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ロレンス・ダレル「アヴィニョン五重奏」

 
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 毎年、年末年始には長い小説を読むことにしている。今年も一昨年のディケンズ「荒涼館」に匹敵する大長編を準備したものの、休暇が短かったこともあり、読了までには少々時間がかかった。ロレンス・ダレルの五部作「アヴィニョン五重奏(クインテット)」である。この連作はずいぶん前から気になっていたが、第一巻の「ムッシュー」の翻訳が刊行されたのは2012年11月であり、それからほぼ半年に一巻というペースで翻訳が刊行され、完結までに三年を要した。原著が4年、4年、2年、2年という間隔を空けて刊行されたことに倣った訳ではなかろうが、翻訳であればもっと短い期間のうちに刊行されるべきではなかろうか。半年という間隔は物語への集中を削ぎ、3年も経つと翻訳が進行中であることさえ忘れ去られてしまう。それでもなお私が本書への関心を維持しえたのは、先行する傑作「アレクサンドリア四重奏(カルテット)」が存在したからだ。私はこの四部作を最初は四半世紀以上前に河出海外小説選版、二回目は2007年に刊行された改訳版で通読し、そのたびごとに深い感銘を受けた。それにしてもこれら二つの連作はよく似ている。都市の名前とカルテット、クインテットといった重奏を結合したタイトル、タイトルに示された二つの都市がそれぞれ主たる舞台とされている点、そして例外もあるが個々の巻のタイトルとして、ジュスティーヌ、リヴィアといった登場人物の名が冠されていることなどである。しかしこのような相似性は「アヴィニョン五重奏」にとってむしろマイナスに作用したらしい。訳者あとがきによればこの連作は「英語圏においても不当ともいえるほどの低い扱い」しか受けず、「晩年のダレルによる自作の二番煎じ」とみなされてきたという。確かに圧倒的なエキゾチシズムとデカダンスに彩られた「アレクサンドリア四重奏」の後に、同様に一つの都市を舞台とした重層的な連作をもう一度執筆することはさすがに過剰に感じられもする。私自身、この連作の存在については2007年に「アレクサンドリア四重奏」の改訳版が出版された際にカバーに付された著者紹介の中で初めて知ったが、改訳版のあとがきも含めてその後一切インフォメーションを与えられることがなかったため、書店の店頭でこの連作の最初の巻、『ムッシュー』を見た際には大いに驚いたことを記憶している。
 それでは「アヴィニョン五重奏」とはいかなる小説であるか。第二巻「リヴィア」の冒頭でこの連作の構造について次のように謎めいた説明がある。「良き古典的順序に並べられたサイコロの五の目の小説群が見えた。五冊の小説が、そのために編み出された謎めいた五点形に従って書かれている。こだまがそうであるように、互いに依存してはいるが、ドミノのように連続して端から端に並んではいない―同じ血液型に属しているだけだ」この言葉がサトクリフという登場人物の口から発せられること自体が、この小説のきわめて独特な構造を暗示しているが、単に物語の愉悦に身を任せておけばよい「アレクサンドリア四重奏」とは異なり、この連作は語ることについてのきわめて明晰な意識―あえてモダニズム的な意識と呼ぶ―に貫かれている。以下、小説の内容について若干立ち入って論じるが、それは読者がこの錯綜する物語についてある程度予備知識を携えて読み始めた方が理解しやすいと考えるからである。あらかじめストーリーの一部を知っていても本書を読む快楽は揺るがない点を確信とともに言い添えておく。
 最初の巻「ムッシュー」において既に語りは複雑な構造をとる。「十字軍王国」と題された最初の章には「僕」という一人称の語り手が登場する。「僕」がブルース・ドレクセルというイギリス人の医師であることは直ちに明らかにされる。ブルースが友人のピエールの自殺の報に接してパリからアヴィニョンに向かう列車に乗る場面からこの長大な物語は始まる。ピエールの死をめぐる謎はブルースを、そして私たち読者を多いに困惑させるだろう。続く第二章は時間を遡行し、ブルース、ピエールそしてピエールの妹でありブルースの妻たるシルヴィー、そしてブルースの義理の兄の友人であるトビアスの四人が若き日にエジプト、アレクサンドリア近郊のマカブルというオアシスに向けて旅立ち、アッカドなるグノーシス主義者の銀行家の招きによってグノーシスの秘儀を体験する物語が語られる。四人による砂漠の道行きはダレルらしいエキゾチシズムが横溢し本書の読みどころの一つだ。グノーシス主義とテンプル騎士団をめぐる謎はこの小説に隠顕するモティーフであり、アッカドは秘儀の中でグノーシス主義の奥義について語る。そしてピエールの死の状況とグノーシス主義の暗合も物語の中で明らかとなる。ちなみにこの巻のタイトル「ムッシュー」とはグノーシス主義における「闇の君主」のことである。第三章「サトクリフ、ヴェネツィア草稿」においては三人称の語りと登場人物の一人、サトクリフがヴェネツィアで認めた「ヴぇネツィア草稿」が併置される。テクストの混在は「アレクサンドリア四重奏」にもみられた手法であるが、三人称と一人称の語りが共存するテクストはある程度モダニズム小説を読み慣れた読者でなければ理解することが困難かもしれない。続く章においても一方でヴェルフィユという地所にあるピエールの城館で残された文書を調査するブルースとトビアスの姿、つまり第一章の後日譚とサトクリフの草稿が交錯する。このあたりも決して読みやすくはない。この章で主にトビアスを通してしばしば語られるのはテンプル騎士団をめぐるエピソードであり、ピエール・ド・ノガレはテンプル騎士団を捕縛した中世の法務官ギヨーム・ド・ノガレの末裔であることが暗示されているが、かなり注意深く読まないとこれらの関係は見過ごされてしまうだろう。そして「クアルティーラでの会食」と題された最後の章の冒頭で読者はあっけにとられるはずだ。次のような文章である。

タイプ原稿の原本を他の二つの副本から分けた小説家ブランフォードは溜め息をつき、一枚の白紙を素早く手に取ると、通常の小説からはいささか不作法に逸脱した新作の仮題をいくつか書き留めた。幾度か躊躇った後、彼は悪魔にしかるべき敬意を払うべく、その小説を『ムッシュー』と呼ぶことにした。

 突然登場したブランフォードなる人物がいきなりこの小説の作者の位置を占めるのだ。読み進めるうちにブランフォードが車椅子を用いる身であることも判明する。それでは五重奏の第一巻、『ムッシュー』はこの男によって執筆された小説であったのだろうか。なぜブランフォードはサトクリフを特定して自らが創造した作中人物であるとことさらに告げるのか。私たちの疑問は「リヴィア」に持ち越される。なぜなら「リヴィア」においては若き日のブランフォード自身が中心人物となるのであるから。おそらく秘密を解く鍵は「ムッシュー」の巻末に付された付記にあるだろう。かくのごとく本書において語り手と登場人物の関係はきわめて不安定だ。そして「リヴィア」もまた一つの訃報によって幕を開ける。訃報を受け取るのは巻末で「ムッシュー」の語り手であることが表明されたブランフォードであり、小説の構造はさらに錯綜する。「リヴィア」においてはブランフォードが若い頃のエピソードが語られるが、この時、「ムッシュー」の話者であるブランフォードと「リヴィア」の話者は審級を違えるはずだ。この疑問は必ずしも明確に答えられることないまま三人称による「リヴィア」の語りが続けられる。ブランフォードの友人、サムとヒラリー、ヒラリーの姉のリヴィアとコンスタンス、彼らのリヨンからアヴィニョンにいたるローヌ河の航行は「ムッシュー」におけるエジプト旅行に対応し、さらに船旅というモティーフは第三巻の「コンスタンス」においてフェラッカ船によるナイル川下りにおいて反復される。「リヴィア」は物語としてはブランフォードと彼を翻弄するリヴィアの関係を縦糸に、彼らの周辺のユダヤ系投資家のゲイレン卿、ゲイレン卿に庇護される数学者カトルファージュ、ゲイレン卿の甥でイギリス領事代理のフェリックス・チャットー、さらにはゲイレン卿の投資と深く関わるエジプトのハッサド王子といった魅力的な人物の群像を横糸に構成される。「ムッシュー」では必ずしも明らかでなかった時代背景も具体的に示される。ナチズムの台頭と迫りくる第二次世界大戦が登場人物たちの上に暗い影を落としている。ただし絡み合う物語と併置されるテクスト、そして相互に共鳴しあう人物たちは必ずしも容易な理解を許さない。五重奏を読み進めるうえではこの巻が一番の難所かもしれない。今、共鳴といったが五重奏においてはそれぞれの巻の登場人物が微妙な変形を被って別の巻に登場する。初めてプロヴァンスを訪れ、リヴィアやコンスタンスと会った夏、ブランフォードはテュ・デュックという屋敷で肖像画が並べられた回廊を訪れる。そこに残された三つの肖像画のうち、二つにピエールとシルヴィーという名が記されていた。さらに「ムッシュー」においてサトクリフが言及するパースウォーデン、あるいは第四巻「セバスチャン」でアッファドが行きずりの恋を交わすメリッサは「アレクサンドリア四重奏」の主要な登場人物である。このような照応は本書を読む楽しみの一つである。例えば第三巻の「コンスタンス」においてブランフォードはヴィルフォワンすなわちヴェルフィユに邸宅をもつブルノーとシルヴァンヌ、つまりブルースとシルヴィーをハッサド王子の秘書、アッファド―いうまでもなくアッカドに照応し、物語の中で重要な役割を果たす―から紹介され、英国陸軍の「ドレクセル」少佐とともにピクニックに出かける。おそらくこのような仕掛けがダレルのいう「さいころの五の目」を暗示しているだろう。随所にめぐらされたこのようなたくらみに気がついた時、本書を読む楽しみは一気に増す。
 「リヴィア」で暗示されていた戦争の影は「コンスタンス」で一層色濃く登場人物たちの上に落ちる。「コンスタンス」は五重奏中で最長の長編であるが、語りの構造が比較的単純であることもあって最も読みやすい。ドイツに占領されたフランスにおいてアヴィニョンに駐留するナチスの将校フォン・エスリン、残忍な副官フィッシャー、ヒトラーの命を受けてテンプル騎士団の財宝を捜すスミルゲルといった新たな登場人物を得て、物語はさらに活気を帯びる。この巻の中心となるのはタイトルどおり、リヴィアの姉でアヴィニョン近郊の城館テュ・デュックの所有者である精神科医コンスタンスである。ヴィシー政権下、ナチス・ドイツの支配下で住民たちが味わう苦痛、ドイツ軍の侵攻やレジスタンスの処刑といった物語が冷徹な筆致で語られる一方、エジプトやジュネーブといった異なった土地での出来事がアヴィニョンに集った登場人物たちに微妙な影響を与える。彼ら/彼女らの何人か消息を絶ち、あるいは姿を変えて登場する。中盤においてコンスタンスは赤十字の職員ナンシー・キミナルとともにテュ・デュックを再訪し、荒れ果てていた館は再び活気を取り戻す。興味深いのはブランフォードとサトクリフの関係だ。作家と被造者たる二人は既に「リヴィア」において電話を介して対話していたが、この巻に及んでサトクリフは実際にブランフォードたちの世界に登場する。コンスタンスはジュネーブでサトクリフに出会い、思わず「じゃあ、あなたは現実の人なのね」と叫び、サトクリフは「誰もが現実さ」と答える。サトクリフはこの小説においては一貫して道化であり、時にグロテスクな諧謔を駆使して絶えず物語を賦活する。「ムッシュー」において暗示されていたテンプル騎士団という主題は「コンスタンス」においてはテンプル騎士団が秘匿した財宝の探究として一種のミステリーの趣とともに浮上する。「コンスタンス」は五重奏においては最長であるが、テンポが早くおそらく一番読みやすいだろう。物語は連合軍の勝利とアヴィニョンの解放というエピソードで終えられるが、その過程で何人かの登場人物が残酷な死を迎える。「セバスチャン」は五重奏の中で唯一、アヴィニョンではなくジュネーブを主たる舞台として繰り広げられる。そこにはよく知られた説話的な装置が導入されている。「届かない手紙」あるいは「盗まれた手紙」というモティーフだ。コンスタンスと恋愛関係にあるアッファドはエジプトのグノーシス主義者たちから秘儀への招待を受けるが、その手紙はコンスタンスのもとに届けられ、しかもコンスタンスの患者によって盗まれてしまう。手紙をめぐるスリリングな展開は本書を読んでいただくのがよい。コンスタンスとアッファドの恋愛のもつれ、ゲイレン卿やサトクリフが繰り広げる馬鹿騒ぎ、陰謀と裏切り、めくるめく物語の展開はダレルに真骨頂といってよい。大戦が終結し、ジュネーブでは祝賀の花火大会が行われる。しかしなおも戦争は人々の記憶に残る。とりわけユダヤ人を絶滅収容所に送ったこと、ショアーの記憶がヨーロッパの人々にとって癒えることのないトラウマになったことを暗示するエピソードとともにこの巻は幕を下ろす。第五巻「クインクス」において登場人物たちは再びアヴィニョンへと帰還する。彼らは地中海に面した町でジプシーたちの祝祭に遭遇するが、そこには「ムッシュー」において姿を消した一人の人物が登場し、シルヴィーやフォン・エスリンといった以前の物語で重要な役割を果たした人物たちも境遇を変えて読者の前に姿を現す。この巻は「暴かれる秘密」というサブタイトルをもつが、確かにいくつも秘密が開示される。それは物語の中で縊死を遂げたリヴィアの死をめぐる秘密であり、あるいは五重奏をとおして隠れた主題であったテンプル騎士団の財宝に関わる秘密である。一方でブランフォードとサトクリフ、創造者と被創造者はここでは対等に対話し、時に戯曲形式でつづられる二人の会話はこの物語の捻じれを端的に暗示している。「クインクス」とは人名ではなく五点形のことであり、さまざまな人物の生と死を織り込んだ物語はアヴィニョンの古代遺跡、ローマの水道橋に引き寄せられるように集まる登場人物たちを描いて幕を閉じる。
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 確かにこの五部作はアレクサンドリア四重奏に比べて難解な印象を与える。四重奏においても語りは変化した。すなわち第一巻「ジュスティーヌ」において語り手は一人称の「ぼく」である。貧しいイギリス人教師の「ぼく」を誘惑するジュスティーヌは五重奏におけるブランフォードとリヴィアの関係に似ていなくもない。「ジュスティーヌ」においてはほぼ厳密な一人称が用いられるが、第二巻「バルタザール」においては同じ「ぼく」が語りながら時に全能の話者の視点が取り入れられる。あえてアヴィニョン五重奏に当てはめるならばブランフォードとサトクリフを合わせた視点といってもよかろう。「マウントオリーブ」では三人称が用いられ、「クレア」では再び一人称が用いられる。しかし「クレア」における一人称と「ジュスティーヌ」におけるそれが決定的に相違することを柄谷行人がアレクサンドリア四重奏をテーマとした修士論文で論じていたことを私は最近刊行された『柄谷行人文学論集』で知った。魅力的な物語が語られながらもアヴィニョン五重奏において人称の関係は格段に錯綜するため、この意味で私たちは本書において小説の内容と形式、いずれに目を向けるべきか少々戸惑うかもしれない。一方でダレル特有のデカダンス趣味は本書においても横溢している。本書では様々の登場人物の交情が描かれるが、同性愛や近親相姦といったおなじみの背徳的な性愛が次々に繰り広げられることはいうまでもないし、「コンスタンス」におけるコンスタンスとアッファドの性愛の描写はことに濃密だ。同性愛というモティーフの強調、あるいは登場人物たちが物語の終盤で一つの場所に集う様子から私はプルーストの「失われた時を求めて」を連想しないでもなかった。あるいは「リヴィア」の巻末近く、海亀の冷製コンソメで始まるハッサド王子が開いた豪華な饗宴の模様が記されるかたわらで、通りを隔てて糞尿を集めるバキュームカーについての記述が唐突に重ねられるあたりにイギリスであればオスカー・ワイルドのデカダンスの影をうかがうことは不可能ではないだろう。
 一方で本書は小説家についての小説でもある。「クインクス」においてブランフォードは小説を書く決意を固めるが、それがこの五重奏であることは明らかだ。ブランフォードと彼の被造物であるサトクリフがジョイスについて論じあうくだりには笑ってしまうが、少し考えれば本書が「小説を書くことについての小説」というそれ自体がメタ的な構造をもっていることも明らかである。さらに想起するならばアレクサンドリア四重奏にも実際に手記を書く「ぼく」とは別にパースウォーデンという作家が登場した。(彼については「ムッシュー」の中でも言及されることについては既に述べた)かかる自意識の存在が本書を英語圏であればジョイスからフォークナーへいたるモダニズム文学の系譜へと繋ぎ止める。しかしながら同時に本書の魅力がかかる形式性から逸脱する豊饒な物語性によっていることもまた明らかだ。本書は五つの巻から構成された五角形の物語であるが、個々の挿話の独立性は高く、それぞれが一個の物語として読むことも可能であろう。コンスタンスとアッファドの悲恋の物語、ナチスの圧政下におけるフランスの一地方都市の年代記、テンプル騎士団の財宝の探索、グノーシスの秘儀をめぐる奇譚、そしてサトクリフやゲイレン卿のいつ果てるともない愚行と乱痴気騒ぎの記録。常に綿密な伏線が張りめぐらされ、時には数巻後の描写によって伏線が回収されるという超絶的な技巧が用いられている場合もあるにせよ、本書はいくつかの物語の連なりとして構成されており、それゆえ物語としての凝集性はやや弱い。そのあたりがアレクサンドリア四重奏に比べて本書が「不当ともいえるほど低い扱い」を受けた理由かもしれない。本書のテーマでありながら、私が語っていないことはいくらでもある。医師シュヴァルツが体現するフロイト主義と文学の関係、ユダヤ人に比して論じられることのないジプシーたちの運命、そして全編にみなぎる黒い笑い。それらの詳細については是非実際に小説を手に取って確かめていただきたい。時代が具体的に特定されているという背景もあるかもしれないが、四重奏の陽光と暑さに対して、五重奏を通読して受けた印象は寒風と苛酷さであり、それはアレクサンドリアとアヴィニョンという都市に象徴されているかもしれない。しかし四重奏同様、私はこのあくの強い大長編も大いに楽しんで読み通した。未読の方も多いことと思う。相当の時間を必要とするから読み始めるにはいささかの覚悟が必要であるとはいえ、陽光のアレクサンドリアと暗鬱なアヴィニョン、ダレルが創造した比類のない二つの都市を訪れる読者がさらに増えることを願っている。
by gravity97 | 2016-02-02 20:47 | 海外文学 | Comments(0)

アイザック・バシェヴィス・シンガー『不浄の血』

b0138838_20105556.jpg 風土と文学。私たちは一つの土地、民族、あるいは言語に属する集団―しばしば強引に国家の名を与えられる―が文学においても一つの共同体を形成するという幻想を抱く。書店の棚で見かける日本文学、アメリカ文学あるいはフランス文学といったカテゴリがそれだ。確かに19世紀以前であればかかるカテゴリはある程度の意味をもつかもしれない。私たちはドストエフスキーとトルストイをとおして「ロシア文学」を、バルザックとスタンダールを読んで「フランス文学」を漠然と知った。そして私たちがなじんできた「近代文学」は結局のところ西欧に由来していた。大学一年の時にガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んで私が受けた圧倒的な衝撃は、西欧近代の外部にかくも広大な文学の沃野が広がっていることを知った驚きに由来する。当時次々と翻訳されたラテンアメリカ文学の傑作は私たちがなじんでいた「外国文学」がいかに限定されていたかを思い知らすに十分であった。密林と砂漠、インディオと修道院、独裁者と軍政。リョサ、ドノソ、フェンテス、このブログでも何度か論じたこれらの作家の傑作は全く異なった風土に根ざした文学の可能性を私に垣間見させてくれた。それではマルケス以後、ラテンアメリカ以外に私はこのような驚きを体験しただろうか。このブログで取り上げた作品に限定するならば、日本で紹介されることの少ない「国籍」をもつ作家としてパレスティナのガッサーン・カナファーニー、南アフリカのクッツェーについてレヴューした記憶がある。しかし前者はあまりにも政治的であり、後者にみられる実存的不安という主題は西欧の近代文学にも共有されていたため、作品を風土の反映としてとらえる発想にはいたらなかった。おそらく唯一の例外はサルマン・ラシュディの「真夜中の子供たち」であろう。インド亜大陸を舞台としたこのエキゾチックな傑作はインドという私にとって未知の風土を強く意識させるに十分であった。
 前置きが大変長くなった。アイザック・バシェヴィス・シンガーの「不浄の血」という短編集を読んで強く感じたのは、私にとってこのような未知の文学的風土がヨーロッパにまだ残っていたことへの驚きである。ほとんどの短編がポーランド、さらに言うならばポーランドの西部、ワルシャワに隣接するルブリン県という県を舞台にしており、巻末にはこの県の地図さえ掲載されている。地名を確認するならば、本書でシンガーが繰り広げる物語の大半はこの狭い地域における出来事であることが理解される。しかしそれはなんとも呪術的で怪奇、エロティックでグロテスクな世界であることか。比較的短い短編が多いが、まるで匂い立つかのように濃厚な物語のごった煮は西欧の近代と隔絶しているのだ。このような読書体験は実に久しぶりである。
 先ほど「国家」という擬制が土地、国民、言語によって構成されていると論じた。この観点からもシンガーの存在は稀有である。1904年(1902年という異説あり)にポーランドにユダヤ人聖職者の家系として生まれ、ワルシャワでデヴューした後、1935年に渡米し43年に帰化し、一貫してイディッシュ語で作品を発表したという経歴は様々のマイノリティーの系譜が交錯するかのようだ。少し説明を加えるならば、国家をもたずディアスポラを強いられたユダヤ人たちはユダヤ教の信仰と律法を自らのアイデンティティーとした。10世紀前後にライン川周辺に住んでいたユダヤ人たちは聖書ヘブライ語と周囲のゲルマン系言語を混交させてイディッシュ語という特殊な言語を用いるにいたった。しかし第二次大戦後、シオニズムの高まりとともに建国したイスラエルは現代ヘブライ語を国語として採用したため、イディッシュ語は東欧のユダヤ人社会の中に取り残されることになった。シンガーはノーベル賞受賞講演の中でイディッシュ語を「故郷喪失者の言語」であり、「異教徒からも同化解放ユダヤ人からもさげすまれてきた言語」であると述べている。シンガーの作品はこれまでにも邦訳がいくつか存在するらしいが、今回の翻訳はすべてイディッシュ語の原典からの翻訳であるとのことだ。翻訳作業も相当に大変ではなかったかと感じるがそれに見合った実に豊穣な物語の世界を味わうことができた。イディッシュ語で著された東欧に居住するユダヤ人たちの物語、ここからどのような内容が予想されるだろうか。まずユダヤ教とユダヤの風俗が濃厚に反映されていることが理解される。律法感謝祭(シムハト・トーラー)、口伝律法(ミシユナー)、導師(レッペ)、異教徒(ゴイ)、神殿崩壊日(テイシャ・ベアブ)任意に列挙したが、これらの頻出する特殊な言葉と発音(ルビで示される)からはユダヤ教と東欧を語源とする言語の結合、一種の異端性がおぼろげに浮かび上がる。今回の翻訳はこのような雰囲気をうまく伝えている。物語の内容は多彩だが、そこでは現世と異界が切れ目なくつながり、抜け目のない人間と悪魔がやりとりし、奇跡と奇譚が連続する。短編と長編、東欧と南米、全く異なった風土を舞台にしているとはいえ、私が本書を読んで「百年の孤独」を連想したことはあながち的外れではないだろう。なにしろ収められた物語のうちの二つにおいては、悪魔が語り手なのだ。マルケスの小説には魔術的レアリズムという形容がなされる場合が多いが、シンガーの短編はグロテスク・レアリズムの名がふさわしい。例えば導師の娘ヒンデレが悪魔と結構させられるという「黒い結婚」という短編から引用する。

 ところが、あろうことか、彼女、ヒンデレは妊娠していた。悪魔の子を身ごもったのだ。ヒンデレはまるで蜘蛛の巣を透かすように腹のなかの子を見ることができた。それは、蛙と猿のあいのこみたいで、仔牛の目と魚の鱗をもっていた。そしてヒンデレの肉をむしばみ、血をすすり、爪を突き立てては、尖った歯で咬みつくのだ。そしてその子はいきなり赤ちゃん言葉を話し出し、ヒンデレのことを「母ちゃん」と呼んで、下品なことばかりわめき散らすのだった。(中略)化け物がくり出すいやらしい話や悪ふざけは聞くに耐えないものだった。しかも化け物は、ヒンデレのからだのなかで小便から大便まで垂れ流すのだ。何としてでも堕ろしてしまわなければ!だけどどうやって?ヒンデレは拳で腹を殴ったり、跳びはねたり、高いところから飛び降りたり、からだをぐいぐいと折り曲げたりした。子どもを堕ろすにはこれが効くというのだ。ところが、なかなかうまくいかなかった。それどころか、化け物はこねたパンが膨らむようにどんどん大きくなり、邪悪な力を蓄えて、ヒンデレの腸を引きちぎろうとするのだった。

 シンガーの小説の雰囲気を伝える一節であるが、このような土俗的な作品をシンガーはポーランドではなくニューヨークで執筆した。このあたりの経緯は「ちびの靴屋」という短編の中に反映されている。フランポル(ルブリン県南部の町。地図の中に地名がある)で靴屋を営むアバは腕のいい実直な靴屋として知られていた。妻ペシェとの間に七人の息子をもうけ、息子たちも靴屋を手伝う。ところが、長男ギンプルはある日突然、アメリカへと向かい、彼の地で家庭を築く。彼を追うかのようにほかの息子たちも次々にアメリカに渡った。残された二人が暮らすフランポルはナチスドイツの侵略を受けて壊滅する。二人は子どもたちの誘いに応じてアメリカに渡り、アバは新天地で再び靴屋の仕事を始める。要約するならば以上のような物語がシンガーらしい幻想と現実が入り混じる魅力的な語りをとおして提示される。1930年代、ポーランドに住んでいたユダヤ人たちの残酷な運命については誰でも知っている。しかし少なくともこの短編集においては、このような背景が暗示される作品はこれのみであり、むしろシンガーは「黒い結婚」のごときグロテスクで寓話性に満ちた物語の中にポーランドのユダヤ人たちの生活を描いた。収録された短編のうち、最後の二つ「ハンカ」と「おいらくの恋」は作家を思わせる主人公が、ブエノスアイレスの講演旅行とマイアミでの引退生活の中で体験した奇譚を描き、新大陸を舞台とした現在の物語であるが、そのほかは舞台こそルブリン県として特定されているが、時代からも世情からも超越した一種の非時間的な寓話として語られている。かかる寓話性とシンガーが生きたであろう時代の苛酷さの関係には興味を覚えるが、検討するために十分な資料がない。長編も含めほかの作品の訳出が待たれる。
 ところで本書の装丁を見て、私は思わず唸ってしまった。いうまでもなくウィーン・アクショニズムの巨匠、ヘルマン・ニッチの絵画が用いられている。血の滴りを連想させる不吉なイメージはまことに本書の装丁にふさわしい。ニッチは生贄の動物を屠る秘教的なパフォーマンスで知られるが、実は本書の中にも屠殺と深く関わる作品がいくつか収められている。ユダヤ教の肉食文化においては屠殺、解体した動物の肉を「清浄な肉」として教徒たちに供するために、屠殺者は宗教的な権威と資格を有さねればならなかった。表題作である「不浄な血」はこの問題と関わり、老いた屠殺業者の後妻に入ったリシェという女が、自らが動物を解体するというタブーを犯す一方で、同じ屠殺場で若い屠殺人と情交を交わし、「血への情欲と肉欲」をともに満たすという地獄絵図のような物語である。彼女が実は狼人間(ブイルコワク)だったという落ちを含めてなんとも凄絶で、本書の白眉といってよい短編だ。訳者もあとがきで記すとおり、屠殺に関しては日本でも職業的な差別感が残っているが、確かに本書の中には差別的ともとらえかねられない言葉が頻出する。訳者もイディッシュ語の翻訳に際しては「口語性の強い土着的な言語であるイディッシュ語で書かれた文学には、現代日本言語感覚や文学観からすると『差別』的にひびく言葉が、それこそ『濫用』されている感がある」としたうえで、このような言葉の使用自体が「一方で差別感情を示し、留保をつけながら、他方では、そうしたあぶなかしいキャラクターをユダヤ社会の中に包摂していこうとするイディッシュ語に特有な言語活動の一部なのである」と述べている。中上健次や井上光晴を持ち出すまでもなく、差別あるいは禁忌といった主題は広く世界の文学に共有されているが、この点においてシンガーの作品はイディッシュ語という特殊な言語と密接に結びつきながら聖と俗、差別と被差別、神と悪魔といった問題に切り込んでいるといえよう。言語と主題、形式と内容の関係に私は大いに関心を抱く。そしてこの問題はさらに展開の余地がある。訳者の解題によれば、シンガーは最初、自分の作品の英語訳は他人任せだったらしいが、次第に自分も翻訳の作業に手を貸し、共訳者として英語版に名を連ねるようになったという。つまり彼は二重言語作家だったのであり、この点でベケットやナボコルとの比較も可能かもしれない。イディッシュ語版と英語版の異同など私としては是非知りたいと思うが、そのような比較は私自身の言語能力をはるかに超えている。ひとまずは本書がイディッシュ語原典より翻訳され、日本語でも読めるようになったという快挙を喜びたい。
by gravity97 | 2015-11-08 20:19 | 海外文学 | Comments(0)

柴田元幸編・訳『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』

 b0138838_20594614.jpg柴田元幸翻訳叢書の一冊として「ブリティッシュ&アイリッシュ マスターピース」というアンソロジーが刊行された。タイトルが示すとおり、いわゆるイギリス文学の名作短編12編を束ね、柴田の名訳で紹介するという趣向だ。1729年のジョナサン・スウィフトから1955年のディラン・トマスまで年代順に並べられたラインナップはなるほど世評の高い作品揃いだ。しかし私がこれまではっきりと読んだ記憶があるのはW.W.ジェイコブスの「猿の手」と、確か高校時代であったか、英語のリーダーで原文を読んだジョージ・オーウェルの「象を撃つ」くらいであるから、これらの短編に目を通すよい機会となった。
 すでにこのブログではボルヘスがコンパイルした名高い「バベルの図書館」の中の一冊、アメリカ篇についてレヴューしている。ボルヘスのアンソロジーはとにかく長大で読み終えるのに少々時間がかかったが、本書は一日あれば簡単に読み終えることができる。しかしボルヘスと柴田のセレクションがよく似ている点は興味深い。実はこのアンソロジーには対をなす「アメリカン・マスターピース 古典篇」という一書がある。こちらは未読であるが、そこに収められたホーソーンの「ウェイクフィールド」やメルヴィルの「書写人(ボルヘスでは代書人)バートルビー」は「バベルの図書館」にも収められており、採られた作品こそ異なるが、エドガー・アラン・ポーやジャック・ロンドンも両方のアンソロジーに収められている。アルゼンチンと日本、異なった国でそれぞれ一流の文学者が英語圏に関して比較的限られた作家、作品を選んでいる訳だ。さらにこれらの小説が内容的にも似通っている点も注目されてよいだろう。本書に収められたメアリー・シェリーの「死すべき不死の者」、チャールズ・ディケンズの「信号手」、そしてジェイコブスの「猿の手」、この三つの短編を一言で表現するならば「怪談」である。以前のレヴューで私は「バベルの図書館」に収められたアメリカの短編の特質を「奇譚」と定義した。「怪談」と「奇譚」、それらは英語で書かれた小説の本質とまでは言わずとも、一つの脈々たる系譜をかたちづくっているのではないか。本書を読んで私は今挙げたイギリスの三つの短編のうち二つの小説で扱われた主題が後代のアメリカ人作家によっても変奏され、別の長編に生かされていることに気づいた。すなわち「死すべき不死の者」に対するH.P.ラブクラフトの「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」における不死という主題、そして「猿の手」に対するスティーヴン・キングの「ペット・セマタリー」における死者の帰還という主題である。この系譜の起源は、いわゆるゴシック・ロマンスに求めることができるだろう。かかる主題系がなぜ英語圏において成立したかについてはおそらく先行研究も存在しているだろう。私は英米文学を専門とする訳でもないから、ここでは収録された短編についてひとまず感想を記しておくに留める。
 冒頭のスウィフトの短編は「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」という長いタイトルが付されている。貧民の子供を食用に供すべしというまことに人を食った文章であるが、柴田も指摘するとおり、全編にみなぎる皮肉と風刺の棘は強烈に私たちを刺す。同じ作家の「奴婢訓」を寺山修司が同名の舞台として上演したことはよく知られているが、いずれも黒い諧謔に満ちた怪作であり、そこには「塩なしでもわが国(いうまでもなくアイルランド)を丸ごと喜んで喰らいつくし」、「奴婢」に対して主人然としてふるまうイングランドへの憤怒に近い反感がうかがえる。シェリーの「死すべき不死の者」、ディケンズの「信号手」、ジェイコブスの「猿の手」そしてウォルター・デ・ラ・メアの「謎」は先にも述べたとおり、いずれも怪奇小説の傑作である。短い作品ばかりであるから、手に取って読んでいただくのがよいが、ディケンズといった巨匠、そしてシェリーのごとき女性作家がこのようなテーマのみごとな短編をものにしていることには少々驚く。もっとも「荒涼館」の作家にとってこの程度の怪談は余芸の域を出なかったことは大いにありうるし、ヴァージニア・ウルフやエミリー・ブロンテといった作家を想起するならば、女性作家とこのようなテーマとの親近性を理解することも容易である。これらの怪談の間にはオスカー・ワイルドの「幸せな王子」が配されている。この短編を太宰治における「走れメロス」と比較する柴田の解説は的を射ている。柴田によればいずれも「決してストレートに教訓的、道徳的ではない作家が書いた、教科書に載せても大丈夫そうな、友情や自己犠牲の物語」である。確かに私も、「幸せな王子」については小学生向けのジュヴナイル・ヴァージョンであったように記憶するが、ともに学校の教科書で読んだ記憶がある。続くジョゼフ・コンラッドの「秘密の共有者―沿岸の一エピソード」は短編とはいえ、本書中では最も長く、読み応えがある。コンラッドについては既にこのブログでも「闇の奥」についてレヴューしたことがあるが、この短編も具体的な情景を描写しているにもかかわらず、文章の抽象度が高く、一筋縄ではいかない。文体の特殊さが直ちに伝わる内容である。おそらく柴田も翻訳に苦労したのではないだろうか。この短編はジャンル分けするならば「海洋奇譚」に属するだろう。船員たちを十分に掌握しえていない船長と他の船から逃れてきた密航者の葛藤をめぐる物語は読み飽きない。ポーランド語を母語とするコンラッドをイギリス文学の直系とみなすかはともかく、コンラッドにはこのほかにも多くの海洋小説がある。興味深いことに海洋小説を執筆したのはコンラッドだけではない。今回のアンソロジーには含まれていないが、コナン・ドイルにも海洋を舞台とした一連の小説があり、かつて新潮文庫から刊行されていた分冊形式のドイルの短編集のうち一冊は「海洋奇談編」と銘打たれていたはずである。イギリス文学のサブジャンルとしての海洋小説というテーマも一つの研究の主題たりうるだろう。続くサキの「運命の猟犬」もまた奇譚と呼ぶべき小品であり、私は先に触れたホーソーンやメルヴィルの短編を連想した。ジェイムス・ジョイスからは二編、「アラビー」と「エヴリン」が採られている。いずれも市井に生きる人物の生の一断面を切り取った佳作であり、これらからの断片から構成されたのが連作長編「ダブリン市民」であるという。機会があればこの長編も読んでみたいという思いに駆られる。オーウェルの「象を撃つ」はタイトルの通り、逃げ出して暴れまわる象をミャンマーに駐留するイギリス人の巡査がライフルで撃つという物語だ。オーウェル自身、ミャンマーで官吏を務めた経験があるというが、この物語がどの程度実話に基づいているかはわからない。明らかにこれは一つの寓話であろうが、その寓意を解くことは容易ではない。そして最後に収められたディラン・トマスの「ウェールズの子供のクリスマス」は詩人として知られる作家の追想風の短編である。タイトルどおり子供時代のクリスマスの思い出が語られるが、降り続く雪やクリスマス・プレゼント、そしてクリスマスの御馳走の描写からは誰もがディケンズの「クリスマス・キャロル」を連想するだろう。余談となるが、一読した後、トマスの詩を最近どこかで読んだなという思いがあり、しばらく考えて思い出した。クリストファー・ノーランの「インターステラー」だ。地球に残された科学者が宇宙飛行士たちに呼びかける際にトマスの詩が引用されていた。
 いつになく雑駁に感想を書き連ねたが、このようなとりとめのなさはここに収録された作品を反映しているかもしれない。それでは翻ってこれらのイギリス文学に何らかの共通性を認めることができるだろうか。柴田自身はあとがきの中でアメリカ文学と比較しながら次のように述べている。「一般に―と、乱暴な一般論を展開すると―米文学は遠心的であり英文学は求心的である。キャッチコピー的に言うと米文学は荒野をめざし英文学は家庭の団欒へ向かう。」柴田の言わんとするところはなんとなくわかる。私が好きな作家で、これまでにこのブログで取り上げた作品から例示するならば、例えばコーマック・マッカーシーの「ブラッド・メリディアン」とカズオ・イシグロの「日の名残り」を対比すれば、かかる相違は明白である。インディアンの頭皮を剥ぎ取る荒くれ者たちの乱行と、自らの半生に思いを巡らせる執事の回想。両者の対比は英語で著された文学の本質と関わっているかもしれない。
 本書を読み通して、私もイギリスの小説に一つの特徴を見出すことができたように感じた。それは植民地の存在が明示的/暗示的に反映されていることだ。確かにこの主題が直接に示された作品はさほど多くない。ミャンマーを舞台にした「象を撃つ」とメナム川から「本国」への帰途途上の出来事を描いた「秘密の共有者」がそれだ。しかしイギリスを舞台にした物語にも「植民地」は濃厚に反映されている。例えば災いをもたらす「猿の手」はインドから招来されたことが語られ、「しあわせな王子」の頼みを実行するツバメはエジプトの仲間たちのもとに飛び立つことを夢見る。メルボルンにいる知り合いの司祭の写真が貼られた部屋に住むエヴリンはブエノスアイレスに向かって旅立とうとしている。もう少し連想を広げるならば、マルカム・ラウリーにおけるメキシコ、ロレンス・ダレルにおけるアレクサンドリア、あるいはJ.G.バラードにおける上海。宗主国と植民地に関わるこれらの作家、それらの場所との結びつきは決して牽強付会ではないだろう。植民地を有した列強はイギリスだけではない。しかし私はドイツとイタリアに植民地と関わる文学の例を知らないし、アメリカは植民地とは無関係だ。ラテンアメリカ文学という豊かな後背地を要するスペインについては議論の立て方を改める必要があり、フランスについてはアルベール・カミュとマグリット・デュラスを思い浮かべるが、いずれも第二次大戦後に発表された物語である。私はイギリス文学こそ植民地という他者を自らの糧として異例の系譜を形作ったのではないかと考えるのだ。このように考えるならば、先に述べたとおり、植民地との往還の過程を舞台とした海洋小説というジャンルがことにイギリスにおいて発達した理由も説明することができようし、このブログで取り上げたサルマン・ラシュディやハリ・クンズルといった作家の独特の位置も説明できるのではなかろうか。いうまでもなく植民地と文学とはきわめて大きな課題であり、このような短いレヴューで応接できるような問題ではない。しかしこのような視座を得るならば、日本文学にも新しいアプローチが可能ではないだろうか。一つは植民地を舞台にした作品である。これについては集英社版の全集「戦争×文学」において満州、樺太、南方をそれぞれ主題としたアンソロジーが編まれ、川村湊が精力的な研究を続けている。私は近くそれらの作品や研究を読んでみようと考えている。もう一つは在日朝鮮人によって日本語で書かれた小説である。李恢成から金石範、梁石日にいたるこれらの系譜についても私はあらためてこのブログで応接する必要を感じる。かくして練達のアンソロジストによってまとめられた英文学のアンソロジーは極東の島国であり、同様に植民地に圧政を強いた日本の近代文学にも光を当てるのだ。
by gravity97 | 2015-10-19 21:10 | 海外文学 | Comments(0)

J.M.クッツェー『マイケル・K』

b0138838_14541432.jpg クッツェーという南アフリカの作家の作品について論じるのは二回目となる。末期癌に冒された女性と黒人の浮浪者の葛藤を描いた「鉄の時代」も厳しい内容の小説であったが、本書もまた気楽に読める小説ではない。とはいえ後で述べるとおり、読後感は決して悪くない。私はクッツェーの小説をこの二つしか読んでいないのだが、両者は互いによく似ている。それは主人公たちの背景に広がる不透明な不穏さである。いずれの物語においても戦争あるいは暴動が発生していることが暗示されており、スラムや収容所といった不吉な状況が主人公たちといわば地続きでつながっている。しかしそのような状況と主人公たちの関係は明示されていないのだ。このため一種の不条理な状況が出現しており、本書から先日、このブログでレヴューしたアンナ・カヴァンの「氷」が連想されたこともこのような問題と関わっている。「鉄の時代」に描かれた虐殺事件には現実のモデルがあったとのことであるが、「マイケル・K」でKが彷徨する世界はさらに抽象度の高い内戦が続いているかのようだ。
 最初の数頁を読むだけで、主人公が担ういくつもの負性が明らかとなる。「マイケル・Kは口唇裂だった」という冒頭の一文に始まり、知的障害とみなされて学校から追い出され、恵まれない子供たちを集めた「ノレニウス学園」で保護を受けたことが記される。興味深いことに、Kの人種的アイデンティティーは明らかにされない。これは発表当時アパルトヘイト体制下にあった南アフリカで検閲されることを恐れての配慮ではないかと訳者はあとがきで述べている。やはり訳者によれば作中の「CM-40歳―住所不定―無職」というKの分類コードのうちCとはカラード、つまり混血もしくはアジア系を指しているというが、少なくとも人種的葛藤はこの小説においては前景化されることがない。「ノレニウス学園」を出た後、Kはケープタウンの公園管理局に庭師として勤務した後、公衆トイレの係員を務めるが、ある夜、二人組の男に気を失うまで暴行を受けたことを契機に夜勤を辞めて、再び庭師の仕事に戻る。この小説を通底する暴力のモティーフが最初に顕在化するエピソードである。31歳の6月、Kのもとに母親のアンナ・K(先に引いたアンナ・カヴァンとの頭文字の一致は偶然であろうか)から病院から強制的に退院させられたという知らせが届く場面から物語が起動する。アンナ・Kは家政婦として長く雇われていたが、浮腫のため寝たきりとなり、入院していたのだ。「マイケルは自分の義務と思うことから逃げたりはしなかった。何年も前にノレニウス学園の自転車置き場の裏でくり返し考えさせられた難題、なぜ自分がこの世に生れてきたのかという難題にはすでに答えが出ていた。母親の面倒を見るために生まれてきたのだ」アンナ・Kは自分が生まれたプリンスアルバートの農場に戻ることを願い、マイケル・Kはその望みをかなえようとする。しかし南アフリカでは移動することすら自由ではない。列車の座席の予約、さらには今居住する地区から出ることに対する警察の許可証が必要であり、いずれもカフカ的な官僚機構によって永遠に宙吊りにされている。Kは手押し車を改造して母を乗せ、文字通り自力でプリンスアルバートへの脱出を試みるが道中は難渋し、断続的に発生する市街戦が二人の行く手を阻む。時にトラックに乗せてもらい、時に間道を手押し車に母を乗せながら続けられる母と息子の道行きは弱った母の死によって突然に断ち切られる。Kはせめて母の遺灰をプリンスアルバート、彼女が働いていた農園に撒くことを願って旅を続ける。決して楽な旅ではない。時にKは兵士たちに徴用されて労働を課せられ、親切な一家に助けられ、旅を続ける。このあたりの描写はリアルでありながら、一種の幻想性さえ宿している。目的地のフィサヒー農場にたどりついたKはそこで山羊の群れ、ポンプと貯水池を見つけ、庭師としての経歴を生かして自給自足の生活を始める。人に見つからないように隠れ家を整え、携えていた種からカボチャとメロンを収穫する逸話からは誰しもロビンソン・クルーソーの物語を連想するだろう。しかしこのような生活も長くは続かない。街に出たKはそこで倒れ、キャンプに収容される。「ジャッカルスドリフ再定住キャンプ」の名が示す通り、Kのような流民を収容するために設置されたとおぼしきキャンプでKは労働の対価として食事と住居を与えられるが、そこに留まることを好まず再び脱走する。フィサヒーの農場に戻ったKは再び時に昆虫や植物の根さえを食用とする厳しい自給自足の生活を続ける。しかしその周辺を捜索に来た兵士たちによって再び発見されたKは体調の悪化とも相俟って病院へと送られる。続く第Ⅱ部では小説の中で焦点化される対象がKから彼を治療しようとする病院の若い医者へと転じる。この変化は重要である。このパートが存在することによって、私たちは初めてKを客観化する語りを知るのであるから。しかし予想されたことではあるが、Kはこの病院にも長居をすることはない。最後の短い断章、第Ⅲ部において、Kは母親が住んでいた街区に戻り、そこで知り合った男女と関係をもちながら、次のように独白する。「思い返してみるに、俺がやった間違いは十分な種子を持っていなかったことだ、Kはそう思った。ポケットごとに違った種子の包みを入れておけばよかった。(中略)それから、おれがやった間違いは種子を全部いっしょに一箇所に蒔いてしまったことだ。一時に一粒だけ蒔くべきだった」物語は再びKが農場への帰還を決意する場面で終わる。
 一読してわかるとおり、この物語は一種のロード・ノヴェルである。Kは物語の中で移動を続ける。ケープタウンやプリンスアルバートは実在の地名であるから、南アフリカの地理に詳しければ実際の距離や位置関係についても思いをめぐらしながら本書を読むことができるだろう。しかし冒頭のエピソードからも明らかなとおり、この国には移動の自由は存在しない。移動には官憲の許可が必要とされ、それがなければ流民とみなされて「再定住キャンプ」へ収容されるのだ。Kが一つの場所にとどまり、ゆったりとした生を送るのは「農場」に隠れ住み、作物を育てる場面であるが、その際にもKは兵士たちに見つからぬように細心の注意を払う。本書で描かれる世界は二つに画然と分かたれる。一つは農場における自由な生活であり、もう一つはキャンプや収容所における管理された生活である。後者において食と住居は保証されるが、前者においてはKの庭師としての能力がなければ生活は維持できない。実際に「農場」で時に虫を食べながら、ほとんど絶食して過ごすKの姿は非現実的にさえ感じられる。実際に病院においてもKはほとんど何も口にせず、第Ⅱ部で彼を治療する医師は次のように述べる。「もう一つきみのことで知りたいのは、あらゆる食物に対するきみの食欲を奪ったものとは、きみが荒野で食べていたものとは、いったい何かということだ。(中略)マナの味がきみの味覚を永久に麻痺させたとでもいうのか」マナという言葉が示されているが、食物を口にしない庭師からはいくつもの宗教的なイメージが連想され、本書が一種の寓意性を帯びていることは明らかだ。そもそもKという名前からカフカを想起しないでいることは難しい。本書に対してカフカとロビンソン・クルーソーの結合という評がなされたことはよく理解できる。とはいえKが何の寓意であるかは明らかとされず、第Ⅱ部でKを前にして当惑を隠しきれない医師は、私たちと同じ場に立っている。一方の世界が戦争や暴力、管理と結びついているのに対して、Kが希求するのは安らぎに満ち、大地と結びついた世界だ。種を蒔くことと遺灰を土に撒くこと、本書の核となるエピソード、生命が大地から到来し大地へと帰還していくイメージは美しい。キャンプや病院への収容と脱走を繰り返すKは二つの世界の間を往還する。二つの世界は共存しているといえよう。先にも述べたとおりこの物語に登場する地名は現実のそれである。一方でここに描かれた警察国家、誰ともわからぬ敵と永遠に戦争を繰り返す兵士たち、スラムと荒廃した土地の連なりのイメージは直ちに現実を反映しているとはいえないにせよ、私たちにとって決して未知のものではない。映画や小説で私たちは既にこのような光景に見慣れている。南アフリカという言葉からたやすく連想されるのはニール・ブロムカンプの「第9地区」に登場したエイリアンたちのスラムであり、あるいはアルフォンソ・キュアロンが「トゥモローワールド」で描いた警察国家、小説であればオーウェルの「1984年」は言うに及ばず、最初に挙げたカヴァンの「氷」、あるはポール・オースターの「闇の中の男」、そしてコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」。ブラッドベリの「華氏451度」から昨年の横浜トリエンナーレを連想してもよい。これまでこのブログで取り上げてきた作品やテーマばかりではないか。この小説は1983年に発表され、南アフリカの近未来を暗示しているとの評があったとのことだ。周知のようにアパルトヘイト体制は90年に崩壊したが、私の見るところ、この国はまだその傷から癒えてはいないようだ。そしておそらく30年前に予言されたこの小説の世界は現在、コロニアリズムに代わるグローバリズムという名の暴力によって南アフリカどころか世界的な規模で実現されつつある。日本でも人種隔離、端的にアパルトヘイトを称揚した女性評論家の発言は記憶に新しいし、フクシマに広がる荒廃した土地をKが旅したとしても何の違和感もないだろう。戦争に向かうこの国において、私たちはKのように一粒の種を大地に蒔くことができるだろうか。今という時点で読むことによって、私は本書が豊かな暗喩に富んだ傑作であることをあらためて思い知った。
by gravity97 | 2015-06-15 14:57 | 海外文学 | Comments(0)

ハリ・クンズル『民のいない神』

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 未知の作家の抜群に面白い小説を読んだ。ハリ・クンズルという名前から直ちに作家の国籍を言い当てることは難しいが、クンズルはインド系のイギリス人。オックスフォード大学に学び、現在はニューヨーク在住とのことだ。インド系の英語作家といえば、直ちにサルマン・ラシュディが連想される。実際にクンズルはインドの文学祭に参加した際に、同国では出版が禁止されているラシュディの「悪魔の詩」を朗読するパフォーマンスを行ったこともあるという。しかしラシュディの小説がムンバイやカラチといったインド大陸を舞台としているのに対して、本書はアメリカ中西部の砂漠、きわめてアメリカ的な風景のもとに第二次大戦後から今日にいたるアメリカの精神史を凝縮するきわめて特異な内容の小説である。アメリカを主題としてインド系の作家によって英語で執筆された小説。日本という(実は特殊な)国家においては同一視される三つの要件、土地、民族、言語が一度分解されて、一つの必然性のもとに再び統合されたのがこの小説であるといえるかもしれない。今回はかなり内容に踏み込んで論じる。先入観をもたずに小説に向かいたい読者は先に本書を手にされたい。
 決して読みやすい小説ではない。特に冒頭部で読者は唖然とするだろう。「動物が人間だった頃、コヨーテはある場所に暮らしていた。『ハイキヤ! ここの暮らしにはもう飽きたぞ、アイキヤ、砂漠に行って、料理をすることにしよう』コヨーテはそう言って、研究所を作る場所を捜しにRVで砂漠へ行った。持っていったのは食パン十斤とラーメン五十袋。ついでに景気づけのウィスキーとマリファナも」冒頭から読者は珍妙でポップな神話風の語りの中に投げ込まれる。続いてエノラ・ゲイが広島に向かって飛び立つのを見送った飛行機整備士がUFOに拉致されるというこれまたぶっとんだエピソード、そして2008年、ニッキーという名のミュージシャンがロスアンジェルス郊外のモーテルでマリファナを吸って酩酊するという物語が続く。これらのばらばらなエピソードは果たして一つのストーリーへと回収可能なのであろうか。クンズルの手綱さばきは絶妙だ。断章形式で語られるいくつもの物語は相互にあいまいな文脈を形成し、時に矛盾しながら総体として「民のいない神」という傑出した小説をかたちづくる。ばらばらの断章から成立する小説形式から、私は最初、コルタサルの「石蹴り遊び」を連想した。しかし読み進めるうちに、この小説の断章形式はかなり綿密に構想されていることが理解された。それぞれの断章は西暦による暦年によってタイトルを与えられており、時系列として整理することが可能である。最初こそ相互に関係のないエピソードが重ねられているように感じられるが、読み進むにつれてこの小説はいくつかののサブストーリーを縄のように糾(あざな)っていることが理解される。中心となる物語は2008年と2009年の年記をもち、ほぼ現在の時制に立つ。アメリカに移住したパンジャブ人の家系に育ち、MITで物理学を学び、量子確率論を市場の予測に応用する投資会社の敏腕トレーダー、ジャズと妻リサ、彼らの息子で自閉症(この言葉を使用することに抵抗を感じるが、訳語として用いられているため、ひとまずこのまま用いる)のラージ、三人の親子をめぐる物語だ。ジャズの出自が作家を反映していることはいうまでもない。ジャズは多くの葛藤を抱える。インド系の一族とユダヤ人である妻の間には文化的な断絶があり、ことに一人息子が自閉症であることがわかってから、彼と妻、両親と妻の関係は悪化する。ヘッジ・ファンドとして荒稼ぎする会社の中にあっても彼は自分が正しいことをなしているという確信をもてない。とりわけ言葉をしゃべらず、頻繁に癇癪を起こすラージとの関係は緊張をはらんでいる。しばしば回想や連想が挿入されるため、必ずしも時間軸に沿っていないが、いくつも断章をとおして、ジャズとリサが知り合い、ラージが生まれるまでの物語、そして現在の彼らをめぐる不穏な状況が浮かび上がる。都会の生活に疲れた彼らは家族の再生を求めてカリフォルニアの砂漠に旅に出る。二番目のストーリーは1958年の年記をもつエピソードから始まる。この年、やはりカリフォルニア、モハヴェ砂漠で「アシュター銀河指令」なる宇宙的な存在との交信を主張する狂信者たちが大規模な集会を開く。この集会は一つの惨事とともに幕を閉じるが、そこに集まった者たちの後日談がもう一つの物語の系列をかたちづくる。彼らはカウンター・カルチャー、いわゆるヒッピー文化と親和し、フリーセックスと神秘思想、ニューエイジ思想によって結びついたコミューンを形成する。最終的に彼らは古い共同体から激しい弾圧を受けるが、彼らとそれを取り巻く人々の物語が二番目の系列だ。実はこれら二つの系列の物語は登場人物においてゆるやかに結びついていることが読み進めるうちに理解される。三番目の系列はわずか二つの断章から成り、年記としてはさらに以前の1920年、先住民の文化を研究するデイトンという男と妻の物語である。先住民の神話や言語を調査するデイトンに対して先住民たちは心を開かず、さらにデイトンが白人の子供を連れた先住民を見かけたことから、子供を誘拐した疑いのある先住民に対して人狩りが始まる。先住民=インディアンとの抗争という主題からはかつて論じたコーマック・マッカーシーの傑作「ブラッド・メリディアン」も連想されよう。これらのストーリーに加えて一つの断章によってのみ語られるいくつかのエピソードが語られる。例えば18世紀のスペイン伝道師についての報告。19世紀にモルモン教徒たちが幻視した光景。語られる物語は時代も登場人物も多岐にわたる。
 一見ばらばらなそれぞれのストーリーを束ねているのは何か。以上の説明から想像できよう。それはモハヴェ砂漠という土地、正確にはそこにそびえるピナクル・ロックと呼ばれる三本の尖塔状の岩山である。UFO信者たちはその傍らで大集会を開き、修道僧は天使に出会い、ジャズたちは事件に巻き込まれる。砂漠に屹立する三本の巨大な岩山とはまことにアメリカ的な風景であるが、実際には存在しないこのような風景が三位一体という神秘的啓示を暗示していることも行間から明らかだ。岩山に引き寄せられるように集い、驚くべき体験をする人々、かかるイメージから誰もが想起するのはスティーヴン・スピルバーグの映画「未知との遭遇」であろう。実際にこの小説においても宇宙の高次な存在との交信について語られ、先にも触れた冒頭に近い挿話においては、ピナクル・ロックの上に浮かぶ巨大な円盤から降り立った宇宙人たちに招かれて、一人の飛行機整備士が光の中に歩み出る。この場面から「未知との遭遇」のラスト・シーンを連想しないことは難しい。あるいはカリフォルニアならぬネヴァダの荒涼とした土地のモーテルに様々な人物が呼び寄せられるように集まるというディーン・R・クーンツのSFサスペンス「ストレンジャーズ」も連想されよう。
 しかしクンズルの小説は遥かに深い。もう一つの映像的記憶を召喚しよう。砂漠に直立する尖塔、このイメージからスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」に登場するモノリスが導かれることに異論はないだろう。実際にクンズルはこの小説の冒頭に三つのエピグラフを記しているが、そのうちの一つはキューブリックのフィルムの原作であるアーサー・C・クラークの言葉から引かれている。さて、よく知られているとおり、この映画の冒頭で人類の祖先とも呼ぶべき猿人が空に投げた骨(人にとっての道具の暗喩だ)は空中で回転しながら、宇宙船へと変わる。骨も宇宙船も人にとって道具として同じ意味をもつことを暗示するシークエンスであるが、かかる対照はこの小説にもたやすく認められる。1958年、ピナクル・ロックの前に集まるUFO教の信者たちに対して案内人(ガイド)は次のように唱える。任意の部分を引用する。「われわれは、星々の間でアシュター銀河指令部として知られている組織の代表だ。指令部はあなた方の文明を、歴史の夜明けからずっと監視下に置いてきた。(中略)しかしながらわれわれは今回、ルールに反して干渉する決断をした。あなた方が今、大変な危機にあるからだ。人類は物質をある未熟なやり方で扱う方法を発見した。あなた方が原子力と呼んでいる、原子を分裂させるテクノロジーだ」いかにもニューエイジ思想やオカルトにかぶれた戯言と批判するのはたやすいし、一方で本書は文化が資本によって収奪された今日、カウンター・カルチャーを再評価する試みと読めなくもない。ジャズは勤務先のヘッジ・ファンドでサイ・バックマンという辣腕トレーダーのもとで「ウォルター」なるシステムの開発に関わるように求められる。「ウォルター」とは地球規模の新しい量的分析モデルであり、市場におけるある種の予測可能なふるまいを見つけ出し、それを取引に利用して莫大な利潤を生むシステムである。「ウォルター」を稼働させることによってジャズは「1960年以降のCPUトランジスタ数とアフリカ系アメリカ人単親家庭男児の知能指数と、タイと東南アジアにおけるメタンフェタミン系覚醒剤蔓延の疫学的分析との間に周期的相関サイクルがあることに気づいた」50年代のUFO教をオカルティズムとして批判することはたやすい。しかしその一方で私たちが生きる時代に跳梁するヘッジ・ファンドが拠って立つ理論も一種のオカルティズムではないか。両者の対比は最先端のヘッジ・ファンドの金融工学も怪しげなUFO教とはなんら変わるところがないと説くかのようだ。しかも現代のオカルティズムはその影響力によって一つの国家の財政を破綻させるほどの力をもっているのだ。実際に自分たちの投資行動によってホンジュラスが財政破綻する可能性を知ったジャズは取引の中止を社長に訴え、自らのキャリアに幕を引くこととなる。
 ピナクル・ロックは空飛ぶ円盤と人類、神と人が出会う場である。そこは二つの世界が奇跡のように接する場であり、そこから消失と帰還という主題が派生する。ジャズとリサはラージを連れて砂漠にピクニックに行くが、ラージはピナクル・ロックの下の洞窟で忽然と消える。ラージを捜す二人、敏腕トレーダーの障碍をもった息子の誘拐という話題にジャーナリズムは食いつき、二人はメディア・スクラムの嵐に見舞われる。この事件は実際に近年、アメリカやヨーロッパで起きた幼児誘拐や、さらには両親に嫌疑がかけられた事件をモデルとしているだろう。しかし子供の消失は初めてではない。1958年に同じ場所でUFO信者たちが集会を開いた際にも参加者の一人、ジョウニーは娘のジュディーを失っていた。目撃者によればジュディーは光る男の子(グロー・ボーイ)とどこかに遊びに行ってしまったという。1970年の年記が付された断章ではジュディーの帰還について次のように語られている。スペース・ブラザーに一度連れ去られたジュディーは「ある日、まるで散歩から戻ってきたみたいな様子で、砂漠からあらわれた」このエピソードは物語の中で再話される。エピソードの一つとして、湾岸戦争下のイラクから眷属とともにかろうじて脱出したライラという少女は、中東に派遣される予定の兵士たちがイラクでの生活をあらかじめ体験できるように、モハヴェ砂漠の中に建設された現地そっくりの街でその住民として生活している。(魅力的な設定であるが、果たして実話であろうか)ある晩、知り合った黒人兵士から借りたナイトヴィジョン(暗視装置)を装着して出かけた彼女は、夜の砂漠を歩いて来る「光る男の子」を見つける。それは行方不明のラージであった。さらに消失と帰還という主題はラージにおいて奇妙な屈折を帯びる。砂漠からの帰還後、ラージは言葉を覚え、自閉症が治癒したかのような言動をとる。しかしジャズは喜ぶどころか、リサに対して、ラージが別人になったのではないかという恐怖を語る。ここからも一つの映像的記憶が喚起されるかもしれない。クリント・イーストウッドの「チェンジリング」である。そして同じ題名の小説が大江健三郎によって発表され、チェンジリング(取り替え子)がヨーロッパに伝わる伝承であること、神隠しや隠れ里といったエピソードが日本の民話の中にも典型的に認められることまで思いを馳せる時、この物語の射程はさらに広がるかのようだ。いくつものストーリーが複雑に嵌入しあい、さらに神秘主義からSF、ニューエイジ思想から民話やゴシップまでが砂漠に屹立する奇岩のもとで交錯する。
 タイトルの「民のいない神」とは何の暗喩か。エピグラフに掲げられたバルザックの言葉がその答えだ。「砂漠には何でもある。と同時に、何もない。砂漠は神だ。しかし、そこに民はいない」「民のいない神」とは物語の舞台となる砂漠のことであろう。以前、よくLA経由でニューヨークに向かったが、その際に上空から白茶けた砂漠が一面に広がる荒涼とした光景を何度も目にした。アメリカ中西部の砂漠とはアメリカという国家にとっての無意識、あるいは原風景といえるかもしれない。スティーヴ・ライヒやコーマック・マッカーシーといった私のお気に入りの音楽家や作家が砂漠を主題とした作品を発表していることもこれと関係しているだろう。Gods Without Men 、神が複数であることに注目しよう。UFO教の信者たちは宇宙の高次の存在を信じ、辣腕トレーダーたちーは小さな国家が破綻しようとも自らの利潤を崇める。先住民を指導する神父は天使に会い、兵士はイラク人を殺すために別の砂漠に向かう。登場人物の多くがアメリカに移住してきた者たちであることにも留意すべきであろう。様々の神が、いくつもの歴史が、無数の血統がアメリカという場所で出会う。本書はイギリスに生まれ、アメリカで暮らすインド系の作家でなければ書くことができない、アメリカについての壮大な寓話といえるかもしれない。
by gravity97 | 2015-05-19 20:54 | 海外文学 | Comments(0)

アンナ・カヴァン『氷』

b0138838_15585816.jpg アンナ・カヴァンは近年、日本でも再評価の高まっているフランス生まれのイギリス人作家である。私も以前「アサイラム・ピース」という短編集を読んで、独特の文体と作品にみなぎる緊張に圧倒された覚えがある。本書は1985年にサンリオSF文庫に収められた後、2008年に改訳復刊されたが、版元の在庫がなくなったため、今年、ちくま文庫で再び復刊されるという数奇な運命をたどったカヴァンの代表作である。不安定な精神を抱え、ヘロインを常用していたというカヴァンは本書を刊行した翌年、1968年に不審死を遂げた。(当時、ヘロインは違法ではなく、自殺の可能性は否定されている)本書の読後感を一言で言うならばJ.G.バラードの終末感とカフカの不条理文学の結合であろうか。まことに鮮烈な印象を与える傑作である。
 この小説は「私は道に迷ってしまった。すでに夕闇が迫り、何時間も車を走らせてきたためにガソリンは実質的に底をついていた」という一文で始まる。実にこのパッセージに本書の核心が凝縮されている。つまり、「氷」は主人公たる「私」が常に別の場所に向かってひた走るロード・ノヴェルであり、同時に主人公を取り巻く世界は尋常ならざる緊張を負荷されている。世界は大規模な気候変動によって寒冷化し、氷に閉ざされつつあるのだ。終盤に象徴的な情景を主人公が飛行機から眺める場面がある。このような描写だ。「虹色の氷の壁が海中からそそり立ち、海を真一文字に切り裂いて、前方に水の屋根を押しやりながら、ゆるやかに前進していた。青白い平らな海面が、氷の進行とともに、まるで絨毯のように巻き上げられていく。それは恐ろしくも魅惑的な光景で、人間の眼に見せるべく意図されたものとは思えなかった」大洋が氷に閉ざされてゆくヴィジョンは非人間的かつ幻惑的であり、本書の基調を形成している。気候変動による世界の破滅という物語はバラードをはじめ、SFに多くの先例があるが、物語の中ではそのような事態がなぜもたされたかについての説明は一切なく、破滅に抗う者もいない。人々はあたかも定められた運命であるかのごとく地表を、大洋を覆い尽くす氷からの脱出を試みる。終わりなき移動は本書に一貫するモティーフといえよう。寒冷化と呼応するかのように都市では内乱が発生し、略奪や暴行が蔓延し、伝染病や飢饉、戦争の噂も広がっている。崩壊しつつある世界の中をあてもなくさすらう主人公からは、以前このブログでも取り上げたコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」が連想されてもよい。しかしこの物語の異様さは登場人物たち、そして彼らの行動に背景や脈絡が与えらない点にある。今、あてもなくと述べたが、これは正しくない。名前をもたず外面的な描写を完全に欠いた主人公は物語を通じてひたすら「少女」を求めて彷徨する。主人公と少女の関係は冒頭で次のように述べられている。「あの少女に会いに行くという抑えがたい思いは自分でも理解できなかった。異国にいる間中、彼女のことが私の意識から離れることはひと時たりとてなかったが、かと言って、帰国の理由が彼女だというわけではなかった。この地域に何か不可解な切迫した非常事態が起こっているという噂を調査するためだ。だが、この国に着いた途端、彼女は強迫観念となり、私は彼女のことしか考えられなくなった」すでにこの時点で主人公の「少女」への執着は明らかであるが、「少女」とは誰か、主人公とどのような関係をもつか、物語の中では一切明らかとならない。今引用した一文からうかがえるとおり、主人公はヨーロッパの北部を連想させる地域(土地に対して「フィヨルド」という言葉が用いられている)が氷結する状況を調査するためにほかの国から派遣されたエージェントらしい。実際に身体能力の高さや多額の現金を所持していること、時に偶然を装って届けられる秘密の指示といったエピソードはこのような推測を補強する。しかし主人公の口からは自らの役割や少女との関係が一切説明されることがない。一人称による物語でありながら、読者と物語の間には常に不透明な膜が張りめぐらされているかのようだ。さらに作中にはもう一人、「長官」と呼ばれ、絶大な権力をもつ人物が登場する。物語の冒頭で夫のもとを逃れて出奔した少女を求めて、主人公は凍りつつある世界をさまよい、彼女が「高い館」と呼ばれる城館で長官に庇護されていることを知る。主人公は「高い館」から少女を連れ去ろうとするが、少女はしばしば主人公を拒絶し、逃亡する。いたるところで少女は消え失せるが、いたるところで見出される。私、少女、長官の「パ・ド・トロワ」(三人組の舞踏)として物語は進行する。しかしそれはいかにもかみあわないまま続けられるのだ。ここで三人がいずれも固有名を与えられていない点は注目に値する。カフカのK、オースターのブルーのごとく、登場人物は記号化、抽象化されているといってもよかろう。しかしこの小説を寓話と呼ぶにはあまりに鮮烈なイメージが次々に提示される。先に引いた凍結する大洋のイメージもその例である。さらに冒頭から任意の箇所を引く。「少女は私の正面、ほんの少し斜面を下ったところにうずくまっている。その体の白さも雪にはわずかに及ばない。巨大な氷の断崖が四方に迫っている。光は蛍光を帯びている。冷たく平板な影なき氷光。太陽もなく、影もなく、生命もなく、ただ絶対的な寒気だけが広がっている。私たちは押し寄せてくる氷の環の真ん中にいた」このようなイメージは描写というより幻視と呼ぶことがふさわしいのではないか。主人公の視界に少女はとらえられているが、主人公の位置ははっきりとしない。語り手の身体を欠いた奇妙な描写は頻繁に導入され、このため一人称で語られながらも読者は主人公に焦点化することが難しい。全編を通じて主人公たる私の視点と全能者の視点が混在する不思議な叙法が用いられている。別の言葉を用いるならば、読者はここで語られるのが現実であるか幻想であるか区別することが難しい。終末的で絶望的なヴィジョンを語るきわめて分裂的な語り。これがこの小説の魅力をかたちづくっているといえるのではなかろうか。
 物語の終幕で主人公たる私は軍用車を奪い、少女とともにブリザードの中を疾走する。先に記したような終末的ヴィジョンが横溢するこの小説はきわめて視覚的であり、それゆえ映像的記憶を強く喚起する。この小説における唯一の楽園的なヴィジョンとしては熱帯の島に住むインドリという歌うキツネザルについて語られ、そして実際に主人公は光と色彩にあふれた熱帯の町にごく短い期間、少女とともに滞在する。氷に閉ざされて崩壊の過程にある世界と、気候変動の予兆を秘めながらも陽光にあふれ、花々が咲き乱れる熱帯の町の対比は鮮やかであるが、かかる対比はこのブログでも論じたリドリー・スコットの「ブレードランナー」のいわゆる「インターナショナル・ヴァージョン」のラストシーン、暗鬱な雨が降り注ぐ街から抜け出し、緑と陽光の溢れる情景の中を滑空するデッカードとレイチェルのペアを連想させないだろうか。さらには氷結する世界をひたすら疾走する軍用車のイメージからは、車と列車という違いこそあるが、ポン・ジュノの「スノー・ピアサー」もたやすく連想されよう。
 本書にはクリストファー・プリーストの序文が付されている。プリーストは「氷」をスリップストリーム文学に分類される作品の中でも最重要の作品であると指摘している。スリップストリームとはメインストリームに対する概念で、主流文学に対する傍流文学とでも訳すべきであろうか。プリーストはこのような概念が最初にSFの領域で提起されたと指摘し、バラードと並んでジョン・スラデック、トマス・M・ディッシュ、フィリップ・K・ディックを挙げ、SF以外のジャンルからもアンジェラ・カーター、ポール・オースター、村上春樹そしてボルヘスとウィリアム・バロウズらの名を挙げている。なるほど私がこの小説に魅了されたはずだ。未読の作家も何人かいるが、スリップストリームの系譜は私のお気に入りの作家のラインナップとかなり重複しているではないか。最初に私はバラードとカフカの名を挙げたが、彼らもメインストリームの文学ではないだろう。ただし川上弘美は本書の文庫版のためのあとがきの中で、カヴァンの小説が、プリーストのいう「スリップストリーム」の小説よりもずっと「狭い」という的確な指摘を加えている。確かにカヴァンにとってスリップ/メインという対比は意味をもたないかもしれない。おそらくここに描かれた情景、次第に氷に閉ざされていく世界とその中を疾走する感覚は自殺未遂にいたる精神的な破綻を何度も繰り返し、ヘロインによって賦活された作家の心象風景であろう。そしてかかる極限的な精神から生み出された終末の光景に一種の崇高ささえ感じるのは私だけではあるまい。
by gravity97 | 2015-05-03 16:02 | 海外文学 | Comments(0)

ハンス・ファラダ『ベルリンに一人死す』

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 読む前から愉快な読書にならないであろうことはわかっていた。帯にはこのように記されている。「狂気と恐怖に凍りつくナチスの街で、たった一人の反乱が始まる。戦争直後に書き上げられてから60年以上を経て、いま世界を震撼させるリアリズム小説の傑作」タイトルはこの「反乱」の帰趨を暗示しているかのようだ。作者のハンス・ファラダ(これはグリム童話から引かれたペンネームとのこと)は第二次世界大戦直後、1946年に本書を発表した三ヶ月後に、作中人物の後を追うように没した。作家の死後50年を経て、最近フランスの出版社が本書の翻訳を刊行したことから再評価が進み、欧米でベストセラーになるとともに2011年にドイツでも完全版が出版され(従来の版には編集者による削除や変更があった)、この邦訳は完全版からの翻訳であるという。著者自身が関与しない、やや込み入った出版の事情からはこのブログで以前論じたワシーリー・グロスマンの大作「人生と運命」が連想されるかもしれない。奇しくも本書も同じ出版社から刊行されている。
 今、「奇しくも」と記したが、この時期に本書を刊行したことに私は出版社の意志を感じる。知られているとおり、この出版社は文学系というよりもむしろ社会科学系の出版に強く、本書の類書としてはフランクルの「夜と霧」やこのブログでもふれた「ホロコーストの音楽」がある。フランスが降伏したというエピソードで始まる物語はナチスが台頭する「前夜」のそれだ。出版不況の中で、「出せば売れる」嫌韓本や反中本、くだらないキャリアポルノばかりが書店の店頭に並ぶ今日、あえて「前夜」を描き、分厚く高価な本書を江湖に問うたことに私は出版社としての暗黙のメッセージを感じるのである。
 分厚いとはいえベストセラーになるはずだ。物語の運びは手練のそれであり、読み始めるや登場人物たちから目を離すことができなくなる。四部構成は比較的短い章に分かれ、内容を示すタイトルが付されているから物語の推移を追うこともたやすい。私は一つの週末で通読した。主要な登場人物はさほど多くない。ここで描かれるのはナチスが台頭する時代、ベルリンのヤブロンスキ通りのアパート周辺で生活するごく普通の人物たちの運命である。物語はオットーとアンナ、クヴァンゲル夫妻のもとに一人息子、オットーヒェンの戦死の公報が配達される場面で始まる。手紙を配達したエヴァ・クルーゲとその夫エンノ、同じアパートに住むファシストのペルジッゲとその息子でヒトラーユーゲントのエリート、バルドゥル、退職した元判事フロム、ユダヤ人の老婆ローゼンタール、密告者バルクハウゼン、彼らはそれぞれの立場からこの物語と関わることとなる。ナチスへの抵抗を扱った作品としては、例えばトム・クルーズが主演した映画「ワルキューレ」、あるいはクエンティン・タランティーノの怪作「イングロリアス・バスターズ」などが直ちに連想される。しかし本書において絶望的な抵抗を繰り広げるクヴァンゲル夫妻はドイツ軍の高級将校でも反ナチスの地下組織の構成員でもなく、市井の生活者であり、この点が本書を比類ないものとしている。本書は実話に基づいており、作者によるまえがきも重い。「この物語に描かれているのはほとんどもっぱら、ヒトラー政権と闘った人たちとその迫害者だということを指摘させていただきたいと思います。1940年から42年のあいだにも、それ以前にもそれ以後も、そうした人々から多くの犠牲者が出ました。この本の三分の一ほどは、監獄と精神病院が舞台になっています。そこでも、死は日常茶飯事でした。筆者としても、これほど暗い絵を描くのは気が重いと感じることが何度もありました。が、嘘にならないようにするためには、これ以上明るく描くわけにはいかなかったのです」オットー・クヴァンゲルは熟練した職工長である。彼が働く家具工場ではかつては注文家具を製作していたが、今や爆弾を収納する容器、物語後半では棺を生産している。寡黙で人嫌いのオットーは工員たちから煙たがられてはいるが、公正で実直な仕事ぶりゆえに一種の尊敬も得ていた。しかし一人息子が無益な戦争の中で殺されたことを知り、彼の中で何かが変わる。彼は葉書にナチスとヒトラーを弾劾する文章を記し、公共施設に放置するというレジスタンスを始める。ヒトラー暗殺でも親衛隊員襲撃でもない、葉書を書くというレジスタンスに対して妻アンナは「あんたがやろうとしていることはちょっと小さいんじゃないの」と感想を述べる。しかし同時に二人はこの行為の果てに刑務所とギロチンが待っていることを正確に予見していた。
 第一部においてはレジスタンスの開始までの出来事が描かれる。時代が悪くなるにつれ、クヴェンゲル夫妻の周辺でも不穏な事件が次々に発生する。街にはバルクハウゼンをはじめとする密告者たちが跋扈し、人々は相互監視を始める。ユダヤ人には公然と暴力がふるわれ、しばらく前に夫がゲシュタポによって理由なく検挙されたローゼンタール夫人の家にバルクハウゼンとエンノ・クルーゲは強盗同然に押し入り、民警のごときペルジッケ一家に見咎められる。この騒動の果てに、住民やゲシュタポに責め立てられた老婆は睡眠薬を飲み過ぎて自殺同然の死を遂げる。オットーの工場では怠業者が党員として権勢をふるう。一方、オットーヒェンの許嫁であり、オットーとアンナを実の父母のように慕う娘トルーデルは自らが共産党の支部を工場内に組織したことをアンナに告白する。全体主義が浸透する閉ざされた社会でオットーとアンナはナチスを批判する手紙を書いて市内に放置する絶望的な反抗を開始する。
 第二部では彼らを取り締まる側に視点が移る。葉書犯をクラバウターマン(海の妖精)と呼んで捜査を担当するゲシュタポのエッシェリヒ警部も本書の主要な登場人物である。秘密警察の構成員の多くが、彼の上役である親衛隊大将プラルのごとく下品で粗野な人物として描かれる中で、エッシェリヒはやや謎めいた陰影のある人物として表現される。彼が連行した人物に親衛隊が暴行を加えたように、会議の席での失言のためにエッシェリヒ自身も激しい暴行を受ける挿話からこの時代とこの組織の本質が暴力であることは明らかだ。この体験が彼の内面に一種の崩壊をもたらしたことが物語の中で明らかとなる。第一部で愚行を繰り返した密告者バルクハウゼンと女たらしのエンノはここでもまたみじめな悪事を働き、エンノにいたってはクラバウターマンと誤認され、エッシェリヒの取り調べを受ける。本書に登場する悪人たちは一様に卑しく悲惨であるが、同じエンノがかつては熟練工として尊敬されていたこと、戦争によって働くことの意味を見失い、ペルジッケに殴られて以来、身体の不調が続いていることが転落の原因であると書き込まれている点にも注目する必要があるだろう。後でも述べるとおり、時代の病弊が登場人物たちに内面化される機制がここにはとらえられている。
 第三部においてはクヴァンゲル夫妻のレジスタンスが続けられる一方、トルーデルは闘争から脱落し、彼に好意を抱いていた青年ヘアゼゲルと生活を始める。オットーが葉書を置いた現場をトルーデルに目撃されることによって両者は再会するのであるが、このようなエピソードは彼らのレジスタンスがいずれ露見することを暗示している。老ペルジッケは酒に溺れ、息子たちにも見放される。エッシェリヒの捜査は続き、次第にクヴァンゲル夫妻は追い詰められるが、いくつかの偶然によって追及を免れる。しかし幸運は続かない。ついに二人が葉書を書いていたことは発覚し、ゲシュタポに逮捕される。
 最後の第四部では主に逮捕後の二人の運命が語られる。彼らを担当するラウプ警部の尋問と取り調べは執拗をきわめ、トルーデルやアンナの弟のウルリヒら、無関係の知り合いも蜘蛛の巣に絡め取られるように連座して逮捕される。このあたりの尋問のリアリズムには背筋が寒くなる。さらに彼らが収監された留置所の状況、さまざまな手段を介してなされる迫害や拷問も生々しい。卑劣で苛烈な取り調べに対して、夫妻はともに毅然として臨みながらも、一方でうっかり口を滑らしたため自らを母と恃むトルーデルまでを巻き込んだことに対してアンナは苦悩する。そして実際にトルーデルをはじめ、巻き込まれた者たちも不条理で悲惨な運命をたどることになる。裁判長はもちろん弁護士までが検事役をかってでる裁判に正義が存在するはずはない。法廷で性的な嫌がらせの質問を受けたアンナは突撃隊や親衛隊がユダヤ人女性に性的暴行を加えたことを糾弾し、法廷に混乱を引き起こす。彼らの最期についてはここでは触れないでおこう。そこに救いはないが、一抹の光明も感じられるのは、彼らが最後まで暴力の時代に対して屈することなく、互いを信じ合っていたからであろうか。
 本書は暴力の時代には安易なヒューマニズムが通用しないことを明確に語っている。そしてふだんであればごく普通の、善意に満ちた人々が、暴力の時代にあってはたやすく密告者となり、通報者となり、迫害者となることが暗示されている。ナチス・ドイツとスターリン治下のソビエト、時代と場所こそ異なるが、「万物は流転する。あらゆる人間は密告する」という「人生と運命」中の箴言も思い起こされよう。作家がどの程度意識的に人物造形を試みたかはわからないが、ここに登場する人物の多くは戯画的なまでに卑俗で低劣だ。ペルジッケをはじめとするプラル大将やルッシュ警部、ファイスラー裁判長、ピンシャー検事(ピンシャーとはうるさく吠え立てる犬の種類、この検事には固有名詞さえ与えられていない)など、権力の側に立つ者は多く傲慢で他者への想像力を欠いている。(この点でエッシェリヒの存在は興味深い)一方、バルクハウゼンとエンノをはじめ、密告の常習者ミレック、夫のいる家で客をとるバルクハウゼンの妻オッティら、抑圧される側の人間にも共感する余地はない。あるいはトルーデルとともに共産党活動を行ったグリゴライトやベビーといった「革命家」も単なるエゴイストにすぎないことは読み進むうちに了解される。彼らに対して、権力も富も理想ももたぬクヴァンゲル夫妻こそが真に畏怖すべき存在である。二人は息子の死を介して、自分たちが生きる時代が不正義であることを見抜き、二人だけの抵抗を続ける。当事者であるアンナさえ「ちょっと小さいんじゃない」と批判するほどのレジスタンス、政権批判を記した葉書を人目に触れる場所に放置するというささやかな行為が死を招くという事態にファシズムと秘密警察という暴力装置が結びつく恐怖が浮かび上がる。この小説から明らかなとおり、ヒトラーのファシズムは、ユダヤ人たちへの迫害と体制に順わぬ者への弾圧をいわば車の両輪として押し進められた。しかしこれは別の世界の話だろうか。在日コリアンにヘイトスピーチが浴びせかけられ、沖縄では基地移設に反対する人々が公権力によって暴行を受けている現在の日本とここに描かれた情景の間に私は積極的な差異を見出すことはできないように感じる。そして人々が弱者への憎しみを公然と語り、国家が不気味な力を帯びる状況が、現在の政権の誕生とともに、ごく短い期間に成立したことを私たちは記憶しておくべきだろう。
 本書には時代に迎合することのない何人かの登場人物も存在する。ローゼンタール夫人を匿い、収監されたクヴァンゲル夫妻にある目的をもって面会を求める元判事のフロム、刑務所の中で希望のない囚人たちを励まし、時にメッセンジャーの役割を果たす牧師のローレンツ、そして絶望的な獄中の中に規則正しい生活と文化的な嗜みを持ち込み、同房のオットーに穏やかな感化を与えるライヒハルト博士。彼らの存在は本書を読むうえで一つの救いである。そして主たる物語が終えられた後、エピローグ的に付された一つの挿話、象徴的な意味において息子を失った母と父親を失った息子が農場で自分たちの播いた種を収穫するという明らかに聖書を連想させるエピソードはかろうじて未来への希望をつないでいる。とはいえ小説の中で語られた多くの悲劇は忘れられるべきではない。暴力が支配する時代には善き人々さえも善き人生を全うすることができないのだ。オットーは自分が撒いた300枚近い葉書と手紙のうち、わずか18通を除いて、ゲシュタポに「自発的に」届けられていたことを知り、激しく動揺する。クヴェンゲル夫妻のごときごく普通の市民が不正義に気づき、ささやかな抵抗を始める一方で、多くの者はかかる不正義を見ぬふりをして告発や密告に勤しむ。本書に登場するみじめな人間たちは一つの時代を象徴している。人は知らず知らずのうちに時代の悪に染まり、それを内面化していくのだ。
 先にも記したとおり、今日、在日コリアンの存在さえも否定する悪質な示威行動が公然と行われ、書店の店頭には隣国を蔑み、自国を美化する無内容な書籍が山積みされている。先ほど、私たちはISISに人質として捕らえられていた男性が殺害されたという報に接したばかりであるが、この事件に対しても、人質殺害の直接の原因となった首相の中東訪問の際のふるまいについて批判する報道は私の知る限りほとんどなく、インターネット上では人質となった者の「自己責任」を問う既視感にあふれた光景が広がっている。もはや私たちの国では、人が人種による差別を受けず、国家はその責任において自国民を保護するという民主国家の常識さえも通用しなくなっている。1938年11月、ドイツ各地で反ユダヤ主義の暴動が発生し、ユダヤ人商店の破壊されたショーウインドウのガラスが月明かりの中で水晶のごとくきらめいた。いわゆる「水晶の夜」だ。そして本書で語られる物語、全体主義の恐怖が人々を支配する世界はそのわずか二年後の情景なのだ。繰り返されるヘイトスピーチは私たちにとっての「水晶の夜」ではないか。好戦的で愚かな指導者、政治への絶望、疲弊する経済。現在の私たちを取り巻く状況とここに描かれた時代の相似は不気味このうえない。二年後、ここに描かれた世界が到来することに抗うためにも、本書はまさに今、日本語とされるべき物語であり、多くの人々に読まれるべき書物である。
by gravity97 | 2015-01-25 19:53 | 海外文学 | Comments(0)

ヨーゼフ・ロート『ラデツキー行進曲』

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 私の場合、未知の作家の小説をいきなり読むことは比較的珍しい。今回取り上げるのはそのような珍しい例だ。今年の夏に岩波文庫に収録されるまで、「ラデツキー行進曲」という作品はもちろん、作者のヨーゼフ・ロートについても全く知らなかった。今年は第一次世界大戦勃発から100年という。かかるサントネールにあたって、「サラエヴォでの皇太子暗殺を一つのクライマックスとする小説」という言葉に引かれたことが一つ、ユダヤ系オーストリア人という出自をもち、ナチス・ドイツが台頭する時世に作家として活動したというロートの経歴に関心を抱いたことが一つ。読み終えてみるとトロッタ一族、三代にわたる端正な歴史小説であり、いろいろと思いをめぐらす契機となった。
 この小説に国籍を求めることは難しい。今述べたとおり、作者のロートはユダヤ系オーストリア人であるが、解説によればこの作品はベルリンの酒場でドイツ語によって書かれた。ロートはオーストリア=ハンガリー二重帝国の東端のユダヤ人の町に生まれ、帝都ウィーンで学び、ベルリンでジャーナリストとして活躍した後、ナチスに追われ、パリで没した。もしオーストリア国籍の取得が少しでも遅れていたら、彼は多くのユダヤ人とともに殺されていたかもしれない。実際にロートの最初の妻は強制収容所のガス室で殺害されている。日本人は国籍と民族、言語が一致することを自明と考えがちである。このような理解は鎖国を続けた島国という特殊な社会とトポスの結果にすぎないとはいえ、ユダヤ人としての出自をもち、オーストリアの国籍を「獲得」し、ドイツ語を用いるロートのごとき存在、「放浪のユダヤ人作家」の境遇を理解することは私たちにとって相当に難しい。オーストリア生まれの作家としてはヘルマン・ブロッホとロベルト・ムージルが思い浮かぶが、この二人は「ドイツの作家」というイメージが強く、実際このように記すにあたって、私はあらためて二人の出生地を確認する必要があった。国家が比較的強いアイデンティティーをもった西欧と比して、中欧と東欧の作家は「国民作家」というアイデンティティーを獲得しにくいように思われる。かつて私は仕事でウィーンを訪れ、郊外をドライブしたことがある。少し走ったたけで「ハンガリーまでXマイル」といった標識を見つけ、これほどの近距離に所在する国が冷戦下では別々の体制として成立していたという事実にあらためて驚いたことを覚えている。実際にこの物語はオーストリア=ハンガリー二重帝国の瓦解、ハプスブルグ朝の没落を潜在的な主題としており、巻頭に掲載された旧オーストリア=ハンガリー帝国の地図が示すチェコ、オーストリアからボスニア、ルーマニアそしてウクライナを含む広大な版図を見るならば、民族主義、国家主義の高揚が第一次世界大戦の引き金となったことはたやすく了解される。
 前口上が長くなった。小説の内容について述べることにしよう。最初に述べたとおり、この長編はトロッタ家の三代の物語である。祖父のジポーリエはソルフェリーノの戦いで皇帝を狙った銃撃を身代わりに受けて負傷し、マリア・テレージア勲章と貴族の称号を与えられ、トロッタ一族の礎をかたちづくった。しかし「ソルフェリーノの英雄」は物語の最初の章で早々に退場する。彼の息子、フォン・トロッタ=ジポーリエは父親から職業軍人となることを禁じられ、(現在はチェコに位置する)メーレンという土地の郡長を務める。フォン・トロッタは物語の中ではしばしば固有名詞ではなく、「郡長」と記述され、彼の息子、本編の主人公がカール・ヨーゼフ・フォン・トロッタがカール・ヨーゼフもしくはトロッタ少尉と記述されることと対比を示している。私はドイツ語における親称や尊称の表記については全く知識をもたないが、このあたりの書きぶり、つまり「テクスト的現実」は『ボヴァリー夫人論』の著者であれば興味を抱くかもしれない。騎兵幼年学校に入学して、軍人としての道を歩み始めたカール・ヨーゼフは祖父のごとき英雄の資質を欠いていた。帰省した折には父親の郡長を警護する警備隊員の若い妻に誘惑され、不倫関係の果てに妊娠した妻は難産で急死する。所属する部隊ではユダヤ人軍医と親密な関係を築いていたが、彼の妻を深夜に自宅までエスコートするという不注意なふるまいの結果、侮辱を受けた軍医は決闘に赴いて命を落とす。(解説によると、オーストリア文学には「若き将校と人妻の許されざる恋」という伝統があるとのことだが、本当だろうか)この事件の責任をとって、カール・ヨーゼフは帝国の辺境、ロシアとの国境地帯の狙撃部隊に転属となった。絢爛たるハプスブルグの首都ウィーン、そしてカール・ヨーゼフが勤務する辺境。この小説では両者の対比も重要な主題となっている。「君主国の北東部、オーストリアとロシアとの間の国境は、そのころ最も奇妙な地域の一つだった。(中略)というのも彼らは世界から遠く離れて、東と西のはざまに、夜と昼のはざまに挟まれて暮らしていたからであり、彼ら自身、夜が生み落とし、昼間に徘徊する一種の生きた幽霊だったからである」辺境という主題を得るならば、直ちにフォークナーから井上光晴にいたる一連の小説を連想することができようし、辺境と首都の対比はそのまま地方と東京、現在の日本を見る思いだ。
 辺境にも不吉な影が落ちる。将校たちが投宿するホテルの支配人プロートニッツァーはカジノを開設し、多くの将校たちが賭博に耽溺することとなる。カジノで多くの借金を作った親友のヴァーグナー大尉は国境の森で自殺し、この地で権勢を誇るホイツキニ伯爵の知人、フォン・タウスィヒ夫人と次第に深い仲となったカール・ヨーゼフもウィーンでの密会のたびに散財を繰り返し、多くの借金を負う。剛毛工場ではストライキが頻発し、ストライキを組織した労働者たちと対峙した軍隊の発砲で死者が出る。満たされぬ恋、多くの借金、そして事件の責任に懊悩するカール・ヨーゼフは軍隊を辞めることを決意し、父親である「郡長」に手紙を送る。長らく仕えていた召使のジャックが没した後、代わりとなるべき従僕を見つけることができないまま不遇の時を過ごす郡長は息子の変心にうちのめされる。いくつものエピソードが絡み合いながら進行する様子はドストエフスキーでもよい、バルザックでもよい、一昔前の大文字の「小説」でおなじみであり、それゆえこの小説にもクライマックスが存在する。それは竜騎兵連隊の創立百周年事業(ここでもサントネールだ)が華やかに挙行されている最中の出来事である。激しい雷雨が人々を襲い、時を同じくして一つの不吉な知らせがもたらせる。伝令から連隊長に渡された手紙には「帝位継承者、噂によれば、サラエヴォで殺害される」と記されていた。オーストリア=ハンガリー二重帝国の解体を告げる第一次世界大戦の幕開けであった。戦闘は直ちに拡大する。終盤において二人の登場人物の死が語られる。一度は軍隊を辞しながらも、開戦とともに再び軍服を着たカール・ヨーゼフは前線でバケツに水を満たしている時に銃撃され、英雄とはかけ離れた死を迎える。そして息子の死を知った郡長もまた、深い嘆きとともに「ソルフェリーノの英雄」の肖像画を前に事切れるのである。いくつもの挿話をとおして語られるトロッタ一族の歴史は没落、あるいは斜陽と呼ぶにふさわしく、それはまたハプスブルグの王朝、オーストリア=ハンガリー二重帝国の姿と重ねられている。
この小説にはいくつものダブルが存在する。そもそもオーストリア=ハンガリー二重帝国という名称の中にこのような二重性は暗示されているではないか。直ちに了解される二重性は、いずれも銃撃によって息子が父親より早く殺される二組の親子だ。いうまでもなく郡長とカール・「ヨーゼフ」という本書の二人の主人公に対して、皇帝フランツ・「ヨーゼフ」とサラエヴォで暗殺された皇太子が重ねられる。単に相似するばかりではない。実際に郡長は息子の名誉を回復するために皇帝に謁見し、皇帝の支持を得る。この箇所も本書の一つのクライマックスを形成している。サラエヴォ事件が帝国の没落、そして最初の世界大戦の契機となったことは知られているとおりであり、カール・ヨーゼフの死もトロッタ一族の没落を暗示している。さらにもう一つのダブルはこの小説で描かれている時代とこの小説が執筆された時代のそれだ。先にも述べたとおり、「ラデツキー行進曲」は第一次世界大戦の前夜を舞台としているが、実際にこの小説が執筆されたのは第二次世界大戦の前夜、1932年である。1929年の大恐慌を受けて、失業と破産が相次ぐドイツにあって、この年の総選挙でナチスは第一党となり、翌年の政権奪取に向けて時代が大きな転機を迎える。ユダヤ系オーストリア人であったロートにとって、このような情勢が何を意味したかは明らかだ。本書は第二次大戦の予兆の中で第一次大戦の勃発をめぐる状況を描いた小説といえるかもしれない。本書にはロート自身によって書かれたまえがきが収録されている。やや長くなるが冒頭と最後を引用する。「歴史の残酷な意志が私の古き祖国、オーストリア=ハンガリー君主国を打ち砕いたのです。私はこの祖国を愛していました。私は愛国者であると同時に世界市民であることを、オーストリアの全ての民族の中で、オーストリア人でありドイツ人であることを許してくれたこの祖国を愛していたのです。私はこの祖国の美徳と長所を愛していました。そして祖国が滅び、失われてしまった今もなお、この祖国の欠点や弱点を愛しています。この祖国はこうした欠点や弱点をたくさんもっておりました。この祖国は自らの死をもってそうしたものを償ったのです。(中略)諸民族は消え去り、諸帝国も吹き消されていきます。消え去り、吹き消されていくものから、記憶に値するものを、そして同時に人間的―特徴的なものをしっかり記録に留めることが、作家たる者の義務なのです。作家は盲目的かつ軽率に見える歴史が見捨てる個人的な諸々の運命を一つ一つ拾い上げるという、崇高にして謙虚な使命を担っているのです」1932年、ユダヤ系オーストリア人のロートによってしか到達しえなかった見事な認識ではなかろうか。中盤から帝国の辺境に舞台を転ずるこの小説には多くの民族が登場する。スロヴァキアからルーマニア、ウクライナにいたる土地に居住する民族が一つの帝国の中に受容されたという事実は記憶されるべきであろう。民族主義の高まりの中でかかる理想は否定され、皇位継承者の暗殺という悲劇を生んだ。そして先に述べたとおり、まさにこの小説が執筆されていた時代にはありえた「オーストリア人でありドイツ人であること」、つまり世界市民という理念はナチスの台頭によって無残にも消滅する。そしてユダヤ人であるロートにとって、民族主義と優生思想が結合したナチズムは端的に自らの生命をも脅かす恐怖としてその生涯に暗い影を投げかけることとなったのだ。本書は第一次大戦と第二次大戦の戦間期を生き、ファシズムと共産主義のはざまの土地に置かれた者によってしか描くことのできないテーマを扱っている。私たちはロートが「祖国」と読んだ世界帝国の瓦解からホロコーストの地獄まで、つまりこの小説が描いた時代とこの小説が執筆された時代がわずか四半世紀ほどしか離れていないことに思いをめぐらすべきではなかろうか。時代は私たちが考えるよりはるかに早く荒廃するのだ。今日の日本においても。多くの戦死者という代償を払ってようやく私たちが獲得したいくつかの原理を為政者たちは姑息な手段によっていともたやすく破壊した。その一方、戦争に向けての法整備は着々と進められている。私たちは2014年という年をいかなるメルクマールとして振り返ることになるだろうか。奇しくも衆議院選挙を一週間後に控えてこのレヴューをアップする今日はかつて日本が米英に開戦を宣告した日でもある。1914年、サラエヴォのカール・ヨーゼフ、1932年、ベルリンのヨーゼル・ロート、そして2014年の私たち、これらの場所はさほど離れていはいないのではなかろうか。
by gravity97 | 2014-12-08 21:33 | 海外文学 | Comments(0)

ホセ・ドノソ『別荘』

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 待望久しいホセ・ドノソの「別荘」がついに翻訳された。一読して圧倒される。まぎれもない傑作であり、ラテンアメリカ文学の奥深さを思い知る。ただし本書のレヴューは決して容易ではない。
 ドノソといえば短編を中心に既に何冊か訳出されており、「隣りの庭」についてはこのブログでも論じた。主著と呼ぶべき「夜のみだらな鳥」は「集英社版世界の文学」の一冊として1976年に刊行されているが現在は絶版で、近いうちに水声社から復刊されるらしい。もちろん私は「夜のみだらな鳥」も読んでいる。相当に難解な小説であったが、オブセッシヴでグロテスクなイメージの横溢に陶然としたことを覚えている。ずいぶん前に読んだこともあって記憶が薄れ、今回本書とうまく比較できないことは残念だ。「夜のみだらな鳥」についてルイス・ブニュエルは次のように評しているという。「これは傑作である。…その凶暴な雰囲気、執拗きわまりない反復、作中人物の変身、純粋にシュルレアリスティックな物語の構造、不合理な観念連合、想像力の限りない自由、何が善であり悪であり、また何が美であり醜であるかについての原則の侮辱的な無視に私は度肝をぬかれた」この評はかなりの程度、「別荘」にもあてはまる。いずれの小説もチリのブルジョア階級の無残な頽落を主題としており、語られる物語はシュルレアリスムやゴシックロマンと共通性をもつ。この小説が一つの寓話であると断定することはたやすい。しかしその寓意について語ることは困難を伴う。巻末に本書が執筆された場所と時期が記されている。それによると執筆の開始は「カラセイテ、1973年9月18日」。カラセイテはドノソが愛したスペインの小村。問題は日付だ。1973年9月18日、その一週間前にチリではもう一つの9・11が発生した。この日、ピノチェットによる武力クーデターによってアジェンデ政権が倒された。この経緯を小説の中に織り込んだイザベル・アジェンデの傑作「精霊たちの家」については既にこのブログでレヴューした。ピノチェットのクーデターの一週間後に執筆が開始されたことは、本書がこの事件を反映していることを暗示している。しかし執筆に6年を擁したこの小説の寓意を読み解くことは決して容易ではない。ここでは内容にも立ち入りながら本書を論じるが、私が読み解いた内容が正しいという保証はない。というのも「夜のみだらな鳥」と同様に、この小説においても何が真実かを見極めることはきわめて困難であり、私が論じるのは読解の一つの可能性に過ぎないからだ。
 この小説の舞台と登場人物はきわめて限定されている。おおいにチリを連想させる国のマルランダという土地が舞台であり、登場するのは別荘の大きな屋敷に住むベントゥーラ一族、彼らに傅(かしず)く使用人たちの一団、そして土地の周辺に住む「原住民たち」、さらに物語の中に明確には登場しないが、その脅威が語られる「人食い人種たち」だ。ベントゥーラ一族は直系の7人の兄弟姉妹と一部に物故者も含む彼らの配偶者、そして彼らの35人の子供たち(ただし2人は既に死亡)から構成される。これらの眷族の一覧が冒頭に掲げられていることは本書を読むうえで大いに助けとなる。ベントゥーラ一族は「首都でダンスとオペラのシーズンが終わると」多くの馬車を仕立てておびただしい家財道具を運び込み、夏の間の三ヶ月、使用人たちともにマルランダの別荘に移り住む。別荘の近郊にはこの一族が所有する金の鉱山があり、「原住民たち」によって採掘、加工され、この別荘に運び込まれる金箔こそがベントゥーラ一族の莫大な富の源泉なのである。別荘の周辺はグラミネアという槍のような穂をもつ獰猛な植物によって覆い尽くされている。マルランダはもともと肥沃な美しい土地であったのだが、簡単に栽培できて食料も飼料にもなり、油も採れるという触れ込みで持ちこまれたグラミネアの種が異常な繁殖力とともにこの地の木々や植物を絶滅に追い込むまでに繁茂し、別荘の周囲を埋め尽くしたのだ。このあたりイヴ・タンギーの絵画を連想させないでもなく、別荘が孤絶していることを暗示している。ある夏、ベントゥーラ家の親たちが退屈しのぎに近くの景勝地へとピクニックに出発することを思い立った時点から物語が起動する。親たちは全ての使用人を引き連れて朝早くピクニックに出かけ、屋敷にはいとこの関係にある33人の子供たちが残される。しかし実は屋敷にはベントゥーラ一族の末娘バルビナの夫であるアドリアノ・ゴマラが狂人として幽閉されていた。伯父や伯母、そして使用人たちの不在を知るや、ゴマラの息子で9歳のウェンセスラオは父の救出を試みる。ただしこの小説は決して因果律に沿って単線的には展開しない。時間も相互の関係も不明の挿話が次々に重なり、しかもその多くが不気味で不吉な暗示を秘めている。例えば第二章ではゴマラの「発狂」とウェンセスラオの妹たちの死をめぐるエピソードが語られるが、それはこの物語全体の通奏低音の一つである人肉食と関わっている。第三章は別荘とグラミネアが繁茂する外界とを隔てる無数の槍をめぐる物語だ。従兄弟たちの一人、マウラは密かにそのうちの何本かを抜き去り、これによってグラミネアは屋敷の内部へと侵入し、この小説のカタストロフィーを予示することとなる。さらに続く章では屋敷の中でいとこ同士の同性間を含めた近親姦を暗示するエピソードが語られる。年長者たちの不在を契機として一つの集団が変容する場面から私はスウィフト/寺山修司の「奴婢訓」を連想した。この演劇は主人の不在を主題としており、グロテスクなイメージの横溢、異形の登場人物など通底する部分も多い。私は「百年の孤独」という作品を上演した寺山がもしドノソの小説を知っていたらどのような反応を示したか興味を抱く。
二部から成るこの小説の第一部「出発」では親と使用人たちが出発した後、ベントゥーラ一族の「別荘」が建築においても人倫においても次第に荒廃していく過程が語られる。いとこたちのある者たちは「侯爵夫人は午後5時に出発した」という奇怪な遊戯に熱中し、ある者たちは淫らな行為にふける。「侯爵夫人は午後5時に出発した」とはアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム第一宣言」において引用しているポール・ヴァレリーの言葉である。この言葉は小説における話者と作中人物の関係に関わっているが、後述するとおり、「別荘」においても実に特異な話者が小説の中に介入する点を考慮するならばなんとも暗示的な遊戯の名前である。第一部の終盤で金箔の管理を任されていた従姉妹の一人、カシルダは近親姦の相手であるファビオ、母エウラリオが一族以外の男との間にもうけた子であるために疎外されているマルビナそしてイヒニアという三人の従兄弟とたちと倉庫から金箔を盗み出して逃亡する。一方、もはや槍の壁で外界と隔てられることのない屋敷の中には原住民たちが入り込み、従兄弟の一人マウラを従えたゴマラによって支配された屋敷の中で狂騒を繰り広げ、一族と交接する。
 「帰還」と題された第二部はタイトルのとおり、ピクニックの後、夕方に家路についたベントゥーラ一族の情景から始まる。途中に小休止するために近くの礼拝堂に寄った親たちはそこでカシルダとファビオ、そしてカシルダが生んだ子を見つける。しかし彼らはそれを玩具の人形として井戸に捨てる。カシルダから別荘の混乱を聞いた親たちは使用人の頭目である執事、そしてフアン・ペレスという若者を別荘の制圧に向かわせる。執事とペレスは火器を携えた使用人たちとともに屋敷に突入し、ゴマラを銃殺するとともに屋敷の中にいた原住民たちを虐殺する。ゴマラが射殺される場面にドノソは大統領府でピノチェットのクーデターに抵抗し、自殺を遂げたアジェンデを重ねたとみる研究者もいるらしいが、確かに一族の中で唯一人間的な感性をもち、それゆえ狂人として幽閉されていたゴマラにアジェンデの影を認めることは不可能ではない。続いて屋敷を制圧した後、ベントゥーラ一族が帰還するまでの間、支配者となった執事の所業が語られるが、ここでも食人というモティーフがあいまいかつ執拗に繰り返される。一方、大虐殺の混乱の中からウェンセスラオ、アラベラ、アマデオ、そしてフアン・ペレスの弟アガピートは別荘の地下にめぐらされていた塩鉱を用いて脱出し、グラミネアが繁茂する荒野へと逃れる。逃避行の途上で死んだ最年少の従兄弟アマデオは死の間際、飢えたウェンセスラオらに自らのからだを食料として供することが自分の運命であると宣言する。荒野を彷徨するウェンセスラオらは帰還途中の親たちと邂逅し、九死に一生を得る。親たちと使用人たちは別荘に帰還するが、襲撃と虐殺、おぞましい習慣の痕跡を残した邸内はすでに廃墟同然となっていた。彼らの前に新たな来訪者が登場する。それはベントゥーラ一族から金鉱や金箔、屋敷を全て買い取ろうとする「外国人たち」であり、すでに一族の長老であるエルモヘネスやシルベストレの手によって首都で売買の交渉が進められていた。金鉱や屋敷の資産価値を実地検分するために訪れた「外国人たち」はベントゥーラ一族に対しても尊大な態度を崩さず、一族は不安に襲われる。さらに別荘に新たな馬車集団が到来する。来訪者が誰であったか、そしてベントゥーラ一族の命運についてここではあえて触れない。ただ、物語の中で幾度となく予告されたカタストロフ、夏の終わり、荒野を埋め尽くすグラミネアの熟し切った穂先から一つ残らず舞い上がった白い綿毛が呼吸さえできないほどに濃密に辺りの空間を埋め尽くすという情景はまことにこの黙示録的な小説の終末にふさわしい。
 ひとまず私はこの錯乱する小説を要約してみた。しかしこのような説明はあまり大きな意味をもたないだろうし、そもそもこの小説に合理的な意味を与えること自体、作品に対する一種の冒瀆であるように感じられる。最初にも述べたとおり、この小説は単線的な構成をとらず、時間も登場人物も物語の流れも幾重にも輻輳し、時に逆行する。かかる錯綜は内容のみならず形式にも及ぶ。それが端的に示されるのは話者の問題だ。この小説においてはベントゥーラ一族をめぐる物語が三人称で語られながら、話者が地の文の中に登場して読者を当惑させる。たとえば頻繁に繰り返される「この章の幕開けにあたって読者にお願いしたいのは」「ここで読者にはお伝えしておくが」「読者には隠しだてする必要はないだろうから、ここで言っておこう」といった表現である。話者はベントゥーラ一族の物語を三人称で語りながら、同時にそれが虚構であることを読者に告げるのだ。それどころではない。「外国人たち」と題された第12章の冒頭において、「別荘」を書き上げて、エージェントの事務所に向かう「私」は途中で登場人物であるシルベストレ・ベントゥーラに出会い、近くのバーへと誘い込まれる。一体これはどういうエピソードなのだろうか。ただし「私」は数ページ進むと次のように記してこの会見をキャンセルする。「もしかするとこのすべては、我々が慣習上『現実』と呼ぶ文学的題材―これに頼れば文学作品は書きやすい―に対し、それを何と呼ぶかはともかく、『現実』の対極に位置する眩惑を選んだ者が抱くノスタルジーの産物にすぎないかもしれない。いずれにせよ、ここで私はこのノスタルジーを振り払い、これまでの物語の基調を取り戻そうと思う」先に私は「隣りの庭」をレヴューした際に、物語の最後にめぐらされたメタ小説的な技巧に触れた。「別荘」でははるかに複雑な形式的技巧が凝らされている。きわめて土俗的、ドメスティックな物語と先端的な叙述法の結合がドノソの小説を特徴づけている。そうでなければかくもグロテスクな物語になぜヴァレリー/ブルトンが引用されるのか。モダニズムとアンチ・モダニズムの結合はラテンアメリカ文学に共通する特質といえようが、本書はその典型といってよかろう。
 主題についても論じるべき問題は多い。まず時間の問題を挙げよう。この小説には実に奇怪な時間が流れている。一族の親たちは朝早くピクニックに出かけ、「いつもと何一つ変わらぬ夕暮れ」に帰途を終えようとしている。したがってここで描かれるのは一日の物語である。しかしながらその間、子供たちが残された別荘でははるかに長い時間が流れているように感じられるのだ。先にも触れたとおり、帰路で寄った礼拝堂で親たちはカシルダとファビオの子を見つけ、人形として井戸に捨てる。二人はともに16歳という設定であるから、年齢的に子供をもうけることは不可能ではない。しかし一日のうちに受胎し出産することはありえない。子供が生まれるのに九ヶ月はかかると問うアデライダに対してフォビオは自分たちが礼拝堂で一年も飢えと恐怖をしのいできたと述べる。これに対してシルベストレの妻、ベレニセは「『侯爵夫人は5時に出発した』では一時間を一年と計算することがよくあるのよ。偽の楽しい時間のほうが、現実世界の退屈な時間より速く過ぎていくのよね」とこのようなずれが遊戯と現実の違いに兆していると説明する。しかしこれに対してカシルダは「あんたたちのハイキングの時間こそ偽の時間だったのよ」と叫ぶのである。真の時間と偽の時間。アレッホ・カルペンティエールの「時との戦い」やボルヘスの一連の著作を引くまでもなく、ラテンアメリカ文学においては時間が主題とされた一群の作品が存在するが、本書も明らかにその系譜に連なる。「執事」と題された第10章にも興味深いエピソードがある。自分のレシピの中に加える人肉食について、いつ頃手配が終わるのかと尋ねる料理長に対して、執事は次のように怒りをぶつける。「この愚か者め、現在にも過去にも未来にも、この別荘には時間の経過など存在しないのだ。ハイキングに出発して以来、時間は止まっている。ご主人様たちが帰還される前に時間が動き出すことなどありえない」そして執事はフアン・ペレスに命じて屋敷の中にある全ての時計やカレンダー、振り子、予定表などを没収させ、さらには昼と夜の違いを消すために鎧戸と窓ガラスに細工し、どの部屋もいつも同じ明るさを保つように命じるのである。ここでは操作可能な対象として時間が描かれている。登場人物によってその進行が一様ではなく、停止や加速が可能な時間、このようなテーマはもはやSF的といってもよかろう。
 反復というテーマも興味深い。ベントゥーラ一族の別荘滞在は毎年正確に反復される。毎年、「密かな羽音を立てて窓から蚊が入り、毛深い脚を見せてゴキブリが姿を見せ始める」時期になると一族は別荘へ移る準備を始め、「グラミネアが実り、プラチナ色の穂が持ち上がって乾いた鞘から綿毛が飛び始める」頃に一族は首都へと帰還する。あるいは使用人たち。彼らはその年ごとにエルモヘネスの妻、リディアによって採用されるのであるが、毎年新しい使用人が採用されるにもかかわらず、いずれも個性を欠いた単なる反復とみなされている。「ベントゥーラ家に仕えた執事は数多いが、皆まったく同じだった。誰もが長い使用人経験で鍛えられた完璧な執事であり、ほとんど機械的に職務をこなしていくだけだったから、その一人ひとりについて、名前や個人的特徴などを覚えている者など一家には誰もいなかった」ベントゥーラ一族には皆名前が与えられ、巻頭の系図表によって相互の関係さえも明示されているのに対して、使用人たちは名前が与えられていない。フアン・ペレスに関しても毎年、異なったフアン・ペレスがいるといった表現があるから、それが固有名ではないことは明らかだ。反復性、匿名性、交換可能性は本書の隠された主題だ。それは使用人たちのみに限らない。例えばカシルダは初潮を迎えたコロンバ(カシルダの双子。双子が交換可能性を暗示していることはいうまでもない)の身代わりとして屋根裏部屋のフォビアのもとに赴く。このエロティックな挿話にも同様の主題は隠されているし、本書のいたるところにちりばめられた対称性のモティーフもこれと関係している。
 それにしても本書において最大の謎は、その寓意性であろう。最初に述べたとおり、本書が寓話であり、クーデターによって民主政権を打倒したピノチェット体制への批判をはらんだ寓意を秘めていると考えることは自然だ。しかし一体何が何の寓意であるかを理解することはきわめて困難である。「赤いもみあげと水っぽい目」として表現される「外国人」たちがピノチェットを支援したアメリカであるとみなすことは不可能ではない。小説の最後に登場する尊大な外国人たちはベントゥーラ一族から金鉱や屋敷を奪い、機械化によって鉱山から原住民たちを「排除」し、さらにこの地からグラミネアを根絶やしにすることすら口にするのだ。ガルシア・マルケスが描いたユナイテッド・フルーツ社のエピソードを連想するまでもなく、ラテンアメリカの作家たちにとって、アメリカそして多国籍企業による収奪はしばしば作品の主題とされた。しかし「別荘」における寓意はあまりにも複雑で単純な読みを許さない。最初に述べたとおり、この小説で描かれた混乱は主人の不在によって引き起こされた。主人の不在とは何を指すのか。あるいは物語の中で執拗に繰り返されるカニバリズムの暗示は現実においては何に対応しているのか。小説で描かれた世界は階級と差別が絶対的に支配する社会である。女婿として一族に加わったゴマラは別荘の庭でアマラント色の制服を着た男が同じ場所にいつも佇んでいることを奇異に思い、理由を問う。それに対して一族はコローの風景画のようにあの色を配すことによって風景が引き立つのだと説明する。人を人と見ない非人間的な感性にゴマラは驚き、一族に金鉱をもたらす原住民たちが置かれた劣悪な衛生環境の改善も図るのであるが、それによって逆に人食いの習慣に触れて気が触れたとして、一族によって幽閉されることとなる。原住民たちを徹底的に忌避し、差別し、収奪するベントゥーラ一族、そしてかくもおぞましい差別体系によって成り立つ社会とは何の暗喩であろうか。成立の過程を勘案してもおそらく本書は多くの解釈を呼び込むだろう。あとがきによれば著者ドノソは本書について「純粋に物語として受け入れてくれればそれでいい」と述べているとのことであるが、私には本書は単なる物語として読むにはあまりにも不吉な暗示に富んでいるように感じられる。「夜のみだらな鳥」を読んだ際に感じた熱病の中で見る悪夢のごとき不安は本書においても生々しくよみがえる。いや、もはや現実は悪夢と等価なのだ。
by gravity97 | 2014-08-31 22:40 | 海外文学 | Comments(0)

ポール・オースター『闇の中の男』

b0138838_1124527.jpg このブログでオースターについて触れるのは三回目となる。最初にレヴューした際には「新刊が翻訳されるたびに買い求め、一度も裏切られたことがない」と記したが、実は『オラクル・ナイト』の後、『ブルックリン・フォリーズ』と『写字室の旅』の二冊を読み落としていたからこの言葉は撤回しよう。2007年に原著が刊行され、このほど翻訳が出た『闇の中の男』に目を通す。久しぶりとはいえ、いつもながらオースターを読む体験は快い。
 ブログで応接した「幻影の書」と「オラクル・ナイト」も楽しめたが、オースターの小説としてはいずれも話がいささか込み入り過ぎた印象があった。特に後者においてはオースターが得意とする劇中劇ならぬ小説内小説があまりにも錯綜していた気がする。『闇の中の男』もまた小説の中で別の小説が語られる。しかし次に述べるとおり、物語相互の審級は容易に区別されて、説話の構造は比較的単純だ。そしてこの小説にはオースターの新しい境地が認められる。「エレガントな前衛」という呼び名のとおり、これまでオースターの小説の多くはニューヨークが舞台であっても強い寓意性と抽象性を帯びていた。しかしこの小説においてオースターは現実の事件と深く切り結ぶ。発表の時期を考えるならば、それが9・11、同時多発テロやイラク戦争であることに不思議はない。本書がオースターの小説としては珍しく不穏さや暴力性を秘めていることはこの点と関わっているだろう。今回も多少内容にも立ち入りながら論じる。
 物語はタイトルどおり「闇の中の男」のイメージから始まる。闇の中で不眠に苦しむ男。家の中には娘と孫娘がいると記され、それぞれの年齢も記されているから、この男が年配であることも理解される。娘のミリアムは5年にわたって独り身で、孫娘のカーチャは最近タイタスという夫を失い、壊れた心を抱えていることが冒頭で語られる。これまでオースターのいくつかの小説に認められた父と子という主題に代わって、本書では父と娘、そして孫娘の関係が物語の一つの軸を形作っている。ここでは主人公の男に名前が与えられず、タイトルが定冠詞や不定冠詞を伴わぬ Man in the Dark である点にも注意を喚起しておこう。いうまでもなくこれは闇の中の男が固有名をもつ誰かではなく、端的に人類を象徴していることを意味している。無明の中にある人類。闇の中の男は自分に向かって物語を語り始める。(正確に述べるならば、闇の中の男は男をめぐる物語ではなく、男が語る物語によって小説の中盤で名前を与えられる。オースターらしい技巧だ)冒頭で読者は次のような言葉に出会う。「私は男を穴の中に入れた。これは悪くない出だしに思えた。話を動かしはじめる上で、有望な設定ではあるまいか」このパッセージを見落とさなければ、物語の構造を理解することは容易だ。すなわち物語の中で語られる物語は、眠れない男が闇の中で紡ぐ「穴の中の男」の物語であり、実際にこの数行後で、穴の中に横たわって雲のない夜空を見上げる男の物語が始められる。男の名はオーエン・ブリック、男は自分がクイーンズに住み、手品を生業とする30歳の男であること、フローラという女性と結婚していることも知っている。しかしブリックが穴の中に佇む世界は私たちが知り、彼もまたなじんできた世界とは異なっている。ブリックは直ちにニューヨーク郊外を舞台とする内戦の中に巻き込まれ、トーバック軍曹なる上官から「戦争を所有している男」を殺害することを命じられる。ブリックはこの世界の中でもうひとつの歴史と出会う。ブリックが生きるのは2007年の世界であるが、そこでは世界貿易センターが破壊された同時多発テロは存在せず、イラクではなくアメリカ国内を戦場として戦闘が続けられている。ブリックは独立州連合の側に加わり、彼らの敵、連邦軍の大統領の名はジョージ・W・ブッシュ。この小説の中に凶々しく書きつけられる唯一の固有名、かつての合衆国大統領の名はブッシュ・ジュニアに対するオースターの強い反感を暗示している。あとがきによればオースターにとって9・11以上に、その前年、共和党が勝利を「盗んだ」大統領選への憤りがこの小説の出発点にあったという。一つのカタストロフィーに対する考えうる限り最も愚かな対応、この点で二人の二世政治家、ブッシュ・ジュニアと現在の日本の首相もまたみごとな相似形を描いていることも指摘しておきたい。
 小説に戻ろう。これ以降、物語は「私」と「男」の間を往還する。二つの世界を往還する物語の形式は今日さほど珍しいものではない。それどころかエリクソンから村上春樹まで、私のお気に入りの作家がよく用いる手法だ。「闇の中の男」、名をもたない男は孫娘と毎日映画を観て、感想を話し合う。オースターと映画との親和はこれまでも指摘され、「幻影の書」では失われたフィルムが小説の主題になっていたことは既に論じたとおりだ。本書においても「大いなる幻影」「自転車泥棒」「大樹のうた」、そしてとりわけ「東京物語」について二人は語り合う。最初の三本を立て続けに見た後、カーチャは映画について鋭い洞察を加える。「人間の感情を表現する手段としての、命なき事物たち。それが映画の言語なのよ。そのやり方を理解しているのはすぐれた監督だけだけど、ルノワール、デシーカ、レイとなったら最高の三人だものね」彼女はこれらの映画に登場するシーツや洗い物の皿、ヘアピンがいかに映画の言語として魅力的であるかを語る。命なき事物たちの語り、例えば「ムーン・パレス」における伯父の蔵書、「偶然の音楽」における石の壁。私は同様の原理がいくつかのオースターの小説にも用いられていることに気づく。カーチャの洞察は一個の小説論としても成立しうるだろう。そして二人が映画を観ることにはもう一つの意味があった。とりわけカーチャにとって映画を観ることは、それによって別の映像を消してしまう意味があったのだ。このことを知った時、私たちは「命なき事物たち」、une nature morte という言葉に込められたもう一つの残酷な含意を理解する。このあたりの構成の巧みさはさすがオースターである。「闇の中の男」の語りは一種の意識の流れであり、彼は孫娘と会話を交わす以外にはほとんど行為することがない。彼は亡くなった妻ソーニャを回想し、第二次世界大戦下でのユダヤ人をめぐるエピソードをたどり、「穴の中の男」の物語を語り続ける。
 穴の中の男、オーエン・ブリックは軍曹の指示に従って内戦下のアメリカをウェリントンという街に向かう。破壊された街の中でブリックはモリーというウエイトレスやハイスクール時代の憧れの女の子、ヴァージニア・プレーンと出会う。オーエンがたどる奇妙な道行きはオースターの小説を読み慣れた者にとってはおなじみだ。ところで私は最近のアメリカ映画にこの小説と似た構造がしばしば認められことに興味をもった。例えばアルフォンソ・キュアロンの「トゥモロー・ワールド」(2006)あるいはマーク・フォスターの「ワールド・ウォーZ」(2013)、ほかにもいくつも例を挙げることができるが、これらのフィルムに共通する特質は、一つには近未来における内戦状況が描かれていること、そして登場人物たちは突然このような状況に投げ込まれ、物語の背景というか状況の説明がほとんどなされないことである。今世紀に入ってこのような内容のフィルムが次々に発表された理由は明らかだ。何の理由もなく、突然に内戦状態に巻き込まれる経験、それは明らかに9・11の同時多発テロの暗喩だ。かつては戦争には原因があり、宣戦通告があり、戦場と銃後があった。しかし今日の戦争は日常と戦時、兵士と市民、戦地と都市が地続きの中で継起するのだ。それは2001年のニューヨークだけではない。イラク、アフガニスタン、パキスタン、同時多発テロをさらに徹底するかのようにこれらの国においてアメリカ軍が理由のない、宣戦布告のない、見境のない戦争を続け、9・11をはるかに超える市民と兵士の死者が発生していることを私たちは知っている。映画に戻るならば、ビンラディン暗殺を扱った「ゼロ・ダーク・サーティー」にこのような状況が描かれていることはこのブログでも論じたとおりだ。したがってこの小説は同時多発テロを起源としており、物語の中でブリックがモリーに「9月11日」、「世界貿易センター」といった言葉から何を連想するかを問うことは必然的といえよう。私たちは同時多発テロを主題としていくつかの小説が執筆されたことを知っており、そのうちの一つ、ドン・デリーロの「墜ちてゆく男」(「闇の中の男」と「墜ちてゆく男」は韻を踏むかのようだ)という優れた小説についてはすでにこのブログでレヴューした。オースターは同時多発テロの存在しなかった世界を描くことによって、逆説的に暴力に支配された世界を浮き彫りにする。ブリックの物語の最後にオースターは次のような言葉を書き付けているが、それは9・11以後の私たちの世界を象徴するかのようではないか。「戦争の物語。一瞬でも気を緩めたら、それらはすかさず押し寄せてくる、ひとつまたひとつまたひとつ…」
 ブリックの物語は暴力的に、かなり唐突に終わる。むしろ断ち切られるという印象だ。そしてこの小説は形式のみならず内容自体も二重化されており、ブリックをめぐる物語の結末は小説の最後で繰り返されることとなる。それはすかさず押し寄せてくる戦争の物語だ。オースターの小説でこれほどまでに戦争と暴力が前景化された例はない。おそらく9・11とそれへの報復としての同時多発テロ同様に正義のないイラクやアフガニスタンへの侵攻を経て、世界は変わってしまった。アウシュビッツの後で詩を書くことが野蛮であるように、2001年を経過したオースターはこのような小説しか書けなかったのであろう。今引いた言葉が発せられる直前で闇の中の男は次のように自問する。「そう終わるしかないのか、イエス、おそらくはイエス、これほど残酷でない結末を考えることは難しくはないが。でも何の意味がある? 私の今夜のテーマは戦争だ。戦争がこの家に入ってきたいま、衝撃を和らげたりしたらタイタスとカーチャへの侮辱だと思う」この問いが作者オースター自身に共有されていることに疑いの余地はない。この意味で本書はポスト9・11をテーマとした最良の表現の一つといえるだろう。
 そしてこの小説には救いがある。ブリックの物語が終わった後、新しい物語が始まる。闇の中の男はやはり眠れずにいる孫娘カーチャをベッドの中に招き入れて、今度は亡き妻、ソーニャの思い出を語る。老人と孫娘の対話としてつづられる二人のなれそめ、諍いと和解の物語は戦争と暴力とは対極の営みがこの世に存在することを静かに表明する。21世紀という「戦争が家に入ってくる時代」を生きる私たちにとって、それはささやかな物語である。しかしこの物語がカーチャを癒し、最後の場面の希望を導いたことも明らかである。この時代にあっても物語は闇の中の光となりうる。物語によって闇を照らす存在、闇の中の男とは私たちにこの物語を届けたオースターのことかもしれない。
by gravity97 | 2014-06-09 11:35 | 海外文学 | Comments(0)