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カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』

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 今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』を読む。イシグロについてはすでに二冊の小説をこのブログでレヴューした。ノーベル賞受賞の報が届いた日、このブログへのアクセスが600件以上あったのには驚いたが、通常でもイシグロの小説のレヴューは私のブログのアクセス・ランキングの上位に位置しており、この作家の根強い人気をうかがわせる。『忘れられた巨人』は2015年に発表され、同じ年に日本でも翻訳が刊行された。イシグロは寡作の作家であり、長編としては『わたしを離さないで』以来、10年ぶりの小説であった。以前のブログを確認していただければわかるとおり、私は2011年に『日の名残り』で初めてイシグロの小説に触れて以来、折りにふれてイシグロの小説を読んできたから、『忘れられた巨人』が刊行された時点で既に『浮世の画家』以外、邦訳のある長編と短編をほぼ通読していた。ノーベル賞受賞後というタイミングで読んだことに特に意味はない。私はイシグロの小説をすべて文庫で所持しているので、この小説についても文庫化される時機を待っていた訳である。読み終えていつもながらの深い感銘を受ける。この小説も疑いなくイシグロの代表作の一点となるだろう。

 寡作であるだけでなく、小説によって作風が大きく異なることもイシグロの特徴である。

家族をめぐるシリアスなドラマである『遠い山なみの光』、カフカを連想させる不条理小説『充たされざる者』、次第に明らかになるSF的設定に戦慄する『わたしを離さないで』。今までレヴューしていない三つの長編だけでもこれほどの幅がある。新作がどのような内容となるかおおいに期待されたゆえんである。といっても原著が刊行されてからすでに2年が経過しており、ノーベル賞とは無関係にこの小説の内容についての風評は耳に入っていた。意表を突いて、新作はファンタジーであるという。いったいイシグロがどのようなファンタジーを執筆するのか。読み終えて私の期待が裏切られることはなかった。裏表紙のシノプシスおよび解説に記されている程度に内容に触れつつ論じることとする。

 舞台は67世紀のブリテン島。鬼や悪い妖精が闊歩しているという情景から、私たちは単なる過去ではなく、ファンタジーの世界に踏み込んでいく。これから読む人のために少し整理しておくならば、ブリテン島とはいうまでもなく今のイギリスのことであるが、この時期、二つの勢力がそこで抗争していた。一方は以前よりこの地に居住していたブリトン人であり、もう一方は大陸からこの島へ侵攻を試みるサクソン人である。物語には随所にアーサー王への言及がある。私はこのブログを執筆するために少し調べてみたが、本書をよりよく理解するうえではあらかじめアーサー王の位置を確認しておいた方がよいだろう。すなわちアーサー王とはブリトン人の王であり、円卓の騎士とともにサクソン人の侵攻を撃破してイギリス全土、そしてノルウェーからガリアにまたがる巨大な王国を築いたとされる。本編の主人公はアクセルとベアトリスという年老いた仲のよい夫婦。彼らはいにしえのブリテンで穴居人のような暮らしを送っていた。彼らが村落の中で必ずしも幸せに遇されていなかったことは、住まいの中で蝋燭の使用を禁じられる冒頭のエピソードからも明らかだ。この事件を機に二人は息子のことを「思い出し」、平原や山地を突っ切って、息子が暮らす村へ旅立つことを決意する。ここから物語はよく知られた一つの類型として稼働する。ロードノヴェルである。東に向かって村を旅立ったアクセルとベアトリスはサクソン人の村、要塞のような修道院といった様々な場所を遍歴し、道中で何人かの同行者を得る。ファンタジーとロードノヴェルは相性がよい。同様の類型は「指輪物語」や「オズの魔法使い」を想起すればたやすく理解されよう。しかしイシグロの小説は次第に単純なファンタジーとは次元の異なった深みを宿していく。老夫婦がブリトン人であることにあらためて注意を喚起したうえで、もう少しだけストーリーを追うことにしよう。彼らは最初にサクソン人の村を訪れる。先に述べたとおり、ブリテン島にもともと居住していたブリトン人と侵略者としてのサクソン人は本来であれば敵対関係にある。実際に直前に「悪鬼」の襲撃にあって倉皇とした状態にあるサクソン人の村で二人は歓待されたとは言い難い。しかし彼らは村の長老に手厚く保護され、ベアトリスはサクソン人の薬子(くすし)から修道院に行き、ジョナスという修道士の助言を仰ぐように忠告を受ける。このようなエピソードから少なくともこの時代、ブリトン人とサクソン人は干戈を交える状況にはなく、平和裡に共存していたことが暗示される。物語を読み進むにつれて、このような設定の重要性は明らかとなるだろう。この村で二人はさらに二人の同行者を得る。サクソン人の騎士であるウィスタン、そしてエドウィンという少年である。二人が村に滞在中、悪鬼にさらわれたエドウィンを見知らぬ旅人であった騎士ウィスタンが救い出し、やむを得ぬ事情で四人は一緒にサクソン人の村を立ち去ることとなる。しかし彼らの道中は決して安穏としたものではない。見知らぬ兵士に会えば、即座に敵味方を判断してどのようにやり過ごすかを思案せねばならない。修道院も内部で修道士同士が隠然たる抗争を繰り返しており、修道士たちの力関係は彼らのうえにも微妙な影を落とす。老夫婦と騎士と少年、奇妙な縁で結ばれた四人は協力しあいながら、苦難に満ちた旅路を続ける。一方で彼らが生きる世界には奇妙な現象が発生していることが明らかになる。老齢にあるアクセルとベアトリスのみならず、人々の記憶がなぜかあいまいとなって、同じ体験の記憶が異なり、現実と夢の境界が混濁するのだ。その原因は比較的早い段階で示唆される。クエリグという竜が吐き出す霧のために人々の記憶は失われるのだ。セント・ジョージとドラゴン、騎士と竜が登場するのであれば両者の対決が物語のクライマックスとなることはたやすく想像されようし、実際にそのような予想は的中するのであるが、結果として訪れるのは予定調和的なハッピーエンドではない。

 カズオ・イシグロの物語が記憶と関わるということはしばしば論じられてきたし、本書について評した多くのレヴューでもこの点が指摘されている。読書の楽しみを残すためにここでは詳しく語らないが、この小説は記憶の喪失あるいは混濁の物語であると同時に、記憶の回復の物語でもある。そもそもアクセルとベアトリスの道行きの理由が、ある日、自分たちの息子のことを「思い出した」ことであったことを想起しよう。そして記憶を回復する中でアクセルとウィスタン、そしてガウェインというもう一人の騎士の意外な関係がおぼろげに浮かび上がる。この小説を読みながら、私は「わたしを離さないで」と本書のテーマ的な近似性に気がついた。映画や舞台としても上演されイシグロの小説の中でも「日の名残り」と並んでよく知られたこの小説は、寄宿舎風の施設で暮らすクローンの若者たちの物語である。彼らは自分たちの身体を他者に提供するために生を与えられ、短く残酷な青春を送っている。ところで私たちのアイデンティティーの核心、他者と決して共有できない本質とはなんであろうか。私は身体と記憶ではないかと思う。私は他者の痛みを共感することができないし、他者の記憶を共有することもできない。現在、続編が公開されているフィリップ・K・ディック/リドリー・スコットの「ブレードランナー」においてレプリカントと呼ばれる人造人間たちは自分たちの幼少期の写真に執着する。なぜなら(他者から移植されたにせよ)自らの記憶、つまり自分がレプリカントではなく人間であることを物質的に保証する手段は写真のみであるからだ。自身の記憶をめぐる真正性の問題はやはりディックの短編を原作としたポール・バーホーベンの怪作「トータル・リコール」の主題であった点も想起されよう。「わたしを離さないで」と「忘れられた巨人」は身体と記憶という本来的に人が自らのアイデンティティーの核心とすべき根拠が失われている状況を描いている点で一致するのだ。このことと関係するのであろうか、私はいずれの小説も鋭い痛みの感覚が貫いているように感じる。「わたしを離さないで」においては他者にとって必要とされる身体の部位を切除される文字通りの痛覚であるが、「忘れられた巨人」の場合は私たちの記憶を覆うかさぶたが次々に剥がされていく痛みとでも言おうか、ひりひりするような感覚が物語の進行とは無関係に私を苛んだ。「わたしを離さないで」における傷と「忘れられた巨人」における記憶は対応している。この問題はさらに深めることができるかもしれない。イシグロの小説に関してはしばしば「信頼のおけない語り手」という主題が論じられてきた。「忘れられた巨人」においては神の視点が採用され、それぞれの章によって焦点化される人物が異なる。三人称で語られながらも、彼らの記憶のあいまいさは語り手としての信頼を大きく殺ぐ。この小説がロードノヴェルという現在進行形の体裁をとった理由の一つはこの点にあるかもしれない。つまり私たちは、眼前で繰り広げられる登場人物たちの道行きについてはその事実性を認定することができる。しかし彼らの来歴や回想、過去に関わる部分に関しては正当性が保証されない。むしろ過去に関わる真実は物語をとおして次第に浮かび上がるのだ。

 「忘れられた巨人」の場合、記憶のあいまいさは個人的な問題に留まらない。そしてこの点が小説にさらなる深みを与えている。最初に述べたとおり、記憶の奇妙な欠落、歪みを体験するのはアクセルたちだけではない。彼らが暮らした村に住むブリトン人も彼らが通過した村のサクソン人も、さらに勇壮な騎士たるウィスタンやガウェインさえ部分的に記憶を失っている。この世界では個人の記憶のみならず集団的記憶も失われているのだ。物語の中では竜の吐き出す霧が記憶の不全の原因であることが示唆される。したがって竜を殺そうとする騎士と竜を守る騎士の闘いは記憶をめぐる闘争でもある。記憶は失われたままであるべきか、それとも取り戻されるべきか。そしていずれが人々にとって幸福であるのか。この問題に答えることは難しい。先にも触れたとおり、ブリトン人であるアクセルとベアトリスがサクソン人の村にも逗留しえたことはかつて民族間に存在した憎悪の記憶が薄れていることを暗示している。そしてかかる問題はもはやファンタジーの領域に留まらない。たとえば従軍慰安婦問題だ。かかる蛮行が存在した以上、このような事実を否定する立場を歴史修正主義と呼んで批判することはたやすい。しかし同時に私たちはこのような事実は悲惨な経験を負った女性たちがトラウマとも呼ぶべき個人的な記憶を開封することによって初めて光をあてられたことに自覚的であるべきではなかろうか。封印されていた記憶の回復はしばしば痛みを伴う。この小説の原題はThe Buried Giant 、埋められた巨人である。「忘れられた巨人」と意訳された理由は、これまで述べた本書の主題、記憶と忘却を考慮する時、容易に理解されるが、小説の終盤で「埋められた巨人」への言及がある。ウィスタンはアクセルに次のように語る。

「かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人が動き出しました。遠からず立ち上がるでしょう。そのとき、二つの民族の間に結ばれていた友好の絆など、娘らが小さな花の茎で作る結び目ほどの強さもありません。男たちは夜間に隣人の家を焼き、夜明けに木から子供を吊るすでしょう。川は、何日も流れ下って膨らんだ死体とその悪臭であふれます。わが軍は進軍を続け、怒りと復讐への渇きによって勢力を拡大しつづけます。あなた方ブリトン人にとっては、火の玉が転がってくるようなものです。逃げるか、さもなくば死です。国が一つ一つ、新しいサクソンの国になります。あなた方ブリトン人の時代の痕跡など、せいぜい山々を勝手にうろつきまわる羊の群れの一つ二つくらいしか残りません」

 この言葉は記憶が暴力の抑止であると同時に暴力への衝動としても機能することを暗示している。ブリトン人とサクソン人の対立は今日も正確に繰り返されている。イシグロ自身、本書を構想する契機の一つがボスニア・ヘルツェゴビナで、ルワンダで繰り広げられた民族浄化という凄惨な内戦であることを語っているが、それは決して過去の問題ではない。現在の日本でも在日コリアンに対するヘイト・スピーチが吹き荒れ、書店の店頭には見るに堪えない他民族へのヘイト本が平置きされている。奇しくもこのブログをアップする今日、私は朝刊でイシグロのノーベル賞受賞演説を読んだが、昨日の同じ紙面にはアメリカの社会病質者の大統領が今後中東の民族間抗争の決定的な火種となる決定を下したことが報じられていた。そしていつもながら私たちの政府はそれらの不正義を意図的に拱手している。

 物語に戻ろう。この小説は神話や民族といった大きな主題とアクセルとベアトリスの旅路という個人的な主題の間を往還する。先にも触れたとおり、この小説では三人称と神の視点が採用されているが、最後の章のみ「おれ」という人称が導入される。「おれ」とは人を島に渡すことを生業とする船頭であり、もしかすると「おれ」は老夫婦が旅路の最初に出会った船頭と同一人物かもしれない。一人称が導入されることによって、初めて二人の姿は具体的な人格をもった視点から描写される。果たして巨人の再生によってアクセルとベアトリスの関係にも変化が生じたのであろうか。そもそもこの船頭もまた「信頼のおけない語り手」ではないのか。結末についてはあえてここでは記さないことにする。おそらくそれを見届けることこそが、二人と長い道行を共にした読者の務めであるからだ。


by gravity97 | 2017-12-09 10:08 | 海外文学 | Comments(0)

フアン・カブリエル・バスケス『密告者』

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 本書は重い主題を扱った、重厚かつなんとも不透明な小説である。ファン・ガブリエル・バスケスというコロンビアの作家についてはすでに邦訳が二冊あり、名前は知っていたが、実際に作品を読むのは初めてである。バスケスは1973年生まれというから、ラテンアメリカ文学の担い手としては最も若い部類に属すだろう。コロンビア出身でパリに渡ったという経歴からは誰でもガルシア・マルケスを連想するだろうが、本書はマルケスの魔術的リアリズムとも独裁者小説とも無縁の、いわば小説についての小説であり、この点からむしろボルヘスを連想させないでもない。しかしボルヘスの抽象性とも遠く隔たり、本書で扱われているのはコロンビアで実際に起きた歴史の暗部とも呼ぶべき事件なのである。内容にかなり踏み込んで論じることをあらかじめお断りしておく。

 例によってまず形式的な問題から論じる。本書は四つの章と補遺と題された五番目の章から成り立っている。四つの章の題名を列挙するならば「不十分な人生」「第二の人生」「人生―ザラ・グーターマンによれば」「遺産としての人生」であり、「人生」がキーワードであることがわかる。実は「密告者」という小説は最初、第四章までで完結していた。それは第四章の末尾に「ボゴタ 19942月」という擱筆の場所と日時が記載されている点からも明らかである。さらに「まずは親父が心臓病と診断されたところから書きはじめようと、そう思い定めた俺は、最初の一文字をコンピュータに打ち込んだ」という最後の一文は直ちに「199147日の朝、親父が電話をかけてきて、俺を初めてチャピネロにある自分のマンションに誘った」という冒頭の一文に呼応しており、物語は一種の円環を形成する。つまり本書は「俺」によって執筆された「密告者」という小説に最後の「1995年 補遺」と記された章を加えることによって成立している。あらためて補遺と題された章が付け加えられた理由自体は容易に推察される。すなわち章の冒頭でそれまで重要な役割を果たしていた人物の死が報告され、さらにそれまでの章で不在であった重要な人物との邂逅が語られるからだ。しかし実際に第四章までの小説が刊行され、その後に補遺を付して新版が発行された事実はないから、このような語り自体が既に虚構として成り立っている。私が小説についての小説と呼んだのは本書のかかる構造を指している。

 内容に即して論じることにしよう。「不十分な人生」や「第二の人生」が誰にとっての「人生」であるかは容易に理解される。書き手である「俺」の父、最高裁判所や大学で雄弁術を教えるボゴタの名士、ガブリエル・サンローロである。興味深いことに「俺」もまた父と同じガブリエルという名を与えられているから、この親子は同じ名をもつ。直ちにアウレリャーノという名前が何世代にもわたって反復されるマルケスの「百年の孤独」が連想されるエピソードであるが、この小説において話者は常に子ガブリエルであるから、両者が混同される可能性はない。さらに作家自身のミドルネームもガブリエルであることを考えるならば、この小説の自己言及性は興味深い。「不十分な人生」はともかく「第二の人生」が何を意味するかは明白だ。語り手ガブリエルの父親ガブリエルは先にも触れた心臓病の手術を受け、その結果として健康を回復し「第二の人生」を手に入れる。回春したガブリエルは老齢にもかかわらず担当の理学療法士アンヘリーナと深い仲になる。父と息子、二人のガブリエルの関係は複雑だ。1988年、ジャーナリストである語り手、ガブリエルは共通の知り合いである亡命ユダヤ人女性ザラ・グーターマンの半生の聞き書き『亡命に生きたある人生』を出版する。しかしこの本に対して父ガブリエルは徹底的に批判する書評を発表し、この結果、父子の関係は決裂する。冒頭で父から電話をもらった際の語り手の驚きはこの点に由来する。自分の書いた本が実の父からなぜかくも激烈な批判を受けたが語り手は理解できない。手術の後、二人はぎこちない和解をする。しかし意外な運命が彼らを待ち受ける。クリスマスを過ごすためにアンヘリーナとともに彼女の故郷であるメデジンに出かけた父ガブリエルは高速道路で事故死を遂げる。車に乗っていたのは彼だけであった。名士であったガブリエルは大がかりな葬儀の中で称えられ、叙勲が予定される。しかし第二章の末尾において、アンヘリーナによって彼が過去に犯した悪事が暴露され、名声が地に落ちるであろうことが予告される。

 それでは父ガブリエルはいかなる破廉恥な行為を働いたか。第三章においてその手がかりが与えられる。この章はタイトルのとおり、子ガブリエルを聞き手として、父と息子の共通の知り合いであるザラ・グーターマンの語りによって構成される。次第に明らかにされる父ガブリエルの罪はヨーロッパの歴史と深く結びついている。私も初めて知ったが、第二次大戦下、日本の真珠湾攻撃を契機としてコロンビアは枢軸国、つまりドイツ、イタリア、日本と外交関係を断絶し、ドイツからの移民のうち、対独協力者を選別して「ブラックリスト」に載せ、弾圧を加えたという。私は第二次世界大戦が大西洋を隔てたラテンアメリカにもこのような影響を及ぼしていたことに驚いたが、実際にこのような事実はコロンビアでも忘れ去られつつあるという。実はこのようなエピソードは既に第二章において子ガブリエルが密かに潜入した大学での父ガブリエルの講義として言及されており、物語はタイトルが暗示する「密告」という主題の周りを旋回するかのようだ。父ガブリエルもザラもナチスが台頭するドイツから逃避してコロンビアの地にたどり着いた。子ガブリエルが著した『亡命に生きたある人生』とはエメリッヒという地からコロンビアへ亡命したユダヤ人であるザラ一家が、コロンビアでホテルを開業するにいたる経緯を記している。彼の地で亡命ドイツ人たちは緩やかなコロニーを形成していた。確かにその中にはコロンビア・ナチス党員もおればハンス・ベトケなるアーリア人種至上主義者もいたが、多くはドイツを追われた人々であった。本書の中にはボゴタの暴動とナチスによるユダヤ人迫害、いわゆる水晶の夜を重ね合わせる喚起的な記述があり、ユダヤ人であるザラにとっては暴力の記憶が反復される。父ガブリエルの罪は比較的早い段階で明らかにされる。父ガブリエルとザラの共通の知人で、子ガブリエルも旧知の亡命ドイツ人、コンラート・デレッサーは服毒自殺を図った。ガラス会社を起業して順調に業績を伸ばしていたコンラートが自殺した理由は何者かが彼を対独協力者として告発したためであった。コンラートは収容所に収監され、会社は破産し、さらに夫の無実を嘆願した妻マルガリータもその後出奔したため家庭が崩壊した。本当に父ガブリエルは友人であるコンラートに対して、そのような行為を働いたのか。興味深いことには本書にそれを確証する記述は存在しない。先ほど旋回という言葉を用いたが、これ以後も物語は「密告」という主題の周辺を旋回するばかりでその核心に近づくことはない。第四章において語り手はアンヘリーナと電話で会話する。告発者であるアンヘリーナという語り手を得ても父ガブリエルの所業は明確にはならない。本書の小説としての評価はこのような不透明さをどのようにとらえるかという点にかかっている。本書の核心がどこにあるかは明らかだ。ボゴタの名士である父ガブリエルは戦時中に亡命ドイツ人を密告するという恥ずべき行為に手を染めたか否か。しかし本書の語りの構造は問題の解明を困難にしている。つまり、本書は子ガブリエルという語り手を有しながらも、常にガブリエルの聞き書きとして成立している。第二章で今述べた問題の核心が示された後、第三章においてはザラ、第四章においてはアンヘリーナ、そして補遺である第五章においては、あえてここでは名前を記さないが一人の重要人物との対話をとおして、父ガブリエルの罪の有無が繰り返し問われる。しかしいずれの証言においても決定的な言明はなされない。本書の話法上の特色は「俺」という全編を通しての語り手が存在するにもかかわらず、物語の内容は多く「俺」に対してなされる第三者の証言として語られることである。語りの真偽は何によっても担保されることはないし、肝心の密告がどのようなものであったかは最後まで明らかにされることはない。人によってはこの小説が中心に大きな空白を抱えていることに不満を感じるかもしれない。そしてこのような語りは一つの暗喩としてとらえることができるかもしれない。すなわち歴史とは常に何者かによる証言として成立するが、その証言の真偽は決して明らかとされない。父ガブリエルが雄弁術の教授であったことも暗示的である。述べたとおり、この物語は書き言葉に対する話し言葉の優越として実現されているが、実はその中心に位置するのは雄弁ではなく沈黙、知っていることをあえて沈黙の中に放置する黙説法であるからだ。

 解説の中で訳者は本書をコンラッドの「闇の奥」と関連させて論じている。「闇の奥」についてはこのブログでも論じたが、主要な登場人物であるクルツの二面性を父ガブリエルに重ねる読みが提案されている。私も一つの小説を連想した。バルガス=リョサの「ラ・カテドラルでの対話」である。この二つの小説は父の隠された一面が息子によって明らかにされるという主題的な相似を示している。さらにタイトルからも明らかなとおり、このような追究あるいは糾弾が他者との対話をとおして深められる点においても共通している。バルガス=リョサの小説は相当に複雑な構造をもっていたと記憶するが、小説の形式への関心という点においてもバスケスは「ラ・カテドラルでの対話」を意識していたのかもしれない。私はラテンアメリカ文学を好むから、これまでこのブログで多くの作家や小説について論じてきた。しかし21世紀に入ってもなおこのような未知の作家の優れた作品に出会えたことは、未知の沃野がまだ私たちの前に広がっているという思いを強くした。


by gravity97 | 2017-10-30 22:26 | 海外文学 | Comments(0)

オマル・エル=アッカド『アメリカン・ウォー』

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 エジプトに生まれドーハで育ち、現在はアメリカに居住する著者によって今年4月に発表された小説が早くも文庫として訳出された。アメリカン・ウォー、アメリカの戦争とは2075年に始まる第二次南北戦争のことだ。地球温暖化で沿岸部が水没しつつあるアメリカ、化石燃料の使用を禁止する法案をめぐってミシシッピー、アラバマ、ジョージアという南部の三つの州が独立を宣言し、北部諸州との間で内戦が始まる。前者は赤いアメリカ、後者は青いアメリカと呼ばれる。この色分けが大統領選挙の際の共和党と民主党の支持者の色分けを暗示していることはいうまでもない。本書はいずれにも正義のないアメリカの戦争の中で翻弄される一組の家族の物語である。

 随所に事態の推移を記録する公式文書を挿入しつつ、プロローグと四つの章から成る本書の語りは二つの視点からなされ、時制についても二つの時間が導入される。すなわち一人称で語られるプロローグにおいてはこの内戦が過去の事件として語られる。語り手は第二次南北戦争の研究者でもある歴史家の「わたし」であり、人生も終わりに近づいているという記述から、高齢時における回想である点が示唆されている。事後の視点で語られるのはプロローグのみ。第一章から第三章までは三人称と神の視点が導入され、物語はほぼ時間軸に沿って展開する。冒頭の「そのころのわたしは幸福だった」というフレーズが物語の最後で反復される点からも明らかなとおり、本書の説話論的な構造はさほど複雑ではない。第四章で再び導入される一人称の語り手がプロローグのそれと同一である点はすぐに了解されるし、先に述べたとおり時制の構造も比較的単純だ。

 未読の読者のために一人称の語り手が誰であるかについてはあえて触れない。しかし本書のプロローグで語られる第二次南北戦争の経緯については、少し整理しておいた方がこのブログに触れて本書を手に取る読者にとって有益かもしれない。第二次南北戦争は2074年から2095年まで続いた。開戦の契機としては2073年にミシシッピー州で起きたダニエル・キ大統領の暗殺、そして翌年サウスカロライナ州で発生した抗議デモ参加者への発砲射殺事件がある。これ以後、自由南部国と北部諸州の間で激しい戦闘が続けられるが、この戦争に関連して生物兵器による二つの惨事が発生した。一つは2075年にサウスカロライナ州で発生した疫病であり、この結果、サウスカロライナ州は隔離され、この地域への帰還は不可能となる。(私たちにフクシマにおける原子力災害を連想させるに十分なイメージだ)一方、二つの陣営の和平交渉が進み、終戦の調印が行われた2095年、オハイオ州コロンバスにおける「再統合の日」記念式典においてもテロリストが生物兵器を撒布し、「再統合疫病」なる疫病の流行によってその後、10年間にわたって一億一千万人の人々が死んだという。物語を理解するうえでは生物兵器による惨事が二度にわたってサウスカロライナとオハイオで別々に発生し、前者が戦時中の出来事であるのに対して、後者は戦争の終結を別の大量死へと結びつけたことを覚えておくのがよい。災厄後のアメリカというイメージは私たちが見知らぬものではない。生物兵器の流出によって破滅した後のアメリカを描いた傑作として、私たちはスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』を知っているし、同様にロバート・マキャモンは熱核兵器によるアルマゲドン後の風景を『スワンソング』の中で描写した。あるいはこのブログで取り上げたコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』ではおそらくは核戦争後、死滅していく世界、ポール・オースターの『闇の中の男』では本書と同様に内戦状態にあるアメリカが描かれていた。崩壊していく世界のイメージはJ.G.バラードからアンナ・カヴァンまで文学の連綿たる主題系をかたちづくっている。

 しかしながら本書において世界の崩壊は圧倒的なリアリティーをもって私たちに迫る。なぜならここで描写される事件を私たちは既に知っているからだ。武装組織が支配して人が犬のように撃ち殺される風景、絶望した若者たちがテロへと走る難民キャンプ、人権を無視した拷問と虐待が日常化した捕虜収容所。これらは現在私たちの前に広がる光景と何ら変わるところがない。唯一異なるのは、それが最も豊かであるはずのアメリカという国の近未来として描かれていることだ。

本書の主人公、サラット・チェスナットは自由南部国と国境を接するルイジアナ州で、双子の妹のダナ、兄のサイモン、そして両親ともに貧しい暮らしを送っていた。物語の冒頭では6歳の少女として登場する彼女を過酷な運命が待ち受ける。父ベンジャミンは自由南部国のテロリストによる自爆テロの巻き添えで死亡し、故郷を追われた母と子供たちはキャンプ・ペインシェンスという難民キャンプに身を寄せる。希望のない難民キャンプの生活の中で男勝りのサラットは頭角を現し、かつて医師であったというアルバート・ゲインズという得体の知れぬ男の目に止まる。キャビアや蜂蜜といった貴重な食糧を融通する力をもったゲインズは最初、彼女に使い走りの単純な仕事を与え、次第に彼女の教師としてふるまい始める。一方、荒んだキャンプ生活の中でサイモンは次第に武装組織へと接近し、母マーティナは行く末を案じる。しかし難民キャンプでの家族の生活は突然に断たれた。民兵たちがキャンプを襲撃し、虐殺が繰り広げられたからだ。罪のない無数の難民が殺され、マーティナとサイモンも行方が知れない。ダナとともに虐殺を免れたサラットがゲインズに家族の復讐を誓う場面で第二部は終わる。

第三部はキャンプ・ペイシェンスにおける虐殺の五年後の情景から始まる。サラットとダナ、そしてサイモンはジョージア州のリンカートンという街で、虐殺の犠牲者に対する補償であろうか、自由南部国の援助を受けながら暮らしていた。大虐殺の際に頭に大きな傷を負ったサイモンはカリーナという看護師による日常の世話を受けてかろうじて生をつないでいた。虐殺を生き延びたサイモンは「奇跡の子」と呼ばれ、戦争で肉親を失った人々の信仰の対象となっている。サラットとはゲインズのもとで武闘訓練を受け、一人前のテロリストに成長し、ある暗殺事件と関わることによって、自由南部国の武装組織の男たちからも一目置かれる存在となる。しかしリンカートンでの平穏な暮らしも長くは続かない。双子の妹ダナは、コントロールを失って無差別に人を襲う「戦闘鳥」と呼ばれるドローン兵器の襲撃によって命を失い、サラットも捕縛され、自由南部国の「テロリスト」を収容するカリブ海のシュガーローフ収容所に収容され、筆舌に尽くしがたい虐待と拷問を受けることとなる。

このブログとしては珍しく、今、私は本書の第三章までのあらすじをかなり詳細に記した。しかし前もってこのような知識が与えられても本書を読む楽しみは減じないはずだ。第三章までのサラットをめぐる物語が愛する家族を一人ずつ失っていく喪失の物語であるのに対して、語り手を違えた第四章は一種の回復と治癒の物語である。第三章までの絶望に対して第四章で語られる希望がかろうじて拮抗し、一縷の救いが与えられる。物語が近未来に設定されているにも関わらず抵抗なく入り込めるのは、それが私たちと地続きであるからだ。冒頭に綴られる家族の生活は、温暖化による土地の水没という話題を除けば現在のアメリカの低所得者層のそれとさほど変わらない。難民キャンプでの生活、ことに暴力が新たな暴力を生み、若者たちが自爆テロへと唆される情景は今日私たちがパレスチナの難民キャンプで目にしているとおりだ。キャンプ・ペイシェントにおける大虐殺は北部諸州の暗黙の了解のもとになされた民兵による蛮行であった。かかる虐殺はこのブログでもジャン・ジュネに関連させて論じた1982年、西ベイルートのシャティーラ・キャンプにおける虐殺を正確に反復しており、テロの容疑者に拷問を加えるシュガーローフという収容所から、アフガニスタンやイラクで拘束した同時多発テロの容疑者を収容して拷問を加えたグアンタナモ収容キャンプを連想しないことは困難だ。端的に述べるならば、本書においては20世紀後半から今日にいたるまで、多く中東地域において人々が味わった暴虐と不条理があたかも主客を反転するかのように、アメリカの人々を苦しめている。小説の中でもはやアメリカに自助の能力はない。難民キャンプを運営するのは赤十字社ではなくイスラムの赤新月社であり、援助物資を届けるのは中国と「ブアジジ帝国」なる中東の大国である。ゲインズはかつて中東で勤務したことがあり、物語の中で重要な役割を果たすゲインズの友人ジョーはブアジジ帝国の出身者であることが暗示される。没落するアメリカ/西欧に代わって、中国そしてとりわけイスラムが強大な力を手に入れるという発想は先にレヴューしたウェルベックの「服従」と共通している。西欧の没落とイスラムの伸長、これらの小説は欧米の知識人層が現在抱えるイスラムフォビアを反映しているかもしれない。

本書は復讐の物語でもあり、サラットは復讐の女神であるかのようだ。父と母、双子の妹、家族が一人ずつ惨たらしい死を迎え、自らも収容所で虐待を受けて深いトラウマを負うサラットは復讐を誓い、敵の指導者や自らに拷問を加えた兵士、さらには抽象的な「敵」に対して銃やナイフ、時に特殊な兵器を用いて徹底的な復讐を果たす。彼女の最終的な復讐がどのような結末を引き起こしたかについて、あえてここでは記さない。物語の根幹、そして語りの形式とも深く関わっているからだ。最初に述べた通り、プロローグの語り手の存在によって、ここで語られる物語が既に終えられていること、「彼女」がおそらくこの世にいないことを私たちはあらかじめ知っている。そして読み進むならば私たちはサラットの復讐が結局のところ何も生み出さなかったことを理解するだろう。本書は復讐の不毛さを教える。物語の舞台は近未来のアメリカだ。しかし何度も繰り返すとおり、ここで語られる人々の苦痛は現在のアフリカから中東にいたる政治状況を反映しており、エジプト生まれでアメリカに居住する著者がこのような小説を発表した意味は問われてよい。アメリカと有志連合はアルカイダのウサマ・ビンラディンに復讐し(この経緯を描いた映画「ゼロ・ダーク・サーティ―」は暗殺と拷問、あたかも本書のサブテクストのようではないか)、ISISの指導者アブー・バクル・バクダーディーに復讐しようとしている。しかし今日アメリカで、ヨーロッパで吹き荒れるテロを目にするならば、そのような暴力は結局のところ新しい暴力、新たな復讐を呼び起こしたに過ぎないのではないか。テロに次ぐテロ、暴力の連鎖に私たちは抗しえないのだろうか。第四章で収容所から解放されたサラットは次第に傷から治癒するサイモンとその家族のもとでつかのまの安逸を経験する。この安らぎはサラットの人間性を回復させた。しかし彼女を冒すトラウマはもはやこの程度の安穏によって癒されることはなく、彼女は一つの決定的な決断をする。読者はこの物語が決して単純な予定調和に終わらないことをプロローグから予感するはずだ。漠然とした先説法の帰趨を見届けて、読者には重い読後感が残るだろう。

イデオロギーの対立が終わったにも関わらず、世界はさらに砕けて、互いに憎悪を深めている。今や危機は中東ではなく極東にあるかもしれない。私たちは極東の愚かな指導者に対して敵意をむき出しにする子供のような大国の大統領の暴言に毎日つきあわされている。そしてこの社会病質者に叩頭して、対話ではなくひたすら圧力を叫ぶ愚かな男が私たちによって選ばれた宰相なのだ。大量破壊兵器、難民キャンプ、テロリズムと強制収容所。ここで描かれる物語がもはや2075年のアメリカを舞台に選ぶ必要がないことを私たちはあらためて認識する必要があるかもしれない。


by gravity97 | 2017-10-09 22:57 | 海外文学 | Comments(0)

ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』『写字室の旅』

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 ゴールデンウイークの読書の楽しみとして、お気に入りのポール・オースターの未読の小説を二冊求めた。休日をはさんだとはいえ、ゴールデンウイークまで日を残して二日ほどで読み終えてしまったことは、あらかじめ予想できた誤算だ。このブログでもオースターについては既に三冊の小説についてレヴューをアップしている。おそらくこれまで最も頻繁に論じた対象の一つである。オースターに関しては、最近『冬の日誌』と『内面からの報告書』という自伝的な要素の強い新刊が訳出されたが、今回論じるのはこれらではない。以前も記したとおり、私はオースターについては翻訳が出るたびに読むようにしていたが、何冊か読みこぼしがあった。『ブルックリン・フォリーズ』と『写字室の旅』という2005年と2007年に発表された中編をいずれも柴田元幸の練達の翻訳によって読む。発表順で言うと、この二つの小説はこのブログで論じた『オラクルナイト』と『闇の中の男』の間に執筆され、興味深い共通点をもっている。柴田のあとがきによれば「2002年刊の『幻影の書』にはじまって、ポール・オースターは『自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語』を五作続けて発表した」今回取り上げる二冊の小説はその第三作と第四作にあたる。今名を挙げたほかの三つの小説についてはいずれもこのブログでレヴューを加えているから、奇しくも今回で私はこれらの五部作全てについてコメントすることとなる。

 さて、二冊の小説のうち、ここでは主に「写字室の旅」について論じることとする。しかしこれは「ブルックリン・フォリーズ」に比べて、こちらの方が優れているということを意味しない。どちらも優劣つけがたいが、もしどちらか一冊を推薦しろと言われたならば、むしろ私は「ブルックリン・フォリーズ」を選ぶだろう。それは単に分量だけでなく、オースターの小説の魅力が凝縮された佳作であるからだ。初めてオースターの小説を読む者にとってこの小説は格好の導入となるだろう。何よりもこの小説は読むことが楽しい。訳者の柴田もあとがきで「オースターの全作品の中でももっとも楽天的な、もっとも『ユルい』語り口の、もっとも喜劇的要素が強い小説だと言ってひとまずさしつかえないと思う」と述べている。私も全面的に同意する。それゆえこの小説についてはくどくど内容について論じるよりも、まず手にとっていただき、オースターの世界に足を踏み入れていただきたいと考えるのだ。少しだけ「ブルックリン・フォリーズ」の内容に触れるならば、読み始めるやそこにはニューヨーク、古本屋あるいは文学をめぐる蘊蓄といった、まことに私好みの主題が横溢している。これらはほかの小説とも共通するテーマでもあり、私は懐かしい土地に帰還したような思いがした。オースターが編集した「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」並みの奇譚を随所に織り交ぜながら年老いた主人公とその甥をめぐる錯綜した、しかし抜群に面白いエピソードの連続だ。「楽天的で喜劇的な」物語は必ずや読者を満足させることと思う。

 「ブルックリン・フォリーズ」を読む愉しさは未読の読者にために残して、私たちは「写字室の旅」に戻ることにしよう。「ブルックリン・フォリーズ」の二年後、2007年に発表された「写字室の旅」もまた実にオースターらしい物語だ。しかし物語を語ることの愉しさによって駆動された前者に対して、こちらは「物語を語ること」に明らかに意識的であり、オースターのいくつかの小説にみられるメタ性、つまり「小説についての小説」という側面が強調されている。「幻影の書」に始まる五部作にはいくつかの共通点がある。先にも引用した通り、柴田は「自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語」と評しているが、試みに「ブルックリン・フォリーズ」「写字室の旅」「闇の中の男」という五部作の後半三作品の冒頭の一文を順番に引いてみよう。「私は静かに死ねる場所を探していた。誰かにブルックリンがいいといわれて、翌朝ウエストチェスターから偵察に出かけていった」「老人は狭いベッドの縁に座って、両の手のひらを広げて膝に載せ、うつむいて、床を見つめている」「私は一人闇の中にいて、頭の中で世界をこねくり回しながら、今夜も不眠症をくぐり抜けようとあがいている」一人称と三人称という違いはあるが、確かにいずれも語り手の老いが前提とされている。特に後の二つの小説の冒頭は酷似しているといってもよい。人生を終えつつある老人を語り手に据えた点と現在70歳となった作家の心境が同期しているか否かについては即断できないが、興味深い点はこの五部作において次第にペシミズムが濃厚に感じられるようになる点である。「写字室の旅」において最初、老人と呼ばれた主人公はまもなく名を与えられる。ミスター・ブランク、空虚氏とはまことにオースター的だ。直ちに「幽霊たち」において任意の色彩の名前を与えられた登場人物たちも連想されよう。「闇の中の男」と「写字室の旅」、いずれにおいても主人公の老人は加齢を原因とした一種の幽閉状態にあり、特にミスター・プランクは動くことさえままならぬほどに衰弱している。両者に共通する重要な要素がもう一つある。それは物語の中に別の物語が嵌入する構造だ。「闇の中の男」では暗闇の中で老人が妄想する物語として、「写字室の旅」においては室内の机の上に積み上げられたタイプ原稿として別の物語が入り込む。もちろん小説内小説という手法はオースターが得意とするところで、記憶している限りでも「オラクルナイト」「リヴァイアサン」などでは小説の中で別のストーリーが展開され、「幻影の書」においては幻の映画がその役割を果たしていたと思う。「写字室の旅」と「闇の中の男」で注目すべきはそこで語られる物語がいずれも戦争と関連している点である。すなわち前者ではジーグムント・グラーフなる人工統計局の役人の手による、何処ともしれない土地での戦争の記録が語られ、後者においてはオーエン・ブリックという男によって記されるおそらくは近未来、内戦状態にあるアメリカの報告が綴られる。デヴュー当時、エレガントな前衛と呼ばれ、一種の都会的なミニマリズムを感じさせたオースターがこれらの小説において戦争というきわめて普遍的で泥臭い主題に接したことの意味については最後に論じる。

 「写字室の旅」にはもう一つのメタ的な仕掛けがある。衰弱し、トイレでの排泄もままならぬプランクのもとを次々に様々な人物が訪れる。元警官ジェイムズ・フラッド、食事と沐浴を介護し、最後にプランクを射精へと導くアンナという女性。亡くなった夫の名前を尋ねられたアンナがデイヴィッド・ジンマーという固有名詞を引いたところで、私はようやく記憶がよみがえった。デイヴィッド・ジンマーとは「幻影の書」の中で消息不明の謎の映画監督、ヘクター・マンを探す主人公の名であったはずだ。書庫でオースターの作品の頁をめくるならば、同様にピーター・スティルマンは「シティ・オブ・グラス」、ファンショーは「鍵のかかった部屋」、それぞれニューヨーク三部作中の登場人物であったことが理解された。オースターの名を知らしめたこれらの傑作を読んだのは30年近く前であったから、さすがにこれらの登場人物の役割についてはおぼろげな記憶しかないが、これらの事実が判明するならば、「写字室の旅」が何の暗喩であるかは明らかだ。ファンショーとは何者かを問われて元警官フラッドとプランクは次のような会話を交わす。「あなたの工作員の一人です」「わたしが任務に送り出した人間ってことか?」「きわめて危険な任務に」「そいつは生きのびたのか?」「確かなことは不明です。ですが大方の意見としては、もはや彼は我々と共にいないのではないかと」ミスター・プランクは作者オースターその人であり、この小説は老境にある作家のもとを彼によって創造された小説中の登場人物が訪ねる物語として了解されよう。むろんこのような解釈はあまりにもナイーヴとする見方もあろうし、小説の技巧に長けたオースターのことであるから、小説はこのような単純な解釈を許さない深みを備えている。ここで注目すべきは、彼を訪れる作中人物たちがいずれもプランクに強い敵意を抱いている点である。フラッドは次のように告発する。「あなたは残酷です。残酷で他人の苦しみに無関心です。あなたは人の人生をもてあそんで、自分がしたことに何の責任もとらない」物語の終盤でプランクは彼らによって詐欺から性的暴行、殺人までの罪状を告発され、死刑の宣告さえ受けるのだ。私はメタ的な枠組をもった小説や美術が好きであるから、これまでこのブログで論じた文学作品においてもしばしば作者と登場人物の関係が主題とされていた。例えばロレンス・ダレルの「アヴィニョン五重奏」やローラン・ビネの「HHhH」はそのような小説であった。しかしこれらの作品と比しても、本書における両者の関係は緊張に満ちている。最初に述べた通りここで論じた五部作を通じてオースターが描く世界は次第にペシミズムが濃厚になる。「ムーンパレス」や「リヴァイアサン」にみられたおおらかさは失われたように感じられる。「ムーンパレス」におけるコロンビア大学、「ブルックリン・フォリーズ」におけるブルックリン、これらの小説においてはニューヨークの街区が固有名とともに語られ、現実と強いつながりをもっていた。しかし「闇の中の男」は同時多発テロの記憶のない内戦状態のアメリカが舞台であり、「写字室の旅」にいたっては場所についての記述のない室内で物語が推移する。この五部作を通じて私はオースターと小説との関わりが大きな変化を遂げたような気がする。物語の中からオースターが愛したニューヨークという街の具体性が失われ、代わって何処とも知れぬ場所で繰り広げられる戦争をめぐるエピソードが小説内に挿入される。このような変化は「シティ・オブ・グラス」に始まる一連の小説に登場した人物たちにとって帰るべき場所、帰属すべき場所が失われたことを暗示しているのではないか。このように考えるならば、近作において作家と登場人物の間に強い緊張が生じた理由も理解できよう。

 30年近くオースターを読み継いで、私もまた何かが決定的に変わったことを深い感慨とともに思い知る。その決定的な転機についての記述が「ブルックリン・フォリーズ」の末尾にある。内容に立ち入ることとなるが、この小説自体に背景とされる時代について詳細な記述があり、おそらく誰もが想像する事件であるから思わせぶりな書き方はやめておこう。「ブルックリン・フォリーズ」の物語の中で様々な出来事を経験し、もはや「静かに死ねる場所を探す男」ではなく、新しい仕事の構想、そして愛する相手さえ得た老人ネイサンは入院していた病院から退院の許可を得て明るい陽光の降り注ぐ秋の朝、ブルックリンへと歩み出る。「だがいまはまだ8時で、そのまばゆい青空の下、並木道を歩きながら、私は幸福だった。我が友人たちよ、かつてこの世に生きた誰にも劣らず、私は幸福だったのだ」これが「ブルックリン・フォリーズ」の最後の一節である。しかしその前にネイサンが退院した日付が2001911日であったことが記されているから、私たちはそれから一時間も経たないうちにニューヨークを襲った惨事に思いをめぐらす。「ブルックリン・フォリーズ」は画然と分かたれた「それ以前」の日々をあえて描くことによって物語に深い余韻を残す。「ブルックリン・フォリーズ」の高揚の後に、「書字室の旅」と「闇の中の男」を読むことは、私たちにとって良き時代は既に終えられてしまったことをあらためて自覚させられるかのようだ。猿のような顔をした大統領が大統領選を「盗み」、結果的に911の遠因となったことについては小説の中でも怒りとともに触れられている。しかし今やさらに下劣な人物が大統領として居座る、もはや悪い冗談としか思えない状況にこの世界はなり果ててしまった。享楽的なポスト資本主義の最後のきらめきから監視と検閲による全体主義へ。そういえばオースターは早くも87年に発表した「最後の物たちの国で」において私たちの暗鬱な未来を予見してはいなかっただろうか。


by gravity97 | 2017-04-30 22:16 | 海外文学 | Comments(0)

ミシェル・ウェルベック『服従』

 

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 翻訳が刊行された後、タイミングを合わせたかのようにフランス国内で大規模なテロ事件が発生し、「予見的」として大きな話題になったミシェル・ウエルベックの「服従」を読む。それから二年が経過し、イギリスのEU離脱、そして社会病質者のアメリカ大統領就任という異常事態を経て、私たちはますます本書の警告が切実な意味をもつ世界に生きることとなった。ウエルベックに関して私はこれまで「地図と領土」しか読んだことがない。冒頭にジェフ・クーンズとデミアン・ハーストが登場する「地図と領土」もとんでもない小説であったが、本書も問題作と呼ぶにふさわしい。最初にお断りしておくが、内容に立ち入らず本書を論じることは困難であり、結末も含めてこのレヴューでは物語の内容に言及する。可能であれば、一度通読してから以下をお読みいただいた方がよいかもしれない。

 帯の惹句に次のような記述がある。「フランス大統領選同時多発テロ/賛否渦巻く予言的ベストセラー」「シャルリー・エブドのテロ当日に発売された近未来思考実験小説」実際に翻訳が刊行された当時はフランスにおけるテロとの関係でセンセーショナルに宣伝されたことを覚えているし、私が刊行直後に本書を求めなかったのは予断をもって小説を読むことを好まないためだ。しかし今回本書を読み始めるとやや印象が異なる。冒頭にJ.K.ユイスマンスの一節がエピグラフとして引かれ、「ぼく」を語り手とした一人称の物語が始まるが、そこで記述されるのはユイスマンスを専攻し、ソルボンヌ=パリ第四大学で博士号の学位を取得した主人公の大学の研究者としての比較的単調な生活である。短い章が重ねられて構成されている本書において、一人称の語りは安定しており、大学の文学研究科で教鞭を執る主人公の生活もテロや戦争とはほど遠い。パリ第四大学で博士号を取得し、パリ第三大学で教授職を得るということは典型的なインテリのキャリアであり、ある意味ではフランスで最も安定した状況にある知識人の肖像ということもできるだろう。実際にフランソワが専門とするユイスマンスについては、学者らしいディレッタンティズムが随所で開陳される。その一方で主人公フランソワの個人的な趣味も随所に書き込まれる。まず明らかになるのは主人公の性的な放縦である。彼は大学時代にも大体年に一人くらいのガールフレンドを作り、性的な関係を結ぶ。教職に就いてからも「毎年のように、女子学生たちと寝た。彼女たちに対して教師という立場であることは、何かを変えるものではなかった。ぼくと彼女たち学生の年齢の違いは始めの頃は大きくはなかったし、それがタブーの様相を呈してきたのは、どちらかといえば大学での昇進のせいであって、自分が年を取ったからでも、老いが外見に現れたからでもなかった」日本であれば眉をひそめる者もいるかもしれないが、おそらくフランスであれば主人公のコメントはさほど抵抗なく受け容れられることは予想できる。本書の冒頭でフランソワは長く安定したガールフレンドというよりセックスパートナーであったミリアムとの別れを経験する。しかし物語の中ではさほど大きな意味をもつ事件ではない。インテリの一人称小説らしく、随所にレストランや料理、あるいはワインに関するスノビッシュな固有名詞が散らされているが(このようなディテイルから私はブレット・イーストン・エリスの「アメリカン・サイコ」をかすかに連想した)、それらと同様にミリアムも交換可能な固有名詞の一つに過ぎない。実際に主人公はまもなくミリアムの不在の代償であるかのように「エスコートガール」たちとのセックスを楽しむ。物語の序盤において主人公の生活に大きな変化はないが、一方でフランスの社会を覆う変貌の予兆がいくつかの挿話を通して暗示される。私たちはフランソワを前景に、彼をめぐる世界を後景にした一枚の絵画のように物語に接するのであるが、私たちの視点は両者を往還し、やがて前者が後者の中に絡み取られていく様子を目撃する。変化を暗示する挿話とは以下のようなものだ。フランソワの講義に中国人の学生、そして黒いブルカを身につけたマグレブ出身の女子学生、つまり非ヨーロッパ圏の学生たちが出席するようになる、大学予算が大幅に減額される一方でサウジアラビアからオイルマネーを背景とした多額の寄付金が寄せられ、学長人事にも影響を与えるという噂が流れる。新しい同僚はかつてアイデンティティー運動(白人やキリスト教といったなんらかのアイデンティティーに基盤を置く極右の政治運動)に参加していたことを告白する、反ユダヤ主義の台頭が暗示され、ショッピングモールの店構えも微妙な変化をみせる。この小説は2022年、フランスの大統領選挙の年を舞台としており(この情報は本書の帯に記されているのだが、私が読んだ限り、物語の中に具体的な日付は書き込まれていない。大統領選の年であることから逆算されてこの年が特定されたのではなかろうか)、主人公はワインを片手にTVで選挙の帰趨を眺める。既成政党のUMPは退潮し、マリーヌ・ル・ペンの国民戦線が大勝する。そしてイスラーム同胞団が社会党を破ったことによって、右翼の国民戦線とイスラーム政党が大統領選挙を争うこととなった。私はフランスの政治には疎いから、このようなフィクションの現実性については判断できない。しかしマリーヌ・ル・ペンが国民戦線の創始者、ジャン=マリー・ル・ペンの娘であることくらいは知っている。イスラーム同胞団、そしてその党首のモアメド・ベン・アッベスは架空の存在であろうが、多くの実在の人物が散りばめられたこの小説は、フランス人の読者にとって、まさに今年大統領選挙を迎える自分たちと地続きに感じられたとしても不思議はない。

 選挙の結果についてはこの小説の最初の四分の一あたりで記述され、これ以後、物語は不穏な空気を帯びる。大学の同僚マリー=フランソワーズは夫が公安警察に勤務しており、彼は国民戦線が政権を取ることを阻むために社会党がイスラーム同胞団と手を結ぶことを予想する。彼によればイスラーム政権が関心をもつのはもっぱら人口と教育である。政権が樹立された場合、出生率を高めるため一夫多妻が公認され、教育制度が分割される。イスラーム的な教育において男女共学はありえず、女性はできるだけ早く結婚して家政を修めることが求められる。教師はすべてイスラーム教徒であり、食事から礼拝にいたる厳格な規律が求められる。イスラームはすでに周到な根回しをしており、ソルボンヌのごとき有力大学への潤沢な資金援助もその一環であるという。一方、フランソワの同僚は選挙の結果いかんでは内乱が発生すると警告し、銀行預金をおろして地方へ一時避難することを勧める。別れたはずのミリアムが突然フランソワの前に現れ、イスラーム政権から逃れるためにユダヤ系の両親とともにイスラエルに移住することを知らせる。決戦投票の結果、進歩的で穏健な主張を掲げるアッベスが勝利し、ついにフランスにイスラーム政権が成立する。この過程では暴動や銃撃もみられたが、比較的短い時間のうちに事態は収束する。混乱を避けてユイスマンスゆかりの地方を遍歴していたフランソワもパリに戻る。

しかしイスラーム政権の成立に伴い、フランソワの身辺は大きな変化を遂げる。勤務する大学はパリ=ソルボンヌ・イスラーム大学へと改組され、イスラーム教徒ではない彼は高額の年金を条件に解雇される。フランソワはかつての同僚がイスラームに改宗して大学に残り、自分以上の高額の給料を与えられていることを知る。同僚は「彼ら」によって女子学生を妻としてあてがわれ、さらに来月、「二番目の妻」をめとるという。社会も大きな変化を遂げる。政権の樹立とともに治安は回復し、家事に対して十分な手当てがなされた結果、女性は労働市場から撤退し、失業率は低下する。義務教育は小学校で終わり、それ以上の教育は私立学校に委ねられた。イスラーム化されるフランスの状況はきわめて具体的であり、本書が与えた衝撃もこの点に由来するだろう。私たちは同時多発テロ以来、イスラームと西欧の対立をいたるところで見てきた。先日のアメリカの入国禁止令がその最新ヴァージョンであることはいうまでもない。しかしここに描かれるのは選挙によって民主的にイスラームの属領とされる「西欧」の中心、フランスの姿である。そしてそれは社会と家庭の根底的な変革を伴う。

物語の終盤でフランソワはプレイヤード叢書のユイスマンスの巻の編集を打診される。ガリマール社から刊行されるこの有名な叢書の編集を任されるということは、その文学者についての権威であることを暗黙に示す。実際にこの叢書にユイスマンスが含まれているか否か私は知らないが、これが文学研究者にとって最大級の名誉であることは誰でも理解できよう。さらに編集者はフランソワをアラブ世界研究所の最上階で開催される新ソルボンヌ大学の開校式へと誘う。そこにはサウジアラビアの王子を含む多くのアラブ人とフランス人が出席していた。まもなく彼はニーチェを専門とするパリ=ソルボンヌ・イスラーム大学の学長ロベール・ルディジェ(もちろん改宗し、複数の妻をもつ)から大学へ復職する厚遇の条件を提示される。おそらくはプレイヤードの編集の誘いもフランソワを大学へ戻すための工作の一つであった。しかし彼がそれを受け入れるためには一つの条件が課されている。いうまでもなくイスラームへの改宗である。この小説の最後は改宗の儀式を終えて、新しい境遇、大学での地位やプレイヤード叢書の編集者という名誉、そしてあてがわれるべき複数の女子大生をフランソワが夢見る場面で終わる。「それは第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないものだ。ぼくは何も後悔しないだろう」ただし注意深く読むならば最後の章は、おそらくフランス語の条件法によって書かれているだろう。つまり実際に主人公がそのような選択をなしたかどうかについては読み取ることができない。ウェルベックらしいかなりあざとい語りによって締めくくられているのである。

最後まで読み通すならば「服従」というタイトルの意味は明らかである。この小説においてフランスのインテリたちは嬉々としてイスラームに服従する。彼らに与えられるのは地位や名誉、高い給料、さらに複数の若い妻だ。(ルディジェは15歳の少女を妻として紹介する)あまりにも通俗的な欲望のために大学の教師たちが「転んで」ゆく姿は滑稽を通り越して悲惨でさえある。おそらくこの点こそ西欧の知や良識の拠点である大学が物語の舞台に選ばれた理由であろうし、ここには知識人の退廃あるいは堕落という普遍的なテーマを認めることもできるだろう。女性を隷属状態に置くこと、教育の否定、宗教の厳格な支配、これらが暗示するのは中世の世界だ。本書をとおして私たちは近代西欧社会を成立させた啓蒙や教化が無効化された社会が、大統領選挙という民主制をとおして到来し、大学人という最高の知性たちがあっけなく隷従する過程を目撃する。今日、本書が予言的な意味をもつのはこの点であろう。国家を超えた共同体を形成すること、難民や流民を自分たちの社会の中に受け入れること、融和や平和への希求すること、私たちは自分たちがこれまで理想として掲げてきた価値観が急速に崩壊する現場に立ち会っている。しかもイギリスとアメリカの例から明らかなとおり、それは大多数の市民が望んだ結果なのである。嬉々とした服従。それを解く鍵が物語の中にある。ルディジェの住まいはかつてジャン・ポーランが住み、そしてポーリーヌ・レアージュが「O嬢の物語」を執筆した屋敷であった。ルディジェは次のように語る。「『O嬢の物語』にあるのは服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力をもって表明されたことがなかった。それがすべてを反転させる思想なのです。(中略)女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように人間が神に服従することとの間には関係があるのです。イスラームは世界を受け入れた。そして世界をその全体において、ニーチェが語るように『あるがままに』受け入れるのです」服従によって世界を受け容れること、おそろしくニヒリスティックな発想がニーチェの研究者であるルジェディを介して語られる時、私たちはそのような思想が啓蒙という「光の世紀」を経過した西欧近代と果たして無縁であったのか、問わずにはいられない。あるいはユイスマンス。社会がイスラーム化する中で、フランソワはユイスマンスが滞在した修道院を訪れて数日の間、聖務に勤しむ。私はユイスマンスについてはデカダンスの作家であることくらいしか知識がないが、この作家の研究者を主人公に据えたことにはなんらかの意味があるのだろうか。本書においては西欧の「輝かしい」近代がイスラームの中世によって相対化されている。イスラームと西欧の対立という図式はおなじみのものであるが、これまで私たちはテロリズムやアラブ・ゲリラといったステレオタイプによってしか、イスラームを表象することができなかった。(いうまでもなくエドワード・サイードが論じた点だ)しかしここには暴力ではなく善意と誘惑によってイスラームがヨーロッパを併合する可能性、啓蒙の終焉と中世への退行が示唆されている。もちろんそれは一種の思考実験かもしれない。しかし民主主義と代議制の劣化が致命的なまでに進行した今日にあっては、かかる悪夢が現実化することはありえないと誰が言えようか。民主主義は疲弊している。先日も私たちは自分たちが選んだはずの宰相がアメリカの社会病質者にへつらい、文字通り「服従」する姿を目撃したばかりではないか。


by gravity97 | 2017-03-01 22:13 | 海外文学 | Comments(0)

ロベルト・ボラーニョ『2666』

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 毎年、年末年始には数巻にわたる長編を読むことにしている。このブログでもディケンズの『荒涼館』やロレンス・ダレルの「アヴィニョン・クインテット」について論じた。昨年から今年にかけて準備したのは私にとっても初めて読む作家、チリのロベルト・ボラーニョの大作『2666』。大判の単行本、上下二段組で850頁に及ぶ大長編である。読み終えて唖然とする。なんとも超絶的な怪作であった。
 最初に遺族による注記がある。遺族という言葉が暗示するとおり、ボラーニョは50歳で早世し、本書は彼の遺作である。後から論じるとおり、このような事情も本書の内容と無関係ではない。注記によれば作家は五章から成る本書を、それぞれ五巻の分冊として刊行することを遺言として遺した。しかし彼の友人であり文学上の助言者のアドバイスにしたがって分割せず一巻の書として刊行された。「病状が悪化して最悪の事態に至らなければ、彼はきっとそうしていたことでしょう」と注記の末尾にある。最初に種明かしをしてしまえば、五つの章はまさに絶妙の関係で結ばれている。この長大な小説にあっては末尾と呼ぶべき最後のわずか20頁ほどで一挙に視界が晴れるかのように、五つの章、五つの物語が焦点を結ぶ。私が超絶的と述べたのはこのことである。この点で今挙げたダレルの「アヴィニョン・クインテット」と比較することは意味があるだろう。アヴィニョン五重奏も複雑な構造をもつ小説であり、本書と同じ五つのパートから構成され、それぞれが独立した物語として、数年の間隔を空けて出版された。しかしアヴィニョン五重奏は全体として一つの物語のとしてのゆるやかな結構を保っており、五巻の物語をこの順番に違和感なく読み進むことができる。これに対して、「2666」において、読者は章ごとに次々に全く別の物語の中に投げ込まれるかのような思いにとらわれる。この印象をさらに強めるのは五つの章の量的な不均衡だ。最初の三つの章がそれぞれ150頁、60頁、100頁ほどであるのに対して、後半の二つの章は260頁と230頁余りの量がある。注記によれば分冊としての刊行ペースや出版社との契約金まで指示が残されていたとのことであるから、本書を完成された最終稿とみなしてもよかろうが、作者の死後に刊行されたという事情を勘案するならば、このようないびつな分量の配分が初めから意図されたものであったか否かについては若干の疑問が残るし、この点は作品の評価とも関わっているだろう。以下、今回は内容についてもかなり踏み込んで論じるため、白紙の状態でこの小説に向かいたい読者はまず書店か図書館へと足をお運びいただくのがよかろう。
 それにしても奇怪な小説である。「批評家たちの部」と題された第一章は次のような文章で始まる。「ジャン=クロード・ペルチエが初めてペンノ・フォン・アルチンボルディを読んだのは1980年のクリスマスのことだった。当時、彼は19歳で、パリの大学でドイツ文学を学んでいた」批評家たち、というタイトルが暗示するとおり、冒頭の章ではアルチンボルディというドイツの小説家をめぐり、彼の小説を研究する国籍を違えた四人の批評家たちが主人公となる。フランスのペルチエ、イタリアのピエロ・モリーニ、スペインのマヌエル・エスピローサ、そして紅一点、イギリスのリザ・ノートンである。アルチンボルディなるドイツ作家は架空の存在であり、言及される多くの小説も実在しない。四人の批評家たちはヨーロッパ各地で開催される学会やセミナーを通して互いを認知し、親密な交際が始まる。四人のうち、モリーニは多発性硬化症のため車椅子の生活を余儀なくされているが、世代が近いこともあり、四人は様々な機会をとらえてそれぞれが住む都市を行き来して次第に交流を深める。ペルチエとエスピローサは次第にノートンに好意を抱くようになり、性的関係をもつ。セックスは明らかに本書を通底する主題であり、彼らの関係は三人でのセックス(メナージュ・ア・トロワ)にまで発展する。第一章の隠れた主人公が作家アルチンボルディであることは言うまでもない。冒頭に1980年という年記があることから理解されるとおり、本書は近過去を舞台としており。アルチンボルディが1960年代から小説の発表を始めたことも記述されている。しかしアルチンボルディは公の場には決して姿を現さず、原稿は多く郵便を介して出版社に送りつけられる。四人の批評家たちはアルチンボルディの消息を探る。北海に面した寒村で偶然にアルチンボルディに出会った作家、出版元の社長夫人、彼らは作家と面識のある人物を訪ねるが、非常に背の高いドイツ人であることが判明しただけで、その行方は杳として知れない。トゥルーズで開かれたセミナーで彼らはつい最近アルチンボルディに会ったというメキシコ人と知り合う。彼を通してアルチンボルディがメキシコ北西部、アメリカ国境のソノラ州にあるサンタテレサという街を訪れたことを知った批評家たちはその街を訪ねてアルチンボルディの痕跡を探す。この街については彼らがそこへ赴く前に一つの不吉な噂が新聞記事として書きつけられていた。それによればこの街では100人を超す女性たちが殺されており、犯人は特定されていないというのだ。サンタテレサを訪れた批評家たちはサンタテレサ大学の文学部長から「アルチンボルディの専門家」であるアマルフィターノという教授を紹介され、彼とともに調査を続けるが収穫はない。報われない探索。劇的な展開を欠いたまま第一章が終わる。そして四人の批評家はこれ以後、この小説には一切登場しない。しかし既にこの章の中にあたかも通奏低音のごとく物語とは直接関係のない不吉なエピソードが散りばめられている。例えばエスピノーサとペルチエによるパキスタン人のタクシー運転手に対するほとんど理由のない暴行、民芸品の売り子をしている少女とエスピノーサのペドフィリア(小児性愛)に近いセックス、自ら右手を切り落とし、切り落とした腕に防腐処置を施したエドウィン・ジョーンズというイギリスの画家のエピソード。暴力と性愛というモティーフはこの長い小説につきまとい、後述するとおり第四部では直接的な主題となる。
 第二章は「アマルフィターノの部」と題されている。題名が示すとおり、この章では第一章に登場したサンタテレサ大学の哲学教授、アマルフィターノが焦点化される。メキシコ西北部の殺伐とした砂漠の町に娘と二人で住む大学教授はバルセロナからこの地に流れ着き、彼の妻は出奔したらしい。前章で彼がアルチンボルディの研究者であることが明らかとされているが、逆にこの章ではドイツ人作家についての言及はほとんどない。代わって美術史を学んだ者にとっては興味深いエピソードが開陳される。書斎に届いた箱の中からアマルフィターノはラファエル・ディエステという書き手の『幾何学的遺言』という見覚えのない本を見つけ(この本は実在するらしい)屋外に物干し用ロープに吊るすという奇妙な処置を施す。いささかのディレッタンティズムとともに私はこの一節を理解した。マルセル・デュシャンだ。デュシャンは1919年、滞在中のブエノスアイレスから妹のシュザンヌに幾何学の教科書をバルコニーに放置し、風に晒されたままの状態で放置せよという指示を与え、《不幸なレディメイド》と名づけて作品化した。今や写真のみによって知られるレディメイドの挿入に私は当惑した。先のエドウィン・ジョーンズの挿話、あるいは明らかにアルチンボルドを連想させる作家の名前、この小説の中にはさまざまなかたちで美術への謎めいた参照がなされる。そしてこの章においてもサンタテレサにおいて引き続く女性の連続殺害事件について言及される。続く第三章「フェイトの部」の主人公もアフリカ系のアメリカ人、新聞記者のオスカー・フェイトという全く未知の人物だ。フェイトは不慮の死を遂げた同僚の代わりにボクシングの試合の取材を命じられる。フェイトが赴いた土地の名を聞いて、私たちはようやくばらばらの物語の接点を知る。いうまでもなくメキシコ、ソノラ州のサンタテレサである。サンタテレサを訪れたフェイトは同じ試合の取材に訪れた記者たちのたまり場で現地の怪しげな男たちと知り合いとなり、若い女性をターゲットにした連続殺人事件が頻発していることを知る。荒廃した街でフェイトは第二章の主人公、アマルフィターノの娘、ロサと会い、二章と三章はかろうじて結びつく。メキシコシティからこの事件を取材に来た女性記者は、この事件を調査する新聞記者たちが何人も誘拐され、行方不明になっているという不気味な噂をフェイトに伝え、まもなく収監されている事件の容疑者と面会すると述べる。物語全体の輪郭は相変わらずあいまいなままであり、この章の最後に記された情景の意味はおそらく本書を読み通して初めて了解されるはずだ。
 続く「犯罪の部」という長大な章には誰もが圧倒されるだろう。なによりも300頁近い分量があるにもかかわらず、その大半は1993年に始まる連続女性殺人事件において死体が発見された状況の説明に終始するからだ。たとえばこんな感じだ。「二月半ば、サンタテレサの中心街の路地で、ゴミ収集人が新たな女性の遺体を発見した。年齢は30歳前後で、黒いスカートと胸元の開いた白いブラウスを着ていた。ナイフで刺し殺されていたが、腹と腹部には何度も殴られた形跡があった」ほとんどの場合、犯人は不明であるが、時に恋人や知人が犯人と名指しされることもあるから、この小説は犯人捜しのミステリーではない。「フェイトの部」の中の記述と殺害の状況が一致することによって犯人が漠然と想定される場合もあれば、犯人の特定とはつながらない何人かの容疑者が拘束される場面も描かれている。この小説において話者は神の視点をとるから、殺人者の語りを入れることも可能なはずであるが、そのような語りは意図的に排除されている。殺人の凄惨な状況は地の文の中で淡々と語られ、列挙される被害者の数、延々と続く殺害状況の説明の反復に読者は早々に呆然とする。終わることのない殺害状況の記述の間に、教会を荒らし大量の放尿をして立ち去る瀆聖者の暗躍、捜査官と精神病院院長との性愛、TVに出演して殺人を糾弾する千里眼の女、刑務所の中での容疑者の虐殺、FBIの専門家の訪問、関連しながらも雑然としたエピソードがいくつも重ねられる。この章を読むと、私たちは1990年代のメキシコの地方都市が置かれた殺伐とした状況をきわめて具体的に理解する。全くの偶然であるが、本書を読んでいる途中、私は『世界』で連載の始まったメキシコの麻薬戦争に関するルポルタージュを目にして驚いた。実はこの小説に描かれている状況はフィクションではなく、現実なのである。「マフィア国家という敵」と題されたルポルタージュにおいてもサンタテレサならざるシウダー・ファレスという街で実際に麻薬にからんだ誘拐、殺人、強姦といった犯罪が日常茶飯事のように発生していたことが報告されている。フィクションと現実の間を往還するこの長い章は97年の末に発見された身元不明の女性の遺体についての記述によって幕を閉じる。
 最後の章が「アルチンボルディの部」と題されていることに読者は驚かないだろう。この章に最初に登場するのは片目の母親と片足の父親の間に生まれたハンス・ライターという少年である。注意深い読者であればこの名前がすでに第一章の中に記されていたことを記憶しているだろうし、ライターが成長するにつれて巨人のような背丈となったという記述からライターとは何者か、想像することはさほど難しくない。早回りをして種を明かせば、この章はライター/アルチンボルディの伝記であり、一種のビルドゥングスロマンと読めないこともない。ライター少年は長じて兵士となって第二次大戦に従軍し、ルーマニアあるいはソビエトにおける奇怪な体験が記される。ベルリンでは後年彼のパートナーとなるインゲボルクという少女と出会う。戦闘で負傷したライターは療養中に滞在していた丸太小屋でボリス・アブラモヴィッチ・アンスキーという男の書いた手記を発見し、アンスキーの手記は小説内小説として物語に奇妙な彩りを添える。さらに捕虜となり収容所で知り合ったツェラーという男の告白もまた小説の中に組み込まれたテクストだ。ある事件を介して自分の名を捨てる必要に迫られたライターは敗戦後のケルンで小説家アルチンボルディとして再生する。インゲボルクと再会し、小説の執筆を始めたアルチンボルディは次第に作家としての地歩を固めていく。その過程で第一部において「批評家たち」が訪ねた関係者が次々に登場する。
 大部の小説であるから、単純な要約を許すものではないが、ひとまず本書の粗筋を記した。この小説が分裂的な内容でありながら全体として一種の円環を閉じる独特の構造を有していることは理解いただけるだろう。最初に述べた通り、私にとってボラーニョの小説を読むのはこれが初めてであるから、ほかの小説と比較はできないが、それにしてもなんとも奇妙な小説だ。まず私が感じたのは、本書がこれまで耽読してきたラテンアメリカ文学とは全く異質であることだ。確かにメキシコという中米が舞台であり、作家自身メキシコに長く滞在している。しかしここにはラテンアメリカの小説にしばしば認められるエキゾティシズムや土俗性、神話性は存在しない。この小説に一番近いテイストを帯びた作家はボルヘスであろう。なるほど陰惨な殺人事件の状況の描写が小説の半分を占めているにもかかわらず、全体に抽象的、図式的な印象が強い。生々しい死体の描写も数限りなく繰り返されることによって相対化され、希薄化される。確かに第四章をこれほど書き込む必要があったかという点には疑問が残る。実際、以前このブログで触れた「ラテンアメリカ文学入門」において寺尾隆吉は「これほど頁を費やす必要があるとは思われない」と切り捨てている。作者がこの作品をさらにブラッシュアップする猶予があれば、あるいは優秀な編集者が助言を与えていたらこの章が短縮された可能性はおおいにあると私も感じる。さらに本書からボルヘスを連想した大きな理由はこの小説が小説や作家を主題とした一種のメタフィクションである点だ。第一章においては批評家たちが架空の作家、架空の小説について議論を続ける。アマルフィターノの章において象徴的に扱われるデュシャンのオブジェは何よりも書物を素材にしていることによって導入されたのではないだろうか。あるいは小説家の誕生を主題とした第五章においても小説の中の小説というよく知られた手法を用いて別の物語が入れ子状に組み込まれている。かかる自己参照性はポスト・モダニズムとの関係で論じられることが多い。ヨーロッパ、スペインに滞在したことがあるとはいえ、コスモポリタニズムからは程遠いチリという土地で、かかる意識がいかにして作家に芽生えたかという点に私は興味がある。
 このような抽象性の一方で、この小説はきわめて具体的な手触りも与える。サンタテレサ(先に触れたシウダー・ファレスをモデルにしていると解説にある)でなぜかくも多くの女性が殺されるのか。メキシコ北西部、アメリカと国境を接するという地理条件が大きく関わっている。この街に多くの若い女性が住んでいる理由は小説の中でも説明されている。この街にはマキラドーラと呼ばれるアメリカの下請け工場が無数に存在し、若い女性は安い労働力として搾取されているのだ。実際に小説の中で強姦されたうえで殺害される無数の女性はほとんどがマキラドーラの工員だ。低賃金ではあるが若い女性が簡単に仕事に就くことができる無数の工場が林立する工業都市としてのサンタテレサの光と闇については登場人物の口をとおして語られている。街の中に点在するスラム、度重なる不法投棄によって郊外に際限なく広がるごみ処理場、警察や刑務所の中にはびこる汚職と腐敗。この街の殺伐とした情景は何度も描写される。昨日、「アメリカ大統領」に就任した社会病質者ドナルド・トランプが口汚くののしるとおり、安い労働力を提供する国境の街とはグローバリズムの負の部分であり、したがってこの小説はグローバリズムの表象あるいはそれへの批判といえるもしれない。先にこの小説がいわゆるラテンアメリカ文学と異質であると述べたが、本書においてはボルヘスを連想させる抽象性、自己言及性とパルプノワールを思わせるグロテスクな身体性、具体性が合体し、いくつもの時代といくつもの場所を束ねながら一つの壮大な物語が浮かび上がる。
 それにしてもなぜドイツ人作家が主人公として選ばれたのであろうか。作家の略歴を参照するならば、ボラーニョは世界各地を転々としており、ヨーロッパでもフランス、スペインに滞在した経験はあるとのことだが、ドイツとの深いつながりは認められない。第五部で描かれる第二次大戦中から戦後にかけてのエピソード、ユダヤ人の虐殺や敗走するドイツ兵たちをめぐる奇譚の数々から、私はギュンター・グラスの一連の小説、とりわけ「ブリキの太鼓」と「犬の年」を連想した。グラスの名はカフカやデーブリンとともに作中で言及があるし、ボラーニョには「第三帝国」「アメリカ大陸のナチ文学」といった作品も発表しており、ドイツあるいはナチズムに対する思い入れがあるのかもしれない。しかしながらこれらの小説の紹介記事を読む限り、ここでも私の期待はみごとにはぐらかされることになりそうだ。さいわいにもこの何ともとらえどころのない小説家の作品については近年、多くが日本語に翻訳されている。ラテンアメリカの作家を読む楽しみがまた一つ増えたと感じるのは私だけでなかろう。
 最後に一点、タイトルの「2666」について。解説によればこれは2666年を示し、「小説の異なる部がそれぞれあるべき場所に収まるための消失点」であり、この年号についてはほかの小説でも言及があるとのことだ。しかし少なくとも本書を通読する範囲についてはこの謎めいた年号についての情報は一切与えられることがない。
by gravity97 | 2017-01-21 19:58 | 海外文学 | Comments(0)

寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』

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 ラテンアメリカ文学についてはこのブログでも何度もレヴューした。とりわけ今年は邦訳の刊行を鶴首して待っていたカルロス・フェンテスの大作「テラ・ノストラ」がついに訳出され、大きな興奮を味わったばかりだ。思うに日本におけるラテンアメリカ文学の紹介はこれまで三つほどのピークがあった。最初はピークというほどでもないが、「百年の孤独」に始まる名作群が新潮社の「新潮・現代世界の文学」シリーズと集英社の文学全集「世界の文学」をとおして堅調に翻訳された1970年代後半から80年前後の時期だ。早川良雄による前者の装丁と深緑色の後者の造本は強く印象に残り、実際にそれらは今も私の書斎の一角を占めている。何度も記すとおり、私が初めてラテンアメリカ文学に出会い、強い衝撃を受けたのは1980年、大学一年の夏にガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ体験であった。それからまもなく日本にもラテンアメリカ文学のブームが到来する。1980年代中盤から90年代初めにかけてラテンアメリカ文学に関する二つの叢書、集英社版の「ラテンアメリカの文学」全18巻と現代企画室の「ラテンアメリカ文学選集」全15巻の刊行はまさに日本におけるラテンアメリカ文学受容の一つのピークをかたちづくるものであった。そしてこの数年、私はラテンアメリカ文学をめぐる三回目の関心の高まりが到来しているように感じる。具体的には水声社の「フィクションのエル・ドラード」、現代企画室の「ロス・クラシコス」といった個性的な叢書を介してスペイン語圏におけるこれまで比較的知られることのなかった作品、翻訳が待たれていた作品が次々に翻訳されている。先日も私は書店でかつて集英社版の「世界の文学」に収録されていたフリオ・コルタサルの「石蹴り遊び」が水声社から復刊されたことを知ったばかりだ。「ロス・クラシコス」の劈頭を飾るホセ・ドノソの傑作「別荘」については既にこのブログでも論じた。本書の著者である寺尾隆吉は「別荘」の翻訳者であり、そのほかにも多くのラテンアメリカ文学の翻訳を精力的に進めている。かつてラテンアメリカの文学といえば、鼓直、木村榮一といった翻訳者で知られていたが、翻訳者も世代が変わったということであろうか。
 日本でもラテンアメリカ文学に一定の受容があったとはいえ、これまでその全体を俯瞰する概説書はほとんど存在しない。唯一の類書は木村榮一の「ラテンアメリカ十大小説」(岩波新書)であろうが、タイトルが示す通り、それぞれの小説についての解説が中心となり、概観というには個別的であり、選ばれている作品のラインナップも今日ではやや古い。マルケスに関しては全集が刊行されているし、バルガス=リョサやルイス・ボルヘス、カルロス・フェンテスといった比較的紹介が進んでいる作家については作品の解説をとおして断片的ながらかなり多くの知識を得ることができるとはいえ、ラテンアメリカ文学を総体として理解するうえで、本書の刊行は画期的といえよう。私も多くの刺激的な知見を得ることができた。本書の意義をひとまず三つの点から論じておこう。
 まず一つはラテンアメリカ文学に歴史的な見取り図が与えられたことだ。本書ではラテンアメリカ文学の前史とも呼ぶべき20世紀以前のラテンアメリカの文学状況から説き起こし、いわゆるラテンアメリカ文学のブームの到来と消長を論じたうえで、未来を展望する時間軸が設定されている。私たちはこれらの小説を刊行された時系列とは無関係に、邦訳された順に読んできたが、本書によって初めてそれらがどのような時間的布置をかたちづくってきたかを知った。私はカルロス・フェンテスが1960年前後にラテンアメリカ文学そのものを牽引する重要な役割を果たしたこと、このブログでも取り上げ、寺尾がどちらかといえば批判的に論及するイザベル・アジェンデの「精霊たちの家」が「百年の孤独」のはるか後、1980年代に入って発表されたことにあらためて思い至った。寺尾に倣ってラテンアメリカ文学の通史を略述するならば、50年代から60年代にかけてアルゼンチンとメキシコの作家たちによって準備されたラテンアメリカ文学のブームは67年の「百年の孤独」の出版を一つの契機として一挙に爆発する。70年代にいたるやフェンテス、バルガス=リョサ、マルケス、コルタサルそしてドノソという五人組は次々に傑作を上梓して黄金時代を迎える。しかし70年代後半よりブームにも陰りがみえ、寺尾が「ベストセラー時代」と呼ぶブームの陰で一種の退廃と衰退が進行する。そして今世紀に入って新しい作家を得てラテンアメリカ文学は新たな展開の途につきつつある。このようなパースペクティヴが与えられるだけでも個々の作家たちについての認識はずいぶん深まる。
 同様の見取り図は空間に対しても与えられるだろう。後でも論じるとおり、ラテンアメリカ文学とは主にスペイン語によって執筆された多国籍文学であり、私たちは作家について確認することはあっても、国籍の違いをさほど気にしない。しかし本書によれば少なくとも初期においてラテンアメリカ文学の成熟を準備した土地はマルケスのコロンビアでも、バルガス=リョサのペルーでもなく、アルゼンチンとメキシコであったという。19世紀後半以降、アルゼンチンがとりわけエリート層の知的教養において世界屈指の国であったという指摘は興味深い。私たちは何の根拠もなく日本が文化や教育の分野でも先進国であると思いこんでいるが、以前より私は海外に行くたびに、少なくとも出版の分野で日本は相当な後進国であるという思いを強くしていた。本書の中に1958年にマドリードを訪れたバルガス=リョサがリマよりはるかに劣る文化的後進性に驚いたという記述がある。フランコ独裁下のマドリードはともかく、今日、日本が文化的なアドヴァンテイジを有していると考えることはナンセンスだ。書店の店頭に積まれたごみのような嫌韓本を見るだけでこの国の文化的劣等性は誰の目にも明らかではないか。アルゼンチンを代表する作家としてはまずボルヘスが挙げられよう。いわゆるラテンアメリカ文学のテイストとは異なる抽象的な小説で知られるモダニズムの極北のような作家が「第三世界」に出現したことは意外に感じられるが、この国の文化的風土の成熟を前提とするならば、何の不思議もない。ボルヘスがアルゼンチン幻想文学の系譜に連なるという指摘は示唆的である。モダニズムと幻想文学、通常であれば一致することがない系譜がボルヘスにおいては確かに結合しており、かかる伝統は(私は未読であるが)ビオイ・カサーレス、そしてコルタサルへとつながるという。それにしてもラテンアメリカ文学とは奇妙な呼称である。「国民文学」という概念が成立するかという問題はひとまず措くにせよ、ヨーロッパであればフランス文学やイギリス文学といった区別は存在するだろう。これに対して、彼の地では主にスペイン語が使用されているという理由によって、国を超えた壮大な広がりに対してラテンアメリカ文学という総称が与えられているのだ。本書を読むとこの理由もいくぶんかは推察することができる。つまり作家たちはそれぞれが属する国を超えた「ラテンアメリカ文学」というブランドを立ち上げることによって自らの小説に付加価値を与えようとした形跡がある。しかしひるがえって何がラテンアメリカ的であるのか。この問いに答えることは難しい。もちろん多くの者にとってそれは「百年の孤独」や「精霊たちの家」にみられる魔術的レアリズムであろうが、この一方でそこには「石蹴り遊び」の実験性や「遠い家族」にみられるゴシック・ロマンも共存している。果たしてそれをひとくくりにすることは可能なのか。後で触れるとおり、ラテンアメリカ文学はヨーロッパを鏡とすることなくしてはありえなかった。(この主題を小説として実現した作品が「テラ・ノストラ」である)アングロアメリカではなく、ヨーロッパとの強い紐帯は作家の多くがヨーロッパに長期滞在した経験をもち、それどころかラテンアメリカで小説家となるうえでは外交官となって時間的な余裕、あるいは身分的な保証を得ることが必要であったという現実も関わっているだろう。この結果、彼らは自分たちの他者性こそを自らの小説の主題とした。西欧に対する他者性という発想から浮かび上がるのはオリエンタリズムの問題であるが、私の考えではラテンアメリカ文学の豊饒さはオリエンタリズムの圏域をはるかに超えている。本書では十分に論じられていないし、新書の紙幅で扱うには大きすぎる問題であるが、ここで暗示されるモダニズム文学とラテンアメリカ文学の関係は今後も様々な角度から検証されるべきであろう。
 以上の問題とも関わっているが、本書を読んであらためて認識された三番目の問題は出版社やエージェントとの関わりである。今日でこそ、作家と出版社、エージェントの関係がしばしば話題となるが、本書で縷述されるとおり、ラテンアメリカ文学のブームは辣腕の出版関係者、エージェントの手によるところが大きい。文学賞や宣伝戦略といった作品の本質とはあまり関係をもたないとみなされている制度や手法をめぐって、きわめて巧妙な戦略がめぐらされ、本国ではなく旧大陸のスペイン、とりわけバルセロナの出版社やエージェントが深く関わっていた点が分析されている。驚くべきことに1970年前後、リョサとマルケス、ドノソは共にバルセロナに移り住んでおり、リョサとマルケスにいたっては1ブロック半の距離に居住して家族ぐるみの交友を続けていたという。1970年にアヴィニョン近郊で開かれたパーティーで今挙げた「ブームの五人組」は顔を揃えた。彼らが全員同じ場に集まったのはこの時だけであるという。かかる蜜月がヨーロッパを舞台としていたことは暗示的だ。腕利きのエージェントの売り込みがあったとはいえ、ラテンアメリカ文学が勃興するうえでは旧大陸の支持、具体的にはヨーロッパにおける出版社との関係が決定的に重要であった訳である。今触れたモダニズム文学との関係でいえば、フランスのヌーヴォーロマンに象徴される現代文学の貧血状態が明らかとなった1960年代にラテンアメリカ文学が注目された地政学的な意味も今後さらに検討されてよかろう。
 ひとまず歴史、空間、制度という面から本書について論じたが、本書はラテンアメリカ文学をめぐるエピソードの集積としても十分に楽しめる。あとがきによれば、本書は著者が大学のサバティカルでマドリードに滞在中、ラテンアメリカ文学のブームの当事者たちと親しく交わる経験をもとに構想されたものであり、確かに当事者でなければ知りえないエピソード、あるいはそれぞれの作家についてのかなり辛辣な月旦が随所に見受けられる。ラテンアメリカの作家たちの関係は常に良好であった訳ではない。ラテンアメリカ特有の軍事政権、独裁政権と作家たちとの関係は微妙な影をそれぞれの作家たちに落としている。ラテンアメリカでは多くの革命と反革命が発生した。チリの9・11、ピノチェットの軍事クーデターがドノソに、あるいはイザベル・アジェンデに与えた影響についてはそれぞれこのブログで論じた。CIAに後押しされたピノチェットの反革命に対しては等しく批判を加えた作家たちも、キューバにおけるカストロの革命の評価においては態度を違える。キューバ革命政府による詩人エベルト・パディージャの逮捕と弾圧に対して正面から批判を加えるバルガス=リョサ、なおも革命へのシンパシーを隠さぬマルケスの間には断絶が生じた。以前、やはり寺尾が翻訳し、このブログでも論じた「疎外と叛逆」の中でも触れられていたが、1976年にメキシコシティで開かれた映画の試写会の場において、リョサは笑顔で駆け寄ってきたマルケスを殴り倒す。ブームの終焉を画する事件であり、現在にいたるまでその原因は明らかにされていないが、キューバ革命についての評価が一因であることは間違いない。それにしても中上健次ならばともかく、ノーベル賞作家同士が殴り合うというマッチョな風景はラテンアメリカ文学ならではといえよう。
 この事件を境としてラテンアメリカ文学は次第に退潮する。マルケスをはじめ何人かの作家たちは政治化して、文学から離れてジャーナリズムや政治的発言へと接近し、多くの作家がこれ以後、回想録を執筆したこともかかる衰微の兆候と寺尾はみなしている。80年代以降も旺盛な執筆力を示すバルガス=リョサとフェンテスを除いて、ブームをかたちづくった作家にかつての勢いはない。そして21世紀に入ってラテンアメリカ文学を象徴する二人の巨人、マルケスとフェンテスが鬼籍に入ったことは知られているとおりだ。結果的に本書はラテンアメリカ文学をめぐる一種の盛衰史として読めなくもない。果たしてラテンアメリカ文学は20世紀文学の特異なエピソードして終わるのであろうか。「新世紀のラテンアメリカ小説」と題された最後の章で、寺尾は新しい才能としてチリのロベルト・ボラーニョについて論じる。2003年に50歳で早世したボラーニョについて寺尾はやや厳しい評価を下しており、まだポラーニョを読んだことのない私はこの判断の当否について論じる立場にない。ボラーニョを含めてこの章で論じられた作家について、私は近いうちに読んでみるつもりであるが、本書ではこのほかにも実に多くの作家、魅力的な作品についての言及がなされている。嬉しいことにはその多くは未訳である。ラテンアメリカ文学の豊かな鉱脈はまだしばらく尽きることはないことを確信しつつ本書を読み終えた。
by gravity97 | 2016-11-01 21:04 | 海外文学 | Comments(0)

カルロス・フェンテス『テラ・ノストラ』

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 ブログの更新がこれほど滞ったのはこのブログを始めて以来ではないだろうか。もちろん本務に関連してかなりの量の原稿を執筆していたことも理由の一つであるが、まずは上の書影を見ていただきたい。ついに刊行されたカルロス・フェンテス『テラ・ノストラ』、1000頁を超える超大作の威容である。この小説については既に36年前に存在を知っていた。大学に入学直後、友人から勧められてガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ際の衝撃についてはこのブログにも何度か記したが、当時のラテンアメリカ文学のブームの渦中、篠田一士がおそらく朝日新聞に書いた記事の黄ばんだ切り抜きを私は未だに所持している。「フェンテスのような作家が、どうしていままで大きく紹介されなかったのか不思議でならない。まあ、いくつかの偶然が重なった結果だろうが、ラテンアメリカ独自の想像力のありかたを、このメキシコ作家ほど根源的につきつめたひとはいない。数年前に発表された『ワレラノ大地』は長大さもさることながら、歴史小説とSFを同時進行させた、その奇想天外の構想にはおどろくばかりである」それ以来、私はこの小説が訳出されることを心待ちにしていた。実際にフェンテスの小説は順調に翻訳されてきた。長編に限っても既に私は「脱皮」「アルテミオ・クルスの死」そして「遠い家族」という三つの小説を読んでいるし、いずれの作品も傑作と呼ぶことを私は躊躇しない。機会があればレヴューしたい名作揃いである。「テラ・ノストラ」の翻訳も進行中との話は仄聞していたから、店頭で本書を見た時は驚きこそなかったが、これほどの分量とは思わなかった。そして翻訳にとりかかってから10年の年月を閲したという訳者のあとがきも十分に理解できる濃密な内容だ。生きているうちにこの作品を日本語で読むことができたことをまずは感謝しなくてはならない。しかしながらこの小説は決して一筋縄ではいかない。このブログの読者であればおわかりのとおり、私は長編を好むし、小説を読むスピードは相当に速いと自負しているが、その私ですらほぼ二月の間、この小説と格闘した。おそらく本書は今年の読書体験の絶頂であり、私としてもこれほど読むことに膂力の必要な小説はプルースト以来だ。
 前置きが長くなった。テラ・ノストラ、我らの大地という小説は「旧世界」「新世界」「別世界」という三部から成り立つ。後述するとおり三部という構成にも重要な意味がある。旧世界とはいうまでもなくヨーロッパ、ハプスブルグ家に連なるスペイン王家、新世界とはアメリカ大陸、フェンテスの母国であるメキシコを意味し、第三部の別世界において舞台は再びヨーロッパに戻り、ローマ皇帝ティベリウス帝の治世から1999年12月31日という千年紀の終わりまで多様な物語が次々に挿入される。本書で扱われるのは空間としてはヨーロッパとイスパノアメリカ、時間としてはヨーロッパの全歴史という途方もない時空であり、ラテンアメリカ文学を代表する作家フェンテス畢生の大作と呼ぶゆえんである。
 この長大な小説の内容を要約することは意味がない。単純な要約を許さない反復と変奏が延々と繰り返されるからである。抽象的な比喩となるが、本書の読後感は文中で言及される鏡で出来た牢獄をめぐる体験に近い。いくつものストーリーが相互に乱反射するかのように少しずつ角度を変えて反復される。鏡の迷宮の中を歩むように次々に姿を変えて反復される物語の流れに身を任せることが本書の醍醐味である。決して読みやすい小説ではないが、この点を認識して、出来事の意味とか因果関係、あるいはメインストーリーを確定しようという試みを早い段階で放棄してしまえば本書を読む愉しみは格段に増す。しかしながら本書をレヴューする以上、内容について語らない訳にはいかない。本書は無数の断章によって構成されている。ひとまず冒頭の「肉、天球、セーヌのほとりの灰色の目」と題された断章で何が語られたかを確認しよう。場所はパリ、時代は特定されていないがおそらくは現代、世紀末的な情景の中で33日と半日前にセーヌ川の水が沸き立つという奇怪な現象が発生する。実はこの小説は円環構造をとっており、最後の章まで読み進むと、冒頭の章は1999年12月というまさに千年紀の終わりを舞台としていることが了解される。隻腕のサンドイッチマン、ポーロ・フェーボは真冬のパリを彷徨し、マダム・ザハリアという門番の老婆が出産する場面に立ち会い、赤ん坊を取り上げる。ポーロのもとには生まれた子にヨハンネス・アグリッパなる洗礼名を与えよという手紙がルドビーコという署名付きで届けられる。生まれた嬰児には背中に赤い十字の印があり、足にはいずれも六本の指があった。なんとも奇怪な冒頭である。しかし例えば33日と半日という単位、隻腕、六本の足指といった身体の特徴、アグリッパあるいはルドビーコといった固有名詞には全て意味があり、この長大な小説の中で幾度となく反復されたことが読み終えた今ならばわかる。冒頭の章と「最後の都市」と題された最後の章のみが1999年のパリを舞台としており、そのほかの章は16世紀のスペインとメキシコを主たる舞台としている。「セニョールの足元」と題された二番目の章以下で本書の中心的な登場人物が明らかとなる。セニョールと呼ばれるのはスペイン国王フィリペ二世、フィリペ二世は実在の人物でスペイン帝国の最盛期にヨーロッパに君臨した偉大な王である。セニョールの父はフランドル出身でハプスブルグ家の血統を引くフィリペ美王、母は狂女王フアナ、さらにセニョーラと呼ばれるイサベルはフィリペ二世の王妃であり、イギリス出身のイサベルはセニョールの従妹にあたる。ここにはハプスブルグ家における近親婚の歴史が暗示されている。宮廷でセニョールに傅く何人かの人物として、セニョールを補佐し、その命を実行する残忍な勢子頭グスマン、宮廷画家のフリアン修道士、占星術師のトリビオ修道士、さらに名前をもたない宮廷付の年代記作家。加えてドン・ファンやセレスティーナといったスペイン文学中で名高い人物。この小説には実在の人物と文学史上の人物、架空の人物が時に姿や名前を変えながら、入り乱れて登場する。
 どのような物語が語られるか。多くがグロテスクで暴力的、残酷で不気味な物語である。領主たるフィリペ美王は領主権(初夜権のことだ)を行使して、鍛冶職人の婚礼に乱入し、花嫁を犯すように息子のフィリペ二世に命ずる。息子に拒絶されるや、フィリペは自ら花嫁の処女を奪う。セレスティーナという花嫁は自分が悪魔と交わったと感じて自傷行為に及ぶ。王妃フアナはフィリペの死体に防腐措置を施して霊柩車に乗せ、領地をめぐる。男色の罪で若者が生きたまま火あぶりに処される。グスマンが操る猛犬に襲われた狂女王は四肢を切断され、首と胴体だけの姿になって壁龕に身を置く。セニョールはグスマンに対してキリストの正統性に関する異端的な思想を語り、難破した船から現れた美しい若者がセニョーラと交わる。セニョーラは黒魔術を用いて先王たちの死体から人造人間を作り出そうとする。今任意に羅列したエピソードから理解されるとおり、なんとも不吉な物語が相互に折り重なる。時間の継起や因果律を無視して語られるそれらの物語に私たちは幻惑される。まさに無数の鏡によって乱反射する迷宮の中に迷い込んだ思いだ。さらに私たちを困惑させるのは語り手である。多くの物語は語り手が判然とせず、しばしば「そなた」という二人称が用いられることによって誰に向かって語られるかも定かではない。脈絡ないまま繰り返される物語の果て、第一部の末尾でセニョールの寝室に招き入れられた青年が新大陸における自らの体験を語る。彼が語る奇譚こそ第二部「新世界」であり、この部分は一人の話者による直線的な語りであるため、比較的読みやすい。青年はコロンブスを連想させるペドロという老人とともに大西洋を西に向かい、多くの苦難の後、新大陸へと漂着する。彼がメキシコに漂着したことは、現地におけるピラミッドと生贄をめぐるエピソードが暗示している。新世界はキリスト教と文明とは無縁であるが、黄金と財宝に恵まれた土地である。新大陸における青年の謎めいた体験の数々が第二部を構成する。奇怪な幻視に彩られた青年の語りは、彼が流れ着いた16世紀のメキシコと古代メキシコの記憶を往還する。ここでも通常の物語を律する時間性は棄絶されている。本書においては無数の物語が反復されることによって、直線的なクロノスの時間に代わる円環と反復の時間、カイロスの時間が導入される。つまり時間は一方向に流れるのではなく無限に反復するという発想だ。このような時間観が多くのラテンアメリカの小説にも共通する点は興味深い。「新世界」の物語を経て、第三部「別世界」において私たちは再びフィリペ二世の宮廷へと帰還する。新世界をめぐる青年の報告は公にされることなく、青年は国王が建設を進める大宮殿の地下牢に幽閉される。宮廷に集う者たち、「夢想家」たち、そしてドン・キホーテやポンティス・ピラト(キリストが磔刑に処された際の行政長官)といった文学上、歴史上の人物が次々に物語に召喚される。とりわけ秘書であるデオドールスを介して語られる第二代ローマ皇帝ティベリウス帝の性的放縦をめぐる描写は圧巻である。国連職員たちのドライブの悲劇的な結末を描いた『脱皮』にせよ、完璧なゴシック・ロマン『遠い家族』にせよ、これまで私はフェンテスの小説からどちらかといえば抽象的で知的な印象を受けてきた。これに対して本書ではグロテスクな性愛のイメージが横溢するエピソードに圧倒される。同様のグロテスク・リアリズムは本書の最後で全身に膿瘍を患い、文字通り血と膿の塊と化し、糞便と汗にまみれて絶命する主人公セニョールの描写に明らかだ。第三部においても時間に信を置くことはできない。ローマ皇帝に関する語りに続いて、現代のベトナム戦争を連想させる記述が続く。読者は自分たちが見知った時間とは全く異なった時間が作品を統べていることを知る。巻末にいたっては、マルケスやコルタサル、ドノソら同時代のラテンアメリカ作家が創造した人物たちも物語に参入し、メタフィクションとして本書の位置を画定する。世界は一度きりではない。世界は何度も反復される。明らかにこれが本書の一つのモティーフだ。唇にタトゥーを入れた小姓、聖痕をもつ青年、三十段の階段、手紙が封入されたボトル、物語の中でいくつもの同一モティーフが繰り返されることはかかる原理と関わっている。
 ほかにもいくつかのテーマが本書を通底している。例えば数秘学的な発想だ。この小説では至る所で三という数が繰り返される。海から救い出された三人の若者、フィリペ美王の三人の非嫡出子、作品が三部構成として実現されていることもこれと関わる。実際に「数字の三」と題された断章においては、宇宙が三という単位によって構成されていることが語られ、完全数としての三が主張される。一方で本書には随所に対立し対比される二というモティーフも認められる。例えばオシリスとイシス、カインとアベル、煙る鏡と羽毛の蛇、ロムルスとレムス、これらの二者においてはしばしば一方が一方を滅ぼす点にも留意されたい。私はこの小説は二性と三性の相剋としてとらえることができるように感じる。後で論じる通り、地理的には二元対立である「旧世界」と「新世界」に対して、あえて「別世界」というセクションが置かれたことはこの問題と関わっている。
 絵画において三という単位を取り込むのはトリプティク(三連画)である。上に掲げた通り、本書の装丁にはプラド美術館所蔵のヒエロムス・ボッシュのトリプティク《悦楽の園》が用いられている。フランドル出身のフィリペ美王と関わる物語の装丁とはまことにふさわしい。本書の中にはセニョールがこのトリプティクを仔細に見る場面が詳細に描かれ、ボッシュの署名さえ書き込まれている。今、確認したところこの作品はフィリペ二世が建造したエル・エスコリアル修道院のタペストリーのモデルに選ばれているから、現実の歴史においてもセニョールが目にした可能性は高い。祭壇画でありながらなんと奇怪なイメージか。ここに描き分けられた三つの情景、地上の楽園と悦楽の園、そして地獄はこの小説の主題とみごとに対応している。例えばここに描かれた性的な逸脱の情景はフィリペの宮廷やティベリウス帝の宮殿における乱倫の図解のようではないか。余談となるが、同じフランドルの画家たちは日本の小説家にも多くのインスピレーションを与えている。野間宏には冒頭でブリューゲルの絵画の不気味な情景が延々と描写される「暗い絵」があり、井上光晴もボッシュの「乾草の車」をタイトルに冠した中編を残している。小説の中ではボッシュの三連画とともにイタリアのオルヴィエート大聖堂からもたらされたフレスコ画について何度も言及される。あとがきによればこのフレスコ画とはルカ・シニョレッリによる一連の作品であるらしい。フランドルとイタリア、フェンテスはこの小説の中に旧世界、ヨーロッパの美術の絶頂を持ち込む。今、絵画の例を挙げたが、小説の中では唐突にカフカの「変身」の冒頭を反映した記述があるかと思えば、次の記述はどうだ。「セニョーラ、もし貴女が盲人の目が見えるようにと願うなら、雲が満月の縁にかかるその瞬間に、剃刀でもって連中の目を切り裂いてごらんなさい」この描写からルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」を連想しないでいることは難しい。フェンテスは自らの博識を傾注して、美術、文学から映画にいたるヨーロッパ文化の精華を小説に投入する。いや文化のみならず、本書は哲学や宗教、本書はまず旧世界の価値観の百科全書、そしてそれへの批判として成立している。それでは旧世界の価値観が新世界に移入された時、いかなる事態が発生したか。私の考えではかかる問いこそがこの長大な小説の主題である。
 このような意識はメキシコ人として生を受けながら、外交官として父の仕事の関係でブラジル、アルゼンチン、アメリカを転々とし、ヨーロッパでも生活したコスモポリタンたる作家の、母国を外から見る姿勢と深く関わっている。ラテンアメリカの、メキシコの「歴史」はいつ成立したか。それは旧世界によって征服されることによってではなかったか。鏡の比喩はここでも有効だ。ラテンアメリカはヨーロッパという鏡をとおして初めて自分たちのアイデンティティーを確認した。しかしヨーロッパという鏡は実は血に塗れていたのではないか。「旧世界」におけるハプスブルグ家、ヨーロッパの王家の頂点を占めるスペイン王をめぐる無数の物語はいずれも一種、阿鼻叫喚とも呼ぶべき凄惨さを秘めていた。彼らが「新世界」に到達したとしても、そこに「別世界」は成立しただろうか。いや、そこではただ「旧世界」が反復されるのみであり、グロテスクで暴力的、残酷で不気味な物語が繰り返されたのではないか。新世界、旧世界、別世界の三者は成立せず、三者性は二者性に屈従する。グスマン、セニョールの残忍な勢子頭は功績を認められ、ヨーロッパで食いはぐれた無頼の徒たちを連れて新世界へ派遣される。グスマンがピサロやコルテスといった多くのコンキスタドールを象徴していることはいうまでもない。彼らが新世界で犯した残酷な所業はセニョールへの報告として間接的に語られる。先住民族への暴虐を主題とした小説としてはコーマック・マッカーシーの傑作「ブラッド・メリディアン」についてこのブログでも論じた。同じ主題を扱いながらも「テラ・ノストラ」の新大陸が異なるのは、新大陸メキシコにおいてもインディオたちによって残酷な生贄供儀が繰り返されていた点だ。古代と現代が混交する(篠田であればSF的と呼ぶであろう)幻想的な筆致の中に再び反復というモティーフが立ち現れる。かくしてこの長大にして驚異的な小説は、進歩や啓蒙、教化や脱魔術といった旧大陸に由来する人間性への信頼を一挙に相対化する。それはメキシコという国家、メキシコ人という自分の出自への問いでもある。フェンテスには登場人物が自らのアイデンティティーを問う作品が多い。「脱皮」と「遠い家族」もまさにそのような小説であったが、本書は個別的な登場人物どころか、「新世界」たるラテンアメリカが自らのアイデンティティーを「旧世界」という血塗れの鏡に映し出す物語とはいえないだろうか。アイデンティティーの探求という主題はラテンアメリカ文学においても比較的異質であるように感じられる。その理由はフェンテスの個人的な資質、メキシコという場のいずれに求められるだろうか。この問題をさらに深めるために最後に一言付け加えておこう。大江健三郎、河原温、そしてルイス・ブニュエル、全く共通点をもたないこの三人の芸術家がメキシコ滞在を契機として一種のアイデンティティー・クライシスを主題にした代表作とも呼ぶべき作品を発表したことにはいかなる必然性があるのだろうか。
 暑い夏にふさわしいまことに過剰で濃密な読書体験であった。本書は上下二段組みで1000頁を超え、6000円という価格にもかかわらず、聞くところによれば、最近再版が決まったという。志のある出版社に志のある読者が応えたということであろうか。
by gravity97 | 2016-08-31 21:39 | 海外文学 | Comments(0)

スティーヴ・エリクソン『きみを夢見て』

b0138838_2153571.jpg 半年ほど前に翻訳が刊行された際に買い求めたものの、しばらく書棚に積んだままであったスティーヴ・エリクソンの2012年の作品『きみを夢見て』を通読する。私はエリクソンの小説をほぼ全て読んでいるが、本書は彼の作品の中でも指折りの傑作といってよかろう。物語の内容にも立ち入って論じ、私のレヴューとしては珍しく一種の種明かしさえ行うつもりであるから、白紙の状態で初読の楽しみを味わいたい読者にはこのブログを読む前にまず本書に目を通すことをお勧めする。
 エリクソンの小説において物語の構造は常に錯綜する。しかし本書は例えば以前このブログで扱った『エクスタシーの湖』ほど難解ではなく、メインとなるストーリーを見定めることは比較的容易だ。主人公はロスアンジェルスに住む作家のアレクザンダー・ノルドック(ザン)。ザンにはヴィヴという妻とパーカーという12歳の息子、そしてエチオピアの孤児院から養子として迎えたシバという4歳の娘がいる。解説によればロスアンジェルスに住んでいる作家という設定のみならず、アフリカから養子をもらい受けた点でもザンはエリクソン自身の投影であるという。単純化するならばこの小説はザン一家が味わう試練とその克服の物語であるが、例によって物語は多重化され、現実と虚構の境目はあいまいだ。例えば最初に出会う次のテクスト。「この男が当選したというニュースが流れると、リビングルームは大騒ぎになる。『勝ったよ!』とパーカーがソファから、白い合成樹脂塗装を施した、雲の形の低いテーブルを飛び越えて、喜びを爆発させる。『勝った!勝った!勝った!』と、叫び続ける。ヴィヴも拍手をしている。『ザン』と、パーカーは茫然としている父親の姿に戸惑い、呼びかける。『勝ったんだよ』と、息子。『うれしくないの?』」本書が出版された時期を思い起こすまでもない。名指しこそされないものの「この男」とはバラク・オバマのことであり、本書はオバマ大統領の登場を寿ぐきわめて具体的なエピソードから始まる。後で述べるとおり、この挿話は本書の主題と深く関わり、本書の結末と呼応している。読み進めるうちに絡み合ういくつもの主題系列が明らかとなる。例えば音楽だ。本書のタイトル「きみを夢見て」、These Dreams of You とはロック歌手ヴァン・モリスンの曲名からの借用であるらしい。主人公ザンは地元のラジオ局でディスクジョッキーを務め、シバは内部から異国の音楽を響かせる。プレスリー、ビートルズあるいはレイ・チャールズ、本書には多くのミュージシャンへの言及がある。あるいはザンがロンドンの大学で講じる一連の講義には「衰退に直面する文学形式としての小説」というタイトルが付されている。小説という形式にきわめて自覚的なエリクソンにとってこのタイトルが一種の自己言及性を秘めていることは明らかであり、本書は衰退する形式としての小説を蘇生する試みととらえることもできるだろう。
 もう少し詳しく内容をたどろう。オバマの挿話から明らかなとおり、物語の背景とされる時代は特定されている。かつては作品を発表したが今は定職をもたない小説家のザン、写真家として将来を嘱望されながら有名な作家に作品を剽窃されて以来、(作品についての記述から判断するに有名な作家とはデミアン・ハーストである)作品によって収入を得る道を断たれたヴィヴの夫婦は深刻な経済的問題を抱えている。クレジットカードはいつ失効するかもわからず、彼らが暮らす家も銀行の抵当として遠からず差し押さえられる運命にある。八方ふさがりの状況の中で、ザンの知り合いでヴィヴのかつての恋人からザンに対して、ロンドンでの短い教授職が提案され、家族はロンドンへの短期逗留を決める。かねてより養女たるシバの血統についての調査を続けていたヴィヴはそのために雇ったジャーナリストから調査の継続が困難であることを告げられ、この機会に自ら調査のためロンドンを経由してエチオピアに向かうことを決意する。物語は最初これら四人の家族をめぐる比較的オーソドックスな語りによって幕を開ける。ヴィヴと別れたザンはパーカーとシバという肌の色の違う二人の子供とともにロンドンで生活を始め、いくつもの奇妙な体験を重ねる。ヴィヴからの連絡は次第に途絶え、講義のためにベビーシッターを探していたザンのもとにはまるで待ち構えていたかのようにモリーなる若い黒人女性が現れる。ヴィヴの消息を求めてロンドンのエチオピア大使館に出かけたザンとパーカーのもとから、今度はモリーとシバが姿を消す。パーカーはPCの掲示板にヴィヴの映像を見出すが、なぜか彼女はエチオピアではなくベルリンにいた。いくつものストーリーが重ね合わされるにつれて、審級の異なった語りが紛れ込む。一つはザンが久しぶりに書き始めた小説だ。その小説とはXという男がスキンヘッドの若者たちに襲われ、半殺しの状態で放置されるという内容だ。倒れているXに黒人の少女が近づき、一冊のぼろぼろのペーパーバックを残して走り去る。そこに残された書物は1919年という時点ではまだ発行されていないにもかかわらず、20世紀文学の未来全体を宿した小説であることが物語の中で暗示される。おそらくそれはジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」であろう。この時、直ちにいくつかの暗合が浮かび上がる。「ユリシーズ」とはブルームという男がダブリンを彷徨する物語であったことを想起するならば、ロンドンをさまようザンとの共通性は明らかだ。そしてブルームの妻の愛称はモリーではなかっただろうか。しかし唐突に挿入されたザンの小説は小説内小説というほどの持続性をもたず、断ち切られたまま、ザン一家をめぐる物語の中に断続的に挿入される。一方、本書のおおよそ半分あたりからやはり唐突に別の物語が始まる。それはレッグとジャスミンというイギリス人カップルの物語であるが、二人はロンドンのパブでアメリカ人の青年と杯を交わす。アメリカ人は名指しされることがないが、前後の状況からおそらくはジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディの若い頃であろうと推測される。ここにおいて本書がオバマの大統領就任のエピソードで始まる理由の一端が理解されよう。本書においては一つの家族をめぐるプライヴェイトな物語とアメリカという国家をめぐるそれが捩じり合わされている。ジャスミンはアメリカに渡り、ロバート・ケネディの選挙運動を手伝う。私も本書を読む過程で確認したのだが、ロバート・ケネディも兄と同様に暗殺されている。さらに同じ時代キング牧師も暗殺されたことを想起するならば、ジャスミンの物語はアメリカに暗殺の嵐が吹き荒れた1960年代後半を舞台にしていることが理解されよう。後にジャスミンはレコード会社で働き、多くのミュージシャンへの言及がなされる。ただし私がヴァン・モリスンを含めて言及されるミュージシャンについてあまりよく知らないこともあるかもしれないが、訳者があとがきで記すように本書を60年代から70年代にかけてのポップ・ミュージックへのオマージュとまでみなすのはいささか無理があるのではないか。この程度のポップ・ミュージックへの言及であれば作品の中で村上春樹が常に行っている。さて、ザンの一家とジャスミン、オバマとケネディの時代を隔てる物語は予想されたとおり、かなり屈折したかたちで結びついていく。ジャスミンが黒人女性であるという記述からジャスミンとモリーの関係を予想することはたやすい。ジャスミンとモリーの関係、そして彼女たちを巡る物語が、これまでに本書で語られた物語と時に必然的に、時にアクロバティックに結びついていく過程についてはここではあえて触れない。なぜならかかる照応、時に明示的、時に暗示的なそれを「テクスト的現実」の中に読み取っていくことこそ本書を、そしてエリクソンを読む醍醐味であるからだ。
 エリクソンの小説としては例外的に、本書には作家が得意とする幻視的なヴィジョンが描かれない。もちろんリムジンに向かって何度も衝突を繰り返すタクシー(本書の核となるイメージの一つだ)やアジスアベバの孤児院の風景など印象的な情景は存在するが、水没したロサンジェルス、凍りついたパリといった幻惑的で終末的なイメージは描かれることがない。ザンとパーカーの妻/母、娘/妹を探す旅をめぐる描写は比較的リアルである。しかし、物語のここかしこに挿入される無関係の物語が父と息子の探索のエピソードに一種の緊張を与える。今、探索という言葉を用いたが、本書には探索という主題が幾重にも張りめぐらされている。消え去ったヴィヴ、そしてシバを捜す旅はいうまでもなく、そもそもヴィヴの失踪の原因となったエチオピアへの旅行はシバの母親を探し出す目的で計画された。あるいはジャスミンも自らの父親を捜し、一枚の写真の中にそれを見出す。これらはすべて個人をめぐる探索の物語であるが、私はさらに大きな主題、つまり集合的無意識が自らを探索する物語として本書を読み替えることができないかと考えるのだ。回りくどい言い方はやめておこう。つまり本書は「アメリカ」が自己を探索する物語ではなかろうか。この物語がオバマ当選のエピソードで始められ、オバマへの期待が繰り返し語られる理由はそこにある。思い起こせば、エリクソンはいくつかの小説で大統領や大統領選をテーマとしている。『Xのアーチ』ではトマス・ジェファーソンと黒人女性の関係が描かれ、私は未読であるが『リープ・イヤー』は1996年の大統領選挙を取材して描かれたとのことである。本書においても暗示的な書きぶりでケネディ家の二人の大統領と大統領候補(ともに暗殺される)について執拗に言及される。今、「アメリカ」と記したが、ここで問題とされるのはもちろん国家としてのアメリカではない。言語や民族、人種を超えて形成される幻想の共同体としてのアメリカである。かかる超越的な存在は文学の主題としてまことにふさわしく、私はメルヴィルからエリクソンにいたるかかる系譜を「アメリカ文学」の中にたどってみたいという誘惑に駆られる。私の読みは次のとおりだ。先に無意識という言葉を用いたが、実は本書の語り手は「アメリカ」であり、本書で語られるのは「アメリカ」の無意識ではないか。本書に頻出するモティーフを並べてみよう。移民と暴力、移動と拝金主義、そしてポップ・ミュージック、これらはいずれも「アメリカ」的な主題とはいえないか。これらの主題それぞれを一巻のテーマとした小説のリストを作成することはたやすい。「アメリカ」の無意識としての「きみを夢見て」。それならば物語が錯綜し、頻繁に転換され、時に異なったレヴェルの物語が嵌入することの理由を形式ではなくて、物語の内容として説明することもできよう。そして私の推理は端的に本書の末尾からもたらされている。長くなるが感動的な一節を引用する。

 外から見れば、シバの夢はほんの一瞬にすぎないが、彼女は眠りながら、それが長い旅であることを理解している。船のへさきでバランスをとりながら、遠くからの歌を受信し、彼女を名付ける名前を求めて航海するのだ。その名前は、どこにも属さない人々のためのものであり、かつて人々が自分の所属する場所にちなんでつけていたように、まず自分の所属を探している人々のためのものであり、思い出せないが、忘れることのできない出来事を嘆きつづける悲しみのためのものである。少女と兄と母親と父親が船から岸に降りると、その名前は、楽園でも天国でもなく、ユートピアでも約束の地でもない。むしろ、ダメージを受けた名前である。かつて誰かがそれを最初に口にすると、すべての人を魅了したが、その後、それを汚して、ハイジャックして、搾取して、質を落として、中身のないものにして、その価値を見下しながらもその名前の響きだけを愛でている。とはいえ、その価値は、どうやっても否定できないものなのだ。(中略)いま娘と父親は、それと分からぬまま、その名前によって強く結ばれている。娘はその獰猛な核の中にその名前を宿し、一本指で喉を引き裂く仕草をしながら、その名前を守り抜く。その名前とはアメリカだ。

 ここでは一つの紐帯としてのアメリカが論じられている。国籍も人種も異なるシバを家族の一員として迎え入れることはザンとヴィヴにとって大きな決断であったはずだ。しかし彼らはかかる決断を下し、現実に対峙する。いうまでもなくアメリカもまたほかの民族、ほかの人種、ほかの言語を寛容とともに内部に迎え入れてきたし、オバマの登場はまさにその象徴であったといえよう。先にも述べたとおり、本書においてはザン一家と「アメリカ」が実に独特に照応している。ザンたちはロスアンジェルスに戻り、自宅が競売にかけられることを知る。最後に描かれる場面は自分たちの家から家財道具を運び出す家族たちの姿だ。しかし本書の結末にはエリクソンとしては珍しく希望がある。それは世界中に戦争をまき散らし、強欲なグローバリズムの起源であり、格差社会の極限であるアメリカにさえもなお希望が残されていることを作者が信じるからであり、それは冒頭で言及されるオバマの大統領就任という奇跡によってもたらされた希望であろう。
 オバマ大統領は先日来日し、広島で感動的なスピーチを行った。These Dreams of You のyouをオバマとみなすのはさすがに強引すぎるか。しかし今や、私たちはヒトラー並みの排外主義者がその後を襲う漠然とした危惧の中にいる。オバマが大統領に就任したのは2009年のことであった。それからわずか7年で世界はdream から nightmare に暗転するかもしれない。読了後の感動に一抹の不安が重なった。

09/11/2016追記 この悪夢は本日、現実のものとなった。エリクソンはどのような思いとともに本日の大統領選挙の結果を受け入れたのであろうか。
by gravity97 | 2016-06-04 21:09 | 海外文学 | Comments(0)

マリオ・バルガス=リョサ『つつましい英雄』

b0138838_1655298.jpg お気に入りの作家の新作をレヴューするのは楽しい。日本文学であれば奥泉光と村上春樹、海外文学であればポール・オースターについては既に三冊をレヴューしているが、今回、マリオ・バルガス=リョサをこのリストに加える。本書はノーベル賞受賞後、最初の小説として2013年に発表された。その余裕であろうか、おそらく作家は肩の力を抜いて執筆している。しかし、さすがにバルガス=リョサである。実に面白く、感動的な傑作だ。
 読み始めるや、バルガス=リョサの愛読者であればおなじみの手法と登場人物に出会う。まずこの小説は二つの物語が交互に進行する構成をとる。奇数章と偶数章で別々の物語が語られる手法は「楽園への道」を連想させるし、このブログでレヴューした「チボの狂宴」においても三つの章ごとに異なった視点が循環して物語を深めていった。フォークナーの「野生の棕櫚」あるいは村上春樹の初期の小説においても二つの無関係な物語の同時進行という手法が用いられていたことも想起される。最初に冒頭の二つの章のみ簡単に要約しておこう。第一章はピウラという、バルガス=リョサの読者であればおなじみのペルーの田舎町で運送会社を営むフェリシト・ヤナケがある朝、自宅の玄関扉に貼り付けられた青い封筒を発見する場面から始まる。その中には500ドルを支払わなければヤナケをトラブルに巻き込むという脅迫状が収められていた。ヤナケはこれを無視して脅迫者と対決する決意を固めるが、霊感によって彼にアドバイスを与えてきたムラータ(白人と黒人の混血)の聖像売り、アデライダは脅迫に応じて、強請屋たちに500ドル払うべきであると助言する。第二章は首都リマを舞台とし、保険会社に勤めるリゴベルトが友人であり会社のオーナーでもあるイスマエル・カレーラからランチの誘いを受ける場面から始まる。既に80歳近い老齢にあるもかかわらずイスマエルは近くメイドのアルミダと結婚することを決意しており、結婚の証人を務めることをランチの席でリゴベルトに依頼する。大会社のオーナーとメイドの再婚はそれ自体もスキャンダルであるが、さらにイスマエルの素行の悪い二人の息子たちは遺産を奪われることを恐れて、あらゆる手を尽くしてこの結婚を破談に追い込もうとするはずだ。リゴベルトはイスマエルらがヨーロッパにハネムーンに出かけている間、彼のための防波堤となることを決意する。この小説は基本的に最初の二つの章に起点を置く二つの物語が交互に語られることによって構成されている。「楽園への道」や「野生の棕櫚」において二つの物語は関係することなく終えられた。「つつましい英雄」においてはどうか。種明かしをしても物語を読む楽しさは削がれることはないだろう。ヤナケとリゴベルトの物語は終盤で思いもかけないかたちで結びつく。このあたりは間違いなく本書の読みどころの一つであるが、その前に登場人物を確認しておこう。なぜなら二つの物語のそれぞれに私たちがよくなじんだ人物が登場するからだ。一方の物語の主人公、ヤナケに私たちは初めて出会った。しかしヤナケが脅迫状を持ち込んだ警察署で署長の代理として応対する人物を私たちはよく知っている。リトゥーマ軍曹だ。リトゥーマは1966年に発表された記念碑的な作品「緑の家」に既に登場し、このブログでレヴューした「アンデスのリトゥーマ」ではタイトルどおり、物語の中心的な役割を果たした。本書においてもリトゥーマは署長のシルバ大尉とともに脅迫事件の解明に乗り出し、物語を牽引する。一方のリゴベルトの物語の主たる登場人物、リゴベルト、妻のルクレシア、そしてルクレシアを継母とするリゴベルトの息子フォンチートはおそらくバルガス=リョサが発表した作品の中で最もエロティックな小説である「継母礼賛」の中心となる登場人物たちだ。「継母礼賛」には「ドン・リゴベルトの手帖」という続編があり、こちらは未読であるが、少なくとも本書の前日譚として「継母礼賛」を読んでおくとリゴベルトの物語もさらに奥行きが深まるだろう。b0138838_166296.jpg少し説明しておくならば、ルクレシアとフォンチートの近親姦的な戯れ、あるいは本書にも登場するメイドのフスティニアーナとルクレシアの同性愛的な交情を幻想的な筆致の中に描いたこの小説には何枚かの挿図が付されている。右に掲げた中公文庫版の表紙に用いられたブロンツィーノの《愛の寓意》は「継母礼賛」の寓意画のようであるが、ほかにもフラ・アンジェリコからティツィアーノ、さらにはフランシス・ベーコンまで、ヨーロッパ美術の中から6点の絵画が選ばれ、時にそこに描かれた情景が小説の一部を構成していた。もっとも「つつましい英雄」においてはフロイト的な性愛の主題は後退し、別の心理的な脅威が三人の生活に影を落とすこととなるが、それについては本書を読んでいただくのがよかろう。
 先に述べたとおり、本書においては冒頭の二つの章でその発端が語られた二通りの事件が登場人物たちを翻弄する。ヤナケは尊敬する亡き父の「けっして誰にも踏みつけにされてはならない」という遺言に従って、毅然と脅迫者たちと対決するが、現実となった脅迫が次第にヤナケを追い詰めていく。一方、リゴベルトはハネムーンのため不在のイスマエルに代わってイスマエルの息子たちの理不尽な言いがかりに対峙するが、家庭内ではフォンチートをめぐって精神的な危機も進行する。思いがけない事件の連続、謎と謎解きは読者を飽きさせることがなく、小説家としてのバルガス=リョサの力量を見せつける。あとがきによれば二人の主人公、とりわけヤナケには作家が新聞紙上で知ったモデル、マフィアの脅しに屈しなかった人物が投影されている。バルガス=リョサは次のように語っているという。「私利私欲に満ちたエゴイスティックなこの社会においても、善意を旗印に掲げる無名のつつしみ深い英雄たちが存在しているのだ。このような人々に対する評価こそ、この作品を手がけた動機である。彼らは日々のニュースに取り上げられることはないが、報われざる犠牲を払っており、社会を向上させているのは歴史で学ぶ英雄ではなく、つつしみを知る英雄である彼らなのである」小説のタイトルの由来がわかる一節であるが、実際にヤナケは脅迫に立ち向かうことによって「報われざる犠牲」を払うこととなる。つまり事件を解決する過程で大きなスキャンダルに巻き込まれ、悪意に満ちた報道の渦の中に投げ込まれるのである。マフィアからの脅迫は日本で生活する私たちには縁遠いが、1980年代から90年代にかけてペルーでは暴力の嵐が吹き荒れていたから決して荒唐無稽な話ではなく、プライバシーなき報道の暴走、メディアスクラムの中でヤナケが味わう苦悩は私たちにとってなじみのないものではない。しかしヤナケは「つつましい英雄」として亡き父の教えを守って誠実に行動し、読者は深い共感とともに出来事の推移を追うこととなるだろう。一方のリゴベルトも家庭の外と中の二つの難局に対峙する。イスマエルの結婚をめぐるトラブルはイスマエルの帰国とともに解決するはずであったが、物語は中盤から意外な展開を遂げ、フォンチートをめぐる問題はさらに深まる。
 二つの物語において主人公たちが属する階級は異なる。貧農の息子という出自をもちながら、父親の努力と自らの刻苦勉励によって運送会社の経営者となったヤナケと、上流階級に属し趣味的な生活を送るリゴベルト、ピウラとリマ、地方都市と首都という彼らが生活する場もかかる対比に深く与っている。さらに両社の対比はリゴベルトを通じてもう一つの対比へと導かれる。それはペルーとヨーロッパのそれだ。先に「継母礼賛」にフラ・アンジェリコからベーコンにいたる西欧絵画の名品の図版が付されていたことを記した。リゴベルトは自宅の書斎にそれらの絵画を収めた多くの画集を揃え、しばしばエロティックな図像に妄想を掻き立てられた。「継母礼賛」におけるエロティシズムは直接にはこれらの絵画に由来していたといってもよいだろう。本書においては美術に代わって音楽が同様の趣味を形作る。イスマエルの結婚の知らせを聞いた夜、リゴベルトは書斎でブラームスの楽曲をマウリツィオ・ポリーニとイェフィム・ブロンフマンで聞き比べ、後者に涙する。その後、彼は寝室でルクレシアと濃厚なセックスを交わす点は、美術であろうと音楽であろうと、ヨーロッパの芸術の精髄がリゴベルトにおいてはきわめてセンシュアルに受容されていることを暗示しているだろう。ヨーロッパの古典音楽についての言及は本書の随所に認められ、「継母礼賛」の隠された主題が美術であるならば、本書のそれは音楽であろう。バルガス=リョサがフローベールの「ボヴァリー夫人」についての研究も発表していることはよく知られているが、文学から音楽までヨーロッパ文化を官能性において受容する姿勢は作家の個人的な資質、ラテンアメリカという地理的条件のいずれに起因するかも興味深い問題といえよう。物語の中でフォンチートからヨーロッパが好きなのになぜペルーに住んでいるのかと問われ、リゴベルトは旧大陸に住んでいたら、その文化に慣れすぎて、その美しさをこんなに楽しむことはできなかったはずだと答える。このコメントは作家の思いを反映しているかもしれない。西欧の音楽に耳を傾けるリゴベルトに対し、ヤナケはセシリア・バラサというペルーの女性歌手が歌うワルツに至福の瞬間を味わう。また「継母礼賛」ほど前景化されることはないが、エロティシズムも本書の重要なテーマであり、ルクレシアに対応するようにヤナケにも彼に甲斐甲斐しく使えるマペルという年若い愛人がいる。鮮やかな物語の展開の背後に厳密な対位法が存在していることも留意されるべきであろう。
 並行する二つの物語に共通するもう一つの主題はいうまでもなく父親と息子の関係である。ヤナケと息子たち、リゴベルトとフォンチートそしてイスマエルと息子たち。そういえば父子の屈折した関係は「ラ・カテドラルでの対話」でも扱われていた。おそらくこれらの小説はフロイトのいうファミリーロマンスという概念によっても分析することができるだろう。大きな問題であるからここでは示唆するに留めるが、バルガス=リョサの作品には父権性への拒絶という一貫する主題が認められないだろうか。「都会と犬ども」「チボの狂宴」といった小説は父権が暴力という権能と化すことを暗示しており、逆に「楽園への道」「悪い娘の悪戯」とにおいては父権を無効化する契機として女性原理が導入されているように思われる。実はマッチョな父権性はラテンアメリカ文学の主題としては珍しくない。それは独裁者を扱った一連の小説であり、バルガス=リョサも「チボの狂宴」においてかかる政治的な主題に正面から取り組んでいる。さらにこのテーマに即してガルシア・マルケスらの作品を分析することも可能であろう。
 ヤナケとリゴベルトはそれぞれの難局に立ち向かい、自らの信念を貫く。試練に耐えた人物の造形から、例えばヨブやオデュセイアといった「歴史で学ぶ英雄」の物語を連想することは決して的外れではないだろう。物語の最期で二人はリマの国際空港で偶然に出会い、家族とともに同じフライトでヨーロッパに向かう。バッハからタマラ・ド・レンピッカにいたる偉大な文化を生み出した土地、一人のチョラ(白人とインディオの混血)のメイドを社交界の中心に変える教化の場、本書においてヨーロッパが帯びた記号性を勘案するならば、これがきわめて幸福な結末であることも明らかだ。リトゥーマ軍曹がいくつもの小説に登場した前例もある。偶然ではあるが、私もフライトを待つ間に空港のラウンジで本書を読み終えて、彼らの「その後」の物語を知りたいと強く感じた。
by gravity97 | 2016-03-06 16:15 | 海外文学 | Comments(0)