Living Well Is the Best Revenge

林道郎『静かに狂う眼差し』

現代美術
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いたという事情、あるいは同じ批評家による「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」という連続公演の中で、サイ・トゥオンブリー、ロバート・ライマンといった、まさにDIC年代のミニマル・アートにいたるモダニズム美術が俎上に上げられている。タイトルからうかがえるとおり、テーマに沿って時代やジャンル、国籍の異なる美術家が次々に召喚され、刺激的な議論が展開される。例えば最初の章で最初に触れられるのはブラッサイによるアトリエの中のマティスとモデルを記録した一葉の写真である。林はこの写真をめぐる伝記的な事実の確認に始まり、マティス、ピカソ、さらにはコーネルから瀧口修造、リチャード・ハミルトンから中原佑介によって企画された「不在の部屋」展へと議論を展開する。林の議論のアクロバティックな展開は本書を読む醍醐味であるが、言及される作品は多くの場合、DICという概念を介して画家とモデル、ジェンダーや視線と権力といった主題も浮かび上がるだろう。冒頭で論じられる、ポーズするモデルをマティスがスケッチする様子を記録したブラッサイの写真からは直ちに画家とモデル、男性の眼差し、絵の中の絵あるいは写真の中の絵といった問題が浮かび上がる。林はきわめて実証的な議論をとおしてモデルを同定し、この写真が撮影された当時のマティスをめぐる状況を確認する。このあたりの手つきの鮮やかさは実際に本書をお読みいただくのがよかろう。この中で林は画家とモデルという主題には常に他者が介在するという興味深い仮説を提示する。他者とは時にモデルや妻といった具体的な位置をとることもあるが、おそらくマティスが想定した最も気がかりな他者とはピカソであったという指摘は説得的だ。二人の関係についてはすでにイヴ=アラン・ボアが重要な研究を発表している。そして林はかかる興味深い主題を惜しげもなく中断して、コーネル、ベンヤミンを介してポップ・アートへと議論を進める。先にも述べた通り、議論の意外な飛躍こそ本書の大きな魅力であり、アトリエという密室は個室そして室内といった主題を介して20川村記念美術館に所蔵されていたという情報を耳にしたことがある。人種差別によるリンチ事件を扱ったこの作品については本書の中でも短い言及があるが、かつてロスアンジェルスで見た彼の大規模な回顧展には出品されておらず、手元の画集を確認するならば、確かに日本の個人所蔵家の所蔵という表記がある。作品の所蔵はデリケートな問題であるからこれ以上詮索するつもりはないが、もしキーンホルツのこれほどの大作が日本に存在する/年に生まれ、西海岸に居住したジョン・マクロフリンという作家だ。私も名前のみ知っていたこの作家について林は興味深い事実を次々に明らかにする。一見、淡白な色面抽象とも呼ぶべき画風で知られるマクロフリンは実は日本と関係が深く、日本に滞在したことがあるのみならず、日本の美術にも造詣が深かったという。林は彼の抽象絵画と雪舟、あるいは日本の建築との関係について論及する。その当否はともかく、長谷川三郎をキーパーソンとしてこれまで前衛書を介して語られることが多かった日本とアメリカ西海岸の美術に関して、全く新しい参照項が与えられた訳であり、この作家については今後も研究がなされるべきであろう。そもそもなぜDIC 続く「グレイの反美学」のセクションでは色彩もしくは非色彩としてのグレイ、灰色が主題とされるが、ここで林の関心は飛躍というより乱反射するかのようである。ジャスパー・ジョーンズで語り始められることに特に驚きはない。ジョーンズの鉛のレリーフは確かにグレイであるし、地図や国旗をグレイで覆った作例も直ちに思い浮かぶ。ジョーンズとジャコメッティを経由して林はモノクローム絵画という問題へと踏み込み、ステラやイヴ・クラインといった予想される顔ぶれ、ウォーホルや田中敦子といったやや意外な顔ぶれの作品に触れた後、ゲルハルト・リヒターの一連の絵画について達する。ジョーンズが用いた鉛という素材から私はむしろリチャード・セラを連想し、ミニマル・アートからアルテ・ポヴェラ、もの派にいたる一連の非芸術的な動向における色彩の欠落、非色彩の系譜に興味を抱くが、本書ではこれらの作家は軽く触れられるだけで、意外な方向に議論が進められる。すなわち意味のグレイゾーンとしてのベッヒャー夫妻の一連の写真作品が紹介され、同様の意味の不在において赤瀬川原平の「超芸術トマソン」が引用される。おそらくこれらの作品もコレクションに収められていたためであろうが、少々牽強付会という感じがしないでもない。手術台の上のミシンと蝙蝠傘ではないが、意外な作品が展示において隣同士に配置された場合、時に思いがけない発見がもたらされる一方、下手をすればちぐはぐな印象を与える。このセクションでは続いてグレイ=コンクリートという連想から車、そしてタイヤの跡といったテーマが導出され、オルデンバーグやラウシェンバーグが召喚される。疾走するハイウェイの車窓風景と関連させてアメリカ美術を論じた宮川淳などもかすかに想起されるが、さらに梱包という主題を介して赤瀬川とクリストに及ぶにいたっては議論の飛躍がいささか激しすぎるように感じた。

この章の冒頭で林は「川村のコレクションにその名を発見することのできる戦後の抽象を代表する作家」であり「私たち見る者の身体を包むようなスケールをもった作品」の描き手として以下の名を列挙している。ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコ、モーリス・ルイス、フランク・ステラ、アド・ラインハート、サイ・トゥオンブリー、ロバート・ライマン、李禹煥、中西夏之。しかしここにはかつてこの美術館で展覧会が開催され、スケールという点で当然触れられるべき一人の作家の名前が欠落している。なぜならばこの美術館が作品を所蔵していないからであり、正確に述べるならばかつて所蔵していた作品が今や存在しないからである。バーネット・ニューマンの傑作《アンナの光》の売却をめぐる経緯をここで繰り返すことはしない。しかし最後の章が抽象表現主義絵画を直接の主題としているにもかかわらず、あたかも一つの禁忌であるがごとくニューマンの名前は注意深く排除されている。ニューマンの名前の不在が意図されたものか偶然であるかはわからないが、画面のサイズや垂直性が論じられるこの章でこの画家の名前が一度も引かれないことはかなり不自然に感じられる。ニューマンに触れるならば、かつて彼の最高傑作をこの美術館が所蔵していたことに触れざるをえないだろうから、書き手に一種の配慮が働いたことも想像されるが、この結果、最後の章がいささか議論の深みに欠ける印象を受けたのは私だけだろうか。例えば本書においてはマーク・ロスコについての言及があまりない。もちろんロスコの素晴らしい連作はロスコ・ルームという別室に設置されているから、この展覧会とは一応切り離されている。しかし少なくとも本書が単なる展覧会カタログではなくこの美術館のコレクションに触発された思索の「覚書」である以上、ロスコの名品についてさらに論じられてよかったのではないだろうか。しかしロスコを語るならば、同じ色面抽象の画家であるニューマンに触れざるをえないから、あえて記述が抑制されたと考えるのはうがちすぎであろうか。求心性と遠心性の問題でもよい、壁面あるいは室内との関係という問題でもよい、ロスコとニューマンの対比は現代美術をめぐる考察にとってきわめて多産的で有意義であるはずだ。そして実際にかつてはこの美術館を訪ねて、同じ建物の中でロスコとニューマンの最高傑作と呼ぶべき優品を比較するという奇跡のような体験さえ可能であったのだ。

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