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三浦英之『五色の虹』

b0138838_15295242.jpg 本書はサブタイトルにあるとおり、日本が中国東北部を満州国として植民地化していた時代、現地に設置された満州建国大学の卒業生たちの人生をたどるドキュメントである。著者の三浦英之は朝日新聞の記者。三浦について、私は本書に先行して別の機会に知っていた。三浦は現在、アフリカ特派員としてヨハネスブルグの支局長を務めているが、以前よりツイッターを通してアフリカの現在を生々しく伝える情報を発信し、最近も現政権の下で日本の自衛隊が配置される南スーダンの苛酷な状況について、タイムリーなレポートを記していたように記憶する。恥ずかしげもなく首相の饗応に応じる御用編集委員がコラムを執筆するこの新聞社にあって、三浦や「メルトダウン」の大鹿靖明ら、きちんとした調査報道ができる若手記者が存在することはせめてもの救いだ。

 歴史の中にはいくつもの闇がある。以前、このブログで取り上げた北朝鮮への帰還事業しかり、中国での大飢饉しかり。あたかもそれがなかったように葬り去られた多くの真実は粘り強い調査を通じてようやく白日のもとに晒される。本書の主題である満州建国大学が闇に埋もれた理由は明らかである。それは満州という日本の植民地、ありえざる場につかのまに花開いたユートピアであったからだ。三浦はかつて新潟支局に赴任していたことを縁として、この大学の卒業生と知り合い、関心を抱いて取材を始める。町田、神戸と関係者を訪ねた後、朝日新聞社の許可を得て、三浦は三週間の取材旅行に出かける。目的地は大連、長春、ウランバートル、ソウル、台北、そしてカザフスタンという広い地域に及ぶ。必ずしも治安や日本との関係がよい地域ばかりではない。三浦によれば、「所属新聞社の推薦状がない限り、中国やモンゴル、カザフスタンなどの国々は取材に必要なビザを発給しない。万が一不正が発覚した場合には海外拠点で勤務する特派員にペナルティーが科せられる恐れがあるため、新聞記者という身分を有して取材にあたる以上、観光ビザで入国するという行為が私にはどうしてもとれなかった」後述するとおり、この取材にあたって検閲に近い妨害を三浦は体験することになるが、この記述は21世紀に入っても世界が厳しい緊張の中にあることを暗示している。実際に先般、社会病質者が下した「大統領令」によって私たちはいまや移動の自由さえ奪われている。この取材旅行に基づいて夕刊に四回にわたる記事が掲載されたとはいえ、2010年にこのような取材旅行が許可されたことに私は新聞社の度量を感じる。それというのも、本書はまさにこの時点に取材がなされたことによって可能になった記録であるからだ。高齢の関係者は次々に他界し、あとがきには取材から本書が刊行するまでに鬼籍に入った登場人物の名前が列挙されている。

 2010年に東京で開かれた建国大学の「最後の同窓会」の模様をプロローグとして、新潟からカザフサタンのアルトマイまで、記者が取材で赴いた地をタイトルとした11の章によって本書は構成されている。比較的短い期間の取材と三週間の海外取材を素材としているから徹底性には欠けるが、スピード感があって読み物としてまとまっている。卒業生を各地に訪ねる内容は一種のオムニバス形式といってよいだろう。卒業生のその後の人生は彼らが生きた国、生きた時期によって実に様々だ。その広がりこそが本書の主題であるといってもよかろう。最初にこの大学について簡単に述べておくならば、満州建国大学とはその名の通り、かつての満州国の首都、長春(新京)に1938年に開学し、敗戦による満州崩壊とともに1945年に消滅した。わずか10年に満たない時期の開設であったが、9期生1,400名の卒業生があったとウィキペディアにある。三浦によればこの大学の在学生は日本政府が傀儡国家満州国の運営を担わせるために日本全土と満州全域から選抜した戦前戦中のスーパーエリートであった。五族共和の実践をめざして開設されたこの大学は日本初の国際大学であり、国内の帝国大学とは異なり、日本人は定員の半分に制限され、残りは中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの学生に配分されていたという。使用言語についても日本語と中国語のほかに欧米諸言語を含めて自由な選択が許されていたという。さらに当時としてはまことに異例なことにこの大学においては言論の自由が認められていたという。学生の国籍や言語の選択はともかく、言論の自由が保障され、学内では日本政府への批判が公然となされていたという指摘にはその真偽は措くとしても驚かされるが、プロローグで語られる同窓会の席上で、同窓生の一人が様々な国籍の同窓生の名を呼び上げて慟哭するというエピソードに、そのような理想郷が存在しえたかもしれないという思いを強くする。

 先に述べたとおり、三浦は日本、中国、モンゴル、韓国、台湾、カザフスタンという六カ国をめぐって取材を続ける。このことからも満州国という傀儡国家の版図の広がりを理解することができるが、興味深いのはそれぞれの国に散らばった同窓生たちの運命が大きく異なることだ。例えば韓国で取材した姜英勲はかつて韓国で首相を務め金日成と会談まで行った人物である。三浦によれば韓国は終戦時より建国大学の出身者を積極的に登用し、政府や軍、大学や企業内に建国大学の人脈が出来ていたという。あるいは台湾で面会した李水清は台湾を代表する製紙企業のトップを務め、子供たちは全員アメリカの一流大学で博士号を取得している。一方、中国で面会を予定していた二人の卒業生はいずれもなお共産党の監視下にあり、終戦後、長春を包囲した共産党軍の籠城戦、多くの市民が餓死したいわゆる長春包囲戦について三浦が不用意な質問をしたため、その時点で取材がすべてキャンセルされた。モンゴルとカザフスタンに住む卒業生たちも監視こそされていないが、韓国や台湾の卒業生たちと比べるならば、決して恵まれた生活をしている訳ではない。本書は取材旅行というかたちをとるから基本的に彼らの現在に焦点を当てているが、おそらくそこまでに彼らがたどってきた道も一様ではない。本書においてもその一端が明かされているとおり、この大学に在籍した中国人、ロシア人、モンゴル人の学生たちは日本帝国主義への協力者とみなされて迫害を受け、殺された場合もあったという。そしてそのような事実を明かすことさえも現在の彼らに危害を及ぼす可能性があるという。本書には三浦の手によるインタビューイたちのポートレートも掲載されているから、おそらくそのような可能性を注意深く取り除いたうえでの刊行であろうが、戦中のある時期、一つの大学に在籍したという事実が半世紀以上も時を経た人々になおも重い影を投げかけているのだ。

 一方で述べたような状況にも関わらず、卒業生たちがなおも連絡を取り合い、同窓生名簿を作成し、同窓会を開くという事実もまた重い。建国大学は教育内容のみならず全寮制で学費も免除されるという厚遇を保証したから150人の定員に対して日本と満州から2万人の志願者があったという。三浦のいうスーパーエリートという比喩は誇張ではないし、実際に姜英勲のように戦後要職に就いた卒業生もいれば、日本でも国立大学の教授となったインタビューイもいる。彼らのポテンシャルはきわめて高い。建国大学への入学は本来ならば未来を嘱望されるべき出来事であったはずであるが、逆にそれが帝国主義への協力の徴、一種のスティグマとみなされた訳だ。独ソ戦においても祖国のために戦い、捕虜となった兵士たちがスパイの疑いをかけられて拷問や苦役の犠牲となった点を私はこのブログのいくつかの記事で検証したが、戦時においては真摯に生きたがゆえに汚名を着せられるという悲劇が洋の東西で繰り返された。したがってここにおいて同窓会名簿に登載されることは生命にまで及ぶ不利益を被る可能性がある。それにも関わらず、「彼らはたとえ国家間の国交が断絶している期間であっても、特殊なルートを使って連絡先をたどり、運良く連絡先が判明すると、手製の名簿に住所や電話番号を書き足していった」かかる熱意の由来を、私はこの大学が一つの理想を掲げ、少なくとも学生たちがそれを共有していたことに求めたいと思う。以前、このブログで「官展にみる近代美術」についてレヴューした。今読み返してみるならば、長春における「満州国美術展覧会」もまた満州国の瓦解まで8回にわたって開かれていた。出品者の中に白系ロシア人らしき名前が含まれていたことは述べたとおりだ。展覧会の開催期間は建国大学が存在した期間とほぼ同期しており、満州国においては敗戦にいたるおよそ8年間の間、五族共和の名の下に一種のコスモポリタニズムの気風が醸成されていたことを暗示している。もちろんそれは所詮満州国という日本の帝国主義が作り出した擬制の上に開いた徒花であったかもしれない。しかし少なくとも一抹の理想主義が存在したからこそ、卒業生たちは弾圧や迫害を承知のうえで、戦後も団結を続けたのではないだろうか。実際、本書の中では三浦が卒業生の一人に同行してカザフスタンを訪ね、同期生のロシア人の再会に立ち会う場面が一つのクライマックスをかたちづくっている。65年ぶりに再会した二人の老人の交流は胸をうつ。これに先んじてこのうちの一人、85歳の宮野泰が自宅にNHKのロシア語講座の教材を揃えていたというエピソードが示される。三浦の賞賛の言葉に宮野は「これでも建大生の端くれであるから」と返すが、それはコスモポリタンとしての自負ではなかっただろうか。満州については今なおあまりに多くのことが手つかずに残されている。建国大学についても「敗戦時に大学に関する資料の多くを焼却し、戦後、それぞれの祖国へと散った卒業生たちが、後世に記録として残されることをひどく嫌った」と本書中にある。しかし満州とは全否定されるべき対象であろうか。近年、文学と美術の領域でようやくそれらを相対化する試みが始まったことを私はこのブログで何度か論じた。民族も国籍も違えた若者たちが集い、時に宗主国である日本を批判するような談論が風発したという建国大学の気風は、たとえそれが選良主義と植民地性を前提にしていたとしても、世界市民という意識へと通じる可能性を秘めていたのではなかっただろうか。

 今や私たちはかつてない憎悪の奔流の中にいる。憎悪を焚きつける言葉が政治家やメディアの口からひっきりなしに流れ、差別と排除が公言される。なぜ国籍や民族が異なるだけで人は憎しみ合わなければならないのか。「五色の虹」の五つとはいうまでもなく五つの民族、虹とは三浦の現在の赴任地、南アフリカでネルソン・マンデラが他民族国家の調和を比喩した言葉である。現在も日本を含む五つの民族は複雑な関係の中にいる。しかしかつて私たちが満州という地で(スローガンとしての政治性は措くとして)「五族協和」という理念をなんとか実現させることができたとすれば、再び同じ理想のもとに手を携えることができない理由はないはずだ。







by gravity97 | 2017-02-05 15:34 | ノンフィクション | Comments(0)