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椹木野衣『後美術論』

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 本書は『美術手帖』に過去14回にわたって連載された内容をまとめた600頁を超える大著である。以前にも記したとおり、しばらく前から私はこの雑誌に愛想を尽かしているので、時折書店でこの連載を立ち読みすることはあっても、不定期の連載でもあり、単行本化されてから通読するつもりでいた。ところが本書が刊行されるとほぼ同時に版元の美術出版社が民事再生を申し立てたという報道があり、入手が不可能となるかもしれないと慌てて本書を求めた。いささか不謹慎な物言いかもしれないが、このあたりの混乱は本書にふさわしい。私は椹木の著作はほぼ読んできた。『シミュレーショニズム』から『爆心地の美術』にいたる美術論と『テクノデリック』『原子心母』といった音楽論が交差する本書は椹木の批評にとっても一つのメルクマールを画す内容であるように感じる。同じように『美術手帖』の連載が単行本化された例として『日本・現代・美術』がある。この著作も実に挑発的な批評であったが、誤解を恐れずにいえば椹木ならずとも書けるというか、椹木が書かずとも誰かが書くべき日本の戦後美術の反・通史であった。しかし『後美術論』は椹木以外には書くことのできない内容であるように感じる。『日本・現代・美術』で論じられる対象については戦後美術に関心のある美術関係者であればある程度の知識を有している。しかし『後美術論』で論じられる対象、とりわけ音楽については美術プロパーの研究者ではとてもカバーすることができない広がりがあるからだ。もっとも椹木のデヴュー作である『シミュレーショニズム』にも「ハウス・ミュージックと盗用芸術」というサブタイトルが付されていたこと、今引いたいくつかの著作の多くが美術と音楽の両方に紙幅を割いていたことなどを想起するならば、筆者の関心はデヴュー以来一貫しているといえるかもしれない。
 本書が狭義の美術批評に収まるか否かはひとまず措くとして、美術批評はしばしば新しい概念を提起することによってその射程を広げた。本書の場合、タイトルとされる「後美術」という概念がそれにあたる。「後美術」とは何か。椹木は本書のカバーに次のような定義を示している。「美術や音楽といった既成のジャンルの破壊を行うことで、ジャンルが産み落とされる起源の混沌から、新しい芸術の批評を探り当てる試み。例えば、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの活動を同じ『後美術(ルビ アート)』と呼ぶこと。(中略)このジャンルを溶解させる婚姻から授かる創造の地平が『後美術(ルビ ごびじゅつ)』である」今示したとおり、本書におけるルビの多用は注目に値する。同じ言葉がルビをふられることによって、時に美術の文脈で、時に音楽の文脈でとらえられる場に私たちは何度となく遭遇する。この定義からも明らかなとおり本書のキーワードは「音楽と美術の結婚」である。本書においてはほとんどの章において、通常音楽家と考えられている作家と美術家と考えられている作家がペアで取り上げられ、両者の関係が論じられている。今の定義にあったとおり、最初に引かれる例はレノンとヨーコであり、現実にパートナーの関係にあった二人から本書を説き起こすことはきわめて自然だ。「後美術」という言葉からはポスト・アート、つまり時間的先後性に関する議論が予想されるのだが、注意しなければならないのは「後美術」とは時間とは無関係な、ややトリッキーな概念である点だ。本書に参照されるべき椹木の著作は2010年に刊行された『反アート入門』であろう。『反アート入門』においては「美術史」が制度としていかに恣意的に構築されたかという問題が、冷戦や近代美術館といった「歴史的」諸問題と関連づけて論じられていた。このような態度を「美術史」に対して垂直的とみなすならば、本書において椹木は水平的、共時的な観点から現代美術の分析を試みる。本書の核心が「音楽と美術の結婚」である以上、美術と音楽のジャンルの関係が問われるように思われる。しかし本書で論じられるのは口当たりのよい「ジャンルの横断」ではない。あとがきの冒頭に椹木は次のように書きつけている。「この本で私は、一貫してジャンルの破壊を行っている。ジャンルの横断ではない。破壊であることが重要なのだ」本書の中で椹木はこのような破壊を繰り返し溶解(メルトダウン)という言葉で言い換えている。震災を経た私たちにとってこの言葉がはらむ不吉なコノテーションは明らかである。一方で、本書と『反アート入門』の共通点としては美術ではなくアートという言葉を使用し、それに積極的な意味を与えていることが挙げられよう。バブル期を連想させる「アート」という言葉は美術に関わる者であれば使うことがためらわれる。確か森村泰昌はどこかで自分が「芸術家」であって決して「アーティスト」ではないことを強く主張していたように記憶する。しかし椹木は「アート」という言葉の融通無碍を逆手にとって文字通りジャンルの溶解を試みるのだ。確かに「アート」という言葉なくしては美術家としてのロバート・メイプルソープの仕事と音楽家としてのパティ・スミスの仕事を共通の地平において論じることは不可能かもしれない。
 本書は記述においても斬新な形態をとる。多くの章の冒頭に椹木自身の体験が語られ、続いて関連する歴史的事実が記述され、さらにそこで提起された主題をめぐる考察などがいわば併置されて連なる。椹木の体験は世界中を舞台にしている。最初の章こそ、オノ・ヨーコとの対談の申し出を東京の自宅で受けたエピソードが記されているが、その後、椹木がそれぞれの章の冒頭に記述する体験は1990年のモスクワ、2005年のウィーン、1997年のロンドン郊外、1991年のニューヨーク、同じ年のロスアンジェルス、そして2012年のMOMAを舞台としている。このような記述が意図的であることは明らかだ。1990年代以降、つまり椹木が美術批評家として活動を始めて以来の様々な記憶が本書の輪郭をなしており、同時にそれは椹木のいう「後美術」がこの四半世紀、もはや場所を問わず看取できる事態であることを暗示している。そしてこのような記憶の中に、突然、現在が挿入される個所がある。「スローターハウスの聖母たち」の章の前篇の途中、113頁である。

……ここまで書いてきたとき、突然、文章を書いている机がカタカタと揺れ始めた。2011年3月11日に起きた、恐ろしい震災の、それは最初の前触れだった。揺れは次第に強さを増し、しかも長く長く続いた。

 1755年のリスボン大震災がヴォルテールの著作に強い影響を与えたように、本書も震災と原子力災害を内部に挟み込み、その圧倒的な影響下にある。もっとも3月11日以降、一体日本に住む誰がそれと無関係に思考を鍛えることができるだろうか。先ほど「後美術」の「後」は時間的な契機を有さないと書いたが、「後美術論」が震災と原子力災害という不可逆的な事件の「後」に置おいて初めて可能な産物であることは、地の文としていきなり乱入するこれらの記述において明らかである。椹木もその事実をわざわざ書き記すことによって、私たちがもはやそれ以前へと戻ることのできない「後震災」の状況にあることを読者に自覚させるのである。
 本書で論じられる主題の射程を粗描しておこう。最初の章では先に述べたとおり、オノ・ヨーコに対談の相手として指名されたエピソードを契機として「音楽と美術の結婚」すなわち「後美術」という概念が提起される。レノンとヨーコのペアを通して本書では例外的に幸福な時代の記憶が語られる。次いでソビエト連邦崩壊直前にモスクワを訪ねた経験から説き起こし、ライバッハという私にとっては未知の音楽ユニット、そしてU2の「ZOO TV」という試みが、共産主義の崩壊と内戦化する世界を背景に論じられる。この部分が書かれた時点ではまだ震災は起きていないにもかかわらず、ZOO TVとの関連においてセラフィールド原子力発電所への抗議行動について言及されている点は予言的でさえある。続く「スローターハウスの聖母たち」の章においてはまずウィーン・アクショニズムのヘルマン・ニッチのOMシアターと関連して初期キリスト教において異端とされたグノーシス主義についてかなり理論的な検討がなされる。私はキリスト教の教理については全く知るところがないが、ヒプノシス、言わずと知れたプログレッシヴ・ロックのジャケットデザインを手がけたデザイナー集団の名称がグノーシスからとられたといった指摘を読むと大いに納得してしまう。この章の後編で扱われるのはシェーカー教徒とエルヴィス・プレスリー、そしてロバート・メイプルソープとパティ・スミスだ。メイプルソープについては、私も登場人物の多くがエイズで悲惨な死を遂げるパトリシア・モリズローによる評伝を読んでいたが、本書の記述も救いがない。例えばモリズローも言及していた伝説的なキューレーター、サム・ワグスタッフについては私もミニマル・アートに関して早い時期に重要な展覧会を企画した人物として知っていた。彼がメイプルソープと交流する中で次第に内面を崩壊させていく記述は痛々しい。実はメイプルソープとワグスタッフのみならず「後美術」に関わった者の多くが悲惨な境遇を生き、あるいは悲惨な死を遂げていることが、本書を読み進めると明らかになる。「後美術」はなぜもかくも悲惨と死の影に彩られているのであろう。我々の時代の表現とは本来的に深く呪われているのであろうか。
 続いて舞台はイギリスへと転じる。ここでも椹木は暗鬱な回想から始める。1997年に椹木はデレク・ジャーマンがエイズで没する直前に築いた庭園をロンドン郊外に訪ねた。今は亡き清水アリカらが同行し、荒涼とした庭園の背後には原子力発電所がそびえていたという。この章のタイトルである「残虐行為への展覧会」が作家J.G,バラードに由来していることはたやすく理解される。「結晶世界」のSF作家として知られるバラードとブリティッシュ・ポップのエドゥアルド・パオロッツィの意外な関係が検証され、さらにスロッピング・グリッスル、あるいはCOUMトランスミッションといった70年代にスキャンダラスなパフォーマンスを繰り返したバンドやユニットについて分析が続く。これらの作家や集団について、日本では美術の文脈でほとんど論じられたことがなかったため、この章は私にとっても学ぶことが多かった。ブリティッシュ・ポップは近年再評価が進んでいるが、椹木はその周辺にこれら全く出自の違う表現者が集い、破壊的な所業を繰り広げていたことを明らかにする。それは私たちがなじんできたお上品なイギリス現代美術とは全く異なる。しかし彼らをいわゆるYBAの起源と考えるならば、「後美術」が地下茎のように70年代以後の西欧に深く根を張っていたことが理解されよう。続く「次は溶解(メルト・ダウン・イズ・ネクスト)」の章ではニューヨークのパンク・ロックが取り上げられる。私はパンクを聴かないのでこの章は十分な理解からは遠いが。セックス・ピストルズに代表されるロンドンのパンク・ロック、ギー・ドゥボールのシチュアシオニスト・インターナショナルの活動に続いて、シンディ・シャーマンとしばしば比較されるフランチェスカ・ウッドマン、パンク・ロックの死の女王リディア・ランチ、写真家デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチといった私にとっても全く未知の美術家や音楽家が「後美術」に連なる系譜として召還される。彼らもまた死や悲惨を濃厚に身にまとっている。続く章は「地獄と髑髏」と題されて「ヘルター・スケルター」というルビがふられ、東海岸ではなく西海岸、ロスアンジェルスの「後美術」が論じられる。「ヘルター・スケルター」とは1992年にポール・シンメルによってロスアンジェルス現代美術館で開かれた伝説的な展覧会である。私はカタログを通して知っており、何人かの作家については西海岸の美術館で見た経験がある。椹木も論じるとおり、東海岸の洗練や主知主義からはかけ離れた悪趣味と不気味な表現の横溢はショッキングであった。例えば代表的な作家であるマーク・ケリーとポール・マッカーシー、彼らの作品に顕著なほとんど犯罪的なフェティシズムやスカトロジーはこれまでに名前を挙げたニッチ、メイプルソープ、あるいはCOUMトランスミッションズと親近性があり、「後美術」の広がりを暗示している。今、犯罪という言葉を挙げたが、「ヘルター・スケルター」は西海岸においておそらく本書の中でも最悪に陰惨な局面と接続する。「ヘルター・スケルター」はビートルズの「ホワイト・アルバム」に収められた異様な楽曲であるが、この曲は西海岸のドラッグ・カルチャーの洗礼を受けたチャールズ・マンソンとそのファミリーに決定的な啓示を与え、女優シャロン・テートらを犠牲者とする一連の惨殺事件の一種の依り代となったのである。椹木が述べるとおり、「後美術」は地域や世代を問わず、この四半世紀の先端的な表現に特徴的な在り方であったかもしれない。しかしその系譜は死と悲惨に彩られており、マンソンをめぐる挿話はその頂点といってよい。さらに椹木は議論を広げ、とりわけこの章で論及される作家や主題は興味深い。例えば私はここではマンソンと「ルシファー・ライジング」の映像作家ケネス・アンガーの関係についてはあえて触れない。あるいは椹木はやはり「ホワイト・アルバム」中の「レボリューションNo.9」と関連して、日本赤軍や足立正生、そして赤瀬川原平(三者の関係について知りたければ、現在、広島市現代美術館で開催されている赤瀬川の回顧展を訪れるのがよい)に論及し、マンソン・ファミリーの世紀末思想をオウム真理教へと関連づける。さらにティモシー・リアリーとアシッド・ロックの関係が語られた後で、奴隷制とジャズとブルースの起源といった文化史的な主題さえも論じられるのだ。それらについては私が下手に解説するよりも本書を精読していただくのがよかろう。最初に述べたとおり、私はひとまず論じられる主題の幅の広がりを画定するに留めておく。
 最後の「歌う彫刻と人間=機械(ルビ マン・マシーン)」と題された章では文字通り、「歌う彫刻」、つまりパフォーマンスと彫刻を一体化したイギリスの二人組、ギルバート&ジョージと「MAN MACHINE」というアルバムを1978年に発表したクラフトワークのペアが論じられる。ギルバート&ジョージが活動した70年前後のロンドンが「後美術」にとって一種の創造的なカオスであったことをあらためて思い知る。スーツで正装した二人組の作品もラディカルさという点は相当なものだ。そしてクラフトワークは1975年のアルバム「放射能」によって本書の隠された主題に直接連なる。私自身も震災直後にこの楽曲についてこのブログで詳しく論じたことがあるので関心のある方は参照していただきたい。本書に散りばめられたセラフィールド、チェルノブイリ、スリーマイル(これらは「放射能」で連呼される土地の名でもある)といった固有名が暗示する原子力発電所への批判は彼らにおいて明確な形をとる。そして実際、椹木は2012年4月11日、MOMAで開かれたクラフトワークの連続公演第二夜、「放射能」の演奏に立ち会っている。レノンとヨーコの生身の身体(平和のためのベッド・インを想起せよ)で始まった「後美術」の系譜は、人の代わりにマネキンが機械的な音声で放射能の恐怖を警告する情景とともにひとまず幕を閉じるのである。
 本書の読後感はかなり暗い。内戦やエイズ、悪魔主義と無政府主義、自殺と幻覚、ここで論じられる主題がしばしば死や悲惨と関連している点については繰り返し述べたとおりだ。椹木は「後美術」を20世紀後半期の芸術の核心をかたちづくる営みとみなし、説得的な議論を展開している。しかしここで紹介される作家は少なくとも美術の領域においては周縁的な作家であり、モダニズム美術が失効する70年代以降の主流と考えることは少々無理があるのではなかろうか。ジャンル、あるいはメディウムを限定したうえで表現の強化、あるいは純粋化をめざすモダニズム美術と「ジャンルの破壊」を標榜する椹木の立場は正反対といってよい。むしろ私は「ジャンルの破壊」という発想が今挙げたような暗鬱な主題を前面に押し出すために捏造された一種のアリバイではないかと考える。言葉を換えるならば、私は椹木の著作に濃厚なペシミズム、あるいはアナーキズムの由来が気になるのだ。最初に私はもう一つの主要な著作『日本・現代・美術』について触れた。そこでも椹木は日本の戦後美術を歴史を形成することなく、忘却と反復を繰り返す「悪い場所」としてとらえるきわめてペシミスティックな立場をとっていたことを想起しよう。歴史に関して水平的な立場をとる『後美術論』においてその水平性を支えるジャンルが「破壊」されたように、「90年代の前衛」から「暗い絵」に向けて逆通史的な体裁をとる『日本・現代・美術』においても歴史の垂直軸に対して、反復と忘却を事挙げて「歴史の破壊」が試みられているのだ。二つの著作の共通点はそれのみに留まらない。『日本・戦後・美術』が阪神大震災とオウム真理教による一連のテロを直接の契機として執筆されたように『後美術論』においては執筆の途中に発生した東日本大震災と原子力災害という体験が文字通りテクスト内に介入している。これら二つの著作を戦後日本において例をみない惨事のトラウマととらえることは考えすぎであろうか。そしあてあらためて思い返すに、椹木の美術批評にはデヴュー作の「シミュレーショジズム」以来、一種のペシミズムがつきまとっていたように感じられるのだ。沈滞する現在の美術批評界において私たちは椹木ほど活発に評論活動を行う批評家を知らないし、近年、その活動の幅はさらに広がっている。しかしその批評の本質がペシミズムにあるとすれば、それは椹木の個人的な資質、私たちの時代の表現の特質、震災以後に瀰漫するファシズムの予兆のいずれに由来しているのだろうか。「後美術論」は現在第二部の連載が続いている。まずはその帰趨を見届けたうえであらためて考えてみたい問題である。
by gravity97 | 2015-04-15 20:19 | 現代美術 | Comments(0)
 引き続き東野芳明の美術批評選について論じる。前回は主にこの選集成立をめぐる形式的な側面について論じたが、今回は内容に関して検討を加える。本書の構成は「生中継の批評精神」と題された編者の序言に続いて、1960年から72年にかけて東野が執筆した20本余りのテクスト、インタビューをもとに構成された磯崎新の「反回想」、そして二人の編者による二つの論文がこの順に収められている。東野のテクストはほぼ発表順に収められており、行間から60年代の東野の八面六臂とも呼ぶべき活動が浮かび上がる。あらためて感じるのは東野が傍観者としてではなく当事者として美術のカッティング・エッジに立ち会う様子である。
 ジョン・ケージの「演奏会」の模様から説き起こされた本書には、東野自身も出演した草月会館での小野洋子の作品発表会、ブリヂストン・ホールでの「『反芸術』是か非か」公開討論会、「ヤング・セブン」に始まるいくつものギャラリーでの展覧会など、東野が実際に立ち会った多くのイヴェントや展覧会に関連するテクストが収められている。あらためて東野の透徹した認識に驚く。例えば最初のテクストで東野はヨーロッパの芸術家に比べ、アメリカの芸術家たちは「自己を表現する」のではなく、「今行っていることを正確に行うこと」を目指していると指摘する。このようなコメントは既にこの時点でミニマル・アートからコンセプチュアル・アートにいたるアメリカ美術の理路を正確に予見している。批評家は現代美術に伴走している。私はこれらのテクストを通して東野が1969年の「クロストーク/インターメディア」にも出演していたことを初めて知った。このほか関連文献は収録されていないが、東野は1964年の有名なラウシェンバーグへの公開質問会にも「出演」している。あるいはネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ関連の記録写真を見るならばいたるところでサングラスをかけた東野が作家たちと談笑する姿を見かける。このような姿勢は東野が私淑した瀧口修造と対照的である。瀧口もタケミヤ画廊での一連の企画をはじめ、作家たちと交流を重ねたが、常にいわば一歩下がった印象があり、その態度を赤瀬川原平は「目撃者」と呼んだ。瀧口が目撃者ならば、東野は共犯者であろう。批評家は積極的に街に出て、作家たちとともに状況にコミットする。そしてその背景には当時の美術をめぐる特異な状況を指摘することができるだろう。
 最初の章でジョン・ケージについて言及があり、二番目の章ではタイトルとして「チャンス・オペレーション」という言葉が用いられている。「チャンス・オペレーション」もケージによって導入された手法である。ケージはデュシャンとともに抽象表現主義以後の表現を模索する作家たち、つまりジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグといった東野と親交をもった作家たちに大きな影響を与えた。ケージは1962年に来日した際に、おそらく東野の仲介で『みづゑ』誌に「デュシャンに関する26章」というテクストを寄せるが(私たちはそれを東野の『現代美術 ポロック以後』のデュシャンに関する章の中で読むことができる)、その中に「音楽を書く一つの方法―デュシャンを研究すること」という断章がある。私は東野の批評を読む際には常にそのデュシャン研究を念頭に置くべきであると考えるが、ここで暗示されるのは音楽と美術といったジャンルを越境することの重要性だ。実際に50年代から60年代にかけてニューヨークでは様々な表現をとおしてジャンルの越境が試みられた。本書に収められた「コンバイン日記」には東野がアラン・カプローとナム・ジュン・パイクと会食するエピソードがあるが、当時、カプローが提唱したハプニングは「画家の演劇」と呼ばれ、実際に様々な作家によって演じられていた。さて、カプローはその著書の中でハプニングの条件をいくつか示すが、その中には「芸術と生活の境界は流動的で、可能な限り不明瞭なままに保たれるべきである」「結果として観衆は排除されるべきである」といった項目がある。これらの項目が生活/芸術、演者/観衆といったそれまで当然とされた区分に疑問を投げかけるものであることはいうまでもない。この点をいちはやく感受した東野にとって撤廃されるべき区分は作家と批評家の間にも存在したのではなかろうか。60年代以降、東野は一連のきわめてパフォーマティヴな批評を発表する一方で、知り合いの作家たちを批評的な営為へと誘う。例えば1971年に刊行され、自らが責任編集した講談社版の「現代の美術」のうちの一巻、『ポップ人間登場』を編集するにあたってはトム・ウェッセルマンらにアンケートを送り、返信を収録している。さらにいえば東野は自ら水中写真を撮影し、作品として個展で発表したこともあったらしい。批評家ならぬ写真家としての東野を語る際には重要なエピソードであろうが、私は未見であるから、これ以上立ち入らない。今述べた点との関連で興味深いのは、本書の中に二篇の「観衆論」が含まれていることだ。1967年の「現代観衆論」と1972年の「現代芸術と観衆」という二つの論文であり、前者は山崎正和の文章に対する反論として執筆されたと解題にある。観衆の分裂という問題を「手仕事」という概念と関連させて論じた前者と、メディアの隆替や「拒否によるアカデミスム」との関連で論じた後者は微妙に強弱を違えるが、私が注目するのはきわめて早い時期に東野が観衆という享受の側に目を向けている点である。奇しくもウンベルト・エーコの『開かれた作品』が発表されたのも1967年である。東野は記号学や受容美学とは全く別の文脈で早くから観衆や聴衆といった受け手の側に関心を抱いた。ケージやカプローを含む60年前後のアメリカの前衛芸術との交流が東野のかかる関心を育んだことに疑いの余地はないし、それは自らも演者と観衆を行き来した批評家ならではの着想であっただろう。私は現代音楽には詳しくないが、東野がケージに依拠するようにエーコも『開かれた作品』の冒頭で自身が「開かれた作品の詩学」に想到する機縁となった例としてシュトックハウゼン、ベリオ、ブーレーズといったヨーロッパの前衛音楽家の楽曲を挙げている。両者を比較することも意味があるかもしれない。
 巻末に磯崎新による「反回想」が収録されている。東野とともに一つの時代を画した建築家による回想だけに内輪の話も明かされて興味深いが、磯崎のごとき国際派にとっても東野の存在は別格であったようだ。このインタビューを磯崎が次のように結語する時、この点はよく理解できる。「東野には、現場でものを考え、それを説明できる力があったわけです。カラーフィールド・ペインティング、オールオーバー、ハードエッジ……美術界のコンセプトはめまぐるしく変化しましたが、ぼくらはこういったこと全部を東野経由で理解した。彼は、ひとつの時代的な変化を美術を通じて感じとっていた、そう思います」このような感慨は私も共有している。私が美術史学を学び始めた80年代初頭にあってもアメリカの戦後美術について書かれた文献はごく僅かであり、東野は最初に参照されるべき書き手であった。さすがに『現代美術 ポロック以後』で扱われた作家たちは既にビッグネームであったが、83年に連載が始められ、『ロビンソン夫人と現代美術』としてまとめられる一連の作家論については私も時代と同伴する作家たちについて東野からリアルタイムで情報を得た思いがある。この意味でもこの二つの著作は再刊が待たれる。しかし前者が主にアメリカの現地での交流や情報に基づいて執筆されたのに対して、後者は逆に作家たちが来日して東野と交流したことを契機として書かれた場合が多い。東野自身も『ロビンソン夫人と現代美術』のあとがきで、前者が「手に入る資料は限られていたし、原作を日本で見る機会は少なかった。こちらは、外国旅行の度につとめて見た体験をもとに、図版を眺めながらやっさもっさ書いた憶えがある」のに対し、後者の場合は「登場する作家にしても、彼ら、彼女らの展覧会やパフォーマンスをオーガナイズする日本の画商、美術館、プロモーターがふえたし、資料にしても、彼らを通して、かなり潤沢に手に入った」と述べている。後者の作家のセレクションがやや甘い気がするはそのせいであろうか。いずれにせよ、東野の本領は同時代の作家たちと直接やり取りしながら彼らの仕事に言葉を与えるダイナミズムにあり、それは外国の作家であろうが、日本の作家であろうが同様だ。本書の帯に「現代美術の生中継」という惹句が記されている。生中継とは編者の一人、松井茂の関心を反映してTV中継を暗示しているが、私はこの言葉にむしろ同時中継、つまりタイムラグなしに同時代の現代美術を紹介しようとする東野の批評の本質を見出す思いがする。同じ時期に作家たちとの対談をまとめて『つくり手たちとの時間』として上梓したことなども想起されよう。
 最後にもう一点、興味深く感じた点を記しておきたい。収録されたテクストの中に『アメリカ「虚像培養国誌」』に収められた「実体喪失の旅」と題された一文がある。妻の運転する自動車でニューメキシコからネヴァダまでアメリカ大陸の一部(サブタイトルによれば「アメリカ横断1/4」)を横断した際の旅行記である。インディアンの集落やグランドキャニオンといったアメリカ西部の表象からは例えばポロックの幼年時代が連想されるかもしれない。しかしここで東野が連想するのはポップ・アートに連なる作家たちである。車というイメージからアンディ・ウォーホルの衝突事故のシルクスクリーン、ジェームス・ローゼンクイストが描く車の車体、ハイウェイというモティーフからアラン・ダーカンジェロ、そして直線で裁断された州境のイメージからジョーンズの地図といった多様なイメージが提起される。ここで東野はマクルーハンを援用しながらポップ・アートの「虚像性」というまことに本書の主題にふさわしい問題を提起するのであるが、私はそれ以上に無人の砂漠をドライブすることが、人間にとって新たなセンセーションを喚起する点に興味をもった。私もかつてニューメキシコからテキサスにかけて無人の荒野を延々とドライブしたことがある。スピード感と距離感の喪失、不思議な空白感と風景の不在はこの地域ならではのものであろうが、ひるがえって私は東野に限らずドライブという体験がアメリカ美術に関する批評の中でしばしば引用される点に興味を覚えた。例えば次のテクストだ。

50年代の初めの一年か二年、私がクーパー・ユニオンで教鞭を執っていた時、ある人がニュー・ジャージーの未完成の高速道路に乗り入れる方法を教えてくれた。私は三人の学生を連れて、メドウズのある場所からニュー・ブランズウィック市までドライブをした。暗い夜で、灯も路肩標も白線もガードレールも何もなく、あるのはただ平地の風景の中を通って進んでいく暗い舗装道だけだった。風景は遠くのいくつかの丘に枠づけられ、だが煙突や塔や煙霧や色光が点々と見えていた。このドライブは意義深い体験だった。道路とほとんどの風景は人工的なものであったが、それは芸術作品とはいえないものであった。他方で、それは私にとって、芸術には決してなかった何かがなされていた。

この文章はマイケル・フリードの高名な論文「アート・アンド・オブジェクトフッド」において作家トニー・スミスの言葉として引かれている。詳しく論じる余裕はないが、ここでフリードはかかる体験を演劇と結びつけて、ミニマル・アート、彼の言うリテラリズムの芸術批判へとつなげていく。あるいは先述の『ロビンソン夫人と現代美術』の中で東野は自らの「実体喪失の旅」にも似たカルヴィン・トムキンス(!)の次のような文章を引用している。

 ラスヴェガスを飛び出して、乾ききった、何もないネヴァダの風景の中をドライブしてゆくのは、それ自体忘れがたい体験である。24時間営業のギャンブル・テーブルや奥様方に催眠術をかけるスロット・マシーンのある、空調のきいた豪華なホテルを後にして、焼けつくような砂漠の谷や浸食された丘に接すると、それもまた、負けず劣らず非現実的に見えたものだし、生活に敵意を見せている点でも、ラスヴェガスと同じだった。(中略)気温は華氏100度を超えたままで、車は煮えたぎったように熱く、身震いをやめない。7時過ぎ、太陽が地平線に近づく頃、ついに我々はそれを見つけた。

 「我々が見つけた」のはネヴァダの砂漠に刻まれた二つの巨大な切り込み、アースワークの代表的な作品の一つ、マイケル・ハイザーの《ダブル・ネガティヴ》である。スミッソンの《スパイラル・ジェティ》にせよウォルター・デ・マリアの《ライトニング・フィールド》にせよアースワークの作品について語られる時、それらがいかなる僻地に制作され、到達のまでのドライブがいかに苛酷かという点がしばしば言及される。ここではドライブの体験と作品の体験が一体化されている。ポップ・アート、ミニマル・アート、アースワーク、意図も構造も全く異なるこれらの作品がいずれもドライブという体験と深く関わっていることを知る時、私は戦後アメリカ美術にとってドライブという体験が隠喩であり換喩であったことを知る。この時、東野が発表した、少なくともタイトルにおいて美術と直接の関係をもたないエッセイ集に『クルマたちとの不思議な旅』というタイトルが付されていた点はなんとも興味深い。
 最後にもう一人、日本を代表する美術批評家が戦後アメリカ美術を主題として執筆した論文からの引用によってこの文章を終えよう。アクション・ペインティングからポップ・アート、プライマリー・ストラクチュアまでをプロテスタンティズムという独自の視点で分析し、先にも触れたアリゾナへのドライブ旅行に関する東野の文章を引用した後、宮川淳は次のような言葉とともに「記憶と現在」という論文を締めくくっている。

 ハイウェイをどこまでもはてしなく疾走するドライバー、そしてフロントグラスに切り取られる風景はたしかにきわめてアメリカ的主題であるが、しかし、それにもまして、すぐれてアメリカ美術的な主題であるように思われる。そこにはほとんどポロック的な主題があらわれると同時に、しかし、またこの無限の時間論的現在はまさしく《表面》に吸い取られ、空間の現前に変換されてゆく。しかもそれはイメージと抽象的な色面とが《反イメージ的レベル》で出会う境界、ポップ・アートがその後の抽象的な動きに溶解してゆく瞬間でもあるのである。

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by gravity97 | 2013-05-09 21:15 | 現代美術 | Comments(0)
b0138838_9375343.jpg 河出書房新社から『虚像の時代 東野芳明美術批評選』というアンソロジーが刊行された。私が現代美術に意識的に関わるようになった80年代には東野芳明はいわゆる御三家として針生一郎、中原祐介とともに美術界において圧倒的な権勢を誇っていた。私自身熱心に東野の著作、そして様々の媒体に発表される東野の時評を読み継いだことを覚えている。おそらく影響力という点では当時この三人の中でも最も大きかったのではなかろうか。しかし東野は90年代初めに病に倒れたこともあり、今日必ずしも十分にその重要性が認知されていない。今回、このレヴューを書くにあたって調べてみて驚いたのだが、今日、東野の著作は一般的な画集の解説といったさほど本質的ではない仕事を除いて、新刊として入手することが困難である。東野に限らず、この国では現代美術に関する評論は刊行された際に入手しておかなければ時をおかずして絶版状態となり、参照することはかなり困難となる。この意味からも本書が刊行された意義は明らかであろう。
 残念ながら私は御三家のうち、東野のみ面識をもたない。しかし今述べたとおり、80年代にあって東野は私が最も愛読した美術批評家であった。抽象表現主義以降の戦後美術を作家ごとに列伝風にまとめた『現代美術 ポロック以後』は1984年に新装版が発行され、この時期、東野はその続編として後に『ロビンソン夫人と現代美術』としてまとめられる連載を『美術手帖』誌上に始めていた。時はあたかもニュー・ペインティングが勃興しつつあった時期であり、初回のフランク・ステラ論を読んだ際の興奮は今でも覚えている。また当時、デュシャンに関心をもっていた私にとって1977年に刊行された『マルセル・デュシャン』は幾度となく読み返した名著であった。そして単に多くの文章を発表するだけでなく、東野は日本の現代美術をめぐる状況を常に挑発し、活性化に努めていた。この点はそれなりに時代にコミットしていた針生や中原、さらには日本の美術状況に絶えず罵倒を投げかけた藤枝晃雄らと比べてもひときわ印象が強く、この時期、東野は日本の美術批評の中心にいたと言っても過言ではなかろう。美術批評に関わる中で私はごく自然に東野の独特の文体になじみ、東野の著作から多くを学んだ。今述べた通り、東野は90年代初頭、『マルセル・デュシャン「遺作論」以後』を上梓したあたりで病に倒れ、長い闘病生活に入った。まだ60歳という若さであるから無念であっただろう。かかる断絶は私にとっても残念ではあったが、東野の活動と著作に馴染んでいたため、既にその仕事については私なりに理解していたつもりであった。しかしそれから20年余、没後からも10年近くが経過した現在、書店の店頭で東野の主著がほとんど手に入らないという状況を誰が予想しただろうか。言い換えるならば、現在40歳以下の世代にとって東野の批評にリアルタイムで触れる機会はほぼありえなかったのだ。今回、この選集を編んだ二人の編者は1975年と79年生まれであるというからこの世代に相当し、序文には「私たち編者はもちろん、編集者も“ナマ”の東野芳明に会ったことはなく、そのテキストを通してのみ東野に出会い、その文章に“ハマッタ”」と記されている。
 この感慨は私も十分に理解できる。東野は独特の文体をもっている。口語に近いくだけた表現の導入。地口や悪ふざけのような表現の多用。文中であなたという呼びかけを繰り返し、読む者を誘い込むような表現。カタカナで表記される文章を文中に頻繁に挿入することにより、レヴェルの異なったテクストを論考の中に編み込んでいく手法。一言で言うならば、東野の文体は読者に向けられた一種のアジテーションであり、「評論家」の無味乾燥な文体の対極にある。先に挙げた何人かの批評家、針生や中原、あるいは藤枝らもそれぞれ独自の文体をもっており、私はそれらを比較する研究があってもよいと考える。あるいは椹木野衣が『日本・現代・美術』において先行する批評家や作家の文体をアプロプリエイトしながら一つの通史、いや反通史を語りえたことは彼らが文体に対して意識的であることを前提としている。その中でも東野の文体は挑発的であり、読者が「ハマル」ことは大いにありうる。しかもこのような文体は時評や軽い読み物だけでなく一篇のアカデミックな論文としても通用する『マルセル・デュシャン』まで一貫している。
 本書の目次を見て驚いたのは、東野の著述にはそれなりに精通したつもりでいた私にとっても初見の文献がほとんどであったことだ。書誌的事項を確認して納得する。ほぼ年代順に並べられたこれらの論考のうち、最も早い時期に執筆された文章が『音楽芸術』1960年7月号に掲載された「アメリカ前衛芸術論のためのノート」、最も遅いものが1972年に東野の編集によって刊行された『芸術のすすめ』に収められた「現代芸術と観衆」であり、東野の仕事としては初期にあたる。本書に収録された論文が60年代に執筆された内容にほぼ限定されている理由について編者たちは次のように説明する。「本アンソロジーが、1960年代のテキストを中心とした背景には、『思想的定見に固執し、立派な意見を吐くことには、どこか、うさんくささがある』という東野の批評精神の水脈が、自他共に認めるように、この時期にあるからに他ならない。言わば、1960年代を知るための東野芳明であり、東野芳明を知るための1960年代という換喩が本書のコンセプトである」後で論じるとおりいささか問題のあるコメントであるが、大阪万博以前の比較的早い時期の論考が収められていることと並んで、雑誌等に掲載された後、再録されることがなかった論文が多く収められている点も本書の新鮮さの理由だ。『芸術新潮』や『美術手帖』はともかく、『音楽芸術』や『ジャパン・インテリア』あるいは『季刊フィルム』といったかなり癖のある雑誌、さらには『展望』や『潮』といった美術史学の研究者にとって馴染みの薄い総合誌までを渉猟し、重要な論文を収録したことは本書の大きな功績である。この点を認めたうえで、私はあえて一つの疑問を呈しておきたい。
 まず東野に関して評伝的事実を確認しておこう。1930年、東京に生まれ、54年に東京大学文学部美学科を卒業した東野は卒業の同年に発表した「パウル・クレー論」で美術出版社の美術評論新人賞を受賞し、批評活動を始める。クレー研究で出発し、大岡信らとシュルレアリスム研究会を始めたことからもうかがえるとおり、当初、東野の関心はヨーロッパの近代絵画に向けられていた。しかし58年から59年にかけて、ヨーロッパとアメリカに長期滞在して同時代の作家たちと親交を結んだことによって、批評家の視界は大きく開けた。実際、この時期の美術界、特にニューヨークのそれは新たな表現が次々に勃興する活気にあふれており、東野はここでジョーンズとラウシェンバーグという終生の友を得る。1962年に三彩社から刊行された『パスポート No.328309』はこの際のヨーロッパとアメリカの旅行記であり、新しい表現を眼前にした衝撃がみずみずしく表現されている。この後も東野は欧米をしばしば訪れ、時に比較的長い期間滞在したが、批評家としての原体験が50年代末の最初の欧米体験であったことは明らかであろう。そして60年代以降、東野は旺盛な執筆活動を開始し、自らが出会った作家たちの仕事に言葉を与えていく。1961年から『みづゑ』誌に「現代美術の焦点」というタイトルで連載された作家論は65年に『現代美術 ポロック以後』という一冊の本に結実する。ポロックのアクション・ペインティングについて触れた有名な一節を含むハロルド・ローゼンバーグの『新しいものの伝統』を翻訳したのも同じ65年である。68年に刊行された『アメリカ 虚像培養国誌』は未読であるが、タイトルと本書に再録されたいくつかのテクストを読む限りやはりアメリカ美術をテーマとしている。この一方で同じ時代、東野が多くの展覧会評を発表し、展覧会の企画に関わったことも触れておかねばならないだろう。60年代初頭の読売アンデパンダン展の狂騒に東野は深くコミットし、展評の中で工藤哲巳の作品に与えた「反芸術」の語は60年代美術のキーワードとして、本書でも言及される「『反芸術』是か非か」論争を引き起こすことになる。本書を読んであらためて思い知ったが、この時期、東野はギャラリーや美術館における多くの展覧会を企画する。本書中に言及のある展覧会としては1964年、南画廊における「ヤング・セブン」展、66年、同じ南画廊での「色彩と空間」、同じ年、銀座松屋における「空間から環境へ」、そして東野がコミッショナーを務め、高松次郎らが4 ボソットというグループとして参加した1969 年の第6回パリ・ビエンナーレなどがあり、このほかにも東野は1970年と72年、二回にわたってヴェネィツィア・ビエンアーレのコミッショナーを務め、国内でも1970年に東京国立近代美術館で開催された「1970年8月―現代美術の一断面」を企画している。
 ひとまず本書と関連する60年代の東野の活動について述べた。70年代以降も東野は日本きってのデュシャンピアンとしての資質を遺憾なく発揮した一連のデュシャン研究や大ガラスの東京バージョン制作、あるいは多摩美術大学教授としての多様な仕事を手がけ、日本の現代美術の展開に深く関わったことは知られているとおりであるが、本書が60年代の東野をテーマとしている以上、ひとまずここで留めておこう。さて、以上述べた東野の活動を考慮する時、この選集の内容にいささか不審の念が生じないだろうか。つまり、この選集に収められたテクストは果たして東野が60年代に執筆した「美術批評選」と呼べる内容であるかという疑問だ。今述べたとおり、この時期の彼の仕事の中心は同時代のアメリカ美術を日本に導入することであり、同時代の日本の若手作家たちを批評することであったはずだ。50年代末の外遊から帰るや、東野は『パスポートNo.328309』という旅行記によってこの外遊を総括し『みづゑ』に充実した現代作家論の執筆を開始した。一方で新聞や雑誌に読売アンデパンダン展をはじめとする多くの展覧会の批評を執筆し、宮川淳との間に名高い「反芸術」論争を引き起こしたりする。いずれも時代にコミットすることを使命とした東野らしいテクストでありふるまいであるが、これらはなぜか本書に十分に反映されていないように感じる。確かにジョン・ケージのコンサートから書き起こしたアメリカ美術論や「反芸術是か非か」討論会への勧誘文など関連した文章もいくつか収録されている。しかし東野の本領は状況論よりも作家論にあり、この時期に執筆された多くの作家論、あるいは宮川との間で交わされた「反芸術」をめぐる応酬、例えば「異説・反芸術―宮川淳以後」が収録されていないのはきわめて不自然に感じられる。私はないものねだりをしているのではない。もしかすると著作権等の関係で本書に収録がかなわなかったといった事情があったかもしれないが、巻末に付された二人の編者の論文を読む時、これらのテクストの不在は端的にエディターシップという問題と関わっているように感じられる。
 二つの論文から編集者たちの関心の所在は明らかだ。伊村靖子は「デザイン」という概念を用いて東野が企画した「色彩と空間」展における「発注芸術」という発想について論じ、松井茂はこの時代に大衆化したテレビ放送との関係に注目して東野の一連の著作を読み解く。このような関心を知る時、「プライマリー・ストラクチュア」や福岡相互銀行大分支店の建築といったかなり特殊な主題に関連したテクスト、あるいはE.A.T.や大阪万博のパヴィリオンとの関わりといった東野の文章でもあまり知られることがなかった主題と関わるテクストがことさらに再録された理由は明らかだ。私はいずれもきわめて興味深いテーマだと思う。しかし逆に本書はこのような特殊な関心に従って編まれているのではなかろうか。私が残念に感じるのは、二人の編者に他者の言説を編集しているという意識が希薄で、この「批評選」自体を自らの関心に引きつけすぎている点だ。誤解を招かないように言い添えるならば、私はこの「批評選」のセレクションは高く評価するし、アンソロジーという営みが無数のテクストからの取捨を前提とする以上、編者の関心が介在することは当然である。しかしそれならば遺された膨大なテクストの中から自分たちがどのような基準に基づいて収録された文章を選んだかを明示する義務があるのではなかろうか。おそらく「生中継の批評精神」という巻頭言の中でこのような説明がなされるべきであっただろうが、連名によるこの文章においてそのような関心がうかがえるのは先に引いた「1960年代を知るための東野芳明であり、東野芳明を知るための1960年代という換喩」という一文のみである。確かに批評は時代の鏡であるかもしれない。しかし一人の批評家が様々な必然性に迫られて執筆した文章を単に一つの時代の換喩とみなすことはいささか礼を失した態度ではないだろうか。デザインやTVとの関わり、それらは東野のきわめて興味深い一面であるかもしれないが、決して本分ではない。最初に述べたとおり、今日、東野の主著を書店で入手することはきわめて困難であり、多くの若い読者にとって未知の批評家であるはずだ。それゆえまず東野の批評の全体像を概観したうえで、編者たちの関心の所在を示し、それに基づいて個々のテクストを選んだ理由を明記する、刊行にあたっては個々の独立した論文を添えるのではなく、本書のために新たにそのような一文が草されるべきだと感じるし、それがエディターシップというものではなかろうか。
 もっともインターネットが発達した今日、古書として東野の著作を入手することは比較的たやすい。アマゾンで検索したところ、現在でもほとんどの重要な著作を比較的安価で求めることができるようであるから、本書がいわば further reading の手引きとして多くの人が東野の批評に触れる契機となることは十分にありうる。この機会に絶版とされている書籍が再刊も望みたい。さらにいえば、東野以上に今日著作を入手することが困難であった中原祐介に関しては先年より全12巻より成る美術批評選集の刊行が開始されている。東野についても主要な著述を網羅した著作集の出版を望むのは私だけではないはずだ。その傍らに置く時、本書も初期東野の集成として重要な一翼を担うことになるだろう。
 例によって形式的な側面を中心にやや批判的なコメントも加えたが、本書の刊行は快挙と呼ぶにふさわしい。論じるべきことは多く、本書の内容にはまだほとんど立ち入っていない。このブログとしても異例であるが、本書の内容については次回にあらためて論じることとしたい。
by gravity97 | 2013-05-04 09:45 | 現代美術 | Comments(0)

香川檀『想起のかたち』

b0138838_2081671.jpg ホロコーストと関連した研究のレヴューが続く。今回は音楽ではなく美術と関連した研究である。タイトルが示すとおり、ホロコーストそのものではなくその記憶という特殊なテーマのもとに主として1980年代以降のドイツの現代美術が俎上に上げられる。半世紀も前の出来事が未だに問い直される点にホロコーストがドイツの精神史に与えた深い傷跡が暗示されている。それにしてもなぜ80年代以降なのか。まずこの点に関して興味深い指摘がなされる。40年というインターバルを経て「想起の文化」と呼ぶべき社会現象が出来した理由について、精神分析学における「事後性」という概念を社会に適用するならば、幼少時のトラウマが再解釈を経て意味づけられるまでに、つまり社会によってホロコーストが再解釈されるまでにはこれほどの時間が必要とされるという。さらにヤン・アスマンによれば一つの出来事が「文化的記憶」として共有されるうえで、人の一生のほぼ半分となる40年という単位は重要な意味をもつ。成年に達してある出来事を体験した者が職業生活を引退し、その記憶を人に伝えたいと願うまでに40年の経過が必要とされるのだ。これらの指摘に加えて、私はヴァイツゼッカー演説にみられる過去への反省と、いわゆる歴史修正主義の台頭が同期したこの時代には、ホロコーストの問題について思考が深化される外的な要請もあったのではないかと考える。序章の最後で著者は本書の理路を次のように整理する。まず「痕跡」という概念、その意味作用を再検討する。続いてアート(著者は常にこの言葉を用いる)が記念碑やアーカイヴといった記憶装置ではなく、むしろそれらを批判する対抗的な「記憶の場」を構成する事例を具体的に検証する。最後に記憶の問題にジェンダーの視点を導入する。いずれもきわめて刺激的であるが相当に難解な主題である。議論の中心として具体的に論じられる作家は以下の四人。クリスチャン・ボルタンスキー、ヨッヘン・ゲルツ、レベッカ・ホルンそしてジークリット・ジグルドソン。いずれも1960年代以降、ドイツとフランスで活動を始めた作家であり、後の二人は女性。他の二人が比較的名を知られているのに対して、ゲルツとジグルドソンは日本ではほとんど無名といってよいだろう。
 「痕跡採取」と題された第一章は、1977年、ドクメンタ6の際に発表された美術批評家ギュンター・メトケンの同じタイトルの小冊子から説き起こされる。ほぼ20年後にメトケンはこの冊子の改訂版を発表する。その際に新たに書き加えられた内容がボルタンスキー論であり、ボルタンスキーこそこの章の主題である。確かにホロコーストと美術の関係を論じるにあたって、写真や古着、雑多な品物を集積させ、祭壇のように展示するパリ生まれのユダヤ人、ボルタンスキーの作品は誰もが思い浮かべる参照項であろう。香川はボルタンスキーの作品を仔細に分析して、そこにさまざまの矛盾した要素が織り込まれていることを確認する。固有性と匿名性、単一性と複数性、アウラとその不在、綿密な分析については直接本書を参照していただくのがよいが、具体的な作品に触れつつもリクールの隠喩論から援用された概念を使用して、きわめて抽象度の高い議論が繰り広げられる。最後に香川はボルタンスキーに代表される「痕跡保存アート」が最終的に目指すのは、痕跡をメタファーとして読むことであると述べる。この矛盾した結論はきわめて重要である。なぜなら痕跡とはこれまでインデックスとみなされ、メタファーではなくメトニミックな関係性の中で論じられてきたからだ。香川の指摘はきわめて説得的であるとともに、私はこの指摘によってこれまでボルタンスキーの作品に対して感じてきた違和感の理由を理解することができたように感じる。私はこれまでそれが作品の帯びた情念性に由来すると考えていたが、端的に作品の意味構造が異なるのである。それはまた2004年に京都国立近代美術館で開催された「痕跡」展で検証された一つの系譜、ポロックに始まり、ソル・ルウィットにいたる痕跡の美術、モダニズムからコンセプチュアル・アートへといたる作品の系譜が終焉し、異なった痕跡性に基づいた作品が「記憶」というテーマとともに80年代以降、顕著となったことを暗示しているだろう。
 第二章「標しづけ」では冒頭で1990年にボルタンスキーがベルリンで制作した《欠けた家》という作品が検討される。この作品はベルリン市内の破壊された住居跡に設置されたかつてそこに居住していた人々の銘板と別の場所に置かれたガラスケース内に展示された彼らについての資料群から成り立ち、それまでのボルタンスキーの手法と共通する一方、特定の集団ではなく場所と深く結びついていた。銘板に記された名前と居住した時期からは、例えばユダヤ系の住民が強制収容の時期にこの場所から退去したという事実が浮かび上がる。場との関係、サイトスペシフィシティーもまた80年代以降の美術の符牒であった。しかしここで論じられる作家の場合、作品は場所をとおして記憶と深く結びつき、ポスト・モダン美術と一線を画す。場所を記念する典型的な標は記念碑である。ここから香川は80年代以降のホロコーストに関連した記念碑とそれをめぐる論争を丹念に検証する。ホロコーストという出来事に対しては従来の記念碑、例えばケーテ・コルヴィッツの《死んだ息子を抱く母親》の拡大レプリカのような作品は失効している。先にも述べたとおり、80年代以降、作家たちは記憶装置ではなく、むしろそれらを批判する対抗的な「記憶の場」を構成することによってホロコーストの表象を試みたのだ。このような問題は単に美術のみならず「ホロコーストの表象」という表象文化全般に関わる問題系へと接続される。UCLAで「〈最終解決〉と表象の限界」というシンポジウムが開かれたのが1992年、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが『イメージ、それでもなお』を発表したのが2003年。本書の議論はいうまでもなくこれらの議論を前提としている。続いて1994年にコンペの募集が最初に告知された中央ホロコースト記念碑をめぐって議論が深められる。曲折を経て採用されたのは建築家ピーター・アイゼンマンと作家リチャード・セラの共同設計による無数のコンクリートの直方体を敷地全体に配置するプランであった。(ただしセラは主催者からの多くの変更要求を拒んで途中で下りている)この過程で排除されたのがコルヴィッツほどに再現的ではないにせよ、具象的な要素をはらんだアルフレート・フルドリチカのプラン、そして100メートル四方のコンクリート板の上に現在判明しているすべてのユダヤ人犠牲者の名を刻むというクリスティーネ・ヤコプ=マークスのプランであったという事実は示唆的であろう。ホロコーストの記憶とは具象性つまり個人の身体、そして固有名によっては表象されえないのである。最後に香川はヨッヘン・ゲルツが制作した特異な記念碑について言及する。ゲルツは「これを想起せよ」と一方的に命令する記念碑を否定する。彼がハンブルグで制作した《ハールブルク反ファシズム警告碑》は人々の署名を刻んだ高さ12メートルの金属の柱を8回にわたって地中に埋め込み、最終的には警告碑はすべて地中に埋設されて不可視となる。表面の亜鉛版に鉄筆で書き込まれた署名の内容は様々である。署名やイニシャル、そこには鉤十字さえ書き込まれているのだ。しかもそれは最終的には地下に埋設される。アイゼンマン/セラのモニュメントが抽象的であるとすれば、ゲルツのモニュメントは不可視であり、不在によってホロコーストの記憶を表象する。この章の最後にゲルツが論じられる理由は明らかであろう。それは全く新しいメモリアルであり、ホロコーストの記憶と拮抗する新しい手法を提示しているのだ。
 続く第三章「交感」においても場の記憶、マーキングの問題が論じられるが、この章ではレベッカ・ホルンという女性作家に焦点をあてることによって、ジェンダーという視点が導入される。今まで論じた作品やモニュメントを私は実見していない。しかしここで論じられるホルンの《逆向きのコンサート》に私は見覚えがある。数年前にミュンスター彫刻プロジェクトを訪れた際に、地図を片手にミュンスター市内をサイクリングしながら、私はこの作品が設置された円筒形の歴史的建造物「牢獄」にも足を運んだ。その際は作家の名前こそ知っていたが、どのような経緯で設置された作品であるか全くわからなかったが、本書を読んで得心した。かつて国家秘密警察(ゲシュタポ)が接収し、捕虜や政治犯を処刑していたという陰惨な歴史をもつこの建物の内部にホルンは彼女らしい間歇的な動きを伴った作品を配置した。すなわち内部の壁の随所にとりつけられた42個の鉄製ハンマーが電気仕掛けで壁を叩く。一方建物の最上階にはガラス製の漏斗が取り付けられ、そこから滴り落ちた水滴が12メートル下に置かれた水盤に20秒の間隔をおいて規則的に落下する。ノックと水音から成る「逆向きのコンサート」。香川はホルンの作品を概観したうえで液体の落下、体液の連想、使用される閉鎖空間が子宮を連想させる点などが多くの作品に共通すると述べる。そしてアガンベンを引用しつつ、ホルンの作品の特質である空間の女性化という主題が不在者との交感という主題に沿って「記憶アート」の一つの範例をかたちづくっている点が指摘される。さらに興味深いのはこの作品に即して提出されるジェンダーの別の軸、男性原理との関わりである。ホルンの《逆向きのコンサート》とデュシャンの《彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも》(通称「大ガラス」)に共通性を見出したのは著書の炯眼であろう。周知のごとく、「大ガラス」では画面下部の独身者たちから上部の花嫁に向けられた欲望のエネルギー、端的に精液の飛沫が届くことなく落下する。いうまでもない、間歇的に運動するハンマーは独身者の暗喩であり、上方から落下する水滴は体液を暗示する。両者の関係を確認したうえで香川はミッシェル・カルージュが提起した「独身者の機械」という概念を経由してこの系譜をダダイスムまで遡る一方で、ナチズムの表象という主題に連なる二人の男性作家、アンゼルム・キーファーとゲアハルト・リヒターに言及する。キーファーがアイロニカルな手法でナチズムに言及することはよく知られているが、香川はそこにナチズムへの批判と憧憬のきわどい合一を認め、リヒターについてもよく知られた連作「1977年10月18日」におけるドイツ赤軍の表象がファシズムとの自己同一化という危険をはらんでいることを田中純の援用によって論じる。現代のドイツを代表するといってよいこの二人の作家については本書の主題との関係でさらに論じられてよいとも感じるが、彼らに比してホルンを高く評価する著者の主張はジェンダーという視点を得て説得的である。キーファーやリヒターについても同じ著者によっていつか本格的なモノグラフが発表されることを私は期待している。
 「集蔵」と題された最後の章で論じられるジークリット・ジグルドソンは私にとっても未知の作家であった。1991年、ハンブルグで記憶とジェンダーをテーマにした美術史の国際会議が開かれた際に、関連展示として彼女は《静寂の前に》という巨大なインスタレーションを発表した。それは巨大な本棚に無数のオブジェを収納し、来場者の閲覧に任せるという作品である。棚の中には様々な資料を貼り付けたうえに一度泥水に浸したようなノートや写真、薬品の壜、血のついた子供服といった雑多な品々が収められ、いずれも強い喚起力を帯びていた。本という形式をとったオブジェや砂や泥の使用からはたやすくキーファーが連想される。キーファーの書棚や本へのフェティシズムは本書のような観点からも検証されるべきであろう。香川はジグルドソンのインスタレーションを一種のアーカイヴととらえ、アーカイヴと記憶の関係を論じる。主としてフーコーとアガンベンに依拠しつつ展開される議論は入り組み、難解である。ここでアーカイヴをめぐって繰り広げられる議論を私は直ちに展覧会という制度へ差し向けたい気がする。香川はアーカイヴの機能を「保管」「選別」「アクセス」に分け、いずれの局面にも権力が関わることを指摘する。これらの機能、そして権力性は展覧会という制度とも完全に符合するのであるが、この問題について今は措く。アーカイヴ自体が強い政治性を帯びていることに加えて、傷つけ、水に浸され、塗り潰され、焦がされた品々は一種の被虐性を身にまとう。香川は次のように述べる。「アーカイヴとして構築された《静寂の前に》の内部には、暴力的、攻撃的な破壊が充溢しているのである」続いて香川は具体的な作品に即しながら、ジグルドソンの作品において異質なオブジェが併置されることによって類似性が暗示されることをフーコーに即して論じる。そしてこのような類似性の探究こそが文化的記憶の更新なのだ。このあたりの議論は錯綜しており、実際に本書を読んでいただくのがよいが、ここでは作品をとおして「記憶の場」が主体の中にその都度構築されることが暗示されている。記念碑やアーカイヴではなく、記憶を生成する装置としての美術作品。この一点においてボルタンスキーからジグルドソンまでの作家は反記念碑、反アーカイヴの系譜に連なる「記憶アート」の革新者たちなのである。アーカイヴの問題に関してもジェンダーが介入する。関連してアネット・メサジェとアンナ・オッパーマンというフランスとドイツの女性作家の作品も紹介されるのが、私はむしろリヒターの「アトラス」との対比が興味深かった。知られているとおり、リヒターは60年代以降、「アトラス」と題された写真や新聞切り抜き、コラージュなどを組み合わせた膨大なイメージの集積を発表してきた。平面的なイメージのみであるとはいえ、雑多で無秩序なイメージ群はジグルドソンの作品を連想させないでもない。しかも「アトラス」の中には唐突に強制収容所のイメージが混入しているのである。香川も言及するとおり、これまでこのイメージについてはベンジャミン・ブクローがロラン・バルトの「プンクトゥム」概念を援用して説得的な議論を残している。これに対して香川/ヘムケンはこれらのイメージがいわば等距離に置かれている点に注目し、ここで図られているのがイメージの蒐集ではなく、それを介した作家のアイデンティティーの形成であると指摘する。イメージを通して主体が確立されるという発想の背景には明らかにポスト構造主義の影響がみてとれるが、しかし作家が確たるアイデンティティーをもち、主体が閉じられているリヒターに対して、彼女たちは集団的な記憶を介して、主体を押し広げることによって異を唱えるのである。ただし両者の差異が男性/女性というジェンダーによって規定されるか否かについて私は必ずしも同意できない。
 本書は記憶という概念を手がかりに、1980年代以降の現代美術の本質を鋭く抉る。約20年間のドイツというかなり限定された時間と場所を対象としているが、私は本書の射程は実はかなり広いのではないかと考える。ボルタンスキーからジグルドソンにいたる四人の作家はどちらかといえば周縁的な存在であるが、ここで提起された問題は先にも示唆したとおり、キーファーやリヒターさらにはボイスにいたる戦後のドイツ美術においてメインストリームを形成する作家においても、個々に深められる余地が大いにある。本書の主題はドイツの精神史や建築理論、表象理論といった美術に隣接する領域とも深く関わり、さらにいえば私は日本人の書き手によってジェンダー理論がこれほど適切に美術の領域に適用された例を知らない。ひるがえって日本において果たしてこのような「想起の文化」は成立しえたであろうか。アウシュビッツとヒロシマ、ともに大きなトラウマを経験しながら、日本においてはかかる「文化的記憶」が形成されなかったのはなにゆえであろうか。さらに私たちはごく最近、東日本大震災と原子力災害という世界大戦に匹敵する惨事を体験し、被災者と被曝者、難民や棄民となった人々は今なお呻吟している。果たして私たちは40年後にかくも過酷な現実に拮抗する「記憶アート」を生み出すことができるだろうか。
by gravity97 | 2013-02-05 20:11 | 現代美術 | Comments(0)
b0138838_22211812.jpg あまりにも遅かったか、それともかろうじて間に合ったか。日本で最初の本格的なジャクソン・ポロック展が開催される直前に刊行された新しい批評誌『ART TRACE PRESS』を手にした読者の胸にはどちらの思いが去来するだろうか
 対談と論文、三本の翻訳、合わせて五篇から成立するポロックの特集は松浦寿夫と林道郎という適任の編集者を得て、スタンダードかつ最新というなかなかぜいたくな内容となっている。すなわちマイケル・フリードとウィリアム・ルービンによるもはや古典と呼ぶべき二つの論文が収録されるとともに、松浦と林による対談、そして沢山遼とマンクーシ=ウンガロの論文は1998年にニューヨーク近代美術館が組織した大規模な回顧展以降の成果を十分に反映して読みごたえがある。
 まず古典的な論文に目を向けよう。マイケル・フリードの「ジャクソン・ポロック」とウィリアム・ルービンの「ジャクソン・ポロックと近代の伝統」はいずれもクレメント・グリーンバーグに由来するフォーマリズムの文脈でポロックのポーリング/ドリッピング絵画の達成を画定した歴史的な論文である。解題の中でも少し触れられているが、前者はケネス・ノーランド、ジュールズ・オリツキー、フランク・ステラという後続する画家たちの存在を前提に、後者は逆に印象派、キュビスム、シュルレアリスムといったフランス絵画の「近代主義的伝統」との関係において、いわば正反対のベクトルの中でポロックの絵画の意味が検証されているが、いずれの場合もモダニズム絵画の結節点としてポロックがとらえられている。言い換えるならば、フランス近代絵画の多様な伝統はその大半がポロックのポーリング/ドリッピング絵画の中に流れ込み、そしてその豊かな混沌の中にルイスからポロックにいたるモダニズム絵画の最後の大輪の花が芽生えたのである。モダニズム絵画史観の核心とも呼ぶべきかかる枠組は1960年代に発表されたこれら二つの論文によって明確に設定されたのである。ポロックというまことに異例の絵画に対してかかる豊かな言説が応接したことは20世紀美術史において特筆されるべき出来事であろう。
 これらの研究がこれまで日本語に翻訳されなかったことが私には不思議である。いずれの論文も単行本に収録されず(訳者の解題にあるとおりフリードの論文は、ほぼ同じ内容が同年にフリードの企画によってフォッグ美術館で開かれた展覧会のカタログにも収録されている。このカタログの入手は困難であるが、現在では98年にシカゴ大学出版局から刊行されたフリードの著作集によって容易に原文を参照できる。一方ルービンの連載は終了後に単行本として上梓されるというきわめて妥当な予告がなされながらも、今日にいたるまで書物としてまとめられていない)、読み通すためには『アートフォーラム』のバックナンバーを繰らなければならないといった不自由はあったかもしれないが、その重要性を鑑みるにかくも長く放置されてきたことは果たして偶然であろうか。大岡信や東野芳明のポロックに関する「文学的」解釈のみが先行し、結果として日本では絵画について形式的に考えることが長い間なおざりにされてきたように感じられる。このような不在は直ちに絵画制作という実践に反映されるだろう。しかしこれはあまりにも大きな問題であり、機会があれば稿を改めて論じることにしたい。いずれにせよ、これら二つの論文に初めて接する多くの読者はフォーマリズム批評の真髄に接することができるだろう。ただしフリードの論文についてはやはり最初に発表された文脈、つまり「スリー・アメリカン・ペインターズ」の一部として読んだ方が、線の自立や物質の視覚化、あるいは盲点としての形象といったポロックの革新の歴史的意義がより明確に理解できるだろう。また「ジャクソン・ポロックと近代の伝統」は可能であれば一挙に全訳を掲出してほしかった。ルービン独特のアクロバティックな分析が冴えるのは今回訳出された部分以降、具体的な作品分析をとおしてポロックをフランス近代絵画と接続させる議論なのであるから。
 しかしひるがえって考えるに、このような批評の鎖国状態は現在も改善されたとはいえないだろう。グリーンバーグについてはごく一部の主要な論文を紹介する選集が刊行されたとはいえ、フリードに関してはクールベに関する論考が論集の一部としてひどい翻訳で訳出されたくらいで、現代美術に関する重要な論文もいわゆる美術史研究と呼ばれるマネやクールベ、あるいは『没入と演劇性』といった画期的な論文も研究者以外にはほとんど知られていない。さらに言えば私たちは一冊のノーマン・ブライソンの訳書もT.J.クラークの訳書も手にしていないし、イヴ=アラン・ボアやロザリンド・クラウスに関してもごく一部の著作しか日本語で読むことができない。くだらぬ美術雑誌はあふれ返っているが、かかる状況は端的に日本の美術批評とジャーナリズムの後進性を示している。
 『ART TRACE PRESS』に戻ろう。日本人の書き手によって執筆された論文のレヴェルは高い。松浦と林による対談はポロックをめぐり、実に多くの問題を提起して示唆的である。自身も絵画を制作し、フランス現代思想にも造詣の深い松浦と、セザンヌを研究し、トゥオンブリーから中西夏之にいたる一連の現代の画家についてきわめて鋭利な講義録を発表している林。最新の知見を踏まえて繰り広げられる二人の議論はポロックの絵画から遠心的に広がり、私自身も多くを学び、同時にポロックについて考える新しい糸口を与えられた思いがある。ドゥルーズのベーコン論との関連などについて私は初めて知った。沢山遼という若い書き手の論文も興味深い。沢山はニューヨーク近代美術館の回顧展のカタログに寄せられたペペ・カーメルの論文(かなり問題のあるというか、そもそも一体何が問題なのかよくわからない論文であった)などを参照しながら、ポロックの絵画の構造の中に、本来異質と感じられる反復性を読み取り、さらに一連のドローイングを介して「隣接性」というメトニミックな原理を指摘したうえでハロルド・ローゼンバーグが提起したアクションという概念に新しい解釈を与えようとする。ミニマリズムとポロックの関係を考えるうえでも斬新な議論であるように感じた。素材と技法に着目したマンクーシ=ウンガロの論文も興味深く読んだ。98年の回顧展に関連して出版されたシンポジウムの記録集に発表された内容であるから最新とは言い難いが、きわめて具体的で説得力がある。私は今回の展覧会を見て、ポロックが一貫して用いたマスキングという技法にあらためて強い関心をもった。ポロックの絵画はその全幅において、つまり具象と抽象を問わず、隠す/隠されるというイメージの両義的な在り方をいかに調停するかという課題と関わっていたように感じたのであるが、マンクーシ=ウンガロの論文はこの問題にいくつかのヒントを与えると同時にポロックという画家の奥深さを改めて印象づける内容であった。
 最初の問いに戻ろう。私はこの批評誌を東京国立近代美術館のブックショップで買い求め、名古屋に向かう新幹線の車中で読み終えた。本書は長らく原書を片手にポロックを研究してきた私にとってはあまりにも遅く、最初の本格的なポロックの展覧会に向かう車中の私にとってはかろうじて間にあったというタイミングで刊行された。2011年秋号と記されているから、今後は季刊のペースで発行されるのであろうか。『批評空間』や『水声通信』が終刊し、美術批評に関してまともな雑誌がほぼ壊滅した状況の中、今後の本誌に大いに期待したいと思う。b0138838_2222339.jpg

28/11/11 追記
文中で触れたルービンとフリードの二つの論文はいずれも98年のニューヨーク近代美術館でのポロックの回顧展に際して刊行された『Jackson Pollock Interviews, Articles, and Reviews』に再録されている。おそらく今回の翻訳もこれを底本としたのではなかろうか。今回、ウンガロの論文に関して同時に刊行された『Jackson Pollock New Approaches』は参照したのであるが、こちらの論集の内容を見過ごしていた。追記して訂正する。
by gravity97 | 2011-11-24 22:27 | 現代美術 | Comments(1)

CHINATI The Vision of Donald Judd

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 パリ、テキサスではなくマルファ、テキサス。テキサス州マルファはミニマル・アートを代表する作家の一人、ドナルド・ジャッドがその晩年に精力を傾けて設立したチナティ・ファウンデーションが所在する地として知られている。「ドナルド・ジャッドのヴィジョン」という副題が付された本書はジャッドが生涯にわたって追求した自らの作品にとって理想の場所、チナティ・ファウンデーションの全貌を紹介する内容である。やや内輪話めいた解説を加えるならば、ジャッドの没後、長くファウンデーションのディレクターを務めたマリアナ・ストックブラントは今年ディレクターの地位を退く。メインにストックブラントのテクストを据え、ファウンデーションの活動の記録を網羅した本書は彼女のマルファでの最後の仕事といえるかもしれない。ストックブラントのテクストはジャッドが建物を購入して最初に作品を設置したニューヨーク、ソーホーのスプリング・ストリートのビルから説き起こし、いかにしてジャッドがマルファに自らの作品の展示施設を設置していったか、さらにはDIAファウンデーションとの協力と訣別といったチナティ・ファウンデーションの歴史を丁寧に論じている。続いてジャッドの作品が恒久展示してある二つのカマボコ型の元兵舎の外観や展示の様子、野外に設置してあるコンクリート・ピース、次いでリチャード・ロングやデヴィッド・ラヴァノビッチ、ダン・フレイヴィンといったジャッドお気に入りの作家たちの作品の展示風景が紹介され、ヴィジュアル面も充実している。さらにリチャード・シフやニコラス・セロータら、ジャッドの関係の深かった研究者や批評家の論考が収録され、巻末にはコレクションやこれまでの活動についての詳細な資料が掲載されている。アーティスト・イン・レジデンスの継続的な実施や下に示すレヴェルの高いニュースレターの発行など、チナティ・ファウンデーションがストックブラントのディレクションの下に充実した活動を続けてきたことが理解される内容である。
 私事となるが、私は15年ほど前にマルファを訪れたことがある。エル・パソから陸路を半日ほどかけて到着した街の印象は強烈で、本書の頁を繰りながら展示施設のみならず街の風景の写真も懐かしく感じられた。私が訪ねた頃、ジャッドは既に没していたが、ストックブラントがディレクターを務めており、私たち一行は展示に用いられている施設の一角でろうそくの灯りの下、ストックブラントが自ら調理したステーキの歓待を受けた。私にとって生涯忘れることのできない一夜である。本書に収められた図版の中には私が訪問した後に整備された施設も多いが、今述べたディナーの会場となった広々としたアリーナ、あるいはジャッドが執筆に疲れると横になった長椅子といった今なお懐かしく感じられる情景も収められている。それほど長い滞在ではなく、私は一度しかマルファを訪れたことがないためであろうか、私には本書で紹介されている場所が一種のユートピア、現実ではない場所のようにさえ感じられる。果たしてこのような感慨が一旅行者の感傷にすぎないかという判断は難しい。それというのもニューヨークで活動したジャッドが晩年にマルファ、テキサスで試みたのは明らかに現代美術のユートピアを実現することであったからだ。
 本書を一覧してあらためて強く感じることは作品に関するジャッドの思いの強さ、そして商業主義に対する一貫した批判の姿勢である。ジャッドがこの施設を設立しようと決意したきっかけが1968年に開催されたホイットニー美術館における個展への不満であったことはよく知られている。「ニューヨーク(スプリング・ストリートのビルのこと)とマルファでの作品のインスタレーションは他の場所におけるインスタレーションにとって規範となるものである。私の作品はしばしばひどい仕方で展示され、展示期間も決まって短い。だからどこかに適切かつ恒久的に作品を設置する場が必要だったのである。このことは美術館がその使命を果たすのに不十分だという事実をはっきりと示している」私は必ずしも美術館が否定されるべきだとは考えないが、ジャッドにとって自らの作品を最適の状態で設置することは決して譲ることができない条件であった。ひるがえって考えるに現在も世界各地の美術館にジャッドの作品が展示されているが、おそらくその大半は作家にとって見るに耐えない状況における展示となっているのではなかろうか。このようなジャッドの主張を作家の理想主義といって閑却するのはたやすい。しかしながらミニマル・アート屈指の理論家であり、決して妥協を許さぬジャッドという作家がそこまで作品の設置という問題に拘泥したことは、ミニマル・アートの本質と深く関わっているように思われる。つまり作品が設置された状況をその函数とするミニマル・アートにおいて、設置場所を変えることは作品の意味を変えることであるからだ。したがってミニマル・アートは不定の場所に不定の期間作品を設置する展覧会(正確には借用を前提とした「特別展」)とは相容れないのである。スペシフィック・オブジェクトならぬ作品のサイト・スペシフィックな特質は端的に「近代美術館」に対する批判であり、反モダニズムとしてのミニマル・アートの位置を明確に示している。さらにジャッドは次のようにも述べる。「私の作品そして私が手に入れた同時代の作家たちの作品は財産にされてはならない。それはただ単に芸術なのだ。そうしたあるべき姿で作品を保存したいというのが私の願いだ。作品は市場に出回らず、販売もされず、大衆の無知や間違った解釈にさらされることもない」あまりにナイーヴな発言であろうか。しかし私は美術に関する商業主義を全否定したこの発言を全面的に支持する。ジャッドの作品が高額で取引されていることを理由に批判することは可能かもしれない。しかし高額で売買されることは作品の質の結果であって質を証明するものではない。先に『美術手帖』の村上隆特集を批判した本ブログの記事に関して、作品の商業的成功が美術の「本質」や「歴史」を形成するのではないかというコメントをいただいたが、ひとまずこのジャッドの発言をもってコメントを寄せた方への返答としたい。本書には今引いた二つの発言が収録されている「自分の作品を守るために」を含めたいくつかのジャッドの論文が再録されている。(このうちいくつかのテクストは1999年に埼玉と大津で開催されたジャッド展のカタログに日本語訳が収録されている)今日の日本においてこそ味読されるべき文章ではなかろうか。
 最後におそらくほとんど知られていないマルファに関するエピソードを紹介しておこう。マルファという街の名前はこの地に鉄道が敷設された当時、ここを運行していた鉄道の機関士がその時に読んでいた小説の登場人物にちなんでいる。彼が呼んでいた小説はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』であったという。先年、亀山郁夫の新訳でこの小説を読み返す機会があったので、この点に留意しながら読み返してみた。すぐに想起されないことから理解されるとおり主要人物ではない。父フョードル・カラマーゾフに使える実直な下男グリゴーリーの妻マルファこそが地名の由来であった。ドストエフスキー、テキサス、ジャッド。本来ならばどの二項も結びつくことがない取り合わせが微笑を誘う。
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by gravity97 | 2010-12-25 21:40 | 現代美術 | Comments(0)
b0138838_21294947.jpg このブログでは基本的に時事的な話題は扱わない方針であるし、ネガティヴな議論は控えたいと考えているが、さすがに今回はこのタイミングで批判すべきだと感じる。
 『美術手帖』の今月号は「総力特集 村上隆」である。最初に断わっておくが、私は村上隆という作家に対して特に関心をもたない。2001年の東京都現代美術館における回顧展や同年、ロスアンジェルスのパシフィック・デザイン・センターで開催された『スーパーフラット』、あるいは2003年のヴェネツィア・ビエンナーレに際して「ラウシェンバーグからムラカミまで」というサブタイトルとともに開かれたフランチェスコ・ボナミの企画による絵画展などで作品を見た記憶はあるが、いずれもたまたま開催されていた時期にそれらの都市を訪れたからであり、特に作品に関心がある訳ではない。村上のような表現があってもよいとは思うが、それは村上が評価する平山郁夫という画家の作品があってもよいことと同様である。どちらの作家も10年単位では評価されても、100年単位の時の試練に耐えないことを私はここで確言しておく。
 私が批判するのは『美術手帖』という雑誌の美術ジャーナリズムとしての適性だ。端的に言ってこの雑誌はもはや存在しない方がよい。今回の特集では250頁の誌面中、その半分が特集の対象たる村上隆の礼賛に費やされている。ベルサイユ宮殿における個展を契機とした特集であろうが、批評的な視点は皆無で、村上へのインタビュー、関係者へのインタビュー、村上が主宰するカイカイキキのスタッフ紹介、村上の愛犬のグラビア記事まで掲載されていることには失笑を禁じえない。かかる雑誌から連想されるのは新興宗教の教祖を特集した広報誌であり、美術雑誌ではない。なぜこの雑誌はかくもなりふりかまわずこの作家を取り上げるのか。いくつかの理由が推測される。いずれも商業的な理由だ。以前から気になっていた点であるが、この雑誌はこのところ裏表紙に毎号カイカイキキ、もしくはそれと関連する展覧会や事業の広告が入っている。仮にも美術ジャーナリズムを標榜する雑誌が批評の対象の広告を毎号裏表紙に掲載して恬として恥じない態度は退廃以外のなにものでもない。さらに今号では広告か告知記事か判然としないが、村上が主宰するGEISAIの記事やら記事中でも取り上げられたアニメの記事が折り込みで収録されており、もはやこの雑誌は美術雑誌と村上の広報誌のいずれであるか判然としない。聞くところによると村上の特集をすると販売部数も増えるという。記事で煽った作家を偶像化して売り上げに結びつけるという手法は姑息ではないか。
 今から思えばこの雑誌の頽落の兆候はいたるところにあった。若手作家の特集のたびに作家ではなく取扱ギャラリーの連絡先をcontacts として表示して一部のギャラリーやディーラーに阿る姿勢。芸能人やら有名人に「アート」を体験させるというくだらない企画。新潟市美術館で大きな問題を起こした当事者(批判の当否についてはここではひとまず措く)に意味不明の連載を任す一方で美術ジャーナリズムであれば当然取り上げるべきこの事件を誌面では完全に黙殺している。中でも最悪なのは、かつては若手の批評家が地道にギャラリーを回ってそれぞれの立場から若手の発表を取り上げていた地区ごとの展評を、数名の名の知られた批評家がばらばらに勝手な対象を取り上げるREVIEWSという欄へ改めたことである。単に展評の数が減っただけではなく、若手の作家と批評家の目標が共になくなってしまったのである。貸画廊という制度の是非や近年、美術館が現代美術を敬遠するようになったことは今措くとして、かつては若い作家が真剣な発表をすれば、美術批評を志す若手によって展評欄に取り上げられ、作家は次のステップに向かい、批評家も責任を伴った批評の経験を積むことが可能であった。もはやそのようなシステムは存在せず、代わりにこの「総特集」が提案するのは、一人の独裁者によって経営される企業体の歯車としての「アーティスト」である。
 先に述べたとおり、私は村上の作品については批判する時間さえ無駄だと思う。しかしこの雑誌を斜め読みしただけでも、村上が作り上げたシステムが美術の対極にあることは理解できるし、それを周知したことに逆説的にもこの雑誌の意味があるかもしれない。分業化、合理化されたかかるシステムは明らかに営利企業をモデルとしており、利潤の追求には適当であろうが、どこに創造の自由があるというのか。近似したシステムとしてはウォーホルのファクトリーが挙げられるかもしれない。しかしヴェルヴェット・アンダーグラウンドの活動が示唆するとおり、ファクトリーにはなおも多様な創造性が共存しえた。これに対し、シフト表やマニュアル、工程表に囲まれて村上のスタジオで働く「アーティスト」たちの写真から私は機械的な作業が反復される工場の工員を連想した。
 金銭的収益を成功の指標とみなす態度、海外を視野に入れた組織整備やオークションへの展開といった「グローバリズム」、これらは以前から村上が主張していたことで特に新味はないし、それもまた一つの信念であろうから特に咎めるつもりもない。しかし美術ジャーナリズムの一端を担う雑誌が、そこに美術家の理想を投影し、かかる軽薄な美術を積極的にプロモートすること、そして美術を志す多くの若い作家たちが美術とはそのようなものだと思い込んでしまうことに私は暗然とした思いにとらえられる。作品を高値で売ること、ベルサイユで個展を開くこと、高級ブランドとコラボレーションすること、これらは美術とは全く関係ない。この雑誌の読者に対してはこんな当たり前のことをいちいち言挙げしなければならないのだ。
 この雑誌を美術ジャーナリズムとして理解するから気が滅入るのかもしれない。単なる数名の作家と関連ギャラリーのためのプロモーション誌と考えればよいのであろう。しかしこの雑誌がそれなりの歴史をもち、日本の戦後美術の文脈を形成することに一役買ったことは事実である。私自身過去に何度かこの雑誌に寄稿したことがあり、かつて発売日になると毎号それなりの興味と関心をもってこの雑誌を読んだこともある。あるいは70年前後のバックナンバー(この雑誌が一番輝いていた時代だ)を取り寄せてはそこに掲載あるいは訳出された重要な記事をコピーして何度も読み返したことも思い起こされる。それゆえこのような変質に対してなんとも無残、無念の思いが拭えないのだ。
by gravity97 | 2010-10-31 21:32 | 現代美術 | Comments(8)
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 驚くべき研究書が刊行された。まずその存在感と装丁に圧倒される。小口の部分まで黒く塗られた厚さ5センチはあろうかという大著だ。銀文字で記された『肉体のアナーキズム』という表題と「黒ダライ児」という奇怪な著者名。みるからに怪しげな書物である。
 しかし作者について多少の知識があれば、これは奇書どころか刊行が待ち望まれた研究である。筆者は黒田雷児という福岡アジア美術館に勤務する学芸員。黒田は1988年に福岡市美術館で「九州派」という画期的な展覧会を企画し、大きな注目を集めた。その後も1993年に「ネオ・ダダの写真」という注目すべき展覧会によって一貫する問題意識を示すとともに60年代の一連のアナーキーな美術活動に関していくつかの論考を発表してきた。いつかそれらが一つの書物にまとめられることは予想できたが、これほどの大著となろうとは。そもそも今日このような研究を刊行する出版社が存在すること自体,驚き以外のなにものでもない。壮挙と呼ぶべきであろう。
 一人の著者によって執筆された日本の戦後美術の通史として、私たちは針生一郎の『戦後美術盛衰史』、千葉成夫の『現代美術逸脱史』、そしてやや変則的な通史であるが椹木野衣の『日本・現代・美術』という三つの成果を手にしている。いずれも問題点はあるにせよ、日本の戦後美術を一つの文脈の中に編成しようとする試みであり、戦後美術を語る際の準拠枠となる労作である。本書の独自性は、これらの先行研究においてほとんど一顧だにされなかった作家たちを検証の対象として、年表を含めて700頁を超える大著に仕上げた点にあり、サブタイトルの「地下水脈」という言葉はこのような事情を暗示している。厳密にいえば、本書の内容は先行する三つの研究において全く触れられていなかった訳ではなく、特に椹木の著書における「裸のテロリストたち」と「芸術である、だけど犯罪である」という二章は本研究の内容とほぼ重複している。しかし本書において通史を論じるという目的は最初から放擲されている。冒頭で黒田は本書で扱う対象が、1957年から70年までの/日本で行われた/美術家による/「反芸術」の流れを汲む/身体表現 であることを明言する。少なくとも1970年前後までの日本の戦後美術史は、50年代中盤の具体美術協会、60年代の読売アンデパンダン展周辺の作家、そして70年前後のもの派という三つのメルクマールで語られることが通例であった。まずこれらのうち、黒田は具体美術協会ともの派を切り捨てる。今挙げた五つのキーワードに照らすならば、具体美術協会はなおも「芸術的」であり、もの派は身体性が希薄であるという理由によるのであろう。またサブタイトルに1960年代と冠せられているから、本書の一つのテーマがネオダダイズム・オルガナイザーズのごとき読売アンデパンダン展周辺に簇生したグループや作家であることはある程度推測される。しかしながら本書はなおも二つの点で通常の前衛美術研究と大きく異なる。一つは読売アンデパンダン展が開催された東京ではなく、地方における美術運動を中心に取り上げている点である。例えば本書には名古屋を中心に活動したゼロ次元と福岡を中心とした九州派についてのきわめて詳細な記述がある。先ほど述べたとおり、本書の起源の一つは福岡市美術館で開催された九州派展であったから、このような姿勢はたやすく理解されるが、それにしても丹念に各地の運動が掘り起こされている。例えば1965年に長良川河原で開催されたアンデパンダン・アート・フェスティバル、いわゆる岐阜アンデパンダンに関して、私はこれまで神戸で活動するグループ位による穴掘りのパフォーマンスと池水慶一が檻の中に自らを閉じ込めたパフォーマンスしか知らなかったが、本書を読むとそれが当時の地方的な前衛美術のネットワークの上に成立している点が了解される。本書で貫かれる立場はグローバリズムならぬ徹底的なローカリズムである。もう一つの特色は記述の軸を作品という物理的存在に置いていないことである。先に挙げた具体美術協会からもの派にいたる通常の通史においては作家が制作した作品を記述することによって歴史が語られてきた。いうまでもなくこのような姿勢を制度化したのが展覧会であり、これまで無数に企画された日本の戦後美術を概観する展覧会においては時に記録や再制作作品が添えられることはあっても、作品がその中心にあった。しかしこのような手法から抜け落ちる要素、それゆえたとえそのようなものがあったとせよ、「日本の戦後美術の正史」には決して記載されない活動が本書の主題とされている。本書の経糸を形成するのは例えば「英雄たちの大集会」、「狂気見本市」といったエフェメラルなイヴェントの数々である。中央ではなく地方に注目し、モノではなくコトを記述する。このような作業が実際にどれほど大変であるかは容易に想像されよう。私が本書の刊行を壮挙と呼ぶ理由である。この意味において本書は明らかにカルチュラル・スタディーズやオーラル・ヒストリーといった近年の人文学の新知見を背景としている。
 さて、現時点で私は本書を完全には読了していないが、なにぶん大著であり、読み終えてからレヴューするためには今しばらくの時間が必要となる。ひとまず黒田の意図は理解できたと考えるので、むしろ刊行直後に一種の切迫感とともに私の立場から若干の批評を加えることが望ましいのではないかと考える。この研究がきわめて貴重なものであることに疑問の余地はない。ゼロ次元でもクロハタでもよい、彼らの活動は本書が存在しなければこれほど詳細に記録として残されることはなかったであろう。この意味で私は本書を高く評価する。その点を書き留めたうえで、私はなおいくつかの疑問を呈しておきたい。一つはここで扱われている対象を一組の運動とみなすことができるかという点だ。果たしてここで詳述される集団や運動に一貫する意味、私の言葉を用いれば文脈を形成する力が認められるだろうか。例えば本書で一貫して批判的に言及される具体美術協会の場合、ハプニングの先駆、あるいはアンフォルメルの作家集団といった文脈によってひとまず理解することが可能であった。私の理解では文脈なくして意味はありえない。本書を通読するならば、60年代の反芸術的な身体表現に関してもいくつかの結節点と呼ぶべきイヴェントや展示があったことが理解されようし、これらの多様な表現の最終的な目的の一つが1970年の大阪万博という体制側による一大イヴェントの破壊であったことも明らかである。しかしそれらは相互にばらばらの印象を与え、研究として束ねてもあまり積極的な意味をもたないように感じられるのだ。欧米に比べて日本の戦後美術については常に一回きりの現象として生起し、連続性をもちえない点はこれまでも指摘されてきたが、この大著で概観される60年代のパフォーマンス、そして「反芸術パフォーマー列伝」を読む時、その印象はさらに強い。黒田自身は肉体や都市、儀式あるいは大衆といったいくつかのキーワードを手がかりに分析を加えているが、個々のパフォーマンスについては適応できる概念ではあるが、いずれも理論化になじまない。いや、むしろそのような理論化こそ、これらの集団が批判した点であったろうし、この点に黒田も意識的である。そしてこの結果、ここで取り上げられた数々のパフォーマンスはいずれもその場限りのお祭り騒ぎという印象を与えるのである。私が興味深く感じるのはその場限り、アド・ホックな特性は単にこれら60年代のパフォーマンスのみならず、実は戦後日本の現代美術に通底する特質ではないかと考えられる点である。つまり日本の現代美術には一つの表現を後続する世代が深めていくという発想がきわめて乏しいように感じられる。例えば今挙げた具体美術協会でもよい、一つの運動体としてそれなりに重要な働きを果たし、60年代には一種の権威として関西の美術界に影響力をもったはずであるが、彼らの表現がその後作品として深められた例を私たちはほとんど知らない。同様の断絶、一つの突出した表現が深められることなく、いわば死屍累々と美術史の中に置き去りにされる風景に私たちは見慣れてきた。例えば西欧の近代においてはモネ、セザンヌ、ピカソと連なる一つの理路が容易に指摘できるのに対して、日本においてそのような系譜をたどることは著しく困難である。モダニズムの不在といえばそれまでであるが、この意味において本書の内容は日本の戦後美術そのものの相似形と考えることはできないだろうか。この点は今後、より深く思考されてよい問題であろう。
 この点とも関わるのであるが、本書を読みながら強く感じたことは、私たちが果たして行為の美術(黒田は「美術」という言葉を嫌うだろうが)を批評するための言葉を持ち合わせているかということである。美術作品の場合、私たちはそれを記述するためのいくつかの方法や言語を編み出してきた。精神分析批評であれフォーマリズムであれ、そこでは言語が作品と拮抗している印象がある。しかし作品ではなく行為に関して、それに対立しうるような言語は彫琢しうるであろうか。映画や演劇であれば、なおも私は言語によって語るためのいくつかの方法論を知っている。それどころかロラン・バルトの記号論を想起すれば理解できるとおり、これらの新しい対象を分析することによって批評が新たな方法論を獲得することさえ可能であった。しかし本書で「行為の美術」を語る言葉は新聞で事件やお祭りについて記述する言葉に近く、いささか平板な印象があるのだ。この点は本書において論及されるパフォーマーたちが用いた言葉についての分析が少ないことと関係しているかもしれない。例えば篠原有司男がネオダダイズム・オルガナイザーズの旗揚げの際に著した異常な昂揚を伴った文章、あるいは加藤好弘が用いた異様に晦渋な文体などはそれ自体が一つの研究の対象足りうるであろう。これらの書字に対して黒田が重視するのは関係者からの聞き取りであり、両者の対立は先にも触れたオーラル・ヒストリーという問題圏へと接続可能である。私の考えでは批評とは言語の問題でもあり、この点に意識的な椹木がかつて『日本・現代・美術』において赤瀬川原平のパスティッシュとも呼ぶべき文体によって60年代美術を検討したことも想起されよう。困難な課題ではあろうが、「行為の美術」を批評するためには、新しい批評言語を創出する必要が感じられるのだ。
 それにしても驚くべき研究である。本書は黒田の長年の研究の集大成であるだけでなく、多くの新しい研究へと道を開く点で大きな意義をもつ。かくも困難な主題に正面から立ち向かった異形の研究の出現を喜びたい。
by gravity97 | 2010-10-23 08:50 | 現代美術 | Comments(0)
 b0138838_922293.jpg昨今の美術ジャーナリズムの凋落、美術批評の低迷は目を覆うばかりであるが、気骨のある批評誌が皆無という訳ではない。今回紹介する『photographers’ gallery press』という雑誌がそれだ。誌名から推測されるとおり、新宿にあるphotographers’ gallery というギャラリーから一年に一回程度発行される定期刊行物であり、先日、第9号が発行された。私はこのギャラリーを訪ねたことがなく、運営主体、あるいはギャラリーの展示と雑誌がどのような関係にあるのかわからないが、毎号、レヴェルの高い論文が収録され、読み応えがある。いくつかの書店にはバックナンバーが常備されているらしいが、私は書店や美術館のブックストアで本書を見たことがない。内容のみならずデザインやレイアウトも隅々まで配慮が行き届いたこのような批評誌が一体いかなる編集者、編集体制のもとに発行され、いかなる層に支持されているか、興味のあるところだ。
 さて最新号は帯にあるとおり、特集として「写真のシアトリカリティ2」、メインの記事として、マイケル・フリードへのロング・インタビューが収録されている。現代美術の批評に通じた者であれば、これらのキーワードを一瞥するだけでただちにこの特集の高度の批評性が理解されよう。フリードとシアトリカリティ、それにしてもなぜ「写真の」シアトリカリティなのか。実はこの雑誌でこれらの問題について特集が組まれたのは最初ではない。2006年に発行された第5号で「写真のシアトリカリティ」と題された最初の特集が組まれ、翌年に発行された第6号においてはマイケル・フリードが2005年に発表した「ロラン・バルトのプンクトゥム」と題されたテクストが訳出されるとともに、今回の特集でフリードにインタビューを行った甲斐義明氏の「写真とカラーフィールド・ペインティング―マイケル・フリードのジェフ・ウォール論」という論考が掲載されていた。フリードがバルトを論じたことにはさほどの感慨もなかった私であるが、ジェフ・ウォール論を発表したと知り、驚愕してしまった。さらに追い討ちをかけるように2008年にフリードはジェフ・ウォール論を含む浩瀚な写真論集『なぜ、写真はいま、かつてないほど美術として重要なのか』をイェール大学出版局から刊行した。フリードの美術批評と美術史研究になじんだ者であれば私ならずとも、その挑発的なタイトル、そしてよりによって彼が写真をテーマとした大著を江湖に問うたことに衝撃を受けるだろう。しかしそれ以上に驚くのはフリードの問題意識の一貫性である。特集のタイトルにあるとおり、彼の写真論において一つのキーワードとなるのはシアトリカリティ(演劇性)なる概念であるが、周知のとおり、この概念は1967年に発表された有名な論文「芸術と客体性」において、ミニマル・アートを芸術の敵として排撃する際にミニマル・アートの本質として提起された。フリードは60年代後半にフォーマリズム批評の規範とも呼ぶべき一連の論文を発表した後、突然現代美術の批評から撤退し、『没入と演劇性』に始まるいわゆる美術史三部作を発表する。フランス近代絵画を没入(absorption)と演劇性(theatricality)という対立概念でとらえるという発想はディドロに触発されたものであるにせよ、演劇性というミニマル・アート批判、つまりモダニズム美術擁護の中で陶冶された概念がフランス近代絵画という全く別の文脈に持ち込まれて鋭利な切れ味を示したことは当時きわめて刺激的に感じられた。ただしフリードは慎重に現代美術批評と美術史研究を区別しているため、これらの議論は表面上交差することはなかった。そしてこの概念が最初に提起されてからおよそ半世紀近くが経過した今日、こともあろうにポスト・モダニズム、現代写真の分析に同じ概念が導入されるとは、私でなくても知的な興奮を覚える事態であろう。
 フリードは私の知る限りでも1991年に来日していくつかの大学と美術館で講演を行った。その折に氏と語らう機会があったので、私はなぜ現代美術に関心を失ったか、率直に訪ねた覚えがある。興味を引くような作家も作品もなくなったというこれまた率直な答えがあり、実際にフリードはいくつかの文章の中で同様の感想を述べていたと思う。その後、98年にシカゴ大学出版局から『芸術と客体性』と題された60年代後半の現代美術批評をまとめた論集が刊行されるという事件はあったが、90年代以降の美術の中に議論に値するものはあまりないという点に関しては私も同意見であったから、私の中ではフリードが現代美術の批評に手を染めることはおそらくもうないと考えていた。ところが彼は2005年頃より矢継ぎ早に現代写真に関する批評を始めた。先にも触れたとおり、私はこの雑誌の第6号に掲載されたフリードのバルト論の訳者解題、そして甲斐氏の論文を通じてそのことを知ったが、原著を入手することができなかったので詳細を確認することができなかった。しかし昨年、先に述べた写真論集が刊行されたため、早速入手し、図版を参照しながらフリードの議論を追っていたところ、絶好のタイミングでこの特集が発行された訳である。
 私は写真を専門に研究している訳ではないし、フリードの新しい大著を精読した訳でもない。ここでは今後検討されるべきいくつかの論点を指摘するに留めたい。実際にフリードの写真論について論じることはかなり難しいとみえて、フリードのインタビューの後に収録された林道郎氏の解説もいつになく難解な印象を受けた。おそらくそれはバルトからソンタグにいたる一連の写真論の文脈に、主として20世紀アメリカ美術とフランス近代絵画研究の中で陶冶されたフリードの作業仮説を挿入することの困難に起因しているだろう。実際にインタビューの中で言及される「被視性(to-be-seenness)」、あるいは「隔離世界性(world-apartness)」といった重要な概念はフリードのこれまでの研究と微妙な距離をとるように感じられるが、言及される写真家について十分な知識がないため、インタビューの中で説かれるところは必ずしも判然としない。しかしこれらの概念はひるがえって絵画の研究に際しても有効かもしれない。
 ジェフ・ウォールのごとき写真家であれば、フリードが論じる意味はわからないでもない。人物を中心に据えたいわゆるコンストラクテッド・フォトであり、多くの場合、なんらかの物語性が暗示されている。それらはフリードが時に批判的、時に好意的にとらえたフランス近代絵画の演劇的/没入的伝統との親近性を感じさせる。例えば『なぜ、写真はいま、かつてないほど美術として重要なのか』中、ジェフ・ウォールに関する論考の冒頭に掲げられた作品は実在の画家、エイドリアン・ウォーカーが解剖学の実験室で切断された腕をデッサンしている模様を撮影したものであるが、デッサンに没入している画家の姿は、甲斐も指摘するとおり、例えば机の上にトランプの札を立てる遊びに集中しているシャルダンの絵画を連想させる。さらにいえば解剖というモティーフ、メスを連想させる尖ったペンを手にした画家の姿から私やはりフリードが犀利な分析を与えたトマス・イーキンスの《グロス・クリニック》も連想された。あるいは上に掲げた表紙に掲載されている図版はやはりジェフ・ウォールが三島由紀夫の『春の雪』に触発されて制作した作品なのであるが、この作品を介してフリードが「豊饒の海」について語るのを聞くのはなんとも嬉しい驚きではないか。(実際にフリードの写真論にはヴィトゲンシュタインと並んで、三島から川端康成へ宛てた手紙が引用され、三島の『春の雪』に関する長い脚注で終わっている)没入というテーマ、あるいはオリエンタリズムとの関連でいえば、私は同様に周到なコンストラクテッド・フォトを制作するやなぎみわについてフリードがどのように判断するか、再会する機会があれば是非尋ねてみたいと考える。今みたとおり、ウォールとシャルダンの対比は理解しやすい。しかしさらに驚くべきというか、フリード的な思考のアクロバットに幻惑されるのはウォールの《モーニング・クリーニング》という作品、ミース・ファン・デル・ローエ設計のバルセロナ・パヴィリオンの室内を洗浄する掃除婦の情景をなんとモーリス・ルイスのアンファールッド・シリーズと結びつける議論である。作品のサイズ、構成要素を画面の両端にまとめる構図、窓の洗浄とルイスにおける絵具の流れの一致といった共通性が指摘されるが、抽象絵画と迫真的な写真。強引といえば強引、刺激的といえば刺激的な論点だ。さすがに私もここまでの飛躍にはついていけない気がするが、かなり強引な議論でも読むと納得というのが、フリードの美術批評/美術史研究を読む醍醐味であったから、フリードの大著についてはいずれ腰を据えて精読しなければなるまい。
 私の考えでは絵画と写真を論じるにあたって、最大の差異は表面に求められる。物質として成立する絵画の表面と、なめらかなイメージの広がりとしての写真の表面。インタビューの中でもこの点は中心的な論点の一つであったが、果たしてこの点を考慮することなく、両者を統一的なパースペクティヴの中に論じることができるか。私は大いに疑問に感じるし、この点に関してはインタビューの中でフリードの口が重いように感じられたもう一つの話題、メディウムの限定性の問題とも深く関わっているだろう。
 それにしてもこれほどレヴェルの高いインタビュー記事は最近読んだことがない。写真という領域ではあるが、この国で批評という営みが継続され、それを伝えるメディアが存在することに安堵の思いがある。フリードの大著に取り組むためには覚悟がいるが、このようなイントロダクションが存在することはまことに心強く感じられる。
by gravity97 | 2010-07-02 09:24 | 現代美術 | Comments(0)

復刻版『具体』

 
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今年初めに刊行されたとのことであるからやや時機を逸した感もあるが、一般には入手しにくい冊子が手に入ったので紹介する。1954年に芦屋で結成された前衛作家集団、具体美術協会が刊行した機関誌『具体』全12巻(欠号があるため号数としては14号まで)の復刻版、正確にはその刊行に際して編集された別冊である。オリジナルの『具体』は古書としてもほとんど市場に出ないから、稀覯書といってよいだろう。国内のいくつかの美術館の図書室に収められているはずであるが、少なくとも開架図書ではないし、全巻が揃っているか、一般の利用者が利用できるかについて私は確認していない。
これらの冊子は1950年代美術、特に日本と欧米の交渉史においてにおいてきわめて重要な役割を担った。具体美術協会は活動の初期にこの冊子を内外の美術関係者に送った。そのうちの一冊が死後、ジャクソン・ポロックのアトリエから発見され、このグループの神話化を促したことは知られているとおりであり、この経緯に関してごく最近大島徹也氏が新資料をもとに脱神話化とも呼ぶべき解明を行ったことについては以前このブログでも触れたことがある。
幻の機関誌が芦屋市立美術博物館の監修のもと、藝華書院という発行元から復刻されて刊行されるという情報はしばらく前から得ていたが、全12冊と別冊を合わせて12万円、しかも分売不可という条件は研究者であっても個人では購入に二の足を踏むだろう。後述するとおり、海外の美術館や研究機関をターゲットにした復刻であろうが、価格的にあまりにもえげつないと感じるのは私だけだろうか。
もっともこれらの機関誌に収録されたテクスト自体はこれまでも比較的容易に参照することができた。1993年に芦屋市立美術博物館から発行された具体資料集「ドキュメントグタイ」にほぼ全文が収録されていたからだ。この資料集は写真資料を含めて具体美術協会に関する情報を網羅した決定版とも呼ぶべき内容で、個人でも購入することが可能な価格であり、国内の大きな美術館の図書室にはほぼ常備されていたから、具体美術協会に関する日本語圏での研究の深まりに大きく資することとなった。美術運動の機関誌の場合、イメージに対し文字情報は軽視されがちであるが、資料集の中に全文が掲載されたという事実は既に90年代初頭においてこれらのテクストの重要性が広く認知されていたことを示唆する。ひるがえって考えるに、テクストのレヴェルにおける参照が比較的容易であったにもかかわらず、今回あらためて復刻版が刊行されたということは、オリジナルの機関誌にはテクストを再録するだけでは伝えることができない意味があった、あるいは今回の復刻版にはオリジナル版にも資料集にも欠落していた新しい意味が付与されたといういずれかの、もしくは両方の理由が存在したはずである。私の考えでは両方だ。  
まず欠落していた要素。すぐさま連想されるのはオリジナル版に収録されていた数々の図版である。しかしこれについては93年の資料集にも十分に反映されている。『具体』誌が創刊された理由の一つが初期にみられたアクションやパフォーマンスを図版として記録することであったことはよく知られているが、資料集を編集するにあたっては当初の『具体』誌に掲載された資料写真のネガプリントにまで遡って写真の選定がなされており、場合によっては『具体』誌以上に鮮明、貴重な図版が用いられている。ただし『具体』誌における図版の意味は号によって微妙に異なる。舞台を用いたパフォーマンスを特集した第7号では演目ごとに詳しい説明と図版が付されており、今なお資料価値が高い。また吉原治良とミシェル・タピエによって編集された第8号は機関誌というより欧米のアンフォルメルの代表的作家の作品集として発行されている。したがって復刻された巻によっては図版をとおして資料集から得られなかった多くの発見がもたらされることは十分にありうる。そしてそれ以上に注目すべきは、特に初期の『具体』誌にみられたデザイン感覚とアーティスト・ブックとしての特性である。この点についてはこの別冊に収録された平井章一氏の論文および加藤瑞穂氏の解題の中で触れられている。おそらくこれには当時の関西の前衛的な美術運動がしばしば機関誌を伴ったという事実が深く関わっているだろう。平井はその先例を吉原も関わった二科展系の『九室』に求めているが、同時代の関西にも例えば『墨美』や『墨人』といった内容、形式いずれにおいても参照可能な例は存在した。さらに吉原が所蔵した膨大な洋書や洋雑誌もこの点に与っていたことは間違いない。この点を確認するためには復刻というかたちにせよ具体誌本体を参照することが必要となる。
次に付加された要素。それは端的に上に示した別冊である。まず収録された三つの論文がいずれもきわめて興味深い。平井論文は『具体』誌をめぐる状況と、その意味を丹念に分析している。例えばこの冊子の売価がいくらであり、どのように流通したか。きわめて単純な問いであるが、些細であるがゆえにこれまで論じられなかった観点からこの機関誌、そして具体美術協会の活動を検証し、手際よくまとめている。英訳も掲載されているから、今後この問題に関して規範的な論文となることであろう。さらに注目すべきは加藤の論文である。加藤はこれらの機関誌が海外の作家や批評家に対して、いつ、どのようにして送付され、どのような反響があったかを具体的に検証する。このような検証は芦屋市立美術博物館が整理をすすめている吉原治良旧蔵の資料の分析を受けて初めて可能となるものであり、とりわけ吉原が国内外の関係者と交わした書信が重要な証拠となっている。ポロックとの関係について近年、リー・クラズナーの関係資料をとおして新発見があったことは述べたとおりであるが、同様に吉原の資料からは特にミシェル・タピエの世界戦略においてこの冊子がいかなる意味をもったかいくつも推測が引き出されて興味深い。例えば『具体』8号はニューヨークで100冊が完売されたというエピソード、あるいは『具体』9号の掲載論文をめぐる吉原と瀧口修造の微妙な確執など、いくつも新しい知見を得ることができた。平井も加藤も『具体』誌の内容ではなくむしろ形式的側面を論じながら、きわめて独自かつ刺激的な論点を提起している。現代美術に関する近年の実証的な研究の中でも出色の成果ではないだろうか。もう一篇、「『具体』と日本『現代美術』―表象批判の絵画とその周辺」と題された光田由里氏の論文も氏が近年進めてきた『美術批評』誌や戦後の美術批評家をめぐる一連の研究と絡めながら具体美術協会の達成を論じて示唆に富む。ただし具体の復刻版に付される論文としてはやや観念的ではないだろうか。当時の批評との関連を論じるにあたってこの書き手であれば『具体』誌と当時発行されていた批評誌や美術関係の雑誌との関係、あるいは美術批評における東京と大阪の地政学的な差異や断絶をそれこそ具体的に論じてほしかった。
収録された論文もさることながら、今回のこの別冊の最大の特色は具体誌に掲載されたテクスト全てが英訳されて収録されている点である。これまで海外での展覧会に際して個別に翻訳されたことはあってもこれほど網羅的な紹介は初めてである。これほどオリジナルな美術運動であっても、世界的な評価を受けるにあたって一度英語というフィルターを通さなければならないという限界には忸怩たるものがあるが、この雑誌の魅力が単にヴィジュアルの側面ではなく、作家たちが開陳した真摯な思考にある点を考えるならば、今回の別冊の意義はきわめて大きい。『具体』誌に収録された作家たちのテクストに関しては、これまでにも例えば建畠晢氏が白髪一雄とハロルド・ローゼンバーグのアクション観を比較した興味深い論文を残している。1996年にポンピドーセンターで開催された「アンフォルム」展などに端的に認められるとおり、白髪に代表される具体美術協会の活動はオリエンタリズムとは異なった、フォーマリズム批判という文脈で注目を浴びた。近年もアメリカにおいていくつかの展覧会を通してこの集団への関心が高まっているが、これを機にこれまで主に作品を通して、あるいはアクションのごとき先鋭な活動をとおして分析されてきた具体美術協会の活動について、より概念的、テクスチュアルなレヴェルでも再評価が進むことは間違いないだろう。
今回の復刻が海外の美術館や図書館、研究者を念頭に置いていることは明らかであり、復刻された形式と内容も十分にそれに見合っている。今回論じた別冊も資料的な価値がきわめて高い。それゆえに全体の価格の設定はともかくこの別冊だけでも分売を認めて、具体美術協会への理解を深める一助とすることはできなかっただろうか。今回の出版の詳細について私は詳しく知らないが、その点が残念に感じられる。
by gravity97 | 2010-04-20 21:48 | 現代美術 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック