというかなり特異な経歴をもつ人物を主人公に据えながらも、私たちがごく自然に物語の中に入り込むことができるのは、私たちもまた自らの生の中で必死に世界との距離を測っているからかもしれない。それゆえあえて詳しく触れなかった最後の章、自らの孤児性のゆえんを探るクリストファーの探索の結末は読む者に深い余韻を残すのである。
by gravity97 | 2013-08-17 17:40 | 海外文学 | Comments(1)
b0138838_9421299.jpg
 半年ほど前から国書刊行会よりボルヘスの『バベルの図書館』が重厚な装丁のもとに新編として刊行され始めた。私の記憶によれば同じ内容のアンソロジーは既に同じ版元から出版されていたが、確か作家ごとにまとめられていたため、いちいち買い求めるには煩雑であり、私は長く敬遠していた。今回の新編は作家ごとではなく国ごとの合本、つまりアメリカ編、イギリス編、フランス編、ドイツ・イタリア・スペイン・ロシア編、ラテンアメリカ・中国・アラビア編の五部によって構成され、イギリス編のみ二巻、ほかは一巻にまとめられている。以前より関心をもちながらも、読むきっかけがなかった作家が多く収録されていることもあり、この機会に最初に刊行されたアメリカ編をやや時間をかけて通読する。
 周知のごとく「バベルの図書館」という叢書はアルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが古今東西の文学の中から選りすぐった短編のアンソロジーである。したがって同じ叢書は日本以外でも出版されているはずであり、著作権に関する表記からおそらく最初イタリアで刊行されたのではないかと思われるが、、本書にはこのアンソロジー全体についての編者の意図の説明や翻訳者による解説が付されていないため、このあたりの事情はよくわからない。興味深いことにはボルヘス自身の短編集『伝奇集』の中にもやはり「バベルの図書館」という短編が収められている。ボルヘス自身もアルゼンチン国立図書館の館長を務めたというエピソードはさておき、無限を内包する図書館の構造の仔細について論じたこのメタフィクション自体もこのブログの一篇を用いて応接すべき深みを備えているが、ひとまずは措く。以上の説明からも『バベルの図書館』という叢書の特異性は明らかであろう。それはボルヘスという稀代の碩学が選んだ世界文学の見本帳であり、地域にしてアメリカからヨーロッパ、アラビア、時代にして『聊斎志異』からカフカまでを包摂する奇跡のような集成なのである。数カ国語に通じたボルヘスがコスモポリタンであることはいうまでもないが、それでもなお、かかる試みがアルゼンチンというヨーロッパからも北アメリカからも周縁とみなされる地域の文学者によってなされたことの意味は大きい。英語圏、特にイギリスの作家にやや比重が置かれていることはボルヘスが幼時より英語に親しみ、イギリス式の教育を受けたことが反映されているかもしれないが、ポーやワイルドはともかくマイリンク、パピーニといった私が初めて聞く作家を動員して世界文学を編集するという発想は一種のグローバリゼーションではないか。もっともかつて『汚辱の世界史』の中に吉良上野介の項目を認めて驚いた私としてはさもありなんというラインナップでもある。
 前置きが長くなった。本書の内容について触れよう。本書に収録される作家は五名、ナサニエル・ホーソーン、エドガー・アラン・ポー、ジャック・ロンドン、ヘンリー・ジェイムス、ハーマン・メルヴィルという面々だ。私はいずれの作家の作品も興味深く読んだ。メルヴィルのみ一篇、あとの作家は五篇ほどの短編が収められている。もちろん私は彼らの名前は知っていたし、ポー、ロンドン、ジェイムスについては随分昔に短編を読んだ記憶がある。これらの作家は現在でも真剣に読むつもりであれば主要な作品を日本語で読むことは不可能ではなかろうが、アメリカ文学の専門家でもなければなかなか手に取る機会のない作家であり、どの短編を読むべきかに関しては途方にくれてしまう。この時、優れた読み手によってまとめられたアンソロジーはよきガイドブックになる。先にこのブログでは池澤夏樹が編んだ世界文学の短編集について論じたことがあるが、池澤同様にボルヘスもまた信頼に足る小説の読み手である。彼の選択を信じることなしに私は生涯のうちにこれらの短編を読むことがなかったかもしれない。
 ボルヘスは1899年生まれであるから、その一生は20世紀に重なる。ここに収められた作品は彼が作家としての自我を形成した時期に読み込んだ小説であり、当然その大半が19世紀に発表されている。(収録作品については原題のみ記されているが、書誌的には少なくとも発表年についても明記してほしかったと思う)したがって大半の作品は20世紀の小説を読み込んだ私たちにとっては少々古めかしく感じられる。しかし決して古びてはいない。後で記すとおり私はこれらの小説を読んで、現代の日本の小説についても考えるところがあったのだ。少々乱暴な議論となることを承知したうえで述べるならば、小説において19世紀と20世紀を分かつものがあるならば、それは「物語を語る」ことが無前提に許されているか否かという点ではないだろうか。20世紀以降、文学はなぜそれが言語によって表現されなければならないかということを常に問題としてきた。この言い方が強すぎるならば、言語によって表出されるという自覚なくしては成立しえなくなったといってもよい。それをモダニズムと呼んでもよかろうし、形式への関心といってもよかろう。20世紀文学において視点や人称、意識の流れや時制といった問題が探求されたのはこのような理由による。これに対して19世紀以前の文学においては作家の関心は主として何を語るかという点に向けられた。それゆえバルザックならば社会、ドストエフスキーならば神といった重厚きわまりない主題を臆面もなく扱いながら多くの傑作に結実させることができたのだ。(むろんこれは彼らが作品の形式に無関心であったことを意味しない)重厚な主題に対しては重厚な小説。19世紀が長編小説の時代であったことには理由がある。しかし『バベルの図書館』に収録され、ボルヘスが好んだのはむしろ短編であった。それではこれらの短編で作家たちは何を語ろうとしたのであろうか。
 確かに本書に収められた作家は『白鯨』を著したメルヴィルを除いて短編の書き手が中心である。ほかの巻に収録された作家たちも国籍こそ異なるが、いずれも短編作家として知られ、それゆえ比較的知名度の低い作家たちである。まだアメリカ編を通読しただけの時点で、結論づけることは早計に過ぎるかもしれないが、私はこれらの小説の多くに共通する特質を見出したように感じる。それは「奇譚」を語るという姿勢だ。試みに劈頭のホーソーンの『ウェイクフィールド』を読んでみよう。ボルヘスが「文学における最高傑作の一つ」とまで激賞するこの短編はタイトルのとおり、ウェイクフィールドなる奇矯な人物の「失踪」をめぐる物語である。平凡な生活を送っていたウェイクフィールドはある日、旅行に出かけると言って妻のもとを立ち去り、そのまま失踪する。しかし実は彼は隣り合わせの通りに部屋を借り、妻にも友人たちにも知られることないまま20年以上暮らし続けていたという話である。しかもこの小説の核心は物語が語り始められると直ちに読者の前に開陳されている。「文学における最高傑作の一つ」であるかどうかはともかく、実に奇妙な小説といえよう。ちなみに辞書で「奇譚」の語を引くと、「世にも珍しく興味ある話」という定義がなされているが、本書に収められた短編、例えば催眠術によって死を遅延させる試み、残忍なコサックに囚われた毛皮泥棒のたくらみ、軍人の名門一族の屋敷に出没する幽霊、これらの物語はいずれも奇譚と呼ぶにふさわしい。これと関連して、ここに収められたテイストの異なった作品のいくつかに共通する一つのモティーフが見出せることは興味深い。ホーソーンの「人面の大岩」、ロンドンの「影と光」、ジェイムスの「私的生活」、本書には収録されていないがここにポーの不気味な短編「ウィリアム・ウィルソン」を加えるならば、いずれの小説もダブル(分身)、もしくは双子という主題系列に連なっている。もちろん作品によってこのモティーフはさまざまに脚色されており、そのヴァリエーションを読み比べることも本書の大きな楽しみであるが、ダブル、分身の物語とは古今東西を問わず、奇譚の典型であり、おそらく『バベルの図書館』の他の巻にも同じモティーフが頻出することを私は現時点で断言できる。
 ボルヘスもまた奇譚の作家であった。例えば「記憶の人、フネス」、「不死の人」、「死後の神学者」。これらの短編はそのタイトルを読んだだけで「世にも珍しく興味ある話」が語られることが予想される。『バベルの図書館』とはまさに一個の想像上の図書館として彼がこれらの作品を執筆するうえで参照される書架であり書庫であったといえるかもしれない。そしてもう一冊、「奇譚」という言葉から私が連想するのは村上春樹の『東京奇譚集』である。この短編集の冒頭で村上は次のように語る。「どうして僕がここに顔を出したかというと、過去に僕の身に起こったいくつかの『不思議な出来事』について、じかに語っておいた方が良いだろうと思ったからだ」村上は自分が語るのは奇譚であることを言明したうえで、相互に無関係な五つの物語を読者に差し出す。この短編集に限らず、村上の小説はなにものかの侵入によってごく普通の日常を送っていた主人公が「不思議な出来事」の中へ投げ出されるという構造をとる場合が多い。例えば『バベルの図書館』中、語り手が経営する法律事務所に新たに雇われた男の奇妙なふるまいを描いたメルヴィルの「代書人バートルビー」などは村上の短編とよく似た構造を有しているといえよう。
 偶然であるが、私はボルヘスが編集したこの長大なアンソロジーを読む途中で、その中に挟み込むように一冊の新刊を読んだ。いうまでもなく村上の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』である。たまたま同じ時期に読んだため、私は村上の小説が本質的に奇譚と深く関わっていることにあらためて思い至った。村上の新刊においてもサブストーリーとして一つの奇譚が語られる。それは主人公である多崎つくるの友人の灰田、正確には灰田の父親の話として語られる、人の背後に色彩が見える男の話である。ただしこの奇譚は必ずしもうまく機能していないように感じられる。このエピソードはメインストーリーとかみあうことなく灰田とともに物語の途中で退場してしまうのだ。私はこの奇妙なタイトルの小説をそれなりに楽しんで読んだが、語られる内容と物語の長さが村上としては珍しく不調和な印象を受けた。本稿は村上の新刊について論じる場ではないので、これ以上踏み込んで論じることはしないが、私は先に奇譚の典型として分身ないし双子という主題を挙げた。初期の村上の作品、例えば『羊をめぐる冒険』においても双子という主題が見え隠れしている点については既に蓮實重彦が指摘している。したがって少なくとも村上において奇譚を語ることは必ずしも短編ばかりと結びつく訳ではない。あるいは奇譚の積み重ねによって作品が成立するガルシア・マルケスや現代風の綺譚にカフカ的なひねりを加えたポール・オースターのような作家を想起してもよいだろう。19世紀の短編小説を特徴づける奇譚という語りは今日においてもきわめて有効な物語の原理なのである。
「文学とは幸福というものの数ある多様な形態のうちの一つである」とはボルヘス自身の言葉だ。本書を通読して、そして私が読んでいない『バベルの図書館』がなお5冊も残されていることを知る時、私はこの言葉に全面的に同意する。b0138838_9424537.jpg
by gravity97 | 2013-04-27 09:47 | 海外文学 | Comments(0)
 バルガス=リョサの小説について論じるのは二度目となる。このところバルガス=リョサの翻訳が進み、嬉しいことに読み落としていて入手困難であった『継母礼賛』、そして『官能の夢 ドン・リゴベルトの手帖』がいずれも中公文庫に入った。少し前には岩波文庫から『密林の語り部』も刊行されている。これらは文庫で手軽なこともあり、近いうちに読むことになるだろう。最近読んだ『悪い娘の悪戯』は一種のファム・ファタール譚であり、世界中の都市を舞台に40年にわたって一途な愛を捧げる主人公とそれを翻弄する娘の物語であった。主人公のもとを出奔した娘はなんと東京でフクダなるヤクザの情婦として登場する。語りの形式という点では比較的単純でありながら、物語を読む楽しさを満喫させてくれる佳作であった。
b0138838_2124139.jpg

 『アンデスのリトゥーマ』は今挙げた二つの「官能小説」、『継母礼賛』と『官能の夢 ドン・リゴベルトの手帳』にはさまれる形で1993年に原著が発表されている。リトゥーマという名前には聞き覚えがあった。バルガス=リョサの出世作で日本でも最初に翻訳された『緑の家』では治安警備隊員、中編『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』には警官として登場している。『緑の家』は砂漠の都市と密林の集落、現代と太古が共存するアマゾン川流域を舞台とした神話的な風格をもった小説であったが、私は『アンデスのリトゥーマ』を読みながらしきりと『緑の家』が連想された。それというのもこの小説もまた異なる文明の接触という主題と関わっているからだ。今回は内容にも深く立ち入って論じる。
 治安警備隊員のリトゥーマ伍長はアンデスの山岳地帯にあるナッコスという集落に助手のトマスとともに駐屯している。ナッコスではハイウエーの建設が進められており、インディオと工事の作業員たちが生活している。物語はリトゥーマのもとにデメトゥリオという工事の現場監督が行方不明になったという知らせが届く場面で始まる。失踪したのはデメトゥリオが最初ではない。駐屯所の手伝いをしている口のきけないペドリート、工事現場で働いていたワルカーヤに続いて三人目となる。彼らはどこへ消えたのか。誰が関与しているか。物語は捜査を開始したリトゥーマを中心に展開するから、一篇の推理小説として読めないこともない。登場人物はさほど多くない。今挙げた五人に加えてナッコスで酒場を経営し、リトゥーマが事件の黒幕ではないかとにらむディオニシオと占いや呪いに通じた妻のドーニャ・アドリアーナ、そしてトマスがナッコスに来る前に恋仲となるメルセーデスという娘。物語の中心を占めるのはこれらの人物だ。いつもどおりバルガス=リョサの小説は語りが素晴らしい。この小説は無数の断章の連続として成立しているが、それらは時間的な先後関係においてもメインストーリーからの距離においてもばらばらに感じられながら相互に絶妙の距離を保ちつつ、物語を形成していく。私たちは時にストーリーの帰趨を予想しながら、時に全く新しい物語に当惑しながら小説を読み進める。語りの巧さは例えば次のようだ。リトゥーマがトマスからメルセーデスとの馴れ初めを聞く場面ではひとまずはリトゥーマとトマスの対話として物語が続く。しかし彼らの会話に併記される地の文の中に「若い男」という人物が登場する。初めは誰のことか当惑するが、読み進めるうちにそれはトマスと同一人物であることがわかる。つまりここではリトゥーマにティンゴ・マリーアという町からメルセーデスとともに出奔した経緯を話すトマス(語るトマス)とトマスが回顧する自分(語られるトマス)が分裂して同じテクストの中に登場するのだ。このような構造は物語が本質的に何者かによって語られているという暗黙の前提を私たちに意識させる。
 バルガス=リョサの小説には時に凄惨な暴力が描かれる。前回このブログで取り上げ、独裁者の暗殺とその後の無残な粛正を描いた『チボの狂宴』に顕著であった残虐行為の描写はこの小説では多くレティサンス、黙説法で描かれる。バルガス=リョサとしては珍しくこの小説は全体に緊張感が張り詰めている。それは三人の人間が突如消息を絶つという謎によってもたらされるだけではない。時代を特定可能な固有名詞が少ないため、推測の域から出ないが、例えば物語の中で言及される「センデーロ・ルミノーソ」は80年代から武装闘争を本格化したペルーのゲリラ組織であるから、おそらくこの物語は近過去を舞台としている。物語の中にはセンデーロ・ルミノーソの指導を受けたとされる「土くれ(テルーコ)」と呼ばれる武装集団が登場し、住民や労働者を理由なく殺戮する。多焦点の語りを得意とする作家としては珍しく、ということは明らかに意図的に「土くれ」に属する登場人物が焦点化されることはない。正確には「土くれ」に属する人物は常に匿名的で内面化されることがない。このため私たちは、物語中に突然介入する暴力の意味や由来について、リトゥーマをはじめとする先に挙げた人物たち、いわばこちら側の視点を借りて推測することはできるが、真相を知ることはできない。例えば冒頭近くで私たちはクスコまでバスで移動しようとしたフランス人の恋人同士がゲリラと覚しき集団に拉致され、石で打ち殺される悲惨な場面に立ち会う。しかし今述べた通り黙説法で語られるこの悲劇の理由、殺人者たちの正体や意図を私たちは最後まで明かされることがない。物語の中盤に登場し、国際的な支援機関から派遣された女性も技官とともに石で打ち殺される。彼らはいずれも西欧からの来訪者である。本書において西欧とペルー、二つの文明の接触は悲劇的な結末を迎える。近過去のペルーにおいて大統領候補でもあったバルガス=リョサがこのようなエピソードを記す時、それは何かの暗喩として機能するのだろうか。この点については私もよくわからない。
 焦点化されない人物はテロリストたちだけではない。リトゥーマやトマスにとって自分たちが相手をしている共同体もまた理解を絶した存在である。ペルーの山岳地帯に土着の人々、リトゥーマは彼らを、おそらくは差別的な含意をもつ「山棲み」という名で呼ぶ。「山棲み」の世界は迷信に満ち、人間から脂を抜き取って殺すピシュターコと呼ばれる妖怪やムキと呼ばれる山の精霊が跳梁する。文明から遠い地に住む未開の民と政府から派遣された治安警備隊員、ここでも二つの文明の接触というテーマが浮かび上がる。興味深いことに先に挙げた5人の登場人物はいずれもほかの土地からナッコスに移り住んでいる。次第に明かされる失踪した三人の男の来歴、ティモティオ・ファハルドという男と別れ、ディオニシオと駆け落ちするドーニャ・アドリアーナの物語(解説によれば三人はそれぞれギリシャ神話のテーセウス、ディオニソス、アドリアーネと対応している)さらには思いがけず恋に落ちるトマスとメルセーデスの逃避行はいわば物語の横糸としてメインストーリーと絡み合う。緊張に満ちたテロリストたちとのやりとり、マルケスを連想させる奇想あふれる物語、恋人たちの道行に立ちふさがる障壁、リョサは見事な緩急で物語を繰り出し、それぞれの物語は次々に宙吊りにされながら次の語りへと繰り延べられていく。本書においては複数の語りの同時進行というリョサの得意とする技法が遺憾なく発揮された印象がある。しかし先にも述べた通り、登場人物全てに語りと視点の権能が与えられてはいない点には留意する必要がある。もちろんこの物語では一貫して三人称の語りがとられており、明確な一人称の語りは存在しない。しかしナッコスに寄寓する警備隊員や酒場の夫婦、流れ者の作業員は次々に焦点化されて、それぞれ来歴と現在が明らかにされて物語に再配置されるのに対し、舞台となるナッコスの原住民たち、「土くれ」や「山棲み」そしてインディオたちは顔も名前ももたない。次々に繰り出される物語に眩惑されて見落としがちであるが、おそらくバルガス=リョサは意図的にこのような不均衡、不平等を物語の中に組織している。物語の中心に言葉をもたぬ者たち、主人公たちの理解を超えた存在が位置することも本書を通底する緊張感と関わっているだろう。失踪した三人の男の運命については物語の最後で一応の解明がなされ、ディオニシオの酒場に集う「山棲み」たち、ナッコスの「未開」が関与したことが明らかとなるが、いささか強引な幕引きであり、私にはこの部分はむしろ蛇足のように感じられた。
 常に外部の視点をとおして語られ、自らの言葉をもたない人々。途中に意味ありげに挿入されるフランス人旅行者とヨーロッパ出身の技術者の悲惨な死のエピソードを考慮する時、そこになんらかの意味を見出すべきか、単に私の深読みか、私は判断を下しかねている。物語の終盤で山津波というカタストロフがナッコスを襲う。工事現場は壊滅し、ハイウエーの工事は中止される。労働者たちがいなくなることを見越してディオニシアとドーニャは店を畳んで別の土地へ向かう。リトゥーマとトマスもそれぞれ新しい赴任地が決まり、リトゥーマは単身で、トマスはメルセーデスとともに新しい任地に向かうことが暗示される。つまり主要な登場人物たちは舞台から去る。失踪で始まった物語は語り手たちの退場によって幕を閉じる。町の消滅による物語の終焉、私は反射的に『百年の孤独』を連想した。
by gravity97 | 2013-01-13 21:10 | 海外文学 | Comments(0)
b0138838_20341926.jpg
 本書は全三巻、合わせて1500頁におよぶ大作である。さすがに読了まで時間がかかり、しばらくブログが更新できなかったこともこの理由による。しかしなんと深い感銘を与える小説であろうか。疑いなく20世紀文学屈指の傑作である。そしてそもそもこの小説が刊行されたこと自体が一つの奇跡なのである。その経緯については第一巻の巻末のマリーナ・スミルノーワ女史の解説に詳しい。著者グロスマンは1960年に本書の原稿を雑誌「ズナーミヤ」(ソ連作家同盟機関誌)編集部に持ち込んだ。しかし周囲が危惧したとおり、編集長V.M.コジェフニコフは本書を「政治的に敵意のあるもの」として国家保安委員会に通報し、家宅捜索によってこの小説の原稿、下書きの類は一切没収された。没収はタイプライターのインクリボンにいたる徹底的なものであったという。ソ連当局がいかに本書を危険視したかが理解されよう。グロスマンはフルシチョフに手紙を書いて小説の刊行を要請したが、受け入れられることなく、1964年に作家は本書の刊行を見ることなく没した。しかしグロスマンは事前にいくつかのコピーを作り、友人に委ねていた、曲折を経て、本書は最初国外で、そしてペレストロイカの追い風を受けてソ連国内では1988年に刊行された。実はこの小説はグロスマンによるスターリングラード二部作の後編にあたり、前編は1949年に「ノーヴイ・ミール」の編集部に提出された。しかし編集部から共産党の中央委員会に送られた原稿は徹底的な修正を加えられ(小説の九語ごとにコメントが付されたという)『正義の事業のために』というグロスマンが関知しないタイトルを付されて、1953年に「刊行」された。『人生と運命』に匹敵する長編でありながら、無残に改竄されたこの小説についてのグロスマンのコメントは残されていない。インターネットが発達した今日では想像もつかないが、言葉による表現が検閲、統制を受けたうえでなければ出版できないという体制、時代が存在したのだ。おそらくグロスマンはもはや原形もとどめない『正義の事業のために』に見切りをつけ、『人生と運命』の執筆を続けたのであろう。しかし一人の作家が一生をかけて書き継いだ小説さえも生前には出版されなかったという事実はあまりにも苛酷である。そしてこの苛酷さは確かに小説の内容と見合っている。
 出版の経緯について長々と記したが、このような事情は本書を読むうえで常に想起されるべきである。それではこの小説の内容はいかなるものか。スミルノーワは解説の冒頭で実に的確に次のように要約する。「『人生と運命』は読むのではなく、すべてはこんなふうではなかったと―現在あるもののためにこれほどの犠牲は払われなかったと―遠慮がちに願いながら、それを生きてみる本である」どの巻も巻頭に100人以上に及ぶ登場人物についての簡単な説明が付されている。ロシアの小説を読む時の常として長くて紛らわしい人名、複雑な親称や敬称を同定する苦労はこの長大な登場人物リストと文中の丁寧な注釈によってずいぶん軽減されている。登場人物は絶滅収容所で命を絶たれるユダヤ人の少年から、ヒットラーやスターリンに及び、私は久しぶりに「全体小説」という言葉を思い出した。この点で本書はソルジェニーツィンの『煉獄のなかで』を連想させるが、1968年に発表されたソルジェニーツィンの小説が本書に影響を与えたとは考えられない。多くの登場人物の中核に位置するのがシャーポシニコフ一家である。直系の人物としてはアレクサンドラという母親とリュドミーラ、マリーヤ、エウゲーニヤという三人の娘、そしてドミートリーという息子、さらにドミートリーの息子でアレクサンドラの孫にあたるセルゲイが登場する。しかしこのうち、マリーヤはヴォルガ川でドイツ軍の攻撃を受けて既に水死しており、ドミートリーはラーゲリに送られて音信不通のため、作中に直接には登場しない。マリーヤが水死する顚末はスターリングラード二部作の前半『正義の事情のために』の中に描かれており、無残に改竄された小説の梗概は第三巻の最後に記されているから、読者は最初にこの部分を読んだうえでこの小説にとりかかるのがよいかもしれない。シャーポシニコフ一家の姻戚関係は複雑であり、加えてこの小説が二部作の後半であるため、人間関係の把握に最初は手間取るが、登場人物リストを手がかりにすればさほど難しくはない。シャーポシニコフ家の三人の娘は物理学者ヴィクトル、赤軍のコミサール(政治将校)クルイモフ、戦車軍団の指揮官ノヴィコフ、スターリングラード国営発電所の所長スピリドーノフといった登場人物と結婚、あるいは愛人関係にあり、彼らをめぐる物語が複雑に絡みあって『人生と運命』という壮大な歴史壁画が浮かび上がるのである。
 この長大な物語は霧の中を強制収容所に向かう輸送列車の象徴的な情景で始まる。具体的な日時は特定されないが、第二次世界大戦における独ソ戦を舞台とし、とりわけ独ソ戦のみならず第二次世界大戦の転機を画したスターリングラード攻防戦を物語のクライマックスとしている。以下では内容にも立ち入りながら論じる。この小説に全体を貫く主人公は存在しない。ドイツ軍の捕虜収容所、物理学の研究室、凄絶な市街戦の戦場となったスターリングラード、ユダヤ人が収容された絶滅収容所、モスクワのルビャンカ監獄、あるいはシベリアのラーゲリで繰り広げられる様々な物語のモンタージュとして物語は成立している。いずれも実に苛烈な物語、「現在あるもののためにこれほどの犠牲は払われなかったと願わずにはいられない」物語だ。例えば第一巻でリュドミーラは前夫のアバルチュークとの間の息子、トーリャが戦争で重傷を負ったという知らせを受けて、サラトフという町に向かう。「同じ運命、苦労、悲しみで結ばれた人々の中にいることで、リュドミーラは今ではより楽に、よりましに息がつけるように思えた」しかしサラトフで彼女を待ち受けていたのは老人や弱者、盲人を酷く扱う人々の群れであった。「どこからこの非人間的な表情は生まれてきたのだろうか。何がそれを生んだのだろうか。―この女が幼少期に経験した1921年の飢饉なのだろうか。1930年の大量死なのだろうか。この上なく貧しい暮らしなのだろうか」そしてリュドミーラは三度の手術もかいなく絶命した息子の墓の上で涙を流す。この小説は無数の死者の記録である。トーリャに限らず、登場人物の多くは物語の中で犬のように意味もなく死んでいく。史実に基づいたフィクションとも呼ぶべきこの小説には多くの実在の人物も登場し、その生涯や職業が丁寧な註によって補足されているが、その大半は銃殺、処刑、自殺といった言葉によって最期を記述されている。実に多くの人が非業の死を遂げた時代、大きな犠牲が払われた時代が脚注からも浮かび上がってくる。むろんその背景には独ソ戦にともなうソビエト軍と一般人民の膨大な戦死者の存在があるだろう。この点について私は先にキャサリン・メリデールの『イワンの戦争』を読んで多くを知った。今述べたトーリャは戦闘で命を落とし、スターリングラード攻防戦で「第6号棟第1フラット」と呼ばれる市街の要衝にたてこもる、セルゲイを含む兵士たちの生と死の物語は小説の一つの中核をなす。戦場における死、戦争の非人間性は『西部戦線異常なし』から『裸者と死者』にいたる多くの小説の主題であり、日本でも大岡昇平や野間宏の作品が直ちに連想されよう。この小説の驚くべき点は戦争という普遍的な主題に、独裁と官僚性、そして強制収容所という1940年代のソビエトでなければありえないテーマを挿入することによって、平時と戦時が連続する悪夢のような社会を描き出したことにある。読み進めば明らかになるとおり、スターリン体制は密告と相互監視、強制収容所と処刑によって補完され、それゆえ人と人が人間的な交流をもつことを否定する社会なのだ。収容所を扱った小説といえばソルジェニーツィンの『収容所群島』が思い浮かぶが、『収容所群島』が主にそこに送られた後の人々の生を描いているのに対して、『人生と運命』では人が収容所に送られるゆえんが描かれる。例えばエヴゲーニャの元夫であるクルイモフ、忠実な党員であり、祖国のために身命を差し出した彼は突然拘束され、ルビャンカ牢獄に拘留される。尋問と虐待の中でクルイモフは自分に関する多くの情報が当局によって収集されていることを知る。同じ監獄に収容された囚人の「あらゆる人間は密告する」という言葉は重い。スターリン体制下ではよき者、心正しき者は逆に淘汰されるのだ。このような社会は何かに似ていないか。いうまでもなく絶滅収容所だ。物語の中にはユダヤ人迫害、絶滅収容所に関するいくつものエピソードが登場する。ユダヤ人ゲットーにいる母親からヴィクトルへ宛てた手紙はドイツ軍の占領地からどのようにユダヤ人が狩り出され、収容所へと追い込まれていったかについて語る。ユダヤ人を絶滅収容所に輸送する列車の中の情景、絶滅収容所で死体を処理する作業員たちの思い、アレクサンドラの友人であった女医ソフィアはユダヤ人であったために収容所に送られ、医者であることを申し出れば処刑を免れる可能性があったにも関わらず、列車の中で知り合った身寄りのない男の子の手を握ってガス室へ赴くことを選ぶ。スターリングラード戦に従軍したグロスマンは解放後、トレブリンカ絶滅収容所を取材した最初の外国人の一人であった。また彼自身、ヴィクトル同様に母をドイツ占領下のユダヤ人虐殺で失っているから、これらの物語には作家の実体験が色濃く反映されている。
 小説の中には、いくつかの興味深い対話が存在する。カザンという町で研究生活を送っていたヴィクトルは彼の同僚、ソコロフを介してこの町に住む友人たちと語り合う。ドストエフスキーやトルストイの小説をめぐる文学談義は白熱する。しかしそこで語られた文学観は党に批判的と解釈されれば直ちに密告の理由となるかもしれないのだ。ここには意見を自由に表明することが逮捕や拘留、ことによれば処刑の理由となるディストビアが暗示され、対話の緊張感は息詰まるかのようだ。実際にここで会話を交わした歴史家や翻訳家は後に粛清されたであろうことが示唆される。あるいはドイツの捕虜収容所に収監されたモストフスコイというボリシェビキと収容所に駐在するSSの少佐、リースとの対話はヘーゲルやマルクスに言及しながら、絶滅収容所の存在意義に及ぶ。『カラマーゾフの兄弟』を想起すれば理解されるとおり、私はロシア文学には裁判や尋問というかたちをとったディアローグによる物語の展開という伝統があるように感じる。私たちはこの小説の中でいくつかの主題が対話を通して弁証法的に深められていることに注意を払う必要がある。
多くのサブ・ストーリーが錯綜し、無数の登場人物が登場するが、中心人物の一人が物理学者ヴィクトルであることは間違いない。そしてヴィクトルの苦難と名誉回復の物語はスターリン独裁下における人間性という小説の主題と深く関わる。カザンの研究生活の中でインスピレーションを得て、画期的な論文を発表したヴィクトルはモスクワの研究所に転任する。しかし新しい職場における理不尽な人事を批判した彼は逆に当局から危険分子として迫害を受けることとなる。そこにはいうまでもなくユダヤ人というヴィクトルの出自が関わっている。有能で誠実な人間をいかに「人民の敵」に仕立てるか。この点についても本書は実に具体的にその手法を示す。ヴィクトルは官僚たちから「身上調書」の提出を求められる。30を超える設問はいかなる内容であったか。姓名や誕生日、性別であれば事実をそのまま記入できるかもしれない。しかし、民族集団、社会的出自、社会的地位、あるいは外国に居住する親戚の有無といった設問にいかに答えるべきか。例えば社会的出自に「富農」と記すならば、身上調書は直ちに強制収容所への入場券となるだろう。それでは民族集団をユダヤ人と申告すればどうか。ヴィクトルは苦悩しながら書類に記入する。いうまでもないが「身上調書」は党が管理する。そしてそのうちの一項目でも問題があれば、人は直ちに逮捕されうるのだ。私たちは身に覚えがない限り逮捕、拘束されることはないと信じている。しかし独裁体制の下では人は「(矛盾した言葉であるが)何の理由もなく合理的に」逮捕され、拘留されるのだ。おそらく共産党治下の中国における「檔案」も同じ意味をもつ。旧東ドイツ、ポル・ポトのカンボジア、あるいは現在の北朝鮮、このような恐怖政治が常に共産主義社会において成立したことの意味は今後検証されてよいだろう。ここで語られる恐怖とは人が理由もなく逮捕、拘束、そして処刑される恐怖であり、この意味においてカフカの『審判』は予見的であった。(ここでは詳述しないが、本書の中でも繰り返し語られる独裁体制の非人間性のもう一つの側面、官僚制についても『城』はみごとに予見している)ヴィクトルのエピソードに戻ろう。自身が信じる正義を貫き、研究所を去ることさえ決意したヴィクトルに思いがけない電話がもたらされる。なんとスターリン本人が研究の進捗を質したのである。このようなエピソードが現実にありえたかについて私は判断できないが、この電話を契機として状況は一変する。ヴィクトルを指弾した同僚たちは手の平を返すように帰順し、不公正な人事は撤回され、ヴィクトルは復職する。「ヴィクトルを乗せた列車が轟音を立てて走っている、そんな感じであった」一見するならば、逆境において正義を貫いたヴィクトルは報われたかに思われる。しかし1940年代、物理学者ヴィクトルの研究がスターリンの関心を引いたとするならば、それは核兵器の開発となんらかのかたちで関わっていることが予想される。それは彼の良心とどのように折り合いをつけるのであろうか。ヴィクトルのような人物でさえ独裁下で人間性を保持することは容易ではない。この点に関してグロスマンはきわめて巧妙に筆を進める。スターリンの信任を得た後、ヴィクトルはかつて自らを告発した上司や同僚たちと接する中で彼らの人間性を認め、「悪い人たちではない、それぞれに人間的な面がある」と感じるにいたる。しかしそれは人間的信頼ではなく、強者のみに許される倨傲ではないか。ヴィクトルでさえ、体制に組み込まれるやその歯車として機能すること、独裁下においては人間性が蹂躙されるという事実が密やかに暗示される。グロスマンの筆はきわめて抑制されており、私の読みは深読みと感じられるかもしれない。しかし次の章でヴィクトルはそれが冤罪であることを知りながら、ゴーリキーを毒殺したとされる二人の医師を告発する手紙に署名を求められ、一瞬の逡巡の後、署名するのだ。もちろん彼は自分の行為に自覚的である。「彼は自分の置かれている立場の恐ろしさがもうわかっていた。今日、ヴィクトルを処刑したのは敵ではなかった。身近な人々が彼に寄せる信頼によって処刑したのである」ヴィクトルはこの小説に登場する最後の場面で次のように自分に問う。「毎日、毎時間、一年また一年と、自分の人間である権利のための、善良で高潔な人間である権利のための闘いを続けなければならない。(中略)もし恐ろしい時代に、どうにもならない時がやってきても、人は死を恐れてはならない。人間であり続けたいと望むのであれば、恐れてはならない」ここで示唆されるのは彼らが「死を恐れずに、人間であり続けたいと望むことができない」時代を生きているということだ。この言葉はスターリン独裁下のソビエトに向けられているが、ユダヤ人の絶滅収容所そしてリュドミーラの元夫が党を批判することを覚悟したうえで真実を告発するシベリアのラーゲリにもあてはまる。従って互いに殲滅戦を繰り広げた宿敵の恥部とも呼ぶべき絶滅収容所と自らの体制が同質であるという恐るべき事実をソビエト当局が秘匿しようとしたことは当然であり、両者の共通性を白日の下に晒した本書は発禁処分となる「運命」を負っていた。
 長文のレヴューとなったが、まだ私はこの傑作のほんの一部について論じたにすぎない。主要な登場人物のうち、言及していない人物はあまりにも多いし、論じるべきエピソードも多数残されている。これは一つの時代が無数の人々の人間性を壊滅していく物語であるが、それにもかかわらず、ここには人間愛による救済と友愛に基づいた交流がある。収容所の情景など読み進むことがつらい場面も存在する。しかしこの長大な小説を最後まで読み進み、深い感動とともに頁を閉じることができるのは、陳腐な表現かもしれないが人間に対する作者の深い信頼が物語の根底に存在するからであろう。
b0138838_20358100.jpg

by gravity97 | 2012-09-26 20:39 | 海外文学 | Comments(0)
b0138838_20505974.jpg
 このブログのカテゴリの中に新着図書の書架を紹介するNEW ARRIVAL という項目がある。そこに長い間放置されていた、つまり未読のままであったチリの作家、イサベル・アジェンデの『精霊たちの家』を先日ついに読了した。といっても長編であるとはいえ、なぜ読まなかったのか不思議だ。車中で過ごす時間の長い出張に携えたところ、あまりの面白さにたちどころに読み終えてしまった。
 著者のアジェンデは名前から推測できるとおり、チリに社会主義政権を樹立した後、右派勢力によるクーデターによって暗殺された(自殺説もある)サルバドール・アジェンデの姪にあたる。後述するとおり、この小説の後半では社会主義政権の成立とクーデター、引き続く恐怖政治が語られる。本書を読んだ後で当時の状況を調べてみたところ、事実をかなり忠実に再現した描写があることもわかった。しかし小説の中で大統領、詩人あるいは軍人と名指しされる人物にアジェンデ、パブロ・ネルーダ、ピノチェットといった固有名は与えられることなく、物語は事実の再現をはるかに超えた深みを帯びている。実際に後述するとおり、物語が現実と急速に接近するのは終盤の数章であり、全体としては神話と現実が地つながりとなったマジック・レアリズムの傑作といえよう。
 語られるのはクラーラ、ブランカ、アルバという三代にわたる母と娘、孫娘の物語である。物語の経糸をなす母系に対して、クラーラの姉ローサの許婚者であり、ローサの死後クラーラと結婚し、ブランカをもうけ、アルバの祖父となるエステーバン・トゥルエバが対置される。一介の農夫として登場し、鉱山で富を築き、農場を再興し、ついには保守党の国会議員となるエステーバンは物語に常に介入し、夫として父として祖父として三人の主人公に関わる。説話的にはこの物語はやや複雑な構造をとる。基本的に神の視点から語られるが、随所にエステーバンの一人称の語りが挿入される点は物語における重要性を暗示しているだろう。最後のエピローグはアルバによる語りとして成立しているが、エピローグの冒頭でエステーバンの死について語られているから、一人称としての語りの権能が祖父から孫娘に委譲されたと考えてもよいかもしれない。神の視点と一人称の語りに特に矛盾は認められない。b0138838_20514138.jpg
物語の冒頭から読者は一種の神話的、魔術的な世界に投げ込まれる。なにしろ屋敷の中を精霊や死者が闊歩し、予言や奇蹟が日常とされる世界である。主人公は手で触れることなく重い品物を自由に動かし、大発生した蟻の大群を老人が言葉で説得して街の外へと連れ出すといった奇怪なエピソードが次々に開陳される。このような世界から直ちに連想されるのはガルシア・マルケスの『百年の孤独』であり、実際、アジェンデ自身も二つの作品がいつも関連づけて論じられることへの当惑を語っている。もちろん亡命先のベネズエラで執筆され、1982年に発表された『精霊たちの家』の著者が1967年に発表されたマルケスの傑作を知らなかったはずはないし、アジェンデ自身もマルケスの小説への賛辞を述べている。したがって私たちは両者を比較することによってこの小説の意味を再確認することができるだろう。これについては本書が世界文学全集の一冊として刊行された際の月報に編者の池澤夏樹が委曲を尽くした分析を寄せており、屋上屋を重ねるという感もない訳ではないが、ひとまず私としても両者を比較してみたい。まず両者の共通点を確認しよう。いずれも一族の年代記という体裁をとりながら、マルケスであればラテン・アメリカという大陸、アジェンデであれば特定こそされないがチリという国家の歴史を象徴的に語っている。『精霊たちの家』の母娘三代という時間のスパンは「百年」とほぼ等しいと考えてもよかろう。手法としてはいずれもマジック・レアリズムが採用され、現実と幻想のあわいは定かではない。奇怪なエピソードが次々に増殖し、魔術や奇跡、独裁者や革命といったモティーフは両者に共通している。このようなモティーフの特異性をラテン・アメリカ文学全般まで拡大可能かという点については意見が分かれようが、私の印象としてはマルケス以外にも、バルガス・リョサやカルロス・フェンテス、ホセ・ドノソといった作家の作品と強い類縁性があるように感じる。また形式的な問題としては『精霊たちの家』の随所に散りばめられた先説法、物語を先取る修辞法が『百年の孤独』の冒頭の一文にも認められることを池澤は指摘している。
 一方で『精霊たちの家』と『百年の孤独』の相違は何であろうか。先に述べたが、『精霊たちの家』が母系を軸とした物語であるのに対して、『百年の孤独』は父系のそれである。ブランカにはニコラスとハイメという双子の兄弟がいる。エステーバンから双子の息子たちへという父系の軸も存在しない訳ではなく、ほかにも男性の登場人物は存在する。しかし圧倒的な躍動感をもった女たちに比べてこの小説の中で男たちの存在感は総じて希薄である。池澤もエステーバンの仕事が「その時だけという印象を与え、男の仕事は本質的に継承不能なのではないか」と記している。鉱山、農場そして政治、エステーバンは仕事の舞台を変えながら次第に富と地位を得る。しかし労働者から農場主、保守系の大物国会議員そして反革命の軍人たちに疎んじられる一人の老人へ、時に誇らしげな、時にみじめな変貌を遂げつつも結局のところ、彼は女たちの掌中でその一生を終える。フェミニズムという観点からも本書は注目に値するだろう。『百年の孤独』では一族の物語を見届ける存在としてウルスラという老婆が登場し、ウルスラの死とともに小説は最後の局面を迎える。いうまでもなく『精霊たちの家』でウルスラに対応するのはエステーバンである。冒頭から物語に登場したエステーバンは、エピローグの冒頭、「昨夜、祖父が亡くなった」というアルバのモノローグとともに退場する。この点で二つの小説はいわば鏡像のような関係にあるといえるだろう。『百年の孤独』においては神話的世界と現実は常に一定の距離を保っていた。労働者の弾圧や独裁者の愚行は常に神話的な彩りを備え、虚構とも現実ともつかない。(この主題がさらに展開されたのが『族長の秋』である)これに対して、『精霊たちの家』において、最初クラーラの周囲を満たしていた魔術的なアトマスフィア(なにしろ、事あるごとに彼女は念力で動く三脚テーブルや精霊たちと相談を交わすのだ)はアルバの時代にはほとんど払拭され、きわめて現実的な政治闘争、革命と反革命、暴力と拷問、軍政下の恐怖政治が語られる。最後の二章からは『百年の孤独』ではなく、このブログでも論じたリョサの『チボの狂宴』が連想された。『百年の孤独』では物語の中心となるブエンディーア一族の眷族に繰り返しアウレリャーノという名が与えられる。このため魔術的なエピソードの奥行きともあいまって、読者は一体どのアウレリャーノについて語られているのかわからなくなる。これに対して、『精霊たちの家』においてはクラーラがノートに出来事を記録していくうえで事件が混同することを避けるために、娘に同じ名前をつけることを禁止する。マルケスの物語では様々な登場人物が巨大な坩堝に呑みこまれるように神話的世界で次第にアイデンティティーを失っていくのに対して、アジェンデの物語では登場人物は名前によって区別され、現実の中に留め置かれる。池澤はこの点についても興味深い比較を記している。彼によれば『百年の孤独』は全体として先細り、特にウルスラが亡くなった後は物語の速度が一挙に速くなる。これに対して『精霊たちの家』では物語が進むについて記述が濃密になり、時間の流れが遅くなるというのである。マルケスの自伝『生きて、語り伝える』には1948年、コロンビアにおけるボゴタ暴動についての記述がある。この事件も右派による反革命という点でピノチェットのクーデターとよく似ているが、マルケスはこの事件も含むラテン・アメリカの歴史を神話化している。これに対してアジェンデにとってのチリ・クーデターは神話化するにはあまりにも生々しかったのであろうか。マルケスが祖母の語ったように書けばよいという啓示を受けて『百年の孤独』を書き始めるまでには数十年の時間が必要であったといわれる。81年に『精霊たちの家』を発表するうえで73年のクーデターは時間的に近過ぎたのかもしれない。
 もう一点、二つの小説には最後の部分にきわめて興味深い類似がある。いずれの小説も読むことと書くことと深く関わっているのだ。『百年の孤独』の何とも印象的な終幕を思い出すがよい。そこでは魔法使いメルキアデスの遺物であり〈この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる〉と題された羊皮紙をアウレリャーノが解読した瞬間に、街が蜃気楼のように消え去ってしまう。一方、『精霊たちの家』の最後の場面では一人残されたアルバが祖母クラーラによって生涯にわたって書き留められたノートに目を通す。クラーラがノートに書きつけた冒頭の一句がこの小説の書き出しであることにもはや私たちは驚かないだろう。このような円環からはジョイスの『フィネガンズ・ウエイク』が連想されるかもしれない。しかし私たちがここから読み取るべきは西欧のメタ物語的な技巧ではなく、新世界、ラテン・アメリカにおけるきわめて独特の時間の流れであろう。直線的で二度と繰り返されることがないクロノスの時間ではなく、循環し、繰り返されるカイロスの時間。反復と回帰というテーマはここで論じた二つの小説にとどまらず、ラテン・アメリカ文学において多くのヴァリエーションが存在する。ラテン・アメリカ文学における時間という問題についてはアレッホ・カルペンティエールなども視野に容れながら、次の機会に論じてみたい。
by gravity97 | 2012-03-07 20:54 | 海外文学 | Comments(1)

『短編コレクションⅠ』

b0138838_1340177.jpg 一昨年、発売されてすぐに買い求めた記憶があるのだが、ずっと書棚に積んだままになっていた河出書房新社版、池澤夏樹編集の世界文学全集中の『短編コレクションⅠ』を先日ようやく通読した。私はどちらかというと長編読みであるし、同じ作者ならばともかく世界中から集められた作家たちの短編アンソロジーはとりかかるまでのハードルが高かった。しかし一度読み始めると予想以上に面白く、数日のうちに読了してしまった。
 全集中、短編コレクションは二巻に分かれている。『短編コレクションⅡ』が20世紀のヨーロッパ文学から選ばれているのに対して、本書は地域としては南北アメリカ、日本も含めたアジア、アフリカ、アラブから作品が選ばれている。本書の書き手の方が新鮮であることはいうまでもない。収録された20の短編のうち、私がこれまでに読んだことのある短編はわずかに3編、全く初見の作家が5人いた。日本語に初めて訳された短編は4編であるから、大半の作品はすでに翻訳が存在しているとはいえ、これほど広い地域にわたる作家たちの小説に目をとおすことは困難であり、やはりプロの読み手として池澤の面目躍如といえるのではなかろうか。池澤と問題意識が似ているためか、私好みの作品が多い。本全集に収録された長編のいくつかについても既にこのブログで応接しているが、この短編集も十分に楽しむことができた。
 ハルキ・ムラカミが毎年ノーベル文学賞の受賞候補の常連として取りざたされる理由は小説の内容以前に、それらが英語に翻訳されているという単純な事情に依っている。絵画や音楽とは異なり、言語に基盤を置く芸術は言葉や国家という壁を越えることが難しい。私たちはプルーストやドストエフスキーの大長編であれば(読破するかはともかく)たやすく手に入れることができるが、ナイジェリアやレバノンの作家の小説はたとえ英語で書かれていたとしても生涯のうちにいくつ読むことがあるだろうか。翻訳という作業が介在することを考えるならば、これらの国の小説に関して、私たちは長編より短編の方が接近しやすい。本書に収められた作家の中にはレイモンド・カーヴァーのように短編のみによって知られる作家もいるが、張愛玲やトニ・モリソンのごとく短編にもかかわらず長編の風格をもち、それゆえ長編を読みたいという誘惑に駆られる作家もいる。本書はあまりなじみのない国の作品を中心とした現代文学のショーケースとして、きわめて有意義な短編集といえよう。
 多様な国籍の多様な作品が収められており、レヴューは容易ではないが、いくつか所感を記しておこう。最初に述べたとおり、本書には非ヨーロッパ圏の現代文学が収められており、日本と中国を別にすれば、アングロアメリカと第三世界の小説が中心と考えてよいだろう。この対照はなかなか興味深い。この短編集には7編のアメリカの作家の作品が収められているが、その大半はポスト・モダン風というか、実験的な手法が用いている。具体的にはドナルド・バーセルミ、ジョン・バース、リチャード・ブローティガンらの作品は内容以前に手法の前衛性に特徴がある。フォークナーに始まるアメリカのモダニズム文学の末裔といってよかろう。総じて短く印象が薄い。これに対してそれ以外の地域の作品は多くがその内容、つまりなんとしても小説として表現したいテーマが存在し、主題の切実さに満ちている。従って排水設備を古今の名詩に置き換えるという奇抜なアイデアのみによって一編の短編を構成したブローティガン(ただしこの作品はブローティガンの中でも特異な例であろうが)の作品と炎熱の中でユダヤ人兵士がパレスチナ人にふるう暴虐と凄惨な応酬を描いたガッサン・カナファーニの短編をそれぞれ両端に置くならば、前衛とレアリズム、形式性と主題性を指標としてここに収められた作品群をこの間に配置することが可能であろう。主題性の強い作品に共通するのは抑圧された生とそれへの抵抗というテーマである。今挙げたカナファーニや金達寿、高行健が1950年前後のパレスチナ、冷戦下の韓国、文化大革命時の中国における政治的抑圧をそれぞれの角度から作品化するのに対して、「肉の家」のユースフ・イドリースと「猫の首を刎ねる」のガーダ・アル=サンマーンはアラブ世界における女性と性の抑圧を鮮烈な表現として提示する。いずれもこれらの小説を読むことなくして、私たちはこのような不正義が存在することを知らなかっただろう。それは端的に第三世界に関して私たちが情報を得ることが少ないことに起因する。今なおこのような主題に連なる表現が成立することに私は苦い感慨がある。文学とはなおも虐げられる者の手の中にあるのだ。先般、私は高橋源一郎の『恋する原発』を読了した。この小説については別に論じる機会もあるだろうが、今まさに私たちが体験しつつある不正義、原子力災害が日本の文学者によって総括される日は来るのであろうか。
 むろん小説の主題は抑圧された生だけではない。同じ第三世界でもアラブやアフリカに比して圧倒的に多くの作品が日本語に翻訳されているラテン・アメリカからはフリオ・コルタサル、オクタビオ・パス、フオン・ルルフォの三人の作家の作品が紹介されている。ルルフォのみ私にとって初めて読む作家であった。巻頭のコルタサル、「南部高速道路」は以前、岩波文庫に収録されていた短編集で読んだことがある。パリ郊外の高速道路の渋滞の中で神話的な共同体が形成され、渋滞が解消されるとともに終焉するという内容は現実と幻想、現代と神話が混交するラテン・アメリカの作家ならではの幻想譚である。私はコルタサルとカルロス・フェンテスは現在でも指折りの短編の名手だと考えるが、その才能を遺憾なく発揮したこの短編は本書の劈頭にふさわしい。あるいはカナダの酷寒の中で少年と犬をめぐる悲劇的な逸話を一人称で語るアリステア・マクラウドの「冬の犬」も清冽な読後感を残す佳品である。悲劇という点でいうならば、レイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど役に立つこと」は完成度という点でこの短編集の白眉ではなかろうか。私は以前からカーヴァーの短編はいくつか読んでいたが、この作品は未読であった。誕生日に交通事故に遭った少年の両親を主人公として、彼らを取り巻く人々の感情の機微をとらえたこの作品は最後の場面における和解が深い余韻を残す傑作である。
 最初に私はこの短編集をショーケースに喩えた。収録作品を選ぶ際に池澤が日本人である私たちにとって未知の生、未知の感情と深く関わる作品を選んだことは明らかである。池澤自身が次のように語っている。「ぼくは世界が多様であることを証明したいと思い、せいいっぱい手を広げてさまざまな短編をいくつもの国と言語から集めた。むずかしかったのはこの2巻に収まるところまで厳選することだった」収められた短編の中では特に二つの作品がこのような多様性と関わっている。トニ・モリソンの「レシタティフ―叙唱」は最初、孤児院で出会った二人の女の子がそれぞれに厳しい環境で成長する中で何度か出会い、交感する様子を描いた短編である。時に反発し、時に共感しあう二人の女性の姿が生き生きとした訳文をとおして描かれる。二人の肌の色が違うことは直ちに明らかとなるのだが、この小説のポイントはトワイラとロバータという二人の主人公がどの人種に属すのかということが最後まで明らかにされない点である。つまり私たちはトワイラであるかもしれずロバ―タであるかもしれない。人種という与件を超えて人は人として他者と交流しうることが暗示されている。この小説はモリスンが公刊した唯一の短編であるということだが、人種問題を主題としたいくつもの長編を発表してきた作家がここに込めたメッセージは明らかであろう。もう一篇、トロントでトルコやオランダといった雑多な国からの留学生が暮らす寄宿舎での顛末を描いたマーガレット・アトウッドの「ダンシング・ガールズ」は本短編集の理念をそのまま小説とした感がある。主人公のアンをめぐって家主のノーラン夫人や下宿人たちが引き起こす騒動は一種のスラップスティックといった趣があるが、他者を理解し、受け容れるとはどのようなことかという問題と関わっている。都市計画を学び、来るべき都市のデザインを夢想するアンは物語の最後で、いかなる人種や国籍をも排除しないユートピアの美しいイメージを抱く。本書に収められた物語をとおして人と人が赦しあうことの絶望的なまでの困難さと政治や性差に由来する多くの抑圧を知り、個人的悲劇とつかのまの和解に触れた後、ここに記されたイメージは一つの癒しのように感じられた。
 沖縄出身の目取真俊の「面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ)」という短編が最後を飾る。日本に居住する作家から二篇、在日朝鮮人の金達寿が日本語で書いた李承晩政権下の韓国の物語と、一人の女性が自らの生を沖縄のダイアレクトによって語るこの小説を選んだ点に池澤の批評的な意図は明らかだ。日本語を用いながらも、この二篇の短編は国家と国語に異和を唱える。具体的には金の用いる漢字と仮名が入り混じったたどたどしい表記、目取真の多くルビで表記される(それは小説のタイトルに既に明らかだ)沖縄の方言は「正統な」日本語を意志的に逸脱するのだ。目取真に戻ろう。ガジマルの樹上から少女に向かって一人語りされる女性の半生、語り手の苦難はたやすく沖縄という地域の受苦のメタファーであることが理解される。文中で暗示される沖縄海洋博における皇太子への襲撃事件は桐山襲の『聖なる夜聖なる穴』を連想させた。哀切を帯びた物語であるが、語りは勁い。物語の幻想的な奥行きともあいまって、まつろわぬことへの強い意志がうかがえ、それはここに収められた作品の多くの通奏低音をかたちづくっている。
by gravity97 | 2012-01-23 13:44 | 海外文学 | Comments(0)
 ずいぶん長い間、本棚に積んだままにしていたマルカム・ラウリーの『火山の下』をようやく通読する。世評の高い小説であり、私は以前より大江健三郎の著作をとおして存在を知っていた。しかし実際には昨年、新訳として本書が刊行されるまで書店はもとより図書館でも見かけたことがない稀覯書であった。インターネットで調べたところ、最初の訳書が『活火山の下で』のタイトルで刊行されたのはほぼ半世紀前であり、絶版となった今では古書でも入手は困難という。
 決して読みやすいとはいえないが、形式的に入り組んだ私好みの小説であった。全12章のうち、最初の章は1939年の「死者の日」、11月2日と時間が特定され、以後の章ではそのちょうど一年前、1938年11月2日の出来事が語られる。第1章では小説の舞台がメキシコであることがいくつかの固有名詞によって示された後、ジャック・ラリュエルというフランス人とアルトゥーロ・ディアス・ビヒスという医者がホテルの前で語り合う場面から始まる。二人は「領事」ジェフリーとその妻イヴォンヌ、そしてジェフリーの腹違いの弟であるヒューというこの小説の三人の主人公について回想し、三人が既にその土地にいないことが暗示される。この章の最後でラリュエルは本にはさんであった一通の手紙、ジェフリーからイヴォンヌにあてられた未投函の手紙を発見し、読み終えた後、火にくべる。なるほどガルシア・マルケスが本書を愛読したはずだ。相手に届けられない手紙、それは『コレラの時代の愛』の主題であり、マルケスの自伝中のエピソードに連なっている。
 いささか謎めいた導入を受けて第2章以降、一年前の「死者の日」のジェフリー、イヴォンヌ、ヒューの挙動が語られる。第2章は早朝、物語の舞台となるクワウナワクという街に戻ってきたイヴォンヌがホテルのバーで酒を飲んでいるジェフリーと出会う場面から始まる。この小説は時間に関してはほぼ直線的で単純な構造をとるが、語りの構造は複雑で、第1章はラリュエル、第2章以降はジェフリー、イヴォンヌ、ヒューの三人が交互に焦点化される。注意すべきは彼らが語り手となるのではなく、彼らに焦点化される点だ。全能の話者は別に存在し、登場人物は三人称で語られるが、それぞれの章は中心となる人物が明確に指定され、時にそれらの人物の回想が重ねられることによって時間的な遡行さえ認められる。登場人物の思考や行動の表現と情景の描写の文章が融合した文体は粘着的でメキシコの炎暑を連想させる。訳者のあとがきの中に章ごとの「視点人物」とあらすじの一覧があるが、なんのつもりであろうか。複雑な小説であるから読者の便宜をはかったと思われるが、読者を馬鹿にした態度であるし、私の考えでは豊かな混沌とも呼ぶべきテクストを数行の「あらすじ」に還元する作業は読書という営みにとってなんら益することはない。
 興味深いことにメキシコという地を舞台にしながらも、主要な登場人物は外国人である。いまやアルコール依存症の深みにはまったジェフリーはイギリスの領事であり、イヴォンヌはハワイやハリウッドを転々とした女優としての過去をもつ。コンラッドを愛読し、ロンドンで最初は音楽家を志したヒューも挫折の後、船乗りとして世界を転々として、この地にたどり着く。最初の章で彼らを回想し、翌日いずこかに立ち去るラリュエルもまたフランス人だ。さらに彼らの多くは一種の敗残者としてクワウナワクで生を送っている。ジェフリーがイギリス海軍を追われて、酒浸りの生活を送るようになった理由は鹵獲したドイツ軍の潜水艦に乗っていた将校の扱いをめぐって何か問題が発生したらしいと暗示されているが、小説の中で詳しく語られることはない。したがってこの小説の主題は流謫の地で汚辱とともに余生を送る人物たちの葛藤、そしてその破滅といってよいだろう。
 私は本書から四方田犬彦の『モロッコ流謫』に登場する一人の人物を連想した。それは四方田がラパトで出会った三島由紀夫の実弟、平岡千之である。モロッコ大使を務める平岡は四方田を歓待し、深い教養の持ち主であることをうかがわせるが、深い影のある人物である。もちろん後に迎賓館の館長を務めた平岡はジェフリーのごとき破滅的な人生を送った訳ではない。しかしメキシコとモロッコ、遠く離れた炎暑の地に赴き、深いニヒリズムを漂わせ、さらに言えば一種の故郷喪失者である二人の「外交官」の相似は興味深い。
 冒頭の挿話が暗示するとおり、「領事」ジェフリーはアルコールに依存し、日中よりテキーラを飲んでは酩酊し、正気を失って路傍に倒れる。したがってジェフリーに焦点化された章においては語りの中に酩酊による幻覚や譫妄が侵入し、現実と虚構が入り乱れる。私は本書の文体からフォークナーが強く連想されたのであるが、それはフォークナーの『響きと怒り』冒頭の白痴の語りのごとき、脈絡のない意識の流れが地の文とつながって記述されることに由来している。本書の読みにくさの一因はこの点に求めることができようし、このような語りは小説に重い負荷を与える。
 きわめて形式的な小説でありながら、小説中の中で繰り広げられる登場人物たちの生活は作者ラウリーのそれを追体験するかのようである。実際にラウリーもヒューのように船に乗り込んで長い航海を経験し、メキシコでアルコールに溺れて最初の妻との生活は破局にいたる。小説の中でジェフリーはカナダに渡る夢を語るが、ラウリー自身もメキシコからブリティッシュ・コロンビアに移った後にこの小説を完成させたという。この意味において本書はラウリーの自伝的小説とみなすこともできようし、この点にこの小説の限界が存している。ラウリーは現代の『神曲』を書くことを意図し、『火山の下』を地獄篇として構想したという。特定の一日を描いた小説としてはジョイスの『ユリシーズ』も連想され、今述べたとおり本書の中にフォークナーやコンラッドの影響を指摘することも可能だ。しかしながら『神曲』はともかく、これらのモダニズムに連なる小説に比して、斬新な形式の中に臆面もなく個人的な半生を投影した点において本書はきわめて特異である。小説の中で象徴的に扱われる二つの火山のごとく、本書もまた20世紀文学の中に孤絶して屹立する印象がある。b0138838_10432325.jpg
by gravity97 | 2011-09-19 10:48 | 海外文学 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック