Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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カテゴリ:エピキュリズム( 8 )


文藝別冊「辻静雄」

b0138838_2017515.jpg 開高健に「王様の食事」という短編がある。開高以下、食いしん坊の作家や編集者がヨーロッパの王侯貴族の宴を再現した朝食、昼食、夕食の饗応に与るというたわいもない内容であるが、このような饗宴を催したのが、辻調理師学校を経営する辻静雄であったことは作中でも触れられている。辻が主宰するディナーの豪奢については大岡玲もエッセーの中で言及していたと記憶する。あるいは私はずいぶん以前に海老沢泰久による評伝『美味礼賛』を読んで、辻静雄の生涯に強い印象を受けたことを覚えている。この評伝を読んだ後、私は興味を抱いて新潮文庫に収められていた辻の著作、さらにはちくま文庫で「辻静雄セレクション」としてまとめられたいくつかの著述に目を通した。今回『文藝』の別冊としてまとめられた辻の特集は、この不世出の文化人の輪郭を過不足なくとらえている。
 早稲田大学の仏文科を卒業し、読売新聞大阪本社に入社した辻は最初からフランス料理の研究を志していた訳ではない。新聞記者時代に辻は、父親が大阪で割烹学校を開いていた勝子夫人と交際を始め、結婚を機に、花嫁修業の割烹学校から近代的な調理師学校へと学校の建て直しを図っていた義父に乞われるかたちで新聞社を辞して、料理の世界に入ったのである。新聞記者から料理学校への転身には相当の度胸が必要であっただろう。この特集では辻を知る作家や文化人のみならず、教えを受けた辻調理師学校の講師陣、そして辻夫人らから多くの証言を引き出しており興味深い。かつて読んだ海老沢の評伝から浮かび上がるストイックな求道者の姿とはやや異なり、人間的魅力に富んだ辻の姿が証言の行間から立ち上がる。調理師学校を任された当初の戸惑いについても多くの証言がある。端的に述べるならば、当時日本には本格的なフランス料理を学ぶべき相手がいなかったのだ。辻は多くの洋書を買い込んで午前中は文献によってフランス料理を独習し、午後は料理学校で鯛を三枚におろす訓練を数限りなく自らに課した。このあたりの事情は海老沢の評伝にも詳しく記されていたと思うし、料理を具体的な手作業を通して覚え込む姿勢はこのブログでも評したHAJIMEのオーナーシェフ、米田肇を連想させないでもない。フランスでさえ入手困難な古書を用いた座学と現場での徹底的な手先の訓練、理論と実践の両面から料理の真髄に近づこうとする辻の態度はいかにも彼らしい。それにしても私が感銘を受けるのは、辻以上に辻の義父の態度である。高価な洋書を取り寄せて独習し、魚を捌く練習に明け暮れる辻に一人、舅だけは理解を示す。辻自身次のように語っている。「私が本ばかり読んでいるのをみて、まわりの人たちは軽蔑の眼差しを向けていた。一人家内の親父だけが、好きなことをしていなさい、いくらでもお金は使いなさい、と言ってくれたことを今でも思い出す」さらに義父は辻にとって決定的な体験となるアメリカとフランスへの旅に辻夫婦を送り出す。辻は直ちにフランスには向かわず、まずアメリカに滞在して、二人の専門家からフランス料理について学ぶべき事柄を教示され、会うべき人を紹介される。西川恵も指摘するとおり、あえてアメリカを迂回したことがフランス料理を学ぶうえで辻にとって大きなアドヴァンテイジとなった。この旅行については辻もいくつかの書物で回想しているし、本書においても勝子夫人が楽しそうに回顧している。夫人によれば結婚当初、辻はアレルギーで魚を食べることができず、フランスでレストランを回った際にもウサギや鰻といった癖のある食材は夫人に任せ、自分はスモークサーモンのような食べやすい料理ばかり食べていたという。勝子夫人は以前にロスアンジェルスで料理やサーヴィスを学んだ経験があったため、欧米の食材やテーブルマナーに通じており、彼女の経験と能力を得て初めて辻はフランスの一流の名店をめぐることができたのであろう。そもそも欧米の名店は夫婦を客の単位としている。戦後まもない時期に一人娘をアメリカに留学させたことからも私は辻の義父の先見性に大いに驚くのだ。この旅行を通して辻は食が一つの文化であり、人が一生の仕事とするに足ることをあらためて認識する。帰国後、辻は調理師学校の運営に本格的に取り組むとともに、フランス料理に関する啓蒙的な書物を何冊も執筆する。辻の仕事と生活は常に二つの特質を備えている。すなわち徹底性と一流志向であり、本書の中でも多くの執筆者が異口同音にこの点を論じている。調理師学校を経営していた時期、辻は時に教授陣を従えて年に三ヶ月ほどフランスに赴き、ミシュランの星が着いた店を食べ歩くことを常とした。美食とはいえ、外国でこれほどのハードスケジュールでレストランを巡ることが苦行であろうことは容易に想像がつく。単にヨーロッパの料理を楽しむためであれば、わざわざ渡欧せずとも日本で十分であり、私であればいくつかお気に入りの店を定め、多少の浮気はしながらもそれらの店に通い詰めることを選ぶだろう。しかし辻はあえて本場に向かい、とりわけ評判の高い店を網羅的に訪れるのだ。以前私は福田和也が『悪女の美食術』の最終章で編集者と日本料理の料理人を引き連れてフランスの名レストランをめぐった折りの随想を読んだことがある。(この旅行は明らかに辻が「吉兆」の湯木貞一を誘ってもちろん自費でフランスの有名レストランをめぐったツアーを模している)福田が嫌味なエッセーのテーマとした出版社のあご足つきパリ旅行は所詮三泊四日の小旅行であり、車を駆って毎年フランス中の名店をめぐる辻の壮挙には遠く及ばない。しかも訪れる店はミシュランに掲載された名店ばかりなのだ。辻は「安いけれどおいしいといったものは存在しない」と断じる。なんとも気障、傲岸にさえ聞こえる言葉であるが、辻が口にする時、異和感はない。むろん調理師学校の順調な経営によって得られた潤沢な資金が可能にした贅沢であるとはいえ、量と質、いずれにおいても現代フランス料理の頂点をきわめることなくしてガストロノミーの達人としての辻の業績はありえなかっただろう。
 この特集には実に多彩な人物の文章が収められている。大岡信や開高健、玉村豊男らさもありなんといった顔ぶれに加え、先にも触れた勝子夫人や辻調理師学校の教授陣の文章は辻の知られざる一面を伝え、調理師学校の卒業式式辞なども興味深い。作家や大学教授、ピアニストといった文化人と交流が深かったことは当然であるが、逆に政治家や官僚、財界人の名前がほとんど引用されないことは辻の見識を物語っているだろう。私がやや意外に感じたのは画家やギャラリストといった美術関係者についてもほとんど言及されることがないことだ。私の体験では最も洗練された美食家は往々にして美術と関わっていたのであるが、これは大阪という辻のバックグラウンドと関係しているかもしれない。多くの書き手が辻を貴族と呼ぶが、表紙からもわかるとおりの美男であり、多くの言語を堪能に操り、中村紘子が弾くラフマニノフを楽譜で追えるという音楽への造詣、いずれをとってもこの呼び名にふさわしい。しかし私たちが注意すべきは、これらの資質の多くは決して天性のそれではなく、辻がフランス料理に一生を傾注する中で自然に培われていった、正確には刻苦して学び取られたという事実である。料理とは記憶であり風土である。料理を学ぶとは歴史と土地、すなわち私たちの生の根源を学ぶことでもあろう。私は辻とは比べものにならない小粒のエピキュリアンであるが、自分なりに食という営みに拘泥するのは、それが味わうことの快楽のみならず私たちの知の本質と結びついていることを直感するからである。思うに一流のレストランとは、その店で饗応に与ることによって自分がそこに加わるべき教養を備えているかを問われる場ではなかろうか。いうまでもなくそれは単なるテーブルマナーや料理やワインに関する蘊蓄ではなく、かかる料理を生み出した文化全般への素養である。三木富雄風に言えば、私がレストランを選ぶのではない。レストランが私を選ぶのだ。いつの日か、私も辻が通ったようなレストランに赴き、ギャルソンやソムリエたちと談笑しながら料理やワインを楽しむことができるだろうか。
 

by gravity97 | 2014-04-24 20:17 | エピキュリズム | Comments(0)

松原隆一郎 堀部安嗣『書庫を建てる』

b0138838_1484865.jpg 御存知のとおり私は書物フリークであるから、店頭で書斎、書架、書店といったテーマを冠した雑誌を見ると必ず手が伸びてしまう。『書庫を建てる』という新刊にいたっては、タイトルを見た瞬間に手に取ってキャッシャーに向かった。二人の著者のうち、松原隆一郎は経済学者であり、私も新聞や雑誌で文章を読んだ覚えがある。堀部安嗣という建築家の名前は初めて聞いた。タイトルが示すとおり、施主は松原、建築家は堀部、二人によって進められた「一万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト」の記録が本書である。
 巻頭に二人によって建設された書庫の写真が掲載されている。円筒形、三階建ての室内の壁面を書架で設え、各階を螺旋階段でつなぐ美しい内景だ。このような書庫をもつことは「男のロマン」であるらしいから、松原がその経緯を記録に残そうと思い立ったことに不思議はない。しかし本書は建築の苦労話や自慢話に終始するのではなく、随所に建築という営みや本というオブジェへの洞察がうかがえる点が興味深い。本書を読んで私は自分がこれまで書庫や図書館、文書館や美術館、博物館の建築に対してことに深い興味を抱いてきた理由をあらためて理解した。それらはすべて記憶と関わっているのだ。
 書庫の建築について語るにあたって、松原は意外な起源を語る。それは後に取り壊された実家に残された一枚の写真であり、二隻の船の進水式の情景に祖母が写り込んでいる。冒頭に掲げられた図版中、書庫内のデスクの上に確認できるこの写真を手がかりに松原は自分の家族史を遡行し、防水帆布と鉄鋼業で財を築いた祖父の個人史をたどる。しかし祖父の事業を松原が引き継ぐことはなかった。松原の父は事業家としても父親としても適性を欠き、事業は続かず、家族間にも不和が生じる。このあたりの事情を松原はかなり赤裸々に記述している。神戸、魚崎にあった祖父の邸宅は阪神大震災で全壊し、松原の父はその跡に自分だけが住む家を建てるが、2008年に没する。松原は魚崎の家屋はいうまでもなく、そこに植えられていた樹木、配されていた庭石を残すことができないか奔走するが、相続に関わる係争もあって支えきることができず、実家の敷地は更地となり、巨大な仏壇だけが残された。私は松原がなぜかくも仏壇に執着するかという点にも興味を抱くが、このような挫折を経て、松原の脳裏に一つの考えがふつふつと湧き出ることとなったという。それは「(生まれ育った)神戸で買おうと思った仏壇と本のための別宅を、(今自分が居住している)阿佐ヶ谷で探そう」というものであり、松原は祖父が生きた証としての仏壇を書庫の本とともに収納することによって「松原のイエ」の鎮魂をも目的とする「書庫と仏壇の家」を阿佐ヶ谷で探すことになったのである。
 以上のエピソードが語られる最初の章は「家を建てるわけ」と題され、「書庫を建てる」物語の前史をかたちづくっている。しかし私の考えではこの章は重要である。なぜならここで語られる動機こそ、建築の本質と関わっているのであるから。私たちはしばしば一つの場の記憶について語る。しかし多くの場合、それは建築に関する記憶ではなかろうか。場所は失われることはないが、建築はしばしば失われる。記憶を保持することはいかにして可能か。ユベール・ロベールを想起するまでもなく、絵画から文学まで廃墟という主題が一つの系列をかたちづくっていることはこの問題と関わっている。さて、私は最近のブログでレイ・ブラッドベリの『華氏451度』を取り上げ、書物もまた一つの記憶であると述べた。この意味で書物と建築は調和する。そして仏壇も一つの家族の記憶であることはいうまでもない。興味深いことに建築家の堀部は松原の書庫と並行してもう一つの建築プロジェクトを進めていた。それは高知の由緒ある寺院に設置される納骨堂のプランであり、今日プランを比べるならば両者には多くの共通点がある。この意味において本書の中で紹介されている、竣工後に書庫を訪れたある作家の印象は興味深い。「丸い弧を描く本の背表紙を眺めたり、オーナーの御祖父様の仏壇に灯されたろうそくを見つめたり、ところどころに飾られた古い写真に眼をやったりする。この空間の感覚は、何か覚えがある。(中略)地下の床に腰を下ろして上を見上げたとき、アクレサンドリアのカタコンベを訪れたときの記憶が不意によみがえった。エジプト地中海岸の街アレクサンドリアにローマ支配時代の1、2世紀頃につくられた地下共同墓地だ」続いてこの作家も私と同じことを指摘する。「古い図書館にある書物の著者の大半は死者である。そこは、書物という名の死者たちの遺言が集められた場所だ。アレクサンドリアには古代最大の図書館があったかが、そこもまた沈黙の中にいる死者たちの記憶を掘り起こすための巨大な装置だったはずだ。そう、書物とはかつては記録の道具ではなく記憶のための道具だった」私は書庫や図書館にことさらに死者や死という含意を認めようとは思わないが、それが膨大な記憶の蓄積であることは明らかだ。蔵書に見合った記憶の場を与えることは、愛書家の私にとっても松原や堀部同様に一つの責務のように感じられていた。
 「どんな家を建てるのか」と題された次章では実際に設計を依頼してから、最終プランが確定するまでの約一年間が描かれる。いうまでもなく施主と建築家が書庫のプランを具体化していく過程だ。施主としてはこの時期が一番楽しいのではないだろうか。私の経験では実際の建築が始まると、もはや施主が介入する余地はほとんどないが、建築家とプランをキャッチボールしならが細部を詰めていく過程では自分のコンセプトが明確に形をとり、時に変貌を遂げる現場に立ち会うことができるからだ。私も自らの「書庫を建てた」経験があり、書庫のプランについては少々うるさい。松原/堀部の書庫プランがいかに構想されたかについては本書を読んでいただくとして、この機会に私も自分なりの書庫についての思考の一端を書き留めておきたい。私の場合、「書庫を建てるわけ」は明確であった。私が高校までに読んだ書籍、大学以降に求めた書籍、さらに家族の記憶としてはかつて祖父が求めた美術書、さらに(量はさほど多くないが)父が集めたフランス文学関係の書籍、これまでばらばらに収納されていたこれらの膨大な書籍を同じ空間に配架し一望することが長年の私の夢であった。これらの書籍はこれまで祖父のアトリエ、父の寝室、私の部屋などに分散され、時には段ボール箱に詰められたまま収納されていたため、全体の量はおろか、どのような内容であるかも判然としなかった。私の場合、書斎にとって最も重要なコンセプトはすべての書籍が開架にあり、一望できる空間を実現することであった。したがって集密書架、移動書架は最初からありえず、建築家からは四囲を書架で囲む、三層の書斎兼書庫が提案された。このプランは本書で堀部が提出した「初期プラン」に近い。本書の中にもストックホルム市立図書館の写真が掲載されているが、私が念頭に置いたのはむしろ安藤忠雄の司馬遼太郎記念館である。書物にインヴォルブされるにあたって、曲面ではなくリジッドな感覚が望ましく感じられたからだ。
 さて、私は書物とは記憶であると述べた。しかし実は書物がはらむ記憶とは重層的である。例えば読書の体験をとおして私にとって一冊の書物は具体的な時と場に結びつけられる。ドストエフスキーであれば、高校の放課後の図書室、高橋和巳であれば大学に入学した直後の狭い下宿、プルーストであれば厳寒のニューヨークのスターバックスだ。そして特定の時間と場所に結びついた書物は書棚に配架されることによってあらためて空間化される。書庫とは記憶が空間化される場所とはいえないか。本書の中には松原の書庫にどのような内容の本が配置されたかという図が示されている。経済史や経済学はいうまでもなく小説やCDから古武術まで、整然と分類された書架はわかりやすく、松原はそれを「論文を書くための樹系図」と読んでいる。しかし私は必ずしもこのような配列に与しない。私は自分が読んだ本をジャンルや判型を問わず読んだ順に並べることができないかと夢想する。もしそのような書架が可能であれば、私は自らの知的変遷を縦覧することが可能になるはずだ。むろん実際には私の書斎においても空間的経済、あるいは検索の利便といった理由で同じ作家や同じ叢書の書籍は同じグリッドに収められる場合が多い。しかしそれにせよ、私は同じ作家の小説を集中的に読み、同じ主題の研究をまとめて読む場合が多かったので、書斎には時系列的な秩序が残存している。例えばソルジェニーツィンとトルストイ、ショーロホフの文庫本がぎっしりと詰まった書棚は高校二年から大学一年、文春文庫に収められたディーン・R・クーンツとスティーヴン・キングの青い背表紙の棚は80年代後半だ。一つの書棚は直ちに一つの時代のノスタルジアを喚起する。
 ほかにもいくつかの点で私は書庫/書斎に関して、松原と考えを異にする。巻頭の写真には書庫の全景が網羅されている訳ではないが、写真から見る限り、書架には既にぎっしり本が詰まっており、空いているスペースが少ない。松原は「書庫に望むこと」という章の中で、今後の人生において持つ本を一万冊に抑えようと思うと述べている。私は今後自分が読む本を制限しようとする発想が理解できない。私は梯子を用いないと届かぬ高い位置に多くの空の書架を準備した。おそらく私が生きているうちにそれらのグリッドが書物で満たされることはないだろう。しかしそれらの空白が私の生に余裕を与えることは間違いない。本を読み続けても満杯となることのない書庫が存在することは私にとって幸福の条件にさえ感じられるのだ。よりプラクティカルな次元において、収納の余地がない場合、人は本を求めることを抑制してしまう。私の体験でも狭いマンション住まいの折りには図書館で本を借りることが多かった。私はもちろん今でも図書館を利用する。しかし少なくとも全巻の通読に値する本については、私は身近に置きたいと考える。空間的な余地の有無は書籍を購入する意欲に無意識のうちに影響する。
 写真を見て、もう一点違和感を覚える点はグリッドによっては本の上に本が横積みされて重ねられていることだ。これは私の美意識にそぐわない。横積みにされた本は識別しにくく、一望性を阻害する。松原は個々の書棚にテーマを与えたため、一つのグリッドに配列しきれないほどに本が増えたためであろうが、テーマによる配列は位置を変えることが難しい。私の場合は(意図したというより偶然であるが)書架の奥行きを深くして、必要があれば上下ではなく前後に本を配置するようにした。もちろん奥に並べた本は認識しづらいが、この方法を用いるならば、一人の作家については一つのグリッドでほぼ完結することができる。(今のところ、大江と井上光晴の棚のみが満杯だ)文庫本と単行本の配置を違えることで美しく配架することも可能だ。
 蔵書を一覧できることは私にとってきわめて重要だ。先にも述べたとおり、書物という記憶は一覧することによって空間的に把握されるのだ。人は通常自らの記憶、あるいは知識の総体といったイメージをもつことがない。しかし書庫/書斎で私をとりまく無数の書籍はそれを数量として実体化する。これに似た体験として、私が連想するのは初めて i Podを手にした際の感銘である。私にとって i Podの革新性は単に膨大な音楽が小さな筐体に収められているということではなく、タッチホイールをスクロールすることによって、そこに納められた全ての音楽を視覚的に認知できることであった。現在、私の i Podには私が所持するほとんど全てのCDが収められているが、これは私が意識的に聴いてきた音楽の総体に等しい。人が生涯に聴く音楽という抽象的かつ膨大な対象が可視化されたことは私にとって大きな驚きであったが、私にとって書斎/書庫もまたそのような装置である。近年、 i Podに対応するかのように電子書籍の利便性が声高に語られる。私は電子書籍を使用したことはないが、確かに膨大な情報がコンパクトに収められた点で両者は相似する。しかしながら本とは情報であると同時にオブジェである点において決定的に異なる。(音楽もLPレコードが媒体であった頃はアートワークとしてのオブジェ性があったが、小さなCDジャケットにそれを求めることは困難だ)さらに私は職業柄、美術書の蔵書が多い。むろん美術書自体がオリジナルの作品の複製であることは認めよう。しかし今後いかに液晶技術が発達しようとも決して紙という物質に定着されたイメージを超えることはありえないことを私は断言することができる。それは端的に映像表現がいくら洗練されたとしても絵画表現の強度をもちえないことのアナロジーとして理解することができるだろう。
 堀部は冒頭で一万冊の本と仏壇が書庫に収められることによって、建物全体に血が巡り始めた感じがしたと述べている。仏壇はともかく、このコメントには深く共感する。書庫は次々に新しい書籍が届くことによって日々更新される。何度も述べるとおり、書庫とは記憶であり、私の書庫は祖父や父の蔵書も組み込むことによって家族の記憶でもあるのだ。更新される記憶とは個人を超えた身体のメタファーとはいえないだろうか。書斎/書庫で深夜、一人、本に向かう際に感じる安らぎはよく馴染んだ記憶に囲まれていることからもたらされているかもしれない。b0138838_1485980.jpg

by gravity97 | 2014-03-08 15:45 | エピキュリズム | Comments(0)

四方田犬彦『ひと皿の記憶』

b0138838_1941861.jpg 四方田犬彦は私のお気に入りの書き手であり、このブログで取り上げるのは確か三回目となる。これまでは比較的硬めの評論を取り上げたが、今回は食をテーマにした軽めのエッセイだ。もっとも四方田と食というのは決して意外な組み合わせではない。あとがきによれば四方田は80年代末に『食卓の上の小さな混沌』という料理エッセイを発表したことがあるらしいし(私は未読)、『芸術新潮』誌上で歴史上有名な文学者や芸術家の遺したレシピに基づいて料理を作るという写真付きのエッセイを連載していたことも記憶に新しい。食をテーマとしたエッセイといってもレストランガイドや食べ歩きといった内容ではない。端的に食材と場所についてのエッセイだ。40篇ほどの文庫書き下ろしのエッセイが収められているが、例えば「奥能勢の鮎」「タスマニアの牡蠣」といった風に、そのほとんどで地名と食材が結びつけられている。全体で4つの章によって構成されているが、分類の基準もわかりやすい。1章は主として四方田の幼時の体験を中心に日本国内で四方田が食した食材について土地と関連させて語られる。2章は四方田が最初に留学した韓国、そして中国で味わった料理や食材について、3章では主として東南アジア、そしてモロッコ、テルアヴィヴといったエスニック(この言葉を四方田は嫌う)料理と食材、4章ではイタリアを中心にヨーロッパの食をめぐる話題が語られる。端的に土地によって分類されている訳だ。
 あとがきの中に食とは記憶であるという言葉がある。プルーストの長編の冒頭を想起するまでもなく、これは普遍的な真理であり、四方田が幼時に通った能勢の川魚料理店の思い出とともに本書が語り出されることは十分に理解される。食をめぐる幼時の記憶が次々に開陳された後、筆者の記憶は大学院在籍中に留学した韓国で食べた料理の記憶へと転じる。いささか奇妙ではないか。幼時の、それも多くの場合、祖父母と味わった料理や食材について語った後、エッセイの主題は初留学以後転々とした世界各地の食をめぐる話題へと移る。つまり本書には普通であれば人が最も懐かしい食の記憶として心に留めるはずの家庭における食事、わかりやすくいえば「おふくろの味」への記述が欠けているのである。おそらくそれは四方田が家庭的に不幸な青少年時代を送ったことと関係しているであろう。これまで漠然とうかがえたこのような事情、父親との不和、冷え切った家庭について四方田は一昨年刊行した『再会と別離』の中で石井睦美との往復書簡というかたちで初めて明らかにしている。
 食とは記憶である。しかし同時に食は場所とも深く結びつく。記憶が時間と関わるとするならば、場所とは空間と関わっている。四方田は血縁的記憶、集団的記憶としての食というテーマから早々と立ち去り、彼が訪れた多くの国や地域の場所の記憶としての食というテーマへと向かう。海外での生活、それも韓国からイタリア、タンジェからテルアヴィヴにいたる実にさまざまの土地を一時的に旅したのではなく、とどまって生活した四方田ならではの蘊蓄が次々に語られる。留学や大学での講義、あるいは文化使節として現地に長く滞在し、自ら料理を作った経験が反映されていることは間違いないが、それにしても食材やレシピについての四方田の博識は驚くばかりであるし、料理を作る際の四方田の水際だった手さばきはどうだ。私の聞いたこともないような野菜や香辛料、調理法や味付けの方法が次々に説明され、時に四方田自身によって実に魅力的な料理へと調理されていく。信州に野生する茸、ボローニャの怪しげな魚屋の棚で見つけた鱲子(からすみ)、横浜の中華街から取り寄せた鼈(すっぽん)。多く癖のある食材を四方田が楽しげに捌いていく様子は本書の読みどころの一つである。未知の食という点において、私は2章と3章、とりわけバンコクやサイゴンといった東南アジアとモロッコを中心としたイスラム圏にまつわる「ひと皿の記憶」を記した3章が印象的であった。それは端的に私がそれらの地を旅したことがないためであろう。イサーンのガイヤーン、サイゴンのゴイクォン、ジャカルタのサテ、料理の名前を挙げただけでなんともいえないエキゾチシズムをかき立てられるではないか。いずれも決して高級な料理ではない。四方田はあとがきに次のように記す。「わたしはもとより有名なレストラン廻りにもグルメ・ジャーナリズムにもまったく関心のない人間である。(中略)できることなら外食などせずに、自分で朝昼晩と台所に立っているほうが望ましいと考えている。理由は簡単で、見知らぬ場所で見知らぬ創作料理とやらにいくらつきあわされてみても、それがいっこうに私の記憶に訴えてこないからだ。わたしはそうして口にした料理のことを、ただちに忘れ去ってしまうだろう」本書に関して私が大いに共感できる点は、筆者が高級レストランや美食に関心がなく、市井の人々との交流の中で食の愉しみを見つけようとする姿勢だ。私もまた海外に行くと、大層なレストランや高級クラブでなく、小さなバルやカウンターしかないパブで地元の人たちに混じってビールやワインを飲むことを好む。私が一人で旅行することが多いという理由もあるが、その土地の雑踏の中でその土地の料理や酒を飲むことがなんともいえず楽しいのだ。私の記憶の中ではローマで仕事の一端として臨んだ会食の高級料理より、バルセロナの場末のバルで二度と会うことのない相手とたどたどしい英語でくだらない会話を交わしながら共にした料理の方がはるかに鮮烈に脳裏に刻まれている。食の記憶とは「何を」食べたかというよりもむしろ「誰と」食べたかと深く関わっているのだ。私の乏しい体験からしても、かような交流が最も自然に感じられたのは店に入るや直ちに話しかけられて一人で食べることがありえないアジアの屋台であった。本書の半分を費やして四方田が東アジアにおける「ひと皿の記憶」について論じていることは当然といえよう。
 食にまつわる記憶であるから当然、楽しい記憶が多い。その中で唯一「私が口にしたもっとも貧しい食事」と形容されているのが、四方田が国際映画祭に招かれて訪問したピョンヤンで監視人の目をかいくぐって工場労働者に混じって街角の食堂で食べた朝食である。薄い四枚の餅、唐辛子のほとんど使われていないキムチ、肉一切れが浮いただけのスープ。確かに貧しい食事だ。しかしその場に居合わせた人々は四方田を食券さえ持たない貧しい旅行者とみなして、無料で一人分の料理を都合してくれたのだ。四方田は彼らの行為が食事とは居合わせた者全員でなされるべきであるという共食の思想に基づいていたと結論づけるとともに、それが豪華な料理にあふれた東京やソウルではもはや理解不能な思想であろうと述べる。ピョンヤン、正確には北朝鮮が人にとって苛酷な土地であろうことに疑う余地はない。四方田は2004年にも二組の苛酷な土地を訪れている。すなわちイスラエルとパレスチナ、セルビアとコソヴォといういずれも相互に憎悪をぶつけあう土地だ。このうち、イスラエルに関しては本書の中でも「テルアヴィヴのファラフェル」という章で触れられている。四方田は紀行文の名手でもあるが、これらの地の滞在記は既に『見ることの塩』というまことに苛烈な紀行としてまとめられており、これらの本の中には食に関する言及がほとんどない。それはタイトルからして悦楽的なもう一つの紀行『モロッコ流謫』におけるクスクスや屋台についての記述と好対照を示している。おそらく食についての記憶とは幸福を担保にしているのだ。
 同じ理由によるのであろうが、私は料理や会食の場面を描いた小説を好む。かつてクリスマスがめぐって来るたびに、ディケンズの『クリスマスキャロル』を読み返したのは、その中に記述されるクリスマス・ディナーを確認するためであり、ギュンター・グラスを読む時、私はそこに散りばめられた料理のレシピを楽しむ。村上龍にはその名も『料理小説集』という短編集があり、村上春樹はいくつもの小説の中で長々とパスタのレシピについて述べる。開高健の一連の小説やエッセイ、古くは谷崎潤一郎や池波正太郎の作品、最近では玉村豊男や辻静雄のエッセイにいたるまで、食をめぐる記述は常にゆるやかな幸福感をまとっていたように感じられる。私にとって本書もまたこれらの系譜に連なる「新しい天体」であった。

by gravity97 | 2013-09-06 19:42 | エピキュリズム | Comments(0)

石川拓治『三つ星レストランの作り方』

b0138838_15233455.jpg 大阪、肥後橋駅の近くにHajimeというフレンチ・レストランがある。2009年にミシュランが大阪、京都版を刊行した際にいきなり三つ星を得て話題になった店である。(現在は二つ星)オーナーシェフは1972年、枚方生まれの米田肇。シェフとしては遅咲きの米田に密着して、その修業時代から今日までを記録したのが本書である。
 巻頭にアミューズからデセールまで米田が作った美しい料理の写真が掲載され、本文は第一の皿「ひらめ」から第十の皿「恵」までそれぞれ料理の名を取った10章によって構成されている。読み始めると、いきなり米田の料理を食べた際の印象が絶賛の言葉の繰り返しとして記されている。批評の対象が何であろうと、私はこのように対象と密着した書きぶりが好きではない。また図版として示されたそれぞれの皿はあまりにも美しく、過度に洗練された料理は苦手な私としては、正直言って(今はほとんど予約がとれないというが)もし機会があっても特に食べたいとは思わない。これらの理由によって、さほど気乗りしないまま本書を読み始めたが、通読してみるとなかなか味わいのある内容であった。
 最初の章においてHajimeで味わった料理の印象が語られた後、第二章では2009年、ミシュランで三つ星を得た際の米田の対応が描かれる。書名に三つ星という言葉があるから、ミシュランのエピソードから語り始められることは当然といえば当然であろうし、全く無名であった米田のレストランを訪ね、「正当に」評価したミシュランの調査員たちを筆者の石川は高く評価する。以前このブログでも述べたとおり、私はミシュラン的な評価をさほど意味のあるものとは考えないし、後述する華麗な職歴を考えるならば、いくら新しい店であったとしても米田の店が専門家によって注目されていたことは明らかであろう。むしろ注目すべきは米田の醒めた態度だ。米田はミシュランの三つ星をエベレストの山頂に喩え、最初からそこに行こうと決意しなければ絶対に到達えないと説く一方で、それはスタートラインにすぎないと述べ、自分が求める料理はミシュランの三つ星より遙かに高いところにあると言明する。傲岸にも聞こえる言葉であるが、この言葉に米田の料理に向かう姿勢の本質が露わにされている。
 最初に米田の生い立ち、そして大学を卒業して一般企業に就職した後、本格的に料理人を志すまでの経緯が記される。小学校時の作文に「一流の料理人」になることが夢だという一文があるから、シェフへの道は予想できないものではなかったとはいえ、一般の大学と企業に進んだ後、身を翻して辻フランス料理専門カレッジに入ったのは25歳の時である。料理人をめざす者としてずいぶん遅いスタートであることは私にも理解できる。石川は米田のバックボーンを形成するにあたって関与したであろういくつかの要素を指摘している。まず彼の母親が料理上手であったこと、数学が得意であったこと、そして正道会館で空手を学び、かなりの腕前であったことなどだ。さらに石川は米田が学んだ辻調理師専門学校を設立した辻静雄と米田の実際にはありえなかった邂逅を夢想する。辻は米田が入学する5年前に亡くなっている。私もかねてから辻の書いた一連のフランス料理に関するエッセーや研究書、あるいは海老沢泰久の書いた辻の評伝などに親しんできたので、石川の思いはわからないでもない。米田の歩みが語られると同時に、日本におけるフランス料理の歴史、あるいは米田の少年時代、1980年前後の関西におけるフランス料理への関心の高まりなども記され、私たちは米田の立つ位置をおぼろげに想像することができる。
 学校での短い修業を経て、米田は実際にレストランの厨房に入る。この際のエピソードが興味深い。米田は一番厳しい店を紹介してほしいと学校に希望を出し、当時、大阪で最も名の知れた店の厨房に入る。店の名前が記されていない理由はすぐわかる。この店の厳しさは常軌を逸しており、殴る蹴るは当たり前、スタッフは次々に夜逃げ同然に店を辞めていったという。この店は昼も夜も満席のいわゆるグラン・メゾンであり、もしも当時ミシュランが存在したならば、三つ星に一番近いレストランで会ったと書いてあるが、そのような豪奢な店の厨房がかくのごとき修羅場であったとはにわかには信じがたいが、理解できないでもない。アミューズからデセールまで一日400皿以上の料理を完璧に調えることを課せられたシェフのストレスは想像に絶する。そのはけ口はスタッフに向けられて、仕事上の不始末や不注意を理由に胡椒挽きやパイ皿、土鍋で殴られたという。米田も精神的に追い詰められ、一年ほどで店を辞める。しかし米田はこの経験、そして件のシェフに対して今では恩義さえ感じるという。米田は学校で学んだことが、野球でいえばルールブックを作ったにすぎないということを知る。ルールを知ることと実際にプレーすることは異なる。料理についての知識をもっていることと実際に料理を作ることは別であることを米田はこの厨房で知ったという。そして米田は自分の店をもつ際に、かつて自分を殴ったシェフの思いを理解することとなる。
 最初の店を辞めた米田は運良く神戸のフレンチ・レストランに採用される。この店もパリの三つ星レストランで修業した優秀なシェフを擁する高級店で、店の名前も明記されている。米田はここで自らの仕事の本質を悟り、料理人として覚醒する。次の目標はフランスに渡り、現地で修業することである。米田は30歳になるまでにフランスに渡るという夢をかなえ、ロワールのジビエ料理で知られた「ベルナール・ロバン」という二つ星のレストランで修業を始めた。この店で彼は水を得た魚のごとく、多くを吸収し、一流のシェフに向かって成長していく。労働許可取得をめぐる軋轢や油絵に対する才能の開花(本書のイラストは全て米田自身の手による)といったエピソードを織り交ぜながら、「ベルナール・ロバン」から「オー・ランデヴ-・デ・ペシュール」、そして「ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン」へと店を移りながら成長していく米田の姿が描かれる。洞爺湖のウィンザーホテルの中にある「ミシェル・ブラス」は伝説的なシェフ、ミシェル・ブラスが世界中でただ一軒開いた支店である。スタッフの多くはライヨールという村にある本店の経験があり、毎年11月にはミシェル・ブラス本人が来日して料理を作るのである。ここで米田は本店においてはブラス自身が担当するヴィヨンドと呼ばれる肉料理担当のシェフを務め、来日したブラスから直接に指導を受ける。この時のエピソードも印象的だ。「ベルナール・ロバン」でジビエ料理、「オー・ランデヴー・デ・ペシェール」で魚料理の経験を積んだ米田は自分の包丁さばきには絶対の自信があった。ところが米田が鳩の胸肉を切り分けているのを見たブラスは上手ではないと評し、代わりに包丁を握る。胸肉への火入れと包丁の研ぎ具合についてはブラスも満足している。つまり問題は切り方なのだ。米田は次のように語る。「ミシェルの包丁を握る手のどこにも力が入っていない。剣の達人が棒ですっと肉の表面を撫でたら、肉が切れていたみたいな感じだった。思わず彼が切った肉の断面を見たら、これが何と言えばいいか、すごく美しいんです。頭を抱えました。自分では切ることに自信を持ってました。そのときだって、いつもどおり完璧に切ったんです。(中略)自分が世界一とは言わないけれど、本心を明かせば、世界一とそれほど大きな差はないというところくらいまでは来ていると思ってたんです。ところが、とんでもなかった。その時、これは怖い世界だなって思いました。包丁のことだけじゃないということに気づいたんです。今回はたまたま包丁だけに目が行っただけのことであって、ミシェル・ブラスが見ている世界というのは、お皿の選び方から、盛りつけから、火入れから、何から何まで全部、そのレベルでやってるんじゃないかって思ったんです。僕には見えてなくて、ミシェル・ブラスにだけ見えてる世界があるんじゃないか」滞在中、ブラスは何度となく米田の包丁さばきを検分しては駄目出しを重ねる。シェフが近づくことに恐怖を感じたのは最初に入った大阪の店以来であったという。何度も手を動かしているうちに米田は遂にブラスの境地を会得する。「切ろう切ろうとしているうちは駄目だったんです。切ることを忘れて、切るというか。あくまで感覚的な話だけれど、切るんじゃなくて、境目みたいものがあって、そこで肉を分けるという感じに近い。自分でもその感覚がつかめたと思った瞬間があって、それからミシェルはもう来なくなったんです」この言葉から私は中島敦の「名人伝」中の「不射の射」のエピソードを連想する。国内外のいくつもの名レストランを転戦し、ほぼ毎日肉を切り分けることを自らに課してきた米田にとってさえも「射の射」ならぬ「不射の射」の境地に達するにはブラスという「名人」の指導を必要とした。まことに料理という世界の奥深さを感じさせるエピソードである。
 このエピソードを最後に米田は「ミシェル・ブラス」を辞して、念願の自分の店を構える準備に入った。父の死が一つの契機であり、妻が二人目の子供を懐妊したことも転機の理由であっただろう。兵庫県の実家に戻り、関西各地で店としての適当な物件を探す。この作業も難航するが、最後に米田をとらえたのはビストロ向きの小さな空間ではなく、本格的なフレンチ・レストランを作るという考えであった。不眠不休の準備の果てに2008年5月にHajimeは開店する。完璧主義の米田が設えたレストランであるから、内装から家具、メニューからHPまで全てに米田のこだわりが生かされていた。しかし米田の思いは空回りする。初日は友人の客が二人だけ。翌日から米田は店を三日間閉めてスタッフに接客の訓練をする。当然であろう。米田はシェフとしては一流であっただろうが、レストランはシェフだけで成り立っている訳ではない。元々米田はシェフ・ドィ・パルティ、部門シェフであったから、レストラン全体を統括した経験がないのだ。「ほんとに素人のスタッフしか集まらなかったんです。フォアグラも見たことがないという人を何人も教えていましたから。食器洗いも、営業中は私が全部やってました。スタッフに任せると食器が山ほどたまって、仕事が回らなくなるんです。私は3人前は動けるから、食器をぶわーっと洗って、料理を盛りつけて、魚焼いて、肉焼いて、また食器洗ってって、ほとんど一人でやってました」このような仕事が報われるはずはない。最初に入った大阪の店のように、米田自身がスタッフを殴打することこそなかったが、米田が求めるレヴェルまでスタッフを育てることはまた別の苦労であったはずだ。しかし本書の中で明かされるいくつかのエピソードを介して、次第にレストランがかたちを整えて認知されていく様子、そして米田の料理に驚嘆する関係者の姿が浮かび上がる。かかる努力の結果が2009年、開店以来最短の記録とともに獲得したミシュランの三つ星であっただろう。米田は最初から三つ星をめざしていた。米田はパリの三つ星レストランの共通点を探り、米田によればそれは料理の洗練度であったという。もちろんこのような感慨については三ツ星レストランに縁遠い私としてコメントすらできないが、一つの目的に向かってきわめて綿密かつ知的に作業を進める姿勢からは、従来の天才肌、もしくは直情的な料理人というより、理詰めで料理の可能性を探る技師や職人の姿が連想されよう。このような態度は私が料理人に期す資質とは大いに異なるようにも感じるが、それについてここでは述べない。
 最初に引いたとおり、米田にとってはミシュランの三つ星はスタートラインにすぎなかった。それでは彼が求める遙かに高い目標とは何であろうか。最後の章がこの問題と関わっている。おそらく米田ならずとも名シェフは同様の悩みを抱えるのではないか。つまり日本人シェフによるフランス料理とは何か。果たして日本人にフランス料理をつくることはできるのか。さらに言えば、なぜ日本人がフランス料理を作らなければならないかという問いかけだ。おそらくこの時点で、米田はミシュランという権威からも自由になったのではないか。最初に記したとおり、今、Hajimeは「三つ星レストラン」ではないが、おそらく米田はそれを気にかけてはいない。それは米田がミシュランというフランス由来の「グローバル・スタンダード」から解放されたことを暗示している。最後の章で、昨年、米田が店名から当初Hajime以下に付されていたフランス語表記を取り去り、シンプルなHAJIMEという店名に変えるとともにディナーのみの一営業形態に変えたことが記されている。それはおそらく米田の料理がフランス料理とか日本人とかいったカテゴリーを超えた、食べることの真髄に達したということではないだろうか。それは一体どのような境地、どのような料理なのであろうか。おそらく私は今後も米田の料理を食べることはないと思う。しかし本書を通読して、私はあらためて料理とは人が一生を賭けるに値する創造であり、そして卓越した料理を味わうという行為もまた人の文化の根源に触れる営みであるという思いを強くした。モネを見ること、プルーストを読むことと同様にそれは私たちが生きている理由なのだ。

by gravity97 | 2013-04-15 15:27 | エピキュリズム | Comments(0)

西川恵『饗宴外交』

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 以前、展覧会のクーリエとしてローマ日本文化会館で仕事をしたことがある。この施設は国際交流基金によって運営され、職員たちは外務省から派遣されている。日本からも多くの作家たちが招かれ、軽いディナーを開くことになった。年齢も知名度もさほど変わらない作家たちであったが、ディナーの配席を決めるにあたって、文化会館の担当者は作家たちの序列について微細にわたって私に問い質し、少々閉口した。
 本書を読んでごく自然にこの記憶がよみがえった。外交のプロフェッショナルたちにとって、席次や次第といったプロトコルの首尾を整えることは死活的に重要な問題なのである。お互いに旧知の日本人に対してもかくのごとき厳密さであるから、国籍を違えた首脳同士の会合であれば、プロトコルの複雑さは想像を絶する。本書はこのようなプロフェッショナルたちの華やかなたくらみをワインと料理という独特の視点から論じて興味深い。著者の西川恵は外国特派員の経験が長い毎日新聞の編集委員であり、フランスの美食外交について論じた『エリゼ宮の食卓』という刺激的な著書を以前読んだことがある。その続編と呼ぶべき本書を書店で見つけて買い求める。テーマは同じであるが、今回は日本の宮中晩餐会からサミット、エリザベス女王のロシア訪問から東日本大震災後に郡山で開催されたフランスのナショナル・デイのレセプションまで、地域的にも時間的にも多様な話題が盛り込まれ、一気に読み終えた。
 随所にそれぞれの饗宴に供された料理のメニューとワインのリストが紹介されている。さすがに首脳級の会食であるから、豪勢というか、私ごときには想像もつかない料理やワインが並ぶ。そして単に高価な食材やアルコールを提供するだけではなく、そこにはなんらかのメッセージが込められている。例えばトルクメニスタンの大統領が来日した際に、この国が古来より名馬の産地であることから、外務省から出向していた担当者はシュヴァル・ブラン、白馬という名の玄人好みのワインを供したというエピソードがある。残念ながらこの配慮は連絡が悪かったためか当時の鳩山首相から伝えられることがなかったらしいが、饗宴外交の機微をうかがわせる。逆に首脳自身からこのようなメッセージが発案されることもある。西川は歴代の日本の首相の中でも饗宴外交の真髄に通じていた首相として小渕恵三を高く評価する。クリントン大統領が来日した際、晩餐会の会場に小渕は蝦夷松の盆栽を準備するように事前に命じた。しかし担当者は翌日の首脳会談の場と勘違いし、直前に運び入れるはずの盆栽はまだ大宮市にあった。紆余曲折を経て、盆栽は宴席の大詰め、デザートの直前に会場に運び込まれ、それゆえ大きな演出効果とともにアメリカの大統領の前に引き出されたという。いうまでもなく国後島を原産とする蝦夷松の盆栽には北方領土問題解決に向けてアメリカの支持を得たいという日本側の思いがこめられていた。蝦夷松をめぐるエピソードはそれ自体スリルに満ちて興味深いが、晩餐会や夕食会という場が単に料理や挨拶だけでなく、政治的な駆け引きに満ちた一種の総合芸術であることをうかがわせる。小渕は自らがホスト役を務める予定であった沖縄サミットにおける首脳晩餐会における饗応に心を砕く。小渕はこのために料理や飲み物はもちろん、テーブル・コーディネイトからファッション・デザイナーまでを含んだ専門家によるチームを作り、準備にあたった。沖縄という開催地の食材を生かしつつ、日本がホスト国であることを反映した料理と飲み物とは何か。辻芳樹と辻調理師専門学校のスタッフたち、そしてソムリエの田崎真也らは幾度となく試作やアッサンブラージュの実験を繰り返し、「世界の調和」という晩餐会のテーマに基づいて料理としてはフランス料理をベースとしたパシフィック・リム(環太平洋)系料理、飲み物に関しては参加八カ国の極上のワインのアッサンブラージュ、さらには日本酒や泡盛のブレンドといういささか破格の手法によって首脳たちを迎えるべく準備を始めた。実際にはサミットを前に小渕は急逝し、代わってホスト役となった森喜朗による内容の変更の指示、さらには日本通のフランスのシラク大統領が事前に日本料理でないことに難色を示すなどいくつかの困難も伴ったのであるが、結果として沖縄サミットの晩餐会は大成功し、首脳たちはスタンディング・オベーションによって辻や田崎を讃えた。当のシラク大統領もことに料理が素晴らしかったと述べたという。日本における饗宴外交の絶頂と呼んでも差し支えないだろう。世界の首脳たちを迎えての晩餐会のために予算は濫費される。西川によればこのような豪勢な晩餐会は2008年、やはり日本で開かれた洞爺湖サミットが最後となった。翌年、イタリアにおけるラクイラ・サミットは震災の被災地に急遽会場が変更され、ベルルスコーニ首相夫人が夫との不和を理由に欠席したこともあり、晩餐も簡素化され、実務的な会合となり、ワーキング・ランチとワーキング・ディナーに徹する以後のサミットの性格を方向づけたといわれる。西川はこの背景として、「キャビアやウニを食べながら飢餓の問題を議論した」という洞爺湖サミットへの批判、そして新興国の登場によってG8のみによって世界の方向を議論することができなくなったことを指摘する。もはやサミットに出席する首脳たちでさえ豪華な饗宴を開くことが許されなくなったといってもよかろう。
 さて、先に私は沖縄サミットに関して濫費という言葉を用いたが、このサミットを担当した外務省の職員が多額の公金を使い込み、大きなスキャンダルを引き起こしたことは記憶に新しい。松尾某の犯罪は言語道断であるが、外交的な饗宴という営みが本来的に濫費という側面をもたざるをえない点には注意が必要かもしれない。これと関連して、各国に派遣された大使たちが公邸で賓客をもてなす招宴外交に関しても一章が割かれている。日本の場合、外務省に「公邸料理人帯同制度」という制度があり、日本大使は各国に料理人を連れていくことができるという。これも常識的には税金の濫費と感じられるが、世界中で人気のある日本料理の優れた料理人を擁することによって、日本大使館が開く饗宴は各地で様々の分野の関係者を引きつけ、ひいては貴重な情報を入手する機会ともなるという。西川はタイの日本人大使館の入念な招宴を例に挙げて、このような外交の重要性を説く。この制度を奢侈ととるか必要と考えるか、判断は難しい。特に外務省の公金スキャンダルが発覚した後、このような制度は一般には理解されがたいだろう。もっとも実際には公邸料理人の給与の半分以上は大使が自腹で支払っているとのことであり、それほどまでに料理というのは外交と深く関わっているのだ。特にバブル期には西欧以外の任地への渡航を望む料理人が減り、外務省は公邸料理人の指導育成を始めた。興味深いことにここで育成される料理人の多くはタイ人であるという。つまり在外公館の日本料理はタイの料理人によって担われつつある。ホワイトハウスの料理長がフィリピン系移民の女性であるという記述とともに、日米の饗宴外交が東南アジアの人々によって進められているという事実は暗示的に感じられる。
 ところで饗応の本質が差別化にあることはいうまでもない。前著の『エリゼ宮の食卓』では供されたワインのヴィンテージから、饗宴の相手がどの程度重んじられているか、少々意地悪く分析されていた。同じ国の元首でも、人が変わると、あるいは国同士の関係が変わると微妙に軽重を違えて饗応がなされるという指摘は実に的確だ。この点で西川は近年の日本の政権の弱体化を強く危惧する。日中の首脳交流に関して、西川は中国側が関係改善を期して異例の厚遇によって日本の首相をもてなしたが、彼らは任期半ばで次々に退陣する。一方、日本側も来日した中国の温首相をそれなりの饗応で迎えたが、首相が離日した翌日、鳩山首相は突如退陣を表明した。饗宴の際に既に退陣を決めていたとするならば、いささか礼を失した態度と言われても仕方がないだろうし、中国側の失望は理解できる。そして猫の目のように変わる政権とは対照的に日本の外交のもう一つの軸は皇室にある。皇室外交について触れた冒頭の章も興味深い。なぜなら皇室外交は「すべての国に平等に接する」ことを基本としており、今述べた相手によって差別化する通常の外交手法の対極にあるからだ。本書の中でも国家元首を招いて開かれたいくつかの宮中晩餐会についての記述があるが、そこでは「どの国に対しても最高のもてなしをする」というルールが徹底されている。冒頭に先般来日したブータンの国王夫妻を迎えての晩餐会のメニューが掲げられている。一方巻末近くに中国の胡主席を迎えての宮中晩餐会のメニューも示されているが、西川によればどちらも「最高のもてなし」という点で変わるところがない。もっとも食材の異なる料理において、甲乙を判定することは難しいから、おそらくこのような判断はシャンパンとしては同じドン・ペリニョン、シャブリのグラン・クリュに対してピュリニー・モンラッシェ、ラフィット・ロートシルトに対してラトゥールという供されたワインの格によって判定されるのであろう。ブータンと中国というそれなりに微妙な関係にある小国と大国に対して同じレヴェルの饗応で応じてもなんら不審に感じられないほどの権威を日本の皇室は帯びているということであろうし、このような饗宴外交の姿勢は世界的にも他に例がないのはなかろうか。
 本書中のいくつかのトピックについて紹介したが、ほかにも多くの興味深い話題が論じられ、飽きることがない。饗宴外交というのはなるほど大変な仕事だ。次々に紹介される豪華なメニューとワインに幻惑され、エピキュリズムというカテゴリで紹介したが、仕事としての会食が楽しくないことは経験則で知っている。貴重なワインと豪華な料理がさほど楽しくもない会食の中で大量に費消されていくことは美食をめぐる大いなる逆説であろう。そういえば私も一度だけ大使館のディナーに出席したことがある。20年近く前、当時のアメリカ副大統領夫人が現代美術を愛好していた縁でアメリカ大使館に招待されたのだ。といってもドレス・コードさえない気楽なディナーで、関係者が次々に紹介され、ホストとゲストたちが二言三言会話すると、それではさようならという感じでお開きとなった。どのようなワインが供されたかは覚えていないが、メインの料理はチキンであった。

by gravity97 | 2012-05-06 22:45 | エピキュリズム | Comments(0)

「ミシュランガイド 京都・大阪 2010」

 後で述べる理由によって私はこの種のガイドに全く重きを置いていないのであるが、東京版に続いて、京都・大阪版が刊行されたとのこと。よく知った街でもあり、ひとまず求めてみた。
 レストランとホテル、旅館を含めて、星の数で判定するというスタイルはシンプルでわかりやすい。私が行ったことのあるレストランやホテルもいくつか掲載されている。思ったより少なかったのは先に出た東京版と比べても、私が好まぬ割烹形式、京料理系の店が多く選ばれているからであろうか。ただし実際に足を運んだことのある割烹や旅館に関してもさほど料理が優れているという印象はない。以前にも記したが、美食とは畢竟個人的な体験であって、その日の気分や体調、会食する相手や話題によって同じ料理でも私たちは異なった感覚を享受する。今回のミシュランには「星は料理そのものに与えられる評価であり、店の雰囲気、サービス、快適さは星の評価基準には含まれていません」と奇怪な弁明が付されている。手元に東京版がないため、これが全てのガイドに付された文言であるか、京都の「老舗」に対するイクスキューズであるか判然としないが、店の雰囲気やサービスが料理の評価を構成する重要な要素であることは自明であり、「料理そのものに与えられる評価」などはありえない。レストランや料理に客観的な判定を与えること自体がナンセンスであるから、ミシュランは一つの指標となりえても、星の数やそもそも掲載されているか否かに積極的な意味はないと私は考える。国内でも私は数年に一度、それこそ「魂を震えるほどb0138838_2391441.jpgの」美味に遭遇することがある。二種類のミシュランのいずれにも私がそのような体験をしたレストランは掲載されていないが、美食が個人的な体験である以上、それは驚くに値しないし、特にこのガイドブックの評価を疑う根拠になるとも思わない。
 私は京都の料理店がミシュランの評価の対象とされることに以前より意地悪な関心を抱いていた。今回のミシュランの頁を繰ると、店構えや料理の写真が掲載されていない店がいくつかある。おそらく星の数で評価されることを嫌って、取材や写真の提供を拒否したのであろう。いかにも京都らしい姑息な振舞いである。評価されることを拒否するならば掲載そのものを断ればよい。評価から外されても自分たちの主張を貫くほどの矜持もないくせに自分たちは他者の評価の埒外にあるとでも主張したいのであろうか。以前から強く感じていた点であるが、ことに京都にはダブル・スタンダードの店が多く、一見の客に対してはきわめて冷たい一方で、馴染みの客には異常なまでのサービスを提供する。今までよそよしかった店がある時点を境に妙に馴れ馴れしく客に接して来ることを私は何度か体験した。実に気持ちが悪い。同じ料金を払ってテーブルに着いた以上、誰であろうと同等の客であるはずだ。自分たちと同じ文化を共有する相手しかサービスを提供しないという発想はきわめて閉鎖的、「田舎者」のそれである。
 今回のガイドで京料理という相互に比較することが困難な料理の店を中心に紹介し、名の通った店、高額の店に高い評価を与えている点は、外国人ツーリストと京都の業界のいずれにも配慮した、したたかな戦略をうかがうことができる。内容について個々に評したい点もいくつかあるが、私は「グルメ評論家」ではないから控える。その代わりにここではレストランに関して私なりの一つの見識を示すこととしよう。かつて抽象表現主義の修道僧、アド・ラインハートは自らの造形の原理を「テクスチュアはいけない」から「シンボル、イメージ、記号はいけない」にいたる12の否定的なルールとして定義した。ラインハートに倣って私が披露するのは自分の体験から導出した「いけないレストラン 十訓」である。ミシュランより役立つことは私が請合う。


いけないレストラン 十訓

1.妙に明るく、広々としたレストランはいけない。
2.調理している様子を客に見せるレストランはいけない。
3.一月前でも予約のとれないレストラン、極端に料金の高いレストランはいけない。
4.馴染みの客だけに違ったサービスを供するレストランはいけない。
5.シェフやオーナーが客席をうろつき、馴染みに挨拶するレストランはいけない。
6.ワインリストに載っていないワインの価格を口頭で告げるレストランはいけない。
7.客席に蠅や蚊のいるレストランはいけない。
8.メニューに記載してあるスペシャリテが事前予約を必要としたり(しかも予約の際にはその旨を告げない)、品切れになるレストランはいけない。
9.下品な客のいるレストランはいけない。
10. 煙草を吸えないレストランはいけない。


 冗談のような項目もあるが、私の実体験に基づいている。さすがに具体的な店の名前を記すことは控えるが、いずれもそこそこ名の通ったレストランでの体験である。料理のクオリティについては触れていない点に注意していただきたい。そしてこの十訓を満たすレストランというのは実は意外に少ないのである。
 さて、ミシュラン・ガイドに戻ろう。私はミシュランをこのように使おうと思っている。京都で多少名の知られた店に行くと、東京から来た「エグゼクティヴ」たち(自分たちでその旨を大声で表明しているのだから間違いなかろう)の下品な会話に辟易することがしばしばある。割烹で一緒になったりしようものなら、どこにも逃げ場がない。京都という街の特殊性もあろうが、このようなどうしようもないゲストに阿り、高い料金を請求する店が名店を自称しているのである。おそらく東京の「エグゼクティヴ」たちが今後京都を観光する折にミシュラン・ガイドは心強いツールになるだろう。したがって私は今後、ここに記載された店には一切足を運ばない。ここに掲載されていなくても、私は訪ねるべきレストランをいくつも知っているし、それによって下品な客と同じカウンターで料理を供される不幸を味わう確率は確実に減るはずだ。なんともありがたいガイドではないか。


25/11/09 追記
今回、取材を拒否した店に対してもミシュラン側は掲載を強行したとのことである。したがって掲載そのものを断るという選択肢は店側にはなかったと考えられる。

by gravity97 | 2009-10-21 23:14 | エピキュリズム | Comments(0)

ベンジャミン・ウォレス『世界一高いワイン「ジェファーソン・ボトル」の酔えない事情』

 それにしてもこのタイトル、なんとかならないか。まともな感性の持ち主であれば、それだけで本を手に取る気が失せてしまうような説明的で思わせぶりなタイトルである。The Billionaire’s Vinegar (億万長者のヴィネガー)という原題の方が数段ウィットに富み、すっきりしている。
 1985年、ロンドンのクリスティーズのオークションに出品された「シャトー・ラフィット1787」には10万ポンド(当時のレートで3000万円)を超える値がついた。ボトルにTh. Jという刻印が押され、アメリカ大統領トマス・ジェファーソンが所有していたといわれるいわゆる「ジェファーソン・ボトル」のうちの一本をめぐり、コレクター、競売人、ワイン評論家などを巻き込んだ騒動の顛末を縦軸としながら、ヴィンテージ・ワインのテイスティングやコレクションをめぐる秘話が次々に語られる。「シャトー・ラフィット」をめぐるエピソードはスキャンダラスではあるが、本書の中で必ずしも中心的な話題ではないだろう。たまたま稀少性の高いワインがオークションに出品され、アメリカ大統領に関する品物のコレクターでもある大富豪のマルコム・フォーブスと『ワイン・スペクテイター』誌を発行するマーヴィン・シャンケンが真っ向から競り合うこととなったために高騰したのであり、オークションという制度の必然的な帰結である。むしろこのようなボトルが複数存在し、それをめぐる世界の富裕層の駆け引きが活写された点こそが本書の読みどころである。このほかにもフォー・シーズンズの晩餐会で一本21万ドルのマルゴー(ジェファーソン・ボトルのうちの一本)のボトルを割ってしまったコレクターのエピソードやワイン偽造とその流通の詳細など、ヴィンテージ・ワインをめぐる様々の話題に最後まで飽きることはない。
ジェファーソン・ボトルはドイツのワイン・コレクター、ハーディ・ローデンストックによってパリにあった邸宅の隠し部屋から発見されたという。しかしローデンストックがその詳細を明らかにしないため、これらのワインにはその真贋、あるいは古い壜に中身を入れ替えたのではないかという疑惑がつきまとうことなった。この疑惑に判定を与えることも本書の目的ではない。特に後段においてビル・コークスというこれまた常軌を逸した大富豪がローデンストックから購入したジェファーソン・ボトルの真正性をめぐってニュートリノやら放射性同位体といった最新の科学技術を用いた年代測定、あるいはボトルの刻印の分析などを根拠に訴訟合戦を繰り広げるあたりも読み物としては実に面白いが、本書を通読して誰もが抱く感想は少なくともローデンストックなるコレクターは多少いかがわしい点はあるにせよ、真摯なワイン愛好家であっても詐欺師ではないし、「ジェファーソン・ボトル」も果たしてトマス・ジェファーソンが所有していたかどうかはともかく、その大半は貴重なヴィンテージ・ワインに間違いないという常識的なそれであろう。
 ヴィンテージ・ワインとはきわめて少数のコノシュアーによってしか判定されえない点において特殊な品である。本書中にローデンストックがロバート・パーカーの支持をとりつけることによって自らのワインに関する権威を固めるというエピソードがあるが、筆者によればパーカーの有名な100点満点のポイントもジェファーソン・ボトルのごとき異例のワインの前では全く意味をもたないという。しかしそのようなワインを入手しうる階層は果たしてかかる判定をなしうるほどに洗練されているか。ローデンストックの顧客リストを見る限り、ダイアナ王妃とともに事故死した中東の大富豪をはじめ、いかがわしい面々が顔を揃えているあたり、ヴィンテージ・ワインとスノヴィズムのとりあわせが面白い。
 ラフィットならラフィット、モンラッシェならモンラッシェと銘柄を定めて、年代順に飲み比べることを垂直テイスティングという。筆者によれば80年代にはコレクターが自慢のワインを持ち寄ってこのような試みを重ねるメガ・テイスティングが各地で繰り広げられたという。ジェファーソン・ボトルが登場した背景にはこのような狂騒があった訳である。ワインを料理との関係で考える私にとっては、なんとも空しい浪費のように思えるが、ワインの真髄に触れるためにはこれが正しい飲み方かもしれない。高価なワインをただ比較するために開栓するふるまいをどうみるかは人によるだろう。
 私は本書を読みながら、ヴィンテージ・ワインと美術作品の類似を連想した。いずれも基本的に一点しか存在せず、人によって価値が変わる。文中にモネやマネの絵であればその真贋の判定は容易だが、ワインは判定することが困難であるといった趣旨の文章があるが、例えば近年のレンブラント・リサーチ・プロジェクトが逆説的にも明らかにしたのは真贋という問題に関して、「科学的な」判定さえもが最終的には判定者の主観に委ねられるという事実であり、「客観的な」判定の不可能性である。それにしても嗅覚と味覚というまことに個人的で客観化しがたい感覚によって判定が下され、商品としての価値にいたっては開栓する以前、つまりそのような感覚を体験する前に判定がなされる点においてワインとはきわめて特殊な批評の対象といえよう。そもそも一本数千万円といったワインに果たして実体的な価値を求めることができるのであろうか。飲料としてのワインとヴィンテージとしてのワインの間には明らかな乖離がみられる。オークションにおいてジェファーソン・ボトルがワインとしてではなく、トマス・ジェファーソンに関する遺物として売り立てられるようになったという事実はこの問いを傍証するだろう。
b0138838_212370.jpgちなみに私がこれまで飲んだワインの中でヴィンテージを特定できるのは1979年のムートン・ロトシルトであるが、この種のワインを飲み慣れていなかった私は残念ながらそこに積極的な差異を認めることができなかった。批評とは端的に差異を体系化する営みであるが、このためには相応の訓練が必要である。具象絵画しか見たことがない者がマーク・ロスコの絵画の優劣を問われたような体験であったと今になって思う。

by gravity97 | 2008-11-24 21:17 | エピキュリズム | Comments(0)

辻芳樹『美食のテクノロジー』

b0138838_13541825.jpg ミシュラン・ガイドの日本版発売以来、美食をめぐる議論がかまびすしい。本書は故辻静雄の長男で辻調理師専門学校の校長を務める辻芳樹が世界各地に赴き、当代きってのシェフたちと語らい、厨房の秘密を探るといった内容である。
 かつて私は海老沢泰久による『美味礼賛』という辻静雄の評伝を読み、この孤高の料理人の情熱と努力、そして深い学識に感銘を受けたことがある。現在「辻静雄コレクション」としてちくま文庫にはいっている何冊もの著作は、フランス料理について日本語で書かれた最良の手引きであろう。辻が開いた伝説的なディナーは開高健の「最後の晩餐」の中でユーモラスに語られ、大岡玲なども調理人としての辻の魔術師的な手わざを書き留めている。辻の長男である筆者が食に関する英才教育を受けたであろうことは容易に想像がつく。
 美食について書くことは難しい。なぜならそれは徹底的に個人的な体験であり、同じ感覚を共有することが不可能であるからだ。気分や体調、会食の相手や話題によって同じ料理(そもそも「同じ料理」なるものさえ存在しない)の印象が全く異なることは誰でも体験的に知っている。多くの「レストラン・ジャーナリスト」なる書き手の文章が傲慢で不毛であるのは、いかに専門用語や美辞麗句を弄しようが、個人的な感覚の押しつけであり、結局のところ「私は食べた、あなたは食べていない」という言明でしかないからである。この理由により私はブログや雑誌のグルメ記事にほとんど関心がない。
 美食をモティーフとしながら、本書は食をめぐる個人的な悦楽とは関係がない。タイトルが示すとおり、本書の主題は「美食」ではなく「テクノロジー」、つまり当代一流のシェフたちがいかにして「美食」を供するかという技法の問題に限定されている。ニューヨークのフレンチ、オーストラリアの日本人シェフ、カタルーニャの三つ星レストランから日本の老舗料亭まで、登場するレストラン、料理人は多彩であるが、通読するならば、いかなる料理、いかなるシェフにとっても美食を供する秘訣が驚くほど単純であることが理解されよう。それは素材を吟味することである。本書の中にアラン・デュカスの「料理の65パーセントは素材、25パーセントが料理人の技術、10パーセントが料理人の天才によって決まる」という言葉があるが、逆に述べるならばここに登場する卓越した料理人たちの技術と天才をもっても、素材の帯びるテロワールにははるかに及ばないということであろう。今、はしなくもテロワールという言葉を引いたが、通常ワインに対して用いられ、地味と訳されるこの概念はいうまでもなく特定の土地と深く結びついている。ところで私は先ほど味覚がきわめて個人的な体験であると述べた。そしてプルーストのプチ・マドレーヌの挿話を想起すればたやすく了解できるとおり、味覚は個人の記憶と密接に結びつく。テロワールと記憶。ともに代替することが不可能な感覚や生理であり、美食とは本質的に土地と身体にまつわるきわめて限定された体験なのである。6人の料理人は自らが育った土地、あるいは逆に全く未知らぬ土地を選んで店を開き、一つの場と結びついた「美食のテクノロジー」を磨いた。しかしながら先般のミシュラン・ガイド日本版発売をめぐる狂騒を想起すればたやすく理解されるとおり、今日、三つ星級のレストランの経営とは国境や一人の天才的な料理人の創意を越えた文化的事件である。それでは洞爺湖でミシェル・ブラス、東京でアラン・デュカスのディナーを味わう体験は美食の本質と相容れるのであろうか。
 この点で私はインタヴューされる6人の料理人中、国家的シェフとしてポール・ボキューズの後に君臨するアラン・デュカスの方法がきわめて興味深かった。デュカスは東京も含め、世界各地にいくつものフラッグシップを展開する一方で、オーセンティックなレストランからデリカテッセンにいたるまで業態的にも多様な店を展開する。辻も論じるとおり、かかるデュカスの「美食のテクノロジー」が組織力にあることはいうまでもないが、本来、特定の身体(料理人の舌)と特定の場所に関わる美食という営みを、複数の身体と遍在性をとおして実現しようという営みの不可能性は誰でも理解できよう。デュカスはこの二重の困難を徹底的な人材教育と「デュカスのフレンチ」をそれぞれの土地における食材とテロワールに応じて融通無碍に変容させることによって克服しようとする。しかしその場合、「デュカスのフレンチ」のアイデンティティーは何によって担保されるのだろうか。辻はアラン・デュカスというアイデンティティーを保ちながら、同時に三つ星のレヴェルの料理を供するという点にデュカスの奇跡を認める訳であるが、モナコの「ルイ・キャーンズ」と東京の「ベージュ・アラン・デュカス」で供せられるディナーが同一であることの根拠を一体何に求めることができるだろうか。ミシュラン・ガイドでさえ都市別であることを想起する時、このような比較は辻のごとき世界的な食通によって初めて可能となるかもしれないが、かかる批評を相対化することは著しく困難であり、美食をめぐる個人的な体験が普遍的な批評性をもつという逆説はワインにおけるロバート・パーカーの事例を彷彿とさせる。
 本書は美食についての批評であるが、優れた批評の通例として、ほかの領域にも応用可能ないくつもの興味深い問題を提起している。辻がいう「美食のテクノロジー」つまり食をめぐる「優れた」文化が直ちに世界に伝播する、あるいは世界各地の文化と混交していくさまは、直ちにグローバリズムという今日私たちが直面する文化的係争の一局面として理解できよう。代替不可能性という問題もきわめて射程が広い。そもそもなにものかを代替/再現/表象することは可能かという問いはモダニズムの根幹と関わっている。このブログでは論じる対象を変えながら、今後も何度か同じ主題を扱うことになるだろう。

by gravity97 | 2008-06-22 13:54 | エピキュリズム | Comments(0)