フェルメール展

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 上野でフェルメールを見る。
 17世紀、オランダ、デルフトの画家、フェルメールが制作した絵画は異説あるものの35点しか現存しない。しかも世界各地に散在して秘蔵されているため、全てを見ることは困難をきわめる。このため、美術通はフェルメールを何点見たかを競い、かくいう私も海外出張のたびに、事前に出張先やその近辺にフェルメールが所蔵されていないかを調べ、何十年もフェルメール巡りを続けてきた。トマス・ハリスの『ハンニバル』の最後の部分にバーニーという登場人物がブエノス・アイレスの国立美術館で展示されているフェルメールをある事情によって見逃すというエピソードがある。「バーニーがついに見ずに終わった唯一のフェルメールは、ブエノス・アイレスの美術館に展示している作品である」という一文はハリスらしいディレッタンティズムが横溢している。(ただし実際にはアルゼンチンにはフェルメールの作品は存在しない)
 フェルメールの作品は過去にも何度か日本で公開され、2000年には大阪市立美術館で5点を集めた「フェルメール展」が開催された。しかしこの作家に関して、私は収蔵された場所で作品を見るという原則を自らに課しており、たまたま訪れた展覧会に出品されていた作品を見たことはあっても、フェルメールを目的に国内の美術館に足を運んだことはない。そして実際、近年日本で公開されたフェルメールの作品の多くを私は所蔵されている美術館で見てきた。今回の展覧会の出品作も大半は既に実見していたが、7点のうち2点が個人そしてこれからも訪れることの比較的困難な美術館に所蔵されていることを知り、あえて方針を曲げて上野に赴くことにした。フェルメールと銘打った展覧会の常としてフェルメールの作品を取り巻くように同時代のオランダの作家の作品が展示され、今回も「光の天才画家とデルフトの巨匠たち」というサブタイトルが示すとおり、デルフトとゆかりのある作家たちの作品を合わせて展示していた。展覧会が始まってまもなく上野を訪ねたため、チケットのために行列するほどの人出ではなかったが、予想通り会場はかなり混雑していた。
 今回の展示のハイライトは2004年にも東京と神戸で公開されたウィーン美術史美術館所蔵の《絵画芸術》のはずであった。近年、森村泰昌が独自の解釈とともに取り組んでいるこの作品を私は世界で一番美しい絵画と考えている。しかしこの作品は展覧会に出品されていない。展覧会のホームページを参照するならば最初のページに「《絵画芸術》出品中止のお知らせ」という告知が掲出されており、それによるとオーストリア教育文化省は作品の劣化を防ぐため、7月31日にこの作品の出品を見合わせる決定を行い、これに対して主催者側は新たにアイルランド・ナショナル・ギャラリー所蔵のフェルメール作《手紙を書く婦人と召使い》を追加出品すると7月24日に発表している。タイミングはともかく告知は「(追加出品によって)本展で展示されるフェルメール作品は、日本初公開を含む過去最多の7点となります」と結び、逆に得意げでさえある。しかし当初予告されていた《絵画芸術》が出品されていないフェルメール展、これを羊頭狗肉と言わずして何と言おう。これまで現地で作品を実見した印象として、私はフェルメールの作品はそのほとんどが傑作と考えていたが、今回の展示を見て、必ずしもそうではないことが了解された。つまり今回の展覧会はさほど質の高くないフェルメールの作品によって構成されている。作家の真骨頂と呼ぶべき風俗画が少ないこと、小さな作品が多いことなど、その理由を挙げることは容易である。しかしマウリッツハイスやアムステルダムの国立美術館であれば、これらの作品の傍らにフェルメールのほかの優品が展示されているため、画家の天才は直ちに感得できる。しかし今回の展覧会でフェルメールの真髄に触れることはできない。この意味で《絵画芸術》の不在は致命的といってよい。個人的には未見であったアイルランドのナショナル・ギャラリー所蔵の優品、おそらく今回の展覧会で最上の作品を見る機会を得て、7点のフェルメールの中で初見が3点というのは悪くない数字であろう。また出品されていたデルフトの画家の作品についても様々な発見があった。しかしこの展覧会に「フェルメール展」の名を冠し、フェルメール芸術の全貌に触れる機会のごとく喧伝することに企画者の良心は痛まないのだろうか。
 確かにフェルメールの作品は希少である。しかし生涯に描いた35点中の7点を集めたといっても、作品の質が担保されない限り、その天才に触れることはできない。この展覧会は1600円というこれまた異例の入場料である。家族で美術館を訪れ、カタログを購入するならば、一万円近くの出費となる。高い入場料を払って必ずしも質の高くない作品を雑踏の中で見ることを余儀なくされる。この展覧会を訪れたことによってさらにフェルメールを見たいと望む者は多くないはずだ。私はこの展覧会に《絵画芸術》が出品されなくてよかったと心から感じる。人類の至宝と呼ぶべきこの絵画を何万キロも運び、一時的であるにせよ高度数千メートル、極限的な気圧や気温に接する苛酷な条件の中に置くこと、炎天下の東京の外気に晒すことに一体何の意味があるのか。そもそも先述のとおりこの作品は2004年にも日本に将来されているではないか。莫大な借用料を払って作品に輸送の負荷を与え、さらにはその借用料を回収するために雑踏の中に置くこと。展覧会の名を騙るこのくだらぬ営利行為に私は何一つ積極的な意味を見出すことができない。新聞社の「文化」事業部と美術館は一体いつまでこのような愚行を繰り返すのだろうか。

 2003年の秋、私は出張でウィーンに滞在した。前日の夕方、美術史美術館を訪れ、《絵画芸術》の展示場所を確認した私は、次の日の朝、美術館が開くとともに作品の前に向かった。それは比較的奥まった小さな部屋に展示してあり、驚いたことには近くに看視もいない。それから半時間ほどの間、私はただ一人でこの絵画に対した。それは圧倒的で濃密な時間であった。フェルメールの傑作と一つの場を共有する体験。これまでの生涯で、私はあの時ほど見ることの悦楽に浸ったことがない。静かな光が充溢する画家のアトリエの情景と私が存在する今ここの空間がなにものにも隔てられることなく、連続すること。それは私の一生がこの一瞬のためにあってもよいとさえ思われる時間であった。仕事がらみの出張であったとはいえ、私は《絵画芸術》を見るために日本からはるばるハプスブルグの首都まで赴いた。それは確かに一つの巡礼の旅であった。世界にはかかる敬意とともにまなざしを向けるべき絵画が存在するのである。

by gravity97 | 2008-08-12 22:10 | 展覧会 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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