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Living Well Is the Best Revenge

「小磯良平と吉原治良」

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 兵庫県立美術館で「小磯良平と吉原治良」展を見る。サブタイトルのDividing Ridge of the Hanshinkan Modernism はフライヤーやカタログの中では日本語に訳されていないようであるが、いうまでもなく「阪神間モダニズムの分水嶺」の意味だ。確かにこの二人の画家は阪神間を生活の拠点として、それぞれに「モダンな画家」という印象を与えるが、その内実はずいぶん異なる。二人展といいつつ、個展形式ではなく、二人の作品を時代ごとに並列する展示は時代背景を強く意識させ、なかなか興味深い展観であった。若干の所感を記しておきたい。
 そもそもこの二人の画家と兵庫県立美術館は、前身の兵庫県立近代美術館時代から縁が深い。小磯に関しては代表作の多くを所蔵し、記念室を設けて常設的な展示を行ってきたし、吉原に関しても戦前期の作品こそ少ないが、おそらく国内では大阪市立近代美術館建設準備室に次ぐ多数の作品を擁し、何より吉原がリーダーであった具体美術協会については日本最大のコレクションを所蔵している。展覧会としても小磯の回顧展は兵庫県立近代美術館で何度も開催され、吉原に関しても1979年に「吉原治良と具体のその後」が開かれている。したがってこれら二人の画家の組み合わせ自体にさほど新鮮味はない。今までこのような展示が構想されなかった理由は「分水嶺」という言葉どおり、両者の表現があまりにも異なっていると感じられたからであろう。端正な肖像画を中心に生涯にわたって写実的で古典的な絵画を制作した小磯と、次々にスタイルを変えながら関西の前衛画壇の中心にいた吉原は作風において大きな懸隔がある。今回の展示やカタログには田中千代学園芦屋校のアトリエ開きにあたって寄せ描きをする吉原とそれを見つめる小磯の写真が掲出されているが、逆に言えば同じ「阪神間モダニズム」に連なりながらも、二人が写り込んだポートレートがこれ一枚しかないという事実は、小磯が東京藝術大学で教員を務めていたという事情を勘案するにせよ、両者の接点が少なかったことを物語っている。しかし通常では接点のない二人の画家の作品を年代順に展示したことによって、逆に多くの知識や発見がもたらされたように感じた。
 小磯と吉原は実は多くの共通点をもっている。1903年生まれの小磯に対し、吉原は1905年生まれであるから、二人は同じ世代に属し、小磯は神戸の貿易商、吉原は大阪の油問屋のいずれも裕福な家庭に生まれ、何一つ不自由のない青少年時代を送っている。東京美術学校の油絵科で藤島武二の教室に学んだ小磯と、藤田嗣治の知遇を得ながらも留学もせずに独学で絵画を学んだ吉原には専門教育という点では差があるが、いずれも20代後半で最初の個展を開いている。さらにこの展覧会を見てあらためて理解したのであるが、二人は雑誌の表紙、商業美術そして舞台美術といった共通する多様な領域で活躍をしている。とりわけ阪神間の百貨店やバレエといった「モダン」な施設や催事の広告に両者が深く関わっていることは、作風こそ異なるが二人がとりわけ戦後において阪神地区のモダニティを象徴する画家であった点を暗示しているだろう。
 最初のコーナー、「初期の画業」と題された1920年代の初期作品からは、二人の若い描き手が真摯に絵画に取り組む姿勢がうかがえる。東京美術学校に在籍し、在学中に《T嬢の像》で帝展の特選を受賞した小磯は最初から手堅い技巧的な成熟を示している。肖像画が多い点は以後の小磯の画業を予告するかのようであり、早くもこの時点で小磯の作風はある程度固まっていることが理解される。一方、吉原は正式の美術教育を受けなかったことに起因する一種の自由さとともに初期の作品を制作している。画面は小磯ほど塗り込まれることはなく、テーマとしては静物画が多い。それらは多く魚と風景が組み合われた独特の構成であり、近景の魚と遠景の風景は唐突に結合された印象がある。同じ時期にカードや朝顔を持つ手を描いた数点の作品も描かれているが、それらも近景と遠景の結合という点で同様の構図を示す。魚というモティーフや中景を欠いた独特の構図に吉原のオリジナリティーを求めることができるかもしれないが、なんといってもまだデヴューしたばかりの新人であるから、さほど深い意味を読み取る必要はないだろう。しかし二人の前には困難な時代が待っていた。展示の第二部は「充実と激動の時代」というタイトルが当てられ、1930年代から40年代前期という年代が設定されている。30代から40代という画家として脂ののった時代を彼らは日中戦争から第二次世界大戦という暗い時代の下に過ごすさなければならなかった。よく知られているとおり、二人は戦争に対して異なった態度をとることになる。1928年からほぼ二年間フランスに滞在した小磯は西欧の油絵の技術に習熟し、帰国後も神戸や東京で個展を開いて、高い技量を披露した。しかしこの時代、技術に秀でることは画家にとって必ずしも幸運ではなかった。軍部は画家の技量に注目し、この時期、小磯は4回にわたって従軍して戦争記録画を制作することとなった。一方で吉原は時局に迎合することなく同じ時期、シュルレアリスム的な作品からベン・ニコルソン、バーバラ・ヘップワースらを連想させる一連の幾何学的抽象にいたる多様な作品を制作している。抽象化されつつも明らかに具体的な風景や道具を描いた作品も存在しているから、完全に抽象的な表現に向かった訳ではなく、作風の揺れは激しい。吉原は1938年に二科展の前衛傾向の作家たちによる九室会の結成に参加したが、前衛的傾向は軍部に認められるものではなかった。回想の中で吉原は昭和16年に二科展を見た情報将校が「この超非常時に○や△をかいて遊んでいる非国民がいた」と発言したのを「不気味であった」と評し「その年の二科で○や△をかいていたというのは私と山口長男とだけではなかったか」と続けている。しかし今回展覧会を見て、両者を戦争に協力した画家と批判的な画家といった単純な図式でとらえることは無意味であることをあらためて思い知る。まず小磯は従軍したとはいえ、戦争という主題にほとんど関心がない。おそらくそれは小磯が派遣された地域が前線から離れていたことも関係しているだろう。戦闘や死体が描かれることはなく、行軍や会談、あるいは式典といったドラマ性を欠いた情景が描かれる。小磯の端正な画風は戦地を描いても多く室内の群像として実現されており、そこには時折東南アジアのエキゾチシズムが介入することがあったとしても同じ時期に日本国内で描かれた女性の肖像画とさほど変わるところがない。《娘子関を征く》と同じ年に《斉唱》が制作されたことを一種の免罪符として、小磯にとって戦争記録画は不本意であったと説くことは従来の小磯評価のクリシェであったし、生前、自分の回顧展に戦争記録画を含めなかったこともこのような推測を補強した。しかし私は戦場で疲れた兵士を描くことも並んで歌を歌う少女たちを描くことも小磯にとってなんら本質的な違いはなく、対象についてのこのような無関心さこそを小磯は恥じたのではないかと感じる。カタログには小磯がこれらの戦争記録画を書くことによって西欧における歴史画を意識したのではないかというコメントがあるが、さすがにそれはなかろう。藤田嗣治と比べるならば直ちに明らかだ。小磯には藤田にみられるデーモニッシュな主題への肉迫は到底認められない。小磯は戦争を機縁にいくつかの群像を描いたにすぎず、それは上手に描けているという以上の評価をもたらすものではない。この時期の小磯と吉原が置かれた境遇の違いは今回の展示で何よりも作品のサイズとして明らかだ。小磯がそれなりの大きさの画面に肖像や戦地の風景を描いているのに対して、吉原の作品のサイズはきわめて小さい。端的にカンヴァスや絵具といった画材の配給において明確な差別があったことがうかがえる。ただしこのような条件がとりわけ吉原の絵画の変遷に決定的な影響を与えたかという問題については少なくとも展示を見た範囲では明確な答えを与えることが難しいように感じた。しかしながら私はこの時期の吉原の絵画に別の特色を認めることができるように感じた。それは光学装置の視覚だ。先に手にカードや花をもった一連の初期作品について触れたが、対象を恣意的に切り取り、近景と遠景が併置される構図から私は写真を連想した。実際に吉原は多くの写真を残し、その中には帆柱やロープを撮影して、シュルレアリスム期の作品と構図的に強い親近性をもつ作品さえ含まれている。写真ということであれば確かに小磯の肖像画もまさに写真的な写実性を備えている。しかし吉原はむしろ写真によって露わにされる視覚の変形に関心をもったように思われる。今回の出品作中にも対象が判然としないまでに近接して描かれた菊の花のイメージ、あるいは風景というよりも高空から撮影した地表のごとき地形のイメージが描かれた作品がある。ここでは拡大鏡や航空写真といった特殊な装置を介して得られる視覚が実現されている。これらの絵画については吉原が所蔵していた当時の欧米の美術雑誌との関係においても検証が進められているが、おそらくはフェルメールからリヒターにいたる光学装置と絵画という興味深い主題の一端に連なるはずだ。
 第二次大戦中、小磯は空襲で神戸のアトリエを焼失し、吉原も大阪大空襲に際して疎開しているから、大戦が二人の画家の生活に大きな影を落としたことは間違いない。小磯については先に戦争という主題への無関心さについて記したが、敗戦を経てもほとんど作品が変わることなかった点は画風を既に確立していたこと、そして世俗とは離れた一種超然とした境地を示しているかもしれない。これに対して吉原は敗戦を契機に作風が大きく変わる。抽象に代わって画面の中に人物が登場したのである。しかもそれは変形された不安な立像が多い。吉原自身、「私は戦争によって絵が変わった。抽象だけではすまないような、いわば人間が再び絵の中に入り込んでこなければおさまらない感じだった」と述懐している。戦争における人間性の破壊が画家に与えた影響という点において、これらの絵画を例えばフォートリエの「人質」連作などと比較することはそれなりの意味があるだろうが、ここではこれ以上論及しない。興味深いことに二人は戦後まもなく、ともに若い画家たちを指導する立場に就いた。小磯は1950年より東京藝術大学で教鞭を執り、53年には教授に昇任し、神戸と東京の二重生活を送ることとなる。一方吉原は1954年に阪神間の若い作家たちを糾合して具体美術協会を結成する。今や世界に名高いグタイの誕生である。しかし二人の指導は対極的であった。東京藝術大学という自らも学んだ美術教育の最高府で教職に就くことは日本の美術アカデミーの頂点に立つことに等しい。私はこの大学の教育方針について詳しく知っている訳ではないが、それが先達を模倣するトレーニングであったことは容易に想像がつく。これに対して吉原が具体美術協会の作家たちに命じたのは「誰も描いたことのない絵画を描け」というオリジナリティーに唯一絶対の価値を置いた教育であった。もちろん長い伝統をもつ芸術大学と一種の私塾としての具体美術協会が異なった原理に立つことは当然であるが、最初に述べたモダニズムという発想に対して両者は逆の立場に立つのではないか。アカデミズムが一つの規範を奉じ、正系/異端という区別によって作品を評価したのに対して、モダニズムは逆に異端たることを自らのレゾン・ド・エートルとする前衛によって先導された。この時、小磯における「モダン」の限界も明らかだ。宝塚歌劇を創設した小林一三の肖像、御堂筋や中之島といった都市の風景、雑誌の表紙絵や百貨店の広告、これらは確かに「モダン」な主題かもしれない。しかし小磯にとってモダンとは一種の西欧趣味以上の意味はなかった。これに対して吉原は若い画家たちにまさに異端であることを求め、彼らは前衛作家としての可能性をそれに賭けたのである。分水嶺といえば分水嶺であるが、いずれが真のモダニズムと関わっているかは自ずから明らかであろう。
 今回の展示を見ながら、私はあらためて1950年代後半、いわゆるアンフォルメルの時代の吉原の作品を再発見した。ミシェル・タピエとの接触を介してアンフォルメルに接近した時代、吉原は一種のスランプに陥り、弟子たちに自分の作品をどのように描けばよいか真剣に問うたという鬼気迫るエピソードが残されている。しかし今回この時期の作品をまとめて見て、物質的な画面にしばしばのたうつようなストロークが残されたこれらの作品は悪くないどころか、相当に高いクオリティーを有していることをあらためて思い知った。同時に私は理解した。これまでこの時期の吉原の作品がいささか劣っているように感じられたのは、しばしば同じ会場に白髪一雄や元永定正といった弟子たちの作品が並べられていたからなのだ。これまで何度か回顧展があったとはいえ、私はこの時期の作品を多く具体美術協会に関する展覧会の中で見ていた。吉原の作品は悪くないとはいえ、同時期に制作された弟子たちの作品には遥かに及ばない。作品に対する透徹した眼を備えていたがゆえに、教師であるはずの吉原の苦悩はいかほどであっただろうか。これに対して東京藝術大学というアカデミズムに安住していた小磯にはそのような危機感はなかったはずだ。自らが規範である以上、弟子たちがそれを超えることはありえない。この時、一つの残酷な事実を私たちは知る。小磯に師事して小磯を超えた画家、いや、小磯に師事して名の知られた画家さえも、私は後に彫刻家に転じた新宮晋以外に一人として知らない。小磯門下には日本で最高レヴェルのアカデミズムの訓練を受けた俊英が百人を単位として存在したはずだ。私の不勉強はあるかもしれないが、その中に戦後美術に名を残す画家が一人でもいただろうか。一方で吉原のもとに集った若手作家の中にアカデミックな美術教育を受けた者は白髪など数人しかいなかったにもかかわらず、今や彼らはグタイの前衛作家として世界に知られ、作品もそれに見合うだけのクオリティーを有している。私はこの展覧会を見て、思いがけず日本のアカデミックな美術教育の限界へと思いを向けた。
 今述べた苦悩を経験したであろうから、吉原が自らのトレードマークとなる円の絵画に想到した時の喜びもまたたやすく理解できる。「具体美術宣言」という画期的なマニフェストを草しながらも、吉原は物質的な絵画に向いていなかった。アンフォルメル期に苦闘する中で少しずつ生まれた円のモティーフを展開させた一連の絵画は1960年代の中盤に登場する。展覧会では「晩年:飛躍と成熟の時代と終幕」と題された最終部の展示にあたる。この時期、吉原に関しては画風が停滞から躍動へと転じ、作品の存在感が一挙に強まった印象がある。しばしば指摘される点であるが、最晩年というか急逝する直前に始められていた漢字のへんやつくりを連想させる色面抽象も興味深い。私は前衛書との関係も含めてこれらの絵画は全く新しい可能性を秘めたイメージではなかったかと考えている。一方、この時期、小磯もまた別のかたちで画業の総括を行う。74年に東京赤坂の迎賓館の壁画を制作し、83年には文化勲章の受章、画家の晩年は国家によって認定された巨匠のそれだ。しかし今回展示された作品を含めて、この時期の小磯の作品は面白みを欠くように感じられる。それは画家として功成り名遂げたためではない。作品を描く必然性がうかがえないのだ。二人の作家を並べる時、私は吉原からはやむにやまれず作風を変え、それゆえに呻吟し、また新しい絵画へ向かうというダイナミクスを強く感じる。しかし小磯からはなぜその絵を描かねばならなかったかという衝動が、とりわけその晩年にうかがえないように思う。注文に応じた絵画が多かったといった理由もあるかもしれない。しかし画家の務めとは注文に応じることではなく、あくまでも絵画の本質を確認することではないかという私の考えはあまりに青臭いだろうか。もちろん私は小磯の絵画が技巧的に優れていることを認めるし、おそらく来場者の多くは吉原よりも小磯の絵画の方にシンパシーを覚えるだろう。小磯のような絵画はあってよいし、多くの人々を慰撫するものであるかもしれない。しかし私はあらためて二人の画家を比べる中で小磯の絵画に自分とは馴染まない何かを感じた。そして吉原はこのような異和感に上手く言葉を与えている。「梅原(龍三郎)、安井(曽太郎)の絵にしても、私は立派な絵だと思う。そのようなあり方というものは世の中にいっぱいある。ただわれわれの求めているものがないのだ」
by gravity97 | 2018-04-14 11:24 | 展覧会 | Comments(0)