フアン・カブリエル・バスケス『密告者』

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 本書は重い主題を扱った、重厚かつなんとも不透明な小説である。ファン・ガブリエル・バスケスというコロンビアの作家についてはすでに邦訳が二冊あり、名前は知っていたが、実際に作品を読むのは初めてである。バスケスは1973年生まれというから、ラテンアメリカ文学の担い手としては最も若い部類に属すだろう。コロンビア出身でパリに渡ったという経歴からは誰でもガルシア・マルケスを連想するだろうが、本書はマルケスの魔術的リアリズムとも独裁者小説とも無縁の、いわば小説についての小説であり、この点からむしろボルヘスを連想させないでもない。しかしボルヘスの抽象性とも遠く隔たり、本書で扱われているのはコロンビアで実際に起きた歴史の暗部とも呼ぶべき事件なのである。内容にかなり踏み込んで論じることをあらかじめお断りしておく。

 例によってまず形式的な問題から論じる。本書は四つの章と補遺と題された五番目の章から成り立っている。四つの章の題名を列挙するならば「不十分な人生」「第二の人生」「人生―ザラ・グーターマンによれば」「遺産としての人生」であり、「人生」がキーワードであることがわかる。実は「密告者」という小説は最初、第四章までで完結していた。それは第四章の末尾に「ボゴタ 19942月」という擱筆の場所と日時が記載されている点からも明らかである。さらに「まずは親父が心臓病と診断されたところから書きはじめようと、そう思い定めた俺は、最初の一文字をコンピュータに打ち込んだ」という最後の一文は直ちに「199147日の朝、親父が電話をかけてきて、俺を初めてチャピネロにある自分のマンションに誘った」という冒頭の一文に呼応しており、物語は一種の円環を形成する。つまり本書は「俺」によって執筆された「密告者」という小説に最後の「1995年 補遺」と記された章を加えることによって成立している。あらためて補遺と題された章が付け加えられた理由自体は容易に推察される。すなわち章の冒頭でそれまで重要な役割を果たしていた人物の死が報告され、さらにそれまでの章で不在であった重要な人物との邂逅が語られるからだ。しかし実際に第四章までの小説が刊行され、その後に補遺を付して新版が発行された事実はないから、このような語り自体が既に虚構として成り立っている。私が小説についての小説と呼んだのは本書のかかる構造を指している。

 内容に即して論じることにしよう。「不十分な人生」や「第二の人生」が誰にとっての「人生」であるかは容易に理解される。書き手である「俺」の父、最高裁判所や大学で雄弁術を教えるボゴタの名士、ガブリエル・サンローロである。興味深いことに「俺」もまた父と同じガブリエルという名を与えられているから、この親子は同じ名をもつ。直ちにアウレリャーノという名前が何世代にもわたって反復されるマルケスの「百年の孤独」が連想されるエピソードであるが、この小説において話者は常に子ガブリエルであるから、両者が混同される可能性はない。さらに作家自身のミドルネームもガブリエルであることを考えるならば、この小説の自己言及性は興味深い。「不十分な人生」はともかく「第二の人生」が何を意味するかは明白だ。語り手ガブリエルの父親ガブリエルは先にも触れた心臓病の手術を受け、その結果として健康を回復し「第二の人生」を手に入れる。回春したガブリエルは老齢にもかかわらず担当の理学療法士アンヘリーナと深い仲になる。父と息子、二人のガブリエルの関係は複雑だ。1988年、ジャーナリストである語り手、ガブリエルは共通の知り合いである亡命ユダヤ人女性ザラ・グーターマンの半生の聞き書き『亡命に生きたある人生』を出版する。しかしこの本に対して父ガブリエルは徹底的に批判する書評を発表し、この結果、父子の関係は決裂する。冒頭で父から電話をもらった際の語り手の驚きはこの点に由来する。自分の書いた本が実の父からなぜかくも激烈な批判を受けたが語り手は理解できない。手術の後、二人はぎこちない和解をする。しかし意外な運命が彼らを待ち受ける。クリスマスを過ごすためにアンヘリーナとともに彼女の故郷であるメデジンに出かけた父ガブリエルは高速道路で事故死を遂げる。車に乗っていたのは彼だけであった。名士であったガブリエルは大がかりな葬儀の中で称えられ、叙勲が予定される。しかし第二章の末尾において、アンヘリーナによって彼が過去に犯した悪事が暴露され、名声が地に落ちるであろうことが予告される。

 それでは父ガブリエルはいかなる破廉恥な行為を働いたか。第三章においてその手がかりが与えられる。この章はタイトルのとおり、子ガブリエルを聞き手として、父と息子の共通の知り合いであるザラ・グーターマンの語りによって構成される。次第に明らかにされる父ガブリエルの罪はヨーロッパの歴史と深く結びついている。私も初めて知ったが、第二次大戦下、日本の真珠湾攻撃を契機としてコロンビアは枢軸国、つまりドイツ、イタリア、日本と外交関係を断絶し、ドイツからの移民のうち、対独協力者を選別して「ブラックリスト」に載せ、弾圧を加えたという。私は第二次世界大戦が大西洋を隔てたラテンアメリカにもこのような影響を及ぼしていたことに驚いたが、実際にこのような事実はコロンビアでも忘れ去られつつあるという。実はこのようなエピソードは既に第二章において子ガブリエルが密かに潜入した大学での父ガブリエルの講義として言及されており、物語はタイトルが暗示する「密告」という主題の周りを旋回するかのようだ。父ガブリエルもザラもナチスが台頭するドイツから逃避してコロンビアの地にたどり着いた。子ガブリエルが著した『亡命に生きたある人生』とはエメリッヒという地からコロンビアへ亡命したユダヤ人であるザラ一家が、コロンビアでホテルを開業するにいたる経緯を記している。彼の地で亡命ドイツ人たちは緩やかなコロニーを形成していた。確かにその中にはコロンビア・ナチス党員もおればハンス・ベトケなるアーリア人種至上主義者もいたが、多くはドイツを追われた人々であった。本書の中にはボゴタの暴動とナチスによるユダヤ人迫害、いわゆる水晶の夜を重ね合わせる喚起的な記述があり、ユダヤ人であるザラにとっては暴力の記憶が反復される。父ガブリエルの罪は比較的早い段階で明らかにされる。父ガブリエルとザラの共通の知人で、子ガブリエルも旧知の亡命ドイツ人、コンラート・デレッサーは服毒自殺を図った。ガラス会社を起業して順調に業績を伸ばしていたコンラートが自殺した理由は何者かが彼を対独協力者として告発したためであった。コンラートは収容所に収監され、会社は破産し、さらに夫の無実を嘆願した妻マルガリータもその後出奔したため家庭が崩壊した。本当に父ガブリエルは友人であるコンラートに対して、そのような行為を働いたのか。興味深いことには本書にそれを確証する記述は存在しない。先ほど旋回という言葉を用いたが、これ以後も物語は「密告」という主題の周辺を旋回するばかりでその核心に近づくことはない。第四章において語り手はアンヘリーナと電話で会話する。告発者であるアンヘリーナという語り手を得ても父ガブリエルの所業は明確にはならない。本書の小説としての評価はこのような不透明さをどのようにとらえるかという点にかかっている。本書の核心がどこにあるかは明らかだ。ボゴタの名士である父ガブリエルは戦時中に亡命ドイツ人を密告するという恥ずべき行為に手を染めたか否か。しかし本書の語りの構造は問題の解明を困難にしている。つまり、本書は子ガブリエルという語り手を有しながらも、常にガブリエルの聞き書きとして成立している。第二章で今述べた問題の核心が示された後、第三章においてはザラ、第四章においてはアンヘリーナ、そして補遺である第五章においては、あえてここでは名前を記さないが一人の重要人物との対話をとおして、父ガブリエルの罪の有無が繰り返し問われる。しかしいずれの証言においても決定的な言明はなされない。本書の話法上の特色は「俺」という全編を通しての語り手が存在するにもかかわらず、物語の内容は多く「俺」に対してなされる第三者の証言として語られることである。語りの真偽は何によっても担保されることはないし、肝心の密告がどのようなものであったかは最後まで明らかにされることはない。人によってはこの小説が中心に大きな空白を抱えていることに不満を感じるかもしれない。そしてこのような語りは一つの暗喩としてとらえることができるかもしれない。すなわち歴史とは常に何者かによる証言として成立するが、その証言の真偽は決して明らかとされない。父ガブリエルが雄弁術の教授であったことも暗示的である。述べたとおり、この物語は書き言葉に対する話し言葉の優越として実現されているが、実はその中心に位置するのは雄弁ではなく沈黙、知っていることをあえて沈黙の中に放置する黙説法であるからだ。

 解説の中で訳者は本書をコンラッドの「闇の奥」と関連させて論じている。「闇の奥」についてはこのブログでも論じたが、主要な登場人物であるクルツの二面性を父ガブリエルに重ねる読みが提案されている。私も一つの小説を連想した。バルガス=リョサの「ラ・カテドラルでの対話」である。この二つの小説は父の隠された一面が息子によって明らかにされるという主題的な相似を示している。さらにタイトルからも明らかなとおり、このような追究あるいは糾弾が他者との対話をとおして深められる点においても共通している。バルガス=リョサの小説は相当に複雑な構造をもっていたと記憶するが、小説の形式への関心という点においてもバスケスは「ラ・カテドラルでの対話」を意識していたのかもしれない。私はラテンアメリカ文学を好むから、これまでこのブログで多くの作家や小説について論じてきた。しかし21世紀に入ってもなおこのような未知の作家の優れた作品に出会えたことは、未知の沃野がまだ私たちの前に広がっているという思いを強くした。


by gravity97 | 2017-10-30 22:26 | 海外文学 | Comments(0)