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Living Well Is the Best Revenge

クッツェー『鉄の時代』

b0138838_1143020.jpg これもまた暴力についての、実に苛酷な物語である。舞台は1986年の夏から秋にかけて、南アフリカ、ケープタウンとほぼ具体的に特定されており、それは巻末に記されたこの小説が執筆された時期と同期している。解説によれば、この時期はアパルトヘイト政策が崩壊に向かいつつあった時期らしい。物語の中で語られる、黒人の学校の閉鎖と騒擾、黒人居住区への焼き討ちや警官による暴行もまた現実と同期していると考えてよいだろう。しかしこの小説が優れている理由の一つは、暴力を単なる人種間の差別の問題に還元していない点である。主人公のミセス・カレンは白人、彼女の使用人のフローレンスは黒人であることはある程度読めば推察される。しかしほかの登場人物たちはストーリーの展開から漠然と人種を推定できるものの、少なくとも人種の差異が明確に描き込まれ、それによって物語が起動することはない。むろん背景を知るならばこれは差別を合法化するアパルトヘイトという暴力装置と深く関わった小説である。しかし人種差別という問題が前景化されることがないため、この作品は広く人と暴力一般に関わる深みを湛えている。
 物語はミセス・カレンが末期癌の宣告を受けた日に始まる。主人公の老女カレンは夫に先立たれ、アメリカに渡った一人娘ともほとんど交渉がない。住み込みのフローレンスというメイド以外に話し相手をもたない孤独な生活を送っている。自らの余命を自覚したこの日、彼女の生活に一人の闖入者が現れる。それは後にファーカイルという名を与えられる浮浪者、カレンの家のガレージ脇に段ボールを持ち込んだホームレスの男性である。悪臭を放ち、人間としての品位も尊厳も欠いた浮浪者をカレンは最初拒絶するが、次第にファーカイルは家の中に入り込み、奇妙な共同生活が始まる。やがてフローレンスの息子ベキとその友人(彼の本名は最後まで明らかにされない)も加わる。彼らが住む黒人居住区では暴動が発生し、学校も閉鎖されたらしいことが暗示される。カレンはベキと少年に不穏な印象を抱き、実際二人はファーカイルに暴行を加える。しかし彼らの間に加害と被害の一方的な関係がある訳ではない。物語が進行するにつれ、加害者が被害者となる暗澹たる暴力の連鎖が浮かび上がる。黒人居住区で何が起きているか、明確に語られることはない。しかし警察国家というかたちをとった暴力装置、アパルトヘイトは次第にカレンの周りにも触手を伸ばし、登場人物たちは次々と犬のように殺されていく。
 かつてカレンは学校でラテン語を教えていた。登場する人物の中で唯一彼女だけが知性を感じさせる人物である。しかしアドルノを引くまでもなく、そのような教養もアパルトヘイトという暴力の前では無力である。病の痛みを押えてトルストイを読み、「平均律クラヴィーア」を弾く姿は痛々しささえ感じさせる。彼女は決して状況から逃げることなく、冷厳たる現実に直面する。彼女はファーカイルに仕事を与え、施しではなく労働の対価として金銭を与える。警察の暴力に対しては毅然として抗議し、黒人の自警団に対して正義を説く。彼女の娘がアメリカに渡ったのは南アフリカという国家に絶望したからである。カレンも同様にこの警察国家へ絶望しているが、彼女は娘の亡命を容認しつつも、自らはそこに留まる。さらに末期癌の宣告を受けた患者であれば当然許されるであろう病院への入院と介助も拒絶し、荒れ果てた家に浮浪者とともに留まることを選ぶ。
 私はアパルトヘイトについてはほとんど何も知らない。しかし人種差別を合法化する政策がいかに人心を荒廃させるか、この小説の中で次々に語られる寒々しい情景がその暗喩であることは容易に想像がつく。このような制度は警察や軍といった暴力によってしか維持されえないが、それはほんの10年程前まで存続していたのだ。私はあらためていかに多くの事実が私たちの目から隠されているかということを知る。同様に私たちはボスニア・ヘルツェゴビナについて、ジェニンについて、ルワンダについて何を知っているだろうか。
浮浪者ファーカイルの登場とともにこの小説は始まる。次に述べるとおり、彼はこの小説の要となる存在である。老女と浮浪者は共同生活を送り、時に必要に迫られて一緒にドライブに出かけ、時に老女の介護らしき世話をすることもある。しかしこのような殺伐とした世界に生きる二人が安易なヒューマニズムとは無縁であることも明らかだ。彼らは最後の場面で同衾さえする。しかしそれは情愛やセックスからは程遠い。「あの人が私を両腕に抱いて、息が私から一気に出ていくように渾身の力で抱きしめた。その抱擁からはどんな温もりも感じられなかった。」という巻末の一文のなんという酷薄。接近とか理解といった予定調和を突き崩し、物語は読者を置き去りにする。
 しかしそれにも関わらず、私はこの小説に希望の兆しを認める。それは小説の内容ではなく、形式と関わっている。この小説=手記が誰に向けて書かれているかは冒頭の一文から明らかだ。「ガレージのわきに細い通路があるのを、おぼえているかしら、あなたがときどき友だちと遊んでいたところ。」この小説は遠いアメリカにいる娘にあてた手紙である。むろん書簡体小説は無数に存在するから、驚くに値しない。私たちが想起すべきは、手紙とは常に何者かによって届けられるという事実である。どのような内容が記されていようと、手紙は配達されなければ決して読まれることはない。手紙を届ける役割をカレンはファーカイルに託す。むろんアメリカまで届けろというのではない。あらかじめ切手の貼られた手紙を郵便局のカウンターに置くだけでよい。冒頭でカレンが死病に冒されていることが明かされるから、おそらくそれは老女の死後になされることとなろう。そして、いわば娘への遺言を託す相手として、ファーカイルほど信頼から遠い存在もいないだろう。この印象は作品を読み通しても変わることはない。しかし私たちが今この小説を読んでいるということは言い換えるならば、手紙が確かに届けられたということの証ではないだろうか。書くことへの信頼とそれが未来の読者に届けられることへの信頼、二つの信頼を前提として初めてこの小説は成り立つ。
 思うに私たちが暴力に抗う唯一の方法は、それを記憶し、伝えることではなかろうか。おそらく文学の一つの起源はこの点にある。今まであまり顧みられたことのない点であるが、書くことと同様にいかにして伝えるかという問いは文学にとって重要な課題であったはずだ。『オデュッセイアー』における吟遊詩人から18世紀フランスにおける書簡体小説の隆盛、昨今のケータイ小説にいたるまで、何が書き手と読み手の間に介在するかという問題はもっと深く思考されてよい。インターネットが四通八達する今日、私たちは自分が書いたものが何の障害もなく読み手に届けられることを疑うことがない。しかし果たしてそうであろうか。小説の中でカレンは自らの手記を瓶の中に入れられて波間を漂うメッセージに準える。文学の本質に関わるまことに明敏な洞察である。小説を書くことはそのような不可能への挑戦であり、ある意味であなたが読んでいるこのブログもまた同様の不可能な通信なのである。
 さほど遠くない将来、「存在してはならない場所」から持ち出された四枚の写真をめぐって、私は伝えることの不可能性についてもう一度このブログで論じることになるだろう。
by gravity97 | 2008-10-14 11:44 | 海外文学 | Comments(0)