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Living Well Is the Best Revenge

エドワード・サイード『晩年のスタイル』

 ベートーヴェン、リヒャルト・シュトラウス、ジャン・ジュネ、グレン・グールドあるいはルキノ・ヴィスコンティ。一見脈絡のないこれらの作曲家や作家、演奏家や映画監督の創造の秘密をエドワード・サイードは「晩年性 lateness」という概念で分析する。自らの晩年に執筆された晩年についての研究。
 「晩年」とは本来矛盾を孕んだ概念である。死は唐突に訪れる。人は人の晩年を事後的に規定することはできても、よほど高齢の者でない限り、自らの生のある時期が晩年に属しているか否かを判断することはできない。数少ない例外は余命を告げられるほどの重病を患い、しかも病状の進行が比較的緩やかである場合であろう。91年に白血病の宣告を受け、2003年に没したサイードが最後の著作のテーマとしてかかる主題を選んだことは一種の必然性があったように感じられる。サイード夫人によるまえがきを参照するならば、厳密にはサイードはこの本の完成作業中に他界したということであるが、七編の論考はよく練られており最終稿といってよい。もし本人に心残りがあるとすれば、マイケル・ウッドが寄せた序を自らが執筆することであっただろう。美術では絶筆という言葉があり、人生の最後に手がけた作品から往々にして残酷にも作家の体力の衰えが露呈されるのに対して、『晩年のスタイル』の完成度はみごとであり、いかにもサイードらしい。私は作家の境遇と作品の質は無関係であると考えているが、それにも関わらずこの本が闘病中に執筆されたという事実を知る時、サイードの多くの著作がそうであるようにあらためて知的に鼓舞される思いがする。
 最初に述べたとおり、論文の内容は多岐にわたり、その全幅について論じることは私の能力をはるかに超えている。多くの論文の主題は音楽とオペラであり、指揮者のダニエル・バレンボイムと共著を著し、自らもピアノに向かうサイードに比べて、私にはこのような素養が全く欠けている。「知識人とは何か」を参照するまでもなく、私自身は知識人から程遠い身であるが、「今日の文学的知識人や全般的知識人は、芸術としての音楽にについて実践的な知識をほとんどもっていないし、楽器を演奏した経験、あるいはソルフェージュや音楽理論を勉強した経験もほとんどもっていないし、著名人のレコードを購入したり収集する以外は現実の音楽実践についてのまとまったリテラシーも当然のごとく身につけていない」というサイードの指摘は正当であろうし、それゆえ本書では多くの読み手にとっていささか手ごわい主題が扱われている。しかしながら優れた批評の常として、必ずしも全ての内容が理解できずとも、音楽についての実践的知識をもたずとも、通読する中で自分なりにいくつもの問題意識が触発される。
 「晩年のスタイル」とはアドルノがベートーヴェンについて用いた用語であり、サイードもアドルノに依拠しながら「晩年性」についての思索を深めていく。エウリピデスからプルーストまで、様々な作品や文献を渉猟しながら、主題の周囲を旋回するサイードの文章はいつもながらに優雅であり、思いがけない飛躍や彼らしい自由な発想に満ちている。比較的私が理解しやすかったのはジャン・ジュネとルキノ・ヴィスコンティについて論じた二つの論文であるが、あえて議論を一般化、単純化するならば、サイードがそれぞれの章を割いて論じる芸術家の「晩年のスタイル」に共通するのは、円熟や老成といった境涯を否定するかのように晩年にあってスタイルを変えることを恐れず、時にそれまで営々と築いた成果を破壊してまでも新たな挑戦を続ける姿勢である。ベートーヴェンの「晩年」の作品にしばしば浴びせられた「未完成」という批評やジュネがその「晩年」にパレスチナ問題に関わったことはこのような問題と深く関わっている。様々なジャンルを横断して議論が進められることからも推測されるとおり、「晩年性」という問題は芸術全般に対して普遍的な射程をもっている。そしてこの主題をさらに発展させるうえで、音楽に造詣の深いサイードが美術に関して同様の関心と知識をもたなかった点は私には少々残念に思われる。一つの作品を制作するために比較的長い時間を必要とし、同時的に並行していくつもの実験を重ねることが困難な音楽や文学に比べて、美術の領域こそ様々な「晩年性」が発揮できると考えるからだ。マティスの切絵、ポロックのブラック・ペインティング、あるいは80年代のデ・クーニング、すぐさま様々な「晩年性」の発露を想起することができるし、私は実際にこれらの作品を本書から得た「晩年性」という概念を用いて分析したいという強い誘惑に駆られる。
 しかし優れた作家であっても常に「晩年性」の女神が微笑む訳ではない。むしろ多くの作家は円熟の名を借りた反復と滞留の中で晩年を過ごすのではなかろうか。今、私の手元には奇しくも『晩年のスタイル』が刊行された同じ2006年のロンドンで初演されたスティーヴ・ライヒの[ダニエル・ヴァリエーションズ]がある。「テロリスト」に誘拐、殺害されたジャーナリストの遺言と旧約聖書のダニエル書というテクストをライヒが自家薬籠中の物として編成した楽曲からは確かに「円熟した」ライヒを聴くことができる。ただ、そこに例えば[スリー・テイルズ]との積極的な差異が認められるだろうか。私はこの曲を決して悪いとは思わない。しかしそこに「晩年性」ではなく、「反復性」が感じ取れることは皮肉であろうか。かつては過激な実験を繰り返したライヒが、「武満徹作曲賞審査員」としてこの曲を日本初演したことに私はやや苦い感慨を覚える。
 エドワード・サイード『晩年のスタイル』_b0138838_9283042.jpg最後に一言。本書の中で多くの芸術家の名前が引用されるが、最後の論文で思いがけず懐かしい名前に出会った。アレクサンドリアのコンスタンディノス・カヴァフィスという詩人である。生涯に154編の詩だけを残したギリシア人の名はダレルの『アレキサンドリア・カルテット』の中で何度も言及されて見覚えがあった。註を参照すると、カヴァフィスの詩集は近年日本語でも出版されたらしい。翻訳者を知って驚く。果たして中井久夫とは『記憶の肖像』で知られる精神分析医であろうか。
Commented at 2012-06-17 13:19 x
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by gravity97 | 2008-09-08 09:29 | 批評理論 | Comments(1)