Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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カテゴリ:海外文学( 49 )


ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』『写字室の旅』

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 ゴールデンウイークの読書の楽しみとして、お気に入りのポール・オースターの未読の小説を二冊求めた。休日をはさんだとはいえ、ゴールデンウイークまで日を残して二日ほどで読み終えてしまったことは、あらかじめ予想できた誤算だ。このブログでもオースターについては既に三冊の小説についてレヴューをアップしている。おそらくこれまで最も頻繁に論じた対象の一つである。オースターに関しては、最近『冬の日誌』と『内面からの報告書』という自伝的な要素の強い新刊が訳出されたが、今回論じるのはこれらではない。以前も記したとおり、私はオースターについては翻訳が出るたびに読むようにしていたが、何冊か読みこぼしがあった。『ブルックリン・フォリーズ』と『写字室の旅』という2005年と2007年に発表された中編をいずれも柴田元幸の練達の翻訳によって読む。発表順で言うと、この二つの小説はこのブログで論じた『オラクルナイト』と『闇の中の男』の間に執筆され、興味深い共通点をもっている。柴田のあとがきによれば「2002年刊の『幻影の書』にはじまって、ポール・オースターは『自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語』を五作続けて発表した」今回取り上げる二冊の小説はその第三作と第四作にあたる。今名を挙げたほかの三つの小説についてはいずれもこのブログでレヴューを加えているから、奇しくも今回で私はこれらの五部作全てについてコメントすることとなる。

 さて、二冊の小説のうち、ここでは主に「写字室の旅」について論じることとする。しかしこれは「ブルックリン・フォリーズ」に比べて、こちらの方が優れているということを意味しない。どちらも優劣つけがたいが、もしどちらか一冊を推薦しろと言われたならば、むしろ私は「ブルックリン・フォリーズ」を選ぶだろう。それは単に分量だけでなく、オースターの小説の魅力が凝縮された佳作であるからだ。初めてオースターの小説を読む者にとってこの小説は格好の導入となるだろう。何よりもこの小説は読むことが楽しい。訳者の柴田もあとがきで「オースターの全作品の中でももっとも楽天的な、もっとも『ユルい』語り口の、もっとも喜劇的要素が強い小説だと言ってひとまずさしつかえないと思う」と述べている。私も全面的に同意する。それゆえこの小説についてはくどくど内容について論じるよりも、まず手にとっていただき、オースターの世界に足を踏み入れていただきたいと考えるのだ。少しだけ「ブルックリン・フォリーズ」の内容に触れるならば、読み始めるやそこにはニューヨーク、古本屋あるいは文学をめぐる蘊蓄といった、まことに私好みの主題が横溢している。これらはほかの小説とも共通するテーマでもあり、私は懐かしい土地に帰還したような思いがした。オースターが編集した「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」並みの奇譚を随所に織り交ぜながら年老いた主人公とその甥をめぐる錯綜した、しかし抜群に面白いエピソードの連続だ。「楽天的で喜劇的な」物語は必ずや読者を満足させることと思う。

 「ブルックリン・フォリーズ」を読む愉しさは未読の読者にために残して、私たちは「写字室の旅」に戻ることにしよう。「ブルックリン・フォリーズ」の二年後、2007年に発表された「写字室の旅」もまた実にオースターらしい物語だ。しかし物語を語ることの愉しさによって駆動された前者に対して、こちらは「物語を語ること」に明らかに意識的であり、オースターのいくつかの小説にみられるメタ性、つまり「小説についての小説」という側面が強調されている。「幻影の書」に始まる五部作にはいくつかの共通点がある。先にも引用した通り、柴田は「自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語」と評しているが、試みに「ブルックリン・フォリーズ」「写字室の旅」「闇の中の男」という五部作の後半三作品の冒頭の一文を順番に引いてみよう。「私は静かに死ねる場所を探していた。誰かにブルックリンがいいといわれて、翌朝ウエストチェスターから偵察に出かけていった」「老人は狭いベッドの縁に座って、両の手のひらを広げて膝に載せ、うつむいて、床を見つめている」「私は一人闇の中にいて、頭の中で世界をこねくり回しながら、今夜も不眠症をくぐり抜けようとあがいている」一人称と三人称という違いはあるが、確かにいずれも語り手の老いが前提とされている。特に後の二つの小説の冒頭は酷似しているといってもよい。人生を終えつつある老人を語り手に据えた点と現在70歳となった作家の心境が同期しているか否かについては即断できないが、興味深い点はこの五部作において次第にペシミズムが濃厚に感じられるようになる点である。「写字室の旅」において最初、老人と呼ばれた主人公はまもなく名を与えられる。ミスター・ブランク、空虚氏とはまことにオースター的だ。直ちに「幽霊たち」において任意の色彩の名前を与えられた登場人物たちも連想されよう。「闇の中の男」と「写字室の旅」、いずれにおいても主人公の老人は加齢を原因とした一種の幽閉状態にあり、特にミスター・プランクは動くことさえままならぬほどに衰弱している。両者に共通する重要な要素がもう一つある。それは物語の中に別の物語が嵌入する構造だ。「闇の中の男」では暗闇の中で老人が妄想する物語として、「写字室の旅」においては室内の机の上に積み上げられたタイプ原稿として別の物語が入り込む。もちろん小説内小説という手法はオースターが得意とするところで、記憶している限りでも「オラクルナイト」「リヴァイアサン」などでは小説の中で別のストーリーが展開され、「幻影の書」においては幻の映画がその役割を果たしていたと思う。「写字室の旅」と「闇の中の男」で注目すべきはそこで語られる物語がいずれも戦争と関連している点である。すなわち前者ではジーグムント・グラーフなる人工統計局の役人の手による、何処ともしれない土地での戦争の記録が語られ、後者においてはオーエン・ブリックという男によって記されるおそらくは近未来、内戦状態にあるアメリカの報告が綴られる。デヴュー当時、エレガントな前衛と呼ばれ、一種の都会的なミニマリズムを感じさせたオースターがこれらの小説において戦争というきわめて普遍的で泥臭い主題に接したことの意味については最後に論じる。

 「写字室の旅」にはもう一つのメタ的な仕掛けがある。衰弱し、トイレでの排泄もままならぬプランクのもとを次々に様々な人物が訪れる。元警官ジェイムズ・フラッド、食事と沐浴を介護し、最後にプランクを射精へと導くアンナという女性。亡くなった夫の名前を尋ねられたアンナがデイヴィッド・ジンマーという固有名詞を引いたところで、私はようやく記憶がよみがえった。デイヴィッド・ジンマーとは「幻影の書」の中で消息不明の謎の映画監督、ヘクター・マンを探す主人公の名であったはずだ。書庫でオースターの作品の頁をめくるならば、同様にピーター・スティルマンは「シティ・オブ・グラス」、ファンショーは「鍵のかかった部屋」、それぞれニューヨーク三部作中の登場人物であったことが理解された。オースターの名を知らしめたこれらの傑作を読んだのは30年近く前であったから、さすがにこれらの登場人物の役割についてはおぼろげな記憶しかないが、これらの事実が判明するならば、「写字室の旅」が何の暗喩であるかは明らかだ。ファンショーとは何者かを問われて元警官フラッドとプランクは次のような会話を交わす。「あなたの工作員の一人です」「わたしが任務に送り出した人間ってことか?」「きわめて危険な任務に」「そいつは生きのびたのか?」「確かなことは不明です。ですが大方の意見としては、もはや彼は我々と共にいないのではないかと」ミスター・プランクは作者オースターその人であり、この小説は老境にある作家のもとを彼によって創造された小説中の登場人物が訪ねる物語として了解されよう。むろんこのような解釈はあまりにもナイーヴとする見方もあろうし、小説の技巧に長けたオースターのことであるから、小説はこのような単純な解釈を許さない深みを備えている。ここで注目すべきは、彼を訪れる作中人物たちがいずれもプランクに強い敵意を抱いている点である。フラッドは次のように告発する。「あなたは残酷です。残酷で他人の苦しみに無関心です。あなたは人の人生をもてあそんで、自分がしたことに何の責任もとらない」物語の終盤でプランクは彼らによって詐欺から性的暴行、殺人までの罪状を告発され、死刑の宣告さえ受けるのだ。私はメタ的な枠組をもった小説や美術が好きであるから、これまでこのブログで論じた文学作品においてもしばしば作者と登場人物の関係が主題とされていた。例えばロレンス・ダレルの「アヴィニョン五重奏」やローラン・ビネの「HHhH」はそのような小説であった。しかしこれらの作品と比しても、本書における両者の関係は緊張に満ちている。最初に述べた通りここで論じた五部作を通じてオースターが描く世界は次第にペシミズムが濃厚になる。「ムーンパレス」や「リヴァイアサン」にみられたおおらかさは失われたように感じられる。「ムーンパレス」におけるコロンビア大学、「ブルックリン・フォリーズ」におけるブルックリン、これらの小説においてはニューヨークの街区が固有名とともに語られ、現実と強いつながりをもっていた。しかし「闇の中の男」は同時多発テロの記憶のない内戦状態のアメリカが舞台であり、「写字室の旅」にいたっては場所についての記述のない室内で物語が推移する。この五部作を通じて私はオースターと小説との関わりが大きな変化を遂げたような気がする。物語の中からオースターが愛したニューヨークという街の具体性が失われ、代わって何処とも知れぬ場所で繰り広げられる戦争をめぐるエピソードが小説内に挿入される。このような変化は「シティ・オブ・グラス」に始まる一連の小説に登場した人物たちにとって帰るべき場所、帰属すべき場所が失われたことを暗示しているのではないか。このように考えるならば、近作において作家と登場人物の間に強い緊張が生じた理由も理解できよう。

 30年近くオースターを読み継いで、私もまた何かが決定的に変わったことを深い感慨とともに思い知る。その決定的な転機についての記述が「ブルックリン・フォリーズ」の末尾にある。内容に立ち入ることとなるが、この小説自体に背景とされる時代について詳細な記述があり、おそらく誰もが想像する事件であるから思わせぶりな書き方はやめておこう。「ブルックリン・フォリーズ」の物語の中で様々な出来事を経験し、もはや「静かに死ねる場所を探す男」ではなく、新しい仕事の構想、そして愛する相手さえ得た老人ネイサンは入院していた病院から退院の許可を得て明るい陽光の降り注ぐ秋の朝、ブルックリンへと歩み出る。「だがいまはまだ8時で、そのまばゆい青空の下、並木道を歩きながら、私は幸福だった。我が友人たちよ、かつてこの世に生きた誰にも劣らず、私は幸福だったのだ」これが「ブルックリン・フォリーズ」の最後の一節である。しかしその前にネイサンが退院した日付が2001911日であったことが記されているから、私たちはそれから一時間も経たないうちにニューヨークを襲った惨事に思いをめぐらす。「ブルックリン・フォリーズ」は画然と分かたれた「それ以前」の日々をあえて描くことによって物語に深い余韻を残す。「ブルックリン・フォリーズ」の高揚の後に、「書字室の旅」と「闇の中の男」を読むことは、私たちにとって良き時代は既に終えられてしまったことをあらためて自覚させられるかのようだ。猿のような顔をした大統領が大統領選を「盗み」、結果的に911の遠因となったことについては小説の中でも怒りとともに触れられている。しかし今やさらに下劣な人物が大統領として居座る、もはや悪い冗談としか思えない状況にこの世界はなり果ててしまった。享楽的なポスト資本主義の最後のきらめきから監視と検閲による全体主義へ。そういえばオースターは早くも87年に発表した「最後の物たちの国で」において私たちの暗鬱な未来を予見してはいなかっただろうか。



by gravity97 | 2017-04-30 22:16 | 海外文学 | Comments(0)

ミシェル・ウェルベック『服従』

 

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 翻訳が刊行された後、タイミングを合わせたかのようにフランス国内で大規模なテロ事件が発生し、「予見的」として大きな話題になったミシェル・ウエルベックの「服従」を読む。それから二年が経過し、イギリスのEU離脱、そして社会病質者のアメリカ大統領就任という異常事態を経て、私たちはますます本書の警告が切実な意味をもつ世界に生きることとなった。ウエルベックに関して私はこれまで「地図と領土」しか読んだことがない。冒頭にジェフ・クーンズとデミアン・ハーストが登場する「地図と領土」もとんでもない小説であったが、本書も問題作と呼ぶにふさわしい。最初にお断りしておくが、内容に立ち入らず本書を論じることは困難であり、結末も含めてこのレヴューでは物語の内容に言及する。可能であれば、一度通読してから以下をお読みいただいた方がよいかもしれない。

 帯の惹句に次のような記述がある。「フランス大統領選同時多発テロ/賛否渦巻く予言的ベストセラー」「シャルリー・エブドのテロ当日に発売された近未来思考実験小説」実際に翻訳が刊行された当時はフランスにおけるテロとの関係でセンセーショナルに宣伝されたことを覚えているし、私が刊行直後に本書を求めなかったのは予断をもって小説を読むことを好まないためだ。しかし今回本書を読み始めるとやや印象が異なる。冒頭にJ.K.ユイスマンスの一節がエピグラフとして引かれ、「ぼく」を語り手とした一人称の物語が始まるが、そこで記述されるのはユイスマンスを専攻し、ソルボンヌ=パリ第四大学で博士号の学位を取得した主人公の大学の研究者としての比較的単調な生活である。短い章が重ねられて構成されている本書において、一人称の語りは安定しており、大学の文学研究科で教鞭を執る主人公の生活もテロや戦争とはほど遠い。パリ第四大学で博士号を取得し、パリ第三大学で教授職を得るということは典型的なインテリのキャリアであり、ある意味ではフランスで最も安定した状況にある知識人の肖像ということもできるだろう。実際にフランソワが専門とするユイスマンスについては、学者らしいディレッタンティズムが随所で開陳される。その一方で主人公フランソワの個人的な趣味も随所に書き込まれる。まず明らかになるのは主人公の性的な放縦である。彼は大学時代にも大体年に一人くらいのガールフレンドを作り、性的な関係を結ぶ。教職に就いてからも「毎年のように、女子学生たちと寝た。彼女たちに対して教師という立場であることは、何かを変えるものではなかった。ぼくと彼女たち学生の年齢の違いは始めの頃は大きくはなかったし、それがタブーの様相を呈してきたのは、どちらかといえば大学での昇進のせいであって、自分が年を取ったからでも、老いが外見に現れたからでもなかった」日本であれば眉をひそめる者もいるかもしれないが、おそらくフランスであれば主人公のコメントはさほど抵抗なく受け容れられることは予想できる。本書の冒頭でフランソワは長く安定したガールフレンドというよりセックスパートナーであったミリアムとの別れを経験する。しかし物語の中ではさほど大きな意味をもつ事件ではない。インテリの一人称小説らしく、随所にレストランや料理、あるいはワインに関するスノビッシュな固有名詞が散らされているが(このようなディテイルから私はブレット・イーストン・エリスの「アメリカン・サイコ」をかすかに連想した)、それらと同様にミリアムも交換可能な固有名詞の一つに過ぎない。実際に主人公はまもなくミリアムの不在の代償であるかのように「エスコートガール」たちとのセックスを楽しむ。物語の序盤において主人公の生活に大きな変化はないが、一方でフランスの社会を覆う変貌の予兆がいくつかの挿話を通して暗示される。私たちはフランソワを前景に、彼をめぐる世界を後景にした一枚の絵画のように物語に接するのであるが、私たちの視点は両者を往還し、やがて前者が後者の中に絡み取られていく様子を目撃する。変化を暗示する挿話とは以下のようなものだ。フランソワの講義に中国人の学生、そして黒いブルカを身につけたマグレブ出身の女子学生、つまり非ヨーロッパ圏の学生たちが出席するようになる、大学予算が大幅に減額される一方でサウジアラビアからオイルマネーを背景とした多額の寄付金が寄せられ、学長人事にも影響を与えるという噂が流れる。新しい同僚はかつてアイデンティティー運動(白人やキリスト教といったなんらかのアイデンティティーに基盤を置く極右の政治運動)に参加していたことを告白する、反ユダヤ主義の台頭が暗示され、ショッピングモールの店構えも微妙な変化をみせる。この小説は2022年、フランスの大統領選挙の年を舞台としており(この情報は本書の帯に記されているのだが、私が読んだ限り、物語の中に具体的な日付は書き込まれていない。大統領選の年であることから逆算されてこの年が特定されたのではなかろうか)、主人公はワインを片手にTVで選挙の帰趨を眺める。既成政党のUMPは退潮し、マリーヌ・ル・ペンの国民戦線が大勝する。そしてイスラーム同胞団が社会党を破ったことによって、右翼の国民戦線とイスラーム政党が大統領選挙を争うこととなった。私はフランスの政治には疎いから、このようなフィクションの現実性については判断できない。しかしマリーヌ・ル・ペンが国民戦線の創始者、ジャン=マリー・ル・ペンの娘であることくらいは知っている。イスラーム同胞団、そしてその党首のモアメド・ベン・アッベスは架空の存在であろうが、多くの実在の人物が散りばめられたこの小説は、フランス人の読者にとって、まさに今年大統領選挙を迎える自分たちと地続きに感じられたとしても不思議はない。

 選挙の結果についてはこの小説の最初の四分の一あたりで記述され、これ以後、物語は不穏な空気を帯びる。大学の同僚マリー=フランソワーズは夫が公安警察に勤務しており、彼は国民戦線が政権を取ることを阻むために社会党がイスラーム同胞団と手を結ぶことを予想する。彼によればイスラーム政権が関心をもつのはもっぱら人口と教育である。政権が樹立された場合、出生率を高めるため一夫多妻が公認され、教育制度が分割される。イスラーム的な教育において男女共学はありえず、女性はできるだけ早く結婚して家政を修めることが求められる。教師はすべてイスラーム教徒であり、食事から礼拝にいたる厳格な規律が求められる。イスラームはすでに周到な根回しをしており、ソルボンヌのごとき有力大学への潤沢な資金援助もその一環であるという。一方、フランソワの同僚は選挙の結果いかんでは内乱が発生すると警告し、銀行預金をおろして地方へ一時避難することを勧める。別れたはずのミリアムが突然フランソワの前に現れ、イスラーム政権から逃れるためにユダヤ系の両親とともにイスラエルに移住することを知らせる。決戦投票の結果、進歩的で穏健な主張を掲げるアッベスが勝利し、ついにフランスにイスラーム政権が成立する。この過程では暴動や銃撃もみられたが、比較的短い時間のうちに事態は収束する。混乱を避けてユイスマンスゆかりの地方を遍歴していたフランソワもパリに戻る。

しかしイスラーム政権の成立に伴い、フランソワの身辺は大きな変化を遂げる。勤務する大学はパリ=ソルボンヌ・イスラーム大学へと改組され、イスラーム教徒ではない彼は高額の年金を条件に解雇される。フランソワはかつての同僚がイスラームに改宗して大学に残り、自分以上の高額の給料を与えられていることを知る。同僚は「彼ら」によって女子学生を妻としてあてがわれ、さらに来月、「二番目の妻」をめとるという。社会も大きな変化を遂げる。政権の樹立とともに治安は回復し、家事に対して十分な手当てがなされた結果、女性は労働市場から撤退し、失業率は低下する。義務教育は小学校で終わり、それ以上の教育は私立学校に委ねられた。イスラーム化されるフランスの状況はきわめて具体的であり、本書が与えた衝撃もこの点に由来するだろう。私たちは同時多発テロ以来、イスラームと西欧の対立をいたるところで見てきた。先日のアメリカの入国禁止令がその最新ヴァージョンであることはいうまでもない。しかしここに描かれるのは選挙によって民主的にイスラームの属領とされる「西欧」の中心、フランスの姿である。そしてそれは社会と家庭の根底的な変革を伴う。

物語の終盤でフランソワはプレイヤード叢書のユイスマンスの巻の編集を打診される。ガリマール社から刊行されるこの有名な叢書の編集を任されるということは、その文学者についての権威であることを暗黙に示す。実際にこの叢書にユイスマンスが含まれているか否か私は知らないが、これが文学研究者にとって最大級の名誉であることは誰でも理解できよう。さらに編集者はフランソワをアラブ世界研究所の最上階で開催される新ソルボンヌ大学の開校式へと誘う。そこにはサウジアラビアの王子を含む多くのアラブ人とフランス人が出席していた。まもなく彼はニーチェを専門とするパリ=ソルボンヌ・イスラーム大学の学長ロベール・ルディジェ(もちろん改宗し、複数の妻をもつ)から大学へ復職する厚遇の条件を提示される。おそらくはプレイヤードの編集の誘いもフランソワを大学へ戻すための工作の一つであった。しかし彼がそれを受け入れるためには一つの条件が課されている。いうまでもなくイスラームへの改宗である。この小説の最後は改宗の儀式を終えて、新しい境遇、大学での地位やプレイヤード叢書の編集者という名誉、そしてあてがわれるべき複数の女子大生をフランソワが夢見る場面で終わる。「それは第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないものだ。ぼくは何も後悔しないだろう」ただし注意深く読むならば最後の章は、おそらくフランス語の条件法によって書かれているだろう。つまり実際に主人公がそのような選択をなしたかどうかについては読み取ることができない。ウェルベックらしいかなりあざとい語りによって締めくくられているのである。

最後まで読み通すならば「服従」というタイトルの意味は明らかである。この小説においてフランスのインテリたちは嬉々としてイスラームに服従する。彼らに与えられるのは地位や名誉、高い給料、さらに複数の若い妻だ。(ルディジェは15歳の少女を妻として紹介する)あまりにも通俗的な欲望のために大学の教師たちが「転んで」ゆく姿は滑稽を通り越して悲惨でさえある。おそらくこの点こそ西欧の知や良識の拠点である大学が物語の舞台に選ばれた理由であろうし、ここには知識人の退廃あるいは堕落という普遍的なテーマを認めることもできるだろう。女性を隷属状態に置くこと、教育の否定、宗教の厳格な支配、これらが暗示するのは中世の世界だ。本書をとおして私たちは近代西欧社会を成立させた啓蒙や教化が無効化された社会が、大統領選挙という民主制をとおして到来し、大学人という最高の知性たちがあっけなく隷従する過程を目撃する。今日、本書が予言的な意味をもつのはこの点であろう。国家を超えた共同体を形成すること、難民や流民を自分たちの社会の中に受け入れること、融和や平和への希求すること、私たちは自分たちがこれまで理想として掲げてきた価値観が急速に崩壊する現場に立ち会っている。しかもイギリスとアメリカの例から明らかなとおり、それは大多数の市民が望んだ結果なのである。嬉々とした服従。それを解く鍵が物語の中にある。ルディジェの住まいはかつてジャン・ポーランが住み、そしてポーリーヌ・レアージュが「O嬢の物語」を執筆した屋敷であった。ルディジェは次のように語る。「『O嬢の物語』にあるのは服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力をもって表明されたことがなかった。それがすべてを反転させる思想なのです。(中略)女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように人間が神に服従することとの間には関係があるのです。イスラームは世界を受け入れた。そして世界をその全体において、ニーチェが語るように『あるがままに』受け入れるのです」服従によって世界を受け容れること、おそろしくニヒリスティックな発想がニーチェの研究者であるルジェディを介して語られる時、私たちはそのような思想が啓蒙という「光の世紀」を経過した西欧近代と果たして無縁であったのか、問わずにはいられない。あるいはユイスマンス。社会がイスラーム化する中で、フランソワはユイスマンスが滞在した修道院を訪れて数日の間、聖務に勤しむ。私はユイスマンスについてはデカダンスの作家であることくらいしか知識がないが、この作家の研究者を主人公に据えたことにはなんらかの意味があるのだろうか。本書においては西欧の「輝かしい」近代がイスラームの中世によって相対化されている。イスラームと西欧の対立という図式はおなじみのものであるが、これまで私たちはテロリズムやアラブ・ゲリラといったステレオタイプによってしか、イスラームを表象することができなかった。(いうまでもなくエドワード・サイードが論じた点だ)しかしここには暴力ではなく善意と誘惑によってイスラームがヨーロッパを併合する可能性、啓蒙の終焉と中世への退行が示唆されている。もちろんそれは一種の思考実験かもしれない。しかし民主主義と代議制の劣化が致命的なまでに進行した今日にあっては、かかる悪夢が現実化することはありえないと誰が言えようか。民主主義は疲弊している。先日も私たちは自分たちが選んだはずの宰相がアメリカの社会病質者にへつらい、文字通り「服従」する姿を目撃したばかりではないか。



by gravity97 | 2017-03-01 22:13 | 海外文学 | Comments(0)

ロベルト・ボラーニョ『2666』

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 毎年、年末年始には数巻にわたる長編を読むことにしている。このブログでもディケンズの『荒涼館』やロレンス・ダレルの「アヴィニョン・クインテット」について論じた。昨年から今年にかけて準備したのは私にとっても初めて読む作家、チリのロベルト・ボラーニョの大作『2666』。大判の単行本、上下二段組で850頁に及ぶ大長編である。読み終えて唖然とする。なんとも超絶的な怪作であった。
 最初に遺族による注記がある。遺族という言葉が暗示するとおり、ボラーニョは50歳で早世し、本書は彼の遺作である。後から論じるとおり、このような事情も本書の内容と無関係ではない。注記によれば作家は五章から成る本書を、それぞれ五巻の分冊として刊行することを遺言として遺した。しかし彼の友人であり文学上の助言者のアドバイスにしたがって分割せず一巻の書として刊行された。「病状が悪化して最悪の事態に至らなければ、彼はきっとそうしていたことでしょう」と注記の末尾にある。最初に種明かしをしてしまえば、五つの章はまさに絶妙の関係で結ばれている。この長大な小説にあっては末尾と呼ぶべき最後のわずか20頁ほどで一挙に視界が晴れるかのように、五つの章、五つの物語が焦点を結ぶ。私が超絶的と述べたのはこのことである。この点で今挙げたダレルの「アヴィニョン・クインテット」と比較することは意味があるだろう。アヴィニョン五重奏も複雑な構造をもつ小説であり、本書と同じ五つのパートから構成され、それぞれが独立した物語として、数年の間隔を空けて出版された。しかしアヴィニョン五重奏は全体として一つの物語のとしてのゆるやかな結構を保っており、五巻の物語をこの順番に違和感なく読み進むことができる。これに対して、「2666」において、読者は章ごとに次々に全く別の物語の中に投げ込まれるかのような思いにとらわれる。この印象をさらに強めるのは五つの章の量的な不均衡だ。最初の三つの章がそれぞれ150頁、60頁、100頁ほどであるのに対して、後半の二つの章は260頁と230頁余りの量がある。注記によれば分冊としての刊行ペースや出版社との契約金まで指示が残されていたとのことであるから、本書を完成された最終稿とみなしてもよかろうが、作者の死後に刊行されたという事情を勘案するならば、このようないびつな分量の配分が初めから意図されたものであったか否かについては若干の疑問が残るし、この点は作品の評価とも関わっているだろう。以下、今回は内容についてもかなり踏み込んで論じるため、白紙の状態でこの小説に向かいたい読者はまず書店か図書館へと足をお運びいただくのがよかろう。
 それにしても奇怪な小説である。「批評家たちの部」と題された第一章は次のような文章で始まる。「ジャン=クロード・ペルチエが初めてペンノ・フォン・アルチンボルディを読んだのは1980年のクリスマスのことだった。当時、彼は19歳で、パリの大学でドイツ文学を学んでいた」批評家たち、というタイトルが暗示するとおり、冒頭の章ではアルチンボルディというドイツの小説家をめぐり、彼の小説を研究する国籍を違えた四人の批評家たちが主人公となる。フランスのペルチエ、イタリアのピエロ・モリーニ、スペインのマヌエル・エスピローサ、そして紅一点、イギリスのリザ・ノートンである。アルチンボルディなるドイツ作家は架空の存在であり、言及される多くの小説も実在しない。四人の批評家たちはヨーロッパ各地で開催される学会やセミナーを通して互いを認知し、親密な交際が始まる。四人のうち、モリーニは多発性硬化症のため車椅子の生活を余儀なくされているが、世代が近いこともあり、四人は様々な機会をとらえてそれぞれが住む都市を行き来して次第に交流を深める。ペルチエとエスピローサは次第にノートンに好意を抱くようになり、性的関係をもつ。セックスは明らかに本書を通底する主題であり、彼らの関係は三人でのセックス(メナージュ・ア・トロワ)にまで発展する。第一章の隠れた主人公が作家アルチンボルディであることは言うまでもない。冒頭に1980年という年記があることから理解されるとおり、本書は近過去を舞台としており。アルチンボルディが1960年代から小説の発表を始めたことも記述されている。しかしアルチンボルディは公の場には決して姿を現さず、原稿は多く郵便を介して出版社に送りつけられる。四人の批評家たちはアルチンボルディの消息を探る。北海に面した寒村で偶然にアルチンボルディに出会った作家、出版元の社長夫人、彼らは作家と面識のある人物を訪ねるが、非常に背の高いドイツ人であることが判明しただけで、その行方は杳として知れない。トゥルーズで開かれたセミナーで彼らはつい最近アルチンボルディに会ったというメキシコ人と知り合う。彼を通してアルチンボルディがメキシコ北西部、アメリカ国境のソノラ州にあるサンタテレサという街を訪れたことを知った批評家たちはその街を訪ねてアルチンボルディの痕跡を探す。この街については彼らがそこへ赴く前に一つの不吉な噂が新聞記事として書きつけられていた。それによればこの街では100人を超す女性たちが殺されており、犯人は特定されていないというのだ。サンタテレサを訪れた批評家たちはサンタテレサ大学の文学部長から「アルチンボルディの専門家」であるアマルフィターノという教授を紹介され、彼とともに調査を続けるが収穫はない。報われない探索。劇的な展開を欠いたまま第一章が終わる。そして四人の批評家はこれ以後、この小説には一切登場しない。しかし既にこの章の中にあたかも通奏低音のごとく物語とは直接関係のない不吉なエピソードが散りばめられている。例えばエスピノーサとペルチエによるパキスタン人のタクシー運転手に対するほとんど理由のない暴行、民芸品の売り子をしている少女とエスピノーサのペドフィリア(小児性愛)に近いセックス、自ら右手を切り落とし、切り落とした腕に防腐処置を施したエドウィン・ジョーンズというイギリスの画家のエピソード。暴力と性愛というモティーフはこの長い小説につきまとい、後述するとおり第四部では直接的な主題となる。
 第二章は「アマルフィターノの部」と題されている。題名が示すとおり、この章では第一章に登場したサンタテレサ大学の哲学教授、アマルフィターノが焦点化される。メキシコ西北部の殺伐とした砂漠の町に娘と二人で住む大学教授はバルセロナからこの地に流れ着き、彼の妻は出奔したらしい。前章で彼がアルチンボルディの研究者であることが明らかとされているが、逆にこの章ではドイツ人作家についての言及はほとんどない。代わって美術史を学んだ者にとっては興味深いエピソードが開陳される。書斎に届いた箱の中からアマルフィターノはラファエル・ディエステという書き手の『幾何学的遺言』という見覚えのない本を見つけ(この本は実在するらしい)屋外に物干し用ロープに吊るすという奇妙な処置を施す。いささかのディレッタンティズムとともに私はこの一節を理解した。マルセル・デュシャンだ。デュシャンは1919年、滞在中のブエノスアイレスから妹のシュザンヌに幾何学の教科書をバルコニーに放置し、風に晒されたままの状態で放置せよという指示を与え、《不幸なレディメイド》と名づけて作品化した。今や写真のみによって知られるレディメイドの挿入に私は当惑した。先のエドウィン・ジョーンズの挿話、あるいは明らかにアルチンボルドを連想させる作家の名前、この小説の中にはさまざまなかたちで美術への謎めいた参照がなされる。そしてこの章においてもサンタテレサにおいて引き続く女性の連続殺害事件について言及される。続く第三章「フェイトの部」の主人公もアフリカ系のアメリカ人、新聞記者のオスカー・フェイトという全く未知の人物だ。フェイトは不慮の死を遂げた同僚の代わりにボクシングの試合の取材を命じられる。フェイトが赴いた土地の名を聞いて、私たちはようやくばらばらの物語の接点を知る。いうまでもなくメキシコ、ソノラ州のサンタテレサである。サンタテレサを訪れたフェイトは同じ試合の取材に訪れた記者たちのたまり場で現地の怪しげな男たちと知り合いとなり、若い女性をターゲットにした連続殺人事件が頻発していることを知る。荒廃した街でフェイトは第二章の主人公、アマルフィターノの娘、ロサと会い、二章と三章はかろうじて結びつく。メキシコシティからこの事件を取材に来た女性記者は、この事件を調査する新聞記者たちが何人も誘拐され、行方不明になっているという不気味な噂をフェイトに伝え、まもなく収監されている事件の容疑者と面会すると述べる。物語全体の輪郭は相変わらずあいまいなままであり、この章の最後に記された情景の意味はおそらく本書を読み通して初めて了解されるはずだ。
 続く「犯罪の部」という長大な章には誰もが圧倒されるだろう。なによりも300頁近い分量があるにもかかわらず、その大半は1993年に始まる連続女性殺人事件において死体が発見された状況の説明に終始するからだ。たとえばこんな感じだ。「二月半ば、サンタテレサの中心街の路地で、ゴミ収集人が新たな女性の遺体を発見した。年齢は30歳前後で、黒いスカートと胸元の開いた白いブラウスを着ていた。ナイフで刺し殺されていたが、腹と腹部には何度も殴られた形跡があった」ほとんどの場合、犯人は不明であるが、時に恋人や知人が犯人と名指しされることもあるから、この小説は犯人捜しのミステリーではない。「フェイトの部」の中の記述と殺害の状況が一致することによって犯人が漠然と想定される場合もあれば、犯人の特定とはつながらない何人かの容疑者が拘束される場面も描かれている。この小説において話者は神の視点をとるから、殺人者の語りを入れることも可能なはずであるが、そのような語りは意図的に排除されている。殺人の凄惨な状況は地の文の中で淡々と語られ、列挙される被害者の数、延々と続く殺害状況の説明の反復に読者は早々に呆然とする。終わることのない殺害状況の記述の間に、教会を荒らし大量の放尿をして立ち去る瀆聖者の暗躍、捜査官と精神病院院長との性愛、TVに出演して殺人を糾弾する千里眼の女、刑務所の中での容疑者の虐殺、FBIの専門家の訪問、関連しながらも雑然としたエピソードがいくつも重ねられる。この章を読むと、私たちは1990年代のメキシコの地方都市が置かれた殺伐とした状況をきわめて具体的に理解する。全くの偶然であるが、本書を読んでいる途中、私は『世界』で連載の始まったメキシコの麻薬戦争に関するルポルタージュを目にして驚いた。実はこの小説に描かれている状況はフィクションではなく、現実なのである。「マフィア国家という敵」と題されたルポルタージュにおいてもサンタテレサならざるシウダー・ファレスという街で実際に麻薬にからんだ誘拐、殺人、強姦といった犯罪が日常茶飯事のように発生していたことが報告されている。フィクションと現実の間を往還するこの長い章は97年の末に発見された身元不明の女性の遺体についての記述によって幕を閉じる。
 最後の章が「アルチンボルディの部」と題されていることに読者は驚かないだろう。この章に最初に登場するのは片目の母親と片足の父親の間に生まれたハンス・ライターという少年である。注意深い読者であればこの名前がすでに第一章の中に記されていたことを記憶しているだろうし、ライターが成長するにつれて巨人のような背丈となったという記述からライターとは何者か、想像することはさほど難しくない。早回りをして種を明かせば、この章はライター/アルチンボルディの伝記であり、一種のビルドゥングスロマンと読めないこともない。ライター少年は長じて兵士となって第二次大戦に従軍し、ルーマニアあるいはソビエトにおける奇怪な体験が記される。ベルリンでは後年彼のパートナーとなるインゲボルクという少女と出会う。戦闘で負傷したライターは療養中に滞在していた丸太小屋でボリス・アブラモヴィッチ・アンスキーという男の書いた手記を発見し、アンスキーの手記は小説内小説として物語に奇妙な彩りを添える。さらに捕虜となり収容所で知り合ったツェラーという男の告白もまた小説の中に組み込まれたテクストだ。ある事件を介して自分の名を捨てる必要に迫られたライターは敗戦後のケルンで小説家アルチンボルディとして再生する。インゲボルクと再会し、小説の執筆を始めたアルチンボルディは次第に作家としての地歩を固めていく。その過程で第一部において「批評家たち」が訪ねた関係者が次々に登場する。
 大部の小説であるから、単純な要約を許すものではないが、ひとまず本書の粗筋を記した。この小説が分裂的な内容でありながら全体として一種の円環を閉じる独特の構造を有していることは理解いただけるだろう。最初に述べた通り、私にとってボラーニョの小説を読むのはこれが初めてであるから、ほかの小説と比較はできないが、それにしてもなんとも奇妙な小説だ。まず私が感じたのは、本書がこれまで耽読してきたラテンアメリカ文学とは全く異質であることだ。確かにメキシコという中米が舞台であり、作家自身メキシコに長く滞在している。しかしここにはラテンアメリカの小説にしばしば認められるエキゾティシズムや土俗性、神話性は存在しない。この小説に一番近いテイストを帯びた作家はボルヘスであろう。なるほど陰惨な殺人事件の状況の描写が小説の半分を占めているにもかかわらず、全体に抽象的、図式的な印象が強い。生々しい死体の描写も数限りなく繰り返されることによって相対化され、希薄化される。確かに第四章をこれほど書き込む必要があったかという点には疑問が残る。実際、以前このブログで触れた「ラテンアメリカ文学入門」において寺尾隆吉は「これほど頁を費やす必要があるとは思われない」と切り捨てている。作者がこの作品をさらにブラッシュアップする猶予があれば、あるいは優秀な編集者が助言を与えていたらこの章が短縮された可能性はおおいにあると私も感じる。さらに本書からボルヘスを連想した大きな理由はこの小説が小説や作家を主題とした一種のメタフィクションである点だ。第一章においては批評家たちが架空の作家、架空の小説について議論を続ける。アマルフィターノの章において象徴的に扱われるデュシャンのオブジェは何よりも書物を素材にしていることによって導入されたのではないだろうか。あるいは小説家の誕生を主題とした第五章においても小説の中の小説というよく知られた手法を用いて別の物語が入れ子状に組み込まれている。かかる自己参照性はポスト・モダニズムとの関係で論じられることが多い。ヨーロッパ、スペインに滞在したことがあるとはいえ、コスモポリタニズムからは程遠いチリという土地で、かかる意識がいかにして作家に芽生えたかという点に私は興味がある。
 このような抽象性の一方で、この小説はきわめて具体的な手触りも与える。サンタテレサ(先に触れたシウダー・ファレスをモデルにしていると解説にある)でなぜかくも多くの女性が殺されるのか。メキシコ北西部、アメリカと国境を接するという地理条件が大きく関わっている。この街に多くの若い女性が住んでいる理由は小説の中でも説明されている。この街にはマキラドーラと呼ばれるアメリカの下請け工場が無数に存在し、若い女性は安い労働力として搾取されているのだ。実際に小説の中で強姦されたうえで殺害される無数の女性はほとんどがマキラドーラの工員だ。低賃金ではあるが若い女性が簡単に仕事に就くことができる無数の工場が林立する工業都市としてのサンタテレサの光と闇については登場人物の口をとおして語られている。街の中に点在するスラム、度重なる不法投棄によって郊外に際限なく広がるごみ処理場、警察や刑務所の中にはびこる汚職と腐敗。この街の殺伐とした情景は何度も描写される。昨日、「アメリカ大統領」に就任した社会病質者ドナルド・トランプが口汚くののしるとおり、安い労働力を提供する国境の街とはグローバリズムの負の部分であり、したがってこの小説はグローバリズムの表象あるいはそれへの批判といえるもしれない。先にこの小説がいわゆるラテンアメリカ文学と異質であると述べたが、本書においてはボルヘスを連想させる抽象性、自己言及性とパルプノワールを思わせるグロテスクな身体性、具体性が合体し、いくつもの時代といくつもの場所を束ねながら一つの壮大な物語が浮かび上がる。
 それにしてもなぜドイツ人作家が主人公として選ばれたのであろうか。作家の略歴を参照するならば、ボラーニョは世界各地を転々としており、ヨーロッパでもフランス、スペインに滞在した経験はあるとのことだが、ドイツとの深いつながりは認められない。第五部で描かれる第二次大戦中から戦後にかけてのエピソード、ユダヤ人の虐殺や敗走するドイツ兵たちをめぐる奇譚の数々から、私はギュンター・グラスの一連の小説、とりわけ「ブリキの太鼓」と「犬の年」を連想した。グラスの名はカフカやデーブリンとともに作中で言及があるし、ボラーニョには「第三帝国」「アメリカ大陸のナチ文学」といった作品も発表しており、ドイツあるいはナチズムに対する思い入れがあるのかもしれない。しかしながらこれらの小説の紹介記事を読む限り、ここでも私の期待はみごとにはぐらかされることになりそうだ。さいわいにもこの何ともとらえどころのない小説家の作品については近年、多くが日本語に翻訳されている。ラテンアメリカの作家を読む楽しみがまた一つ増えたと感じるのは私だけでなかろう。
 最後に一点、タイトルの「2666」について。解説によればこれは2666年を示し、「小説の異なる部がそれぞれあるべき場所に収まるための消失点」であり、この年号についてはほかの小説でも言及があるとのことだ。しかし少なくとも本書を通読する範囲についてはこの謎めいた年号についての情報は一切与えられることがない。

by gravity97 | 2017-01-21 19:58 | 海外文学 | Comments(0)

寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』

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 ラテンアメリカ文学についてはこのブログでも何度もレヴューした。とりわけ今年は邦訳の刊行を鶴首して待っていたカルロス・フェンテスの大作「テラ・ノストラ」がついに訳出され、大きな興奮を味わったばかりだ。思うに日本におけるラテンアメリカ文学の紹介はこれまで三つほどのピークがあった。最初はピークというほどでもないが、「百年の孤独」に始まる名作群が新潮社の「新潮・現代世界の文学」シリーズと集英社の文学全集「世界の文学」をとおして堅調に翻訳された1970年代後半から80年前後の時期だ。早川良雄による前者の装丁と深緑色の後者の造本は強く印象に残り、実際にそれらは今も私の書斎の一角を占めている。何度も記すとおり、私が初めてラテンアメリカ文学に出会い、強い衝撃を受けたのは1980年、大学一年の夏にガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ体験であった。それからまもなく日本にもラテンアメリカ文学のブームが到来する。1980年代中盤から90年代初めにかけてラテンアメリカ文学に関する二つの叢書、集英社版の「ラテンアメリカの文学」全18巻と現代企画室の「ラテンアメリカ文学選集」全15巻の刊行はまさに日本におけるラテンアメリカ文学受容の一つのピークをかたちづくるものであった。そしてこの数年、私はラテンアメリカ文学をめぐる三回目の関心の高まりが到来しているように感じる。具体的には水声社の「フィクションのエル・ドラード」、現代企画室の「ロス・クラシコス」といった個性的な叢書を介してスペイン語圏におけるこれまで比較的知られることのなかった作品、翻訳が待たれていた作品が次々に翻訳されている。先日も私は書店でかつて集英社版の「世界の文学」に収録されていたフリオ・コルタサルの「石蹴り遊び」が水声社から復刊されたことを知ったばかりだ。「ロス・クラシコス」の劈頭を飾るホセ・ドノソの傑作「別荘」については既にこのブログでも論じた。本書の著者である寺尾隆吉は「別荘」の翻訳者であり、そのほかにも多くのラテンアメリカ文学の翻訳を精力的に進めている。かつてラテンアメリカの文学といえば、鼓直、木村榮一といった翻訳者で知られていたが、翻訳者も世代が変わったということであろうか。
 日本でもラテンアメリカ文学に一定の受容があったとはいえ、これまでその全体を俯瞰する概説書はほとんど存在しない。唯一の類書は木村榮一の「ラテンアメリカ十大小説」(岩波新書)であろうが、タイトルが示す通り、それぞれの小説についての解説が中心となり、概観というには個別的であり、選ばれている作品のラインナップも今日ではやや古い。マルケスに関しては全集が刊行されているし、バルガス=リョサやルイス・ボルヘス、カルロス・フェンテスといった比較的紹介が進んでいる作家については作品の解説をとおして断片的ながらかなり多くの知識を得ることができるとはいえ、ラテンアメリカ文学を総体として理解するうえで、本書の刊行は画期的といえよう。私も多くの刺激的な知見を得ることができた。本書の意義をひとまず三つの点から論じておこう。
 まず一つはラテンアメリカ文学に歴史的な見取り図が与えられたことだ。本書ではラテンアメリカ文学の前史とも呼ぶべき20世紀以前のラテンアメリカの文学状況から説き起こし、いわゆるラテンアメリカ文学のブームの到来と消長を論じたうえで、未来を展望する時間軸が設定されている。私たちはこれらの小説を刊行された時系列とは無関係に、邦訳された順に読んできたが、本書によって初めてそれらがどのような時間的布置をかたちづくってきたかを知った。私はカルロス・フェンテスが1960年前後にラテンアメリカ文学そのものを牽引する重要な役割を果たしたこと、このブログでも取り上げ、寺尾がどちらかといえば批判的に論及するイザベル・アジェンデの「精霊たちの家」が「百年の孤独」のはるか後、1980年代に入って発表されたことにあらためて思い至った。寺尾に倣ってラテンアメリカ文学の通史を略述するならば、50年代から60年代にかけてアルゼンチンとメキシコの作家たちによって準備されたラテンアメリカ文学のブームは67年の「百年の孤独」の出版を一つの契機として一挙に爆発する。70年代にいたるやフェンテス、バルガス=リョサ、マルケス、コルタサルそしてドノソという五人組は次々に傑作を上梓して黄金時代を迎える。しかし70年代後半よりブームにも陰りがみえ、寺尾が「ベストセラー時代」と呼ぶブームの陰で一種の退廃と衰退が進行する。そして今世紀に入って新しい作家を得てラテンアメリカ文学は新たな展開の途につきつつある。このようなパースペクティヴが与えられるだけでも個々の作家たちについての認識はずいぶん深まる。
 同様の見取り図は空間に対しても与えられるだろう。後でも論じるとおり、ラテンアメリカ文学とは主にスペイン語によって執筆された多国籍文学であり、私たちは作家について確認することはあっても、国籍の違いをさほど気にしない。しかし本書によれば少なくとも初期においてラテンアメリカ文学の成熟を準備した土地はマルケスのコロンビアでも、バルガス=リョサのペルーでもなく、アルゼンチンとメキシコであったという。19世紀後半以降、アルゼンチンがとりわけエリート層の知的教養において世界屈指の国であったという指摘は興味深い。私たちは何の根拠もなく日本が文化や教育の分野でも先進国であると思いこんでいるが、以前より私は海外に行くたびに、少なくとも出版の分野で日本は相当な後進国であるという思いを強くしていた。本書の中に1958年にマドリードを訪れたバルガス=リョサがリマよりはるかに劣る文化的後進性に驚いたという記述がある。フランコ独裁下のマドリードはともかく、今日、日本が文化的なアドヴァンテイジを有していると考えることはナンセンスだ。書店の店頭に積まれたごみのような嫌韓本を見るだけでこの国の文化的劣等性は誰の目にも明らかではないか。アルゼンチンを代表する作家としてはまずボルヘスが挙げられよう。いわゆるラテンアメリカ文学のテイストとは異なる抽象的な小説で知られるモダニズムの極北のような作家が「第三世界」に出現したことは意外に感じられるが、この国の文化的風土の成熟を前提とするならば、何の不思議もない。ボルヘスがアルゼンチン幻想文学の系譜に連なるという指摘は示唆的である。モダニズムと幻想文学、通常であれば一致することがない系譜がボルヘスにおいては確かに結合しており、かかる伝統は(私は未読であるが)ビオイ・カサーレス、そしてコルタサルへとつながるという。それにしてもラテンアメリカ文学とは奇妙な呼称である。「国民文学」という概念が成立するかという問題はひとまず措くにせよ、ヨーロッパであればフランス文学やイギリス文学といった区別は存在するだろう。これに対して、彼の地では主にスペイン語が使用されているという理由によって、国を超えた壮大な広がりに対してラテンアメリカ文学という総称が与えられているのだ。本書を読むとこの理由もいくぶんかは推察することができる。つまり作家たちはそれぞれが属する国を超えた「ラテンアメリカ文学」というブランドを立ち上げることによって自らの小説に付加価値を与えようとした形跡がある。しかしひるがえって何がラテンアメリカ的であるのか。この問いに答えることは難しい。もちろん多くの者にとってそれは「百年の孤独」や「精霊たちの家」にみられる魔術的レアリズムであろうが、この一方でそこには「石蹴り遊び」の実験性や「遠い家族」にみられるゴシック・ロマンも共存している。果たしてそれをひとくくりにすることは可能なのか。後で触れるとおり、ラテンアメリカ文学はヨーロッパを鏡とすることなくしてはありえなかった。(この主題を小説として実現した作品が「テラ・ノストラ」である)アングロアメリカではなく、ヨーロッパとの強い紐帯は作家の多くがヨーロッパに長期滞在した経験をもち、それどころかラテンアメリカで小説家となるうえでは外交官となって時間的な余裕、あるいは身分的な保証を得ることが必要であったという現実も関わっているだろう。この結果、彼らは自分たちの他者性こそを自らの小説の主題とした。西欧に対する他者性という発想から浮かび上がるのはオリエンタリズムの問題であるが、私の考えではラテンアメリカ文学の豊饒さはオリエンタリズムの圏域をはるかに超えている。本書では十分に論じられていないし、新書の紙幅で扱うには大きすぎる問題であるが、ここで暗示されるモダニズム文学とラテンアメリカ文学の関係は今後も様々な角度から検証されるべきであろう。
 以上の問題とも関わっているが、本書を読んであらためて認識された三番目の問題は出版社やエージェントとの関わりである。今日でこそ、作家と出版社、エージェントの関係がしばしば話題となるが、本書で縷述されるとおり、ラテンアメリカ文学のブームは辣腕の出版関係者、エージェントの手によるところが大きい。文学賞や宣伝戦略といった作品の本質とはあまり関係をもたないとみなされている制度や手法をめぐって、きわめて巧妙な戦略がめぐらされ、本国ではなく旧大陸のスペイン、とりわけバルセロナの出版社やエージェントが深く関わっていた点が分析されている。驚くべきことに1970年前後、リョサとマルケス、ドノソは共にバルセロナに移り住んでおり、リョサとマルケスにいたっては1ブロック半の距離に居住して家族ぐるみの交友を続けていたという。1970年にアヴィニョン近郊で開かれたパーティーで今挙げた「ブームの五人組」は顔を揃えた。彼らが全員同じ場に集まったのはこの時だけであるという。かかる蜜月がヨーロッパを舞台としていたことは暗示的だ。腕利きのエージェントの売り込みがあったとはいえ、ラテンアメリカ文学が勃興するうえでは旧大陸の支持、具体的にはヨーロッパにおける出版社との関係が決定的に重要であった訳である。今触れたモダニズム文学との関係でいえば、フランスのヌーヴォーロマンに象徴される現代文学の貧血状態が明らかとなった1960年代にラテンアメリカ文学が注目された地政学的な意味も今後さらに検討されてよかろう。
 ひとまず歴史、空間、制度という面から本書について論じたが、本書はラテンアメリカ文学をめぐるエピソードの集積としても十分に楽しめる。あとがきによれば、本書は著者が大学のサバティカルでマドリードに滞在中、ラテンアメリカ文学のブームの当事者たちと親しく交わる経験をもとに構想されたものであり、確かに当事者でなければ知りえないエピソード、あるいはそれぞれの作家についてのかなり辛辣な月旦が随所に見受けられる。ラテンアメリカの作家たちの関係は常に良好であった訳ではない。ラテンアメリカ特有の軍事政権、独裁政権と作家たちとの関係は微妙な影をそれぞれの作家たちに落としている。ラテンアメリカでは多くの革命と反革命が発生した。チリの9・11、ピノチェットの軍事クーデターがドノソに、あるいはイザベル・アジェンデに与えた影響についてはそれぞれこのブログで論じた。CIAに後押しされたピノチェットの反革命に対しては等しく批判を加えた作家たちも、キューバにおけるカストロの革命の評価においては態度を違える。キューバ革命政府による詩人エベルト・パディージャの逮捕と弾圧に対して正面から批判を加えるバルガス=リョサ、なおも革命へのシンパシーを隠さぬマルケスの間には断絶が生じた。以前、やはり寺尾が翻訳し、このブログでも論じた「疎外と叛逆」の中でも触れられていたが、1976年にメキシコシティで開かれた映画の試写会の場において、リョサは笑顔で駆け寄ってきたマルケスを殴り倒す。ブームの終焉を画する事件であり、現在にいたるまでその原因は明らかにされていないが、キューバ革命についての評価が一因であることは間違いない。それにしても中上健次ならばともかく、ノーベル賞作家同士が殴り合うというマッチョな風景はラテンアメリカ文学ならではといえよう。
 この事件を境としてラテンアメリカ文学は次第に退潮する。マルケスをはじめ何人かの作家たちは政治化して、文学から離れてジャーナリズムや政治的発言へと接近し、多くの作家がこれ以後、回想録を執筆したこともかかる衰微の兆候と寺尾はみなしている。80年代以降も旺盛な執筆力を示すバルガス=リョサとフェンテスを除いて、ブームをかたちづくった作家にかつての勢いはない。そして21世紀に入ってラテンアメリカ文学を象徴する二人の巨人、マルケスとフェンテスが鬼籍に入ったことは知られているとおりだ。結果的に本書はラテンアメリカ文学をめぐる一種の盛衰史として読めなくもない。果たしてラテンアメリカ文学は20世紀文学の特異なエピソードして終わるのであろうか。「新世紀のラテンアメリカ小説」と題された最後の章で、寺尾は新しい才能としてチリのロベルト・ボラーニョについて論じる。2003年に50歳で早世したボラーニョについて寺尾はやや厳しい評価を下しており、まだポラーニョを読んだことのない私はこの判断の当否について論じる立場にない。ボラーニョを含めてこの章で論じられた作家について、私は近いうちに読んでみるつもりであるが、本書ではこのほかにも実に多くの作家、魅力的な作品についての言及がなされている。嬉しいことにはその多くは未訳である。ラテンアメリカ文学の豊かな鉱脈はまだしばらく尽きることはないことを確信しつつ本書を読み終えた。

by gravity97 | 2016-11-01 21:04 | 海外文学 | Comments(0)

カルロス・フェンテス『テラ・ノストラ』

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 ブログの更新がこれほど滞ったのはこのブログを始めて以来ではないだろうか。もちろん本務に関連してかなりの量の原稿を執筆していたことも理由の一つであるが、まずは上の書影を見ていただきたい。ついに刊行されたカルロス・フェンテス『テラ・ノストラ』、1000頁を超える超大作の威容である。この小説については既に36年前に存在を知っていた。大学に入学直後、友人から勧められてガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ際の衝撃についてはこのブログにも何度か記したが、当時のラテンアメリカ文学のブームの渦中、篠田一士がおそらく朝日新聞に書いた記事の黄ばんだ切り抜きを私は未だに所持している。「フェンテスのような作家が、どうしていままで大きく紹介されなかったのか不思議でならない。まあ、いくつかの偶然が重なった結果だろうが、ラテンアメリカ独自の想像力のありかたを、このメキシコ作家ほど根源的につきつめたひとはいない。数年前に発表された『ワレラノ大地』は長大さもさることながら、歴史小説とSFを同時進行させた、その奇想天外の構想にはおどろくばかりである」それ以来、私はこの小説が訳出されることを心待ちにしていた。実際にフェンテスの小説は順調に翻訳されてきた。長編に限っても既に私は「脱皮」「アルテミオ・クルスの死」そして「遠い家族」という三つの小説を読んでいるし、いずれの作品も傑作と呼ぶことを私は躊躇しない。機会があればレヴューしたい名作揃いである。「テラ・ノストラ」の翻訳も進行中との話は仄聞していたから、店頭で本書を見た時は驚きこそなかったが、これほどの分量とは思わなかった。そして翻訳にとりかかってから10年の年月を閲したという訳者のあとがきも十分に理解できる濃密な内容だ。生きているうちにこの作品を日本語で読むことができたことをまずは感謝しなくてはならない。しかしながらこの小説は決して一筋縄ではいかない。このブログの読者であればおわかりのとおり、私は長編を好むし、小説を読むスピードは相当に速いと自負しているが、その私ですらほぼ二月の間、この小説と格闘した。おそらく本書は今年の読書体験の絶頂であり、私としてもこれほど読むことに膂力の必要な小説はプルースト以来だ。
 前置きが長くなった。テラ・ノストラ、我らの大地という小説は「旧世界」「新世界」「別世界」という三部から成り立つ。後述するとおり三部という構成にも重要な意味がある。旧世界とはいうまでもなくヨーロッパ、ハプスブルグ家に連なるスペイン王家、新世界とはアメリカ大陸、フェンテスの母国であるメキシコを意味し、第三部の別世界において舞台は再びヨーロッパに戻り、ローマ皇帝ティベリウス帝の治世から1999年12月31日という千年紀の終わりまで多様な物語が次々に挿入される。本書で扱われるのは空間としてはヨーロッパとイスパノアメリカ、時間としてはヨーロッパの全歴史という途方もない時空であり、ラテンアメリカ文学を代表する作家フェンテス畢生の大作と呼ぶゆえんである。
 この長大な小説の内容を要約することは意味がない。単純な要約を許さない反復と変奏が延々と繰り返されるからである。抽象的な比喩となるが、本書の読後感は文中で言及される鏡で出来た牢獄をめぐる体験に近い。いくつものストーリーが相互に乱反射するかのように少しずつ角度を変えて反復される。鏡の迷宮の中を歩むように次々に姿を変えて反復される物語の流れに身を任せることが本書の醍醐味である。決して読みやすい小説ではないが、この点を認識して、出来事の意味とか因果関係、あるいはメインストーリーを確定しようという試みを早い段階で放棄してしまえば本書を読む愉しみは格段に増す。しかしながら本書をレヴューする以上、内容について語らない訳にはいかない。本書は無数の断章によって構成されている。ひとまず冒頭の「肉、天球、セーヌのほとりの灰色の目」と題された断章で何が語られたかを確認しよう。場所はパリ、時代は特定されていないがおそらくは現代、世紀末的な情景の中で33日と半日前にセーヌ川の水が沸き立つという奇怪な現象が発生する。実はこの小説は円環構造をとっており、最後の章まで読み進むと、冒頭の章は1999年12月というまさに千年紀の終わりを舞台としていることが了解される。隻腕のサンドイッチマン、ポーロ・フェーボは真冬のパリを彷徨し、マダム・ザハリアという門番の老婆が出産する場面に立ち会い、赤ん坊を取り上げる。ポーロのもとには生まれた子にヨハンネス・アグリッパなる洗礼名を与えよという手紙がルドビーコという署名付きで届けられる。生まれた嬰児には背中に赤い十字の印があり、足にはいずれも六本の指があった。なんとも奇怪な冒頭である。しかし例えば33日と半日という単位、隻腕、六本の足指といった身体の特徴、アグリッパあるいはルドビーコといった固有名詞には全て意味があり、この長大な小説の中で幾度となく反復されたことが読み終えた今ならばわかる。冒頭の章と「最後の都市」と題された最後の章のみが1999年のパリを舞台としており、そのほかの章は16世紀のスペインとメキシコを主たる舞台としている。「セニョールの足元」と題された二番目の章以下で本書の中心的な登場人物が明らかとなる。セニョールと呼ばれるのはスペイン国王フィリペ二世、フィリペ二世は実在の人物でスペイン帝国の最盛期にヨーロッパに君臨した偉大な王である。セニョールの父はフランドル出身でハプスブルグ家の血統を引くフィリペ美王、母は狂女王フアナ、さらにセニョーラと呼ばれるイサベルはフィリペ二世の王妃であり、イギリス出身のイサベルはセニョールの従妹にあたる。ここにはハプスブルグ家における近親婚の歴史が暗示されている。宮廷でセニョールに傅く何人かの人物として、セニョールを補佐し、その命を実行する残忍な勢子頭グスマン、宮廷画家のフリアン修道士、占星術師のトリビオ修道士、さらに名前をもたない宮廷付の年代記作家。加えてドン・ファンやセレスティーナといったスペイン文学中で名高い人物。この小説には実在の人物と文学史上の人物、架空の人物が時に姿や名前を変えながら、入り乱れて登場する。
 どのような物語が語られるか。多くがグロテスクで暴力的、残酷で不気味な物語である。領主たるフィリペ美王は領主権(初夜権のことだ)を行使して、鍛冶職人の婚礼に乱入し、花嫁を犯すように息子のフィリペ二世に命ずる。息子に拒絶されるや、フィリペは自ら花嫁の処女を奪う。セレスティーナという花嫁は自分が悪魔と交わったと感じて自傷行為に及ぶ。王妃フアナはフィリペの死体に防腐措置を施して霊柩車に乗せ、領地をめぐる。男色の罪で若者が生きたまま火あぶりに処される。グスマンが操る猛犬に襲われた狂女王は四肢を切断され、首と胴体だけの姿になって壁龕に身を置く。セニョールはグスマンに対してキリストの正統性に関する異端的な思想を語り、難破した船から現れた美しい若者がセニョーラと交わる。セニョーラは黒魔術を用いて先王たちの死体から人造人間を作り出そうとする。今任意に羅列したエピソードから理解されるとおり、なんとも不吉な物語が相互に折り重なる。時間の継起や因果律を無視して語られるそれらの物語に私たちは幻惑される。まさに無数の鏡によって乱反射する迷宮の中に迷い込んだ思いだ。さらに私たちを困惑させるのは語り手である。多くの物語は語り手が判然とせず、しばしば「そなた」という二人称が用いられることによって誰に向かって語られるかも定かではない。脈絡ないまま繰り返される物語の果て、第一部の末尾でセニョールの寝室に招き入れられた青年が新大陸における自らの体験を語る。彼が語る奇譚こそ第二部「新世界」であり、この部分は一人の話者による直線的な語りであるため、比較的読みやすい。青年はコロンブスを連想させるペドロという老人とともに大西洋を西に向かい、多くの苦難の後、新大陸へと漂着する。彼がメキシコに漂着したことは、現地におけるピラミッドと生贄をめぐるエピソードが暗示している。新世界はキリスト教と文明とは無縁であるが、黄金と財宝に恵まれた土地である。新大陸における青年の謎めいた体験の数々が第二部を構成する。奇怪な幻視に彩られた青年の語りは、彼が流れ着いた16世紀のメキシコと古代メキシコの記憶を往還する。ここでも通常の物語を律する時間性は棄絶されている。本書においては無数の物語が反復されることによって、直線的なクロノスの時間に代わる円環と反復の時間、カイロスの時間が導入される。つまり時間は一方向に流れるのではなく無限に反復するという発想だ。このような時間観が多くのラテンアメリカの小説にも共通する点は興味深い。「新世界」の物語を経て、第三部「別世界」において私たちは再びフィリペ二世の宮廷へと帰還する。新世界をめぐる青年の報告は公にされることなく、青年は国王が建設を進める大宮殿の地下牢に幽閉される。宮廷に集う者たち、「夢想家」たち、そしてドン・キホーテやポンティス・ピラト(キリストが磔刑に処された際の行政長官)といった文学上、歴史上の人物が次々に物語に召喚される。とりわけ秘書であるデオドールスを介して語られる第二代ローマ皇帝ティベリウス帝の性的放縦をめぐる描写は圧巻である。国連職員たちのドライブの悲劇的な結末を描いた『脱皮』にせよ、完璧なゴシック・ロマン『遠い家族』にせよ、これまで私はフェンテスの小説からどちらかといえば抽象的で知的な印象を受けてきた。これに対して本書ではグロテスクな性愛のイメージが横溢するエピソードに圧倒される。同様のグロテスク・リアリズムは本書の最後で全身に膿瘍を患い、文字通り血と膿の塊と化し、糞便と汗にまみれて絶命する主人公セニョールの描写に明らかだ。第三部においても時間に信を置くことはできない。ローマ皇帝に関する語りに続いて、現代のベトナム戦争を連想させる記述が続く。読者は自分たちが見知った時間とは全く異なった時間が作品を統べていることを知る。巻末にいたっては、マルケスやコルタサル、ドノソら同時代のラテンアメリカ作家が創造した人物たちも物語に参入し、メタフィクションとして本書の位置を画定する。世界は一度きりではない。世界は何度も反復される。明らかにこれが本書の一つのモティーフだ。唇にタトゥーを入れた小姓、聖痕をもつ青年、三十段の階段、手紙が封入されたボトル、物語の中でいくつもの同一モティーフが繰り返されることはかかる原理と関わっている。
 ほかにもいくつかのテーマが本書を通底している。例えば数秘学的な発想だ。この小説では至る所で三という数が繰り返される。海から救い出された三人の若者、フィリペ美王の三人の非嫡出子、作品が三部構成として実現されていることもこれと関わる。実際に「数字の三」と題された断章においては、宇宙が三という単位によって構成されていることが語られ、完全数としての三が主張される。一方で本書には随所に対立し対比される二というモティーフも認められる。例えばオシリスとイシス、カインとアベル、煙る鏡と羽毛の蛇、ロムルスとレムス、これらの二者においてはしばしば一方が一方を滅ぼす点にも留意されたい。私はこの小説は二性と三性の相剋としてとらえることができるように感じる。後で論じる通り、地理的には二元対立である「旧世界」と「新世界」に対して、あえて「別世界」というセクションが置かれたことはこの問題と関わっている。
 絵画において三という単位を取り込むのはトリプティク(三連画)である。上に掲げた通り、本書の装丁にはプラド美術館所蔵のヒエロムス・ボッシュのトリプティク《悦楽の園》が用いられている。フランドル出身のフィリペ美王と関わる物語の装丁とはまことにふさわしい。本書の中にはセニョールがこのトリプティクを仔細に見る場面が詳細に描かれ、ボッシュの署名さえ書き込まれている。今、確認したところこの作品はフィリペ二世が建造したエル・エスコリアル修道院のタペストリーのモデルに選ばれているから、現実の歴史においてもセニョールが目にした可能性は高い。祭壇画でありながらなんと奇怪なイメージか。ここに描き分けられた三つの情景、地上の楽園と悦楽の園、そして地獄はこの小説の主題とみごとに対応している。例えばここに描かれた性的な逸脱の情景はフィリペの宮廷やティベリウス帝の宮殿における乱倫の図解のようではないか。余談となるが、同じフランドルの画家たちは日本の小説家にも多くのインスピレーションを与えている。野間宏には冒頭でブリューゲルの絵画の不気味な情景が延々と描写される「暗い絵」があり、井上光晴もボッシュの「乾草の車」をタイトルに冠した中編を残している。小説の中ではボッシュの三連画とともにイタリアのオルヴィエート大聖堂からもたらされたフレスコ画について何度も言及される。あとがきによればこのフレスコ画とはルカ・シニョレッリによる一連の作品であるらしい。フランドルとイタリア、フェンテスはこの小説の中に旧世界、ヨーロッパの美術の絶頂を持ち込む。今、絵画の例を挙げたが、小説の中では唐突にカフカの「変身」の冒頭を反映した記述があるかと思えば、次の記述はどうだ。「セニョーラ、もし貴女が盲人の目が見えるようにと願うなら、雲が満月の縁にかかるその瞬間に、剃刀でもって連中の目を切り裂いてごらんなさい」この描写からルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」を連想しないでいることは難しい。フェンテスは自らの博識を傾注して、美術、文学から映画にいたるヨーロッパ文化の精華を小説に投入する。いや文化のみならず、本書は哲学や宗教、本書はまず旧世界の価値観の百科全書、そしてそれへの批判として成立している。それでは旧世界の価値観が新世界に移入された時、いかなる事態が発生したか。私の考えではかかる問いこそがこの長大な小説の主題である。
 このような意識はメキシコ人として生を受けながら、外交官として父の仕事の関係でブラジル、アルゼンチン、アメリカを転々とし、ヨーロッパでも生活したコスモポリタンたる作家の、母国を外から見る姿勢と深く関わっている。ラテンアメリカの、メキシコの「歴史」はいつ成立したか。それは旧世界によって征服されることによってではなかったか。鏡の比喩はここでも有効だ。ラテンアメリカはヨーロッパという鏡をとおして初めて自分たちのアイデンティティーを確認した。しかしヨーロッパという鏡は実は血に塗れていたのではないか。「旧世界」におけるハプスブルグ家、ヨーロッパの王家の頂点を占めるスペイン王をめぐる無数の物語はいずれも一種、阿鼻叫喚とも呼ぶべき凄惨さを秘めていた。彼らが「新世界」に到達したとしても、そこに「別世界」は成立しただろうか。いや、そこではただ「旧世界」が反復されるのみであり、グロテスクで暴力的、残酷で不気味な物語が繰り返されたのではないか。新世界、旧世界、別世界の三者は成立せず、三者性は二者性に屈従する。グスマン、セニョールの残忍な勢子頭は功績を認められ、ヨーロッパで食いはぐれた無頼の徒たちを連れて新世界へ派遣される。グスマンがピサロやコルテスといった多くのコンキスタドールを象徴していることはいうまでもない。彼らが新世界で犯した残酷な所業はセニョールへの報告として間接的に語られる。先住民族への暴虐を主題とした小説としてはコーマック・マッカーシーの傑作「ブラッド・メリディアン」についてこのブログでも論じた。同じ主題を扱いながらも「テラ・ノストラ」の新大陸が異なるのは、新大陸メキシコにおいてもインディオたちによって残酷な生贄供儀が繰り返されていた点だ。古代と現代が混交する(篠田であればSF的と呼ぶであろう)幻想的な筆致の中に再び反復というモティーフが立ち現れる。かくしてこの長大にして驚異的な小説は、進歩や啓蒙、教化や脱魔術といった旧大陸に由来する人間性への信頼を一挙に相対化する。それはメキシコという国家、メキシコ人という自分の出自への問いでもある。フェンテスには登場人物が自らのアイデンティティーを問う作品が多い。「脱皮」と「遠い家族」もまさにそのような小説であったが、本書は個別的な登場人物どころか、「新世界」たるラテンアメリカが自らのアイデンティティーを「旧世界」という血塗れの鏡に映し出す物語とはいえないだろうか。アイデンティティーの探求という主題はラテンアメリカ文学においても比較的異質であるように感じられる。その理由はフェンテスの個人的な資質、メキシコという場のいずれに求められるだろうか。この問題をさらに深めるために最後に一言付け加えておこう。大江健三郎、河原温、そしてルイス・ブニュエル、全く共通点をもたないこの三人の芸術家がメキシコ滞在を契機として一種のアイデンティティー・クライシスを主題にした代表作とも呼ぶべき作品を発表したことにはいかなる必然性があるのだろうか。
 暑い夏にふさわしいまことに過剰で濃密な読書体験であった。本書は上下二段組みで1000頁を超え、6000円という価格にもかかわらず、聞くところによれば、最近再版が決まったという。志のある出版社に志のある読者が応えたということであろうか。

by gravity97 | 2016-08-31 21:39 | 海外文学 | Comments(0)

スティーヴ・エリクソン『きみを夢見て』

b0138838_2153571.jpg 半年ほど前に翻訳が刊行された際に買い求めたものの、しばらく書棚に積んだままであったスティーヴ・エリクソンの2012年の作品『きみを夢見て』を通読する。私はエリクソンの小説をほぼ全て読んでいるが、本書は彼の作品の中でも指折りの傑作といってよかろう。物語の内容にも立ち入って論じ、私のレヴューとしては珍しく一種の種明かしさえ行うつもりであるから、白紙の状態で初読の楽しみを味わいたい読者にはこのブログを読む前にまず本書に目を通すことをお勧めする。
 エリクソンの小説において物語の構造は常に錯綜する。しかし本書は例えば以前このブログで扱った『エクスタシーの湖』ほど難解ではなく、メインとなるストーリーを見定めることは比較的容易だ。主人公はロスアンジェルスに住む作家のアレクザンダー・ノルドック(ザン)。ザンにはヴィヴという妻とパーカーという12歳の息子、そしてエチオピアの孤児院から養子として迎えたシバという4歳の娘がいる。解説によればロスアンジェルスに住んでいる作家という設定のみならず、アフリカから養子をもらい受けた点でもザンはエリクソン自身の投影であるという。単純化するならばこの小説はザン一家が味わう試練とその克服の物語であるが、例によって物語は多重化され、現実と虚構の境目はあいまいだ。例えば最初に出会う次のテクスト。「この男が当選したというニュースが流れると、リビングルームは大騒ぎになる。『勝ったよ!』とパーカーがソファから、白い合成樹脂塗装を施した、雲の形の低いテーブルを飛び越えて、喜びを爆発させる。『勝った!勝った!勝った!』と、叫び続ける。ヴィヴも拍手をしている。『ザン』と、パーカーは茫然としている父親の姿に戸惑い、呼びかける。『勝ったんだよ』と、息子。『うれしくないの?』」本書が出版された時期を思い起こすまでもない。名指しこそされないものの「この男」とはバラク・オバマのことであり、本書はオバマ大統領の登場を寿ぐきわめて具体的なエピソードから始まる。後で述べるとおり、この挿話は本書の主題と深く関わり、本書の結末と呼応している。読み進めるうちに絡み合ういくつもの主題系列が明らかとなる。例えば音楽だ。本書のタイトル「きみを夢見て」、These Dreams of You とはロック歌手ヴァン・モリスンの曲名からの借用であるらしい。主人公ザンは地元のラジオ局でディスクジョッキーを務め、シバは内部から異国の音楽を響かせる。プレスリー、ビートルズあるいはレイ・チャールズ、本書には多くのミュージシャンへの言及がある。あるいはザンがロンドンの大学で講じる一連の講義には「衰退に直面する文学形式としての小説」というタイトルが付されている。小説という形式にきわめて自覚的なエリクソンにとってこのタイトルが一種の自己言及性を秘めていることは明らかであり、本書は衰退する形式としての小説を蘇生する試みととらえることもできるだろう。
 もう少し詳しく内容をたどろう。オバマの挿話から明らかなとおり、物語の背景とされる時代は特定されている。かつては作品を発表したが今は定職をもたない小説家のザン、写真家として将来を嘱望されながら有名な作家に作品を剽窃されて以来、(作品についての記述から判断するに有名な作家とはデミアン・ハーストである)作品によって収入を得る道を断たれたヴィヴの夫婦は深刻な経済的問題を抱えている。クレジットカードはいつ失効するかもわからず、彼らが暮らす家も銀行の抵当として遠からず差し押さえられる運命にある。八方ふさがりの状況の中で、ザンの知り合いでヴィヴのかつての恋人からザンに対して、ロンドンでの短い教授職が提案され、家族はロンドンへの短期逗留を決める。かねてより養女たるシバの血統についての調査を続けていたヴィヴはそのために雇ったジャーナリストから調査の継続が困難であることを告げられ、この機会に自ら調査のためロンドンを経由してエチオピアに向かうことを決意する。物語は最初これら四人の家族をめぐる比較的オーソドックスな語りによって幕を開ける。ヴィヴと別れたザンはパーカーとシバという肌の色の違う二人の子供とともにロンドンで生活を始め、いくつもの奇妙な体験を重ねる。ヴィヴからの連絡は次第に途絶え、講義のためにベビーシッターを探していたザンのもとにはまるで待ち構えていたかのようにモリーなる若い黒人女性が現れる。ヴィヴの消息を求めてロンドンのエチオピア大使館に出かけたザンとパーカーのもとから、今度はモリーとシバが姿を消す。パーカーはPCの掲示板にヴィヴの映像を見出すが、なぜか彼女はエチオピアではなくベルリンにいた。いくつものストーリーが重ね合わされるにつれて、審級の異なった語りが紛れ込む。一つはザンが久しぶりに書き始めた小説だ。その小説とはXという男がスキンヘッドの若者たちに襲われ、半殺しの状態で放置されるという内容だ。倒れているXに黒人の少女が近づき、一冊のぼろぼろのペーパーバックを残して走り去る。そこに残された書物は1919年という時点ではまだ発行されていないにもかかわらず、20世紀文学の未来全体を宿した小説であることが物語の中で暗示される。おそらくそれはジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」であろう。この時、直ちにいくつかの暗合が浮かび上がる。「ユリシーズ」とはブルームという男がダブリンを彷徨する物語であったことを想起するならば、ロンドンをさまようザンとの共通性は明らかだ。そしてブルームの妻の愛称はモリーではなかっただろうか。しかし唐突に挿入されたザンの小説は小説内小説というほどの持続性をもたず、断ち切られたまま、ザン一家をめぐる物語の中に断続的に挿入される。一方、本書のおおよそ半分あたりからやはり唐突に別の物語が始まる。それはレッグとジャスミンというイギリス人カップルの物語であるが、二人はロンドンのパブでアメリカ人の青年と杯を交わす。アメリカ人は名指しされることがないが、前後の状況からおそらくはジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディの若い頃であろうと推測される。ここにおいて本書がオバマの大統領就任のエピソードで始まる理由の一端が理解されよう。本書においては一つの家族をめぐるプライヴェイトな物語とアメリカという国家をめぐるそれが捩じり合わされている。ジャスミンはアメリカに渡り、ロバート・ケネディの選挙運動を手伝う。私も本書を読む過程で確認したのだが、ロバート・ケネディも兄と同様に暗殺されている。さらに同じ時代キング牧師も暗殺されたことを想起するならば、ジャスミンの物語はアメリカに暗殺の嵐が吹き荒れた1960年代後半を舞台にしていることが理解されよう。後にジャスミンはレコード会社で働き、多くのミュージシャンへの言及がなされる。ただし私がヴァン・モリスンを含めて言及されるミュージシャンについてあまりよく知らないこともあるかもしれないが、訳者があとがきで記すように本書を60年代から70年代にかけてのポップ・ミュージックへのオマージュとまでみなすのはいささか無理があるのではないか。この程度のポップ・ミュージックへの言及であれば作品の中で村上春樹が常に行っている。さて、ザンの一家とジャスミン、オバマとケネディの時代を隔てる物語は予想されたとおり、かなり屈折したかたちで結びついていく。ジャスミンが黒人女性であるという記述からジャスミンとモリーの関係を予想することはたやすい。ジャスミンとモリーの関係、そして彼女たちを巡る物語が、これまでに本書で語られた物語と時に必然的に、時にアクロバティックに結びついていく過程についてはここではあえて触れない。なぜならかかる照応、時に明示的、時に暗示的なそれを「テクスト的現実」の中に読み取っていくことこそ本書を、そしてエリクソンを読む醍醐味であるからだ。
 エリクソンの小説としては例外的に、本書には作家が得意とする幻視的なヴィジョンが描かれない。もちろんリムジンに向かって何度も衝突を繰り返すタクシー(本書の核となるイメージの一つだ)やアジスアベバの孤児院の風景など印象的な情景は存在するが、水没したロサンジェルス、凍りついたパリといった幻惑的で終末的なイメージは描かれることがない。ザンとパーカーの妻/母、娘/妹を探す旅をめぐる描写は比較的リアルである。しかし、物語のここかしこに挿入される無関係の物語が父と息子の探索のエピソードに一種の緊張を与える。今、探索という言葉を用いたが、本書には探索という主題が幾重にも張りめぐらされている。消え去ったヴィヴ、そしてシバを捜す旅はいうまでもなく、そもそもヴィヴの失踪の原因となったエチオピアへの旅行はシバの母親を探し出す目的で計画された。あるいはジャスミンも自らの父親を捜し、一枚の写真の中にそれを見出す。これらはすべて個人をめぐる探索の物語であるが、私はさらに大きな主題、つまり集合的無意識が自らを探索する物語として本書を読み替えることができないかと考えるのだ。回りくどい言い方はやめておこう。つまり本書は「アメリカ」が自己を探索する物語ではなかろうか。この物語がオバマ当選のエピソードで始められ、オバマへの期待が繰り返し語られる理由はそこにある。思い起こせば、エリクソンはいくつかの小説で大統領や大統領選をテーマとしている。『Xのアーチ』ではトマス・ジェファーソンと黒人女性の関係が描かれ、私は未読であるが『リープ・イヤー』は1996年の大統領選挙を取材して描かれたとのことである。本書においても暗示的な書きぶりでケネディ家の二人の大統領と大統領候補(ともに暗殺される)について執拗に言及される。今、「アメリカ」と記したが、ここで問題とされるのはもちろん国家としてのアメリカではない。言語や民族、人種を超えて形成される幻想の共同体としてのアメリカである。かかる超越的な存在は文学の主題としてまことにふさわしく、私はメルヴィルからエリクソンにいたるかかる系譜を「アメリカ文学」の中にたどってみたいという誘惑に駆られる。私の読みは次のとおりだ。先に無意識という言葉を用いたが、実は本書の語り手は「アメリカ」であり、本書で語られるのは「アメリカ」の無意識ではないか。本書に頻出するモティーフを並べてみよう。移民と暴力、移動と拝金主義、そしてポップ・ミュージック、これらはいずれも「アメリカ」的な主題とはいえないか。これらの主題それぞれを一巻のテーマとした小説のリストを作成することはたやすい。「アメリカ」の無意識としての「きみを夢見て」。それならば物語が錯綜し、頻繁に転換され、時に異なったレヴェルの物語が嵌入することの理由を形式ではなくて、物語の内容として説明することもできよう。そして私の推理は端的に本書の末尾からもたらされている。長くなるが感動的な一節を引用する。

 外から見れば、シバの夢はほんの一瞬にすぎないが、彼女は眠りながら、それが長い旅であることを理解している。船のへさきでバランスをとりながら、遠くからの歌を受信し、彼女を名付ける名前を求めて航海するのだ。その名前は、どこにも属さない人々のためのものであり、かつて人々が自分の所属する場所にちなんでつけていたように、まず自分の所属を探している人々のためのものであり、思い出せないが、忘れることのできない出来事を嘆きつづける悲しみのためのものである。少女と兄と母親と父親が船から岸に降りると、その名前は、楽園でも天国でもなく、ユートピアでも約束の地でもない。むしろ、ダメージを受けた名前である。かつて誰かがそれを最初に口にすると、すべての人を魅了したが、その後、それを汚して、ハイジャックして、搾取して、質を落として、中身のないものにして、その価値を見下しながらもその名前の響きだけを愛でている。とはいえ、その価値は、どうやっても否定できないものなのだ。(中略)いま娘と父親は、それと分からぬまま、その名前によって強く結ばれている。娘はその獰猛な核の中にその名前を宿し、一本指で喉を引き裂く仕草をしながら、その名前を守り抜く。その名前とはアメリカだ。

 ここでは一つの紐帯としてのアメリカが論じられている。国籍も人種も異なるシバを家族の一員として迎え入れることはザンとヴィヴにとって大きな決断であったはずだ。しかし彼らはかかる決断を下し、現実に対峙する。いうまでもなくアメリカもまたほかの民族、ほかの人種、ほかの言語を寛容とともに内部に迎え入れてきたし、オバマの登場はまさにその象徴であったといえよう。先にも述べたとおり、本書においてはザン一家と「アメリカ」が実に独特に照応している。ザンたちはロスアンジェルスに戻り、自宅が競売にかけられることを知る。最後に描かれる場面は自分たちの家から家財道具を運び出す家族たちの姿だ。しかし本書の結末にはエリクソンとしては珍しく希望がある。それは世界中に戦争をまき散らし、強欲なグローバリズムの起源であり、格差社会の極限であるアメリカにさえもなお希望が残されていることを作者が信じるからであり、それは冒頭で言及されるオバマの大統領就任という奇跡によってもたらされた希望であろう。
 オバマ大統領は先日来日し、広島で感動的なスピーチを行った。These Dreams of You のyouをオバマとみなすのはさすがに強引すぎるか。しかし今や、私たちはヒトラー並みの排外主義者がその後を襲う漠然とした危惧の中にいる。オバマが大統領に就任したのは2009年のことであった。それからわずか7年で世界はdream から nightmare に暗転するかもしれない。読了後の感動に一抹の不安が重なった。

09/11/2016追記 この悪夢は本日、現実のものとなった。エリクソンはどのような思いとともに本日の大統領選挙の結果を受け入れたのであろうか。

by gravity97 | 2016-06-04 21:09 | 海外文学 | Comments(0)

マリオ・バルガス=リョサ『つつましい英雄』

b0138838_1655298.jpg お気に入りの作家の新作をレヴューするのは楽しい。日本文学であれば奥泉光と村上春樹、海外文学であればポール・オースターについては既に三冊をレヴューしているが、今回、マリオ・バルガス=リョサをこのリストに加える。本書はノーベル賞受賞後、最初の小説として2013年に発表された。その余裕であろうか、おそらく作家は肩の力を抜いて執筆している。しかし、さすがにバルガス=リョサである。実に面白く、感動的な傑作だ。
 読み始めるや、バルガス=リョサの愛読者であればおなじみの手法と登場人物に出会う。まずこの小説は二つの物語が交互に進行する構成をとる。奇数章と偶数章で別々の物語が語られる手法は「楽園への道」を連想させるし、このブログでレヴューした「チボの狂宴」においても三つの章ごとに異なった視点が循環して物語を深めていった。フォークナーの「野生の棕櫚」あるいは村上春樹の初期の小説においても二つの無関係な物語の同時進行という手法が用いられていたことも想起される。最初に冒頭の二つの章のみ簡単に要約しておこう。第一章はピウラという、バルガス=リョサの読者であればおなじみのペルーの田舎町で運送会社を営むフェリシト・ヤナケがある朝、自宅の玄関扉に貼り付けられた青い封筒を発見する場面から始まる。その中には500ドルを支払わなければヤナケをトラブルに巻き込むという脅迫状が収められていた。ヤナケはこれを無視して脅迫者と対決する決意を固めるが、霊感によって彼にアドバイスを与えてきたムラータ(白人と黒人の混血)の聖像売り、アデライダは脅迫に応じて、強請屋たちに500ドル払うべきであると助言する。第二章は首都リマを舞台とし、保険会社に勤めるリゴベルトが友人であり会社のオーナーでもあるイスマエル・カレーラからランチの誘いを受ける場面から始まる。既に80歳近い老齢にあるもかかわらずイスマエルは近くメイドのアルミダと結婚することを決意しており、結婚の証人を務めることをランチの席でリゴベルトに依頼する。大会社のオーナーとメイドの再婚はそれ自体もスキャンダルであるが、さらにイスマエルの素行の悪い二人の息子たちは遺産を奪われることを恐れて、あらゆる手を尽くしてこの結婚を破談に追い込もうとするはずだ。リゴベルトはイスマエルらがヨーロッパにハネムーンに出かけている間、彼のための防波堤となることを決意する。この小説は基本的に最初の二つの章に起点を置く二つの物語が交互に語られることによって構成されている。「楽園への道」や「野生の棕櫚」において二つの物語は関係することなく終えられた。「つつましい英雄」においてはどうか。種明かしをしても物語を読む楽しさは削がれることはないだろう。ヤナケとリゴベルトの物語は終盤で思いもかけないかたちで結びつく。このあたりは間違いなく本書の読みどころの一つであるが、その前に登場人物を確認しておこう。なぜなら二つの物語のそれぞれに私たちがよくなじんだ人物が登場するからだ。一方の物語の主人公、ヤナケに私たちは初めて出会った。しかしヤナケが脅迫状を持ち込んだ警察署で署長の代理として応対する人物を私たちはよく知っている。リトゥーマ軍曹だ。リトゥーマは1966年に発表された記念碑的な作品「緑の家」に既に登場し、このブログでレヴューした「アンデスのリトゥーマ」ではタイトルどおり、物語の中心的な役割を果たした。本書においてもリトゥーマは署長のシルバ大尉とともに脅迫事件の解明に乗り出し、物語を牽引する。一方のリゴベルトの物語の主たる登場人物、リゴベルト、妻のルクレシア、そしてルクレシアを継母とするリゴベルトの息子フォンチートはおそらくバルガス=リョサが発表した作品の中で最もエロティックな小説である「継母礼賛」の中心となる登場人物たちだ。「継母礼賛」には「ドン・リゴベルトの手帖」という続編があり、こちらは未読であるが、少なくとも本書の前日譚として「継母礼賛」を読んでおくとリゴベルトの物語もさらに奥行きが深まるだろう。b0138838_166296.jpg少し説明しておくならば、ルクレシアとフォンチートの近親姦的な戯れ、あるいは本書にも登場するメイドのフスティニアーナとルクレシアの同性愛的な交情を幻想的な筆致の中に描いたこの小説には何枚かの挿図が付されている。右に掲げた中公文庫版の表紙に用いられたブロンツィーノの《愛の寓意》は「継母礼賛」の寓意画のようであるが、ほかにもフラ・アンジェリコからティツィアーノ、さらにはフランシス・ベーコンまで、ヨーロッパ美術の中から6点の絵画が選ばれ、時にそこに描かれた情景が小説の一部を構成していた。もっとも「つつましい英雄」においてはフロイト的な性愛の主題は後退し、別の心理的な脅威が三人の生活に影を落とすこととなるが、それについては本書を読んでいただくのがよかろう。
 先に述べたとおり、本書においては冒頭の二つの章でその発端が語られた二通りの事件が登場人物たちを翻弄する。ヤナケは尊敬する亡き父の「けっして誰にも踏みつけにされてはならない」という遺言に従って、毅然と脅迫者たちと対決するが、現実となった脅迫が次第にヤナケを追い詰めていく。一方、リゴベルトはハネムーンのため不在のイスマエルに代わってイスマエルの息子たちの理不尽な言いがかりに対峙するが、家庭内ではフォンチートをめぐって精神的な危機も進行する。思いがけない事件の連続、謎と謎解きは読者を飽きさせることがなく、小説家としてのバルガス=リョサの力量を見せつける。あとがきによれば二人の主人公、とりわけヤナケには作家が新聞紙上で知ったモデル、マフィアの脅しに屈しなかった人物が投影されている。バルガス=リョサは次のように語っているという。「私利私欲に満ちたエゴイスティックなこの社会においても、善意を旗印に掲げる無名のつつしみ深い英雄たちが存在しているのだ。このような人々に対する評価こそ、この作品を手がけた動機である。彼らは日々のニュースに取り上げられることはないが、報われざる犠牲を払っており、社会を向上させているのは歴史で学ぶ英雄ではなく、つつしみを知る英雄である彼らなのである」小説のタイトルの由来がわかる一節であるが、実際にヤナケは脅迫に立ち向かうことによって「報われざる犠牲」を払うこととなる。つまり事件を解決する過程で大きなスキャンダルに巻き込まれ、悪意に満ちた報道の渦の中に投げ込まれるのである。マフィアからの脅迫は日本で生活する私たちには縁遠いが、1980年代から90年代にかけてペルーでは暴力の嵐が吹き荒れていたから決して荒唐無稽な話ではなく、プライバシーなき報道の暴走、メディアスクラムの中でヤナケが味わう苦悩は私たちにとってなじみのないものではない。しかしヤナケは「つつましい英雄」として亡き父の教えを守って誠実に行動し、読者は深い共感とともに出来事の推移を追うこととなるだろう。一方のリゴベルトも家庭の外と中の二つの難局に対峙する。イスマエルの結婚をめぐるトラブルはイスマエルの帰国とともに解決するはずであったが、物語は中盤から意外な展開を遂げ、フォンチートをめぐる問題はさらに深まる。
 二つの物語において主人公たちが属する階級は異なる。貧農の息子という出自をもちながら、父親の努力と自らの刻苦勉励によって運送会社の経営者となったヤナケと、上流階級に属し趣味的な生活を送るリゴベルト、ピウラとリマ、地方都市と首都という彼らが生活する場もかかる対比に深く与っている。さらに両社の対比はリゴベルトを通じてもう一つの対比へと導かれる。それはペルーとヨーロッパのそれだ。先に「継母礼賛」にフラ・アンジェリコからベーコンにいたる西欧絵画の名品の図版が付されていたことを記した。リゴベルトは自宅の書斎にそれらの絵画を収めた多くの画集を揃え、しばしばエロティックな図像に妄想を掻き立てられた。「継母礼賛」におけるエロティシズムは直接にはこれらの絵画に由来していたといってもよいだろう。本書においては美術に代わって音楽が同様の趣味を形作る。イスマエルの結婚の知らせを聞いた夜、リゴベルトは書斎でブラームスの楽曲をマウリツィオ・ポリーニとイェフィム・ブロンフマンで聞き比べ、後者に涙する。その後、彼は寝室でルクレシアと濃厚なセックスを交わす点は、美術であろうと音楽であろうと、ヨーロッパの芸術の精髄がリゴベルトにおいてはきわめてセンシュアルに受容されていることを暗示しているだろう。ヨーロッパの古典音楽についての言及は本書の随所に認められ、「継母礼賛」の隠された主題が美術であるならば、本書のそれは音楽であろう。バルガス=リョサがフローベールの「ボヴァリー夫人」についての研究も発表していることはよく知られているが、文学から音楽までヨーロッパ文化を官能性において受容する姿勢は作家の個人的な資質、ラテンアメリカという地理的条件のいずれに起因するかも興味深い問題といえよう。物語の中でフォンチートからヨーロッパが好きなのになぜペルーに住んでいるのかと問われ、リゴベルトは旧大陸に住んでいたら、その文化に慣れすぎて、その美しさをこんなに楽しむことはできなかったはずだと答える。このコメントは作家の思いを反映しているかもしれない。西欧の音楽に耳を傾けるリゴベルトに対し、ヤナケはセシリア・バラサというペルーの女性歌手が歌うワルツに至福の瞬間を味わう。また「継母礼賛」ほど前景化されることはないが、エロティシズムも本書の重要なテーマであり、ルクレシアに対応するようにヤナケにも彼に甲斐甲斐しく使えるマペルという年若い愛人がいる。鮮やかな物語の展開の背後に厳密な対位法が存在していることも留意されるべきであろう。
 並行する二つの物語に共通するもう一つの主題はいうまでもなく父親と息子の関係である。ヤナケと息子たち、リゴベルトとフォンチートそしてイスマエルと息子たち。そういえば父子の屈折した関係は「ラ・カテドラルでの対話」でも扱われていた。おそらくこれらの小説はフロイトのいうファミリーロマンスという概念によっても分析することができるだろう。大きな問題であるからここでは示唆するに留めるが、バルガス=リョサの作品には父権性への拒絶という一貫する主題が認められないだろうか。「都会と犬ども」「チボの狂宴」といった小説は父権が暴力という権能と化すことを暗示しており、逆に「楽園への道」「悪い娘の悪戯」とにおいては父権を無効化する契機として女性原理が導入されているように思われる。実はマッチョな父権性はラテンアメリカ文学の主題としては珍しくない。それは独裁者を扱った一連の小説であり、バルガス=リョサも「チボの狂宴」においてかかる政治的な主題に正面から取り組んでいる。さらにこのテーマに即してガルシア・マルケスらの作品を分析することも可能であろう。
 ヤナケとリゴベルトはそれぞれの難局に立ち向かい、自らの信念を貫く。試練に耐えた人物の造形から、例えばヨブやオデュセイアといった「歴史で学ぶ英雄」の物語を連想することは決して的外れではないだろう。物語の最期で二人はリマの国際空港で偶然に出会い、家族とともに同じフライトでヨーロッパに向かう。バッハからタマラ・ド・レンピッカにいたる偉大な文化を生み出した土地、一人のチョラ(白人とインディオの混血)のメイドを社交界の中心に変える教化の場、本書においてヨーロッパが帯びた記号性を勘案するならば、これがきわめて幸福な結末であることも明らかだ。リトゥーマ軍曹がいくつもの小説に登場した前例もある。偶然ではあるが、私もフライトを待つ間に空港のラウンジで本書を読み終えて、彼らの「その後」の物語を知りたいと強く感じた。

by gravity97 | 2016-03-06 16:15 | 海外文学 | Comments(0)

ロレンス・ダレル「アヴィニョン五重奏」

 
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 毎年、年末年始には長い小説を読むことにしている。今年も一昨年のディケンズ「荒涼館」に匹敵する大長編を準備したものの、休暇が短かったこともあり、読了までには少々時間がかかった。ロレンス・ダレルの五部作「アヴィニョン五重奏(クインテット)」である。この連作はずいぶん前から気になっていたが、第一巻の「ムッシュー」の翻訳が刊行されたのは2012年11月であり、それからほぼ半年に一巻というペースで翻訳が刊行され、完結までに三年を要した。原著が4年、4年、2年、2年という間隔を空けて刊行されたことに倣った訳ではなかろうが、翻訳であればもっと短い期間のうちに刊行されるべきではなかろうか。半年という間隔は物語への集中を削ぎ、3年も経つと翻訳が進行中であることさえ忘れ去られてしまう。それでもなお私が本書への関心を維持しえたのは、先行する傑作「アレクサンドリア四重奏(カルテット)」が存在したからだ。私はこの四部作を最初は四半世紀以上前に河出海外小説選版、二回目は2007年に刊行された改訳版で通読し、そのたびごとに深い感銘を受けた。それにしてもこれら二つの連作はよく似ている。都市の名前とカルテット、クインテットといった重奏を結合したタイトル、タイトルに示された二つの都市がそれぞれ主たる舞台とされている点、そして例外もあるが個々の巻のタイトルとして、ジュスティーヌ、リヴィアといった登場人物の名が冠されていることなどである。しかしこのような相似性は「アヴィニョン五重奏」にとってむしろマイナスに作用したらしい。訳者あとがきによればこの連作は「英語圏においても不当ともいえるほどの低い扱い」しか受けず、「晩年のダレルによる自作の二番煎じ」とみなされてきたという。確かに圧倒的なエキゾチシズムとデカダンスに彩られた「アレクサンドリア四重奏」の後に、同様に一つの都市を舞台とした重層的な連作をもう一度執筆することはさすがに過剰に感じられもする。私自身、この連作の存在については2007年に「アレクサンドリア四重奏」の改訳版が出版された際にカバーに付された著者紹介の中で初めて知ったが、改訳版のあとがきも含めてその後一切インフォメーションを与えられることがなかったため、書店の店頭でこの連作の最初の巻、『ムッシュー』を見た際には大いに驚いたことを記憶している。
 それでは「アヴィニョン五重奏」とはいかなる小説であるか。第二巻「リヴィア」の冒頭でこの連作の構造について次のように謎めいた説明がある。「良き古典的順序に並べられたサイコロの五の目の小説群が見えた。五冊の小説が、そのために編み出された謎めいた五点形に従って書かれている。こだまがそうであるように、互いに依存してはいるが、ドミノのように連続して端から端に並んではいない―同じ血液型に属しているだけだ」この言葉がサトクリフという登場人物の口から発せられること自体が、この小説のきわめて独特な構造を暗示しているが、単に物語の愉悦に身を任せておけばよい「アレクサンドリア四重奏」とは異なり、この連作は語ることについてのきわめて明晰な意識―あえてモダニズム的な意識と呼ぶ―に貫かれている。以下、小説の内容について若干立ち入って論じるが、それは読者がこの錯綜する物語についてある程度予備知識を携えて読み始めた方が理解しやすいと考えるからである。あらかじめストーリーの一部を知っていても本書を読む快楽は揺るがない点を確信とともに言い添えておく。
 最初の巻「ムッシュー」において既に語りは複雑な構造をとる。「十字軍王国」と題された最初の章には「僕」という一人称の語り手が登場する。「僕」がブルース・ドレクセルというイギリス人の医師であることは直ちに明らかにされる。ブルースが友人のピエールの自殺の報に接してパリからアヴィニョンに向かう列車に乗る場面からこの長大な物語は始まる。ピエールの死をめぐる謎はブルースを、そして私たち読者を多いに困惑させるだろう。続く第二章は時間を遡行し、ブルース、ピエールそしてピエールの妹でありブルースの妻たるシルヴィー、そしてブルースの義理の兄の友人であるトビアスの四人が若き日にエジプト、アレクサンドリア近郊のマカブルというオアシスに向けて旅立ち、アッカドなるグノーシス主義者の銀行家の招きによってグノーシスの秘儀を体験する物語が語られる。四人による砂漠の道行きはダレルらしいエキゾチシズムが横溢し本書の読みどころの一つだ。グノーシス主義とテンプル騎士団をめぐる謎はこの小説に隠顕するモティーフであり、アッカドは秘儀の中でグノーシス主義の奥義について語る。そしてピエールの死の状況とグノーシス主義の暗合も物語の中で明らかとなる。ちなみにこの巻のタイトル「ムッシュー」とはグノーシス主義における「闇の君主」のことである。第三章「サトクリフ、ヴェネツィア草稿」においては三人称の語りと登場人物の一人、サトクリフがヴェネツィアで認めた「ヴぇネツィア草稿」が併置される。テクストの混在は「アレクサンドリア四重奏」にもみられた手法であるが、三人称と一人称の語りが共存するテクストはある程度モダニズム小説を読み慣れた読者でなければ理解することが困難かもしれない。続く章においても一方でヴェルフィユという地所にあるピエールの城館で残された文書を調査するブルースとトビアスの姿、つまり第一章の後日譚とサトクリフの草稿が交錯する。このあたりも決して読みやすくはない。この章で主にトビアスを通してしばしば語られるのはテンプル騎士団をめぐるエピソードであり、ピエール・ド・ノガレはテンプル騎士団を捕縛した中世の法務官ギヨーム・ド・ノガレの末裔であることが暗示されているが、かなり注意深く読まないとこれらの関係は見過ごされてしまうだろう。そして「クアルティーラでの会食」と題された最後の章の冒頭で読者はあっけにとられるはずだ。次のような文章である。

タイプ原稿の原本を他の二つの副本から分けた小説家ブランフォードは溜め息をつき、一枚の白紙を素早く手に取ると、通常の小説からはいささか不作法に逸脱した新作の仮題をいくつか書き留めた。幾度か躊躇った後、彼は悪魔にしかるべき敬意を払うべく、その小説を『ムッシュー』と呼ぶことにした。

 突然登場したブランフォードなる人物がいきなりこの小説の作者の位置を占めるのだ。読み進めるうちにブランフォードが車椅子を用いる身であることも判明する。それでは五重奏の第一巻、『ムッシュー』はこの男によって執筆された小説であったのだろうか。なぜブランフォードはサトクリフを特定して自らが創造した作中人物であるとことさらに告げるのか。私たちの疑問は「リヴィア」に持ち越される。なぜなら「リヴィア」においては若き日のブランフォード自身が中心人物となるのであるから。おそらく秘密を解く鍵は「ムッシュー」の巻末に付された付記にあるだろう。かくのごとく本書において語り手と登場人物の関係はきわめて不安定だ。そして「リヴィア」もまた一つの訃報によって幕を開ける。訃報を受け取るのは巻末で「ムッシュー」の語り手であることが表明されたブランフォードであり、小説の構造はさらに錯綜する。「リヴィア」においてはブランフォードが若い頃のエピソードが語られるが、この時、「ムッシュー」の話者であるブランフォードと「リヴィア」の話者は審級を違えるはずだ。この疑問は必ずしも明確に答えられることないまま三人称による「リヴィア」の語りが続けられる。ブランフォードの友人、サムとヒラリー、ヒラリーの姉のリヴィアとコンスタンス、彼らのリヨンからアヴィニョンにいたるローヌ河の航行は「ムッシュー」におけるエジプト旅行に対応し、さらに船旅というモティーフは第三巻の「コンスタンス」においてフェラッカ船によるナイル川下りにおいて反復される。「リヴィア」は物語としてはブランフォードと彼を翻弄するリヴィアの関係を縦糸に、彼らの周辺のユダヤ系投資家のゲイレン卿、ゲイレン卿に庇護される数学者カトルファージュ、ゲイレン卿の甥でイギリス領事代理のフェリックス・チャットー、さらにはゲイレン卿の投資と深く関わるエジプトのハッサド王子といった魅力的な人物の群像を横糸に構成される。「ムッシュー」では必ずしも明らかでなかった時代背景も具体的に示される。ナチズムの台頭と迫りくる第二次世界大戦が登場人物たちの上に暗い影を落としている。ただし絡み合う物語と併置されるテクスト、そして相互に共鳴しあう人物たちは必ずしも容易な理解を許さない。五重奏を読み進めるうえではこの巻が一番の難所かもしれない。今、共鳴といったが五重奏においてはそれぞれの巻の登場人物が微妙な変形を被って別の巻に登場する。初めてプロヴァンスを訪れ、リヴィアやコンスタンスと会った夏、ブランフォードはテュ・デュックという屋敷で肖像画が並べられた回廊を訪れる。そこに残された三つの肖像画のうち、二つにピエールとシルヴィーという名が記されていた。さらに「ムッシュー」においてサトクリフが言及するパースウォーデン、あるいは第四巻「セバスチャン」でアッファドが行きずりの恋を交わすメリッサは「アレクサンドリア四重奏」の主要な登場人物である。このような照応は本書を読む楽しみの一つである。例えば第三巻の「コンスタンス」においてブランフォードはヴィルフォワンすなわちヴェルフィユに邸宅をもつブルノーとシルヴァンヌ、つまりブルースとシルヴィーをハッサド王子の秘書、アッファド―いうまでもなくアッカドに照応し、物語の中で重要な役割を果たす―から紹介され、英国陸軍の「ドレクセル」少佐とともにピクニックに出かける。おそらくこのような仕掛けがダレルのいう「さいころの五の目」を暗示しているだろう。随所にめぐらされたこのようなたくらみに気がついた時、本書を読む楽しみは一気に増す。
 「リヴィア」で暗示されていた戦争の影は「コンスタンス」で一層色濃く登場人物たちの上に落ちる。「コンスタンス」は五重奏中で最長の長編であるが、語りの構造が比較的単純であることもあって最も読みやすい。ドイツに占領されたフランスにおいてアヴィニョンに駐留するナチスの将校フォン・エスリン、残忍な副官フィッシャー、ヒトラーの命を受けてテンプル騎士団の財宝を捜すスミルゲルといった新たな登場人物を得て、物語はさらに活気を帯びる。この巻の中心となるのはタイトルどおり、リヴィアの姉でアヴィニョン近郊の城館テュ・デュックの所有者である精神科医コンスタンスである。ヴィシー政権下、ナチス・ドイツの支配下で住民たちが味わう苦痛、ドイツ軍の侵攻やレジスタンスの処刑といった物語が冷徹な筆致で語られる一方、エジプトやジュネーブといった異なった土地での出来事がアヴィニョンに集った登場人物たちに微妙な影響を与える。彼ら/彼女らの何人か消息を絶ち、あるいは姿を変えて登場する。中盤においてコンスタンスは赤十字の職員ナンシー・キミナルとともにテュ・デュックを再訪し、荒れ果てていた館は再び活気を取り戻す。興味深いのはブランフォードとサトクリフの関係だ。作家と被造者たる二人は既に「リヴィア」において電話を介して対話していたが、この巻に及んでサトクリフは実際にブランフォードたちの世界に登場する。コンスタンスはジュネーブでサトクリフに出会い、思わず「じゃあ、あなたは現実の人なのね」と叫び、サトクリフは「誰もが現実さ」と答える。サトクリフはこの小説においては一貫して道化であり、時にグロテスクな諧謔を駆使して絶えず物語を賦活する。「ムッシュー」において暗示されていたテンプル騎士団という主題は「コンスタンス」においてはテンプル騎士団が秘匿した財宝の探究として一種のミステリーの趣とともに浮上する。「コンスタンス」は五重奏においては最長であるが、テンポが早くおそらく一番読みやすいだろう。物語は連合軍の勝利とアヴィニョンの解放というエピソードで終えられるが、その過程で何人かの登場人物が残酷な死を迎える。「セバスチャン」は五重奏の中で唯一、アヴィニョンではなくジュネーブを主たる舞台として繰り広げられる。そこにはよく知られた説話的な装置が導入されている。「届かない手紙」あるいは「盗まれた手紙」というモティーフだ。コンスタンスと恋愛関係にあるアッファドはエジプトのグノーシス主義者たちから秘儀への招待を受けるが、その手紙はコンスタンスのもとに届けられ、しかもコンスタンスの患者によって盗まれてしまう。手紙をめぐるスリリングな展開は本書を読んでいただくのがよい。コンスタンスとアッファドの恋愛のもつれ、ゲイレン卿やサトクリフが繰り広げる馬鹿騒ぎ、陰謀と裏切り、めくるめく物語の展開はダレルに真骨頂といってよい。大戦が終結し、ジュネーブでは祝賀の花火大会が行われる。しかしなおも戦争は人々の記憶に残る。とりわけユダヤ人を絶滅収容所に送ったこと、ショアーの記憶がヨーロッパの人々にとって癒えることのないトラウマになったことを暗示するエピソードとともにこの巻は幕を下ろす。第五巻「クインクス」において登場人物たちは再びアヴィニョンへと帰還する。彼らは地中海に面した町でジプシーたちの祝祭に遭遇するが、そこには「ムッシュー」において姿を消した一人の人物が登場し、シルヴィーやフォン・エスリンといった以前の物語で重要な役割を果たした人物たちも境遇を変えて読者の前に姿を現す。この巻は「暴かれる秘密」というサブタイトルをもつが、確かにいくつも秘密が開示される。それは物語の中で縊死を遂げたリヴィアの死をめぐる秘密であり、あるいは五重奏をとおして隠れた主題であったテンプル騎士団の財宝に関わる秘密である。一方でブランフォードとサトクリフ、創造者と被創造者はここでは対等に対話し、時に戯曲形式でつづられる二人の会話はこの物語の捻じれを端的に暗示している。「クインクス」とは人名ではなく五点形のことであり、さまざまな人物の生と死を織り込んだ物語はアヴィニョンの古代遺跡、ローマの水道橋に引き寄せられるように集まる登場人物たちを描いて幕を閉じる。
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 確かにこの五部作はアレクサンドリア四重奏に比べて難解な印象を与える。四重奏においても語りは変化した。すなわち第一巻「ジュスティーヌ」において語り手は一人称の「ぼく」である。貧しいイギリス人教師の「ぼく」を誘惑するジュスティーヌは五重奏におけるブランフォードとリヴィアの関係に似ていなくもない。「ジュスティーヌ」においてはほぼ厳密な一人称が用いられるが、第二巻「バルタザール」においては同じ「ぼく」が語りながら時に全能の話者の視点が取り入れられる。あえてアヴィニョン五重奏に当てはめるならばブランフォードとサトクリフを合わせた視点といってもよかろう。「マウントオリーブ」では三人称が用いられ、「クレア」では再び一人称が用いられる。しかし「クレア」における一人称と「ジュスティーヌ」におけるそれが決定的に相違することを柄谷行人がアレクサンドリア四重奏をテーマとした修士論文で論じていたことを私は最近刊行された『柄谷行人文学論集』で知った。魅力的な物語が語られながらもアヴィニョン五重奏において人称の関係は格段に錯綜するため、この意味で私たちは本書において小説の内容と形式、いずれに目を向けるべきか少々戸惑うかもしれない。一方でダレル特有のデカダンス趣味は本書においても横溢している。本書では様々の登場人物の交情が描かれるが、同性愛や近親相姦といったおなじみの背徳的な性愛が次々に繰り広げられることはいうまでもないし、「コンスタンス」におけるコンスタンスとアッファドの性愛の描写はことに濃密だ。同性愛というモティーフの強調、あるいは登場人物たちが物語の終盤で一つの場所に集う様子から私はプルーストの「失われた時を求めて」を連想しないでもなかった。あるいは「リヴィア」の巻末近く、海亀の冷製コンソメで始まるハッサド王子が開いた豪華な饗宴の模様が記されるかたわらで、通りを隔てて糞尿を集めるバキュームカーについての記述が唐突に重ねられるあたりにイギリスであればオスカー・ワイルドのデカダンスの影をうかがうことは不可能ではないだろう。
 一方で本書は小説家についての小説でもある。「クインクス」においてブランフォードは小説を書く決意を固めるが、それがこの五重奏であることは明らかだ。ブランフォードと彼の被造物であるサトクリフがジョイスについて論じあうくだりには笑ってしまうが、少し考えれば本書が「小説を書くことについての小説」というそれ自体がメタ的な構造をもっていることも明らかである。さらに想起するならばアレクサンドリア四重奏にも実際に手記を書く「ぼく」とは別にパースウォーデンという作家が登場した。(彼については「ムッシュー」の中でも言及されることについては既に述べた)かかる自意識の存在が本書を英語圏であればジョイスからフォークナーへいたるモダニズム文学の系譜へと繋ぎ止める。しかしながら同時に本書の魅力がかかる形式性から逸脱する豊饒な物語性によっていることもまた明らかだ。本書は五つの巻から構成された五角形の物語であるが、個々の挿話の独立性は高く、それぞれが一個の物語として読むことも可能であろう。コンスタンスとアッファドの悲恋の物語、ナチスの圧政下におけるフランスの一地方都市の年代記、テンプル騎士団の財宝の探索、グノーシスの秘儀をめぐる奇譚、そしてサトクリフやゲイレン卿のいつ果てるともない愚行と乱痴気騒ぎの記録。常に綿密な伏線が張りめぐらされ、時には数巻後の描写によって伏線が回収されるという超絶的な技巧が用いられている場合もあるにせよ、本書はいくつかの物語の連なりとして構成されており、それゆえ物語としての凝集性はやや弱い。そのあたりがアレクサンドリア四重奏に比べて本書が「不当ともいえるほど低い扱い」を受けた理由かもしれない。本書のテーマでありながら、私が語っていないことはいくらでもある。医師シュヴァルツが体現するフロイト主義と文学の関係、ユダヤ人に比して論じられることのないジプシーたちの運命、そして全編にみなぎる黒い笑い。それらの詳細については是非実際に小説を手に取って確かめていただきたい。時代が具体的に特定されているという背景もあるかもしれないが、四重奏の陽光と暑さに対して、五重奏を通読して受けた印象は寒風と苛酷さであり、それはアレクサンドリアとアヴィニョンという都市に象徴されているかもしれない。しかし四重奏同様、私はこのあくの強い大長編も大いに楽しんで読み通した。未読の方も多いことと思う。相当の時間を必要とするから読み始めるにはいささかの覚悟が必要であるとはいえ、陽光のアレクサンドリアと暗鬱なアヴィニョン、ダレルが創造した比類のない二つの都市を訪れる読者がさらに増えることを願っている。

by gravity97 | 2016-02-02 20:47 | 海外文学 | Comments(0)

アイザック・バシェヴィス・シンガー『不浄の血』

b0138838_20105556.jpg 風土と文学。私たちは一つの土地、民族、あるいは言語に属する集団―しばしば強引に国家の名を与えられる―が文学においても一つの共同体を形成するという幻想を抱く。書店の棚で見かける日本文学、アメリカ文学あるいはフランス文学といったカテゴリがそれだ。確かに19世紀以前であればかかるカテゴリはある程度の意味をもつかもしれない。私たちはドストエフスキーとトルストイをとおして「ロシア文学」を、バルザックとスタンダールを読んで「フランス文学」を漠然と知った。そして私たちがなじんできた「近代文学」は結局のところ西欧に由来していた。大学一年の時にガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んで私が受けた圧倒的な衝撃は、西欧近代の外部にかくも広大な文学の沃野が広がっていることを知った驚きに由来する。当時次々と翻訳されたラテンアメリカ文学の傑作は私たちがなじんでいた「外国文学」がいかに限定されていたかを思い知らすに十分であった。密林と砂漠、インディオと修道院、独裁者と軍政。リョサ、ドノソ、フェンテス、このブログでも何度か論じたこれらの作家の傑作は全く異なった風土に根ざした文学の可能性を私に垣間見させてくれた。それではマルケス以後、ラテンアメリカ以外に私はこのような驚きを体験しただろうか。このブログで取り上げた作品に限定するならば、日本で紹介されることの少ない「国籍」をもつ作家としてパレスティナのガッサーン・カナファーニー、南アフリカのクッツェーについてレヴューした記憶がある。しかし前者はあまりにも政治的であり、後者にみられる実存的不安という主題は西欧の近代文学にも共有されていたため、作品を風土の反映としてとらえる発想にはいたらなかった。おそらく唯一の例外はサルマン・ラシュディの「真夜中の子供たち」であろう。インド亜大陸を舞台としたこのエキゾチックな傑作はインドという私にとって未知の風土を強く意識させるに十分であった。
 前置きが大変長くなった。アイザック・バシェヴィス・シンガーの「不浄の血」という短編集を読んで強く感じたのは、私にとってこのような未知の文学的風土がヨーロッパにまだ残っていたことへの驚きである。ほとんどの短編がポーランド、さらに言うならばポーランドの西部、ワルシャワに隣接するルブリン県という県を舞台にしており、巻末にはこの県の地図さえ掲載されている。地名を確認するならば、本書でシンガーが繰り広げる物語の大半はこの狭い地域における出来事であることが理解される。しかしそれはなんとも呪術的で怪奇、エロティックでグロテスクな世界であることか。比較的短い短編が多いが、まるで匂い立つかのように濃厚な物語のごった煮は西欧の近代と隔絶しているのだ。このような読書体験は実に久しぶりである。
 先ほど「国家」という擬制が土地、国民、言語によって構成されていると論じた。この観点からもシンガーの存在は稀有である。1904年(1902年という異説あり)にポーランドにユダヤ人聖職者の家系として生まれ、ワルシャワでデヴューした後、1935年に渡米し43年に帰化し、一貫してイディッシュ語で作品を発表したという経歴は様々のマイノリティーの系譜が交錯するかのようだ。少し説明を加えるならば、国家をもたずディアスポラを強いられたユダヤ人たちはユダヤ教の信仰と律法を自らのアイデンティティーとした。10世紀前後にライン川周辺に住んでいたユダヤ人たちは聖書ヘブライ語と周囲のゲルマン系言語を混交させてイディッシュ語という特殊な言語を用いるにいたった。しかし第二次大戦後、シオニズムの高まりとともに建国したイスラエルは現代ヘブライ語を国語として採用したため、イディッシュ語は東欧のユダヤ人社会の中に取り残されることになった。シンガーはノーベル賞受賞講演の中でイディッシュ語を「故郷喪失者の言語」であり、「異教徒からも同化解放ユダヤ人からもさげすまれてきた言語」であると述べている。シンガーの作品はこれまでにも邦訳がいくつか存在するらしいが、今回の翻訳はすべてイディッシュ語の原典からの翻訳であるとのことだ。翻訳作業も相当に大変ではなかったかと感じるがそれに見合った実に豊穣な物語の世界を味わうことができた。イディッシュ語で著された東欧に居住するユダヤ人たちの物語、ここからどのような内容が予想されるだろうか。まずユダヤ教とユダヤの風俗が濃厚に反映されていることが理解される。律法感謝祭(シムハト・トーラー)、口伝律法(ミシユナー)、導師(レッペ)、異教徒(ゴイ)、神殿崩壊日(テイシャ・ベアブ)任意に列挙したが、これらの頻出する特殊な言葉と発音(ルビで示される)からはユダヤ教と東欧を語源とする言語の結合、一種の異端性がおぼろげに浮かび上がる。今回の翻訳はこのような雰囲気をうまく伝えている。物語の内容は多彩だが、そこでは現世と異界が切れ目なくつながり、抜け目のない人間と悪魔がやりとりし、奇跡と奇譚が連続する。短編と長編、東欧と南米、全く異なった風土を舞台にしているとはいえ、私が本書を読んで「百年の孤独」を連想したことはあながち的外れではないだろう。なにしろ収められた物語のうちの二つにおいては、悪魔が語り手なのだ。マルケスの小説には魔術的レアリズムという形容がなされる場合が多いが、シンガーの短編はグロテスク・レアリズムの名がふさわしい。例えば導師の娘ヒンデレが悪魔と結構させられるという「黒い結婚」という短編から引用する。

 ところが、あろうことか、彼女、ヒンデレは妊娠していた。悪魔の子を身ごもったのだ。ヒンデレはまるで蜘蛛の巣を透かすように腹のなかの子を見ることができた。それは、蛙と猿のあいのこみたいで、仔牛の目と魚の鱗をもっていた。そしてヒンデレの肉をむしばみ、血をすすり、爪を突き立てては、尖った歯で咬みつくのだ。そしてその子はいきなり赤ちゃん言葉を話し出し、ヒンデレのことを「母ちゃん」と呼んで、下品なことばかりわめき散らすのだった。(中略)化け物がくり出すいやらしい話や悪ふざけは聞くに耐えないものだった。しかも化け物は、ヒンデレのからだのなかで小便から大便まで垂れ流すのだ。何としてでも堕ろしてしまわなければ!だけどどうやって?ヒンデレは拳で腹を殴ったり、跳びはねたり、高いところから飛び降りたり、からだをぐいぐいと折り曲げたりした。子どもを堕ろすにはこれが効くというのだ。ところが、なかなかうまくいかなかった。それどころか、化け物はこねたパンが膨らむようにどんどん大きくなり、邪悪な力を蓄えて、ヒンデレの腸を引きちぎろうとするのだった。

 シンガーの小説の雰囲気を伝える一節であるが、このような土俗的な作品をシンガーはポーランドではなくニューヨークで執筆した。このあたりの経緯は「ちびの靴屋」という短編の中に反映されている。フランポル(ルブリン県南部の町。地図の中に地名がある)で靴屋を営むアバは腕のいい実直な靴屋として知られていた。妻ペシェとの間に七人の息子をもうけ、息子たちも靴屋を手伝う。ところが、長男ギンプルはある日突然、アメリカへと向かい、彼の地で家庭を築く。彼を追うかのようにほかの息子たちも次々にアメリカに渡った。残された二人が暮らすフランポルはナチスドイツの侵略を受けて壊滅する。二人は子どもたちの誘いに応じてアメリカに渡り、アバは新天地で再び靴屋の仕事を始める。要約するならば以上のような物語がシンガーらしい幻想と現実が入り混じる魅力的な語りをとおして提示される。1930年代、ポーランドに住んでいたユダヤ人たちの残酷な運命については誰でも知っている。しかし少なくともこの短編集においては、このような背景が暗示される作品はこれのみであり、むしろシンガーは「黒い結婚」のごときグロテスクで寓話性に満ちた物語の中にポーランドのユダヤ人たちの生活を描いた。収録された短編のうち、最後の二つ「ハンカ」と「おいらくの恋」は作家を思わせる主人公が、ブエノスアイレスの講演旅行とマイアミでの引退生活の中で体験した奇譚を描き、新大陸を舞台とした現在の物語であるが、そのほかは舞台こそルブリン県として特定されているが、時代からも世情からも超越した一種の非時間的な寓話として語られている。かかる寓話性とシンガーが生きたであろう時代の苛酷さの関係には興味を覚えるが、検討するために十分な資料がない。長編も含めほかの作品の訳出が待たれる。
 ところで本書の装丁を見て、私は思わず唸ってしまった。いうまでもなくウィーン・アクショニズムの巨匠、ヘルマン・ニッチの絵画が用いられている。血の滴りを連想させる不吉なイメージはまことに本書の装丁にふさわしい。ニッチは生贄の動物を屠る秘教的なパフォーマンスで知られるが、実は本書の中にも屠殺と深く関わる作品がいくつか収められている。ユダヤ教の肉食文化においては屠殺、解体した動物の肉を「清浄な肉」として教徒たちに供するために、屠殺者は宗教的な権威と資格を有さねればならなかった。表題作である「不浄な血」はこの問題と関わり、老いた屠殺業者の後妻に入ったリシェという女が、自らが動物を解体するというタブーを犯す一方で、同じ屠殺場で若い屠殺人と情交を交わし、「血への情欲と肉欲」をともに満たすという地獄絵図のような物語である。彼女が実は狼人間(ブイルコワク)だったという落ちを含めてなんとも凄絶で、本書の白眉といってよい短編だ。訳者もあとがきで記すとおり、屠殺に関しては日本でも職業的な差別感が残っているが、確かに本書の中には差別的ともとらえかねられない言葉が頻出する。訳者もイディッシュ語の翻訳に際しては「口語性の強い土着的な言語であるイディッシュ語で書かれた文学には、現代日本言語感覚や文学観からすると『差別』的にひびく言葉が、それこそ『濫用』されている感がある」としたうえで、このような言葉の使用自体が「一方で差別感情を示し、留保をつけながら、他方では、そうしたあぶなかしいキャラクターをユダヤ社会の中に包摂していこうとするイディッシュ語に特有な言語活動の一部なのである」と述べている。中上健次や井上光晴を持ち出すまでもなく、差別あるいは禁忌といった主題は広く世界の文学に共有されているが、この点においてシンガーの作品はイディッシュ語という特殊な言語と密接に結びつきながら聖と俗、差別と被差別、神と悪魔といった問題に切り込んでいるといえよう。言語と主題、形式と内容の関係に私は大いに関心を抱く。そしてこの問題はさらに展開の余地がある。訳者の解題によれば、シンガーは最初、自分の作品の英語訳は他人任せだったらしいが、次第に自分も翻訳の作業に手を貸し、共訳者として英語版に名を連ねるようになったという。つまり彼は二重言語作家だったのであり、この点でベケットやナボコルとの比較も可能かもしれない。イディッシュ語版と英語版の異同など私としては是非知りたいと思うが、そのような比較は私自身の言語能力をはるかに超えている。ひとまずは本書がイディッシュ語原典より翻訳され、日本語でも読めるようになったという快挙を喜びたい。

by gravity97 | 2015-11-08 20:19 | 海外文学 | Comments(0)

柴田元幸編・訳『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』

 b0138838_20594614.jpg柴田元幸翻訳叢書の一冊として「ブリティッシュ&アイリッシュ マスターピース」というアンソロジーが刊行された。タイトルが示すとおり、いわゆるイギリス文学の名作短編12編を束ね、柴田の名訳で紹介するという趣向だ。1729年のジョナサン・スウィフトから1955年のディラン・トマスまで年代順に並べられたラインナップはなるほど世評の高い作品揃いだ。しかし私がこれまではっきりと読んだ記憶があるのはW.W.ジェイコブスの「猿の手」と、確か高校時代であったか、英語のリーダーで原文を読んだジョージ・オーウェルの「象を撃つ」くらいであるから、これらの短編に目を通すよい機会となった。
 すでにこのブログではボルヘスがコンパイルした名高い「バベルの図書館」の中の一冊、アメリカ篇についてレヴューしている。ボルヘスのアンソロジーはとにかく長大で読み終えるのに少々時間がかかったが、本書は一日あれば簡単に読み終えることができる。しかしボルヘスと柴田のセレクションがよく似ている点は興味深い。実はこのアンソロジーには対をなす「アメリカン・マスターピース 古典篇」という一書がある。こちらは未読であるが、そこに収められたホーソーンの「ウェイクフィールド」やメルヴィルの「書写人(ボルヘスでは代書人)バートルビー」は「バベルの図書館」にも収められており、採られた作品こそ異なるが、エドガー・アラン・ポーやジャック・ロンドンも両方のアンソロジーに収められている。アルゼンチンと日本、異なった国でそれぞれ一流の文学者が英語圏に関して比較的限られた作家、作品を選んでいる訳だ。さらにこれらの小説が内容的にも似通っている点も注目されてよいだろう。本書に収められたメアリー・シェリーの「死すべき不死の者」、チャールズ・ディケンズの「信号手」、そしてジェイコブスの「猿の手」、この三つの短編を一言で表現するならば「怪談」である。以前のレヴューで私は「バベルの図書館」に収められたアメリカの短編の特質を「奇譚」と定義した。「怪談」と「奇譚」、それらは英語で書かれた小説の本質とまでは言わずとも、一つの脈々たる系譜をかたちづくっているのではないか。本書を読んで私は今挙げたイギリスの三つの短編のうち二つの小説で扱われた主題が後代のアメリカ人作家によっても変奏され、別の長編に生かされていることに気づいた。すなわち「死すべき不死の者」に対するH.P.ラブクラフトの「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」における不死という主題、そして「猿の手」に対するスティーヴン・キングの「ペット・セマタリー」における死者の帰還という主題である。この系譜の起源は、いわゆるゴシック・ロマンスに求めることができるだろう。かかる主題系がなぜ英語圏において成立したかについてはおそらく先行研究も存在しているだろう。私は英米文学を専門とする訳でもないから、ここでは収録された短編についてひとまず感想を記しておくに留める。
 冒頭のスウィフトの短編は「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」という長いタイトルが付されている。貧民の子供を食用に供すべしというまことに人を食った文章であるが、柴田も指摘するとおり、全編にみなぎる皮肉と風刺の棘は強烈に私たちを刺す。同じ作家の「奴婢訓」を寺山修司が同名の舞台として上演したことはよく知られているが、いずれも黒い諧謔に満ちた怪作であり、そこには「塩なしでもわが国(いうまでもなくアイルランド)を丸ごと喜んで喰らいつくし」、「奴婢」に対して主人然としてふるまうイングランドへの憤怒に近い反感がうかがえる。シェリーの「死すべき不死の者」、ディケンズの「信号手」、ジェイコブスの「猿の手」そしてウォルター・デ・ラ・メアの「謎」は先にも述べたとおり、いずれも怪奇小説の傑作である。短い作品ばかりであるから、手に取って読んでいただくのがよいが、ディケンズといった巨匠、そしてシェリーのごとき女性作家がこのようなテーマのみごとな短編をものにしていることには少々驚く。もっとも「荒涼館」の作家にとってこの程度の怪談は余芸の域を出なかったことは大いにありうるし、ヴァージニア・ウルフやエミリー・ブロンテといった作家を想起するならば、女性作家とこのようなテーマとの親近性を理解することも容易である。これらの怪談の間にはオスカー・ワイルドの「幸せな王子」が配されている。この短編を太宰治における「走れメロス」と比較する柴田の解説は的を射ている。柴田によればいずれも「決してストレートに教訓的、道徳的ではない作家が書いた、教科書に載せても大丈夫そうな、友情や自己犠牲の物語」である。確かに私も、「幸せな王子」については小学生向けのジュヴナイル・ヴァージョンであったように記憶するが、ともに学校の教科書で読んだ記憶がある。続くジョゼフ・コンラッドの「秘密の共有者―沿岸の一エピソード」は短編とはいえ、本書中では最も長く、読み応えがある。コンラッドについては既にこのブログでも「闇の奥」についてレヴューしたことがあるが、この短編も具体的な情景を描写しているにもかかわらず、文章の抽象度が高く、一筋縄ではいかない。文体の特殊さが直ちに伝わる内容である。おそらく柴田も翻訳に苦労したのではないだろうか。この短編はジャンル分けするならば「海洋奇譚」に属するだろう。船員たちを十分に掌握しえていない船長と他の船から逃れてきた密航者の葛藤をめぐる物語は読み飽きない。ポーランド語を母語とするコンラッドをイギリス文学の直系とみなすかはともかく、コンラッドにはこのほかにも多くの海洋小説がある。興味深いことに海洋小説を執筆したのはコンラッドだけではない。今回のアンソロジーには含まれていないが、コナン・ドイルにも海洋を舞台とした一連の小説があり、かつて新潮文庫から刊行されていた分冊形式のドイルの短編集のうち一冊は「海洋奇談編」と銘打たれていたはずである。イギリス文学のサブジャンルとしての海洋小説というテーマも一つの研究の主題たりうるだろう。続くサキの「運命の猟犬」もまた奇譚と呼ぶべき小品であり、私は先に触れたホーソーンやメルヴィルの短編を連想した。ジェイムス・ジョイスからは二編、「アラビー」と「エヴリン」が採られている。いずれも市井に生きる人物の生の一断面を切り取った佳作であり、これらからの断片から構成されたのが連作長編「ダブリン市民」であるという。機会があればこの長編も読んでみたいという思いに駆られる。オーウェルの「象を撃つ」はタイトルの通り、逃げ出して暴れまわる象をミャンマーに駐留するイギリス人の巡査がライフルで撃つという物語だ。オーウェル自身、ミャンマーで官吏を務めた経験があるというが、この物語がどの程度実話に基づいているかはわからない。明らかにこれは一つの寓話であろうが、その寓意を解くことは容易ではない。そして最後に収められたディラン・トマスの「ウェールズの子供のクリスマス」は詩人として知られる作家の追想風の短編である。タイトルどおり子供時代のクリスマスの思い出が語られるが、降り続く雪やクリスマス・プレゼント、そしてクリスマスの御馳走の描写からは誰もがディケンズの「クリスマス・キャロル」を連想するだろう。余談となるが、一読した後、トマスの詩を最近どこかで読んだなという思いがあり、しばらく考えて思い出した。クリストファー・ノーランの「インターステラー」だ。地球に残された科学者が宇宙飛行士たちに呼びかける際にトマスの詩が引用されていた。
 いつになく雑駁に感想を書き連ねたが、このようなとりとめのなさはここに収録された作品を反映しているかもしれない。それでは翻ってこれらのイギリス文学に何らかの共通性を認めることができるだろうか。柴田自身はあとがきの中でアメリカ文学と比較しながら次のように述べている。「一般に―と、乱暴な一般論を展開すると―米文学は遠心的であり英文学は求心的である。キャッチコピー的に言うと米文学は荒野をめざし英文学は家庭の団欒へ向かう。」柴田の言わんとするところはなんとなくわかる。私が好きな作家で、これまでにこのブログで取り上げた作品から例示するならば、例えばコーマック・マッカーシーの「ブラッド・メリディアン」とカズオ・イシグロの「日の名残り」を対比すれば、かかる相違は明白である。インディアンの頭皮を剥ぎ取る荒くれ者たちの乱行と、自らの半生に思いを巡らせる執事の回想。両者の対比は英語で著された文学の本質と関わっているかもしれない。
 本書を読み通して、私もイギリスの小説に一つの特徴を見出すことができたように感じた。それは植民地の存在が明示的/暗示的に反映されていることだ。確かにこの主題が直接に示された作品はさほど多くない。ミャンマーを舞台にした「象を撃つ」とメナム川から「本国」への帰途途上の出来事を描いた「秘密の共有者」がそれだ。しかしイギリスを舞台にした物語にも「植民地」は濃厚に反映されている。例えば災いをもたらす「猿の手」はインドから招来されたことが語られ、「しあわせな王子」の頼みを実行するツバメはエジプトの仲間たちのもとに飛び立つことを夢見る。メルボルンにいる知り合いの司祭の写真が貼られた部屋に住むエヴリンはブエノスアイレスに向かって旅立とうとしている。もう少し連想を広げるならば、マルカム・ラウリーにおけるメキシコ、ロレンス・ダレルにおけるアレクサンドリア、あるいはJ.G.バラードにおける上海。宗主国と植民地に関わるこれらの作家、それらの場所との結びつきは決して牽強付会ではないだろう。植民地を有した列強はイギリスだけではない。しかし私はドイツとイタリアに植民地と関わる文学の例を知らないし、アメリカは植民地とは無関係だ。ラテンアメリカ文学という豊かな後背地を要するスペインについては議論の立て方を改める必要があり、フランスについてはアルベール・カミュとマグリット・デュラスを思い浮かべるが、いずれも第二次大戦後に発表された物語である。私はイギリス文学こそ植民地という他者を自らの糧として異例の系譜を形作ったのではないかと考えるのだ。このように考えるならば、先に述べたとおり、植民地との往還の過程を舞台とした海洋小説というジャンルがことにイギリスにおいて発達した理由も説明することができようし、このブログで取り上げたサルマン・ラシュディやハリ・クンズルといった作家の独特の位置も説明できるのではなかろうか。いうまでもなく植民地と文学とはきわめて大きな課題であり、このような短いレヴューで応接できるような問題ではない。しかしこのような視座を得るならば、日本文学にも新しいアプローチが可能ではないだろうか。一つは植民地を舞台にした作品である。これについては集英社版の全集「戦争×文学」において満州、樺太、南方をそれぞれ主題としたアンソロジーが編まれ、川村湊が精力的な研究を続けている。私は近くそれらの作品や研究を読んでみようと考えている。もう一つは在日朝鮮人によって日本語で書かれた小説である。李恢成から金石範、梁石日にいたるこれらの系譜についても私はあらためてこのブログで応接する必要を感じる。かくして練達のアンソロジストによってまとめられた英文学のアンソロジーは極東の島国であり、同様に植民地に圧政を強いた日本の近代文学にも光を当てるのだ。

by gravity97 | 2015-10-19 21:10 | 海外文学 | Comments(0)