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b0138838_22474677.jpg中島らもが急逝というか不慮の死を遂げてから、もう10年以上の歳月が経った。しばらく前であるが、ちくま文庫からエッセイ・コレクションに続いて短編小説コレクションが刊行された。編者は小堀純。かつて「ぷがじゃ」の編集長を務め、演劇批評でも知られている。今、「ぷがじゃ」という固有名を挙げたが、この雑誌は1980年代を関西で過ごした者にとっては懐かしく感じられるだろう。私が中島の名を初めて知ったのは正式名称を「プレイガイドジャーナル」というこの雑誌に連載されていたカネテツデリカフーズの「微笑家族」という奇怪な広告記事の制作者としてであったはずだ。ただし今確認したところ、「ぷがじゃ」は実質的に1987年に廃刊されているから、私がこの広告を初めて見たのが、この後、最初朝日放送が発行していた「Q」という情報誌を乗っ取るようなかたちで進出した東京資本の関西版「ぴあ」のいずれであったかは判然としない。ここに「Lマガジン」、通称エルマガを加えて、四半世紀前の関西における情報誌の乱立というか戦国時代もそれなりに興味深い問題ではあるが、それはこのレヴューの主題ではない。
b0138838_2249980.jpg  私はこれまでにずいぶん多くの中島の小説、エッセー、自伝的エッセーを読んできた。私が感じた共感は80年代から90年代の関西という自分の生活圏が中島とシンクロナイズしていたからであろうし、ことに阪神大震災以前の阪神間というトポスは私にとって懐かしいものであるからだ。私は中島がエッセーの中で言及する店や場所の多くに心当たりがあり、実際に訪れたこともある。中島の生活史を知るうえでは朝日新聞のサービス誌に連載された「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」を読むのがよかろう。尼崎の歯科医の息子として生まれた中島は灘校(灘中と灘高を総称してこう呼ぶらしい)に進む。しかしそこで完全にドロップアウトした中島は神戸で「フーテン」生活を送り、シュルレアリスムやロック、ドラッグに馴染んでいく。この後、中島は有名大学に進む友人たちを横目に大阪芸術大学に進学するが、富田林の地の果てに所在する大学にはほとんど通うことなく異能のコピーライターとして頭角を現す。中島自身も記す通り、中学高校における異様なテンションの高さと大学における暗転の対比は印象的である。しかし中島によるとさらにこの後、「超絶的に明るい、おじさん時代」が横たわっているとのことであり、私が知っているコピーライター、劇団の主宰者、放送作家や作家といういくつもの顔をもつ中島はこれ以後のことであろう。
 前置きが長くなった。本書には未発表の二編を含めて、1989年から2004年の間に執筆された15編の短編が収録されている。私は中島の短編をずいぶん読んだつもりであったが、それでも読んだことがある短編はごくわずかであった。もっともどの小説もテイストとしてはよく見知ったものであり、ホラーやロック、小噺、プロレスといったおなじみのテーマが満載されている。この中で未発表の二編、特に表題とされた「美しい手」は中島としてはかなり異質の、抒情性の高い佳作である。編者の解説によればこれらの小説の原稿は死後に発見され、おそらくは中島が広告代理店に勤務していた1983年から86年の間に執筆されたまま放置されていたであろうとのことだ。つまり中島としても最も初期の作品である。「美しい全ての手は哀しい。/封も切られず捨てられた手紙のように哀しい。夜明け前のガソリン・スタンドのように哀しい。ささくれたヴィオラの弓の馬の毛のように哀しい」という詩的な文章に始まり、断章風の文章が連ねられている。小噺風の断章もあれば、回想風の断章もあるが、最後に落ちをつけてまとめるあたり、才人たる中島の片鱗が早くもうかがえる。先に異質と記したが、確かに作家として正式にデビューする以前に執筆されたと思しき冒頭の二編は本書に収められたほかの短編とはテイストがやや異なる。しかしこのような抒情性は決してほかの小説に認められない訳ではない。例えば「今夜、すべてのバーで」という長編はアルコール依存症として入院した中島の自伝的な小説であり、例によって飲酒をめぐるドタバタの繰り返しであるが、読後になんともいえない寂寥感が残ったことを覚えている。おそらくそれは中島の破滅願望と関わっているだろう。周知のとおり、中島はしばしば著書の中で自らの自殺念慮について記しているし、2003年には大麻取締法で逮捕されている。突然の死も飲酒した後の階段からの転落が原因であった。躁鬱病、ドラッグ、アルコール依存は長編短編を問わず中島の小説の主題系を形成しており、エッセーもそれに関連した内容が多い。そしておそらくその裏返しであろうが、中島は人として常に一種の含羞を漂わせていたように感じる。私は中島とは面識がないが、彼の死後、多くの関係者が故人を偲ぶ文章を発表している。それらを参照する限りにおいても彼が過激な書きぶりとは対照的なナイーヴな性格であったことは間違いないだろう。この意味で「美しい手」と「“青”を売るお店」という繊細な味わいの二編を冒頭に置いた構成は作家本人をよく知る小堀ならではの配慮であり、「私は『美しい手』が出版されれば、もう編集者を辞めてもいいと思った。この作品が陽の目を見るまでは死ねないと思った」という述懐もあながち編者としての気負いばかりではなかろう。中島は早世したが、よい編集者に恵まれたと思う。
 ほかの作品にも触れておこう。いずれも甲乙つけがたい怪作揃いである。「日の出通り商店街 生き生きデー」は商店街の日常に年に一度、誰を殺してもよい日がめぐってくるという設定のドタバタ劇。筒井康隆の「銀齢の果て」なども連想されようが、中島らしく格闘技に関する蘊蓄が随所で語られる。格闘技といえば「お父さんのバックドロップ」も実在のプロレスラーを念頭に置いた一種のファンタジーである。「ねたのよい」と「寝ずの番」はそれぞれロックバンドのギタリストと噺家のプロフェッショナリズムと関わる短編。いずれも中島の実体験と関係しているのではないだろうか。前者は伝説のロッカー、山口富士夫へのオマージュと呼ぶべき作品であり(このレヴューを記すために確認したところ、山口も喧嘩の仲裁に入って突き飛ばされ、脳挫傷で2013年に没している。因縁というべきであろうか)、後者は噺家の師匠の死後に集った弟子たちによる師匠をめぐる艶笑小噺であり、この類の下ネタを中島が愛好していたことも想起される。「ココナッツ・クラッシュ」と「琴中怪音」はいずれもどこともしれない国における一種の奇譚であり、中島敦を連想させるなどと書けば褒めすぎであろうか。「邪眼」と「EIGHT ARMS TO HOLD YOU」はいずれもグロテスクな味わいの短編である。私はこれらが収められた「人体模型の夜」こそ、中島の短編集中のベストではないかと思う。この短編集に収められた短編は海外で言えばロアルド・ダールあたりを彷彿とさせる奇妙な後味を残す。小松左京や筒井康隆、かつては日本でもSFの分野を中心にこのような書き手、このような短編が多く発表されていたが、近年ではあまり読んだ記憶がない。「クロウリング・キング・スネイク」と「DECO-CHIN」も中島らしい短編だ。前者は蛇へと変身していく姉の姿をコミカルに描き、後者はロッカーによる自らの身体毀損、身体改造を主題としている。特に後者は相当にグロテスクで反倫理的な内容である。本書の巻末、「本書のなかには今日の人権意識に照らして不適切な語句や表現がありますが、時代的背景と作品の価値にかんがみ、また著者が故人であるためそのままとしました」という但し書きは明らかにこの短編を指している。しかし明治大正の小説ならばともかく、10年ほど前に書かれた小説に対して「今日の人権意識」もあるまい。逆にこの点は中島の確信犯的な悪趣味を反映している。そして転落事故の三日前に脱稿され、ゲラが出た時に著者は集中治療室にいたというこの短編をあえて選んだところに編者の思いが反映されているように感じた。
 本書に先だって刊行され、同様に「今日の人権意識」云々といったエクスキューズが付された「中島らも エッセイ・コレクション」とともに、本書は特に初めて中島に接する読者に対してはよい導入となるだろう。しかしこれはまだ序の口にすぎない。それぞれの短編をさらに過激にしたような長編がいくつも存在するし、そもそも小説、エッセーというカテゴリーからは抜け落ちる多くのテクスト、コントや悩み相談への回答、広告、漫画や対談の中にこそ、この作家の本質を垣間見ることができるのではないだろうか。テクストの無秩序な広がりこそが中島らもという鬼才の輪郭をかたちづくっており、それゆえ事故による早世が惜しまれるのだ。しかしあえて問うならば、かかる夭折を本人が無意識に欲していたということはありえないか。私は先に「阪神大震災以前の阪神間というトポス」について論じた。1980年代にあって阪神間モダニズムの揺籃の地、尼崎から神戸にいたる地域は気候においても風土においても一種のパラダイスであった。しかし1995年の阪神大震災によって、この地域は壊滅的な打撃を受けた。幼い頃より親しみ、とりわけ青年期を過ごした美しい街が文字通り灰燼に帰したことを中島はどのように受け止めただろうか。私の知る限り中島に阪神大震災に言及した文章やエッセーはないように思う。しかし逆にこの不自然な沈黙こそが、中島の思いを暗示しているのではないだろうか。最初に述べたとおり、本書に収められた小説はほとんど全てが震災以後に執筆されている。これに対して叙情性に富んだ二つの短編、あるいは「今夜、すべてのバーで」といった小説が震災以前に執筆されていたことは何かしらの意味があるのであろうか。中島の自己破壊衝動、生に対するペシミズムというよりニヒリズムについてはいくつかの理由を想定することができる。それは生来のものであったかもしれず、薬物やアルコール依存の副産物であったかもしれない。しかし私は震災のトラウマもまたそこに大きく働いているように感じるのだ。思うに中島が世に出た1980年代とはおそらくこの国にとっても最も幸せな時代であった。それから二つの震災を経験し、私たちは経済的な余裕、そして精神的な余裕を失っている。今日、私たちを蝕む自己破壊衝動とニヒリズムに対して、中島はいわば「炭鉱のカナリア」として自らの生を代償として警告したのではなかっただろうか。
by gravity97 | 2016-10-12 23:02 | エンターテインメント | Comments(0)

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スティーヴン・キングが2013年に発表した「ドクター・スリープ」の翻訳が刊行された。なんと1977年に発表された「シャイニング」の続編とのこと。読む前から期待が高まる。「シャイニング」を私はパシフィカ版で翻訳された直後に読んだ。いわゆる幽霊屋敷を主題とした傑作であり、この前後に次々に翻訳された「呪われた町」「キャリー」ともども、初期作品を立て続けに読んでたちまち私はキングという未知の作家に魅了された。パシフィカ版は今手元にないため、私はまず同じ訳者による文春文庫版の「シャイニング」を再読してから「ドクター・スリープ」に向かうことにした。本書のレヴューにやや時間がかかったのはこのためである。しかしこの迂回、あるいは準備は必要であった。30年以上の時を隔てて発表された「シャイニング」と「ドクター・スリープ」を通読することによって二つの小説の世界ははるかに広がるように感じられるからだ。
 このところ私はキングの長編が翻訳されるたびにこのブログでレヴューしてきた。私はこれまで「暗黒の塔」シリーズ以外、ほとんどのキングの長編を読んできたが、実はキングの長編にはかなり出来不出来のばらつきがある。これまで私は「悪霊の島」「アンダー・ザ・ドーム」「11/22/63」についてレヴューしたが、今となってみれば「悪霊の島」はさほどの名作ともいえない。しかし09年の「アンダー・ザ・ドーム」、11年の「11/22/63」そして13年の「ドクター・スリープ」とほぼ2年ごとに発表された作品の完成度の高さには目を見張る。この作家は60歳を超えて新たな黄金期に入ったかのようだ。「シャイニング」は「呪われた町」、「ペット・セマタリー」と並んで初期のキングを代表する屈指の名作であったが、キングとしても初めて先行する作品の続編として構想した本書は「シャイニング」に完全に拮抗している。今回は「シャイニング」にも論及しながら、内容にもかなり立ち入って論じる。
b0138838_226219.jpg「シャイニング」は後にスタンリー・キューブリックによって映画化され、これも歴史的なフィルムであるから先にキューブリックの映画をとおしてこの小説を知った者も多いだろう。しかし両者はいくつかの重要な点、とりわけ結末部において決定的な相違がある。言うまでもなく「ドクター・スリープ」は小説「シャイニング」の続編であるから、両者を混同するとわかりにくくなる。この意味でも事前に「シャイニング」を再読することをお勧めする。「シャイニング」のストーリーを手短にまとめるならば次のとおりだ。作家を志望するジャック・トランスは冬の間閉ざされるコロラドの由緒あるホテル、オーバールックホテルに管理人として赴任する。雪に閉ざされて外界から途絶するオフシーズン、この大きなホテルを保守することがジャックの仕事であった。しかしこのホテルには呪われた歴史があり、悪霊に憑依されていた。一方、ジャックの5歳の息子、ダニーは「かがやき(シャイニング)」と呼ばれる一種の超能力をもち、言葉を介さずに意思を疎通したり、他者の思考や未来を読むことができた。ダニーは空想の中で交信する想像上の友達、トニーから、ホテルは忌まわしい場所であるから行くべきではないという警告を受けるが、母ウェンディとともに父に同行する。穏やかな日々とともに平穏に始まった一家三人の暮らしはいくつかの不気味な予兆とともに暗転し、ホテルが雪に閉ざされる頃からジャックは精神に変調を来す。ジャックはホテル内に出没する幽霊のような者たちから、長年断っていた(実際には存在しない)酒を勧められ、妻と息子を殺すように唆される。雪によって隔絶された世界に次第に狂気が渦巻いていく描写はキングの独擅場といえようし、キューブリックの映画も原作をかなり改変しながらも鬼気迫るものであった。未読の読者もいることと思うから、物語の結末はここでは述べないが、「ドクター・スリープ」はオーバールックホテルの惨劇を生き延びたダニーの36年後の物語である。
 序章とも呼ぶべき「その日まで」という冒頭の章においては、いわば本編への緩衝として「シャイニング」の3年後、8歳のダニー、ダン・トランスの物語が語られる。(ちなみに「シャイニング」においても最初の章は「その日まで」と題されて、オーバールックホテル到着までのトランス一家の物語が語られているから両者は韻を踏んでいるともいえようし、いずれの小説にも「生死の問題」と題された章が存在する)ここではダンはなおも惨事のトラウマを引きずり、同時に「かがやき」と呼ばれる能力が健在であることも暗示されている。ダンほどではないが「かがやき」の持ち主で「シャイニング」においてダニーを救った黒人のコック、ディック・ハローランも登場する。ここでハローランがダニーに授けた「忌まわしい存在」への対処法は物語の終盤で大きな意味をもつこととなる。続いて既に成人となったダンが登場する。しかしあろうことか、ダンもまた亡き父、ジャックを破滅へと追い込んだアルコール依存へ落ち込みかけている。おそらくここにはかつて薬物に依存していたというキングの実体験が反映されていよう。アルコール依存との相剋は「シャイニング」「ドクター・スリープ」を通底する裏のテーマなのである。この章の最後でダンは一つの恥ずべき行いを犯し、以後の彼を苦しめるトラウマとなるが、これは「シャイニング」においてジャックが怒りにまかせて幼いダニーの腕を折った事件が何度となくフラッシュバックするエピソードを反復している。このほかにも「シャイニング」と「ドクター・スリープ」の対照はいたるところに認められる。
 ダンはアメリカ各地のホスピスで看護師として渡り歩いている。禁酒と飲酒を繰り返す生活が定職と定着を許さないのだ。ニューハンプシャー州のフレイジャーという町に流れてきたダンは、トニーの「ここがその場所だよ」という声を聞く。ダンは再び自分の中の「かがやき」が増したことを知り、ここから物語が起動する。同じ頃、フレイジャーの近郊の町で一人の女の子が生まれる。出生時に羊膜をかぶって生まれたというエピソードはいうまでもなく「シャイニング」におけるダニー誕生のエピソードの再話であり、この少女、アブラもまた強い「かがやき」をもっていることを暗示している。アブラは幼少時からサイコキネシスや予知といった超能力を使い始めるが、娘の力を彼女の両親、デイヴィッドとルーシーが初めて思い知ったのは2001年9月11日のことであった。この日、同時多発テロの発生を感知したかのごとく同じ時刻、幼いアブラは原因不明のパニックをきたして大声で泣き続けるのみならず、両親にそれぞれテロの現場を幻視さえさせたのであった。そしてアブラと同様に同時多発テロを予知し、ワールドトレードセンターの対岸に陣取ってその一部始終を見守る一団がいた。ローズ・ザ・ハットという女性のリーダーに率いられた「真結族 true knot」たちである。彼らは人間から「命気(スチーム)」と呼ばれる生気を吸い取りながら生き続ける長命の邪悪な種族であり、多くの人間が苦しみ死んでいく場に臨場しては命気を補給していたのである。同時多発テロの惨劇の場に彼らが赴いたのは、そこがありえないほどの栄養補給の場であったためだ。しかし長い年月が経つ間に彼らも少しずつ数を減らし(彼らの場合は「死ぬ」ではなく「転じる」と呼ばれる)、リーダーのローズにとって自分たちの勢力をいかに保持するかが喫緊の問題であった。彼らにとって「かがやき」をもった者の命気はことに貴重であり、彼らはそのような存在、多くは年少者を誘拐し、残忍な方法で殺害し、犠牲者たちから命気を吸い取ることによって生きながらえようとしていた。ダン、アブラ、そして真結族という三つの物語が出揃ったあたりで、物語は加速する。ダンとアブラは出会う前から互いを感知する。ダンはアルコール依存から脱しようとする者たちの会合で無意識のうちにメモ帳にアブラの名前を書き留め、アブラはダンの勤め先の黒板にメッセージを浮かび上がらせる。しかし彼らが互いに感応しあったように、「真結族」、とりわけローズも彼らの存在を感知する。ブラッドリー・トレヴァーという「かがやき」をもつ少年をローズたちが誘い出して殺したことを知って、アブラは「真結族」に強い敵意を抱く。そしてトレヴァーの命気を吸ったことは「真結族」にとって別の意味で決定的な意味をもった。第1部の最後の一文「おなじその二年のあいだ、『真結族』の血流のなかでなにかが眠っていた。それはブラッドリー・トレヴァー、別名、野球少年のちょっとした置き土産とでもいうべきものであった」はキングらしく暗示に富んだ先説法である。
 第2部以降、互いに様々の策略を弄して繰り広げられる正邪の死闘について、ここでこれ以上触れることは控える。ダンはアブラの父親のデイヴィッド、ダンとアブラをともに知る医師のジョンとともに、あるトリックを用いてローズたちに挑む。これ以後のジェットコースターのような展開はキングの近作に共通している。予想されたことではあるが、物語は終盤において「シャイニング」の舞台となった呪われた地、オーバールックホテルの廃墟へと向かう。明示はされないが、「シャイニング」においてホテルに憑依した悪霊と「真結族」は同一であるかもしれない。両者はともに「かがやき」を持つ子供、「シャイニング」であればダニー、「ドクター・スリープ」であればアブラを自らの中に取り込もうとする。あるいは「ドクター・スリープ」においてローズは直接アブラやダンの意識に語りかけるが、これは「シャイニング」においてダニーを救おうとオーバールックホテルへ向かうハローランを、悪霊が彼の意識に直接語りかけることによって恫喝したことと似ている。「真結族」については作中でバンパイアという言葉が用いられるが、確かに彼らのふるまいは血液ではなく精神力を貪るバンパイアといってよく、この点から太古よりのバンパイア伝説、キングであれば「呪われた町」に登場する邪悪な存在も連想されるかもしれない。一方で「シャイニング」において邪悪な存在は名をもたず、一種の匿名的な幽霊であるのに対して、「ドクター・スリープ」においては固有名詞と人格をもち、複数の具体的な存在として描かれる。「シャイニング」においてオーバールックホテルという場に憑依した正体不明の悪霊は「ドクター・スリープ」においては擬人化されている。物語の怖さという点で「シャイニング」の方が一枚上手に感じられるのはこのせいであろうか。「アンダー・ザ・ドーム」「22/11/63」はいずれもどちらかといえばSF的な設定の物語であり、そのためか先ほどジェットコースターと呼んだリーダビリティーに富んでいた。正統的なホラーに回帰した本作でも、「シャイニング」や「ペット・セマタリー」にみられた物語全体に霧のように立ち込める不分明な恐怖に代わり、具体的でわかりやすい擬人化された悪との闘争が描かれている。この点は本書を論じるにあたって評価が分かれる点かもしれない。
 「シャイニング」においては冬の間、雪によって隔絶されるホテルに閉じ込められた恐怖、移動できないことの恐怖が描かれる。この点も「ドクター・スリープ」とは対照的だ。「真結族」は多くのオートキャンプ場を所有し、多くの車を連ねてそれらをめぐりながら生活している。忌まわしい行為を通じて通常の人間とは比較にならない長命を得た彼らにとって、同じ場所に留まることは自分たちの異質さを周囲に気づかせる危険があるからだ。あるいは久しぶりにトニーの声を聞いてニューハンプシャーの小さな町に留まることを決意するまで、ダンもまた移動によって人生を消費してきた。移動と滞留という対立的な主題からキングの小説を分析することも可能ではなかろうか。「呪われた町」や「スタンド」、あるいは「セル」においては移動が優勢であり、「ミザリー」や「アンダー・ザ・ドーム」では滞留もしくは移動の不可能性が主題とされている。「シャイニング」と「ドクター・スリープ」を同じ物語の前編後編と考えた場合、滞留から移動へ、主題が逆転する様は興味深い。
最初に述べたとおり、「ドクター・スリープ」は36年後のダニーの物語であり、小説自体も「シャイニング」の36年後に発表されているから、物語の時間と現実の時間は同期している。そして物語自体も一つの歴史的現実と接している。いうまでもなく9・11の同時多発テロだ。警察署に保管されたビュイック、突然に立ちこめる霧、なにげない品物や現象が実はこの世界とあの世界を隔てる皮膜であり、それが破れておぞましい恐怖が私たちの現実になだれ込んでくる状況をキングはいくつもの作品の中で迫真的な筆致で描いた。思えば同時多発テロもそのような特異点、皮膜の破れではなかっただろうか。日常の背後に広がる暗黒、キングが繰り返し描いた闇はもはや超自然的なそれではなく、私たちの時代に遍在する。私は村上春樹から宮部みゆきにいたる現代日本の小説に同様の闇を認めることができるし、それはディケンズからドストエフスキーにいたる西洋文学の主流にも共通している。私がキングを読む切実さのゆえんでもある。
by gravity97 | 2015-06-30 22:08 | エンターテインメント | Comments(0)

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 さすがに通読には時間がかかった。本書は宮部みゆきの小説の中でも最長の長編であり、量にして文庫六分冊。しかし文庫版が発売されてから読み始めるまでに躊躇があったのは長さばかりが理由ではない。同じ著者による本書に匹敵する長編としては文庫五分冊の「模倣犯」がある。私は「模倣犯」もまた傑作であると思うが、人間の悪意の連鎖、そして物語の展開の救いのなさに読み進めるのが辛かった。悪を通して人は自分たちの魂の深淵をのぞき込む。私たちの日常の中に陥穽のように潜む悪意を抉り出すことにおいて、宮部の筆は仮借がない。例えば私は杉村三郎を主人公とした連作長編のうち、「誰か」と「名もなき毒」をそれぞれ文庫化されたタイミングで読んでいるが、一見ごく普通の人間の内部に巣食う名状しがたい悪意を描くこれらの作品は一種のサイコホラーとしても読めなくはないし、思えば「魔術はささやく」や「火車」といった初期の代表作においても同様のデモーニッシュな悪意との遭遇が描かれていた。「模倣犯」や「名もなき毒」に類した物語がこれほどの長尺で続くのであれば少々きついなと感じ、さらに本書が学校で死んだ少年をめぐる物語だと聞いて、おそらく相当に深刻な内容となるのではないかと推測したからだ。
 読み始めると、私の危惧は杞憂に終わった。物語は実によく練られており、頁を繰る手は止まらない。10日ほどを費やして読み続け、私は深い感動とともに本書を読み終えた。確かに忌まわしい事件があり、輻輳する悪意がある。しかしここには人間が善でもありうることへの高らかな希望が謳われている。活躍するのは15歳、中学三年の少年少女たちであり、本書は一種の少年少女小説として読むこともできる。私は登場人物たちと同じ世代、そして実際にここで描かれているような状況の中で苦しんでいる若い人々にこそ読んでほしいと思った。
 物語は三部構成をとり、量的にもほぼ等しい。文庫版ではそれぞれが上下に分かれて六分冊となっている。後でも触れるとおり、この小説は形式的にもきわめて巧みに構成されており、三つのパートは時間的、内容的に画然と分かたれている。すなわち「第一部 事件」においては少年の謎の死とそれをめぐって次々に連鎖する出来事が描かれる。少年が学校の屋上から身を投げた日時は特定されている。1990年のクリスマス・イヴ。日付が特定されていることに留意しておこう。いうまでもなくバブルの絶頂期であり、ここで語られる事件の背景にはバブル景気に狂騒する社会がある。宮部の代表作「理由」の背景と同一であり、この時代に対する作者の拘泥がうかがえる。そして実際にこの小説の中でもこの時期でなければありえなかった事件が描かれている。第一部はこの日からほぼ三カ月間の物語であり、この時点で主人公たちは中学校2年生である。このパートの最後で主人公の一人、藤野涼子は一つの決意をする。それは少年の死の真相を自分たちの手で究明することであった。「第二部 決意」も冒頭に日付が与えられている。1991年7月20日、夏休みの直前の一日だ。この日、藤野はクラスメイトたちに中学3年に課題として与えられた「卒業制作」として同級生の死の真相解明を行うことを提案し、それは少年を突き落とした疑いをかけられている少年に対する「学校内裁判」という異例の試みとして実現されることとなった。陪審員制をとり、検事と弁護士、判事から廷吏までを生徒たちが務める模擬法廷の開廷に向けて、それぞれの役割を買って出た生徒たちは真相の究明に向かって調査を開始する。準備は8月1日から14日までの二週間。15日に法廷を開廷し、5日間の審理の後、20日に判決を言い渡すというスケジュールはあらかじめ定められている。第二部ではこのうち8月10日までの出来事が語られる。「第三部 法廷」はタイトルのとおり、学校内裁判を実況し、8月15日から20日までの出来事を描く。このあたりの構成も巧みだ。今述べたとおり、8月11日から14日までの主人公たちの動静は意図的に省略されている。つまり検事役と弁護士役の生徒たちがこの間にどのような調査をしたか知らされないまま、読者は法廷での証言に立ち会うこととなるのだ。宮部は読者が知りうる情報を巧妙に制限したうえで物語を進める。同様の工夫は話法にも認められる。第一部と第二部で話者は全能の位置にあり、登場する少年少女の家庭の情景がていねいに描き込まれる。刑事の父と司法書士の母をもち、両親と姉妹の愛情の中で育っている藤野、病弱な母と仕事に追われる父の間で疎外感に苛まれる野田健一、兄との冷たい確執の中にある柏木卓也、やくざのような父親の暴力に脅かされ、そのはけ口を求めるかのように橋田祐太郎と井口充を引き連れて校内外で暴力を働く大出俊二。いつもにも増して登場人物たちの周辺が丹念に書き込まれ、物語はくっきりとした立体感を帯び始める。いくつもの挿話の中に周到に伏線が張りめぐらされており、一見物語とは無関係なエピソードが重要な意味をもつ点は宮部のミステリーの定石だ。物語の展開も正統的なミステリーを踏襲している。すなわちまず第一部で事件=事実が提示され、第二部で関係者への聞き取りがなされる。そして第三部で「真相」が開示される。第三部において全能の話者に代わり、裁判の場に立ち会う関係者たちの視点をとおして物語が語られる点は注目に値する。多くの場面が裁判における証人とのやりとりとして記述される第三部に全能の話者を導入すると物語が平板化されてしまうためであろうか。いや、何よりもそこで明らかにされる真実が登場人物たちの内面と深く関わっているからではないか。裁判の中で明らかになる意外な事実に対して話者は自らの思いを開陳する。思いがけない事件で審理が中断される裁判四日目を除いて、初日から結審の日まで裁判の進行は物語と深く関わる四人の登場人物、少年課の女性刑事、廷吏、陪審員、検事の父、弁護人助手の目を通して、彼らの心の揺れとともに語られる。通常のミステリーであれば途中で語りの視点が変わることはありえないだろうし、少なくとも謎が解明される局面においては中立的な視点こそが要請されるはずだ。しかし宮部はあえて複数の登場人物たちを次々に焦点化して、謎解きを行う。さらに踏み込むならば、このような語りは真実が一つではないこと、それぞれの登場人物が異なった真実を見出したことを暗示しているとはいえないか。かかる発想は実はこのミステリーの根幹と深く関わっている。
 未読の読者も多いであろうから、ここでは裁判の終盤で明かされる驚くべき事実については触れない。ただし、それは決して意想外ではない。私自身、第二部のあたりでおぼろげに想像できたし、実際に何人かの登場人物は物語の中でそれを予感し、口にさえしている。そもそも少年の死が殺人であると告発する手紙を書いた人物は第一部において、つまり全能の話者によって名指しされているから、その真偽も含めて読者にはあらかじめ判断の材料が与えられている。先にも述べたとおり、本書の読みどころは唯一の真実をめぐるトリッキーな謎解きではなく、学校内裁判という前代未聞の試みによって登場人物たちがそれぞれの「真実」にたどり着くまでのさまざまな葛藤ととらえるべきであろう。最初から告発者が特定されている点から本書を一種の倒叙推理とみなすこともできようし、第三部にいたっては堂々たるリーガル・ミステリーである。しかし本書を何らかのジャンルに分類するならば、何よりもビルドゥング・ロマンスという名こそがふさわしい。ビルドゥング・ロマンス、教養小説とは登場人物が様々な経験を通して内面的に成長していく過程を描いた小説のことである。この小説では同級生の死をめぐる同級生を被告とした裁判という痛みを伴う体験をとおして、15歳の中学生たちがわずか数日のうちに大きく成長していく姿がみごとに描かれている。大人顔負けの駆け引きで不可能と思われていた学校内裁判を実現させる藤野涼子、判事として悠然と審理の総指揮にあたる優等生の井上康夫、転落死を遂げた柏木の知り合いでほかの中学に在籍しながら弁護人を引き受けた謎めいた少年、神原和彦。物語の中心となる三人のふるまいはとても中学生とは思えない大人びた印象を与える。一方で陪審員に名乗り出た藤野の親友とその幼馴染、バスケットボール部と将棋部の主将、あるいは被告とされる少年のガールフレンド、さらには廷吏を務める空手家の少年といった、どこにでもいるような、そしてこの事件がなければ交わることのなかった生徒たちもそれぞれの務めを果たす中で成長していく。宮部はもともと少年少女の描写に長けているが、この作品における描写は精彩に富み、細やかな書き込みを通して、読者は彼らの内面へと深く分け入っていく。とりわけ「決意」の章の前半、藤野の呼びかけに応じ、クラスメイトたちが次々に馳せ参じて来る場面はこの小説の一つのクライマックスであろう。「事件」の章を覆っていた暗い曇天に、さながら一条の光が差し込んだかのようであり、私たちはその光に導かれてこの暗鬱な事件の真相へと向かう。これに対し、真相を究明しようとする生徒たちに対して、学校側はそれを妨げようとする。体罰やいじめ、自殺といった現実の事件に対して多くの学校で教師たちがとった態度を知る私たちにとってこのような展開は意外ではないし、本書でも生徒たちに寄り添おうとする教師と事件を隠蔽しようとする教師たち、学校内裁判を支援する教師たちと阻止しようとする教師たちの葛藤が描かれる。しかしかかる抑圧は教師個人の問題といよりも学校という制度に固有のものではないか。学校という制度に内在する抑圧性は本書の隠れたテーマといえよう。死を遂げた柏木が中学校で唯一心を開いた美術教師、丹野は、裁判の席で柏木が好んだブリューゲルの絵の暗喩について次のように証言する。「学校という体制の中では生徒はそれに従うしかない。体制に反抗すれば処罰されるわけですから」「密告者と密告された者の関係は、たとえばいじめられている生徒と、その生徒がいじめられていることを知っていながら、自分に火の粉がかかることが怖ろしいばかりに、見ないふりをしているまわりの生徒たちの関係に似ています」「監視しながら同時に監視されている。先生に目をつけられたり、生徒同士の間でいじめの標的にされることを恐れて、本音を言うなんてとんでもない。本当の自分を見せることもできない、表面的なつきあいに調子を合わせて恭順を装うしかない生活」この主張は一面において真実であり、柏木の死の真相と深く関わっている。しかし一方でこの小説を読み終えて読者が感じる救い、カタルシスは学校という場で初めて可能となった生徒たちの友情、紐帯に負っている。この小説において学校という制度は一人の生徒を死に追いやる抑圧であると同時に、そこで育まれた連帯によってその死に意味を与えるという希望でもあり、両義的な意味をもつ。本書は学校という場でなければ成立しえない物語であり、それゆえ作者は「学校内裁判」というありえない設定を持ち込んだのであろう。
 裁判とは真実の前に人を傷つける場でもある。傷つく経験を共有し、それを乗り越えることによって少年たち少女たちは成長する。裁判をとおして成長するのは生徒たちばかりではない。教師や彼らの家族、学校内裁判に関わった者たちはそれぞれに傷つきながらも一種の浄化を経験することとなる。悪意が連鎖し、暗い緊張が張り詰めた第一部を読んでいる時には想像すらできないだろうが、裁判を経て「真実」が明らかになった最後の場面で、読者は登場人物たちに等しくいとおしさを覚えるはずだ。読後感は一言でいうならば清冽であり、ここで登場人物たちと別れることはあまりにも惜しい。彼ら彼女らがそれからどう生きたかを知りたいという思いに強く駆られるだろう。「2010年、春」と題され、最後に付されたエピローグ風の文章はこのような思いへ応答する。タイトルが示すとおり、そこには登場人物の一人の20年後の姿が短く書き留められている。さらに文庫版には最後に「負の方程式」という特別書き下ろしの短編も付されている。そこでは20年後の藤野涼子の活躍が描かれる。検事ならぬ弁護士となった藤野はここでも学校を舞台にしたもう一つの「偽証事件」に挑むこととなる。そして藤野の口をとおして語られるもう一人の登場人物の意外な消息に読者は思わず微笑することと思う
by gravity97 | 2015-02-19 20:50 | エンターテインメント | Comments(0)

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 年末年始にヨーロッパを訪れた。前にも記したが、海外に赴く際には長時間のフライトに備えて事前に読みやすい長編小説を準備する。私の場合、必ず携える作家はロバート・ラドラムだ。以前より海外で飛行機に搭乗する際、私は現地の旅行者がどんなペーパーバックを持ち込むかに関心があり、常に横目でチェックするのであるが、少なくとも私が頻繁に海外で仕事をしていた10年前から20年前くらいの間、ラドラムとダン・ブラウンは航空機内で読まれている作家の双璧であった。
 私の考えではフライトの際に読まれる小説はいくつかの特質を兼ね備えるべきだ。まず少なくとも往路もしくは復路を費やして読む必要のある長さ、これから旅する土地が舞台となること、そしてリーダビリティーである。大半が厚い文庫本で二分冊、アメリカとヨーロッパを謀略の舞台とし、場面転換が多く飽きることのないラドラムはまさにうってつけなのだ。フライトのたびに新しい小説を持ち込んだから、今、書庫で確認しただけでも私は20作品近いラドラムの文庫本を所持している。述べたとおり、ラドラムの小説は多くが二分冊、中には三分冊の長尺であり、文庫にもかかわらず一つの書架を占有するほどの量がある。逆に言えばそれほど多くの作品が日本語に訳されている訳であるが、訳者もあとがきで嘆くとおり、アメリカと日本で受容にこれほどの差がある作家、つまりアメリカでは売れているが日本では知られていない作家はほかに例がないだろう。実際、アマゾンで検索してみるならば、ラドラムの小説は多くが入手可能とはいえほとんどが中古本であり、市場では品切れ状態なのである。一般にラドラムの名前はベストセラー作家というより単に映画「ボーン・アイデンティティー」の原作者と呼んだ方が通りがよい。「ボーン・アイデンティティー」は邦訳タイトルとしては「暗殺者」。記憶を喪失した秘密工作員を主人公にしたスリラーはラドラム作品中でも白眉と呼ぶべき佳作であるが、ほかの作品も極端な出来不出来はない。ひとまず機内に持ち込めば、片道分のフライトは楽しめ、こちらとしても特にそれ以上は期待していない。それぞれの物語は全く異なっているにもかかわらず、読み終えるといずれもよく似た印象を与える点も日本でラドラムが人気のない理由かもしれない。この点は同じようなスリラーを量産したフレデリック・フォーサイスやトム・クランシーと比べる時、直ちに了解されるだろう。
 さて、今回機内に持ち込んだのは1979年に原著が発表された「マタレ―ズ暗殺集団」。いうまでもなくベルリンの壁が存在し、冷戦が続いていた時期に執筆された作品である。北上次郎によれば、ラドラムで読むべき作品は「マトロック・ペーパー」「暗殺者」そしてこの「マタレーズ暗殺集団」の三冊のみであり、あとは同工異曲ということである。この発言がどの時点でなされたかは不明であり、80年代以降に発表された小説にも親しんだ私としてはやや厳しい評価であるように感じられないでもないが、確かにこの小説はよく描けている。冒頭でアメリカとソビエト連邦(ロシアではない)の二人の要人、アンソニー・ブラックバーンという将軍とディミトリー・ユーリエヴィッチという核物理学者が謀殺される。米ソ当局は暗殺者として、それぞれソビエト連邦とアメリカの腕利きの工作員、ワシーリー・タレニエコフとブランドン・アラン・スコフィールドを容疑者として割り出すが、いずれの国も彼らの関与を否定する。冒頭から米ソの冷戦を強く意識した内容である。このうちタレニエコフはKGBで指導を受けた老人から死の直前に「マタレーズ」なる秘密組織が暗躍を再開したという警告を受ける。マタレーズとは要人の暗殺を請け負い、世界史の闇を支配してきた謎の集団であり、スターリンやルーズベルトの死にも加担していたという。冒頭の二つの暗殺もマタレーズの手によるものであったのだ。秘密の暴露、任務の移譲、未知の敵。これらの説話論的主題に彩られた冒頭は、例えば主人公がジュネーブで再会した旧友から世界的な蜂起計画の進行を警告され、その直後に旧友が殺されるという「戻ってきた将軍たち」のオープニングと同一であり、先に述べたようにラドラムの小説の読後感が相似した印象を与える点はかかる物語の構造に由来しているだろう。さて、タレニエコフはこの陰謀を阻止するために老人のアドバイスに従ってスコフィールドと接触しようとするが、実はこの二人はかつて冷戦の中で恋人と弟を殺しあった仇敵同士なのである。このあたりの強引さというか御都合主義には呆れもするが、機上で頁を繰る分にはさほど気にならない。したがって両者が宿敵と和解し、世界規模の陰謀に立ち向かうまでの緊迫したやりとりは本書の読みどころといえよう。手を組んだ二人はかつて20世紀初頭、マタレーズが設立されたコルシカ島に渡り、その秘密を探ろうとする。この過程で二人が何度も危機に陥り、多くの殺人に立ち会うことはラドラムの読者であれば誰でも予想がつく。コルシカ島で二人はマタレーズ結成の瞬間に立ち会った老婆とその孫娘アントニアに出会う。毅然とした美女アントニアの登場によって二人のうちのいずれか、おそらくはスコフィールドが彼女と恋に落ちるであろうこともラドラムの定石である。ジェフリー・ディーヴァーとは異なり、読者の予想が裏切られることがないのがラドラムであり、予定調和をその本質としている。しかしながらたたみかけるような事件の連続、スコフィールド=タレニエコフの側とマタレーズ側をたえず往還する叙法は緊張を持続させ、読者は物語の帰趨から一瞬たりとも目を離すことができない。予定調和と緊張の両立こそラドラムの名人芸というべきかもしれない。舞台はニューヨーク、モスクワ、アムステルダム、ローマ、レニングラード、エッセンとめまぐるしく変わる。いずれの都市でもマタレーズ・サークル(本書の原題であり、暗殺者たちの胸に刻まれた円形のタットゥーと二重の意味をもつ)の暗殺者が暗躍し、関係者は次々に殺害される。最初は守勢に立たされたスコフィールドたちであったが、マタレーズ結成に関わった各国の実力者の末裔たちを突き止め、彼らの上に君臨する「羊飼いの少年」なる黒幕の正体を次第に暴き出していく。携帯電話もインターネットもない時代のマンハント、その圧倒的なディテイルについては直接お読みいだくのがよいだろう。欧米の主要都市、高級ホテルやクラブを舞台にマッチョなヒーローが敵と闘い、美女とベッドをともにするという荒唐無稽なストーリーはイアン・フレミングの007シリーズなどとも共通し、20世紀末のホワイト・アングロサクソン・プロテスタントの男性にとっては一つのファンタジーを形成しているだろうが、ジェンダーや階級といった問題意識をくぐり抜けた私たちにとっては少々居心地が悪くも感じられる。
 b0138838_20483992.jpgさて、本書には実は続編がある。原著としては18年後の1997年に発表された「マタレーズ最終戦争」(原題 Matarese Countdown)である。本書も文庫二分冊のほとんど同じ分量である。今回のフライトでこちらも通読したが、こちらはラドラムらしからぬ凡作であった。マタレーズが復活したというダイイングメッセージを残して実業家たちが怪死する。CIA副長官のフランク・シールズは若手のエリート工作員キャメロン・プライスを抜擢し、カリブ海に隠棲し、妻アントニアとともに悠々とした余生を送るスコフィールドに接触し、彼とともに情報の真偽を確認するように命じる。しかしここでもマタレーズは先手を打ち、彼らは何度も窮地に陥る。前作のスコフィールドとアントニアに代わり、本作のヒーローとヒロインはプライスと陸軍情報部将校のレスリー・モントローズであり、彼らに加えて空軍パイロットのルーサー・コンシダイン、イギリスの情報機関M15長官のジェフリー・ウォーターズらがいわばチーム・スコフィールドを結成してマタレーズの陰謀に立ち向かう。しかしながら人物の描写はきわめて平板で(もっともラドラムの場合、人物描写に深みを期待することは最初から期待できない)、東西冷戦を背景として前作に導入された緊張も欠いているため、本書を通読するのは少々辛く感じられた。そもそも原題にあるカウントダウン、マタレーズの蜂起計画の詳細が最後まで明らかとされないため、人物たちの動きにリアリティーや必然性が感じられないのである。
 しかしながらこの小説が発表された時期を考えるならば、内容には示唆的もしくは予言的な部分がある。1997年という時代は端的に冷戦と9・11のはざまである。「暗殺集団」の背景をかたちづくったアメリカとソビエト連邦の対立は「最終戦争」の発表時にはもはや存在しない。一方で昨今の欧米のスリラーではテロリストのステレオタイプとも呼ぶべきイスラム系の人物も登場しない。私の知る限り、ラドラムの小説においては『暗殺者』にベネズエラ人の実在のテロリスト、ジャッカルが姿を現す以外に特定のモデルをもったテロリストやイスラム過激派は登場しない。ネオ・ナチ、退役した狂信的な軍人によって結成された秘密組織、国連に巣食う陰謀、登場する敵役もまた先に述べたとおり、常にWASP的な想像力の範囲内である点にラドラムの限界を指摘できるかもしれない。ラドラムが没したのは同時多発テロの半年前、2001年3月のことであったから、もしラドラムが生き長らえて同時多発テロを経験していたら、どのような小説として結実したかという問題は興味深いし、巨視的な観点に立つならならば、それは欧米のフィクションに登場する「テロリスト」が「アラブ・ゲリラ」から「イスラム戦士」へと名指し変えられる状況と関連しているだろう。冷戦が終結した後、「最終戦争」においてマタレーズがその影に隠れて陰謀を押し進める隠れ蓑は何か。それは多国籍企業である。小説の中では新聞の報道等を引用する形式で多国籍企業が関連企業を買収し、世界的な寡占状態が進行する過程が随所で語られる。かかる寡占化とマタレーズの世界支配に向けてのカウントダウンがどのように結びついているかが具体的に説明されない点はこの物語の致命的な弱点である。しかし今、私たちはマタレーズ暗殺集団が暗躍せずとも「グローバル化」という名の産業の寡占化が世界規模で進行していることを知っている。のみならず私たち自身がそのような状況を歓迎しているのではないだろうか。それはかつてこのブログで触れたギュンター・アンダースが「世界機械」と呼んだ趨勢であるかもしれず、マタレーズが存在せずともこの小説で描かれた世界は実現されつつあるのだ。
 このたび久しぶりにトランス・ヨーロッパ・イクスプレスならぬインターシティーに乗車して驚いたことがある。車内で若者たちが携帯を手にしている風景は日本の通勤電車と変わることがない。しかも何というゲームか私は知らないが、彼らが夢中でのぞきこんでいるゲームは明らかに日本でも若者たちが興じているそれだ。かかる風景の世界的画一化に私は軽い恐怖心さえ覚えた。かつては言語も習慣も異なる海外へ赴くことは異文化の中に身を置くことであった。しかし今や若い世代においては、少なくとも日本と欧米で携帯端末を中心とした文化にほとんど差異がないのである。私自身、初めて海外からWi-Fiでラインやメイルに接続し、それがいかにたやすいかを実感したのも今回の旅行であった。おそらく若い世代はかかる情報インフラをはるかに豊かに享受することができるだろう。しかし私はこのような一元化を必ずしも好ましいとは感じない。世界が選択と集中を加速化するうえで一元的な価値への統合は望ましいかもしれない。しかし私たちが望むのはそのような世界であろうか。ラドラムの小説を絵空事と呼ぶのはたやすいが、マタレーズのごとき荒唐無稽の存在ではなく、より狡猾で非人称の意志が今や世界を制覇しようとしており、私たちもそれを進んで受け入れようとしているのではないか。かかる不安は果たして長いフライトの疲れによって兆した妄想であったのか。
by gravity97 | 2015-01-12 20:55 | エンターテインメント | Comments(0)

b0138838_20433256.jpg 安楽椅子探偵の究極の姿、全身不随の科学捜査官リンカーン・ライムを主人公としたシリーズもこれで10作目となるという。このブログでも以前に「12番目のカード」について評したことがある。このシリーズに関して、私はこれまでに「エンプティー・チェア」以外は全て読んでおり、またこのシリーズからスピンオフしたキャサリン・ダンス・シリーズについても何冊か読んだ。「ボーン・コレクター」とともにライムという異形の主人公が登場した際は大きな衝撃を受け、現場に残された微細な手がかりから容疑者を特定していく緻密な推理も実に新鮮であったが、さすがに10作も発表されると作品によって出来不出来があることがわかる。とは言いつつ、毎年秋が深まる頃に翻訳が発売される新作を求めて、期待を大きく裏切られたことはない。本作もシリーズ中ではおそらく標準的な出来といえようが、読み始めるとしばらくほかの事に手がつけられないページターナーという点はいつもどおりだ。
 未読の読者も多いであろうから、ここでは帯に書いてある程度の情報しか内容に立ち入らないようにするが、今回はディーヴァー特有のけれん味あふれるどんでん返しはさほど盛り込まれていない。プライヴェイトにおいてもライムのパートナーの位置を占めるアメリア・サックス。ロン・セリットー、フレッド・デルレイといった捜査官たちから成るチーム・ライムの面々、さらに依頼者、今回はナンス・ローレルというニューヨーク州の女性地方検事補(彼女とサックスとの葛藤が一つのストーリーをかたちづくる)がライムのタウンハウスを訪れて捜査への協力を依頼するというオープニングもいつもどおりである。今回、ライムが立ち向かうのはアメリカの架空の政府組織、テロリストとみなされる人物を謀殺する諜報機関である。開幕冒頭、バハマのリゾート地に潜んだ反体制派ジャーナリストが2000メートルという超遠距離から狙撃されて死亡する。内通者からこの殺人が計画的な暗殺であることを知らされたローレルは国外であれ、アメリカ人を殺害したことを理由に関係者の訴追に乗り出す。(被害者の国籍はこの物語では重要な意味をもつ)ビンラディン暗殺の報に触れた私たちにとってこのような組織が架空であると断言することはもはや難しいとはいえ、このシリーズとしては珍しくサイコパスや殺人狂といった個人を相手にするのではなく、組織対組織の暗闘にライムが関わることとなる。といっても人物造型に長けたディーヴァーであるから、本作にもジェイコブ・スワンなる殺し屋を登場させて物語を引き締める。このような連作の場合、仇役とも呼ぶべき殺人者とライムとの死闘が物語をかたちづくるから、作を追うに従って悪役のインフレーションとも呼ぶべき事態が発生する。つまり新しい仇役は前作に登場したそれより劣ってはならないという法則だ。これは書く側にとっても一つのハードルとなるだろうが、今回登場するジェイコブ・スワンは残忍なナイフの使い手であり、しかも料理を得意とする。このあたり、来日した際には各種の包丁を買い求め、週末ごとに招いた客を自ら腕を振るった料理でもてなすという作者ディーヴァーの姿が投影されており、実際にスワンが小説の中で作る美味そうな料理のレシピはディーヴァーのホームページに掲載されているらしい。偏執的な殺人者と優れた料理人はしばしば一致する。いうまでもこのような存在から直ちに連想されるのはトマス・ハリスが一連の作品の主人公としたハンニバル・レクター博士であるが、この小説のジェイコブ・スワンのキレぶりもなかなかのものであり、悪役インフレーションをみごとにクリアしている。そして彼を操る政府の謀略機関も情報の収集という点において徹底的であり、サックスが発する電話やメイル、あらゆる通信を傍受して、関係者の暗殺をスワンに命じる。実際にこのような操作が現在可能とされているか否かについては、テロリストを未然に暗殺する謀略組織の存在同様、絵空事とはいえない気がする。実は私は本書を読む直前にやはり最近訳出されたテリー・ヘイズの『ピルグリム』という長いスリラーも通読し、どちらをレヴューするか迷いもしたのであるが、そこでもアメリカに対して大規模なテロを企てる顔のないテロリストに対し、アメリカ政府がインテリジェンス能力の全てを投じて追いつめていく様子が描かれていた。『ピルグリム』においてはエシュロン、アメリカの軍事目的の通信傍受システムの存在は自明のものとして描写されていたが、かくも電子機器が発達した社会において、ひとたび政府に抗うならば私たちのプライヴァシーはきわめて危ういことをこれらの小説は暗示している。
 先に登場人物や冒頭がいつもどおりだと記したが、このシリーズを読み続けてきた者としては驚くべき展開がいくつかある。冒頭に記したとおり、最初の設定では全身不随であったライムが本作においては右腕の自由をほぼ取り戻しているのだ。前作『バーニング・ワイヤー』の最後で最新の治療を受けリハビリに取り組むライムの姿が粗描されていたが、今回の物語は明らかにその延長上にある。そして驚くべきことに今まではマンハッタン、セントラル・パークを臨むタウンハウスから動くことのなかった/できなかったライムは今回の物語の中で証拠を求めてバハマまで自ら出向くのである。南国のリゾート、ビーチの上のライムとは想像しがたい情景である。この情景は今回の犯行現場が野外を含むことを暗示しているともいえようが、そのためであろうか『ゴースト・スナイパー』ではライムの独擅場とも呼ぶべき見せ場、つまり自分の部屋にいながら、グリッド捜索を行うサックスからの情報をもとに現場の遺留品から次々に犯人像を推理するライムの姿があまり登場しないのは残念である。ライムとサックスはこのシリーズにおける静と動、推理と行動、安楽椅子と現場という対比を象徴しているが、シリーズを追うに従って次第に前者から後者へと比重が移っているように感じるのは私だけだろうか。もう一点、本書においてはかなり時事的、今日的な問題が作品の中心に置かれていることも興味深い。トリックの核心とも関わるのでこれ以上は説明しないが、インターネットや最新の操作技術を駆使しながらも、これまでライムが扱う事件は重大事件の証人の警備や密入国者の捜査、あるいは天才的な犯罪者のトリックといったさほど時局と関わることがない内容であった。これに対して、今回の事件は9・11以後のアメリカの恥部とも呼ぶべき問題と深く関わっており、政府の機関を州の地方検事が告発しようとする物語の枠組自体に既にこの点は暗示されている。ひとつだけヒントを述べるならば、本書は原題を The Kill Room という。本書を通読するならば意味深長なタイトルであることはすぐさま理解されよう。
 このシリーズは登場人物の成長の記録でもある。以前、(どの事件であっただろうか)捜査の中で頭に重傷を負い、深刻なPTSDに苦しんだサックスの部下、「ルーキー」ことロナルド・プラスキー巡査は今回目を見張るような活躍をして、ライムやサックスを驚かせる。そして今回もまた物語の最後で一人の登場人物が重大な決断をする。おそらく次作に反映されるであろうこの決断がいかなるものであったかは本編を読んでお楽しみいただきたい。既にアメリカではリンカーン・ライム・シリーズの新作が今年発表されている。 The Skin Collector というタイトルからは「ボーン・コレクター」やトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」も想起されよう。邦訳は例によって一年後であろうか。楽しみに待ちたい。
by gravity97 | 2014-11-16 20:47 | エンターテインメント | Comments(0)

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 特に予定のないゴールデンウイークは長編を読んで過ごすことが多い。今年は偶然にも休日に入る直前、格好のエンターテインメントが翻訳され、十分に堪能することができた。1999年に原著がイタリアで刊行されたルーサー・ブリセットの『Q』という歴史小説だ。なぜイタリアで発表された小説の著者が英語表記なのか。著者名に不審を覚えるのは当然だ。種明かしをするならば、この小説は4人の匿名の執筆者の手による合作であり、商業性の否定と匿名性を主張するルーサー・ブリセット・プロジェクトの産物である。アンチ・コピーライトを唱える彼らは本書の全編をウェブサイト上にアップし、誰でも無料で読むことができるという。ちなみにルーサー・ブリセットとは1980年代にイギリスに現存した無名のサッカー選手らしい。このあたりイタリアのオートノミズムとの関係なども気になるところであるが、これ以上はよくわからない。もっとも匿名性は翻訳においても貫徹されており、あとがきを読んでも具体的な作者については「ボローニャ在住の四人のイタリア人」と記されるのみで、名前さえ示されていない。このあたりの事情も興味深いが、深入りする必要はない。読者は無用な詮索の前にまず頁を開くべきだろう。誰が書いたにせよ、この小説は抜群に面白い。たちまち物語に引き込まれることは間違いない。
 舞台は宗教改革と農民戦争の騒乱が続く16世紀のヨーロッパ。異端審問と傭兵による略奪が猖獗し、世界は荒廃の極にある。この世界で数十年の間隔を置いて、死闘を繰り広げる二人の男の物語が本書だ。一人は名前のない、いや、時代によっていくつもの名前をもつ主人公であり、本書の多くはこの主人公の一人称によって語られる。もう一人はローマ教会の枢機卿、ジャンピエトロ・カラファの密偵Q。Qの行動はカラファへの報告、あるいは日記をとおして私たちに明らかとなる。したがって本書は説話論的には比較的単純な構図をとるが、読み始めると途端に混乱してしまう。一つには巻頭に地図とともに登場人物一覧が掲載されているとはいえ、実に多くの人物が登場することによる。私も何度も一覧を参照し、以前の頁を繰りながら読み進めた。特に冒頭部において主人公が名前をもたないこともこのような混乱と深く関わっているだろう。本書は三部構成でそれぞれ物語の舞台を違えている。このうち第二部以降、主人公はいくつかの名前をもち、焦点化しやすい。しかし第一部において「私」の行動は描写されるが、固有名を伴って名指しされることがないため、「私」と他の登場人物の関係が読み取れないのである。(実は第1部でも主人公は名を与えられている。しかし注意深く読まないと読み過ごすだろう)さらにとりわけ冒頭部において時間構造、テクスト構造はともに複雑である。本書は短い無数の章の集積として成立している。それぞれの章の最初に時代と場所が書きつけてあるため、舞台を特定することは容易であるが、第2部以降では比較的単線化された時間が流れるのに対して、第1部では時間がシャッフルされている。つまり「1555年 欧州ではないどこかの町」を舞台とした序章に続き、読者はいきなり第1部の「1525年、テューリンゲン地方、フランケンハウゼン」において猛烈な戦闘のただ中に叩き込まれ、続いてこの戦闘の後日譚と前日譚を交互に読むこととなる。そしてこのような錯綜をさらに増幅するかのように、物語にはレヴェルの異なるテクスト、つまりQがカラファに当てた書状、登場人物に宛てられた手紙などが次々に挿入されている。つまりかなり集中して読まないと、物語の枠組が把握できないのである。読み手の緊張の中に次第に物語の輪郭が浮かび上がる様子はスリリングだ。以下、私はこの物語の梗概を記すが、おそらくこの程度の基礎知識があった方が本書は理解しやすい。さらに宗教改革、ドイツ農民戦争といった事項に関しては事前に最低限の予備知識を得ておくことをお勧めする。
 序章の最後で一つの歴史的事件が語られる。1517年10月31日、マルティン・ルターがヴィテンベルクの教会の扉に95条の論題を貼り出し、ローマ・カトリックによる贖宥状売買を断罪した。宗教改革の幕開けである。続いてカラファに宛てたQの二通の書簡が示される。いずれもルターの行為の重大性を警告し、脅威を早くに摘み取ることを慫慂する内容だ。教会と諸侯の利害が複雑に絡み合う宗教改革と反宗教改革、それはドイツ農民戦争という血で血を洗う地獄の幕開けであった。今述べたとおり、続く第1部第1章で早くもこの戦争の帰結が明らかとされる。1525年、フランケンハウゼンの戦闘において諸侯や王に刃向かった農民たちはことごとく虐殺され、首謀者とみなされたトマス・ミュンツァーも捕縛される。名前のない主人公はこの混乱の中で、彼が先生と呼ぶミュンツァーと最後まで行動をともにし、ミュンツァーが携えていた彼宛の書信を収めた袋を引き継ぐ。辛くも生き延びた主人公はエルタースドルフという街に逃れ、宗教改革からフランケンハウゼンの戦闘にいたる自らの闘争を回想する。したがって1925年以前(ヴィッテンベルク)と以後(エルタースドルフ)の二つの年記をもつものの、実際には第1部の記述は大半が宗教改革の発端からフランケンハウゼンの戦闘にいたる時代を記録し回想する内容であり、結末が最初に提示される先説法の語りである。ルターの同僚、メランヒトンをも論破する学識をもつミュンツァーは現世の秩序を肯定するルターと袂を分かち、ミュールハウゼンという自由都市を拠点に勢力を拡大する。ミュンツァーは農民と鉱山労働者、市民らの支持を受けて、諸侯や領主といった勢力を排除した共同社会を形成しようと試みるが、ルターはこれを激しく批判し、ルターに督促された諸侯たちは彼らの弾圧を図る。このあたりはほぼ史実を反映しており、重層的な語りの中に多くの陰謀や策略が浮かび上がる様子は圧巻だ。宗教弾圧をテーマにした傑作として私は直ちに二つの大長編を連想した。高橋和巳の「邪宗門」とバルガス=リョサの「世界終末戦争」だ。前者は日本における大本教(小説中では「ひのもと救霊会」)の弾圧、後者はブラジルのカヌードス戦争といういずれも国家による徹底的な宗教弾圧を描き、圧倒的な読後感を残す。本書もこのようなテーマに連なる小説といえようが、これらと比してもローマ・カトリックの強権を背景になされる弾圧はなんとも凄惨で無慈悲だ。神の王国を地上に再現することを望んだミュンターは逮捕され、拷問の果てに殺され、ミュンツァーの同志たちもそのほとんどが悲惨な末路をたどる。そもそもミュールハウゼンに糾合した農民や労働者たちはいかに意気軒昂であったにせよ、教会と結託した諸侯に雇われたプロの傭兵たちの軍隊に敵うはずがなかった。主人公はミュンツァーから預かった袋の中に不審な手紙を発見する。それはミュンツァーの信頼厚いと思われる匿名の人物から寄せられた誤った情報であり、結果的にこの偽の情報に基づいて自らを過信した改革派が圧倒的な敵に野戦を仕掛けた時点でフランケンハウゼンの戦闘の帰趨とミュンツァーの命運は決まっていた。手紙の署名はQ。カラファの密偵は単に農民戦争を内部から崩壊させるのみならず、農民や労働者とルターを離反させ、宗教改革の内部に亀裂を開ける使命を帯びていたことが次第に明らかになる。短い章の積み重ねの中に錯綜した裏切りと謀略がおぼろげに浮かび上がる過程はぞくぞくするほど刺激的だ。
 第1部の最後、カラファに宛てた手紙の中でQはミュンツァーの勢力に代わる新しい異端の一派にカラファの注意を喚起する。それは再洗礼派と呼ばれる異端だ。そしてフランケンハウゼンにおける敗走の13年後、主人公は「井戸から来たゲルト」という名前とともにアントウェルペン(アントワープのことだ)に姿を現す。すでにフランケンハウゼンの同志たちは多くが捕らえられて殺されていた。敗走に次ぐ敗走。この過程で主人公は何人かの預言者と知り合いになる。例えばヤン・マティス、メルヒオル・ホフマン、いずれも異端であり、ローマ・カトリックの敵だ。第2部においても先説法が用いられている点は注目に値する。すなわちアントウェルペンに敗走した主人公はこの地でエロイなる異端者に庇護され、つかの間の休息を過ごすのであるが、ここでも語られるべき事件は既に終えられている。エロイが主人公から聞き出そうとする過去とは再洗礼派の壊滅という事件であり、それは1534年、ミュンスターでの出来事だ。当時ミュンスターはローマ・カトリック、ルター派、そして再洗礼派が拮抗し異常な緊張下にあった。主人公と再洗礼派の仲間たちは激烈な戦闘の果てに前二者をミュンスターの城壁の外に放逐することに成功し、ついに理想的な自治都市を樹立するかにみえた。しかし異端の台頭を認めないカトリック教会と諸侯はルター派と手を組み、ミュンスターを包囲して籠城戦が始まる。敵は城壁の外だけではなかった。再洗礼派の預言者ヤン・マティスは戦闘が終了した後にミュンスターに入城して熱狂的に迎えられるが、オランダから連れてきた部下たちとともに強圧的な神権政治を開始し、多くの市民が殺され、離反していった。主人公も自分たちが奪い取った自由都市が狂信者たちによって蹂躙されることに耐えられず、ミュンスターから逃れるが、その後、町を包囲していた諸侯軍は何者かの手引きによって城内に侵攻し、市民の大虐殺を繰り広げる。「あらゆる路地に死体が転がり、町中に耐え難い悪臭が立ちこめています。中央広場には、服を剥がれて積み上げられた白い骸の山がそびえています」Qはミュンスターでも暗躍していたのだ。町の指導部に深く入り込みながら、城外の敵と通じ、守り手の手薄な城門から軍隊を招き入れ、市民の虐殺に手を貸したことをQはカラファに報告する。b0138838_10234014.jpg本書のとりわけ前半部は失敗した蜂起と革命、裏切りと拷問、虐殺と処刑のオン・パレードだ。ミュンスターが落城した後、ミュンスターに君臨していた再洗礼派の狂える指導者たち、ヤン・ボッケルソン、ベルント・クニッパードルリンク、ベルント・クレヒティングの三人は「真っ赤に焼けた鋏」で拷問を受けた後、処刑され、死体は檻に入れられて教会の鐘楼から吊して晒された。巻末に掲載された多くの図版のうちの一葉は宗教戦争の残虐さを今に伝えている。前半は凄惨な描写も多いが、次々に繰り出される謎と意外な展開に目を奪われるため、残酷さはさほど感じられない。
 アントウェルペンで主人公、「井戸から来たゲルト」はエロイに紹介された謎の男から奇妙な話を聞く。ヨーロッパを陰で支配する銀行家フッガー一族と深いつながりをもつこの男はケルンでフッガーからQと名乗る男に無条件で金を渡すように命じられたことを語る。Qは信用状を多額の現金に替えてミュンスターへ赴いた。現金はミュンスターの再洗礼派に取り入るための寄付金として用いられたのだ。かくしてQは異端派の内部に入り込み、ここでも裏切りによって彼らの共同体を崩壊させた。ミュールハウゼンとミュンスター。教会と結託した王や諸侯に反旗を翻した民衆の理想の共同体は、顔をもたない男、ローマ・カトリックの密偵Qの暗躍によって崩壊した。Qはこれらの共同体の中心にいたはずだ。主人公は自らの理想を二度にわたって葬った密偵Qの存在を知る。ここで物語はようやく現在に追いつき、舞台もドイツからイタリア、水の都ヴェネツィアへ移る。
 主人公とQの立場が逆転する。Qを狩り出すために、ルートヴィヒ・スカーリエデッケル(この名前も物語の中で重要な意味をもつ)と名を変えた主人公は一つの罠を準備する。それはルターと並ぶ宗教改革の立役者、ジャン・カルヴァンが関与した「キリストの恵み」という書物である。ルター派とカトリックの和解の可能性を論じたこの小冊子の危険性についても早くからQがカラファに警告している。ルートヴィヒは当時、出版の自由度が高かったヴェネツィアで新しい仲間たちを得てこの禁書を印刷し、ヨーロッパに流通させる。いくつかの歴史的主題が浮かび上がる。一つは印刷術である。グーテンベルグ聖書が印刷されたのが1455年であるから、この物語は印刷術が成立してまもない時期を舞台としている。印刷術と宗教改革の関係について縷述する余裕はないが、早くもこの時点で主人公はこの技術が教義の普及に決定的な意味をもつことを理解している。もう一つはヴェネツィアとユダヤ人の関係だ。私は以前、徳永恂の「ヴェニスからアウシュビッツヘ」という論考の中でユダヤ人ゲットーがヨーロッパで最初にヴェネツィアの地に建設されたことを知って驚いたことを覚えている。ルートヴィヒはこの地でセファルディム(小説ではセファルディーと表記)と呼ばれる亡命ユダヤ人たちと知り合うことによってQを捜索する大きな足掛かりを得る。ローマ教会、ヴェネツィア共和国、ユダヤ人資産家、宗教と権力と富の関係は複雑に入り乱れる。そしてQもまた禁書を配布する主人公(既にティツィアーノと名を変えている)の存在を察知し、捕縛を試みる。顔見知りでありながら未知の宿敵、いくつもの名を持つ主人公と名前のない密偵Qが互いを探索するクライマックスは映画「インファナル・アフェア」を連想させないでもない。そして第3部ではかかる暗闘に、ローマ教皇の死去を受けて、次の教皇の座をめぐるカラファとレジナルド・ポール(「キリストの恵み」の成立に深く関わるイギリス人枢機卿)のコンクラーヴェが重ねられ、物語は大団円に向かって直進する。
 結末については触れない。しかしこれだけ長大で、しかも前半では二つの理想郷の壊滅という暗澹たる物語が語られると聞いて、読む前から恐れをなしてしまう読者のために一言だけ付け加えておく。読後感は悪くない。そして読み終えたら直ちに再読したいという思いに駆られるだろう。実際にこのレヴューのために部分的に再読して、実によく練られていることをあらためて痛感した。この一文はこのきわめて入り組んだ小説を評した早いものの一つであろうから、未読の読者の一助として本ブログとしては異例にも内容を中心に論じた。しかしこの小説の魅力が形式にも由来していることは明らかである。たとえば時制だ。フランケンハウゼンとミュンスターにおける壊滅は既に事件が終えられた時点から語りが始まり、謀略の全貌が見えてきたあたりで時制は過去から現在へと変わる。30年以上にも及ぶ長い物語は中盤で時制が転換することによって緊張を持続する。そしてこの転換は主人公とQが互いの存在を認識する瞬間とほぼ一致するのだ。あるいは『フィネガンズ・ウエイク』のごとく序章と終章が円環を形成する構造、手紙や布告といったレヴェルの異なったテクストを交える手法。あらためて論ずべき問題は多いが機会を改めたい。
 本書は長大であるだけでなく、キリスト教や様々の言語についての知識を必要とする内容である。翻訳は大変な作業であっただろうと推測されるが訳文はこなれており、読みやすい。翻訳者の労を多としたい。
by gravity97 | 2014-05-17 10:39 | エンターテインメント | Comments(0)

b0138838_10353431.jpg 決して熱心な愛読者という訳ではないが、70年代以降、私は日本のSFを比較的丹念に読み継いできた。この10年ほどの間に星新一と小松左京という巨星が墜ち、一つの時代の終わりを感じないでもないが、一方で次々に新しい書き手も登場した。私は日本のSFの水準は世界的に見てもきわめて高いのではないかと感じる。私が最近の海外のSFをしっかりと読んでいないためかもしれないが、以前においては、例えば70年代から80年代にかけてのいわゆる日本SFの黄金期においても日本語で書かれたSFはその祖型を海外の作品に求めることができた。「継ぐのは誰か」から「幼年期の終わり」を、「宝石泥棒」から「地球の長い午後」を連想しないでいることは難しい。これに対し、90年代以降に発表された作品について私はその原型を海外のSFに探ることはかなり困難であるように感じられる。本書に収められた作家の多くの作品が逆に英訳されて海外に紹介されていることはこの証左であろうし、瀬名秀明の「新生」のごとき作品が海外作家ではなく、小松左京の「虚無回廊」へのオマージュとして構想された点も日本のSFの成熟を暗示しているように感じられる。私は短編よりも長編を好むが、例えば一つのディケイドのSF小説といった広い範囲の作品に接するためには短編のアンソロジーが好都合だ。実際にSFの分野においては、日本では珍しくアンソロジーという伝統が定着している。類似した試みとしては、ずいぶん以前であるが徳間書店からノベルズ版で筒井康隆の編集による年刊形式の「日本SFベスト集成」が刊行され、私は諸星大二郎の「生物都市」に衝撃を受けたことを覚えている。文庫版でも河出文庫から海外の作家に関して「20世紀SF」が刊行され、創元推理文庫からは「年間日本SF傑作選」が刊行されている。今回取り上げる「日本SF短編50」は日本SF作家クラブ設立50周年記念に編集されたアンソロジーであり、文字通り50編の短編によって半世紀の日本のSFを振り返る内容である。形式的にもきわめて整えられており、10年ごとに区切られた5巻にそれぞれ10編の小説が収められている。しかもそれぞれの年に発表された1編が選ばれ、作家の重複もない。したがって同じ年に優れた短編が二点発表されたならばそのうちの一つしか採用されず、このため必ずしもそれぞれの作家の代表作が取り上げられている訳ではない。しかしこれほど長い期間、多くの作家を網羅的にカバーしたアンソロジーはあまり例がないし、タイトルを見てもよく知られた短編が多い。
 1963年に始まる全5巻のアンソロジーのうち、2003年以降を扱った最新の巻を最初に求めたことには理由がある。収録されている10人の作家のうち4人について、私は比較的最近に長編を読み、強い印象を受けていたからである。実際に伊藤計劃、飛隆浩、宮内悠介の三人の長編については(共作も含めて)このブログにレヴューを記している。あらためて10編の小説を読んで、私は大いに驚いた。収録された短編がいずれも粒ぞろいで素晴らしいのだ。アンソロジーを読む機会は時折あるが、多様かつこれほどレヴェルの高い例は近年あまり経験がない。帯に「豊穣と疾走の10年」というフレーズが記されているが、このような充実も近年の日本のSFの水準を暗示しているだろう。
 この巻を読むのが最初であるから、ほかの巻との比較はできない。しかしこの最新の10年間の成果を前に私が深い感慨を覚えたのは、もはやSFというジャンルを設定することが困難になっているという事実だ。例えば最初に収められた林譲治の「重力の使命」(2003年)は典型的なファースト・コンタクトをテーマとしたハードSFだ。ずいぶん変奏されているとはいえ、この短編からマレイ・ラインスターの名作「最初の接触」を連想することは不可能ではない。あるいは高野史緒の「ヴェネツィアの恋人」(2005年)も多元世界テーマの佳作といえよう。しかし沖方丁の「日本改暦事情」(2004年)はどうか。映画「天地明察」の原作の原型とも呼ぶべきこの短編は江戸時代に新しい暦を導入することに生涯を賭けた一数学者の物語である。さらに宮内悠介の「人間の王」(2011年)はチェッカーをめぐる人と機械の勝負を主題とし、インタビュー形式という異例の語りによって成立する短編である。SF自体もジャンル小説であるが、さらにSFはその内部にいくつものジャンルを包摂する。時間旅行、人類滅亡、宇宙からの侵略。例えば最初に掲げた二組の小説は、人類進化あるいは超人類、そして変貌を遂げた未来の地球といったジャンルに結びついている。福島正実の名高い『SF入門』では古今のSFがジャンルごとに紹介されていたのではなかっただろうか。これに対して、ここに収められた作品を従来のSFのジャンルに分類することは困難である。逆に問うならば、何がここに収められた10編の小説をSFという範疇に回収するのであろうか。それはSFという表現によって何が可能かといういささか同語反復的な問いかけではないだろうか。SFという設定をとることによって、物語は現実から、時代から、そして身体からも自由となる。サイバースペース、人間の意識、進化や発生といったきわめて抽象度の高いテーマはSFでしか扱えないとはいえずとも、SFにおいては比較的容易に主題化することができる。ここに収められた小説の多くはこの可能性に賭けている。結果としてかつて子供向けの読み物とみなされていたSFが荒唐無稽どころかきわめて思弁的、観念的な内容をはらみ、サイエンス・フィクションならぬスペキュラティヴ・フィクションとしての性格を強めている点は、このブログで論じたいくつかの長編を読めば、たやすく理解されよう。
 もっともこの短編集に収められた小説の多くは昔ながらのSFのテイストを帯びている。印象に残った作品について簡単に紹介しておく。上田早夕里の「魚舟・獣舟」(2006年)は陸地が水没した未来の地球を舞台に海上民と異形の生物の交流を描いた作品で、先にも触れたブライアン・オールディス、日本では椎名誠の一連の作品を連想させる。印象的な短編であるが、ここで描かれる未来は明確な世界観のもとに統一されており、同じ世界を舞台としてこれ以後、上田は世評の高い長編を次々に発表している。「白鳥熱の朝に」(2008年)の作者、小川一水は名前のみ知っていたが、私にとって初めて読む作家であった。この作家の中でも異質の作品であろうこの短編は疫病による人類の破滅というテーマと関係している。小松左京の「復活の日」などが直ちに連想されるが、現在進行形、巨視的な観点からパンデミックの恐怖を描いた小松の長編とは異なり、この作品はインフルエンザのパンデミックが終息した後、生き延びた人々の生と鎮魂を私的な情景の中に描いて静かで清冽な読後感を与える。もっとも「復活の日」の疫病は軍事兵器に由来したが、ここで描かれるパンデミックは明日にでも発生しうるという意味において、この小説はより現実的かもしれない。山本和広の「オルダーセンの世界」(2010年)は「クラッシュ」と呼ばれるカタストロフの後、全体主義によって統制されるディストピアを舞台とした佳作であるが、ハクスリーやオーウェルとは異なり、人間の意識による現実の改変というSF的な発想が加味されている。宮内悠介の「人間の王」(2011年)は将棋や麻雀などのボードゲームを扱った連作短編集「盤上の夜」の第二話にあたり、チェッカーをテーマにしている。このような設定自体がきわめて奇想的であり、形式的である。人と人間機械(マン・マシーン)との闘争というテーマはアシモフ以来おなじみであるが、宮内はチェッカーの勝負というきわめて限定した局面でこの主題を扱い、思索的な深みさえ与えている。歴史的な事実が次々に提示され、語られる物語は実話か創作か判別しがたい。宮内のSF作家としての資質は第二作の「ヨハネスブルグの天使たち」で大きく花開いたことは知られているとおりだ。事実とフィクションのあわいという点では伊藤計劃の「The Indifference Engine」(2007年)も同様だ。タイトルから連想されるサイバーパンクとは関係なく、アフリカの少年兵問題を扱った短編である。アフリカの年端もいかない子供たちをめぐる現代の悲劇は、後年、高野和明の「ジェノサイド」でも重要なテーマとなった。伊藤は「虐殺器官」同様に仮借のない筆致で強制的に徴兵され、殺戮やレイプに手を染める子供たちを描く。ナノマシンによって人格を改造するというエピソードにSF的な発想を認めることはできるが、必ずしもそれは物語の核心ではない。この意味でもこの短編は「虐殺器官」で展開されるエピソードの一つの原型といえよう。そして秀作揃いのこのアンソロジー中、白眉と呼ぶべきは飛浩隆の「自生の夢」である。「グラン・ヴァカンス」同様にきわめて抽象度が高い傑作であり、一人称で語られるにもかかわらず、語り手の位置は定かではない。ここでも意識や言語の起源という問題がサイバースペースを舞台に問われる。あらゆる書字をデータ化しようとする欲望(いうまでもなくGoogleを暗示している)は人の意識にどのような影響を与えるか、そもそもかかる欲望の主体は誰であるのか。「私」とは何か。飛は小説の中にビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」やメルヴィルの「白鯨」といった先行する表現を折り込みながら独特の硬質の文体によってまさにSFでしか探求できない問いを追求していく。恐るべき傑作といえよう。そして巻末、つまりこのアンソロジー全体の最後に位置するのは瀬名英明の「きみに読む物語」(2012年)である。SF的な道具立てがほとんど登場しないこの作品が最後に置かれた理由は明らかだ。この短編のテーマは「本を読んで感動するのはなぜか」という私たち愛書家にとってきわめて根源的な問いであるからだ。それを科学的に解析しようとする点がSFと接するといえるかもしれないが、逆にこのような解析を逃れていく点に読書の秘密があるといえよう。そしてそれはSFに限らず、本を読むという営為の根底を問うことでもある。私たちの世代にとって、幼い頃の読書の有力なモティヴェーションがSF小説のセンス・オブ・ワンダーであったことを想起する時、この地味な短編が日本の半世紀にわたるSF史の掉尾を飾っていることはなんとも嬉しく感じられた。
 ここに収められた作品のテーマの広がりは直ちにSFの可能性を指し示しているだろう。そしてそれは私がSFを読み始めた頃には想像もできなかった可能性である。最新の10年から読み始めたことを契機にこれから私はこのアンソロジーを遡行して、日本のSFをもう一度逆向きにたどってみようと思う。
by gravity97 | 2014-04-07 10:39 | エンターテインメント | Comments(0)

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 このブログはどちらかといえば高踏的な内容が中心であるから、今回、突然に一昔前のきわめて通俗的なパニック小説を取り上げることは不審に感じられるかもしれない。そもそもこの小説の一部の表現はフェミニズムを経由した私たちにとってあまりにマッチョで女性蔑視的であり、もはや時代錯誤的とさえ感じられる。しかしながら東日本大震災と福島における原子力災害から丸三年が経過しようとする現在、あらためて読み返すならば、この物語は荒唐無稽な内容にもかかわらず、今日きわめてアクチュアルであり、実に予言的であったことが理解される。
 この小説は『小説現代』に1977年から78年にかけて連載され、物語の舞台としても同時代が設定されている。1977年7月、航空自衛隊のレーダースクリーンに大陸から日本海を経て、日本に接近する巨大な影が写し出される場面から物語は始まる。巨大な影の正体は飛蝗、トノサマバッタの群れであった。飛蝗とは旧約聖書の出エジプト記にも記述があり、当時は三大災厄の一つとみなされていた。飛蝗は古代エジプトでは「神の罰」と呼ばれ、英語ではローカストという。ローカストとは焼け野原という意味であり、無数のバッタが襲来した土地は草一本残らず喰い尽くされることに由来する。総重量2億トン、想像を絶する巨大な飛蝗の群れは青森県に降下し、津軽平野から青森平野の青々とした大地を文字通り焦土と変える。これに対する青森県知事、野上高明はかつて中央政界で首相の候補とみなされていた実力者で東北六県の知事会長を務める。未曾有の危機の襲来を知った野上は素早く手をうち、パニックを防ぐために東北地方守備隊という組織を結成し、カリスマ的な資質をもち、弘前大学理学部で昆虫学の講師を務める刑部保行に総隊長を命じる。このあたりも既に相当に強引な展開であるが、緊迫した物語に一気に引き込まれる。守備隊に警察権を与えることは国法を犯すことであるが、地方自治体は中央政府の隷属組織ではないという信念のもとに野上は決然と政府に対峙する。飛蝗禍が全国に及ぶことを見越して政府は東北地方からも備蓄米を搬出しようとするが、守備隊は実力でそれを阻止する。国会でも東北地方選出の野上シンパの議員たちが畦倉首相と鋭く対立し、暗闘が続く。「神の罰」という言葉どおり、穀物と野菜を喰い尽くし、家畜や人さえも噛み殺すおびただしいバッタの前には自衛隊も警察もなす術がない。青森から南下した飛蝗軍団は北上川沿いに雫石盆地、仙台平野を劫掠する。もともと西村は動物を主人公にした小説に長けており、これ以前にも南アルプスに発生した鼠の大群が東進して東京に向かう『滅びの笛』という傑作を発表している。無数の昆虫集団の恐怖を西村は例えば次のように描写する。「ふとみると稲が消えていた。稲ではなかった。黒い虫の木だった。一本の稲に何百という飛蝗がたかっていた。吐き気のする光景だった。一匹一匹の飛蝗の目玉が晦冥の中で横目使いに見つめていた。異様に光る、小さな目だった。バリ、バリ、バリ、バリと咀嚼音が周囲を埋めている。かん高い共鳴音だった。共鳴した音はよじれ合ってなんともいえない恐怖感を抱かせた。自分の体が喰われているような苦悶が襲った」飛蝗の襲来という(巨大津波や原子炉の爆発と同様に)にわかに想像しがたい事態に対して、西村の具体的で歯切れのよい筆致は臨場感あふれる圧倒的なリアリティーを与えていく。パニックに襲われた群衆の描写はこの作家の独壇場だ。この作家らしいマッチョな妄想が全開し、飛蝗に襲われる農村と恐慌が発生する都市、暴力と略奪、陵辱が東北地方を蹂躙していく様子が活写される。野上は東北各地の大学のコンピュータを用いて今後の被害の推計を計算させ、飛蝗の第三世代が消滅する3年後、1980年冬までに100万人の死者と東北六県壊滅という恐るべき予測が明らかになる。野上は大量の流民が東北を南下し、多くの死者を路傍に置き去りにしながら首都へと向かう地獄絵図を予想する。むろん野上は拱手してはいない。東北地方守備隊を用いてパニックの収攬をはかるとともに、東京の商社をとおして大量の食糧を買いつけ、戦時に有用な人材を自衛隊や諜報組織から引き抜く。そして自ら喚問された衆議院の地方行政委員会の席上で、地方自治は国権を凌駕すると主張する。これに対して野上に敵意を燃やす首相畦倉は国家存亡のためには犠牲もありうると主張し、わずかな支援とおざなりの政策で東北地方を見捨てようとする。
 飛蝗襲来から半年が経過し、蕭条の冬を迎える。青森から宮城まで草という草、緑という緑が飛蝗によって喰い尽くされ、未曾有の食糧難とともに東北の経済活動は逼迫し、野上が予想したとおり大量の流民が発生した。折しも卵を抱えた第一世代の飛蝗たちは移動を開始する。しかし彼らは大陸に帰ることなく、奥羽山脈に降下し、東北地方の脊梁に無数の卵を産みつける。再び発生する飛蝗群は140億トンと推定され、第二世代の飛蝗群によって再び東北六県が劫掠される運命が定まった。餓死者が続出し、村落がうち捨てられる地獄の中で150万人の人々が故郷を捨てて難民となり、このうち60万人が徒歩で首都へ向かう。これに対して東京都知事は県境を封鎖して、難民の流入を拒絶する。見捨てられた流民たちに対して、野上はTVを用いて驚くべき発表を行う。すなわち東北六県が奥州国として日本から独立することを宣言し、流浪する人々に対しては直ちに北に戻ることを呼びかけたのだ。むろん畦倉は東北地方の独立を実力で阻止しようとする。物語は終盤において内戦状態に突入する日本、そこに渦巻く陰謀とテロリズムの連鎖を速いテンポで描き、悲劇的な結末へと向かって進行する。
 パニックSFとポリティカル・フィクションを合体し、強烈なサスペンスを加味した西村の「ハード・ロマン」(当時はこのような呼称があったのだ)において注目すべき点は、国家的な災厄とそれへの対応が主題とされているにもかかわらず、小松左京の『日本沈没』に典型的な上から目線の「危機管理小説」とは全く趣を異にする点である。飛蝗禍という未曾有の大惨事の中で、国家の存在はむしろ災いを拡大する。この小説に主人公を求めるならば、東北地方守備隊の総隊長である刑部であるが、作者は明らかに巨視的ではなく微視的な状況に目を向け、東京より東北、首相より知事、為政者より民衆に寄り添って物語を進める。国家に順わぬ(まつろわぬ)者の命運というテーマは西村のいくつかの小説に共通しているが、これほど直截に提示された例はないだろう。いうまでもなく国家に順わぬ者の系譜は、東北地方の歴史と直結している。国会に喚問された野上は日本書紀から江戸明治の凶冷害、満蒙開拓団への使役まで言及しながら、東北地方が常に国家の、中央の収奪を受けてきた歴史を指摘する。今や野上の主張は私たちにとって理解しがたいものではない。とりわけ東日本大震災、なかんずく福島第一原子力発電所の事故による原子力災害を経験した後では、私たちはこの受難の歴史が今も更新されつつあることを理解するのだ。このブログでも高橋哲哉や開沼博の論考に触れながら論じたとおり、東北とは常に首都圏の後背地として労働力や資源、電力を供給してきた。震災は自然災害であるから不可抗力かもしれない。しかし原子力災害は明らかに人災であり、東京に電力を供給した対価として、故郷を、土地を奪われ、健康についての間断なき不安を強いられるのは福島と宮城の人々ではないか。本書の中では流民と化した人々が病人や死人を道端に打ち捨てて東京に向かう情景が描かれる。女たちは人買いに買われて、わずかな金のために男たちに身を任す。むろんそこには「ハード・ロマン」特有の誇張はあろう。しかし現在、実際に放射能から逃れるために今なお万を単位とする人々が日本各地に離散し、震災後、多くの東北の女性たちが風俗業やアダルトヴィデオに従事せざるをえなかった状況を知るならば、西村のパニック小説と現実との間にさほど距離はないように感じられる。さらに野上の演説を引用するまでもなく歴史を遡行する時、このような悲劇は冷害や凶作のたびに繰り返されてきた。そして今回の震災/原子力災害において最も被害を受けた東北の人々が原子力発電所の事故の復旧に携わり、深刻な被曝環境にあるという倒錯は現在も進行中だ。
 野上が奥州国の独立を宣言した五日後、飛蝗群団は再び一斉に飛翔を開始する。東北を劫掠した飛蝗が南下し、関東一円に降下すれば再び同じ災厄が繰り返される。関東が飛蝗禍を受けることになれば、政府はその対応に追われて奥州国の独立を認めざるをえず、逆に東北地方では農作物の作付けが可能となる。奥州国の独立は明らかにこのような時機を読んでいた。しかし青森、岩手、秋田の接する山岳地帯から飛び立った飛行群団の黒雲は南ではなく、真西に向かい、母なる大陸へと戻っていった。この時点で奥州国独立の夢は潰え、独立を阻止するために政府軍は反攻を開始する。西に向かう飛蝗群団の黒い雲、この情景から原子力災害、福島第一原子力発電所の事故を連想せずにいることは難しい。知られているとおり、原子炉が次々に爆発を起こした際、福島の海岸部には東風が吹いていた。このため多くの放射性物質(岡田利規は『現在地』の中で「青い雲」として表象した)は太平洋上へと撒布されて首都圏は直接の被害から免れることができた。この時期、この地域では東風が優勢であるとはいえ、東京が放射性物質の洗礼を受けずにすんだことは飛蝗が西に向かった程度の偶然にすぎない。震災から三年が経過して、原子力発電所の事故の状況もいくつかのドキュメントでかなり正確に再現されている。そしてここでも事故によって東日本が壊滅しなかったのは単にいくつかの幸運に負っているということが明らかとされた。私たちはこのような幸運を十分に認識しているのであろうか。現在の政権は原子力発電所が稼働せずとも電力不足が発生しないという事実があるにもかかわらず、原子力発電所の再稼働と海外への輸出を死にものぐるいに進めている。被災地の復興が遅滞し、破壊された原子炉からは今も放射性物質が放出されている一方で、7年後の東京でのオリンピックの開催だけが決定された。この一連の出来事に中央/東京の度しがたい驕り、他者への想像力の欠如を感じるのは私だけであろうか。この小説が発表された35年前、まだ日本には成長の余地があり、地方もそれなりに繁栄していたから、一つの地方が日本から独立するという物語は一定のリアリティーをもちえた。しかし「小泉改革」を経て、東京の一人勝ちの傍らで地方は救いがたく疲弊し、中央/政府に拮抗する力も矜持ももちえない。今後、被災地である東北が核廃棄物の貯蔵地とされることは大いにありうるが、その時、命を賭して反抗する野上のごとき首長がもはや存在しないことを私たちは先の沖縄県知事のふるまいを通して学んだ。このような中央と地方の関係はごく少数の富裕層と大多数の貧困層が乖離する今日の社会の縮図であり、かかる格差を当然の前提とみなすがゆえにこの国の中心にいる者たちはこれほどまでに傲慢なのではなかろうか。
 今日再読するならば、この小説における飛蝗はあたかも原子力発電所事故に由来する放射性物質の暗喩であるかのようだ。小説の中で飛来した飛蝗群は奥州国を壊滅に追い込み、関東以南の沃野はそのままに残して母なる大陸に向かった。しかし現実において東北の地に放出された放射性物質はその土地に残り、半永久的にダメージを与え続ける。青森の六ヶ所村から福島の浜通りまで、原子力災害によるローカスト(焼け野原)の連なりを私は明確にイメージすることができる。このようなローカストがいかなる社会的、政治的な力学のもとに特定の地域に広がったかについては、すでにいくつもの研究が存在する。先に述べたとおり、今回、東京がかかる災厄を免れたことは偶然にすぎず、次の震災が起きれば、東京も新たなローカストとなるかもしれない。そしておそらくそれほどの災厄なくして、為政者や高級官僚はかかる不均衡がこの国を深く蝕んできたことを自覚しないだろう。
by gravity97 | 2014-03-12 20:56 | エンターテインメント | Comments(0)

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 このブログでスティーヴン・キングの新作についてレヴューするのは『悪霊の島』『アンダー・ザ・ドーム』に続いて三冊目となる。原著が2011年に発表された本書は歴史改変ジャンルSFの直球勝負。私の印象としてはキングの長編としては標準的な出来であろう。もちろんキングにおける「標準的」であるからべらぼうに面白い。読み出したら止まらないことを約束しよう。内容にも立ち入りながら論じるため、先入観なしに楽しみたい方は直ちに本書を手に取られるのがよい。
 ストーリーは比較的単純で、100頁ほど読み進めると、物語のテーマは明らかになる。舞台は2011年、つまり本書の刊行時と同じ。主人公ジェイク・エピングはリスボン・ハイスクールの英語教師。アルコール依存症の妻クリスティーと別れ、一人で暮らしている。ある日、ジェイクは行きつけのダイナーの主人、アルからとんでもない秘密を打ち明けられる。アルの店の食品庫の中に1958年9月9日午前11時58分の世界に通じる抜け穴があるというのだ。肺がんのため死期の迫ったアルはジェイクに頼み事をする。向こうの世界に行って、タイトルが示す1963年11月22日に起きたケネディ大統領暗殺を未然に防げ。いきなり突拍子もない設定であるが、天才的なストリーテラーのキングの筆にかかれば、荒唐無稽な物語も綿密な書き込みによって揺るぎがない。歴史改変をテーマにしたSFはいくつかの先例がある。この小説の中でも言及されるレイ・ブラッドベリの「雷のような音」、フィリップ・K・ディックの『高い城の男』、日本では小松左京の「地には平和を」といったところか。これらの多くが歴史の改変された世界を事後的に描いているのに対して、本書は歴史を改変することは可能かという、より能動的、現在進行形のテーマに関わっている。『11/22/63』におけるタイムトラベルは二つの大きな特徴をもっている。特定の時間に向かって旅立つ多くの時間旅行SFとは異なり、遡行する世界の日付が58年9月9日とあらかじめ定められていること、そしてタイムトラベルをするたびに世界はリセットされる、つまり一度歴史を改変したとしても、もう一度タイムトラベルを行うと歴史は元通りに復元されてしまうことだ。物語の早い段階で明かされるこの二つの原理から次のようなストーリーが予想される。まず第一にジェイクは過去の世界に戻ってから暗殺阻止というミッションを果たすまでに「向こう側」で5年もの歳月を過ごさなければならない。暗殺直前にワープしてオズワルドを阻めばおしまいといった単純な話とはならないということだ。第二にもし暗殺を阻止して現在に戻ったとしても、その結果が望ましくなければジェイクはもう一度タイムトラベルを試みて、歴史を現在私たちが見知ったそれにリセットすることができる。つまりどちらの歴史を選ぶかはジェイクに委ねられている訳だ。そして実際にこれらのトピックは物語の中でそれなりに大きな意味をもつ。
 最初にジェイクは半信半疑で食品庫のタイムトンネルをくぐる。1958年、半世紀前の世界は新鮮だ。当時は稼働していた紡織工場の織機の音、有害物質を含んだ煙の匂い、ルートビアの濃厚な味、五感全てをとおしてアメリカの古き良き時代が描出される。キングは少年を主人公とした物語を描くことが抜群に上手い。本書には少年こそ登場しないが、過去の世界に横溢するノスタルジーは共通し、その魅力を表出する巧さはキングの独壇場といってよいだろう。おそらくキングの少年時代の回想と思しき風景が広がり、「スタンド・バイ・ミー」や『アトランティスのこころ』の冒頭部、『IT』などに描かれた世界と時代を共有していることが理解される。私たちの同時代人であるジェイクが次第に過去の世界に魅されていくことも行間から伝わる。このあたりもキングの巧さである。超自然的な抜け穴の存在を確認したジェイクは歴史を改変するということが果たして可能か、最初に一つの実験を試みる。時間旅行した時点からさほど遠くない未来、1958年10月に発生したサイコパスの父親による一家惨殺事件を未然にくいとめる試みだ。アルによってあらかじめ用意されたジョージ・アンバースンという名前とID、そして使用可能な通貨を携えてジェイク、いやジョージはもう一度過去に旅立つ。この実験の首尾についてはここでは触れないが、このようにして「過去に住む」(本書の第三部のタイトルである)経験を積み、それぞれの時点で果たすべき務めを遂げつつ、ジョージはいよいよケネディ暗殺阻止に向けて行動を開始する。アルが調査した暗殺犯リー・オズワルドの詳細な生活歴のメモにしたがってオズワルドの周辺に潜み、その行動を監視する。知られているとおり、ケネディ暗殺に関してはオズワルド以外に暗殺犯がいるという謀略説が根強い。暗殺が謀略ではなく、オズワルドの単独犯であることの確証を得ることもジョージの任務である。ジョージをとおして浮かび上がるオズワルドの私生活はフィクションではなくノンフィクションだ。私はオズワルドが事件の数年前までロシア(当時は「ソ連」と呼ばれていた)に暮らしていたといった事実を本書で初めて知った。この長大な小説を肉づけするためには暗殺事件、特にオズワルドの周辺についての緻密な調査が必要となるだろう。また1960年前後のアメリカの地方都市の生活スタイルについての綿密な時代考証も必要なはずだ。キング自身、著者あとがきの中で、本書を構想したのが1973年というきわめて早い時期であったにもかかわらず、「いったん執筆を放棄したのは、ひとえに執筆に必要な調査があまりにも厖大で、フルタイムの教師をしていた身にはあまりにも荷が重そうに思えたからだ」と告白している。その後、暗殺事件に関連した多くの書籍が出版され、キング自身も何度か調査を重ねることによって、ようやく事件の全貌を作家なりに把握し、物語として提示することが可能となったのである。(ただし、キングは同じあとがきで本書には事件の真相についての解答は示されていないと注意深く記している)
 物語はクライマックスの1963年11月22日に向かってじりじりと進んでいく。ジョージは未来の自分と同様にハイスクールでパートタイムの教職を得て、PCも携帯電話もない生活に溶け込んでいく。ハイスクールの学生たちとの演劇をとおした交流や教育委員会との衝突、図書室司書のセイディーという娘との運命的な出会い。このあたりには明らかに「フルタイムの教師」としてのキングの体験が生かされているだろう。ジョージは時に生徒たちのダンス・パーティーを企画し、時に大番狂わせになることがわかっているフットボールや野球の試合に賭けを張って生活資金を稼ぐ。その一方でフォートワースやダラスに出かけてはオズワルド一家の到着の前に罠を仕掛け、オズワルドの交友関係を調査する。無数の挿話を折り込みながら、朴訥な英語教師と未来から来たエージェントという二つの顔を使い分けて半世紀前のアメリカの田舎町で生活を送るジョージの姿がていねいに描かれる。この小説にはキングとしては珍しく超自然的な恐怖はさほど登場しない。一家惨殺事件を防ぐためにジョージは最初、デリーという街に滞在する。なんとも不吉な気配をみなぎらせたこの街ではその頃、子供の殺害事件が相次いでいた。『IT』で語られたエピソードの再話であることはいうまでもない。この街でキッチナー鉄工所(私の記憶が正しければイースターに爆発事故の大惨事を引き起こした呪われた工場だったはずだ)の跡地を訪れたジョージはそこで忌まわしいものの存在を感得し、同じセンセーションをダラスでオズワルドが潜んだ教科書会社のビルを訪れた際にも感じる。物語が相互に融合しあうことはキングでは珍しくないが、本書で超自然的な恐怖が暗示されるのはこの箇所くらいであり、物語はむしろ本格ミステリーに近い緻密さとともに展開する。
 時間旅行の経験の中でジョージは時間がいくつかの特性を帯びていることを知る。まず時間は改変されることを好まず、歴史を改変しようとする行為を様々のかたちで妨害する。また様々な出来事が時間旅行の前後で微妙な差異をともなって繰り返される。(ジョージはこれを「共鳴」と呼ぶ)バタフライ効果として知られるとおり、歴史を改変する行為は未来に影響を与えるが、どのような影響を与えるかあらかじめ知ることはできない。中盤以降、ケネディ暗殺をいかに阻止するかというメイン・ストリートとジョージとセイディーのラブ・ストーリーが並行して語られる。ジョージは不幸な経歴をもつセイディーを深く愛することとなる。しかしもし現在へ帰還するならば、40歳以上年上の彼女と結ばれることはありえないだろう。セイディーとの愛を成就することはいかにして可能か。先に時間は改変されることを好まないと述べた。大統領の暗殺阻止という大がかりな歴史改変を試みるジョージの周囲では、それを阻むべく多くの事件が発生する。おそらくジョージ、そしてセイディーの身にも危険が及ぶはずだ。果たしてジョージはセイディーを守りつつ、自らのミッションを遂げることができるのか。中盤から終盤にかけてジョージの周囲でいくつもの物語が錯綜しつつ、雪崩のようにクライマックスへと向かって進んでいく。結末は予想できないこともないとはいえ、なかなか感動的でカタルシスがある。長い時を経た再会というモティーフは私に『アトランティスのこころ』の鮮烈なラストシーンを想起させる。現実は一つであるとしても、私たちの生には無数の可能性がありうるという作者のメッセージはまことにこの物語にふさわしい。

 前回、『アンダー・ザ・ドーム』について評した際、私は人々を閉じ込めるドームが原子力災害の暗喩でもありうること、ドームの中で吹き荒れる暴力がこの本を読んでいた際に伝えられたビンラディンの暗殺のごとく、私たちの世界にも渦巻いていると記した。本書を読みつつ、今回も私は物語と直接関係のない私たちが住む世界のことを思った。先に記したとおり、最初のタイムトラベルによって半世紀前の世界に戻った際、ジェイク/ジョージは世界の濃密な感覚を味わう。最初は大きな違和感を覚えながらも、彼は次第に過去の世界になじみ、一時はそこで生きることさえ決意する。むろん露骨な人種差別が横行し、女性が男性に従属することが当然とみなされている世界であり、インターネットもなければ音楽はレコードによってしか再生されえない。しかしそこには生の喜びが満ちあふれ、人と人が真に結びついていた。むろんそれをノスタルジーと呼ぶのはたやすい。けれども今私たちもきわめて切実に過去に戻りたい、もし過去に生きることができるならば半世紀前を生きたいという思いに駆られていないだろうか。11/22/63が世界を以前と以後に分けたように、私たちの生活も03/11/11によって分断された。私たちは今、放射能で汚染された「以後」の世界を生きることを余儀なくされており、決して「以前」の世界には戻れない。本書の中には歴史改変の結果として、壁一面に差別落書きが書き散らされ、工場や店、図書館は瓦礫と化し、不良少年たちが徘徊する廃墟の街が描かれる。私はこの箇所を読みながら、同じような荒涼とした風景について最近どこかで読んだように感じた。それは『世界』の今月号、「市場化される日本社会」という特集において堤未果がレポートする「株式会社化する国家」、現在のアメリカの地方都市の情景である。なんとキングが描く悪夢のような未来はジョージによる歴史改変が行われずとも、現実のアメリカ社会に実現されているではないか。それは国家が企業によって蝕まれるグローバリズムのなれの果てであることはいうまでもない。そして私たちに放射能で汚染された国に住むことを強いた者たちは恥知らずにも施政方針演説で「世界で一番、企業が活躍しやすい国を目指す」と公言し、アメリカの企業の論理を押しつけることによってこの国から「逝きし世の面影」を根絶やしにしようとしている。ジョージであれば一人の暗殺者を阻むことによって未来を変えることができたかもしれない。しかし間違いなく悪夢へと続く私たちの未来は、一人の人間ではなく、選挙をとおして私たち皆が選んだのだ。
by gravity97 | 2013-10-16 21:57 | エンターテインメント | Comments(0)

b0138838_13553198.jpg このところの日本の若手作家によって発表されたSFの充実には驚きを禁じえない。私は必ずしも熱心なSF読みではないから、決して近年発表された作品を体系的、網羅的に読んでいる訳ではない。しかし例えばこのブログで取り上げたいくつかの作品はSFというより日本文学としても特筆に値する内容であり、ほかにも同様に優れた作品をいくつも挙げることができる。今回取り上げる『ヨハネスブルグの天使たち』も1979年生まれの書き手によって昨年から今年にかけて発表された驚くべき連作である。私はこの作家の作品を読むのは初めてであるが、この作品は第二作であり、山田正紀賞を受賞した同名の短編を収めたデビュー作『盤上の夜』も傑作という呼び声が高い。
 五篇から成るこの連作短編集はいずれも近未来を舞台とする。順に列挙するならば、「ヨハネスブルグの天使たち」「ロワーサイドの幽霊たち」「ジャララバードの兵士たち」「ハドラマウトの道化たち」「北東京の子供たち」。タイトルが韻を踏んでいることが理解できよう。(ただしタイトルを含めたすべての章に全く異なった英文タイトルも付されており、少年期をニューヨークで過ごしたという作者のプロフィールがうかがえる)ここに掲げられた五つの地名は最初と最後を除いて私たちにとって必ずしも判明ではないが、ロワーサイドとはマンハッタンの南部であるからニューヨークを指し、ジャララバードとはアフガニスタン、ハドラマウトはイエメンの地名である。地名自体が既に暗示的だ。ニューヨークや東京が舞台になることはまだわかる、しかしここではアフリカや中東(イエメンと聞いて直ちに位置がわかる者はさほど多くないはずだ。イエメンはアラビア半島南東部に位置し、アデン湾をはさんでソマリアに対している)といったあえていえば辺境がことさらに選ばれているのだ。この点は興味深い。本書の帯には「伊藤計劃が幻視したヴィジョンをJ・G・バラードの手法で描く」という惹句が記されているが、バラードはともかく、伊藤計劃が関わった二つの小説、すなわち『虐殺器官』とこのブログでも触れた『屍者の帝国』においてもインドやタンザニア、アフガニスタンといった地域が主要な舞台とされていた。さらに私はこの数年に見て印象に残ったいくつかの映画も連想する。このブログで触れた「アルゴ」、「ゼロ・ダーク・サーティー」、そして同じ監督による「ハートロッカー」、リドリー・スコットの「ワールド・オブ・ライズ」と「ブラックホーク・ダウン」。発表された時期や扱われた現実の事件には幅があるが、いずれも中近東やアフリカという「第三世界」を舞台としている。それらはいずれも「シェルタリング・スカイ」や「イングリッシュ・ペイシェント」に見られた優雅な「オリエンタリズム」とは無縁の実に殺伐とした印象のフィルムだ。この理由は明らかであろう。日本を含む西欧において中東およびアフリカの表象は一つの事件を契機として劇的な変貌を遂げた。それはいうまでもなく2001年の同時多発テロであり、この結果、パキスタンからアフリカにいたるイスラム世界から帝国主義的な「オリエンタリズム」の幻想は一掃され、理解を絶した他者として表象されることとなった。世界観の断絶、この意味においても本書は象徴的である。それは単に第二章「ロワーサイドの幽霊たち」が同時多発テロを扱っているからではない。全ての章に登場し、一見ばらばらの物語の統一性を保証する日本製のホビー・ロボット、DX9が永遠の落下の相として表現されるからだ。女性をかたどったロボットDX9は「ヨハネスブルグの天使たち」においては南アフリカに遺棄された日本企業の耐久試験施設でひたすら落下試験に耐え続け、「東東京の子供たち」では崩壊しつつある団地の住人たちの意識を投影されて団地の屋上から列をなして飛び降りる。シジフォスの苦行のごとく、無限の落下を繰り返すひとがた、それはまことにポスト9・11的な表象ではないか。興味深いことには既にいくつかの小説の中で同じ表象が用いられている。ドン・デリーロの『墜ちてゆく男』についてはこのブログで論じた。あるいはリービ英雄の「千々にくだけて」の中の次の一句。「見て、百十階の窓からOLが飛び下りている」
 DX9とは金持ち向けの道楽として開発された女性をかたどった歌うロボットである。製品としては楽器として扱われ、「歌姫」という通称をもつ。このロボットは最初のエピソード、「ヨハネスブルグの天使たち」の中で一人の技術者によって決定的な改造を加えられ、意識を書き込むことが可能とされた。人が人格の一部を機械に転移させるというモティーフからは神林長平の一連の作品が連想されようし、PCの中のアヴァターに熱狂する人々、SNSのアカウントごとに別人のようにふるまう人々を思い起こすならば、人と機械の境界にあるDX9の存在は決して荒唐無稽ではないだろう。
 9・11テロ、泥沼のような内戦、廃墟と化した郊外団地。ここで描かれる近未来の人間たちを取り巻く状況は苛酷であり、それに対応するかのように五つの物語に登場するDX9の運命もまた壮絶である。ヨハネスブルグのDX9は遺棄された実験施設の中でプログラムに組み込まれた落下試験を実行するために高所からの飛び降りを繰り返し、ジャララバードでは顔を削がれて喉をつぶされたDX9が文字通り動く地雷として戦場に投入され、逆にハドラマウトでは人間の戦士たちが自らの人格をDX9へ転写したうえで自爆テロへと出撃する。これらのエピソードは肉体と記憶の交換不可能性という哲学的な問題と接する。同じ問いが近年の優れたSFにおいても繰り返し問われてきたことは今までに何度か触れた。これまで私たちは自分の意識や身体は唯一であって代替不可能と考えてきたが、先に述べたとおり、今日、サイバー空間を介して私たちは別の自分、多様な自我の可能性を瞥見できるようになった。平野啓一郎が『ドーン』のなかで提起した「分人」という発想もこの問題と関わっているだろう。自己が一つにして多であるという発見。もはやそれは解離性同一性障害といった精神病理学の問題ではなく技術的に可能な選択肢となりつつあるのではないか。同一性と多様性は共存しうるのだ。
 私はこの小説の主題は同一性と多様性の抗争ではないかと考える。かかる主題はそれぞれのエピソードの中で自在に変奏されている。多様性とは人種や宗教のそれでもあるから、南アフリカやアフガニスタンを舞台としたエピソードにおいてこの問題は比較的明瞭に察知され、「ハドラマウトの道化たち」には多様性を教義とする新宗教の教祖さえも登場する。DX9というガジェットはこの意味でも象徴的だ。楽器という出自が示すとおり、本来それは個性を欠いた大量生産品である。しかしそれらは個人の意識を書き込まれることによって個別化され、多様性を得る。DX9においても同一性と多様性は共存する。詳細は記さないが、「ヨハネスブルグの天使たち」のエピソードの最後の場面において、登場人物の一人が500年にわたる民族間の流血を止めるために、「民族であることをやめる」と宣言する場面が感動的でさえあるのはこの理由による。この意味において本書はアシモフに始まる人間と人間機械(マン=マシーン)との交渉をめぐる物語の最新バージョンと考えることができるかもしれない。
そして現在、私たちの現実においても同一性と多様性は鋭く対立している。今日、猖獗を極めるグローバリゼーションとは世界を市場原理という単一の価値基準に還元し、利潤を唯一的な価値として駆動する「世界機械」である。私は今、このブログでも以前に論じたギュンター・アンダースの著書から言葉を引いたが、「ヨハネスブルグの天使たち」においても機械が物語の中心を占めている点は暗示的だ。それはポスト9・11の世界において、もはや人間に居場所がないことを示唆しているようではないか。本書を構成する五篇のエピソードは駆動するグローバリゼーションの治下においては東京やニューヨークもジャララバードやハドラマウトと等価になった状況を象徴している。そして今この国は同一性と利潤追求を旗頭にする愚かな為政者たちによってさらなるグローバリゼーションの奈落に突き落とされようとしている。果たして私たちは新たな多様性を組織することによって、本書に描かれた悪夢の世界の到来を防ぐことができるだろうか。
by gravity97 | 2013-06-24 14:02 | エンターテインメント | Comments(0)