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THE NEW AMERICAN PAINTING

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 貴重な展覧会カタログが手に入った。1958年から59年にかけてヨーロッパの8都市を巡回した「新しいアメリカ絵画」展のカタログである。ニューヨーク近代美術館の辣腕キューレーター、ドロシー・ミラーによって企画された伝説的な展覧会であるが、今述べたとおり、ニューヨークではなくヨーロッパの諸都市で開催されたため、カタログも含めてこの展覧会に関係した資料を探すことはなかなか難しい。私が試みた限りでは、ニューヨーク近代美術館のホームページからもこの展覧会に関する情報を得ることはできなかった。手に入れたカタログは最終会場であるテート・ギャラリーのカタログの再版であり、巡回した各地における展覧会評が英訳されて収録されているほか、註記によればカラー図版も何点か追加されているらしい。テート・ギャラリー版は当然英語であるが、巡回先ごとに言語を違えてカタログが刊行されているはずだ。
 ちょうど半世紀前に刊行されたカタログであるが、この展覧会は歴史的な意味をもち、カタログからも多くの発見があった。知られているとおり、第二次大戦後、ニューヨークは美術の首都の座をパリから奪取する。具体的にはこの展覧会に出品した一群の画家たちの作品の卓絶が確認され、それまでのヨーロッパ美術の公準とは全く異なったポップ・アートやミニマル・アートが登場する60年代中盤、このような交代は強く印象づけられるのであり、この展覧会が巡回した時点ではそこまでの認識は確立されていない。言い換えるならば、なおもヨーロッパ絵画の優越が確信されていた状況に対し、遥か大西洋の彼方から投じられた一石が本展覧会なのである。出品作家は17名。いちち列挙しないが、ポロック、デ・クーニングからロスコ、ニューマンにいたる抽象表現主義の代表的作家が顔をそろえている。逆にこの展覧会への出品者によって綱領も宣言もない抽象表現主義という運動に輪郭が与えられたといえるかもしれない。作品のレヴェルがきわめて高いことにあらためて驚く。今日ではあまり知られることのない数名の画家を含めて、図版で見る限りにおいても代表作と呼ぶべき名品が網羅されている。このカタログが貴重である理由は出品作品のリストが付されていることであるが、リストを参照するならば、例えばデ・クーニングならば《女Ⅰ》、ニューマンであれば《コンコルド》といった作家の転機を画す問題作が出品されている。いずれも今やミュージアム・ピースと呼ぶべき作品であり、このような粒ぞろいの作品がヨーロッパ各地を巡回したこと自体が今となっては奇跡のように感じられる。
 これらの絵画が当時のヨーロッパの観衆にとっておそろしく異質であったことは今日でも容易に想像がつく。次に述べるとおり、この展覧会への各国の批評はきわめて興味深いのであるが、その中の一つにテート・ギャラリーへの巡回展に対して「私はこれほど多くの若い観衆が、眩惑され、沈黙のうちに作品の前に座りこんでいるのを見たことがない」という評がある。端的に言って多くの絵画において、戦前におけるヨーロッパ近代絵画の最終的な達成であったキュビスムとシュルレアリスムの残滓がほとんど見受けられないのだ。知られているとおり、多くの抽象表現主義の画家たちは40年代後半にブレークスルーと呼ばれる形式上の決定的な転回を遂げるが、この時期を経過した絵画によって構成された展覧会、ことに成熟期のポロック、ニューマン、スティルらの絵画はヨーロッパ近代絵画との意志的な断絶を誇示して間然するところがない。
 当然ながらヨーロッパにおいてこれらの絵画は多くの批判を浴びる。最初に述べたとおり、私が入手した再版のカタログには巡回各館における展覧会評が掲載されているが、ほとんどが批判、端的に言って罵倒である。「新しくもなければ、絵画でもない、アメリカ的でもない。内的な必然性もなければ、内的な葛藤もない、真剣な形式的探究さえない」「一体彼らは自分たちが画家だと考えているのだろうか。(中略)国立美術館がこのような伝染性のある異端の教えにかくも寛大に公的な援助を与えることの恥知らずはどうだ」「これは芸術ではない。悪趣味のジョークだ。蜘蛛の巣の絡まりから私を助けてくれ」最初にイタリア語、フランス語、そして英語(イギリス)で発表されたこれらの批評の厳しさに私たちは驚く。むろんアメリカ絵画の独自性について比較的冷静に論じた評や個々の作家についての好意的な論評も掲載されている。しかしこれらの批評に目を通す時、印象に残るのがこれらの悪罵であることはいうまでもない。しかし展覧会の政治学に通暁した私としては次のようなうがった見方が可能ではないかと考える。これらの批評はニューヨーク近代美術館が再版したカタログに掲載されている。したがってこれらの展評の選択には美術館の意思が働いている。さて、通常であれば展覧会の企画者はこのような批判に対してきわめてナーヴァスである。展覧会が関係者との協同によって進められる以上、美術館は出品作家、あるいは借用先に遠慮して当然ありうるべき批判まで検閲し、抹殺しようとする。これは現在も日本の美術館が行っていることである。日本では展覧会に対する批判はタブーとされ、未だにまともな展覧会評が成立していない。それはともかく、逆にこれらの批判を自らが刊行したカタログに収録し(開催時の初版には掲載されていなかったにもかかわらず)周知するということはニューヨーク近代美術館にとってこれらの批判がむしろ好都合であったとは考えられないか。つまり、これらの批判こそヨーロッパの関係者がなおも「新しいアメリカ絵画」が提起する新しい美の公準を理解していないことの証左であり、逆にいえばアメリカ美術の勝利を告知するものであった。さすがの私も当時、ニューヨーク近代美術館がここまでの深い読みのもとにカタログを編集したと確言する自信はない。しかし結果的にかかる度量によって、新しい絵画をめぐるアメリカとヨーロッパ、新旧の美意識の懸隔を具体的な歴史資料の中に残すことが可能にされたように思われる。
 カタログの内容について触れる。今触れた展覧会への批評のアンソロジーに続いて(冒頭にこれらのネガティヴな言説を配置した点にも近代美術館の意図がうかがえる)、当時ディレクターであったアルフレッド・バー・ジュニアによる展覧会のイントロダクションが掲載されている。5頁ほどの短い解説であるが、さすがというべきか抽象表現主義に関するきわめて的確な要約である。私はこれを読んで、日本語で書かれたものも含めて、以後に発表された抽象表現主義に関する文章の多くがこのイントロダクションを踏襲している点をあらためて認識した。抽象表現主義という語の最初の使用例、あるいは日本の禅との関係など、しばしば論及される問題が既にここで提出されている。バーはアーモリー・ショーに始まるアメリカの美術界とヨーロッパの前衛美術の出会いを概観し、つまりヨーロッパの近代絵画にも一定の敬意を払いつつ、アメリカの絵画の特性について語る。展示された多様な絵画に共通する特質としてバーはその巨大なサイズ(「これらの絵画の偉大さはカンヴァスのサイズだけだ」という『フィガロ・リテレール』誌に掲載されたコメントを私たちは同じカタログで読むことができる)、色彩の調和や画面の構成といった従来の絵画的価値への無配慮、抽象的な作品が多いにも関わらず絵画の主題性が強く意識されている点の三点を挙げている。この指摘はきわめて適切であり、今日でも完全に通用する認識である。カタログでは続いてウィリアム・バジオテスからジャック・トォルコフまで、出品作家の写真とコメント、そして作品写真がカラー図版を交えて、アルファベット順に掲載されている。コメントにも十分なスペースが割かれ、図版も多く、おそらくこの時代にこれほど充実したカタログは例がないのではなかろうか。巻末には作家の略歴と出品リストが置かれ、このような構成からはニューヨーク近代美術館が一群のアメリカの若い作家たちをプロモートし、ヨーロッパに紹介していこうとする強い意志を認めることができる。
 このような意志にアメリカという国家の文化戦略がどの程度反映されているかは微妙な問題である。この点を確認するうえでも私は本カタログを前から入手したいと考えていた。今述べたとおりバーのイントロダクションはずいぶん控えめで、少なくとも抽象表現主義を運動として支持しようとするほどの強い姿勢は見当たらない。しかしこれほどの大展覧会を一年間にわたってヨーロッパ各地を巡回させるためには潤沢な予算と周到な準備が必要であったはずだ。その背景は今後も究明されるべき課題であり、抽象表現主義あるいはニューヨーク近代美術館の政治性について近年いくつもの研究が発表されていることは周知のとおりである。私はきちんとフォローしていないが、ドロシー・ミラーが果たした役割についてもリン・ゼレヴァンスキーの詳細な研究があったと記憶している。
 「新しいアメリカ絵画」はヨーロッパの美術界にとって真に革新的であった。しかしながらなおもそこでは絵画という制度が墨守されていた。それゆえ人は例えば抽象表現主義をヨーロッパにおけるカウンターパートであるアンフォルメルあるいはタシズムと比較することができた。先ほど言及した展覧会評の中にも両者が関連して論じられている内容がある。そしてほぼ10年後、やはりニューヨーク近代美術館によって企画された一つの展覧会がヨーロッパ各都市を巡回する。「アート・オブ・ザ・リアル」。現実の美術と題された展覧会においてはアメリカ人によって制作されたという一点を除いてもはやジャンルに統合することさえ不可能な作品群が再びヨーロッパ的美学を震撼させることとなる。

by gravity97 | 2010-01-12 20:53 | 現代美術 | Comments(0)

マーク・ロスコ『ロスコ 芸術家のリアリティ』

 現在、川村記念美術館でマーク・ロスコのシーグラム壁画の展覧会が開かれている。おそらくそれと連動した企画であろう。「芸術家のリアリティ」と題されたロスコの美術論集の翻訳がこのほど刊行された。本書の出現は私にとっては大きな驚きであった。不覚にも本書をとおして原著がイェール大学出版局から2004年に出版されていたことを初めて知ったが、私の知見の及ぶ限り、これまでロスコにまとまった著述があることは知られていない。私はアメリカの抽象表現主義を専門の一つとしているから、主要な作家の一人であるロスコについてはこれまでカタログ・レゾネをはじめ、多くの展覧会のカタログやモノグラフを参照してきた。これまでも断片的な資料類は存在したが、作家名を著者とする著述は存在しない。ロスコが自死したのは1970年である。没後半世紀近く経ってこのような第一次資料が刊行されることは異例といえよう。調べてみたところ、ロスコに関してはこの後、2006年にも Writing on Art という著述が同じイェール大学出版局から刊行されている。サマリーによれば、こちらのテクストは作家やキューレーターに当てた手紙などロスコの自筆文献を100点ほど集成した内容らしい。おそらくその一部はクリフォード・ロスが編集した抽象表現主義関係の作家と批評家の論文集成に収録されている内容であろう。それにしても1998年に刊行されたカタログ・レゾネをはじめ、重要な画家の画業と著述の体系的な整理という困難な仕事を継続するイェール大学出版局の姿勢は敬服に値する。そしてグッゲンハイム、ビルバオのミケル・ロペス=レミロによって編集された Writings on Art が画家の書簡や覚書といったいわばプライヴェイトな資料をまとめた内容であるのに対して、画家の子息であるクリストファー・ロスコが編集した The Artist’s Reality は画家の手による理論的な著作であり、大きく性格を異にしている。
 しかしながら本書の内容に立ち入る前にいくつか指摘しておくべき問題がある。この原稿は1988年、画家の死の18年後に遺品を整理していた関係者によって古いマニラ・フォルダーの中から発見されたという。執筆された時期は特定されないが1940年代前半、おそらくは1936年から41年の間と考えられる。この時期にロスコが理論的な著作を執筆していたことについてはいくつかの証言が残されている。しかし画家の死後、その原稿は発見されず、遺産管理者と研究者の確執の原因ともなった。ロスコの死後、遺族と遺産管理者、マルボロ・ギャラリーの三者間には係争も発生し、このような状況がケイトとクリストファー、ロスコの遺児たちに原稿の発表を躊躇させる原因となったようである。したがって作者の真正性についての問題はなかろうが、マニラ・フォルダーの中に残されていた未完成の原稿を一編の完結した著作とみなしうるかについては議論の余地がある。「作者」「作品」とは何かといったフーコー的な議論を持ち出すまでもない。描きかけのエスキースを「作品」とみなすことの当否というアナロジーを用いればわかりやすいだろう。決定稿ではないテクストをロスコの真正の「著作」とみなすことは可能であろうか。編者であるクリストファー・ロスコもこの点については十分に慎重かつ意識的である。巻頭に付されたクリストファーの長い「序」はこの問題についての弁明と読めなくもない。彼は内容にまで踏み込んで率直な感想を述べている。彼によれば初読の際にはたいしたものではないと感じたが、再読してその価値を「理解した」という。
 「芸術家のリアリティ」と総称されるテクストは20ほどのテーマについて、ロスコの所感を記したものである。訳書の中には草稿の表紙と冒頭部が図版として掲載されている。タイプ打ちされた原稿の上に作家直筆の訂正が施された状態は最終稿の印象からは程遠い。それぞれのテーマあるいは断章の配列の妥当性について図版から判断することは困難であるが、おそらく多くのアメリカの重要な作家の資料同様に、これらのテクストも将来的には作家に関わるアルカイヴに保管され、閲覧が可能となるだろうから、これらの点については今後研究者の検証を待ちたい。いささか前置きが長くなったが、以上のようにテクスト・クリティークの必要性を強調したうえで、この論集について所感を述べる。
 執筆された1940年前後という時期はきわめて微妙である。知られているとおり、当初シュルレアリスムの強い影響の下に出発したロスコがマルチフォームと呼ばれる多重の色面抽象を経て、独特の抽象形態に移行するのは1947年以降のことであり、時期的にはこの論集はロスコの茫洋とした抽象絵画の成立とは直接の関係をもたない。したがって本書にロスコ絵画成立の秘密を求めようとする多くの読者の期待はあらかじめ裏切られる。内容的にも本書の中でロスコは自身の絵画、自身の創造についてはほとんど論及することがない。しかしここで開陳される画家の思想はまだ生硬な部分や未熟な部分も見受けられるものの十分に魅力的である。なによりも私は一人の画家が正面から美術史に対峙しようとする姿勢に感銘を受けるとともに、ここで論じられた主題が当時彼の同僚とも呼ぶべき画家たちによって広く共有されていた点も興味深く感じた。例えば社会における美術家の役割、原始美術と現代美術、モダン・アートの意義、無意識と創造。いちいち具体的な論文名を挙げることは控えるが、これらの問題は同じ時期に発表されたジャクソン・ポロックやバーネット・ニューマンのテクストでもしばしば論じられた点である。もちろんこの背景には名高い『タイガーズ・アイ』をはじめとする、多くの雑誌が発行され、作家たちが自由に意見を発表できた状況が挙げられ、これに関してはアン・ギブソンによる先行研究がある。当時のニューヨークにおいて抽象表現主義の画家たちが比較的狭いサークルを結成し、議論や情報交換を繰り返したこともその理由であろう。逆に言えば、アクション・ペインティングや色面抽象絵画の、一見するならば衝動的、非理性的な外見とはうらはらに、絵画をめぐる画家の思索の深まりがかかる偉大な絵画群の成立を可能としたといえるかもしれない。
 発表する予定や目的がないにもかかわらず、作家がこれほどの量の草稿を執筆していたことは従来のロスコ観に転換を迫る。クリストファー自身が何度も述べるとおり、多くのテクストはこのような形にせよ発表されることが前提とされていたら、作家のさらなる推敲を経ていたはずであるし、それゆえにこれらのテクストの完結性には疑問の余地がある。しかしそれにもかかわらず、本書はロスコ、そして抽象表現主義を考えるにあたって、興味深いいくつもの論点を示唆する。ロスコは印象主義(原語は明らかではないが、impressionismであろうか)あるいは主題(subject)といった用語をきわめて独自の解釈とともに用いる。このターミノロジー自体も興味深いが、私が関心をもったのはロスコが多くの場合、二分法によって美術史を思考する姿勢である。端的に述べるならば、このような二分法はロスコの絵画における地と像の二分法と関係していないだろうか。ロスコのシュルレアリスム的絵画において、私は画面構造が舞台と書き割り的な二重性を有している点にかねてより興味をもっていた。(この効果を一層強化するのが、画面を分割する地平線的な構造だ)ロスコの抽象絵画をこのような二分法を無効化する一つの手立てと考えるならば、ディコトミーとその克服はロスコの著作と絵画に一貫する主題と考えることができるのではないか。本論中にはヨーロッパ美術に関する多くの言及がある。ミケランジェロからセザンヌに及び、プラトンからヴァザーリまでが引かれるロスコの美術論の当否について今は措く。私が関心をもったのは、ロスコが結局のところ、ヨーロッパ美術の内部で思考を繰り広げている点である。ラトヴィアのドヴィンスクに生まれ、10歳の時にアメリカに渡ったロスコにとってヨーロッパはなおも抑圧的に機能したとはいえないか。この点が明らかになるのはバーネット・ニューマンとの比較においてである。この論文が、ロスコのブレイクスルー以前に執筆され、内容的にも自己の絵画ではなく、「ヨーロッパ美術における芸術家のリアリティ」について論じている点については既に述べた。しかしこの点を考慮するにせよ、圧倒的に優れた絵画を制作した色面抽象絵画の二大巨匠のうち、なおもヨーロッパ絵画を跪拝するロスコに対し、ニューヨーク生まれのユダヤ人は軽々とヨーロッパ絵画の没落を宣言し、当時、抽象絵画の極北であったモンドリアンを全否定する。癒しや瞑想の絵画。美術ジャーナリズムの愚昧はともかく、ニューマンに比べて、日本でロスコが形式とは無縁の低俗なレヴェルで受容され、不幸にも作品の本質とは無関係な人気があることはこの問題と関わっている。私はロスコもニューマンもその優劣を論じること自体が意味をもたない20世紀絵画の巨匠であることを確信している。しかしニューマンの主要な著述とインタビューを網羅した Selected Writings and Interviews がアルフレッド・クノップフから刊行されたのは1990年であった。アメリカ美術の新しい美学を画し、決定的に重要なニューマンの著作集に先んじて、ロスコの守旧的な芸術論集がいわば展覧会の添え物として翻訳される日本の状況は果たして健全といえようか。
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by gravity97 | 2009-03-31 23:07 | 現代美術 | Comments(0)

Richard Serra 《AFANGAR》

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 あなたは「世界の果て」という言葉からいかなるイメージを思い浮かべるだろうか。私は世界の果てについてきわめて明確なイメージを抱いている。それはアイスランド、レイキャビク近郊、ヴィディ島の風景だ。
 そこには9対のモノリスが屹立している。リチャード・セラが1990年に設置した《アファンガー》という作品である。私は1998年にロサンジェルス現代美術館で開催されたセラの回顧展のカタログで初めてその風景を目にした。荒涼とした大地、暗い海岸を臨む断崖近くに対を成して設置された18点の石板。わずか6枚のモノクロの図版に私はたちまち魅せられてしまった。まさしくこれは世界の果ての姿だ。
 先日、1991年にチューリッヒで出版されたこの作品の美しいカタログを入手することができた。英語と(私にとって未知の言語でありおそらくは)アイスランド語が併記されているが、テキストはほとんどなく、さながら「世界の果て」の情景の写真集といった趣がある。ロバート・スミッソンの《スパイラル・ジェティ》やマイケル・ハイザーの《ダブル・ネガティヴ》を想起すれば理解されるとおり、ランド・アートに共通する特質は訪れることの困難であり、ウォルター・デ・マリアは《ライトニング・フィールド》についての簡潔な解説を「孤絶こそランド・アートの本質である」という印象的な言葉で結んでいる。しかしながらヴィディ島はレイキャビク近郊というから決して訪れることが不可能な地ではないし、屹立する石板は《スパイラル・ジェティ》のごとく風化することもない。私はいつの日か、これらのモノリスの傍らに立ちたいと強く感じる。
 タイトルの由来について、いろいろと調べてみたのだが、言葉の意味も含めてよくわからなかった。おそらく何かの固有名詞ではないだろうか。作品についてはカタログ中に次のようなコメントが付されている。
Stations, Stops on the Road / To Stop and Look ; Forward and Back / To Take It All In
途上の留という言葉から直ちに連想されるのは Stations of the Cross 、つまりキリストの十字架の道行きである。通常は14の場面から成り立つこれらの情景は古来よりキリスト教美術の伝統的な図像でもあった。そして現代美術においても同じテーマで重要な先例がある。いうまでもなくバーネット・ニューマンが1958年から66年にかけて制作し、現在はワシントンのナショナル・ギャラリーに収められている14点の連作「The Stations of the Cross」である。セラの作品はニューマンと無関係ではありえないだろう。現実の場に位置を占めるセラの作品は「場の感覚」を主張するニューマンの正当な後継者であり、なによりも垂直に屹立する《アファンガー》のイメージは禁欲的なモノクロームのニューマンのジップ絵画連作を強く連想させ、ニューマンの彫刻とも親近性をうかがわせる。
 もう少し詳しく作品を記述しよう。今述べたとおり作品はいずれも対の石板として設置されている。カタログにはタイトルの横に「九つの場所、二つの高度」という言葉が付されている。対の石板はヴィディ島の周囲を取り巻くように島内の9箇所に設置され、島を上空から鳥瞰した写真によってその状況はある程度理解できる。この点は十字架の道行きのごとく、一つのパッセージとして作品が構想されている点を暗示しているかもしれない。二つの高度とは4 メートルと3 メートル、異なった高さの二つの石板、それぞれ最上辺が海抜9 メートルと10メートルを標定していることを意味する。
 直立するモノリスは直ちにキューブリックのフィルムを連想させる。あるいは墓標やオベリスク。多様なコノテーションをもつ点はセラの寡黙な作品の中ではむしろ例外的である。素材はこの島固有の黒灰色の玄武岩であり、石という素材もセラの作品としては珍しく、これ以前にはおそらく1982年にフィレンツェ近郊に設置した作品しか例がない。セラ自身もフィレンツェの作品について触れたテクストの中で、彫刻における素材の重要性を説いた後、自身が多用する鉄に比べて元素的な素材である石が時間という問題と深く関わっていることを強調している。2006年にニューヨーク近代美術館で開かれたセラの二回目の回顧展のカタログテクストでリン・クックは《アファンガー》に触れ、玄武岩の使用がこの作品に二つの意味を賦与している点を指摘している。一つは垂直の構造とあいまって境界を画定し、海抜高度を標定する標点としての意味であり、もう一つはこの島の地質学的な特性との関連である。セラは作品が設置される場所と深く結びつくべきであるという主張を繰り返してきたが、クックが指摘する意味は土地との関係があまりにも生々しく、セラの作品の中でも例外的な印象がある。私の手元には1998年にドイツで刊行されたセラの版画のカタログ・レゾネがある。この中にも1991年に制作された「アファンガー」と題された一連の作品が存在する。その一部は上に示したカタログにも収録されているが、面的な要素で構成される場合が多いセラの版画やドローイングの中で、線的な要素を強調したアファンガー連作は異彩を放っている。立体においても版画においてもアイスランドの小さな島に触発された作品が一種の特異点を形成している点は興味深い。その理由はおそらく最初に述べた「世界の果て」に比される風景と関わっているだろう。クックによれば1988年の最初の訪問以来、セラもこの島の風景に畏怖の念を抱いたという。この点において《アファンガー》と北ヨーロッパにも分布するドルメンやメンヒルといった巨石記念物の相似は暗示的である。都市空間を強引にねじ伏せ、時に作品撤去にまで発展する議論を引き起こしてきたセラでさえ、アイスランドの絶景を前にして、風景への強引な介入ではなく、いわば土地の霊、ゲニウス・ロキに導かれて作品を構想せざるをえなかったというべきであろうか。
 セラの作品といわゆるランド・アートとの共通点と差異は一編の論文の主題たりうる。私の印象としてはセラの作品の場合、設置される場所は所与の条件である場合が多く、場との間に交わされる緊張が作品の大きな魅力であった。《アファンガー》において作品はむしろ場と親和している。アイスランドの荒地に屹立する異例の作品はセラのみならず野外に設置される作品と場との関係にいくつもの重要な示唆を与える。

by gravity97 | 2009-01-10 10:04 | 現代美術 | Comments(0)

art since 1900

 数年前に出版され、世評の高い20世紀美術の概説書を先日入手した。Thames & Hudson から2004年に刊行された本書は二巻から成り、一巻では1900年から1944年、二巻では1945年から今日(具体的には2003年)までの期間が扱われている。ひとまず私は二巻を求めた。
 なんといっても著者の顔ぶれが凄い。ハル・フォスター、ロザリンド・クラウス、イヴ=アラン・ボア、ベンジャミン・ブクローといえば80年代に一世を風靡した『オクトーバー』誌の中核であり、ポスト構造主義を自在に用いてモダニズム美術を批判的に読み直し、ポスト・モダン美術を定位するうえで決定的な役割を果たした批評家たちである。サブタイトルの「モダニズム、アンチモダニズム、ポストモダニズム」からも了解されるとおり、本書は端的に「オクトーバー」史観に貫かれた20世紀美術史といってよいだろう。たんなる事実の羅列ではなく、方法論への反省が記述の底流をかたちづくっている。
編集方針もきわめて独特である。最初に四人の専門領域と結びついたテマティックな概説(「モダニズムにおける、手法としての精神分析」、「美術の社会史:モデルと概念」、「フォーマリズムと構造主義」、「ポスト構造主義と脱構築」というタイトルを一読しただけで私は直ちに執筆者を比定することができる)が掲載され、続いて文字通りの編年体で20世紀美術が語られる。つまりそれぞれの年における主要なトピックが選ばれ、それらを四人が分担して論じている。もっとも年とトピックは厳密に一対一対応している訳ではなく、複数のトピックが論じられる年もあれば、記載のない年もある。例えば1962年は「フルクサス」、「ウィーン・アクショニズム」、「アンドレ、フレイヴィンとルウィット」という三つのトピックがそれぞれ論じられ、一方で1979年という項目は存在しない。序文として掲げられた「Reader’s Guide」によれば、採用されたテーマのいくつかは特定の国と関連し(例えば「アルテ・ポヴェラ」)、いくつかは国際的な動向について扱う。(例えば「ドクメンタ5」)また地域性と無関係な主題を扱う論文もある。(例えば「グリッドとモノクローム」)合計で107を数えるこのようなトピックによって20世紀美術の輪郭が立体的に浮かび上がる。いくつかの論文を通読してみたが、内容は書き手を反映して質的にも充実しており、それぞれの巻末には参考文献も付されているから、これから現代美術の方法論を学ぼうとする英語圏の読者には有益な入門書といえるだろう。
私の関心を引いたのは、本書が概説というかたちをとらず編年体によって構成されている点である。本書は作品ではなく事件によって美術史を検証する姿勢をとり、最初に掲げられた年記の次に、続く論文で論じられる当該年に起きた事件がリードとして短く紹介される。全ての歴史記述がそうであるように、どの事件を選ぶか、事項の選択が恣意的であることはいうまでもない。そして恣意的な事項の羅列によって現代美術について語る手法の先例を私たちは既に知っている。それはクラウスとボアによって1996年にポンピドーセンターで企画された「アンフォルム」展のカタログである。奇しくもUser’s Guide (フランス語ではmode d’emploi )と名づけられたこのカタログにおいては水平性、パルスなど四つのテーマに即したキーワードがアルファベット順に機械的に記載されている。このような配列はこの展覧会の基本概念である informe を提唱したジョルジュ・バタイユの著作に範をとっており、初見してきわめて斬新な印象を受けた。かかる記述の形式はクレメント・グリーンバーグのモダニズム絵画理論に象徴される、一つの大きな物語が美術史を統御するという理念への根底的な異議申し立てであるだろう。本書においてもクレス・オルデンバーグの「ストア」からゲルハルト・リヒターの「1977年10月18日」連作にいたる多様な話題が様々の事件をとおして多角的に論じられ、記述は全体として脈絡や焦点を結ぶことがない。
私自身がいわばフォーマリズムと『オクトーバー』誌の弁証法の下で批評の方法を学んだため、本書で論じられるテーマや作家、概念の多くには既になじんでいた。さらに本書には特にクラウスとボアの著作の反映が色濃く認められ、彼らの熱心な読者であった私としては使用される図版に見覚えのあるものが多い。タイトルと図版を見れば論旨の概要がほぼ予想できるトピックもいくつかある。私のみるところ、70年代以降、美術批評はフォーマリズムとフォーマリズム批判の緊張の中から最も充実した成果を引き出した。グリーンバーグ、マイケル・フリードあるいはウィリアム・ルービンらの一連の批評と、そこから出発しながらもむしろフォーマリズムを批判的に受容した本書の書き手たちの批評は戦後の美術批評における最上の達成であろうが、同時にアメリカ美術を中心とした美術史観である点に一定の限界を指摘することができよう。かつてグリーンバーグは全ての優れた美術はニューヨークを経由すると傲然と言い放ったが、グローバリズムが喧伝される今日、このような観点から本書を批判することは可能である。アナ・メンディエッタやウィリアム・ケントリッジへの言及はあっても中国やイスラム圏の作家についての言及がないことは単に情報の不足だけではなく、彼らの批評の内在的な限界を露呈しているように思う。
この点と関連するが、本書において取り上げられた日本の作家が具体美術協会のほかには草間弥生や久保田成子ら、数名の女性作家だけである点は興味深い。白髪一雄や草間弥生は「アンフォルム」においても言及されていたからその延長と考えることができようし、具体美術協会は活動当時から例えばポロックと交渉があり、草間や久保田はニューヨークで活動した作家であったから、欧米から参照しやすい作家たちが選ばれたとみなすことはたやすい。しかし例えば具体の再評価が近年も続き、次々に展覧会や関連書が発表されるという事実は、単なるオリエンタリズムとしてではなく、モダニズムを再考する契機を彼らの活動が秘めており、80年代以降の文化的地政学の中でその重要性が一層高まってきたことを暗示しているのではなかろうか。この問題は優に一本の論文に値し、ブログの紙幅で語りうるものではないが、さらに私の最近の関心に引きつけるならば、日本の60年代美術の無残さという問題とも関わっているだろう。
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かくのごとく、なおもいくつかの問題をはらむものの、本書は論述の形式も含めて20世紀美術の総括をめぐる野心に満ちた試みであり、その輪郭について一つの明確な規範をかたちづくっている。美術批評に関して70年代以降の英語圏の知的充実を端的に示すテクストといえよう。

by gravity97 | 2008-12-14 13:19 | 現代美術 | Comments(0)

犬島アートプロジェクト

 ベネッセ・アート・サイトが瀬戸内海に展開する一連の美術施設は規模と持続性において日本に類例がない。作品と特定の場所を結びつける活動としてはアメリカのDIAアート・ファウンデーションによる一連のプロジェクトという先例があるが、実施主体に長期的な計画とそれなりの見識がなければ実現は難しいだろう。これらの活動は現代美術を所有すべきものではなく、管理保守すべきものととらえる点で画期的である。これまで主として香川県直島を舞台に繰り広げられてきたアート・プロジェクトが近年、近郊の犬島にも広げられたと聞いて、遅ればせながら出かけてみた。
 犬島アートプロジェクトと名づけられた一連の計画のうち、現在完了している作品は建築家の三分一博志と美術家の柳幸典がかつての銅の精錬所の内部を改造し、設置した「精錬所」である。かつての産業遺産を美術施設に転用した近年の例としてはテート・モダンが挙げられようし、実際いくつもの煙突やサンルーム、さらには発電所の廃墟まで内包した精錬所は遠景においてテート・モダンを連想させないでもない。現在、施設の見学は基本的に事前予約のツアー形式をとっており、私も事前に申し込んだうえで直島から45分ほどの海路を犬島に向かった。到着すると、船着場の傍らの「Inujima Art Project」と表示されたギャラリーで登録を行い、グループに分かれて約一時間の見学ツアーに参加した。ツアーは三分一がこれまでに実現したプロジェクトの模型の見学に始まり、続いて10人ずつ二つのグループに分かれて精錬所を巡回する。最初に三分一の設計理念がどのように精錬所のリノベーションに反映されているかを実際に精錬所の内部を歩きながら体験し、続いて柳によってこの精錬所のために制作された作品を見学し、植物を介して汚水を循環させるエコ・システムについての説明を受ける。そして最後に大規模な産業遺産である精錬所の廃墟の中を散策する。
 三分一によるリノベーションは明らかにエコロジーの思想と通底している。つまり太陽、地熱など自然のエネルギーを利用することによって、空調や照明などを可能な限り自足させ、周囲の環境への負荷を減らすという方針が貫かれている。具体的には多くの鏡をとりいれて、半分地中に建設された精錬所内の回廊を自然光の反射によって照らし出し、さらにチムニールームやサンルームといった独特の空間構造を生かして温度差を作り出した空気を建築の内部で対流させ、夏は室内を冷却し、冬は逆に暖める。迷路状の光の回廊はロバート・モリスやオノ・ヨーコの一連の作品を連想させないでもない。私が訪れた日はさほど暑くなかったため、対流による空調の効果のほどはよくわからなかった。
 1909年に建設された犬島精錬所は銅価格の暴落のため、わずか10年ほどしか稼動しなかったという。巨大な施設が建築されてまもなく放棄されるという事態自体も現代美術と無関係ではない。ロバート・スミッソンは幾度となく遺棄された場への共感を語っているし、崩壊寸前にある大煙突(無数のひび割れが視認され、それゆえツアー中、ガイドの指示なき場所への立ち入りは固く禁じられている)は彼がいうエントロピーの増大を例証するかのようだ。ところで銅の精錬は自然破壊や公害と深く関わっている。瀬戸内海の島に精錬所が建設された理由は原料を輸送するうえでの利便性とともに精錬時の煙害の被害を抑えるためであった。私はエコロジーといった誰もが批判しづらい理念によって作品を統制することを好まないし、そのような作品はくだらないと考えるが、今述べたような歴史的背景を勘案する時、三分一がこの施設を先に述べたようなコンセプトに基づいてリノベーションしたことに深い必然性を感じる。いうまでもなく建築家の選択はベネッセ・アート・サイトがいかなる哲学の下に一連のプログラムを推進するかという問題に関わっている。たとえ地中に造られたとしても圧倒的な存在感を示す安藤忠雄の建築群の傍らに置く時、廃墟に寄り添い見えない建築とも呼ぶべき三分一のプランは対照的である。直島には外国人の建築ファン、美術ファンが多く訪れる。特にヨーロッパにおけるエコロジーの高まりを考慮する時、「精錬所」のプランは今後、多くの関心を呼ぶこととなるだろう。
 三分一の建築に対して、柳幸典は精錬所の内部にかつて松濤にあったという三島由紀夫の旧宅を移設するという作品で応じた。三島の旧宅の部材を微妙にずらしながら移築し、カラミ煉瓦やスラグといった精錬所特有の素材と関連づけたインスタレーションの完成度は高く、これまでの柳の仕事の集大成といってよかろう。柳はこれまで国旗やドル紙幣、あるいは憲法といった一つの社会に共有された記号を作品の主題として用いてきた。インスタレーションにおいては三島の作品「英霊の声」および市谷駐屯地での演説が作品の中にテクストとして引用されている。銅の精錬、輸出という事業が明治期の殖産興業の根幹をなしていたことを考えるならば、住友財閥とも関係のあったこの精錬所自体が一つの国家意志を体現したものであり、国家主義者たる三島との関係を推定できない訳ではないが、モネからタレルまでサイト・スペシフィックな作品によって構成されたアート・サイトにおいて、犬島精錬所と三島の結びつきの必然性が私には今ひとつ理解できなかった。ガイドの説明によると、柳がこのインスタレーションを構想するうえで背景となったテクストとしては上記の二つのほかに、三島が自決の三年前に発表した「太陽と鉄」というエッセーがあるという。タイトルから強くプロジェクトとの関係が暗示されるこのエッセーを私は近いうちに読んでみようと思う。
 アメリカ中西部のアースワークやタレルの一連の作品を連想すれば直ちに明らかなとおり、サイト・スペシフィックな作品はその場に立つまでの道行の困難を作品の中に内包している。この点で瀬戸内の島嶼というのはまことに魅力的な舞台設定であり、私は今でも初めて直島を訪れ、ベネッセハウスと家プロジェクトに見えた時の感銘を思い出すことができる。ハイ・シーズンだったこともあろうが、今回、直島を訪れて強く感じたのは人が多すぎるということだ。最初に訪れた際にはひなびたお好み焼き屋しかなかった宮浦港には巨大な「海の駅」なる施設が完成し、人々でごった返していた。かつて同じ地で現代美術との思いがけない、そして贅沢な出会いを経験した者としては残念に感じられる。
 
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私は商業主義と現代美術は両立しないと考える。観光地、リゾート地と化した直島から犬島へ、現代美術のフロンティアを広げることは一つの方法であろう。私はこれらの島をめぐる状況から、かつてのニューヨークを連想した。先端的なギャラリーが密集したソーホーがいつのまにか大衆化し、高級ブティックの街と化し、ジェントリフィケーションを嫌ったギャラリーは例えばチェルシーへと次々に拠点を移した。同様の事態は今後これらのアート・サイトで繰り返されるかもしれない。しかしいずれにせよ集客と利潤追求に明け暮れる昨今の「指定管理者」美術館から駆逐され、帰属すべき場を失ったこの国の現代美術は今やかかる実験を許容する一私企業の度量に頼らねば成立しえないほど深刻な危機に瀕しているのである。

by gravity97 | 2008-08-30 15:36 | 現代美術 | Comments(0)