ブログトップ

Living Well Is the Best Revenge

カテゴリ:現代美術( 23 )

 b0138838_21253281.jpg 本書はイタリアの戦後美術において最も重要な動向の一つであるアルテ・ポーヴェラを主題とした研究であり、2014年度に京都大学大学院に提出された博士論文に加筆修正した内容であるという。日本においてアルテ・ポーヴェラはかつて『アール・ヴィヴァン』誌で特集されたことがあり、私は未見であるが、展覧会としても2005年に豊田市美術館で大規模な回顧展が開催されている。ヤニス・クネリスやジョゼッペ・ペノーネなどの作品は一部の美術館に収蔵されているから、日本でもその片鱗に触れることは不可能ではないが、ミニマル・アートやアンチフォームなどの関連する動向と同様、アルテ・ポーヴェラはこれまで紹介される機会が少ない美術運動であった。これから述べるとおり、その理由自体もこれらの動向の本質と深く関わっている。したがって本書はこれまで十分に論じられることのなかったこの運動に関して日本語で書かれた初めてのモノグラフといえよう。博士論文としては量的にやや物足りず、章ごとにテーマを違えた構成は必ずしもわかりやすくないが、この運動の本質と広がりを知るうえでは示唆に富む手引きといえよう。

 序章で著者も述懐するとおり、本書の構成は必ずしもクロノロジカルではないし、状況の検証、批評の分析、個々の作品の記述といったレヴェルの異なる議論が意図的に導入されている。しかし読み通すならば、この運動の輪郭のみならずデ・キリコやマグリットといった歴史的前提、ポップ・アートやミニマル・アートといった同時代の美術との関わり、さらには美術館の制度論や作品の同一性といった抽象的な問題にいたる多様な問題がアルテ・ポーヴェラという分光器を得て次々に浮かび上がって興味深い。巻末の年表と関連展覧会のリストは資料的な価値が高く、本文の中で語られる内容についても私にとって初めて知るエピソードが多かった。例によって章を追いながら本書の内容を確認しておこう。

 b0138838_21271465.jpg 1969年、ローマのラッティコ画廊に11匹の生きている馬を繋いだクネリスの衝撃的な《馬》の図版を冒頭に掲げた序章においては、ジェルマーノ・チェラントによって組織され、布や木材、石や鉄板といった素材を無媒介的に提示するアルテ・ポーヴェラの輪郭が粗描されるとともに本書の構成が簡単に説明される。注目すべきは各章の最終節でそれぞれ一人の作家を取り上げ、作家論的な記述がなされている点である。変則的な構成であるが、このような記述をとおして具体的な作家論と理論的な分析がシャッフルされてこの運動の理解に深みを与えるように感じた。第一章ではアルテ・ポーヴェラの登場前後の状況が検討される。いくつもの興味深い発見があった。例えばアルテ・ポーヴェラの「ポーヴェラ」、「貧しい」という言葉がポーランドの演出家イェジェイ・グロトフスキーの「貧しい演劇」に由来することを私は初めて知った。ただしここで池野が「貧しい」という概念をメディウム・スペシフィシティーと関連づけてクレメント・グリーバーグのフォーマリズム理論と対比するのは全くの見当違いであろう。私がアメリカ美術を専門としているためのないものねだりかもしれないが、本書を通読してやや残念なのは同時代のアメリカ美術との比較が十分になされていない点である。この章を読んで私はあらためてアルテ・ポーヴェラがアメリカの戦後美術を強く意識した運動であったことに思い至った。例えば今触れた「貧しい」という言葉である。アルテ・ポーヴェラの理論的指導者チェラントは1967年に「アルテ・ポーヴェラ―ゲリラ戦のためのノート」というテクストを発表している。ゲリラ戦とは穏やかではないが、当時アメリカの手によってベトナム戦争が続けられていたことを想起するならば、すでにこの言葉の選択に明確なメッセージが込められていたと考えてよかろう。それでは何に対するゲリラ戦か、チェラントは次のように説く。「あちら側には複雑な芸術があって、こちら側には貧しい芸術(アルテ・ポーヴェラ)がある」あちら側の複雑な芸術、ゲリラ戦の仮想敵は池野によればポップ・アート、オプ・アート、プライマリー・ストラクチュアであるという。いうまでもなくそれはアメリカの同時代の動向であり、大量消費社会のアイコンであるポップ・アート、プライマリー・ストラクチュアにみられる華やかで工業用素材を使用した彩色彫刻を連想するならば、それらを豊かさの象徴とみなすことは理解できよう。そしてあらためてこの運動も美術の覇権をめぐるアメリカとヨーロッパの闘争の一つの局面であったことが理解される。興味深いことにはかかる応酬は国家間というよりも有力な批評家の間で交わされた。50年代のミシェル・タピエが失脚した後、ヨーロッパではチェラント、そしてハロルド・ゼーマンが新しい美術を唱導した。このブログでも取り上げたゼーマンの「態度がかたちになる時」がイタリア、アメリカ、ドイツの作家を中心に中立国スイスのベルンで開催されたという事実は興味深い。この章では最後の節でミケランジェロ・ピストレットのケース・スタディがなされる。鏡というこの作家特有の装置を介して、鑑賞者という要素が作品の中に取り入れられるという発想は興味深く、ミニマル・アートを連想させる一方でウンベルト・エーコの「読者の役割」とも結びつく。さらにジャック・ランシエールを援用して展開される議論はなお敷衍する十分な余地があるように感じられる。

 「トリノの地政学」と題された第二章も興味深い。この章ではタイトルのとおり、フィアットで知られる工業都市、トリノにおけるアルテ・ポーヴェラの展開を論じている。池野は特にジャン・エンツォ・スペローネというギャラリストとデポジト・ダルテ・プレゼンテというオルターナティヴ・スペースが果たした役割について検証しつつ、作家たちが採用した手法がブリコラージュであったという重要な指摘を行っている。ブリコラージュという言葉から直ちに連想されるのはレヴィ・ストロースであり、必然的に構造主義との関係も視野に収められよう。デポジト・ダルテ・プレゼンテにおける作品の展示風景の写真も掲載されているが、この図版から連想されるのは「態度がかたちになる時」やホイットニー美術館における「アンチ・イリュージョン」の会場風景だ。この時代の気風が浮かび上がるとともに、これらの作品が展示されるべき理想の空間は果たして美術館であったかという問題も浮上する。この問題は最後の章においてあらためて主題化される。この章で驚いたのはアルテ・ポーヴェラと映画監督として知られるピエル・パオロ・パゾリーニとの関係である。トリノにおけるアルテ・ポーヴェラの牙城であったデポジト・ダルテ・プレゼンテにおいてパゾリーニは1968年に「オージー」という「言葉の演劇」の上演を試みたという。(「オージー」からウィーン・アクショニズムを連想するのは私だけだろうか)しかし両者の関係は必ずしも良好ではなく、この空間が閉鎖される遠因となったことが暗示されている。あるいは本書には同じ会場でアメリカのリヴィング・シアターによる公演の写真も掲載されている。行為の問題については続く第三章で論じられるが、美術のみならず、映画や演劇と関わる異才たちが当時のトリノに結集したことが理解されよう。この章の最終節で特集される作家はアリギエロ・ボエッティであるが、世界地図の作家として知られるこの作家についても多くのことを学んだ。私は初めて知ったのであるが、世界地図のそれぞれの領土を国旗として切り分けた有名な作品は実は作家の指示に従って、アフガニスタンの無名の女性たちが縫ったものであるという。インストラクションとタスク、ここには明らかにコンセプチュアル・アートにつながる発想が存在し、先日、このブログで応接したクレア・ビショップが言う「参加型アート」のきわめて早い例として考えることができるかもしれない。そして地図というモティーフはきわめて多様なコノテーションをはらんでいる。ルチアーノ・ファブロの名高い「吊されたイタリア」の写真も掲載されているが、地図とは国家の表象でもある。ボエッティがベトナムの地図をトレースする含意は先に述べた当時の国際情勢を考慮する時、明らかであろうし、池野も指摘するとおり同時代のランド・アートの作家たちもしばしば地図を作品の中に取り込んだ。さらにこの問題圏にアメリカの美術史家スヴェトラナ・アルパースが提起した「描写の芸術」、そしてハル・フォスターが説く「民族誌家としてのアーティスト」といった古今の理論的概念が召還される様子は刺激的である。ただしここでも問題の輪郭は文字通り、マッピングするにとどめられ、検証の余地があえて残されている。

 続く第三章「実践のパラダイム」においては行為という問題が導入される。アルテ・ポーヴェラからも9人の作家が参加した「態度がかたちになる時」の輪郭を粗描し、そこでは作品が脱物質化され、プロセスが重視されることを指摘される。このような回路を経て具体的な作品ではなく、生あるいは行為という問題の重要性が明らかとなり、チェラントはアルテ・ポーヴェラからアツィオーネ・ポーヴェラ(貧しい行為)への移行を提唱する。この状況は例えばトリノで開かれた「観想=行動」という展覧会で演じられたピストレットの「散歩彫刻」といったアクションによって説明されるが、68年という時代背景を念頭に置けば、行為のさらに過激な含意も明らかである。ヨーロッパ各地で学生叛乱が発生したこの年、ヴェネツィア・ビエンナーレは参加ボイコットを叫ぶ学生たちで占拠され、一時的に閉鎖された。ただし私たちはアルテ・ポーヴェラにおいて「行為」の質が大きな変貌を遂げていることに注目しなければならない。彼らに先んじて作家の行為に意味を見出したのはハロルド・ローゼンバーグであり、アクションとして定式化された。ローゼンバーグが引用するジャクソン・ポロックのアクションからアラン・カプローはさらにハプニングという概念を導出し、ハプニング芸術を提唱した。これら一連の活動にみられる行為が作家という主体を強く全面に押し出し、行為の成果としての作品、あるいは行為の前提としての環境を伴ったのに対してアルテ・ポーヴェラの作家たちの行為は作家性を欠く場合が多い。先に挙げたクネリスやボエッティもそうであるが、池野はこのような特質を1968年にアマルフィで開かれた「アルテ・ポヴェーラウ+アツィオーニ・ポーヴェレ」という暗示的なタイトルをもつ展覧会に即して詳しく報告している。これらの活動から私が連想したのはいうまでもなく「もの派」による一連の発表であり、クネリスと李禹煥の作品の近似性については以前何かで論じられていた覚えがある。この問題もさらに論じる余地はあるが、池野はむしろ作家性の喪失を「作者の死」という問題へと結びつけ、フーコーからバルト、さらにジョルジョ・アガンベンにおける芸術の主体について論じる。繰り返しとなるが、この運動の周囲に思いがけない問題圏を広げていく点こそが本書の大きな魅力である。そしてこの章では作者と作品との関係という軸に沿って、ジュリオ・パオリーニという比較的マイナーな作家の写真作品が詳しく検討される。

 「前衛以後の古典主義」と題された第四章は比較的短く、一つのテーマが設定される。それは何人もの作家を横断して認められる石膏像というモティーフである。まずクネリス、パオリーニらのパフォーマンスや作品における石膏像の使用が概観される。アルテ・ポーヴェラは集団としての結束力が弱く、どの時点をもって運動が解消されたとみなすかは難しい問題であるが、興味深い点としては彼らが石膏像を使用するのは1970年以後、池野の言葉を用いるならば「アルテ・ポーヴェラ以後」の出来事であることだ。この章ではイコノクラスム、シミューラークル、あるいは古典への回帰といったキーワードと関連させて議論が進められ、最後にアルテ・ポーヴェラが前衛と古典主義という、相反するベクトルを合わせもつ運動であるという注目すべき見解が示される。

 最後の章ではこの運動をめぐる最新の状況が論じられる。すなわち1984年にトリノ、マドリッド、ニューヨークを巡回した回顧展における展示である。チェラントによって組織されたこの展覧会においては初期の作品とともにそれぞれの作家の近作も展示されたという。このような展示においては作品の同一性が問題となることはいうまでもなかろう。この問題を池野は異なった会場に展示されたジョヴァンニ・アンセルモの作品のインスタレーションが異なった印象を与えた点から説き起こしているが、これは現代美術の展覧会を手がける学芸員にはおなじみの難問である。アルテ・ポーヴェラの作品においては布きれや藁、炎や植物といった永続性がなく、不定形の素材が用いられる場合が多い。最初の発表と同じ素材、同じ形状の作品を発表することは最初からありえない。かかる作品の同一性を何に求めるかという点に答えることは簡単ではない。もしそれが作家に帰属するならば、作家が死亡した後は作品の同一性を保証することは困難となる。いうまでもなくこの問題は同時代のアンチフォームやプロセスアート、さらにはもの派などにも共通する。この問題を傍らに置く時、第四章で論じられた「作者の死」、あるいはしばしば言及されるウンベルト・エーコの「開かれた作品」といった概念は新たな意味を宿すかもしれない。最初に述べたとおり、これらの運動を回顧することが困難であったのも同じ理由による。池野はこの章の冒頭にミケランジェロ・ピストレットの《ぼろ切れのヴィーナス》の二つの展示風景の写真を並置し1985年の展示風景においては建築との関係において作品の異化効果が強められていると述べている。つまり実体をもった作品であっても展示された場所との関係において別々の作品と見なされる場合さえあるのだ。しかしミニマル・アートを念頭に置く時、このような作品の特性は意外ではない。作品は場の函数として存在し、それゆえ作品のインスタレーションが問題とされるのだ。「再制作/再構築の(不)可能性」と題された第三節においては近年の注目すべき試みとして、このブログでも応接したヴェネツィアにおける「態度がかたちになる時 ベルン/1969年 ヴェネツィア/2013年」(2013)を挙げる。ブログで詳述したとおりこの展覧会はゼーマンの伝説的な展覧会を、会場を含めて完全に再現するという画期的な試みであった。この展覧会を検証しながら池野はアルテ・ポーヴェラの作品が常に同時的時間にしか存在しえないというアポリアを確認するとともにそれを再構築する試みが常にずれを伴うことを指摘する。興味深いことにこのような過去の展示のリテラルな再現は近年次々に試みられている。このブログで扱った展示だけでも2014年、ニューヨーク、ユダヤ美術館における「アザー・プライマリー・ストラクチュア」、そして2015年、東京国立近代美術館における「Re: play 1972/2015」などが挙げられる。再現不可能な作品に対する美術館の対応としては別の手法もある。本書においてニューヨーク近代美術館の館長ウィリアム・ルービンの言葉を引きながら、池野は「作品自体を収集することが不可能である場合、その代替物であるドキュメンテーションを収集する」手法を示す。この点も近年の美術館において注目を浴びている手法であり、奇しくも私は先日の国際美術館における「THE PLAY」に関する展覧会の展示と関連してこの問題を論じた。あるいはやはり近年、美術館において大きな注目を浴びているアーカイヴもこの問題と深く関わっているだろう。この章では最後にジョゼッペ・ペノーネの《流形彫刻の庭園》というプロジェクトに触れて作品と場の関係、作品の同一性の問題が論じられる。

 本書はアルテ・ポーヴェラという運動を扱いながらも、求心的というより遠心的であり、多様な主題を巻き込んでいく点が理解されたことと思う。半世紀前に繰り広げられた、必ずしも輪郭のはっきりしない運動でありながら、そこで提起された問題は「貧しい」どころか、今日においてもアクチュアリティーをもつ。参加型アート、展覧会の再現、アーカイヴとしての芸術、先に私が言及したいくつかのテーマは21世紀に入って鮮明となった主題であり、この運動の先見性を暗示している。アンチフォームやプロセスアートといった対応するアメリカの動向がフォーマリズムへの明確な批判として成立しているのに対して、かかる運動はいかなる出自をもつのであろうか。十分に深められていないが、先に触れた「前衛と古典主義の結合」という発想は一つの手がかりとなるかもしれない。現代美術が美術史学に登録されたことの証明は、そのテーマで博士論文が執筆されることであるという。私たちはようやく半世紀前の美術を美術史学の対象として検証する視座を得つつある。ラウシェンバーグ、具体、そしてアルテ・ポーヴェラ。近年上梓され、このブログでレヴューしたこれらの作家や運動についての優れたモノグラフの数々は現代美術が歴史化される過程を雄弁に語っている。


by gravity97 | 2017-02-17 21:29 | 現代美術 | Comments(0)

b0138838_20423884.jpg

 ミン・ティアンポが2011年にシカゴ大学出版局から刊行した『GUTAI Decentering Modernism』がこのたび翻訳された。2013年のニューヨーク、グッゲンハイム美術館における回顧展以来、このグループが再び注目を集め、何人かの作家の絵画が信じられないような価格で取引されるようになったことは知られているとおりだ。ミンとアレクサンドラ・モンローによって企画されたこの展覧会を私も見たが、かつてこのブログでもレヴューしたとおり、批判的な印象を抱いた。したがって同じ企画者がこの集団をどのように英語で検証しているか、多少の危惧の念をもって本書を読み始めた訳であるが、実に興味深い内容であった。最後に述べる通り、私には同意できない部分もあるとはいえ、本書は具体美術協会(以下、具体)についての全く新しいアプローチであり、具体をとおしてモダニズム美術史観を相対化するきわめて野心的な研究である。ひるがえって本書は今触れた展覧会の意味を再考する契機ともなるように感じた。
 具体というグループを扱いながら、本書は通史のかたちをとらない。確かに理論的フレームワークを論じる序章に続いて、リーダーの吉原治良の経歴に始まり、日本の戦後美術の前史を高橋由一まで遡って論じる第一章以降、具体の活動はほぼクロノロジカルに検証されているが、それは意図されたものではなく、各章ごとに興味深いテーマが設定されている。それらを個別に述べるならば、「距離の相互詩学」と題された第二章においては郵便システム、第三章では『具体』という機関誌、第四章ではメルクマールとなる三つの具体美術展、すなわち1955年の東京、58年のニューヨーク、59年のトリノにおける展示が取り上げられる。そして第五章以降においては資料が少ないことを理由にこれまでほとんど論じられることのなかったいくつもの展示に光を当てられる。第五章では62年のグタイピナコテカの開設と65年、アムステルダムにおける「ヌル1965」、そして同年パリにおける具体美術展、第六章では「ヌル1965」の数カ月後にグタイピナコテカで開かれた第15回具体美術展、67年、阪神パークにおける「グタイグループによる宇宙時代の美術展」、そしてよく知られた70年、大阪万国博での発表である。このような構成を確認するだけでこれまでの具体研究にはありえなかった二つの視点が導入されていることが理解されよう。それはまず具体の活動を広く世界的な規模で確認することであり、第二にこれまで低い評価しか与えられることがなかった60年代以降の具体の活動に新しい意味を与えることである。具体の評価についてはすでに一つのクリシェがかたちづくられている。それは初期具体の野外展やアクションに大きな意義を認め、1957年のミシェル・タピエとの接触によってアンフォルメル絵画へと転身することによってそのオリジナリティーが殺がれたという見解であり、かかる発想は具体の活動時から今日まで、例えば最近ではミンも引用する現代美術に関するエンサイクロペディアとも呼ぶべき『Art Since 1900』の中でイヴ=アラン・ボアが論じるところでもある。本書はこのような通説に対する根底的な批判である。しかしこれにあたって彼女が提起する「文化重商主義 cultural mercantilism 」という概念は必ずしも有効ではない。本書の意義は単純にその実証性に求められるべきであり、新しい理論的モデルの構築は必要なかったように感じる。むしろハロルド・ブルームの「影響の不安」という概念を拡張することによって事足りたのではなかろうか。
 ミンは大学院時代にインターンとして、当時、芦屋市立美術博物館に移管されていた具体に関する資料、ことに吉原治良旧蔵の資料の整理にあたっており、具体の研究者としてのアドバンテージの一端はこの経験に負っている。この成果は本書にも十分に反映されている。一例を挙げよう。ミンは吉原が具体を回顧した文章を引用しつつ、その典拠として『具体』誌の13号を挙げる。この箇所を一読し、私は不審に感じた。なぜなら『具体』誌は10号と13号を欠号としているからだ。しかし註を参照するならば、ミンは吉原のアトリエに遺された資料中、吉原の手書きによって13号の雛形に添えられたコメントを例証としてかかる記述を行っている。緻密な資料調査に感心するとともに、この点に本書の一つの限界も存しているように感じた。現在は大阪新美術館準備室に保管されているこれらの資料はまだアーカイヴとして整えられていないため、参照することが容易ではない。つまり本書においては典拠をこれらの資料群に置いた記録や発言について、関係者以外はその真正性を確認することが容易ではない。もちろんこれはミンの責任ではないし、世界的にみても資料として第一級の価値がある(それゆえ芦屋市立美術博物館の経済的危機が叫ばれた際には、海外の美術機関が一括して買い付けるのではないかという噂が流れた)これらの資料が遠からずアーカイヴとして整備され、可能であればインターネットを介した検索が可能となることを望むのは私だけではないだろう。
 やや話が逸れた。本書の理論的枠組とオリジナリティーの問題を扱った序章と第一章は抽象度が高く、先にも述べたとおり作業仮設もうまく機能しているとは思えない。筆者は序章の最後の箇所で本書の目的を次のように記している。

本書は非大都市型モダニズムのトランスナショナルな研究の拡大に寄与するものだと考えている。こうした研究はモダニズムを漸進的に再考する方向に向かってきたが、本書ではよりラジカルな視座を提唱したい。つまり、いかに文化重商主義の言説が影響という概念を通じて非西洋のモダニズムを周縁化したかを分析し、作家間の相互詩学的関係を考察するための正確かつ柔軟な方法を提案したい。この方法論を用いて、本書はモダニズムの物語、領域、そしてそれらの核心となる特徴さえも再考する方法論を構築する。

 翻訳の問題もあろうが、わかりにくい文章である。読者はここで立ち止まって考えるより次章に進むのがよい。「作家間の相互詩学的関係」が具体的に論証されるからだ。続く第二章でミンはまず具体と海外の作家たちの「トランスナショナル」な関係が郵便というシステムを用いて深められたことを説得的に論証する。郵便を用いた交渉は多様なレヴェルにわたっている。例えば裕福な実業家であった吉原のアトリエに戦前より海外の美術雑誌や展覧会カタログが国際郵便によってほぼリアルタイムで届けられていたことは既に指摘されてきた。この中で彼女は1951年、『アートニューズ』5月号に掲載されたロバート・グッドノーの有名な記事「ポロックが絵画を描く」に注目する。ミンによればこのテクストを吉原はわざわざ書き写し、その中には「抽象から具体(concrete)をめざす」という言葉があったという。この言葉が具体という集団の名称、あるいは具体美術宣言に影響を与えたとするならば、興味深い指摘であろうし、具体とポロックの関係を強く暗示する挿話である。郵便システムに関しては、郵送によって世界中の作家や批評家に送られた『具体』誌をめぐるそれが連想されようが(その一部がポロックのアトリエに届いたことはいうまでもない)、ミンは意外な主題につなげる。それは年賀状である。IT環境の発達した今日においても年賀状は視覚的な情報発信の手段であるが、当時会員間で交わされた年賀状に着目したミンはそれがメールアートの先例であったこと、さらにそれが小さなサイズのオリジナル作品という発想を導出し、第11回具体美術展の際に会場に置かれた「具体カードボックス」という作品カードの「自動」販売機へと展開されたと論じる。本書にはかつて具体からルドルフ・スタドラーに送られた多数の年賀状の図版も掲出されているが、年賀状をミニチュア絵画ととらえる発想は示唆に富み、具体におけるコンセプチュアル・アートの萌芽をこの点に求めることも可能であろう。かかるポータビリティは1960年に大阪高島屋上空に下絵を拡大した海外作家の作品をアドバルーンで吊り下げた「インターナショナル・スカイ・フェスティヴァル」、さらに60年代には一連の海外での作品発表の際におけるインストラクションへと展開されるという。実はこの問題は『具体』誌とも深く関わっている。この冊子をめぐっては具体初期を彩る神話がよく知られているが、ミンが注目するのは1962年に発行される予定であった第13号であった。知られているとおりこの号はグタイピナコテカ開設時のパンフレットにその予告が写真とともに掲載された幻の雑誌であり、その詳細は今日もよく知られていない。ミンは次のように解説する。「1962年に具体がグタイピナコテカの開館に合わせて『具体』誌の特別記念号を出版する計画を立てた時、メンバーは表現媒体と展覧会場としての機関誌という初期の試みに立ち返った。(中略)構造としては13号の前半ではひとりにつき2作品の割り当てで作品掲載の予定だったようだ。それぞれ絵画作品の複製と葉書大の手描きのマルティプルの実物を貼り込んで併置するというアイデアである」具体がきわめて早い時期にマルティプルという発想を美術に持ち込んでいたことはこれまで指摘されることのなかった重要なポイントである。ここからはデュシャンやコンセプチュアル・アートと具体という新しい関係線を引くことも可能であろう。さらにミンは『具体』誌の発行部数や配布先についても詳細に言及するとともに、フランスで発行された『ロボ』という雑誌について言及する。ジャン・クレイ(あの美術史家のジャン・クレイであろうか)によって編集されたこの雑誌は1971年に発行された5/6号で具体の特集を組み、しかもそこではタピエへの批判的な視点が加えられていたという。この雑誌についてはこれまでの具体研究ではほとんど言及がない。このような新しい知見が得られることも本書の大きな魅力であり、それは世界各地で調査を続けた筆者の行動力と語学力に多くを負っている。
 しかしこれらの新知見以上に、私は本書をとおして具体が置かれた状況について全く新しい光が当てられたことに注目したい。私がそれを強く感じたのは「具体美術展の地政学」と名づけられた第四章である。ここでは具体の活動の中心であった具体美術展を軸にまさに美術の地政学が論じられる。最初に述べたとおり、タピエとの接触を機にアンフォルメルの一翼としての立場を鮮明にした具体は1958年、日本各地を巡回した「新しい絵画世界展」において、ヨーロッパのアンフォルメル、アメリカの抽象表現主義そして日本の具体という新しい国際様式のフロントを大胆に示した。このあたりの事情を確認したうえで、ミンは同じ年、ニューヨークのマーサ・ジャクソン・ギャラリーで開かれた第6回具体美術展と翌年トリノで開かれた第7回具体美術展に注目する。これら二つの具体美術展に関する今までの定説は、ニューヨークの展覧会は抽象表現主義の亜流として酷評され、トリノの展示は資料が残されていないから詳細が不明というものであった。海外で開催された展示であるから資料調査が困難であることは当然とはいえ、この二つの展覧会は具体研究における一種のブラックボックスとなっていた。ミンは当時の資料を読み込んで前者についての批評が、具体におけるアクションや実験的な側面にあえて目を閉ざし、絵画に集中することによってもたらされた意図的な批判であった点を実証する。私が感心したのはミンがニューヨークとパリの間の美術の覇権をめぐる闘争の一端としてこのような状況を実証的に分析している点である。具体の様々な前衛性に関する情報は十分に与えられていたにもかかわらず、ニューヨークの美術界は具体の活動を単に絵画の問題へ矮小化して否定した。具体を尖兵としたタピエとジャクソンの世界戦略は破綻する。確かに時期といい場所といい、ニューヨークの具体展はパリとニューヨークの間の美術をめぐる覇権争いのメルクマールとなる出来事であった。私は日本の作家集団がこの歴史的局面に深く関与したことをあらためて思い知った。そしてさらに興味深いのはかかる現代美術のパワーゲームの中で具体は単に欧米の批評に左右される存在ではなく、時に自らもプレーヤーとして欧米の美術界に伍したという指摘である。ニューヨークにおける批評家たちの反発を目の当たりにした吉原はトリノの展示においては戦略を違える。いうまでもなく絵画そしてアンフォルメルの要素を切り詰めて、具体の前衛性を正面に押し出したのである。このうえでも雑誌が大きな役割を果たしたことは注目に値する。具体はあらかじめ『NOTIZIE』誌の特集を用いて自分たちの活動を紹介し、東洋の未知の前衛集団として自らをアピールした。ニューヨークでの冷遇に対してヨーロッパでの成功は続く60年代の具体の評価と密接に結びつくこととなる。
 かかる視点を得る時、先に述べたアドバルーンを用いた展示、「インターナショナル・スカイ・フェスティヴァル」の評価も変わってくる。この国際展の開催、そして出品者の顔ぶれは具体の世界的な認知、針生一郎の言葉を借りるならば「国際的同時性」を暗示している。したがってミンはタピエとの接触によって具体の創造性が衰えたという通説には与しない。それどころかまさにこの接触を契機として具体は自らの表現の同時代性を意識し、さらに新しい冒険に乗り出した。その答えの一つが62年に開設された常設展示場、グタイピナコテカであることは言を俟たないだろう。ミンはそこを訪れた著名な作家や批評家を列挙してその国際性を強調する。さらに65年、アムステルダムのステデリック美術館で開催された「ヌル1965」と実現にはいたらなかったがその後、やはりオランダのスヘフェニンゲンで企画された「海上のゼロ」の構想についての詳細な検証からは、60年代にあって具体が再び絵画からオブジェや立体へと活動の中心を移そうとしていた様子がうかがえる。一方でタピエもまた具体の絵画によって巻き返しを図る。奇しくも同じ65年にパリ、スタドラー画廊で開かれた具体パリ展であり、展示は絵画のみで構成されていた。私たちはこれまでこれらの展示を同じ年にヨーロッパで開かれた具体による連続デモンストレーションとみなしてきたが、そこには美術の主流、海外での認知をめぐる関係者の激烈な暗闘が隠されていたのである。そして疑いなく吉原のリーダーシップに基づいて、具体はかかるパワーゲームに主体的に参加していた。
 かかる問題意識に立って、ミンは同じ65年にグタイピナコテカで開かれた第15回具体美術展に具体の一つのピークを認める。吉原が円によるハードエッジ抽象に転じ、キネティック・アートやオップ・アートに分類される多様な作品が発表されたこの展示は初期のアンフォルメルの牙城として具体とは一線を画すものの、これまでむしろ初発時の創造性の衰退を示すものとして否定的に言及されることが多かった。これに対してミンはこのような多様性を肯定し、それが端的に「ヌル1965」に参加したことによって得られた自信に裏打ちされていると説く。これは同時に具体におけるアンフォルメルの終焉を画す意味をもち、タピエによる具体の専横の終焉であった。この後、具体はいくつかのインターメディア系の展示に参加し、多くの前衛作家が反対を表明した万国博覧会にもあえて「具体美術祭り」で応えた。しかし具体にはもはやさほどの時間は残されていなかった。72年、オランダでのスカイ・フェスティヴァル再現についてオランダ大使と電話で会話中、吉原は脳出血で倒れ、まもなく他界する。傑出したリーダーに支えられた具体にとって吉原の不在は集団の解消を意味した。かくして60年代に具体が提起した国際的同時性という問題は十分に深められることなく、またその後の具体研究においても等閑視されてきたことをミンはあらためて指摘する。
 実際にはミンの議論は相当に入り組んでおり、単純な要約を許すものではないが、以上で少なくとも本書の核心についておおよその見取り図を与えたことと思う。最初に述べたとおり、このような研究は語学に通じ、日本人ではない研究者によって初めて可能な発想である。本書を読んで、私は近年きわめて近似した意識に基づいて執筆された研究が上梓されたことを想起した。本ブログでもレヴューした池上裕子の「越境と覇権」である。池上も時間的な影響関係ではなく、空間的な交渉を主題として、1964年のラウシェンバーグの活動を論じたが、本書においても具体という集団の歴史ではなく、空間的な関係が主題とされている。資料の綿密な調査、存命の関係者へのインタビューといった点においても共通点を有する二つの研究が、1960年代中盤、モダニズムの首都の座をめぐってパリとニューヨークが角逐を繰り広げていた時期に焦点を当てていることは偶然ではないだろう。(いうまでもなくこの点がミンの具体研究の独自性でもある)モダニズムにおいては中心と周縁という関係が成立する。モダニズムの中心において洗練された前衛は変形を被りながら、周縁へと伝播する。キュビスムからシュルレアリスムまで私たちはこのようなモデルをいくつも指摘することができる。これに対して池上においては移動、ミンにおいては相互詩学や同時性といったキーワードを介して、時間ではなく空間、伝播ではなく同期が論じられる。中心はもはや一つではなく複数、さらに「脱中心化」というモデルさえも提出される。これらの発想はモダニズムがもはや金科玉条ではなく、その相対化が図られた1990年代より顕著となり、展覧会としては、1989年、ポンピドーセンターで開かれた「大地の魔術師たち」、1998年、ロスアンジェルス現代美術館における「アウト・オブ・アクションズ」、1999年、クイーンズ美術館における「グローバル・コンセプチュアリズム」などが連なる。私はソビエト連邦が崩壊した時期よりかかる趨勢が力を得たことは偶然ではないと考えるし、美術史研究の分野に応用されて多くの成果を生んだ「グローバル・アート・ヒストリー」の研究者の多くが非欧米系の女性であることもまた一種の必然性を秘めていると感じる。
 本書はきわめて独特の研究であり、多くの新しい知見を得ることができたが、最後に私の立場からいくつかの問題点を指摘しておきたい。まず60年代中盤の具体に対する肯定的な評価に私は同意することができない。これまでにも具体の活動がその全幅において回顧された機会は何度かある。近くは2012年に国立新美術館で開かれた「具体 ニッポンの前衛 18年の軌跡」がこのような展示であった。このブログでもレヴューしたとおり、具体の作品が歴史的に概観された場合、60年代以降の作品の脆弱さは誰が見ても明らかであり、この印象は今回本書に掲出された、例えば第15回具体美術展の会場写真を見ても変わることがない。作品はばらばらで展示も散漫で希薄に感じられる。「新たな自信とエネルギーに満ちた具体メンバーは素材、テクノロジー、空間、そして動きを使って、真に革新的成果をみせた」というコメントは過褒に過ぎる。第五章以降、国際性や同時代性に注目するあまり、本書からは作品に対する価値判断という視点が失われたように感じられる。国際性を論じるうえでは62年の常設の展示施設の設立は決定的に重要であり、それゆえミンは従来の三期区分に対して、グタイピナコテカ設立以前と以後という具体の二分法さえ提起する。しかし私はこのような国際的同時性の検証は60年代ではなく、むしろ初期から中期の具体についてこそ試みられるべきではないかと考える。むろんそこにはタピエという毀誉褒貶の激しいプレーヤーが介在した。しかしモダニズムの核心とも呼ぶべき彼らのオリジナリティーはミンも説くとおり、この時期にこそ横溢しており、さらに当時の彼らには明らかに国際的同時性への自覚があった。歴史に「もし」はありえないとはいえ、私はタピエなき具体を夢想する。タピエが介在せずとも、具体の絵画が当時において世界的な評価を受けたと考えるのはあまりに無邪気な認識であろうか。しかし実際にタピエと接触する以前に具体の絵画はサイズや物質性、あるいはアクションの介在といった点において、すでに抽象表現主義に比肩しうる資質を獲得していたと私は考えるのだ。つまりタピエやヌル、あるいはゼロを経由せずとも、すでに複数のモダニズムは存在していたのではないか。そして本書には具体の絵画についての言及がきわめて少ない。印刷物に掲載された写真、マルティプルのミニチュア作品、下絵を引き延ばしてアドバルーンから吊り下げた作品、それらはモダニズムの外部にあって興味深いエピソードではあるが、本書を読む限り、少なくとも初期の具体の活動の中心に絵画が存在し、しかも高いクオリティーを秘めていたことを理解することは困難である。絵画を軽視することは具体にとってその可能性の中心を素通りする偏った見解である。
 あらためてグッゲンハイムにおける具体展を振り返るならば、本書における主張が随所に取り込まれていることがわかる。児童美術や具体カードボックス、「間主観的な」落書板といった本書で言及されたアイテムが展示に組み込まれ、遊戯性やインターメディア性が強調される一方で、絵画はその自立性を意図的に弱めて展示されていた。これらへの批判はすでにこのブログで行っているので繰り返さないし、逆に本書を読むことによってあらためてこの展覧会の暗黙の意図を了解することができた。私は日本の戦後美術史にそれなりに通暁しているから本書をある程度相対化して論じることができる。しかし多くの英語圏の読者にとっては今後、本書とグッゲンハイムの展覧会カタログが具体に関する理解の基礎となるはずだ。それなりに興味深い視点であるが、今述べたとおり、私はそれらによって具体の達成の本質が検証されたとは考えない。自らの国で成立したきわめて独自な運動であるにもかかわらず、その評価において私たちはいまだ「中心」からはるかに離れた「周縁」にいるのかもしれない。
by gravity97 | 2017-01-05 21:00 | 現代美術 | Comments(0)

b0138838_22383611.jpg

 ボードレールのLes paradis artificiels から引用されたのであろうか、楽園ならぬ「人工地獄」という奇妙なタイトルをもつ本書は20世紀の、そしてとりわけ1970年代以降、今日まで連なる、いわゆる「参加型」の美術の系譜を緻密に論じ、今日の美術の一つの趨勢を検証するきわめて興味深い研究である。ただしタイトル、そして構成は必ずしもわかりやすいものではない。「人工地獄」は本書の第二章のタイトルでもあるが、明確にその意味が提示されることがないため、一見したところ本書の内容はとらえがたいし、サブタイトルの「現代アートと観客の政治学」も抽象的でわかりにくい。本書を手に取り、レヴューすることが遅れた理由の一つはこの点に由来する。さらに序論と「社会的転回:コラボレーションとその居心地の悪さ」と題された第一章でいきなり本書の核心となる理論的枠組が語られるが、この箇所は全体の議論に慣れていない状態では相当に難度が高い。例えば第一章では本書の問題意識を反映した例として2001年、ジェレミー・デラーというイギリスの作家が発表した《オーグリーヴの戦い》と呼ばれる作品が参照される。おそらく日本の読者にとっては美術関係者であってもほとんど知ることのないこの作品は、確かに本書を通読するならば、議論の中で一つの参照点たりうることが理解されるが、最初に提示された際には本書の中でどのような位置づけを与えられているか判断することが困難である。逆にこの二つの章を通過するならば、論理の展開を追うことはさほど難しくない。第二章以降は「参加型」の美術の系譜が歴史的に概観される。ただしビショップがとる手法は網羅的な概観ではなく、いわばケース・スタディによって徴候をたどるそれだ。ケース・スタディとして選ばれた対象を列挙するだけでも本書の特色は明らかとなる。すなわち第二章においては20世紀の三つの前衛運動、未来派、ロシア・アヴァンギャルド、パリ・ダダが取り上げられ、続く第三章ではシチュアシオニスト・インターナショナル、視覚芸術探求グループ、そしてジャン=ジャック・ルベルによるハプニングについて論じられる。第二章の対象がよく知られているのに対して、第三章で論じられるグループや作家は相当にマニアックであるが、これらの連なりからは20世紀におけるパフォーマンス芸術の系譜が浮かびあがり、本書の類書として例えば翻訳も存在するローズリー・ゴールドバーグの『パフォーマンス』なども連想されよう。ただしゴールドバーグと比較するならば本書の特異性も明らかだ。すなわち本書においては、これまでパフォーマンスの歴史を語る際に必ず論及され、例えば同じテーマの展覧会としては過去最大級、日本にも巡回した「アウト・オブ・アクションズ」で中心的に取り上げられた北米におけるパフォーマンスが無視されているのである。このような姿勢がいかなる意味をもつかについては後で論じることにして、本書の概観を続けよう。続く第四章と第五章ではこれまで日本でほとんど紹介されることがなかった重要な動向について論じられる。すなわち1960年代から70年代にかけてのアルゼンチン、東欧、そしてソビエト連邦で繰り広げられたパフォーマンスの系譜である。先日、寺尾隆吉の「ラテンアメリカ文学入門」についてレヴューした際に、1960年代にアルゼンチンの文学がきわめて高い水準にあり、それを受容する知的に洗練された教養層が同伴したことについて論じたが、美術においても同様の深まりが認められる点は興味深い。例えばオスカル・ボニーという全く未知の作家が発表した、労働者の一家を「展示」するという試みは直ちにマリーナ・アブラモヴィッチやギルバート&ジョージを連想させよう。あるいはチェコスロヴァキアのミラン・クニージャークという作家については名前のみ知っていたが、本書を読んでパフォーマンスの詳細を確認することができた。以前よりラテンアメリカ、そして東欧がパフォーマンスにおいて多くの過激かつ重要な作品を生み出した地域であることを耳にしていたが、本書はパフォーマンスに関して、欧米中心の現代美術史とは別の美術史が脈々と存在することを説得的に論証している。ここで興味深いのは60年代のラテンアメリカ、70年代の東欧といった場がいずれも軍事政権や共産主義国家の圧政が支配する全体主義社会であったことだ。本書で紹介されるクニージャークの作品は圧政下での抵抗という文脈と複雑に絡み合っている。あるいはモスクワ・コンセプチュアリズムと深く関わる「集団行為」の一連のパフォーマンスは共産党の独裁という体制と深く結びついているだろう。これらの場における実践は実に興味深いが、詳細については本書を参照していただこう。第六章では再び西欧、イギリスにおける70年代の動向が論じられる。過激なパフォーマンスを繰り広げたジョン・レイサムの名は耳にしていたが、彼が芸術家斡旋グループ(APG)という活動に関わっていたことを初めて知った。作家と企業、産業をつなぐ興味深いプロジェクトは文字通りもはやパフォーマンスというよりプロジェクトと呼ぶべき内容である。著者の出身地であるイギリスにはこのような活動の長い歴史があることが、続くブラッキーやインターアクションといった運動との関係において検証される。第七章においても1990年以降、時にソーシャル・エンゲージド・アートと呼ばれる動向がドイツやフランスを舞台に様々な結実をもたらしたことが丹念に検証される。かかる傾向は単に作家のみならずドクメンタやミュンスター彫刻プロジェクトにおいてはキューレーションの問題とも深く関わっている。第八章で論じられる「委任されたパフォーマンス」の問題も私には実に新鮮に感じられた。「委任されたパフォーマンス」とは作家自身が行為するのではなく、「プロではない人々を雇い、一定の時間、一定の場所にアーティストの代理として存在し、アーティストの指示に従ってパフォーマンスを遂行する」試みである。この章を読んで私はとりわけ今世紀に入ってから世界の多くの場所で実見しながらも、その本質をつかめなかった一連の作品におおいに得心がいった思いがする。偶然ではあるが、私は先日、国立西洋美術館の「クラーナハ」展を訪れた。現代美術とクラーナハを交差させた興味深い展覧会についても機会があればレヴューしたいと考えるが、そこに出品されていたレイラ・バズーキというイランの作家の作品は、名画の模写によって生計を立てる中国の職人たちに制限時間内にクラーナハを模写させるというワークショップを課した結果の集積であった。アイ・ウェイウェイでもよい、田中功起でもよい。私は近年に発表された「他者によって代行されるパフォーマンス」の実例をいくつでも挙げることができる。本書の視点を得て、これらのなんとも名状しがたい試みに対して、目から鱗が落ちた思いがした。著者が「本書の執筆にあたって最大の難関となる」と述べる最後の章、第九章においては「教育におけるアート・プロジェクト」が論じられる。早くも60年代のヨーゼフ・ボイスによって創始されたペタゴジック(教育的)プロジェクトは今世紀に入って多くの作家、キューレーター、あるいは美術学校といった多様な関係者によって深められる。特にキューバ出身のタニア・ブルゲラ、アメリカのポール・チャン、ポーランドのパヴェウ・アルトハメル、そしてパリを拠点とするトーマス・ヒルシュホーンという四人の作家の実践が詳細に検証される。私はチャンのみ名前を聞いた覚えがある。ビショップが論じるチャンのプロジェクト、2007年の「ニューオリンズでゴドーを待ちながら」はハリケーン、カトリーナによって壊滅的な被害を受けたニューオリンズでベケットの演劇を上演するというものであり、単なる上演ではなく上演にいたる一連の教育プログラムがプロジェクトとみなされるという。このプロジェクト/作品は最近、そのアーカイヴがニューヨーク近代美術館に購入されたということであるが、この出来事はかかるプロジェクトと美術館の関係においても示唆的である。そういえば、おそらくは今も私たちも東京国立近代美術館のコレクション展を訪れるならば、ロビーで上映されている田中功起のプロジェクトを見ることができるはずだ。さらに私はここで今述べたチャンの作品を、1993年にスーザン・ソンタグが内戦下のサラエヴォでやはり「ゴドーを待ちながら」を上演した事例と比較したい誘惑に駆られる。終章においては本書の総括がなされるとともにアントニー・ゴームリーのトラファルガー広場を用いた「ワン・アンド・アザー」という公共的なプロジェクト、そしてドイツのクリストフ・シュリンゲンズィーフという映画監督/作家の「オーストリアを愛してくれ」という挑発的なプロジェクトに論及される。本書の最後で社会性の強い二つのプロジェクトが紹介されたことは暗示的である。
 以上、本書の内容を簡単に要約したが、このような概観からもこの研究が時間的にも空間的にも広い対象を扱い、リサーチに多くの時間を要する労作であることが理解されよう。本書全般について論じることは私の手に余るが、いくつかの所感を書き留めておきたい。本書は基本的にクロノロジカルに構成されているが、それは網羅的な通史を意味しない。先にも述べたとおり、ケース・スタディの連続によって一つの主題が深められている。第七章の冒頭でビショップは、かかる美術の系譜にいくつかの高まりがあることを指摘する。それは1917年、1968年、そして1989年という年記によって示される。これらの年代が革命や動乱とともに記憶に刻まれていることは偶然ではないだろう。すなわちロシア革命、五月革命、ソビエト連邦の崩壊であり、おそらくこの点は本書において北米についての言及が少ないことと関わっており、ここで論じられた試みが本質において「抵抗の美術」であることを暗示している。同じ箇所でビショップは1989年以降の美術の本質を次のようにまとめている。「私が1989年以後の芸術において重要だと考える意味での『プロジェクト』は、有限の物的対象としての芸術表現から離れ、可変=継続的(オープン・エンデッド)な特性、ポスト・スタジオ的なもの、リサーチ方式、社会的過程、長い期間をかけて拡張していくもの、そして柔軟性を形式とするものへの移行を希求する」プロジェクトという言葉からは直ちにヴィレム・フルッサーの「投企」といった概念なども連想されるが、議論をこれ以上拡張することは避けよう。可変=継続性という概念は本書の鍵概念の一つであり、参加型の美術の判定にあたっては一つの指標となるだろう。今述べたようないくつかの特性は具体的な作品のかたちをとらず、往々にして展覧会のかたちをとる。いわばモノからコトへの転換によって、作家以上にキューレーターが重要な役割を果たし、より正確には作家がキューレーターの役割を果たす場合が多かったことを本書は論証している。ユニテ・プロジェクト、中間の時間、インターポールといった私が初めて聞く展覧会/プロジェクトをとおしてかかる試みの成功や挫折が論じられる第七章は実に興味深く、個々に論じたい事例も多いが紙幅がない。
 「委任されたパフォーマンス」と題された第八章も問題提起的だ。私にとって本書はパフォーマンスとして一括りにされがちな20世紀中葉のそれと20世紀末から今世紀にかけてのそれとの間に明確な断絶を指摘し、理論化した点において画期的であるように感じる。例えば次の二つのパフォーマンスを比較してみよう。自らの下腹部を剃刀で星形に切り裂くマリーナ・アブラモヴィッチのマゾヒスティックなパフォーマンスと対価を支払うことを条件に応募者の背中にタトゥーの線を入れるサンチャゴ・シエラの作品。肉体を毀損するという点においては共通しているが、両者の相違もまた明らかだ。作家自身の身体を傷つける前者と金銭的契約を介して他者の身体に介入する後者。このうちシエラについては本書中にも言及がある。身体、契約、刻印、様々なコノテーションをはらんだシエラの作品をビショップは一つの言葉で要約する。「プロではない人々へ外部委託(アウトソース)されたアクション」アウトソースとはまさに今、私たちが日本の社会において目撃している不条理であり暴力ではないか。シエラの作品が可能であったのは、中南米においては低い対価を目当てに一生残る刻印を受け入れる、グローバリゼーションのしわ寄せを受けた低所得者層が存在しているためである。ここでは作家に帰属する身体ではなく、私たちが置かれた不均等な世界が作品の主題とされているのだ。そしてこの問題を作品の真正性と読み替える点にこそビショップの議論の鋭利さがある。彼は次のように説く。「アーティストはパフォーマーに権利を委任する。ただし委任は一方通行の上意下達というだけではない。ひるがえってパフォーマーもまたアーティストに一定のものを委任するのだ。それはもっぱら表象に取り組むアーティストには通常与えられていない、日々の社会的現実に接しているという真正性の保証である。支配的かつ自己規定的な真正性は、(裸であったり、自慰をしたり、腕に発砲したりする)単独のアーティストの存在から離れて、否定しようのない(ホームレス、人種、移民、障害といった)社会的、政治的な問題を換喩(メトニミー)として表す、そうしたパフォーマーの集団的存在に向けて再編される」作家自身が裸になったり、自慰をしたりする60年代のパフォーマンスに対して、半世紀後のそれはホームレスや移民といった代行者を得ることによって社会構造における真正性を獲得するという指摘は重要である。私はシエラの作品がはらむ反社会性あるいは反倫理性をいかに評価すべきか長い間考えあぐねていたが、本書を読んでようやく理解することができたように感じる。50年代において作家の肉体が素材とされたことは、よりリアルな感触を美術に持ち込むためであった。しかしもはや「作家の身体」はかかるリアリティーをもちえない。権力や暴力が不可視された世界において現実を取り込むためにはより巧妙な戦略が必要とされるのだ。この点をビショップは次のように指摘している。「この図式では倫理は重視されない。なぜなら芸術は既存の価値体系へとたえず疑問を投げかけるものとみなされ、そしてそこでは倫理観についても問われるためだ。より重要なのは、社会における矛盾を表象し、それを問題として取り上げるための、新しい語法を打ち立てることなのだ。社会的な視座の言説では、倫理観の欠如と実効性の無さをかどに、芸術的な視座の言説が批判される。なぜなら、世界を提示および複製すること、またはそれについて考察することだけでは、不十分だからだ。そこで重視されるのは、社会を変化させることなのだ」私はここで暗に示された、例えばアブラモヴィッチやヴィトー・アコンチ、クリス・バーデンらのアクションもまた既存の価値体系への批判であると考える。パフォーマンスが本質において「抵抗の美術」であったことを想起するならば、それは何の不思議もない。しかし本書が論証するのはもはやそのような戦略においては作品が社会と切り結ぶうえでの真正性が確保されないという認識である。それに代わる新しい戦略を導出し、新しい「抵抗の美術」を生み出すことが求められている。そして本書を読む限り、私たちは悲観的になる必要はない。今世紀に入って次々と発表された「参加型アート」は新しい抵抗の地平を広げつつあるからだ。本書においてアジアでの実践について全く触れられていないことはやや残念に感じる。先にアイ・ウェイウェイの名を挙げたが、かつてのアルゼンチンや東欧と同様に全体主義体制下にある現在の中国におけるアヴァンギャルドの沸騰は本書の問題意識と深く関わっているはずだ。そして例えば前回のブログで論じた小泉明郎をはじめ、美術館の検閲を受けつつも実施された「キセイノセイキ」における発表などを想起する時、今や戦時体制下にある日本においても美術家における抵抗が組織されていることを知る。本書は彼らにとって大きな励みとなるはずだ。まことに時宜を得た翻訳であり、私たちは抵抗しなければならない。
by gravity97 | 2016-12-16 22:43 | 現代美術 | Comments(0)

b0138838_23172877.jpg

 本書がしばらく前に刊行されていたことは知っていたが、読むまでに時間がかかった理由は、それぞれの章の原型となる論文について、既に『美術史』や大学の紀要で目を通した記憶があったためである。あらためて通読して、巧みに配置されたそれらの論文から個々の論文のみでは読み取ることの困難な、著者の意図をうかがうことができたように感じた。それは戦後アメリカ美術に新しい見取り図を与えるという発想であり、確かにこれまで見過ごされていた運動や美術家を取り上げ、作品を中心とした美術史観に立たない本書は戦後美術に対する新しい視野を提供する。しかしながら今述べた著者の野心的な企みが十分に実現されたかと問うならば、必ずしも成功していないというのが私の率直な感想だ。
 一読して明らかなとおり、そして著者もあとがきで述べているとおり、本書の特徴はマルセル・デュシャンという作家を主題としながら、デュシャンの作品についての記述がほとんど見受けられない点である。デュシャン研究の先例としては東野芳明の『マルセル・デュシャン』という大著が存在し、東野の研究が徹底して作品研究であったから、あえてこのようなスタンスをとったことは十分にありうるだろう。本書の原型となった博士論文が大学に提出された同じ年に平芳は勤務していた美術館で「マルセル・デュシャンと20世紀美術」という展覧会を企画している。カタログに収められたテクストはいずれも物足りないものであったから、著者としては本書と展覧会によって自身のデュシャン研究に一つの完結を与えようとしていたのかもしれない。
 序章と終章を除いて六つの章によって成立する本書においてデュシャンと対比される美術の動向は明確に名指しされている。第二章ではキュビスム、シュルレアリスムというフランスに由来する美術運動、第三章ではネオ・ダダ、第四章ではフルクサスとハプニング、第五章ではポップ・アート、第六章ではコンセプチュアル・アート、そして第七章では作家の死後に公開された《与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガス》を中心に、本書では例外的に作品をめぐる議論が展開される。デュシャンと対比して論じられるこれらの動向の系譜は暗示的だ。いうまでもなくそれは一面ではパリからニューヨークへ、近代美術の王座の移譲を示唆しており、フランスに生まれ、1915年にニューヨークに渡ったデュシャンがかかる移動を体現しているとみなすことはあながち的外れではないだろう。しかしながら第三章以降で論じられる対象は近現代美術の正系と私たちが信じている作家や運動をみごとなまでに外している。すなわち本書においてクレメント・グリーンバーグが説いたモダニズム/フォーマリズムの系譜は一顧だにされない。したがって本書はデュシャンという補助線を引くことによって、戦後アメリカ美術の系譜をいわば裏側からたどる試みといえるかもしれない。フォーマリズムという正系に対する、かかる異端の系譜は果たして積極的な意味をもつのであろうか。
 個々の章について手短にコメントを加える。「記述するデュシャン/記述されるデュシャン」と題された第二章ではアメリカへのデュシャンの導入がキュビスムとシュルレアリスムという二つの運動との関係で論じられる。いうまでもなくデュシャンの名を広くアメリカの大衆に知らしめたのは1913年のアーモリーショーに出品された《階段を降りる裸婦》をめぐるスキャンダルであった。この作品自体、キュビスムというより未来派的な印象を与えるが、デュシャンをアメリカへ導入するうえでキュビスムと言う参照項は有効であった。私は本書を読んでデュシャンが1936年にニューヨーク近代美術館で開かれた二つの重要な展覧会「キュビスムと抽象美術」、「幻想美術、ダダ、シュルレアリスム」のいずれにも出品していることを初めて知った。しかしキュビスム、シュルレアリスムのいずれの側面を強調するかによってデュシャンの位置は微妙に異なる。さらに彼はいずれとも相容れない異物をすでにアメリカの美術界に投下していた。いうまでもなく1917年、ニューヨークのアンデパンダン展で発表(というか撤去)されたレディメイドの小便器《泉》である。この章においてはキュビスムとシュルレアリスム、そしてレディメイド-ダダイスムを暗示していることはいうまでもない-という三つ組みをめぐる美術界と作家のスリリングな駆け引きが分析され、さらにタイトルが示すとおり、デュシャン自身によるテクストも検討され、以後のデュシャンの活動を想起する時、重要な意味をもつ匿名性や科学性への志向が指摘される。
 ヨーロッパに起源をもつ「イズムとしての芸術」と関連してデュシャンの作品が論じられた第二章に続いて、第三章以降ではアメリカに由来する新しい美術とデュシャンの関係が分析される。まず俎上に上げられるのはジャスパー・ジョーンズとロバート・ラウシェンバーグというネオ・ダダの二人である。ネオ・ダダという呼称から明らかなとおり、この章で問題とされるのはダダイストとしてのデュシャンの位置である。平芳はデュシャン評価の軸が絵画のみならず、レディメイドをはじめとする一連のオブジェへと推移した状況を確認しつつ、デュシャンとダダイスムの関係を確認する。著者も述べるとおり、この変化にはアメリカにおけるダダイスムの再評価という歴史的背景があり、かかる状況にはヨーロッパ美術に通じた抽象表現主義の画家、ロバート・マザウエルとデュシャンが深く関与していた。デュシャンをダダと結びつけるのは単にオブジェのみならず、作品の制作を放棄してチェスに没頭したという一種の芸術家伝説であっただろう。ここでダダイスムの作家としてのデュシャンと対比されるのは、章のタイトルが示すとおり、画家としてのデュシャンである。50年代のデュシャンが画家とダダイスムの間で分裂していたとみなす時、両者を再び統合することがネオ・ダダの作家たちの役割であったという仮説が提起される。その傍証として示されたネオ・ダダの作品における「絵画性」の問題について私としてはなお論じたい点もあるが、ひとまず本書の議論を追うことにしよう。続く第四章で比較されるのはフルクサスの芸術家、そしてマルチプルの問題である。先に本書の各章には原型となった論文が存在すると述べたが、第四章は書き下ろしである。フルクサスとは60年代にドイツのヴィスバーデン、ニューヨーク、そして東京などで同時多発的に発生した、行為を作品として発表する文字通り「流動的な」グループであり、その起源としてジョン・ケージが位置づけられる時、デュシャンとの親近性も自ずから明らかであろう。両者の関係はヴォルフ・フォステルの「デュシャンはオブジェに芸術への資格を与えた。私は生活に芸術の資格を与えた」という言葉に端的に示されている。デュシャンとの関係はいわゆるフルクサス・キットとヴァリーズ(トランクの箱)の関係にも認められよう。(私はこの問題を先日物故した東京フルクサス、中西夏之が構想していた一つのプランと結びつけたい誘惑に駆られるが、匿名を前提としたこのブログではこれ以上その詳細を記すことはできない)ここで提起されたハプニングとフルクサスのイヴェントの区別も興味深い指摘である。しかしながらこの章の最後で、不確定性という概念をアリバイに論じられるフルクサスと抽象表現主義、ことにポロックのアクションとの接続は強引に感じられる。具体的な作品論を欠いているため、議論は抽象的で飛躍がある。作品論の欠落に由来する同様の飛躍、議論の抽象性はポップ・アートとレディメイドと関係を論じる第五章にも認められる。平芳はデュシャンが生活していた60年代のアメリカで「ポップ・アート」がすでに「アメリカ性」のアイコンとなっていたことを確認したうえで、通俗性と芸術の対比、さらに匿名性と芸術性の関係がレディメイドを参照しつつ論じられる。しかし当初単独の論文として発表されたためか、この章では平芳がデュシャンとポップ・アートのいずれを念頭に置いて論じているのか判然としない。ポップ・アートを介して新しいデュシャン像が浮かび上がる訳でもなく、デュシャンを口実としたいささか平板なポップ・アートの解説に終始した印象は否めない。もっとも本書がデュシャンと戦後アメリカ美術という二つの主題を二つの中心、いわば楕円として取り込んでいる以上、このような二重性は避けられないかもしれない。続く第六章ではコンセプチュアル・アートの作家、ジョセフ・コスースとフォーマリズムの批評家クレメント・グリーンバーグの関係が論じられている。大学の紀要として読んだ際には特に違和感はなかったが、本書の中に組み込まれるならば、ほかの章といささか乖離した印象がある。この章ではコスースが提唱するコンセプチュアル・アートが戦後アメリカ美術のドグマ、グリーンバーグのフォーマリズムをいかに相対化するかという問題が論じられる。形式に対して機能という概念を提案することによってフォーマリズムの限界が明らかにされ、モダニズムの自己批判や視覚性といった主題を介して、実はコスースの説くコンセプチュアル・アートとフォーマリズムのフレームが相似性を有していたと説く平芳の主張自体はおおいに興味深い。しかしなぜコスース、なぜコンセプチュアル・アートなのか。ネオ・ダダ、フルクサス、ポップ・アートと論じられてきた「フォーマリズム美術の裏側」を論じるにあたって、続いて参照されるべきはミニマル・アートではないか。レディメイドが本書の主要な論点となっている点から考えても、次に対比されるべきはカール・アンドレの煉瓦やダン・フレイヴィンの蛍光灯であり、ロバート・モリスが初期に明らかにデュシャンを意識した多くの作品を制作していた点も論究されてよいはずだ。実体的な作品を伴うミニマル・アートではなく、美術作品をメタレヴェルで問題とするコンセプチュアル・アートを対照項としたために、個々の作品ではなくデュシャンとフォーマリズム美術という審級の異なった問題が比較されることになってしまったように私は感じた。もちろん本書が全体としてグリーンバーグ流のフォーマリズムへの対案を提示することを一つの目的としていることは理解できる。しかし「コスースの位置、グリンバーグの位置」という章のタイトルが示すとおり、この章でデュシャンは後景に退き、実際にデュシャンについての言及はほとんど見当たらない。これを補正するかのように続く第七章では逆にデュシャンの作品と作家性が主題とされ、特にデュシャンが秘密裡に制作し、死後公開された「遺作」をめぐる伝記的事実、そして本書としては珍しい作品についての具体的な記述を通して興味深い議論が展開される。ここでは作品の帰属や美術館という制度、あるいは(レディメイドの作家による)視覚的複製の禁止といった、これまでのデュシャン論では十分に取り上げられることがなかった問題に論及され、ヴァリーズや大ガラスにも新しい観点からの分析がなされる。ことにレディメイドという手法によって生涯にわたって芸術の遍在性、作品の複数性を主張したかにみえたデュシャンが、晩年にたった一点の作品、フィラデルフィアに赴くことによってしか体験できない作品を密かに制作していたこと、網膜的絵画を批判した作家が意識的に眼差しを向けること(意識的にならざるをえない、なぜならば覗き穴を介した窃視の視覚であるから)によってしか知覚できない作品を制作したことの逆説はなんとも皮肉に感じられた。作品論から制度論までを包摂するこの章の射程は深く、本書において最も興味深く感じられた。
b0138838_23185663.jpg 著者は国立国際美術館で企画した展覧会のカタログにおいて、デュシャンの影響を受けた作家たちに対して Mirrorical Returns、鏡の送り返しという奇妙な言葉を使っている。逃走線やら係争点、本書において繰り返される独特の言葉遣いやチェスに関するアナロジーが少々鼻につくとはいえ(そもそもmirrorical なる言葉は語義的に存在するのか?)、この言葉は戦後アメリカにおけるデュシャンの影響が、鏡が鏡を映すような一種の無際限の自己言及に陥ったことを端的に示しているだろう。デュシャンとアメリカの戦後美術がお互いを無限の鏡像とする「鏡の送り返し」の状況にあるという平芳の見立てはおそらく正しい。問題はこのような連鎖が果たして生産的な意味をもちえたかという点である。端的に述べるならば、ここで一つの歴史として提示されるデュシャンの「衣鉢を継いだ」作家たちの作品は、グリーンバーグが提起したフォーマリズムに連なる作品に比べておおいに見劣りがするように感じられる。おそらくこの点は本書において作品論が巧みに回避されていることと無関係ではない。戦後アメリカ美術においてデュシャンとは作品を通してではなく作家として、より正確にいえば作家としての無為を通して神格化されてきたのではないだろうか。キュビスムがポロックのポード絵画を生み、ポロックの晩年の絵画がステイニング絵画へと昇華されるような「創造的な過程」はデュシャンの周辺には発生しなかった。デュシャンを「一人だけの運動」と読んだのは確かデ・クーニングではなかったか。ロバート・モリス、森村泰昌、ゲルハルト・リヒターといった重要な例外は存在するにせよ、私はかつて「マルセル・デュシャンと20世紀美術」で見た「デュシャン以降の芸術」の出品作品の大半が凡庸であったことを、本書を通読してあらためて思い出した。デュシャンとは作家たちにとって甘美な罠ではなかっただろうか。作品を作らずとも作家になれるという囁きは偉大な抽象表現主義の達成に圧倒された作家たちにとっては一つの救済に感じられたかもしれない。しかし偶然性とレディメイドを導入したネオ・ダダ、生活を芸術と読み替えたフルクサス、大量消費社会のアイコンとしてのポップ・アート、いずれの場合も作家たちをめぐるささやかなエピソードには事欠かないとはいえ、真に優れた作品を欠いていると考えるのは私だけであろうか。作家研究は必ずしも価値判断を伴わないかもしれない。とはいえ、平芳の言葉を借りるならば、「与えられたとせよ 1. 戦後アメリカ美術 2. デュシャン」という錯綜した場の可能性は、もう一度作品に立ち返って検証されてよいだろう。平芳は冒頭で本書の問題意識を次のように要約する。「戦後アメリカ美術という言説空間において、デュシャンはどのように受容され、回収され、消費されていくことになるのであろうか」デュシャンであればこう答えて私たちを煙に巻くはずだ。「答えはない。なぜなら問いが存在しないからだ」
by gravity97 | 2016-11-26 23:21 | 現代美術 | Comments(0)

栗本高行『墨痕』

b0138838_20441110.jpg
 
 前衛書というきわめて難度の高い主題に対して、若手による画期的な論考が発表された。あとがきによれば本書は多摩美術大学に提出された博士論文を原型とするらしい。学術論文らしい生硬さは感じられもするが、多くの資料が渉猟され、示唆に富む内容である。なぜ前衛書というテーマの難度が高いか。その理由は明白だ。今日、一方で書は多くの結社や組織を抱えて、絵画や彫刻といったジャンルと比しても圧倒的な隆盛を誇っている。しかしその一方、一部の団体展を除いて、美術館で書作品が展示されることは稀であり、多くの美術館は書に対して堅く門を閉ざしている。一方に大衆による受容、一方に「美術」からの徹底的な疎外。今日、書と展示をめぐる奇妙な捩れは明らかであり、書を理論的に研究する場所をアカデミズムの中に見出すことはさらに困難である。そして本書の「書芸術におけるモダニズムの胎動」というサブタイトルも本書が直面する困難を暗示しているだろう。なぜならばモダニズムはメディウムの限定を前提としているにもかかわらず、前衛書とは文字とイメージという二つの可能性の間に開かれた場、本書の表現を借りるならば可視性と可読性のはざまに成立する奇跡のような表現なのであるから。
 いきなり本書の核心に触れてしまった。もう少しゆっくり本書の議論を追うことにしよう。本書の核心は帯に記された「書は文字か形象か」という惹句にも既に明らかであり、中心的な主題がいわゆる前衛書をめぐることも予示されている。1950年代に勃興した前衛書についてはこれまでにも若干の研究史は存在するし、その中核とも呼ぶべき墨人会、あるいは森田子龍の「墨美」に関しては展覧会として検証もされてきた。しかし私の見るところ、本書の第一の意義は前衛書の問題をさらに遡って金子鷗亭や手島右卿からていねいに説き起こし、比田井南谷らによる前衛書の発生と消長を歴史化していく点に求められる。私も前衛書と抽象絵画の関係については以前より関心をもっていたが、その前史についての研究は石川九揚の一連の著作くらいしか知らない。本書において筆者は小山正太郎の「書ハ美術ナラス」論争から始めて、比田井天来、上田桑鳩、大澤雅休といった書家の書論と作品を詳細に検証し、前衛書の発生にいたる経緯を明らかにしている。この過程では二つの作品の陳列拒否事件が重要な意味をもつ。すなわち二曲一隻屏風に描かれた上田の《愛》(1951)とやはり二曲一隻に描かれた大澤の《黒岳黒谿》(1953)である。はいはいをする孫の姿から着想され一見すると「品」という文字と読める前者、ミロの絵画を強く連想させる後者がいずれも展示を拒否されたという事件は書字の意味性、書字とイメージといったこれ以後の前衛書が主題化する問題を早くも予示するかのようだ。続いて栗本は比田井天来の門下の俊英たちがそれぞれ挑戦した三つのジャンルについて分析する。すなわち金子鷗亭の近代詩文書、手島右卿の少字数書、そして比田井南谷の前衛書である。具体的な作品の分析に基づく議論は説得的である。これらはいずれも従来の書概念を覆す可能性を秘めていたが、前二者がなおも文字性と深く結びつていたのに対して、比田井南谷は1945年の記念碑的な作品《心線作品第1・電のヴァリエーション》において前衛書の誕生を画した。この作品の誕生について栗本は次のように説く。「画家が大作の構想を練り上げる過程で下図を作るように『奇怪な線や点』を書く秀作を積み重ねた果てに、突如、それらの草稿にしまいこまれていた線の展開可能性が、書として新しい概念を持つ作品に昇華、結実する瞬間が訪れる。そして、その劇的な変化の触媒となったのは古文、すなわち漢字のきわめて古い書体を示す書の古典であった」このようなブレークスルーからほぼ同じ時代になされた抽象表現主義の画家たちによるそれを連想することは強引であろうか。
 次いで比田井門下の書道芸術社に連なる二人の書家が論じられる。上田桑鳩と宇野雪村である。字座や構図といった独特の概念を駆使して自らの書を語る上田と視覚性を重視してほとんど抽象絵画の域に達した宇野、彼らの書論の核心についてはこの短いレヴューで論じることは不可能であるから直接本書を参照していただきたいが、私があらためて驚いたのはすでにこの時点で書に関して極めて深い思考と実践が重ねられていた点である。あるいは掲載された小さな図版からの判断であるにせよ、1956年に制作された宇野の《直進》という作品は栗本も指摘するとおり60年代のミニマル・アートを連想させる一種凄絶な美意識を感じさせる。私はあらためて50年代の前衛書については造形性という観点から再検証されるべきであると強く感じた。しかし同時に造形性こそが前衛書にとって決定的な隘路となった点にも留意されるべきであろう。私はこれらの作品の造形性に感銘を受ける。しかしながら例えば宇野の作品に対して、本書では次のような評価が紹介されている。「(知・情・意のうち)意は抽象的な知覚能力であり、稀に見る確かな技術に支えられて昇華した作品群の根底に存在するものである」私が書についての批評を読む際の異和感は常にこのような言葉に関わっている。私は前衛書に関して、その形式において圧倒される。しかしその評価はしばしば書家の精神と関わり、さらに古筆との関連、つまり「その起源となったはずの数多の古典の存在」によって保証されるのだ。次に述べるとおりこのような発想は森田子龍ら、まさに前衛書の核心においても認められるのであるが、私は古筆を臨書することによって書家が新たな境地を得るという指摘が理解できないし、そもそもこのような発想はモダニズムの対極に位置するのではないだろうか。
 上田桑鳩のもとには多くの優れた才能が結集していた。宇野雪村もその一人であったが、前衛書という観点に立つならば、墨人会を結成した森田子龍、井上有一が本書にとって中心的な書家となることは容易に理解できよう。まず書論の極北とも呼ぶべき森田子龍の思想が俎上に上げられ、これらの発想が具体的な作品にどのように反映されているかが検証される。続いて井上有一については具体的にサンパウロ・ビエンナーレに出品された《愚徹》が制作された過程を検討し、さらに名高い「貧」の書のヴァリエーションを分析しつつ井上の書の特性が論じられる。後で論じるとおり、この二人の対比は前衛書の本質を考えるにあたって大いに示唆的である。「書壇からの脱出とその帰結」と題されたこの章は前衛書というテーマからして本書の中心的な位置を占める。そしてこれに続いて筆者はもともとの博士論文には存在しなかった章を補説として加えている。「書と美術の接点とは」と題された章は50年代における書と抽象絵画の関係をさらに広い視野から論じている。具体美術協会の作家たちと墨人会の書家たちの交流、あるいは『墨美』誌に拠る前衛書と欧米の抽象画家たちとの交流を想起するならば、かかる章が加えられたことの必然性は容易に理解されようし、筆者は書家と画家に限らずクレメント・グリーンバーグから東野芳明にいたる批評家たちの言説も視野に収めながら、書と抽象絵画の交流の可能性と限界について議論を展開している。
 最後の章ではやや意外な主題が扱われる。タイトルが示すとおり「漢字かな交じり書の可能性」である。栗本も指摘するとおり、現在、書とは漢字書、かな書、前衛書、漢字かな交じり書の四つに分類される。現在団体展等における書の分類もこのような前提に立つ場合が多い。筆者が指摘するとおり、このうち前衛書を志向する書家たちは「いずれも作家としての自己形成期に、漢字書の学習で線を鍛えた人物ばかりである」50年代の墨人会の書、そしてこれまで本書において言及されたほとんどの「前衛的」な作品は漢字に出自をもっていた。これに対して、かなを用いた前衛書は存在しないのかという問題が最終章で論じられる主題だ。表題のとおり、漢字かな交じり書こそがこの問いへの回答である。この章で論じられる書家にはこれまでほとんど論じられたことのない人物が多い。まず千代倉桜舟、そして大澤雅休と大澤竹胎という兄弟、青木香流、森田安次である。このうち比田井天来門下の大澤雅休については既に触れた。しかしほかの書家はおそらく相当書に詳しい専門家でなければ初めて聞く名前であろう。少なくとも書と抽象絵画という文脈で論じられることのなかった書家である。しかしこの章は私にとってきわめて興味深かった。漢字かな交じり書において宮沢賢治や草野心平の詩が好まれる理由、あるいはオノマトペとの関係など、より深く検討してみたい問題は多いが、詳細な議論は本書に譲るとして、ここでは書とは無縁と思われていた主題が一つの切実さ、あるいは重要性とともに浮かび上がる点に注目したい。それは戦争という主題だ。かかる主題が召喚される時、本書の中心的な書家の一人が再び取り上げられることは何の不思議もない。《東京大空襲》そして《噫横川國民学校》を発表した井上有一である。井上は50年代には漢字による少字数書によって、1978年には漢字かな交じり書を用いたこれらの作品によって圧倒的な存在感を示す。このような作風の広がりをもつ書家を私はほかに知らない。そして最後に結として筆者は本書における問題意識と議論を手短に要約するとともに、コンピュータがかくも発達した時代において書は全く新しい課題を与えられていると述べる。
 ひとまず本書の構成を示したが、きわめて多産的なテスクトである本書については、様々な主題から多くの可能性が開かれるだろう。ここでは私も本書に触発されて導かれたいくつかの思考を書き留めておきたい。本書の最後に漢字かな交じり書が一つの主題として提示されていることに私は最初やや異和感を覚えた。筆者も論じるとおり、前衛書が会場芸術としての存在感を帯びるためにはストロークの骨格が明瞭な漢字による一字書もしくは少字数書が最も効果的であるからだ。墨人会の初期の代表作がほとんどこのような書であったことには理由がある。さて、最初にも記したとおり「書は文字か形象か」という問いかけは本書を通底する主題であるが、漢字書とかな書の違いは実は字数にあるのではないだろうか。漢字書は一字ないし数字でも成立するが、かな書においては(千代倉桜舟の超大字かなという例外を除いて)数字書ないし大字書は成立しない。かな書はひとまとまりのテクストを書き写す場合が多く、宮沢賢治のテクストなどが好まれたことは先に記した通りである。前衛書の本質を検討するうえで文字の数は決定的に重要ではないか。一字書であれば私たちは書かれた文字/形象を瞬時に知覚する。このような知覚に対してマイケル・フリードがミニマル・アート批判の論文の末尾に書きつけた現在性 presentness という概念を差し向けるのは悪乗りにすぎようか。一方、二字以上で構成された書については必然的にそれらの文字を読む順番が成立する。そして私たちが文字を一定の順序に沿って読む時、そこには時間性が成立する。例えば森田子龍のほとんど判別することが困難な《灼熱》を前にする時、私たちは提示されたイメージを二つに分節し、右から左へ読む。この時、書は一瞬に把握されることはない。右から左への視線の運動を介して意味が成立する。つまりイメージが時間化されるのだ。これに対して一字書は瞬時に全体が知覚され、イメージが空間化されている。書は文字か形象かという問いはまさにこの問題に関わる。両者の対比が可読性と可視性へとパラフレイズされうることはいうまでもないが、この時、それぞれを時間性と空間性として区別することはできないか。このようなディコトミーを導入する時、森田子龍と井上有一という前衛書の二人の巨人の作品に対して明確な断絶を見出すことができよう。私の考えでは森田は文字、可読性、時間を重視する。これに対して井上は形象、可視性、空間に重きを置く。いうまでもなくもはや文字数は問題ではない。森田は多くの一字書を制作しているし、井上も少字数書を発表している。おそらく森田にとっては一字書であっても明確な時間性が内包されている。理由は単純だ。それが文字である以上、そこには正しい書き順があり、制作の時間が存在するからだ。このような事実を森田は制作者すなわち書家の生、森田の言葉を用いるならば、境涯の美しさの問題へと展開していく。森田は人間もまた時間的な存在とみなし、書にやり直しが効かないように、生もまた一回的であると説く。森田の書論の苛烈さはかかる認識に由来する。これに対して井上の書は空間性に拠っているのではないか。《愚徹》や《不思議》といった代表作を前に私たちはそれを文字として読み下す前に、イメージの強度に圧倒されないだろうか。この問題をさらに深めるのが漢字かな交じり書の達成である。
 森田ほどの境地に達さない限り、時間性を見出すことが困難な一字書に比べて、漢字かな交じり書は容易に時間を内包するはずだ。なぜならそこにはテクストが存在し、それを読む時間が存在するのであるから。確かに通常のかな書であればこのような理解は可能だ。しかし「漢字かな交じり書の可能性」の章で紹介される作品の多くはこのような理解を逸脱する契機をはらんでいる。先に触れたオノマトペの問題は深くこれに関わっている。たとえば草野心平の詩からとられた二つの作品において千代倉桜舟は「る」という仮名を、大澤雅休は「ぎやわろっ」というフレーズを繰り返すのであるが、時に重複し時に密集する仮名はもはや意味をもった文字としては読めず、一種の形象性を獲得している。さらに重大な問題を提起するのは東京大空襲に取材した井上有一の一連の作品である。子細にながめるとそこには確かに漢字と仮名をみとめることができる。次のような文言であるという。「一千難民逃げるに所なく/金庫の中の如し/親は愛児を庇い/子は親に縋る」そこには空襲の中の地獄のような情景が記されている。しかしそのような印象は文字ではなく形象によっても感得されるのではないか。栗本は次のように述べている。「多字数の書といえば、ひたすら文字を書く行為に徹したものだという先入主とはうらはらに、この書を眺める鑑賞者の視線は、あたかも阿鼻叫喚の地獄絵図を繙いてしまったかのように、その場に茫然と凝り固まる。つまり全体が一場の悲劇を描いた絵画のように見えるという効果を発するものとなっているのだ」そして栗本は作品における墨の線の塊が端的に死体のかたまりを連想させると説く。私もこの見解には同意する。そしておそらくこのような印象は書かれた言葉とは直接には関係をもたない。私が《噫横川國民学校》から直ちに連想したのは藤田嗣治の一連の戦争記録画、それも《アッツ島玉砕》や《サイパン島同胞臣節を全うす》といった死屍累々の情景を描いた絵画である。可読性の書であるはずの漢字かな交じり書の中にイメージが立ち上がるという逆説こそが、井上の漢字かな交じり書を比類ないものとしている。本書には奇しくも類似した情景を描いた書として青木香流の《春光五百羅漢》という作品の図版が掲載されている。フィリピンで散華した戦友たちを思って制作されたという作品には無数の「佛」という字が散らされている。おそらく山野に打ち棄てられた無数の骸を念頭において書かれたこの作品は静謐な印象を与え、一連の視覚詩を連想させる。これに対して井上において画面を満たす墨痕の鮮烈さは作品に圧倒的な存在感を与える。
 今、思わず墨痕という言葉に触れたが、本書のタイトルはまことに暗示的である。通常であれば墨象作品が名詞化された場合、用いられる言葉は墨蹟であろう。墨蹟がすでに生成された書のかたちであり静的であるのに対して、痕跡としてのイメージ、墨痕という言葉にはすでに一種の力動性が内包されている。おそらくはかかる力動性にこそ前衛書の本質が存しているのではないだろうか。先に述べたとおり、前衛書はいくつもの対立の中で引き裂かれている。そしてそれらの対立を止揚することによって優れた書作品は成立しているのではなかろうか。私は書における時間を重視する森田子龍の書論は前衛書のうえに屹立する存在であると信じるし、漢字による一字書から漢字かな交じり書における圧倒的な達成まで壮絶な作品の発表を続けた井上有一の一連の作品の圧倒的な存在感も思い知った。前者が還元的、内省的であるのに対し、後者は横断的、直情的であるが、それはいずれかが優れていることを意味しない。火と水のような二つの個性が少なくとも一つの時代を共有し、一つの集団を形成したのだ。形象にして文字、時間にして空間、このような表現は西欧のモダニズムには存在しないだろう。そして「墨痕」とはかかる奇跡的な事件の謂ではなかろうか。
by gravity97 | 2016-04-24 20:47 | 現代美術 | Comments(0)

b0138838_201950100.jpg
 今年の読書の締めくくりにきわめて興味深い論考を読んだ。単に最後に読んだという意味だけでなく、この一年、そしてこれまでこのブログで論じた様々な対象と深く結びついた内容であった。サブタイトルからわかるとおり、ユダヤ人強制収容所を体験した詩人、パウル・ツェランと現代のドイツを代表する画家アンゼルム・キーファーの二人を軸に多様な主題へと広がる論考である。強制収容所をサヴァイヴした詩人としては今年、このブログでも細見和之による石原吉郎の評伝と研究について論じた。ツェランはセーヌ川に投身し、石原は「法医学的にはどうであれ、文学的に見る限り、明らかに自殺」を遂げたことが知られている。ツェランの死は1970年であるから1945年にドイツに生まれた画家と直接の知遇があったとは考えられない。しかし私も以前よりキーファーの作品をとおしてツェランの詩の一節を知っていた。キーファーの作品のタイトル《君の金色の髪、マルガレーテ》はツェランの有名な詩、「死のフーガ」から引かれている。冒頭と最後を引用する。

 夜明けの黒いミルク私たちはそれを夕べに飲む
 私たちはそれを昼に朝に飲む私たちはそれを夜に飲む
 私たちは飲むそして飲む
 私たちは空中に墓を掘るそこは寝るのに狭くない
 ひとりの男が家に住む彼は蛇たちと遊び彼は書く
 彼は暗くなるとドイツへ書くお前の金色の髪マルガレーテ
 彼はそれを書き家の間に歩み出るすると星々は輝く彼は口笛で猟犬を呼び寄せる
 彼は口笛でユダヤ人たちを呼び出し地面に墓を掘らせる
 彼は私たちに命令する奏でろさあダンスのために

 (中略)

 夜明けの黒いミルク私たちはお前を夜に飲む
 私たちはお前を昼に飲む死はドイツから来たマイスター
 私たちはお前を夕べに飲む朝に飲む私たちは飲むそして飲む
 死はドイツから来たマイスター彼の眼は青い
 彼は鉛の弾でお前を撃つ彼はお前をはずさず撃つ
 ひとりの男が家に住むお前の金色の髪マルガレーテ
 彼は私たちを猟犬で狩り立てる彼は私たちに空中の墓を贈る
 彼は蛇たちと遊び夢見る死はドイツから来たマイスター
 お前の金色の髪マルガレーテ
 お前の灰色の髪ズラミート

 明らかにこの詩は強制収容所を主題としており、壁際で射ち殺されたツェランの母親が反映されているかもしれない。この詩の中からキーファーのいくつかの作品のタイトルがとられている。最もよく知られているのは「お前の金色の髪マルガレーテ」だ。この句をタイトルにした作品は複数存在し、最近では国内を巡回した台湾のヤゲオ財団のコレクション展に《君の金色の髪マルガレーテ》というタイトルで出品された作品が記憶に新しいが、今いくつかのカタログを確認したところ、サーチ・コレクションにも《マルガレーテ》というタイトルの作品が収められているようである。あるいは画集を含めて私は未見であるが、《お前の灰色の髪ズラミート》というタイトルの作品も本書に図版として掲載されている。私はどちらかといえば、美術の領域からキーファーの名前に引かれて本書を手に取った訳であるが、実は私はキーファーの作品をさほど見ている訳ではない。私が最初にキーファーの作品を見たのは、以前、このブログにも記したとおり、1987年、カッセルのドクメンタの会場であった。《オシリスとイシス》という巨大な作品を見てのけぞるほど感銘を受けたことを覚えている。私はその後、フランクフルトとマドリッドで比較的まとまった数のキーファーの作品を見た記憶があるが、キーファーの個展は1993年に日本を巡回した展覧会しか見ておらず、ことに90年代以降のキーファーの絵画の展開を系統的に見ていない。もちろん90年代以降もヨーロッパの美術館でキーファーの作品は何度も見ており、国内にもすでにある程度の数のキーファーの作品が美術館に収められているから、ここで論じられる作品は平面、立体のジャンルを問わず、おおよそ知っているが、キーファーの作品は図版からは読みとることができないディテイルが重要だ。例えば今挙げた、「マルガレーテ」連作では本物の藁が画面に無数に貼り付けられ、ひまわりの花、ガラス片、あるいは灰といった独特の象徴性を秘めたオブジェが文字通り画面を覆っているのだ。キーファーの作品は移動や再現が困難であり、この意味でも大規模な展覧会は難しく、画面の物質的な精彩は作品の傍らに立たないと理解できない場合が多い。本書の内容も近年、ドイツで開かれた展覧会で作品を実見して構想されたと考えられるから、特に近年、キーファーの作品に接する機会の少なかった私は必ずしも十分な理解に立って本書をレヴューすることができないかもしれない。それにしても植物や灰といった永続や定着が困難な素材を多用するキーファーの作品は美術館においてどのように保全されるべきであろうか。最近、現代美術の作品の管理と修復をめぐるシンポジウムが国立国際美術館で開かれたと聞いたが、絵画として実現されながらもキーファーの作品はこのような問いと連なっている。
 本書に戻ろう。ツェランとキーファーというテーマ自体は決して独特ではない。今述べたとおり、キーファーはしばしば作品にツェランの詩篇からの引用を行い、2005年にはザルツブルツのギャラリーで「パウル・ツェランのために」という展覧会さえ開かれている。「『死のフーガ』と灰の花」と題された最初の章では「死のフーガ」を手がかりにキーファーの作品に強制収容所というテーマがどのように導入されているかという点が論じられる。興味深いことにはキーファーの場合は図像ではなく、使用される素材というリテラルなレヴェルでテーマの導入が図られることが多い。確かにキーファーがしばしば描く線路の情景は地平線が高い位置に置かれているため、その行き先が不分明であり、端的に収容所へ向かう鉄路を連想させるかもしれない。しかしキーファーの絵画において、ツェランの体験を直接に連想させるのはむしろ髪の毛、子供服、ガラスの破片といった素材ならざる品々であり、それはガス殺の前にあらかじめ刈り上げられた髪の毛、アウシュヴィッツのバラックに山積みにされた衣類、「水晶の夜」で破壊されたユダヤ人商店街のショウウインドウといったきわめて即物的で具体的な連想を伴うのだ。関口はこのうち、ひまわりという素材に着目し、それが「ナチス・ハンター」として知られるジーモン・ヴィーゼンタールの小説のライトモティーフからもたらされたのではないかと推測する。その当否はともかく、これらの品々を強制収容所の記号として用いるキーファーの手法は部分によって全体を示す提喩と考えられるだろう。同じことを関口は次のように論じている。「1990年、キーファーは久しぶりに《ズラミート》と題した64頁からなる一冊の鉄製の書物を制作した。その表紙の上には人間の黒い髪ひと房と一握りの灰が撒かれているだけである。これこそズラミートのイメージにぴったり合う傑作である。全体をその一部で代用する Pars pro toto と呼ばれる技法は、キーファーにもツェランにもふさわしい表現形態である」しかし物質が堤喩する意味は一通りとは限らないし、時にそれは変容する。この問題は後の章で錬金術との関連において回帰することとなる。
 続く章ではツェランの経歴のうち、インゲボルグ・バッハマンという女性文学者との関係に注目し、ツェランとキーファーの関係が論じられる。優れた詩人であったバッハマンとすでに妻帯していたツェランの関係は時に緊張に満ちていた。アウシュヴィッツの体験はバッハマンの大きな愛をもってしても癒すことができず、ツェランは投身自殺を遂げた訳であるが、キーファーはツェランのみならずバッハマンの詩からも作品のタイトルを引いている。本書を読んで私はあらためてキーファーの教養、特にその文学的な素養の深さに驚いた。関口は私がカッセルで見た《オシリスとイシス》が構図的にバッハマンの詩を引いた作品の先例にあたる点を指摘したうえで、最後にやはりバッハマンの詩のタイトルである《ボヘミアは海辺にある》という作品を紹介する。1996年に制作されたこの作品を私は未見であるし、白黒の小さな図版からはそれがどのような作品であるか理解できない。90年代以降のキーファーについても何らかの機会にまとめて作品を見てみたいと強く感じる。続く二つの章でもやはりツェランとキーファーの間に媒介者を立てて二人の関係が論じられる。それはオーストリアの作家アーダルベルト・シュティフターと音楽家のヴァグナーである。すなわち前者においては鉱物、特に水晶のイメージを介してツェランの「帰郷」という詩とキーファーの絵画が重ねあわされる。そこに「水晶の夜」(破壊されたユダヤ人商店のガラスが水晶のごとく煌めいたことによる)が連想され、さらに関口は結晶という概念からガス室で多くの命を奪ったチクロンBの結晶までも読みとる。一方、ヴァグナーに関してはツェランの「白鳥の危機」という言葉を伴う、謎めいてやや不気味な詩篇が引かれる一方で、キーファーについては白鳥の騎士伝説に基づいた歌劇「ローエングリン」そして「ニュルンベルグのマイスタージンガー」「パルジファル」に着想を得た一連の作品が検証され、さらにキーファー自身が舞台美術を担当したパリの国立オペラ・バスティーユのオペラ公演において白鳥というモティーフがガチョウに変えられていることを指摘する。関口はそこにキーファーの師であるヨーゼフ・ボイスの影響をうかがうが、ヒトラー式敬礼をする作家を撮影した初期の作品以来、異化効果はキーファーの作品の本質をかたちづくってきたことを想起するならば、白鳥がガチョウに転じたとしても私はさほど驚きを感じない。関口の所論は美術史学を専門とする私にとって時にやや強引に感じられないでもないが、本書からは私が詳しく知らない90年代以後のキーファーの作品について多くの知見を得ることができた。そして著者のツェランの専門家としての学識と本書のための調査からも多くを学ぶことができた。
 続く「ライン河とニーベルンゲン」と題された章において召喚されるのはライン河畔に生を受けたユダヤ系の詩人ハインリヒ・ハイネである。関口はライン河流域におけるユダヤ人迫害の歴史をローレライ伝説などと関連させて論じたうえで、ハイネの「ラビ」という未完の小説について言及する。キーファーとハイネの共通点について三つの点を指摘する。まず「不気味なもの Das Unheimliche」という視点、そして「笑い」、最後に上下もしくは垂直方向の運動である。「不気味なもの」とは英語で言えば uncanny 、フロイトの論文のタイトルとしても知られており、抑圧を経て回帰してきた慣れ親しんだものの謂である。関口によればキーファーもこの言葉を多用し、それは抑圧されたドイツ性、端的にナチス時代の歴史であるという。笑いについては容易に了解できる。玩具の兵隊やバスタブを用いて誇大妄想的なイメージを繰り広げるキーファーの方法は笑いと親和し、関口も指摘するとおり、先行する日本語による優れたキーファー研究が「シジフォスの笑い」と題されていたことを連想してもよかろう。垂直の運動については後の章で詳述される。この章ではさらにツェランとライン河河畔の文学者たちの交流が粗描され、さらにライン河を舞台とした英雄叙事詩「ニーベルンゲン」をめぐってツェランとキーファーの接近が論じられる。この章においてはドイツ性に対して詩人と画家がどのような距離をとったかが論じられているから、ナチスの記憶を呼び覚ました1980年のヴェネツィア・ビエンナーレへのキーファーの出品作について論じられることは当然であろうが、このほかに一つの興味深い主題が取り上げられている。それはキーファーと原子力発電所というテーマだ。関口によればチェルノブイリ原子力発電所の事故に関連してキーファーは87年に「太陽の誕生」という書物形式の作品を発表したとのことである。私はこの事実を初めて知った。いかなるイメージか、確認することとしたい。キーファーはフクシマについては一切言及していないとのことであるが、確かに事故以後、私たちにとって原子力発電所もuncanny な存在である。
 続く「《息の結晶》」という章は二人からやや離れて、ツェランの妻であり版画家、画家であったジゼル・ツェエラン・レトランジェについて語られる。私にとっては未知の版画家であるが、図版を見る限りなかなか興味深い抽象的な画風である。註によれば日本でも一昨年、神奈川県立近代美術館の鎌倉別館で開催された「西洋版画の流れ」という展覧会で初めて紹介されたという。ドイツの作家に関してはギュンター・グラスもまた細密な銅版画を制作することで知られているが、ツェランは妻の版画にインスピレーションを得て共作の詩画集「息の結晶」を制作したということだ。死者を想起させるタイトルをもつこの詩画集がツェランの詩作にとって転換点を画していると関口は述べる。ジゼルを媒介としてクレー、あるいはジャコメッティやゴッホといった作家がツェランの視野に入る。私は本書で初めて知ったが、ツェランはジャン・バゼーヌの「現代美術覚書」の独訳者でもあったという。パリに住んでいたツェランが同時代の作家と交流をもったことは当然であろうが、関口によればツェランは特にアンリ・ミショーと交流があったが、画家たちとの関係はなお究明されていないという。クレー、ジャコメッティ、ミショーといった作家たちからは確かにツェランの詩と関連を感じさせないでもない。この章では最後に一人の画家との関係が仄めかされる。それはニコラ・デ・スタールであり、本書のタイトルでもある「翼ある夜」にはスタールの絵画が反映されているという。次の章では美術に続いて、映画とツェランの関係が論じられる。ツェランはアラン・レネの「夜と霧」のナレーションのドイツ語版を監修しているから、このテーマは意外ではないが、これまで個別、限定的にしか論じられたことがないらしい。ここではアンジェイ・ワイダ、エイゼンシュテイン、パラジャーノフといった映画監督の名が引用されるが、キーファーとも関連する監督としてアンドレイ・タルコフスキーが引かれていることはよく理解できる。土や水、そして蝋燭の炎はキーファーの絵画にも頻出するモティーフであるからだ。この章では最後にアウシュヴィッツの表象不可能性をめぐって、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンとジェラール・ヴァイクマンの間で交わされた論争についても言及される。当然検討されるべき問題であるが、それ自体が一巻の書を要する問題であるから、本書では事実関係が短く言及されるに留まっている。
 続く「不在の書物を求めて」という章において、実に意外な人物に言及される。もう一人のポール、ポール・オースターだ。オースターは私のお気に入りの作家であり、このブログでも何度か論じた。オースターは1971年にパリに渡り、フランスの現代詩の研究を続けるが、オースターにとって規範となる詩人がツェランであったという。オースターはイヴ・ボヌフォアらが創刊し、ツェランも加わった「レフェメール」という雑誌をとおしてパリの詩人たちと思考を結んだ。残念ながらオースターがパリに渡った時点でツェランは亡くなっていた。オースターのツェランに対する理解の深さ、あるいは英語への翻訳の見事さについては本書において縷述されている。関口の分析を介すならば、「エレガントな前衛」と呼ばれるオースターの小説の端々にツェラン的なモティーフが登場していたことも理解される。「最後の物たちの国で」における焚書の暗示や、「偶然の音楽」における壁を背にした銃殺、「オラクル・ナイト」には実際に収容所のエピソードが登場する。関口によればオースターの父も東欧ユダヤ人であり、二人は文化的にも近いという。この章の最後はツェランから離れ、東日本大震災の被災地を訪れた関口がマシュー・アーノルドそしてレイ・ブラッドベリの「華氏451度」を思いながら、寄せては返す波が書物の暗喩であることに想到した経験を語る美しい文章で終わる。
 最後の二つの章ではツェランとキーファーに共通する二つの主題が提示される。それは飛行と墜落というモティーフ、そして錬金術だ。まずツェランの詩に上空からの視線、つまり鳥瞰の視点およびかなり具体的に飛行機の操縦法の記述の反映がみられることが指摘され、空襲という主題に言及される。ゼーバルトの「空襲と文学」においてはドイツの空襲を主題とした文学はノサック以外にほとんど存在しないと記されているが、私はドレスデン空襲を扱った小説に心当たりがある。ゼーバルトの眼が届かなかったことは無理もない。それはアメリカ人捕虜の視点から書かれたたカート・ヴォネガットの「スローターハウス5」である。ツェランの滑空する飛行機に対して、キーファーは飛べない鉛の飛行機を提示する。関口が指摘するとおり、鉛の飛行機は単に鉛の重量のみならず記憶という歴史の負荷を負っているため地から離れることができない。キーファーの場合はむしろ落下もしくは墜落こそが作品の主題となる。この主題からはイカロスの伝説が連想されるほか、実際に搭乗中に撃墜されたボイスのクリミア半島での体験が反響しているかもしれない。この主題についてもイカロスあるいはイアソンといった参照項を得て、再びツェランが導入されるとともに、天使の墜落というモティーフからはヴェンダースの「ベルリン 天使の詩」そしてシャガールの一連の作品についても論及される。錬金術については詳しい説明は不要であろう。ツェランとキーファーにとって詩作と作品の制作は一種の錬金術的な営みなのである。関口は錬金術を簡単に紹介しうえで、ツェランにとって灰が、キーファーにとっては鉛が第一質量(プリマ・マテリア)であることを実際の作品を用いて論証している。錬金術はしばしばカバラとの関係において説明される。「器の破壊」といった独特のユダヤ教の概念とツェラン、キーファーの作品との関係も説得的に論じられる。ユダヤ教と美術といえばバーネット・ニューマンが連想されるが、キーファーもまたカバラについての深い知識をもった画家であることが理解されるだろう。
 論じ足りない点も多くあることは承知しているが、ひとまず本書の内容を概観した。ここからは主にキーファーと関連して私なりに若干の考察を加えたい。かつて私はマドリッドでキーファーの大作を眼前に長い時間を過ごしたことがある。その際にあらためて了解したことはキーファーの絵画は「読まれるべき絵画」である点だ。もちろんそれは図解や物語ではないし、一意的な読みは存在しない。本書でも詳しく論じられているとおり、そこにはしばしば結合と分解、飛行と墜落といった相互に矛盾する意味が封入されている。私たちは巨大な画面に視線を走らせ、それらの錯綜する物語を読み解かなくてはならない。b0138838_20202498.jpg私はキーファーのカタログや画集をあまり所持していないが、手元にあるいくつかの関連書のうちここに掲げた87年にアメリカを巡回した展覧会、そして93年の日本巡回展のカタログには奇妙な共通点がある。それはカタログの冒頭にテクストなしでモノクロ写真を連ねた一連の頁が存在し、カタログ内に一種の物語として提示されている点だ。キーファーが巨大な鉛の書物を連ねた書架を発表したことはよく知られている。キーファーには書物に対するフェティシズムがあるのではなかろうか。例えば87年のカタログの冒頭に掲げられた「紅海の通過」というフォト・ワークは波立つ海やキーファーの仕事場らしき乱雑なアトリエ内を銀色の直線が貫通し、タイトルともどもモーセの道行きを暗示するかのようだ。私たちも銀色の直線に案内されるように物語/写真の中を通過していく。かかる物語性はモダニズムが忌避したものである。先に私は作品を見る体験について記したが、モダニズム絵画の経験とはマイケル・フリードが「現在性は恩寵である」と喝破した通り、享受にあたって一種の非時間性を理想としている。しかしキーファーの作品を見る体験は徹底的に時間的、持続的なのである。本書を通読して、キーファーが様々な分野について深い知識をもち、それらを作品の中に込めていることをあらためて理解した。ニーチェからヘルダーリン、そしてツェランにいたる様々な文学的素養、カバラや錬金術に関する秘教の知識、さらには音楽や演劇についての関心、これらすべてが投入される芸術は一種の総合芸術であり、そもそもツェランとキーファーという本書の問題意識が成立し、様々なジャンルを横断して両者の関係が究明されるためには、かかる前提は必要不可欠であっただろう。同じように国家の犯罪を告発するにあたってゲルハルト・リヒターが刑務所内で謀殺された「過激派」のイメージのみをモノクロームで描き、あくまでも意味性を削ぎ落として提示したのに対して、キーファーの絵画はあまりにも過剰だ。この点がキーファーの絵画を不穏にしているのではないだろうか。モダニズムが真善美を切り分け、ジャンルごとの純粋化を目指したのに対して、キーファーは美術と文学を、絵画と書物を、イメージと物質をもう一度総合することによって新しい表現を生み出そうとしているように思われる。総合芸術といえばヴァグナーのオペラが連想されよう。かつてツェランが生きた時代、人々は総合芸術に陶酔する一方で、詩人を収容所へと追放した。「総合芸術」という誘惑はかかる危険性を秘めてはいないか。むろん私はキーファーの芸術を否定するつもりはないが、この問題はさらに徹底的に思考されるべきであると感じる。本書でその一端が示されたツェランとキーファーという対比の中から浮かび上がる問題群はおそらく20世紀芸術の本質と関わっているだろう。
by gravity97 | 2015-12-31 20:16 | 現代美術 | Comments(0)

b0138838_10441499.jpg 現代美術に関する実に刺激的な研究書が刊行された。日本人の研究者によるこれほどの水準の研究を私はほとんど知らない。本書が発表された経緯を知るならばその理由も明らかであろう。あとがきによれば、本書は「Dislocations: Robert Rauschenberg and the Americanization of Modern Art, circa 1964」というタイトルで2007年にイェール大学に提出された博士論文が原型であり、その後、序章を完全に書きかえて「The Great Migrator: Robert Rauschenberg and the Global Rise of American Art」というタイトルとともに2010年にThe MIT Pressから出版された研究の日本語版である。著者も述べるとおり、二つのタイトルの相違に著者の問題意識の微妙な変化がうかがえる。いずれにせよ、日本人の研究者がアメリカの大学に提出した論文をもとにアメリカの有力な出版社から刊行されたといった事情から本書は英語圏における優れた博士論文のレヴェルを知るうえでも大いに意味がある。
 専門的な学術論文であるにもかかわらず、本書は実に読みやすい。テーマがきわめて明確であるからだ。サブタイトルに「ロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭」とある。本書は第二次大戦後、美術の「覇権」がフランスからアメリカに移譲される経緯を分析する内容であるが、かかる抽象的、地政学的な状況がきわめて具体的な時間と作家を即して検証される。それは1964年のロバート・ラウシェンバーグの活動であり、さらに具体的に述べるならば彼がマース・カニングハム・ダンス・カンパニーのワールドツアーに美術監督として帯同し訪れた四つの都市、パリ、ヴェネツィア、ストックホルム、東京を舞台として語られる。したがってこの論文においては「覇権」の移譲という抽象的な問題が、国々を「越境」する具体的なエピソードをとおして分析される。おそらく本書の成功はかかる明快なテーマの設定に多くを負っているだろう。いうまでもなくこのツアーのクライマックスは6月、ヴェネツィア・ビエンナーレにおけるグランプリの受賞である。しかし池上はこれによって現代美術の主流がパリからニューヨークに移ったという巷間に流布する通説とは距離をとり、さらに三つの都市をめぐる挿話を加えることによって、このような局面にいくつもの補助線を引く。具体的にはパリにおいてはそれ以前よりラウシェンバーグおよびアメリカの同時代美術がいかにヨーロッパに導入されていたかという問題がイリアナ・ソナベンドというギャラリスト、そしてアメリカの公的な文化戦略を参照しながら確認され、ストックホルムではラウシェンバーグのコンバインの代表作がなぜアメリカではなくスウェーデンの美術館に収蔵されているかという疑問を手がかりに、ポントゥス・フルテンという稀代の美術館ディレクターの活動が検証される。そして東京においては来日したラウシェンバーグに対して日本の若い作家や批評家がどのように反応したかという問題が問われる。いずれもそれ自体で一つの論文のテーマとなるような、魅力的な問題が次々に提起され、綿密な調査に基づいて説得的に検証されていく。
 原著のタイトルにあるMigrator とは渡り鳥とか越境者といった意味である。池上は愛知県美術館が所蔵し、実際に渡り鳥のイメージが転写された《コース》という作品の分析からラウシェンバーグの世界遍歴の確認作業にとりかかる。今日では国外で活動する作家、母国と異なった国で作品を発表する作家は珍しくないが、当時は自国以外で作品を発表する作家は稀であったし、さらに80年代にもラウシェンバーグは文化交流を目的としたROCIというプロジェクトを立ち上げて日本を含め、中国やチリといった非欧米の諸国において滞在、制作を試みている。移動や越境というテーマは作家の生涯と深く関わっているのだ。この点を確認したうえで池上は本論における問題意識について述べる。池上の立場は基本的に修正主義批判であり、モダニズム/フォーマリズムを相対化した修正主義のナラティヴの影響力について、次のような見解が示される。「アメリカ美術の覇権を文化帝国主義の結果とする見解―つまり、1945年以降、西欧で政治経済的な覇権を確立した合衆国が、今度は芸術でも勝利を収めたという分かりやすいナラティヴ―は根強く流通している。ラウシェンバーグ研究もその例外ではない。例えばヴェネツィア・ビエンナーレにおける彼のグランプリは、従来の研究ではおしなべて米仏の美術における覇権争いと画商の市場戦略という観点からのみ語られており、彼の作品が実際に海外ではどのような意味をもったのか、という点については詳細な分析がなされないままである」これに対して池上は近年提唱されている「グローバル・アート・ヒストリー」というアプローチを採用しつつも、そこではしばしばアメリカが中心化され、アメリカとの対比として議論が構築される点を批判し、アメリカ美術そのものを相対化する必要性を説く。おそらくこの点が、MIT Pressから出版されるにあたって、序章が刷新され、Americanization に代わって Global Rise of American Art というタイトルが採用された理由ではないだろうか。本書の目的は序章において次のように要約されている。

 本書では(ラウシェンバーグの)実際の作品やその展示手法、また主要人物たちの交流を詳細に跡づけることで、アメリカ美術の世界的台頭における美術家とキューレーター、批評家、画商たちの相互作用を検証する。こうした「ポスト修正主義」とも呼ぶべき立場から戦後美術史のカノンを内側から脱中心化すること、そしてアメリカ美術を世界美術史のトピックとして開いていくことがその狙いである。

 かつてミン・ティアンポによって発表された具体美術協会の研究書が「脱中心化されたモダニズム」と題されていたことも連想されよう。アメリカやフランスという一つの中心ではなく、複数の中心を想定するという発想は90年代後半以降、パフォーマンスやコンセプチュアル・アートといったフォーマリズムの教条に馴染まぬ運動に関してはしばしば提起されてきたが、本書では複数性に代わり、移動もしくは越境という概念が提起されている点が新鮮に感じられる。そしてこのような姿勢はラウシェンバーグの場合、作品の解釈とも深く関わっているのだ。例えば表紙にデザインされた《コカコーラ・プラン》を挙げよう。作家の代表作の一点であるこの作品はコカコーラというきわめてアメリカ的なモティーフと関わっているが、実はタイトルはアメリカによるヨーロッパ復興プラン、マーシャル・プランからとられている。この時、作品の意味は単に図像解釈や重層性に帰せられるのみならず、受容される場所と関係を結ぶ。言い換えるならば「アメリカ美術」の外部において初めて可能な意味が発生する。第四章で論じられるとおり、この作品に対して篠原有司男はイミテーション・アートとして彼自身の手による《コカコーラ・プラン》を制作し、来日したラウシェンバーグに提示した。日本の作家による創造的解釈が作品に新しい意味を与えたことは、アメリカの脱中心化という池上の立場の妥当性を例証するものであろう。
 さて、それでは実際に1964年のラウシェンバーグの活動を追うことにしよう。冒頭にマース・カニングハム・ダンス・カンパニーのワールドツアーの公演日程のリストが掲出されている。6月6日にフランス、ストラスブールで幕を開けたツアーはイタリア、オーストリア、西ドイツ、イギリスで続けざまに公演した後、9月にはスウェーデン、フィンランド、そしてチェコスロヴァキアとポーランドを経て、ベルギーとオランダ、そして10月中旬からアジアに入り、インド、タイ、そして日本における11月25日、東京サンケイホールでの公演で楽日を迎えた。美術監督ラウシェンバーグに加えてカニングハムとジョン・ケージという夢のような顔ぶれが揃ったこのカンパニーのツアーはインドの王家や草月アートセンターからの招待があったとはいえ、基本的に自費で賄われており、決してアメリカのなんらかの機関の意志や目的を反映するものではなかった。チェコスロヴァキアとポーランドという、鉄のカーテンが存在した頃の東欧諸国で公演を試みた点も興味深いが、このリストで注目すべきはイタリア公演が6月18日の一日のみ、ヴェネツィアで日程に上がっている点である。この公演こそがラウシェンバーグの世界的認知にとって決定的に重要であった点が後述される。
 「巴里のアメリカ人」と題された第一章ではまず、本論の前史とも呼ぶべき50年代後半のアメリカ美術とフランス美術の角逐が粗描される。抽象表現主義とアンフォルメルという名で呼ばれる動向の関係は今日もなお検討すべき多くの余地を残しているが、本書では比較的簡単に触れられている。ラウシェンバーグは1961年ニダニエル・コルディ画廊でパリにおける最初の個展を開く。興味深いことにはワールドツアーの三年前にラウシェンバーグの作品は既にパリで好意的に受け取られていた。おそらくそこには時代背景が強く関与している。アンフォルメルはこの時期既に退潮期にあり、レディメイドを使用したヌーヴォーレアリスムが勃興しつつあった。同様の傾向をもったアメリカの作家たちをパリの美術界が歓迎したとしても不思議はない。一方で同じ時期、ニューヨーク近代美術館ではウィリアム・ザイツが「アッサンブラージュの芸術」を企画していた。ピカソのコラージュに始まるこの展覧会は逆にこれら一群の作家をアメリカの文脈に組み込もうとする試みであり、これらをめぐる様々な資料を検証しながらアメリカとフランスの美術界の駆け引きが論じられる。一つの象徴的な事件は同じ61年にパリのアメリカ大使館で開かれた「デヴィッド・チュードアへのオマージュ」である。ジャン・ティンゲリー、ニキ・ド・サンファールそしてラウシェンバーグ、ジョーンズらが参加したこのイヴェントはハプニングの歴史においても特筆すべき事件であったが、パリのアメリカ大使館で開催されたことに注意を喚起しておきたい。このイヴェントを企画したのは大使館の文化担当官ダルシア・スパイヤーであった。スパイヤーはニューヨーク近代美術館とも協力して50年代よりアメリカ美術の紹介に努めた。スパイヤーのごとき、これまで美術史においてほとんど知られることのなかったバイプレイヤーについてもていねいな検証を加えている点もこの研究の特色である。大使館に代表されるアメリカ政府とニューヨーク近代美術館の関係が必ずしもよくなかった点を本書は資料によって裏づけている。かかる事実によって例えば冷戦下においてアメリカ政府によって抽象表現主義絵画が一種の武器として使用され、自由主義陣営の盟主としてのアメリカ美術の優越が確立されたといった修正主義的な歴史観が相対化されるのだ。ポロックやロスコではなく、ラウシェンバーグに代表されるアメリカ美術をヨーロッパに紹介し、結果的に「アメリカ美術の勝利」に貢献したのはギャラリスト、イリアナ・ソナベンドであった。レオ・キャステリ前夫人でもあるソナベンドは画期的な手法によって未知のアメリカ人作家たちパリに導入し、その重要性を認識させた。詳しくは本書を読んでいただくのがよいが、一点だけ触れておくならば、私は「アート・インターナショナル」などに掲載された広告からソナベンドの戦略を読み取る分析に大いに感心した。トラックの後ろに画廊に所属する作家たちの名前が記された広告、封筒に入った招待状に同じ作家たちの名前が記された広告。これら二つの広告が伝えるメッセージを池上は次のように説く。「最初の広告が商品としての美術作品が輸送されるところを挑発的にイメージ化しているとすれば、次の広告はヨーロッパの観客に彼女の展覧会を見に来るよう、招待しているものだと読みとることができる」そしてさらに「ルイユ」に掲載された三枚目の広告がある。ヴェネツィアのサン・マルコ広場を望む運河の上に一人、ラウシェンバーグの名が配され、下に「イリアナ・ソナベンド、パリ」とのみ記されている。時系列に沿って並べるならば、これらの三枚の広告の中にアメリカから多くの作家をパリにもたらし、パリの美術関係者の目に触れさせたうえで、その中の一人をヴェネツィアへと送るという「アメリカ美術の勝利」の図式が暗示されているかのようだ。
 続いて本書のクライマックスとも呼ぶべきヴェネツィアのラウシェンバーグをめぐるエピソードが分析される。ここで焦点化されるのはラウシェンバーグとともにアメリカ館のコミッショナーを務めたアラン・ソロモンである。私ももちろんソロモンの名は知っていた。しかしそれは単に「1964年のヴェネツィア・ビエンナーレにおけるアメリカ館のコミッショナー」としてのソロモンであり、私は本書を読んで初めて彼が現代部門を創設した際のユダヤ美術館の館長であり、1970年に早世していることを知った。先にも触れたとおり、作家主義の陰でこれまで論じられることがなかった関係者に光を当てたところに本書の大きな意義がある。ラウシェンバーグにグランプリを与えるためにソロモンが練った戦略は本書の読みどころの一つであるから本書を参照していただくとして、ここではいくつかの発見のみを記しておく。例えばこの時のアメリカ館にはラウシェンバーグ、ジョーンズとともにモーリス・ルイス、ケネス・ノーランドというグリーンバーグ直系の色面抽象絵画も展示されていた。ここでルイスではなくラウシェンバーグが受賞したことはフォーマリズムの批評家たちにどのような感慨を与えただろうか。あるいはラウシェンバーグの作品がアメリカから軍艦で運ばれたというよく口にされるエピソードがあるが、これが真実でないことは本書に収録された写真の一枚、アメリカ軍の巨大なグローブマスター機の傍らでパレタイズされる作品のクレートを見るならば明らかである。しかしこの光景は著者も言うとおり、「それ自体がスペクタクル」であり、軍艦を用いて搬入されたという噂もあながち的外れではないことがわかる。ソロモンはラウシェンバーグの受賞に向けて様々な策略をめぐらすが、審査員たちに全面的に受け入れられた訳ではなかった。結果的に最終的な投票の直前に行われたカニングハムの公演が彼らに与えた心証が受賞へと道を開いた。この意味で、ワールドツアーのスケジューリングは絶妙だった訳である。このあたりの事情についても詳細な検証がなされている。しかしグランプリ受賞はラウシェンバーグにむしろ失意をもたらした。受賞に際しての陰謀説がささやかれ、奇妙なことにアメリカの美術ジャーナリズムも否定的に受け取られたのである。さらにラウシェンバーグのみが脚光を浴びたことによってダンス・カンパニーのほかのメンバーとの間に溝が生じたのだ。この章を終えるにあたって池上はこれらの事情があるにせよ、ラウシェンバーグの受賞が、ヴェネツィア・ビエンナーレをそれまでの西欧中心モデルからグローバル・モデルに変えたこと、そして現代美術の商業主義とスペクタル化の契機であった点を正確に指摘している。
 「ストックホルムでの衝突」と題された第三章は、9月初めのストックホルム公演について論じられている。ここでもいくつもの興味深い観点が提起されているが、注目すべきはこの章において緻密な作品分析が行われている点である。現在、ストックホルム近代美術館に収められている《モノグラム》は剥製の山羊とタイヤを組み合わせたラウシェンバーグのコンバインの代表作であるが、この作品はこの美術館のディレクター、フルテンの求めに応じてコレクションに加えられた。1962年には同じ美術館で「四人のアメリカ人」展が開催され、ラウシェンバーグを含む、ネオ・ダダ、ポップ・アート系の作家が紹介され、この前後、ヨーロッパ各地でこれらの作家が出品する展覧会が続いていたため、《モノグラム》はアメリカを含めいくつもの美術館が食指をのばしていた。ラウシェンバーグとフルテンを結ぶキーパーソンとして私は意外な名前を見つけた。ビリー・クリューヴァーである。彼こそは66年の「九つの夕べ―芸術とエンジニアリング」を企画したE.A.T.の中心人物であった。この試みにはラウシェンバーグも中心的な役割を果たしたから両者の関係は不思議ではないが、クリューヴァーがスウェーデン出身であることを私は本書で初めて知った。池上によると《モノグラム》がフルテンの美術館に収蔵されることはストックホルムでの公演の際にラウシェンバーグとの間で合意された可能性が高いとのことである。したがって64年にラウシェンバーグがストックホルムを訪れた際にはこの作品はまだ収蔵されていなかったのであるが、池上はダンス・カンパニーの公演とは別にラウシェンバーグがストックホルムで関わった「五つのニューヨークの夕べ」という連続パフォーマンス、とりわけ「エルギン・タイ」というパフォーマンスと《モノグラム》の関係を鮮やかに解き明かす。「エルギン・タイ」については私も以前より知っていたが、天井からラウシェンバーグがロープを伝って降下し、最後は牛を引いて退場するというパフォーマンス(牛を引いて退場するのは作家とは別人であることを本書で知った)が何を意味するのか全く理解できなかった。しかしこのパフォーマンスをコンバインという概念を手掛かりに《モノグラム》と関連づけて分析するならば両者の共通性が浮かび上がってくる。このあたりの分析の鮮やかさは本書中の白眉といってよい。池上はさらに後日談として、ヴェトナム戦争などを背景にしてストックホルムとニューヨーク、さらにはヨーロッパの美術家とアメリカの美術家の関係が次第に悪化する状況を素描して本章を終える。
 最後の公演地、東京においてもラウシェンバーグは熱狂的に受け入れられる。実は東京には既に彼を受け容れる素地があったのだ。59年に渡米した批評家東野芳明が早くからネオ・ダダの作家たちと知り合い、同じ64年にはジョーンズが南画廊で個展を開いている。ジョン・ケージやデヴィッド・チュードアはこれ以前に来日したことがあり、ティンゲリーも南画廊で個展を開いている。グランプリを獲得したラウシェンバーグはいわば真打ちとして最後に東京に現れたのであり、熱狂には理由があった。ラウシェンバーグにとって東京は初めて訪れる土地であったが、日本側には十分な作家についての知識があった訳だ。彼の来日をめぐる一連の騒動の背景にこのような情報の不均衡があったことは確かであろう。11月28日、東野芳明の企画によって草月会館で開かれた「ボブ・ラウシェンバーグへの20の質問」という公開質問会は戦後美術史において特筆されるべき事件であった。この質問会においては東野や篠原らがラウシェンバーグに電子化された音声や自らが制作したオブジェを用いて質問を発したが、作家は一言も答えず、壇上で金屏風のコラージュ《ゴールド・スタンダード》を助手の手を借りながら制作したのである。池上は関係者へのインタビューを通してこの出来事の模様を正確に再現し、様々な角度から分析を加える。さらに滞在中に制作され、これまでほとんど知られることがなかったいくつかのコラージュについても言及されている。そのうちの一つ、読売新聞の依頼で制作された《トーキョー》は実際に新聞紙上に掲載される可能性があったという。ヨーロッパの作家たちがカウンターパートとしてラウシェンバーグに対したのに対して、日本の作家たちは現代美術の「権威」たるアメリカ人作家にいかに対応したか。きわめて特徴的な例が篠原有司男の一連のイミテーション・アートである。かかる非対称を池上はホミ・K・バーバのミミクリ理論などと関連づけて論じている。そして東京公演はラウシェンバーグとカニングハムのダンス・カンパニーとの決別の場でもあった。公開制作への対応をめぐって、ラウシェンバーグはカンパニーから離脱することを決めて、両者の協働関係は最後の公演地で終わりを告げたのである。1964年のラウシェンバーグの活動、それが現代美術の神話をかたちづくる奇跡のような事件がであったことはこの一事によっても明らかであろう。本書では終章において65年以後のラウシェンバーグについて論じられている。グランプリ受賞は必ずしも評価につながらなかったが、これ以後、ラウシェンバーグがアメリカを代表する作家として認知されていく過程が短いサクセス・ストーリーとしてまとめられている。しかし通読するならば、作家の活動が最も刺激的であったのは、おそらくそれ以前であり、64年という年がメルクマールとなったことは明らかである。そしてそれは一人の作家にとってのブレイクスルーであっただけでなく、美術の覇権をめぐる重大な転機でもあったのだ。かかる二重性の認識とそれについての綿密な分析がこの研究の独自性を裏づけている。
 いささか長くなったが、ひとまず私はこの研究書の概略を示した。最初に述べたとおり、この研究の成功はテーマを設定した時点でほぼ明らかであったように感じられる。しかしながら、かかる壮大なテーマを具体的な研究として実現することはまた別の話だ。直ちに理解されるとおり、本書を準備するためにはラウシェンバーグのホームグラウンドであるアメリカはもとより、ダンス・カンパニーが巡回した四つの都市での徹底的な調査が必要となる。調査自体が文字通りのワールドツアーとならざるをえないのだ。博士論文の執筆に8年、英語版の出版までにさらに3年という時間はこのような事情を背景としているだろう。およそ半世紀前の関係者を探し出すだけでも大変な苦労が予想されるが、池上は先に名前を挙げた関係者のうち、例えばダルシア・スパイヤー、ポントゥス・フルテンあるいは篠原有司男といった存命する当事者に対しては直接インタビューを試みたことが註によって示されている。さらに英語、フランス語からイタリア語、スウェーデン語にいたる文献を渉猟して、発掘された当時の資料も実に貴重である。かかる研究が可能となった前提としては著者の語学力のほかに、これらの国で作品に関する二次資料がアーカイヴとして整備されていること、そしてそれを使いこなすリテラシーを備えている必要がある。実際に註を参照するならば、AAAを初めとする多くのアーカイヴをめぐって資料を検証した形跡が認められ、著者が日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの立ち上げに参画し、今日にいたるまで多くの作家や美術関係者にインタビューを試みてきたことの動機も推測される。まことに労作と呼ぶべき研究である。この水準の研究が最初に英語で出版されたことは大きな意義があり、実際、あとがきでは原著に対するレオ・スタインバーグを含む世界各地からの反応の大きさについて触れられている。ラウシェンバーグのみならず戦後美術についての見方を一新するこの研究を著者の母語である日本語で読むことができるようになったことを私たちにとって大いに幸運であったといえよう。
 本書によって触発される問題は数多く、今後、ここで提起された問題に基づいてラウシェンバーグ、そして戦後美術の展開についてもさらに議論が深められることであろう。ひとまず私からは一点のみ話題を提供しておきたい。本書の中でも触れられているが、現代美術のグローバリズムの起源としては、50年代後半にも一つの先例がある。それはミシェル・タピエによるアンフォルメルの布教であり、とりわけしばしばタピエに帯同したジョルジュ・マチウは世界各地でアクション・ペインティングの実演を公開している。日本でも具体美術協会の招きに応じて大阪と東京で行ったアクションが有名であるが、今確認するならば1957年から59年にかけてマチウはヨーロッパ各地はもちろんアメリカそしてブラジル、アルゼンチンなどラテンアメリカでも公開制作を実施している。しかしながら今日、タピエそしてマチウの名が戦後美術の文脈で語られることは稀である。アンフォルメルのグローバリゼーションはなにゆえ挫折したのか。抽象表現主義とアンフォルメルの関係を再考するにあたってもラウシェンバーグとの対比は新しい視座を与えてくれるのではなかろうか。
by gravity97 | 2015-12-29 10:52 | 現代美術 | Comments(0)

 
b0138838_1429278.jpg
 小学館版「日本美術全集」の第19巻、「拡張する戦後美術」が刊行された。編者は椹木野衣。『日本・現代・美術』の著者による編集であるから、初めから常識的な通史となるはずがなかったとはいえ、予想をはるかに超える過激な内容である。図版が掲載された作家のうち、岡本太郎、草間彌生、杉本博司であれば理解することは困難ではない。しかし例えば次のような「作家」を私たちはどのようにとらえればよいか。山下清、三松正夫、山本作兵衛、杉山寧、ジョージ秋山、糸井貫二、牧野邦夫、神田日勝。おそらく私も含めて初めて目にする名前がいくつかあるはずだ。そしてこれまで知っていたとしても美術の文脈から排除されてきた「作家」の名も多い。彼らを果たして一つの文脈に組み込むことが可能であるかという点が本書の賭け金だ。本書には椹木以外にも総論として山下裕二、コラムとして四本の論文が掲載されている。しかし私の見るところ、福住廉の「肉体絵画と肉体表現」というコラムを除いて、ほかのテクストは椹木の過激さからほど遠く、微温的な通史の記述に留まっている。このギャップはなんとも歯がゆい。掲載図版やほかの執筆者の選定に編者がどの程度関与しているかは不明であるが、この理由によって、ここでは本書に収録された作品と「よみがえる『戦後美術』―しかしこの車はもと来た方向へ走っているではないか」と題された椹木の長文の論考のみを考察の対象として私見を述べたい。
 知られているとおり、日本の戦後美術を「通史」としてとらえる試みはこれまでにもいくつか存在する。一人の批評家による論考としては針生一郎の『戦後美術盛衰史』、千葉成夫の『現代美術逸脱史』、そして今言及した『日本・現代・美術』などが挙げられようし、『美術手帖』やかつての『みづゑ』誌上ではこのテーマに従って何度か特集が組まれた。展覧会としても、時に一つのディケイドに区切りながらも、1980年前後に東京都美術館や東京国立近代美術館によって企画された一連の試みが存在し、さらに1994年にアレクサンドラ・モンローの企画によって横浜美術館で開催され、グッゲンハイム美術館ソーホー分館に巡回した「戦後日本の前衛美術」は初めて日本の戦後美術を総体としてとらえようとする野心的な試みであった。あるいは時代と地域に限定が課せられているものの、一昨年、ニューヨーク近代美術館で開かれた「TOKYO 1955-1970 : A New Avant-Garde」もある程度問題意識を共有しているといえよう。これらの試みについては必要があれば立ち戻るとして、ここで私が参照したいのは同じ小学館から35年前に刊行された美術全集「原色現代日本の美術」の第18巻「明日の美術」であるb0138838_143028.jpgこの全集は明治期以降の日本美術が時にジャンル、時に「日本美術院」「京都画壇」といったテーマで整理された内容であり、今回の「日本美術全集」とは対象を違えている。しかしこの全集の中でも最終巻が戦後美術に当てられ、斉藤義重から辰野登恵子にいたる多くの作家が紹介されている。乾由明が責任編集し、高階秀爾、藤枝晃雄、三木多聞、山口勝弘がテクストを分担していることからも暗示されるとおり、この画集は少なくとも1980年という時点において戦後美術の「正史」とみなされていた流れを理解するうえではある程度有用である。「戦後美術の転換期」「芸術とテクノロジー」「ポップ・アートの世界」「物質と観念」「新しい平面芸術」「空間と立体造形」「映像の芸術―写真とヴィデオ」という七章の構成にもジャンルと時代区分の混合がみられるにせよ、この時期の戦後美術観を反映しているといえるだろう。実際に先に述べた1980年前後に国内で開かれた戦後美術の回顧展、1986年のパリ、ポンピドーセンターにおける「前衛の日本」、そして『現代美術逸脱史』における概観などは運動や作家についての濃淡こそあれ、「明日の美術」のラインナップと極端な相違はない。わかりやすく述べるならば、50年代の具体美術協会の活動から60年代の読売アンデパンダン展周辺のジャンクアートや和製ポップ、そして70年前後のもの派にいたる戦後美術の見取り図はほぼこの時期に形成されたといってよいし、さらに1996年という時点からこの系譜を逆向きにたどった刺激的な論考が『日本・現代・美術』であったことも今や明らかである。
 それではこのような見取り図に対して、本書の過激さは何に由来するのか。まず注意すべきは、椹木もかかる系譜そのものを否定している訳ではないことだ。作家と作品の選定に関して独自の視点が加味されているとはいえ、具体美術協会や実験工房、読売アンデパンダン展周辺の作家、そしてもの派にいたる流れを戦後美術の本流とみなす立場は本書でも踏襲され、これらの作家、運動についてはしばしば否定的なニュアンスを伴いながらも論及されている。しかしこの一方で「拡張する戦後美術」というタイトルが示すとおり、椹木はこのような枠組の外側にも目を向けて、戦後美術の見失われた本質へ肉迫しようとする。このような「拡張」として直ちに了解されるのはジャンルの拡張だ。先に触れた「明日の美術」において扱われた対象は広義の絵画、彫刻とデザインであったの対して、本書においてはさらに写真、建築、工業デザインから作庭におよび、とりわけマンガが大きく取り扱われていることが理解されよう。むろん前者はまだパフォーマンスやインスタレーションといった言葉さえ定着していなかった時代に刊行されており、現在との間には大きな隔たりがあろうし、ジャンルの限定は美術全集の全体としての編集方針と関わっていた可能性もある。しかしこの点を考慮したにせよ、本書を特徴づけるのは従来「正史」から排除されてきた対象を積極的に美術史に導入しようとする姿勢である。マンガを大きく扱う姿勢はその典型であり(なにしろ後述するとおり、論考のタイトルもマンガから引かれているのだ)、さらに次のような対象も取り上げられている。まず山下清のごとく、これまでアウトサイダー・アートの文脈でとらえられてきた作家たち、そして佐藤溪、牧野邦夫、久永強らのように職業画家でありながら、これまであまり知られることがなかった作家、さらに出口王仁三郎、いわさきちひろ、小松崎茂のごとく、従来はファインアートとは異なった文脈で論じられてきた作家たちである。さらに東山魁夷、杉山寧といった作家の作品が加えられていることにも強い違和感を覚えないだろうか。東山、杉山といえば確かに日本画の巨匠であるが、これまで戦後美術といった文脈で語られることはまれで、もちろん「明日の美術」には掲載されていない。それは彼らが今名前を挙げた作家たちとは逆に、いわゆる「画壇」の頂点として、現代美術とは別のシステムに依拠していたと考えられるからだ。このように列挙するならば、ここに収録された作家たちがいかなる意図のもとに選ばれたかも明らかになってくるのではないだろうか。椹木が本書で拠って立つ理念、それは端的に前衛主義の否定だ。先に日本の戦後美術を概観する意図のもとに組織された展覧会をいくつか示した。それらのタイトルに前衛、あるいはavant-gardeという言葉が冠されていたことは偶然ではない。マンガのごとき不純なジャンル、作家性を欠いた作家、さらには従来「前衛」と対立するとみなされていた「画壇」の大物を投入することによって、前衛に拠らない戦後美術史の構築がめざされているのである。そして前衛の否定は別のコノテーションをもつ。前衛とはモダニズムと不即不離にある概念であり、したがって本書は広い意味で日本の戦後美術を律してきたモダニズム美術史観を批判する立場に立つが、それは次にみるとおり、かなり入り組んだかたちをとる。
 続いて椹木の所論をやや詳細に検証しよう。いくつかのキーワードが設定されているため、その議論を追うことはさほど困難ではない。まず椹木は本書が編年的に四部で構成されていることを告げる。すなわち本書の図版部は占領からの復興期を戦後の「再生」、高度成長期を戦後の「沸騰」、消費社会の成熟と退廃を戦後の「混沌」、そしてバブル経済の勃興と崩壊を戦後の「明暗」と名指しして、ほぼクロノロジカルに多様な作品を配している。続いて椹木は必ずしも歴史的な区分と対応しない五つの鍵概念を提起する。すなわち「サイエンス(科学)」「ラディカリズム(過激)」「ポスト・フェストゥム(祭りのあと・鬱)」「ポスト・フェストゥム(祭りのあと・躁)」「アイロニー(皮肉)」である。椹木も述べるとおり、これらの概念は日本の戦後美術に特徴的な症状であり、先に挙げた時代区分に対応するのではなく、むしろ横断的に認められる。このうちやや難解な「ポスト・フェストゥム」とは精神医学者、木村敏がフッサールを経由して提起した病理学的な概念である。まず椹木は先行する明治期や大正期、あるいは戦争期の美術と比較して、日本の戦後美術の特質を次のように指摘する。「そこには、明治期のような『理想』もなければ、大正期のような『理念』もなく、かといって戦争期の『野望』もない。それらがないまま、いや、それらを見失ったまま、近代化というシステムそのものが、復興の名のもと、ひたすら暴走したのが、戦後という時代の特徴であり、その上に乗って登場した戦後美術の素の顔つきだった。その様相をひとことで示すとしたら、『際限なき破壊と復興』ということになるだろう」いきなり結論めいた言葉を書きつけたうえで、椹木は時間軸に沿って戦後美術を概観する。彼によればほぼ同じ時期に結成された東の「実験工房」と西の「具体美術協会」、両者はグループ名が暗示しているとおり、「サイエンス」と深く結びついている。これまで全く異なった運動、正反対のヴェクトルをもつとみなされた二つの集団に共通性を認めたことは卓見といえよう。続いて椹木は60年代の読売アンデパンダン展をめぐる狂騒―いうまでもなく「ラディカリズム」という言葉にふさわしい―を「サイエンス」への反動とみなす。しかし無際限なラディカリズムによって発表の舞台であった展覧会そのものを失った60年代の作家たちには三つの選択肢しか残されていんなかったという。一つはアンデパンダン展を自主的に続けること、海外へ活動の場所を転じること、そして路上でアクションを繰り広げることであった。このような整理は60年代後半の美術状況を的確に要約している。そして「サイエンス」「ラディカリズム」、いずれの立場の作家たちにも巨大な国家的な「祭り」が影を落とすこととなる。いうまでもない、1970年の大阪万国博覧会である。私はかつて椹木の『戦争と万博』を読んで深い感銘を受けたから、かかる議論の展開は十分予想できたし、首肯しうるものであった。本書においても多くの作家たちに万博がいかに深刻なトラウマを残したかという点が語られ、まさに「ポスト・フェストゥム(祭りのあと・鬱)」としてもの派や美共闘の表現が論じられている。一方で椹木は赤瀬川原平や菊畑茂久馬が在野もしくは素人の作家に着目し、美術の未知の可能性に目覚めた点も、同じ「ポスト・フェストゥム」の徴候であったととらえる。最初に述べたとおり、本書にこれまでほとんど現代美術の文脈で取り上げられることのなかった作家たちが収められていることはこのような理由による。続いて椹木はクロノロジカルな分析を中断し、「巨大メディアとしてのマンガの登場」という一節を設ける。しかし私にはこの一節はきわめて唐突に挿入された印象がある。確かに石子順造や赤瀬川原平を媒介とする時、70年代美術と一連のマンガを接続することは不可能ではない。しかしそれは可能性であって、私は椹木のテクスト、あるいはコラムとして収録された「マンガと美術の『あいだ』」と題された伊藤剛の文章を読んでも、本書においてマンガがかくも大きな扱いを受ける理由が得心できなかった。あるいは椹木の論文の最後で論じられる「アイロニー」の傍証として挙げられる村上隆や会田誠、ヤノベケンジや中ザワヒデキらの作品の一起源としてもマンガが想定されているのであるが、両者の間に世代的な関係は認められるとしても、ここで論じられるほど積極的な関係は認められないように感じるのである。
 このように全面的に同意できる内容ではないが、本書及び椹木の論考はきわめて刺激的であり、戦後美術史に対して新たな視点を提起するものといえよう。最初にも述べたとおり、それを一言で述べるならば前衛主義の美術史観からの解放であり、戦後美術を水平方向に押し広げる視点である。しかし同時に私は椹木の論考に通底するペシミズムが大いに気になるのだ。例えば先に引いた引用に続いて椹木は次のように続ける。「際限がないのだから、見かけのうえではいくら発展しても、目的へと向かう進捗感はろくになく、おのずと『つくっては壊す』が基本となり、その先へと歩を延ばすための模索も、全方位へと延びることになる。だいたい理想や理念、野望がないのだから、失敗や失意、そして多少の反省はあったとしても、当然絶望はない。絶望がないということは、どんなときでも、いくばくかの希望はあったということだ。たとえ、それがどんなに無方向的なものであったとしても、とにかく希望だけはあった。それが託されていたのが、戦後における『明日』という言葉の響きだった」ここに漠然と示された諦念は日本の戦後美術を論じた椹木野多くの著作に共通しているように感じられる。例えば『日本・現代・美術』の序章において椹木は日本の戦後美術を、ジャンルがジャンルとして機能しない「悪い場所」であると断じたうえで、このように結ぶ。この引用自体が先に引いた一文を反復するかのようではないか。「戦後の日本において、問題は吟味され、発展してきたのではなく、忘却され、反復されてきたということ、そしていかなる過去への視線も、現在によって規定され、絶え間なく書き直されている以上、過去を記述する条件として現在を前提にせざるをえないということを挙げておく」私は美術批評が建設的、楽観的なものである必要は特に感じない。しかしかつて同じ著者の『後美術論』について論じた時にも記したが、今や日本を代表する批評家である椹木がペシミズムとアナーキズムを批評の根幹に据え、対象の異なった多くの批評の中で繰り返していることは単に批評家の資質のみに還元できる問題であろうか。
b0138838_14322269.jpg タイトルが示す通り、本書は1945年の敗戦からちょうど50年間を対象としている。そして1995年といえば、「震災とテロ」の年であった。椹木はこの50年間を「しかしこの車はもと来た方向に走っているではないか」と総括する。この言葉はつげ義春の「ねじ式」の中で、闇の中を疾走する機関車に重ねられたフレーズであり、そのイメージは見開きで本書に収められている。戦災の廃墟から震災とテロの廃墟へ、もし本書が20世紀末あたりに刊行されていたとするならば、私も同じ感慨をもっただろう。しかし周知のごとく、それ以後、もと来た方向どころか、時代は一層悪くなっている。同時多発テロと正義なき報復の戦争、止むことのない紛争とテロ、東日本大震災と原子力災害、そして戦時体制の強化。先にも触れたとおり、椹木には『戦争と万博』という名著があり、そこでは「人類の進歩と調和」を謳った1970年の大阪万国博がいかに禍々しい影響を作家たちに与えたかという点がつぶさに論じられていた。その帯に次の言葉がある。「戦争はまだ続き、万博は繰り返される」本書において「ポスト・フェストゥム(祭りのあと)」という鍵概念が用いられている点は先に触れたとおりであるが、私たちは今再び、オリンピックという巨大な祭りの前にいる。震災と原子力災害からの復興を明確に妨げるオリンピックが本質において呪われていることの兆候は、新国立競技場やエンブレムをめぐる迷走からも既に明らかであろう。私たちは「戦争がこれから始まり、オリンピックは繰り返される」時代、「アンテ・フェストゥム(祭りの前)」のただなかにいるのだ。多くの示唆に富んだ椹木の論文を読み終えて私が抱いた暗鬱な読後感は、椹木のペシミズムがもはや否定しがたい現実として自分たちを取り巻いていることへの絶望かもしれない。1980年、私たちは「明日の美術」を信じることができた。そして2015年、私たちは美術を携えて「もと来た方向へ走っている」。
by gravity97 | 2015-09-13 14:40 | 現代美術 | Comments(0)

椹木野衣『後美術論』

b0138838_20172060.jpg
 
 本書は『美術手帖』に過去14回にわたって連載された内容をまとめた600頁を超える大著である。以前にも記したとおり、しばらく前から私はこの雑誌に愛想を尽かしているので、時折書店でこの連載を立ち読みすることはあっても、不定期の連載でもあり、単行本化されてから通読するつもりでいた。ところが本書が刊行されるとほぼ同時に版元の美術出版社が民事再生を申し立てたという報道があり、入手が不可能となるかもしれないと慌てて本書を求めた。いささか不謹慎な物言いかもしれないが、このあたりの混乱は本書にふさわしい。私は椹木の著作はほぼ読んできた。『シミュレーショニズム』から『爆心地の美術』にいたる美術論と『テクノデリック』『原子心母』といった音楽論が交差する本書は椹木の批評にとっても一つのメルクマールを画す内容であるように感じる。同じように『美術手帖』の連載が単行本化された例として『日本・現代・美術』がある。この著作も実に挑発的な批評であったが、誤解を恐れずにいえば椹木ならずとも書けるというか、椹木が書かずとも誰かが書くべき日本の戦後美術の反・通史であった。しかし『後美術論』は椹木以外には書くことのできない内容であるように感じる。『日本・現代・美術』で論じられる対象については戦後美術に関心のある美術関係者であればある程度の知識を有している。しかし『後美術論』で論じられる対象、とりわけ音楽については美術プロパーの研究者ではとてもカバーすることができない広がりがあるからだ。もっとも椹木のデヴュー作である『シミュレーショニズム』にも「ハウス・ミュージックと盗用芸術」というサブタイトルが付されていたこと、今引いたいくつかの著作の多くが美術と音楽の両方に紙幅を割いていたことなどを想起するならば、筆者の関心はデヴュー以来一貫しているといえるかもしれない。
 本書が狭義の美術批評に収まるか否かはひとまず措くとして、美術批評はしばしば新しい概念を提起することによってその射程を広げた。本書の場合、タイトルとされる「後美術」という概念がそれにあたる。「後美術」とは何か。椹木は本書のカバーに次のような定義を示している。「美術や音楽といった既成のジャンルの破壊を行うことで、ジャンルが産み落とされる起源の混沌から、新しい芸術の批評を探り当てる試み。例えば、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの活動を同じ『後美術(ルビ アート)』と呼ぶこと。(中略)このジャンルを溶解させる婚姻から授かる創造の地平が『後美術(ルビ ごびじゅつ)』である」今示したとおり、本書におけるルビの多用は注目に値する。同じ言葉がルビをふられることによって、時に美術の文脈で、時に音楽の文脈でとらえられる場に私たちは何度となく遭遇する。この定義からも明らかなとおり本書のキーワードは「音楽と美術の結婚」である。本書においてはほとんどの章において、通常音楽家と考えられている作家と美術家と考えられている作家がペアで取り上げられ、両者の関係が論じられている。今の定義にあったとおり、最初に引かれる例はレノンとヨーコであり、現実にパートナーの関係にあった二人から本書を説き起こすことはきわめて自然だ。「後美術」という言葉からはポスト・アート、つまり時間的先後性に関する議論が予想されるのだが、注意しなければならないのは「後美術」とは時間とは無関係な、ややトリッキーな概念である点だ。本書に参照されるべき椹木の著作は2010年に刊行された『反アート入門』であろう。『反アート入門』においては「美術史」が制度としていかに恣意的に構築されたかという問題が、冷戦や近代美術館といった「歴史的」諸問題と関連づけて論じられていた。このような態度を「美術史」に対して垂直的とみなすならば、本書において椹木は水平的、共時的な観点から現代美術の分析を試みる。本書の核心が「音楽と美術の結婚」である以上、美術と音楽のジャンルの関係が問われるように思われる。しかし本書で論じられるのは口当たりのよい「ジャンルの横断」ではない。あとがきの冒頭に椹木は次のように書きつけている。「この本で私は、一貫してジャンルの破壊を行っている。ジャンルの横断ではない。破壊であることが重要なのだ」本書の中で椹木はこのような破壊を繰り返し溶解(メルトダウン)という言葉で言い換えている。震災を経た私たちにとってこの言葉がはらむ不吉なコノテーションは明らかである。一方で、本書と『反アート入門』の共通点としては美術ではなくアートという言葉を使用し、それに積極的な意味を与えていることが挙げられよう。バブル期を連想させる「アート」という言葉は美術に関わる者であれば使うことがためらわれる。確か森村泰昌はどこかで自分が「芸術家」であって決して「アーティスト」ではないことを強く主張していたように記憶する。しかし椹木は「アート」という言葉の融通無碍を逆手にとって文字通りジャンルの溶解を試みるのだ。確かに「アート」という言葉なくしては美術家としてのロバート・メイプルソープの仕事と音楽家としてのパティ・スミスの仕事を共通の地平において論じることは不可能かもしれない。
 本書は記述においても斬新な形態をとる。多くの章の冒頭に椹木自身の体験が語られ、続いて関連する歴史的事実が記述され、さらにそこで提起された主題をめぐる考察などがいわば併置されて連なる。椹木の体験は世界中を舞台にしている。最初の章こそ、オノ・ヨーコとの対談の申し出を東京の自宅で受けたエピソードが記されているが、その後、椹木がそれぞれの章の冒頭に記述する体験は1990年のモスクワ、2005年のウィーン、1997年のロンドン郊外、1991年のニューヨーク、同じ年のロスアンジェルス、そして2012年のMOMAを舞台としている。このような記述が意図的であることは明らかだ。1990年代以降、つまり椹木が美術批評家として活動を始めて以来の様々な記憶が本書の輪郭をなしており、同時にそれは椹木のいう「後美術」がこの四半世紀、もはや場所を問わず看取できる事態であることを暗示している。そしてこのような記憶の中に、突然、現在が挿入される個所がある。「スローターハウスの聖母たち」の章の前篇の途中、113頁である。

……ここまで書いてきたとき、突然、文章を書いている机がカタカタと揺れ始めた。2011年3月11日に起きた、恐ろしい震災の、それは最初の前触れだった。揺れは次第に強さを増し、しかも長く長く続いた。

 1755年のリスボン大震災がヴォルテールの著作に強い影響を与えたように、本書も震災と原子力災害を内部に挟み込み、その圧倒的な影響下にある。もっとも3月11日以降、一体日本に住む誰がそれと無関係に思考を鍛えることができるだろうか。先ほど「後美術」の「後」は時間的な契機を有さないと書いたが、「後美術論」が震災と原子力災害という不可逆的な事件の「後」に置おいて初めて可能な産物であることは、地の文としていきなり乱入するこれらの記述において明らかである。椹木もその事実をわざわざ書き記すことによって、私たちがもはやそれ以前へと戻ることのできない「後震災」の状況にあることを読者に自覚させるのである。
 本書で論じられる主題の射程を粗描しておこう。最初の章では先に述べたとおり、オノ・ヨーコに対談の相手として指名されたエピソードを契機として「音楽と美術の結婚」すなわち「後美術」という概念が提起される。レノンとヨーコのペアを通して本書では例外的に幸福な時代の記憶が語られる。次いでソビエト連邦崩壊直前にモスクワを訪ねた経験から説き起こし、ライバッハという私にとっては未知の音楽ユニット、そしてU2の「ZOO TV」という試みが、共産主義の崩壊と内戦化する世界を背景に論じられる。この部分が書かれた時点ではまだ震災は起きていないにもかかわらず、ZOO TVとの関連においてセラフィールド原子力発電所への抗議行動について言及されている点は予言的でさえある。続く「スローターハウスの聖母たち」の章においてはまずウィーン・アクショニズムのヘルマン・ニッチのOMシアターと関連して初期キリスト教において異端とされたグノーシス主義についてかなり理論的な検討がなされる。私はキリスト教の教理については全く知るところがないが、ヒプノシス、言わずと知れたプログレッシヴ・ロックのジャケットデザインを手がけたデザイナー集団の名称がグノーシスからとられたといった指摘を読むと大いに納得してしまう。この章の後編で扱われるのはシェーカー教徒とエルヴィス・プレスリー、そしてロバート・メイプルソープとパティ・スミスだ。メイプルソープについては、私も登場人物の多くがエイズで悲惨な死を遂げるパトリシア・モリズローによる評伝を読んでいたが、本書の記述も救いがない。例えばモリズローも言及していた伝説的なキューレーター、サム・ワグスタッフについては私もミニマル・アートに関して早い時期に重要な展覧会を企画した人物として知っていた。彼がメイプルソープと交流する中で次第に内面を崩壊させていく記述は痛々しい。実はメイプルソープとワグスタッフのみならず「後美術」に関わった者の多くが悲惨な境遇を生き、あるいは悲惨な死を遂げていることが、本書を読み進めると明らかになる。「後美術」はなぜもかくも悲惨と死の影に彩られているのであろう。我々の時代の表現とは本来的に深く呪われているのであろうか。
 続いて舞台はイギリスへと転じる。ここでも椹木は暗鬱な回想から始める。1997年に椹木はデレク・ジャーマンがエイズで没する直前に築いた庭園をロンドン郊外に訪ねた。今は亡き清水アリカらが同行し、荒涼とした庭園の背後には原子力発電所がそびえていたという。この章のタイトルである「残虐行為への展覧会」が作家J.G,バラードに由来していることはたやすく理解される。「結晶世界」のSF作家として知られるバラードとブリティッシュ・ポップのエドゥアルド・パオロッツィの意外な関係が検証され、さらにスロッピング・グリッスル、あるいはCOUMトランスミッションといった70年代にスキャンダラスなパフォーマンスを繰り返したバンドやユニットについて分析が続く。これらの作家や集団について、日本では美術の文脈でほとんど論じられたことがなかったため、この章は私にとっても学ぶことが多かった。ブリティッシュ・ポップは近年再評価が進んでいるが、椹木はその周辺にこれら全く出自の違う表現者が集い、破壊的な所業を繰り広げていたことを明らかにする。それは私たちがなじんできたお上品なイギリス現代美術とは全く異なる。しかし彼らをいわゆるYBAの起源と考えるならば、「後美術」が地下茎のように70年代以後の西欧に深く根を張っていたことが理解されよう。続く「次は溶解(メルト・ダウン・イズ・ネクスト)」の章ではニューヨークのパンク・ロックが取り上げられる。私はパンクを聴かないのでこの章は十分な理解からは遠いが。セックス・ピストルズに代表されるロンドンのパンク・ロック、ギー・ドゥボールのシチュアシオニスト・インターナショナルの活動に続いて、シンディ・シャーマンとしばしば比較されるフランチェスカ・ウッドマン、パンク・ロックの死の女王リディア・ランチ、写真家デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチといった私にとっても全く未知の美術家や音楽家が「後美術」に連なる系譜として召還される。彼らもまた死や悲惨を濃厚に身にまとっている。続く章は「地獄と髑髏」と題されて「ヘルター・スケルター」というルビがふられ、東海岸ではなく西海岸、ロスアンジェルスの「後美術」が論じられる。「ヘルター・スケルター」とは1992年にポール・シンメルによってロスアンジェルス現代美術館で開かれた伝説的な展覧会である。私はカタログを通して知っており、何人かの作家については西海岸の美術館で見た経験がある。椹木も論じるとおり、東海岸の洗練や主知主義からはかけ離れた悪趣味と不気味な表現の横溢はショッキングであった。例えば代表的な作家であるマーク・ケリーとポール・マッカーシー、彼らの作品に顕著なほとんど犯罪的なフェティシズムやスカトロジーはこれまでに名前を挙げたニッチ、メイプルソープ、あるいはCOUMトランスミッションズと親近性があり、「後美術」の広がりを暗示している。今、犯罪という言葉を挙げたが、「ヘルター・スケルター」は西海岸においておそらく本書の中でも最悪に陰惨な局面と接続する。「ヘルター・スケルター」はビートルズの「ホワイト・アルバム」に収められた異様な楽曲であるが、この曲は西海岸のドラッグ・カルチャーの洗礼を受けたチャールズ・マンソンとそのファミリーに決定的な啓示を与え、女優シャロン・テートらを犠牲者とする一連の惨殺事件の一種の依り代となったのである。椹木が述べるとおり、「後美術」は地域や世代を問わず、この四半世紀の先端的な表現に特徴的な在り方であったかもしれない。しかしその系譜は死と悲惨に彩られており、マンソンをめぐる挿話はその頂点といってよい。さらに椹木は議論を広げ、とりわけこの章で論及される作家や主題は興味深い。例えば私はここではマンソンと「ルシファー・ライジング」の映像作家ケネス・アンガーの関係についてはあえて触れない。あるいは椹木はやはり「ホワイト・アルバム」中の「レボリューションNo.9」と関連して、日本赤軍や足立正生、そして赤瀬川原平(三者の関係について知りたければ、現在、広島市現代美術館で開催されている赤瀬川の回顧展を訪れるのがよい)に論及し、マンソン・ファミリーの世紀末思想をオウム真理教へと関連づける。さらにティモシー・リアリーとアシッド・ロックの関係が語られた後で、奴隷制とジャズとブルースの起源といった文化史的な主題さえも論じられるのだ。それらについては私が下手に解説するよりも本書を精読していただくのがよかろう。最初に述べたとおり、私はひとまず論じられる主題の幅の広がりを画定するに留めておく。
 最後の「歌う彫刻と人間=機械(ルビ マン・マシーン)」と題された章では文字通り、「歌う彫刻」、つまりパフォーマンスと彫刻を一体化したイギリスの二人組、ギルバート&ジョージと「MAN MACHINE」というアルバムを1978年に発表したクラフトワークのペアが論じられる。ギルバート&ジョージが活動した70年前後のロンドンが「後美術」にとって一種の創造的なカオスであったことをあらためて思い知る。スーツで正装した二人組の作品もラディカルさという点は相当なものだ。そしてクラフトワークは1975年のアルバム「放射能」によって本書の隠された主題に直接連なる。私自身も震災直後にこの楽曲についてこのブログで詳しく論じたことがあるので関心のある方は参照していただきたい。本書に散りばめられたセラフィールド、チェルノブイリ、スリーマイル(これらは「放射能」で連呼される土地の名でもある)といった固有名が暗示する原子力発電所への批判は彼らにおいて明確な形をとる。そして実際、椹木は2012年4月11日、MOMAで開かれたクラフトワークの連続公演第二夜、「放射能」の演奏に立ち会っている。レノンとヨーコの生身の身体(平和のためのベッド・インを想起せよ)で始まった「後美術」の系譜は、人の代わりにマネキンが機械的な音声で放射能の恐怖を警告する情景とともにひとまず幕を閉じるのである。
 本書の読後感はかなり暗い。内戦やエイズ、悪魔主義と無政府主義、自殺と幻覚、ここで論じられる主題がしばしば死や悲惨と関連している点については繰り返し述べたとおりだ。椹木は「後美術」を20世紀後半期の芸術の核心をかたちづくる営みとみなし、説得的な議論を展開している。しかしここで紹介される作家は少なくとも美術の領域においては周縁的な作家であり、モダニズム美術が失効する70年代以降の主流と考えることは少々無理があるのではなかろうか。ジャンル、あるいはメディウムを限定したうえで表現の強化、あるいは純粋化をめざすモダニズム美術と「ジャンルの破壊」を標榜する椹木の立場は正反対といってよい。むしろ私は「ジャンルの破壊」という発想が今挙げたような暗鬱な主題を前面に押し出すために捏造された一種のアリバイではないかと考える。言葉を換えるならば、私は椹木の著作に濃厚なペシミズム、あるいはアナーキズムの由来が気になるのだ。最初に私はもう一つの主要な著作『日本・現代・美術』について触れた。そこでも椹木は日本の戦後美術を歴史を形成することなく、忘却と反復を繰り返す「悪い場所」としてとらえるきわめてペシミスティックな立場をとっていたことを想起しよう。歴史に関して水平的な立場をとる『後美術論』においてその水平性を支えるジャンルが「破壊」されたように、「90年代の前衛」から「暗い絵」に向けて逆通史的な体裁をとる『日本・現代・美術』においても歴史の垂直軸に対して、反復と忘却を事挙げて「歴史の破壊」が試みられているのだ。二つの著作の共通点はそれのみに留まらない。『日本・戦後・美術』が阪神大震災とオウム真理教による一連のテロを直接の契機として執筆されたように『後美術論』においては執筆の途中に発生した東日本大震災と原子力災害という体験が文字通りテクスト内に介入している。これら二つの著作を戦後日本において例をみない惨事のトラウマととらえることは考えすぎであろうか。そしあてあらためて思い返すに、椹木の美術批評にはデヴュー作の「シミュレーショジズム」以来、一種のペシミズムがつきまとっていたように感じられるのだ。沈滞する現在の美術批評界において私たちは椹木ほど活発に評論活動を行う批評家を知らないし、近年、その活動の幅はさらに広がっている。しかしその批評の本質がペシミズムにあるとすれば、それは椹木の個人的な資質、私たちの時代の表現の特質、震災以後に瀰漫するファシズムの予兆のいずれに由来しているのだろうか。「後美術論」は現在第二部の連載が続いている。まずはその帰趨を見届けたうえであらためて考えてみたい問題である。
by gravity97 | 2015-04-15 20:19 | 現代美術 | Comments(0)

 引き続き東野芳明の美術批評選について論じる。前回は主にこの選集成立をめぐる形式的な側面について論じたが、今回は内容に関して検討を加える。本書の構成は「生中継の批評精神」と題された編者の序言に続いて、1960年から72年にかけて東野が執筆した20本余りのテクスト、インタビューをもとに構成された磯崎新の「反回想」、そして二人の編者による二つの論文がこの順に収められている。東野のテクストはほぼ発表順に収められており、行間から60年代の東野の八面六臂とも呼ぶべき活動が浮かび上がる。あらためて感じるのは東野が傍観者としてではなく当事者として美術のカッティング・エッジに立ち会う様子である。
 ジョン・ケージの「演奏会」の模様から説き起こされた本書には、東野自身も出演した草月会館での小野洋子の作品発表会、ブリヂストン・ホールでの「『反芸術』是か非か」公開討論会、「ヤング・セブン」に始まるいくつものギャラリーでの展覧会など、東野が実際に立ち会った多くのイヴェントや展覧会に関連するテクストが収められている。あらためて東野の透徹した認識に驚く。例えば最初のテクストで東野はヨーロッパの芸術家に比べ、アメリカの芸術家たちは「自己を表現する」のではなく、「今行っていることを正確に行うこと」を目指していると指摘する。このようなコメントは既にこの時点でミニマル・アートからコンセプチュアル・アートにいたるアメリカ美術の理路を正確に予見している。批評家は現代美術に伴走している。私はこれらのテクストを通して東野が1969年の「クロストーク/インターメディア」にも出演していたことを初めて知った。このほか関連文献は収録されていないが、東野は1964年の有名なラウシェンバーグへの公開質問会にも「出演」している。あるいはネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ関連の記録写真を見るならばいたるところでサングラスをかけた東野が作家たちと談笑する姿を見かける。このような姿勢は東野が私淑した瀧口修造と対照的である。瀧口もタケミヤ画廊での一連の企画をはじめ、作家たちと交流を重ねたが、常にいわば一歩下がった印象があり、その態度を赤瀬川原平は「目撃者」と呼んだ。瀧口が目撃者ならば、東野は共犯者であろう。批評家は積極的に街に出て、作家たちとともに状況にコミットする。そしてその背景には当時の美術をめぐる特異な状況を指摘することができるだろう。
 最初の章でジョン・ケージについて言及があり、二番目の章ではタイトルとして「チャンス・オペレーション」という言葉が用いられている。「チャンス・オペレーション」もケージによって導入された手法である。ケージはデュシャンとともに抽象表現主義以後の表現を模索する作家たち、つまりジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグといった東野と親交をもった作家たちに大きな影響を与えた。ケージは1962年に来日した際に、おそらく東野の仲介で『みづゑ』誌に「デュシャンに関する26章」というテクストを寄せるが(私たちはそれを東野の『現代美術 ポロック以後』のデュシャンに関する章の中で読むことができる)、その中に「音楽を書く一つの方法―デュシャンを研究すること」という断章がある。私は東野の批評を読む際には常にそのデュシャン研究を念頭に置くべきであると考えるが、ここで暗示されるのは音楽と美術といったジャンルを越境することの重要性だ。実際に50年代から60年代にかけてニューヨークでは様々な表現をとおしてジャンルの越境が試みられた。本書に収められた「コンバイン日記」には東野がアラン・カプローとナム・ジュン・パイクと会食するエピソードがあるが、当時、カプローが提唱したハプニングは「画家の演劇」と呼ばれ、実際に様々な作家によって演じられていた。さて、カプローはその著書の中でハプニングの条件をいくつか示すが、その中には「芸術と生活の境界は流動的で、可能な限り不明瞭なままに保たれるべきである」「結果として観衆は排除されるべきである」といった項目がある。これらの項目が生活/芸術、演者/観衆といったそれまで当然とされた区分に疑問を投げかけるものであることはいうまでもない。この点をいちはやく感受した東野にとって撤廃されるべき区分は作家と批評家の間にも存在したのではなかろうか。60年代以降、東野は一連のきわめてパフォーマティヴな批評を発表する一方で、知り合いの作家たちを批評的な営為へと誘う。例えば1971年に刊行され、自らが責任編集した講談社版の「現代の美術」のうちの一巻、『ポップ人間登場』を編集するにあたってはトム・ウェッセルマンらにアンケートを送り、返信を収録している。さらにいえば東野は自ら水中写真を撮影し、作品として個展で発表したこともあったらしい。批評家ならぬ写真家としての東野を語る際には重要なエピソードであろうが、私は未見であるから、これ以上立ち入らない。今述べた点との関連で興味深いのは、本書の中に二篇の「観衆論」が含まれていることだ。1967年の「現代観衆論」と1972年の「現代芸術と観衆」という二つの論文であり、前者は山崎正和の文章に対する反論として執筆されたと解題にある。観衆の分裂という問題を「手仕事」という概念と関連させて論じた前者と、メディアの隆替や「拒否によるアカデミスム」との関連で論じた後者は微妙に強弱を違えるが、私が注目するのはきわめて早い時期に東野が観衆という享受の側に目を向けている点である。奇しくもウンベルト・エーコの『開かれた作品』が発表されたのも1967年である。東野は記号学や受容美学とは全く別の文脈で早くから観衆や聴衆といった受け手の側に関心を抱いた。ケージやカプローを含む60年前後のアメリカの前衛芸術との交流が東野のかかる関心を育んだことに疑いの余地はないし、それは自らも演者と観衆を行き来した批評家ならではの着想であっただろう。私は現代音楽には詳しくないが、東野がケージに依拠するようにエーコも『開かれた作品』の冒頭で自身が「開かれた作品の詩学」に想到する機縁となった例としてシュトックハウゼン、ベリオ、ブーレーズといったヨーロッパの前衛音楽家の楽曲を挙げている。両者を比較することも意味があるかもしれない。
 巻末に磯崎新による「反回想」が収録されている。東野とともに一つの時代を画した建築家による回想だけに内輪の話も明かされて興味深いが、磯崎のごとき国際派にとっても東野の存在は別格であったようだ。このインタビューを磯崎が次のように結語する時、この点はよく理解できる。「東野には、現場でものを考え、それを説明できる力があったわけです。カラーフィールド・ペインティング、オールオーバー、ハードエッジ……美術界のコンセプトはめまぐるしく変化しましたが、ぼくらはこういったこと全部を東野経由で理解した。彼は、ひとつの時代的な変化を美術を通じて感じとっていた、そう思います」このような感慨は私も共有している。私が美術史学を学び始めた80年代初頭にあってもアメリカの戦後美術について書かれた文献はごく僅かであり、東野は最初に参照されるべき書き手であった。さすがに『現代美術 ポロック以後』で扱われた作家たちは既にビッグネームであったが、83年に連載が始められ、『ロビンソン夫人と現代美術』としてまとめられる一連の作家論については私も時代と同伴する作家たちについて東野からリアルタイムで情報を得た思いがある。この意味でもこの二つの著作は再刊が待たれる。しかし前者が主にアメリカの現地での交流や情報に基づいて執筆されたのに対して、後者は逆に作家たちが来日して東野と交流したことを契機として書かれた場合が多い。東野自身も『ロビンソン夫人と現代美術』のあとがきで、前者が「手に入る資料は限られていたし、原作を日本で見る機会は少なかった。こちらは、外国旅行の度につとめて見た体験をもとに、図版を眺めながらやっさもっさ書いた憶えがある」のに対し、後者の場合は「登場する作家にしても、彼ら、彼女らの展覧会やパフォーマンスをオーガナイズする日本の画商、美術館、プロモーターがふえたし、資料にしても、彼らを通して、かなり潤沢に手に入った」と述べている。後者の作家のセレクションがやや甘い気がするはそのせいであろうか。いずれにせよ、東野の本領は同時代の作家たちと直接やり取りしながら彼らの仕事に言葉を与えるダイナミズムにあり、それは外国の作家であろうが、日本の作家であろうが同様だ。本書の帯に「現代美術の生中継」という惹句が記されている。生中継とは編者の一人、松井茂の関心を反映してTV中継を暗示しているが、私はこの言葉にむしろ同時中継、つまりタイムラグなしに同時代の現代美術を紹介しようとする東野の批評の本質を見出す思いがする。同じ時期に作家たちとの対談をまとめて『つくり手たちとの時間』として上梓したことなども想起されよう。
 最後にもう一点、興味深く感じた点を記しておきたい。収録されたテクストの中に『アメリカ「虚像培養国誌」』に収められた「実体喪失の旅」と題された一文がある。妻の運転する自動車でニューメキシコからネヴァダまでアメリカ大陸の一部(サブタイトルによれば「アメリカ横断1/4」)を横断した際の旅行記である。インディアンの集落やグランドキャニオンといったアメリカ西部の表象からは例えばポロックの幼年時代が連想されるかもしれない。しかしここで東野が連想するのはポップ・アートに連なる作家たちである。車というイメージからアンディ・ウォーホルの衝突事故のシルクスクリーン、ジェームス・ローゼンクイストが描く車の車体、ハイウェイというモティーフからアラン・ダーカンジェロ、そして直線で裁断された州境のイメージからジョーンズの地図といった多様なイメージが提起される。ここで東野はマクルーハンを援用しながらポップ・アートの「虚像性」というまことに本書の主題にふさわしい問題を提起するのであるが、私はそれ以上に無人の砂漠をドライブすることが、人間にとって新たなセンセーションを喚起する点に興味をもった。私もかつてニューメキシコからテキサスにかけて無人の荒野を延々とドライブしたことがある。スピード感と距離感の喪失、不思議な空白感と風景の不在はこの地域ならではのものであろうが、ひるがえって私は東野に限らずドライブという体験がアメリカ美術に関する批評の中でしばしば引用される点に興味を覚えた。例えば次のテクストだ。

50年代の初めの一年か二年、私がクーパー・ユニオンで教鞭を執っていた時、ある人がニュー・ジャージーの未完成の高速道路に乗り入れる方法を教えてくれた。私は三人の学生を連れて、メドウズのある場所からニュー・ブランズウィック市までドライブをした。暗い夜で、灯も路肩標も白線もガードレールも何もなく、あるのはただ平地の風景の中を通って進んでいく暗い舗装道だけだった。風景は遠くのいくつかの丘に枠づけられ、だが煙突や塔や煙霧や色光が点々と見えていた。このドライブは意義深い体験だった。道路とほとんどの風景は人工的なものであったが、それは芸術作品とはいえないものであった。他方で、それは私にとって、芸術には決してなかった何かがなされていた。

この文章はマイケル・フリードの高名な論文「アート・アンド・オブジェクトフッド」において作家トニー・スミスの言葉として引かれている。詳しく論じる余裕はないが、ここでフリードはかかる体験を演劇と結びつけて、ミニマル・アート、彼の言うリテラリズムの芸術批判へとつなげていく。あるいは先述の『ロビンソン夫人と現代美術』の中で東野は自らの「実体喪失の旅」にも似たカルヴィン・トムキンス(!)の次のような文章を引用している。

 ラスヴェガスを飛び出して、乾ききった、何もないネヴァダの風景の中をドライブしてゆくのは、それ自体忘れがたい体験である。24時間営業のギャンブル・テーブルや奥様方に催眠術をかけるスロット・マシーンのある、空調のきいた豪華なホテルを後にして、焼けつくような砂漠の谷や浸食された丘に接すると、それもまた、負けず劣らず非現実的に見えたものだし、生活に敵意を見せている点でも、ラスヴェガスと同じだった。(中略)気温は華氏100度を超えたままで、車は煮えたぎったように熱く、身震いをやめない。7時過ぎ、太陽が地平線に近づく頃、ついに我々はそれを見つけた。

 「我々が見つけた」のはネヴァダの砂漠に刻まれた二つの巨大な切り込み、アースワークの代表的な作品の一つ、マイケル・ハイザーの《ダブル・ネガティヴ》である。スミッソンの《スパイラル・ジェティ》にせよウォルター・デ・マリアの《ライトニング・フィールド》にせよアースワークの作品について語られる時、それらがいかなる僻地に制作され、到達のまでのドライブがいかに苛酷かという点がしばしば言及される。ここではドライブの体験と作品の体験が一体化されている。ポップ・アート、ミニマル・アート、アースワーク、意図も構造も全く異なるこれらの作品がいずれもドライブという体験と深く関わっていることを知る時、私は戦後アメリカ美術にとってドライブという体験が隠喩であり換喩であったことを知る。この時、東野が発表した、少なくともタイトルにおいて美術と直接の関係をもたないエッセイ集に『クルマたちとの不思議な旅』というタイトルが付されていた点はなんとも興味深い。
 最後にもう一人、日本を代表する美術批評家が戦後アメリカ美術を主題として執筆した論文からの引用によってこの文章を終えよう。アクション・ペインティングからポップ・アート、プライマリー・ストラクチュアまでをプロテスタンティズムという独自の視点で分析し、先にも触れたアリゾナへのドライブ旅行に関する東野の文章を引用した後、宮川淳は次のような言葉とともに「記憶と現在」という論文を締めくくっている。

 ハイウェイをどこまでもはてしなく疾走するドライバー、そしてフロントグラスに切り取られる風景はたしかにきわめてアメリカ的主題であるが、しかし、それにもまして、すぐれてアメリカ美術的な主題であるように思われる。そこにはほとんどポロック的な主題があらわれると同時に、しかし、またこの無限の時間論的現在はまさしく《表面》に吸い取られ、空間の現前に変換されてゆく。しかもそれはイメージと抽象的な色面とが《反イメージ的レベル》で出会う境界、ポップ・アートがその後の抽象的な動きに溶解してゆく瞬間でもあるのである。

b0138838_21121746.jpg

by gravity97 | 2013-05-09 21:15 | 現代美術 | Comments(0)