コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

 b0138838_21273734.jpg『オン・ザ・ロード』ではなく『ザ・ロード』。こちらには希望がない。
 放射能汚染についての記述がないから、核戦争による破滅ではなかろう。何かの理由によって文明が崩壊した後、気温が下がり、太陽の光も閉ざされた終末の世界を南へと歩く父と息子の物語である。舞台はアメリカと推測されるが、二人は常に「男」と「少年」と呼ばれ、物語中に固有名詞は皆無といってよい。食糧と必需品をカートに積み、道なき道を南下する二人を取り巻くのは悪意に満ちた世界である。生き残った者たちは互いに貪りあい、人肉食も横行している。男と少年は「火」を運ぶ者として、不要な殺人は行なわない、食人を行なわないことを誓い合う。しかし「善き者」でさえも自らの安全は自らの手で確保しなければならない。道中で二人は何人かの生存者と遭遇するが、相手が弱者の場合はそのまま見捨て、危険な相手の場合は身を隠し、やり過ごす。実際に少年をナイフで脅した武装集団の一員を男は拳銃で射殺する。二人は廃屋や廃墟を捜して、食糧や有用な品が残されていないかを捜す。むろんそのような僥倖はほとんどありえず、二人は飢えと寒さ、病気に苛まれながら過酷な道行きを続ける。季節はおそらく秋の終わりであり、冬を越すために彼らは南へと向かうが、確固たる目的地がある訳でもない。物語の終盤近く、二人はひとまず目指していた海岸線に達するが、暗く冷たく広がる渚にはいかなる光明もない。
 まずはスティーヴ・エリクソンを彷彿とさせる圧倒的な幻視力に感服した。ナウシカからマッドマックスまで、アニメや映画をとおして私たちは世界が破滅した後の物語になじんできた。しかし秩序も正義も理性も失われた世界をここまで仮借なく描いた例を私は知らない。もちろんこのようなロード・ムーヴィーならぬロード・ノヴェルは多くの先例がある。世界が壊滅した後に舞台を設定した小説として私が直ちに連想したのはスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』であり、やはりキングの新作『セル』も息子を捜す父が何人かの同行者とともにゾンビが跳梁する終末以後の世界を旅する話であった。寓意性の強いキングはともかく、先行する類似した主題の小説においては世界がなぜ破滅したのかという点が物語の根幹に関わり、登場人物はなおも待ち受ける何らかの希望に向かって移動する。これに対してマッカーシーの場合、世界が今破滅してあることへの説明は全くない。冒頭から私たちは何の説明もないままにこの世の終わりを彷徨う父と子に同行することを強いられる。この小説は過去との断絶、未来への展望の欠落においてきわめて独自である。少年がこのような崩壊の後に誕生したらしいこと、少年の母あるいは男の妻は彼らを見捨てて姿を消したらしいことが暗示されたパッセージがあるが、そのほかに過去に関する記述はない。さらに文体も独特である。章立てはなく、比較的短い無数のパラグラフが間隔をあけて淡々と続く。地の文の中に時折会話文が挿入されるが、いうまでもなくそのほとんどは父と子の会話である。
 かかる内容と文体が意味するものは何か。私は物語が常に現在に留め置かれることではないかと考える。今述べたとおり、この小説は神の視点で語られているにも関わらず、時間的なぶれがほとんどない。あまりにも過酷な現実が現在から視点を移すことを許さないかのようである。語り手の視線は常に二人の上に留められている。二人を介すことなくいかなる情報ももたらされることはない。きわめてストイックな説話構造を介して、読み手たる私たちは登場人物の二人に限りなく同化していく。この小説を読む際の異様な切迫感、焦燥感もこの点に由来する。通常の小説であれば、私たちは小説を読む前から登場人物をめぐる様々な情報を得ており、物語の行方、登場人物たちの未来についてもある程度、予想することが可能である。これに対して、『ザ・ロード』において私たちは困難な旅を続ける二人と同じ状況に置かれる。二人は偶然に手つかずの食糧貯蔵庫を発見し、生活用品や衣服も手に入れる。しかし彼らの唯一の行動指針は移動を続けることであり、カートに詰め込めるだけの食糧と日用品を積み込むと彼らは追われるように旅立つ。迫り来る冬から逃れるためとはいえ、かかる設定はケルアック同様、移動こそが作品の主題である点を暗示している。読み手は移動する登場人物と周囲との関係をリアルタイムに把握することを強いられる。文学史上類例のない切迫した物語の先行例として私は例えば『野生の棕櫚』におけるフォークナーを連想した。フォークナー、ケルアックそしてマッカーシー。かかる特質をアメリカという土地と関連づけることは強引だろうか。かつて宮川淳は「記憶と現在」というエッセーの中で、アクション・ペインティングからミニマル・アートにいたる戦後アメリカ美術の系譜を「プロテスタンティズム」と「現在性」という視点から説得的に分析した。宮川によれば記憶と歴史にとらわれたヨーロッパの近代美術に対して、記憶を否定し、現在を無限に反復するアメリカの現代美術は広漠たる空間の国において初めて可能な表現であった。同様の対照は文学においても指摘することが可能ではないか。記憶と希望のいずれからも切断され、ひたすら現在に直面する父と子の道行きは、一片のマドレーヌから母を追想する甘美な物語の対極にある。
by gravity97 | 2008-07-17 21:28 | 海外文学 | Comments(0)

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