村上春樹 川上未映子 『みみずくは黄昏に飛びたつ』

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 帯に記された「ただのインタビューではあらない」という惹句に思わず笑う。『騎士団長殺し』を多くの読者が読み終えた時期という刊行のタイミングはあざといが、川上未映子をインタビュアーとした村上春樹のインタビューは抜群に面白い。既にこのブログでも松家仁之による「考える人」誌上のロング・インタビュー、そして村上自身による「職業としての小説家」という二つの関連する記事やエッセイを取り上げているが、今回も先日刊行された「騎士団長殺し」の創作秘話を含めたこのインタビューについて論じておきたい。

 本書は四章で構成され、いずれも川上から村上へのインタビューというかたちをとっているが、最初の一章のみ2015年に柴田元幸が自ら編集する「MONKEY」誌のために依頼されたものであり、残り三章は「騎士団長殺し」を脱稿後、おそらく最初の読者の一人としてゲラを読んだ川上によって今年の一月から二月にかけて集中的になされたインタビューの記録だ。したがって後の三章においては「騎士団長殺し」についてしばしば言及されるが、川上の関心は個々の作品以上に小説家としての村上にあるから、四つの章は続けて採録されたといっても異和感がないほどなめらかに連続している。「考える人」のインタビューが小説家というより編集者によるそれであったのに対し、かつて村上の朗読会にも参加し、作家である川上による問いかけは同業者としての鋭さ、共感やユーモラスな感覚があって、読んでいてなかなか楽しい。

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 「騎士団長殺し」についてはすでに新聞等で多くの書評、文芸誌で多くの研究が発表されているが、私が読んだ限り特に感心する批評はなかった。おそらくその理由はほとんどの批評がこの長編の内容的な側面ばかりに注目するからであろう。この作品に限らず、村上の作品は精神分析的な読解を受け入れやすい。「騎士団長殺し」にもユング的な元型や穴=井戸といったモティーフ、あるいはフロイト的なファミリーロマンスの反映を確認することは私でさえ可能だ。川上のインタビューからはかかる事後的な確認ではなく、小説が今駆動しているというドライブ感をうかがうことができるように感じる。例えば村上は第二章の冒頭で「騎士団長殺し」という長編が生まれた契機について次のように説く。

「騎士団長殺し」っていう言葉が突然頭に浮かんだんです。ある日ふと。「『騎士団長殺し』というタイトルの小説を書かなくちゃ」と。なんでそんなこと思ったのか全然思い出せないんだけど、そういうのって突然浮かぶんです。どこか見えないところで雲が生まれるみたいに。

 このコメントは実に興味深い。村上と比べるのはおこがましいことを十分に承知しているが、私も展覧会を構想するにあたってしばしばタイトルから入る。そして村上によればさらに二つの要素が「騎士団長殺し」を書き始める際には導き手となったという。一つは物語の中で言及される上田秋成の「二世の縁」という先行するテクスト、もう一つは以前から書き留めておいた「その年の五月から翌年の初めにかけて、私は狭い谷間の入り口近くの山の上に住んでいた」で始まる小説の冒頭の文章である。それぞれレヴェルの異なる三つの要素から長編が成立する様子を村上は「三人の友達がどこかで偶然一堂に会する、みたいな感じ」と表現している。さらにそこにいたるまでに数年の時間が必要であり、長編小説はほとんど待つ作業であるとまで言い切る。私の場合も数年の間隔を空けてタイトルが到来すると展覧会の内容はかなり具体的に決まる。冒頭の一文にあたるのは具体的な作品であろうし、「二世の縁」にあたるのは先行する展覧会であろうか、かなり強引な対比であるが、村上の創作の秘密と自分の仕事の共通点に思い当たったことは私としては嬉しい驚きであった。

先行する第一章では人称の問題が語られる。周知のごとく「騎士団長殺し」では「私」という一人称が使用される。一人称と三人称の相違についての説明も興味深い。村上によれば「海辺のカフカ」では可能な一人称と三人称の併用は「1Q84」のごとき込み入った内容の小説においては不可能であったという。さらに人称の選択は作家にとって一つの縛りであり、逆にこのような縛りから自由が広がるという。一人称でも「僕」と「私」では印象が大きく異なる。今回、村上の長編において初めて「私」という人称が導入されたことは、村上の加齢によるところが大きいという。同様に三人称の場合、名前の選択も意味をもつ。「1Q84」においては「青豆」という主人公の名前が「突然頭に浮かんだ」ことによって話が進み出したという言葉がある。「騎士団長殺し」ではいうまでもなく「免色」という固有名がそれにあたるだろう。「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を連想させるこの名前は、一種得体の知れない紳士の名前に実にふさわしい。私は人称や固有名詞といった形式的な側面からさらに村上の小説は分析されるべきだと考えるが、そのような研究は少ない。おそらく村上の物語が形式より内容、語られる物語をさらに深読みしたいという誘惑を誘い込むからであろう。実際に川上も「壁抜け」や「井戸」「地下室」といった村上的な主題性へすぐさま話題を転じ、プライベートな「二階」から日本の私小説が扱う「地下一階」、そして村上が主題とする地下の世界である「地下二階」までを図示した自筆のイラストさえも準備してインタビューに臨んでいる。「騎士団長殺し」では「顔なが」が住まう世界が地下二階に相当することは直ちに理解されるが、こういった解釈は「職業としての小説家」の中で河合隼雄などを引きながら何度も論じられた点であるから、私にはさほど面白くなかった。

 私は本書を読んで村上が小説を執筆するにあたってかなりシステマティックな手法を用いていることをあらためて思い知った。どんな日であって毎日午前中に10枚きっかり原稿を執筆するという創作の作法は「考える人」のインタビューにおいてすでに公言されていたが、「騎士団長殺し」に充てられた時間も確かにこのペースを反映しているという。さらに一度書いた原稿に推敲を重ね、第五稿の段階でUSBの状態で出版社の担当者に渡し、プリントアウトした第六稿がゲラとなるというきわめて具体的な説明も興味深かった。再び自分に引きつけてしまうが、最近私は翻訳の仕事に携わっている。私の場合も訳文に何度か推敲を重ね、基本的に第五稿を最終稿として提出している。五回を一つのサイクルとした理由や短編中編における推敲の数についても尋ねてみたい気がする。このような厳密さの一方で、村上によれば登場人物の挙措について作家はあらかじめ予想できないという。「ねじまき鳥クロニクル」と関連して村上は「僕の中から出てきたバットなんだから、これはもう、何かしら小説的な必然性を帯びてくれるだろうという信念がある」と述べる。精神分析的な文脈としても読み取られかねないコメントであり、ここにはシステムに支えられたオートマティズムとも呼ぶべき村上の小説技法の特色が凝縮されている気がする。この点は村上の小説が無意識と結びついていることを暗示しており、(心ならずもフロイト的な用語を用いてしまうが)小説の中に漂うアンキャニーな雰囲気の遠因を成しているだろう。無意識と対立するのはおそらくリアリズムだ。村上は「ノルウェイの森」について、「最初から最後まで、リアリズム文体でリアリズムの話を書くという個人的実験をやったわけです。で、『ああ、大丈夫、これでもう書ける』と思ったから、あとがすごくやりやすくなった。リアリズムの文章でリアリズムの長編を一冊書けたら、それもベストセラーが書けたら、もう怖いものなしです(笑)」と語り、「ねじまき鳥クロニクル」については「ある程度の精度を持つリアリズム文体の上に、物語の『ぶっ飛び性』を重ねると、ものすごく面白い効果が出るんだということが、そこであらためてわかったんです」と述べている。この二つの発言は村上の長編の見取り図としてわかりやすい。確かに村上の小説の中で「ノルウェイの森」の異質さは際立っているし、「ねじまき鳥クロニクル」以降の長編はリアリズムと幻想の絶妙な調和として成り立っており、「騎士団長殺し」もその例外ではない。「騎士団長殺し」について少し触れるならば、すでに多くの論者が指摘する通り、この長編はこれまでの村上の小説に用いられたモティーフのショーケースといった趣があり、安心して楽しめる。おそらく村上の小説を読んだことのない読者にとっては格好の導入であろうが、それを一種のマンネリズムととらえることもできよう。ここではこれ以上この長編について論じることは控えるが、「騎士団長殺し」を読んだ後、本書を読むならば作家と作品についての興味がさらに増すことは断言できよう。

 最初に述べたとおり、作家である川上がインタビュアーであるため、創作の機微に関わるエピソードや突っ込んだ質問もある。「騎士団長殺し」の第一部は「顕れるイデア篇」と題されているが、かかるタイトルにもかかわらず、村上がプラトンのイデア論について全く知らず、川上からイデアについての講釈を受ける箇所には思わず笑ってしまった。村上が過去に発表した作品についてほとんど思い入れがない点には川上ならずとも驚く。引用されていた文章がなかなか上手いと思って確認すると昔書いた自分の文章だったという回想にはさすがに川上も唖然として「村上さんって、いっそ物語が通過して出ていくための器官みたいな感じがしますよね」と答えているが、このコメントも先に述べた「システムに支えられたオートマティズム」という理解の傍らに置く時、含蓄に富む。さらに作家であり女性である川上でなければ問うことができない質問として「女性が性的な役割を担わされ過ぎていないか」というセクションの受け答えは興味深い。「物語とか、男性とか井戸とか、そういったものに対しては、ものすごく惜しみなく注がれている想像力が、女の人との関係においては発揮されていない。女の人は、女の人自体として存在できない。(中略)いつも女性は男性である主人公の犠牲のようになってしまう傾向がある」という指摘は鋭い。フェミニズム批評においては川上が論じた問題はさらに精緻に分析することが可能であろうし、おそらく村上の小説におけるセックスに関わる描写は読者の反応を二分する。実際私も男女を問わず、性的な主題の扱いゆえに村上の小説を嫌う知人を何人か知っている。女性作家の面と向かっては答えにくい質問であるためか、村上の答えは珍しく歯切れが悪い。「よくわからないけれど」とか「たまたまのことじゃないかな」といった言いよどんだ返事がなされている。しかし川上も二の矢三の矢を継ぐことなく、いささか村上に遠慮した感じがある。私はフェミニズム的な読解が正義であるとも感じないので、必ずしも川上が代弁したような読みに与することはないが、このような会話の流れで「眠り」という、村上において女性が語り手となる最初の作品、私が愛好するまことにアンキャニーな短編が論及された点は嬉しかった。この作品は初めて「ニューヨーカー」に掲載された作品であり、村上を女性作家であると信じる人達からのファンレターに困惑したというエピソードも興味深い。

 まとまりのないレヴューとなり、論じ足りない点も多々あるが、本書は村上を愛読する読者にとっては絶好の入門といえよう。最後に私が本書を読んで一番心に残った言葉を記しておくことにする。「どうして読者がついてきてくれるかわかりますか」と逆に川上に問いかけた後、村上は次のように答える。「僕が小説を書き、読者がそれを読んでくれる。それが今のところ、信用取引として成り立っているからです。これまで僕が40年近く小説を書いてきて、決して読者を悪いようにはしなかったから」次のようにも言い換えている。「なんか変てこなものだけど、この人が悪いものじゃないと言うからには悪いものじゃないだろうと引き受ける、これが僕の言う信用取引な訳です」表現に関わる者、特に言葉の真の意味において前衛的な表現に関わる者にとってこの指摘は重みがある。文学のみならず美術、音楽そして批評、広い意味の作品は受容者が存在して初めて意味をもつ。このブログを始めて今年で9年になる。いくつかの理由によって私はこのブログを匿名で続けており、コメント等にも原則として返事することはないから、書き手である私は具体的な姿を欠いているにもかかわらず、毎日200人前後の読み手がサイトを訪れてくれることに私は励まされて更新を続けている。200人が多いか少ないかはわからないし、村上同様に私も読者の数自体にはほとんど関心がない。それなりの文化的リテラシーが必要なこれらのテクストを書くことと、読んでもらうことは文字り私とあなたの間の信用取引なのだ。願わくば今後もこのような信用に足るクオリティーを備えた批評的言説を書き継いでいきたいものである。

なお、御覧のとおりフォントのポイントがぐちゃぐちゃのきわめて見苦しい表記となっている。何度も記すとおりこれは先般のブログのフォーマットの強制的な変更以来のトラブルであり、責任は全面的にエキサイトの側にある。利用者として早急な改善を重ねて要求する。


by gravity97 | 2017-05-13 21:12 | 日本文学 | Comments(0)