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Living Well Is the Best Revenge

ミシェル・ウェルベック『服従』

 

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 翻訳が刊行された後、タイミングを合わせたかのようにフランス国内で大規模なテロ事件が発生し、「予見的」として大きな話題になったミシェル・ウエルベックの「服従」を読む。それから二年が経過し、イギリスのEU離脱、そして社会病質者のアメリカ大統領就任という異常事態を経て、私たちはますます本書の警告が切実な意味をもつ世界に生きることとなった。ウエルベックに関して私はこれまで「地図と領土」しか読んだことがない。冒頭にジェフ・クーンズとデミアン・ハーストが登場する「地図と領土」もとんでもない小説であったが、本書も問題作と呼ぶにふさわしい。最初にお断りしておくが、内容に立ち入らず本書を論じることは困難であり、結末も含めてこのレヴューでは物語の内容に言及する。可能であれば、一度通読してから以下をお読みいただいた方がよいかもしれない。

 帯の惹句に次のような記述がある。「フランス大統領選同時多発テロ/賛否渦巻く予言的ベストセラー」「シャルリー・エブドのテロ当日に発売された近未来思考実験小説」実際に翻訳が刊行された当時はフランスにおけるテロとの関係でセンセーショナルに宣伝されたことを覚えているし、私が刊行直後に本書を求めなかったのは予断をもって小説を読むことを好まないためだ。しかし今回本書を読み始めるとやや印象が異なる。冒頭にJ.K.ユイスマンスの一節がエピグラフとして引かれ、「ぼく」を語り手とした一人称の物語が始まるが、そこで記述されるのはユイスマンスを専攻し、ソルボンヌ=パリ第四大学で博士号の学位を取得した主人公の大学の研究者としての比較的単調な生活である。短い章が重ねられて構成されている本書において、一人称の語りは安定しており、大学の文学研究科で教鞭を執る主人公の生活もテロや戦争とはほど遠い。パリ第四大学で博士号を取得し、パリ第三大学で教授職を得るということは典型的なインテリのキャリアであり、ある意味ではフランスで最も安定した状況にある知識人の肖像ということもできるだろう。実際にフランソワが専門とするユイスマンスについては、学者らしいディレッタンティズムが随所で開陳される。その一方で主人公フランソワの個人的な趣味も随所に書き込まれる。まず明らかになるのは主人公の性的な放縦である。彼は大学時代にも大体年に一人くらいのガールフレンドを作り、性的な関係を結ぶ。教職に就いてからも「毎年のように、女子学生たちと寝た。彼女たちに対して教師という立場であることは、何かを変えるものではなかった。ぼくと彼女たち学生の年齢の違いは始めの頃は大きくはなかったし、それがタブーの様相を呈してきたのは、どちらかといえば大学での昇進のせいであって、自分が年を取ったからでも、老いが外見に現れたからでもなかった」日本であれば眉をひそめる者もいるかもしれないが、おそらくフランスであれば主人公のコメントはさほど抵抗なく受け容れられることは予想できる。本書の冒頭でフランソワは長く安定したガールフレンドというよりセックスパートナーであったミリアムとの別れを経験する。しかし物語の中ではさほど大きな意味をもつ事件ではない。インテリの一人称小説らしく、随所にレストランや料理、あるいはワインに関するスノビッシュな固有名詞が散らされているが(このようなディテイルから私はブレット・イーストン・エリスの「アメリカン・サイコ」をかすかに連想した)、それらと同様にミリアムも交換可能な固有名詞の一つに過ぎない。実際に主人公はまもなくミリアムの不在の代償であるかのように「エスコートガール」たちとのセックスを楽しむ。物語の序盤において主人公の生活に大きな変化はないが、一方でフランスの社会を覆う変貌の予兆がいくつかの挿話を通して暗示される。私たちはフランソワを前景に、彼をめぐる世界を後景にした一枚の絵画のように物語に接するのであるが、私たちの視点は両者を往還し、やがて前者が後者の中に絡み取られていく様子を目撃する。変化を暗示する挿話とは以下のようなものだ。フランソワの講義に中国人の学生、そして黒いブルカを身につけたマグレブ出身の女子学生、つまり非ヨーロッパ圏の学生たちが出席するようになる、大学予算が大幅に減額される一方でサウジアラビアからオイルマネーを背景とした多額の寄付金が寄せられ、学長人事にも影響を与えるという噂が流れる。新しい同僚はかつてアイデンティティー運動(白人やキリスト教といったなんらかのアイデンティティーに基盤を置く極右の政治運動)に参加していたことを告白する、反ユダヤ主義の台頭が暗示され、ショッピングモールの店構えも微妙な変化をみせる。この小説は2022年、フランスの大統領選挙の年を舞台としており(この情報は本書の帯に記されているのだが、私が読んだ限り、物語の中に具体的な日付は書き込まれていない。大統領選の年であることから逆算されてこの年が特定されたのではなかろうか)、主人公はワインを片手にTVで選挙の帰趨を眺める。既成政党のUMPは退潮し、マリーヌ・ル・ペンの国民戦線が大勝する。そしてイスラーム同胞団が社会党を破ったことによって、右翼の国民戦線とイスラーム政党が大統領選挙を争うこととなった。私はフランスの政治には疎いから、このようなフィクションの現実性については判断できない。しかしマリーヌ・ル・ペンが国民戦線の創始者、ジャン=マリー・ル・ペンの娘であることくらいは知っている。イスラーム同胞団、そしてその党首のモアメド・ベン・アッベスは架空の存在であろうが、多くの実在の人物が散りばめられたこの小説は、フランス人の読者にとって、まさに今年大統領選挙を迎える自分たちと地続きに感じられたとしても不思議はない。

 選挙の結果についてはこの小説の最初の四分の一あたりで記述され、これ以後、物語は不穏な空気を帯びる。大学の同僚マリー=フランソワーズは夫が公安警察に勤務しており、彼は国民戦線が政権を取ることを阻むために社会党がイスラーム同胞団と手を結ぶことを予想する。彼によればイスラーム政権が関心をもつのはもっぱら人口と教育である。政権が樹立された場合、出生率を高めるため一夫多妻が公認され、教育制度が分割される。イスラーム的な教育において男女共学はありえず、女性はできるだけ早く結婚して家政を修めることが求められる。教師はすべてイスラーム教徒であり、食事から礼拝にいたる厳格な規律が求められる。イスラームはすでに周到な根回しをしており、ソルボンヌのごとき有力大学への潤沢な資金援助もその一環であるという。一方、フランソワの同僚は選挙の結果いかんでは内乱が発生すると警告し、銀行預金をおろして地方へ一時避難することを勧める。別れたはずのミリアムが突然フランソワの前に現れ、イスラーム政権から逃れるためにユダヤ系の両親とともにイスラエルに移住することを知らせる。決戦投票の結果、進歩的で穏健な主張を掲げるアッベスが勝利し、ついにフランスにイスラーム政権が成立する。この過程では暴動や銃撃もみられたが、比較的短い時間のうちに事態は収束する。混乱を避けてユイスマンスゆかりの地方を遍歴していたフランソワもパリに戻る。

しかしイスラーム政権の成立に伴い、フランソワの身辺は大きな変化を遂げる。勤務する大学はパリ=ソルボンヌ・イスラーム大学へと改組され、イスラーム教徒ではない彼は高額の年金を条件に解雇される。フランソワはかつての同僚がイスラームに改宗して大学に残り、自分以上の高額の給料を与えられていることを知る。同僚は「彼ら」によって女子学生を妻としてあてがわれ、さらに来月、「二番目の妻」をめとるという。社会も大きな変化を遂げる。政権の樹立とともに治安は回復し、家事に対して十分な手当てがなされた結果、女性は労働市場から撤退し、失業率は低下する。義務教育は小学校で終わり、それ以上の教育は私立学校に委ねられた。イスラーム化されるフランスの状況はきわめて具体的であり、本書が与えた衝撃もこの点に由来するだろう。私たちは同時多発テロ以来、イスラームと西欧の対立をいたるところで見てきた。先日のアメリカの入国禁止令がその最新ヴァージョンであることはいうまでもない。しかしここに描かれるのは選挙によって民主的にイスラームの属領とされる「西欧」の中心、フランスの姿である。そしてそれは社会と家庭の根底的な変革を伴う。

物語の終盤でフランソワはプレイヤード叢書のユイスマンスの巻の編集を打診される。ガリマール社から刊行されるこの有名な叢書の編集を任されるということは、その文学者についての権威であることを暗黙に示す。実際にこの叢書にユイスマンスが含まれているか否か私は知らないが、これが文学研究者にとって最大級の名誉であることは誰でも理解できよう。さらに編集者はフランソワをアラブ世界研究所の最上階で開催される新ソルボンヌ大学の開校式へと誘う。そこにはサウジアラビアの王子を含む多くのアラブ人とフランス人が出席していた。まもなく彼はニーチェを専門とするパリ=ソルボンヌ・イスラーム大学の学長ロベール・ルディジェ(もちろん改宗し、複数の妻をもつ)から大学へ復職する厚遇の条件を提示される。おそらくはプレイヤードの編集の誘いもフランソワを大学へ戻すための工作の一つであった。しかし彼がそれを受け入れるためには一つの条件が課されている。いうまでもなくイスラームへの改宗である。この小説の最後は改宗の儀式を終えて、新しい境遇、大学での地位やプレイヤード叢書の編集者という名誉、そしてあてがわれるべき複数の女子大生をフランソワが夢見る場面で終わる。「それは第二の人生で、それまでの人生とはほとんど関係のないものだ。ぼくは何も後悔しないだろう」ただし注意深く読むならば最後の章は、おそらくフランス語の条件法によって書かれているだろう。つまり実際に主人公がそのような選択をなしたかどうかについては読み取ることができない。ウェルベックらしいかなりあざとい語りによって締めくくられているのである。

最後まで読み通すならば「服従」というタイトルの意味は明らかである。この小説においてフランスのインテリたちは嬉々としてイスラームに服従する。彼らに与えられるのは地位や名誉、高い給料、さらに複数の若い妻だ。(ルディジェは15歳の少女を妻として紹介する)あまりにも通俗的な欲望のために大学の教師たちが「転んで」ゆく姿は滑稽を通り越して悲惨でさえある。おそらくこの点こそ西欧の知や良識の拠点である大学が物語の舞台に選ばれた理由であろうし、ここには知識人の退廃あるいは堕落という普遍的なテーマを認めることもできるだろう。女性を隷属状態に置くこと、教育の否定、宗教の厳格な支配、これらが暗示するのは中世の世界だ。本書をとおして私たちは近代西欧社会を成立させた啓蒙や教化が無効化された社会が、大統領選挙という民主制をとおして到来し、大学人という最高の知性たちがあっけなく隷従する過程を目撃する。今日、本書が予言的な意味をもつのはこの点であろう。国家を超えた共同体を形成すること、難民や流民を自分たちの社会の中に受け入れること、融和や平和への希求すること、私たちは自分たちがこれまで理想として掲げてきた価値観が急速に崩壊する現場に立ち会っている。しかもイギリスとアメリカの例から明らかなとおり、それは大多数の市民が望んだ結果なのである。嬉々とした服従。それを解く鍵が物語の中にある。ルディジェの住まいはかつてジャン・ポーランが住み、そしてポーリーヌ・レアージュが「O嬢の物語」を執筆した屋敷であった。ルディジェは次のように語る。「『O嬢の物語』にあるのは服従です。人間の絶対的な幸福が服従にあるということは、それ以前にこれだけの力をもって表明されたことがなかった。それがすべてを反転させる思想なのです。(中略)女性が男性に完全に服従することと、イスラームが目的としているように人間が神に服従することとの間には関係があるのです。イスラームは世界を受け入れた。そして世界をその全体において、ニーチェが語るように『あるがままに』受け入れるのです」服従によって世界を受け容れること、おそろしくニヒリスティックな発想がニーチェの研究者であるルジェディを介して語られる時、私たちはそのような思想が啓蒙という「光の世紀」を経過した西欧近代と果たして無縁であったのか、問わずにはいられない。あるいはユイスマンス。社会がイスラーム化する中で、フランソワはユイスマンスが滞在した修道院を訪れて数日の間、聖務に勤しむ。私はユイスマンスについてはデカダンスの作家であることくらいしか知識がないが、この作家の研究者を主人公に据えたことにはなんらかの意味があるのだろうか。本書においては西欧の「輝かしい」近代がイスラームの中世によって相対化されている。イスラームと西欧の対立という図式はおなじみのものであるが、これまで私たちはテロリズムやアラブ・ゲリラといったステレオタイプによってしか、イスラームを表象することができなかった。(いうまでもなくエドワード・サイードが論じた点だ)しかしここには暴力ではなく善意と誘惑によってイスラームがヨーロッパを併合する可能性、啓蒙の終焉と中世への退行が示唆されている。もちろんそれは一種の思考実験かもしれない。しかし民主主義と代議制の劣化が致命的なまでに進行した今日にあっては、かかる悪夢が現実化することはありえないと誰が言えようか。民主主義は疲弊している。先日も私たちは自分たちが選んだはずの宰相がアメリカの社会病質者にへつらい、文字通り「服従」する姿を目撃したばかりではないか。


by gravity97 | 2017-03-01 22:13 | 海外文学 | Comments(0)