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優雅な生活が最高の復讐である

ポール・オースター『ブルックリン・フォリーズ』『写字室の旅』

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 ゴールデンウイークの読書の楽しみとして、お気に入りのポール・オースターの未読の小説を二冊求めた。休日をはさんだとはいえ、ゴールデンウイークまで日を残して二日ほどで読み終えてしまったことは、あらかじめ予想できた誤算だ。このブログでもオースターについては既に三冊の小説についてレヴューをアップしている。おそらくこれまで最も頻繁に論じた対象の一つである。オースターに関しては、最近『冬の日誌』と『内面からの報告書』という自伝的な要素の強い新刊が訳出されたが、今回論じるのはこれらではない。以前も記したとおり、私はオースターについては翻訳が出るたびに読むようにしていたが、何冊か読みこぼしがあった。『ブルックリン・フォリーズ』と『写字室の旅』という2005年と2007年に発表された中編をいずれも柴田元幸の練達の翻訳によって読む。発表順で言うと、この二つの小説はこのブログで論じた『オラクルナイト』と『闇の中の男』の間に執筆され、興味深い共通点をもっている。柴田のあとがきによれば「2002年刊の『幻影の書』にはじまって、ポール・オースターは『自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語』を五作続けて発表した」今回取り上げる二冊の小説はその第三作と第四作にあたる。今名を挙げたほかの三つの小説についてはいずれもこのブログでレヴューを加えているから、奇しくも今回で私はこれらの五部作全てについてコメントすることとなる。

 さて、二冊の小説のうち、ここでは主に「写字室の旅」について論じることとする。しかしこれは「ブルックリン・フォリーズ」に比べて、こちらの方が優れているということを意味しない。どちらも優劣つけがたいが、もしどちらか一冊を推薦しろと言われたならば、むしろ私は「ブルックリン・フォリーズ」を選ぶだろう。それは単に分量だけでなく、オースターの小説の魅力が凝縮された佳作であるからだ。初めてオースターの小説を読む者にとってこの小説は格好の導入となるだろう。何よりもこの小説は読むことが楽しい。訳者の柴田もあとがきで「オースターの全作品の中でももっとも楽天的な、もっとも『ユルい』語り口の、もっとも喜劇的要素が強い小説だと言ってひとまずさしつかえないと思う」と述べている。私も全面的に同意する。それゆえこの小説についてはくどくど内容について論じるよりも、まず手にとっていただき、オースターの世界に足を踏み入れていただきたいと考えるのだ。少しだけ「ブルックリン・フォリーズ」の内容に触れるならば、読み始めるやそこにはニューヨーク、古本屋あるいは文学をめぐる蘊蓄といった、まことに私好みの主題が横溢している。これらはほかの小説とも共通するテーマでもあり、私は懐かしい土地に帰還したような思いがした。オースターが編集した「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」並みの奇譚を随所に織り交ぜながら年老いた主人公とその甥をめぐる錯綜した、しかし抜群に面白いエピソードの連続だ。「楽天的で喜劇的な」物語は必ずや読者を満足させることと思う。

 「ブルックリン・フォリーズ」を読む愉しさは未読の読者にために残して、私たちは「写字室の旅」に戻ることにしよう。「ブルックリン・フォリーズ」の二年後、2007年に発表された「写字室の旅」もまた実にオースターらしい物語だ。しかし物語を語ることの愉しさによって駆動された前者に対して、こちらは「物語を語ること」に明らかに意識的であり、オースターのいくつかの小説にみられるメタ性、つまり「小説についての小説」という側面が強調されている。「幻影の書」に始まる五部作にはいくつかの共通点がある。先にも引用した通り、柴田は「自分の人生が何らかの意味で終わってしまったと感じている男の物語」と評しているが、試みに「ブルックリン・フォリーズ」「写字室の旅」「闇の中の男」という五部作の後半三作品の冒頭の一文を順番に引いてみよう。「私は静かに死ねる場所を探していた。誰かにブルックリンがいいといわれて、翌朝ウエストチェスターから偵察に出かけていった」「老人は狭いベッドの縁に座って、両の手のひらを広げて膝に載せ、うつむいて、床を見つめている」「私は一人闇の中にいて、頭の中で世界をこねくり回しながら、今夜も不眠症をくぐり抜けようとあがいている」一人称と三人称という違いはあるが、確かにいずれも語り手の老いが前提とされている。特に後の二つの小説の冒頭は酷似しているといってもよい。人生を終えつつある老人を語り手に据えた点と現在70歳となった作家の心境が同期しているか否かについては即断できないが、興味深い点はこの五部作において次第にペシミズムが濃厚に感じられるようになる点である。「写字室の旅」において最初、老人と呼ばれた主人公はまもなく名を与えられる。ミスター・ブランク、空虚氏とはまことにオースター的だ。直ちに「幽霊たち」において任意の色彩の名前を与えられた登場人物たちも連想されよう。「闇の中の男」と「写字室の旅」、いずれにおいても主人公の老人は加齢を原因とした一種の幽閉状態にあり、特にミスター・プランクは動くことさえままならぬほどに衰弱している。両者に共通する重要な要素がもう一つある。それは物語の中に別の物語が嵌入する構造だ。「闇の中の男」では暗闇の中で老人が妄想する物語として、「写字室の旅」においては室内の机の上に積み上げられたタイプ原稿として別の物語が入り込む。もちろん小説内小説という手法はオースターが得意とするところで、記憶している限りでも「オラクルナイト」「リヴァイアサン」などでは小説の中で別のストーリーが展開され、「幻影の書」においては幻の映画がその役割を果たしていたと思う。「写字室の旅」と「闇の中の男」で注目すべきはそこで語られる物語がいずれも戦争と関連している点である。すなわち前者ではジーグムント・グラーフなる人工統計局の役人の手による、何処ともしれない土地での戦争の記録が語られ、後者においてはオーエン・ブリックという男によって記されるおそらくは近未来、内戦状態にあるアメリカの報告が綴られる。デヴュー当時、エレガントな前衛と呼ばれ、一種の都会的なミニマリズムを感じさせたオースターがこれらの小説において戦争というきわめて普遍的で泥臭い主題に接したことの意味については最後に論じる。

 「写字室の旅」にはもう一つのメタ的な仕掛けがある。衰弱し、トイレでの排泄もままならぬプランクのもとを次々に様々な人物が訪れる。元警官ジェイムズ・フラッド、食事と沐浴を介護し、最後にプランクを射精へと導くアンナという女性。亡くなった夫の名前を尋ねられたアンナがデイヴィッド・ジンマーという固有名詞を引いたところで、私はようやく記憶がよみがえった。デイヴィッド・ジンマーとは「幻影の書」の中で消息不明の謎の映画監督、ヘクター・マンを探す主人公の名であったはずだ。書庫でオースターの作品の頁をめくるならば、同様にピーター・スティルマンは「シティ・オブ・グラス」、ファンショーは「鍵のかかった部屋」、それぞれニューヨーク三部作中の登場人物であったことが理解された。オースターの名を知らしめたこれらの傑作を読んだのは30年近く前であったから、さすがにこれらの登場人物の役割についてはおぼろげな記憶しかないが、これらの事実が判明するならば、「写字室の旅」が何の暗喩であるかは明らかだ。ファンショーとは何者かを問われて元警官フラッドとプランクは次のような会話を交わす。「あなたの工作員の一人です」「わたしが任務に送り出した人間ってことか?」「きわめて危険な任務に」「そいつは生きのびたのか?」「確かなことは不明です。ですが大方の意見としては、もはや彼は我々と共にいないのではないかと」ミスター・プランクは作者オースターその人であり、この小説は老境にある作家のもとを彼によって創造された小説中の登場人物が訪ねる物語として了解されよう。むろんこのような解釈はあまりにもナイーヴとする見方もあろうし、小説の技巧に長けたオースターのことであるから、小説はこのような単純な解釈を許さない深みを備えている。ここで注目すべきは、彼を訪れる作中人物たちがいずれもプランクに強い敵意を抱いている点である。フラッドは次のように告発する。「あなたは残酷です。残酷で他人の苦しみに無関心です。あなたは人の人生をもてあそんで、自分がしたことに何の責任もとらない」物語の終盤でプランクは彼らによって詐欺から性的暴行、殺人までの罪状を告発され、死刑の宣告さえ受けるのだ。私はメタ的な枠組をもった小説や美術が好きであるから、これまでこのブログで論じた文学作品においてもしばしば作者と登場人物の関係が主題とされていた。例えばロレンス・ダレルの「アヴィニョン五重奏」やローラン・ビネの「HHhH」はそのような小説であった。しかしこれらの作品と比しても、本書における両者の関係は緊張に満ちている。最初に述べた通りここで論じた五部作を通じてオースターが描く世界は次第にペシミズムが濃厚になる。「ムーンパレス」や「リヴァイアサン」にみられたおおらかさは失われたように感じられる。「ムーンパレス」におけるコロンビア大学、「ブルックリン・フォリーズ」におけるブルックリン、これらの小説においてはニューヨークの街区が固有名とともに語られ、現実と強いつながりをもっていた。しかし「闇の中の男」は同時多発テロの記憶のない内戦状態のアメリカが舞台であり、「写字室の旅」にいたっては場所についての記述のない室内で物語が推移する。この五部作を通じて私はオースターと小説との関わりが大きな変化を遂げたような気がする。物語の中からオースターが愛したニューヨークという街の具体性が失われ、代わって何処とも知れぬ場所で繰り広げられる戦争をめぐるエピソードが小説内に挿入される。このような変化は「シティ・オブ・グラス」に始まる一連の小説に登場した人物たちにとって帰るべき場所、帰属すべき場所が失われたことを暗示しているのではないか。このように考えるならば、近作において作家と登場人物の間に強い緊張が生じた理由も理解できよう。

 30年近くオースターを読み継いで、私もまた何かが決定的に変わったことを深い感慨とともに思い知る。その決定的な転機についての記述が「ブルックリン・フォリーズ」の末尾にある。内容に立ち入ることとなるが、この小説自体に背景とされる時代について詳細な記述があり、おそらく誰もが想像する事件であるから思わせぶりな書き方はやめておこう。「ブルックリン・フォリーズ」の物語の中で様々な出来事を経験し、もはや「静かに死ねる場所を探す男」ではなく、新しい仕事の構想、そして愛する相手さえ得た老人ネイサンは入院していた病院から退院の許可を得て明るい陽光の降り注ぐ秋の朝、ブルックリンへと歩み出る。「だがいまはまだ8時で、そのまばゆい青空の下、並木道を歩きながら、私は幸福だった。我が友人たちよ、かつてこの世に生きた誰にも劣らず、私は幸福だったのだ」これが「ブルックリン・フォリーズ」の最後の一節である。しかしその前にネイサンが退院した日付が2001911日であったことが記されているから、私たちはそれから一時間も経たないうちにニューヨークを襲った惨事に思いをめぐらす。「ブルックリン・フォリーズ」は画然と分かたれた「それ以前」の日々をあえて描くことによって物語に深い余韻を残す。「ブルックリン・フォリーズ」の高揚の後に、「書字室の旅」と「闇の中の男」を読むことは、私たちにとって良き時代は既に終えられてしまったことをあらためて自覚させられるかのようだ。猿のような顔をした大統領が大統領選を「盗み」、結果的に911の遠因となったことについては小説の中でも怒りとともに触れられている。しかし今やさらに下劣な人物が大統領として居座る、もはや悪い冗談としか思えない状況にこの世界はなり果ててしまった。享楽的なポスト資本主義の最後のきらめきから監視と検閲による全体主義へ。そういえばオースターは早くも87年に発表した「最後の物たちの国で」において私たちの暗鬱な未来を予見してはいなかっただろうか。


by gravity97 | 2017-04-30 22:16 | 海外文学 | Comments(0)

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