2017年 09月 16日
テイラー・J・マッツェオ『歴史の証人 ホテル・リッツ』
19世紀末にオープンしたオテル・リッツは最高級ホテルの代名詞として世界に君臨した。歴史に名を残す多くの貴族、政治家、芸術家、実業家が定宿とし、ココ・シャネルやマレーネ・ディートリッヒなどこのホテルを長期の居室とした有名人も多い。しかし単に豪奢の記号であるだけでなく、このホテルは1920年代には若いアメリカン人作家たち、いわゆるロスト・ジェネレーションがたむろする場所であり、第二次世界大戦中にはドイツによって支配されたパリで密かに続けられたレジスタンス活動の拠点でもあった。著者マッツェオは冒頭でパリがドイツ軍によって占領された1940年6月14日のこのホテルの風景を描写した後、一旦このホテルの創設時に遡り、それ以後は時間軸に沿って、1969年5月29日、このホテルの終焉を象徴する悲劇が発生した日付にいたるまでその歴史をたどる。全部で18章から成る本書は一章ごとに主題を違えながら、相互に関係する興味深いエピソードが次々に開陳されて読み飽きることはない。そしていうまでもなくどの章にも20世紀を代表するセレブたちが綺羅星のごとく登場するのだ。
オテル・リッツはマリ=ルイーズとセザールというリッツ夫妻によって創業された。共同経営者としては、料理を順番に供するいわゆる「ロシア風サービス」によってフランスの高級料理を一新したシェフ、オーギュスト・エスコフィエがおり、彼と女優サラ・ベルナールの色恋についても頁が割かれている。先にも述べたとおり、このホテルが開業したのは19世紀であり、ヴァンドーム広場を馬車が行き交い、サロン華やかな時代であった。プルーストは物語の幕開けにふさわしい。本書の冒頭で描写される貴族たちの軽薄なふるまいはあたかも「失われた時を求めて」のエピソードのようではないか。実際にプルーストはこのホテルに集う人物からこの大長編の登場人物を造形し、オリヴィエ・ダベスカなるリッツの給仕長その人がプルーストにゴシップを提供したという。開業まもないオテル・リッツでゲストたちの侃々諤々たる議論のテーマとなったのはドレフュス事件であった。確かに「失われた時を求めて」にもこの事件をめぐる議論が記されていた。著者によれば「ドアが開いた瞬間から、ホテル・リッツは新しい世界のための場、つまりドレフュス支持者たちと芸術家の賛同者たちのお気に入りのたまり場になる運命にあった」のであり、必ずしも経営者たちが望んだわけではないにせよ、このホテルが開業時にすでに「時代の先頭ランナー」であったことを指摘する。ここで言及される文学者はプルーストとゾラであるが、もう一人、ボードレールが召喚されたとすれば直ちに「モデルニテ」と言う主題が浮かび上がるだろう。本書の中でマルセル(プルースト)は神経過敏のプレーボーイとして描かれている。プルーストに限らず、筆者は登場する実在の人物にいずれもかなり辛辣な批評を加えている。
続いて筆者はかつてこのホテルに逗留した奇矯な富裕層を点描する。プルーストが夢中になったルーマニアの女王、スーゾ女王、アメリカの鉄鋼王の未亡人、ローラ=メイ、オカルトに心酔し突飛な服装でピカソさえ驚かせたというカサッティ侯爵夫人。女王や侯爵夫人といった呼称は時代を感じさせるが、これらの人物はこのホテルが一種の亡命地として富裕な故郷喪失者たちを受け入れていたことを暗示している。なかでもアメリカからは多くの有名人がこのホテルを訪れる。パリの20年代、強いドルは若いアメリカ人たちにパリでの享楽を可能とした。先日レヴューした「移動祝祭日」に描かれた情景だ。フィッツェジェラルドはリッツのバーに入り浸り、ヘミングウェイにとってもリッツはなじみの場所であった。後述するとおり、ドイツ軍からの解放に際しては従軍記者の第一陣としてパリに乗り込み、リッツのワインセラーを「解放」したヘミングウェイとこのホテルは以後、浅からぬ因縁で結ばれることとなる。著者はリッツをめぐる物語が常に戦争を軸につづられていたと記す。パリを占領したドイツ軍に対してもオテル・リッツは快適な滞在場所を提供した。例えば美術品の略奪に明け暮れたモルヒネ中毒者、「国家元帥」ヘルマン・ゲーリングはホテルの一つの階を占めるインペリアル・スイートに居を定めていた。しかし占領中、このホテルは一般客に対しても営業を続けていた。このような事情は次のように表現されている。「ホテル・リッツでは、白と黒が混じりあって濃い灰色になり、その空間では驚くべき出来事が起きていた。そうした灰色のエリア―勇気や欲望が残虐行為や恐怖とぶつかりあう場所ではすばらしい人間の物語が存在した」占領下のパリは特殊な場所であった。占領とレジスタンスは拮抗し、ドイツ軍に対して迎合する者と抵抗する者が存在した。それは単純にドイツとフランスという国籍に還元されることはない。本書を読んで私は驚いたのだが、1944年7月に企てられたヒトラー暗殺未遂事件、トム・クルーズが主演した映画で知られた、いわゆる「ワルキューレ」もこのホテルと深く関わっていたのである。一方でアルレッティという名で知られたフランス人女優も同じホテルで贅沢な暮らしをしていたが、彼女のパートナーはハンス=ユルゲン・ゼーリングというドイツ軍の中尉であった。パリの多くの市民が食糧難にあえいでいる時期に彼らはトゥール・ダルジャンやオテル・リッツのレストランでシャンパンに牡蠣といった豪華な饗宴を楽しんでいたという。しかしアルレィティをはじめ、戦時中にドイツ軍の兵士たちと懇ろになった娘たちの悲惨な運命については続く章で語られることとなる。
パリ解放をめぐるいくつものストーリーはオテル・リッツをめぐる物語のクライマックスをかたちづくる。パリを占領したドイツ軍司令官コルティッツもまたここに宿泊したという。しかし以前レヴューした「パリは燃えているか」の中ではパリを救った聡明な司令官という印象を与えたコルティッツは、本書においては多くの虐殺に手を貸した無慈悲な将校として描かれている。パリ解放をめぐる連合国軍内のつばぜり合い、あるいはロジスティック上の問題からパリ進軍の時期について各国で意見の相違があった点など「パリは燃えているか」で扱われた話題も繰り返される。そしてパリをめざしたのは兵士たちだけではなかった。パリ解放の瞬間を世界に伝えようとする従軍記者やカメラマンたちも思い思いの方法で戦地をパリへと向かった。ヘミングウェイがロバート・キャパとともに解放後のパリに真っ先に入ったことはよく知られている。一群の兵士を私兵として身辺に置き、シャンパンと手榴弾を携えてパリに入城し、戦時中にもかかわらずオテル・リッツでワインと豪勢なディナーに明け暮れるヘミングウェイはなるほどマッチョな作家のイメージに一致する。私は本書を読んで初めてマーサ・ゲルホーンとメアリー・ウェルシュという二人の女性ジャーナリストとヘミングウェイの関係について知った。驚くべきことにマーサとメアリーはヘミングウェイの四番目と五番目の妻になる。「移動祝祭日」に登場したハドリーとポーリーンらも想起する時、パリがヘミングウェイにとっていかに恋多き街であったかは明らかだ。さらに驚いたのはこのような女性従軍記者の中にリー・ミラーの名前をみつけたことだ。私の記憶ではリー・ミラーとはシュルレアリスムの作家であったはずだ。最初は同姓同名の女性かと思ったが、本書中に解放後のパリで最初にピカソに面会したアメリカ人が写真家のリー・ミラーであったという記述があるからおそらく同一人物であろう。
ピカソといえば、本書は美術に関連しても興味深い事実が満載である。ヒトラーが「退廃芸術」の名のもとにモダニズム美術を攻撃したことはよく知られている。それでは彼が寵愛した美術とはどのようなものであったか。1942年5月というから、まだドイツ軍の支配が徹底されていた頃、パリ、オランジュリー美術館で「アーリア化されたフランスの文化」を象徴する「新しい芸術の記念碑的な展覧会」が開催された。すなわちドイツの彫刻家、アルノ・ブレーカーの個展であり、オープニングは当然ながらオテル・リッツで開催された。ベルリン出身のブレーカーも20年代にパリで暮らしており、コクトーと親交を結び、夫人のデラメアはピカソのモデルであったという。ブレーカーはいかにもヒトラー好みの古典的、さらにいえばホモセクシュアル的な英雄像で知られていたが、彼自身はモダニズムにも理解があり、展覧会のオープニングにブラマンクやドランも招待されたというエピソードはドイツ軍の統治下のパリにおける芸術家たちの微妙な消息を暗示しているだろう。そしてドイツ政府の展覧会への支持を誇示するために、展示に合わせてオテル・リッツに滞在したのはかのラインハルト・ハイドリッヒであったという。ユダヤ人問題の最終解決を提案したこの人物をめぐる暗殺計画を主題とした小説「HhHH」についても既にこのブログで論じた。ユダヤ人という言葉が出たところで、もう一つの驚くべきエピソードにも触れておこう。ヒトラーやナチスの高官たちがフランスをはじめとする占領地域から美術品を略奪したことはよく知られており、最近では映画「ミケランジェロ・プロジェクト」がこの問題を扱っていた。本書では1944年8月27日にアレクサンドル・ローザンベルグというフランス軍の中尉がパリから北東に向かう貨物列車を停車させたエピソードが語られる。列車に積まれていたのは60点余のピカソをはじめ、セザンヌ、ゴーギャン、ルノワール、ブラックらの作品であった。ここで注目すべきはローザンベルグという名前である。なんと彼の父親はモダニズムの画商として知らぬ者のいないポール・ローザンベルグであった。ピカソの画商としても知られた彼はユダヤ人であったため、パリ占領以前にアメリカへと亡命していたが、彼の近代美術に関する膨大なコレクションはユダヤ人の遺棄財産としてドイツ軍に没収されていたという。さすがに息子のアレクサンドルが接収した作品が父のコレクションであったという劇的な展開はありえなかったが、このエピソードは今日まで尾を引く略奪美術品問題の根深さを暗示している。本書の中には42年の7月にジュ・ド・ポーム美術館の外で多くの「退廃的」な絵画が燃やされたという記述がある。焚書ならぬ焚絵画と略奪を経て多くの美術品が歴史の暗闇の中に消えていった訳だ。本を燃やす者はやがて人を焼くとはハイネの言葉であるが、実際に本書で描かれた情景の傍らで多くのユダヤ人が絶滅収容所で焼かれた。今、「傍らで」と記したが、ダッハウの強制収容所がアメリカ軍によって解放された直後、先に述べたヘミングウェイ夫人でもあるマーサ・ゲルホーンはそこに入り、身の毛もよだつような状況を目撃した。「鉄条網と電気フェンスの向こうには骸骨がすわって日光浴をしながら、シラミのたかった体をボリボリかいていた」と彼女は記す。自身もユダヤ人であった彼女にとってこの光景が生涯のトラウマとなったことは想像に難くない。しかもそこで死んだ囚人の半数がパリ解放前の最後の数か月に力尽きたのであった。マッツェオは次のように記す。「あの8月のパリ解放をせずに、連合軍がパリを通り過ぎて進んでいきもっと早くここに到着したら、最後の数週間の恐怖を阻止できたのではなだいろうか。それはあまりにもつらい質問で、きちんと口にすることもできなかった」
栄華を誇ったオテル・リッツも、大戦の後、次第に凋落の影が差す。終盤の章ではドイツ、アメリカに続いてイギリスとこのホテルとの因縁が語られる。かつてのプリンス・オブ・ウエールズ・エドワード、後のウィンザー公爵もここで幾度となく豪勢なパーティーを開いた。親ドイツ派であり、エリザベス王女の即位を阻止しようと工作したこの公爵は女癖の悪さでも知られ、王位を捨てて結婚した相手、ウォリス・シンプソンもまた評判の悪い女性であったという。公爵夫人は下品なアメリカの富豪、ジミー・ドナヒューとの情事を繰り返し、スキャンダルを引き起こす。追放同然に引退した公爵夫妻はパリ郊外に引退し、時折豪勢なディナーを楽しむ。そこにはかつてオテル・リッツに集った「特権階級の輝きをもつ」ゲストが登場するが、彼らの印象は一言で言って老残である。直ちに一つの小説的記憶が喚起されよう。またしてもプルーストだ。「失われた時を求めて」の最終章、「見出された時」においてゲルマント大公邸におけるマチネに登場人物たちが集まって来る場面、かつて権勢を誇った人物たちが老いた醜い姿をさらす様子は本書の終盤に登場する実在した人物たちと二重写しになる。しかしイギリス王室とオテル・リッツの関係はなお続く。1970年代にはこのホテルの没落は誰の目にも明らかになり、79年には賃借権が競売にかけられた。オテル・リッツを救ったのは59歳のエジプト人実業家モハメド・アルファイドであった。アルファイドは直ちに客室の大改装に取り組み、オテル・リッツは再びパリで最も豪奢なホテルとなった。そしてアルファイドの息子とかつてのイギリス王妃、ダイアナはパパラッチに終われ、このホテルからの逃避行の途上、事故死した。ちょうど20年前の出来事だ。
最初にも述べたとおり、オテル・リッツの歴史は20世紀を代表するセレブたちによって彩られている。フィッツジェラルドとヘミングウェイ、ココ・シャネルとマレーネ・ディートリヒあるいはチャーチルとウィンザー公。しかし今日彼らの人生を振り返るに、幸福と呼べる生涯を送った人物は少ない。多くの人物が自ら命を絶っており、先に少し触れたが、このホテルをめぐる物語の生き証人とも呼ぶべき総支配人も妻を拳銃で撃った後、自殺している。ホテルの宿泊客は当然裕福な人々であり、本書で語られるのはその中でも飛び抜けて富裕ないし有名な人々であるが、セレブリティであることが必ずしも幸せをもたらさず、しばしばその逆であること、そして戦争が多くの人々の運命を劇的に変えることを本書は教える。読みやすいとはいえ一巻の歴史書の重みをたたえた書物であった。
なお、オテル・リッツは長い休業の後、昨年6月に再びオープンしている。先にパリを訪れた際に、ロビーだけにでも足を運び、ホテルの歴史に思いをめぐらすべきであったと悔やまれる。