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Living Well Is the Best Revenge

総特集 蓮實重彦

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先日発行された『ユリイカ』の臨時増刊号は「総特集 蓮實重彦」。この種の特集はあまり面白くない場合が多いが、今回の特集は多様な書き手に恵まれ、出色の充実である。いうまでもなく蓮實自身がフランス文学研究者、映画批評家、文学批評家、小説家さらには東京大学総長といった多くの顔をもつから、このような多様性はあらかじめ予想できないこともないが、それぞれのエッセイから浮かび上がる蓮實像は多様であると同時に、逆にジャンルを超えた蓮實の批評の形式的な一貫性についても思いをめぐらす契機となり、私にとっておおいに刺激的な特集であった。

いささかくどいように感じられるかもしれないが、まず全体の構成を概観しておこう。入江哲朗という私にとって未知の研究者による詳細かつ示唆に富むロングインタビューに始まり、まず天沢退二郎と海外の二人の書き手による随想が続く。天沢以外は初めて名前を聞いたが、いずれも映画関係者である。続いて「テクスト的な現実の饗宴」と題されたセクションではタイトルからうかがえるとおり、フローベールと関連したテクストをめぐってフランス文学研究者としての蓮實について、ジャック・ネーフ(彼の名前を私は『「ボヴァリー夫人」論』で知った)や渡部直己ら五人の研究者が文章を寄せている。黒沢清、万田邦敏、青山真治という弟子筋の映画関係者による座談会をはさんで、映画批評家としての蓮實について8編の貴重な証言が寄せられる。教育者としての蓮實の姿勢もうかがえ、いずれも興味深い。さらに続けてやはり蓮實と映画に関する8編の論考が寄せられるが、最初の8編が直接蓮實の謦咳に接した関係者の証言であるのに対して、「映画論=批評論」と題されたセクションに収められた論攷は間接的に蓮實を知った比較的若い世代によるテスクトであろう。これらもなかなか興味深い。とりわけ後述するとおり、數藤友亮というこれも未知の書き手による「野球と映画」という文章は刺激的であった。続いて蓮實が東京大学教養部の学友会の発行した雑誌に発表した「一番はじめの」小説が収録されている。蓮實も対談の中で述べるとおり、同じ大学でほぼ同じ時期に仏文学科に在学した大江健三郎のデヴュー作「奇妙な仕事」と同じ年に発表されたという事実はなかなか興味深い。蓮實の小説に続いて、川上弘美と磯崎憲一郎という現役の作家たちの蓮實をめぐるエッセイ、そして「教師・蓮實重彦」という彼の教え子たちへのアンケートをはさんで、本書の終盤には若手の批評家たちによる、さまざまな主題をめぐる蓮實重彦論が収められ、巻末には「平成生まれの読者のための蓮實重彦ブックガイド」という主要著作の案内が掲載されている。

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蔵書を確認するまでもなく、私は必ずしも蓮實のよい読み手ではない。巻末のブックガイドを参照しても私は蓮實の著述のうち、三つの系列をほとんど読んでいない。まず数は少ないとはいえ「陥没地帯」から「伯爵夫人」にいたる小説を私はいずれも未読だ。ついで私は本書の中でもその重要性が指摘されている「夏目漱石論」あるいは(「私小説を読む」という論集に収録されている)「安岡章太郎論」や「藤枝静男論」といった小説家の名を冠した日本の文学者に関する作家論を読んだことがない。さらに雑誌に掲載された阿部和重や黒沢清らとの対談は随分読んだとはいえ、「監督 小津安二郎」のごとき映画に関する本格的なモノグラフをほとんど読んでいない。特に意識的に忌避した訳ではないが、このような欠落は私にとって蓮實がまずはフランス文学の研究者であり、フランス思想の紹介者として認識されていたことを暗示している。おそらく私が最初に読んだ蓮實の著作はせりか書房から刊行された「批評あるいは仮死の祭典」もしくは朝日出版社の「フーコー・ドゥルーズ・デリダ」であっただろう。不思議なことに、これらの論文は私には大変わかりやすく感じられた。出版年を確認するならば、80年代の初め、私が大学で教養に在学していた頃に読んだはずだ。ニューアカの勃興に呼応するかのように、当時はまさにフーコー、ドゥルーズ、デリダ、さらにロラン・バルトといったフランスの思想家たちが一世を風靡していたから、私たちは彼らの思想の手がかりを求めて足立和浩から宮川淳にいたる日本の書き手たちの著作を渉猟していた。最初、私は蓮實をそのような書き手の一人として認識し、むしろその明快さによって記憶した。今回、本稿を執筆するにあたってこれら二つの著作を読み返してみるならば、なるほどいずれにおいても語り口は蓮實にしては比較的平易であり、後の一連の著作にみられるような詰屈というか韜晦というか、いわゆる蓮實調の語りとは一線を画しているように感じられる。さらに今回書架を確認していると叢書エパーヴの一巻として蓮實がフーコーとドゥルーズのそれぞれ一篇の論文を訳出した「フーコー そして/あるいは ドゥルーズ」を認めた。このパンフレットのごとき瀟洒な冊子からも強い感銘を受けたことを覚えている。これらの書物には当時、中央公論社から発行されていた「海」と編集長であった安原顕の存在が大きな役割を果たしたはずである。一方でおそらくその少し後、私は「表層批評宣言」を手にしている。冒頭から切れ目のないなんとも異様な文体で延々とつづられる名高いテクストを私は通読した記憶がないから、おそらく途中で投げ出したのだろう。今ではそうでもないのだが、当時私は蓮實の癖のある文体が苦手で、80年代のなかばには少し遠ざかっていた気がする。といっても蓮實もその中心人物と目された、いわゆるニューアカ・ブームは続いていたから、「季刊思潮」や「批評空間」といった雑誌に掲載されたテクストは読み続けていたはずだ。私が再び蓮實の存在に強い関心をもったのは1990年前後、続けざまに三つの著作に接したからである。一つは柄谷行人とのスリリングな対談「闘争のエチカ」である。話し言葉で書かれているためであろうか、蓮實の発言は明晰で、私は本書を読んで蓮實の批評的立場をようやく理解することができた。もう一つは同時代の文学についての卓抜な批評「小説から遠く離れて」。もともと「海燕」に連載されていたらしいが、私は日本文芸社から刊行された単行本で読んだ。村上龍と春樹、井上ひさし、大江健三郎、中上健次といったおおよそテイストの異なる作家の作品を取り上げ、説話論的還元を施すならば、いずれの小説も実は同型であるという驚くべき結論を提示したうえで、そのような形式からの逸脱を試みる大江と中上を評価し、そこに安住する村上春樹を批判するという分析は実にエキサイティングであった。このような発想自体は構造主義に由来するから、当時、ジェラール・ジュネットを愛読していた私にとって馴染みやすいものであったということはあろう。しかし日本にもこのような分析を独特の手つきで行う批評家が存在すること、そしてそれがあの蓮實であったことに私はおおいに驚いたのである。そしてもう一冊は「凡庸な芸術家の肖像」だ。フローベールの才能を欠いた友人として知られる、いやほとんど知られてもいないマクシム・デュ・カンという男の評伝という体裁をとりながら、18世紀フランス、西欧近代というエピステーメーの成立を説いた長大な批評は繰り出される多様な主題、細部からの意外な飛躍がとにかく面白く、かくも知的でありつつ刺激的な論攷を私はほとんど知らない。この評論は長く「ユリイカ」に連載されており、その存在は以前より知っていたが、私はちくま学芸文庫に収められたタイミングで通読した。奥付を確認するならば1995年のことだ。そして同じ方法が一冊のテクストに傾注された例として、私たちは20年後にようやく同じ著者によるフローベール論を読むことができた。「『ボヴァリー夫人』論」を経由した今、私は機会と時間があれば、もう一度この大著を再読したいと願っている。

いくつかの重要な著書について触れることができなかったが、ひとまず蓮實をめぐる私的な回想を記した。今回の特集号に戻ろう。本書の構成が編集部、蓮實本人のいずれによるかは定かではないが、本特集においては蓮實の一つの面がことに強調されている。いうまでもない、映画批評家としての側面である。蓮實をめぐる座談会は蓮實を「教師」とする映画関係者による鼎談であり、先にも述べたとおり座談会に続く「蓮實重彦を回遊する」「映画論=批評論」という二つのセクションには蓮實と映画をめぐる16本のエッセイや論考が収められ、全体の半数に近い。さらに読み物としてもこのセクションに収められた文章が抜群に面白い。おそらくこの総特集を通読して感じる、一種の風通しのよさはこの点に起因している。なぜなら蓮實が批評家として最も幸福を感じるのは映画をその対象とした時であろうからだ。それらを通読して私はあらためて蓮實の批評的一貫性を知るとともに、自らの批評に対しても反省の機会を得たように思う。かつてこのブログで私は「『ボヴァリー夫人』論」についてかなり詳しく論じた。ここに収められた文章を読んで私は蓮實が言う「テクスト的現実」への注視が映画批評の中で培われたことを知った。本特集において私が最も感銘を受け、思わず膝を打ったのは映画監督周防正行が立教大学時代での講義について語る次のような言葉だ。

そして何よりもその授業で衝撃的だったのは、「行間には、何も書かれていません」と先生が言い放ったことだ。思わず「カッコイイ」とつぶやきそうになった。今の子供たちは知らぬが、それまで国語の授業で絶えず聞かされていた「行間を読め」という教えが一気に吹き飛んだ瞬間だ。映っているものを見る。書かれているものを読む。


周防ならずとも「カッコイイ」と言いたくなるではないか。いうまでもなく「『ボヴァリー夫人』論」の批評的達成も決してテクストの行間を読まず、ひたすら「テクスト的現実」を分析したことに求められる。「行間には、なにも書かれていません」とはなんとも切れ味のよい台詞だ。何よりもこの言葉によって、「行間の意味」という重荷を押しつけられていた作家が救われるだろう。そして批評の側にもこの言葉はいくつもの反省を突きつける。構造主義、ポスト構造主義を経過したにもかかわらず、いまだに行間を読むことこそが批評の本質とみなす批評家のいかに多いことか。その一方、この言葉は、写っているもの、書かれているものを私たちが本当に見て、読んでいるのかというシビアな問いをあらためて批評の側に投げかける。「ボヴァリー夫人」を原語で読んだ者が何万人いるか私は知らない。しかしそこに Emma Bovary なる言葉が一度たりとも書きつけられていないという事実を指摘したのは日本人の蓮實が最初ではないだろうか。授業の最初に、対象となった映画についていつも蓮實が「何が写っていました」と学生たちに尋ね、蓮實の解説を聞くと、自分たちが実は何も見ていなかったことに気づいたと多くの書き手が記している。実際に形式の批評の醍醐味は、誰でも見た/読んだにも関わらず、誰も指摘したことのない明白な外形的事実に基づいて作品に分析を加えることにある。美術批評にパラフレーズするならば、フォーマリズムの魅力とは指摘されれば誰でも理解できる作品の形式的な特性を初めて言い当てる快感である。私も形式的な批評を身上としているから、例えば絵画であれば描かれているものについてのみ論じ、作家の経歴や作家の作意にはほとんど関心を向けなかったつもりである。しかし私は本当に自分が見ているものだけについて論じてきたのか、行間ならぬ作品の背後に安易に逃げ込んでいたのではないかと思わず自問した。

それにしても本書を読んであらためて感銘を受けたのは蓮實の教育者としての優れた資質である。もっともそれは一部の優秀な学生に対する教育であり、一般の愚鈍な学生に向けられた関心ではない。本特集では、別の教員が東大の映画史の講義の中で蓮實の著書を読んだことがあるか尋ねたところ、挙手した学生がほとんどいなかったという信じ難いエピソードが紹介されている。確かに馬鹿で勤勉な学生が講義への出欠をとることを教師に求め、休講があると補講が要求されるという今日の大学の状況を鑑みるに、蓮實は時代的にも優秀な学生のみに大学の可能性が開かれていた時代をかろうじて楽しんだのかもしれない。中田秀夫によれば、蓮實の講義では毎年度初回に映画に関する名詞や固有名詞が10項目ほど読み上げられ、それについて記述することが求められたという。蓮實は「これは正式な入ゼミ試験ではありませんが、半数程度しか答えられない人は受講の継続が難しいかもしれません」と言って自主的な退出を求めたという。しかもそこで例示される名詞は監督名や映画名であればともかく、「5」とか「24」とかいった数字さえありえたというのだ。実際に中田や青山真治でさえ二問くらいしか答えることができなかったと述べている。私がこのエピソードから直ちに連想したのは四方田犬彦が「先生とわたし」で描いた、四方田の教師、由良君美の東大での講義である。四方田によれば開講にあたって由良は受講を希望する学生たちを集めて、ワーグナーの「ワルキューレ」が鳴り響く大教室で赤塚不二夫の漫画を示して、どこが面白いのかを問う試験を課したという。衒学的というか高踏的というか、実際にこのような試験があったかどうかはともかく、私には四方田が説く由良像と教え子たちが回想する蓮實像が重なるように思えた。実際に私が大学や大学院で過ごした頃はなおもここで語られるような濃密な師弟関係は存在したし、私もそこで多くを学んだ。おそらく現在の大学では考えられないような幸福な状況であったと思う。ちなみに同じ映画批評家として知られる蓮實と四方田の関係は微妙で、本書中の三輪健太郎の論文によれば(ここでは詳述する余裕がないが、漫画を軸に夏目房之助、四方田、蓮實を論じるこの文章もおおいに刺激的であった)四方田は「リュミエールの閾」の中で蓮實に謝辞を述べているが、「先生とわたし」の中には四方田が韓国に客員教授として赴くことを報告した際に冷淡な対応した「最初にフランス語の手解きをしてくれたある教師」について触れられている。固有名こそがないが、前後の文脈からおそらく蓮實のことではないかと思われる。四方田との関係はともかく、蓮實の教育者としての業績とは多くの優れた映画監督を生み出したことに求められるだろう。本書には収められていないが、黒澤や青山といった映画監督、あるいは阿部和重といった小説家(阿部には映写技師という前歴があるが)らとの多くの対談で蓮實は肩の力を抜いた感じできわめて楽しげに語っている印象がある。そこには年少といえども映画や小説といった創造に携わる作家への蓮實の敬意が込められているように思う。対して本書中の「教師・蓮實重彦」というアンケート中、特に東大系の研究者の回答は総じて蓮實的な面白みに欠ける。

最後に一つ、先にも触れたが本書に収められた論文の中で最も刺激的であったのは數藤友亮という映画研究者の「野球と映画」という論攷であった。知る人ぞ知る話題であろうが、蓮實が草野進というペンネームでスポーツ批評、特にプロ野球批評を執筆しているのではないかという噂はかねてより根強い。文学から映画、思想にいたる広い守備範囲をもつ蓮實であるにせよ、なぜプロ野球かと問いは誰もが抱くであろう。數藤は草野が「海」に発表した「三塁打は今日のプロ野球にあって一つの不条理であるが故にその存在理由があるのだ」というとんでもないタイトルの文章を取り上げる。草野によれば三塁打はほんの十秒ほどの間に九人の野手に最も複雑な運動を実現させるがゆえに素晴らしい。私もこの箇所を読んだ得心した。なるほど、これはプロ野球を形式的に論じる観点ではないか。しかしこれまで一体誰が、プロ野球を「形式的に」論じようなどと思いついただろうか。ここから數藤はいささかの議論の飛躍とともに、蓮實の映画批評にみられる説話論的な構造と主題論的な体系の対立へと議論を進める。この枠組自体は蓮實の文学批評にもしばしば認められるが、最後に三塁打が引き起こす野手への反応と映画「キャット・ピープル」の印象の間の相似性が説かれるに及んで、異端とも思われたプロ野球批評も蓮實の批評の本質と深く関わっていることが説得的に論じられている点に感心した。

本書はこれから蓮實の文章を読む者にとってもよい導き手となるだろう。なにより蓮實の批評が、何を対象にするにせよ、ストイックなまでに厳格な一つの姿勢によって貫かれていることが理解される。行間には何も書かれていない、何が写っていたかのみを論じよ、細部にのみ集中せよ、多くの論者、多様なジャンルを横断して繰り返される蓮實の教えに批評という生業に連なる者としておおいに鼓舞される思いがした。


by gravity97 | 2017-10-17 21:04 | 批評理論 | Comments(0)