ベンジャミン・ウォレス『世界一高いワイン「ジェファーソン・ボトル」の酔えない事情』

 それにしてもこのタイトル、なんとかならないか。まともな感性の持ち主であれば、それだけで本を手に取る気が失せてしまうような説明的で思わせぶりなタイトルである。The Billionaire’s Vinegar (億万長者のヴィネガー)という原題の方が数段ウィットに富み、すっきりしている。
 1985年、ロンドンのクリスティーズのオークションに出品された「シャトー・ラフィット1787」には10万ポンド(当時のレートで3000万円)を超える値がついた。ボトルにTh. Jという刻印が押され、アメリカ大統領トマス・ジェファーソンが所有していたといわれるいわゆる「ジェファーソン・ボトル」のうちの一本をめぐり、コレクター、競売人、ワイン評論家などを巻き込んだ騒動の顛末を縦軸としながら、ヴィンテージ・ワインのテイスティングやコレクションをめぐる秘話が次々に語られる。「シャトー・ラフィット」をめぐるエピソードはスキャンダラスではあるが、本書の中で必ずしも中心的な話題ではないだろう。たまたま稀少性の高いワインがオークションに出品され、アメリカ大統領に関する品物のコレクターでもある大富豪のマルコム・フォーブスと『ワイン・スペクテイター』誌を発行するマーヴィン・シャンケンが真っ向から競り合うこととなったために高騰したのであり、オークションという制度の必然的な帰結である。むしろこのようなボトルが複数存在し、それをめぐる世界の富裕層の駆け引きが活写された点こそが本書の読みどころである。このほかにもフォー・シーズンズの晩餐会で一本21万ドルのマルゴー(ジェファーソン・ボトルのうちの一本)のボトルを割ってしまったコレクターのエピソードやワイン偽造とその流通の詳細など、ヴィンテージ・ワインをめぐる様々の話題に最後まで飽きることはない。
ジェファーソン・ボトルはドイツのワイン・コレクター、ハーディ・ローデンストックによってパリにあった邸宅の隠し部屋から発見されたという。しかしローデンストックがその詳細を明らかにしないため、これらのワインにはその真贋、あるいは古い壜に中身を入れ替えたのではないかという疑惑がつきまとうことなった。この疑惑に判定を与えることも本書の目的ではない。特に後段においてビル・コークスというこれまた常軌を逸した大富豪がローデンストックから購入したジェファーソン・ボトルの真正性をめぐってニュートリノやら放射性同位体といった最新の科学技術を用いた年代測定、あるいはボトルの刻印の分析などを根拠に訴訟合戦を繰り広げるあたりも読み物としては実に面白いが、本書を通読して誰もが抱く感想は少なくともローデンストックなるコレクターは多少いかがわしい点はあるにせよ、真摯なワイン愛好家であっても詐欺師ではないし、「ジェファーソン・ボトル」も果たしてトマス・ジェファーソンが所有していたかどうかはともかく、その大半は貴重なヴィンテージ・ワインに間違いないという常識的なそれであろう。
 ヴィンテージ・ワインとはきわめて少数のコノシュアーによってしか判定されえない点において特殊な品である。本書中にローデンストックがロバート・パーカーの支持をとりつけることによって自らのワインに関する権威を固めるというエピソードがあるが、筆者によればパーカーの有名な100点満点のポイントもジェファーソン・ボトルのごとき異例のワインの前では全く意味をもたないという。しかしそのようなワインを入手しうる階層は果たしてかかる判定をなしうるほどに洗練されているか。ローデンストックの顧客リストを見る限り、ダイアナ王妃とともに事故死した中東の大富豪をはじめ、いかがわしい面々が顔を揃えているあたり、ヴィンテージ・ワインとスノヴィズムのとりあわせが面白い。
 ラフィットならラフィット、モンラッシェならモンラッシェと銘柄を定めて、年代順に飲み比べることを垂直テイスティングという。筆者によれば80年代にはコレクターが自慢のワインを持ち寄ってこのような試みを重ねるメガ・テイスティングが各地で繰り広げられたという。ジェファーソン・ボトルが登場した背景にはこのような狂騒があった訳である。ワインを料理との関係で考える私にとっては、なんとも空しい浪費のように思えるが、ワインの真髄に触れるためにはこれが正しい飲み方かもしれない。高価なワインをただ比較するために開栓するふるまいをどうみるかは人によるだろう。
 私は本書を読みながら、ヴィンテージ・ワインと美術作品の類似を連想した。いずれも基本的に一点しか存在せず、人によって価値が変わる。文中にモネやマネの絵であればその真贋の判定は容易だが、ワインは判定することが困難であるといった趣旨の文章があるが、例えば近年のレンブラント・リサーチ・プロジェクトが逆説的にも明らかにしたのは真贋という問題に関して、「科学的な」判定さえもが最終的には判定者の主観に委ねられるという事実であり、「客観的な」判定の不可能性である。それにしても嗅覚と味覚というまことに個人的で客観化しがたい感覚によって判定が下され、商品としての価値にいたっては開栓する以前、つまりそのような感覚を体験する前に判定がなされる点においてワインとはきわめて特殊な批評の対象といえよう。そもそも一本数千万円といったワインに果たして実体的な価値を求めることができるのであろうか。飲料としてのワインとヴィンテージとしてのワインの間には明らかな乖離がみられる。オークションにおいてジェファーソン・ボトルがワインとしてではなく、トマス・ジェファーソンに関する遺物として売り立てられるようになったという事実はこの問いを傍証するだろう。
b0138838_212370.jpgちなみに私がこれまで飲んだワインの中でヴィンテージを特定できるのは1979年のムートン・ロトシルトであるが、この種のワインを飲み慣れていなかった私は残念ながらそこに積極的な差異を認めることができなかった。批評とは端的に差異を体系化する営みであるが、このためには相応の訓練が必要である。具象絵画しか見たことがない者がマーク・ロスコの絵画の優劣を問われたような体験であったと今になって思う。

by gravity97 | 2008-11-24 21:17 | エピキュリズム | Comments(0)