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優雅な生活が最高の復讐である

「殿敷侃:逆流の生まれるところ」

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 殿敷侃は1980年代の後半に自動車のタイヤを用いた独特のインスタレーションで注目を浴びた。1992年に50歳という若さで夭折したため、少なくとも私の知る範囲ではこれまで作品がまとめて展示される機会がなく、以前より関心をもちながら、その全貌に触れることができない作家であった。山口の作家という印象を抱いていたが、生地である広島でこの作家の回顧展が開かれたことは大きな意味をもつだろう。なぜならば後述するとおり、殿敷の作品は被爆という体験と密接に関わっているからだ。
 私が比較的まとまった数の殿敷の作品を見たのは、このブログでも論じたとおり、2014年に森村泰昌がディレクターを務めた横浜トリエンナーレにおいてであった。この際は今回の展示では実物が出品されていた巨大なお好み焼き状の廃物オブジェを制作する情景が映像として上映されていたように記憶する。余談となるが、このトリエンナーレで殿敷と同様に大きく取り上げられていた作家は松澤宥であるが、偶然とはいえ松澤についてもごく最近、小規模な展覧会が開かれたと聞く。私は未見であるが、これに際して発行された資料価値の高いカタログを最近手に入れた。これまで十分に紹介されていない作家たちの検証が進められていることは喜ぶべきであろうし、作品を見ることによって多くの新しい発見がある。b0138838_20544576.jpg

 最初に述べたとおり、殿敷の作品を回顧的に見たのは初めてであり、作家に対する見方が大きく変わった。タイヤを用いたインスタレーションが鮮烈であったために、漠然とインスタレーションもしくはランド・アートの作家という印象を抱いていたのだが、殿敷の本領はむしろ平面作品にある点を認識することができたように感じる。展覧会は基本的にクロノロジカルに構成され、全体として五つのセクションに分かれ、いわゆるインスタレーション系の作品は最後のセクションに分類されている。確かにこれらの派手な作品は作家としての殿敷のイメージをかたちづくったが。仕事の中では必ずしも本流ではない。両者がどのように接続されるかという点は殿敷の作品を理解するうえで重要なポイントとなるだろう。そして私の考えでは殿敷の「平面作品」もまたインスタレーションと深く関わるラディカルな特質を秘めている。とはいえ、殿敷も最初から独自の表現に向かった訳ではない。最初期に描かれた絵画の堅牢な画面から例えば同じ山口出身の香月泰男を連想するのはやや安易だろうか。しかし1966年に制作された風景画のカンヴァスの裏面に「何くそ、こんな絵は書(ママ)きたくない」という文字が乱暴に書きつけられていたことを知るならば、すでにこの時点において伝統的な具象画を描くことに対して作家の煩悶がめばえていたことがうかがえる。作家が自らの方向を見出すにはしばしの時間が必要とされた。1970年前後に制作された、開いた口とその間にのぞく歯を主題とした一連の絵画は具象性と卑俗なモティーフという点でポップ・アートを連想させないでもないが、長くは続かない。殿敷が自らの画風を確立するのは1970年代に入って始められた一連の細密なペン画、そして銅版画によってであった。カタログによれば緻密な点描画は、当時殿敷が勤務していた国鉄の同僚であった画家、池田一憲に触発されたものであったという。口や指といった身体の部位、顔のない背広姿の人物といった幻想的なイメージが緻密に描かれたこれらの作品はシュルレアリスムを連想させないでもないし、50年代に池田龍雄や石井茂雄によって描かれた一連の細密なペン画、光田由里が線描絵画と呼んだ表現との類似も示している。「密室の絵画」はしばしば社会的な主題と接したが、殿敷の場合は個人的な経験と関わる一つの主題が次第に明らかになる。それは被爆体験だ。殿敷の父は広島に原爆が投下された際に、爆心地の真下にあった郵便局に勤務しており、その亡骸を探して被爆直後の広島に入った母子は入市被爆した。母は数年後に死亡し、殿敷もおそらくはそれを原因とする肝臓障害を患うこととなった。インクで細密に描かれたきのこ雲のイメージは1972年に登場する。70年代後半には同様の点描の手法が油彩画にも応用され、鉄かぶとや襦袢、帯といった身につける品物が描かれた。鉄かぶとは父の遺品として爆心地から持ち帰られたものであり、絵のモデルとなった実物も出品されていた。鉄かぶとについて遺品という言葉を用いたが、殿敷が描く着物や装身具も持ち主の死後に残された品物という印象が濃厚である。被爆という事件と重ね合わせるならば、このようなモティーフの選択からは石内都の一連の写真が連想される。この一方、同じ時期に、銅板に直接物を置いて陰となった部分もしくは露出した部分を腐食させる技法によって制作されたエッチングも制作されている。油彩画とエッチング、いずれの場合も色彩は抑制され緻密な点描によって画面が成形されている。
80年代に入るとエッチングに代わってシルクスクリーンが導入されるが、その場合もイメージは無数の痕跡の集合として成立している。「霊地」と呼ばれるシリーズにおいてはモノクロの画面を三日月状のきわめて小さな単位が稠密に満たしているが、実はこの形は爪を暗示しており、1978年に制作された《釋寛量信士(父のつめ)》と題された油彩画の中に描きこまれた爪の形状に由来している。父の爪が父の形見、遺物を暗示していることはいうまでもないから、この一見オールオーバーな画面にも死が影を落としていることはたやすく理解できよう。爪を暗示する単位で画面を満たす方法はシルクスクリーンを介してさらに応用され、写真や地図、広告のモノクロームのイメージが同様の処理を加えたうえで次々に作品化されている。もう一点、注目すべきはやはり80年代の初めにきのこ雲のイメージをシルクスクリーンで転写して反復した巨大な作品が発表されている点である。手法的にウォーホルを模したことは間違いないが、この連作は殿敷の作品の中に原子爆弾と被爆の問題が顕在化した数少ない例である。そして82年頃より鉛筆やボールペンを用いて画面を線や点で塗りつぶし、「集積」という言葉をタイトルに付した一連の作品が制作される。私がこの展覧会で最も興味深く見たのはこれらの連作であった。これらについてカタログには「1982年のヨーロッパ、アメリカへの旅を通して刺激を受けた殿敷は、帰国後、無意識に手を動かすことで、内面の存在感や精神性を確かめたいと語り、ボールペンや鉛筆を用いて無数の線を引き、画面を塗りつぶす作品を制作するようになった」とのコメントが寄せられている。同様の手法を用いる作家は決して少なくはない。リチャード・セラや草間彌生、あるいは松谷武判らの作品がすぐさま連想されようが、殿敷はそれらの作品にも拮抗する強度を有しているように感じられた。あるいはそのヴァリエーションとして、数字のスタンプを画面中にくまなく押した作品からはローマン・オパルカが想起されるかもしれない。
1980年代初めに始まる一連の廃物インスタレーションは、このような集積の手法が現実の事物を使用して空間的に拡張された試みとしてひとまずは理解することができるだろう。実際に1983年に小郡で実施された「黒のイベント」はギャラリーの壁などの空間を鉛筆で塗りつぶすものであり、1987年、栃木県立美術館で開かれた「アート・ドキュメント ‘87」においては美術館のガラス壁全面に赤いチョークを塗りつけ、88年の広島での個展における画廊の壁面をしたたり落ちる赤い絵具の痕跡は直ちにヘルマン・ニッチの一連の儀式を連想させる。これらの作例において作品は絵画との関係をかろうじて保っているが、もはや作品が平面に帰着する必要はなかった。1983年に山口県の県展に出品されたインスタレーションは美術館の前庭に1500本の古タイヤをはじめ、ごみ集積場から拾い集めたトラック三台分の黒い廃棄物をまき散らした過激な作品である。もっともこのような作品も決して類例のないものではない。60年代のアッサンブラージュやアンチフォーム、ロバート・モリスやリチャード・セラの手によるフロア・ピースあるいはスキャター・ピースと呼ばれる作品においてもしばしば加工されない素材や廃品が多く室内に雑然と放置されていた。大量のTVの受像器を用いて空間を遮断する作品も既製品の使用と遮断という手法の結合という点においてクリストやヤニス・クネリスを連想させる。一方で殿敷は同じ時期にプラスティックの廃品を埋めたうえで火をつけて、お好み焼き状のオブジェとして提示するパフォーマンスも何度か行っている。最初に述べたとおり、私はその模様を記録した映像を2014年の横浜トリエンナーレで見たが、驚いたことにこのようなオブジェは一部が残存しており、今回の会場に展示されていた。廃品を用いたオブジェに関しても多くの先例があるが、殿敷の場合、野外での大がかりな制作は一種のパフォーマンス、あるいはランド・アートといって差し支えないだろう。そして展示の最後に代表作とも呼ぶべき「タイヤのなる木」が登場する。立木の枝に無数の古タイヤを引っかけた作品は殿敷のトレードマークであり当時、雑誌や新聞で紹介する記事をよく見かけた記憶がある。今回も実際の制作の過程を記録した映像やマケットが出品されていた。
展示を一巡してあらためて驚くのは、ここで紹介される殿敷の活動がわずか四半世紀ほどの短い間になされている点である。あらためて作家の夭逝を惜しみつつ、例によって若干の所感を書き留めておくことにする。
述べてきたとおり、殿敷の作品は潜在的に重いコノテーションをはらんでいる。いうまでもなく間接的な被爆の体験であり、戦争にまつわる記憶を多くモノクロームによって表現した点は先に名前を引いた香月泰男を連想させないでもない。しかし展覧会を見た印象として私は作家が被爆という主題を声高に主張したようには感じられない。出品作のうち、原子爆弾との直接の関係を暗示するのは被爆死した父の遺品(正確に述べるならば鉄かぶとが父のものであったという確証はない)を描いた一連の作品と、きのこ雲をシルクスクリーンによって反復した作品のみである。この問題は被爆をいかに表象するかという問題と重なる。このブログでは美術や文学、あるいは映画といったジャンルを超えて何度も言及した問題であるが、20世紀の歴史の中には表象不可能な事件がいくつか存在する。多くの美術家、作家、映像作家がこの難問に挑んだ成果をこれまでにも何度か紹介したが、殿敷の仕事もこの問題と直接関わっている。
鍵となるのは「霊地」と題されたシリーズを埋め尽くす三日月状の形態である。このかたちは先に述べたとおり、父の遺品の上に置かれた赤い爪の形に由来し、作家によれば「父の霊が地表から湧き出るイメージ」であるから、爆心地で被爆した父、つまり被爆の経験と深い関係がある。ここで私が注目するのはその形状だ。つまり展示の中では「爪のかたち」と説明されていたが、私たちの爪は三日月形ではない。正確にはそれは爪の跡、爪で何かが押された痕跡なのである。ここから直ちに一つの主題の系列が明らかとなる。それは接触という主題だ。私は殿敷の仕事は絵画や版画、インスタレーションといったジャンルを超えて、接触という共通の問題と深く関わっていたのではないかと考えるのだ。例えば被爆の遺品として描かれた対象を考えてみよう。鉄かぶと、襦袢、足袋、あるいはシャツや帽子、ここには一つの共通点がある。それらは私たちが身につける品物であり、皮膚と直接接触する。「集積」あるいは「数字」という言葉を冠されたシリーズは、ボールペンや鉛筆、あるいは数字のスタンプと支持体の表面との気の遠くなるような接触の連続によって成立している。殿敷が版画という、いうまでもなく版との接触によって成り立つ表現を好んだことの理由もこの点から説明することができるだろう。再び被爆の問題に戻ろう。被爆の表象として私たちがまず思い浮かべるのは丸木位里と俊による「原爆の図」であろう。被爆直後の惨禍をいくつもの主題に分けて描いた一連の作品は原子爆弾の炸裂という圧倒的な暴力がもたらした惨状を一つの似姿、アイコンとして表象している。表現としては再現的であり、視覚的、空間的といえよう。これに対して殿敷の作品は別のかたちで被爆を表象しているとはいえないか。鉄かぶとやシャツが具象的に描かれているとしても、それは原子爆弾の熱線によって変形した品物の提喩であり、一種の抽象性を宿している。衣服や「ドームのレンガ」といった対象の選択とその表現は明らかに触覚的である。さらに言えば接触とは通常、二つの異なった表面が一定の時間、境界を接することによって成立するから時間性を内包している。(爪跡は爪をしばらく押し付けることによって残される)つまり殿敷にとって被爆の体験は「原爆の図」とは全く異なったかたちで作品に取り入れられている。この差異は、作家にとって被爆が間接的な体験であったことに起因しているかもしれない。
接触という補助線を得ることによって、私たちは一連のインスタレーションに対して新たな角度から接近できるだろう。まず自動車のタイヤという独自の素材が用いられた理由を、それが常に地面と接触しているからと考えるのは強引だろうか。この時、すぐさま連想されるのはロバート・ラウシェンバーグとジョン・ケージが制作した自動車タイヤプリントである。周知のごとくこの作品はケージが運転するフォードの車輪にラウシェンバーグがインクを垂らしながら長い紙の上を走行することによって制作された。ここでも接触と痕跡が作品をかたちづくっている。しかし殿敷はタイヤを直ちに平面作品に結びつけようとはしない。おそらくタイヤはサイズと色が一様であることによってアッサンブラージュの単位として選ばれている。この点は爪ではなくタイヤを単位として「霊地」同様のオールオーバーな画面を構成した《集積するタイヤ》という作品からも確認できる。しかし一方で「タイヤのなる木」についても接触という視点を応用することができるのではなかろうか。ミシンと蝙蝠傘ではないが、タイヤと立木という本来的に無関係な二つの要素はタイヤを枝にかけること、物理的な接触をとおして結びつけられる。そしてこれらの作品は視覚的な効果というより、むしろタイヤの重みやタイヤを枝にかける行為といった身体的な感覚に訴求しないだろうか。実は殿敷の作品にとって視覚性はさほど重要な要素ではない。形象が描かれることは少なく(しかも多く新聞や広告といったレディメイドのイメージだ)色彩に関してもモノクロームの場合が多い。何が描かれているかではなく表面がどのように組成されているかという点に私たちの関心は向けられる。表面への、あえて言えば触覚的な関心においてはお好み焼き状のオブジェも同様だ。タイヤと立木が接触を介して作品化されたように、無数の廃物は土の中で焼かれて接触を介した新しいかたちを与えられる。接触が作品の機縁であり、作品は隣接性をその原理としている。私は廃品オブジェにおいて、燃やすという行為が決定的に関与している点に注目したい。先に私は殿敷の作品には死の影が落ちていると述べた。例えば盆の送り火から連想されるとおり、炎を放つ行為を死者に対する一種の弔いとしてとらえることはできないだろうか。そしていうまでもなくそこには爆心地で燃え尽きたであろう作家の父の姿が重ねられているはずだ。火傷そしてケロイド、東松照明の有名な写真を連想してもよい、被爆という体験は目に見える光景ではなく、皮膚と触覚を通してより深く記憶されるのではないか。この時、殿敷は被爆という表象不可能な事件を一貫して接触という原理を通して作品の中で追体験したと考えることはできないか。もしそうであれば、殿敷の作品の黒は生涯にわたる服喪の色であったはずだ。
by gravity97 | 2017-04-02 21:25 | 展覧会 | Comments(0)

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