モーリス・ルイス 秘密の色層

b0138838_22222578.jpg
 川村記念美術館でモーリス・ルイスの回顧展が開かれている。単独の回顧展としては1986年の滋賀県立近代美術館での展示以来、22年ぶりとなる。展示は前回が16点、今回が15点とほぼ同数の絵画で構成されている。ルイスの絵画は多く縦長の「ストライプ」を除いてほとんどが3メートルを越す大作なので、美術館の空間といえどもこの点数が限界ということであろう。
 滋賀で回顧展が開かれた頃はまだ国内の美術館にルイスの作品は収蔵されておらず、この意味でも画期的な展観であった。点数こそほとんど同じであるが、今回の出品作には一つの大きな違いがある。滋賀で展示された作品は全てアンドレ・エメリック・ギャラリーから出品されていたが、今回の出品作は3点を除いて、国内の美術館と画廊のコレクションから選ばれている。つまりこの展覧会は20年の間に蓄積された国内のルイスのコレクションの厚みを示す内容といってよい。この厚みは近年も増しており、最近も私はある美術館を訪ねた折にまもなく収集委員会に諮られるというルイスの「ヴェイル」を収蔵庫で見る機会を得た。その作品はイメージが縦向きに分割され、ルイスのカタログ・レゾネを参照しても十数点しか作例のない「スプリット・ヴェイル」の中の一点であった。しかしこの作品はむしろ例外であって、日本の美術館がルイスの作品を収集する場合、「ヴェイル」もしくは「アンファールッド」の典型的な作品を求めるだろうから(「表現性」に乏しい「ストライプ」は日本の美術館の感性では理解されにくい)結果的にコレクションの層は厚くなったとしても、同じような作品が収集されがちである。この意味で大半が国内コレクションによって構成された本展の限界はおのずから明らかである。22年前の展示は私がルイスをまとめて見る初めての体験であったことを差し引いて考えても今回より明らかにヴァリエーションに富み、ルイスの展開を通覧するうえで充実した内容であった。
 しかしヴァリエーションや展開とかいった概念にこそルイスが疑問を投げかけたことはいうまでもない。ルイスは短い生涯の中で600点以上の作品を残したが、その大半はヴェイル、アンファールッド、ストライプの三つのタイプに分類される。作家の意に沿わない作品をほとんど破棄したため、作品の展開は移行期を伴わず劇的である。そもそもそれは「展開」なのであろうか。ルイスの絵画はフォーマリズム美術の頂点に位置するにも関わらず、実は「近代絵画」、「カタログ・レゾネ」、「美術史学」といったモダニズムのディシプリン(規律/訓練)を内側から破壊するような過激さをはらんでいる。しかしこの問題はブログの中で論じるにはあまりにも大きい。ひとまず展覧会の所感を記そう。
 86年の回顧展以後、私は国内外で多くのルイスの作品を見てきた。しかし最初に述べたとおり、ルイスの絵画は巨大であるため、一点、多くとも二点程度が展示してある場合がほとんどで、作品を比較することは困難であった。これに対して、7点のヴェイル、3点のアンファールッド、3点のストライプで構成された今回の展示を通覧する時、私たちは同じタイプの作品、端的に国内の美術館に所蔵されたヴェイルを比較することができる。今回出品されたヴェイルは多くが内部を二つの垂直線で三分割されたトリアディック・ヴィイルであり、相互を比較する時、質的な格差も明らかとなる。私の印象では出品作中、滋賀県立近代美術館所蔵の《ダレット・ペー》が圧倒的に優れている。比較的均質化された画面ながら、ステイニングが相互に透過する様子が明瞭に知覚され、最上部において混色される以前のマグナ絵具の発色を確認することができる。また画面右側にはところどころ色彩の粒子が垂下する様子が認められ、これはまさに光の粒子とでも呼ぶべき絶妙の効果をもたらしている。このような作品はあまり類例がない。海外で多くのルイスを見てきた者として私はかかる判断にある程度自信があるのだが、興味深いことにカタログで見る限り、このような特質を認識することはきわめて困難である。私たちは図版を介して作品を理解することに慣れているが、カラーフィールド・ペインティングにおいて実作と図版の懸隔はことに著しい。ルイスの作品は実作を眼前としない限り評価することが不可能であることを私はあらためて実感した。しかもこのような評価は同じタイプの作品を比較することによって初めて可能となるから、自らの目によってこのような判定を下すためにはるばる佐倉まで赴くことの意義は十分にあるだろう。
 アンファールッドは3点とも国内からの出品であり、既に見ていた。今さらながらこれらは異例きわまりない絵画である。画面の中央に向かう時、そこに広がるのは地塗りさえされていないロウ・カンヴァスであり、特に画面に近接する時、両端のイメージさえほとんど視界に入ることはない。これほど大胆なイメージは絵画史上、例をみないように感じる。今回の展示で工夫が感じられたのはルイスのアトリエの再現である。作家のアトリエの再現といえば、最近では98年のニューヨーク近代美術館におけるジャクソン・ポロックの回顧展に先例がある。近代美術館に足を運び、再現(というより移築)されたアトリエに内部に入ると床に飛び散った生々しい塗料の跡とともにあらためてポロックの絵画のスケールが感得されたことが想起される。これに対して今回はまことに形式的な手法が用いられ、アトリエのスケールのみが再現されたニュートラルな小部屋が会場内に設えられていた。あらためて驚く。このような狭い空間では作品を一望どころかアンファールッドにいたってはステイニングの広がりを確認することさえ困難ではないか。作家の死後、ほとんどがロール状に巻かれた状態で遺されていた多くの作品は批評家クレメント・グリーンバーグの指示に従って裁断された。作品の軸性や範囲についてこれまで何度か疑問が呈されたことはよく知られている。私はグリーンバーグの決定自体はある程度の妥当性を有していると思うが、作家が作品の最終的なイメージに確信があったとは思えない。ヴェイルの方向、ストライプの裁断範囲について、作家自身の判断の揺れはこの点を傍証している。作品の売買、あるいは展覧会での展示という、いわば商業的、資本主義的な要請によってルイスの作品が現在あるような画一的なイメージへと収斂したとすれば、モダニズム美術と資本主義の関係に一つの問題を提起するように感じる。
 しかし実際にルイスの作品を見る体験はこのような小難しい議論とは無関係である。今回の展示を見て、私はあらためてルイスが光の画家であるという思いを強くした。なんら具体的なイメージが描かれていないにも関わらず、ヴェイルの錯綜するステイニングの中から、アンファールッドの滴りの間から、充溢する光が感受される。時代も作風も全く異なるが、私は光という主題に沿って、フェルメール、モネ、ルイスという三人の画家の名を連ねたいという誘惑に駆られる。彼らの絵画はいずれも光と関わり、おそらく人間が創造した絵画の中で最も美しい。瞬間性、変化や移行、あるいは持続性。彼らの絵画が常に時間との関係において語られることもまた暗示的ではないか。
 最後にカタログについて記す。今回の展覧会は「秘密の色層」というサブタイトルが付され、メインテクストもルイスの技法に関わる内容であった。ルイスに関しては技法の問題が議論の一つの中心となっていることは否定しない。しかし日本で20余年ぶりの展覧会である。当然、ルイスの画業全般に関する概論的なテクストがあってよかったのではないか。そもそも今回の展覧会においてルイスの技法に焦点をあてる必然性は特に感じられない。ルイスを論じることの困難は十分に理解するが、困難を回避するために展覧会のテーマが設定されたとすれば、美術館の姿勢としてなんとも安易に感じられる。
by gravity97 | 2008-10-07 22:23 | 展覧会 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック