巨大美術館の黄昏

 

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 久しぶりにパリとロンドンの美術館をめぐった。いずれの都市も最後に訪れてから10年以上の時間が経過している。以前は仕事でヨーロッパに出張することも多かったが、その場合もコレクターや批評家との面会をすませるとそそくさと次のアポイントメント先に向かうことが多かったため、いわゆる大美術館を訪ねる機会はあまりなかった。今回はプライヴェイトな旅行であり、久しぶりにルーブルやロンドンのナショナル・ギャラリーといった有名美術館に足を運ぶことにした。思い起こせば、私がこれらの美術館を初めて訪れたのは大学院の修士課程を終えて初めて海外に出かけた一人旅の折であり、今年はそれからちょうど30年目にあたる。最初にルーブルを訪れた際の感動を私は今でもありありと思い出すことができるが、現在、同じ美術館を訪問する若者は果たして同じ感動を抱くことができるだろうか。21世紀を迎えて大美術館は大きな変質を遂げつつあるように感じた。今回は特定の展覧会に限定することなく、旅先で得た偶感を文章にとどめておきたい。

 今述べたとおり、私はこれらの美術館を実に久々に訪れた。したがって私が感じた変貌がどの程度妥当であるかについては留保の余地がある。次に述べるような状況はずっと以前から明確であったかもしれず、(時期的にありえないとは思うが)たまたま私が訪れた時期の特異な現象であったかもしれない。しかし最後に述べるとおり、おそらくこのような状況は現在日本の多くの美術館が直面する悪弊と深く関わっている。私が「巨大美術館の黄昏」と名づけた美術館の不全感はきわめて単純な事実に負っている。来場者が多すぎるのだ。これらの美術館はすでに作品を見る場所ではなくなっている。ルーブルでもよいナショナル・ギャラリーでもよい。入場者はセキュリティーチェックを十重二十重に取り囲み、作品の前には芋を洗うように人々が蝟集している。はるか以前にこれらの美術館を訪れた記憶をたどっても、これほどの人が入場していたとは思えない。《モナ・リザ》のごとき有名な作品を除いて、少し時間をかければ作品の前に立ち、ある程度の時間を作品と共有することができたように思う。しかし今日では作品に近づくことさえ容易ではない。I.M.ペイによるルーブルのピラミッドやノーマン・フォスターによる大英博物館のグレートコートを想起するならば理解されるとおり、近年のリノベーションを経て、かつての迷宮のような美術館も順路や導線が劇的に改善されたはずだ。しかしながら混雑は増すばかり。来場者が飛躍的に増えたからである。来場者の顔を見比べれば、東洋系それも中国人が圧倒的に増えたことが直ちに了解される。90年代、パリを歩くと日本人ばかりであったが、このたびロンドンでもパリでも日本人を見かける機会は少なく、代わって中国系、時に韓国系の団体客と思われる集団に頻繁に遭遇した。美術館の中でもツアーとしてめぐっているのはほとんどが中国人団体客であった。むろんこれは端的に国力の消長、日本の没落と中国の台頭を示している訳であり、経済的必然にすぎない。しかしかつてはほとんどが白色系の人種によって観者が占められていたフランスやイギリスの美術館を訪れる観衆の中心が黄色人種、しかも中国人であることに隔世の感を受ける。富裕層が中心であるにせよ、おそらく頻繁に欧米を訪ねることはない彼らのヨーロッパの美術館への執着は強い。

 さらにもう一つの要素が加わる。写真とSNSだ。近年、美術館の中で撮影が許可されることは普通であり、その写真をSNSで拡散させることが展覧会の広報宣伝の一つの戦略となっている。ヨーロッパの大美術館で写真撮影が許可されるようになったのはいつ頃であろうか、私が最初に訪れた80年代後半、フラッシュと三脚を用いなければ撮影が許可されていた気もするし、禁止されていた気もする。少なくとも美術館内で公然と写真を撮ることは行われていなかった。しかるに現在、多くの来場者が作品と一緒に自分を写し込む、いわゆる「自撮り」を目的とした写真撮影を行っている。実際、私も中国人観光客から《モナ・リザ》を背景に彼のポートレートを撮影するように要求さえされたのである。携帯や小型カメラであろうと、作品の写真を撮影するためには一定の時間が必要とされる。ましてや「自撮り」や他人に頼んで作品と並んだ自分のポートレートを撮影するためには相当の時間が必要とされる。かくして作品の前に人が滞留する時間は、作品を鑑賞することとは別の目的のために長引くこととなる。今触れた《モナ・リザ》が展示された部屋にいたっては広い室内のおよそ半分が写真撮影のために《モナ・リザ》ににじり寄る観衆で占められ、その両側に展示された作品は見ることさえできない状態だ。ここでは人は作品を「鑑賞」することなど不可能である。人は作品がそこにあることを「確認」して次の部屋に進む。私はこれらの美術館において作品の撮影は禁止すべきではないかと考える。一つは混雑の緩和が目的であるが、さらに本質的な問題としては、作品はカメラのレンズではなく人の目を通して見られるべきであり、それによって初めて作品を鑑賞し理解することが可能とされるからだ。写真は作品をその本質から遠ざける。今日、来場者は自らの携帯やカメラに作品のイメージを収めることによって作品を見たことを確認するのであるが、これは実に奇妙な倒錯ではないか。美術と写真は複雑な関係にある。例えば美術史学と美術全集、これらはいずれも近代の産物であるが、写真という技術の確立によって可能とされた。前者においては暗闇の中に二台のスライドから投じられるイメージによって、後者においては無数の図版によって、教師や愛好者は絵画について語ることが可能となった。質感やサイズ、ファクチュール、そして何よりもそれが所在する場所といった実物の作品を通してしか感受できないいくつもの要素を省いたとしても、それらのイメージは図像の確認や作者の特定といった一定の目的には使用可能だからである。このようなイメージの複製可能性、交換可能性は「近代美術館」の成立と深く関わっている。ニューヨーク近代美術館を嚆矢とする「近代美術館」は作品が文脈において初めて意味をもつという理解、一種の相対主義へと私たちを導いた。これに対して常設展を基本とするヨーロッパの美術館は作品と場所の結びつきを強調していたはずだ。《メデューズ号の筏》はルーブルにおいて、《大使たち》はナショナル・ギャラリー以外で見ることができない。しかしそれにもかかわらず、まさにその場でしか見(まみ)えない現実の作品の傍らで、それをせっせと写真=複製という抽象的な場へ送り出すふるまいは倒錯と呼ぶしかない。

 別の観点からこの状況について考えてみよう。かつて名画は王侯や貴族に秘蔵されていた。革命をとおして彼らの手から美術品を奪い、市民に公開する目的で設立されたのがルーブルのごとき巨大美術館であり、この意味において美術館とは市民革命の成果である。美術館に行けば、誰もが先人の描いた優れた絵画に触れることができるという私たちの通年はこのような経緯を通して可能となった。つまり権力者によって寡占されていた美術品は美術館という施設を得て市民に共有されることとなったのだ。しかし「市民」という概念の一定の広がりを勘案するにせよ、ここで想定されていた市民とは一つの国家、一つの民族に限定されており、それは近代的な国家観に対応するものでもあった。近代が終焉し、グローバリゼーションが進む今日、美術館で作品を享受する人々が多国籍化することは一つの必然であるかもしれない。もはや巨大美術館を訪れるのはそれが所在する国の市民ではない。観光客としてそこを訪れる無数の人々のために巨大美術館は存立するのである。先日、新聞紙上で、ヴェネツィアやバルセロナといった観光都市では近年、住民に対する観光客の比率が増えすぎ、地元住民が平穏な生活を送ることが困難になっているため、むしろ観光客の流入を規制する施策が提案されていることが報道されていた。「観光客」というテーマの射程は私たちが考えるよりはるかに深い。最近、東浩紀も「観光客の哲学」という著作を上梓している。ここで東の所論について詳述する余裕はないが、そこで論じられる問題はこれまで述べてきた主題とも関連しているだろう。東は次のように記している。「世界はいま、かつてなく観光客に満たされ始めている。20世紀が戦争の時代だとしたら、21世紀は観光の時代になるのかもしれない」今回ルーブルを再訪した私は、そこがもはや人が美術作品と接する場ではなくなっていることを実感し、30年前、まだ作品を作品として見ることができる時代に初めてそこを訪れたことの幸福を思い知った。おそらくこのような状況は世界規模で生起しているだろう。以前、このブログで私はかつてウィーン美術史美術館でフェルメールの絵に一人で対峙した際の幸福感について記したことがある。このような体験はもはや奇跡のような僥倖であろう。観光客にジャックされた大美術館は今や見ることの逸楽と無縁の場所になっている。

 しかしこのような状況はある種の人々にとっては好ましいことであるに違いない。愚劣な大臣の「学芸員は癌」という発言は記憶に新しいが、この男が理想として掲げるのは観光客がひっきりなしに訪れる観光施設としての美術館であろう。美術館や展覧会は収益や動員数によって評価される。国立美術館が独立法人化された頃より、このような臆面もない発言が放言されることとなった。皮肉なことに彼らにとって現在のルーブルやナショナル・ギャラリーはそのような理想を体現しているし、日本でも先日の国立新美術館のミュシャ展や草間彌生展の会場の雑踏もまた彼らが理想とするところであろう。経済にしか価値を見出さない愚かな政権によって今後日本の美術館がこのような方向に誘導される可能性はきわめて高い。しかし考えてもみるがよい、私たちは作品と静かに時間をかけて対話することによって初めて美術の価値に目覚め、深く内面化するのではないか。観光地化された美術館、群衆で埋め尽くされた展覧会場でそのような出会いがあるはずもなかろう。グローバリズムの進展に伴い、ヨーロッパの巨大美術館は不幸にも美術という営みの本質から最も遠い場所となってしまった。もはやこの状況が解消されることはないだろう。


by gravity97 | 2017-08-16 19:49 | 展覧会 | Comments(0)