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Living Well Is the Best Revenge

イアン・マキューアン『憂鬱な10か月』

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 11年前にこのブログを開設した際に、最初にレヴューした作品はイアン・マキューアンの『贖罪』であった。この超絶的な傑作を読んだ際の衝撃と感銘を書き留めるために始めたのがこのブログであったといえるかもしれない。その後も私はマキューアンを読み継いでいる。いずれの作品もレヴューに値する佳作であったが、しばらくの時をおいて、このほど『憂鬱な10か月』を読む。2016年に発表され、現在のところ最新刊である本書もまたマキューアンという手練れの才能が遺憾なく発揮された興趣に富む佳作である。
 原題を「Nutshell」という。ナッツシェルとは胡桃の殻のことであり、その典拠はエピグラフに引かれた次のテクストに拠っている。「なあに、たとえ胡桃の殻に閉じこめられていても、わたしは自分を無限の空間の王者だとみなすことができるだろう。悪い夢を見ているのでないとすればだが」典拠はシェイクスピアの「ハムレット」であり、すでにこの時点でこの小説の骨格は明らかとなる。最初に結論を述べるならば、本書は「ハムレット」の卓抜なパスティーシュであり、現代風の本歌取りである。パスティーシュという問題とも絡んで今回は物語の内容にかなり深く立ち入りながら論じる点をあらかじめお断りしておく。それにしてもタイトルを「胡桃の殻」から「憂鬱な10か月」に改める必要はあったのだろうか。それというのも次のような冒頭の一文を読めば、胡桃の殻が何を意味しているかについては直ちに明らかであるからだ。

というわけで、わたしはここにいる、逆さまになって、ある女のなかにいる。じっと腕組みをして、待っている。待っている。自分がいるのはどんな女のなかなのだろう。何のためにこんなところにいるのだろうと思いながら。

 帯やカバーに記された紹介を読まずとも、「わたし」が誰でどのような状態にあるのかを想像することはさほど難しくない。「逆さまになって、女のなかにいる」状態とは端的に胎内を指し示しており、逆に「憂鬱な10か月」とは懐妊の期間であることが理解される。したがって語り手の「わたし」とはまだこの世に誕生する前の胎児である。『贖罪』においては超絶的な技巧を通して作品の終盤に明らかになる語り手と小説の関係が私たちを驚愕させたが、この作品においては既に冒頭において、生まれる前の胎児という異例の語り手の存在が明示されている。あまり知られていない作品であろうが、胎児を語り手とした小説をこれまでにも私は読んだことがある。アルゼンチン生まれのチリ人、アリエル・ドルフマンの『マヌエル・センデロの最後の歌』だ。この小説については機会があればこのブログで論じてみたいが、ドルフマンの小説が1973年のピノチェットによる軍事クーデタを批判する寓意性の高い内容であったのに対して(正確にはこの小説が発表された時点では寓話というかたちでしかこのクーデタを批判できなったのではなかろうか)、マキューアンは私たちと同時代を生きる夫婦をめぐるスリリングなエピソードを妻の胎内に宿った胎児を通して語る。それにしてもなんと「老獪」な胎児であろうか。彼/彼女(「わたし」という人称が用いられているから性別は不明だ)は母親が聞くポッドキャストを通じて世界情勢に通じ、母の口を経て血中に与えられるワインに関して辛辣なコメントを加える。少し読み進めると語り手たる胎児を取り巻く状況が明らかになる。「わたし」の母はトゥルーディという名の既婚女性。父親はジョン・ケアンクロスなるあまり才能の感じられない詩人であるが、二人は今別居している。父ジョンは親から譲り受けた相当の価値がある邸宅を母に与えて自分はみすぼらしいアパートに移っている。父のいない母のもとを頻繁に訪れるのがクロードという俗物であり、母とクロードは不倫関係にある。実際に妊娠中の母とクロードの間で交わされるかなり生々しいセックスの描写も作中には散りばめられている。冒頭の第二章のあたりで早くもクロードと母が父に対しておぼろげな殺意を抱いていることが暗示され、父ジョンがまもなくアパートを引き払って母の元に戻ろうとしていることを知るに及んで母は一つの決意を固める。

やがてようやく彼女が決心したとき、彼女がつぶやいた台詞は、たった一言の裏切りの言葉は、まだ使ったことのないわたしの口から出たかのようだった。ふたたびキスを交わしながら、彼女は愛人の口のなかにそれをささやきかけた。赤ん坊にとって初めての言葉。
「毒殺ね」

 思わず引用してしまったが、このあたりの筆運びの流麗さはマキューアンの面目躍如たるものがある。実に練られた文章であることは翻訳をとおしても明らかだ。それにしてもクロードとは何者であろうか。母の決意に先立つ第三章の最後でクロードと父ジョンの関係が明らかになる。「おれが兄貴に金を貸してやれば、いい隠れ蓑になるだろう」驚くべきことにクロードとは父の弟であり、この時、クロードという名前がクローディアスから引かれていることを私は直ちに了解した。父を弑して王座についた叔父クローディアスへの復讐譚が「ハムレット」であったとするならば、果たして父は殺されるのか、それに対する復讐はなされるのか。読者はパスティーシュならではの既視感とともに物語を読み進める。物語の中に母とクロードがデンマーク料理のデリヴァリーを依頼する場面がある。現代のロンドンにそのようなジャンルのデリヴァリー・サービスが本当に存在するか私にはわからないが、デンマーク料理もまた「ハムレット」からもたらされた記号であろう。ハムレットにおいても父王は毒殺された。母とクロードが選んだ殺害方法も毒殺、それもペットボトル入りの不凍液というなんとも当世風の毒薬による毒殺であった。ディケンズからアガサ・クリスティまで毒殺とはまことにイギリス的な主題ではないか。
 母の胎内で外界をうかがう胎児とはユニークな語り手である。母を通して、彼/彼女は母と叔父の悪事の進行を知るが、時々子宮を蹴って、母を不眠に追い込むこと以外には現実に対してなんら力を行使しえない。語り手は子宮の中の胎児であるから、感覚も限定されている。外界を見ることはできず、おそらくは匂いについての感覚もない。一方で声やラジオの音といった聴覚刺激、そして母を介して与えられる栄養についての味覚に近い感覚は成立しているだろう。語り手が母の飲むワインの銘柄について執拗にコメントするのは、単なるディレッタンティズムではなく、それが語り手が感知しうる数少ない感覚だからであるかもしれない。あるいは妊娠しているにもかかわらず交わされる母とクロードのセックスは語り手にとってはなによりも触覚的に感知される。しかし作品を読み込むと感覚の限定はさほど厳密でもない。視覚的な印象もしばしば記されており、この物語は胎児である語り手と神の視点に近い語り手の融通無碍な融合によって成立していることがわかる。
 詩人である父の遺伝子を受け継いでいるためであろうか、語り手は胎児にしてすでに文学についての素養が深い。モノローグの中では古今東西の文学が引用され、丁寧な註をとおして私たちはその含蓄を知るが、かかる思弁が現実の前に無力であることも一つの暗喩であろうか。父ジョンを殺した後、母とクロードは語り手たる「わたし」を里子として放逐することさえ語り合うから、父の毒殺の帰趨は語り手の運命と深く関わっている。物語はいくつもの曲折を経て、時に予想通りの結果、時に思いがけない展開を繰り替えしてカタストロフとしてのクライマックスへ向かって進んでいく。未読の読者のためにここでは毒殺の成否、あるいはそれ以後の物語の展開については触れないこととするが、ストーリーの展開はいつもどおりの巧みさであり、読者はこの胎児版ハムレットを十分に楽しむことができるはずだ。
 「ハムレット」という本歌に基づいて、不倫、毒殺、復讐といった不吉な主題が満載の小説であるにもかかわらず(ただし「ハムレット」においては父王殺しに妻が加担するというエピソードはなかったように記憶する)、本書の印象はむしろ喜劇的であり、シェイクスピアの悲劇とはおおいに異なる。その最大の理由は胎児という独特の語り手を設定したことにあろうが、人はよいが才能のない詩人である父、現世にしか興味のない俗物の叔父、父の愛人とも弟子ともしれぬ女性詩人といった奇矯な人物たちが織り成す騒動は全体として現実感のないスラプスティック・コメディとして完結する。シリアスな主題が扱われることが多いマキューアンの小説の中で本書はむしろ例外的といえよう。あとがきの中で訳者は本書を作家の「休暇」とさえ評している。私もこの見解に同意しない訳ではないが、「休暇」とみなされる小説においてさえかかる完成度を示している点に小説家としてのマキューアンの円熟をうかがうことができよう。
by gravity97 | 2019-03-09 21:13 | 海外文学 | Comments(0)