中上健次-21世紀の小説のために

b0138838_19281824.jpg 17回忌ということであろうか、『ユリイカ』の最新号で中上健次が特集されている。10年ほど前に集英社版の全集が刊行された頃は中上に関した記事や特集が相次いだが、それ以来、久しぶりにまとめて中上論を読む機会となった。
 中上が没してもう16年が経つ。私は生前から作品を読み継いでいたが、作家の死後もいくつもの注目すべき関連書が発表されてきた。その中でも私が感銘を受けたのはいわゆる熊野大学、新宮の部落青年文化会における中上の連続講演の記録である。柄谷行人と渡部直巳が編集し、2000年に上梓された『中上健次と熊野』の中に収められた一連の講演は日本の戦後文学、いや文学一般に関するきわめて犀利な洞察であり、しかもそれがその場に集った聴衆、おそらく知り合いを含めた郷里の青年たちを意識したきわめて平明な語り口の中で説かれていることに私は深い感銘を受けた。古事記からジョイスまで多くの先行作品を渉猟しながら文学の原型と類型、古典の語り、差別と文学といったきわめて根源的な問題をこれほどまで明快に語る点に私は文学者としての中上の類まれな資質を再認識した。とりわけ第一次戦後派に対する辛辣な批判は、私にとって目からうろこが落ちる思いであった。例えば部落差別と文学という問題を語る際にしばしば論及されてきた野間宏の『青年の環』を文字通り一刀両断という印象で切り捨てる鮮やかさはある意味で私自身がこれらの作家たちによって「呪縛」されていたことを自覚する契機ともなりえた。
 今回の特集は書き手においても主題においても二つの焦点を結んでいるように感じられる。書き手という点では一方で蓮實重彦や渡部直巳といった、中上と直接親交を結び、作家の生前より作品に対して批評を加えていた年長世代の批評家たちの論文と、例えば東浩紀や斉藤環に代表される、世代的に若くおそらく作家と直接の交渉がなかった批評家たちの批評である。渡部はこの特集に寄せた論文の冒頭で渡部や高澤秀次らによって中上の没後も続けられてきた熊野大学、新宮における中上をめぐる連続セミナーの運営を若い世代に完全に引き渡したと述べているので、この意味でも本特集は一つの移行を徴しているかもしれない。一方、論じられる主題においてもいわゆる秋幸三部作を中心とした完成度の高い前期の作品群を中心に論じる論文と早すぎる晩年の問題作、具体的には『異族』を中心とした議論とが拮抗している印象を受けた。年長の世代が秋幸三部作を中心に論じることが多いのに対して、若い世代がどちらかといえば後期の作品に論及している点は偶然の一致であろうか。
 寄せられた論考は充実したものが多く、読み応えがある。個人的な回想を交えて中上の死を語る蓮實の追悼的なエッセー。渡部は例によって周到なテクストの読み込みをとおして、中上と上田秋成の関係を論じる。『異族』とフォークナーの関係を論じた論文や同時代性という観点から、初期作品と松下竜一、さらには東アジア反日武装戦線を接続させる論文なども私の個人的関心と照応して興味深く読んだ。熊野大学における東浩紀のレクチュアを前提とした東と前田塁の対談では『異族』が議論の中心となっており、何度も批判されてきたこの作品の平板さをフラットといった概念に結びつける点はやや強引に感じるが、「キャラクター小説」という概念で中上の作品を読み解くあたり、なかなか示唆的であった。書き手の中にはこれまであまり感心したことのない批評家もいるが、総じてそれなりに興味深い論点が引き出されていることは端的に中上の小説のテクストとしての豊かさを証明しているだろう。
 これらの論考を通読したうえで一点のみ私見を示すならば、私はこの特集においても顕著な、『異族』に中上の小説の特異点をみる発想に異和感を覚える。このような議論は「路地」が消滅した後、物語がいかにして可能かという問いに始まり、その帰結として『異族』にみられる「平板さ」が批判されるというクリシェをとるのであるが、私はまず作家が物語の帰趨に責任をもつという発想に疑問を感じる。「路地」が消滅したとしても作家はその後日譚を語る義務はない。時間的に『地の果て至上の時』の後で執筆されたとしても、私は『異族』が「路地」消滅後の物語と想定される必然性が今ひとつ理解できない。つまりなぜ「路地もの」と『異族』を時間的な先後関係、因果関係として語られなければならないのか。この時期、同じように空間的な移動を主題とした小説としては『日輪の翼』、あるいは性愛という主題をデモニッシュなまでに深めた『讃歌』といった傑作が路地とは直接的な関係をもたないまま執筆されている。私は『異族』もこのような小説の一つであり、単に中上はこの小説を終わらせることができなかったのではないかと感じる。なぜ、『異族』のみが「路地もの」に拮抗する意味を賦与されねばならないのか。そこには中上という天才が早世したことへの痛恨の思い、作家の意図はともかくこの長大な小説が未完のまま終えられたことへの無念の思いが重ねられているように思う。没後16年を経て、いまだにかくも挑発的な議論を喚起する作品群を私はあらためて再読しなければという思いを強くした。
by gravity97 | 2008-10-31 19:28 | 日本文学 | Comments(0)