ロベルト・ボラーニョ『2666』

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 毎年、年末年始には数巻にわたる長編を読むことにしている。このブログでもディケンズの『荒涼館』やロレンス・ダレルの「アヴィニョン・クインテット」について論じた。昨年から今年にかけて準備したのは私にとっても初めて読む作家、チリのロベルト・ボラーニョの大作『2666』。大判の単行本、上下二段組で850頁に及ぶ大長編である。読み終えて唖然とする。なんとも超絶的な怪作であった。
 最初に遺族による注記がある。遺族という言葉が暗示するとおり、ボラーニョは50歳で早世し、本書は彼の遺作である。後から論じるとおり、このような事情も本書の内容と無関係ではない。注記によれば作家は五章から成る本書を、それぞれ五巻の分冊として刊行することを遺言として遺した。しかし彼の友人であり文学上の助言者のアドバイスにしたがって分割せず一巻の書として刊行された。「病状が悪化して最悪の事態に至らなければ、彼はきっとそうしていたことでしょう」と注記の末尾にある。最初に種明かしをしてしまえば、五つの章はまさに絶妙の関係で結ばれている。この長大な小説にあっては末尾と呼ぶべき最後のわずか20頁ほどで一挙に視界が晴れるかのように、五つの章、五つの物語が焦点を結ぶ。私が超絶的と述べたのはこのことである。この点で今挙げたダレルの「アヴィニョン・クインテット」と比較することは意味があるだろう。アヴィニョン五重奏も複雑な構造をもつ小説であり、本書と同じ五つのパートから構成され、それぞれが独立した物語として、数年の間隔を空けて出版された。しかしアヴィニョン五重奏は全体として一つの物語のとしてのゆるやかな結構を保っており、五巻の物語をこの順番に違和感なく読み進むことができる。これに対して、「2666」において、読者は章ごとに次々に全く別の物語の中に投げ込まれるかのような思いにとらわれる。この印象をさらに強めるのは五つの章の量的な不均衡だ。最初の三つの章がそれぞれ150頁、60頁、100頁ほどであるのに対して、後半の二つの章は260頁と230頁余りの量がある。注記によれば分冊としての刊行ペースや出版社との契約金まで指示が残されていたとのことであるから、本書を完成された最終稿とみなしてもよかろうが、作者の死後に刊行されたという事情を勘案するならば、このようないびつな分量の配分が初めから意図されたものであったか否かについては若干の疑問が残るし、この点は作品の評価とも関わっているだろう。以下、今回は内容についてもかなり踏み込んで論じるため、白紙の状態でこの小説に向かいたい読者はまず書店か図書館へと足をお運びいただくのがよかろう。
 それにしても奇怪な小説である。「批評家たちの部」と題された第一章は次のような文章で始まる。「ジャン=クロード・ペルチエが初めてペンノ・フォン・アルチンボルディを読んだのは1980年のクリスマスのことだった。当時、彼は19歳で、パリの大学でドイツ文学を学んでいた」批評家たち、というタイトルが暗示するとおり、冒頭の章ではアルチンボルディというドイツの小説家をめぐり、彼の小説を研究する国籍を違えた四人の批評家たちが主人公となる。フランスのペルチエ、イタリアのピエロ・モリーニ、スペインのマヌエル・エスピローサ、そして紅一点、イギリスのリザ・ノートンである。アルチンボルディなるドイツ作家は架空の存在であり、言及される多くの小説も実在しない。四人の批評家たちはヨーロッパ各地で開催される学会やセミナーを通して互いを認知し、親密な交際が始まる。四人のうち、モリーニは多発性硬化症のため車椅子の生活を余儀なくされているが、世代が近いこともあり、四人は様々な機会をとらえてそれぞれが住む都市を行き来して次第に交流を深める。ペルチエとエスピローサは次第にノートンに好意を抱くようになり、性的関係をもつ。セックスは明らかに本書を通底する主題であり、彼らの関係は三人でのセックス(メナージュ・ア・トロワ)にまで発展する。第一章の隠れた主人公が作家アルチンボルディであることは言うまでもない。冒頭に1980年という年記があることから理解されるとおり、本書は近過去を舞台としており。アルチンボルディが1960年代から小説の発表を始めたことも記述されている。しかしアルチンボルディは公の場には決して姿を現さず、原稿は多く郵便を介して出版社に送りつけられる。四人の批評家たちはアルチンボルディの消息を探る。北海に面した寒村で偶然にアルチンボルディに出会った作家、出版元の社長夫人、彼らは作家と面識のある人物を訪ねるが、非常に背の高いドイツ人であることが判明しただけで、その行方は杳として知れない。トゥルーズで開かれたセミナーで彼らはつい最近アルチンボルディに会ったというメキシコ人と知り合う。彼を通してアルチンボルディがメキシコ北西部、アメリカ国境のソノラ州にあるサンタテレサという街を訪れたことを知った批評家たちはその街を訪ねてアルチンボルディの痕跡を探す。この街については彼らがそこへ赴く前に一つの不吉な噂が新聞記事として書きつけられていた。それによればこの街では100人を超す女性たちが殺されており、犯人は特定されていないというのだ。サンタテレサを訪れた批評家たちはサンタテレサ大学の文学部長から「アルチンボルディの専門家」であるアマルフィターノという教授を紹介され、彼とともに調査を続けるが収穫はない。報われない探索。劇的な展開を欠いたまま第一章が終わる。そして四人の批評家はこれ以後、この小説には一切登場しない。しかし既にこの章の中にあたかも通奏低音のごとく物語とは直接関係のない不吉なエピソードが散りばめられている。例えばエスピノーサとペルチエによるパキスタン人のタクシー運転手に対するほとんど理由のない暴行、民芸品の売り子をしている少女とエスピノーサのペドフィリア(小児性愛)に近いセックス、自ら右手を切り落とし、切り落とした腕に防腐処置を施したエドウィン・ジョーンズというイギリスの画家のエピソード。暴力と性愛というモティーフはこの長い小説につきまとい、後述するとおり第四部では直接的な主題となる。
 第二章は「アマルフィターノの部」と題されている。題名が示すとおり、この章では第一章に登場したサンタテレサ大学の哲学教授、アマルフィターノが焦点化される。メキシコ西北部の殺伐とした砂漠の町に娘と二人で住む大学教授はバルセロナからこの地に流れ着き、彼の妻は出奔したらしい。前章で彼がアルチンボルディの研究者であることが明らかとされているが、逆にこの章ではドイツ人作家についての言及はほとんどない。代わって美術史を学んだ者にとっては興味深いエピソードが開陳される。書斎に届いた箱の中からアマルフィターノはラファエル・ディエステという書き手の『幾何学的遺言』という見覚えのない本を見つけ(この本は実在するらしい)屋外に物干し用ロープに吊るすという奇妙な処置を施す。いささかのディレッタンティズムとともに私はこの一節を理解した。マルセル・デュシャンだ。デュシャンは1919年、滞在中のブエノスアイレスから妹のシュザンヌに幾何学の教科書をバルコニーに放置し、風に晒されたままの状態で放置せよという指示を与え、《不幸なレディメイド》と名づけて作品化した。今や写真のみによって知られるレディメイドの挿入に私は当惑した。先のエドウィン・ジョーンズの挿話、あるいは明らかにアルチンボルドを連想させる作家の名前、この小説の中にはさまざまなかたちで美術への謎めいた参照がなされる。そしてこの章においてもサンタテレサにおいて引き続く女性の連続殺害事件について言及される。続く第三章「フェイトの部」の主人公もアフリカ系のアメリカ人、新聞記者のオスカー・フェイトという全く未知の人物だ。フェイトは不慮の死を遂げた同僚の代わりにボクシングの試合の取材を命じられる。フェイトが赴いた土地の名を聞いて、私たちはようやくばらばらの物語の接点を知る。いうまでもなくメキシコ、ソノラ州のサンタテレサである。サンタテレサを訪れたフェイトは同じ試合の取材に訪れた記者たちのたまり場で現地の怪しげな男たちと知り合いとなり、若い女性をターゲットにした連続殺人事件が頻発していることを知る。荒廃した街でフェイトは第二章の主人公、アマルフィターノの娘、ロサと会い、二章と三章はかろうじて結びつく。メキシコシティからこの事件を取材に来た女性記者は、この事件を調査する新聞記者たちが何人も誘拐され、行方不明になっているという不気味な噂をフェイトに伝え、まもなく収監されている事件の容疑者と面会すると述べる。物語全体の輪郭は相変わらずあいまいなままであり、この章の最後に記された情景の意味はおそらく本書を読み通して初めて了解されるはずだ。
 続く「犯罪の部」という長大な章には誰もが圧倒されるだろう。なによりも300頁近い分量があるにもかかわらず、その大半は1993年に始まる連続女性殺人事件において死体が発見された状況の説明に終始するからだ。たとえばこんな感じだ。「二月半ば、サンタテレサの中心街の路地で、ゴミ収集人が新たな女性の遺体を発見した。年齢は30歳前後で、黒いスカートと胸元の開いた白いブラウスを着ていた。ナイフで刺し殺されていたが、腹と腹部には何度も殴られた形跡があった」ほとんどの場合、犯人は不明であるが、時に恋人や知人が犯人と名指しされることもあるから、この小説は犯人捜しのミステリーではない。「フェイトの部」の中の記述と殺害の状況が一致することによって犯人が漠然と想定される場合もあれば、犯人の特定とはつながらない何人かの容疑者が拘束される場面も描かれている。この小説において話者は神の視点をとるから、殺人者の語りを入れることも可能なはずであるが、そのような語りは意図的に排除されている。殺人の凄惨な状況は地の文の中で淡々と語られ、列挙される被害者の数、延々と続く殺害状況の説明の反復に読者は早々に呆然とする。終わることのない殺害状況の記述の間に、教会を荒らし大量の放尿をして立ち去る瀆聖者の暗躍、捜査官と精神病院院長との性愛、TVに出演して殺人を糾弾する千里眼の女、刑務所の中での容疑者の虐殺、FBIの専門家の訪問、関連しながらも雑然としたエピソードがいくつも重ねられる。この章を読むと、私たちは1990年代のメキシコの地方都市が置かれた殺伐とした状況をきわめて具体的に理解する。全くの偶然であるが、本書を読んでいる途中、私は『世界』で連載の始まったメキシコの麻薬戦争に関するルポルタージュを目にして驚いた。実はこの小説に描かれている状況はフィクションではなく、現実なのである。「マフィア国家という敵」と題されたルポルタージュにおいてもサンタテレサならざるシウダー・ファレスという街で実際に麻薬にからんだ誘拐、殺人、強姦といった犯罪が日常茶飯事のように発生していたことが報告されている。フィクションと現実の間を往還するこの長い章は97年の末に発見された身元不明の女性の遺体についての記述によって幕を閉じる。
 最後の章が「アルチンボルディの部」と題されていることに読者は驚かないだろう。この章に最初に登場するのは片目の母親と片足の父親の間に生まれたハンス・ライターという少年である。注意深い読者であればこの名前がすでに第一章の中に記されていたことを記憶しているだろうし、ライターが成長するにつれて巨人のような背丈となったという記述からライターとは何者か、想像することはさほど難しくない。早回りをして種を明かせば、この章はライター/アルチンボルディの伝記であり、一種のビルドゥングスロマンと読めないこともない。ライター少年は長じて兵士となって第二次大戦に従軍し、ルーマニアあるいはソビエトにおける奇怪な体験が記される。ベルリンでは後年彼のパートナーとなるインゲボルクという少女と出会う。戦闘で負傷したライターは療養中に滞在していた丸太小屋でボリス・アブラモヴィッチ・アンスキーという男の書いた手記を発見し、アンスキーの手記は小説内小説として物語に奇妙な彩りを添える。さらに捕虜となり収容所で知り合ったツェラーという男の告白もまた小説の中に組み込まれたテクストだ。ある事件を介して自分の名を捨てる必要に迫られたライターは敗戦後のケルンで小説家アルチンボルディとして再生する。インゲボルクと再会し、小説の執筆を始めたアルチンボルディは次第に作家としての地歩を固めていく。その過程で第一部において「批評家たち」が訪ねた関係者が次々に登場する。
 大部の小説であるから、単純な要約を許すものではないが、ひとまず本書の粗筋を記した。この小説が分裂的な内容でありながら全体として一種の円環を閉じる独特の構造を有していることは理解いただけるだろう。最初に述べた通り、私にとってボラーニョの小説を読むのはこれが初めてであるから、ほかの小説と比較はできないが、それにしてもなんとも奇妙な小説だ。まず私が感じたのは、本書がこれまで耽読してきたラテンアメリカ文学とは全く異質であることだ。確かにメキシコという中米が舞台であり、作家自身メキシコに長く滞在している。しかしここにはラテンアメリカの小説にしばしば認められるエキゾティシズムや土俗性、神話性は存在しない。この小説に一番近いテイストを帯びた作家はボルヘスであろう。なるほど陰惨な殺人事件の状況の描写が小説の半分を占めているにもかかわらず、全体に抽象的、図式的な印象が強い。生々しい死体の描写も数限りなく繰り返されることによって相対化され、希薄化される。確かに第四章をこれほど書き込む必要があったかという点には疑問が残る。実際、以前このブログで触れた「ラテンアメリカ文学入門」において寺尾隆吉は「これほど頁を費やす必要があるとは思われない」と切り捨てている。作者がこの作品をさらにブラッシュアップする猶予があれば、あるいは優秀な編集者が助言を与えていたらこの章が短縮された可能性はおおいにあると私も感じる。さらに本書からボルヘスを連想した大きな理由はこの小説が小説や作家を主題とした一種のメタフィクションである点だ。第一章においては批評家たちが架空の作家、架空の小説について議論を続ける。アマルフィターノの章において象徴的に扱われるデュシャンのオブジェは何よりも書物を素材にしていることによって導入されたのではないだろうか。あるいは小説家の誕生を主題とした第五章においても小説の中の小説というよく知られた手法を用いて別の物語が入れ子状に組み込まれている。かかる自己参照性はポスト・モダニズムとの関係で論じられることが多い。ヨーロッパ、スペインに滞在したことがあるとはいえ、コスモポリタニズムからは程遠いチリという土地で、かかる意識がいかにして作家に芽生えたかという点に私は興味がある。
 このような抽象性の一方で、この小説はきわめて具体的な手触りも与える。サンタテレサ(先に触れたシウダー・ファレスをモデルにしていると解説にある)でなぜかくも多くの女性が殺されるのか。メキシコ北西部、アメリカと国境を接するという地理条件が大きく関わっている。この街に多くの若い女性が住んでいる理由は小説の中でも説明されている。この街にはマキラドーラと呼ばれるアメリカの下請け工場が無数に存在し、若い女性は安い労働力として搾取されているのだ。実際に小説の中で強姦されたうえで殺害される無数の女性はほとんどがマキラドーラの工員だ。低賃金ではあるが若い女性が簡単に仕事に就くことができる無数の工場が林立する工業都市としてのサンタテレサの光と闇については登場人物の口をとおして語られている。街の中に点在するスラム、度重なる不法投棄によって郊外に際限なく広がるごみ処理場、警察や刑務所の中にはびこる汚職と腐敗。この街の殺伐とした情景は何度も描写される。昨日、「アメリカ大統領」に就任した社会病質者ドナルド・トランプが口汚くののしるとおり、安い労働力を提供する国境の街とはグローバリズムの負の部分であり、したがってこの小説はグローバリズムの表象あるいはそれへの批判といえるもしれない。先にこの小説がいわゆるラテンアメリカ文学と異質であると述べたが、本書においてはボルヘスを連想させる抽象性、自己言及性とパルプノワールを思わせるグロテスクな身体性、具体性が合体し、いくつもの時代といくつもの場所を束ねながら一つの壮大な物語が浮かび上がる。
 それにしてもなぜドイツ人作家が主人公として選ばれたのであろうか。作家の略歴を参照するならば、ボラーニョは世界各地を転々としており、ヨーロッパでもフランス、スペインに滞在した経験はあるとのことだが、ドイツとの深いつながりは認められない。第五部で描かれる第二次大戦中から戦後にかけてのエピソード、ユダヤ人の虐殺や敗走するドイツ兵たちをめぐる奇譚の数々から、私はギュンター・グラスの一連の小説、とりわけ「ブリキの太鼓」と「犬の年」を連想した。グラスの名はカフカやデーブリンとともに作中で言及があるし、ボラーニョには「第三帝国」「アメリカ大陸のナチ文学」といった作品も発表しており、ドイツあるいはナチズムに対する思い入れがあるのかもしれない。しかしながらこれらの小説の紹介記事を読む限り、ここでも私の期待はみごとにはぐらかされることになりそうだ。さいわいにもこの何ともとらえどころのない小説家の作品については近年、多くが日本語に翻訳されている。ラテンアメリカの作家を読む楽しみがまた一つ増えたと感じるのは私だけでなかろう。
 最後に一点、タイトルの「2666」について。解説によればこれは2666年を示し、「小説の異なる部がそれぞれあるべき場所に収まるための消失点」であり、この年号についてはほかの小説でも言及があるとのことだ。しかし少なくとも本書を通読する範囲についてはこの謎めいた年号についての情報は一切与えられることがない。
by gravity97 | 2017-01-21 19:58 | 海外文学 | Comments(0)