オマル・エル=アッカド『アメリカン・ウォー』

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 エジプトに生まれドーハで育ち、現在はアメリカに居住する著者によって今年4月に発表された小説が早くも文庫として訳出された。アメリカン・ウォー、アメリカの戦争とは2075年に始まる第二次南北戦争のことだ。地球温暖化で沿岸部が水没しつつあるアメリカ、化石燃料の使用を禁止する法案をめぐってミシシッピー、アラバマ、ジョージアという南部の三つの州が独立を宣言し、北部諸州との間で内戦が始まる。前者は赤いアメリカ、後者は青いアメリカと呼ばれる。この色分けが大統領選挙の際の共和党と民主党の支持者の色分けを暗示していることはいうまでもない。本書はいずれにも正義のないアメリカの戦争の中で翻弄される一組の家族の物語である。

 随所に事態の推移を記録する公式文書を挿入しつつ、プロローグと四つの章から成る本書の語りは二つの視点からなされ、時制についても二つの時間が導入される。すなわち一人称で語られるプロローグにおいてはこの内戦が過去の事件として語られる。語り手は第二次南北戦争の研究者でもある歴史家の「わたし」であり、人生も終わりに近づいているという記述から、高齢時における回想である点が示唆されている。事後の視点で語られるのはプロローグのみ。第一章から第三章までは三人称と神の視点が導入され、物語はほぼ時間軸に沿って展開する。冒頭の「そのころのわたしは幸福だった」というフレーズが物語の最後で反復される点からも明らかなとおり、本書の説話論的な構造はさほど複雑ではない。第四章で再び導入される一人称の語り手がプロローグのそれと同一である点はすぐに了解されるし、先に述べたとおり時制の構造も比較的単純だ。

 未読の読者のために一人称の語り手が誰であるかについてはあえて触れない。しかし本書のプロローグで語られる第二次南北戦争の経緯については、少し整理しておいた方がこのブログに触れて本書を手に取る読者にとって有益かもしれない。第二次南北戦争は2074年から2095年まで続いた。開戦の契機としては2073年にミシシッピー州で起きたダニエル・キ大統領の暗殺、そして翌年サウスカロライナ州で発生した抗議デモ参加者への発砲射殺事件がある。これ以後、自由南部国と北部諸州の間で激しい戦闘が続けられるが、この戦争に関連して生物兵器による二つの惨事が発生した。一つは2075年にサウスカロライナ州で発生した疫病であり、この結果、サウスカロライナ州は隔離され、この地域への帰還は不可能となる。(私たちにフクシマにおける原子力災害を連想させるに十分なイメージだ)一方、二つの陣営の和平交渉が進み、終戦の調印が行われた2095年、オハイオ州コロンバスにおける「再統合の日」記念式典においてもテロリストが生物兵器を撒布し、「再統合疫病」なる疫病の流行によってその後、10年間にわたって一億一千万人の人々が死んだという。物語を理解するうえでは生物兵器による惨事が二度にわたってサウスカロライナとオハイオで別々に発生し、前者が戦時中の出来事であるのに対して、後者は戦争の終結を別の大量死へと結びつけたことを覚えておくのがよい。災厄後のアメリカというイメージは私たちが見知らぬものではない。生物兵器の流出によって破滅した後のアメリカを描いた傑作として、私たちはスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』を知っているし、同様にロバート・マキャモンは熱核兵器によるアルマゲドン後の風景を『スワンソング』の中で描写した。あるいはこのブログで取り上げたコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』ではおそらくは核戦争後、死滅していく世界、ポール・オースターの『闇の中の男』では本書と同様に内戦状態にあるアメリカが描かれていた。崩壊していく世界のイメージはJ.G.バラードからアンナ・カヴァンまで文学の連綿たる主題系をかたちづくっている。

 しかしながら本書において世界の崩壊は圧倒的なリアリティーをもって私たちに迫る。なぜならここで描写される事件を私たちは既に知っているからだ。武装組織が支配して人が犬のように撃ち殺される風景、絶望した若者たちがテロへと走る難民キャンプ、人権を無視した拷問と虐待が日常化した捕虜収容所。これらは現在私たちの前に広がる光景と何ら変わるところがない。唯一異なるのは、それが最も豊かであるはずのアメリカという国の近未来として描かれていることだ。

本書の主人公、サラット・チェスナットは自由南部国と国境を接するルイジアナ州で、双子の妹のダナ、兄のサイモン、そして両親ともに貧しい暮らしを送っていた。物語の冒頭では6歳の少女として登場する彼女を過酷な運命が待ち受ける。父ベンジャミンは自由南部国のテロリストによる自爆テロの巻き添えで死亡し、故郷を追われた母と子供たちはキャンプ・ペインシェンスという難民キャンプに身を寄せる。希望のない難民キャンプの生活の中で男勝りのサラットは頭角を現し、かつて医師であったというアルバート・ゲインズという得体の知れぬ男の目に止まる。キャビアや蜂蜜といった貴重な食糧を融通する力をもったゲインズは最初、彼女に使い走りの単純な仕事を与え、次第に彼女の教師としてふるまい始める。一方、荒んだキャンプ生活の中でサイモンは次第に武装組織へと接近し、母マーティナは行く末を案じる。しかし難民キャンプでの家族の生活は突然に断たれた。民兵たちがキャンプを襲撃し、虐殺が繰り広げられたからだ。罪のない無数の難民が殺され、マーティナとサイモンも行方が知れない。ダナとともに虐殺を免れたサラットがゲインズに家族の復讐を誓う場面で第二部は終わる。

第三部はキャンプ・ペイシェンスにおける虐殺の五年後の情景から始まる。サラットとダナ、そしてサイモンはジョージア州のリンカートンという街で、虐殺の犠牲者に対する補償であろうか、自由南部国の援助を受けながら暮らしていた。大虐殺の際に頭に大きな傷を負ったサイモンはカリーナという看護師による日常の世話を受けてかろうじて生をつないでいた。虐殺を生き延びたサイモンは「奇跡の子」と呼ばれ、戦争で肉親を失った人々の信仰の対象となっている。サラットとはゲインズのもとで武闘訓練を受け、一人前のテロリストに成長し、ある暗殺事件と関わることによって、自由南部国の武装組織の男たちからも一目置かれる存在となる。しかしリンカートンでの平穏な暮らしも長くは続かない。双子の妹ダナは、コントロールを失って無差別に人を襲う「戦闘鳥」と呼ばれるドローン兵器の襲撃によって命を失い、サラットも捕縛され、自由南部国の「テロリスト」を収容するカリブ海のシュガーローフ収容所に収容され、筆舌に尽くしがたい虐待と拷問を受けることとなる。

このブログとしては珍しく、今、私は本書の第三章までのあらすじをかなり詳細に記した。しかし前もってこのような知識が与えられても本書を読む楽しみは減じないはずだ。第三章までのサラットをめぐる物語が愛する家族を一人ずつ失っていく喪失の物語であるのに対して、語り手を違えた第四章は一種の回復と治癒の物語である。第三章までの絶望に対して第四章で語られる希望がかろうじて拮抗し、一縷の救いが与えられる。物語が近未来に設定されているにも関わらず抵抗なく入り込めるのは、それが私たちと地続きであるからだ。冒頭に綴られる家族の生活は、温暖化による土地の水没という話題を除けば現在のアメリカの低所得者層のそれとさほど変わらない。難民キャンプでの生活、ことに暴力が新たな暴力を生み、若者たちが自爆テロへと唆される情景は今日私たちがパレスチナの難民キャンプで目にしているとおりだ。キャンプ・ペイシェントにおける大虐殺は北部諸州の暗黙の了解のもとになされた民兵による蛮行であった。かかる虐殺はこのブログでもジャン・ジュネに関連させて論じた1982年、西ベイルートのシャティーラ・キャンプにおける虐殺を正確に反復しており、テロの容疑者に拷問を加えるシュガーローフという収容所から、アフガニスタンやイラクで拘束した同時多発テロの容疑者を収容して拷問を加えたグアンタナモ収容キャンプを連想しないことは困難だ。端的に述べるならば、本書においては20世紀後半から今日にいたるまで、多く中東地域において人々が味わった暴虐と不条理があたかも主客を反転するかのように、アメリカの人々を苦しめている。小説の中でもはやアメリカに自助の能力はない。難民キャンプを運営するのは赤十字社ではなくイスラムの赤新月社であり、援助物資を届けるのは中国と「ブアジジ帝国」なる中東の大国である。ゲインズはかつて中東で勤務したことがあり、物語の中で重要な役割を果たすゲインズの友人ジョーはブアジジ帝国の出身者であることが暗示される。没落するアメリカ/西欧に代わって、中国そしてとりわけイスラムが強大な力を手に入れるという発想は先にレヴューしたウェルベックの「服従」と共通している。西欧の没落とイスラムの伸長、これらの小説は欧米の知識人層が現在抱えるイスラムフォビアを反映しているかもしれない。

本書は復讐の物語でもあり、サラットは復讐の女神であるかのようだ。父と母、双子の妹、家族が一人ずつ惨たらしい死を迎え、自らも収容所で虐待を受けて深いトラウマを負うサラットは復讐を誓い、敵の指導者や自らに拷問を加えた兵士、さらには抽象的な「敵」に対して銃やナイフ、時に特殊な兵器を用いて徹底的な復讐を果たす。彼女の最終的な復讐がどのような結末を引き起こしたかについて、あえてここでは記さない。物語の根幹、そして語りの形式とも深く関わっているからだ。最初に述べた通り、プロローグの語り手の存在によって、ここで語られる物語が既に終えられていること、「彼女」がおそらくこの世にいないことを私たちはあらかじめ知っている。そして読み進むならば私たちはサラットの復讐が結局のところ何も生み出さなかったことを理解するだろう。本書は復讐の不毛さを教える。物語の舞台は近未来のアメリカだ。しかし何度も繰り返すとおり、ここで語られる人々の苦痛は現在のアフリカから中東にいたる政治状況を反映しており、エジプト生まれでアメリカに居住する著者がこのような小説を発表した意味は問われてよい。アメリカと有志連合はアルカイダのウサマ・ビンラディンに復讐し(この経緯を描いた映画「ゼロ・ダーク・サーティ―」は暗殺と拷問、あたかも本書のサブテクストのようではないか)、ISISの指導者アブー・バクル・バクダーディーに復讐しようとしている。しかし今日アメリカで、ヨーロッパで吹き荒れるテロを目にするならば、そのような暴力は結局のところ新しい暴力、新たな復讐を呼び起こしたに過ぎないのではないか。テロに次ぐテロ、暴力の連鎖に私たちは抗しえないのだろうか。第四章で収容所から解放されたサラットは次第に傷から治癒するサイモンとその家族のもとでつかのまの安逸を経験する。この安らぎはサラットの人間性を回復させた。しかし彼女を冒すトラウマはもはやこの程度の安穏によって癒されることはなく、彼女は一つの決定的な決断をする。読者はこの物語が決して単純な予定調和に終わらないことをプロローグから予感するはずだ。漠然とした先説法の帰趨を見届けて、読者には重い読後感が残るだろう。

イデオロギーの対立が終わったにも関わらず、世界はさらに砕けて、互いに憎悪を深めている。今や危機は中東ではなく極東にあるかもしれない。私たちは極東の愚かな指導者に対して敵意をむき出しにする子供のような大国の大統領の暴言に毎日つきあわされている。そしてこの社会病質者に叩頭して、対話ではなくひたすら圧力を叫ぶ愚かな男が私たちによって選ばれた宰相なのだ。大量破壊兵器、難民キャンプ、テロリズムと強制収容所。ここで描かれる物語がもはや2075年のアメリカを舞台に選ぶ必要がないことを私たちはあらためて認識する必要があるかもしれない。


by gravity97 | 2017-10-09 22:57 | 海外文学 | Comments(0)