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Living Well Is the Best Revenge

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』

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 今年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』を読む。イシグロについてはすでに二冊の小説をこのブログでレヴューした。ノーベル賞受賞の報が届いた日、このブログへのアクセスが600件以上あったのには驚いたが、通常でもイシグロの小説のレヴューは私のブログのアクセス・ランキングの上位に位置しており、この作家の根強い人気をうかがわせる。『忘れられた巨人』は2015年に発表され、同じ年に日本でも翻訳が刊行された。イシグロは寡作の作家であり、長編としては『わたしを離さないで』以来、10年ぶりの小説であった。以前のブログを確認していただければわかるとおり、私は2011年に『日の名残り』で初めてイシグロの小説に触れて以来、折りにふれてイシグロの小説を読んできたから、『忘れられた巨人』が刊行された時点で既に『浮世の画家』以外、邦訳のある長編と短編をほぼ通読していた。ノーベル賞受賞後というタイミングで読んだことに特に意味はない。私はイシグロの小説をすべて文庫で所持しているので、この小説についても文庫化される時機を待っていた訳である。読み終えていつもながらの深い感銘を受ける。この小説も疑いなくイシグロの代表作の一点となるだろう。

 寡作であるだけでなく、小説によって作風が大きく異なることもイシグロの特徴である。

家族をめぐるシリアスなドラマである『遠い山なみの光』、カフカを連想させる不条理小説『充たされざる者』、次第に明らかになるSF的設定に戦慄する『わたしを離さないで』。今までレヴューしていない三つの長編だけでもこれほどの幅がある。新作がどのような内容となるかおおいに期待されたゆえんである。といっても原著が刊行されてからすでに2年が経過しており、ノーベル賞とは無関係にこの小説の内容についての風評は耳に入っていた。意表を突いて、新作はファンタジーであるという。いったいイシグロがどのようなファンタジーを執筆するのか。読み終えて私の期待が裏切られることはなかった。裏表紙のシノプシスおよび解説に記されている程度に内容に触れつつ論じることとする。

 舞台は67世紀のブリテン島。鬼や悪い妖精が闊歩しているという情景から、私たちは単なる過去ではなく、ファンタジーの世界に踏み込んでいく。これから読む人のために少し整理しておくならば、ブリテン島とはいうまでもなく今のイギリスのことであるが、この時期、二つの勢力がそこで抗争していた。一方は以前よりこの地に居住していたブリトン人であり、もう一方は大陸からこの島へ侵攻を試みるサクソン人である。物語には随所にアーサー王への言及がある。私はこのブログを執筆するために少し調べてみたが、本書をよりよく理解するうえではあらかじめアーサー王の位置を確認しておいた方がよいだろう。すなわちアーサー王とはブリトン人の王であり、円卓の騎士とともにサクソン人の侵攻を撃破してイギリス全土、そしてノルウェーからガリアにまたがる巨大な王国を築いたとされる。本編の主人公はアクセルとベアトリスという年老いた仲のよい夫婦。彼らはいにしえのブリテンで穴居人のような暮らしを送っていた。彼らが村落の中で必ずしも幸せに遇されていなかったことは、住まいの中で蝋燭の使用を禁じられる冒頭のエピソードからも明らかだ。この事件を機に二人は息子のことを「思い出し」、平原や山地を突っ切って、息子が暮らす村へ旅立つことを決意する。ここから物語はよく知られた一つの類型として稼働する。ロードノヴェルである。東に向かって村を旅立ったアクセルとベアトリスはサクソン人の村、要塞のような修道院といった様々な場所を遍歴し、道中で何人かの同行者を得る。ファンタジーとロードノヴェルは相性がよい。同様の類型は「指輪物語」や「オズの魔法使い」を想起すればたやすく理解されよう。しかしイシグロの小説は次第に単純なファンタジーとは次元の異なった深みを宿していく。老夫婦がブリトン人であることにあらためて注意を喚起したうえで、もう少しだけストーリーを追うことにしよう。彼らは最初にサクソン人の村を訪れる。先に述べたとおり、ブリテン島にもともと居住していたブリトン人と侵略者としてのサクソン人は本来であれば敵対関係にある。実際に直前に「悪鬼」の襲撃にあって倉皇とした状態にあるサクソン人の村で二人は歓待されたとは言い難い。しかし彼らは村の長老に手厚く保護され、ベアトリスはサクソン人の薬子(くすし)から修道院に行き、ジョナスという修道士の助言を仰ぐように忠告を受ける。このようなエピソードから少なくともこの時代、ブリトン人とサクソン人は干戈を交える状況にはなく、平和裡に共存していたことが暗示される。物語を読み進むにつれて、このような設定の重要性は明らかとなるだろう。この村で二人はさらに二人の同行者を得る。サクソン人の騎士であるウィスタン、そしてエドウィンという少年である。二人が村に滞在中、悪鬼にさらわれたエドウィンを見知らぬ旅人であった騎士ウィスタンが救い出し、やむを得ぬ事情で四人は一緒にサクソン人の村を立ち去ることとなる。しかし彼らの道中は決して安穏としたものではない。見知らぬ兵士に会えば、即座に敵味方を判断してどのようにやり過ごすかを思案せねばならない。修道院も内部で修道士同士が隠然たる抗争を繰り返しており、修道士たちの力関係は彼らのうえにも微妙な影を落とす。老夫婦と騎士と少年、奇妙な縁で結ばれた四人は協力しあいながら、苦難に満ちた旅路を続ける。一方で彼らが生きる世界には奇妙な現象が発生していることが明らかになる。老齢にあるアクセルとベアトリスのみならず、人々の記憶がなぜかあいまいとなって、同じ体験の記憶が異なり、現実と夢の境界が混濁するのだ。その原因は比較的早い段階で示唆される。クエリグという竜が吐き出す霧のために人々の記憶は失われるのだ。セント・ジョージとドラゴン、騎士と竜が登場するのであれば両者の対決が物語のクライマックスとなることはたやすく想像されようし、実際にそのような予想は的中するのであるが、結果として訪れるのは予定調和的なハッピーエンドではない。

 カズオ・イシグロの物語が記憶と関わるということはしばしば論じられてきたし、本書について評した多くのレヴューでもこの点が指摘されている。読書の楽しみを残すためにここでは詳しく語らないが、この小説は記憶の喪失あるいは混濁の物語であると同時に、記憶の回復の物語でもある。そもそもアクセルとベアトリスの道行きの理由が、ある日、自分たちの息子のことを「思い出した」ことであったことを想起しよう。そして記憶を回復する中でアクセルとウィスタン、そしてガウェインというもう一人の騎士の意外な関係がおぼろげに浮かび上がる。この小説を読みながら、私は「わたしを離さないで」と本書のテーマ的な近似性に気がついた。映画や舞台としても上演されイシグロの小説の中でも「日の名残り」と並んでよく知られたこの小説は、寄宿舎風の施設で暮らすクローンの若者たちの物語である。彼らは自分たちの身体を他者に提供するために生を与えられ、短く残酷な青春を送っている。ところで私たちのアイデンティティーの核心、他者と決して共有できない本質とはなんであろうか。私は身体と記憶ではないかと思う。私は他者の痛みを共感することができないし、他者の記憶を共有することもできない。現在、続編が公開されているフィリップ・K・ディック/リドリー・スコットの「ブレードランナー」においてレプリカントと呼ばれる人造人間たちは自分たちの幼少期の写真に執着する。なぜなら(他者から移植されたにせよ)自らの記憶、つまり自分がレプリカントではなく人間であることを物質的に保証する手段は写真のみであるからだ。自身の記憶をめぐる真正性の問題はやはりディックの短編を原作としたポール・バーホーベンの怪作「トータル・リコール」の主題であった点も想起されよう。「わたしを離さないで」と「忘れられた巨人」は身体と記憶という本来的に人が自らのアイデンティティーの核心とすべき根拠が失われている状況を描いている点で一致するのだ。このことと関係するのであろうか、私はいずれの小説も鋭い痛みの感覚が貫いているように感じる。「わたしを離さないで」においては他者にとって必要とされる身体の部位を切除される文字通りの痛覚であるが、「忘れられた巨人」の場合は私たちの記憶を覆うかさぶたが次々に剥がされていく痛みとでも言おうか、ひりひりするような感覚が物語の進行とは無関係に私を苛んだ。「わたしを離さないで」における傷と「忘れられた巨人」における記憶は対応している。この問題はさらに深めることができるかもしれない。イシグロの小説に関してはしばしば「信頼のおけない語り手」という主題が論じられてきた。「忘れられた巨人」においては神の視点が採用され、それぞれの章によって焦点化される人物が異なる。三人称で語られながらも、彼らの記憶のあいまいさは語り手としての信頼を大きく殺ぐ。この小説がロードノヴェルという現在進行形の体裁をとった理由の一つはこの点にあるかもしれない。つまり私たちは、眼前で繰り広げられる登場人物たちの道行きについてはその事実性を認定することができる。しかし彼らの来歴や回想、過去に関わる部分に関しては正当性が保証されない。むしろ過去に関わる真実は物語をとおして次第に浮かび上がるのだ。

 「忘れられた巨人」の場合、記憶のあいまいさは個人的な問題に留まらない。そしてこの点が小説にさらなる深みを与えている。最初に述べたとおり、記憶の奇妙な欠落、歪みを体験するのはアクセルたちだけではない。彼らが暮らした村に住むブリトン人も彼らが通過した村のサクソン人も、さらに勇壮な騎士たるウィスタンやガウェインさえ部分的に記憶を失っている。この世界では個人の記憶のみならず集団的記憶も失われているのだ。物語の中では竜の吐き出す霧が記憶の不全の原因であることが示唆される。したがって竜を殺そうとする騎士と竜を守る騎士の闘いは記憶をめぐる闘争でもある。記憶は失われたままであるべきか、それとも取り戻されるべきか。そしていずれが人々にとって幸福であるのか。この問題に答えることは難しい。先にも触れたとおり、ブリトン人であるアクセルとベアトリスがサクソン人の村にも逗留しえたことはかつて民族間に存在した憎悪の記憶が薄れていることを暗示している。そしてかかる問題はもはやファンタジーの領域に留まらない。たとえば従軍慰安婦問題だ。かかる蛮行が存在した以上、このような事実を否定する立場を歴史修正主義と呼んで批判することはたやすい。しかし同時に私たちはこのような事実は悲惨な経験を負った女性たちがトラウマとも呼ぶべき個人的な記憶を開封することによって初めて光をあてられたことに自覚的であるべきではなかろうか。封印されていた記憶の回復はしばしば痛みを伴う。この小説の原題はThe Buried Giant 、埋められた巨人である。「忘れられた巨人」と意訳された理由は、これまで述べた本書の主題、記憶と忘却を考慮する時、容易に理解されるが、小説の終盤で「埋められた巨人」への言及がある。ウィスタンはアクセルに次のように語る。

「かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人が動き出しました。遠からず立ち上がるでしょう。そのとき、二つの民族の間に結ばれていた友好の絆など、娘らが小さな花の茎で作る結び目ほどの強さもありません。男たちは夜間に隣人の家を焼き、夜明けに木から子供を吊るすでしょう。川は、何日も流れ下って膨らんだ死体とその悪臭であふれます。わが軍は進軍を続け、怒りと復讐への渇きによって勢力を拡大しつづけます。あなた方ブリトン人にとっては、火の玉が転がってくるようなものです。逃げるか、さもなくば死です。国が一つ一つ、新しいサクソンの国になります。あなた方ブリトン人の時代の痕跡など、せいぜい山々を勝手にうろつきまわる羊の群れの一つ二つくらいしか残りません」

 この言葉は記憶が暴力の抑止であると同時に暴力への衝動としても機能することを暗示している。ブリトン人とサクソン人の対立は今日も正確に繰り返されている。イシグロ自身、本書を構想する契機の一つがボスニア・ヘルツェゴビナで、ルワンダで繰り広げられた民族浄化という凄惨な内戦であることを語っているが、それは決して過去の問題ではない。現在の日本でも在日コリアンに対するヘイト・スピーチが吹き荒れ、書店の店頭には見るに堪えない他民族へのヘイト本が平置きされている。奇しくもこのブログをアップする今日、私は朝刊でイシグロのノーベル賞受賞演説を読んだが、昨日の同じ紙面にはアメリカの社会病質者の大統領が今後中東の民族間抗争の決定的な火種となる決定を下したことが報じられていた。そしていつもながら私たちの政府はそれらの不正義を意図的に拱手している。

 物語に戻ろう。この小説は神話や民族といった大きな主題とアクセルとベアトリスの旅路という個人的な主題の間を往還する。先にも触れたとおり、この小説では三人称と神の視点が採用されているが、最後の章のみ「おれ」という人称が導入される。「おれ」とは人を島に渡すことを生業とする船頭であり、もしかすると「おれ」は老夫婦が旅路の最初に出会った船頭と同一人物かもしれない。一人称が導入されることによって、初めて二人の姿は具体的な人格をもった視点から描写される。果たして巨人の再生によってアクセルとベアトリスの関係にも変化が生じたのであろうか。そもそもこの船頭もまた「信頼のおけない語り手」ではないのか。結末についてはあえてここでは記さないことにする。おそらくそれを見届けることこそが、二人と長い道行を共にした読者の務めであるからだ。


by gravity97 | 2017-12-09 10:08 | 海外文学 | Comments(0)